最初
第一章 夢見る理由を探すなら
一つ前
第十五章 妙なる血を流すなら
第十六章 演じる事が偽りだというのなら
子供について走って行くと、しばらくして壁に突き当たった。都を守る城壁の様だ。それを見上げていた蓮子とメリーの手を子供は引っ張って再び先導する。しばらく歩くと、向こうから大人が走ってくるのが見えた。
どうやら親の様で、子供が安心した様子で声を上げ駆け寄り、抱きしめられていた。その後に別の大人達も集まってきて、蓮子とメリーの存在に気がついた。
気が付かれた蓮子は逃げようか迷う。月人はメリーを連れ戻そうとしていたのだ。また捕まってしまうかもしれない。だが意外な事に月人達は笑顔を見せ、捕まえる様な素振りを見せなかった。メリーと蓮子をはぐれていた月の子供だと勘違いして、城壁の中に逃げこむ様に手招いた。
もしかしたら罠かもしれないと蓮子は迷ったが、メリーは疑う様子もなく月人達へと近付いて行く。蓮子は慌てて後を追った。
「すみません。私達良く状況が分からないんですけど、どうしてみんな居なくなってるんですか? 地球が攻めてきたからですか?」
「玉兎から聞いていなかったのかい?」
大人の一人が意外そうに目を見開いて、都を化け物が徘徊していると恐ろしげに語った。
地球からロケットが飛んできて月との戦争が起きた時は皆安心しきっていた。以前にも地球から来た者達を撃退した実績があるし、地球と月との科学力には雲泥の差があると聞いていたから。今回も大丈夫だろうと思って、外から両軍のぶつかり合う音が聞こえてきても誰も騒がなかった。しかし思った以上に戦いが長引き皆が不安になりはじめた頃に、玉兎が恐ろしい事を告げに来た。
地球の侵略者の強さは月の上層部の予想を上回っており都への侵入を許してしまった、と。騒ぎ出す皆に、玉兎が更に絶望的な報告をする。それを追い払う為に急遽穢れた部隊を都へ放った。それは無差別に人を殺す化け物である。
誰もがその言葉を理解出来なかった。その穢れた部隊というのが何なのか分からない。月が勝つと信じていたのに、どうして攻めこまれているのかも分からない。自分達がどうなってしまうのかもまた分からない。
誰かが私達はどうなるのかと玉兎に尋ねると、玉兎は辛そうに首を横に振った。上層部から民衆を助ける為の具体的な方策は受けておらず、見捨てようとしている可能性がある。それが告げられた瞬間、一気に怒りと混乱が頂点に達し紛糾した。殺到する民衆を落ち着けようと玉兎は必死で宥めながら、何も考えていない上層部に代わって綿月姉妹が民衆を救う為に全玉兎を動員し、無事防衛施設である城壁まで避難を行っていると説明した。その後市内に放たれた化け物を倒す筈だと。
そこから混乱の中での避難作戦が始まった。まだ化け物がやって来て居なかったので誰かが襲われたりといった危険は無かったものの、大混乱の中での大移動であった為、怪我人が出た。それでも無事に避難の完了した今、誰もが戦戦兢兢としながらも、綿月姉妹への信頼を柱に、城壁の中で息を潜めている。
あまりの事態に蓮子は驚愕したが、思い当たる節があった。さっき羽衣を取りに行った建物で、岡崎が死体を見つけたと言っていた。多分、それも化け物の仕業に違いない。そんな化け物が居るのならば、早く城壁に逃げ込むべきだ。しかし蓮子は躊躇する。外にはまだ岡崎とちゆりと文乃が残っている。特に文乃は、先程の子供の反応を見る限り、穢れた化け物と間違われてしまう可能性がある。そうすると外に居れば玉兎達に攻撃されてしまうし、城壁に逃げ込もうにも入れてもらえないだろう。やはり岡崎の言っていた通り地球の軍隊と合流して守ってもらうのが一番だ。
「メリー」
蓮子がメリーを見ると、メリーも同じ事を考えていたのか、すぐさま頷いてくれた。それを合図に二人が走りだす。呼び止める月人達の声が聞こえたが構わず走って角を曲がった時、今したが居た背後から月人達の悲鳴が聞こえた。驚いて二人は立ち止まり、角を戻って、さっきの月人達が集まっている場所を見て、目を見開いた。
そこには真っ黒なローブを着た長身の何者かが立っていた。月人達が蜘蛛の子を散らす様に逃げているが、さっきの子供が化け物の傍で転んでいる。それを親が立ち上がらせようとしている間に、ローブがのっそりと親子へと歩み寄っていく。
再び悲鳴が上がる。
その瞬間、蓮子は隣に立つメリーを見た。自分でもどうしてか分からないが、隣のメリーを見て、そしてメリーの瞳に見つめ返されると、まるで操られる様にして、悲鳴を上げる親子へと駆けていた。
辿り着いた蓮子は親と一緒になって子を立たせ、逃げようとする。だがそれよりも早く歩み寄ってきたローブが、その内から地獄の底から聞こえてくる様な、強烈で捻くれた吠え声を上げた。
あまりに禍禍しい叫声に親子が力抜けた様に崩れ落ちる。蓮子も腰が抜けそうになったが、何とか踏ん張って黒いローブを見上げた。ローブに隠れて姿は見えないが、強烈な殺意だけは感じ取れた。何もかもを殺しつくそうとする意志が肌に突き刺さる様で痛かった。
蓮子は殺意に満ちたローブの前でゆっくりと両手を広げる。両足が震え、頭が真っ白になりそうだったが、それでも親子の前に立ちはだかって二人を守ろうとした。
再びローブが吠え、右腕を振り上げる。
殺されるなと他人事の様に思った。
頭は真っ白になっていて、恐怖は感じなかった。
「蓮子!」
ふと聞こえたメリーの声に、蓮子の視線が引き寄せられる。涙を流しながら駆けて来るメリーに蓮子は静かに首を振った。メリーまで来ちゃいけない。化け物の前に立ったら殺されてしまう。メリーにまで死んで欲しくなかった。逃げて欲しかった。
「蓮子!」
蓮子の視界の中で再びメリーが叫ぶ。蓮子の目には何故かメリーの全身が輝いて見えた。不思議とその光の意味を理解出来た。それは願望だ。メリーの全身から願望が溢れ出ている。綺麗だなと思った。メリーの願望はきらきらと輝いている。それがゆっくりと地面を這って、蓮子まで辿り着き、足先から段段と上ってきた。
メリーの願望が私を助けてくれようとしている。
その温かみを感じながら、ふと前を見るとローブの動きが止まっていた。驚いて振り返ると、月人達も止まっている。まるで時が止まった様に。
気が付くと、メリーの願望は急速に蓮子を包みあげていた。
嫌な予感がする。
蓮子が慌ててスカートを抑えた瞬間、蓮子の服が弾け飛んだ。
同時に時が動き出す。
凄まじい光が辺りを照らした。
月人達は蓮子の居る場所に強烈な光を見て目を眩ませた。ローブも振り上げていた手で顔を覆う。
そして光が収まり視界が回復すると、ローブの前には、黒を基調としたドレス姿に、金色のステッキを持った蓮子が立っていた。
一瞬にして姿を変えた事に誰よりも驚いたのが蓮子だ。蓮子は自分の服装を見て間の抜けた声を上げると、恐ろしいローブを前にしているにも関わらずメリーに目をやった。
「メリー! これ、あんたがやったの?」
「多分」
「一体何を願ったの?」
「蓮子が助かって欲しいって。ううん、違う。願望じゃない。信じてる。蓮子が強いって。蓮子はそんな奴に負けないって。蓮子は辛い時に私の傍に居てくれて、危険な事があっても助けてくれて、そう! いつだって私のヒーローなんだって!」
蓮子は呆気に取られていたが、やがて口の端を吊り上げた。
「なら私はこいつに勝てる訳ね?」
「うん!」
蓮子はローブを睨み上げる。唸り声を上げている。凄まじい声量だ。蓮子は耳を押さえて飛び上がり、思いっきり叫ぶ。
「うっさい! 黙れ!」
蓮子のドロップキックが炸裂し、ローブは生け垣に突っ込んだ。
蓮子は綺麗に着地するとメリーに対して拳を振り上げる。
「どうだ!」
メリーはそれに対して困った様な微笑みを変えした。
「思ってたのと違う」
「はぁ? 何が?」
「もうちょっと華麗に綺羅びやかに倒して欲しかった」
「どうやって! 私、変な棒しか持ってないのに! 殴るか蹴っ飛ばすしかないじゃない」
「そのステッキで魔法を使うとか」
「出来る訳無いでしょ!」
二人の言い合いが、生け垣から物音が聞こえてきた事で止まる。
見ると、ローブがはだけて中身が見えた。その場に居た全ての人間が息を飲み、中には嘔吐する者も居た。まるで粘土細工の兎を壁に叩きつけて無理矢理兎の形を取らせた様な姿だった。正しく化け物だ。化け物は、荒く息を吐きながら歯を軋らせると、天に向かって絶叫して蓮子へ向かって突っ込んできた。
「む、ならもう一回」
蓮子が構えを取る。だがぽんと音が鳴って、蓮子の服が元に戻った。自分の服が戻っている事を確認し、「もしかして魔法が切れた?」と冷や汗を流しながら呟いた時にはもう、化け物が直前まで迫っていた。
殺される。
蓮子が衝撃を予感して目を閉じる。
暗闇の中、凄まじい音が鳴った。
死んだかと思った。
だが予想していた衝撃はやって来なかった。
恐る恐る目を開くと、人民服を着た赤髪の女性が化け物の拳を掴んでいた。
「何があろうと子供を傷付けてはいけません」
女性が化け物を投げ飛ばす。叩きつけられた化け物が立ち上がろうとしたところへ、空気が削り取られる様な轟音が鳴って、化け物の体に火花が散り、更に煌めくネットが幾重にも被さって化け物をとらえた。ネットの中で化け物は暴れるが、抜け出せそうにない。それでも上がる咆哮は月人達の心胆を寒からしめるのに十分だった。
怯えている月人達の見ている前で、化け物に近寄る者達が居た。彼等は懐から何か機器を取り出して化け物に押し当て、化け物の動きを止めると、月人達へ向かって敬礼してみせた。
前に立った男が敬礼したまま、自分が地球から来た兵隊である事を告げると、月人達が再び恐怖の表情を浮かべ出す。ちなみに赤髪の女も元元地球に居た妖怪であると名乗ったが、地球から来た軍隊という衝撃にかすれて完全に無視されていた。
兵士達は月人を安心させる様に笑顔を浮かべる。
「我我はあなた方の敵ではありません」
兵士の声に月人達が不思議そうな顔をする。
「我我は、あなた方月人が地球を攻撃して来たので、それを止める為に月までやってきました」
すると月人達の表情が訝しげなものに変わった。誰かが、月が態態地球を攻撃する訳が無い、そんな話聞いた事が無い、と呟いた。それを聞きつけた兵士が顔を向けると、呟いた者は驚いて身を引いた。
「仰る通りです! 我我は騙されていました! 月からの攻撃は月の総意だと思っていました。しかし違ったのです! 地球への攻撃は月の都に君臨する神神の独断によって行われていたのです!」
兵士が辺りを見渡す。だが反論する者は居なかった。それどころか、兵士の言葉が理解出来ていない様子だった。
兵士が再度声を張る。
「地球が月によって攻撃されたこれは事実です。しかしそれは月の神が勝手に行った事。私達はそれを綿月豊姫様という月の重要人物から教えてもらいました」
綿月豊姫という具体的な名前に月人達から反応が起こった。だが理解したとは言い難い。
「詳しい事は後程、綿月豊姫様から皆さんへご説明があるでしょう。今は、ただ我我があなた方の味方であるという事を信じてください。我我はこれから玉兎達と協力して、この化け物を倒しに行きます。ですから皆さんは安心して、城壁の中にお隠れ下さい」
月人達は誰も声を発さず固まっていたが、兵士達の後ろからひょっこり現れた玉兎が城壁の中に誘導し始めたので、信じられない表情をしながらも大人しく入っていった。
蓮子とメリーも事態の推移について行けず、呆然としていたが、道の裏手で岡崎が手招いているのを見つけて駆け寄った。
「どうなっているんですか?」
蓮子の問いに岡崎が首を横に振る。
「私も全てを把握してる訳じゃない」
そのまま二人を抱き締めると、都の中央に聳え、月読尊を始めとした最も貴き神神の坐す建物を見つめる。
「だがもうすぐ終わる」
闇の中でたんたんと二発の銃声が響いた。
それでお終い。たったそれだけで天津神が一神死んだ。都の中央に坐す神神に比べれば格は落ちるが、それでも各重要拠点に配置されている天津神神がこの月の最も重要な地位に居る事は変わらない。
銃弾を放った者は無言で仲間達と共に屋敷の外へ向かう。彼等の歩く屋敷は酷く荒れていた。物が破壊され、書物が燃えている。ここは戸籍を管理する建物であった。あったというのは既に機能しなくなった事を指す。戸籍を管理する機器は全てが破壊され、職員達は町中で暴れる穢れた者から避難し、そして君臨していた天津神はたった今殺された。この戸籍局は死んでいた。
同じ様な事が月のそこかしこで起きていた。管理者である天津神を殺し、施設が破壊される。あまりにもあっさりと。神が殺されるという非常事態であったがそれが上層部へ伝わる事は無かった。地球の軍隊が攻めてきた事や町中で穢れた者達が暴れている所為で、月人や玉兎は既に施設から退避しており連絡系統が機能していない。天津神神の気が付かぬ内に、既に月の都というシステムは崩壊していた。
戸籍局を破壊した兵士達が外に出ると、丁度黒いローブを被り頭にうさ耳を生やした何者かがトラックの傍に近寄っているのが見えた。天津神を殺した部隊に緊張が走る。
だがうさ耳は敵意が無い事を示す様に両手を上げると、そのまま黒いローブに手を掛けて脱ぎ去った。現れたのは地球の人間。黒いローブとうさ耳を脱ぎ去ったクリフォードは豊姫を撃った銃とその時に来ていた変装用のローブとうさ耳を、トラックに残っていた兵士に渡して「処分しといて」と言った。受け取った兵士が「神殺しの銃ですか」と笑うと、クリフォードは首を振って、「それは怪我をさせただけだよ」と答えた。兵士の不思議そうな顔に笑いかけ、荷台から他の兵士達の着替えを待つ。天津神を殺した者達も元の軍服に着替えて荷台から出てくると、クリフォードに笑顔を向ける。
「どうしてさっきの格好を?」
「うん、思った以上に月の軍が軍隊らしくなかったから、さっきまでの服じゃ都合が悪くてね。偶偶見つけた化け物から服を剥ぎ取って使っていたんだ」
「他のチームは?」
「コンプリートしたよ」
にっと爽やかな笑みを見せたクリフォードは兵士達に隊列を整えさせると上空にカメラを展開し大きく声を張った。
「現在、全ての部隊が作戦通り市街に侵入したが、そこで異形と交戦中である。科学班の解析から、人や兎の変異した姿である事が分かっており、戦闘力の高さから月の切り札であると考えられる。よってこれからそれを掃討する。心して掛かれ! 以上!」
岡崎と理事長がヘッドマウントディスプレイを装着して月へ飛んでいる間も、ニュースは絶えず流れている。
天狗の少女は涙ながらに監禁の辛さを語り、外に出れた喜びとその後戦場へ連れて行かれた失望を語り、そして月の上層部の非道さとそれを助けてくれた綿月姉妹を語った。月に連れて来られ些細な事で処刑されそうになった時、綿月姉妹がそれを助けてくれたのだと。月の上層部は常に建物の中に居て圧政を敷いているが、対外交渉を役割とする綿月姉妹は地球を知っているから地球流の優しさを持ち、またそれに感化された人や兎も今は皆良い人で、月の圧政を憎んでいる。
今がチャンスだと言って天狗が唇を戦慄かせた。綿月姉妹達は月の皆と共に月を正す事を考えており、地球の軍隊がやって来た今がチャンスなのだと。
それは瞬く間に地球中へと広がり、地球の人間達の目的を、防衛を理由とした月への侵略から、正義を理由とした月の上層部の排除へと塗り替えた。
都の端で玉兎達が必死で避難活動を行っていた。
都の中央から現れた化け物達は辺りの物を無差別に破壊し回っているとの報告が上がっていた。それを避ける為に月の者は都の端にある臨時的な避難場所となっている城壁へと退避している。報告から上がってくる化け物達の破壊活動は段段と外側へと向かっており、現在では都に居る殆ど全ての人と兎が城壁へと退避していた。
しかし今玉兎達が避難活動を行っているこの場所だけは、権力者が多い事や体力の衰えた者が多い為に難航しており、避難が完了しきっていなかった。それを逃がす為に玉兎達は辺りを跳ね回って必死で誘導していた。だが元元数が少ない上に、地球の侵攻もあり、今の区域の活動に参加出来ている玉兎は少なく、中中進んでいなかった。
不安がる玉兎達は何とか避難活動を半ばまで完了させたが、そこへ最悪の存在がやってくる。
唸り声が聞こえた。
瞬く間に悲鳴の連鎖が上がる。
驚いて玉兎が悲鳴の上がった場所へと向かうと、黒いローブを着た化け物がこの世のものとは思えない叫び声を上げていた。幸いにもまだ誰も襲われておらず、月人達は逃げ惑っているが、それでもいつ襲われるのか分からない。
月人が化け物に襲われているのを見た玉兎は迷う事無く飛び出した。唸り声を上げる化け物へと銃剣を携えて突っ込んでいく。駆け寄りながら数発撃ったが化け物に効いた様子は無く、益益猛りながら玉兎へと顔を向けた。一先ず自分へ注意を向けた事に安堵して、視界の端に逃げる月人を見る。自分が戦っている間に逃げてくれればと思うが、今の遅遅とした避難状況ではいずれ追い付かれる可能性がある。ここは化け物を倒さなくちゃいけない。
玉兎が撹乱する様に化け物の周りを飛び跳ねながら銃剣を構える。銃弾は効かないと聞いていたし、今試した通りだ。銃が効かず玉兎では倒せないから決して手を出すなとのお達しだった。しかし、この状況で手を出さない訳にはいかない。それに銃弾が効かないとしても、刃ならどうだろう。兎の脚力で放たれたそれならば、化け物であっても貫けるんじゃないだろうか。
玉兎は化け物の周りを飛び跳ねながら狙いを澄まし、完全に後ろを取った瞬間、銃剣を抱えて突っ込んだ。音速を超えて化け物の背に刃物を突き出す。だが突然横合いから凄まじい衝撃をくらって玉兎は吹っ飛ばされた。民家の門を破壊して崩れ落ち、よろめきながら顔を上げると、化け物が腕を振り上げた体勢で立っていた。どうやら直前で化け物の裏拳にやられたらしい。立ち上がろうとしたが、足腰に力が入らなかった。
ああ、まずい。
絶望が湧いてくる。
まずい。このまま自分が殺されたら、次の狙いは月人達だ。自分はここで負けてはいけないのに。このままじゃ。
だが幾ら気力を振り絞っても、力の抜けた足腰は立たない。へたり込んだ玉兎へ化け物が歩んでくる。体が震えてくる。震えばかりが起こって、足は立ってくれない。
目の前に化け物が迫り、玉兎が目に涙を溜めて、せめて最後に一矢報いようと銃剣を握り直した瞬間、空気をこそぎ取る様な轟音が聞こえて化け物に大量の火花が散った。
驚いて固まる玉兎の頭上から優しげな声が聞こえた。
「大丈夫か?」
振り仰ぐと誰も居ない。
化け物の咆哮が聞こえて、慌てて前を見ると、依姫が刀を携えて立っていた。
「依姫様」
玉兎が涙混じりの声を振り絞ると、依姫は化け物を攻撃しないまま、玉兎に振り返り刀を納めた。
化け物の上から大量のネットが襲いかかり、あっという間に化け物が絡め取られる。
何が起こっているのか分からない玉兎の下に別の玉兎が寄ってきて瞬く間に治療される。再び避難活動に専念する様に言われて、混乱しながらも避難活動へと戻ると、月人を導く豊姫の姿が見えた。
その姿が玉兎には今まで以上に美しく見えた。豊姫は腹から血を流しているにも気丈に笑っている。傷付いた体を気遣う月人達の言葉を黙殺し、ただただ城壁へと導いている。辛そうにしていても人人を先導する姿は、どれだけの困難があろうと自分達を導いてくれる貴き存在に思えた。さながらそれは神の様に。
