※本編は少女回天 ―風―の続編となっております。前編を読んでいないと理解できない記述が多々あるかと思います。
● 少女回天 ―空―
「あのう……。私なんでここにいるんでしょう?」
座布団の上で早苗がぽつりと声を上げる。主人はいまだ姿を現さず、座敷には早苗と文しかいない。早苗をここに連れて来る間、道中あれだけよく喋ったというのに、この天狗は肝心な事を言っていないのだ。隣で手帳に何か書き付けていた文は「おや」とわざとらしく声に出して驚いて、こちらに顔を向けた。口元に笑みが浮かんでいる。
「てっきり判ってついて来ているのかと」と、ニヤニヤ笑って文は白々しく言う。
「いえ、判りません」
「私、言いましたよね? ここがどういう場所だか」
「はぁ、それは」
聞いている。聞いてはいるが、やはり理由は判らない。
「いけませんねぇ。そんなふうに天狗に付いて来ては。いつか拐かされてしまいますよ?」
軽口を叩いて手帳を閉じると、天狗は出された茶を一つ啜った。
近頃、早苗は里で守矢神社の名を売って周っている。信仰の獲得という理由も有るにはあるが、ほかにも色々と考えてのことで、彼女としては早々に里の人々からの信用を得たいという思いが強い。札を配ったり、失せ物判断をしたり、時には里で悪戯をする妖怪を退治したりして里を周るのが日課のようになっている。
今日も同じように、まだ昼前といった時間に早苗は里に来た。山の天狗共が食べきれないほど持って来た杏を子供たちに分け与え、いつもの様に竜神像のある少し広くなった場所で失せ物判断でもしようかと、通りを歩いているところを射命丸文に「少々、付き合ってください」と捕まったのだった。
そうして文に連れられてやって来たのは、里の外れにある建物だった。周りは板葺きの貧相な家ばかりがあるなか、瓦葺の立派な白壁が続いている。門はまるでお寺の山門のようで、実際、早苗は文から説明を受けるまで「こんな所にお寺があったのか」と、そう思っていたのだ。柱には厳しい字で「久能院」と書かれた看板が掛けられている。
「ここはですね、久能院の道場です。ほら――」
と、文が前を行く男を示す。白衣白袴に頭襟(ときん)結い袈裟の行者が歩いている。里の退魔師にはああいう格好の者もいる、というのは早苗も知っている。
「退魔師さんの道場ですか?」
「そうです。久能院というのは里の退魔師の筋の中では一番大きな、まぁ大手の一家ですね」
見ると、先ほどの男がこちらに気付き、深々と頭を下げている。こう厚く辞儀される覚えが早苗には勿論無いから、あれは文に向けてのものなのだろう。
「久能院は今で八代目だか九代目だかですが、祖は天狗から法を授けられたと謳っていまして」
頭を下げていた男が慌てて建物に入ってゆく。
「先ほど『お寺のようだと』仰られましたが、実際に寺でもあるのですよ。一般の信者と言うのはいませんがね。どこぞで本尊が空(くう)を踏んでいる筈です」
門を入って左手には時代劇に出てきそうな、あからさまに道場であることを主張する平屋の大きな建物があって、右手にはいくつか僧房のような建物が並んでいる。その僧房のほうへ歩き出したところで、前から二人の行者が慌てたように駆け寄ってきた。一人は淡い緑色の涼やかな袴を着けていて、それが厳つい髭面と似合ってなくてちぐはぐだった。
「これは射命丸さま、前もって言っていただければお出迎えにあがりましたものを」
髭面が野太い声で慇懃に頭を下げた。
「いえ、いいんです。それより、こちら山の巫女の東風谷早苗さんです。義円さんに頼まれていたのでご案内しました」
「では、棟梁に?」
「急な話ですが、いらっしゃいますよね?」
「ええ、勿論。しかし、その、棟梁はまだ……」
「ああ、待ちますよ。いきなりですからね」
そういうやり取りがあって一室に通され、今早苗は隣に座る文に先の問いを発したのだった。思い返してみても、やはり自分が連れてこられた理由は判らない。
「まぁ事を急くなとは言いませんがね」横の天狗が湯飲みを置いた。
「早苗さん、人に乞われるままに妖怪退治やらお祓いやらしてきたでしょう?」
「はぁ。いえ、大した事はしていないのですが。退治した妖怪も精々悪戯者といったレベルの話ですし」
「それを無償でするでしょう。早苗さんは」
「はぁ。謝礼を頂くほどの事はしていないので」
「退魔師はそれで食っているんですよ?」
「ああ……」
そういう理由だったのか。どうも早まったというか、いや、周りが見えていなかったのか。
「ええと……怒られます、よね?」
「早苗さんは新参者ですし、なにより巫女なので。幻想郷の人々は巫女には弱いのです。ですから、何とかならないかと、私の所に話が来たわけです。まぁ、あんまり派手にやってくれるなと、そういう話でしょうね」
「……自重します」
「ふふふ、退魔師共の事なんか気にせずに暴れまわっても良いのですよ?」
「そういうわけにもいかないでしょう……」
そんな事を話しているうちに障子が開いて、先ほどの髭面の行者と着流しの老人が入ってきた。
「義円だ。久能の棟梁をしておる」
骨ばった顔をした小さな老人で、肩の下まである長い白髪と妙に高い鼻のせいで、これが行者の服装をしたら山で会う天狗共よりもよほど天狗らしい姿になるだろうと思った。早苗の方も「山の守矢神社の風祝、東風谷早苗と申します。この度はものを知らぬ新参ゆえ御迷惑を……」と挨拶をすると、老人は「ああ、うむ」と、それだけ言って座を見渡した。
「つまり、話は通じておるのだな」
「それはもう。貴方方からしたら、言いにくい話でしょうからね。小娘に商売を荒らされて困っているが直接は言いがたいと。いじましいですねぇ」
「……あまり、苛めてくれるな」
「うふふ。義円さん、お変わりない様子で」
「そちらもな」
「本来、巫女のする事は我等の埒外よ。神の眷属がいかに振舞おうと、儂等は儂等。そういうのが幻想郷(ここ)のしきたりよ。しかしな」
老人が鋭い目を更に細めて、さも苦しそうに言う。早苗はてっきり怒られると思っていたから、老人のその態度に一層恐縮してしまう。
「しかし、この前の騒ぎから、こちらも苦労しておってな。不敬も恥も承知でこうして――」
そう言いながら老人は頭を下げた。早苗は慌てるしかない。
「いえ、その私のほうこそ、考えが至らなかったというか、浅はかだったと言うか……」
この前の騒ぎとは里の人間が喰われた事だろう。それも五人も立て続けに喰われた。その騒ぎ自体は霊夢と早苗が解決したはずなのだが、老人の言では『苦労』は未だに終わっていないように聞こえて、やり残したことがあっただろうかと、それが早苗には気になった。
「その『この前の騒ぎから苦労している』というのは……」
口にしてしまってから、どうも訊いてはいけない事だったような、そんな感じがした。目の前の二人の男は渋面をさらに歪めて黙ってしまった。脇では文が面白そうにニヤついている。
「ふふふ。早苗さん、それはですね、後でお話しましょう。ここで話すとこの人たちが悶えてしまいますからね。髭面と爺が悶えても気味が良くないでしょう?」
それだけで、短い会見はお開きになった。玄関まで来たところで「どうです、私のように里に近しい天狗がいてよかったでしょう。恩に着て頂いて良いのですよ」と文が宣う。
「もう一人のほうも、こうすんなり話が出来ればな」
髭面の行者は相変わらず渋面のままだ。
「ああ、そちらは――」
文は振り向きもしない。
「そちらは、無理という奴です。私でも手に負えませんからね」
◇◇◇
久能院の道場を出て、職人達の家が集まっている辺りの埃っぽい通りを往きつつ、早苗は考えている。世界を変えるというのは意外に難しいものだと。意地を通す、というのではなく、周囲と寄り添った形で自分のやりたいように事を成すというのは、やはりとても難しい事なのだ。
少し行ったところにあった屋台で二人して飴を買った。
「先ほどの話ですがね」
狐か犬か判然としない飴を舐めつつ文が言う。早苗はつい蛇か蛙は無いかと探したが、無いようなので仕方なくそう遠くも無いだろう亀の飴を買った。
「一応、ここには『里中では暴れない』という決まり事があるわけです。にも拘らず、里の中でなんやかやと悪戯する連中は居るのですが。早苗さんもいくつか退治されたでしょう。さて、なぜそういった連中が居るのでしょう?」
