「咲夜さん、咲夜さん」
自らが犬であるならば、紅美鈴は猫のようだ。十六夜咲夜の持論だ。紅魔館の門番の身でありながら、しかし、彼女の性格はおおよそ番犬に相応しいものではない。門の前でじっとしていることができない。訪ねてくる妖精や人間にも滅多に警戒心を示さない。そう、猫は猫でも、美鈴はきっと好奇心旺盛な子猫だろう。少しでも彼女の視界に入ったならば、すぐに花の咲いたような笑顔を浮かべて、甘えるような声音で話しかけてくるので、咲夜は否が応でも職務をこなす手と足を止めざるをえないのだ。
扉の鉄格子の隙間から片手を出した美鈴は、空の洗濯籠を抱えて、勝手口から庭に歩み出たところの咲夜に向けて、ちょいちょいと手招きをする。
「どうしたの、美鈴。私はこれから服を取り込みに──」
「後で手伝いますから、ね、ちょっと」
溜息、一つ。
美鈴を強く叱れないのが、咲夜の弱さだ。
彼女は咲夜よりも前に産まれ、咲夜より前にレミリアと出会い、咲夜より前に紅魔館の使用人となった。だからと言って、逆らえない訳ではない。今や咲夜が紅魔館のハウスキーパーで、美鈴はただのゲートキーパーだ。
「えへへ」
門を挟んで人一人分まで近付いた咲夜に、美鈴は無邪気に微笑みかけた。上機嫌な門番とは対照的に、咲夜の顔は晴れないままだ。何となく、美鈴を蔑ろにできない自分が不格好で、そのあやふやな鬱憤を表情に転嫁させていた。胸元に抱えた籠に、ぎゅっと力を込める。
「下らない用事だったら、怒るわよ」
「とっても、大事なことです」
「貴方がそう言って、その通りだったことなんて、滅多にないじゃない」
「たまにはあります」
「私だって暇ではないのよ。それは貴方だってよくわかっているでしょうに」
「だから、私が手伝いますって。炊事洗濯掃除、どんと来いです」
実際、咲夜よりも遥かに長い期間をメイドとして勤め上げた美鈴の手際の良さは、現在のハウスキーパーたる咲夜から見ても唸らざるをえない部分がある。時間を止めるという反則技を以てして、ようやく咲夜は美鈴に対して威厳を保てていた。
美鈴の手を借りれば、洗濯物の取り込みなど、あっという間に終わってしまうだろう。
溜息、二つ。
「……聞くわ」
美鈴は、更に一層、笑みを深くした。
「じゃあ、もうちょっと、こっちに」
彼女の言葉に従い、一歩、一歩、また一歩と進んでいくと、いつの間にか美鈴と咲夜は、鉄格子を挟んで、息のかかりそうなほど近くで向い合っていた。
咲夜は余りの近さに少し照れながら、しかしそれを誤魔化すように目を細めて、美鈴を見遣る。
何をするのか、されるのか、全く予想ができない不透明感は、咲夜に必要以上の警戒心を齎し、美鈴がちょっとでも動こうものならば、野良犬のように肩を小刻みに震わせた。それを見た美鈴は、くすりと小さく笑って、腰の背後で手を組んだ。
──こつん。
美鈴の爪先が、咲夜の爪先と、一瞬だけ、触れた。
「えへ。私達だけの、秘密の合図です、咲夜さん」
惚けた顔の咲夜に、美鈴は語る。
「私の爪先が咲夜さんの爪先に触れたら、後で、地下のリネン室で落ち合いましょうっていう意味です」
「……また、下らないことを考えたものね」
「妖精達が戯れ合っているのを見て、思い付いたんです。両肩をにぎにぎしたら、今日は帰ろう、だとか、そんなの。でも、私達だと、それはできないじゃないですか」
目の前の冷たい鉄の棒を握った美鈴に、咲夜は、そうね、と答えた。
「だから、私達の秘密の合図は、爪先です」
「……」
「ああもう、そんな怖い顔しないで下さい、咲夜さん。私だって、この門を越えられない身の上、これでも精一杯、足りない頭を捻ったんですから」
「その結果が、爪先?」
「ティップトー・キスっていうと、大人っぽくて、格好良くないですか」
溜息、三つ。
咲夜は、美鈴の笑顔が嫌いだ。
自分よりも聡明で、自分よりも世界を知っていて、自分よりきっと遥かに永い時を生きて、どう足掻いても返しきれない恩も沢山あって。