豊姫が月人達に語っている。化け物を放った上層部の非道さを。地球の軍隊や妖怪が仲間になり、手伝ってくれていると。もはや戦争は不要であり、化け物達も直に片が付く。皆は綿月姉妹とそれに従う玉兎、仲間になった地球の軍隊や妖怪が護衛する。だから安心して城壁に入り、そして再び平和が来るまで待っている様にと。
月人達は流石に信じ切れない様子で戸惑っていたが、その玉兎には豊姫の言葉がすんなりと心に落ち、気が付くと涙が零れていた。豊姫に付き従える事が嬉しくて、そして豊姫を疑っていた自分が恥ずかしくて。豊姫様を恐れていた。神神の間を出た豊姫の言葉を曲解して。今なら分かる。自分が勘違いした様な恐ろしい事を豊姫様が言う訳が無い。きっとあれはこちらが勝手に勘違いをしていただけで、本当はもっと優しい言葉だったに違いない。だって自分自身が傷付いてあんなに辛そうにしているのに、それでも月を導こうとしている豊姫様がそんな恐ろしい事を言う訳が無い。きっとあれは非道な上層部から月を守る為に戦いを宣言していたのだ。だから、どうやってやったのかは皆目見当がつかないが、侵略しに来た地球の脅威を逆に味方に付け、今こうして実際に血反吐を吐きながら月を守ってくれている。どうしてその優しさに、その誠実さに気が付かなかったのか。
自分の不明を恥じ、豊姫の素晴らしさに心を踊らせながら、自分の体に走る痛みを忘れて、月人達の避難を先導していると、豊姫が傍にやって来た。
思わず畏まって、直立不動になる玉兎に、豊姫が笑い掛ける。
「さっき化け物からみんなを守ってくれたみたいね」
「はい!」
「ありがとう。そしてごめんなさい。今、あちこちで混乱が起こっていて、助けに来るのが遅れてしまって」
「いえ! 勿体無いお言葉です! 私は私の務めを果たしただけで」
ああ、豊姫様の方がよっぽど大きな怪我を負い、よっぽど大きな務めを果たしているというのに、私に声を掛けて下さった。
その畏れ多さに溢れんばかりの喜びを感じた。
不意に豊姫の顔が逸れる。玉兎が視線の先を追うと、地球の軍隊が豊姫の事を見つめていた。
「ごめんなさい。私は行かなければならないの」
はっとして玉兎が豊姫に顔を戻す。それはそうだ。上層部を相手取り、地球を味方に付け、都全体を守ろうとしている豊姫様がこんなところで留まっていられる訳が無い。
「ここは私達が必ず守り通して見せます! ですから」
「ありがとう、レイセン。後は頼んだわ」
豊姫に肩を叩かれて、レイセンはもう死んでも良いと思う位の喜びに身を震わせ、一層の気迫を込めて月人達を先導し始めた。
神神の間に人影が入る。
何者だという神の問いに、人影は平伏して答えた。人影が老婦人の姿を取る。
「ルクミニ・ムカルジーと申します。宇宙開発振興財団の理事長に座り、今回の作戦の全面的な立案と運用を担当致しておりました」
指揮官かとの問いを理事長は肯定する。地球の支配者かと問いを理事長は否定する。何の用かとの問いに、理事長は静かに答えた。
「現状のご説明を」
その言葉がゆっくりと空気に溶けていく。完全に溶けきった頃に、神が勝利宣言かと問いかけた。その問いに理事長は笑みを強くし、益益平伏して答える。
「いいえ。これは強いて言うならばお暇潰し」
理事長が頭を下げていると、神から許しが出た。理事長が顔を上げ、今を説明する。
「では端的に。都の中には既に地球の軍隊が入り込み、月の都を月の都たらしめる民衆維持のシステムを破壊、更に各地に配置されていたあなた方以外の神神を潰しました。また我我の軍隊は玉兎や妖怪と共に、あなた方に改造され月の民を襲っていた月人や玉兎を倒し民衆の支持を得て、既に月の都は親地球へと傾いております。地球もまた月の者達が陥っている惨状を知り、親月に変わりつつある。つまり我我の戦力は地球と月を合わせた総力、反面あなた方の動かせる戦力は既に無く、敗北は決まっていると言えましょう」
理事長が口を閉ざすと、初めは豊姫かと神が問うた。
それを合図に、豊姫が神神の間に足を踏み入れ、理事長の隣に座る。
いつからだとの神の問いに、豊姫は存じ上げておりませんと答えた。
「少しずつ、少しずつ、私は矛盾に気が付いていきました。昔、この月にやって来た者を殺せと仰られた神が居ました。何故態態月に穢れを撒き散らす様な方法をと不思議に思いました。そんな矛盾。穢れに侵された人や兎を閉じ込め化け物に仕立てる様に命令を受けました。何故穢れを祓わず、穢れを溜める様な事をするのかと私は疑問に思いました。そんな矛盾。そして穢れた者を連れ戻せと請われ続けています。何故何よりも穢れた蓬莱人を月へ戻さなければならないのかと私は納得が出来ておりません。そんな矛盾。少しずつなのです。例えばそう、神と人、人と兎の格差、例えばそう、意に沿わぬ穢れを潰す独裁、少しずつ少しずつ矛盾が溜まり、私はあなた方を信用出来なくなった。畏れ多き事と思いますが、それが私の真実で御座います」
知らぬ話だと神が言った。月にやって来た者を殺せ等と命じた覚えはなく、人や兎を閉じ込め兵器に転用するのは豊姫が提案してきた事である。輝夜姫を連れ戻さんとするのも、思兼命に唆され穢れた身となってしまった姫を一刻も早く何とか助けてやりたいからである。嫦娥と玉兎の努力で実を結んだ蓬莱人を治す薬が完成したのだ。
「いいえ、そんな事が御座いません。私は確かにあなた達から穢れに関わる矛盾した命令を授けられました。そして姫を探す様に求めるあなた方の声、あの熱に浮かされた様な欲情した声音が、姫を助ける為のものだとはどうしても思えません」
何を言っているという神の呟きに、理事長が笑い声を被せた。突然の笑いに神神も豊姫も黙りこむ。
「これは失礼致しました」
何かおかしな事でもあったのか、と神。
「ええ、皮肉なものだと思いまして、少少面白く感じました。あなた方が国譲りを受けた時と正しく同じではありませんか。その時も最後まで抵抗したものの周り全てに背かれた神があったと聞いております。それから二人の子供に請われて国を譲った神も居りましたね」
それは脅しかと神が問う。
「いえいえ。確かに私達には四次元ポジトロン爆弾というこの月を粉粉に出来る切り札はありますが、発動させようとは思いません」
豊姫が驚いて理事長を見た。理事長は豊姫の視線を受けて優しく首を横に振った。
「勘違いしないで下さいな。あくまでそれは交渉事を有利に進める為の道具であって、人や兎を殺す為の道具では御座いません。当然爆発させる気は御座いませんので、どうぞご安心下さい」
国を譲らねば我等の子、月の民達を滅ぼすというのであろう、という神の問いをやはり理事長は否定した。
「いいえ、私はあなた方が国をお譲りして下さるという信頼を確かに持っているだけです。他意は御座いません」
理事長がそう言ってにっこりと笑った。
豊姫が呆然と理事長の事を見つめている。
神が言う。例え天津神を幽界に落とし為政者の座を空けたとしても、地上人如きが月の都を運行出来る筈が無い。月の都は天津神の作った世界であり、民達は皆天津神に従っている。豊姫一人が反旗を翻そうと、月の民達が神を望む事は変わらない。
すると理事長が更に笑みを深めた。
「最初に申し上げた通り、既にあなた方の信頼は失墜しているのですよ。地球にテロ活動を行い無用な戦いを呼び、その上攻めこまれれば負け、剰え負けそうになると月人達の犠牲も厭わず穢れた化け物を放ち、あろう事かその化け物が月や兎を改造した産物である等と、一体誰がそんな愚物を為政者として扱いましょうか」
その様な事はしていないと否定する神に、理事長が頭を振った。
「いいえ、間違いなくあなた方はそれをしたのです。その証拠に、月の方方は皆それを信じ、あなた方に対して反旗を翻そうとしています。こちらの綿月豊姫様の様に」
そう言って、理事長が豊姫の肩に手を置いた。豊姫の体が震える。その目からは生気が失せていた。
「そして月を治めるのは勿論私ではありません。治めるのは紛う事無き月の民」
そう言って理事長が豊姫に顔を向けた。だが豊姫は震えたまま虚ろな目を理事長に向ける。
「聞いていない。その爆弾を使うなんて聞いていない」
豊姫の震える唇から掠れた声が漏れる。
どうした、とこんな状況だというのに豊姫を気遣う神の声。
理事長は御簾の向こうに笑顔を見せる。
「ご安心下さい。今は少しショックを受けているだけです。さあ豊姫様」
理事長が何処からか羽衣を取り出して豊姫の肩に掛け、豊姫の耳を囁き声で浸す。
「八意永琳様のお考えに間違え等あろう筈が御座いません。そうでしょう?」
豊姫の瞳が揺らぐ。顔に生気が満ちていく。
「そう言ったのは綿月豊姫様あなたご自身では御座いませんか。八意永琳様は月の賢者、間違いを犯す筈が御座いません。さあ、豊姫様、旧き神神に新しき為政者をご紹介下さい」
豊姫に再び自信が宿り、御簾の向こうを見据えてはっきりと言った。
「既にあなた方に月を治める力は無い。まして人しか治められぬあなた方。真にこの月を、人と兎の共存する都を治めるのは蓬莱山輝夜様を置いて他に無い」
豊姫の背後に人影が立った。
今しがた名前を呼ばれた輝夜は神神の間に入るなりどうもと言って豊姫の隣に飛び込む様に座る。更にその後ろから永琳と紫も現れて輝夜の背後に座った。振り返って永琳を見た豊姫の目が憧れの光できらきらと輝く。
「っていうか、何、そういう話になっていたの? 私、今更誰かの上に立つつもりなんて無いけど。とりあえず月が穢れを受け入れて、元幻想郷のみんなが諸手を振って出歩ける世界になればさ」
神が輝夜の名を呼び、いつから居たのかと問うた。それを聞いた輝夜が口を押さえておかしそうに笑う。
「気がついていなかった? ずっとよずっと。正確には、五十年位前? 幻想郷で妖怪が生きられなくなってからは、ずっとこの豊姫の作った空間に厄介になってたの。私達みんなね」
背後の永琳も忍び笑いを漏らした。
「ずっとお膝元に居たというのに気が付かなかった? 治めるのであれば、その地の全てを把握しないと。教えなかったかしら? いえ、教えるまでも無い当たり前の事よね」
神が永琳の名を呼ぶ。怒りという強い感情を乗せて。御簾の向こうから歯を食いしばる音が聞こえた。
それを気にした風も無く、永琳が嘲笑う様に言う。
「時が来たのよ。神代の終わる時が。もうこの月に神は要らない。譲りなさい、遠き過去に縊られた彼等の様に」
森閑と静まって、御簾の向こうから荒い息が聞こえ出した。
それが次第に収まり、かと思うと含み笑いが聞こえてくる。その感情の揺り動きはまるで狂った様で、少なくとも穢れの無い者が放つ感情ではない。
新しい時代が来る事は歓迎しよう、と神が笑いながら言った。むしろ遅かったのだ。もっと早く、月は月の民達自身に委ねられて良かった。
「ええ、その通り。あなた達の支配する月は既に腐り落ちている。神もシステムも。停滞を目的とした時点でね。実は腐り落ちる。それを防ぐのであれば変化が必要。これもあなたに教えた筈だけれど」
だが、と神が言った。だが新しい時代に神が要らないと言うのであれば、そこに居る神もまた必要が無い筈だ。
それを聞いて、永琳が笑った。
「その通りね。私も必要無い。だから私は、そうねぇ、地球でそうしていた様にまた薬屋でも始めようかしら」
聞けと神がその場の者達に告げる。その神は、その知識を司る神は何よりの毒である。楽園を破壊する悪魔の実である。それが身の内にあれば、必ずや体も腐り落ちるだろう。
お告げを聞いた豊姫は一瞬不安な心に支配されかけたが、その不安は輝夜と紫と理事長が笑い声を上げたのですぐに吹き消えた。
「あのねぇ、何年永琳と一緒に居たと思っているの? そんなの知っているし、扱い方だってちゃんと分かっているわ」
「妖怪達を守るのが私の務め。こんな危ない毒、対処の百や二百考えているわよ」
「あまり地上人をなめないで下さいな。五億平方キロメートルの領地で数百万年以上積み重ねてきた人類の歴史は、たかだか一柱には負けません」
その毒を侮るなと神が反論しようとするも、永琳の笑いに止められる。
「たった一つの存在にそこまで怯えている事が、あなたの器が小さくなった何よりの証拠。昔のあなたであれば、この状況でも覇気を失わず、実際に失地を挽回出来たでしょうに」
もはや沈黙した神に理事長が告げる。
「何にせよ、ご安心下さい。先程、私と共に会談している映像を撮れましたので加工して存分に使わせて頂きます。そうですね、一年、一年あれば、月の民の神神に対する畏敬の念を消し去り、印象を地に落としてみせましょう」
そうして片手を挙げた。
豊姫が頭を地に付け、お世話になりましたと呟くと、三方の御簾から、幾重にも重なった破裂音が聞こえ、部屋に血の臭いが漂い出した。気持ち悪そうな顔になって外へ出て行った豊姫を無視して、理事長が御簾の向こうに笑顔を向ける。
「お疲れ様でした、クリフォード。死体を曝すと神神しさが失われるから隠しておいて」
だが御簾の向こうから反応が無いので、理事長が不思議そうにもう一度クリフォードの名を呼んだ。しかし御簾を潜って現れたのは、クリフォードとは別の兵士だった。
「クリフォードさんは、あなたからの命令があるからと、別れましたが」
「私からの命令? そんな筈は」
理事長が困惑した様な顔になった時、何処からかクリフォードの声が聞こえてきた。
蓮子とメリーは岡崎達と一緒に都から出て軍隊の基地へと走っていた。
化け物が目の敵にされている今、文乃を城壁に入れる事は出来ない。だが化け物の跋扈している都に留まっている訳にも行かない。とはいえ都の外で不測の事態に陥るのも不味いので、予定通り軍隊に保護を求めに行く事になった。
だが軍隊に保護されれば地球に連れ返される可能性は高い。自分の姿が変わってしまった事で地球に帰りたくないと考えている文乃は随分渋った。だが月の都に居ても化け物として迫害されるだろうと岡崎から説得され、結局折れた。
そんな訳で軍隊に保護を求めるべく都の外を走っていたのだが、その途中で声が聞こえてきた。
「月の皆さん、こんにちは」
クリフォードの声だった。上空から声が降ってくる。恐らく月中に流れているのだろう。もしかしたら地球にまで。
「そしてごめんなさい。これから月を爆破します」
その言葉の衝撃は放送の届く全てへ広がった。
放送を聞きながら、理事長は変わらず笑みを浮かべていた。元より本体は地球にあり、月が爆破されても死ぬ事は無い。それだけでなくまるでそれを見越していたかの様な笑みを浮かべていた。
「やってくれたわね、クリフォード」
空を見上げると、クリフォードの笑顔が映っている。背景は、知っている者ならそれがロケットの内部であると分かり、また四次元ポジトロン爆弾が組み込まれていると分かる。地球側が用意した最終兵器。表側の月にロケットで密かに着陸させた物だ。破裂すれば、その振動は結界の裏側である月の都まで届くだろうし、基となる月そのものを破壊するから誰も助からない。
「私の傍にあるこの爆弾は、四次元ポジトロン爆弾と言って、月そのものを破壊出来る強力な爆弾です。これを爆発させれば誰も助かりません。ですから先に謝っておきますね。月の皆さん、そして月にやって来た地球の皆さん、これから殺します。ごめんなさい」
その場に居る豊姫と兵士達が声を上げて立ち上がった。兵士が何処かへ連絡を取っている。それを見た理事長は、基地の者達もこの映像を見ており、そして今更焦ったところで間に合わないだろう、と達観していた。
「それにムカルジー理事長にも謝罪します。本来であればこの爆弾はあくまで脅しの為に持ってきた物で、実際に爆発させる為の物ではない。それを使う事をお許し下さい。私はどうしても月に復讐がしたいのです」
恐らく、と理事長は思う。クリフォードの放送に危機感を抱いている者は殆ど居ない筈だ。そもそも事情の知らない者はクリフォードが何を言っているのか理解出来ていないだろう。事情が分かっている者も、クリフォードの整った顔が浮かべる爽やかな笑顔が凄惨な事態を語っているという齟齬の大きさに、現実味を掻き消されている筈だ。それに幾ら知識として知っていても、数える程しか使われていない四次元ポジトロン爆弾の威力に対して、この短時間に本気で危機感を覚えられる者は少ない筈だ。
その意味で慌てて基地へ連絡を取ろうとしたこの場の兵士は優秀であり、また月側の存在でありながら顔を青ざめさせている豊姫は更に優秀と言える。クリフォードの言葉が現実味を持って人人に恐怖を与えるのは実際に事件が終わった後だろう。爆発するにせよしないにせよ、この騒動が終わった後で、ようやく人人は爆弾に恐怖を覚える。そしてその時には酷い騒ぎになるだろう。爆弾が爆発する今の状況よりも余程。
クリフォードの背後にあるカウンターは爆発まで十分残っている事を示している。まだ猶予はあるが、これからクリフォードの場所まで行って、四次元ポジトロン爆弾を解除出来る者なんてこの月に殆ど居ない筈だ。紫や豊姫の能力を使えば人は送れるかもしれないが、四次元ポジトロン爆弾を解体出来る学者は連れてきていない。岡崎位しか思い当たらない。
「まだ少し時間がありますし、皆さんもどうして殺されるのか知らぬまま死ぬのも嫌でしょうから、勝手ながら少し昔の話をさせて頂きます。
「私には妹が居ました。それを知ったのは二十歳を過ぎた頃でした。元元家族になんか興味が無かったのですが、自分が特殊部隊でそれなりに成功を収め、一般に金持ちという身分になった時、それを家族という特別な存在に自慢してみたいと思ったのです。妹はあっさりと見つかり、現に会ってみました。やはり気分は良かった。遺伝子の似通っている人間が目の前に居るというのは何だか不思議な気分ですし、それが自分の全く知らない場所知らない文化に居るというのもまた不思議で、自分の世界が広がった様な奇妙な心地良さがありました。それにお兄ちゃんという呼称も、今までに呼ばれた事が無かったので、何やらこそばゆい情感がありました。
「妹はその国での極ありきたりな生活を送っていて、それに満足している様でした。援助を申し出て断られたのは少し残念でしたが、結局は遺伝子が似通っているだけで大した繋がりもありませんし、あまり踏み込み過ぎるのもおかしな話だろうと諦めました。再び会う事を約束して、私も妹も元の生活へと戻りました。
「それからもしばしば連絡を取り合っていましたが、それがある日突然連絡がつかなくなったのです。様様なつてを辿って捜索しても妹は見つかりませんでした。
「そんな時に宇宙開発振興財団に出会い、そこで妹が月に攫われた可能性がある事を聞きました。月は定期的に地球の人間を攫っている。それに私の妹が巻き込まれたんじゃないかとね。他の可能性は殆ど潰して、最後に残った可能性がそれでした。状況的に見ても、月に攫われたとしか思えない。妹が月に攫われたと確信した私は宇宙開発振興財団に協力して妹を助け出そうとしていたのです。
「ですが見つかりませんでした。月の都を探し回りましたが何処にも居なかった。もしかしたらもう死んでしまったのかもしれない。あるいは都で暴れていた化け物は人や兎のなれの果てだそうですから、その中に紛れていたのかもしれません。何れにせよ死んでいる。
「もうお分かりでしょう。私はその復讐の為に爆弾を起爆させます。分かっています。それはあくまで非道なる月の上層部が勝手に行った事であり、復讐の対象として月の皆さんは関係無い。それは十分分かっているのですが、すみません、私は自分を止められないのです。月の上層部を月ごと粉粉にしなければ気が済まないのです。
