最初
第一章 夢見る理由を探すなら
一つ前
第十六章 演じる事が偽りだというのなら
最終章 夢が偽りだというのなら
「蓮子!」
メリーが悲痛な叫びを上げて、蓮子の着ていた服へと駆け寄った。蓮子本人は居らず、蓮子の着ていた服だけが地面に広がっている。それに飛びついたメリーは泣きながら服を掻き集め抱き締めた。服を強く抱き締め、何度も何度も蓮子の名を呼ぶ。そうしていれば服の中から蓮子が現れるとでもいう様に、時折抱き締める力を緩めて服の中を窺いながら何度も何度も蓮子に呼び掛ける。だがそんな事をしても蓮子は現れず、岡崎の指示を受けたちゆりが記者達から隠す様に泣き続けるメリーを裏手へと連れ出した。
事態の把握出来ていないちゆりが何と声を掛けて良いかも分からず、蓮子の服に顔を埋めているメリーを前に立ち尽くしていると、岡崎がやって来た。
「教授」
ちゆりが安堵して岡崎を見、息を飲む。岡崎は酷く厳しい顔をしていた。
「教授、これは?」
「君の見立てでは?」
「蓮子ちゃんは願望によって生まれていて、それが、多分、自分が願望の産物である事に気が付いて消失したのではないかと」
「では、誰が蓮子君を産んだ?」
「それは」
ちゆりの目が泣いているメリーに向く。一人しか思いつかない。蓮子に固執し、蓮子を求め、蓮子を必要としているのは。
「その通り、まず間違いなくメリー君だ。そうだろう? メリー君? どうして蓮子君を産んだのかな?」
メリーの肩が震える。泣き声が小さくなり、代わりに蓮子の服を抱き締める腕に力がこもった。
「まあ、良い。さて、ちゆり、次に問題だが、どうして蓮子君は消えてしまったと思う?」
「え? だから自分が願望の産物だって気が付いたから」
「それはきっかけだろうが、原因とは言い難い。何故なら既に、蓮子君は自分が願いによって生まれたと気が付いてしまったからだ」
「どういう事だぜ?」
「このケースにおいて原因は解決出来るものを探るべきだ。蓮子君という存在は、願いによって生まれたと気が付いている、と設定されてしまった。もしもそれを原因と定め、解決するのであれば、気付いたという事実を忘れさせ、永遠に隠し通さなければならない。それは大変困難だと思うがね」
岡崎がメリーを見る。メリーは泣くのを止めて顔を上げていた。岡崎と目を合わすと、怯えた色を見せる。
「どうだい? 再び蓮子君を生み出し、記憶を消し、偽りながら接し続ける気が、君にあるのかい?」
メリーは一瞬睨む様に目を細めたが、睨み返されて、すぐにまた服の中に顔を埋めて泣き出した。
岡崎は肩を竦めると、ちゆりへ顔を戻した。
「こういう訳だ。蓮子君が気が付いている事は変わらない。それは解決しようが無い。だとすれば、もっと別の原因考えなくちゃいけない」
岡崎の言葉に、ちゆりが考え込む。
もっと別の原因。
蓮子はどうして消えたのか。それを単純に考える。
それはこの世に居たくなくなったから。自殺と一緒だ。なら人はどうして自殺する? 深い絶望を知って? 生きる事に苦しみを覚えて? 目の前に死よりも恐ろしい事があると分かって? 生きている事が面倒になって? 衝動的な自己否定? 精神に異常をきたし?
どれもこれも結び付けようとすれば、蓮子に結び付けられる。でも今挙げた事が原因だからといって、それを取り除くのは。
ちゆりが悩んでいると、近くから騒がしい声が聞こえ始めた。顔を上げると、スタッフと押し合いになっている記者達が見えた。皆が好奇心に溢れた表情を満面に輝かせている。不味いと思ってメリーを見ると、騒ぐ声を聞いて顔を上げていた。そうして記者達と顔を合わせてしまう。
ちゆりが嫌な予感を覚えて記者達を見ると、その顔が喜びに満ちていた。
そして記者の一人が言った。
素晴らしい、と。
四次元ポジトロン爆弾を解除出来る存在を生み出して、月を救ってみせた。最新の理論を咄嗟に応用してみせ、実際に誰もが絶望する困難な状況を打破してみせた。あなたこそが英雄だ、と。
それを聞いたメリーの顔が瞬く間に色褪せていった。もはや表情筋から完全に力が抜け失せて、涙だけが零れ落ちる。
それに気が付いていないのか、あるいは気が付いていながら尚もなのか、記者達がしきりにメリーの行為を賞賛しながら、矢継ぎ早に質問を飛ばしてくる。
ちゆりはその無神経な記者達に怒りを覚えたが、どうにもならない事は分かっているので何も言わずに、メリーを抱え上げて、その場を離れた。記者達はスタッフに阻まれてちゆり達を追う事が出来無い。
メリーを抱えて歩きながら、岡崎に問いかけた。
「どうすれば良いんすかね?」
岡崎は息を吐く。
「その子次第だよ」
ちゆりの腕の中に収まったメリーを見るが、何も答えてくれなかった。
有名になり過ぎたメリーをそのまま家に帰す訳にもいかず、ちゆり達は自分達の研究室に匿う事にした。それも見つかるのは時間の問題だが、見つかったとしても守る事が出来るだろう。
ちゆりは何だか疲れを覚えて椅子に深く腰掛け、大きく溜息を吐いた。隣の部屋とを繋ぐ扉は開いていて、覗き込めば泣き疲れたメリーが眠っている。扉を開けておかないと、メリーが消えてしまいそうで不安だった。泣き腫らしたメリーの様子は、今にも大気の中に溶けてしまいそうな程儚くて。
頭を働かせる為に、砂糖を多めに入れたコーヒーを飲みつつ、向かいに座る岡崎を見る。岡崎は目を閉じて、何か考え事をしている様だった。邪魔しては悪いと思いつつも質問が口から零れ出る。
「実際、どうすりゃ良いんですかね、私達」
「出来る事をするしか無いだろう」
岡崎が簡潔に答えた。
「出来る事? とは?」
「どうにかして蓮子君を取り戻し、二人を一緒にさせないと」
「助けるんですか?」
驚いた所為で声が跳ねる。さっきはその子次第等と、突き放す様な言い方をしていたのに。
「当たり前だ。蓮子君が居なくなったんだ。メリー君の能力は暴走する。間違い無く」
「そりゃ、そうですよね」
思わず隣の部屋を覗き見る。メリーが蓮子の服を抱き締めながら眠っている。
「そう。いつ消えてもおかしくない。いや、意識を取り戻せば、きっと消える」
「そんな」
「一応発信機はつけておいた。消えても追い掛けられるとは思うが、出来れば起きる前に解決しておきたいな」
「蓮子ちゃんが消えた原因を考えなくちゃいけない訳か」
難儀しそうだぜ、とちゆりが呟くと、岡崎がそれを静かに否定した。
「違うぞ」
「え?」
「多分だが、ちゆりの考えは違う」
コーヒーを飲もうとしていた手が止まる。
「でもさっき、教授は同じ事を」
「原因とはどんなものを想像している? もしや蓮子君が何を思って消えてしまったのか考えているんじゃないだろうね?」
「間違っています?」
「当たり前だ。蓮子君の思いと消える事には何の因果関係も無い。というよりそんな風に消えられる自由があると知っていれば蓮子君は消えなかっただろう。蓮子君はメリー君の願望が産んだ存在なんだから、主体はあくまでメリー君だ。メリー君が、蓮子君が消えると考えたから、消えたんだ」
「言われてみると、確かにそうだぜ。でもそこまで分かっているなら、何でさっき」
「そんな事を言ったってメリー君を傷付けるだけさ」
ちゆりははっとして隣の部屋を覗き込んだ。今の会話だって聞かれていたら不味い。幸いにもメリーは目を閉じていた。安堵して、再び岡崎を見ると、岡崎もまたメリーの部屋を覗きこむ様な姿勢をしていた。それが再びちゆりと向き合う。
「何にせよ、蓮子君の意思は関係無い。問題なのは、メリー君の意識であって、私達はそれが安定し、彼女の目が暴走しない様に対処しなくちゃいけない」
岡崎の言う事も分かるが、ちゆりには納得がいかなかった。あまりにも蓮子を蔑ろにした言葉だ。岡崎の言葉を言い換えれば、メリーの目さえ落ち着くのであれば蓮子がどうなっても良いというようなものなのだから。
不服な思いを表情に出してしまっていたのか、岡崎が見透かす様に言った。
「それは、我我の領分を超えているよ。私達が依頼されたのはあくまでメリー君の目の暴走を治す事だろう?」
ちゆりがぐっと唇を噛む。
「科学者として領域違いには手を出すなと?」
「人間としてもよ。ちゆり、私達とあの二人は言ってしまえば赤の他人なの。結局二人の問題。しばらく一緒に居たから勘違いしているのかもしれないけれど、私達と二人との繋がりは、メリーさんの病気を治したいという依頼だけよ。少なくとも、二人の思いを無視して、蓮子さんを蘇らせるのは間違っていると思うけれど」
「でも、メリーちゃんは苦しそうだし、蓮子ちゃんだって生きていたい筈だ」
「そう考えるのは結構。そしてそれをどうにかしたいと思うのも結構。でもそれはあくまであなたの勝手な想像。二人の思いを無視する事には変わりないわ。私、自分の行為に責任を背負う事にしているから、挽回の手が見えない様な事は出来るだけしたくないの」
「じゃあ、私達はどうする事も出来ないんですか?」
「最初の質問に戻ったわね。言った通りよ。自分が出来る事をするしかない」
「出来る事って。無理矢理な方法が取れないんじゃ、メリーちゃんを励ます位しか」
「それで良いじゃない」
「は?」
「さっきも言った通り、これはメリーさんの気の持ちよう。なら、メリーさんを励ましてあげるのも十分効果があると思うわ」
「そっか。じゃあ」
希望を抱いてちゆりが笑顔を浮かべた瞬間、岡崎が苛立ちの混じった表情になる。
「出来るものならね」
「え?」
「私の場合、絶望のどん底に居る時は他人の言葉なんか届かなかったし、邪魔にしか思わなかったわ」
「でも」
「それにもっと大きな問題もある」
「それは?」
「疲れたから少し休むわ」
岡崎がもう話す事等無いとばかりに目を閉じてしまったので、気まずくなったちゆりは何となくニュースをつけ、コーヒーを飲みながら黙り込んだ。ニュースでは月を救った英雄であり、願望から人もどきを作った偉人でもあるメリーをしきりに褒め称えていた。
扉の閉まる音がした。
ちゆりが身を起こすと、真っ暗な中にメリーが立っていた。
「あ、メリーちゃん。起きたのか」
「ちょっと外に行っていました」
「え? 駄目だぜ。メリーちゃんは今有名人なんだから」
「でもじっとして居られなかったんです」
メリーの声は暗く陰っている。
「何処に行っていたんだぜ?」
ちゆりは部屋の明かりを点けて、眠気覚ましのコーヒーを入れはじめた。
ふとメリーが起きたにも関わらず、まだ目が暴走していない事に気が付いた。メリーが眠りから覚めたら消えてしまうという岡崎の予想は幸いにも外れた様だ。
「蓮子の家だとか、蓮子と行く場所だとか、蓮子をずっと探していました」
町中を歩き回っていたという事だろうか。だとすれば相当な時間が経っている筈だ。
ちゆりが慌てて時計を見ると、最後に意識のあった時から半日以上経ってた。驚いて外を見ると、真っ暗闇が広がっていた。
「ヒロシゲにもトリフネにも行ったのに蓮子は何処にも居なくて」
まるで感情が抜け落ちた様な真っ暗な声。
明らかに異常をきたしたメリーの声。
ちゆりがメリーの顔を恐る恐る盗み見ると、その顔には笑みが浮かんでいた。
「蓮子!」
まさか。
驚いて辺りを見渡すが、何処にも居ない。メリーは隣の部屋へと行ってしまい、何度か蓮子を呼んだ後に、落胆した様子で戻ってきた。
「ここには私の病気を治す為に来てくれて。必死になって私の病気を治そうとしてくれて、嬉しかった。まだあれから一週間も経ってないのに。蓮子、何で」
メリーの声に感情が戻って、湿っぽい声音になった。
また泣きそうだとちゆりは思ったが、予想に反してメリーは泣かず、いつの間にか手に持っていたヘッドマウントディスプレイを掲げて言った。
「これ、借ります」
ちゆりがそれに答える前に、メリーはディスプレイを被り、椅子に座って意識を飛ばした。
慌ててちゆりがメリーの行き先を調べると、初日にメリーと蓮子が文乃に襲われた場所だった。
「くそ。何なんだよ」
もしかしたら蓮子との思い出を辿っているのかもしれない。何か蓮子を取り戻す為の算段でもついたのか。とりあえず手伝った方が良いだろうと、ちゆりは急いでディスプレイを身につけ、メリーの後に続いた。
一瞬の眩暈と耳鳴りの後に、森にぽっかりと空いた草原に辿り着いた。傍らにはメリーが立って呆然としている。
「メリーちゃん?」
「屋敷が、無いです」
「そりゃあ、月の人達が持っていっちゃったからね」
「そうですか」
メリーはしばらく草原を歩き回ったが、何の収穫も無いと分かると姿を消した。慌ててちゆりも研究室へ戻る。
ディスプレイを外すとちゆりが椅子から立ち上がって窓から外を眺めていた。
「大丈夫かい?」
声を掛けても反応が無い。
「教授は何処に行ったんだよ、こんな時に」
思わず愚痴を漏らすと、メリーが窓の外を眺めたまま言った。
「何処かに用事があるそうで、出掛けましたよ」
「本当に? 教授は何か言ってた?」
「成したい事を為せと」
「訳が分からない」
「私は自分のしたい事をします。私は蓮子みたいに頭が良くないから、とにかく蓮子の居そうな場所を探します」
少しでも可能性のある場所を虱潰しに探して行く訳か。
やりたい事は分かったが、それで蓮子を見つけられそうかというと、可能性はかなり小さく見える。何とあれ、蓮子はこの世界から消えてしまったのだから。
だからと言って、他に何か方法がある訳でも無い。それに目的を持って行動しているからこそメリーは正気を保っている様に見える。もしも無理矢理止めたら、壊れてしまうかもしれない。
「分かったぜ。私も手伝うよ」
「これは私と蓮子の問題ですから」
「でも、見つかる可能性が増える事はあれ、減る事は無いだろう?」
「そうですね」
肯定してもらえたので、ちゆりが笑う。
「じゃあ、一緒に」
「でも次に行くところは、ちゆりさん、一緒に行けないと思います」
メリーは無表情のまま静かに言って、姿を消した。ちゆりが辺りを見回し、隣の部屋も覗いたが姿は見えない。境界の向こう側に行ったのかと、背筋が冷たくなった。今の不安定な精神状態のメリーを考えると、いつ能力が暴走してもおかしくない。もしかしたらもう戻ってこないかもしれない。
ちゆりは頭を掻いて、岡崎の言葉を思い出す。机の上を見ると、メリーが何処に居るのかを示す受信機が光を放っていた。覗きこむと、メリーの居場所が映る。
「日本? でも結界の裏だな」
何処に行ったとしても迷う暇は無い。ちゆりはディスプレイを装着して、メリーの発信機を頼りに再び飛んだ。
飛んだ先は何処かの神社の境内だった。
今日本に存在する神社は全て文化財として丁重に保存されている筈だが、ちゆりの前に立つ神社は手入れこそされているものの、本格的な保存がされているとは言い難い。
不思議な思いでいると、神社の裏手から声が聞こえてきた。行ってみると、メリーが幾人かと向き合って居た。メリーと向き合う人人は五十年前に流行った様な奇妙な出で立ちをしている。
「メリーちゃん」
メリーを助けに慌てて駆け寄ると、メリーが虚ろな目で振り返ったので、気圧されて立ち止まった。
「ちゆりさん?」
ちゆりは自分の真っ黒な体を見下ろした後、頷いた。
「そう、私だぜ。メリーちゃん、大丈夫か?」
