紅い雲が何処からか流れてくる夜、静かな月の光に照らされた幻想郷の片隅、誰も気にも留めないような打ち捨てられた場所に、息を潜める人影。
優しい月光は遍く幻想郷の全てを照らす。たとえそれがどれほど矮小な、陰に潜む存在だとしても。
その人物は僅かに身を捩ると、苦悶の声を微かに漏らしたが、自ら戒めてなおも息を潜める。
なぜ息を潜めなければならないのか、幻想郷とはすべてを受け入れる楽園ではないのか。
仮に何も事情が知らぬものが見れば、理不尽なものと受け止められるかもしれないが、しかしながらその背景には、こういった状態に陥るに余りある理由がある事は、もはや幻想郷のほぼすべての住人が預かり知るところであった。
月光がその人影の顔を照らす。その容貌はあまりに特徴的であり、その人物を知るものならば、一目見るだけで彼女が彼女であることを理解せずにはいられないだろう。
黒と白が混ざり合った髪。己がどちらであるとも決められぬ半端者であるという事の証。そこに介在する紅は、裏切りの象徴。欺瞞と虚偽で固められた彼女の本質を表している。
髪を掻き分けて存在する二つの角。それは鬼の身体に在るものに限りなく酷似していながら、しかし彼女の性質は鬼のそれとは比べようも無い。
善意を厭い、悪意を喜び、謀略を好み、人を陥れ、嘲り笑い、そうして向けられる憎しみや敵意を至上の幸福とする。
誇り高い鬼の一族とは、あまりにもかけ離れたその酷薄な性根。しかしあまりにも酷似したその外見から、人はいつしか彼女たちをこう呼ぶようになった。
天下にあれど、決して浄められることのない邪悪。すなわち、『天邪鬼』と。
いつしかかの種族は忌み嫌われ、一人、二人と封ぜられ、滅され、その存在は人の世から消えて行った。
しかし、その裏で、邪の精神は脈々と受け継がれてきたのだ。次代へと血を受け継ぎ続け、遂に現在へとその血は繋がる。
彼女は、天下の嫌われ者の末裔。その悪名に違わず、この幻想郷を転覆せんと謀略を仕掛けたが、幻想郷の住人たちによって阻まれ、結果的にその罪を問われ、こうして人の目を避け、潜まざるを得なくなったのである。
その騒動の渦中にあり、今もなお追われる身でありながら、彼女――『鬼人正邪』の胸の内に在るのは、自分を排さんとする幻想郷の者たちへの憎しみでもなく、現在の状況に対する諦念でもなく、途方も無く広がる『悲しみ』であった。
◇◇◇ ◇◇◇
親の顔など覚えていない。物心がついた時には、旧地獄の雑踏の中で。頼る相手も、いつ生まれたのかも、何処に帰るのかも、生きる意味も、どうやって生きていけばいいのかも、何も知らなかった。後に聞いた話では、天邪鬼というのはそういうものらしかった。
ただ、目の前にあるのは、清々しいほど残酷な現実だけ。十日も経てば、道の片隅のゴミと一緒に転がっていた。本能というのは不思議なもので、生きる意味が無くとも体は勝手に生きようとした。
物心がついて初めて口にしたのが蚯蚓だ。あの泥臭さと気持ち悪い感触が、いつまでも頭にこびりついて離れない。蟲を喰い、土を頬張り、泥を啜って、その日の内はどうにか命を繋いだ。
その後は生きるためならば、殺し以外は何でもやった。殺しをやらなかったのも別に倫理感があったからというわけではない。殺せばアシがついて、街に居られなくなる。見つかれば殺される。それが嫌だったからだ。
スリをして捕まった時には身体中を殴られて、いくつか骨も折れた。そうして地面を這いずりながら、初めて死にたいと思った。
それでも死ねなかった。死について理解できるほど頭が良かったからではなく、同じように道端に居る乞食共の惨めったらしい死に様を見て、自分はこうなりたくないと思ったからだ。
身売りだってやった。皮肉なことに、クソッタレの両親は綺麗な顔を私に授けた。それのお陰で私を買いたいというクズどもは絶えなかった。クズの腕の中で、瞳に映った自分自身を見て、ああ、あの乞食共と何も変わらないじゃないか。そう思った。
死のう、と思った。それからは、どうすれば死ねるか、毎日考えた。
餓死は出来なかった。極限まで餓えると、どうしても何かを口にしてしまった。