「それは、なんと言いますか、ええと言葉のわからない妖怪も居ますし」
「そうなんです。人語を解さない、普通一般のやり方では意思疎通が出来ない、というのが肝なのです。こうした者共と普通じゃないやり方で折り合いをつけるのが、拝み屋退魔師と呼ばれる方々な訳です」
「でも、そればかりという訳でもないですよね? 例えば遠出の時の護衛ですとか、退魔師の方がやりますよね?」
「そうですね、他にも山に入って産物を取る時などに、そこの妖怪に呼ばわって折衝をしたりとかもしますが、そういうのは余技です」
「余技ですか……」
「余技です。主たる仕事ではありません。なんせ言葉が通じるのですから、普通一般の人間でもやろうと思えばできるのです。出来はするけれども、やはり妖怪の習性だとか考え方だとかを良くわかっている者のほうがやり易いくて、それが退魔師だというだけです」
「なるほど」
言いつつ、はてと早苗は思う。「先ほどの話」からは少しずれた話のような気がする。
「しかし、里の人々はそういう事を知りません」
「そう、なのですか?」
それも変な話だろうと思う。なにせ自分のように新たに転がり込んできた者ではなく、この里に根付いた古くからの、八代だか九代だかと文も言っていた、習俗なのに。
「なぜなら、退魔師達が言いません。なにせ貴重な飯の種ですから『あれは余技であって、実際は誰でも出来ますよ』などといったら膳に載るおかずが一品も二品も減ってしまうのです」
「……ああ」
「そういう訳ですから、退魔師拝み屋は妖怪一般、里に仇名すもの全て何とかするものだと、普通は思われているわけですね」
「ああ、それが……」
そこでやっと、話が「先ほど」に繋がった。
「実際は、彼等は人語を解さないものに人間の主張を通す仲介人であるのに、一般にはもっと勇ましい、ある種の里の守護者のように思われているわけです。守護者というと大げさですね、まぁ用心棒でしょうか。本人達も本当は違うというのを知りつつも、飯の種ですし、へりくだっているよりはふんぞり返る方が気分が良いので、つい勇ましく格好をつけたりしてしまう。『祖は天狗から法を授かった』などと言う訳です」
「手厳しいですね」
「ところが、人語を解し真正面から人間を襲って喰ってしまうようなのが、実際に現れると、彼等は弱ってしまうわけです」
「今回の件のように……」
「そう。今回のように」
「里の人たちは巫女を頼りとしていますが、巫女はなんせ神様のものですから。実際はどうだか知りませんが、里の人たちはそう思っているので。そうなると巫女は自分達の思惑だけで動いてくれるわけではない。いよいよとなったら頼みに行きますが、やはり気安く頼れる先ではない」
「それで退魔師の方々が……」
「退魔師は里の一部ですから、里の要求に応えるしかないのですが、実際は彼等にできる事など殆ど無いのです。繰り返しになりますが彼等は戦う者ではないのです」
「しかし、一般の人々は退魔師が何とかしてくれると思っているんですね」
「まぁ、最終的に退治討伐するのは無理でも、何かしてくれるくらいには思われていますね。しかし実際はどうにもなりませんから――」
「から?」
「役立たずと陰口を叩かれる羽目になるのです」
「ああ、それが『苦労している』ですか」
「そう言う事です」
「その役立たずと言われている最中に、これ見よがしに巫女が里中の木っ端妖怪を退治して周るものだから、彼等としてはもう悲鳴をあげずにはいられません」
「ああ……その、軽はずみでした……」
「いえ、もっと徹底的にやっても良かったんですよ? それで『里中の治安は守矢にお任せ!』とかやってしまっても良かったと、私は思うのですがね」
「そんな、文さんはまた無責任な事を言う……」
いつの間にか通りの幅も広がって、賑やかな里の表通りである。最近色々としている為もあって、通りを行く人の幾人かは早苗に会釈などしてくれた。中には「この間はお世話になりました」と声をかけてくれる人も居る。少ししょげていた早苗は、それでまた、ふんっと鼻息を立てて気合を入れるのだ。
外に居たときの早苗は言うまでもなく学生で、その学生という枠内でのみ社会に接していたに過ぎない。それが幻想郷にきて、ただの一個人として直に人間社会と接して、その複雑さと微妙さに気後れするような、そんな心持になってしまうのだ。自分が誠心から良かれと思ってやった事の蔭で、何人もの人が失業の危機に面していたなど思いもよらなかった。そんなことを余り上手くない言い方で文に言った。
「ははぁ。まぁ社会とか組織とか、そうしたものは難しいものです」
事も無げに文はそう言うが、その難しい組織相手にこの天狗が特殊な位置を占めているらしい事は早苗も知っている。天狗達は早苗でさえ入る事を許されない妖怪の山山上に壮大な大伽藍を持っていて、殆どの天狗はそこの周辺に集住しているのに、文は山中というよりも麓に近い一軒家に一人で離れ住んでいる。そうして天狗の社会から切れているのかと言えばそんな事は無い。早苗と守矢神社が幻想郷に飛び込んで、博麗神社と悶着になった時に、山として迎撃の最前線に立ったのは文だったし、怨霊騒ぎの時にも山の意を受けてと言えば、それは違うと文は言うだろうがやはり地底に向かう霊夢を援けて真相を探ったりと、どう考えてもそれなりに重用されていながら、普段は誰にもましてフラフラとして不埒な写真を撮ったりしている。
天狗の社会はいわゆるピラミッド型のそれはもう厳格な組織で構成されているはずなのに、いま自分の前を行く天狗がそのピラミッドの何段目あたりに位置しているのか、皆目見当が付かないのだ。
早苗がつらつらとそんな事を考えていると、文が振り返って「どうかしましたか?」と訊いてくる。貴方の事を考えていましたとも言えないから、なにか適当な話題を探した。
「そういえば『もう一人も』と棟梁さんは言っていましたよね?」
「ああ」
「私以外にもどなたか退魔師さん達に迷惑を掛けている方がいるので?」
「この場合は迷惑と言うのとは、違いますかね。それにですね、早苗さんの場合だって元は退魔師の面子と見栄が原因なのですから、迷惑かけた等と考えない方がよいですよ?」
「まぁまぁ。それで誰なんです? 文さんが『手に負えない』というお相手は」
「魔理沙さんですよ」
飴の棒をぽいと放って、文はそう答えた。
◇◇◇
梅雨も近くなった幻想郷の空を魔法使いが往く。
いつものように空を切り裂くかのような速度ではなく、漂うかのようにふわふわと。
普段の魔理沙は食を捨ててしまった魔女を「食の幸福を失った者」と半ば本気で哀れむし、捨食の法を得てなお食べる事を捨てきれない人形遣いをからかったりもするのだが、今、魔理沙はその彼女達が羨ましい。なぜなら、二週間近くも引き篭もっていたせいで、米の備蓄が費えそうなのだ。魔理沙はできる事なら今、人里に出たくなかった。
魔理沙は空を漂いながら、己の不自由さを嘆いているのだった。引き篭もらねばならなかったのも不自由だし、人里に米を買いに行かねばならないのも不自由だ。
昨日、魔理沙の家に人形遣いが訪ねてきて、どうやら騒動は終わったようだと、そう告げてきた。騒動の間中、魔理沙は外出を控え、飛びたいのを我慢して、したくも無い読書やら益も無い実験で時間を潰していた。里を襲った連続食害事件は予想以上に長引いて、結局魔理沙は二週間余りも引き篭もらざるを得なかった。無論、彼女は自分が被害に会うことを恐れていたわけではない。むしろ、日々そう願っているように、彼女が『真に』自由な存在であったなら、魔理沙は真っ先に飛び出していって、あれこれと調べたりして、事件に犯人に肉薄していた事だろう。
実際、最初の犠牲者が出たあと、魔理沙はあれやこれやと里の周囲を密かに調査して周っていたのだ。ところがそれから二日もしないうちに次の犠牲者が出て、それで魔理沙はすっぱり諦めて森の自宅に引き篭もってしまった。すでに魔理沙にはこの騒動が霊夢にしか解決できないのが解っていた。三日のうちに二人が喰われたのだ。何かよんどころのない事情で空腹に耐えかね、仕方なく人に手を掛けたというのでは無い。この短期間に被害が重なると言う事は、喰った奴は腹具合など関係なしに、喰いたくて喰っている。そういう手合いを止めるには、殺すか、封じるかという結末しかない。そしてそういった結末に自分は関われない。単純に嫌だという以上に、後難が怖い。
