阿求が自分の部屋の襖をあけると、むわっと体臭が漂ってきた。徹夜作業の朝の惨憺たる有様は、たとえ年頃の女ふたりであろうと変わらない。早く着替えたい。着替えられるものならば。
「あら……阿求じゃない。早かったわね。もう……印刷所から戻ってきたの。どこか……早めにあいているお店で……モーニングティーしてくるって言ってなかったっふえ」
一枚毛布をひっかけただけで、畳に突っ伏すように寝ていた小鈴は、唇の左端から涎を垂らしながら顔をあげた。その、やり遂げた感に満ち満ちている表情を、今から壊すのが忍びなかった。
「原稿、突っ返されたわ」
だが、やらねばならない。言わなければならない。
「修……正……ってこと」
小鈴はまだ舌がうまく回らないようだったが、頭の方はしっかり回っている証拠に、目に剣呑な光が現われてくる。
「修正……ええっ! なんでっ、なんで阿求!」
「最近、基準が厳しくなっているからでしょうね」
「そんなっ、ちょろっとほんとのことを書いただけじゃない。こないだ迷子が妖怪に喰われましたって!」
「私もそのくらいいいかなと思ったんだけどね。まあそこだけじゃないんだけど、結構、妖怪、人間の双方に嫌味っぽくっていうか、露骨に書いちゃった箇所もあったでしょう。時には煽るような書き方も。で、自主規制ってやつかしら。人里も、なんだかんだで、妖怪の賢者の作り出したネットワークの中にがんじがらめにされているから。嫌とは言えないのよ」
「嫌とは言えない……って、そんな、別に連中が書くなって言っているわけじゃないでしょ。印刷所が勝手にビビってるだけじゃない!」
「妖怪の賢者……連中は、いざとなったら徹底的にやるわよ。そして、私たちはそれに対してはほぼ無力。そうなる前に自主的に表現を控えておこうっていうのは、わからないじゃないわ。私も気にはなっていたから、少し書き方をマイルドにしたんだけれど」
「そうよね、そうよね、私、ほんとうはもっと書きたかったけど、執筆のプロの阿求が言うんだから仕方なく推敲したわよ」
「まあ、あなたのは単に文章が下手だっただからだけど」
「なんですって!」
「まあそれはこの際どうでもいいわ」
「よくない!」
「修正しなければ印刷はできない。そして、今から新しい印刷所を探す暇もない。私たちに選択は限られているわ、小鈴」
「修正して、印刷するか。修正せず、印刷もしないか」
「そうです。あなたの言う通り」
急に阿求は敬語になった。気宇壮大になるとなぜか敬語を使いたくなるのが阿求だ。
「どうしますか、小鈴」
「印刷しないという選択肢はないわ。人間と妖怪が一ヶ所に集まる夏祭り……こんなの年に一回あるかないかよ。私は、私たちの本を人間にも妖怪にも見てもらいたいわ。ここで出さずにいつ出すっていうの」
「同感です」
阿求は重々しくうなずいた。それから、脇に抱えていた封筒から、原稿の束を引き出し、小鈴の前に置く。コンセプトは、『幻想郷の近況を記す図番入りエッセイ』だ。紐を解いて、小鈴は自分たちの書き上げた原稿を改めて眺める。
素晴らしい。
いつ見ても最高の出来栄えだ。
その最高の原稿が、今、赤インクでメタメタに汚されている。
「なんっっっなのよこれはァァァ!」
「落ち着きましょう、小鈴」
「落ち着いていられるかッ! ゴタゴタ言わずにとっとと印刷すりゃぁいいのよ!」
「訂正箇所をよく見てみればわかります。何もやたらめったらにインクを使っているわけではない。妖怪の気に障りそうなところを注意深く選んでいます。全体の論旨自体に傷をつける気はない」
「じゃあどうしろって言うのよ」
「訂正して、つじつまが合うように再構成して、再提出するのです」
「だから……どうやって。確か、納期は正午十二時までよね。延ばしてくれるって言ってた?」
「いいえ、時間厳守と念を押されたわ」
「じゃああああああどうしろッッッッて言うのよ」
「対策はひとつだけ」
「なに」
「急ぐのよ」
頭を振り乱して鈴の音を鳴らしつつ奇声をあげる小鈴を放置して、阿求は原稿の手直しにかかった。すべてが手書きではなく、ページの枠や写真をはめこんだ組版は完成しているので、あとは文面をどうにかすれば、どうにかなる。
「まずは単純に言い回しを変えればOKな箇所から進めていきましょう。手を動かさないと私も頭が働かない。それから、論旨そのものを変えなければならないところに手をつける。いいわね」
「ちょっとこれ、『こうして何万年と続いてきた幻想郷は』にアカが引いているんだけど」
「そんなに続いていないってことじゃないかしら。もしくはその逆」
「ないかしらってあんた歴史家でしょあきゅちゃん」
「つべこべ言わず『昔から』にしておきなさい」
「そんな! 安っぽくなるわ。せめて『太古から』よ、これ以上は譲れない」
「じゃあもうそれでいいから。もうあまり話しかけないで」
小鈴が騒いでいたので抑える側だった阿求も、だんだんと苛々を隠せなくなってきた。しばらくはお互い無言で担当パートの修正に入る。
「ねえ、これって一印刷所の判断じゃないわよね。表現の指摘がいちいち細かいって言うか、事情知っているひとじゃないとここまで指摘できないわよ」
小鈴の思いは、阿求も同じだった。だがそれを今さら言っても始まらない。
「黙って手を動かす」
「はあい」
手のひらに滲んだ汗が筆をべたつかせる。ふと、いても立ってもいられず思い切り頭を掻くと、指先が粘つく。外は朝だというのに、空気は再び重く、ぬるくなっていく。
陽は高くなり、午前十時を回った。
目がしぱしぱする。
指摘された箇所の訂正は八割がた終わっていた。そして残った二割が肝心要の部分だった。
人間と妖怪の共存。それは異論ない。しかし要所要所において、妖怪は人間を騙し、利益を奪い、その上でイーブンであると偽っているのではないか。
片方が喰らい、片方が狩る、そういう恐怖と抵抗・団結の相乗効果でコミュニティを維持しているだって?
