この本は私が出会った不思議な妖怪について記したものである。私が彼女と出会ったとき、彼女は記憶を失くしていて、自分のことを名無しの本読み妖怪と名乗った。
今後転生を繰り返しても彼女について忘れることのないように。未来の私に向けて記す。
******
稗田の屋敷には書庫が二つある。一つは屋敷を入ってすぐのところにある書庫。私は表の書庫と呼んでいる。こちらに所蔵されている本は申請してもらえば外部の人でも自由に閲覧することができる。
もう一つは、屋敷の奥にあるこぢんまりとした書庫。私は裏の書庫と呼んでいる。一般の人が閲覧するには危険な本や極めて重要な書物、未整理の資料などはこちらに収められている。里の人の大半はこの書庫の存在自体知らない。雑多で不気味なこの部屋には使用人もほとんど訪れない。
床は板張りで西向きに丸窓が一つあるが日光は本に毒なので普段は日除けをしてある。窓の傍には一対の古びた机と椅子が設えられている。そこに座って珈琲を飲みながら優雅に本を読むのが私の憩いの時間だった。
だが、最近ここにたびたび闖入者が現れるようになった。
「ねぇ、稗田のお嬢様。これの続きある?」
鈴のようなかわいらしい高い声が埃っぽい書庫の空気を震わせた。私は聞こえないふりをしたが、「ねぇ、ねぇ」としつこく言ってくるので「……そこの右から二番目の棚の真ん中」と最大限不機嫌さを声に滲ませながら答えた。だが、人間の微細な感情表現は妖怪には伝わらなかったようで、彼女は「おっ、ありがとー」と無邪気に言うと、その本を取り出してまた床に座って読み始めた。前の巻は横に置いたままだ。きちんと元の場所に戻して欲しい。
私ははあ、とため息をついて自分の本に目を落とした。
この妖怪は数カ月前から頻繁に私の裏書庫に侵入してくる妖怪だ。
初めて出会ったときも彼女はいまと同じように本を読んでいた。私が資料を探しに部屋に入ったら見たことのない妖怪がいたので、最初は驚いて悲鳴を上げそうになったが、彼女の方はというと私が入ってきたことに全く気付かず夢中で本を読み続けていたのである。それからおそるおそる話しかけてみたらあまり危険そうではなかったため、ついついそのあとも書庫への侵入を許してしまうようになってしまったのである。
彼女はこの書庫のことを知っていたのだろうか。いや、おそらくは偶然迷い込んだだけだろう。
彼女がどんな妖怪なのかは私にもよく分からない。本が好きなのは見ていて分かるが、どんな生態でどんなことをして生きている妖怪なのか、外見からはさっぱり分からない。まあ、そんな妖怪、いまの幻想郷では珍しくもないが。
少なくとも、過去の幻想郷縁起を読んでも彼女と思しき記述は見当たらないのでそこまで強力な妖怪ではないのだろう。もしくは、比較的若い妖怪なのか。
もっとも、過去の幻想郷縁起に記述がない妖怪と出会えたのであれば可及的速やかに追加するのが私のポリシーだ。もちろん彼女のこともしっかりと取材して書き残そうとした。
だが、彼女には名前がなかった。
「名前がない……?」
しかし、私の知る限りではどんな野良妖怪でも必ず名前は持っている。名前を持たない妖怪なんて逢うのはこれが初めてだ。いままでずっと名前を持たずにいたのでは大層不便だったのではないか。
いや、不便どころではない。名前というのは自分の存在証明に関わるものだ。忘れ去られたら消えてしまうはずの、概念的な存在である妖怪が名前を持たないなどあり得ない。
本を読む彼女に私は何度もしつこく問いただした。
「名前がないはずはないでしょ。今までに誰かから呼ばれたことはないの?」
「そう言われてもないものはしょうがないじゃん」と名無しの妖怪はそっけなく答えた。
「それなら私が適当に名前を付けてあげましょうか。そうすれば幻想郷縁起にも名前が載……」
「それは止めて!」
大声できっぱりと断られた。そんなに私のセンスを信用していないのだろうか。せっかくいい名前を付けてあげようとワクワクしたのに……。
妖怪は少し寂しげな顔で話し始めた。
「私、覚えてないの。自分がなんの妖怪なのか、どこでどうやって生まれたのか……」
「それは……」
記憶喪失、ということだろうか。
珍しいが、先例がないではない。人間に化けて人里に紛れて暮らすうちに自分の正体を忘れてしまった妖怪の話を読んだことがある。名前まで忘れるなんてよほどの重症だが……あり得なくはない――か。
「……でも名前がないと貴方のことをなんて書けばいいか分からないわ」
「……だったら『名無しの本読み妖怪』とでも書いてくれればいいよ」
「なにそれ」
私はつまらないと言ったが、彼女は「ぴったりでしょ?」と自嘲気味に笑ってまた本に顔を向けた。
仕方なく、私も彼女のことを名無しの本読み妖怪と呼ぶことにした。機会があったらまた素敵な名前を考えたいが。
かくして知り合ったこの奇妙な妖怪は、それから週に何度も稗田家の書庫を訪れるようになった。妖怪相手に少し不用心すぎる気もするが、あまり敵意があるようには見えないし、そもそも私の力では止めようがない。今となっては彼女を匿っている私も共犯者同然だ。
まあ、本が好きでここに来るのなら無理に追い出す必要ないかな、と思っている。悪いことを企むような智慧を持っているようにも見えないし。
この日も、私が幻想郷縁起のための資料を探したり机で書き物をしたりしている間ずっと、彼女は置物のように座って本を読み続けていた。
私は彼女の傍へ立って肩を叩いた。
「ちょっと。そろそろ日が暮れるわよ」
私の声に妖怪はハッと顔を上げてきょときょとと辺りを見回した。
「え、え? もうそんな時間?」
「そうよ。そろそろ自分の棲家に帰ってちょうだい」
「しょうがないね。続きはまたにするわ」
彼女はそう言ってパタンと読んでいた本を閉じて、床に積まれた本の山の一番上に重ねた。片付けろ。
彼女はそのまま平気な顔で窓の方へ歩いていき、「じゃっ、またねー!」と手を振って窓から外へと飛び出した。
「はあ……家の人に見つからないといいけど……」
私はそうぼやきながら、彼女が読んでいた本を記憶どおりの場所へ戻したのだった。
また翌日。
目に映る文字列を脳内に写しとる単調な作業を繰り返していた私に、名無しの本読み妖怪が声を掛けてきた。
「ねぇねぇ、あんたって昔から何度も転生してて、そのうえ記憶力いいんでしょ? だったらここにある本全部暗記してるんじゃないの?」