里の人間に平気で手を掛けるような妖怪は、妖怪の間でもはぐれ者ではあろうが、しかし、そんな者にもどんな縁があるか判らない。弾幕少女として幻想郷に知らぬものは居ない霧雨魔理沙とて人間の枠の内で、ただの人間に仲間が討たれたと知った妖怪達がどう反応するか。妖怪達に混じって暮らす魔理沙は、その点は酷く慎重だった。
つまりは、穢れだ。と魔理沙は考えている。殺した殺されたの話には必ず簡単には払えない穢れがついてくる。ただの人間の魔理沙には力はあっても、それを祓う事が出来ない。穢れを祓えるのは巫女だけなのだ。
それに何より、霊夢が妖怪とはいえ誰かを殺すところを、自分は見たくない。霊夢もまた他人に見られたくないだろう。ふらりと空の散歩にでて、妖怪退治中の霊夢に出くわしでもしたら、自分は一体どうしたらよいだろう。誰かを殺すか封印するかしている最中の霊夢に何と声をかけたらいいのだ。
結局、魔理沙は引き篭もるしかない。
人形遣いは霊夢と早苗が解決したようだと、そう言ってきた。早苗はどこまで関わったのだろう、何故関わったのだろう。
「あの子、幻想郷の巫女になるそうよ」
薄暗い魔理沙の家で、ガラクタの中から丸イスを引っ張り出しながらアリスはそう言っていた。
「なんだそりゃ。あいつは既に巫女だろう?」
「面白い事言ってたわ。幻想郷はおかしいって。全部最後は霊夢任せなんて間違ってるって」
それを聞いた時、魔理沙は罵るような声を上げそうになって、危うく飲み込んだ。余計なお世話だと、よく知りもしない癖にと、そう言いそうになった。
「だから、自分も霊夢と同じようになって、全部が全部霊夢のとこに行かないようにするんですって」
――そんなもん、無理に決まってる。
それからはアリスの言う事を興味無さそうに聞く振りをして、そうして、何か自分が嫌な奴になったような、そんな気分になった。
早苗の言う「全部最後は霊夢任せ」とはつまり、そのまま魔理沙の姿勢でもあるのだ。ついさっきまで魔理沙は穢れが降りかかるのを恐れ、目と耳を塞いで、親友が好きでもない仕事を終わらせるのを自宅に引き篭もって、ただ待っていたのだ。穢れは霊夢にしか祓えない、だから最後は全部霊夢任せだ。早苗も魔理沙に向かって言ったのではないだろうし、その事は魔理沙も分かってはいるが――気に障るのだ。
幻想郷はおかしい。間違っている。だから変える。
なんと傲慢なとも思うが、巫女というのはそういう生き物なのかとも思う。魔理沙は世界を変えてしまった巫女を既に一人知っている。霊夢はスペルカードルールを作って世界を変えてしまった。そしてその世界で魔理沙は生きている。人妖の狭間でこうして魔理沙が不思議な生活を送れるのもスペルカードルールのおかげで、魔理沙はこの世界が、今現在の幻想郷が好きなのだ。だから今、魔理沙が早苗の決心を冷静に受け止められないのは、好きなものを「間違っている」と言われて腹立たしい、という単純な話でもある。
しかしその魔理沙とて、この世界に疑義がないわけでも無い。夜の森で口元を乾いた血で真っ黒にした妖怪に出会うたびに、それが自分の知り合いだった時に、喰われる側と喰う側が意思疎通できる世界に対する葛藤を感じる事がある。幻想郷は歪んでいる。喰う側喰われる側に分かれているなら、いっそお互いが争いあっているほうが、よっぽどスッキリするのではないかと、『昔』の幻想郷のほうが色々と単純で良かったのではないかと、そう思った事が無いでもないのだ。
「つまり、私は複雑なんだ」
そして――
「世界も複雑なんだ」
答えの出ない思考を、なんだかよく分からない言葉で総括して、魔理沙は空を往く自分に意識を戻した。風は温く、湿っている。
箒の先は人里に向いているが、飛ぶ速度は漂うかのように遅い。
「どうせ、また面倒くさい事になるんだろうなぁ」
大きく息をついて、魔法使いが呟く。多くの者にとって騒動は終わったのだろうが、霧雨魔理沙にとってはまだ終わりきってはいないのだ。
◇◇◇
人里は、賑わっていた。騒動の間、人里は決してその経済活動を止めはしなかったが、それでもやはり、人出は少なくなるし流通は滞る。今やっと、里の周辺で昼夜を問わず人が喰われるという事態から開放されて、人里は久しぶりに戻ってきた日常に浸かっていた。
魔理沙は、既に機嫌が悪い。ぶつぶつ文句を言いながら、目立たぬようにと、里のだいぶ前で地面に降りて、そこから歩いた。そんな風に、こそこそとしなければならないのが、また魔理沙の機嫌を悪くする。そうして、眉間に皺を寄せ、大層険しい表情で里の入り口まで来たところ、既に里の入り口の橋の上に魔理沙が最も会いたくない者達が、彼女を待ち構えているのを見て盛大に舌打ちをした。どうやら、魔理沙が飛ぶ姿は大分遠くから見られていたようだった。
白衣白袴、頭襟に結袈裟という天狗の正装のような格好をした男達が三人、橋の真ん中で立ち塞がるかのようだ。無論天狗ではない。彼らは退魔師で、服装からいって久能院の筋だなと魔理沙は当たりをつけた。
「霧雨の、話がある。同道願おうか」
「私にゃ無い。悪いな」
そう言って目もあわせず通り過ぎた。
「そうか、ならば道々話す。往来でするような話でもないが、そう言うなら、やむを得んな」
男達はそう言って、魔理沙を囲むように歩き始める。
「霧雨。お前、この二週間なにをしていた」
「さぁな。冬眠かな」
「その間、人里で何があったか、知らぬ訳ではあるまい」
「寝てたんだから、知るわけないだろ」
「最後にやられたのは白斐屋の番頭の娘だ。お前もよく知っている者だろう。もっとも、お前は葬式にさえ来なかったが――」
白斐屋は霧雨店の二つ隣の酒屋だ。当然魔理沙は知っている。店自体も、そこの番頭の娘も。それで、魔理沙は折れて歩みを止めた。
「わかったよ。どこでも連れてけよ」
歩みを止めた魔理沙を見て、一番偉そうな髭面が脇の男に何か耳打ちすると、その男はどこかへと駆け出して行った。誰か人を呼びに行ったのだろう。これ以上面倒くさいのが増えるのかと思って魔理沙はまたげんなりした。
ついた先は表通りから通り一本裏に入った小料理屋で、まだ昼にもなっていない時間の事だから、暖簾も出ていないし、客は他に誰もいなかった。男達は奥の座敷に上がろうとしていたが、魔理沙は入り口近くのテーブルの椅子にさっさと座ってしまった。男達もぞろぞろ奥から戻って席に着いた。
「話があるんだろ。話せよ。先に言っておくが、私からお前等に言う事は、全く、なんにも、これっぽっちもない。だから勝手に話せ」
そう一方的に宣言して、魔理沙は店主が出した茶を啜った。
「今回の事件。甚大な被害が出た」
「お前等、退魔師が弱っちいからな」と魔理沙は頭の中で応える。本心ではない。退魔師が妖怪と真っ向きって戦う存在では無い事は、魔理沙もまた良く知っている。
「我等が力無いせいだと、そう言う者もいる。実際、それもあろう。先代、先々代の時代はこんな事良くあったと、老人達は言う。幻想郷は平和になったと、これもよく聞く話だ。だがな、今回のような事は、やはり起こるのだ。たかが十日の内に五人だ。今までもあった事だから、これからもこのままで良いとは我等は思わん。何より、こういった事態を早急に収拾できる、力あるものが、今人間のうちに居るのだ」
その力ある者は、今苦りきった表情で茶を啜っている。「だから、人里を守れってか? 冗談じゃない」これも頭の中での発言だ。そして、これは本心だ。全く、冗談じゃあない。そんな事になったら、今まで自分が苦心して手に入れた自由はバラバラに崩壊してしまうだろう。人里を守るのが煩わしいという話ではない。異変騒ぎの時、真っ先に飛び出していくのは巫女よりもまず魔理沙だ。魔理沙が恐れるのは、そんな事ではなく、今まで築き上げた妖怪達との関係をそのまま十全に保ったまま、人里の守護者にはなれない事が分り切っているからだ。
「霧雨。もしや自覚が無いのかもしれないが、お前は、既に今、ただの人間としては空前の力を持っているんだ。我等は何代も魔を退け、妖と戦う術(すべ)を伝え、磨いてきた。その我等が、お前の影を踏む事すらできない。伝えられる古記にも、巫女でもない者がこれほどの力を得た記録は無いはずだ。お前がどう思っていようと――」
「そっから先は、繰り返しだろ? もう十分聞いたし、私は行くぜ。ついて来んなよ」
