作品集173に収録の運命の愚者・第一部
作品集178に収録の運命の愚者・第二部
の続編です。
戦火を逃れるために、再び数十年ぶりの引越しを決意したが、我が妹フランドールという愛おしいながらも問題のある同伴者がいることによって、今回の転居は以前のようにあまり悠長に新天地を求めて旅をするということにはいかないようであった。
だが平和でなければ成り立ちようがない商業によって繁栄していたこのアントワープにまで戦火が及びつつあるほど、近辺の地域は非常に混迷した状況にあった。帝国内は言うまでもなく、隣国のフランスなどというもう一つの大国ですら、国内の新たな「異端」の反乱によってその情勢は間違っても穏やかであるとは言えないようであった。どうやらこの大陸の近場には、フランを安全に匿うことの出来る場所は存在しないように思われた。
「困ったもんねえ、また戦だなんて」
食料となる血液の採取を通りで終え、帰ってきた小屋の地下室で私はそう誰に言うでもなく呟いた。外は既に空も白み始める頃であったが、窓のないこの部屋は四六時中私達のような夜の者でなければ視覚を働かせることができないほどの闇に包まれていた。
「戦、って何、お姉様?」
椅子に座っていたフランはいつまで経っても変わることのない、持ち前の善悪の区別の付かない狂気と背中合わせの純朴さでそう尋ねた。
「あら、説明したことなかったかしらね。戦ってのは、まあとにかく怖くて面倒なものよ。物は満足に手に入らなくなるし、人間達は色んなとこで剣を振り回して殺し合いを始めたり、火を放って火事を起こしたりするわ。それに巻き込まれでもしたら、自分や自分の大切なひとの命も無くしちゃいかねないわ。そんなのがこの街で起ころうとしてるの」
「そんなの困るわ、お姉様。どうすればいいの」
フランは少し怯えた様子でそう言った。
「だからそうならないようにこの街から出て、他のところにお引越ししようって考えてたんだけど、あいにくこの近くのどの街も似たような状況らしいわ。困ったものよ」
「どの街も、ってゲントとかブラセルズとかもなの?」
「ええ、特にブラセルズが一番危ないらしいわ。とにかく、この大陸だと何処に行っても戦争だらけみたいよ。スペインとかイタリーとかに行くなら分からないけど、いくらなんでも遠すぎるしそこまでの道もわかんないわ」
私のその言葉にフランは少し不思議そうな表情を浮かべると、こう尋ねた。
「大陸の街が危ないの?でも確かイングランドの国って、ここから近くの島にあるんじゃなかったかしら?そこもやっぱり危ないの、お姉様?」
フランのその提案を聞くまで、私はすっかり海峡の対岸にあるというその田舎の島国の存在を忘れかけてしまっていた。もともとこの街に来てから、その国に関する景気の良い噂はほとんど聞かれることはなく、私はその国に大した印象を持つことはなかった。その上最後の大陸の領土カレーを失ったという情報が十数年前に流れた後は、その王国の近況は一切この都市では話されなくなっていた。
その地に関する情報がない以上、イングランドは必ずしも安全であると言うことはできなかったが、同時に絶対に危険であるとも断定することはできなかった。むしろ私には近国であるにも関わらず、行ったこともない地中海の国々すらも差し置いて話題から消え去るようなしがない島国は戦乱とは無縁であるとすら思えた。
どちらにせよ危険と分かりきっているこの街やその近辺に留まるよりも、新たな場所へと転居をするべきであるというのは明白だった。私の記憶が定かであれば、この街の港からその地への船便も出ていたはずだった。
「イングランドね……すっかり忘れてたわ。よく覚えてたわね、フラン。確かに悪くないかもしれないわ」
「うん、私その国の言葉覚えてるもん。あいらぶでぃー、まいしすたー。とかね」
「あら素敵、そういえばフランは前にイングランドの街に住んでたのよね。ところでそれってどういう意味なの?」
「お姉様、大好きよ。って意味よ」
「そう言われると嬉しいわね。で、そういう時はどう返せばいいのかしら」
「そうね。あいさんくでぃー、そーどぅーあい。かしらね」
「あいさんくでぃー、そーどぅーあい。そんな感じでこれから色々教えてくれると役に立つかも知れないわね」
「じゃあ決まりね、お引越しだわ!」
フランは少し声の調子を上げた。
「ええ、じゃあその準備を始めないとね。とは言っても持ってくものもそう多くないでしょうけど」
私がそう言うとフランは目を輝かせ、さらに弾むような声でこう言った。