「もう一度謝罪させて頂きます。ごめんなさい」
クリフォードの放送を聞いて絶句していた蓮子は、ふと啜り泣く声を聞いた。それは乗っていた文乃から聞こえてくる声で、見ると毛の無い男の顔がぽろぽろと涙を流していた。
「どうしたの?」
「私なの」
文乃がぽろぽろと涙を流しながら空を見上げている。
「私がその妹なの!」
蓮子とメリーとちゆりが驚きの声を上げた。
「じゃあ、今の爆弾を爆発させようとしているクリフォードさんが文乃の」
「どうしよう。私の所為でお兄ちゃんが大変な事を」
「そんな」
「どうしよう」
泣いている文乃が可哀想で何とかしたかったが、四次元ポジトロン爆弾で月を吹き飛ばそうなんていう規模の話だと、蓮子にはどうする事も出来ない。皆が沈黙する中、岡崎が焦った様子で言った。
「不味いな。月の民も地球の軍隊も月の表側に行く時間が無い」
「え?」
「宇宙船は月の表側にある。だがそこまで十分という短い時間で辿り着く方法が無いんだ」
「じゃあどうすれば!」
蓮子が悲痛な声を上げる。
四次元ポジトロン爆弾の威力は聞いているし、実際にシミュレータでも見せつけられた。規模によっては本当に月でも地球でも壊してしまえる爆弾だ。それが自分に向けられていると思うと、自然と体が震えてくる。
「一つ方法がある」
「え? 本当ですか?」
「メリー君、君の境界を見る能力で境界を通り、通信機を爆弾のところまで運んで欲しい。そうすれば、私のこの影が爆弾の場所に出現出来る」
「別にその影は通信機が媒介じゃない筈だぜ。だったら最初からメリーちゃんの境界で教授の影だけ向こうに行けば」
「無理だよ。メリー君の能力は蓮子君と一緒に居る為のものだ。私達に境界は越えられない。通信機で辺りの状況を探査してからじゃないと月に影は出現させられないし」
「でもそこに境界があるって分かりさえすれば、見えようが見えまいが、結界を越えられるんじゃ」
「勘違いしちゃいけないよ。メリー君の能力は向こうの世界を見つけ入り込む能力であって、既存の結界を通り抜ける能力じゃない。そしてその能力は蓮子君と一緒に居る為のもの。二人を引き裂かんとする障害、四次元ポジトロン爆弾の場所まで行ける筈だ」
そこで岡崎がにっと笑う。
「勿論、そうでなくてメリー君と蓮子君だけが四次元ポジトロン爆弾の届かない場所に逃げるという手もあるけれどね」
その笑顔を見たちゆりは「うわぁ、悪党みたいだなぁ」とメリーに同情した。
当然岡崎にそんな事を言われて断れる筈も無く、あるいは元から断る気が無かったのか、メリーは頷いた。メリーを引き留めようとその手を蓮子が掴む。メリーが通信機を運ぶという事は、四次元ポジトロン爆弾のすぐ近くに向かうという事で、あまりにも危険に思えた。
「メリー」
それだけ言って蓮子は何も言えなくなる。四次元ポジトロン爆弾が月をも壊すというのなら、何処に居たって変わらない。爆弾の傍に居ても遠くに居ても死ぬものは死ぬ。だとすれば、ここで引き止めたって何の意味も無い。理屈ではそう分かっていても、やっぱりメリーを爆弾の近くに行かせるのは嫌で。
逡巡している蓮子に、メリーが笑いかけた。
「蓮子、ありがとう」
「メリー」
蓮子がメリーの震える手を強く握りしめる。するとメリーが一瞬口を引き結び、それから困った様な笑みになった。恐れている様な弱弱しい笑顔だったが、その目には強い意志が宿っていて。
「ごめん、やっぱりちょっと怖くて」
「うん」
蓮子にはメリーの気持ちが良く分かった。止めたって無駄だという事も。
だから次のメリーの言葉にすんなりと頷いた。
「無茶なのは分かってる。でも蓮子にも一緒に来て欲しい。怖くて。傍に蓮子が居てくれないと」
「当たり前でしょ。そんな危険なところ、危なっかしいメリーだけで行かせられる訳無いじゃない」
蓮子はあっさりと笑って、メリーの体を強く引いて近づけた。自分の足の震えが見られない様に。
怖い。
怖くて怖くてたまらない。
これから爆弾のある場所に行かなくちゃいけないなんて。
でもそれを防がなくちゃ月が壊れて自分達も死んでしまうのなら、行くしかない。
「行こう、メリー。きっとこれが終われば地球に帰れるから」
「うん」
メリーが笑顔を浮かべて蓮子を引っ張り返す。蓮子が体勢を崩した瞬間、二人の姿が消えた。
そうして二人は壁にぶつかった。痛みに顔をしかめて辺りを見回すと、驚いているクリフォードと四次元ポジトロン爆弾が見えた。どうやら宇宙船の一室の様だ。
「驚いた。てっきり岡崎教授が来るかと思っていたけど、まさか君達とは」
二人がクリフォードを恐れて抱きしめあうと、クリフォードは敵意が無い事を示す様に手を上げた。
「安心してよ。君達を傷付ける気なんて無いさ。今更意味が無いだろう?」
そう言いながら、クリフォードが背後を指さした。そこには四次元ポジトロン爆弾がある。更に目を凝らすと透明な扉で隔てられていた。
「こうして鍵も閉まっているし。開けられたとしても、君達が爆弾を解除出来ないだろう。だからどっちでも良いのさ」
そう言った時には傍に真っ黒な岡崎が立っていた。
「じゃあ眠っていてくれ」
そのまま傍の工具箱を振り下ろしてクリフォードを気絶させると、何処からか空気の泡に入れるタイプの救命胴衣を持ってきて、そのまま船外に排出した。ちなみにその排出装置は船内にあってはならない固形物を射出する為の装置で、射出した物体が気圧等の影響で宇宙船にへばりつかない様、物凄い勢いで吹き飛ばされる。排出されたクリフォードは山一つ越えた先のクレータにカップインした。それはともかく、岡崎は何食わぬ顔で四次元ポジトロン爆弾を眺め出す。
「鍵か。どうすれば」
「教授、あのクリフォードさんは」
「どうでも良いから、気にしないで良いよ。それより、鍵か、手間だな。後、七分、間に合うか?」
岡崎が悩んでいる横に蓮子が歩み寄り、帽子から銀色の板を取り出して扉に押し当てた。たちまち扉が開く。
岡崎が呆気に取られた様な仕草で蓮子を見た。蓮子は銀色の鍵を岡崎の前に翳す。
「技術の進歩です」
「それ、後で解析させて」
蓮子が頷くと、岡崎は嬉しそうな笑い声を漏らす。
「間に合いそうだね。君達はそこで見ていて。もし出来るなら逃げていてくれた方が安全だけど」
振り向いた岡崎にメリーは首を横に振った。
「境界が見えないです。何でだろう」
岡崎はくつくつと笑う。
「その信頼に応えられる様に頑張るよ」
そうして身を屈めた。組み上げられた機器にぽっかりと空いた、人一人が入れそうな大きさの隙間に顔を突っ込み、「どうやら奥をいじらないと解除出来ないみたいだね」と言って、ずりずりと隙間の中に身を滑らし始めた。そうして体が半ばまで入ったところで止まった。いよいよ解除が始まるのかと蓮子が期待していると、岡崎の「あ、やべ」という声が響く。
「あの、教授?」
恐る恐る尋ねると、岡崎がヘルプを出しながら足をばたつかせ始めた。
「ごめん、ちょっと引っ張って」
慌てて蓮子とメリーが岡崎を引っ張りだすと、妙に清清しい笑顔で「無理」と言った。
蓮子は総毛立って岡崎に詰め寄る。
もしも解除出来なかったら月が壊れてしまうのに。
「何でですか!」
「いや、体がつっかえて」
「まさかコンビニで菓子パンを食べ過ぎたから太って」
「太ってない! そうじゃなくて、骨格的に大人が入れる様に出来ていないんだ」
蓮子が拳を戦慄かせながら隙間を見る。確かにその穴は小さい。
岡崎が顎に拳を当てて「まさか本気で爆発させる気か」と呟いている。
「どうすれば良いんですか? このままじゃ」
不安気に縋り付いてくる蓮子を抱き締めながら岡崎はしばらく目を瞑りそして言った。
「君達は境界を通って逃げなさい。爆弾を止められないと分かった今なら、メリー君の境界で逃げられるだろう」
思わず蓮子は生唾を飲み込んだ。岡崎の言葉はまるで諦めると言っている様に聞こえて。
「止められ……ないんですか。教授はどうするんですか!」
「私はこの通り影さ。問題ない」
「月は? 地球の軍隊は? ちゆりさんや文乃は?」
「ちゆりと文乃はICBMがある。他は……」
「どうするんですか!」
「月から脱出出来る乗り物が用意されている事を祈るしかないね」
岡崎の言葉に蓮子は固まって唇を戦慄かせだした。代わりにメリーが静かに尋ねる。
「用意されていると思いますか?」
「月は分からない。ある程度なら逃げられるだろうね。メリー君みたいな能力を持っているのが二人居るから。多ければ、二千人位は逃げられるかもしれない」
それでも月の全人口に比べればあまりにも少ない。
「地球から来た人達は?」
「無理だね。ロケットは全て解体して組み上げている時間が無い」
蓮子が岡崎に掴みかかる。
「じゃあ! どうすれば良いんですか! ここまで来たのに! 解除出来ると思ったのに! 諦めるんですか!」
「出来ないものは出来ない。体の引っかかる部分を何とか解体すれば解除出来るが、後六分で出来る訳が無い」
にべもない岡崎の顔に、蓮子は泣きそうになる。何だかやるせない気持ちが湧いてきて、岡崎の腹に顔を埋めて、その真っ黒な服に噛み付いた。
「だから君達は逃げなさい。逃げる手段があるのなら、逃げなさい」
そんなの出来る訳が無い。沢山の人が死のうとしているのに、自分だけがのうのうと助かるなんて。
「嫌です! だったら私が解除します!」
「いけない! 止めなさい!」
岡崎が蓮子の手を捕まえた。
「離して下さい!」
しかし、蓮子は岡崎の手を振り払い、脱兎の如く岡崎から離れて、工具箱を掴み、隙間の中に身を滑らした。
「無理だ! 止めろ!」
既に蓮子は奥まで入り内部の構造を観察していて岡崎の言葉を聞く気は無いらしく、黙ったまま何か金属を擦れ合わせる音だけが聞こえてくる。
しばらくして嬉しそうに言った。
「教授。これ、結構簡単な作りです。私でも解除出来そう」
「止めたまえ! それは欺く為の罠だ!」
爆弾には解除されない様に二重三重の防止機能が備わっている。
それを一民間人の蓮子が解除出来る訳が無い。
「いえ、でも構造的にこれを隔離すれば」
自信のある蓮子の言葉に、岡崎はまさかと戦慄した。
まさか本当に解除出来るのか。
出来る訳無いと分かっているが、もしかしたらあの蓮子ならという気持ちが微かにあった。
しばらく蓮子が機械をいじる音だけが聞こえる。慣れない作業だろうから仕方が無いとは思いつつも、岡崎が焦れていると、突然辺りに重低音が響きだした。
「何これ! 熱っ!」
蓮子の悲鳴に岡崎が怒鳴る。
「だから言っただろう! 罠だと!」
隙間から這い出てきた蓮子は怯えた目をしていた。
「でも構造的に」
「ああ、確かにそうだ! 確かに君は単純な四次元ポジトロン爆弾であれば解除出来ただろう。それは凄い。だがこの爆弾は軍事用だ! 四次元ポジトロン爆弾の構造を知っているだけじゃ解除出来ない! 一から組み上げて全体の機構を知っていないと絶対に解除出来ないんだ! 間違った解除を行えば、熱暴走を初めて、人間が近づけなくなる。もうこの装備じゃどうあがいても解除出来ない」
蓮子ががたがたと震えだす。
岡崎はそれを抱き締めると、メリーに向かって静かに言った。
「とにかくもう無理だ。脱出しなさい。くっ」
突然岡崎が呻いて、蓮子を放し身を屈めた。
「不味い。場が不安定に……粒子の固定が」
そうして岡崎の姿が消える。
蓮子は何も考えられなくなる。希望が消えてしまった気がした。喉の奥から悲しみが迫り上がってくる。居なくなった岡崎を見つめながら、蓮子は啜り泣いた。
「ごめんなさい。私が、みんなを」
それをメリーが抱きしめた。
「違うわ。蓮子は悪くない。むしろ私の方こそごめんなさい」
蓮子の頬に自分の頬を当てる。
「境界が見えないの。どうしても。もしかしたらそういう特殊な場なのかも。教授が消えたのもその場の所為かも。だから……ごめんなさい。ここから逃げられない。ごめんなさい。蓮子をここに連れて来ちゃって。私一人で来れば」
「違うよ。私が爆弾を解除出来てれば良かったのに」
助かる方法は思い浮かばない。爆弾を止めるのも、脱出するのも不可能に思えた。打つ手が無い。後は死ぬしか無い。お互いがお互いの震える肩を抱き締める。刻一刻と死に向かっている宇宙船の中で二人して涙を流し続ける。
そこへ通信機から岡崎の声が響いた。
「二人共! 脱出はしたか? 解除はもう諦めて、早く!」
涙を拭ったメリーがそれに答える。
「無理なんです。私、境界が見えなくて」
「ブレーンの振動か! くそ!」
通信機の向こうから何かガラスでも割った様な破壊音が聞こえてきた。
どうやら絶望的な状況らしい。分かっていた事ではあるけれど、あの岡崎がこれだけ焦っているのを聞くと、蓮子はいよいよ最後なんだと実感出来た。
「とにかく何か方法は無いか! 身を守る術でもそこから脱出出来る方法でも!」
そんな事を急に言われても思いつかない。
「そうだ! 救命艇がある!」
「え、じゃあ、それに乗れば」
俄に希望が湧いてきたが、すぐに岡崎の言葉がその希望を絶った。
「いや、駄目だ! それじゃあ、脱出速度に到達出来ない」
蓮子が歯を食いしばって考える。岡崎がまだ諦めないでくれている事が、勇気をくれた。
そうして思いついた。
蓮子はメリーを抱きしめてから立ち上がる。
「教授、一つ聞いて良いですか?」
「何だ! 何か方法が?」
「そっちからこの宇宙船って操縦出来ます?」
「いや、無理だ。通信出来ない。が、どうしてだ?」
「そうですか」
蓮子は落胆して溜息を吐き、操縦席へと向かう。後ろからメリーもついてきて、通信機からの岡崎の声もついてくる。
「何か方法が思い浮かんだのか?」
「成功するのか、というより、出来るのか分からないんですけど」
「少しでも成功する可能性があるならそれに縋ろう。どうするつもりだ?」
「この宇宙船を爆弾ごと宇宙に飛ばします。月に爆発が届かない場所まで行ければ私達みんな助かる。無理、ですか?」
通信機が沈黙した。
やっぱり無理なんだろうか、と蓮子が落胆していると居ると、岡崎が小さく答えた。
「出来る」
「本当ですか!」
「出来る。その爆弾の爆破半径はおよそ二千キロ。確かにその宇宙船は時速十万キロ出せるから、後三分半あれば十分に爆弾を遠ざける事が出来る。だが喜ぶな! 確かに出来るが、その宇宙船は遠隔操作出来ない。誰かがその宇宙船と一緒に残らなくちゃいけない」
岡崎の言葉は予想していた事だ。自分でも考え、そしてもう決めている。
「だから私が残ります」
蓮子がそう言って、操縦席に座ると、メリーが「駄目」と言って抱きついてきた。
「それじゃあ蓮子が死んじゃうって事じゃない! 嫌! そんなの絶対に嫌!」
メリーの気持ちは嬉しい。
出来れば離れ離れにはなりたくない。
でも一緒に居ようとすればメリーが死んでしまうというのなら、例え離れ離れになったって、メリーに助かってもらいたい。
「その通りだ。自分を犠牲にするなんて美しいかもしれないが、それじゃあ残された者が救われない!」
「でもそれしか方法が無いのなら」
怖かった。死、という言葉が頭の中を踊っている。
岡崎の言う事は十分分かっている。死ねばメリーが悲しむ。誰かが幸せになる選択じゃない。でもその代わりに起こる筈の沢山の悲しみを無くす事が出来る。メリーも助かる。
蓮子は震える手を握りしめて、笑顔になった。
「それに死ぬ気は無いの。ほら、救命艇があるのなら、それで逃げれば。ね?」
「馬鹿を言え。射出された救命艇も時速十万キロになるんだ。方向制御用の噴射なんて役に立たずに、あっという間に彼方へすっ飛んでいく。二度と人類の圏内に戻って来られなくなるぞ! 分かっているだろう」
「すみません。知っていました。でもやっぱり誰かがやらなくちゃいけない。だからメリー、お願い、悲しまないで」
駄目だった。メリーを心配させない様に泣かないと決めていたのに、気が付くと涙が溢れていた。メリーも泣いている。お願いだから泣き止んで欲しい。そう言おうとするのに、涙が後から後から溢れてきて、悲しみで喉がつっかえて、何も言えなかった。
これが最後の抱擁になるかもしれないと、蓮子は過去を思い出す。
沢山の事があった筈だが、思い浮かぶのはメリーとの思い出ばかり。いつもメリーに振り回されていた。それは良い思い出ではない筈なのに、今は何だか素晴らしい日日だった様に思える。
「メリー。お願い、分かって」
「嫌! 絶対に嫌!」
二人で涙を流し合っていると、「あ」という岡崎の間の抜けた声が響いた。
蓮子とメリーも驚いて通信機を見ると、岡崎の興奮した声が聞こえてきた。
「そうか! いけるかもしれない!」
「え?」
「良いか。四次元ポジトロン爆弾には気体が必要なんだ。最初のエネルギーが気体を媒介にしてブレーンを破壊する事で爆発するからね」
「どういう事ですか? 良く分からないですけど、気体の無い場所、真空に持っていけば良いなら、月の大気だって殆ど真空なんだから、ここに放置しておけば安全っていう事ですか?」
「だが裏側には大気があるだろう?」
教授の言葉の意味が分からず困惑している蓮子とメリーを置いて、岡崎はまくしたてる。
「何にせよ、方法はもう無い。やってみるしか無いだろう」
「あの」
「蓮子君、メリー君、操縦席に座って、私の指示通りにしてくれ。もう時間が無い」
何か岡崎に確信がある様なので、蓮子とメリーは大人しくそれに従った。岡崎の指示通りにスイッチを入れ、数値を調整し、シートベルトを着用する。宇宙船が唸りを上げ始める。
「後二分。少しぎりぎりだな」
岡崎の指示通りにスイッチを入れていくと唸りが更に大きくなる。
蓮子が緊張して息を飲む。
「よし、発射させるぞ」
教授に支持されて蓮子はレバーを握った。時速十万キロ。それを思うと恐ろしくなった。宇宙船は慣性力を制御して飛行士に加重がかからない様にする筈だ。それでも時速十万キロという数字が頭にちらつくと手が震えてくる。
「安心して。月の脱出速度のたった時速九千キロ。さっき話していた速度の十分の一なんだから」
「それで足りるんですか?」
「だから言っただろ? 真空中にさえ出れば良いんだ。さあ、レバーを引いて。カウントは要らない」
蓮子がレバーを引く。その瞬間、一瞬だけ大きく揺れたかと思うと、さっきまでの唸りも消えて全くの静かになった。まさか発射に失敗して、宇宙船が緊急停止したのかと、蓮子の顔が青ざめる。
だが通信機の岡崎は「成功だ。宇宙船は無事大気圏外へと脱出する」と言った。
「さあ、次は救命艇に乗り込んで、君達が脱出する番だ」
「でも爆弾が」
「大丈夫。私の指示通りに動いてくれれば。速く。後三十秒しか無い」
急いで蓮子とメリーが救命艇に乗り込む。救命艇は一つしか無く、蓮子とメリーは同じ救命艇に乗った。狭くは無いが寝転がっている位しか出来ない構造で、二人は柔らかな繊維に包まれ寄り添い会う。
「そこにボタンがあるだろう? 赤と青と黄色だったかな?」
見ると丁度顔の来る部分に窓があり、その脇に岡崎の言った通りの色が並んでいた。
「あの、これ、あんまりにもアナログ過ぎじゃ」
「青を押して。早く!」
蓮子が急いで青のボタンを押すと、救命艇が揺れて動き出した。かと思うと、衝撃が走って、気が付くと、蓮子達は船外に出て宇宙空間に漂っていた。
助かった?