まだ咲夜の瞼には、自身の前を歩む美鈴の背中を見上げた光景が、こびり着いていて。
なのに、今は嫌な顔一つせずに部下として振る舞って、その上、天真爛漫で無邪気な笑顔を向けてくるのだから、どうしてその眩しさに目を細めずにいられようか。どうして、疎まずにいられようか。
「……あまり、乱用はしないでね。あと門番の職務もきっちり果たすこと」
「はい、咲夜さん」
結局その後、美鈴は正門に近い範囲の洗濯物の取り込みを、それはもう華麗な手捌きでこなしてしまって、咲夜はまた一つ、溜息をついたのだった。
紅魔館の地下にはリネン室がある。
咲夜の能力によって実態以上に内部が拡張されたこの屋敷にあって、その部屋は比較的こじんまりとしていた。
積み上げられたシーツや枕カバーは、どれもぱりっとアイロンがかけられていて、タオルやバスマットはふわふわだった。
また、リネン室は館内に張り巡らされた熱湯の流れるパイプが収束する場所で、肌を刺すように寒い真冬にあっても、ここだけは常に暖かかった。
そして、そのような過ごしやすい場所であっても、詰まるところは倉庫の類であったので、用事が無ければ誰も訪れることはなかったのだ。吸血鬼、魔女、悪魔、妖精、そして人間──雑多な種族がひしめく紅魔館において、リネン室のような空間は貴重だった。
美鈴曰く、独特のむっとする匂いと、決して他人の目の届かない、素敵な秘密の香りが混じり合った部屋──。
「それで、咲夜さんが買ってきた薔薇は、無事に綺麗に咲きましたよ。棘があるので、妖精メイドも悪戯しようとは思わないですしね」
「そう、なら、お嬢様に何本か献上しようかしら。一段と赤色が映えるものを」
その日も、美鈴は咲夜を門の近くまで呼び出して、爪先を合わせた。
そして、美鈴の仕事が終わった後、示し合わせた二人はひっそりとリネン室に足を運び、誰にも邪魔されない二人だけの空間で、他愛無い会話を交わしていた。──咲夜はリネン室以外の時間を止めていたし、美鈴もそれに気付いていたが、彼女たっての希望で、わざわざここに集まっていた。
狭い部屋に人間が二人も集まると、自然と空間は圧迫される。壁や柱に身を預けた美鈴と咲夜の爪先は、触れ合いそうなほどに近かった。
「じゃあ、後で摘んでおきましょうか」
「いえ、いいわ。私が摘んで、薔薇の時間を止めてお嬢様のところへ持って行くわ。萎れた薔薇なんて、お嬢様には似合わないもの」
「それもそうですね……すいません」
「怒っている訳ではないわ。ただ、お嬢様には常に誇り高くあって欲しいだけよ」
館の主レミリアは、ある壮大な計画を企んでいるらしい。
夜の種族である吸血鬼が昼間でも活動できるように、何らかの手段で太陽と地上を遮断すると、レミリアは饒舌に語っていた。門の前で陽の光を浴びるのが嫌いではない美鈴個人としてはあまり気乗りのする話ではなかったが、逆らう道理も無かった。
それは間もなく実行されるでしょうと、咲夜は呟く。
「妖精メイド達は、博麗の巫女が出張ってくるのではないかって、戦々恐々としていますけど」
「あら、美鈴も怯えているの?」
「私だって人の子ですよ。博麗の巫女の名が出てくれば、怖がりもします。スペルカードルールが制定されましたから、死ぬことはないでしょうけど」
「貴方は紅魔館の門番なのよ。しっかり務めを果たしなさい」
少し目尻を吊り上げた咲夜に、美鈴は胸を張って朗らかに答えた。
「お任せ下さい。たとえ相手が博麗の巫女だろうと、太歳星君だろうと、ヴァン・ヘルシングだろうと、精一杯、足掻いてみせます」
「そう、期待しておくわ。私の出番になった時には、侵入者はさぞ弱り切っているのでしょうね」
「はい、トドメは華麗に咲夜さんが、こう、スパッっと」
美鈴の手刀は、自らの喉元に当てられていた。咲夜はくすりと小さな笑いを漏らす。
「ええ、不甲斐ない門番に代わって、私がお嬢様をお守りするわ」