「嬉しいわお姉様、私やっとまた外の景色が見られるのね!ずーっとこの部屋の中にいて私いい加減退屈もしてたの、今の通りってどうなってるのかしら?まだその戦は来てないのよね?」
その笑顔を見て、私はフランの恐るべき能力と、何ゆえ彼女をこの地下室に住まわせたかという理由を思い出した。もしもフランがその爆発的な破壊力を外で行使してしまったなら。陸上ならまだしも狭い空間に人間達が詰め込まれ、周りは水に囲まれた船上でその「もしも」を起こしてしまったなら……。私の背筋を悪寒が駆け抜けた。私はフランを確かに愛していたが、その理性を信頼することはできなかった。
「うーん、残念だけど外には出ないのよ。期待させちゃってごめんなさいね」
私は少し間を置いて、なだめるような調子の声でそう言った。
「えー、またお出かけはお預けなのー。でも、外にも出なくてどうやってお引越しするの?……まさか私を置き去りにでもする気なの?」
「まさか、そんなことはしないわ。ただちょっと……魔法を使うのよ」
短時間でもっともらしい理由をでっち上げることなど出来ず、私は子供騙しのような言い訳をした。
「魔法?お姉様って魔法なんて使えたの?」
驚きと訝しみが交じり合ったような表情と声色でフランはそう尋ねた。
「そりゃそうよ。私達普通の人間なんかじゃない、吸血鬼なんだもの。魔法の一つぐらい使えるに決まってるわ。それを使えば、そのイングランドになんかひとっ飛びよ」
「でも、私はそんなの使えないわ」
「それはまだまだフランが成長の途中だからよ。そのうち、私ぐらいに成長して落ち着きが出たら、貴女も使えるようになるわ」
「お姉様ぐらいの落ち着きが出たら、ね」
フランは少し薄笑いを浮かべてそう言った後、言葉を継いだ。
「ところでその魔法を使うにしても、引越しはいつにするの?」
「鉄は熱いうちに鍛えたほうがいいわ。さすがに日が昇る今からは無理だけど、今夜にでも発ちましょう。それと、もうこんな時間だから眠いでしょうけど、魔法の準備に必要だから今日は夜まで絶対に寝ちゃ駄目よ。変に寝ちゃうとこの魔法は失敗しちゃうからね」
何とか厳しい言い訳を実現させる案が浮かんだ私は、最後の文を気持ち語気を強めながらそう言った。
「ふうん、わかったわ。でもちゃんと起きてられるかしら」
「大丈夫よ、それまで私がずっと遊んであげるから」
「じゃあ良かったわ、でもどんな魔法か楽しみだわ」
「ええ、でもちょっと待ってなさい、一応魔法の薬の素材があるか確認してくるから」
そう言って私は一階の台所へと上がり、戸棚の中に「素材」が残されていたことを確かめた。その封を開け、香りと味を確かめてまだその効能が残っていることを認めると、私はその瓶を持って地下室へと戻り、フランの相手をしながら夜を待ち望んだ。
案の定新たな夜が近づく頃には、フランは頭をしきりにかくつかせ、その潤んだ両目は自重に耐え切れないまぶたによって隠されようとしていた。既に「魔法」を使う必要性も無いようにも思えたが、彼女の持つとても制御することの出来ない力を考えれば、慎重になりすぎるということはなかった。
「はい、よく頑張ったわね、じゃあこの薬を飲んだら魔法の準備は終わりよ、後はフランが眠れば魔法が効いて、起きる頃には新しい家に着いてるはずだから」
そう言って私は、フランに血液を混ぜた火酒で満たされた杯を渡した。私が思いついた「魔法」とは彼女を酔わせて眠らせ、そのうちに彼女を新たな土地へと私が連れて行くという、子供騙しの言い訳に似つかわしいあまりにも単純なものであった。酩酊による睡眠程度では僅かの間しかフランの行動を制限することはできないことは分かっていたが、空を飛べば彼女が眠っている間にイングランドへと辿り着くことができるだろうという自信はあった。それに何もしないよりは、フランを酔わせることでその行動を制限できる時間が伸びるはずだと私は考えていた。
「血も混ぜて飲みやすくしてるけど、ちゃんと一気に飲むのよ。じゃないと効果が弱まっちゃうから」
彼女は生返事をすると、私の言葉通り杯を一気に乾かした。飲み干した直後にフランは軽く咳き込んだが、吐き出す様子は見せなかったことに私は内心胸をなでおろした。
「魔法の薬って結構強烈なのね、すごく喉に来るわ。お姉様は飲まないの?」
「私は後で飲むわよ、じゃあおやすみなさいフラン。起きた時にはイングランドよ」