「ええ」
メリーは再び奇妙な人人達へと向き直った。人人はしばらく真っ黒なちゆりを見て困惑した顔をしていたが、メリーに見つめられている事に気が付いて視線を戻す。
「あ、すまん。何だっけ。博麗霊夢だったか?」
「そうです。何処に居らっしゃいます?」
「あんた、何処の村の人?」
「外です」
「外? ああ、外か。懐かしい響だな。道理で変な格好だ。なら知らんのも無理無い」
その男は納得した様子で何度か頷くと、残念そうに言った。
「先先代は今は山の中だよ。もう随分昔に亡くなった」
メリーから小さな息が漏れ出た。
「つか、あー、本当に懐かしいなぁ。あんた、何、どうして先先代の事を知っているんだ?」
「色色とお世話になって」
「あんたの爺さん婆さん辺りがかい? そうだなぁ、百年位前は外に行けたらしいからなぁ」
「どれ位昔に亡くなったんですか?」
「俺が小さかった頃だからなぁ。三十年位前か?」
他の人人も口口にそれ位だと頷いたが、それではあやふやと思ったのか、一人がちゃんと確認してくると言って、社の中へ走っていった。しばらくして神社の巫女と思しき少女と金色の髪をした巫女と同じ年頃の少女を連れて戻ってきた。巫女はメリーとちゆりを見ても顔色一つ変えずに、無表情で頭を下げた。
「こんにちは。私が今の博麗神社の巫女の博麗神泉と申します。外のお方と聞きました。先先代についてお尋ねに来たそうですが」
「違うよ、神泉。聞きに来たんじゃなくて、会いに来たんだってさ」
「会いに? ですが既に先先代は」
「亡くなった事を知らなかっただってさ」
「そうですか」
神泉は微かに口を引き結ぶとと山を指さした。
「先先代は、三十一年前に他界致しました。九十歳。安らかな末期だったと聞いております。遺骨はしきたり通り山へと撒いた筈ですので墓もありません」
メリーは山を見つめ、呟いた。
「魔理沙さんは?」
「魔理沙?」
神泉がわずかに眉をひそめる。代わりに隣の少女が声を上げた。
「もしかしたら私のご先祖様かも!」
周りの女が手を打った。
「ああ、あの婆さん! 森の傍に住んでた偏屈の妖怪婆! あ、ごめんごめん。そういや、あんたあれの子孫だったね」
途端に皆が納得した様子で頷いた。
「先先代の親友だったんだっけ?」
「確か同じ頃に亡くなったよな? どっちが先だっけ?」
「覚えて無いよ」
「まだ家が残ってたっけ? 誰かが使ってた様な。見に行くかい?」
男に問われて、メリーが首を横に降る。目的はあくまで蓮子、あるいはその手がかりだ。
男に向かって、メリーは最後の、大本命の名を告げた。
「紫さんは? あの方は妖怪だからまだ居らっしゃるのでは?」
すると人人は一斉に顔を見合わせ、目を輝かせてメリーを見た。奇妙な熱気にメリーは身を逸らす。
「あんた、そんな昔の事まで知ってんのか!」
「昔の事?」
「だって、妖怪って言ったら、私達の爺さん婆さんの時代にみんな居なくなったよ」
「ああ、紫って聞いた事あるな。八雲紫だ。ずっと昔に曽婆ちゃんが何か言ってた様な」
神泉が考え込む様に顎に指を沿わせた。
「スキマ妖怪。確かそんな名前の妖怪が居た様な」
「もう随分と昔だろ? そういや、妖怪って何で居なくなったんだ?」
「月に行ったとか」
「何で?」
ちゆりは会話についていけないものの、メリーの会いたかった人物が既に居なくなっているのだろう事は分かった。メリーがあからさまに失望の色を見せている。
肩を落としたメリーは小さく頭を下げた。
「残念ですけど、私の会いたかった方方はもう居らっしゃらない様ですね。失礼致します」
神泉も静かに頭を下げる。
「はい。もうしばらくすれば、外との交流も増えましょう。また何かあれば」
「交流が増える?」
「結界の力は日に日に弱まっています。私の力も。今しばらくすれば、結界は消え、私達は外の世界に晒される事になりましょう。その時はよろしくお願い致します」
「そうなんですか」
「またな!」と金色髪の少女が大きく手を振る。
メリーは興味が無い素振りで軽く頷くと姿を消した。
どよめく人人を尻目に、ちゆりもまた同期を解く。
研究室に戻ってきたちゆりはディスプレイを外してメリーを探したが何処にも居なかった。不思議に思って受信機を見ると、全く別の場所にいる。アメリカのケネディ宇宙センターだ。
ちゆりは急いでディスプレイを装着し、今度はケネディ宇宙センターへ飛んだ。
同期すると、そこはロケットの管制室で、今は数人の技術者達が機器の入れ替えを行っていた。メリーはそれをじっと眺めていた。
「メリーちゃん、何してるんだぜ?」
「え? いえ、広い敷地の中からどうやって蓮子を探そうかなって」
「ああ、なら大丈夫だぜ」
ちゆりは事務棟に電話を掛けて、敷地内に居る蓮子を探してもらえる様に頼んだ。電話の向こうの受付は大変嬉しそうな声で応じてくれた。当然だろう。今話題の、願望から生まれた人もどきを一目見られるかもしれないんだから。
世界中の誰に蓮子の事を話しても、皆同じ様に好奇心を輝かせた応対をしてくるだろう。嫌な世の中だとちゆりは溜息を吐く。自分の事では無いけれど、何だか蓮子になった様な心地で息が詰まる思いだった。
「蓮子は宇宙に行きたいって言ってたんです」
「え?」
「ケネディ宇宙センターを見てみたいって言ってたんです」
「だからここに来ているかもって?」
「はい」
それは無いだろう。のこのこやって来たら多分入る前に捕まる筈だ。貴重なサンプルなのだから。
多分、何処に行っても蓮子は好奇の目で見られる。人として扱ってもらえず、水槽越しに珍しい生き物を見る様に。嫌だと言っても聞き入れられる事は無い。例えば日本の法律であれば、蓮子を傷付けても器物損壊罪でしかない。所有者はメリーになるだろう。
ようやく教授の言っていたもっと大きな問題というのが理解出来た。
ちゆりがそれをメリーに伝えようか迷っていると、メリーが先にそれを口にした。
「多分もう蓮子が居られる場所はこの地球には無いんですね」
ちゆりは正直に頷く。
「そうだろうね」
「私はどうすれば良いんでしょう」
「メリーちゃんはどうしたいんだぜ?」
メリーは答えない。
蓮子を探してくれていた事務からの連絡があった。何処にも居ないとの事だった。メリーにそれを伝えたが、特段落ち込んだ様子は無く、そうですかとだけ言ってまた黙った。
そういえば蓮子は今誰もが知る有名人だ。誰かが蓮子を見れば、必ずそれは情報となって世界に散らばる。急いで世界中から情報を集めてみたが、幾ら調べても蓮子を見たという情報は無かった。
「メリーちゃん、やはり蓮子ちゃんは何処にも居ないのかもしれない」
ちゆりがメリーに目をやると、メリーの姿が消えていた。
仕方なく、ちゆりは同期を解いた。
続いてやって来たのは、月だった。場所は依姫の屋敷、ちゆりも一度だけ来た事がある。
こたつに入った豊姫と依姫がメリーを見て丸くしていた目をちゆりに向けて更に目を見開いた。
「どうしたんだ? 来るって言ってくれればもっと色色用意を」
綿月姉妹が慌てた様子で座卓の上を片付けだした。
「蓮子、来てません?」
「いや、来てないよ。月自体に来てない」
「確かですか?」
「そりゃあ、英雄だからね。来ていたとしたら、みんながほっておかないし、私達のところにも絶対に連絡が来るよ」
メリーが落胆した様子で肩を落とした。
地球に居ないと確信したメリーにとって月こそが希望だったのだ。「喧嘩でもしたのかい」と軽く聞いてきた依姫に、メリーは弱弱しく首を横に振り、そこではっとして顔を上げた。
「紫さん、居ませんか?」
「何か用?」
突然座卓の上に隙間が開き、紫がぬっと上半身を突き出した。片付けをしていた綿月姉妹が驚いて体を仰け反らせる。
「紫さん! 人の思いだとか願いで、人間を作りましたよね?」
「妖怪の発生原理みたいね。妖怪じゃなくて人間を作ったって?」
「人間をです」
「聞いた事無いわ。勿論私も作った事は無い。でも理論上は不可能じゃないんじゃない? どうして?」
メリーが泣きそうな顔で口を引き結んだ。きっとメリーにとって紫が本当に最期の希望だったのだろう。それが消えた今、メリーの表情が絶望で淀んでしまった。メリーは泣き出しそうな顔のまま、自分の手を握り締めると、震える声で紫に尋ねる。
「もしもそうやって産まれた人間が居たとしたら、その人は産まれた事をどう思うと思いますか?」
「どうって」
紫が困惑した顔になる。
「私達がそうだけど、別に何とも。だって妖怪ってそういうものだし。人間は、どうなのかしら。別に悩む必要は無さそうだけど」
「そう、ですか?」
「だって、どうして悩むの?」
「例えば、産んだ人の考える通りの存在になっちゃうじゃないですか。考える事だとか、行動だとか。まるで自分が人形みたいに思えるとか。それに普通に産まれるのとはやっぱり違うし」
紫の表情が益益訝しむ様に変わる。
「良く分からないわ。だって地球も月も、機械が選んだ通りの遺伝子を掛けあわせて人が産まれてくるんでしょう? 何が違うの? 機械が選ぶか、人が選ぶかの違いじゃない」
メリーが言い返せずに黙ると、紫は重ねて言った。
「それに最初の時点でどういう目的で生み出されようと、そこから先は環境の比重が高まっていくんだから良いじゃない。クローンを作ったって同じ育ち方はしないんだし。何が問題なの?」
メリーは黙って俯いている。
ちゆりには何となくその心の内が分かった。紫の言葉は理屈として理解は出来る。けれど納得が出来無い。何故なら人にとって、他人に自分という存在を決めつけられる事は何よりの屈辱だから。そして他人と違うというのはそれだけで害悪だから。周りと同じであれば誰かに存在を決めつけられても多少は許せるが、自分だけが全く別の方法で決めつけられるのは我慢が出来無い。そういうものだから。そこに合理的な解釈は存在しない。本能に刻まれた感情的な嫌悪がそこにある。
不味い兆候だと、ちゆりは傍から見てて思う。何処を探しても蓮子が見つからず、希望も奪われ、今また精神が責め苛まれている。間違い無く、メリーの心はどんどん不安定になっている。決壊すれば、また能力が暴走する。
どうにかしてメリーに希望を持たせないと。
ちゆりはあれこれと掛ける言葉を考えたが、結局何も思いつかなかった。
ちゆり自身が蓮子と長く居ただけあって感情移入してしまっていて、もしもちゆりが蓮子と同じ状況であればやはり生きる事に絶望してしまうと思ったから。静寂がやって来て、部屋の中がどんよりと曇っていく。
それを払拭する様に、依姫が殊更明る気な声を出した。
「そうだ。渡そうと思っていた物があったんだ」
依姫は一度部屋から出て、すぐに一冊の本を持って戻ってきた。一体何だろうと、ちゆりは興味を持って表紙を覗くとただの子供向けの絵本だった。メリーの心を励ますきっかけになるかもしれないと期待していたちゆりはがっかりとする。
蓮子と一緒に目通りした時も、同じ絵本を見た事を思いだした。あの時の絵本も同じ竹林を背景に、かぐやひめと文字が入っていた。ただ前に見た時は、奇妙な事にかぐや姫が描かれていなかったが、今ある絵本はかぐや姫が描かれていた。
「ほら、これ、出て行った家にこれだけ残されていたんだ。今更かもしれないけど、お返しするよ」
メリーはそれを依姫から受け取り、じっと表紙を見つめると、突然恐ろしい程の奇声を発して畳の上に崩れ落ちた。
「誰かの墓参りかい?」
岡崎が背後に立つと、老婦人は振り返って笑顔を見せた。
「いいえ。私のお墓、どんなのにしようかと思って」
「そういうのは死ぬ前に考えておくものだと思うけどね」
老婦人が歩き出したので、岡崎はその後をついていく。
「どうして私がここに居るって分かったの?」
「別に。不自然な動きをしている町中のカメラを追って来た」
「ダミーも混ぜておいたのに」
「虱潰しに回ったんだ」
老婦人がくすくすと笑う。
「要件は?」
「メリー君と蓮子君の報道を止めさせてくれ。あれでは生活が出来無くなる」
「そういうのは引退した私じゃなくて、新理事長に言って欲しいわ」
「言ったよ。でもあれはまだ駄目だ。あんたの意向に沿おう沿おうと動いているから、話してても埒が明かない」
「そう。不器用な子ね。ちゃんと自立してくれないと、面白く無いわ」
「自分の意に沿わない動きをしたら潰すつもりだろう?」
「当たり前じゃない。そうやって楽しむ為に退いたんだから」
「あんたの思惑はどうでも良い。とにかくあの二人に関する報道を止めてくれ。あの二人がこの世界で生きていける様に」
「無理よ」
「出来るだろう。しらばくれるな。過熱する報道を止めて、願望から生まれた人間にも人権を与えれば済む話だ」
「分かっているでしょう? 無理よ。私が持っているのは情報だけ、それで操れるのは情報と人の感情だけ。社会制度はとても強固で、簡単にはひっくり返せない。ええ、確かに百年後に人権を与える事は出来るでしょうね。でも今すぐに変化させる事は出来無い。だって人の願いはいつだって現状を維持する事ですもの。その莫大な方向性のエネルギーを転換させるには時間が掛かる」
「やってみなければ分からない。あんたの魂胆は分かっているよ。今後願望で人格を持った存在を生み出す様になれば、蓮子君とメリー君が直面している問題は必ずついて回る。それをどう解決するかのモデルケースにしたいんだろう?」
「否定はしないわ。けど人権を与える事が出来ないのは分かりきった事でしょう? らしくないわね、夢美。冷静な判断を失っているわ。あの子達に情でも湧いたの?」
「違うさ。このままじゃ、当初の目的が果たせない。それが嫌なだけだ」
「そう。でも無理よ。あの願望はもうこの世界では生きられない」
メリーが目を開けると、岡崎の研究室で椅子に座っていた
自分がさっきまで月に居た事を考えると明らかにおかしい。
疑問ばかりを頭に浮かべながら目の前を見ると、椅子に座った岡崎が笑った。
「おはよう、メリー君」
「ここは……何処ですか?」
ふと窓の外を見ると、ぼやけていて見通せない。夜か昼かも分からない。ただ何となく、その向こうには恐ろしいものが広がっている気がして、あまり長い間見ていられなかった。視線を下ろすと、かぐや姫の絵本を持っていた。かぐや姫が竹林を背景に笑っている。笑い声が聞こえてくる。かぐや姫の絵が動き出す。お爺さんやお婆さんと暮らしている。
メリーはようやくここが現実でない事に気が付いた。
「境界の向こう側ですか?」
「いや、違うよ。ここは夢さ」
「夢?」
夢にしてはやけにはっきりとしている。
「夢の働きの一つに、自分自身の頭の中を上手く整理するってうのがある。今回はそれだね。相対性精神学を専攻している君には釈迦に説法かな?」
「記憶を再構築しているって事ですか?」
「違う違う。君が今直面している問題を整理して、向き合おうとしているのさ。その案内人が私。多分君の中でこの人なら答えを出してくれるっていう人物なんだろうね。光栄に思うよ」
「何だか変な感じです。夢なのにこんなにはっきりしてて。それに夢の中の人物がそんな事を言うなんて」
「そう思っているなら、蓮子君を取り戻すのは難しそうだね」
蓮子を取り戻せない?