「そうでもないわよ」
私はそう答えて妖怪少女の隣に腰を下ろした。本をパラパラとめくりながら、
「転生する前の記憶は少ししか覚えていないから前世で読んだ本も読みなおす必要があるし、前の代から転生するまでの間に新しく入ってきた本もあるからね。転生する度に整理してはいるけど、時間がいくらあっても足りないくらいだわ」
「ふーん……」
大変だね、と妖怪は人並みな台詞を吐いた。
「そうね……。特に妖魔本のあたりは迂闊に触れられないから整理ができないままで……そうだわ、貴方がいるじゃない」
名無しの本読み妖怪の方を向いてピッと指差す。「な、なに?」と戸惑った声を上げる妖怪に自信満々で告げる。
「書庫の整理を手伝いなさい。それだけうちの本を読んでいるのだから、少しくらい働いてもらってもいいでしょ?」
「えー……」
私の命令を聞いた彼女は露骨に嫌そうな顔をした。
「嫌ならいいのよ。その代わり今まで本を読んだ分の代金を払ってもらいますけど」
「わ、分かったわよ。働けばいいんでしょ、働けば」
まあ、うちは貸本屋ではないから本気で読んだ本の代金を払ってもらおうと思ったわけではないが。了承してもらえたようなので遠慮なく手伝ってもらうとしよう。
「私が指示するから、中身を確認して安全そうだったら内容ごとに分類するわ。妖魔本は隅の方に隔離しておくから」
「あいあいさー」
こうして一人と一妖の書庫整理が始まった。
妖怪少女は小柄で見た目は人間と変わりないが、やはり妖怪だけあってそれなりに力はあるようだ。おかげで私は楽ができる。
「この本は向こうの棚。これはあっちに入れて」
「うんしょ、うんしょ。……ねぇ、これ私ばっかり大変じゃない?」
「そんなことないわ。あとそれはそっちね」
「はーい……」
未整理の棚には種種雑多な本が収められていた。大昔の妖怪退治の様子が克明に記された貴重な資料から大衆向けの娯楽小説、江戸時代の商家の帳簿、読めない文字で書かれた本も多かった。
「うわっ、これは……」
名無しの本読み妖怪のうなり声がしたので振り返ると、彼女はある巻物を開いて固まっていた。「どうしたの?」と尋ねる。
「妖魔本よ……結構強いわね」
「……なら、あの奥の棚に纏めて入れておいてちょうだい」
「いいの? 魔力を持った道具(アイテム)同士が近くにあると何か予想外の効果を引き起こしたりするかもよ?」
「……その対策はあとで考えるわ」
痛む頭を押さえる私を妖怪がクスリと笑って巻物を棚に収めた。
「少し休憩することにしましょうか」
私は名無しの本読み妖怪にそう声を掛けて、二つのカップとお菓子を盛ったお皿の載ったお盆を机に置いた。
「えっなになに? なんかおいしそうな匂いがするよ」
妖怪が小動物のようにぴょんと跳ねてこちらへ寄ってきた。
「今日のおやつは西洋風。クッキーと珈琲よ。珈琲豆は紅魔館の主人からいただいて、最近よく飲んでるの」
「ふーん」
妖怪は私の話を聞いている風でもなくクッキーを一つつまみ珈琲を一口すすって「苦っ!」と涙目になった。
「あーもう。ミルクと砂糖を入れてからね」
私が両方のカップにミルクと砂糖を入れてぐるぐるかき混ぜた。
「はいどうぞ」
「ありがと」
そっと口をつけた妖怪は今度は柔らかい表情に変わった。どうやら気に入ってくれたらしい。
その後はほとんど休憩を取ることなく二人きりで書棚の整理を続け、夕日が空を染める頃にようやく一段落つくことができた。
「はぁぁ……疲れた」
「さすがに今日はここまでにしましょう」
二人で背中合わせにぐったりする。私はあまり動いていないが。
「今日は全然本を読めなかった! これじゃタダ働きだよ!」
妖怪が駄々をこねるような口調で暴れる。私だって虚弱な身体で大量の本を動かして疲れているのだから暴れないでほしい。
「今日の働きはいままで読んだ分のツケよ」
「じゃあ明日からは働かないよ!」
むう。言い分は間違っていないので反論できない。
「なら、明日からは本一冊につき一刻働いてもらうわ。それでどう?」
「うーん……まあ、それでいいよ」
妖怪が小さく首肯する。契約成立だ。妖怪は契約にはうるさいので約束したことはきちんと守ってくれるだろう。
「じゃあ、また明日」
名無しの本読み妖怪はそう言って本を片手に立ち上がり窓の方へと向かっていった。私は慌ててその手を引っ掴んで止める。
「ちょっと待て! その手に持っている本を置いていきなさい!」
「むー、バレたか」
さりげなく我が家の資料を持っていこうとするな。言っておくが、我が家の資料は全て持ち出し厳禁だ。名無しの本読み妖怪は、窓から出ようとした体勢のまま、小首を傾げ、猫なで声を出す。
「ちょっとだけ貸して?」
「かわいく言ってもダメ! そう言って死ぬまで返しそうにない魔法使いさんを知っていますからね!」
「別にいいじゃない。早く続きが読みたいのよ。それに借りて読んできた方が作業も捗るでしょ?」
「で、でも、妖怪の棲むところなんか森の中か山の上でしょ。雨でも降ったらどうするの!」
「濡らさないように注意するわよ」
そう言うと同時に、彼女は私の力が緩んだ一瞬の隙を突いて本を奪い去り、そのまま窓から飛び降りていった。
「ああぁ……貴重な資料なのに……」
床に座り込みがっくりとうなだれる。
あんな風に強引に押し切られてしまっては非力な私にはどうしようもない。こういうとき力ずくで言うことを聞かせられる人たちが少し羨ましい。
泣いたところで本が返ってくるわけでもなく。私にできることは少しでも良い状態で戻ってくることを祈るだけだった。
心配をよそに、彼女は公言どおりしっかりと本を返してきた。それも翌日に。
私が朝早くに書庫へ入るといつものように床に座って黙々と本を読んでいたのだ。傍へ近づくと、「おはよう。これ昨日借りたやつね」と言って床に置いてあった本を掲げた。いま読んでいるのはその続きらしい。
「朝早くから来るなんてご苦労様ね」
私は妖怪少女の隣に腰を下ろし、両膝を立てて座りその上に頬を載せ、隣で本を読む妖怪のことをそっと観察する。
遠くから見ていたときは置物のようだったが、近くで観察するとその表情は細かく動いていた。ページをめくる度に目を見張ったり小さく笑ったり息を呑んだり、表情豊かに、感情豊かに本を読んでいた。
彼女について分かっていることは決して多くはない。記憶喪失で読書好きの妖怪だということだけだ。