その論理は破綻しているんじゃないのか?
そういう趣旨だ。それを、なるべくオブラートに包んで提出したい。
「そうだ、このアカでチェックされまくったメタメタに汚い紙面を、そのまままるごと印刷に出すっていうのはどうかしら」
小鈴はすがすがしい顔で提案した。まるきりの冗談というわけでもなさそうだ。そういう乱暴な手法がもたらす効果も、阿求は認めないではない。
が……
「それは、私の執筆者としての意地が許せないわ」
ふたりは互いに譲る気配がない。それでもなんとか、折り合って進められるところは進めていく。
午前十一時を回った。残ったアカは一割、いや、八分といったところか。
昨夜から朝にかけてずいぶん冷えていたのに、一度太陽がのぼるとやたらと暑くなってきた。この部屋にずっといて、嗅覚はほとんど麻痺しているはずなのに、それでもなおふたりの体臭が部屋に漂うのを感じる。
臭いとともに、焦りが濃くなっていく。じり、じり、と外からも内からも圧迫されながら、阿求はふと、なんとも言えぬ幸福を感じた。時間が煮詰まっていく。
「たまらないわね」
小鈴が言う。なんの脈絡もない。そう言ったからといって問題は解決しない。
にもかわらず……
「ほんとうに、ね」
阿求は心から同意する。
ふたりの『夜』はまだ終わらない。
「あら……阿求じゃない。早かったわね。もう……印刷所から戻ってきたの。どこか……早めにあいているお店で……モーニングティーしてくるって言ってなかったっふえ」
一枚毛布をひっかけただけで、畳に突っ伏すように寝ていた小鈴は、唇の左端から涎を垂らしながら顔をあげた。その、やり遂げた感に満ち満ちている表情を、今から壊すのが忍びなかった。
「原稿、突っ返されたわ」
だが、やらねばならない。言わなければならない。
「修……正……ってこと」
小鈴はまだ舌がうまく回らないようだったが、頭の方はしっかり回っている証拠に、目に剣呑な光が現われてくる。
「修正……ええっ! なんでっ、なんで阿求!」
「最近、基準が厳しくなっているからでしょうね」
「そんなっ、ちょろっとほんとのことを書いただけじゃない。こないだ迷子が妖怪に喰われましたって!」
「私もそのくらいいいかなと思ったんだけどね。まあそこだけじゃないんだけど、結構、妖怪、人間の双方に嫌味っぽくっていうか、露骨に書いちゃった箇所もあったでしょう。時には煽るような書き方も。で、自主規制ってやつかしら。人里も、なんだかんだで、妖怪の賢者の作り出したネットワークの中にがんじがらめにされているから。嫌とは言えないのよ」
「嫌とは言えない……って、そんな、別に連中が書くなって言っているわけじゃないでしょ。印刷所が勝手にビビってるだけじゃない!」
「妖怪の賢者……連中は、いざとなったら徹底的にやるわよ。そして、私たちはそれに対してはほぼ無力。そうなる前に自主的に表現を控えておこうっていうのは、わからないじゃないわ。私も気にはなっていたから、少し書き方をマイルドにしたんだけれど」
「そうよね、そうよね、私、ほんとうはもっと書きたかったけど、執筆のプロの阿求が言うんだから仕方なく推敲したわよ」
「まあ、あなたのは単に文章が下手だっただからだけど」
「なんですって!」
「まあそれはこの際どうでもいいわ」
「よくない!」
「修正しなければ印刷はできない。そして、今から新しい印刷所を探す暇もない。私たちに選択は限られているわ、小鈴」
「修正して、印刷するか。修正せず、印刷もしないか」
「そうです。あなたの言う通り」
急に阿求は敬語になった。気宇壮大になるとなぜか敬語を使いたくなるのが阿求だ。
「どうしますか、小鈴」
「印刷しないという選択肢はないわ。人間と妖怪が一ヶ所に集まる夏祭り……こんなの年に一回あるかないかよ。私は、私たちの本を人間にも妖怪にも見てもらいたいわ。ここで出さずにいつ出すっていうの」
「同感です」
阿求は重々しくうなずいた。それから、脇に抱えていた封筒から、原稿の束を引き出し、小鈴の前に置く。コンセプトは、『幻想郷の近況を記す図番入りエッセイ』だ。紐を解いて、小鈴は自分たちの書き上げた原稿を改めて眺める。
素晴らしい。