窒息死は出来なかった。生きる意志が呼吸を止めることを許さなかった。
事故死は出来なかった。馬車に飛び込もうとした瞬間、足が止まった。
自殺に類する全ての死を、私は遂行できなかった。なんのことはない。死ぬのが怖かったのだ。
それでも死にたいと思った。誰かに殺してもらおうと思って、旧地獄で一番偉い屋敷に行った。
門兵が私を見咎めて、出て行け、と一喝した。ずっと無視していると、出て行かなければ殺すぞ、と鬼の形相で怒鳴った。
殺してくれよ。そういった私の顔は、一体どんな表情を浮かべていたのか。門兵が多少たじろいだのがわかった。
殺してくれ。二度言うと、門兵達は動揺を消し去って、最後通牒を寄越した。
殺せ。三度目、遂に門兵は拳を握った。その大きな拳が、目前に迫り、私は目を閉じた。
ああ、漸く死ねる。何の意味もない人生が終わる。そこには達成感も何もなく、ただからっぽだった。瞳を閉じて、死を待った。
しかし、いつまで経っても死が訪れない。瞳を開くと、一本角の鬼が、門兵の拳を受け止めていた。
その女は、屋敷の主。鬼の四天王という、旧地獄の支配者の一人だった。その女は慌てて頭を下げる門兵達と幾らか会話をすると、こちらへ向き直った。
うちに来い、と言われた。手を差し伸べられた。『それ』が何なのか、何がしたいのか、私は全く理解できなかった。
幼い頃から悪意の中で生きてきた。向けられた感情は、怒り、嫌悪、軽蔑、殺意、情欲――数多くあれど、『それ』に類するものは何もなかった。
ただ、無性に気持ちが悪かった。『それ』を向けられた瞬間、全身が総毛立って、吐き気すら覚えた。
そうして倒れ込んだ私を、一本角の鬼が抱き上げて屋敷に運んで行こうとした。
門兵達はそれを遠巻きに眺めるだけだった。私を担ぎ上げる鬼の温もりは、本当に気持ちが悪かった。
屋敷に入る直前、私は鬼を思いきり殴って、腕から飛び降り、逃げ出した。
殴った拳は潰れていた。鬼の皮膚は、鉄の硬度にも比肩するからだ。しかし、逃げながら後ろを振り返ると、鬼は悲しげな表情をしながら此方に手を伸ばしていた。
……その瞬間だ。これだ、と思った。自分が生きていく理由。何の意味もない私の生に意味を持たせるもの。すなわち、悪意を持って『それ』――善意を制す、勧悪懲善。
善意に満ちた世界でのうのうと暮らす糞どもに、悪意のなんたるかを教えてやろう。そんな下衆で醜悪な理由でしか、私は生を繋ぐことが出来なかったのだ。
旧地獄を飛び出して里に至ると、私は善意を踏みにじり続けた。
親を喪った小娘の振りをしていれば、馬鹿な人間共は私を容易く信用した。
そんな連中を踏みつけて笑うのは、最高に気持ちが良かった。
妖怪を憎む人間の振りをしていれば、馬鹿な人間共は私に容易く同情した。
そんな連中の大切なものを奪ってやるのは、この上ない喜びだった。
世俗を儚む賢者の振りをしていれば、馬鹿な人間共は私を容易く崇拝した。
そんな連中に残酷な現実を教えてやることは、生きがいですらあった。
しかし、悪行を重ねれば当然名は響き渡る。その内博麗の巫女と名乗る妖怪退治屋が現れ、完膚なきまでに叩きのめされた。
人里から追放された私は、各地を転々として更に悪行を重ねた。その内もはや私を信用する者はいなくなったが、それでも嘘を重ねつづけた。
そうすることでしか、この世界で生きる術はなかったからだ。
もはや誰もが私を信用することが無くなり、生きる意味を失いかけていた頃だ。
姫――少名針妙丸と出会ったのは。
逃走に逃走を重ねて至った幻想郷の片隅で倒れている小さな人影。それを見た時には、助けようという気など微塵もわかなかった。
何故姫を助けたか。その理由は、利用価値があるからの一点に尽きた。
彼女が背中に背負っていた小槌――打出の小槌は、鬼の秘宝中の秘宝。ともすれば、世界をひっくり返すことすら可能なほど、力を持つ道具だった。
使える――。
私にとっては、小槌も、それを背負っていた姫も、悪意を生み出すための道具にしか見えなかった。暫くの間看病を行って、姫はようやく目を覚ました。