小さなため息とともに魔理沙が言った。もう十分聞いてやったろうと腰を浮かせかけた魔理沙に「待った!」と後ろから声がかかった。
「待った。お嬢待った」
その、気持ちの悪い呼び方で私を呼ぶなと怒鳴りだしそうなるのを堪えて、魔理沙は腰を降ろした。声だけで誰が来たのか了解している。
「まったく、すばしこいたらない。オイ店主、茶ァだ」
そう言って、空いていた魔理沙の隣の椅子にどっかりと腰を据えたのは、黒い羽織の丸い男だった。男は霧雨の分家で職人街のほうに幾棟も長屋を持つ大家である。そちらのほうでは面倒見のいい出来た大家として知られているが、魔理沙にとっては面倒くさい奴筆頭である。ともかく、魔理沙はこの男を形容するのに「面倒くさい」と「丸い」という言葉以外知らない。名を嘉一という。
「その『お嬢』っての止めろって言ったろ」
「何言うとる、お嬢はお嬢だ。本家の一人娘がお嬢で無かったら他に何があるかい」
「何度も言ってるけどな、縁は切った。絶縁状書いたのは親父だろ」
「阿呆な、あんなもん虚仮よ。だいたい――」
丸い男は懐から手拭いを出して、一本も毛の無い丸い頭に浮かんだ汗を拭う。
「だいたい、お嬢のほうも未だに『親父』呼んどるじゃァないかい」
「まったく、子が子なら、親も親よ。あんな紙切れ一枚で縁つうもんは切れるもんじゃァねぇ。お嬢もわかっとるだろう。世間様から見ればお嬢はお嬢よ。霧雨の一人娘よ。違うかい」
放蕩を続ける本家の一人娘に言いたいことが積もり積もっている。一方の魔理沙は諦め顔で聞くだけ聞いてやると、一応我慢はしていたのだ。
「普段はそこら中キンキン飛んどる癖に里がひいひい言っとる時に限って何もせんで、お嬢は良くてもこっちは世間様に顔が立たんわい」
「あのな! 私は、その世間様って奴のために魔法使いになったわけじゃないんだ」
「阿呆な。また乳臭い事いう。金持ちは貧乏人に施すために金持ちになったんじゃァないわい。そうでなくても施す。よってからに世間様に顔が立つのよ」
魔理沙はもう、里に来る前から機嫌が悪い。そして彼女の忍耐力は誰もが知るようにそう頑強なものではない。
「儂もな霧雨の者よって、本音を言えばお嬢に拝み屋の筋者のような事させたか無いわい。それでもな、お嬢は好きでその、魔法だか外法だかやりよっておるのだろが、放蕩のぶん世間様に恩返しても罰は当たらんわい。だいたい、里にはお嬢の縁者も友達もおるだろうが。最後に襲われたんは白斐屋の――」
「だああぁ! うるっせぇ! こっちの事情も知らねぇ癖に勝手な事言いやがって。世間様なんぞ知るか! 私は自分のことで精一杯なんだ!」
蹴るような勢いで立ち上がった魔理沙は立て掛けてあった箒を掴んで表に出る。男達も追って出てきたが、さて小娘相手に手をあげるわけにもいかぬと足が止まったところで嘉一がぼそりと言った。
「追え」
脇の退魔師は慌てて聞き返す。
「は?」
「追え言うとるんじゃい! あの放蕩逃がしたら次はいつ話しできるかわからんのじゃ! 追えィ!」
退魔師達は、嘉一に雇われている訳ではない。無いのだがとっさの事で、普段人を使う側にいる者と使われる側の者の習性が出て、つい追い使われる格好になった。ばたばたと駆けて来る音を後ろに聞いて魔理沙は箒に跨る。「里の上は飛んではならない」という決まりが一応あるのだが知った事かと思った。その前に一人、背の低い退魔師が回りこんだ。ちょうど浮き上がった箒の下から男は魔理沙を見上げている。魔理沙の方は腹立たしいやら面倒くさいやら怒り心頭である。そもそも米を買いに来たくも無い人里に来たはずなのに、何も買えないまま帰ることになりそうなのだ。その魔理沙の眼下に退魔師が見上げている。
初めからそうしてやろうと思っていた訳ではない。魔理沙は怒っていて、箒に跨った足元に丁度都合よく退魔師の顔があっただけである。それで、つい、
――魔理沙はその顔を踏んづけた。
足の下からは「ふぐッ」と妙な音がした。
◇◇◇
早苗の隣では天狗が写真機を抱えて、体を折るようにして震えている。
「笑いすぎですよ。文さん」
表通りにいた二人が、何か騒がしい音を聞いて角から裏を覗くと丁度魔理沙が退魔師を踏みつける場面だった。なんとか笑い声を噛み殺した文は「はぁッ」と息をついて目に浮いた涙を拭った。
「うふふ、ご覧になったでしょう? あの調子です。とても手に負えません」
「魔理沙さん、何をしたんですか?」
「逆です。『何もしなかった』からです。あの騒動の間、魔理沙さんを見かけなかったでしょう?」
「そういえば、見ませんでしたね。普段あんなに活動的なのに」
「魔理沙さんは弁えているのです。ああいう事件は自分には荷が勝ちすぎていると。殆どの妖怪は社会性を持ちませんが、個々にどういう繋がりがあるか判りませんからね。恨みを買いたくないのでしょう。大胆に見えて彼女はとても慎重な人なのです」
「何もしなかったから、ですか」
「醤油を買いに行った時のことを覚えているでしょう? 霊夢さんですら『ああいう形』で里から抗議を受けるのです。魔理沙さん相手にはもっとあからさまですよ」
引き篭もる魔理沙を意外だと思う以上に、早苗は羨ましさを感じる。里を飛び出して距離を置いているのに「何もしなかった」と責められるのは、それは頼られていることの裏返しだろう。考えてみれば、この幻想郷で生れ育った人間で、いわゆる弾幕少女と呼べるものは霧雨魔理沙だけなのだ。少なくとも里の人々が自分たちの内側と意識する範囲内には彼女しか居ない。早苗は最近はよく里に出て札など配ったりしているが、やはり外来人か山の人間で、咲夜などはそれこそ人妖定かでないし、霊夢は、あれは人と言うより巫女なのだ。竹林の蓬莱人などもたまには来るのだろうが、やはり、身内とは思われていないのだろう。「普通の魔法使い」などと名乗るくらいだから、魔理沙自身は否定するだろうが、彼女は里から見れば特別な人間なのだ。
「似てますよね。お二人は」
「はぁ? 誰と誰がです?」
「文さんと魔理沙さんです。二人とも元の社会から逃れて一人で生きているように見えて、実際はすごく頼られています」
「ああ、心外ですね」
「心外ですか? 悪い意味で言ったのではないのですが」
「アレと一緒にしないでください。私は彼女よりよほど上手くやっています」
上手い下手は関係ないだろうと早苗は思ったが、天狗がいかにも愉快じゃないといった表情で言うので、口には出さなかった。
遠くの空に飛び去ってゆく魔法使いの姿が浮かんでいる。
◇◇◇
「参りましたね……こりゃ」
妖怪の山の中腹に立ち並ぶ宿坊の一つに上がって、射命丸文は大きくため息をついた。広い板敷きの隅に未だ幼さを残す魔法使いが一人、後ろ手に縛られ腰に縄を打たれて座らされているのだ。傍に白狼天狗が二人、腰縄を持つものと刀の柄に手を掛けているもの。
「よう」
「よう、じゃありませんよ。全く……何してるんですか、貴方は」
「それはだな……」
「ああ、待った。待ってください。貴方は今貴方が置かれている状況をご存知無いでしょうから、先に私が説明します。いいですか――」
人里に出ていた文が早苗と別れて山に戻ると、山内が騒然としている。そこらの者を捕まえて尋ねてみると、なんと人間が捕縛されたと言う。驚いていると伝令がやってきて、下の宿坊に捕らえている人間から意図を聞き出すようにとの指令を伝えられた。
「いいですか、はっきり言ってこれは山始まって以来の椿事と言っていいのですよ?」
「人間が捕まるのが、か? 犬っころ共の仕事はそんなに信用されてないのか?」
犬っころと聞いて後ろの白狼天狗二人が眉根に皺を寄せている。
「違いますよ。普通は切り捨て御免なのです」
「ああ…………そうか」
「そうですよ。貴方を捕縛したのは誰だか聞いてはいませんが、よほど気の利く者だったのでしょう。他でもない貴方だからと、罰される事を覚悟して捕縛と言う決断をしたはずです」
「前に会ったことのある奴だよ、早苗の神社が来たときに。あの髪の短い、しかめっ面の……」
「ああ、椛ですか。まぁそれは置いといてですね」
と、そこで後ろの白狼天狗を見る。どうも、話を聞かれているとやり難い。
「ええと、そこの二人、少し席を外しなさい」
「できません。大天狗様より、射命丸様に席を外せと言われても決して従うなと申し付かっております」
「信用無いのはお前の方だったな」
「お黙りなさい」