蓮子が息を吐くと岡崎の安堵した声が聞こえてきた。
「これで大丈夫だろう。四次元ポジトロン爆弾は空気のある部分にしか働かないから」
「それ、さっきも言ってましたけど、それじゃあ月で爆発したって真空なんだから」
「勿論範囲は結界の裏の世界にも引火する様に調整してあるよ。だから完全に真空の空間へ飛ばす必要があったんだ」
「えっと」
「つまり結界の裏側にも空気があっちゃいけないんだ。私達の居た月の裏側は空気で満ち溢れていただろう」
「そういう事ですか」
「とにかくもう大丈夫。救命艇は地球へ向けて射出されるから今の軌道のまま行けば、いずれ地球に」
途端に凄まじい衝撃がやって来て、蓮子とメリーが救命艇の中で思いっきり揺さぶられた。あまりの振動に二人が気を失う。
宇宙船が爆発したのだ。その爆風で吹き飛ばされた、救命艇は本来の軌道から逸れて地球から外れたコースを進みだす。通信機からしきりに蓮子達を呼びかける岡崎の声が響いたが、二人は目を覚まさずに、救命艇はそのまま進んでいった。
二人が気が付いて目を開けると、通信機から凄い声量で呼びかけられていたので、慌てて返事をした。
「大丈夫か? 大丈夫だったか?」
「ええ、多分。メリー?」
「私もなんとも無いわ」
「良かった。今、理事長に聞いたよ。四次元ポジトロン爆弾を着火させる為の、起爆剤に通常火薬の爆弾を使っていたらしいんだが、その量を多めにしていたらしい」
「何で?」
「あ、こら、止めろ」
慌てた岡崎の後に、理事長の声が続く。
「例え解除されても月の軌道をずらせるようによ、メリーちゃん」
「理事長。どうしてそんな」
「兵器だから。それより救命艇の乗り心地は如何?」
「えっと」
メリーが答えようとした時、隣から蓮子が非難の言葉を発した。
「凄く悪いです。安物の化学繊維しかなくて。外を見ようとするとアナログ過ぎな単なる窓。どうしてもっと他の情報を表示出来るインターフェイスにしなかったんですか?」
「蓮子ちゃんね。ごめんなさい。救命艇は万が一の時の物だから、電子機器なんかが壊れたりしたら大変なの。それに普通は複数の宇宙船で行動するから、脱出したら別の宇宙船に拾ってもらえるし。あ、夢美。ちょっと」
「今、それが問題なんだ。君達はさっきの爆発で地球への軌道が逸れた。ぎりぎり地球の重力圏から逃れる様な方向へ進んでいる。今、それを捕まえられる様に、大気圏外へ電磁ネットを構築しているけれど、失敗すれば君達は宇宙の彼方へ二人っきりで旅立つ事になる」
岡崎の言葉を理解し、蓮子は喉が乾くのを感じた。
もしも失敗したら、地球には辿り着けず永遠に冷たい宇宙を彷徨う事になる。それは何故だか死ぬよりも恐ろしい事に思えた。
「そんなの……どうしたら」
弱弱しい言葉を吐いた蓮子に追い打ちを掛ける様な岡崎の言葉が続く。
「捕まえられる可能性は七割といったところだな。失敗すれば孤独な宇宙空間に放り出される事を考えれば、高い確率とは言えないだろう。他の方法として、救命艇の噴射装置を使えば、軌道を修正出来るが、残念ながらそちらのベクトルを正確に把握出来ていない。巨大な電磁ネットを張って捕まえるならこちらが能動的に行えるから可能性もあるが、軌道修正となるとこちらからの解析が間に合わなくて手助けが出来ない」
蓮子が絶望で口を閉ざす。
三割の可能性で、この狭い救命艇から出られずに冷たい宇宙空間を彷徨う事になる。それ以前に、水も食料も無い名ばかりの救命艇の中では、数日で餓死するのがおちだ。いや、まだましなんだろうか。何かの間違いで自分の意識が残り、永遠に宇宙を彷徨い続ける事になったとしら。
恐ろしい思いで歯の根がなる。恐怖で頭がぐちゃぐちゃになっていると、メリーが抱きしめてくれた。
「大丈夫よ。私が居るから」
すると通信機が同調する。
「その通り。メリー君が居る。メリー君の境界を通れば地球に戻ってこられるかもしれない」
蓮子は希望を抱いてメリーを見たが、メリーは寂しげな顔をした。
「駄目です。境界がまだ見えない」
「そんな馬鹿な! さっきの話は聞いていたのかい? 君達は宇宙の藻屑と消えるかもしれない。そうしたら死ぬ。一緒に居るも何もなくなるのに」
「それは分かっているんですけど」
「じゃあ、どうして境界が見えない」
「そう言われても、意識してオンオフを切り替えられる訳じゃ」
思わず蓮子は吹き出してしまった。
おかしかった。
こんな状況だというのに、メリーがあまりにも普段通りに落ち込んでいる事が。
とはいえ、こんな状況で笑う自分も自分で、もしかしたら恐怖でおかしくなってしまったのかもしれないと、自分の事ながら思う。
まだまともにせよ、おかしくなったにせよ、さっきまで恐怖でぐちゃぐちゃだった心は落ち着いていた。何となしに蓮子は窓から宇宙を見つめて息を吐く。窓が曇る。何となく絵が描きたくなったが、すぐに透明に戻った。
宇宙は果てしなく、何だか見ている内にぼんやりとしてくる。地球からは随分と離れているけれど、今の救命艇の速度を考えると向かおうとすればすぐだろう。問題は、このまま進んでも地球から大分逸れた軌道で進んでしまうだけで。
「蓮子」
メリーが寄り添ってきた。蓮子は何となしにメリーの頭を撫でる。
もうすぐ死ぬか生きるかが決まる。それも他人の手にそれを委ねて。それなのに蓮子は妙に落ち着いていた。もしかしたらメリーが居るからなのかもしれない。メリーが傍に居てくれるから、こうして安らかで居られる。
寄り添うメリーを見つめる。多分メリーも怖がっているだろう。蓮子はかつてメリーが支えだと言ってくれた事を思い出し、願わくばこの瞬間も自分がメリーの支えである様にと祈った。この恐ろしく冷たい宇宙空間の中でも、自分がメリーに安らぎを与えられる様に。
「メリー」
宇宙を見る。ゆっくりと進んでいる様に見えて、その実とてつもない速度で飛んでいる。この分なら後数分で地球を通過するだろう。その時に全ての運命が……てあれ?
「あの、教授?」
「何だい?」
妙に優しい声。何だか死に水を取ろうとしている様で恐ろしかった。が、今はそんな事重要じゃない。
「あの、これ噴射口が付いていて、向きが変えられるんですよね」
「ああ、青を押せば減速、赤で進行方向に対して左、黄色で右、程度で殆ど自由度は無いけどね。もしそれで地球へ方向転換しようと考えているなら止めておきなさい。目視で何て不可能だし、さっきも言った通りこちらから助ける事が出来ない。勝手な事をされると、むしろ電磁ネットで捕らえ辛くなる」
「いや、出来そうなんですけど」
「蓮子君、試したい気持ちは分かるが」
「いや、本当に。私、月と星を見れば位置とか時間が分かるんですけど」
「え? あ、そう言えば、そんな事言ってたね」
「月の都に居る時は、結界の裏に居たからかな? はっきりと分からなかったんですけど、今なら地球からどの位置に居るのか良く分かります」
通信機が沈黙する。
心配になって蓮子が聞いた。
「あの、良いですよね?」
すると岡崎の励ます様な元気な声が聞こえた。
「勿論。決めるのは君だよ。そこに居るのは君とメリー君なんだ」
「はい」
何だか突き放された様で怖かったが、他人に預けて七割の命なら、自分の決断で運命を決めたい。メリーを見ると輝く様な目を見開いていた。
「あの、メリー、聞いてたと思うけど、いけそうだから。良いよね?」
メリーが感極まった様子で蓮子をきつく抱き締める。
「当たり前でしょ。やっぱり蓮子は私の蓮子だわ」
後は言葉なんて要らないとでも言いたげに、メリーは蓮子の胸に顔を埋めて、抱き締めた体勢のまま固まった。蓮子もまたメリーを抱き締めて、必ず連れて帰るという気合と共に遥かなる宇宙を見る。今自分達の進む位置が分かる。試しに噴射して向きを変えると、自分達の進む先も変わっていくのが分かった。もう一度噴射し向きを変えて、少しずつ地球へと角度を向けていく。減速をしながら方向を転換していくと、遂には地球の重力圏内へと進みだす。かなり地球へと近付いていただけに、方向を制御するのは簡単だった。
「蓮子君、突入した時の減速用にも燃料が必要だ。あまり使い過ぎるな」
「分かりました。私達は太平洋の真ん中へ落ちます」
気持ちの上では日本へ帰りたかった。それは自分の目の精度であれば可能に思えた。だが、万が一という事もある。地面に激突するという危険を冒すよりも水の上に着地した方が生き残りそうに思えた。
「海上なら捕捉も楽だ。早急に君達を受け止めるクッションを太平洋上の展開する。大まかな座標でも分かれば助かるが」
「経度一八五、緯度三五」
「うん、陸地は無い。誤差が出たら言ってくれ」
「一度ずつ位はずれるかも。もう燃料が無いみたいです」
蓮子の自信無い言葉に、岡崎が笑った。
「驚くよ。目視で、しかもそんなアバウトな推進装置だっていうのに。分かった。すぐに救援を向かわせる」
その時一瞬だけ通信が乱れた。
「ああ、地上から見えたと報告が入った。受け止める準備は出来ているが。少し速いみたいだ。ネットが破れて着水は免れない。衝撃に備えてくれ」
淡淡とした言葉だったが、感情が乗っていない分、蓮子の心臓を強く握りしめてきた。
速度を間違えた。もしも速度が限界を超えていれば、着水の衝撃で自分達は死ぬ。
蓮子の心に再び恐怖が灯る。何か救いを探そうとしたが、燃料も無くなった今、もうどうしようも無い。後は速度が限界を超えていない事を、何かに向けて祈るだけだ。
蓮子はぎゅっとメリーを抱き締めた。メリーもさっきからきつく抱き締めてくる。
「後、二秒」
蓮子は更にメリーを強く抱きしめ、衝撃を予期して身を固くする。
「蓮子」
不意に名を呼ばれてメリーを見ると、柔らかな微笑みを湛えていた。
「何?」
「何でも無い」
刹那、衝撃が襲って、二人の意識が暗転した。
蓮子は目を開けると、見当識を喪失したままじっとメリーを見つめた。メリーがまつげを震わせて目を開く。メリーと目を合わせると、ようやく自分達が生きていた事を知った。抱きついてくるメリーをそのままにして、蓮子は救命艇の扉を開ける。腕を首に絡めてひっついてくるメリーと一緒に立ち上がると、そこは大海原の真っ只中。何処までも広がる青い海と空とそれをぶち壊しにする様な沢山の海洋船と飛空艇。蓮子がぼんやりとそれを眺めていると、その耳元でメリーが嬉しそうに囁いた。
「帰ってこれたわね」
「うん」
何となく物語の中に入り込んだ様な錯覚を感じた。まるで自分が主人公になった様な気がして高揚する。生きていて、そして隣にメリーが居る事が嬉しくて、蓮子は抱き締め合いながらメリーと目をつき合わせた。
「メリー」
名前を呼ぶと、メリーの潤んだ瞳が微かに揺れた。
「あ、そうだ」
そう言って、メリーは通信機を取り出して、蓮子に笑顔を見せる。
「蓮子は何食べたい?」
「え?」
「無事戻ってきたら、教授が好きな物を食べさせてくれるって」
蓮子は苦笑して溜息を吐いた。
「今はお腹が空いていないよ」
「そう? 私はねぇ」
こんな何気無い会話も楽しいが、今はそれ以上に物語の主人公に酔っていたかった。
これが物語であるならば、最後のシーンは決まっている。
愛すべき二人が口付けをする事で物語は幕を閉じるのだ。
あれこれと食べたい物を想像しているメリーを再び自分に向かせ、蓮子は自分を主人公にメリーをヒロインに見立ててそっと顔を近づける。
そうして唇が触れ合う、直前で蓮子は我に返り、慌てて突き出されたメリーの唇を避けた。しかし勢い余ってメリーの頬に口付ける。
メリーがどうしてキスしてくれないんだと嬉しそうに抗議してくるのをいなしながら、蓮子はようやっと自分が地球に帰って来たという実感を覚える。何だか大変な旅行だった。大変な事ばかりで、良かった事なんて殆ど無かったけれど、それでも二人の初めての月面旅行だったのだ。
遠くで歓声を上げている人人の姿を眺めながら、二人のハネムーンは終わりを告げた。
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Epylogue
私はメリーや教授と一緒に記者達の前に立って、研究成果の発表を行っていた。
私達が月から帰ってきて僅か一日、たったそれだけの間に沢山の事が目まぐるしく起こった。
私達は月を救った英雄として救助された直後に担ぎ出され急遽開かれた記者会見で記者達の質問攻めにあった。何でも四次元ポジトロン爆弾の詰まった宇宙船内には至るところにカメラが設置されており、その映像が地球や月中に流れていたらしい。一体どんな映像が流れていたの、恐ろしさと忙しさでまだ見られていないが、何となく相当な醜態を晒した気がする。正直混乱でどんな質問があって、どんな回答をしたのか覚えていない。覚えているのは、月と地球が和平調印の準備に入ったと記者が言っていた事。多分良い事なんだろうと思う。地球の軍隊は撤収を開始しているらしい。戦死者が零である事が何よりも強調されていた。ちゆりさんと文乃は本当にICBMで地球に帰ってきていたが、文乃には会えなかった。何でも病院に入院しているらしいが詳しい事は教えてもらえなかった。地球の科学なら文乃の姿を治せると思う。信じたいだけというのは自分で分かっているが。クリフォードさんの行方は一切報道されていない為分からない。正直どんな人か良く知らないのでどうでも良かったが、メリーはやけに心配していた。生きていたとしても月を吹き飛ばそうとした世紀の大悪党としてまともに生きられはしないだろうけれど。また同じく悪党として、四次元ポジトロン爆弾を人知れず運用していた責任者である理事長に対するバッシング報道が一瞬だけ加熱した。何でも月でクリフォードさんが使った分だけでなく、ロケット発車前のケネディ宇宙センターでも使用していたらしい。そりゃあ、そんなにぽんぽん使われたら、怖くて仕方がない。釈明の会見場所にやってきた理事長が車から降りた瞬間、頭部を狙撃されて絶命した為、そのバッシングは呆気無く沈静化した。理事長の事もクリフォードと同様に良く知らなかったが、メリーは大変ショックを受けていた。後釜に収まった理事長の息子は早速、月との和平と更なる宇宙への進出を謳っている。結局やっている事は変わらないので、世界からすれば理事長でも息子でも何ら違いは無いだろう。月は、偉い人達がみんな辞めて人事が刷新されたらしいのだが、私の知識ではその辺りの事情が良く分からなかったし、報道も曖昧で、はっきりとした事は分からなかった。ただニュースの中に豊姫さんの名前が出てきたので、もしかしたら偉い人になったのかもしれない。
そうして月から帰ってきた興奮も冷めやらぬ内に、私はメリーと共に教授の実験発表に付き合わされている。
何でもこれからの宇宙開発時代で最も重要なのは、孤独な飛行を続ける上での精神ケアであり、その寂しさを埋める為に願望によって擬似的な話し相手を生むという研究を進めているらしい。例えば、メリーは羽衣のある建物に向かう時、豊姫達の包囲を抜け出す為に黒と赤の二人組を生んでいた。そんな風に願望で人を作り出したいんだとか。
正直倫理的にどうなのかと思わないでも無いけれど、教授は自信満満に必要であれば必ず求められると語った。それどころか、願望から生まれた人間には人権が無いから好き勝手出来ると恐ろしい事を言っていた。まあ、確かに法律上はその通りだし、長い孤独の中で生きていくにはそういう存在が必要なのかもしれないけれど、だからと言って人格のある存在を生み出しそれを己の欲望の捌け口にするのはどうかと思う。私個人が叫んだところで仕方が無いけど。
何にせよ、願いからものを生み出すのはまだ研究途中で完成しておらず、今回の発表は願望の具現化そのものではなく、具現化された願望と実際の物を区別する検知器だった。何でも願望で出来た者は不安定で、周囲の環境で容易に変化するらしい。ただしそれはミクロの話であって、肉眼で見ても何ら変わりは無い。ただ今回の検知器はそれを判断して、偽物と本物を識別し、びーびーと音を鳴らしてくれる。
そんな訳で、私は今ひよこを持っている。願望の足りない地球では偽物を作成出来なかったので、月で作ったものを持ってきたらしい。その二匹はどう見ても生きていて、殆ど同じに見えるのに、どちらかが偽物なんだという。どちらが偽物かは持っている私自身にも分からない。検知器を当てるまでは分からない。ひよこの事は気の毒に思いつつもクイズの様でちょっと楽しみだった。
教授はまず自分に検知器を当てて冗談を言って場を和ませてから、メリーの持つりんごに検知器を当てた。左手に持つりんごに反応して、検知器がびーびーと鳴る。右手に持つりんごに当てても反応は無い。それから教授が簡単な原理を説明し、そして左手に持ったりんごは確かに願望で作られた物であるけれど、性能は全く一緒なのだと語る。実際に齧って食べられる事を示すと、記者達がどよめいた。その驚き方がちょっとわざとらしいと思ったのは、私が発表の事前に同じ説明を受けていたからだろうか。
続いて私の持つひよこでの実験になる。両方共どう見ても生きている。けれどどちらかは願望で出来た偽物だ。ふと偽物は何を思い生きているのだろうと栓無い事を考えた。考えている内に、ひよこへ検知器が当てられた。
右手のひよこに反応した。
右手が偽物なのか。
続いて左手のひよこにも検知器を近づけ、何故かそちらも反応する。
両方共偽物だったのだろうかと教授を見上げると訝しむ様に眉根を寄せていた。どうやら教授にとっても予想外の事らしい。
再び右手のひよこに検知器を当てる。反応する。
続いて左手のひよこに検知器を当てる。これまた反応する。
どういう事だろう。
記者達もざわめきだしてあまり良くない雰囲気だ。実験は失敗したのか。
大丈夫だろうかと教授を見上げると、驚きに目を見開いていた。
何に気が付いたのか気になっていると、教授がゆっくりと手を動かし、左手のひよこに当てた検知器をずらしていく。そうして私の手を上っていく。検知器はびーびー鳴っている。
まさか私の服が反応した?