姫は、魑魅魍魎の跋扈する幻想郷にあって、あまりにもまっすぐで純粋な存在だった。姫は、汚れなき白。善意の塊。悪意で構成された私とはまったく真逆の存在。
初めの頃は、彼女と会話するだけで全身に鳥肌が立ち、吐き気を抑えられなかった。しかし、来たるべき日に備えて、ただひたすら我慢した。
幻想郷全体に悪意をもたらすには、それまでとは違い、長い期間相手を欺き続けなければならなかった。ただ、ひたすら忍耐の日々だった。
――ただ、いつからだろう。姫と会話するときの気持ち悪さが、薄れていくのを感じた。自然と、笑顔が顔に浮かぶようになった。
正邪は、いつも笑顔の方が似合ってるよ。と言われた。その言葉も、何故か気持ち悪くなかった。
姫を肩に乗せて歩く幻想郷の道は、何処か清々しさすら感じさせた。
今まで私が過ごした事のなかった、穏やかな日常。それは、私の反骨心を根こそぎ奪うものだった。
しかし、計画の遂行は私の全てだった。姫に嘘の歴史を教え込み、小槌の力を使わせた。その時私は、心の何処かが痛むのを感じた。
馬鹿な、と思った。痛む良心なんて私の心の何処にも残っていはしない。今のは気のせいだ。そう自分を誤魔化して、その場を切り抜けた。
しかし、幻想郷転覆の為に尽力する姫の姿を見て、心は痛み続けた。ああ、そうか。そこで、ぼんやりと気づいた。
針妙丸に触れた。その温もりを、その笑顔を、その慈しみを、その善意を、近くで見続けた。
からっぽだった私の心に、善意が満ちて。だけど、悪意を受け入れ続けた私の心は、善意を受け入れられるほど強くはなかったから。
逃げ出した。姫を置いて、小槌を置いて、輝針城を置いて、全てを投げ捨てて逃げ出した。
二度目の逃走。しかし今度は、歪み、捻じれて、目も当てられないような醜いものであっても、生への希望に満ちていた前回とは違う。
生きる意味を見失ってしまったのだ。元々、夢も希望も無い人生ではあった。しかし、悪意だけが私の歩を生へと導いてくれたのだ。
私にはもう、何もなかった。
幻想郷転覆を謀った罪を被った私は、追われ続ける日々を送っていた。一昼夜、何処に居ても気を抜くことができなかった。追手の弾幕は日を増すごとに苛烈になっていく。
弾幕によってできたかすり傷は、全身を焼く痛みとなって私を苛んだ。しかし、日に日に強くなっていく心の痛みに比べれば、表面上の痛みなど些事ですらあった。
その痛みの根源たるものを、もはや自分自身でも把握できなくなっていた。毎日毎日どうにか逃げ延びて、遂に追われ続けてから七日目が訪れた。
……そうして再び、姫に出会った。
『こら正邪や。そろそろ返してくれないかい? 残りの小槌の魔力を』
久しぶりに出会った姫は、こんな状況とは思えないくらいマイペースで、だからこそ、どこか安心を覚えた。
姫の心は、誰にも穢されてはいない。そう思ったからだ。
『え? 何を言っているんですか? これからですよ、本当の下剋上は』
『うーん……残念だけど、もう下剋上は無理だよ。我々は闘いに敗れたんだ』
『そんな弱音を吐いて……。大丈夫ですよ。これだけの反則的な魔力があればいつだって幻想郷中の妖怪を支配下におけますよ』
嘘だった。現に、追手の弾幕ですらうまく捌ききれてはいない。
『いいんだいいんだ、もう。一緒に降伏しよう。幻想郷の妖怪達は敵対したりしない』
その言葉に、涙すら覚えるほどの喜びと、……心の痛みが、臨界点を超え、同時に、ある感情が発露したことを感じた。
『お言葉ですが……、やなこった! 誰が降伏なんかするもんか!』
そうして気づいた。もう、姫と共にはいられないことに。彼女と共にいられる道は、既に断たれてしまったのだという事に。
もう、姫を巻き込むわけにはいかなかった。
『ま、あんたならそういうと思ったけどね。ならば、その魔力返して貰おうか!ちなみに反対するならば~』
『本気で捕らえるようにみんなに伝えておいたよ。命あっての物種じゃないかねぇ』
口では恐ろしいことを言いながら、その表情は私への慈しみに満ちている。
だからこそ、捕まるわけにはいかなかった。
『どんな奴に命を狙われようとも、こんな素晴らしい力、返す理由が無いな』
『我が名は正邪。生まれ持ってのアマノジャクだ!』