仕方が無いので、顔を寄せて声をひそめて話すが、五感の鋭い白狼天狗には聞こえてしまっているだろう。
「本当に、何をやっているんです。貴方なら逃げようと思えば逃げれたでしょう?」
「私は捕まりに来たんだ」
「はぁ?」
そこで魔法使いは、胸をそらせ息を吸いこんでから言った。
「つまりだな、私は政治亡命者だ」
それを聞くと、天狗は無言で写真機を構え、腰縄を打たれた魔法使いをパチリとやった。
「なんだ、いきなり」
「いえ、馬鹿もここまでくると記念物に近いのじゃないかと思いまして。記念です」
「失敬な奴だな。私は里の連中にほとほと愛想が尽きたんだ。初めは紅魔館にでも行こうかと思ったんだが、あそこは意外と里と繋がりが深いしな」
「あのですね、その亡命と言う奴は相手が受け入れるから成立するのでしょう。山が貴方を受け入れると正気で思っているのですか?」
「やっぱり、だめか?」
「駄目に決まってるでしょう。ほんと何考えてるんです」
「人間は誰も見たことが無いっていう山の伽藍が見れたらいいなと思ったんだがな」
まったく、なんという事だろう。文はついさっき「魔理沙は大胆に見えてとても慎重なのだ」と訳知り顔で語ったばかりである。その慎重なはずの魔法使いがこんな事をしでかして、こんな事を言う。人間と言う奴はどうも計りきれないなと、文は思わずにはおれない。
「判りました。そこの二人、聞いたでしょう。この人間はただの気狂いです。私がその旨、報告しておきますから、どこか適当な場所に捨ててきなさい」
「おい」
「そういうわけには……」
と、二人の白狼は顔を見合わせている。実際、それが一番良い方法なのだ。山の者が不始末を犯した場合は通常自由刑、つまり蟄居謹慎といった自由を奪う罰が下されるが、これらの罰は基本自宅に押し込められるというもので、山の住人ではない魔理沙には執行が不可能である。同様に追放刑も無意味。山の中枢である山門の内側に牢もあるが、山に入った者を罰するために山の中枢にある牢に入れるというのでは本末転倒である。山の刑罰は事細かに決まっているが、捕縛した人間に対する罰など前例も想定も無いのだから、簡単には決まらない。つまり、協議は長引き、とても面倒くさい事になるだろう。今更死刑と言うことにはならないだろうが、協議が長引けばどう転ぶか判らない。原則というものには常に一定の権威がある。無論、下っ端にこんな事を言っても詮無い事なので、文も言わないが。
「なぁ、私はどうなるかな?」
「今更怖気づきましたか?」
「殺される事はないだろうと踏んで来たんだけどな」
「まぁ、笞(むち)ですかね」
「ムチ打ちか……やっぱこう、公衆の面前でってやつか」
「そりゃぁ衣服の上からは打てませんから、ひん剥かれます」
「参ったなぁ」
言い方は、いかにも危機感が無い。
「何を暢気な。魔理沙さん、貴方自棄になっているんじゃないですか?」
「そう見えるか?」
「見えますね。普段の貴方はこんな無謀をする人じゃぁないでしょう」
「まぁ、何か面倒になってな」
「泣き言は他所でやってください。と、言いたいところですが――」
小さく息をついて天狗は大儀そうに足を崩した。胡坐のうえに肘を突いき、見るからに面倒臭そうな態度で言う。
「『面倒になった』ですか。自由気ままに一人で暮らす貴方が面倒になる事なんて無いでしょう」
「そりゃ私にだって色々あるんだ。本当に何にも縛られずに自由なわけじゃない」
「真実何にも縛られない自由な存在など概念の中にしかあり得ません。それを望んでいるというなら貴方は傲慢です」
「なんだよ……いきなり。説教なら御免だぜ」
「説教じゃぁないですよ。からかっているだけです」
そこで天狗はまた一つため息をついた。視線を魔理沙からはずして、小さく呟く。
「早苗さんに言わせると、私と貴方は似ているそうです」
「ああ?」
魔理沙はじろじろと天狗の姿を確かめるように眺めている。
「容姿の話ではありません。社会に対する位置取りや姿勢が似ていると、そういう話らしいです」
「随分嫌そうに言うんだな」
「嫌ですよ。私は――貴方なぞよりずっと上手くやっています」
「……あー?」
「社会に、里に自分が縛られているなんて、愚かな考えだと言っているんですよ」
お前に何がわかるんだと、言おうと思ったが、口からは出なかった。早苗が言うとおり、もしかしたらこの天狗と自分は似ているかもしれないなと、そう思えた。
「さて、私は報告をして来ます。魔理沙さん、暴れる逃げるは私の居ない時にやって下さいね、とばっちりは御免ですので」
そう言って文が立ち上がると、しかめっ面の白狼天狗が一人、ちょうど宿坊に入ってきたところだった。それを見た文はいつものニヤニヤ笑いに顔を戻して声をかける。
「おや、椛。処分は決まりましたか? 牢舎ですか?」
「馬鹿を言わないでください。あんな所入るのは文さんくらいです。謹慎ですよ」
「それは、残念」という文を無視して、椛は魔理沙の後ろの二人の白狼天狗に告げた。
「そこの二人。大天狗様が聞いたことを報告するようにと」
「あの、尋問は私の任だったのですが?」
「つまり、文さんが信用されていないのでしょう」
幾らなんでも、である。確かに自分はこの人間と親しいし、信用は無いのだろうが、それにしたってあんまりな話だと思ったところで、合点がいった。ということは、つまり、自分もさっさとこの宿坊を後にすべきなのだ。とばっちりは御免だとさっき魔理沙に言ったばかりである。
二人の下っ端天狗の後に続いて宿坊を抜け出ようと、それとない足取りで玄関口まで行ったところで「文さんは此処にいてください」と凄い表情の椛に腕をつかまれた。
「やはり駄目ですか」
「駄目です。この人間がこういうことをした責任はほぼ文さんに有る訳ですから」
そう言うと椛は魔理沙の後ろにどすんと音を立てて座り、躊躇いも無く腕を縛った縄を解きだした。
「いや、こんな事したのは私の一存なんだが。というか、何だ? 私を逃がすのか?」
「この人が山にちょっかい出した時に文さんは幾度も匿ったでしょう。それでこういう事になったのです。山を舐めたからこうなったのです。舐められる原因を作ったのは文さんです」
魔理沙の問いはあっさり無視された。
縄は堅く、なかなか解けないが椛は刃物を使わず、ゆるゆるとやった。文は最初こそ、そそくさと逃げようとしたくせに椛に駄目だと言われてからは諦めたようにぐったりと板の上に座っている。
「あの、椛。私、この前も里の人喰いの件で牢舎してるんですよ」
「それがなんです。自業自得でしょう。おかげで今度は私まで泥を被る事になったのですよ? 謹慎の処分が出て、その足で偽の命令を捏造して俘虜を逃がした訳ですから、私も牢舎でしょうね。もしかすると剃髪と言うことにもなるかもしれません」
「……その……すまん」
流石の魔理沙も申し訳なくなって言うが、即座に椛に「貴方は黙っていてください」と撥ね付けられた。
「私は怒っているのです。これに懲りたら、二度と山をからかうような真似はしないでください」
そうして、やっと縄は解けた。椛は魔理沙を立たせると、目もあわせずに「さっさと行ってください」とだけ言って、またどすんと腰を降ろして腕を組んだ。
魔理沙は何か謝ろうと、少しの間もじもじとしていたが椛が凄い目で睨むので、また「すまん」とだけ言って箒を取って飛び出して行った。それを見届けて、文がはぁと大きなため息をついてまたうなだれた。
「そんなに牢舎が嫌なのですか? 何度も入っているでしょう」
「椛は知らないでしょうが、この季節のあそこは本当にキツイのですよ。地虫が一杯いて三日で食欲を無くします。その地虫だらけのところに筵一枚ひいて寝るわけですからね」
「……そんなにですか」
「今更後悔しても遅いですよ」
「後悔はしていませんよ。私にしかできない事だったし、仕方ないでしょう」
「素直に笞打たせればよかったんです」
「まさか」
と、しかめっ面の白狼天狗は心底から驚いた顔になって文に言う。
「そうなったら、文さんは事を起こさなかった私を軽蔑するでしょう」
それで、文は少し笑い、白狼天狗のふさふさした尻尾を撫でた。
「そんな事……ないわよ」
◇◇◇