「流石は、紅魔館のハウスキーパーです」
「どうかしら。私が守っているのは、紅魔館という集団ではなく、お嬢様個人のような気がしてならないの」
「じゃあ」
じゃあ、と、美鈴はもう一度繰り返した。
彼女の声音には、少しだけ不安の色が見え隠れしていたが、何に向けられた感情なのかは、咲夜には読めなかった。
「もし、私とお嬢様が死の淵に立っていて、どちらかしか助けられないとしたら、咲夜さんは、どうしますか」
「もちろんお嬢様を助けるわ」
即答だった。一分の迷いすら無かった。
それを聞いた美鈴は、安堵したように頬を緩めた。
「それでこそ、ハウスキーパーの咲夜さんです」
美鈴の爪先が、咲夜のそれに触れ合わされた。
その時の彼女の微笑みは、かつて美鈴が幼き頃の咲夜を褒める際に浮かべていたそれと、全く同じであった。
咲夜は一度、家出をしたことがある。
まだ咲夜が見習いメイドで、美鈴が彼女の上司だった頃のことだ。
仕事に飽きた訳ではない。人間関係が嫌になった訳でもない。まして見た目の幼さは自らと大して変わらない主に愛想を尽かした訳でもない。
ただ、完璧で瀟洒なメイドになるべく教育されていた咲夜は、与えられた目標をいつも卒なくこなしていたので、いつも美鈴に褒められていた。それで、気になったのだ。この人は、もし怒ったらどのような反応を浮かべるのだろうか、と。
採った手段が家出だった。紅魔館を抜け出して、道中の襲い来る魔物を端から返り討ちにして、人里まで辿り着いた。そこでしばらくの時間を過ごし、日が暮れかけた頃、美鈴が一人で迎えに来た。
「楽しかったですか」
「そうですか。良かったですね」
咲夜が憶えているのは、その二言と、それを言う時に美鈴が浮かべたいつもの優しい笑顔だ。その後、二人は夕日を浴びながら、手を繋いで紅魔館に歩いて帰った。
結局、美鈴は怒らなかった。なので、咲夜の計画は失敗した。
なんてことはない、それだけの、可愛らしい昔話だ。
博麗霊夢は、絶望的に強かった。
放出した紅い霧で幻想郷を覆い尽くして日光を遮るという、単純明快な方策で企みを実行しようとしたレミリアは、これを異変と捉えた博麗の巫女と相見えることになった。
彼女が動き出したのは、霧が空を侵食し始めてからかなり経った後だ。その重い腰とは裏腹に、いざ博麗霊夢が大幣を握れば、異変はたちまちに解決された。妖精メイドも、魔女も、そして吸血鬼も巫女には敵わなかった。
同様に、咲夜も三戦を重ねても、足止めすることすらできなかった。レミリアを下した巫女が、戦利品のヴィンテージワインを片手に意気揚々と神社へ帰った後、咲夜は真っ先に敗れた主の元を訪れたが、彼女はむしろ上機嫌そうに軽快に笑っていた。
「噂には聞いていたけど、強いわねえ、博麗の巫女は」
まだ混乱から醒めていない館内も余所に、レミリアは日傘を広げると、行き先も告げずに、そのまま窓から飛び立って行った。
嵐は過ぎても、咲夜の仕事はまだ残っている。博麗霊夢が通った道は、例外無く弾幕によって荒らされていた。窓硝子は割れ、絨毯は捲れ上がり、壁にはいくつもの穴がある。溜息が出そうになったが、堪えた。
レミリアが無事ならば、何の問題も無いのだ。
「でも、流石にこれは骨が折れそうね」
お嬢様の沽券に関わるから、まずは外装の修復から始めようかしら──咲夜が算段を立てていたところで、通路の奥から、焦燥感を滲ませた表情の妖精メイドが飛んできた。博麗霊夢が舞い戻ってきたのかとでも思ったが、どうやら、違うらしい。白衣に身を包んだ妖精メイドは、慌ただしく咲夜に捲し立てる。
「美鈴が──?」
「ああ、お疲れ様です、咲夜さん」
「お疲れ様ですって、貴方……」
紅魔館には、リネン室より小さな医務室がある。
そこを利用する者は滅多にいない。魔女や悪魔や妖精にとっては怪我や病気はほとんど縁の無いことだし、吸血鬼に至っては疫病の具現ですらある。