そう。私は――
――生まれ持っての天邪鬼、だから。
◇◇◇ ◇◇◇
追手を振り切って身を隠し、一息を吐くと、もう耐えられなかった。
「うっ……ぐ、うぅ……ああ」
瞳からとめどない涙が零れる。それは悔恨の涙だった。これまで欺き、陥れ、踏みにじってきたすべての存在への、懺悔の涙だった。
発露した感情は、優しさ。他人を思いやり、慈しむ感情。私がこれまで持てるはずもなかった感情だった。
これまで感じてきた感情が、逆転する。リバースイデオロギー。それは、これまで感じてきた喜びと悲しみの逆転だった。
積み重ねてきた喜びと悲しみの数は、比べられないほど喜びの方が多い。悪意によって築き上げられた歪んだ喜びの城は崩れ去り、後にはただ悲しみだけが残る。
それは身を裂くほど辛いものではあったが――そんなことは、些事にすぎなかった。
「ふ、ふ、ふふふ……、う、あ、うううううああああああああ!」
優しさという感情を手に入れながら、なお、私は天邪鬼としての本能を捨てられてはいなかった。
そもそも、捨て去ることなどできはしない。人間が人間で、妖怪が妖怪であるのと同じように、天邪鬼は天邪鬼なのだ。幾ら表面を取り繕ったところで、本質は変わりはしない。
……優しさは、天邪鬼が決して手に入れられない感情のはずだった。しかし、私は、奇しくもその感情を手にしてしまった。
――結果は、最悪。
人の痛みが分かるからこそ、本当に人を慈しむことが出来る。
誰かを思いやることは、自分にとって喜びになった。
――その上で、私は人を裏切ることが出来る。いや、裏切らなければならない。
誰もが騙されるだろう。だって、嘘なんてついていない。私は本当に、相手の為を想って行動しているのだ。そこに一分の嘘もありはしない。
しかし、裏切るのだ。慈しみと思いやりでもって、私は相手を陥れるのだ。
地獄への道は、善意で舗装されている。
――真なる天邪鬼が、完成したのだ。
私は、笑顔を浮かべながら泣き叫んでいた。相反する二つの感情はどちらへとも転がり続けるが、その終着点は何処にもない。
だって、私は天邪鬼だから。半端者に、どちらかに属する資格などありはしないからだ。
これから先、誰かを陥れるたびに涙を浮かべるだろう。怨嗟の声を聞き、敵意を向けられる度に、死にたいと思うかもしれない。
だが、死ぬことは出来ない。本能が許さない。死にも等しい苦しみを覚えながらも、しかし自我は死という逃げ道を用意してはいない。
私はこれから先、もっと沢山、他人を陥れることでしか、生きていくことは出来ないのだ。
きっと気が狂うことも許されないのだろう。生きていく先に在るのは希望ではなく絶望だけだ。
それでも生きていくしかない。それしか、道は残されていないのだ。
「う、う、うう……」
力を失って、私は倒れ込んだ。もはや、立ち上がる力は何処にも残っていない。きっと姫は私を殺さないだろう。他人に殺されることでしか、解放される道はないのに。
今はただ、眠りたかった。現実から目を背けて、優しい虚無へ目を向けたかった。ああ、どうか目が覚めたら、全て夢でありますように。
そうして瞳を閉じた私の瞼の裏に浮かんだのは、針妙丸の笑顔だった。私の生の中で、唯一手に入れたいと願って、遂に手に入れられなかった、友。
もう、彼女と共に歩む道は何処にも残されてはいない。悲しみと共に、脳裏にある彼女の言葉も少しずつ溶けて、無くなっていく。
こんな、紅い雲が流れる日には、誰かに向ける優しさなんて邪魔なだけなのかもしれない。
だけれど。
――君の胸の中、この手を伸ばすことが出来るなら。
そんな事を思った。一人ぼっちの、この世界の中で。
優しい月光は遍く幻想郷の全てを照らす。たとえそれがどれほど矮小な、陰に潜む存在だとしても。
その人物は僅かに身を捩ると、苦悶の声を微かに漏らしたが、自ら戒めてなおも息を潜める。
なぜ息を潜めなければならないのか、幻想郷とはすべてを受け入れる楽園ではないのか。
仮に何も事情が知らぬものが見れば、理不尽なものと受け止められるかもしれないが、しかしながらその背景には、こういった状態に陥るに余りある理由がある事は、もはや幻想郷のほぼすべての住人が預かり知るところであった。