だとしたら教授の実験を邪魔してしまった事になる。
慌ててひよこを取り落とし、教授を見上げると、真剣な顔で私に検知器を当てていた。
検知器がびーびーと音を鳴らしながら、私の腕を上っていく。
何だか嫌な予感が湧いてくる。
私の腕から肩へ。びーびーと鳴っている。
検知器を掴んで止めたいが、体が動かない。
そうして検知器が私の顔を上り、私の目の前に突きつけられる。びーびーと鳴っている。
びーびーと検知器が私に反応している。
頭が真っ白になって、びーびーという音を聞き続けた。
びーびーという音で頭が痛くなる。
びーびーと辺りが揺らめいていく。
私は凝り固まった首を必死で動かし、メリーを見た。
メリーが罪悪感で押し潰されそうな表情をしていた。
それで私は全部を理解した。
そういう事だったんだ。
初めからそういう事だった。
ずっとずっとそういう事だったんだ。
私はさっきひよこに対して抱いた憐憫を思い出した。
私は何を考えて生きているんだろう。
私は何を考えて生きてきたんだろう。
私は本当に何か考えていたんだろうか。
私は本当に何か考えているんだろうか。
私は何の為に生まれ、何の為に生かされてきたんだろう。
メリー。
ねえ、メリー。
恨むよ。
そうして蓮子の存在は消えた。
メリーの絶叫が響き渡った。
続き
最終章 夢が偽りだというのなら
第一章 夢見る理由を探すなら
一つ前
第十五章 妙なる血を流すなら
第十六章 演じる事が偽りだというのなら
子供について走って行くと、しばらくして壁に突き当たった。都を守る城壁の様だ。それを見上げていた蓮子とメリーの手を子供は引っ張って再び先導する。しばらく歩くと、向こうから大人が走ってくるのが見えた。
どうやら親の様で、子供が安心した様子で声を上げ駆け寄り、抱きしめられていた。その後に別の大人達も集まってきて、蓮子とメリーの存在に気がついた。
気が付かれた蓮子は逃げようか迷う。月人はメリーを連れ戻そうとしていたのだ。また捕まってしまうかもしれない。だが意外な事に月人達は笑顔を見せ、捕まえる様な素振りを見せなかった。メリーと蓮子をはぐれていた月の子供だと勘違いして、城壁の中に逃げこむ様に手招いた。
もしかしたら罠かもしれないと蓮子は迷ったが、メリーは疑う様子もなく月人達へと近付いて行く。蓮子は慌てて後を追った。
「すみません。私達良く状況が分からないんですけど、どうしてみんな居なくなってるんですか? 地球が攻めてきたからですか?」
「玉兎から聞いていなかったのかい?」
大人の一人が意外そうに目を見開いて、都を化け物が徘徊していると恐ろしげに語った。
地球からロケットが飛んできて月との戦争が起きた時は皆安心しきっていた。以前にも地球から来た者達を撃退した実績があるし、地球と月との科学力には雲泥の差があると聞いていたから。今回も大丈夫だろうと思って、外から両軍のぶつかり合う音が聞こえてきても誰も騒がなかった。しかし思った以上に戦いが長引き皆が不安になりはじめた頃に、玉兎が恐ろしい事を告げに来た。
地球の侵略者の強さは月の上層部の予想を上回っており都への侵入を許してしまった、と。騒ぎ出す皆に、玉兎が更に絶望的な報告をする。それを追い払う為に急遽穢れた部隊を都へ放った。それは無差別に人を殺す化け物である。
誰もがその言葉を理解出来なかった。その穢れた部隊というのが何なのか分からない。月が勝つと信じていたのに、どうして攻めこまれているのかも分からない。自分達がどうなってしまうのかもまた分からない。
誰かが私達はどうなるのかと玉兎に尋ねると、玉兎は辛そうに首を横に振った。上層部から民衆を助ける為の具体的な方策は受けておらず、見捨てようとしている可能性がある。それが告げられた瞬間、一気に怒りと混乱が頂点に達し紛糾した。殺到する民衆を落ち着けようと玉兎は必死で宥めながら、何も考えていない上層部に代わって綿月姉妹が民衆を救う為に全玉兎を動員し、無事防衛施設である城壁まで避難を行っていると説明した。その後市内に放たれた化け物を倒す筈だと。
そこから混乱の中での避難作戦が始まった。まだ化け物がやって来て居なかったので誰かが襲われたりといった危険は無かったものの、大混乱の中での大移動であった為、怪我人が出た。それでも無事に避難の完了した今、誰もが戦戦兢兢としながらも、綿月姉妹への信頼を柱に、城壁の中で息を潜めている。
あまりの事態に蓮子は驚愕したが、思い当たる節があった。さっき羽衣を取りに行った建物で、岡崎が死体を見つけたと言っていた。多分、それも化け物の仕業に違いない。そんな化け物が居るのならば、早く城壁に逃げ込むべきだ。しかし蓮子は躊躇する。外にはまだ岡崎とちゆりと文乃が残っている。特に文乃は、先程の子供の反応を見る限り、穢れた化け物と間違われてしまう可能性がある。そうすると外に居れば玉兎達に攻撃されてしまうし、城壁に逃げ込もうにも入れてもらえないだろう。やはり岡崎の言っていた通り地球の軍隊と合流して守ってもらうのが一番だ。
「メリー」
蓮子がメリーを見ると、メリーも同じ事を考えていたのか、すぐさま頷いてくれた。それを合図に二人が走りだす。呼び止める月人達の声が聞こえたが構わず走って角を曲がった時、今したが居た背後から月人達の悲鳴が聞こえた。驚いて二人は立ち止まり、角を戻って、さっきの月人達が集まっている場所を見て、目を見開いた。
そこには真っ黒なローブを着た長身の何者かが立っていた。月人達が蜘蛛の子を散らす様に逃げているが、さっきの子供が化け物の傍で転んでいる。それを親が立ち上がらせようとしている間に、ローブがのっそりと親子へと歩み寄っていく。
再び悲鳴が上がる。
その瞬間、蓮子は隣に立つメリーを見た。自分でもどうしてか分からないが、隣のメリーを見て、そしてメリーの瞳に見つめ返されると、まるで操られる様にして、悲鳴を上げる親子へと駆けていた。
辿り着いた蓮子は親と一緒になって子を立たせ、逃げようとする。だがそれよりも早く歩み寄ってきたローブが、その内から地獄の底から聞こえてくる様な、強烈で捻くれた吠え声を上げた。
あまりに禍禍しい叫声に親子が力抜けた様に崩れ落ちる。蓮子も腰が抜けそうになったが、何とか踏ん張って黒いローブを見上げた。ローブに隠れて姿は見えないが、強烈な殺意だけは感じ取れた。何もかもを殺しつくそうとする意志が肌に突き刺さる様で痛かった。
蓮子は殺意に満ちたローブの前でゆっくりと両手を広げる。両足が震え、頭が真っ白になりそうだったが、それでも親子の前に立ちはだかって二人を守ろうとした。
再びローブが吠え、右腕を振り上げる。
殺されるなと他人事の様に思った。
頭は真っ白になっていて、恐怖は感じなかった。
「蓮子!」
ふと聞こえたメリーの声に、蓮子の視線が引き寄せられる。涙を流しながら駆けて来るメリーに蓮子は静かに首を振った。メリーまで来ちゃいけない。化け物の前に立ったら殺されてしまう。メリーにまで死んで欲しくなかった。逃げて欲しかった。
「蓮子!」
蓮子の視界の中で再びメリーが叫ぶ。蓮子の目には何故かメリーの全身が輝いて見えた。不思議とその光の意味を理解出来た。それは願望だ。メリーの全身から願望が溢れ出ている。綺麗だなと思った。メリーの願望はきらきらと輝いている。それがゆっくりと地面を這って、蓮子まで辿り着き、足先から段段と上ってきた。
メリーの願望が私を助けてくれようとしている。
その温かみを感じながら、ふと前を見るとローブの動きが止まっていた。驚いて振り返ると、月人達も止まっている。まるで時が止まった様に。
気が付くと、メリーの願望は急速に蓮子を包みあげていた。
嫌な予感がする。
蓮子が慌ててスカートを抑えた瞬間、蓮子の服が弾け飛んだ。
同時に時が動き出す。
凄まじい光が辺りを照らした。
月人達は蓮子の居る場所に強烈な光を見て目を眩ませた。ローブも振り上げていた手で顔を覆う。
そして光が収まり視界が回復すると、ローブの前には、黒を基調としたドレス姿に、金色のステッキを持った蓮子が立っていた。
一瞬にして姿を変えた事に誰よりも驚いたのが蓮子だ。蓮子は自分の服装を見て間の抜けた声を上げると、恐ろしいローブを前にしているにも関わらずメリーに目をやった。
「メリー! これ、あんたがやったの?」
「多分」
「一体何を願ったの?」
「蓮子が助かって欲しいって。ううん、違う。願望じゃない。信じてる。蓮子が強いって。蓮子はそんな奴に負けないって。蓮子は辛い時に私の傍に居てくれて、危険な事があっても助けてくれて、そう! いつだって私のヒーローなんだって!」
蓮子は呆気に取られていたが、やがて口の端を吊り上げた。
「なら私はこいつに勝てる訳ね?」
「うん!」
蓮子はローブを睨み上げる。唸り声を上げている。凄まじい声量だ。蓮子は耳を押さえて飛び上がり、思いっきり叫ぶ。
「うっさい! 黙れ!」
蓮子のドロップキックが炸裂し、ローブは生け垣に突っ込んだ。
蓮子は綺麗に着地するとメリーに対して拳を振り上げる。
「どうだ!」
メリーはそれに対して困った様な微笑みを変えした。
「思ってたのと違う」
「はぁ? 何が?」
「もうちょっと華麗に綺羅びやかに倒して欲しかった」
「どうやって! 私、変な棒しか持ってないのに! 殴るか蹴っ飛ばすしかないじゃない」
「そのステッキで魔法を使うとか」
「出来る訳無いでしょ!」
二人の言い合いが、生け垣から物音が聞こえてきた事で止まる。
見ると、ローブがはだけて中身が見えた。その場に居た全ての人間が息を飲み、中には嘔吐する者も居た。まるで粘土細工の兎を壁に叩きつけて無理矢理兎の形を取らせた様な姿だった。正しく化け物だ。化け物は、荒く息を吐きながら歯を軋らせると、天に向かって絶叫して蓮子へ向かって突っ込んできた。
「む、ならもう一回」
蓮子が構えを取る。だがぽんと音が鳴って、蓮子の服が元に戻った。自分の服が戻っている事を確認し、「もしかして魔法が切れた?」と冷や汗を流しながら呟いた時にはもう、化け物が直前まで迫っていた。
殺される。
蓮子が衝撃を予感して目を閉じる。
暗闇の中、凄まじい音が鳴った。
死んだかと思った。
だが予想していた衝撃はやって来なかった。
恐る恐る目を開くと、人民服を着た赤髪の女性が化け物の拳を掴んでいた。
「何があろうと子供を傷付けてはいけません」
女性が化け物を投げ飛ばす。叩きつけられた化け物が立ち上がろうとしたところへ、空気が削り取られる様な轟音が鳴って、化け物の体に火花が散り、更に煌めくネットが幾重にも被さって化け物をとらえた。ネットの中で化け物は暴れるが、抜け出せそうにない。それでも上がる咆哮は月人達の心胆を寒からしめるのに十分だった。
怯えている月人達の見ている前で、化け物に近寄る者達が居た。彼等は懐から何か機器を取り出して化け物に押し当て、化け物の動きを止めると、月人達へ向かって敬礼してみせた。
前に立った男が敬礼したまま、自分が地球から来た兵隊である事を告げると、月人達が再び恐怖の表情を浮かべ出す。ちなみに赤髪の女も元元地球に居た妖怪であると名乗ったが、地球から来た軍隊という衝撃にかすれて完全に無視されていた。
兵士達は月人を安心させる様に笑顔を浮かべる。
「我我はあなた方の敵ではありません」
兵士の声に月人達が不思議そうな顔をする。
「我我は、あなた方月人が地球を攻撃して来たので、それを止める為に月までやってきました」
すると月人達の表情が訝しげなものに変わった。誰かが、月が態態地球を攻撃する訳が無い、そんな話聞いた事が無い、と呟いた。それを聞きつけた兵士が顔を向けると、呟いた者は驚いて身を引いた。
「仰る通りです! 我我は騙されていました! 月からの攻撃は月の総意だと思っていました。しかし違ったのです! 地球への攻撃は月の都に君臨する神神の独断によって行われていたのです!」
兵士が辺りを見渡す。だが反論する者は居なかった。それどころか、兵士の言葉が理解出来ていない様子だった。
兵士が再度声を張る。
「地球が月によって攻撃されたこれは事実です。しかしそれは月の神が勝手に行った事。私達はそれを綿月豊姫様という月の重要人物から教えてもらいました」
綿月豊姫という具体的な名前に月人達から反応が起こった。だが理解したとは言い難い。
「詳しい事は後程、綿月豊姫様から皆さんへご説明があるでしょう。今は、ただ我我があなた方の味方であるという事を信じてください。我我はこれから玉兎達と協力して、この化け物を倒しに行きます。ですから皆さんは安心して、城壁の中にお隠れ下さい」
月人達は誰も声を発さず固まっていたが、兵士達の後ろからひょっこり現れた玉兎が城壁の中に誘導し始めたので、信じられない表情をしながらも大人しく入っていった。
蓮子とメリーも事態の推移について行けず、呆然としていたが、道の裏手で岡崎が手招いているのを見つけて駆け寄った。
「どうなっているんですか?」
蓮子の問いに岡崎が首を横に振る。
「私も全てを把握してる訳じゃない」
そのまま二人を抱き締めると、都の中央に聳え、月読尊を始めとした最も貴き神神の坐す建物を見つめる。
「だがもうすぐ終わる」
闇の中でたんたんと二発の銃声が響いた。
それでお終い。たったそれだけで天津神が一神死んだ。都の中央に坐す神神に比べれば格は落ちるが、それでも各重要拠点に配置されている天津神神がこの月の最も重要な地位に居る事は変わらない。
銃弾を放った者は無言で仲間達と共に屋敷の外へ向かう。彼等の歩く屋敷は酷く荒れていた。物が破壊され、書物が燃えている。ここは戸籍を管理する建物であった。あったというのは既に機能しなくなった事を指す。戸籍を管理する機器は全てが破壊され、職員達は町中で暴れる穢れた者から避難し、そして君臨していた天津神はたった今殺された。この戸籍局は死んでいた。
同じ様な事が月のそこかしこで起きていた。管理者である天津神を殺し、施設が破壊される。あまりにもあっさりと。神が殺されるという非常事態であったがそれが上層部へ伝わる事は無かった。地球の軍隊が攻めてきた事や町中で穢れた者達が暴れている所為で、月人や玉兎は既に施設から退避しており連絡系統が機能していない。天津神神の気が付かぬ内に、既に月の都というシステムは崩壊していた。
戸籍局を破壊した兵士達が外に出ると、丁度黒いローブを被り頭にうさ耳を生やした何者かがトラックの傍に近寄っているのが見えた。天津神を殺した部隊に緊張が走る。
だがうさ耳は敵意が無い事を示す様に両手を上げると、そのまま黒いローブに手を掛けて脱ぎ去った。現れたのは地球の人間。黒いローブとうさ耳を脱ぎ去ったクリフォードは豊姫を撃った銃とその時に来ていた変装用のローブとうさ耳を、トラックに残っていた兵士に渡して「処分しといて」と言った。受け取った兵士が「神殺しの銃ですか」と笑うと、クリフォードは首を振って、「それは怪我をさせただけだよ」と答えた。兵士の不思議そうな顔に笑いかけ、荷台から他の兵士達の着替えを待つ。天津神を殺した者達も元の軍服に着替えて荷台から出てくると、クリフォードに笑顔を向ける。
「どうしてさっきの格好を?」
「うん、思った以上に月の軍が軍隊らしくなかったから、さっきまでの服じゃ都合が悪くてね。偶偶見つけた化け物から服を剥ぎ取って使っていたんだ」
「他のチームは?」
「コンプリートしたよ」
にっと爽やかな笑みを見せたクリフォードは兵士達に隊列を整えさせると上空にカメラを展開し大きく声を張った。
「現在、全ての部隊が作戦通り市街に侵入したが、そこで異形と交戦中である。科学班の解析から、人や兎の変異した姿である事が分かっており、戦闘力の高さから月の切り札であると考えられる。よってこれからそれを掃討する。心して掛かれ! 以上!」
岡崎と理事長がヘッドマウントディスプレイを装着して月へ飛んでいる間も、ニュースは絶えず流れている。
天狗の少女は涙ながらに監禁の辛さを語り、外に出れた喜びとその後戦場へ連れて行かれた失望を語り、そして月の上層部の非道さとそれを助けてくれた綿月姉妹を語った。月に連れて来られ些細な事で処刑されそうになった時、綿月姉妹がそれを助けてくれたのだと。月の上層部は常に建物の中に居て圧政を敷いているが、対外交渉を役割とする綿月姉妹は地球を知っているから地球流の優しさを持ち、またそれに感化された人や兎も今は皆良い人で、月の圧政を憎んでいる。
今がチャンスだと言って天狗が唇を戦慄かせた。綿月姉妹達は月の皆と共に月を正す事を考えており、地球の軍隊がやって来た今がチャンスなのだと。
それは瞬く間に地球中へと広がり、地球の人間達の目的を、防衛を理由とした月への侵略から、正義を理由とした月の上層部の排除へと塗り替えた。
都の端で玉兎達が必死で避難活動を行っていた。
都の中央から現れた化け物達は辺りの物を無差別に破壊し回っているとの報告が上がっていた。それを避ける為に月の者は都の端にある臨時的な避難場所となっている城壁へと退避している。報告から上がってくる化け物達の破壊活動は段段と外側へと向かっており、現在では都に居る殆ど全ての人と兎が城壁へと退避していた。
しかし今玉兎達が避難活動を行っているこの場所だけは、権力者が多い事や体力の衰えた者が多い為に難航しており、避難が完了しきっていなかった。それを逃がす為に玉兎達は辺りを跳ね回って必死で誘導していた。だが元元数が少ない上に、地球の侵攻もあり、今の区域の活動に参加出来ている玉兎は少なく、中中進んでいなかった。
不安がる玉兎達は何とか避難活動を半ばまで完了させたが、そこへ最悪の存在がやってくる。
唸り声が聞こえた。
瞬く間に悲鳴の連鎖が上がる。
驚いて玉兎が悲鳴の上がった場所へと向かうと、黒いローブを着た化け物がこの世のものとは思えない叫び声を上げていた。幸いにもまだ誰も襲われておらず、月人達は逃げ惑っているが、それでもいつ襲われるのか分からない。
月人が化け物に襲われているのを見た玉兎は迷う事無く飛び出した。唸り声を上げる化け物へと銃剣を携えて突っ込んでいく。駆け寄りながら数発撃ったが化け物に効いた様子は無く、益益猛りながら玉兎へと顔を向けた。一先ず自分へ注意を向けた事に安堵して、視界の端に逃げる月人を見る。自分が戦っている間に逃げてくれればと思うが、今の遅遅とした避難状況ではいずれ追い付かれる可能性がある。ここは化け物を倒さなくちゃいけない。
玉兎が撹乱する様に化け物の周りを飛び跳ねながら銃剣を構える。銃弾は効かないと聞いていたし、今試した通りだ。銃が効かず玉兎では倒せないから決して手を出すなとのお達しだった。しかし、この状況で手を出さない訳にはいかない。それに銃弾が効かないとしても、刃ならどうだろう。兎の脚力で放たれたそれならば、化け物であっても貫けるんじゃないだろうか。
玉兎は化け物の周りを飛び跳ねながら狙いを澄まし、完全に後ろを取った瞬間、銃剣を抱えて突っ込んだ。音速を超えて化け物の背に刃物を突き出す。だが突然横合いから凄まじい衝撃をくらって玉兎は吹っ飛ばされた。民家の門を破壊して崩れ落ち、よろめきながら顔を上げると、化け物が腕を振り上げた体勢で立っていた。どうやら直前で化け物の裏拳にやられたらしい。立ち上がろうとしたが、足腰に力が入らなかった。
ああ、まずい。
絶望が湧いてくる。
まずい。このまま自分が殺されたら、次の狙いは月人達だ。自分はここで負けてはいけないのに。このままじゃ。
だが幾ら気力を振り絞っても、力の抜けた足腰は立たない。へたり込んだ玉兎へ化け物が歩んでくる。体が震えてくる。震えばかりが起こって、足は立ってくれない。
目の前に化け物が迫り、玉兎が目に涙を溜めて、せめて最後に一矢報いようと銃剣を握り直した瞬間、空気をこそぎ取る様な轟音が聞こえて化け物に大量の火花が散った。
驚いて固まる玉兎の頭上から優しげな声が聞こえた。