だから、咲夜がその部屋に立ち入ったのは、レミリアに仕えてから、初めてのことであった。
小さな窓が設けられた部屋の奥で、美鈴はベッドに横たわっていた。下半身には白いシーツが掛けられていた。
「ごめんなさい、巫女を、足止めできませんでした。お嬢様と咲夜さんの方は、大丈夫でしたか」
「え、ええ……大事無いわ」
「そうですか、それは良かったです」
少し髪の毛や服装は乱れているが、いつもと変わらない柔らかな笑顔を浮かべる美鈴に、目立った外傷は見受けられなかった。だが咲夜は、臨時で看護を任せられている妖精メイドから、全てを聞いていた。険しい表情のまま医務室を突き進み、美鈴を覆っていたシーツを思い切り剥いだ。
「──っ」
片足が、無かった。
脛の半分から先が、忽然と消えていて、申し訳程度に巻かれた包帯が、赤く染まっていた。
「申し訳ありません。お嬢様でしたら、こんなの、立ちどころに治ってしまうのでしょうけど、私は不出来な人外風情ですので。今日一日は、歩けそうにありません」
「美鈴、これ」
「巫女との弾幕戦の時に、しくじってしまいまして。小さな掠り傷程度でしたら、私も何とかできるのですけど、ここまでになると」
咲夜は、今の自分がどんな顔をしているのかわからなかった。
きっと、笑えてはいないだろう。でも泣いてもいないだろう。喜怒哀楽が綯交ぜになった、胸の中で激しく渦巻く感情だ。シーツが破けそうなほどに拳を強く握り締める。頭の奥が火照ってきて、冷静な思考が塗り潰されていく。
「大丈夫です、こんなの、すぐに治りますよ。ね、咲夜さん、だから、安心してください」
美鈴の笑みに、咲夜は何かを言おうとして、結局その唇から出たのは言葉にならない呻き声だけだった。
どうして、貴方は、片足を丸々吹き飛ばされても、そんなに平然としていられるのだ。
いや、そうなのだ、美鈴は人間ではないのだ。彼女にしてみたら、こんなのは指を少し切ったのとさして変わらないのだ。だから平然としているのが妥当なのだ。
なら、どうして、私はこんなに狼狽しているのだ。
「ああ……」
駄目だった。
咲夜はシーツを握ったまま、身を翻すようにその場を跡にした。
時間も止めずに、走って、走って、走って、躓いて、転けて、また走った。
すれ違う妖精メイド達の驚愕を隠せない顔も、咲夜の視界には入らなかった。
そうして、疲れ切るまで館内を駆け抜けた後、気付くと咲夜は正面玄関から外に出て、正門を臨む場所に立っていた。
荒い息を吐きながら、少し霞んだ咲夜の視界の中には、荒れた植え込みの枝屑や煉瓦の破片が散らばっていて、ああ、ここで美鈴は戦ったのだろうかと、益体もない思考が浮かんでは沈んでいく。
「……あれって……」
見覚えのある物が、転がっていた。
美鈴の、靴だ。
咲夜は、恐る恐る近付いて、硝子細工を扱うかのごとく、慎重にシーツで包んで持ち上げた。
きっと、これは、美鈴が自ら脱いだ訳ではないのだろう──足ごと切り落とされて、魔力の供給源を失った肉片が霧散した結果、靴だけが残ったのだ。
生々しい血痕が、飾り付けられた歪な造花のように、靴を彩っていた。
しばらく眺めて、咲夜は、そっと靴の爪先に舌を伸ばした。
土と、鉄と、塩の味がした。
石畳を踏み締める音は、やけに大きく響いた。
咲夜は、博麗神社の鳥居の真下で、穿つような視線を社殿に向けていた。
「あの吸血鬼なら、もう帰ったわよ」
賽銭箱の向こう側で、博麗霊夢は気怠そうに階段に腰掛けていた。傍らには紅魔館のワインが未開封のまま置かれていた。手に持った大幣で空を指し、望まれぬ来客を追い返そうとする。
「そう」
「そうって、あいつを連れ戻しに来たんじゃないの、貴方……えっと、咲夜、だったけ。メイドでしょ、あいつの」
「そうね」
「無様に負けた主人に愛想を尽かしたのかしら」
「そういう訳ではないわ。これまでも、これからも、私はお嬢様の忠実な犬よ」