月光がその人影の顔を照らす。その容貌はあまりに特徴的であり、その人物を知るものならば、一目見るだけで彼女が彼女であることを理解せずにはいられないだろう。
黒と白が混ざり合った髪。己がどちらであるとも決められぬ半端者であるという事の証。そこに介在する紅は、裏切りの象徴。欺瞞と虚偽で固められた彼女の本質を表している。
髪を掻き分けて存在する二つの角。それは鬼の身体に在るものに限りなく酷似していながら、しかし彼女の性質は鬼のそれとは比べようも無い。
善意を厭い、悪意を喜び、謀略を好み、人を陥れ、嘲り笑い、そうして向けられる憎しみや敵意を至上の幸福とする。
誇り高い鬼の一族とは、あまりにもかけ離れたその酷薄な性根。しかしあまりにも酷似したその外見から、人はいつしか彼女たちをこう呼ぶようになった。
天下にあれど、決して浄められることのない邪悪。すなわち、『天邪鬼』と。
いつしかかの種族は忌み嫌われ、一人、二人と封ぜられ、滅され、その存在は人の世から消えて行った。
しかし、その裏で、邪の精神は脈々と受け継がれてきたのだ。次代へと血を受け継ぎ続け、遂に現在へとその血は繋がる。
彼女は、天下の嫌われ者の末裔。その悪名に違わず、この幻想郷を転覆せんと謀略を仕掛けたが、幻想郷の住人たちによって阻まれ、結果的にその罪を問われ、こうして人の目を避け、潜まざるを得なくなったのである。
その騒動の渦中にあり、今もなお追われる身でありながら、彼女――『鬼人正邪』の胸の内に在るのは、自分を排さんとする幻想郷の者たちへの憎しみでもなく、現在の状況に対する諦念でもなく、途方も無く広がる『悲しみ』であった。
◇◇◇ ◇◇◇
親の顔など覚えていない。物心がついた時には、旧地獄の雑踏の中で。頼る相手も、いつ生まれたのかも、何処に帰るのかも、生きる意味も、どうやって生きていけばいいのかも、何も知らなかった。後に聞いた話では、天邪鬼というのはそういうものらしかった。
ただ、目の前にあるのは、清々しいほど残酷な現実だけ。十日も経てば、道の片隅のゴミと一緒に転がっていた。本能というのは不思議なもので、生きる意味が無くとも体は勝手に生きようとした。
物心がついて初めて口にしたのが蚯蚓だ。あの泥臭さと気持ち悪い感触が、いつまでも頭にこびりついて離れない。蟲を喰い、土を頬張り、泥を啜って、その日の内はどうにか命を繋いだ。
その後は生きるためならば、殺し以外は何でもやった。殺しをやらなかったのも別に倫理感があったからというわけではない。殺せばアシがついて、街に居られなくなる。見つかれば殺される。それが嫌だったからだ。
スリをして捕まった時には身体中を殴られて、いくつか骨も折れた。そうして地面を這いずりながら、初めて死にたいと思った。
それでも死ねなかった。死について理解できるほど頭が良かったからではなく、同じように道端に居る乞食共の惨めったらしい死に様を見て、自分はこうなりたくないと思ったからだ。
身売りだってやった。皮肉なことに、クソッタレの両親は綺麗な顔を私に授けた。それのお陰で私を買いたいというクズどもは絶えなかった。クズの腕の中で、瞳に映った自分自身を見て、ああ、あの乞食共と何も変わらないじゃないか。そう思った。
死のう、と思った。それからは、どうすれば死ねるか、毎日考えた。
餓死は出来なかった。極限まで餓えると、どうしても何かを口にしてしまった。
窒息死は出来なかった。生きる意志が呼吸を止めることを許さなかった。
事故死は出来なかった。馬車に飛び込もうとした瞬間、足が止まった。
自殺に類する全ての死を、私は遂行できなかった。なんのことはない。死ぬのが怖かったのだ。
それでも死にたいと思った。誰かに殺してもらおうと思って、旧地獄で一番偉い屋敷に行った。
門兵が私を見咎めて、出て行け、と一喝した。ずっと無視していると、出て行かなければ殺すぞ、と鬼の形相で怒鳴った。
殺してくれよ。そういった私の顔は、一体どんな表情を浮かべていたのか。門兵が多少たじろいだのがわかった。