「大丈夫か?」
振り仰ぐと誰も居ない。
化け物の咆哮が聞こえて、慌てて前を見ると、依姫が刀を携えて立っていた。
「依姫様」
玉兎が涙混じりの声を振り絞ると、依姫は化け物を攻撃しないまま、玉兎に振り返り刀を納めた。
化け物の上から大量のネットが襲いかかり、あっという間に化け物が絡め取られる。
何が起こっているのか分からない玉兎の下に別の玉兎が寄ってきて瞬く間に治療される。再び避難活動に専念する様に言われて、混乱しながらも避難活動へと戻ると、月人を導く豊姫の姿が見えた。
その姿が玉兎には今まで以上に美しく見えた。豊姫は腹から血を流しているにも気丈に笑っている。傷付いた体を気遣う月人達の言葉を黙殺し、ただただ城壁へと導いている。辛そうにしていても人人を先導する姿は、どれだけの困難があろうと自分達を導いてくれる貴き存在に思えた。さながらそれは神の様に。
豊姫が月人達に語っている。化け物を放った上層部の非道さを。地球の軍隊や妖怪が仲間になり、手伝ってくれていると。もはや戦争は不要であり、化け物達も直に片が付く。皆は綿月姉妹とそれに従う玉兎、仲間になった地球の軍隊や妖怪が護衛する。だから安心して城壁に入り、そして再び平和が来るまで待っている様にと。
月人達は流石に信じ切れない様子で戸惑っていたが、その玉兎には豊姫の言葉がすんなりと心に落ち、気が付くと涙が零れていた。豊姫に付き従える事が嬉しくて、そして豊姫を疑っていた自分が恥ずかしくて。豊姫様を恐れていた。神神の間を出た豊姫の言葉を曲解して。今なら分かる。自分が勘違いした様な恐ろしい事を豊姫様が言う訳が無い。きっとあれはこちらが勝手に勘違いをしていただけで、本当はもっと優しい言葉だったに違いない。だって自分自身が傷付いてあんなに辛そうにしているのに、それでも月を導こうとしている豊姫様がそんな恐ろしい事を言う訳が無い。きっとあれは非道な上層部から月を守る為に戦いを宣言していたのだ。だから、どうやってやったのかは皆目見当がつかないが、侵略しに来た地球の脅威を逆に味方に付け、今こうして実際に血反吐を吐きながら月を守ってくれている。どうしてその優しさに、その誠実さに気が付かなかったのか。
自分の不明を恥じ、豊姫の素晴らしさに心を踊らせながら、自分の体に走る痛みを忘れて、月人達の避難を先導していると、豊姫が傍にやって来た。
思わず畏まって、直立不動になる玉兎に、豊姫が笑い掛ける。
「さっき化け物からみんなを守ってくれたみたいね」
「はい!」
「ありがとう。そしてごめんなさい。今、あちこちで混乱が起こっていて、助けに来るのが遅れてしまって」
「いえ! 勿体無いお言葉です! 私は私の務めを果たしただけで」
ああ、豊姫様の方がよっぽど大きな怪我を負い、よっぽど大きな務めを果たしているというのに、私に声を掛けて下さった。
その畏れ多さに溢れんばかりの喜びを感じた。
不意に豊姫の顔が逸れる。玉兎が視線の先を追うと、地球の軍隊が豊姫の事を見つめていた。
「ごめんなさい。私は行かなければならないの」
はっとして玉兎が豊姫に顔を戻す。それはそうだ。上層部を相手取り、地球を味方に付け、都全体を守ろうとしている豊姫様がこんなところで留まっていられる訳が無い。
「ここは私達が必ず守り通して見せます! ですから」
「ありがとう、レイセン。後は頼んだわ」
豊姫に肩を叩かれて、レイセンはもう死んでも良いと思う位の喜びに身を震わせ、一層の気迫を込めて月人達を先導し始めた。
神神の間に人影が入る。
何者だという神の問いに、人影は平伏して答えた。人影が老婦人の姿を取る。
「ルクミニ・ムカルジーと申します。宇宙開発振興財団の理事長に座り、今回の作戦の全面的な立案と運用を担当致しておりました」
指揮官かとの問いを理事長は肯定する。地球の支配者かと問いを理事長は否定する。何の用かとの問いに、理事長は静かに答えた。
「現状のご説明を」
その言葉がゆっくりと空気に溶けていく。完全に溶けきった頃に、神が勝利宣言かと問いかけた。その問いに理事長は笑みを強くし、益益平伏して答える。
「いいえ。これは強いて言うならばお暇潰し」
理事長が頭を下げていると、神から許しが出た。理事長が顔を上げ、今を説明する。
「では端的に。都の中には既に地球の軍隊が入り込み、月の都を月の都たらしめる民衆維持のシステムを破壊、更に各地に配置されていたあなた方以外の神神を潰しました。また我我の軍隊は玉兎や妖怪と共に、あなた方に改造され月の民を襲っていた月人や玉兎を倒し民衆の支持を得て、既に月の都は親地球へと傾いております。地球もまた月の者達が陥っている惨状を知り、親月に変わりつつある。つまり我我の戦力は地球と月を合わせた総力、反面あなた方の動かせる戦力は既に無く、敗北は決まっていると言えましょう」
理事長が口を閉ざすと、初めは豊姫かと神が問うた。
それを合図に、豊姫が神神の間に足を踏み入れ、理事長の隣に座る。
いつからだとの神の問いに、豊姫は存じ上げておりませんと答えた。
「少しずつ、少しずつ、私は矛盾に気が付いていきました。昔、この月にやって来た者を殺せと仰られた神が居ました。何故態態月に穢れを撒き散らす様な方法をと不思議に思いました。そんな矛盾。穢れに侵された人や兎を閉じ込め化け物に仕立てる様に命令を受けました。何故穢れを祓わず、穢れを溜める様な事をするのかと私は疑問に思いました。そんな矛盾。そして穢れた者を連れ戻せと請われ続けています。何故何よりも穢れた蓬莱人を月へ戻さなければならないのかと私は納得が出来ておりません。そんな矛盾。少しずつなのです。例えばそう、神と人、人と兎の格差、例えばそう、意に沿わぬ穢れを潰す独裁、少しずつ少しずつ矛盾が溜まり、私はあなた方を信用出来なくなった。畏れ多き事と思いますが、それが私の真実で御座います」
知らぬ話だと神が言った。月にやって来た者を殺せ等と命じた覚えはなく、人や兎を閉じ込め兵器に転用するのは豊姫が提案してきた事である。輝夜姫を連れ戻さんとするのも、思兼命に唆され穢れた身となってしまった姫を一刻も早く何とか助けてやりたいからである。嫦娥と玉兎の努力で実を結んだ蓬莱人を治す薬が完成したのだ。
「いいえ、そんな事が御座いません。私は確かにあなた達から穢れに関わる矛盾した命令を授けられました。そして姫を探す様に求めるあなた方の声、あの熱に浮かされた様な欲情した声音が、姫を助ける為のものだとはどうしても思えません」
何を言っているという神の呟きに、理事長が笑い声を被せた。突然の笑いに神神も豊姫も黙りこむ。
「これは失礼致しました」
何かおかしな事でもあったのか、と神。
「ええ、皮肉なものだと思いまして、少少面白く感じました。あなた方が国譲りを受けた時と正しく同じではありませんか。その時も最後まで抵抗したものの周り全てに背かれた神があったと聞いております。それから二人の子供に請われて国を譲った神も居りましたね」
それは脅しかと神が問う。
「いえいえ。確かに私達には四次元ポジトロン爆弾というこの月を粉粉に出来る切り札はありますが、発動させようとは思いません」
豊姫が驚いて理事長を見た。理事長は豊姫の視線を受けて優しく首を横に振った。
「勘違いしないで下さいな。あくまでそれは交渉事を有利に進める為の道具であって、人や兎を殺す為の道具では御座いません。当然爆発させる気は御座いませんので、どうぞご安心下さい」
国を譲らねば我等の子、月の民達を滅ぼすというのであろう、という神の問いをやはり理事長は否定した。
「いいえ、私はあなた方が国をお譲りして下さるという信頼を確かに持っているだけです。他意は御座いません」
理事長がそう言ってにっこりと笑った。
豊姫が呆然と理事長の事を見つめている。
神が言う。例え天津神を幽界に落とし為政者の座を空けたとしても、地上人如きが月の都を運行出来る筈が無い。月の都は天津神の作った世界であり、民達は皆天津神に従っている。豊姫一人が反旗を翻そうと、月の民達が神を望む事は変わらない。
すると理事長が更に笑みを深めた。
「最初に申し上げた通り、既にあなた方の信頼は失墜しているのですよ。地球にテロ活動を行い無用な戦いを呼び、その上攻めこまれれば負け、剰え負けそうになると月人達の犠牲も厭わず穢れた化け物を放ち、あろう事かその化け物が月や兎を改造した産物である等と、一体誰がそんな愚物を為政者として扱いましょうか」
その様な事はしていないと否定する神に、理事長が頭を振った。
「いいえ、間違いなくあなた方はそれをしたのです。その証拠に、月の方方は皆それを信じ、あなた方に対して反旗を翻そうとしています。こちらの綿月豊姫様の様に」
そう言って、理事長が豊姫の肩に手を置いた。豊姫の体が震える。その目からは生気が失せていた。
「そして月を治めるのは勿論私ではありません。治めるのは紛う事無き月の民」
そう言って理事長が豊姫に顔を向けた。だが豊姫は震えたまま虚ろな目を理事長に向ける。
「聞いていない。その爆弾を使うなんて聞いていない」
豊姫の震える唇から掠れた声が漏れる。
どうした、とこんな状況だというのに豊姫を気遣う神の声。
理事長は御簾の向こうに笑顔を見せる。
「ご安心下さい。今は少しショックを受けているだけです。さあ豊姫様」
理事長が何処からか羽衣を取り出して豊姫の肩に掛け、豊姫の耳を囁き声で浸す。
「八意永琳様のお考えに間違え等あろう筈が御座いません。そうでしょう?」
豊姫の瞳が揺らぐ。顔に生気が満ちていく。
「そう言ったのは綿月豊姫様あなたご自身では御座いませんか。八意永琳様は月の賢者、間違いを犯す筈が御座いません。さあ、豊姫様、旧き神神に新しき為政者をご紹介下さい」
豊姫に再び自信が宿り、御簾の向こうを見据えてはっきりと言った。
「既にあなた方に月を治める力は無い。まして人しか治められぬあなた方。真にこの月を、人と兎の共存する都を治めるのは蓬莱山輝夜様を置いて他に無い」
豊姫の背後に人影が立った。
今しがた名前を呼ばれた輝夜は神神の間に入るなりどうもと言って豊姫の隣に飛び込む様に座る。更にその後ろから永琳と紫も現れて輝夜の背後に座った。振り返って永琳を見た豊姫の目が憧れの光できらきらと輝く。
「っていうか、何、そういう話になっていたの? 私、今更誰かの上に立つつもりなんて無いけど。とりあえず月が穢れを受け入れて、元幻想郷のみんなが諸手を振って出歩ける世界になればさ」
神が輝夜の名を呼び、いつから居たのかと問うた。それを聞いた輝夜が口を押さえておかしそうに笑う。
「気がついていなかった? ずっとよずっと。正確には、五十年位前? 幻想郷で妖怪が生きられなくなってからは、ずっとこの豊姫の作った空間に厄介になってたの。私達みんなね」
背後の永琳も忍び笑いを漏らした。
「ずっとお膝元に居たというのに気が付かなかった? 治めるのであれば、その地の全てを把握しないと。教えなかったかしら? いえ、教えるまでも無い当たり前の事よね」
神が永琳の名を呼ぶ。怒りという強い感情を乗せて。御簾の向こうから歯を食いしばる音が聞こえた。
それを気にした風も無く、永琳が嘲笑う様に言う。
「時が来たのよ。神代の終わる時が。もうこの月に神は要らない。譲りなさい、遠き過去に縊られた彼等の様に」
森閑と静まって、御簾の向こうから荒い息が聞こえ出した。
それが次第に収まり、かと思うと含み笑いが聞こえてくる。その感情の揺り動きはまるで狂った様で、少なくとも穢れの無い者が放つ感情ではない。
新しい時代が来る事は歓迎しよう、と神が笑いながら言った。むしろ遅かったのだ。もっと早く、月は月の民達自身に委ねられて良かった。
「ええ、その通り。あなた達の支配する月は既に腐り落ちている。神もシステムも。停滞を目的とした時点でね。実は腐り落ちる。それを防ぐのであれば変化が必要。これもあなたに教えた筈だけれど」
だが、と神が言った。だが新しい時代に神が要らないと言うのであれば、そこに居る神もまた必要が無い筈だ。
それを聞いて、永琳が笑った。
「その通りね。私も必要無い。だから私は、そうねぇ、地球でそうしていた様にまた薬屋でも始めようかしら」
聞けと神がその場の者達に告げる。その神は、その知識を司る神は何よりの毒である。楽園を破壊する悪魔の実である。それが身の内にあれば、必ずや体も腐り落ちるだろう。
お告げを聞いた豊姫は一瞬不安な心に支配されかけたが、その不安は輝夜と紫と理事長が笑い声を上げたのですぐに吹き消えた。
「あのねぇ、何年永琳と一緒に居たと思っているの? そんなの知っているし、扱い方だってちゃんと分かっているわ」
「妖怪達を守るのが私の務め。こんな危ない毒、対処の百や二百考えているわよ」
「あまり地上人をなめないで下さいな。五億平方キロメートルの領地で数百万年以上積み重ねてきた人類の歴史は、たかだか一柱には負けません」
その毒を侮るなと神が反論しようとするも、永琳の笑いに止められる。
「たった一つの存在にそこまで怯えている事が、あなたの器が小さくなった何よりの証拠。昔のあなたであれば、この状況でも覇気を失わず、実際に失地を挽回出来たでしょうに」
もはや沈黙した神に理事長が告げる。
「何にせよ、ご安心下さい。先程、私と共に会談している映像を撮れましたので加工して存分に使わせて頂きます。そうですね、一年、一年あれば、月の民の神神に対する畏敬の念を消し去り、印象を地に落としてみせましょう」
そうして片手を挙げた。
豊姫が頭を地に付け、お世話になりましたと呟くと、三方の御簾から、幾重にも重なった破裂音が聞こえ、部屋に血の臭いが漂い出した。気持ち悪そうな顔になって外へ出て行った豊姫を無視して、理事長が御簾の向こうに笑顔を向ける。
「お疲れ様でした、クリフォード。死体を曝すと神神しさが失われるから隠しておいて」
だが御簾の向こうから反応が無いので、理事長が不思議そうにもう一度クリフォードの名を呼んだ。しかし御簾を潜って現れたのは、クリフォードとは別の兵士だった。
「クリフォードさんは、あなたからの命令があるからと、別れましたが」
「私からの命令? そんな筈は」
理事長が困惑した様な顔になった時、何処からかクリフォードの声が聞こえてきた。
蓮子とメリーは岡崎達と一緒に都から出て軍隊の基地へと走っていた。
化け物が目の敵にされている今、文乃を城壁に入れる事は出来ない。だが化け物の跋扈している都に留まっている訳にも行かない。とはいえ都の外で不測の事態に陥るのも不味いので、予定通り軍隊に保護を求めに行く事になった。
だが軍隊に保護されれば地球に連れ返される可能性は高い。自分の姿が変わってしまった事で地球に帰りたくないと考えている文乃は随分渋った。だが月の都に居ても化け物として迫害されるだろうと岡崎から説得され、結局折れた。
そんな訳で軍隊に保護を求めるべく都の外を走っていたのだが、その途中で声が聞こえてきた。
「月の皆さん、こんにちは」
クリフォードの声だった。上空から声が降ってくる。恐らく月中に流れているのだろう。もしかしたら地球にまで。
「そしてごめんなさい。これから月を爆破します」
その言葉の衝撃は放送の届く全てへ広がった。
放送を聞きながら、理事長は変わらず笑みを浮かべていた。元より本体は地球にあり、月が爆破されても死ぬ事は無い。それだけでなくまるでそれを見越していたかの様な笑みを浮かべていた。
「やってくれたわね、クリフォード」
空を見上げると、クリフォードの笑顔が映っている。背景は、知っている者ならそれがロケットの内部であると分かり、また四次元ポジトロン爆弾が組み込まれていると分かる。地球側が用意した最終兵器。表側の月にロケットで密かに着陸させた物だ。破裂すれば、その振動は結界の裏側である月の都まで届くだろうし、基となる月そのものを破壊するから誰も助からない。
「私の傍にあるこの爆弾は、四次元ポジトロン爆弾と言って、月そのものを破壊出来る強力な爆弾です。これを爆発させれば誰も助かりません。ですから先に謝っておきますね。月の皆さん、そして月にやって来た地球の皆さん、これから殺します。ごめんなさい」
その場に居る豊姫と兵士達が声を上げて立ち上がった。兵士が何処かへ連絡を取っている。それを見た理事長は、基地の者達もこの映像を見ており、そして今更焦ったところで間に合わないだろう、と達観していた。
「それにムカルジー理事長にも謝罪します。本来であればこの爆弾はあくまで脅しの為に持ってきた物で、実際に爆発させる為の物ではない。それを使う事をお許し下さい。私はどうしても月に復讐がしたいのです」
恐らく、と理事長は思う。クリフォードの放送に危機感を抱いている者は殆ど居ない筈だ。そもそも事情の知らない者はクリフォードが何を言っているのか理解出来ていないだろう。事情が分かっている者も、クリフォードの整った顔が浮かべる爽やかな笑顔が凄惨な事態を語っているという齟齬の大きさに、現実味を掻き消されている筈だ。それに幾ら知識として知っていても、数える程しか使われていない四次元ポジトロン爆弾の威力に対して、この短時間に本気で危機感を覚えられる者は少ない筈だ。
その意味で慌てて基地へ連絡を取ろうとしたこの場の兵士は優秀であり、また月側の存在でありながら顔を青ざめさせている豊姫は更に優秀と言える。クリフォードの言葉が現実味を持って人人に恐怖を与えるのは実際に事件が終わった後だろう。爆発するにせよしないにせよ、この騒動が終わった後で、ようやく人人は爆弾に恐怖を覚える。そしてその時には酷い騒ぎになるだろう。爆弾が爆発する今の状況よりも余程。
クリフォードの背後にあるカウンターは爆発まで十分残っている事を示している。まだ猶予はあるが、これからクリフォードの場所まで行って、四次元ポジトロン爆弾を解除出来る者なんてこの月に殆ど居ない筈だ。紫や豊姫の能力を使えば人は送れるかもしれないが、四次元ポジトロン爆弾を解体出来る学者は連れてきていない。岡崎位しか思い当たらない。
「まだ少し時間がありますし、皆さんもどうして殺されるのか知らぬまま死ぬのも嫌でしょうから、勝手ながら少し昔の話をさせて頂きます。
「私には妹が居ました。それを知ったのは二十歳を過ぎた頃でした。元元家族になんか興味が無かったのですが、自分が特殊部隊でそれなりに成功を収め、一般に金持ちという身分になった時、それを家族という特別な存在に自慢してみたいと思ったのです。妹はあっさりと見つかり、現に会ってみました。やはり気分は良かった。遺伝子の似通っている人間が目の前に居るというのは何だか不思議な気分ですし、それが自分の全く知らない場所知らない文化に居るというのもまた不思議で、自分の世界が広がった様な奇妙な心地良さがありました。それにお兄ちゃんという呼称も、今までに呼ばれた事が無かったので、何やらこそばゆい情感がありました。
「妹はその国での極ありきたりな生活を送っていて、それに満足している様でした。援助を申し出て断られたのは少し残念でしたが、結局は遺伝子が似通っているだけで大した繋がりもありませんし、あまり踏み込み過ぎるのもおかしな話だろうと諦めました。再び会う事を約束して、私も妹も元の生活へと戻りました。
「それからもしばしば連絡を取り合っていましたが、それがある日突然連絡がつかなくなったのです。様様なつてを辿って捜索しても妹は見つかりませんでした。
「そんな時に宇宙開発振興財団に出会い、そこで妹が月に攫われた可能性がある事を聞きました。月は定期的に地球の人間を攫っている。それに私の妹が巻き込まれたんじゃないかとね。他の可能性は殆ど潰して、最後に残った可能性がそれでした。状況的に見ても、月に攫われたとしか思えない。妹が月に攫われたと確信した私は宇宙開発振興財団に協力して妹を助け出そうとしていたのです。