だが、こうして見ていると、まるで人間と変わりない。いや、人間以上に人間らしいとすら思える。
「…………」
――だが、私は知っている。人間と変わらない姿をした彼女らが、人を襲い、人を喰い、人とはまるきり異なる時間と価値観の中で生きていることを。
そして、それでも今の幻想郷でなら、人と妖怪は交わって生きていくことができるのだということを。
名無しの本読み妖怪が最後のページをめくり、パタンと本を閉じたところで私は立ち上がり元気よく言った。
「さ、今日も書棚の整理を手伝ってもらうわよ」
翌日もその翌日も同じように書物を整理し、疲れたら並んで座って読書をした。彼女は貸し借りには律儀なようで貸した本は必ず次に来るときには返してくれる。
読書中はお互いほとんどしゃべらず黙って隣にいるだけなのだが、その距離感は悪くなかった。
そう、彼女と友人になったと言ってもいいのかもしれなかった。
そんな時間がしばらく続いて――。
それから数日間、雨が続いた。
その間あの本読み妖怪は一度も姿を現さなかった。この雨の中やって来られて本を濡らされたらたまらないのでそれは構わないのだが、少し心配だ。いや、私の本が。
雨が続くと書庫が湿気ってしまうし、一人では作業が進まない。早く晴れてほしいものだ。
とはいえ、私には書庫整理以外にもやるべきことが山積みなのだ。休んでいるヒマはない。だが、幻想郷縁起を書き進め資料を読み漁るだけの一日は他人と関わる機会が少ないだけに、世界が色を失ったように味気なかった。
そんな日が続いた夜に、部屋の中に閉じこもっているのに耐えられなくなった私は一人廊下に出た。襖の向こうからは家族がお客さんと談笑する声が聞こえてくる。
窓の外を見る。夜の星月は厚い雲に隠されて見ることができない。しとしとと降る細かい雨は眺めているだけでなぜか気怠い感覚に襲われる。
妖怪はこういうときどんなふうに過ごすのだろう……。
そんな胡乱なことを考えながら視線を下げて中庭に目を向けたとき、何かが目に入った。
「……っ!」
庭の隅で誰かが血を流して倒れている。
咄嗟に顔を背け、人を呼ぼうとして――気付く。
倒れていたのは、あの妖怪だ。
私は慌てて廊下を駆け抜け裸足で庭に出た。雨粒が顔に当たり視界を霞ませる。泥でべちゃべちゃになった地面を危うく転びそうになりながら走る。
いつも私の書庫で座って本を読んでいた彼女が、いまは背中から大量の真っ赤な血を流している。
「ねえ、どうしたの! しっかりして!」
私は動揺のあまり彼女の身体を激しく揺さぶりながら呼びかけた。彼女の口から「う……」と小さな呻き声が漏れた。
「大丈夫!?」
「生きてるから……そんなに揺らさないで」
そう言われて頭が冷えた私は彼女から手を離した。家の中から彼女の姿が見えないように自分の身体で隠しながら話しかける。
「一体なにがあったの……?」
「平気だよ。私は妖怪だから……このぐらいすぐに治る。でも本が汚れちゃったかな……ごめんね、阿求……」
「え……」
その言葉を最後に、彼女は気を失った。私は呆然として雨の中立ち尽くした。
「…………」
「…………」
「ん…………っ」
「あら、お目覚め?」
私が声をかけると、彼女はぼうとした表情で首を動かして辺りを見回した。だいぶん長く眠っていたからまだ意識がはっきりしていないのだろう。
「大変だったわよ。ここまで運ぶのに」
庭で彼女を見つけたあと、私は家人に見つからないよう細心の注意を払いながらこの裏書庫まで運んできたのだ。彼女の身体は思ったより軽かったが、私のひ弱な身体で妖怪一匹背負って歩くのは難儀だった。
それから布団を敷いて寝かせていたが、半日ほどであれだけの傷が跡形もなく消えてしまったのだから妖怪の回復力には驚きだ。
「……あ! そういえば……」
「貸してた本ならちゃんと返してもらったわ。少し状態は悪かったけど、風呂敷に包んであったおかげで目立った汚れはなかったからよしとしてあげる」
「そう。よかった」
本読み妖怪はほうっと胸をなでおろした。私は彼女の横に座り話しかける。
「ひとついい?」
「ん?」
「貴方の正体が分かったわ」
私――十代目御阿礼の乙女、稗田阿斗――が先代の、まだ阿求だった頃、一人の友人がいた。
名前を本居小鈴と言った。
彼女の家は貸本屋を営んでいて、屋号を鈴奈庵と言った。私もよく資料を借りに訪れたものだ。小鈴は小さい頃からお店を自分の手で仕切っていたが、その売上の一部をある趣味につぎこんでもいた。
そう、妖魔本の蒐集である。
ここからは聞いた話だが、阿求(わたし)が二十を過ぎ夭折した直後に、本居小鈴は行方不明になったという。妖怪に攫われただとか、仲の良かった私のあとを追ったのだとか、色々な噂が立ったそうだが、結局真相は分からずじまいで死体も出てこなかった。大切な跡取り娘を喪った小鈴の家族はみるみる生気を失い、そのままひっそりと亡くなったそうである。
こうして鈴奈庵は潰れることになり、所蔵されていた貴重な本の数々は大半が稗田家に移されることになった。その際に書庫を増設したという。また、一部の本は博麗神社に運ばれ、一部は妖怪の賢者が持っていったそうだが、詳細は定かではない。
――だが、本居小鈴は死んでいたわけではなかった。いや、人間としてはたしかにそのとき死んだのだろう。
だが、彼女は妖怪として生まれ変わり、百数十年経ったいまも生き続けていたのである。
本を読むことだけが趣味の名もない妖怪として。
「つまり、貴方の正体は元人間――本居小鈴。これが私の推理よ」
長い話を終えた私は妖怪の顔を見た。
呆然と目を見開きながら私の話を聞いていた彼女は、やがて唇を震わせながら、
「思い出した……。昔は里に住んでて、よく音楽を聞きながら本を読んでた……それで、あんたと……阿求とよく遊んでた……」
彼女の瞳からぽろぽろと大粒の涙がこぼれ出す。
「私、人間だったんだ……っ! ずっと前からあんたと友達だったんだ……どうして忘れてたんだろう……!」
小鈴だった妖怪は手の甲で涙を拭いながら嗚咽を漏らした。
私も最初は信じられなかった。いや、信じたくなかった。
前世のことはほとんど覚えていなかったため、本居小鈴と鈴奈庵のことは人から少し聞いたことがあるくらいでしかなかった。
だが、怪我をしていた彼女に駆け寄ったとき、彼女が私のことを『阿求』と呼んだことが私の記憶を引き出す呼び水となった。