殺してくれ。二度言うと、門兵達は動揺を消し去って、最後通牒を寄越した。
殺せ。三度目、遂に門兵は拳を握った。その大きな拳が、目前に迫り、私は目を閉じた。
ああ、漸く死ねる。何の意味もない人生が終わる。そこには達成感も何もなく、ただからっぽだった。瞳を閉じて、死を待った。
しかし、いつまで経っても死が訪れない。瞳を開くと、一本角の鬼が、門兵の拳を受け止めていた。
その女は、屋敷の主。鬼の四天王という、旧地獄の支配者の一人だった。その女は慌てて頭を下げる門兵達と幾らか会話をすると、こちらへ向き直った。
うちに来い、と言われた。手を差し伸べられた。『それ』が何なのか、何がしたいのか、私は全く理解できなかった。
幼い頃から悪意の中で生きてきた。向けられた感情は、怒り、嫌悪、軽蔑、殺意、情欲――数多くあれど、『それ』に類するものは何もなかった。
ただ、無性に気持ちが悪かった。『それ』を向けられた瞬間、全身が総毛立って、吐き気すら覚えた。
そうして倒れ込んだ私を、一本角の鬼が抱き上げて屋敷に運んで行こうとした。
門兵達はそれを遠巻きに眺めるだけだった。私を担ぎ上げる鬼の温もりは、本当に気持ちが悪かった。
屋敷に入る直前、私は鬼を思いきり殴って、腕から飛び降り、逃げ出した。
殴った拳は潰れていた。鬼の皮膚は、鉄の硬度にも比肩するからだ。しかし、逃げながら後ろを振り返ると、鬼は悲しげな表情をしながら此方に手を伸ばしていた。
……その瞬間だ。これだ、と思った。自分が生きていく理由。何の意味もない私の生に意味を持たせるもの。すなわち、悪意を持って『それ』――善意を制す、勧悪懲善。
善意に満ちた世界でのうのうと暮らす糞どもに、悪意のなんたるかを教えてやろう。そんな下衆で醜悪な理由でしか、私は生を繋ぐことが出来なかったのだ。
旧地獄を飛び出して里に至ると、私は善意を踏みにじり続けた。
親を喪った小娘の振りをしていれば、馬鹿な人間共は私を容易く信用した。
そんな連中を踏みつけて笑うのは、最高に気持ちが良かった。
妖怪を憎む人間の振りをしていれば、馬鹿な人間共は私に容易く同情した。
そんな連中の大切なものを奪ってやるのは、この上ない喜びだった。
世俗を儚む賢者の振りをしていれば、馬鹿な人間共は私を容易く崇拝した。
そんな連中に残酷な現実を教えてやることは、生きがいですらあった。
しかし、悪行を重ねれば当然名は響き渡る。その内博麗の巫女と名乗る妖怪退治屋が現れ、完膚なきまでに叩きのめされた。
人里から追放された私は、各地を転々として更に悪行を重ねた。その内もはや私を信用する者はいなくなったが、それでも嘘を重ねつづけた。
そうすることでしか、この世界で生きる術はなかったからだ。
もはや誰もが私を信用することが無くなり、生きる意味を失いかけていた頃だ。
姫――少名針妙丸と出会ったのは。
逃走に逃走を重ねて至った幻想郷の片隅で倒れている小さな人影。それを見た時には、助けようという気など微塵もわかなかった。
何故姫を助けたか。その理由は、利用価値があるからの一点に尽きた。
彼女が背中に背負っていた小槌――打出の小槌は、鬼の秘宝中の秘宝。ともすれば、世界をひっくり返すことすら可能なほど、力を持つ道具だった。
使える――。
私にとっては、小槌も、それを背負っていた姫も、悪意を生み出すための道具にしか見えなかった。暫くの間看病を行って、姫はようやく目を覚ました。
姫は、魑魅魍魎の跋扈する幻想郷にあって、あまりにもまっすぐで純粋な存在だった。姫は、汚れなき白。善意の塊。悪意で構成された私とはまったく真逆の存在。
初めの頃は、彼女と会話するだけで全身に鳥肌が立ち、吐き気を抑えられなかった。しかし、来たるべき日に備えて、ただひたすら我慢した。
幻想郷全体に悪意をもたらすには、それまでとは違い、長い期間相手を欺き続けなければならなかった。ただ、ひたすら忍耐の日々だった。
――ただ、いつからだろう。姫と会話するときの気持ち悪さが、薄れていくのを感じた。自然と、笑顔が顔に浮かぶようになった。
正邪は、いつも笑顔の方が似合ってるよ。と言われた。その言葉も、何故か気持ち悪くなかった。