瞬間的に怒りが湧いた。立ち上がって言い返そうとしたが、体が動かない。岡崎はメリーの様子を見てくつくつと笑った。その笑いを聞いた途端、メリーの中の怒りが霧散する。
「まあ、そう怒らないでくれ給え。良いかい。夢っていうのは、自分自身の為にある。脳を保守したり、精神を守ったり、覚えておきたい記憶を残したりね。その過程が夢だ。つまり脳が自分自身を思っている証左さ。平たく言えば、その人間が欲している事の表れなんだね。君の欲する事、つまり君の願望というのが夢なんだ」
メリーは拍子抜けして疑わしげに岡崎を見た。
「流石にその繋げ方はどうかと思いますけど」
岡崎は悪びれた風も無く笑う。
「まあまあ、ちょっとした言葉遊びだよ。最後まで付き合ってくれ給え。さて願望が夢だとすると、夢の中の人物に心当たりは無いかい?」
「蓮子ですか?」
「君にとってはそうだ。そして夢の中の人物が夢だと分かって行動する事がおかしいと思うのなら、君は一生蓮子君を取り戻す事は出来ないよ」
メリーは俯いて唇を噛む。
「どうすれば良いんですか?」
「まずはっきりさせないといけない事がある」
「何ですか?」
「ハッピーエンドは訪れないという事だ」
メリーは固まって何も言えなくなった。
「君が寝た振りをして盗み聞いて居た通り、蓮子君が消えたのは君の意志だ。蓮子君は自分が願望の産物であると分かったら精神を苛まれ消えてしまうと、君が設定してしまっているんだね。そして既に事象として現れてしまった以上それはもう覆せない。よしんばそれが変更出来たとしても、君はそれを蓮子君だと思えなくなる。自分が夢である事に悩まなくなったらそれはもはや君にとって蓮子君ではないんだね。つまり君が蓮子君を蘇らせたとしても、蓮子君は事ある毎に自分が夢の登場人物である事を苦しみ続ける。そしてそれは君にとっても嫌だろう? 聞くまでも無く嫌だね。私という存在は君の頭と同義なんだから。考えない様にしているだけで、私の言葉は全て君自身分かっている事なんだから」
顔を青ざめさせているメリーに、岡崎は「何か質問があるかい?」と尋ねた。しばらく待ったがメリーが何も言わないので、岡崎は講義を再開する。
「さてハッピーエンド等存在しないと分かったところで、ようやっと本題に進めるね。もはや全てが上手く行くという選択肢は無い。となると問題は何を犠牲にすれば、蓮子君を無事に取り戻せるのかになる。これもさっさと説明してしまいたいところだけど、流石に私の口から言う訳にはいかないね。他人の意見じゃ辛い現実には立ち向かえない。君自身が気が付かなきゃ」
メリーは唇を震わせながら、掠れる声を出した。
「どうすれば良いんですか?」
「だから君が気が付かなきゃ駄目だよ」
「でも、分からないんです! どうすれば良いんですか? 蓮子が戻ってきてくれるなら、私は何でもします! 例えこの命を懸けたって良い! でも何をしても蓮子は喜んでくれなさそうで、どうすれば良いのか分からないんです!」
岡崎が微かに頷いた。だが何も言わない。
「そんなに思わせぶりな態度を取っているなら分かっているんでしょう! 教えてください! どうすれば良いんですか! 私が何をすれば蓮子は戻ってきてくれるんですか! 分からないんです!」
岡崎は微かに溜息を吐くと薄っすら笑みを浮かべる。
「君はずっと蓮子君を失いたくないと思っていたね」
「それは……当たり前です」
「君は蓮子君と一緒に居る為に、蓮子君が自分から離れない様に、色色な事をしてきた。二人で秘封倶楽部というサークルを作って、境界の向こうへと飛び込んできた。君の目が大いに役立っていた」
「そうです。蓮子は不思議な事が好きで、結界破りを喜んでくれた。私の目を蓮子が喜んでくれて嬉しくて」
「君は月で友達が居なくていつも寂しい思いをしていたね。だから人付き合いなんてどうすれば良いのか分からなかった。それを救ってくれたのが蓮子君だった」
「そうです。蓮子は私の初めての友達で一番の親友で」
「そういう風に作ったんだ。友達作りが下手な自分が不安な新天地で上手くやっていく為の友達が欲しかった。だからお母さんがいつも褒めてくれた特別な目があれば、それだけで仲良くなれる友達を作った。君にとって自慢出来るものは目しか無かったからね」
メリーが頭を振る。
「違う! 私はそんなロボットを作るみたいには」
それを嘲笑う岡崎の言葉。
「無意識だろうと何だろうと作ったのは君さ。自分でも分かっているだろう? 作られた蓮子君が如何に君にとって都合の良い存在だったか」
「私は……」
「残念だったね、それまで友達が居なくて人付き合いを育めなくて。もしも君が、人と人との関係は特別な何かで形作るものじゃなくて、日日の積み重ねで出来上がっていくものだと分かっていれば、蓮子君の都合の良さも軽減されたのに」
「蓮子……」
「そうすれば君の罪悪感も減って、蓮子君の欲しがるものを与えなくちゃなんていう義務感も減って、君の目の暴走も起こらずに、今回の事件にも巻き込まれず、蓮子君も自分が願望で作られた人もどきだって事に気が付かず、消える事も無かったのに」
「私の所為で」
涙で潤んだ視界を下に向けると、絵本の中のかぐや姫が暗闇な風景を背に、一人で泣いていた。蓮子が泣いていた。
「さあ、そろそろ心の準備は出来たかな? 蓮子君に会いに行こう。一切の希望を捨てるんだ」
「待って下さい! お願いです! 教えて下さい! どうしたら蓮子は戻ってきてくれるんですか! 私に出来る事は何ですか!」
必死で尋ねるメリーに岡崎が優しげな微笑みを浮かべて言った。
「無いよ、そんなもの」
「……え?」
「君は蓮子君の存在を否定した。その罪を贖う方法なんてあると思っているのかい?」
「私は、否定だなんて」
「この期に及んで、自分の責任じゃないと言うか。度し難い愚か者だね、君は」
いつの間にか目の前から岡崎の姿が消えていた。いつの間にか辺りが真っ暗になっていた。岡崎の声だけは聞こえてくる。
「さっき言った通りさ。ハッピーエンドは存在しない。君が罪を償えばそれで蓮子君が救われるなんていう都合の良い道はあり得ない。君の犯した罪の磔刑は蓮子君が受けなければならないんだ」
メリーの涙が頬を伝って絵本へと落ちていく。
気が付くと辺りは研究室ではなかった。まるで星の無い宇宙空間の様にどこまでも真っ暗な世界に居た。そして目の前には蓮子。背を向けてうずくまっている。
「蓮子!」
メリーが駆け寄ろうとすると、蓮子の冷たい声に止められた。
「何しに来たの?」
立ち止まり、逡巡して、メリーは不安げに胸を押さえて、優しく語りかける。
「一緒に帰りましょう、蓮子」
「嫌に決まってるでしょ」
蓮子のにべもない返答は予想していた。
けれど実際に目の前でそう言われると、何と言って良いのか分からない。
「どうすれば良いの? 私、蓮子の為なら何でもするから」
「なら死んで見せてよ」
冷たい答え。
それもまた予想していた事だ。いや、何よりも真っ先に浮かんだ事だ。
ハッピーエンドはあり得ない。
それだけ酷い事をしたのだから。
メリーは刃物を取り出して、切っ先を自分の首に当てた。
「ええ、分かったわ」
蓮子が驚いて振り返り、メリーが刃物を持って首に当てているのを見て勢い良く立ち上がった。
「そう言われる事は覚悟していたの。私、蓮子に酷い事をして。許してもらえるとは思っていない」
蓮子の目が怒りで細められる。その目も予想していた。例え命を捧げたとしても蓮子には許してもらえない。それは分かっているけれど、自分にはこれしか方法が無い。
「メリー、そんな事をしたって私は」
「分かっているわ。でもね、私が死ねば、蓮子は私から解放されるでしょ? もう、私の意思とは関係無い自立した存在になれる。私にはこれしか思いつかない」
「私は何をされたって許さない。あんたの事絶対に!」
「分かっている。許してくれなくたって良い。あなたが確かに存在してくれるなら」
例え死んで一生恨まれたとしても、蓮子が消えたままでいるよりはずっと良い。
メリーは微笑んで、刃物を持つ自分の手に視線を落とした。怖くて震えている。でも仕方が無い。罰なんだから。
息を飲み、刃物を持つ手に力を込める。
これしか方法は無い。
これをしなければ蓮子を助けられない。
これを逃したら、もう二度と蓮子に顔向け出来無い。
だからやるしかない。
死んで、罪を償うんだ。
「蓮子、ごめんなさい。こんな事を言っても怒らせるだけかもしれないけど。それでも、今までごめんなさい」
更に刃物を持つ手に力を込めて、一つ息を吸い、覚悟を決めた。
その瞬間、蓮子に手を掴まれる。途端に力が抜ける。
「蓮子?」
顔を上げると、蓮子が両目から涙を流して怒りに満ちた表情を浮かべていた。
「ずるいんだよ、メリー」
「蓮子?」
「そんなの! そんなの目の前で見せられたら止めない訳にはいかないでしょ!」
蓮子に怒鳴られてメリーは体を震わせる。メリーは何とか蓮子に向かって笑みを浮かべて言った。
「蓮子、でも仕方無いの。私が死ねば」
衝撃が走って、メリーは地面に投げ出される。頬から痛みと熱が襲ってくる。
「ずるいんだよ! これ見よがしに! 止めるしか無いじゃない! そうやってプログラムされているんだから!」
「蓮子、でも」
蓮子が怒りに任せてメリーの腹へ足を振り下ろした。メリーが呻き声を上げる。
「ずるいんだよ! 私の気持ちも、行動も全部あんたが作った癖に! あんたが全部操っている癖に!」
「私は蓮子に自意識があるって」
再び蓮子がメリーの腹へ足を振り下ろした。痛みに悶えるメリーを見下ろしながら、蓮子は涙を流してその背中を蹴りつける。メリーが痛みを堪えながら蓮子に靴に触ると、それを蹴り飛ばす。
「どうして! だったらどうして単純に恨ませてくれないの!」
蓮子が屈みこんでメリーの上にのしかかった。襟首を掴みあげて顔を突き合わせる。涙を溢れさせ歯を食いしばっている蓮子の顔を見て、こんな状況だというのにメリーは可愛いなと思った。そう思った自分を死ぬ程嫌悪しながら、それでも蓮子の事が可愛くて仕方が無かった。
「恨ませてよ! 私にあんたを恨ませてよ!」
蓮子は襟首を掴んでメリーを揺さぶり、やがて腕の力を抜いて、メリーの胸に顔を埋めた。
「ずるいよ。こんな事されたのに、私はどうしてもメリーを嫌いになれない。メリーを悲しませたくない。メリーと一緒に居たい。ずっと仲良くしていたい。そう思ってる。そう思わされてる! ずるいよ、メリー!」
「私は蓮子の事、大好きだよ」
メリーが微笑みながら蓮子の頭を撫でる。蓮子の腕に再び力がこもった。
「そりゃそうだよね。何でも言う事を聞くお人形なんて! そんな都合の良い物があれば私だって気に入るよ。でもそれは人間に対して抱く感情じゃない!」
メリーは首を横に振る。
「違うわ。私は蓮子を人間として好きなの。ずっと一緒に生きていくパートナーとして、辛い事や楽しい事を分かち合って、ずっと隣で生きていて欲しい。一人の人として」
自分はずるい奴だと自分の事ながら分かっている。蓮子を作ったのは確かで、それが自分の都合の良い存在である事も確か。蓮子が作られた存在である事に苦悩して、その苦悶は自分の傍に居ればより一層強くなる事だって分かっている。そして、どれだけ蓮子が苦しんでも一緒に居たいと思ってしまう自分が居る。
「酷すぎるよ。そんな事言われたって、結局どうあったって! 例えどれだけ裏切られたって! こんな。こんなの! 私は……私はメリーの事が好きなんだから」
蓮子に再会出来た以上、多分心の何処かで分かっていた。蓮子がまた戻ってきてくれると。どれだけ酷い事をしてどれだけ恨まれたって、最後には戻ってきてくれるって分かっていた。どんなわがままを言っても、蓮子はいつだって文句を言いつつ最後はついてきてくれたから。分かっていた。蓮子がついてきてくれるって。
夢の中で岡崎を通してはっきりさせた通り、逃げた自分の代わりに蓮子が磔刑を受けてくれると知っていた。
だから。
「ごめんね、蓮子。苦しい事は分かっている。私がどれだけ酷い事を言っているのかも分かっている。でも私は蓮子の事が好きで。わがままだって分かっている。でもずっと一緒に居て欲しい。ずっと一緒に不思議を探し続けて欲しいの!」
残酷な言葉だとメリーは思った。自分が悪魔に思えた。でも例え自分がどう堕ちたって、それでも蓮子と一緒に居たい。
メリーの目から流れる涙が蓮子によって拭われた。でもすぐにまた止めどなく涙が溢れてくる。メリーには自分の涙が一体何なのか分からなかった。泣くべきは蓮子で、自分は泣く資格なんて持っていないのに。それでも涙が次から次へと溢れてくる。
「ごめんなさい」
メリーが蓮子の胸に顔を埋めた。
「ごめんなさい。こんな、酷い事を。ごめんなさい」
それを蓮子に抱き締められる。
「本当に、酷いよ」
「ごめんなさい」
「メリー、これも作られた気持ちなのかもしれないね」
蓮子の胸から心臓の鼓動が聞こえてくる。蓮子の体の温もりに包まれる。
「私はね、今回だけじゃない。昔からあんたのわがままに振り回されて一緒に居る事に辟易する事があった。あんたは綺麗で、人当たりが良くて友達が一杯居て、不思議な目も持っていて、私にないものを沢山持っているから嫉妬して、一緒に居るのを辛く感じる時もあった。でもね、ずっと一緒に暮らしてきた。今回だって、あんたと一緒に居るのが、怖い。あんたの事が憎くて仕方が無い。でもやっぱり離れたくない自分が居る」
蓮子の胸に抱きしめられながら、メリーはその言葉を聞いた。
「前にも言った通り、私はメリーと一緒に居たい。何をされてもずっと」
メリーは救われた気持ちになる。そう思う自分が許せない。でも嬉しかった。
「正直言って、メリーの事は許せない。今でも殺したい位に恨んでいる。でも、それなのに、それ以上にやっぱり一緒に居たくて仕方が無い」
「私は蓮子に何をされたって良い。例え殺されたって良い。ううん、むしろ望むところよ。殺されれば、きっと蓮子の中に私の存在が強く残ってくれるから」
メリーがそう言って蓮子の事を強く抱きしめると、頭に手刀が振り下ろされた。
「そういう気持ちの悪い事を言わない」
「気持ち悪くなんか無いわ。浪漫よ!」
蓮子は溜息を吐いて、それから顔を無理矢理笑みに歪めた。
「そういう訳だからさ、メリーももう良いよ。悩まなくて。お互い辛いし」
「蓮子、じゃあ」
「うん、どうせ私はそういう存在だから。またこうして夢の中で会いましょう。次は笑顔で居られる様にする」
喜んでいたメリーの顔が途端に渋面になる。
「どうしてそうなるの? 一緒に戻りましょう」
「いや、無理でしょ。私はもうまともに生活出来ない。ずっと何処かに閉じ込められて生きていくのだって嫌だし」
「地球はそうかもしれないけど、月はまだ」
「あくまで、まだ、だよ。月にだっていずれ知れ渡る。それとももっと別の天体でも探しに行く?」
「それでも良い。蓮子と一緒に居られるなら。他の天体じゃなくたって、そう、境界の向こう側に行ったって良い。こんな世界要らない。蓮子を紛い物だと思う様な世界に居られない」
「メリー、私達は人間の群れの中でしか生きられない。二人っきりで過ごすなんて、ロマンチックに聞こえるけど、現実問題として無理がある。所詮私はあなたの夢の中でしか生きられない。そしてそんな私だからあなたと一緒に居られるの。多分現実の存在だったら私はあなたと一緒に居られない」