彼女は前世の私を知っていた――そこから本居小鈴の謎の失踪を結びつけるのに時間はかからなかった。それから、私が彼女と交わした会話の数々、そして小鈴が妖魔本の蒐集を趣味としていたこと、小鈴の能力が年々強まっていたことをはっきりと思い出し、確信を持つに至った。
彼女は前世の私の友人だった。
「ほんとに……なんで妖怪になってるのよ……」
小さな呟きが私の口からぽつりと漏れ出る。さざ波立った感情はどんどん膨らんでいき、私は思わず立ち上がって、泣き止みかけていた小鈴の首根っこを引っ掴んで声を張り上げた。
「一体なにがどうして妖怪になんかなるのよ! どんなバカをすればこんなことになるのよ! やっぱり脳みそ空っぽだったのね!」
「ちょ、ちょっと……苦し……」
「百数十年前にも私は何度も忠告したわよね!『妖魔本の扱いには注意しなさい』って! それなのになんで妖怪になるのよ! もっと周りのことも考えなさいよ! 子どもを亡くした親がどれだけ悲しむか想像しなさいよ! この親不孝者……!」
そこまで叫んだところで私はようやく手を離した。ここまで大声を出したのはいつ以来だろう。私は自分でも意外なほど小鈴に対して怒っていた。
少しの間、沈黙が生まれる。それから、小鈴がぽつりぽつりと語りだした。
「全部説明するわ。いま思い出したこと。
あんたも知ってのとおり、私が妖怪になったのはあんたが死んだすぐあとのことよ。お葬式の日の夜ね。
……阿求が死んだとき、私は思ったより悲しまなかった。阿求が早死にするのはその何年も前から分かっていたことだし、もともと私は薄情な性格だからね。数日後に開かれたお葬式でも泣くことはなかった。お葬式が終わったあと、家に帰る気分になれなくて里をぶらぶら歩いたの。澄んだ空が夕日で紅から紫のグラデーションに染まってて、すごく綺麗だった。
気付いたら私は里を出て魔法の森の入り口に立っていたわ。日も沈みかけていてこれ以上進んだら帰れなくなるってすぐに分かった。だけど、そのとき思ったの。『阿求がいないならもう里で暮らす理由なんてないな』って。森の中へ入っていって、そうして夜が深くなったとき、私はもう人間じゃなくなってた」
「そんな……」
私は息を呑んだ。人間が妖怪になった話はいくらでも読んで聞いてきたが、ここまであっさりと変化してしまうなんて話は信じられなかった。
小鈴が続ける。
「きっと私は阿求が死ぬ前から半分妖怪になっていたんだろうね……。あんたの言うとおり、妖魔本の魔力に影響されていつの間にか引き返せないところにいた。阿求の死は最後のちょっとしたきっかけ程度で」
「……小鈴はそれでよかったの……?」
おそるおそる尋ねてみると、小鈴は腕を組んで考えながら答えた。
「……まあお父さんとお母さんには悪いことしちゃったけど……妖怪として生きてきた今までの生活は結構楽しかったよ。のんびり暮らして他の妖怪たちと遊んで。それにほら」
小鈴は私の顔に人差し指を向けて、満開の笑顔を浮かべながら言った。
「また、阿求と会えたし」
「なっ……」
少し照れくさそうな小鈴の言葉に、私もかあっと顔が赤くなった。
私には前世からの友人はいない。転生する度に身近な人はみな生きていないのだ。前世からは少しずつ寿命の長い妖怪と親交を結ぶことができるようになっていたが、それも決して多くはなかった。
百数十年という間隔で行われる転生はいつも私を孤独にさせる。
だけど、今回はこうして小鈴と逢うことができた。
姿は変われども、こうして転生前の友人と再開することができたのは初めてと言っていいかもしれない。
こうして出会うことができて、思い出すことができて、よかった。心からそう思う。
「そうね……私もまた会えて嬉しいわ。小鈴」
「にへ」
にこにこと笑う小鈴から目をそらし、気恥ずかしさを紛らわすためにコホンと大げさに咳払いする。
「ところでもう一つ聞きたいことがあるのだけど」
「ん?」
「どうしてあんな怪我していたの? 巫女に手を出したりでもしたの?」
「あー、あれは……」
小鈴はぎくりとした表情で視線をそらし、言いづらそうに口ごもりながらゆっくりと説明し始めた。
「その……雨が降ってたから魔法の森で偶然見つけたボロ屋で雨宿りしてたら変な妖怪と会ってね。白い髪に赤黒い羽根が生えてて鳥人間みたいな。で、その妖怪、私と同じように本を読んでたの。珍しいでしょ?」
「そうね」
「どんな本を読んでるのか興味が湧いて見せてもらおうとしたのだけど突っぱねられて……まあ、それで無理やり奪いとったというか」
「強奪じゃない!」
「い、言い方次第ではそうなるかもね。そしたら相手の妖怪がすごい怒ってめちゃくちゃ攻撃してきて……。びっくりしたわぁ。似たような体格だからもっと弱いかと思ったらすごい強くて……。それで必死で逃げ回っていたらいつの間にかこの家に逃げ込んでたってわけ」
「呆れた……」
どおりで一冊しか貸さなかったのに四倍になって返ってきたわけだ。
妖怪になっても小鈴の危険を危険と思わない無謀さは相変わらずのようで、私は一体これから何度この友人に呆れさせられるのだろうと考えながら大きなため息をついた。
********
「ふう……」
筆を置いて一息つく。ようやく書き終えることができた。
ちょうどそのとき、後ろでガラリと襖が開いて「やっほー」という頭が空っぽそうな声が聞こえた。振り向くと、そこには妖怪の友人、本居小鈴の姿があった。
「借りてた本、返しに来たよ」
小鈴はそう言って敷かれたままの布団の横にドサドサと本を置いた。私は眉間にしわを寄せる。
「あのねぇ、前々から言おうと思ってたんだけど、枕元じゃなくて本棚に直接片付けてよ。元通りの場所に」
「えー。……しょうがないなぁ」
よいしょっと小鈴が本を抱え直す。そこで私は「あ、待って」と呼び止めて、一冊の薄っぺらい本を一番上に重ねた。
「ついでにこれも持っていってちょうだい」
「ん、なにこれ?『名無しの本読み妖怪』……?」
タイトルを見て怪訝な顔をする小鈴に私は、「次はすぐに思い出せるようにね」と微笑んだ。
「じゃあ、またね」と、小鈴はいつもと変わらない調子で言った。
「ええ、また」と私は笑って手を振った。
今後転生を繰り返しても彼女について忘れることのないように。未来の私に向けて記す。