姫を肩に乗せて歩く幻想郷の道は、何処か清々しさすら感じさせた。
今まで私が過ごした事のなかった、穏やかな日常。それは、私の反骨心を根こそぎ奪うものだった。
しかし、計画の遂行は私の全てだった。姫に嘘の歴史を教え込み、小槌の力を使わせた。その時私は、心の何処かが痛むのを感じた。
馬鹿な、と思った。痛む良心なんて私の心の何処にも残っていはしない。今のは気のせいだ。そう自分を誤魔化して、その場を切り抜けた。
しかし、幻想郷転覆の為に尽力する姫の姿を見て、心は痛み続けた。ああ、そうか。そこで、ぼんやりと気づいた。
針妙丸に触れた。その温もりを、その笑顔を、その慈しみを、その善意を、近くで見続けた。
からっぽだった私の心に、善意が満ちて。だけど、悪意を受け入れ続けた私の心は、善意を受け入れられるほど強くはなかったから。
逃げ出した。姫を置いて、小槌を置いて、輝針城を置いて、全てを投げ捨てて逃げ出した。
二度目の逃走。しかし今度は、歪み、捻じれて、目も当てられないような醜いものであっても、生への希望に満ちていた前回とは違う。
生きる意味を見失ってしまったのだ。元々、夢も希望も無い人生ではあった。しかし、悪意だけが私の歩を生へと導いてくれたのだ。
私にはもう、何もなかった。
幻想郷転覆を謀った罪を被った私は、追われ続ける日々を送っていた。一昼夜、何処に居ても気を抜くことができなかった。追手の弾幕は日を増すごとに苛烈になっていく。
弾幕によってできたかすり傷は、全身を焼く痛みとなって私を苛んだ。しかし、日に日に強くなっていく心の痛みに比べれば、表面上の痛みなど些事ですらあった。
その痛みの根源たるものを、もはや自分自身でも把握できなくなっていた。毎日毎日どうにか逃げ延びて、遂に追われ続けてから七日目が訪れた。
……そうして再び、姫に出会った。
『こら正邪や。そろそろ返してくれないかい? 残りの小槌の魔力を』
久しぶりに出会った姫は、こんな状況とは思えないくらいマイペースで、だからこそ、どこか安心を覚えた。
姫の心は、誰にも穢されてはいない。そう思ったからだ。
『え? 何を言っているんですか? これからですよ、本当の下剋上は』
『うーん……残念だけど、もう下剋上は無理だよ。我々は闘いに敗れたんだ』
『そんな弱音を吐いて……。大丈夫ですよ。これだけの反則的な魔力があればいつだって幻想郷中の妖怪を支配下におけますよ』
嘘だった。現に、追手の弾幕ですらうまく捌ききれてはいない。
『いいんだいいんだ、もう。一緒に降伏しよう。幻想郷の妖怪達は敵対したりしない』
その言葉に、涙すら覚えるほどの喜びと、……心の痛みが、臨界点を超え、同時に、ある感情が発露したことを感じた。
『お言葉ですが……、やなこった! 誰が降伏なんかするもんか!』
そうして気づいた。もう、姫と共にはいられないことに。彼女と共にいられる道は、既に断たれてしまったのだという事に。
もう、姫を巻き込むわけにはいかなかった。
『ま、あんたならそういうと思ったけどね。ならば、その魔力返して貰おうか!ちなみに反対するならば~』
『本気で捕らえるようにみんなに伝えておいたよ。命あっての物種じゃないかねぇ』
口では恐ろしいことを言いながら、その表情は私への慈しみに満ちている。
だからこそ、捕まるわけにはいかなかった。
『どんな奴に命を狙われようとも、こんな素晴らしい力、返す理由が無いな』
『我が名は正邪。生まれ持ってのアマノジャクだ!』
そう。私は――
――生まれ持っての天邪鬼、だから。
◇◇◇ ◇◇◇
追手を振り切って身を隠し、一息を吐くと、もう耐えられなかった。
「うっ……ぐ、うぅ……ああ」
瞳からとめどない涙が零れる。それは悔恨の涙だった。これまで欺き、陥れ、踏みにじってきたすべての存在への、懺悔の涙だった。
発露した感情は、優しさ。他人を思いやり、慈しむ感情。私がこれまで持てるはずもなかった感情だった。
これまで感じてきた感情が、逆転する。リバースイデオロギー。それは、これまで感じてきた喜びと悲しみの逆転だった。