蓮子の諦めのこもった声にメリーは胸がつかれる思いだった。胸を掻き毟りたくなるのを堪えながら蓮子に問いかける。
「蓮子は戻りたくないの?」
「戻りたいけど」
その答えを聞いた瞬間、メリーもまた全てを諦めた。蓮子を慮る事、罪悪感を覚える事、自分を綺麗に見せようとする事、そういう一切の良心を捨てて、人である事を諦めた。
「ならそれで良いじゃない」
メリーは微笑んだ。どうせ堕ちるのなら最後まで堕ちてしまおうと決意して、蓮子の手を強く握りしめる。恨まれ続けたって良い。殺されたって良い。私が苦しんだって良い。それどころか蓮子が苦しんだって良い。何がどうなったって良い。とにかく蓮子と一緒に居られれば、例え世界がどれだけ醜く捻じ曲がろうと構わない。
そんなメリーの悪意に気が付かず、蓮子が溜息を吐く。
「良いじゃないって言われても」
「大丈夫。良い方法はあるから」
「無理だって言っているでしょ! 良いじゃない! 夢の中で会えれば! もうこれ以上、私を苦しめないでよ! 私は」
蓮子の言葉が途中で止まった。辺りはいつの間にか真っ暗闇から光のある世界に変化していた。座卓の上に座っていた。豊姫と依姫と紫とちゆりに囲まれてじっと見つめられている。現実世界に戻ってきてしまった事を知り、蓮子は呆然として、恨むよと声を掠れさせた。
「うん!」
メリーが元気良く頷く。それは蓮子が見た事も無い位に晴れ晴れしい笑顔だった。
教授とちゆりさんが巨大な船を駆けまわり忙しく整備しているのを傍から見つめつつ、私は不安な思いで一杯だった。可能性空間移動船というのがどういう原理で動くのかさっぱり分からない。外観の作りはしっかりしている様に見えるが、自分達の運命を預ける機械がどういう原理で動くか分からないのでは不安な思いが募るばかりだ。
まあ、案の定というか何というか、私は戻ってきたもののこの世界で生きていく事は出来無い。それは少し外を出歩いて数多向けられる物珍しげな視線やニュースを見れば繰り返し流れる私という画期的な新発明の報道から良く分かる。私の戸籍は無くなったそうなので、借りていた家の契約は無効になったし、大学からも除籍された。働く事も出来ない。
メリーが蓮子が働けない分、私が稼ぐからと言ってくれたので、頭に血が上って思わず張り倒していた。こちらの事を思って言ってくれたと分かっているが、そういう事じゃないし、嫌味にしか聞こえない。
そんな訳で、メリーの言っていた良い方法がこれから行われようとしている。
教授の持っている可能性空間移動船を使って平行世界に飛ぶのだ。逃げ、ではあるけれど仕方が無い。私が願望と分かって掌を返したこの世界にそこまで未練がある訳でも無いし。結局、三年間しか住んでいないのだから。
不安があるとすれば可能性空間移動船の原理がさっぱり分からない事と、教授の持っている倉庫の奥で埃を被っていたのでちゃんと動作してくれるのか分からない事、そしてメリーも一緒に行くという事だ。
メリーはこの世界でも生きていける。それどころか月を救った英雄なのだ。別の世界に行くよりこの世界で暮らした方が絶対に良い。けれどメリーは私と一緒に居ると言って聞かなかった。そう言ってくれたメリーに気分の良いものを感じる私は性格が悪いのだろう。私はメリーによって生みだされメリーに束縛されている。けれどメリーも私を生んだ罪悪感に束縛されている。私とメリーはお互いに束縛しあっているのだろうと思う。二人で完結してしまう関係性が、あまりにも作り物染みて嫌悪感を覚えるけれど、やはり心地良く感じる自分も居て。
はっきり言って私はまだメリーを恨んでいるし、殺してしまいたいと思う位に憎んでいる。同時にメリーとずっと一緒に居たいとも思っている。色色な感情が私の中に渦巻いていて、結局何も思っていないのと同じ様に今まで通り目の前の状況に流されている。
ただメリーと一緒に可能性空間移動船で並行世界に行くと決まった時、他の色色な感情を差し置いて私の中に喜びが溢れた。メリーと一緒に不思議な世界に行くという強い喜びだ。
私の心は沸き立っている。この感情もメリーがそうプログラムしたのだと思うけれど、そんな事がどうでも良く思える位に、これから訪れる不思議な世界を夢見ている。
「準備出来たよ」
ちゆりさんがレンチを振り回しながらやって来た。頷いて立ち上がり、メリーと一緒に可能性空間移動船へと乗り込む。
「どんな平行世界が良い? と言っても、この機械では私達の世界に酷似した世界にしかいけないけど」
教授に問われて考える。メリーを見ると、蓮子が決めてと言いたげな微笑みを浮かべていた。
「私とメリーが居ないのなら、どんな世界でも」
そうして私達は平行世界へと飛んだ。教授とちゆりさんが最後に見せた名残惜しそうな笑顔を、もう二度と見られないと思うと少しだけ寂しく感じた。
凄まじい衝撃が来て船の中で頭を打った。痛みに顔をしかめつつ外を見ると、どうやら平行世界に着いた様だ。腰をさすっているメリーと一緒に外へ出ると何処かの町中だった。私達の世界では百年前に流行った様なビルが立ち並んでいる。
雪が降っていた。辺りが真っ白に沈んでいる。立ち並ぶ無機質なビルと相まって酷く寒寒しく見える。夏着で居る事を後悔しつつ寒さに身を震わせると、メリーが私の手を握りしめてにっこりと微笑んだ。それだけで寒さが吹き飛ぶ訳も無く、私は可能性空間移動船を小さくしてポケットの中に収め、何処か寒さを凌げる場所を求めてメリーと一緒に雪の降りしきる町を彷徨いだした。
やがて赤提灯の垂れ下がったお店を見つけた。誘われた様に店の中に入ると、四人がけのテーブルが六つ並んだだけのこじんまりとした店内には暖気が満ちていて救われた様な気分になった。店員の姿が見えないので呼び掛けようとした時、私は見覚えのある顔を見て思わず声を上げた。
「教授!」
テーブル席に教授が座っていた。ちゆりさんと思しき後ろ姿も見える。教授は顔を上げて私と目を合わせたものの、訝しげな顔をして視線が逸れた。
この世界で、私達と教授達は初対面だという事を思い出した。けれど何のあてもない世界で見つけた知己の姿は、私に安堵を与えてあまりあった。
「あの、岡崎教授」
私とメリーが教授の席に寄ると、教授が驚いた顔をして私を見た。向かいのちゆりさんが面白そうな顔をする。
「へえ、先輩、こんな小さな子の知り合いが居るんですか?」
「いや、知らない」
教授は入り口に目をやって不思議そうな顔をした。
「あなた達、親御さんは?」
私達が首を横に振ると、教授が怪訝な顔をする。
「家出?」
「違います。私達は平行世界から来たんです」
私の言葉に教授が目を丸くした。
「ほう、面白い」
向かいではちゆりさんが腹を抱えて笑っている。
「私達は別の世界から来ました。けれどそこで住んでいられなくなって、この世界に来たんです。前の世界にも岡崎教授とちゆりさんが居て、初対面だとは分かっているんですけど、何だか嬉しくてつい声を」
「驚いたぜ。この子私の名前まで。それに随分としっかりしているし」
「ふむ、不可解だね」
「台本でもあるのかな? 随分と手の込んだいたずらだ。私達も有名になったもんだぜ」
「違います! 本当に」
私が叫んでいる途中で、教授が振り返り、店の奥に向かってオレンジジュースを二つ頼んだ。それからちゆりさんを手招いて自分の隣の席に座らせる。私とメリーは教授とちゆりさんの向かい側に座らされた。
「現時点じゃ、いたずらなのか本当なのか分からない」
「でも本当なんです」
「だからとりあえず向こうの世界の事を話してくれないかな?」
ちゆりさんが隣で笑いを堪えている。完全にいたずらだと思っているみたいだ。
私の不服な重いに気が付いた教授はちゆりさんをたしなめて、改めて言った。
「君達の話に興味がある。何せ、私達は不思議を探し巡るオカルトサークルだからね。まあ、二人しか居ない非公認サークルだけど」
教授は微笑んで自分の胸に手を当てた。
「私は、京都大学四年、岡崎夢美。趣味は世界の秘密を暴く事」
ちゆりさんも酒に口をつけてから笑みを浮かべる。
「私は北白河ちゆり。京都大学一年。オカルトサークルは仮の姿、私達の所属するのは恐れ多くも結界暴きを敢行する世紀の不良サークル。それを立ち上げた馬鹿な先輩に共感して付き従う阿呆な後輩が私だぜ」
何処かで聞いた事のあるサークルだと思っていると、オレンジジュースがやって来た。教授とちゆりさんが杯を掲げたので、私達も杯を持つ。
教授の音頭と共に杯が打ち鳴らされ皆で一斉に呷る。
上機嫌の教授が嬉しそうに言った。
「ようこそ、秘封倶楽部へ!」
その名前を聞いた瞬間、私はオレンジジュースを思いっきり吹き出して、教授の顔にぶっかけた。ちゆりさんもメリーのオレンジジュースを顔面に浴びていた。
退屈な大学の入学式を終えて私はメリーと一緒に大学の事務棟へ向かって歩いていた。はっきり言って、入学する前から二人の先輩と一緒に何年も歩き回っていたので今更入学式如きに何の感情も湧かない。けれど今、私の胸は高鳴っていた。
手にはサークル設立の申請書。
私がそれを学生センターの受付に叩きつけると、受付のおじさんは驚いた顔で眼鏡の位置を直した。
「お前等、ああそういや、今年入学だっけ?」
私の隣のメリーが待ち切れない様子で身を乗り出した。
「そんな事はどうでも良いんです! ほら、申請書を! 早く!」
受付のおじさんは眼鏡を持ち上げて申請書の内容を読み、思いっきり吹き出した。
「お前等、本気か?」
「何ですか?」
「何ですかじゃなくて。これはあの」
「ええ、伝説のあのサークルです」
「せっかくちゆりの奴が学部卒業して、活動休止になってたのに」
おじさんが頭を掻く。
「人数二人、活動内容不明、申請書はお前達が勝手に作った書式、そもそも直接公認サークルにはなれないし。こんなの認められる訳無い事位分かるだろ」
「はい」
「はいって」
「昔の私達もそうでしたし、夢美先輩も断られたそうですから。私達秘封倶楽部は大学から拒絶されるところから始まるのです」
「傍迷惑過ぎる」
その頃になると騒ぎを聞きつけて、職員達がぞろぞろと集まってきた。そうして私達がサークル申請に来たと分かるとみんなして一斉に笑い出した。「構内で兵器を作るのだけは止めてくれよ」という課長の言葉に頷いてみせるが内心不満に思う。秘封倶楽部はあくまで結界を暴く事が目的だ。兵器の開発はあの二人の趣味であって、サークル活動とは関係無い。その辺りを混同されては困る。
目的を達したので事務棟を出ると、メリーが嬉しそうに笑った。
「無事に立ち上げられて良かったわね」
「ええ」
入学式にやって来た人混みを抜けていくと桜の前で写真を取っているのが見えた。それに目を付けたメリーが早速カメラを取り出した。
「蓮子! サークル立ち上げ記念よ! 写真を取りましょう!」
メリーが私の返答も聞かずに、近くの新入生に声を掛けて、顔を赤くしているそいつにカメラを渡すと、私の手を引っ張って桜の前に立った。
周りからちらちらとメリーに視線をくれやがる男共の視線で気が気ではなかったが、私に寄り添って満面の笑みになったメリーが笑顔になる様に強要してくるので私も仕方なく笑顔になった。
あっさりと写真を撮られ、受け取ったメリーは写真の出来栄えに満足する。
「早速新生秘封倶楽部の第一歩ね」
そう笑いながら歩き出した。
「さあ、入り口を探しに行きましょう」
早く早くと腕を引っ張るメリーに連れられて人混みを抜けていく。
入学式で疲れたから何処かで休もうとはいえない雰囲気だ。とはいえ、メリーの嬉しそうな顔を見ている内に疲れなんて吹き飛んだ。
「メリー」
「何?」
メリーが振り返る。
私は今の気持ちを言いかけて、
「何でも無い」
やっぱり止めた。
するとメリーが満面の笑みになって私の言おうとした事を言った。
「大好き!」
公衆の面前で。
顔の火照った私を見てくすくすと笑いながら、メリーは私の事を引っ張っていく。それを心地良く感じながら、いつもの通り私は、この感情もまたメリーにプログラムされたものなんだろうと詮無い事を考えた。
そうして私はいつもの通り、メリーに惹かれてその隣を歩いて行く。
そんな私に、メリーは笑顔をくれる。
まるで天使の様な晴れ晴れしい笑顔を。
いつまでもずっと。
第一章 夢見る理由を探すなら
一つ前
第十六章 演じる事が偽りだというのなら
最終章 夢が偽りだというのなら
「蓮子!」
メリーが悲痛な叫びを上げて、蓮子の着ていた服へと駆け寄った。蓮子本人は居らず、蓮子の着ていた服だけが地面に広がっている。それに飛びついたメリーは泣きながら服を掻き集め抱き締めた。服を強く抱き締め、何度も何度も蓮子の名を呼ぶ。そうしていれば服の中から蓮子が現れるとでもいう様に、時折抱き締める力を緩めて服の中を窺いながら何度も何度も蓮子に呼び掛ける。だがそんな事をしても蓮子は現れず、岡崎の指示を受けたちゆりが記者達から隠す様に泣き続けるメリーを裏手へと連れ出した。
事態の把握出来ていないちゆりが何と声を掛けて良いかも分からず、蓮子の服に顔を埋めているメリーを前に立ち尽くしていると、岡崎がやって来た。
「教授」
ちゆりが安堵して岡崎を見、息を飲む。岡崎は酷く厳しい顔をしていた。
「教授、これは?」
「君の見立てでは?」
「蓮子ちゃんは願望によって生まれていて、それが、多分、自分が願望の産物である事に気が付いて消失したのではないかと」
「では、誰が蓮子君を産んだ?」
「それは」
ちゆりの目が泣いているメリーに向く。一人しか思いつかない。蓮子に固執し、蓮子を求め、蓮子を必要としているのは。
「その通り、まず間違いなくメリー君だ。そうだろう? メリー君? どうして蓮子君を産んだのかな?」
メリーの肩が震える。泣き声が小さくなり、代わりに蓮子の服を抱き締める腕に力がこもった。
「まあ、良い。さて、ちゆり、次に問題だが、どうして蓮子君は消えてしまったと思う?」
「え? だから自分が願望の産物だって気が付いたから」
「それはきっかけだろうが、原因とは言い難い。何故なら既に、蓮子君は自分が願いによって生まれたと気が付いてしまったからだ」
「どういう事だぜ?」
「このケースにおいて原因は解決出来るものを探るべきだ。蓮子君という存在は、願いによって生まれたと気が付いている、と設定されてしまった。もしもそれを原因と定め、解決するのであれば、気付いたという事実を忘れさせ、永遠に隠し通さなければならない。それは大変困難だと思うがね」
岡崎がメリーを見る。メリーは泣くのを止めて顔を上げていた。岡崎と目を合わすと、怯えた色を見せる。
「どうだい? 再び蓮子君を生み出し、記憶を消し、偽りながら接し続ける気が、君にあるのかい?」
メリーは一瞬睨む様に目を細めたが、睨み返されて、すぐにまた服の中に顔を埋めて泣き出した。
岡崎は肩を竦めると、ちゆりへ顔を戻した。
「こういう訳だ。蓮子君が気が付いている事は変わらない。それは解決しようが無い。だとすれば、もっと別の原因考えなくちゃいけない」
岡崎の言葉に、ちゆりが考え込む。
もっと別の原因。
蓮子はどうして消えたのか。それを単純に考える。
それはこの世に居たくなくなったから。自殺と一緒だ。なら人はどうして自殺する? 深い絶望を知って? 生きる事に苦しみを覚えて? 目の前に死よりも恐ろしい事があると分かって? 生きている事が面倒になって? 衝動的な自己否定? 精神に異常をきたし?