******
稗田の屋敷には書庫が二つある。一つは屋敷を入ってすぐのところにある書庫。私は表の書庫と呼んでいる。こちらに所蔵されている本は申請してもらえば外部の人でも自由に閲覧することができる。
もう一つは、屋敷の奥にあるこぢんまりとした書庫。私は裏の書庫と呼んでいる。一般の人が閲覧するには危険な本や極めて重要な書物、未整理の資料などはこちらに収められている。里の人の大半はこの書庫の存在自体知らない。雑多で不気味なこの部屋には使用人もほとんど訪れない。
床は板張りで西向きに丸窓が一つあるが日光は本に毒なので普段は日除けをしてある。窓の傍には一対の古びた机と椅子が設えられている。そこに座って珈琲を飲みながら優雅に本を読むのが私の憩いの時間だった。
だが、最近ここにたびたび闖入者が現れるようになった。
「ねぇ、稗田のお嬢様。これの続きある?」
鈴のようなかわいらしい高い声が埃っぽい書庫の空気を震わせた。私は聞こえないふりをしたが、「ねぇ、ねぇ」としつこく言ってくるので「……そこの右から二番目の棚の真ん中」と最大限不機嫌さを声に滲ませながら答えた。だが、人間の微細な感情表現は妖怪には伝わらなかったようで、彼女は「おっ、ありがとー」と無邪気に言うと、その本を取り出してまた床に座って読み始めた。前の巻は横に置いたままだ。きちんと元の場所に戻して欲しい。
私ははあ、とため息をついて自分の本に目を落とした。
この妖怪は数カ月前から頻繁に私の裏書庫に侵入してくる妖怪だ。
初めて出会ったときも彼女はいまと同じように本を読んでいた。私が資料を探しに部屋に入ったら見たことのない妖怪がいたので、最初は驚いて悲鳴を上げそうになったが、彼女の方はというと私が入ってきたことに全く気付かず夢中で本を読み続けていたのである。それからおそるおそる話しかけてみたらあまり危険そうではなかったため、ついついそのあとも書庫への侵入を許してしまうようになってしまったのである。
彼女はこの書庫のことを知っていたのだろうか。いや、おそらくは偶然迷い込んだだけだろう。
彼女がどんな妖怪なのかは私にもよく分からない。本が好きなのは見ていて分かるが、どんな生態でどんなことをして生きている妖怪なのか、外見からはさっぱり分からない。まあ、そんな妖怪、いまの幻想郷では珍しくもないが。
少なくとも、過去の幻想郷縁起を読んでも彼女と思しき記述は見当たらないのでそこまで強力な妖怪ではないのだろう。もしくは、比較的若い妖怪なのか。
もっとも、過去の幻想郷縁起に記述がない妖怪と出会えたのであれば可及的速やかに追加するのが私のポリシーだ。もちろん彼女のこともしっかりと取材して書き残そうとした。
だが、彼女には名前がなかった。
「名前がない……?」
しかし、私の知る限りではどんな野良妖怪でも必ず名前は持っている。名前を持たない妖怪なんて逢うのはこれが初めてだ。いままでずっと名前を持たずにいたのでは大層不便だったのではないか。
いや、不便どころではない。名前というのは自分の存在証明に関わるものだ。忘れ去られたら消えてしまうはずの、概念的な存在である妖怪が名前を持たないなどあり得ない。
本を読む彼女に私は何度もしつこく問いただした。
「名前がないはずはないでしょ。今までに誰かから呼ばれたことはないの?」
「そう言われてもないものはしょうがないじゃん」と名無しの妖怪はそっけなく答えた。
「それなら私が適当に名前を付けてあげましょうか。そうすれば幻想郷縁起にも名前が載……」
「それは止めて!」
大声できっぱりと断られた。そんなに私のセンスを信用していないのだろうか。せっかくいい名前を付けてあげようとワクワクしたのに……。
妖怪は少し寂しげな顔で話し始めた。
「私、覚えてないの。自分がなんの妖怪なのか、どこでどうやって生まれたのか……」
「それは……」
記憶喪失、ということだろうか。
珍しいが、先例がないではない。人間に化けて人里に紛れて暮らすうちに自分の正体を忘れてしまった妖怪の話を読んだことがある。名前まで忘れるなんてよほどの重症だが……あり得なくはない――か。
「……でも名前がないと貴方のことをなんて書けばいいか分からないわ」
「……だったら『名無しの本読み妖怪』とでも書いてくれればいいよ」
「なにそれ」
私はつまらないと言ったが、彼女は「ぴったりでしょ?」と自嘲気味に笑ってまた本に顔を向けた。
仕方なく、私も彼女のことを名無しの本読み妖怪と呼ぶことにした。機会があったらまた素敵な名前を考えたいが。
かくして知り合ったこの奇妙な妖怪は、それから週に何度も稗田家の書庫を訪れるようになった。妖怪相手に少し不用心すぎる気もするが、あまり敵意があるようには見えないし、そもそも私の力では止めようがない。今となっては彼女を匿っている私も共犯者同然だ。
まあ、本が好きでここに来るのなら無理に追い出す必要ないかな、と思っている。悪いことを企むような智慧を持っているようにも見えないし。
この日も、私が幻想郷縁起のための資料を探したり机で書き物をしたりしている間ずっと、彼女は置物のように座って本を読み続けていた。
私は彼女の傍へ立って肩を叩いた。
「ちょっと。そろそろ日が暮れるわよ」
私の声に妖怪はハッと顔を上げてきょときょとと辺りを見回した。
「え、え? もうそんな時間?」
「そうよ。そろそろ自分の棲家に帰ってちょうだい」
「しょうがないね。続きはまたにするわ」
彼女はそう言ってパタンと読んでいた本を閉じて、床に積まれた本の山の一番上に重ねた。片付けろ。
彼女はそのまま平気な顔で窓の方へ歩いていき、「じゃっ、またねー!」と手を振って窓から外へと飛び出した。
「はあ……家の人に見つからないといいけど……」
私はそうぼやきながら、彼女が読んでいた本を記憶どおりの場所へ戻したのだった。
また翌日。
目に映る文字列を脳内に写しとる単調な作業を繰り返していた私に、名無しの本読み妖怪が声を掛けてきた。
「ねぇねぇ、あんたって昔から何度も転生してて、そのうえ記憶力いいんでしょ? だったらここにある本全部暗記してるんじゃないの?」
「そうでもないわよ」
私はそう答えて妖怪少女の隣に腰を下ろした。本をパラパラとめくりながら、
「転生する前の記憶は少ししか覚えていないから前世で読んだ本も読みなおす必要があるし、前の代から転生するまでの間に新しく入ってきた本もあるからね。転生する度に整理してはいるけど、時間がいくらあっても足りないくらいだわ」