積み重ねてきた喜びと悲しみの数は、比べられないほど喜びの方が多い。悪意によって築き上げられた歪んだ喜びの城は崩れ去り、後にはただ悲しみだけが残る。
それは身を裂くほど辛いものではあったが――そんなことは、些事にすぎなかった。
「ふ、ふ、ふふふ……、う、あ、うううううああああああああ!」
優しさという感情を手に入れながら、なお、私は天邪鬼としての本能を捨てられてはいなかった。
そもそも、捨て去ることなどできはしない。人間が人間で、妖怪が妖怪であるのと同じように、天邪鬼は天邪鬼なのだ。幾ら表面を取り繕ったところで、本質は変わりはしない。
……優しさは、天邪鬼が決して手に入れられない感情のはずだった。しかし、私は、奇しくもその感情を手にしてしまった。
――結果は、最悪。
人の痛みが分かるからこそ、本当に人を慈しむことが出来る。
誰かを思いやることは、自分にとって喜びになった。
――その上で、私は人を裏切ることが出来る。いや、裏切らなければならない。
誰もが騙されるだろう。だって、嘘なんてついていない。私は本当に、相手の為を想って行動しているのだ。そこに一分の嘘もありはしない。
しかし、裏切るのだ。慈しみと思いやりでもって、私は相手を陥れるのだ。
地獄への道は、善意で舗装されている。
――真なる天邪鬼が、完成したのだ。
私は、笑顔を浮かべながら泣き叫んでいた。相反する二つの感情はどちらへとも転がり続けるが、その終着点は何処にもない。
だって、私は天邪鬼だから。半端者に、どちらかに属する資格などありはしないからだ。
これから先、誰かを陥れるたびに涙を浮かべるだろう。怨嗟の声を聞き、敵意を向けられる度に、死にたいと思うかもしれない。
だが、死ぬことは出来ない。本能が許さない。死にも等しい苦しみを覚えながらも、しかし自我は死という逃げ道を用意してはいない。
私はこれから先、もっと沢山、他人を陥れることでしか、生きていくことは出来ないのだ。
きっと気が狂うことも許されないのだろう。生きていく先に在るのは希望ではなく絶望だけだ。
それでも生きていくしかない。それしか、道は残されていないのだ。
「う、う、うう……」
力を失って、私は倒れ込んだ。もはや、立ち上がる力は何処にも残っていない。きっと姫は私を殺さないだろう。他人に殺されることでしか、解放される道はないのに。
今はただ、眠りたかった。現実から目を背けて、優しい虚無へ目を向けたかった。ああ、どうか目が覚めたら、全て夢でありますように。
そうして瞳を閉じた私の瞼の裏に浮かんだのは、針妙丸の笑顔だった。私の生の中で、唯一手に入れたいと願って、遂に手に入れられなかった、友。
もう、彼女と共に歩む道は何処にも残されてはいない。悲しみと共に、脳裏にある彼女の言葉も少しずつ溶けて、無くなっていく。
こんな、紅い雲が流れる日には、誰かに向ける優しさなんて邪魔なだけなのかもしれない。
だけれど。
――君の胸の中、この手を伸ばすことが出来るなら。
そんな事を思った。一人ぼっちの、この世界の中で。
正邪と針妙丸の関係はいくらでも想像が膨らみますな。
正邪はやっぱり針妙丸と一緒じゃないとダメっていう関係の方がイイですね。
けど正邪には救いが欲しいもんですね。
こういう正邪が見たかった
本当はとても優しくできるのに、それが許されない。
魅力的な正邪を読むことができました。
魅力的でなんとも見事な正邪でした。妖怪の本質と人格の間で板ばさみになって苦しむ。この子にも幸せになってほしいですね……
独自解釈は二次創作自由な東方の醍醐味の一つのような気がします(笑)
ただ、預かり知るは、正しくは与り知ると書き主に与り知らぬなどの否定形で用い、否定形でない場合は与り知るところとなる。などとして使うのであって~であった、のような完了形では使わない。
些事ですらある、のように些事に「すら」はあまり使わない。
など、無理に言葉を難しくしようとして空回りしているように感じられたので…。
もう少し読みやすくしてもよいのではないでしょうか?
と、思い私的には80点です(  ̄▽ ̄)
ご指摘ありがとうございます。読みやすい文章を書くように心掛けます。