それから、しばらく経った。梅雨の長雨が幻想郷を濡らし、普段から快適とは言えない魔法の森は淀んだ湿度と瘴気に沈んでいた。魔理沙の最も嫌う季節である。 独りでものを考える時、魔理沙は何時も当ても無く幻想郷の空を飛ぶ。研究中だろうが、人と話している最中だろうが、何かひらめきそうだと感じると魔理沙は箒を引っ掴んで、自分の脳中にある何事かを捕まえに空に飛び立つ。発作のようなもので、自分でもなぜだか解らないし、今日は雨が降っているからと聞き分けの良いものでもないから性質が悪い。空の上は寒いしそれなりの速度で飛ぶから、どんな穏やかな雨でも飛んでしまえば暴風雨と変わらない。そんな中を時に何時間も飛べば、当然体調は万全のままとは行かない。独り暮らしでひく風邪は、とてもつらい。そういう風だから、魔理沙は雨が嫌いで、雨の多いこの季節も嫌いだった。
出来るだけものを考えないようにしているが、じめついた森の中の自宅に一人でいると、物思いにふけるくらいしかやる事がない。思い出されるのは、ぶつぶつ文句を言いながら里から帰る自分であったり、他人に泥を被せて一人で逃げる自分だったりした。
こうして鬱々と過ごすこの季節の魔理沙にとって、偶の晴天はとてつもなく貴重なもので、それを潰されようものなら機嫌のよい筈がない。そんなわけで、魔理沙は大層な仏頂面で自宅である霧雨魔法店に訪れた客を眺めていた。
客は久能院の退魔師達だった。それが五人。無論のこと五人全員がガラクタで床の埋まった霧雨魔法店に入ることは出来なかったから、いまカウンターの向かいでしかめっ面の魔理沙と相対するのは二人だけだった。白髪白髭で肌の黒い老人と黒い髪を後ろで束ねた小さな少女。
「わざわざこんな所まで来るなんて、よっぽど暇なんだな。お前等」
機嫌の悪い魔理沙がそう毒づくと、少女が何か言おうとして、老人に遮られた。
「霧雨の。今日は依頼があってここまで来た。主ァ何でも屋だろう? 儂等は客よ」
「お前等の依頼なんて――」
どうせ人里を守れとか、それに類する話に決まってると思った。
「その話は、今はよい。その気が無いのはよく判った。お前と喧嘩しても割を食うのはこちらばかりよ」
老人は手に持った錫杖で床をこつこつと打つ。
「里の者が妖を怖れるのは仕様の無い事だ。どれだけ堅く守られようが被害が出れば騒ぐものが出る。防人が十人いれば二十にしろと言い出すし、二十いれば三十にせよという。仕様の無い事だ」
そこで杖が床を打つ音が止まった。
「仕様の無い事だ。……そうだな?」
「まぁ、そうなんだろ。つーか、何なんだよ。説教に来たのか?」
「依頼があると言うたろう。……こいつァな」
そう言って老人は少女を前に押し出した。小娘の魔理沙よりなお背が低い。多分、歳も二つ三つ若いだろう。手に持った錫杖が不釣合いに大きく見える。歳相応に幼さを感じさせる顔だが、眉だけが一筋意志の強さを主張している。どこか、雰囲気が霊夢に似ているなと思った。そういえば神社にはもう一ヶ月も行っていない。
「篠だ。こいつを、しばらく預かって貰いたい」
「……なんだそりゃ」
「言うたとおりよ。ここに置いてやってくれ。小間使いにでもすればよかろ。報酬は月ごとに――」
「まてまて。待てよ。おい、これはちゃんとした依頼なんだろ? なら隠し事は無しだぜ。報酬なんかどうでもいいから、理由を話せよ」
「理由がいるか」
「いるよ。何でも屋だぞ。理由の無い依頼が受けられるかよ」
「ふむ。ここはちと狭い。来い」
そう言うと、老人は後ろを向いた。篠がドアを開け、魔理沙も続く。
外に出ると日差しがまぶしくて、魔理沙は帽子を目深に被りなおした。雨が嫌いな自分は晴天を待ち望んでいたはずなのに、この陽光は明るすぎると、思わず悪態をつきそうになった。
「篠、見せてやれ」
老人がそう言うと、篠は頷いて脇にいた男に錫杖を渡し、魔理沙の方に向き直って空を見上げ、そのまま動かなくなった。そのまま少しして、少女は大げさに足をばたつかせて、湿気の残る草の上に突然倒れこんだ。仕草としては倒れたと言うより転んだに近いが、彼女はただ突っ立っていただけである。
それを見て魔理沙は言いようの無い懐かしさを感じていた。彼女は今、僅かにだが飛んだのだ。それは足の力で跳ねるより、ずっと低かったが、それでも彼女は飛んだのだった。宙に浮き、空を飛ぶのは浮き上がる事そのものよりも、何も支えの無い空中で姿勢を保つことの方がずっと難しい。彼女は僅かに浮いたが、地面を離れた途端にバランスを失って倒れこんだのだった。魔理沙にとってはその倒れ方がなんとも懐かしい。自分も昔、数え切れないほど同じように倒れたのだ。
「こういう理由(わけ)だ」
「……つまり、私にこいつを教えろってことか」
「そうしたきゃそうして貰っても構わんが、なに、そこまで望んでおらん。主の傍におれば、それだけでこやつも得るものがあろう」
魔理沙は、口元に手をやって考え込んでいる、つもりだった。実際は様々なことが一度に頭の中をぐるぐると巡っていて、とても考えていると言える様なものではない。
預かれといわれても、彼女が寝る場所さえこの家には無い。布団はどーするベッドを作るべきか、部屋を片すのは面倒くさいし、この娘は森での暮らしに耐えられるのか。この娘にために裂かれる自分の自由はいかほどだろう。自分は何事かをこの娘に教える事ができるのか、そもそも教えた方が良いのか。そういう、割と『どうでもよい』事柄の奥に、魔理沙は自らにとって重大な、だけれども正面きって見たくはない心理が見え隠れしている事に気付いている。
自分はこれまで、幻想郷の中で生れ育った人間としては『唯一』の飛べる人間であり、弾を撃てる人間だった。その事実がもたらす、自分のある種の天才性が崩れてしまったような、これまで自分が密かに確信していた、自らの才能に傷をつけられたかのような。濡れた草の上の彼女を見ていると、懐かしさと同時に、そんな何か仄暗い思いがしてくるのだ。
そして、そのこと自体が、また魔理沙を動揺させる。これまで唯一の位置を独占し続けてきた魔理沙は他者と比較され得ない人間だったのだ。そういう魔理沙は自分の心の中に、この種の翳りある感情が沸き起こる事に慣れていない。そうして生まれて初めて自分の中に暗闇を発見して、魔理沙は愕然としていたのだ。
「帰ってくれ」
絞るようにして出した声が余りに小さかったから、魔理沙は息を吸い込んでもう一度言わなければならなかった。ともかく、一人になりたかった。
「我等、久能院の者には教えられんと、そういうことか」
後ろで控えていた男が怒気を込めてそう言った。
「違う。そうじゃなくて……兎に角、駄目なんだ……」
それから魔理沙は無理だ、駄目だ、帰ってくれと、オウムのように繰り返して久能院の者共を帰らせた。篠は最後には目に涙を浮かべていた。老人は何も言わなかった。
魔理沙は彼等が森に消えるのを見届け、のろのろと玄関に入り、自室のベッドの上で少しの間ぼうっとして、それから体を丸め声を殺して泣いた。
◇◇◇
その晩、魔理沙は箒に跨り、家を飛び出した。うんざりだと思った。他の何にではなく自分に、である。近頃の自分は考え無しに行動して面倒事を増やし、他人を当てにして馬鹿をやって、大きな借りを作り――逃げ出してばかりだ。
おまけに、自分という人格は自分が思っているほどに格好のいいものでもなかった。うんざりだうんざりだと頭の中で繰り返す魔理沙は、何かまっすぐ飛ぶ気になれなくて、うろうろ、ぐるぐると森の周りを飛び回った。ここで、泣いたら自分はまた一晩中泣く事になると思って必死で堪えた。
こんなふうになったのは、勿論自分が悪い。まだまだ自分は未熟なのだと、それは重々承知だ。けれども――けれども里の奴等だって勝手だと、やはり思うのだ。
人妖の狭間で生きる魔理沙は、人の側の事情も妖怪の側の事情も分かる。分かるから魔理沙には何も出来ないのだ。スペルカードルールの下、妖怪と人間の交流が増えたとは言え、やはり、妖怪は人を襲うし、人を喰う。妖怪達に交じって暮らす魔理沙には、妖怪の側の止まれぬ事情がわかっているから、それを止めようとは思わない。この幻想郷を、自分が愛する世界を維持していくためには仕方が無い事だと思っている。
弾幕勝負を能くする魔理沙が、決して殺す殺されるの勝負に近寄らないのも仕方の無い事だし、専一に人里の側に立つ事ができないのも仕方の無い事だし、穢れを巫女に任せるのも仕方の無い事なのだ。どれもこれも仕方が無い。新参者としてこの世界に入ってきて、傲慢にも世界を変えようとしている山の巫女とは、自分は違うのだ。
こうして見ると、仕方が無い事ばかりだ。