どれもこれも結び付けようとすれば、蓮子に結び付けられる。でも今挙げた事が原因だからといって、それを取り除くのは。
ちゆりが悩んでいると、近くから騒がしい声が聞こえ始めた。顔を上げると、スタッフと押し合いになっている記者達が見えた。皆が好奇心に溢れた表情を満面に輝かせている。不味いと思ってメリーを見ると、騒ぐ声を聞いて顔を上げていた。そうして記者達と顔を合わせてしまう。
ちゆりが嫌な予感を覚えて記者達を見ると、その顔が喜びに満ちていた。
そして記者の一人が言った。
素晴らしい、と。
四次元ポジトロン爆弾を解除出来る存在を生み出して、月を救ってみせた。最新の理論を咄嗟に応用してみせ、実際に誰もが絶望する困難な状況を打破してみせた。あなたこそが英雄だ、と。
それを聞いたメリーの顔が瞬く間に色褪せていった。もはや表情筋から完全に力が抜け失せて、涙だけが零れ落ちる。
それに気が付いていないのか、あるいは気が付いていながら尚もなのか、記者達がしきりにメリーの行為を賞賛しながら、矢継ぎ早に質問を飛ばしてくる。
ちゆりはその無神経な記者達に怒りを覚えたが、どうにもならない事は分かっているので何も言わずに、メリーを抱え上げて、その場を離れた。記者達はスタッフに阻まれてちゆり達を追う事が出来無い。
メリーを抱えて歩きながら、岡崎に問いかけた。
「どうすれば良いんすかね?」
岡崎は息を吐く。
「その子次第だよ」
ちゆりの腕の中に収まったメリーを見るが、何も答えてくれなかった。
有名になり過ぎたメリーをそのまま家に帰す訳にもいかず、ちゆり達は自分達の研究室に匿う事にした。それも見つかるのは時間の問題だが、見つかったとしても守る事が出来るだろう。
ちゆりは何だか疲れを覚えて椅子に深く腰掛け、大きく溜息を吐いた。隣の部屋とを繋ぐ扉は開いていて、覗き込めば泣き疲れたメリーが眠っている。扉を開けておかないと、メリーが消えてしまいそうで不安だった。泣き腫らしたメリーの様子は、今にも大気の中に溶けてしまいそうな程儚くて。
頭を働かせる為に、砂糖を多めに入れたコーヒーを飲みつつ、向かいに座る岡崎を見る。岡崎は目を閉じて、何か考え事をしている様だった。邪魔しては悪いと思いつつも質問が口から零れ出る。
「実際、どうすりゃ良いんですかね、私達」
「出来る事をするしか無いだろう」
岡崎が簡潔に答えた。
「出来る事? とは?」
「どうにかして蓮子君を取り戻し、二人を一緒にさせないと」
「助けるんですか?」
驚いた所為で声が跳ねる。さっきはその子次第等と、突き放す様な言い方をしていたのに。
「当たり前だ。蓮子君が居なくなったんだ。メリー君の能力は暴走する。間違い無く」
「そりゃ、そうですよね」
思わず隣の部屋を覗き見る。メリーが蓮子の服を抱き締めながら眠っている。
「そう。いつ消えてもおかしくない。いや、意識を取り戻せば、きっと消える」
「そんな」
「一応発信機はつけておいた。消えても追い掛けられるとは思うが、出来れば起きる前に解決しておきたいな」
「蓮子ちゃんが消えた原因を考えなくちゃいけない訳か」
難儀しそうだぜ、とちゆりが呟くと、岡崎がそれを静かに否定した。
「違うぞ」
「え?」
「多分だが、ちゆりの考えは違う」
コーヒーを飲もうとしていた手が止まる。
「でもさっき、教授は同じ事を」
「原因とはどんなものを想像している? もしや蓮子君が何を思って消えてしまったのか考えているんじゃないだろうね?」
「間違っています?」
「当たり前だ。蓮子君の思いと消える事には何の因果関係も無い。というよりそんな風に消えられる自由があると知っていれば蓮子君は消えなかっただろう。蓮子君はメリー君の願望が産んだ存在なんだから、主体はあくまでメリー君だ。メリー君が、蓮子君が消えると考えたから、消えたんだ」
「言われてみると、確かにそうだぜ。でもそこまで分かっているなら、何でさっき」
「そんな事を言ったってメリー君を傷付けるだけさ」
ちゆりははっとして隣の部屋を覗き込んだ。今の会話だって聞かれていたら不味い。幸いにもメリーは目を閉じていた。安堵して、再び岡崎を見ると、岡崎もまたメリーの部屋を覗きこむ様な姿勢をしていた。それが再びちゆりと向き合う。
「何にせよ、蓮子君の意思は関係無い。問題なのは、メリー君の意識であって、私達はそれが安定し、彼女の目が暴走しない様に対処しなくちゃいけない」
岡崎の言う事も分かるが、ちゆりには納得がいかなかった。あまりにも蓮子を蔑ろにした言葉だ。岡崎の言葉を言い換えれば、メリーの目さえ落ち着くのであれば蓮子がどうなっても良いというようなものなのだから。
不服な思いを表情に出してしまっていたのか、岡崎が見透かす様に言った。
「それは、我我の領分を超えているよ。私達が依頼されたのはあくまでメリー君の目の暴走を治す事だろう?」
ちゆりがぐっと唇を噛む。
「科学者として領域違いには手を出すなと?」
「人間としてもよ。ちゆり、私達とあの二人は言ってしまえば赤の他人なの。結局二人の問題。しばらく一緒に居たから勘違いしているのかもしれないけれど、私達と二人との繋がりは、メリーさんの病気を治したいという依頼だけよ。少なくとも、二人の思いを無視して、蓮子さんを蘇らせるのは間違っていると思うけれど」
「でも、メリーちゃんは苦しそうだし、蓮子ちゃんだって生きていたい筈だ」
「そう考えるのは結構。そしてそれをどうにかしたいと思うのも結構。でもそれはあくまであなたの勝手な想像。二人の思いを無視する事には変わりないわ。私、自分の行為に責任を背負う事にしているから、挽回の手が見えない様な事は出来るだけしたくないの」
「じゃあ、私達はどうする事も出来ないんですか?」
「最初の質問に戻ったわね。言った通りよ。自分が出来る事をするしかない」
「出来る事って。無理矢理な方法が取れないんじゃ、メリーちゃんを励ます位しか」
「それで良いじゃない」
「は?」
「さっきも言った通り、これはメリーさんの気の持ちよう。なら、メリーさんを励ましてあげるのも十分効果があると思うわ」
「そっか。じゃあ」
希望を抱いてちゆりが笑顔を浮かべた瞬間、岡崎が苛立ちの混じった表情になる。
「出来るものならね」
「え?」
「私の場合、絶望のどん底に居る時は他人の言葉なんか届かなかったし、邪魔にしか思わなかったわ」
「でも」
「それにもっと大きな問題もある」
「それは?」
「疲れたから少し休むわ」
岡崎がもう話す事等無いとばかりに目を閉じてしまったので、気まずくなったちゆりは何となくニュースをつけ、コーヒーを飲みながら黙り込んだ。ニュースでは月を救った英雄であり、願望から人もどきを作った偉人でもあるメリーをしきりに褒め称えていた。
扉の閉まる音がした。
ちゆりが身を起こすと、真っ暗な中にメリーが立っていた。
「あ、メリーちゃん。起きたのか」
「ちょっと外に行っていました」
「え? 駄目だぜ。メリーちゃんは今有名人なんだから」
「でもじっとして居られなかったんです」
メリーの声は暗く陰っている。
「何処に行っていたんだぜ?」
ちゆりは部屋の明かりを点けて、眠気覚ましのコーヒーを入れはじめた。
ふとメリーが起きたにも関わらず、まだ目が暴走していない事に気が付いた。メリーが眠りから覚めたら消えてしまうという岡崎の予想は幸いにも外れた様だ。
「蓮子の家だとか、蓮子と行く場所だとか、蓮子をずっと探していました」
町中を歩き回っていたという事だろうか。だとすれば相当な時間が経っている筈だ。
ちゆりが慌てて時計を見ると、最後に意識のあった時から半日以上経ってた。驚いて外を見ると、真っ暗闇が広がっていた。
「ヒロシゲにもトリフネにも行ったのに蓮子は何処にも居なくて」
まるで感情が抜け落ちた様な真っ暗な声。
明らかに異常をきたしたメリーの声。
ちゆりがメリーの顔を恐る恐る盗み見ると、その顔には笑みが浮かんでいた。
「蓮子!」
まさか。
驚いて辺りを見渡すが、何処にも居ない。メリーは隣の部屋へと行ってしまい、何度か蓮子を呼んだ後に、落胆した様子で戻ってきた。
「ここには私の病気を治す為に来てくれて。必死になって私の病気を治そうとしてくれて、嬉しかった。まだあれから一週間も経ってないのに。蓮子、何で」
メリーの声に感情が戻って、湿っぽい声音になった。
また泣きそうだとちゆりは思ったが、予想に反してメリーは泣かず、いつの間にか手に持っていたヘッドマウントディスプレイを掲げて言った。
「これ、借ります」
ちゆりがそれに答える前に、メリーはディスプレイを被り、椅子に座って意識を飛ばした。
慌ててちゆりがメリーの行き先を調べると、初日にメリーと蓮子が文乃に襲われた場所だった。
「くそ。何なんだよ」
もしかしたら蓮子との思い出を辿っているのかもしれない。何か蓮子を取り戻す為の算段でもついたのか。とりあえず手伝った方が良いだろうと、ちゆりは急いでディスプレイを身につけ、メリーの後に続いた。
一瞬の眩暈と耳鳴りの後に、森にぽっかりと空いた草原に辿り着いた。傍らにはメリーが立って呆然としている。
「メリーちゃん?」
「屋敷が、無いです」
「そりゃあ、月の人達が持っていっちゃったからね」
「そうですか」
メリーはしばらく草原を歩き回ったが、何の収穫も無いと分かると姿を消した。慌ててちゆりも研究室へ戻る。
ディスプレイを外すとちゆりが椅子から立ち上がって窓から外を眺めていた。
「大丈夫かい?」
声を掛けても反応が無い。
「教授は何処に行ったんだよ、こんな時に」
思わず愚痴を漏らすと、メリーが窓の外を眺めたまま言った。
「何処かに用事があるそうで、出掛けましたよ」
「本当に? 教授は何か言ってた?」
「成したい事を為せと」
「訳が分からない」
「私は自分のしたい事をします。私は蓮子みたいに頭が良くないから、とにかく蓮子の居そうな場所を探します」
少しでも可能性のある場所を虱潰しに探して行く訳か。
やりたい事は分かったが、それで蓮子を見つけられそうかというと、可能性はかなり小さく見える。何とあれ、蓮子はこの世界から消えてしまったのだから。
だからと言って、他に何か方法がある訳でも無い。それに目的を持って行動しているからこそメリーは正気を保っている様に見える。もしも無理矢理止めたら、壊れてしまうかもしれない。
「分かったぜ。私も手伝うよ」
「これは私と蓮子の問題ですから」
「でも、見つかる可能性が増える事はあれ、減る事は無いだろう?」
「そうですね」
肯定してもらえたので、ちゆりが笑う。
「じゃあ、一緒に」
「でも次に行くところは、ちゆりさん、一緒に行けないと思います」
メリーは無表情のまま静かに言って、姿を消した。ちゆりが辺りを見回し、隣の部屋も覗いたが姿は見えない。境界の向こう側に行ったのかと、背筋が冷たくなった。今の不安定な精神状態のメリーを考えると、いつ能力が暴走してもおかしくない。もしかしたらもう戻ってこないかもしれない。
ちゆりは頭を掻いて、岡崎の言葉を思い出す。机の上を見ると、メリーが何処に居るのかを示す受信機が光を放っていた。覗きこむと、メリーの居場所が映る。
「日本? でも結界の裏だな」
何処に行ったとしても迷う暇は無い。ちゆりはディスプレイを装着して、メリーの発信機を頼りに再び飛んだ。
飛んだ先は何処かの神社の境内だった。
今日本に存在する神社は全て文化財として丁重に保存されている筈だが、ちゆりの前に立つ神社は手入れこそされているものの、本格的な保存がされているとは言い難い。
不思議な思いでいると、神社の裏手から声が聞こえてきた。行ってみると、メリーが幾人かと向き合って居た。メリーと向き合う人人は五十年前に流行った様な奇妙な出で立ちをしている。
「メリーちゃん」
メリーを助けに慌てて駆け寄ると、メリーが虚ろな目で振り返ったので、気圧されて立ち止まった。
「ちゆりさん?」
ちゆりは自分の真っ黒な体を見下ろした後、頷いた。
「そう、私だぜ。メリーちゃん、大丈夫か?」
「ええ」
メリーは再び奇妙な人人達へと向き直った。人人はしばらく真っ黒なちゆりを見て困惑した顔をしていたが、メリーに見つめられている事に気が付いて視線を戻す。
「あ、すまん。何だっけ。博麗霊夢だったか?」
「そうです。何処に居らっしゃいます?」
「あんた、何処の村の人?」
「外です」
「外? ああ、外か。懐かしい響だな。道理で変な格好だ。なら知らんのも無理無い」
その男は納得した様子で何度か頷くと、残念そうに言った。
「先先代は今は山の中だよ。もう随分昔に亡くなった」
メリーから小さな息が漏れ出た。
「つか、あー、本当に懐かしいなぁ。あんた、何、どうして先先代の事を知っているんだ?」
「色色とお世話になって」
「あんたの爺さん婆さん辺りがかい? そうだなぁ、百年位前は外に行けたらしいからなぁ」
「どれ位昔に亡くなったんですか?」
「俺が小さかった頃だからなぁ。三十年位前か?」
他の人人も口口にそれ位だと頷いたが、それではあやふやと思ったのか、一人がちゃんと確認してくると言って、社の中へ走っていった。しばらくして神社の巫女と思しき少女と金色の髪をした巫女と同じ年頃の少女を連れて戻ってきた。巫女はメリーとちゆりを見ても顔色一つ変えずに、無表情で頭を下げた。
「こんにちは。私が今の博麗神社の巫女の博麗神泉と申します。外のお方と聞きました。先先代についてお尋ねに来たそうですが」
「違うよ、神泉。聞きに来たんじゃなくて、会いに来たんだってさ」
「会いに? ですが既に先先代は」
「亡くなった事を知らなかっただってさ」