「ふーん……」
大変だね、と妖怪は人並みな台詞を吐いた。
「そうね……。特に妖魔本のあたりは迂闊に触れられないから整理ができないままで……そうだわ、貴方がいるじゃない」
名無しの本読み妖怪の方を向いてピッと指差す。「な、なに?」と戸惑った声を上げる妖怪に自信満々で告げる。
「書庫の整理を手伝いなさい。それだけうちの本を読んでいるのだから、少しくらい働いてもらってもいいでしょ?」
「えー……」
私の命令を聞いた彼女は露骨に嫌そうな顔をした。
「嫌ならいいのよ。その代わり今まで本を読んだ分の代金を払ってもらいますけど」
「わ、分かったわよ。働けばいいんでしょ、働けば」
まあ、うちは貸本屋ではないから本気で読んだ本の代金を払ってもらおうと思ったわけではないが。了承してもらえたようなので遠慮なく手伝ってもらうとしよう。
「私が指示するから、中身を確認して安全そうだったら内容ごとに分類するわ。妖魔本は隅の方に隔離しておくから」
「あいあいさー」
こうして一人と一妖の書庫整理が始まった。
妖怪少女は小柄で見た目は人間と変わりないが、やはり妖怪だけあってそれなりに力はあるようだ。おかげで私は楽ができる。
「この本は向こうの棚。これはあっちに入れて」
「うんしょ、うんしょ。……ねぇ、これ私ばっかり大変じゃない?」
「そんなことないわ。あとそれはそっちね」
「はーい……」
未整理の棚には種種雑多な本が収められていた。大昔の妖怪退治の様子が克明に記された貴重な資料から大衆向けの娯楽小説、江戸時代の商家の帳簿、読めない文字で書かれた本も多かった。
「うわっ、これは……」
名無しの本読み妖怪のうなり声がしたので振り返ると、彼女はある巻物を開いて固まっていた。「どうしたの?」と尋ねる。
「妖魔本よ……結構強いわね」
「……なら、あの奥の棚に纏めて入れておいてちょうだい」
「いいの? 魔力を持った道具(アイテム)同士が近くにあると何か予想外の効果を引き起こしたりするかもよ?」
「……その対策はあとで考えるわ」
痛む頭を押さえる私を妖怪がクスリと笑って巻物を棚に収めた。
「少し休憩することにしましょうか」
私は名無しの本読み妖怪にそう声を掛けて、二つのカップとお菓子を盛ったお皿の載ったお盆を机に置いた。
「えっなになに? なんかおいしそうな匂いがするよ」
妖怪が小動物のようにぴょんと跳ねてこちらへ寄ってきた。
「今日のおやつは西洋風。クッキーと珈琲よ。珈琲豆は紅魔館の主人からいただいて、最近よく飲んでるの」
「ふーん」
妖怪は私の話を聞いている風でもなくクッキーを一つつまみ珈琲を一口すすって「苦っ!」と涙目になった。
「あーもう。ミルクと砂糖を入れてからね」
私が両方のカップにミルクと砂糖を入れてぐるぐるかき混ぜた。
「はいどうぞ」
「ありがと」
そっと口をつけた妖怪は今度は柔らかい表情に変わった。どうやら気に入ってくれたらしい。
その後はほとんど休憩を取ることなく二人きりで書棚の整理を続け、夕日が空を染める頃にようやく一段落つくことができた。
「はぁぁ……疲れた」
「さすがに今日はここまでにしましょう」
二人で背中合わせにぐったりする。私はあまり動いていないが。
「今日は全然本を読めなかった! これじゃタダ働きだよ!」
妖怪が駄々をこねるような口調で暴れる。私だって虚弱な身体で大量の本を動かして疲れているのだから暴れないでほしい。
「今日の働きはいままで読んだ分のツケよ」
「じゃあ明日からは働かないよ!」
むう。言い分は間違っていないので反論できない。
「なら、明日からは本一冊につき一刻働いてもらうわ。それでどう?」
「うーん……まあ、それでいいよ」
妖怪が小さく首肯する。契約成立だ。妖怪は契約にはうるさいので約束したことはきちんと守ってくれるだろう。
「じゃあ、また明日」
名無しの本読み妖怪はそう言って本を片手に立ち上がり窓の方へと向かっていった。私は慌ててその手を引っ掴んで止める。
「ちょっと待て! その手に持っている本を置いていきなさい!」
「むー、バレたか」
さりげなく我が家の資料を持っていこうとするな。言っておくが、我が家の資料は全て持ち出し厳禁だ。名無しの本読み妖怪は、窓から出ようとした体勢のまま、小首を傾げ、猫なで声を出す。
「ちょっとだけ貸して?」
「かわいく言ってもダメ! そう言って死ぬまで返しそうにない魔法使いさんを知っていますからね!」
「別にいいじゃない。早く続きが読みたいのよ。それに借りて読んできた方が作業も捗るでしょ?」
「で、でも、妖怪の棲むところなんか森の中か山の上でしょ。雨でも降ったらどうするの!」
「濡らさないように注意するわよ」
そう言うと同時に、彼女は私の力が緩んだ一瞬の隙を突いて本を奪い去り、そのまま窓から飛び降りていった。
「ああぁ……貴重な資料なのに……」
床に座り込みがっくりとうなだれる。
あんな風に強引に押し切られてしまっては非力な私にはどうしようもない。こういうとき力ずくで言うことを聞かせられる人たちが少し羨ましい。
泣いたところで本が返ってくるわけでもなく。私にできることは少しでも良い状態で戻ってくることを祈るだけだった。
心配をよそに、彼女は公言どおりしっかりと本を返してきた。それも翌日に。
私が朝早くに書庫へ入るといつものように床に座って黙々と本を読んでいたのだ。傍へ近づくと、「おはよう。これ昨日借りたやつね」と言って床に置いてあった本を掲げた。いま読んでいるのはその続きらしい。
「朝早くから来るなんてご苦労様ね」
私は妖怪少女の隣に腰を下ろし、両膝を立てて座りその上に頬を載せ、隣で本を読む妖怪のことをそっと観察する。
遠くから見ていたときは置物のようだったが、近くで観察するとその表情は細かく動いていた。ページをめくる度に目を見張ったり小さく笑ったり息を呑んだり、表情豊かに、感情豊かに本を読んでいた。
彼女について分かっていることは決して多くはない。記憶喪失で読書好きの妖怪だということだけだ。
だが、こうして見ていると、まるで人間と変わりない。いや、人間以上に人間らしいとすら思える。
「…………」
――だが、私は知っている。人間と変わらない姿をした彼女らが、人を襲い、人を喰い、人とはまるきり異なる時間と価値観の中で生きていることを。