仕方ないことだらけのこの世界が、この世界の仕組みそのものが、まるで自分に圧し掛かってくるかのようだ。今の幻想郷を創った霊夢に文句を言いたかった。よくもこんな世界にしやがったなと。今の幻想郷を変えんとする早苗に文句が言いたかった。自分はこんなに我慢しているのに、それをあっさり変えようだなんて、驕った考えだと。
――つまり、自分はこの世界に縛られているのか。
――いや、逆か。
逆なのだ。
自分は今現在の幻想郷が好きで、その秩序に触れるようなことを一切したくないのだ。
自分を縛っているのは、何も変えたくないと思う自分自身だった。
なるほど、あの天狗は正しかった。自分を縛っていたのは、親族だとか退魔師だとか里の要求だとか、そんなものでは無かったのだ。今ある幻想郷を愛する自分とそれに疑問を持つ自分に挟まれて、身動きが取れなくなってるだけなのだ。
そうして、自分の気分を改善するには全く役に立たない事実を発見して、魔理沙は息をついた。それとともに腹の虫がぐうと鳴る。ここ数日、魔理沙は家にあった僅かな保存食を齧るばかりでまともに食べていない。退魔師の頭を踏んでから里に出ていないので、米は未だに切れたままだ。米屋は開いてなかろうが、こんな時間でも里には妖怪向けに営業している飯屋がある。
実のところ、食欲は全く無い。それでも久しぶりに飛び回って、自分の体力があからさまに落ちているのが判ったから、食わねばと思った。きっと体力同様、頭も鈍っている事だろう。
生暖かい風の吹く、幻想郷の空を魔法使いが往く。箒の先は人里に向いているが、その速度は漂うかのように遅い。
空から見る幻想郷の夜は美しい。淡く浮かぶ青い火、輪になって瞬く赤い火、空から少し目を凝らせば、妖共の怪火を幾つも見つけることが出来る。その中に一つ、明らかに人の灯と判るものがある。この時間にこの場所である。何か拠り所の無い事情があるのだろうが、傍から見ればただの物狂いか自殺志願者である。そう思って、上から眺める魔理沙は少し笑った。山に捕まりに行った自分も傍から見れば同じく見えたことだろう。
里を離れ妖怪に交じって暮らす魔理沙には、助けるべき人間とそうでない人間を区別する、ある程度の基準が一応はある。夜中森に一人で入るような馬鹿はその基準から最も遠い者と言ってよかったが、そのときの魔理沙は妙な親しみを感じて、目下の馬鹿の灯に向かって降下した。
おい、と声をかけると、灯りの主は引き攣るような声を上げて止まった。少し嚇かしてやろうという気もあったから、それで魔理沙は大変満足した。
見れば白衣白袴に笈(おい)を背負った小さな少女が松明を手に固まっている。その少女は魔理沙が昼間に見知ったばかりの者だった。その姿を見て魔理沙は少し呆れて、それから、いや自分には呆れる権利は無かったなと思いなおした。
「何してんだお前。こんな時間に」
「霧雨様」
「あー、その呼び方止めろ。魔理沙でいい」
自分を苗字で呼んでくるのは嫌な奴ばかりなのだ。
「逃げて……抜け出してきたのです」
「ああ?」
そう言うと、篠は訳がわからない魔理沙の前に身を投げ出し、額を地面につけた。
「入門を、 入門をお許し頂きたく――」
「待て、お前、私の所に来ようと?」
「そうです! 入門を……どうか……」
これは、これは良くないぞ。と魔理沙はたじろぐ。山に亡命に来たと自分と、魔理沙の弟子になりに来たという篠。なんの差配か場面を変え役を変え、しかしまるでそっくりなのだ。このままでは自分の馬鹿さを、あの時の文の立場で追体験する事になるかもしれない。思い切り苦い顔になって魔理沙は言う。
「入門て、お前な。……その、久能のとこは嫌なのか」
「違います。違うのです。棟梁にも師匠にも良くして頂いております」
「なら……」
「霧雨様と我等の筋が、その、余り仲が良くないというか、そういう事は私だって知っています。久能の者を傍に置くのはお嫌でしょう。ですから――」
――家を捨てるとでも言うつもりか、この小娘は。
「待て待て。だからって逃げ出すこたないだろ。お前アレだろ? なんて言うのかよく知らんが、集落から……」
「そうです。……私は拾われです」
久能院のような大きな筋は何年かに一度、秋に集落を回ってそこで目をつけた「余った子」を買う。才能のある弟子を絶やさないための方策でもあり、一門を維持する人手を補うという意味もある。そうして買われてきた篠が家を捨てるとなれば、これはもう実家に戻る事などできはしない。真実一人きりになってしまうのだ。家を捨てるなんて馬鹿なことだと、まさかこの口で言わねばならない事になるとは思っても見なかった。
「ああー、先ずな、頭を上げろ。それから霧雨様は止めろ。なんか語呂が悪い。それから……それから後なんだ」
誰かの弟子になろうと思ったわけではないが、自分だって自分の意思を通すために家を出たのだ。その魔理沙が「馬鹿は止めろと」言わねばならない。
――馬鹿は私なんだがなぁ。
「ええとな、お前は戻った方がいいよ」
「許しては頂けませんか……」
篠は手を地面に付いたまま、僅かに顔をあげた。大きな目が不安げに魔理沙を見つめていた。
「拝み屋の力と魔法は全然違うものなんだよ。違うもんだしお互い相性も良くないんだ。魔法ってのは理論だ、つまり理屈なんだよ。だから、篠が持っている才能を活かすなら戻った方がいい」
「……私の、才能ですか?」
「篠がどうやって浮けるようになったのか私は知らんが、誰かに習ったってんじゃ無いんだろ?」
実際、篠がどうやって浮けるようになったのか、魔理沙はそこに興味を持っていた。人が地面という縛りから逃れるのはとても大変なことなのだ。伝説に残る魔術師達でも飛べなかったものは沢山いる。
「私は――」
篠は少し俯いて、告白する。自分の異能の根本を。
「私は霧雨様が空を飛んでいるのを見て、妖怪でも巫女でもない、里の人であった霧雨様が自在に空を飛ぶのを見て、それで、自分も同じように成れればと、そう念じて、念じているうちに、かろうじて浮く事ができるようになったのです。だから、どうしても――」
「なんてこった」
篠の言葉の終わらぬうちに、魔理沙の口からはついそんな言葉が出てしまった。余りの衝撃に頭がくらくらして、手に持った箒を落としそうになった。
この少女は、自分に憧れて、それで宙に浮くすべを得たのだ。
霧雨魔理沙に憧れて――。
「……なんてこった」
魔理沙は小さな声でもう一度呟き、尻餅をつくようにぺたりと地面に座り込んだ。
「霧雨様……?」
「……ああ、ちょっと待て」
箒を投げ出し両腕を組んで魔理沙は必死に考えたが、篠の告白から導かれる答えは『それ』しかないようだった。
つまり、魔理沙は世界を変えていたのだ。
自分は今ある幻想郷を尊重して、その秩序の在り方に触れまいと自分を縛っていたはずなのに。
◇◇◇
そうして固まっていた魔理沙がやっと動き出したのは、それから四半刻もしてからだった。ゆらりと前後に揺れた後に「尻がいてぇ」と呟いた。それから今自分は呆けていただけで、考えたのは最初の一瞬だけだったなと、箒を見詰めて思った。なにせ地べたで固まっていたのだ。
「悪かったなぼうっとしてて」
「いえ……」
そういう篠は呆れ顔だ。痛くなった尻をかばうように後ろに手を付いて、魔理沙はできるだけ軽い口調で言う。もう混乱は解けて言うべき事はわかっていた。
「お前はやっぱり帰るべきだよ」
「……」
「別に久能のもんは飛んじゃいけないって決まりも無いんだろ? なら、家を出なくたって、宗旨替えしなくたって、飛べるようになるよお前なら」
「……そうでしょうか」
「多分な。それだけじゃなくて――」
魔理沙はパッと夜空に向けて手を振り、星弾を撃ってみせる。
「こういうことも出来るようになる」
篠は燐光の尾を引いて空に消えてゆく星を見上げている。
「……出来るでしょうか。私に」
「修行しだいだろ。お前には理屈より修行のが合ってるよ」
立ち上がってスカートをはたき、痛くなった尻を揉む。見上げると雲ひとつ無い月夜だった。空の様子も確認せずに自分は家を飛び出したんだなぁと、それがもうずっと昔のことだったような気がした。
「それに、もう二度と会えなくなるってわけじゃないんだ。知りたい事があったら私が教える事だってできるし、別に弟子にならなくたって失うものなんて何も無いだろ」
「…………」
「納得、できないか」