「そうですか」
神泉は微かに口を引き結ぶとと山を指さした。
「先先代は、三十一年前に他界致しました。九十歳。安らかな末期だったと聞いております。遺骨はしきたり通り山へと撒いた筈ですので墓もありません」
メリーは山を見つめ、呟いた。
「魔理沙さんは?」
「魔理沙?」
神泉がわずかに眉をひそめる。代わりに隣の少女が声を上げた。
「もしかしたら私のご先祖様かも!」
周りの女が手を打った。
「ああ、あの婆さん! 森の傍に住んでた偏屈の妖怪婆! あ、ごめんごめん。そういや、あんたあれの子孫だったね」
途端に皆が納得した様子で頷いた。
「先先代の親友だったんだっけ?」
「確か同じ頃に亡くなったよな? どっちが先だっけ?」
「覚えて無いよ」
「まだ家が残ってたっけ? 誰かが使ってた様な。見に行くかい?」
男に問われて、メリーが首を横に降る。目的はあくまで蓮子、あるいはその手がかりだ。
男に向かって、メリーは最後の、大本命の名を告げた。
「紫さんは? あの方は妖怪だからまだ居らっしゃるのでは?」
すると人人は一斉に顔を見合わせ、目を輝かせてメリーを見た。奇妙な熱気にメリーは身を逸らす。
「あんた、そんな昔の事まで知ってんのか!」
「昔の事?」
「だって、妖怪って言ったら、私達の爺さん婆さんの時代にみんな居なくなったよ」
「ああ、紫って聞いた事あるな。八雲紫だ。ずっと昔に曽婆ちゃんが何か言ってた様な」
神泉が考え込む様に顎に指を沿わせた。
「スキマ妖怪。確かそんな名前の妖怪が居た様な」
「もう随分と昔だろ? そういや、妖怪って何で居なくなったんだ?」
「月に行ったとか」
「何で?」
ちゆりは会話についていけないものの、メリーの会いたかった人物が既に居なくなっているのだろう事は分かった。メリーがあからさまに失望の色を見せている。
肩を落としたメリーは小さく頭を下げた。
「残念ですけど、私の会いたかった方方はもう居らっしゃらない様ですね。失礼致します」
神泉も静かに頭を下げる。
「はい。もうしばらくすれば、外との交流も増えましょう。また何かあれば」
「交流が増える?」
「結界の力は日に日に弱まっています。私の力も。今しばらくすれば、結界は消え、私達は外の世界に晒される事になりましょう。その時はよろしくお願い致します」
「そうなんですか」
「またな!」と金色髪の少女が大きく手を振る。
メリーは興味が無い素振りで軽く頷くと姿を消した。
どよめく人人を尻目に、ちゆりもまた同期を解く。
研究室に戻ってきたちゆりはディスプレイを外してメリーを探したが何処にも居なかった。不思議に思って受信機を見ると、全く別の場所にいる。アメリカのケネディ宇宙センターだ。
ちゆりは急いでディスプレイを装着し、今度はケネディ宇宙センターへ飛んだ。
同期すると、そこはロケットの管制室で、今は数人の技術者達が機器の入れ替えを行っていた。メリーはそれをじっと眺めていた。
「メリーちゃん、何してるんだぜ?」
「え? いえ、広い敷地の中からどうやって蓮子を探そうかなって」
「ああ、なら大丈夫だぜ」
ちゆりは事務棟に電話を掛けて、敷地内に居る蓮子を探してもらえる様に頼んだ。電話の向こうの受付は大変嬉しそうな声で応じてくれた。当然だろう。今話題の、願望から生まれた人もどきを一目見られるかもしれないんだから。
世界中の誰に蓮子の事を話しても、皆同じ様に好奇心を輝かせた応対をしてくるだろう。嫌な世の中だとちゆりは溜息を吐く。自分の事では無いけれど、何だか蓮子になった様な心地で息が詰まる思いだった。
「蓮子は宇宙に行きたいって言ってたんです」
「え?」
「ケネディ宇宙センターを見てみたいって言ってたんです」
「だからここに来ているかもって?」
「はい」
それは無いだろう。のこのこやって来たら多分入る前に捕まる筈だ。貴重なサンプルなのだから。
多分、何処に行っても蓮子は好奇の目で見られる。人として扱ってもらえず、水槽越しに珍しい生き物を見る様に。嫌だと言っても聞き入れられる事は無い。例えば日本の法律であれば、蓮子を傷付けても器物損壊罪でしかない。所有者はメリーになるだろう。
ようやく教授の言っていたもっと大きな問題というのが理解出来た。
ちゆりがそれをメリーに伝えようか迷っていると、メリーが先にそれを口にした。
「多分もう蓮子が居られる場所はこの地球には無いんですね」
ちゆりは正直に頷く。
「そうだろうね」
「私はどうすれば良いんでしょう」
「メリーちゃんはどうしたいんだぜ?」
メリーは答えない。
蓮子を探してくれていた事務からの連絡があった。何処にも居ないとの事だった。メリーにそれを伝えたが、特段落ち込んだ様子は無く、そうですかとだけ言ってまた黙った。
そういえば蓮子は今誰もが知る有名人だ。誰かが蓮子を見れば、必ずそれは情報となって世界に散らばる。急いで世界中から情報を集めてみたが、幾ら調べても蓮子を見たという情報は無かった。
「メリーちゃん、やはり蓮子ちゃんは何処にも居ないのかもしれない」
ちゆりがメリーに目をやると、メリーの姿が消えていた。
仕方なく、ちゆりは同期を解いた。
続いてやって来たのは、月だった。場所は依姫の屋敷、ちゆりも一度だけ来た事がある。
こたつに入った豊姫と依姫がメリーを見て丸くしていた目をちゆりに向けて更に目を見開いた。
「どうしたんだ? 来るって言ってくれればもっと色色用意を」
綿月姉妹が慌てた様子で座卓の上を片付けだした。
「蓮子、来てません?」
「いや、来てないよ。月自体に来てない」
「確かですか?」
「そりゃあ、英雄だからね。来ていたとしたら、みんながほっておかないし、私達のところにも絶対に連絡が来るよ」
メリーが落胆した様子で肩を落とした。
地球に居ないと確信したメリーにとって月こそが希望だったのだ。「喧嘩でもしたのかい」と軽く聞いてきた依姫に、メリーは弱弱しく首を横に振り、そこではっとして顔を上げた。
「紫さん、居ませんか?」
「何か用?」
突然座卓の上に隙間が開き、紫がぬっと上半身を突き出した。片付けをしていた綿月姉妹が驚いて体を仰け反らせる。
「紫さん! 人の思いだとか願いで、人間を作りましたよね?」
「妖怪の発生原理みたいね。妖怪じゃなくて人間を作ったって?」
「人間をです」
「聞いた事無いわ。勿論私も作った事は無い。でも理論上は不可能じゃないんじゃない? どうして?」
メリーが泣きそうな顔で口を引き結んだ。きっとメリーにとって紫が本当に最期の希望だったのだろう。それが消えた今、メリーの表情が絶望で淀んでしまった。メリーは泣き出しそうな顔のまま、自分の手を握り締めると、震える声で紫に尋ねる。
「もしもそうやって産まれた人間が居たとしたら、その人は産まれた事をどう思うと思いますか?」
「どうって」
紫が困惑した顔になる。
「私達がそうだけど、別に何とも。だって妖怪ってそういうものだし。人間は、どうなのかしら。別に悩む必要は無さそうだけど」
「そう、ですか?」
「だって、どうして悩むの?」
「例えば、産んだ人の考える通りの存在になっちゃうじゃないですか。考える事だとか、行動だとか。まるで自分が人形みたいに思えるとか。それに普通に産まれるのとはやっぱり違うし」
紫の表情が益益訝しむ様に変わる。
「良く分からないわ。だって地球も月も、機械が選んだ通りの遺伝子を掛けあわせて人が産まれてくるんでしょう? 何が違うの? 機械が選ぶか、人が選ぶかの違いじゃない」
メリーが言い返せずに黙ると、紫は重ねて言った。
「それに最初の時点でどういう目的で生み出されようと、そこから先は環境の比重が高まっていくんだから良いじゃない。クローンを作ったって同じ育ち方はしないんだし。何が問題なの?」
メリーは黙って俯いている。
ちゆりには何となくその心の内が分かった。紫の言葉は理屈として理解は出来る。けれど納得が出来無い。何故なら人にとって、他人に自分という存在を決めつけられる事は何よりの屈辱だから。そして他人と違うというのはそれだけで害悪だから。周りと同じであれば誰かに存在を決めつけられても多少は許せるが、自分だけが全く別の方法で決めつけられるのは我慢が出来無い。そういうものだから。そこに合理的な解釈は存在しない。本能に刻まれた感情的な嫌悪がそこにある。
不味い兆候だと、ちゆりは傍から見てて思う。何処を探しても蓮子が見つからず、希望も奪われ、今また精神が責め苛まれている。間違い無く、メリーの心はどんどん不安定になっている。決壊すれば、また能力が暴走する。
どうにかしてメリーに希望を持たせないと。
ちゆりはあれこれと掛ける言葉を考えたが、結局何も思いつかなかった。
ちゆり自身が蓮子と長く居ただけあって感情移入してしまっていて、もしもちゆりが蓮子と同じ状況であればやはり生きる事に絶望してしまうと思ったから。静寂がやって来て、部屋の中がどんよりと曇っていく。
それを払拭する様に、依姫が殊更明る気な声を出した。
「そうだ。渡そうと思っていた物があったんだ」
依姫は一度部屋から出て、すぐに一冊の本を持って戻ってきた。一体何だろうと、ちゆりは興味を持って表紙を覗くとただの子供向けの絵本だった。メリーの心を励ますきっかけになるかもしれないと期待していたちゆりはがっかりとする。
蓮子と一緒に目通りした時も、同じ絵本を見た事を思いだした。あの時の絵本も同じ竹林を背景に、かぐやひめと文字が入っていた。ただ前に見た時は、奇妙な事にかぐや姫が描かれていなかったが、今ある絵本はかぐや姫が描かれていた。
「ほら、これ、出て行った家にこれだけ残されていたんだ。今更かもしれないけど、お返しするよ」
メリーはそれを依姫から受け取り、じっと表紙を見つめると、突然恐ろしい程の奇声を発して畳の上に崩れ落ちた。
「誰かの墓参りかい?」
岡崎が背後に立つと、老婦人は振り返って笑顔を見せた。
「いいえ。私のお墓、どんなのにしようかと思って」
「そういうのは死ぬ前に考えておくものだと思うけどね」
老婦人が歩き出したので、岡崎はその後をついていく。
「どうして私がここに居るって分かったの?」
「別に。不自然な動きをしている町中のカメラを追って来た」
「ダミーも混ぜておいたのに」
「虱潰しに回ったんだ」
老婦人がくすくすと笑う。
「要件は?」
「メリー君と蓮子君の報道を止めさせてくれ。あれでは生活が出来無くなる」
「そういうのは引退した私じゃなくて、新理事長に言って欲しいわ」
「言ったよ。でもあれはまだ駄目だ。あんたの意向に沿おう沿おうと動いているから、話してても埒が明かない」
「そう。不器用な子ね。ちゃんと自立してくれないと、面白く無いわ」
「自分の意に沿わない動きをしたら潰すつもりだろう?」
「当たり前じゃない。そうやって楽しむ為に退いたんだから」
「あんたの思惑はどうでも良い。とにかくあの二人に関する報道を止めてくれ。あの二人がこの世界で生きていける様に」
「無理よ」
「出来るだろう。しらばくれるな。過熱する報道を止めて、願望から生まれた人間にも人権を与えれば済む話だ」
「分かっているでしょう? 無理よ。私が持っているのは情報だけ、それで操れるのは情報と人の感情だけ。社会制度はとても強固で、簡単にはひっくり返せない。ええ、確かに百年後に人権を与える事は出来るでしょうね。でも今すぐに変化させる事は出来無い。だって人の願いはいつだって現状を維持する事ですもの。その莫大な方向性のエネルギーを転換させるには時間が掛かる」
「やってみなければ分からない。あんたの魂胆は分かっているよ。今後願望で人格を持った存在を生み出す様になれば、蓮子君とメリー君が直面している問題は必ずついて回る。それをどう解決するかのモデルケースにしたいんだろう?」
「否定はしないわ。けど人権を与える事が出来ないのは分かりきった事でしょう? らしくないわね、夢美。冷静な判断を失っているわ。あの子達に情でも湧いたの?」
「違うさ。このままじゃ、当初の目的が果たせない。それが嫌なだけだ」
「そう。でも無理よ。あの願望はもうこの世界では生きられない」
メリーが目を開けると、岡崎の研究室で椅子に座っていた
自分がさっきまで月に居た事を考えると明らかにおかしい。
疑問ばかりを頭に浮かべながら目の前を見ると、椅子に座った岡崎が笑った。
「おはよう、メリー君」
「ここは……何処ですか?」
ふと窓の外を見ると、ぼやけていて見通せない。夜か昼かも分からない。ただ何となく、その向こうには恐ろしいものが広がっている気がして、あまり長い間見ていられなかった。視線を下ろすと、かぐや姫の絵本を持っていた。かぐや姫が竹林を背景に笑っている。笑い声が聞こえてくる。かぐや姫の絵が動き出す。お爺さんやお婆さんと暮らしている。
メリーはようやくここが現実でない事に気が付いた。
「境界の向こう側ですか?」
「いや、違うよ。ここは夢さ」
「夢?」
夢にしてはやけにはっきりとしている。
「夢の働きの一つに、自分自身の頭の中を上手く整理するってうのがある。今回はそれだね。相対性精神学を専攻している君には釈迦に説法かな?」
「記憶を再構築しているって事ですか?」
「違う違う。君が今直面している問題を整理して、向き合おうとしているのさ。その案内人が私。多分君の中でこの人なら答えを出してくれるっていう人物なんだろうね。光栄に思うよ」
「何だか変な感じです。夢なのにこんなにはっきりしてて。それに夢の中の人物がそんな事を言うなんて」
「そう思っているなら、蓮子君を取り戻すのは難しそうだね」
蓮子を取り戻せない?