「ですが見つかりませんでした。月の都を探し回りましたが何処にも居なかった。もしかしたらもう死んでしまったのかもしれない。あるいは都で暴れていた化け物は人や兎のなれの果てだそうですから、その中に紛れていたのかもしれません。何れにせよ死んでいる。
「もうお分かりでしょう。私はその復讐の為に爆弾を起爆させます。分かっています。それはあくまで非道なる月の上層部が勝手に行った事であり、復讐の対象として月の皆さんは関係無い。それは十分分かっているのですが、すみません、私は自分を止められないのです。月の上層部を月ごと粉粉にしなければ気が済まないのです。
「もう一度謝罪させて頂きます。ごめんなさい」
クリフォードの放送を聞いて絶句していた蓮子は、ふと啜り泣く声を聞いた。それは乗っていた文乃から聞こえてくる声で、見ると毛の無い男の顔がぽろぽろと涙を流していた。
「どうしたの?」
「私なの」
文乃がぽろぽろと涙を流しながら空を見上げている。
「私がその妹なの!」
蓮子とメリーとちゆりが驚きの声を上げた。
「じゃあ、今の爆弾を爆発させようとしているクリフォードさんが文乃の」
「どうしよう。私の所為でお兄ちゃんが大変な事を」
「そんな」
「どうしよう」
泣いている文乃が可哀想で何とかしたかったが、四次元ポジトロン爆弾で月を吹き飛ばそうなんていう規模の話だと、蓮子にはどうする事も出来ない。皆が沈黙する中、岡崎が焦った様子で言った。
「不味いな。月の民も地球の軍隊も月の表側に行く時間が無い」
「え?」
「宇宙船は月の表側にある。だがそこまで十分という短い時間で辿り着く方法が無いんだ」
「じゃあどうすれば!」
蓮子が悲痛な声を上げる。
四次元ポジトロン爆弾の威力は聞いているし、実際にシミュレータでも見せつけられた。規模によっては本当に月でも地球でも壊してしまえる爆弾だ。それが自分に向けられていると思うと、自然と体が震えてくる。
「一つ方法がある」
「え? 本当ですか?」
「メリー君、君の境界を見る能力で境界を通り、通信機を爆弾のところまで運んで欲しい。そうすれば、私のこの影が爆弾の場所に出現出来る」
「別にその影は通信機が媒介じゃない筈だぜ。だったら最初からメリーちゃんの境界で教授の影だけ向こうに行けば」
「無理だよ。メリー君の能力は蓮子君と一緒に居る為のものだ。私達に境界は越えられない。通信機で辺りの状況を探査してからじゃないと月に影は出現させられないし」
「でもそこに境界があるって分かりさえすれば、見えようが見えまいが、結界を越えられるんじゃ」
「勘違いしちゃいけないよ。メリー君の能力は向こうの世界を見つけ入り込む能力であって、既存の結界を通り抜ける能力じゃない。そしてその能力は蓮子君と一緒に居る為のもの。二人を引き裂かんとする障害、四次元ポジトロン爆弾の場所まで行ける筈だ」
そこで岡崎がにっと笑う。
「勿論、そうでなくてメリー君と蓮子君だけが四次元ポジトロン爆弾の届かない場所に逃げるという手もあるけれどね」
その笑顔を見たちゆりは「うわぁ、悪党みたいだなぁ」とメリーに同情した。
当然岡崎にそんな事を言われて断れる筈も無く、あるいは元から断る気が無かったのか、メリーは頷いた。メリーを引き留めようとその手を蓮子が掴む。メリーが通信機を運ぶという事は、四次元ポジトロン爆弾のすぐ近くに向かうという事で、あまりにも危険に思えた。
「メリー」
それだけ言って蓮子は何も言えなくなる。四次元ポジトロン爆弾が月をも壊すというのなら、何処に居たって変わらない。爆弾の傍に居ても遠くに居ても死ぬものは死ぬ。だとすれば、ここで引き止めたって何の意味も無い。理屈ではそう分かっていても、やっぱりメリーを爆弾の近くに行かせるのは嫌で。
逡巡している蓮子に、メリーが笑いかけた。
「蓮子、ありがとう」
「メリー」
蓮子がメリーの震える手を強く握りしめる。するとメリーが一瞬口を引き結び、それから困った様な笑みになった。恐れている様な弱弱しい笑顔だったが、その目には強い意志が宿っていて。
「ごめん、やっぱりちょっと怖くて」
「うん」
蓮子にはメリーの気持ちが良く分かった。止めたって無駄だという事も。
だから次のメリーの言葉にすんなりと頷いた。
「無茶なのは分かってる。でも蓮子にも一緒に来て欲しい。怖くて。傍に蓮子が居てくれないと」
「当たり前でしょ。そんな危険なところ、危なっかしいメリーだけで行かせられる訳無いじゃない」
蓮子はあっさりと笑って、メリーの体を強く引いて近づけた。自分の足の震えが見られない様に。
怖い。
怖くて怖くてたまらない。
これから爆弾のある場所に行かなくちゃいけないなんて。
でもそれを防がなくちゃ月が壊れて自分達も死んでしまうのなら、行くしかない。
「行こう、メリー。きっとこれが終われば地球に帰れるから」
「うん」
メリーが笑顔を浮かべて蓮子を引っ張り返す。蓮子が体勢を崩した瞬間、二人の姿が消えた。
そうして二人は壁にぶつかった。痛みに顔をしかめて辺りを見回すと、驚いているクリフォードと四次元ポジトロン爆弾が見えた。どうやら宇宙船の一室の様だ。
「驚いた。てっきり岡崎教授が来るかと思っていたけど、まさか君達とは」
二人がクリフォードを恐れて抱きしめあうと、クリフォードは敵意が無い事を示す様に手を上げた。
「安心してよ。君達を傷付ける気なんて無いさ。今更意味が無いだろう?」
そう言いながら、クリフォードが背後を指さした。そこには四次元ポジトロン爆弾がある。更に目を凝らすと透明な扉で隔てられていた。
「こうして鍵も閉まっているし。開けられたとしても、君達が爆弾を解除出来ないだろう。だからどっちでも良いのさ」
そう言った時には傍に真っ黒な岡崎が立っていた。
「じゃあ眠っていてくれ」
そのまま傍の工具箱を振り下ろしてクリフォードを気絶させると、何処からか空気の泡に入れるタイプの救命胴衣を持ってきて、そのまま船外に排出した。ちなみにその排出装置は船内にあってはならない固形物を射出する為の装置で、射出した物体が気圧等の影響で宇宙船にへばりつかない様、物凄い勢いで吹き飛ばされる。排出されたクリフォードは山一つ越えた先のクレータにカップインした。それはともかく、岡崎は何食わぬ顔で四次元ポジトロン爆弾を眺め出す。
「鍵か。どうすれば」
「教授、あのクリフォードさんは」
「どうでも良いから、気にしないで良いよ。それより、鍵か、手間だな。後、七分、間に合うか?」
岡崎が悩んでいる横に蓮子が歩み寄り、帽子から銀色の板を取り出して扉に押し当てた。たちまち扉が開く。
岡崎が呆気に取られた様な仕草で蓮子を見た。蓮子は銀色の鍵を岡崎の前に翳す。
「技術の進歩です」
「それ、後で解析させて」
蓮子が頷くと、岡崎は嬉しそうな笑い声を漏らす。
「間に合いそうだね。君達はそこで見ていて。もし出来るなら逃げていてくれた方が安全だけど」
振り向いた岡崎にメリーは首を横に振った。
「境界が見えないです。何でだろう」
岡崎はくつくつと笑う。
「その信頼に応えられる様に頑張るよ」
そうして身を屈めた。組み上げられた機器にぽっかりと空いた、人一人が入れそうな大きさの隙間に顔を突っ込み、「どうやら奥をいじらないと解除出来ないみたいだね」と言って、ずりずりと隙間の中に身を滑らし始めた。そうして体が半ばまで入ったところで止まった。いよいよ解除が始まるのかと蓮子が期待していると、岡崎の「あ、やべ」という声が響く。
「あの、教授?」
恐る恐る尋ねると、岡崎がヘルプを出しながら足をばたつかせ始めた。
「ごめん、ちょっと引っ張って」
慌てて蓮子とメリーが岡崎を引っ張りだすと、妙に清清しい笑顔で「無理」と言った。
蓮子は総毛立って岡崎に詰め寄る。
もしも解除出来なかったら月が壊れてしまうのに。
「何でですか!」
「いや、体がつっかえて」
「まさかコンビニで菓子パンを食べ過ぎたから太って」
「太ってない! そうじゃなくて、骨格的に大人が入れる様に出来ていないんだ」
蓮子が拳を戦慄かせながら隙間を見る。確かにその穴は小さい。
岡崎が顎に拳を当てて「まさか本気で爆発させる気か」と呟いている。
「どうすれば良いんですか? このままじゃ」
不安気に縋り付いてくる蓮子を抱き締めながら岡崎はしばらく目を瞑りそして言った。
「君達は境界を通って逃げなさい。爆弾を止められないと分かった今なら、メリー君の境界で逃げられるだろう」
思わず蓮子は生唾を飲み込んだ。岡崎の言葉はまるで諦めると言っている様に聞こえて。
「止められ……ないんですか。教授はどうするんですか!」
「私はこの通り影さ。問題ない」
「月は? 地球の軍隊は? ちゆりさんや文乃は?」
「ちゆりと文乃はICBMがある。他は……」
「どうするんですか!」
「月から脱出出来る乗り物が用意されている事を祈るしかないね」
岡崎の言葉に蓮子は固まって唇を戦慄かせだした。代わりにメリーが静かに尋ねる。
「用意されていると思いますか?」
「月は分からない。ある程度なら逃げられるだろうね。メリー君みたいな能力を持っているのが二人居るから。多ければ、二千人位は逃げられるかもしれない」
それでも月の全人口に比べればあまりにも少ない。
「地球から来た人達は?」
「無理だね。ロケットは全て解体して組み上げている時間が無い」
蓮子が岡崎に掴みかかる。
「じゃあ! どうすれば良いんですか! ここまで来たのに! 解除出来ると思ったのに! 諦めるんですか!」
「出来ないものは出来ない。体の引っかかる部分を何とか解体すれば解除出来るが、後六分で出来る訳が無い」
にべもない岡崎の顔に、蓮子は泣きそうになる。何だかやるせない気持ちが湧いてきて、岡崎の腹に顔を埋めて、その真っ黒な服に噛み付いた。
「だから君達は逃げなさい。逃げる手段があるのなら、逃げなさい」
そんなの出来る訳が無い。沢山の人が死のうとしているのに、自分だけがのうのうと助かるなんて。
「嫌です! だったら私が解除します!」
「いけない! 止めなさい!」
岡崎が蓮子の手を捕まえた。
「離して下さい!」
しかし、蓮子は岡崎の手を振り払い、脱兎の如く岡崎から離れて、工具箱を掴み、隙間の中に身を滑らした。
「無理だ! 止めろ!」
既に蓮子は奥まで入り内部の構造を観察していて岡崎の言葉を聞く気は無いらしく、黙ったまま何か金属を擦れ合わせる音だけが聞こえてくる。
しばらくして嬉しそうに言った。
「教授。これ、結構簡単な作りです。私でも解除出来そう」
「止めたまえ! それは欺く為の罠だ!」
爆弾には解除されない様に二重三重の防止機能が備わっている。
それを一民間人の蓮子が解除出来る訳が無い。
「いえ、でも構造的にこれを隔離すれば」
自信のある蓮子の言葉に、岡崎はまさかと戦慄した。
まさか本当に解除出来るのか。
出来る訳無いと分かっているが、もしかしたらあの蓮子ならという気持ちが微かにあった。
しばらく蓮子が機械をいじる音だけが聞こえる。慣れない作業だろうから仕方が無いとは思いつつも、岡崎が焦れていると、突然辺りに重低音が響きだした。
「何これ! 熱っ!」
蓮子の悲鳴に岡崎が怒鳴る。
「だから言っただろう! 罠だと!」
隙間から這い出てきた蓮子は怯えた目をしていた。
「でも構造的に」
「ああ、確かにそうだ! 確かに君は単純な四次元ポジトロン爆弾であれば解除出来ただろう。それは凄い。だがこの爆弾は軍事用だ! 四次元ポジトロン爆弾の構造を知っているだけじゃ解除出来ない! 一から組み上げて全体の機構を知っていないと絶対に解除出来ないんだ! 間違った解除を行えば、熱暴走を初めて、人間が近づけなくなる。もうこの装備じゃどうあがいても解除出来ない」
蓮子ががたがたと震えだす。
岡崎はそれを抱き締めると、メリーに向かって静かに言った。
「とにかくもう無理だ。脱出しなさい。くっ」
突然岡崎が呻いて、蓮子を放し身を屈めた。
「不味い。場が不安定に……粒子の固定が」
そうして岡崎の姿が消える。
蓮子は何も考えられなくなる。希望が消えてしまった気がした。喉の奥から悲しみが迫り上がってくる。居なくなった岡崎を見つめながら、蓮子は啜り泣いた。
「ごめんなさい。私が、みんなを」
それをメリーが抱きしめた。
「違うわ。蓮子は悪くない。むしろ私の方こそごめんなさい」
蓮子の頬に自分の頬を当てる。
「境界が見えないの。どうしても。もしかしたらそういう特殊な場なのかも。教授が消えたのもその場の所為かも。だから……ごめんなさい。ここから逃げられない。ごめんなさい。蓮子をここに連れて来ちゃって。私一人で来れば」
「違うよ。私が爆弾を解除出来てれば良かったのに」
助かる方法は思い浮かばない。爆弾を止めるのも、脱出するのも不可能に思えた。打つ手が無い。後は死ぬしか無い。お互いがお互いの震える肩を抱き締める。刻一刻と死に向かっている宇宙船の中で二人して涙を流し続ける。
そこへ通信機から岡崎の声が響いた。
「二人共! 脱出はしたか? 解除はもう諦めて、早く!」
涙を拭ったメリーがそれに答える。
「無理なんです。私、境界が見えなくて」
「ブレーンの振動か! くそ!」
通信機の向こうから何かガラスでも割った様な破壊音が聞こえてきた。
どうやら絶望的な状況らしい。分かっていた事ではあるけれど、あの岡崎がこれだけ焦っているのを聞くと、蓮子はいよいよ最後なんだと実感出来た。
「とにかく何か方法は無いか! 身を守る術でもそこから脱出出来る方法でも!」
そんな事を急に言われても思いつかない。
「そうだ! 救命艇がある!」
「え、じゃあ、それに乗れば」
俄に希望が湧いてきたが、すぐに岡崎の言葉がその希望を絶った。
「いや、駄目だ! それじゃあ、脱出速度に到達出来ない」
蓮子が歯を食いしばって考える。岡崎がまだ諦めないでくれている事が、勇気をくれた。
そうして思いついた。
蓮子はメリーを抱きしめてから立ち上がる。
「教授、一つ聞いて良いですか?」
「何だ! 何か方法が?」
「そっちからこの宇宙船って操縦出来ます?」
「いや、無理だ。通信出来ない。が、どうしてだ?」
「そうですか」
蓮子は落胆して溜息を吐き、操縦席へと向かう。後ろからメリーもついてきて、通信機からの岡崎の声もついてくる。
「何か方法が思い浮かんだのか?」
「成功するのか、というより、出来るのか分からないんですけど」
「少しでも成功する可能性があるならそれに縋ろう。どうするつもりだ?」
「この宇宙船を爆弾ごと宇宙に飛ばします。月に爆発が届かない場所まで行ければ私達みんな助かる。無理、ですか?」
通信機が沈黙した。
やっぱり無理なんだろうか、と蓮子が落胆していると居ると、岡崎が小さく答えた。
「出来る」
「本当ですか!」
「出来る。その爆弾の爆破半径はおよそ二千キロ。確かにその宇宙船は時速十万キロ出せるから、後三分半あれば十分に爆弾を遠ざける事が出来る。だが喜ぶな! 確かに出来るが、その宇宙船は遠隔操作出来ない。誰かがその宇宙船と一緒に残らなくちゃいけない」
岡崎の言葉は予想していた事だ。自分でも考え、そしてもう決めている。
「だから私が残ります」
蓮子がそう言って、操縦席に座ると、メリーが「駄目」と言って抱きついてきた。
「それじゃあ蓮子が死んじゃうって事じゃない! 嫌! そんなの絶対に嫌!」
メリーの気持ちは嬉しい。
出来れば離れ離れにはなりたくない。
でも一緒に居ようとすればメリーが死んでしまうというのなら、例え離れ離れになったって、メリーに助かってもらいたい。
「その通りだ。自分を犠牲にするなんて美しいかもしれないが、それじゃあ残された者が救われない!」
「でもそれしか方法が無いのなら」
怖かった。死、という言葉が頭の中を踊っている。
岡崎の言う事は十分分かっている。死ねばメリーが悲しむ。誰かが幸せになる選択じゃない。でもその代わりに起こる筈の沢山の悲しみを無くす事が出来る。メリーも助かる。
蓮子は震える手を握りしめて、笑顔になった。
「それに死ぬ気は無いの。ほら、救命艇があるのなら、それで逃げれば。ね?」
「馬鹿を言え。射出された救命艇も時速十万キロになるんだ。方向制御用の噴射なんて役に立たずに、あっという間に彼方へすっ飛んでいく。二度と人類の圏内に戻って来られなくなるぞ! 分かっているだろう」
「すみません。知っていました。でもやっぱり誰かがやらなくちゃいけない。だからメリー、お願い、悲しまないで」
駄目だった。メリーを心配させない様に泣かないと決めていたのに、気が付くと涙が溢れていた。メリーも泣いている。お願いだから泣き止んで欲しい。そう言おうとするのに、涙が後から後から溢れてきて、悲しみで喉がつっかえて、何も言えなかった。
これが最後の抱擁になるかもしれないと、蓮子は過去を思い出す。
沢山の事があった筈だが、思い浮かぶのはメリーとの思い出ばかり。いつもメリーに振り回されていた。それは良い思い出ではない筈なのに、今は何だか素晴らしい日日だった様に思える。
「メリー。お願い、分かって」
「嫌! 絶対に嫌!」
二人で涙を流し合っていると、「あ」という岡崎の間の抜けた声が響いた。
蓮子とメリーも驚いて通信機を見ると、岡崎の興奮した声が聞こえてきた。
「そうか! いけるかもしれない!」
「え?」
「良いか。四次元ポジトロン爆弾には気体が必要なんだ。最初のエネルギーが気体を媒介にしてブレーンを破壊する事で爆発するからね」
「どういう事ですか? 良く分からないですけど、気体の無い場所、真空に持っていけば良いなら、月の大気だって殆ど真空なんだから、ここに放置しておけば安全っていう事ですか?」
「だが裏側には大気があるだろう?」
教授の言葉の意味が分からず困惑している蓮子とメリーを置いて、岡崎はまくしたてる。
「何にせよ、方法はもう無い。やってみるしか無いだろう」
「あの」
「蓮子君、メリー君、操縦席に座って、私の指示通りにしてくれ。もう時間が無い」
何か岡崎に確信がある様なので、蓮子とメリーは大人しくそれに従った。岡崎の指示通りにスイッチを入れ、数値を調整し、シートベルトを着用する。宇宙船が唸りを上げ始める。
「後二分。少しぎりぎりだな」
岡崎の指示通りにスイッチを入れていくと唸りが更に大きくなる。
蓮子が緊張して息を飲む。
「よし、発射させるぞ」
教授に支持されて蓮子はレバーを握った。時速十万キロ。それを思うと恐ろしくなった。宇宙船は慣性力を制御して飛行士に加重がかからない様にする筈だ。それでも時速十万キロという数字が頭にちらつくと手が震えてくる。
「安心して。月の脱出速度のたった時速九千キロ。さっき話していた速度の十分の一なんだから」
「それで足りるんですか?」
「だから言っただろ? 真空中にさえ出れば良いんだ。さあ、レバーを引いて。カウントは要らない」
蓮子がレバーを引く。その瞬間、一瞬だけ大きく揺れたかと思うと、さっきまでの唸りも消えて全くの静かになった。まさか発射に失敗して、宇宙船が緊急停止したのかと、蓮子の顔が青ざめる。
だが通信機の岡崎は「成功だ。宇宙船は無事大気圏外へと脱出する」と言った。
「さあ、次は救命艇に乗り込んで、君達が脱出する番だ」
「でも爆弾が」
「大丈夫。私の指示通りに動いてくれれば。速く。後三十秒しか無い」
急いで蓮子とメリーが救命艇に乗り込む。救命艇は一つしか無く、蓮子とメリーは同じ救命艇に乗った。狭くは無いが寝転がっている位しか出来ない構造で、二人は柔らかな繊維に包まれ寄り添い会う。
「そこにボタンがあるだろう? 赤と青と黄色だったかな?」
見ると丁度顔の来る部分に窓があり、その脇に岡崎の言った通りの色が並んでいた。
「あの、これ、あんまりにもアナログ過ぎじゃ」
「青を押して。早く!」
蓮子が急いで青のボタンを押すと、救命艇が揺れて動き出した。かと思うと、衝撃が走って、気が付くと、蓮子達は船外に出て宇宙空間に漂っていた。
助かった?