「いえ……よく判りました」
「よし。いい子だ」と言って篠の頭を撫でて、箒に跨る。口には出さないが一つ、未来の弾幕少女に贈り物をするつもりだ。
「ほら、後ろに乗れよ。送ってやるから」
ふわりと箒は浮き上がり、視線は周りの木々と同じ高さになり、更に高く舞い上がって、篠は大地を、幻想郷を見下ろした。
魔理沙は自分が初めて空を飛んだ日を思い出す。浮き上がる事が出来るようになって、浮いた体を制御できるようになって、それから何ヶ月も屋根より低い宙を飛んだ。落ちたらと思うと、どうしても空には揚がれなかったのだ。そうして何ヶ月も地面より少し高いだけの所で浮いてから、初めて空を飛んだときのことを思い出す。空から見る世界は、それまで魔理沙が地上で見ていた世界とは全く違うものだった。俯瞰には、それそのものに力がある。魔理沙はそうして、別の世界を発見したのだった。
魔理沙の後ろで世界を見下ろす篠も、たった今、新たな世界を知った筈だった。魔理沙が飛ぶ姿に憧れて自らも浮けるようになった少女ならば、この新しい世界を目にして、きっとそれを自分で見れるようになるに違いない。この景色が魔法使いからの贈り物だった。
あちこち、寄り道するように飛んだ。水田に映る月と星空を見せ、深夜にも点々と灯のともる人里を見せた。湖に立ち込める霧を透かしておどろおどろしい洋館のシルエットを見せ、闇に浮かぶ神社の鳥居を見せ、山の麓で行列する怪火を見せた。
魔理沙は晴れてて良かったとか、空の上のほうは寒いんだとか、いろいろ言ったが、月明かりの幻想郷を目にして篠はただ放心していた。
そうして何時間か飛んで、二人は里に降り立った。道場まで歩く間も篠は一言も喋らなかった。
門まで来ると、そこに居た背の低い行者が駆け寄ってきた。
「篠! お前どこに居た」
その声に篠はびくりと肩を震わせる。
「お前、霧雨の……。篠、どういう事だ」
魔理沙は篠の背中を手を当て、行者の方に押し出した。
「違うんだ。私が連れ出したんだよ。空の散歩にさ。夜歩きの罰なら私が受けるよ」
何でもないように言う魔理沙を行者は少しの間睨んでから、篠に「早く戻って師に報告せい」と言った。宿坊の方に戻る篠は一度振り向いて、魔理沙の方に頭を下げた。魔理沙は格好つけて、帽子のつばに手をやってそれに応えた。
「んで、罰はどうするよ?」
魔理沙が行者に顔を向けると、向こうは顔をゆがめてそっぽを向いた。どうも覚えのある顔だなと思った。
「ああ、お前。あの時私が踏んだ奴か。あの時は悪かったよ。篠には罰をやるなよ? 私が連れ出したんだから」
「…………いいからもう行け」
行者は終始渋い顔で魔理沙を追い払った。
「なんてこった」
魔理沙は夜の通りを歩き出した。箒を肩に暗い通りを往きつつ、魔理沙は思う。あの娘は、篠は自分に憧れて浮く力を得たと言っていた。そんな者が出てくるなんて、今まで思ったことさえなかった。考えてみれば、妖怪でも巫女でもない、同じ人間の魔理沙が平然と飛んで見せれば、それは自分も出来るかも知れないと、そう考える人間が出てきて当然なのだ。そうして、篠は何に頼ることなく、僅かにだが浮くところまで来た。彼女がこの後どこまで出来るようになるか、魔理沙には判らないが、自分がただ空を飛んでいるだけで、ああいう人間が生まれたのだ。
そして、篠がただ一人の天才である保証は無い。自分が空を飛んで見せる限り、篠のような人間が次々と出てくるかもしれないのだ。
世界は変わってしまったのだ。
魔理沙が空を飛ぶだけで、つまり、魔理沙が魔法使いとして存在するだけで、生きているだけで、人は地べたを歩くものという法が失われたのだ。自分は知らず知らずのうちに世界を変えていた。幻想郷を、この世界を尊重して、出来うる限りそれに触れないように自分を縛っていたはずなのに。
この周りは職人街だから静まり返っているが、もう少し行けば妖怪相手に夜通し営業している店がちらほら見えてくる。こんな店々も博麗の巫女が世界を一変させて、人と妖怪の交流が盛んになって生まれたのだ。自分もまたスペルカードルールのおかげで今の自分になった。そして、その自分がまた世界を変えつつある。その現実に、つい魔理沙は「なんてこった」と一人声を上げる。
――本当に、なんと言う事だろう。
そうして見ると、今まで世界を尊重せんと思い、こわごわと世界に対峙していたのが、とても馬鹿らしい事だったと、とても滑稽だったと思えてくるのだ。これから先、魔理沙のように空を舞い、弾を撃つ人間達が続々と生まれて、そうして、この幻想郷に満ち満ちる、妖怪や妖精や神様や、なんだかよく判らない者達とスペルカードで決闘し、遊び、対等に暮らしていくのなら――
それはなんて素晴らしい事だろう。
全てはこれからなのだ。里のあり方も人間と妖怪の関係も、全ては今まさに変革の最中にあるに違いなかった。たぶん、霧雨魔理沙と言う存在も。
それから、魔理沙はもう一度ゆっくり「なんてこった」と呟き、明々と灯のともる一軒の店に入り、そこで心行くまで飲み食べた。
夜が明けたら、このまま神社に行こうと、そう思った。
(了)
良い作品でした
ひょっとしてこのシリーズ霊夢主役でもう一作考えていたりするのかしら。だとしたら胸熱ですな。
確かに、魔理沙は幻想郷の秩序を守ることに執心してきています。正邪には強者側として戦いを挑み、沓頬を「異変が終わった後に余計な混乱をもたらしたくない」と踏み殺し。体制側の重鎮です。そんな彼女がその生き様だけで世界を変えていた。
人の間で成長して彼女が自信や自身を作り上げていればこういう悩み方はしなかったのかな
でもこの生き方でないと普通の魔法使いにはならなかっただろうし…
登場人物達の生きている感が強く感じられ、心地よく読めました
次回作も楽しみにしています
意識せずとも世界を変える。
魔理沙は変革者じゃないけど、様々な人妖と馴れ合える魅力がある。
そういうのが変化をもたらす要因になりうるのだと再認識しました。
面白かったです。
続きであれ別の話であれ、もっと読みたくなりました。
この世界をもっと見てみたいです
やはり独りで生きてると、自分自身の評価を下すことなんてできないんですね。
魔理沙がとてもらしくてよかったです。
魔理沙と里の人達の関係も細かいところまで描写されていて素晴らしいと感じました。
重たい現実から希望の見える結末への展開が好きです
そんなのもあるのか…
つまりこれは拝み屋という仲介業者を同じく仲介能力を持つ異変解決者が増えたからいらないかどうかということでその仲介業者も異変解決者との競争に勝つため異変解決者と同じ駆逐戦闘力を持とうと
いうことですかね
個人的には里人の中に里人が妖怪を怖った方が金儲けできる立場の人間がいる方が支配側には良いと思いますね
里人というより大人の男が自分らに利する商売してるということが
キャラクターがリアルだし、魔理沙の良いところと悪いところが書かれてて凄い。
いつも面白い話をありがとう。
山の組織や里の社会も地に足が着いた描写がされていて、物語に生々しいエッセンスを加えていると思いました
理想郷とはちょっと違う幻想郷も面白いですね
魔理沙はまあまあ、幻想郷に対応してますね
他の下等生物らは度三流設定で吐き気がします。
うざいにも程がある。
貴方の話の魔理沙は毎回カッコいい
超人的で影のある霊夢や現代人で神様な早苗ともちがう
人間らしくもヒーローしてる感じで
それだけにとても残念。
起承転結の起の部分で終わっていると感じました。
ここから自分が世界を変えてしまうことに気がついた魔理沙が、
どう世界を変えていくのかを見たかった。
良いお話でした。
>>あからさまに道場でることを主張する平屋の大きな建物があって、
道場である?
面白かったです
里人の中で“人間の可能性”を託し、託される存在が霧雨魔理沙。「もしかして自分達も……」と思うためのブレイクスルーを担っているのですね。いかにも革新的世代に生きている“可能性の綺羅星”らしい存在感。
面白かったです。
もっとこの世界を知りたい。続いたら嬉しいです。
東方キャラとオリキャラの関係を通してテーマと世界観が伝わってくる構造は素晴らしいと思います。
幻想郷の中の“社会”について詳しく書かれた話の中でも、リアリティが段違いで、惹かれる作品でした。次作も期待しています。
今回も非常に楽しめました