瞬間的に怒りが湧いた。立ち上がって言い返そうとしたが、体が動かない。岡崎はメリーの様子を見てくつくつと笑った。その笑いを聞いた途端、メリーの中の怒りが霧散する。
「まあ、そう怒らないでくれ給え。良いかい。夢っていうのは、自分自身の為にある。脳を保守したり、精神を守ったり、覚えておきたい記憶を残したりね。その過程が夢だ。つまり脳が自分自身を思っている証左さ。平たく言えば、その人間が欲している事の表れなんだね。君の欲する事、つまり君の願望というのが夢なんだ」
メリーは拍子抜けして疑わしげに岡崎を見た。
「流石にその繋げ方はどうかと思いますけど」
岡崎は悪びれた風も無く笑う。
「まあまあ、ちょっとした言葉遊びだよ。最後まで付き合ってくれ給え。さて願望が夢だとすると、夢の中の人物に心当たりは無いかい?」
「蓮子ですか?」
「君にとってはそうだ。そして夢の中の人物が夢だと分かって行動する事がおかしいと思うのなら、君は一生蓮子君を取り戻す事は出来ないよ」
メリーは俯いて唇を噛む。
「どうすれば良いんですか?」
「まずはっきりさせないといけない事がある」
「何ですか?」
「ハッピーエンドは訪れないという事だ」
メリーは固まって何も言えなくなった。
「君が寝た振りをして盗み聞いて居た通り、蓮子君が消えたのは君の意志だ。蓮子君は自分が願望の産物であると分かったら精神を苛まれ消えてしまうと、君が設定してしまっているんだね。そして既に事象として現れてしまった以上それはもう覆せない。よしんばそれが変更出来たとしても、君はそれを蓮子君だと思えなくなる。自分が夢である事に悩まなくなったらそれはもはや君にとって蓮子君ではないんだね。つまり君が蓮子君を蘇らせたとしても、蓮子君は事ある毎に自分が夢の登場人物である事を苦しみ続ける。そしてそれは君にとっても嫌だろう? 聞くまでも無く嫌だね。私という存在は君の頭と同義なんだから。考えない様にしているだけで、私の言葉は全て君自身分かっている事なんだから」
顔を青ざめさせているメリーに、岡崎は「何か質問があるかい?」と尋ねた。しばらく待ったがメリーが何も言わないので、岡崎は講義を再開する。
「さてハッピーエンド等存在しないと分かったところで、ようやっと本題に進めるね。もはや全てが上手く行くという選択肢は無い。となると問題は何を犠牲にすれば、蓮子君を無事に取り戻せるのかになる。これもさっさと説明してしまいたいところだけど、流石に私の口から言う訳にはいかないね。他人の意見じゃ辛い現実には立ち向かえない。君自身が気が付かなきゃ」
メリーは唇を震わせながら、掠れる声を出した。
「どうすれば良いんですか?」
「だから君が気が付かなきゃ駄目だよ」
「でも、分からないんです! どうすれば良いんですか? 蓮子が戻ってきてくれるなら、私は何でもします! 例えこの命を懸けたって良い! でも何をしても蓮子は喜んでくれなさそうで、どうすれば良いのか分からないんです!」
岡崎が微かに頷いた。だが何も言わない。
「そんなに思わせぶりな態度を取っているなら分かっているんでしょう! 教えてください! どうすれば良いんですか! 私が何をすれば蓮子は戻ってきてくれるんですか! 分からないんです!」
岡崎は微かに溜息を吐くと薄っすら笑みを浮かべる。
「君はずっと蓮子君を失いたくないと思っていたね」
「それは……当たり前です」
「君は蓮子君と一緒に居る為に、蓮子君が自分から離れない様に、色色な事をしてきた。二人で秘封倶楽部というサークルを作って、境界の向こうへと飛び込んできた。君の目が大いに役立っていた」
「そうです。蓮子は不思議な事が好きで、結界破りを喜んでくれた。私の目を蓮子が喜んでくれて嬉しくて」
「君は月で友達が居なくていつも寂しい思いをしていたね。だから人付き合いなんてどうすれば良いのか分からなかった。それを救ってくれたのが蓮子君だった」
「そうです。蓮子は私の初めての友達で一番の親友で」
「そういう風に作ったんだ。友達作りが下手な自分が不安な新天地で上手くやっていく為の友達が欲しかった。だからお母さんがいつも褒めてくれた特別な目があれば、それだけで仲良くなれる友達を作った。君にとって自慢出来るものは目しか無かったからね」
メリーが頭を振る。
「違う! 私はそんなロボットを作るみたいには」
それを嘲笑う岡崎の言葉。
「無意識だろうと何だろうと作ったのは君さ。自分でも分かっているだろう? 作られた蓮子君が如何に君にとって都合の良い存在だったか」
「私は……」
「残念だったね、それまで友達が居なくて人付き合いを育めなくて。もしも君が、人と人との関係は特別な何かで形作るものじゃなくて、日日の積み重ねで出来上がっていくものだと分かっていれば、蓮子君の都合の良さも軽減されたのに」
「蓮子……」
「そうすれば君の罪悪感も減って、蓮子君の欲しがるものを与えなくちゃなんていう義務感も減って、君の目の暴走も起こらずに、今回の事件にも巻き込まれず、蓮子君も自分が願望で作られた人もどきだって事に気が付かず、消える事も無かったのに」
「私の所為で」
涙で潤んだ視界を下に向けると、絵本の中のかぐや姫が暗闇な風景を背に、一人で泣いていた。蓮子が泣いていた。
「さあ、そろそろ心の準備は出来たかな? 蓮子君に会いに行こう。一切の希望を捨てるんだ」
「待って下さい! お願いです! 教えて下さい! どうしたら蓮子は戻ってきてくれるんですか! 私に出来る事は何ですか!」
必死で尋ねるメリーに岡崎が優しげな微笑みを浮かべて言った。
「無いよ、そんなもの」
「……え?」
「君は蓮子君の存在を否定した。その罪を贖う方法なんてあると思っているのかい?」
「私は、否定だなんて」
「この期に及んで、自分の責任じゃないと言うか。度し難い愚か者だね、君は」
いつの間にか目の前から岡崎の姿が消えていた。いつの間にか辺りが真っ暗になっていた。岡崎の声だけは聞こえてくる。
「さっき言った通りさ。ハッピーエンドは存在しない。君が罪を償えばそれで蓮子君が救われるなんていう都合の良い道はあり得ない。君の犯した罪の磔刑は蓮子君が受けなければならないんだ」
メリーの涙が頬を伝って絵本へと落ちていく。
気が付くと辺りは研究室ではなかった。まるで星の無い宇宙空間の様にどこまでも真っ暗な世界に居た。そして目の前には蓮子。背を向けてうずくまっている。
「蓮子!」
メリーが駆け寄ろうとすると、蓮子の冷たい声に止められた。
「何しに来たの?」
立ち止まり、逡巡して、メリーは不安げに胸を押さえて、優しく語りかける。
「一緒に帰りましょう、蓮子」
「嫌に決まってるでしょ」
蓮子のにべもない返答は予想していた。
けれど実際に目の前でそう言われると、何と言って良いのか分からない。
「どうすれば良いの? 私、蓮子の為なら何でもするから」
「なら死んで見せてよ」
冷たい答え。
それもまた予想していた事だ。いや、何よりも真っ先に浮かんだ事だ。
ハッピーエンドはあり得ない。
それだけ酷い事をしたのだから。
メリーは刃物を取り出して、切っ先を自分の首に当てた。
「ええ、分かったわ」
蓮子が驚いて振り返り、メリーが刃物を持って首に当てているのを見て勢い良く立ち上がった。
「そう言われる事は覚悟していたの。私、蓮子に酷い事をして。許してもらえるとは思っていない」
蓮子の目が怒りで細められる。その目も予想していた。例え命を捧げたとしても蓮子には許してもらえない。それは分かっているけれど、自分にはこれしか方法が無い。
「メリー、そんな事をしたって私は」
「分かっているわ。でもね、私が死ねば、蓮子は私から解放されるでしょ? もう、私の意思とは関係無い自立した存在になれる。私にはこれしか思いつかない」
「私は何をされたって許さない。あんたの事絶対に!」
「分かっている。許してくれなくたって良い。あなたが確かに存在してくれるなら」
例え死んで一生恨まれたとしても、蓮子が消えたままでいるよりはずっと良い。
メリーは微笑んで、刃物を持つ自分の手に視線を落とした。怖くて震えている。でも仕方が無い。罰なんだから。
息を飲み、刃物を持つ手に力を込める。
これしか方法は無い。
これをしなければ蓮子を助けられない。
これを逃したら、もう二度と蓮子に顔向け出来無い。
だからやるしかない。
死んで、罪を償うんだ。
「蓮子、ごめんなさい。こんな事を言っても怒らせるだけかもしれないけど。それでも、今までごめんなさい」
更に刃物を持つ手に力を込めて、一つ息を吸い、覚悟を決めた。
その瞬間、蓮子に手を掴まれる。途端に力が抜ける。
「蓮子?」
顔を上げると、蓮子が両目から涙を流して怒りに満ちた表情を浮かべていた。
「ずるいんだよ、メリー」
「蓮子?」
「そんなの! そんなの目の前で見せられたら止めない訳にはいかないでしょ!」
蓮子に怒鳴られてメリーは体を震わせる。メリーは何とか蓮子に向かって笑みを浮かべて言った。
「蓮子、でも仕方無いの。私が死ねば」
衝撃が走って、メリーは地面に投げ出される。頬から痛みと熱が襲ってくる。
「ずるいんだよ! これ見よがしに! 止めるしか無いじゃない! そうやってプログラムされているんだから!」
「蓮子、でも」
蓮子が怒りに任せてメリーの腹へ足を振り下ろした。メリーが呻き声を上げる。
「ずるいんだよ! 私の気持ちも、行動も全部あんたが作った癖に! あんたが全部操っている癖に!」
「私は蓮子に自意識があるって」
再び蓮子がメリーの腹へ足を振り下ろした。痛みに悶えるメリーを見下ろしながら、蓮子は涙を流してその背中を蹴りつける。メリーが痛みを堪えながら蓮子に靴に触ると、それを蹴り飛ばす。
「どうして! だったらどうして単純に恨ませてくれないの!」
蓮子が屈みこんでメリーの上にのしかかった。襟首を掴みあげて顔を突き合わせる。涙を溢れさせ歯を食いしばっている蓮子の顔を見て、こんな状況だというのにメリーは可愛いなと思った。そう思った自分を死ぬ程嫌悪しながら、それでも蓮子の事が可愛くて仕方が無かった。
「恨ませてよ! 私にあんたを恨ませてよ!」
蓮子は襟首を掴んでメリーを揺さぶり、やがて腕の力を抜いて、メリーの胸に顔を埋めた。
「ずるいよ。こんな事されたのに、私はどうしてもメリーを嫌いになれない。メリーを悲しませたくない。メリーと一緒に居たい。ずっと仲良くしていたい。そう思ってる。そう思わされてる! ずるいよ、メリー!」
「私は蓮子の事、大好きだよ」
メリーが微笑みながら蓮子の頭を撫でる。蓮子の腕に再び力がこもった。
「そりゃそうだよね。何でも言う事を聞くお人形なんて! そんな都合の良い物があれば私だって気に入るよ。でもそれは人間に対して抱く感情じゃない!」
メリーは首を横に振る。
「違うわ。私は蓮子を人間として好きなの。ずっと一緒に生きていくパートナーとして、辛い事や楽しい事を分かち合って、ずっと隣で生きていて欲しい。一人の人として」
自分はずるい奴だと自分の事ながら分かっている。蓮子を作ったのは確かで、それが自分の都合の良い存在である事も確か。蓮子が作られた存在である事に苦悩して、その苦悶は自分の傍に居ればより一層強くなる事だって分かっている。そして、どれだけ蓮子が苦しんでも一緒に居たいと思ってしまう自分が居る。
「酷すぎるよ。そんな事言われたって、結局どうあったって! 例えどれだけ裏切られたって! こんな。こんなの! 私は……私はメリーの事が好きなんだから」
蓮子に再会出来た以上、多分心の何処かで分かっていた。蓮子がまた戻ってきてくれると。どれだけ酷い事をしてどれだけ恨まれたって、最後には戻ってきてくれるって分かっていた。どんなわがままを言っても、蓮子はいつだって文句を言いつつ最後はついてきてくれたから。分かっていた。蓮子がついてきてくれるって。
夢の中で岡崎を通してはっきりさせた通り、逃げた自分の代わりに蓮子が磔刑を受けてくれると知っていた。
だから。
「ごめんね、蓮子。苦しい事は分かっている。私がどれだけ酷い事を言っているのかも分かっている。でも私は蓮子の事が好きで。わがままだって分かっている。でもずっと一緒に居て欲しい。ずっと一緒に不思議を探し続けて欲しいの!」
残酷な言葉だとメリーは思った。自分が悪魔に思えた。でも例え自分がどう堕ちたって、それでも蓮子と一緒に居たい。
メリーの目から流れる涙が蓮子によって拭われた。でもすぐにまた止めどなく涙が溢れてくる。メリーには自分の涙が一体何なのか分からなかった。泣くべきは蓮子で、自分は泣く資格なんて持っていないのに。それでも涙が次から次へと溢れてくる。
「ごめんなさい」
メリーが蓮子の胸に顔を埋めた。
「ごめんなさい。こんな、酷い事を。ごめんなさい」
それを蓮子に抱き締められる。
「本当に、酷いよ」
「ごめんなさい」
「メリー、これも作られた気持ちなのかもしれないね」
蓮子の胸から心臓の鼓動が聞こえてくる。蓮子の体の温もりに包まれる。
「私はね、今回だけじゃない。昔からあんたのわがままに振り回されて一緒に居る事に辟易する事があった。あんたは綺麗で、人当たりが良くて友達が一杯居て、不思議な目も持っていて、私にないものを沢山持っているから嫉妬して、一緒に居るのを辛く感じる時もあった。でもね、ずっと一緒に暮らしてきた。今回だって、あんたと一緒に居るのが、怖い。あんたの事が憎くて仕方が無い。でもやっぱり離れたくない自分が居る」
蓮子の胸に抱きしめられながら、メリーはその言葉を聞いた。
「前にも言った通り、私はメリーと一緒に居たい。何をされてもずっと」
メリーは救われた気持ちになる。そう思う自分が許せない。でも嬉しかった。
「正直言って、メリーの事は許せない。今でも殺したい位に恨んでいる。でも、それなのに、それ以上にやっぱり一緒に居たくて仕方が無い」
「私は蓮子に何をされたって良い。例え殺されたって良い。ううん、むしろ望むところよ。殺されれば、きっと蓮子の中に私の存在が強く残ってくれるから」
メリーがそう言って蓮子の事を強く抱きしめると、頭に手刀が振り下ろされた。
「そういう気持ちの悪い事を言わない」
「気持ち悪くなんか無いわ。浪漫よ!」
蓮子は溜息を吐いて、それから顔を無理矢理笑みに歪めた。
「そういう訳だからさ、メリーももう良いよ。悩まなくて。お互い辛いし」
「蓮子、じゃあ」
「うん、どうせ私はそういう存在だから。またこうして夢の中で会いましょう。次は笑顔で居られる様にする」
喜んでいたメリーの顔が途端に渋面になる。
「どうしてそうなるの? 一緒に戻りましょう」
「いや、無理でしょ。私はもうまともに生活出来ない。ずっと何処かに閉じ込められて生きていくのだって嫌だし」
「地球はそうかもしれないけど、月はまだ」
「あくまで、まだ、だよ。月にだっていずれ知れ渡る。それとももっと別の天体でも探しに行く?」
「それでも良い。蓮子と一緒に居られるなら。他の天体じゃなくたって、そう、境界の向こう側に行ったって良い。こんな世界要らない。蓮子を紛い物だと思う様な世界に居られない」