不気味に据わった声音に、天性の勘の賜物か、博麗霊夢は素早く身構えた。咲夜はゆっくりと歩み出す。
「そう自己規定してきたのに……どうしてかしらね。私は今、一時的にでも、その首輪を外そうとしている」
「独り立ちなら、私を巻き込まないで、勝手にやりさない」
「残念だけれど、そういう訳にはいかないの」
紅美鈴──咲夜が紡いだその名前の言葉は、あまりにも繊細で、やがて解けて宙に消えた。
「紅魔館の門番よ。貴方も、一戦交えたでしょう」
「ああ、あの中国趣味の奴ね」
「足」
「足が、何よ」
不意に咲夜は立ち止まって、剣呑な瞳で解せぬ顔の霊夢を睨む。
「貴方は、美鈴の足を切り落とした」
「……ああ、そんなこともあったわね。でも、貴方とは違ってあいつは妖怪でしょ。足の一本、大した問題ではないでしょうに」
「そうね、その通りだわ。本人も言っていたわ。明日には治っているって」
咲夜の両手が太腿に這わされ、巻かれた重厚なホルスターから、何本ものナイフを抜き放つ。地面に向けられていた切先が、ゆっくりと首をもたげ、博麗霊夢を貫かんと掲げられる。
「──ままならないものね。そんなのも、お嬢様のことも、今の私にとってはどうでもいいのよ。ただただ無性に、博麗霊夢にこのナイフを突き立てたい」
「狂犬ね。飼犬失格だわ。三戦を経ても傷一つ私に付けられなかったのに、今更どうにかなるとでも思っているの」
「どうでもいいわ、そんな分析」
彼女が吐いて捨てたのは、唾と、幾許かの冷めた思考。
今はそんなものは要らない。衝動に身を任せ、胸の奥で渦巻く有象無象の感情を、鋭利なナイフに乗せて、力の許す限り投擲するだけだ。
ここは敵の本拠地。ナイフは手持ちの僅かな数だけ。魔力も先の戦闘ですっかり消耗した。目の前の相手には、既に敗北を喫している。
なんと分の悪い勝負だろうと、時間を止める寸前に、咲夜は自嘲的に口元を吊り上げた。
だが、まあ、いい。やれるだけ、やってみよう。
気が付くと、咲夜は青空を眺めていた。降り注ぐ太陽があまりに心地良くて、吸血鬼の下僕らしさの欠片も無いなと、咲夜は笑おうとしたが、切れた唇の刺激に思わず呻いた。
咲夜は四肢を石畳に投げ出して、仰向けに横たわっていた。
「……ままならないものね」
もう指を動かすのすら億劫だ。魔力は完全に枯渇した。これが魔女なら命に関わっていただろうが、幸いなことに咲夜は人間だ。代わりに、凄まじい倦怠感が身体を縛って、地面に磔にしていた。
四戦を重ねても、一方的に不利になっていったのは咲夜だけで、結局は博麗霊夢に打ち負かされた。怪我を全身に拵えて、それでも生きていられるのは、スペルカードルールのおかげだろう。
「帰らないと……」
ああ、でも、どうしようか。
咲夜はかつて幼き頃の家出を思い出した。あの時は、美鈴が迎えに来てくれたけれど、今は足を失っているのだから、博麗神社まで来られない。
しかし、この状態で紅魔館まで帰るなんて、とてもではないが不可能だ。そもそも歩くことさえできない。
咲夜は考えるのを諦めて、重たい頭を冷たい石畳に預けた。今は、少し休もう。神社の参道で人が倒れているなんて、博麗霊夢も嫌がるだろうが、知ったことではない。動きたくても動けないのだ。仕方ない。体力が回復したら、適当に杖でも見繕って、紅魔館まで這って帰ろう。
だが、ただ一つだけ気掛かりなことがあった。
「美鈴、怒るかな」
きっと怒るだろう。でもそれも一興だ。
爪先と爪先を合わせた後、あのリネン室で叱られよう。その時、美鈴はどんな顔をするだろうか。
考えながら、咲夜は瞼を閉じて、少し眠ることにした。
……頭が謎の傷みを訴えるのはきっと気のせい
こういうの好きです
この後どうなったんだろう?ってわくわくする。
とりあえず甘酸っぱいお話ご馳走さまでした。
しかし、咲夜は一日で治る足が切られて怒るなら、美鈴がやられた時点で怒るのではないかと思いました。
実に良いですねぇ