そして、それでも今の幻想郷でなら、人と妖怪は交わって生きていくことができるのだということを。
名無しの本読み妖怪が最後のページをめくり、パタンと本を閉じたところで私は立ち上がり元気よく言った。
「さ、今日も書棚の整理を手伝ってもらうわよ」
翌日もその翌日も同じように書物を整理し、疲れたら並んで座って読書をした。彼女は貸し借りには律儀なようで貸した本は必ず次に来るときには返してくれる。
読書中はお互いほとんどしゃべらず黙って隣にいるだけなのだが、その距離感は悪くなかった。
そう、彼女と友人になったと言ってもいいのかもしれなかった。
そんな時間がしばらく続いて――。
それから数日間、雨が続いた。
その間あの本読み妖怪は一度も姿を現さなかった。この雨の中やって来られて本を濡らされたらたまらないのでそれは構わないのだが、少し心配だ。いや、私の本が。
雨が続くと書庫が湿気ってしまうし、一人では作業が進まない。早く晴れてほしいものだ。
とはいえ、私には書庫整理以外にもやるべきことが山積みなのだ。休んでいるヒマはない。だが、幻想郷縁起を書き進め資料を読み漁るだけの一日は他人と関わる機会が少ないだけに、世界が色を失ったように味気なかった。
そんな日が続いた夜に、部屋の中に閉じこもっているのに耐えられなくなった私は一人廊下に出た。襖の向こうからは家族がお客さんと談笑する声が聞こえてくる。
窓の外を見る。夜の星月は厚い雲に隠されて見ることができない。しとしとと降る細かい雨は眺めているだけでなぜか気怠い感覚に襲われる。
妖怪はこういうときどんなふうに過ごすのだろう……。
そんな胡乱なことを考えながら視線を下げて中庭に目を向けたとき、何かが目に入った。
「……っ!」
庭の隅で誰かが血を流して倒れている。
咄嗟に顔を背け、人を呼ぼうとして――気付く。
倒れていたのは、あの妖怪だ。
私は慌てて廊下を駆け抜け裸足で庭に出た。雨粒が顔に当たり視界を霞ませる。泥でべちゃべちゃになった地面を危うく転びそうになりながら走る。
いつも私の書庫で座って本を読んでいた彼女が、いまは背中から大量の真っ赤な血を流している。
「ねえ、どうしたの! しっかりして!」
私は動揺のあまり彼女の身体を激しく揺さぶりながら呼びかけた。彼女の口から「う……」と小さな呻き声が漏れた。
「大丈夫!?」
「生きてるから……そんなに揺らさないで」
そう言われて頭が冷えた私は彼女から手を離した。家の中から彼女の姿が見えないように自分の身体で隠しながら話しかける。
「一体なにがあったの……?」
「平気だよ。私は妖怪だから……このぐらいすぐに治る。でも本が汚れちゃったかな……ごめんね、阿求……」
「え……」
その言葉を最後に、彼女は気を失った。私は呆然として雨の中立ち尽くした。
「…………」
「…………」
「ん…………っ」
「あら、お目覚め?」
私が声をかけると、彼女はぼうとした表情で首を動かして辺りを見回した。だいぶん長く眠っていたからまだ意識がはっきりしていないのだろう。
「大変だったわよ。ここまで運ぶのに」
庭で彼女を見つけたあと、私は家人に見つからないよう細心の注意を払いながらこの裏書庫まで運んできたのだ。彼女の身体は思ったより軽かったが、私のひ弱な身体で妖怪一匹背負って歩くのは難儀だった。
それから布団を敷いて寝かせていたが、半日ほどであれだけの傷が跡形もなく消えてしまったのだから妖怪の回復力には驚きだ。
「……あ! そういえば……」
「貸してた本ならちゃんと返してもらったわ。少し状態は悪かったけど、風呂敷に包んであったおかげで目立った汚れはなかったからよしとしてあげる」
「そう。よかった」
本読み妖怪はほうっと胸をなでおろした。私は彼女の横に座り話しかける。
「ひとついい?」
「ん?」
「貴方の正体が分かったわ」
私――十代目御阿礼の乙女、稗田阿斗――が先代の、まだ阿求だった頃、一人の友人がいた。
名前を本居小鈴と言った。
彼女の家は貸本屋を営んでいて、屋号を鈴奈庵と言った。私もよく資料を借りに訪れたものだ。小鈴は小さい頃からお店を自分の手で仕切っていたが、その売上の一部をある趣味につぎこんでもいた。
そう、妖魔本の蒐集である。
ここからは聞いた話だが、阿求(わたし)が二十を過ぎ夭折した直後に、本居小鈴は行方不明になったという。妖怪に攫われただとか、仲の良かった私のあとを追ったのだとか、色々な噂が立ったそうだが、結局真相は分からずじまいで死体も出てこなかった。大切な跡取り娘を喪った小鈴の家族はみるみる生気を失い、そのままひっそりと亡くなったそうである。
こうして鈴奈庵は潰れることになり、所蔵されていた貴重な本の数々は大半が稗田家に移されることになった。その際に書庫を増設したという。また、一部の本は博麗神社に運ばれ、一部は妖怪の賢者が持っていったそうだが、詳細は定かではない。
――だが、本居小鈴は死んでいたわけではなかった。いや、人間としてはたしかにそのとき死んだのだろう。
だが、彼女は妖怪として生まれ変わり、百数十年経ったいまも生き続けていたのである。
本を読むことだけが趣味の名もない妖怪として。
「つまり、貴方の正体は元人間――本居小鈴。これが私の推理よ」
長い話を終えた私は妖怪の顔を見た。
呆然と目を見開きながら私の話を聞いていた彼女は、やがて唇を震わせながら、
「思い出した……。昔は里に住んでて、よく音楽を聞きながら本を読んでた……それで、あんたと……阿求とよく遊んでた……」
彼女の瞳からぽろぽろと大粒の涙がこぼれ出す。
「私、人間だったんだ……っ! ずっと前からあんたと友達だったんだ……どうして忘れてたんだろう……!」
小鈴だった妖怪は手の甲で涙を拭いながら嗚咽を漏らした。
私も最初は信じられなかった。いや、信じたくなかった。
前世のことはほとんど覚えていなかったため、本居小鈴と鈴奈庵のことは人から少し聞いたことがあるくらいでしかなかった。
だが、怪我をしていた彼女に駆け寄ったとき、彼女が私のことを『阿求』と呼んだことが私の記憶を引き出す呼び水となった。
彼女は前世の私を知っていた――そこから本居小鈴の謎の失踪を結びつけるのに時間はかからなかった。それから、私が彼女と交わした会話の数々、そして小鈴が妖魔本の蒐集を趣味としていたこと、小鈴の能力が年々強まっていたことをはっきりと思い出し、確信を持つに至った。
彼女は前世の私の友人だった。