「メリー、私達は人間の群れの中でしか生きられない。二人っきりで過ごすなんて、ロマンチックに聞こえるけど、現実問題として無理がある。所詮私はあなたの夢の中でしか生きられない。そしてそんな私だからあなたと一緒に居られるの。多分現実の存在だったら私はあなたと一緒に居られない」
蓮子の諦めのこもった声にメリーは胸がつかれる思いだった。胸を掻き毟りたくなるのを堪えながら蓮子に問いかける。
「蓮子は戻りたくないの?」
「戻りたいけど」
その答えを聞いた瞬間、メリーもまた全てを諦めた。蓮子を慮る事、罪悪感を覚える事、自分を綺麗に見せようとする事、そういう一切の良心を捨てて、人である事を諦めた。
「ならそれで良いじゃない」
メリーは微笑んだ。どうせ堕ちるのなら最後まで堕ちてしまおうと決意して、蓮子の手を強く握りしめる。恨まれ続けたって良い。殺されたって良い。私が苦しんだって良い。それどころか蓮子が苦しんだって良い。何がどうなったって良い。とにかく蓮子と一緒に居られれば、例え世界がどれだけ醜く捻じ曲がろうと構わない。
そんなメリーの悪意に気が付かず、蓮子が溜息を吐く。
「良いじゃないって言われても」
「大丈夫。良い方法はあるから」
「無理だって言っているでしょ! 良いじゃない! 夢の中で会えれば! もうこれ以上、私を苦しめないでよ! 私は」
蓮子の言葉が途中で止まった。辺りはいつの間にか真っ暗闇から光のある世界に変化していた。座卓の上に座っていた。豊姫と依姫と紫とちゆりに囲まれてじっと見つめられている。現実世界に戻ってきてしまった事を知り、蓮子は呆然として、恨むよと声を掠れさせた。
「うん!」
メリーが元気良く頷く。それは蓮子が見た事も無い位に晴れ晴れしい笑顔だった。
教授とちゆりさんが巨大な船を駆けまわり忙しく整備しているのを傍から見つめつつ、私は不安な思いで一杯だった。可能性空間移動船というのがどういう原理で動くのかさっぱり分からない。外観の作りはしっかりしている様に見えるが、自分達の運命を預ける機械がどういう原理で動くか分からないのでは不安な思いが募るばかりだ。
まあ、案の定というか何というか、私は戻ってきたもののこの世界で生きていく事は出来無い。それは少し外を出歩いて数多向けられる物珍しげな視線やニュースを見れば繰り返し流れる私という画期的な新発明の報道から良く分かる。私の戸籍は無くなったそうなので、借りていた家の契約は無効になったし、大学からも除籍された。働く事も出来ない。
メリーが蓮子が働けない分、私が稼ぐからと言ってくれたので、頭に血が上って思わず張り倒していた。こちらの事を思って言ってくれたと分かっているが、そういう事じゃないし、嫌味にしか聞こえない。
そんな訳で、メリーの言っていた良い方法がこれから行われようとしている。
教授の持っている可能性空間移動船を使って平行世界に飛ぶのだ。逃げ、ではあるけれど仕方が無い。私が願望と分かって掌を返したこの世界にそこまで未練がある訳でも無いし。結局、三年間しか住んでいないのだから。
不安があるとすれば可能性空間移動船の原理がさっぱり分からない事と、教授の持っている倉庫の奥で埃を被っていたのでちゃんと動作してくれるのか分からない事、そしてメリーも一緒に行くという事だ。
メリーはこの世界でも生きていける。それどころか月を救った英雄なのだ。別の世界に行くよりこの世界で暮らした方が絶対に良い。けれどメリーは私と一緒に居ると言って聞かなかった。そう言ってくれたメリーに気分の良いものを感じる私は性格が悪いのだろう。私はメリーによって生みだされメリーに束縛されている。けれどメリーも私を生んだ罪悪感に束縛されている。私とメリーはお互いに束縛しあっているのだろうと思う。二人で完結してしまう関係性が、あまりにも作り物染みて嫌悪感を覚えるけれど、やはり心地良く感じる自分も居て。
はっきり言って私はまだメリーを恨んでいるし、殺してしまいたいと思う位に憎んでいる。同時にメリーとずっと一緒に居たいとも思っている。色色な感情が私の中に渦巻いていて、結局何も思っていないのと同じ様に今まで通り目の前の状況に流されている。
ただメリーと一緒に可能性空間移動船で並行世界に行くと決まった時、他の色色な感情を差し置いて私の中に喜びが溢れた。メリーと一緒に不思議な世界に行くという強い喜びだ。
私の心は沸き立っている。この感情もメリーがそうプログラムしたのだと思うけれど、そんな事がどうでも良く思える位に、これから訪れる不思議な世界を夢見ている。
「準備出来たよ」
ちゆりさんがレンチを振り回しながらやって来た。頷いて立ち上がり、メリーと一緒に可能性空間移動船へと乗り込む。
「どんな平行世界が良い? と言っても、この機械では私達の世界に酷似した世界にしかいけないけど」
教授に問われて考える。メリーを見ると、蓮子が決めてと言いたげな微笑みを浮かべていた。
「私とメリーが居ないのなら、どんな世界でも」
そうして私達は平行世界へと飛んだ。教授とちゆりさんが最後に見せた名残惜しそうな笑顔を、もう二度と見られないと思うと少しだけ寂しく感じた。
凄まじい衝撃が来て船の中で頭を打った。痛みに顔をしかめつつ外を見ると、どうやら平行世界に着いた様だ。腰をさすっているメリーと一緒に外へ出ると何処かの町中だった。私達の世界では百年前に流行った様なビルが立ち並んでいる。
雪が降っていた。辺りが真っ白に沈んでいる。立ち並ぶ無機質なビルと相まって酷く寒寒しく見える。夏着で居る事を後悔しつつ寒さに身を震わせると、メリーが私の手を握りしめてにっこりと微笑んだ。それだけで寒さが吹き飛ぶ訳も無く、私は可能性空間移動船を小さくしてポケットの中に収め、何処か寒さを凌げる場所を求めてメリーと一緒に雪の降りしきる町を彷徨いだした。
やがて赤提灯の垂れ下がったお店を見つけた。誘われた様に店の中に入ると、四人がけのテーブルが六つ並んだだけのこじんまりとした店内には暖気が満ちていて救われた様な気分になった。店員の姿が見えないので呼び掛けようとした時、私は見覚えのある顔を見て思わず声を上げた。
「教授!」
テーブル席に教授が座っていた。ちゆりさんと思しき後ろ姿も見える。教授は顔を上げて私と目を合わせたものの、訝しげな顔をして視線が逸れた。
この世界で、私達と教授達は初対面だという事を思い出した。けれど何のあてもない世界で見つけた知己の姿は、私に安堵を与えてあまりあった。
「あの、岡崎教授」
私とメリーが教授の席に寄ると、教授が驚いた顔をして私を見た。向かいのちゆりさんが面白そうな顔をする。
「へえ、先輩、こんな小さな子の知り合いが居るんですか?」
「いや、知らない」
教授は入り口に目をやって不思議そうな顔をした。
「あなた達、親御さんは?」
私達が首を横に振ると、教授が怪訝な顔をする。
「家出?」
「違います。私達は平行世界から来たんです」
私の言葉に教授が目を丸くした。
「ほう、面白い」
向かいではちゆりさんが腹を抱えて笑っている。
「私達は別の世界から来ました。けれどそこで住んでいられなくなって、この世界に来たんです。前の世界にも岡崎教授とちゆりさんが居て、初対面だとは分かっているんですけど、何だか嬉しくてつい声を」
「驚いたぜ。この子私の名前まで。それに随分としっかりしているし」
「ふむ、不可解だね」
「台本でもあるのかな? 随分と手の込んだいたずらだ。私達も有名になったもんだぜ」
「違います! 本当に」
私が叫んでいる途中で、教授が振り返り、店の奥に向かってオレンジジュースを二つ頼んだ。それからちゆりさんを手招いて自分の隣の席に座らせる。私とメリーは教授とちゆりさんの向かい側に座らされた。
「現時点じゃ、いたずらなのか本当なのか分からない」
「でも本当なんです」
「だからとりあえず向こうの世界の事を話してくれないかな?」
ちゆりさんが隣で笑いを堪えている。完全にいたずらだと思っているみたいだ。
私の不服な重いに気が付いた教授はちゆりさんをたしなめて、改めて言った。
「君達の話に興味がある。何せ、私達は不思議を探し巡るオカルトサークルだからね。まあ、二人しか居ない非公認サークルだけど」
教授は微笑んで自分の胸に手を当てた。
「私は、京都大学四年、岡崎夢美。趣味は世界の秘密を暴く事」
ちゆりさんも酒に口をつけてから笑みを浮かべる。
「私は北白河ちゆり。京都大学一年。オカルトサークルは仮の姿、私達の所属するのは恐れ多くも結界暴きを敢行する世紀の不良サークル。それを立ち上げた馬鹿な先輩に共感して付き従う阿呆な後輩が私だぜ」
何処かで聞いた事のあるサークルだと思っていると、オレンジジュースがやって来た。教授とちゆりさんが杯を掲げたので、私達も杯を持つ。
教授の音頭と共に杯が打ち鳴らされ皆で一斉に呷る。
上機嫌の教授が嬉しそうに言った。
「ようこそ、秘封倶楽部へ!」
その名前を聞いた瞬間、私はオレンジジュースを思いっきり吹き出して、教授の顔にぶっかけた。ちゆりさんもメリーのオレンジジュースを顔面に浴びていた。
退屈な大学の入学式を終えて私はメリーと一緒に大学の事務棟へ向かって歩いていた。はっきり言って、入学する前から二人の先輩と一緒に何年も歩き回っていたので今更入学式如きに何の感情も湧かない。けれど今、私の胸は高鳴っていた。
手にはサークル設立の申請書。
私がそれを学生センターの受付に叩きつけると、受付のおじさんは驚いた顔で眼鏡の位置を直した。
「お前等、ああそういや、今年入学だっけ?」
私の隣のメリーが待ち切れない様子で身を乗り出した。
「そんな事はどうでも良いんです! ほら、申請書を! 早く!」
受付のおじさんは眼鏡を持ち上げて申請書の内容を読み、思いっきり吹き出した。
「お前等、本気か?」
「何ですか?」
「何ですかじゃなくて。これはあの」
「ええ、伝説のあのサークルです」
「せっかくちゆりの奴が学部卒業して、活動休止になってたのに」
おじさんが頭を掻く。
「人数二人、活動内容不明、申請書はお前達が勝手に作った書式、そもそも直接公認サークルにはなれないし。こんなの認められる訳無い事位分かるだろ」
「はい」
「はいって」
「昔の私達もそうでしたし、夢美先輩も断られたそうですから。私達秘封倶楽部は大学から拒絶されるところから始まるのです」
「傍迷惑過ぎる」
その頃になると騒ぎを聞きつけて、職員達がぞろぞろと集まってきた。そうして私達がサークル申請に来たと分かるとみんなして一斉に笑い出した。「構内で兵器を作るのだけは止めてくれよ」という課長の言葉に頷いてみせるが内心不満に思う。秘封倶楽部はあくまで結界を暴く事が目的だ。兵器の開発はあの二人の趣味であって、サークル活動とは関係無い。その辺りを混同されては困る。
目的を達したので事務棟を出ると、メリーが嬉しそうに笑った。
「無事に立ち上げられて良かったわね」
「ええ」
入学式にやって来た人混みを抜けていくと桜の前で写真を取っているのが見えた。それに目を付けたメリーが早速カメラを取り出した。
「蓮子! サークル立ち上げ記念よ! 写真を取りましょう!」
メリーが私の返答も聞かずに、近くの新入生に声を掛けて、顔を赤くしているそいつにカメラを渡すと、私の手を引っ張って桜の前に立った。
周りからちらちらとメリーに視線をくれやがる男共の視線で気が気ではなかったが、私に寄り添って満面の笑みになったメリーが笑顔になる様に強要してくるので私も仕方なく笑顔になった。
あっさりと写真を撮られ、受け取ったメリーは写真の出来栄えに満足する。
「早速新生秘封倶楽部の第一歩ね」
そう笑いながら歩き出した。
「さあ、入り口を探しに行きましょう」
早く早くと腕を引っ張るメリーに連れられて人混みを抜けていく。
入学式で疲れたから何処かで休もうとはいえない雰囲気だ。とはいえ、メリーの嬉しそうな顔を見ている内に疲れなんて吹き飛んだ。
「メリー」
「何?」
メリーが振り返る。
私は今の気持ちを言いかけて、
「何でも無い」
やっぱり止めた。
するとメリーが満面の笑みになって私の言おうとした事を言った。
「大好き!」
公衆の面前で。
顔の火照った私を見てくすくすと笑いながら、メリーは私の事を引っ張っていく。それを心地良く感じながら、いつもの通り私は、この感情もまたメリーにプログラムされたものなんだろうと詮無い事を考えた。
そうして私はいつもの通り、メリーに惹かれてその隣を歩いて行く。
そんな私に、メリーは笑顔をくれる。
まるで天使の様な晴れ晴れしい笑顔を。
いつまでもずっと。
罪を償えが
可愛くして
罪深い愛、造り者の恋人、自分の願望によって完結する世界。それはある意味で究極の恋なのかもしれません。
それはそうとしてある意味残酷なグッドエンドだなと思いました。
矛盾を孕んだ感情は非常に苦しいと思います。
和と荒としますけど、たとえ和の心が強くても荒が有る限り完全に和に傾けることは不可能なんじゃないかと。
あくまで和と荒は天秤で釣り合っているだけで、プログラムされたからといって単純に和を押しても、荒は鳴りを潜めているだけかと。
そしてそれがふとしたきっかけで・・・
...って事になってもメリーがそれを覚悟してるから大丈夫か。
では改めて、お疲れ様でした。
とても面白かったです。
お疲れ様でした!
なんとも言えない狂気とストーリー性のゆらぎ夢と現の狭間みたいな作風が好きでした
夢は信じられないと夢としての力を無くして唯の夢になるというのは面白いですね
この話は夢と現をテーマにしていたように感じましたが、イデオロギーや思想を夢と捉えているのは面白かったです 確かに宗教でもなんでも結局は共通の夢なんでしょうね
社会が成り立つのは個人の命や幸せが社会にとって共通の夢と比べて余りに安いからというか成り立つのでしょうね というか個人の夢は社会の夢より安いと言ったところでしょうか
社会の共通の夢を個人の夢と錯覚させるあたりのくだりは成る程と感心しました
夢を夢だと知ってしまえば夢は唯の夢になって力を無くすというのも納得出来る中々面白い解釈でした
題名にもあるように結局夢は偽りの嘘で人が為すことは嘘を真と信じて嘘を真に夢を現にすることによって成り立つのかも知れません いわば本気の嘘で嘘を嘘じゃなくすみたいな
なんだか月の上層部の扱いが散々で、月の民にとっての夢なのにちょいひどいなとは思いましたけど 月の民にも月の夢のために命を燃やす者もいたんですかね
個人的に地球側も月側もどこか滑稽に夢にしがみつくように書かれているようにお見受けしましたが、我々も我々という夢を夢と知らずに見ている以上、他人の夢は夢にしか見えないので滑稽に見えてしまうのでしょうかね
何はともあれお疲れ様でした
なんだかよくわからないうちに謎が片付いてて、あの時も幻想郷も今は昔の夢の中で。
こたつでくつろいでる綿月姉妹に和んだりしつつ。
文乃とクリフォードは元気にしているのだろうか、などとも思いつつ・・・。
前回からところどころ夢美が夢見になってるのが気になります。
色々とぐちゃぐちゃとした感想しか浮かびませんが、それでも、作中や原作の設定を上手くより合わせ、このエンディングへと持って行ったことに、喝采を。
そうだね。今日も秘封は二人。
連載完結、お疲れ様でした。