いつ見ても最高の出来栄えだ。
その最高の原稿が、今、赤インクでメタメタに汚されている。
「なんっっっなのよこれはァァァ!」
「落ち着きましょう、小鈴」
「落ち着いていられるかッ! ゴタゴタ言わずにとっとと印刷すりゃぁいいのよ!」
「訂正箇所をよく見てみればわかります。何もやたらめったらにインクを使っているわけではない。妖怪の気に障りそうなところを注意深く選んでいます。全体の論旨自体に傷をつける気はない」
「じゃあどうしろって言うのよ」
「訂正して、つじつまが合うように再構成して、再提出するのです」
「だから……どうやって。確か、納期は正午十二時までよね。延ばしてくれるって言ってた?」
「いいえ、時間厳守と念を押されたわ」
「じゃああああああどうしろッッッッて言うのよ」
「対策はひとつだけ」
「なに」
「急ぐのよ」
頭を振り乱して鈴の音を鳴らしつつ奇声をあげる小鈴を放置して、阿求は原稿の手直しにかかった。すべてが手書きではなく、ページの枠や写真をはめこんだ組版は完成しているので、あとは文面をどうにかすれば、どうにかなる。
「まずは単純に言い回しを変えればOKな箇所から進めていきましょう。手を動かさないと私も頭が働かない。それから、論旨そのものを変えなければならないところに手をつける。いいわね」
「ちょっとこれ、『こうして何万年と続いてきた幻想郷は』にアカが引いているんだけど」
「そんなに続いていないってことじゃないかしら。もしくはその逆」
「ないかしらってあんた歴史家でしょあきゅちゃん」
「つべこべ言わず『昔から』にしておきなさい」
「そんな! 安っぽくなるわ。せめて『太古から』よ、これ以上は譲れない」
「じゃあもうそれでいいから。もうあまり話しかけないで」
小鈴が騒いでいたので抑える側だった阿求も、だんだんと苛々を隠せなくなってきた。しばらくはお互い無言で担当パートの修正に入る。
「ねえ、これって一印刷所の判断じゃないわよね。表現の指摘がいちいち細かいって言うか、事情知っているひとじゃないとここまで指摘できないわよ」
小鈴の思いは、阿求も同じだった。だがそれを今さら言っても始まらない。
「黙って手を動かす」
「はあい」
手のひらに滲んだ汗が筆をべたつかせる。ふと、いても立ってもいられず思い切り頭を掻くと、指先が粘つく。外は朝だというのに、空気は再び重く、ぬるくなっていく。
陽は高くなり、午前十時を回った。
目がしぱしぱする。
指摘された箇所の訂正は八割がた終わっていた。そして残った二割が肝心要の部分だった。
人間と妖怪の共存。それは異論ない。しかし要所要所において、妖怪は人間を騙し、利益を奪い、その上でイーブンであると偽っているのではないか。
片方が喰らい、片方が狩る、そういう恐怖と抵抗・団結の相乗効果でコミュニティを維持しているだって?
その論理は破綻しているんじゃないのか?
そういう趣旨だ。それを、なるべくオブラートに包んで提出したい。
「そうだ、このアカでチェックされまくったメタメタに汚い紙面を、そのまままるごと印刷に出すっていうのはどうかしら」
小鈴はすがすがしい顔で提案した。まるきりの冗談というわけでもなさそうだ。そういう乱暴な手法がもたらす効果も、阿求は認めないではない。
が……
「それは、私の執筆者としての意地が許せないわ」
ふたりは互いに譲る気配がない。それでもなんとか、折り合って進められるところは進めていく。
午前十一時を回った。残ったアカは一割、いや、八分といったところか。
昨夜から朝にかけてずいぶん冷えていたのに、一度太陽がのぼるとやたらと暑くなってきた。この部屋にずっといて、嗅覚はほとんど麻痺しているはずなのに、それでもなおふたりの体臭が部屋に漂うのを感じる。
臭いとともに、焦りが濃くなっていく。じり、じり、と外からも内からも圧迫されながら、阿求はふと、なんとも言えぬ幸福を感じた。時間が煮詰まっていく。
「たまらないわね」
小鈴が言う。なんの脈絡もない。そう言ったからといって問題は解決しない。
にもかわらず……
「ほんとうに、ね」
阿求は心から同意する。
ふたりの『夜』はまだ終わらない。
実体験に基づいてるんですかね