「ほんとに……なんで妖怪になってるのよ……」
小さな呟きが私の口からぽつりと漏れ出る。さざ波立った感情はどんどん膨らんでいき、私は思わず立ち上がって、泣き止みかけていた小鈴の首根っこを引っ掴んで声を張り上げた。
「一体なにがどうして妖怪になんかなるのよ! どんなバカをすればこんなことになるのよ! やっぱり脳みそ空っぽだったのね!」
「ちょ、ちょっと……苦し……」
「百数十年前にも私は何度も忠告したわよね!『妖魔本の扱いには注意しなさい』って! それなのになんで妖怪になるのよ! もっと周りのことも考えなさいよ! 子どもを亡くした親がどれだけ悲しむか想像しなさいよ! この親不孝者……!」
そこまで叫んだところで私はようやく手を離した。ここまで大声を出したのはいつ以来だろう。私は自分でも意外なほど小鈴に対して怒っていた。
少しの間、沈黙が生まれる。それから、小鈴がぽつりぽつりと語りだした。
「全部説明するわ。いま思い出したこと。
あんたも知ってのとおり、私が妖怪になったのはあんたが死んだすぐあとのことよ。お葬式の日の夜ね。
……阿求が死んだとき、私は思ったより悲しまなかった。阿求が早死にするのはその何年も前から分かっていたことだし、もともと私は薄情な性格だからね。数日後に開かれたお葬式でも泣くことはなかった。お葬式が終わったあと、家に帰る気分になれなくて里をぶらぶら歩いたの。澄んだ空が夕日で紅から紫のグラデーションに染まってて、すごく綺麗だった。
気付いたら私は里を出て魔法の森の入り口に立っていたわ。日も沈みかけていてこれ以上進んだら帰れなくなるってすぐに分かった。だけど、そのとき思ったの。『阿求がいないならもう里で暮らす理由なんてないな』って。森の中へ入っていって、そうして夜が深くなったとき、私はもう人間じゃなくなってた」
「そんな……」
私は息を呑んだ。人間が妖怪になった話はいくらでも読んで聞いてきたが、ここまであっさりと変化してしまうなんて話は信じられなかった。
小鈴が続ける。
「きっと私は阿求が死ぬ前から半分妖怪になっていたんだろうね……。あんたの言うとおり、妖魔本の魔力に影響されていつの間にか引き返せないところにいた。阿求の死は最後のちょっとしたきっかけ程度で」
「……小鈴はそれでよかったの……?」
おそるおそる尋ねてみると、小鈴は腕を組んで考えながら答えた。
「……まあお父さんとお母さんには悪いことしちゃったけど……妖怪として生きてきた今までの生活は結構楽しかったよ。のんびり暮らして他の妖怪たちと遊んで。それにほら」
小鈴は私の顔に人差し指を向けて、満開の笑顔を浮かべながら言った。
「また、阿求と会えたし」
「なっ……」
少し照れくさそうな小鈴の言葉に、私もかあっと顔が赤くなった。
私には前世からの友人はいない。転生する度に身近な人はみな生きていないのだ。前世からは少しずつ寿命の長い妖怪と親交を結ぶことができるようになっていたが、それも決して多くはなかった。
百数十年という間隔で行われる転生はいつも私を孤独にさせる。
だけど、今回はこうして小鈴と逢うことができた。
姿は変われども、こうして転生前の友人と再開することができたのは初めてと言っていいかもしれない。
こうして出会うことができて、思い出すことができて、よかった。心からそう思う。
「そうね……私もまた会えて嬉しいわ。小鈴」
「にへ」
にこにこと笑う小鈴から目をそらし、気恥ずかしさを紛らわすためにコホンと大げさに咳払いする。
「ところでもう一つ聞きたいことがあるのだけど」
「ん?」
「どうしてあんな怪我していたの? 巫女に手を出したりでもしたの?」
「あー、あれは……」
小鈴はぎくりとした表情で視線をそらし、言いづらそうに口ごもりながらゆっくりと説明し始めた。
「その……雨が降ってたから魔法の森で偶然見つけたボロ屋で雨宿りしてたら変な妖怪と会ってね。白い髪に赤黒い羽根が生えてて鳥人間みたいな。で、その妖怪、私と同じように本を読んでたの。珍しいでしょ?」
「そうね」
「どんな本を読んでるのか興味が湧いて見せてもらおうとしたのだけど突っぱねられて……まあ、それで無理やり奪いとったというか」
「強奪じゃない!」
「い、言い方次第ではそうなるかもね。そしたら相手の妖怪がすごい怒ってめちゃくちゃ攻撃してきて……。びっくりしたわぁ。似たような体格だからもっと弱いかと思ったらすごい強くて……。それで必死で逃げ回っていたらいつの間にかこの家に逃げ込んでたってわけ」
「呆れた……」
どおりで一冊しか貸さなかったのに四倍になって返ってきたわけだ。
妖怪になっても小鈴の危険を危険と思わない無謀さは相変わらずのようで、私は一体これから何度この友人に呆れさせられるのだろうと考えながら大きなため息をついた。
********
「ふう……」
筆を置いて一息つく。ようやく書き終えることができた。
ちょうどそのとき、後ろでガラリと襖が開いて「やっほー」という頭が空っぽそうな声が聞こえた。振り向くと、そこには妖怪の友人、本居小鈴の姿があった。
「借りてた本、返しに来たよ」
小鈴はそう言って敷かれたままの布団の横にドサドサと本を置いた。私は眉間にしわを寄せる。
「あのねぇ、前々から言おうと思ってたんだけど、枕元じゃなくて本棚に直接片付けてよ。元通りの場所に」
「えー。……しょうがないなぁ」
よいしょっと小鈴が本を抱え直す。そこで私は「あ、待って」と呼び止めて、一冊の薄っぺらい本を一番上に重ねた。
「ついでにこれも持っていってちょうだい」
「ん、なにこれ?『名無しの本読み妖怪』……?」
タイトルを見て怪訝な顔をする小鈴に私は、「次はすぐに思い出せるようにね」と微笑んだ。
「じゃあ、またね」と、小鈴はいつもと変わらない調子で言った。
「ええ、また」と私は笑って手を振った。
ただ、この仕掛けで読み手を唸らせるにはもう少し伏線や技巧が欲しかったところです。そうなる必然性に、欠けてしまっている。
いいですね!
素晴らしかったです!
例えば初めの方に名無しの妖怪の姿を『あれ?』って思わせる位の記述があれば
読後『なるほど』と繋がったかも?
発想や語りはすごく好みでした
と、考えると百数十年という時間の重みをひしひしと感じると同時に二人の友情もまた輝くなぁ
まぁ、その場合あいつがどうなったかが新たな疑問なのだが