蓮子が息を吐くと岡崎の安堵した声が聞こえてきた。
「これで大丈夫だろう。四次元ポジトロン爆弾は空気のある部分にしか働かないから」
「それ、さっきも言ってましたけど、それじゃあ月で爆発したって真空なんだから」
「勿論範囲は結界の裏の世界にも引火する様に調整してあるよ。だから完全に真空の空間へ飛ばす必要があったんだ」
「えっと」
「つまり結界の裏側にも空気があっちゃいけないんだ。私達の居た月の裏側は空気で満ち溢れていただろう」
「そういう事ですか」
「とにかくもう大丈夫。救命艇は地球へ向けて射出されるから今の軌道のまま行けば、いずれ地球に」
途端に凄まじい衝撃がやって来て、蓮子とメリーが救命艇の中で思いっきり揺さぶられた。あまりの振動に二人が気を失う。
宇宙船が爆発したのだ。その爆風で吹き飛ばされた、救命艇は本来の軌道から逸れて地球から外れたコースを進みだす。通信機からしきりに蓮子達を呼びかける岡崎の声が響いたが、二人は目を覚まさずに、救命艇はそのまま進んでいった。
二人が気が付いて目を開けると、通信機から凄い声量で呼びかけられていたので、慌てて返事をした。
「大丈夫か? 大丈夫だったか?」
「ええ、多分。メリー?」
「私もなんとも無いわ」
「良かった。今、理事長に聞いたよ。四次元ポジトロン爆弾を着火させる為の、起爆剤に通常火薬の爆弾を使っていたらしいんだが、その量を多めにしていたらしい」
「何で?」
「あ、こら、止めろ」
慌てた岡崎の後に、理事長の声が続く。
「例え解除されても月の軌道をずらせるようによ、メリーちゃん」
「理事長。どうしてそんな」
「兵器だから。それより救命艇の乗り心地は如何?」
「えっと」
メリーが答えようとした時、隣から蓮子が非難の言葉を発した。
「凄く悪いです。安物の化学繊維しかなくて。外を見ようとするとアナログ過ぎな単なる窓。どうしてもっと他の情報を表示出来るインターフェイスにしなかったんですか?」
「蓮子ちゃんね。ごめんなさい。救命艇は万が一の時の物だから、電子機器なんかが壊れたりしたら大変なの。それに普通は複数の宇宙船で行動するから、脱出したら別の宇宙船に拾ってもらえるし。あ、夢美。ちょっと」
「今、それが問題なんだ。君達はさっきの爆発で地球への軌道が逸れた。ぎりぎり地球の重力圏から逃れる様な方向へ進んでいる。今、それを捕まえられる様に、大気圏外へ電磁ネットを構築しているけれど、失敗すれば君達は宇宙の彼方へ二人っきりで旅立つ事になる」
岡崎の言葉を理解し、蓮子は喉が乾くのを感じた。
もしも失敗したら、地球には辿り着けず永遠に冷たい宇宙を彷徨う事になる。それは何故だか死ぬよりも恐ろしい事に思えた。
「そんなの……どうしたら」
弱弱しい言葉を吐いた蓮子に追い打ちを掛ける様な岡崎の言葉が続く。
「捕まえられる可能性は七割といったところだな。失敗すれば孤独な宇宙空間に放り出される事を考えれば、高い確率とは言えないだろう。他の方法として、救命艇の噴射装置を使えば、軌道を修正出来るが、残念ながらそちらのベクトルを正確に把握出来ていない。巨大な電磁ネットを張って捕まえるならこちらが能動的に行えるから可能性もあるが、軌道修正となるとこちらからの解析が間に合わなくて手助けが出来ない」
蓮子が絶望で口を閉ざす。
三割の可能性で、この狭い救命艇から出られずに冷たい宇宙空間を彷徨う事になる。それ以前に、水も食料も無い名ばかりの救命艇の中では、数日で餓死するのがおちだ。いや、まだましなんだろうか。何かの間違いで自分の意識が残り、永遠に宇宙を彷徨い続ける事になったとしら。
恐ろしい思いで歯の根がなる。恐怖で頭がぐちゃぐちゃになっていると、メリーが抱きしめてくれた。
「大丈夫よ。私が居るから」
すると通信機が同調する。
「その通り。メリー君が居る。メリー君の境界を通れば地球に戻ってこられるかもしれない」
蓮子は希望を抱いてメリーを見たが、メリーは寂しげな顔をした。
「駄目です。境界がまだ見えない」
「そんな馬鹿な! さっきの話は聞いていたのかい? 君達は宇宙の藻屑と消えるかもしれない。そうしたら死ぬ。一緒に居るも何もなくなるのに」
「それは分かっているんですけど」
「じゃあ、どうして境界が見えない」
「そう言われても、意識してオンオフを切り替えられる訳じゃ」
思わず蓮子は吹き出してしまった。
おかしかった。
こんな状況だというのに、メリーがあまりにも普段通りに落ち込んでいる事が。
とはいえ、こんな状況で笑う自分も自分で、もしかしたら恐怖でおかしくなってしまったのかもしれないと、自分の事ながら思う。
まだまともにせよ、おかしくなったにせよ、さっきまで恐怖でぐちゃぐちゃだった心は落ち着いていた。何となしに蓮子は窓から宇宙を見つめて息を吐く。窓が曇る。何となく絵が描きたくなったが、すぐに透明に戻った。
宇宙は果てしなく、何だか見ている内にぼんやりとしてくる。地球からは随分と離れているけれど、今の救命艇の速度を考えると向かおうとすればすぐだろう。問題は、このまま進んでも地球から大分逸れた軌道で進んでしまうだけで。
「蓮子」
メリーが寄り添ってきた。蓮子は何となしにメリーの頭を撫でる。
もうすぐ死ぬか生きるかが決まる。それも他人の手にそれを委ねて。それなのに蓮子は妙に落ち着いていた。もしかしたらメリーが居るからなのかもしれない。メリーが傍に居てくれるから、こうして安らかで居られる。
寄り添うメリーを見つめる。多分メリーも怖がっているだろう。蓮子はかつてメリーが支えだと言ってくれた事を思い出し、願わくばこの瞬間も自分がメリーの支えである様にと祈った。この恐ろしく冷たい宇宙空間の中でも、自分がメリーに安らぎを与えられる様に。
「メリー」
宇宙を見る。ゆっくりと進んでいる様に見えて、その実とてつもない速度で飛んでいる。この分なら後数分で地球を通過するだろう。その時に全ての運命が……てあれ?
「あの、教授?」
「何だい?」
妙に優しい声。何だか死に水を取ろうとしている様で恐ろしかった。が、今はそんな事重要じゃない。
「あの、これ噴射口が付いていて、向きが変えられるんですよね」
「ああ、青を押せば減速、赤で進行方向に対して左、黄色で右、程度で殆ど自由度は無いけどね。もしそれで地球へ方向転換しようと考えているなら止めておきなさい。目視で何て不可能だし、さっきも言った通りこちらから助ける事が出来ない。勝手な事をされると、むしろ電磁ネットで捕らえ辛くなる」
「いや、出来そうなんですけど」
「蓮子君、試したい気持ちは分かるが」
「いや、本当に。私、月と星を見れば位置とか時間が分かるんですけど」
「え? あ、そう言えば、そんな事言ってたね」
「月の都に居る時は、結界の裏に居たからかな? はっきりと分からなかったんですけど、今なら地球からどの位置に居るのか良く分かります」
通信機が沈黙する。
心配になって蓮子が聞いた。
「あの、良いですよね?」
すると岡崎の励ます様な元気な声が聞こえた。
「勿論。決めるのは君だよ。そこに居るのは君とメリー君なんだ」
「はい」
何だか突き放された様で怖かったが、他人に預けて七割の命なら、自分の決断で運命を決めたい。メリーを見ると輝く様な目を見開いていた。
「あの、メリー、聞いてたと思うけど、いけそうだから。良いよね?」
メリーが感極まった様子で蓮子をきつく抱き締める。
「当たり前でしょ。やっぱり蓮子は私の蓮子だわ」
後は言葉なんて要らないとでも言いたげに、メリーは蓮子の胸に顔を埋めて、抱き締めた体勢のまま固まった。蓮子もまたメリーを抱き締めて、必ず連れて帰るという気合と共に遥かなる宇宙を見る。今自分達の進む位置が分かる。試しに噴射して向きを変えると、自分達の進む先も変わっていくのが分かった。もう一度噴射し向きを変えて、少しずつ地球へと角度を向けていく。減速をしながら方向を転換していくと、遂には地球の重力圏内へと進みだす。かなり地球へと近付いていただけに、方向を制御するのは簡単だった。
「蓮子君、突入した時の減速用にも燃料が必要だ。あまり使い過ぎるな」
「分かりました。私達は太平洋の真ん中へ落ちます」
気持ちの上では日本へ帰りたかった。それは自分の目の精度であれば可能に思えた。だが、万が一という事もある。地面に激突するという危険を冒すよりも水の上に着地した方が生き残りそうに思えた。
「海上なら捕捉も楽だ。早急に君達を受け止めるクッションを太平洋上の展開する。大まかな座標でも分かれば助かるが」
「経度一八五、緯度三五」
「うん、陸地は無い。誤差が出たら言ってくれ」
「一度ずつ位はずれるかも。もう燃料が無いみたいです」
蓮子の自信無い言葉に、岡崎が笑った。
「驚くよ。目視で、しかもそんなアバウトな推進装置だっていうのに。分かった。すぐに救援を向かわせる」
その時一瞬だけ通信が乱れた。
「ああ、地上から見えたと報告が入った。受け止める準備は出来ているが。少し速いみたいだ。ネットが破れて着水は免れない。衝撃に備えてくれ」
淡淡とした言葉だったが、感情が乗っていない分、蓮子の心臓を強く握りしめてきた。
速度を間違えた。もしも速度が限界を超えていれば、着水の衝撃で自分達は死ぬ。
蓮子の心に再び恐怖が灯る。何か救いを探そうとしたが、燃料も無くなった今、もうどうしようも無い。後は速度が限界を超えていない事を、何かに向けて祈るだけだ。
蓮子はぎゅっとメリーを抱き締めた。メリーもさっきからきつく抱き締めてくる。
「後、二秒」
蓮子は更にメリーを強く抱きしめ、衝撃を予期して身を固くする。
「蓮子」
不意に名を呼ばれてメリーを見ると、柔らかな微笑みを湛えていた。
「何?」
「何でも無い」
刹那、衝撃が襲って、二人の意識が暗転した。
蓮子は目を開けると、見当識を喪失したままじっとメリーを見つめた。メリーがまつげを震わせて目を開く。メリーと目を合わせると、ようやく自分達が生きていた事を知った。抱きついてくるメリーをそのままにして、蓮子は救命艇の扉を開ける。腕を首に絡めてひっついてくるメリーと一緒に立ち上がると、そこは大海原の真っ只中。何処までも広がる青い海と空とそれをぶち壊しにする様な沢山の海洋船と飛空艇。蓮子がぼんやりとそれを眺めていると、その耳元でメリーが嬉しそうに囁いた。
「帰ってこれたわね」
「うん」
何となく物語の中に入り込んだ様な錯覚を感じた。まるで自分が主人公になった様な気がして高揚する。生きていて、そして隣にメリーが居る事が嬉しくて、蓮子は抱き締め合いながらメリーと目をつき合わせた。
「メリー」
名前を呼ぶと、メリーの潤んだ瞳が微かに揺れた。
「あ、そうだ」
そう言って、メリーは通信機を取り出して、蓮子に笑顔を見せる。
「蓮子は何食べたい?」
「え?」
「無事戻ってきたら、教授が好きな物を食べさせてくれるって」
蓮子は苦笑して溜息を吐いた。
「今はお腹が空いていないよ」
「そう? 私はねぇ」
こんな何気無い会話も楽しいが、今はそれ以上に物語の主人公に酔っていたかった。
これが物語であるならば、最後のシーンは決まっている。
愛すべき二人が口付けをする事で物語は幕を閉じるのだ。
あれこれと食べたい物を想像しているメリーを再び自分に向かせ、蓮子は自分を主人公にメリーをヒロインに見立ててそっと顔を近づける。
そうして唇が触れ合う、直前で蓮子は我に返り、慌てて突き出されたメリーの唇を避けた。しかし勢い余ってメリーの頬に口付ける。
メリーがどうしてキスしてくれないんだと嬉しそうに抗議してくるのをいなしながら、蓮子はようやっと自分が地球に帰って来たという実感を覚える。何だか大変な旅行だった。大変な事ばかりで、良かった事なんて殆ど無かったけれど、それでも二人の初めての月面旅行だったのだ。
遠くで歓声を上げている人人の姿を眺めながら、二人のハネムーンは終わりを告げた。
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Epylogue
私はメリーや教授と一緒に記者達の前に立って、研究成果の発表を行っていた。
私達が月から帰ってきて僅か一日、たったそれだけの間に沢山の事が目まぐるしく起こった。
私達は月を救った英雄として救助された直後に担ぎ出され急遽開かれた記者会見で記者達の質問攻めにあった。何でも四次元ポジトロン爆弾の詰まった宇宙船内には至るところにカメラが設置されており、その映像が地球や月中に流れていたらしい。一体どんな映像が流れていたの、恐ろしさと忙しさでまだ見られていないが、何となく相当な醜態を晒した気がする。正直混乱でどんな質問があって、どんな回答をしたのか覚えていない。覚えているのは、月と地球が和平調印の準備に入ったと記者が言っていた事。多分良い事なんだろうと思う。地球の軍隊は撤収を開始しているらしい。戦死者が零である事が何よりも強調されていた。ちゆりさんと文乃は本当にICBMで地球に帰ってきていたが、文乃には会えなかった。何でも病院に入院しているらしいが詳しい事は教えてもらえなかった。地球の科学なら文乃の姿を治せると思う。信じたいだけというのは自分で分かっているが。クリフォードさんの行方は一切報道されていない為分からない。正直どんな人か良く知らないのでどうでも良かったが、メリーはやけに心配していた。生きていたとしても月を吹き飛ばそうとした世紀の大悪党としてまともに生きられはしないだろうけれど。また同じく悪党として、四次元ポジトロン爆弾を人知れず運用していた責任者である理事長に対するバッシング報道が一瞬だけ加熱した。何でも月でクリフォードさんが使った分だけでなく、ロケット発車前のケネディ宇宙センターでも使用していたらしい。そりゃあ、そんなにぽんぽん使われたら、怖くて仕方がない。釈明の会見場所にやってきた理事長が車から降りた瞬間、頭部を狙撃されて絶命した為、そのバッシングは呆気無く沈静化した。理事長の事もクリフォードと同様に良く知らなかったが、メリーは大変ショックを受けていた。後釜に収まった理事長の息子は早速、月との和平と更なる宇宙への進出を謳っている。結局やっている事は変わらないので、世界からすれば理事長でも息子でも何ら違いは無いだろう。月は、偉い人達がみんな辞めて人事が刷新されたらしいのだが、私の知識ではその辺りの事情が良く分からなかったし、報道も曖昧で、はっきりとした事は分からなかった。ただニュースの中に豊姫さんの名前が出てきたので、もしかしたら偉い人になったのかもしれない。
そうして月から帰ってきた興奮も冷めやらぬ内に、私はメリーと共に教授の実験発表に付き合わされている。
何でもこれからの宇宙開発時代で最も重要なのは、孤独な飛行を続ける上での精神ケアであり、その寂しさを埋める為に願望によって擬似的な話し相手を生むという研究を進めているらしい。例えば、メリーは羽衣のある建物に向かう時、豊姫達の包囲を抜け出す為に黒と赤の二人組を生んでいた。そんな風に願望で人を作り出したいんだとか。
正直倫理的にどうなのかと思わないでも無いけれど、教授は自信満満に必要であれば必ず求められると語った。それどころか、願望から生まれた人間には人権が無いから好き勝手出来ると恐ろしい事を言っていた。まあ、確かに法律上はその通りだし、長い孤独の中で生きていくにはそういう存在が必要なのかもしれないけれど、だからと言って人格のある存在を生み出しそれを己の欲望の捌け口にするのはどうかと思う。私個人が叫んだところで仕方が無いけど。
何にせよ、願いからものを生み出すのはまだ研究途中で完成しておらず、今回の発表は願望の具現化そのものではなく、具現化された願望と実際の物を区別する検知器だった。何でも願望で出来た者は不安定で、周囲の環境で容易に変化するらしい。ただしそれはミクロの話であって、肉眼で見ても何ら変わりは無い。ただ今回の検知器はそれを判断して、偽物と本物を識別し、びーびーと音を鳴らしてくれる。
そんな訳で、私は今ひよこを持っている。願望の足りない地球では偽物を作成出来なかったので、月で作ったものを持ってきたらしい。その二匹はどう見ても生きていて、殆ど同じに見えるのに、どちらかが偽物なんだという。どちらが偽物かは持っている私自身にも分からない。検知器を当てるまでは分からない。ひよこの事は気の毒に思いつつもクイズの様でちょっと楽しみだった。
教授はまず自分に検知器を当てて冗談を言って場を和ませてから、メリーの持つりんごに検知器を当てた。左手に持つりんごに反応して、検知器がびーびーと鳴る。右手に持つりんごに当てても反応は無い。それから教授が簡単な原理を説明し、そして左手に持ったりんごは確かに願望で作られた物であるけれど、性能は全く一緒なのだと語る。実際に齧って食べられる事を示すと、記者達がどよめいた。その驚き方がちょっとわざとらしいと思ったのは、私が発表の事前に同じ説明を受けていたからだろうか。
続いて私の持つひよこでの実験になる。両方共どう見ても生きている。けれどどちらかは願望で出来た偽物だ。ふと偽物は何を思い生きているのだろうと栓無い事を考えた。考えている内に、ひよこへ検知器が当てられた。
右手のひよこに反応した。
右手が偽物なのか。
続いて左手のひよこにも検知器を近づけ、何故かそちらも反応する。
両方共偽物だったのだろうかと教授を見上げると訝しむ様に眉根を寄せていた。どうやら教授にとっても予想外の事らしい。
再び右手のひよこに検知器を当てる。反応する。
続いて左手のひよこに検知器を当てる。これまた反応する。
どういう事だろう。
記者達もざわめきだしてあまり良くない雰囲気だ。実験は失敗したのか。
大丈夫だろうかと教授を見上げると、驚きに目を見開いていた。
何に気が付いたのか気になっていると、教授がゆっくりと手を動かし、左手のひよこに当てた検知器をずらしていく。そうして私の手を上っていく。検知器はびーびー鳴っている。
まさか私の服が反応した?
だとしたら教授の実験を邪魔してしまった事になる。
慌ててひよこを取り落とし、教授を見上げると、真剣な顔で私に検知器を当てていた。
検知器がびーびーと音を鳴らしながら、私の腕を上っていく。
何だか嫌な予感が湧いてくる。
私の腕から肩へ。びーびーと鳴っている。
検知器を掴んで止めたいが、体が動かない。
そうして検知器が私の顔を上り、私の目の前に突きつけられる。びーびーと鳴っている。
びーびーと検知器が私に反応している。
頭が真っ白になって、びーびーという音を聞き続けた。
びーびーという音で頭が痛くなる。
びーびーと辺りが揺らめいていく。
私は凝り固まった首を必死で動かし、メリーを見た。
メリーが罪悪感で押し潰されそうな表情をしていた。
それで私は全部を理解した。
そういう事だったんだ。
初めからそういう事だった。
ずっとずっとそういう事だったんだ。
私はさっきひよこに対して抱いた憐憫を思い出した。
私は何を考えて生きているんだろう。
私は何を考えて生きてきたんだろう。
私は本当に何か考えていたんだろうか。
私は本当に何か考えているんだろうか。
私は何の為に生まれ、何の為に生かされてきたんだろう。
メリー。
ねえ、メリー。
恨むよ。
そうして蓮子の存在は消えた。
メリーの絶叫が響き渡った。
続き
最終章 夢が偽りだというのなら