そう言って彼女を寝かしつけると、数分後にはフランから少し大きな、規則的な寝息が聞こえ始めた。私は彼女の首元と太ももの下にそれぞれ手を差し入れ静かに抱え上げると、玄関へと昇り、小屋の扉を開けた。周りに人影がないことを今一度確認すると、夜の帳に完全に覆われた空を見上げた。軽く屈伸をして反動を付けると背中の翼を広げ、私は大陸の大地から両足を離した。
地上の人間達に私達の姿を悟られぬよう、私は鷹が飛ぶほどの高さまで舞い上がった。初夏の心地良い夜風は、上空では少しばかり冷たく激しいものとなった。あれほど多くの人間達が住んでいた大都市アントワープも、夜空から見下ろせば周りに点在する街の光点よりも少しばかり大きいだけの、橙色の小さな炎に過ぎなかった。
二度目の旅立ちの決意を新たにし、両腕の中のフランを改めてしっかりと強く抱きしめると、私は翼をはためかせその島があるという西の方角へと針路を定めた。気持ち早めの速度で二時間も飛行を続けると陸地は途切れ、暗い海が顔を覗かせた。水平線の先にはまだ何も見えはしなかったが、私は自分の記憶を信じ飛行を続けた。少しばかり恐れていた海の流水も、空の上まではその効力を働かせはしないようであった。
大陸を離れて半時間程が過ぎた頃に、私は水平線の先に頭上の欠けのない月の光を反射して白く輝く岸壁を目にした。近づくほどに大きくなってゆく島の表面は、見渡す限りの緑の若草と点在する木立で覆われていた。
かつて歩いたドイツ人達の国ほどの鬱蒼とした森林はこの島には広がっていなかったにも関わらず、フランダースのように開けた土地に都市が遍在しているわけではなかった。辺鄙な島国という前情報からの私の印象に違わず、眼下の光景に都市と言えるべきものはやや大きめの川のほとりに広がる街が一つあるだけであった。確かに灯火の明るさを見るにその規模はアントワープと同等か、僅かに大きなものであったのかもしれないが、茫漠と広がる野の闇の中にただ一つ浮かぶ都市の明かりは私には寂しげなものにすら思えた。
とはいえもう都市に住む気はなかった私には、そのようなことは瑣末なことであった。食料となる人間が豊富であることは確かに魅力ではあったが、同時に潜在的な敵となる彼らの群れの中に住むのは私達の正体が万が一明らかになってしまった時には面倒な事態になることは明らかであったし、それに汚物が散らされた悪臭の漂う石畳にも私は辟易していた。
そして私はひなびたイングランドの景色を鳥瞰で眺めながら、ふと遥か昔のこととなってしまった故郷ワラキアでの日々を思い出した。飾り気の無いこの島の眺望は生まれた屋敷の窓の向こうに見えた青草が映える草原の記憶と重なり合い、私は郷愁を覚えた。さすがに今から故郷へと戻ろうなどという気を起こしていたわけではなかったが、以前のように人間達の喧騒から離れた場所に、だが同時に食料の確保に不便がない程度に人間の生息地からは遠くはない場所に住むことができれば、とはおぼろげに考えていた。
そのようにぼんやりと虫の良い考えを浮かべながら飛行を続けていると、私は川沿いのその街からやや離れた木立の中ほどに、不自然に木の途切れた空間があるのを見つけた。その場所の上空まで飛んでゆくと、眼下には建築物らしきものが小さく見えた。夜とはいえまだ人間達が寝静まるほど遅い時刻ではなかったが、周りの都市や村落のように灯火は点ってはいなかった。私は僅かな期待を抱き、その場所へと降下を始めた。
その建物に向けてゆっくりと高度を下ろしていくにつれ、小規模に思えた周囲の木立も本来の広大さを現した。森の闇からは小さく獣の声や夜鳥の歌が聞こえ、人間達の影は辺りに見えるはずもなかった。
八百歩程はありそうな塀に四方を囲まれたその建造物はそれ自身も幅奥行きともに三百歩は優に越えるほどの広さを持ち、塀と建物の間は雑草が無秩序に伸び育っていた。直線の傾斜がついた屋根の合間からは煙突が数本と、大きな文字盤を持った時計台が伸びていた。時計の針や窓枠を除いては、その建物は塀に至るまで全てが赤色のれんがによって造られており、その外観は周りの緑色の植物からなる風景と奇妙な対照をなしていた。時計の文字盤は三時前後を示していたが、それほど夜が更けているはずもなく、装置が作動していないことは明らかだった。
その建物は確かに荒れ果ててはいたが、明らかに人間の、それもある程度の財力を持つであろう者が住む館の外観を呈していた。しかしそれは森林の奥深くに存在するものとしては異様なものであった。建築物の近辺を見渡しても森の外へと通じるような道らしき道は見つからず、まるでその館は人間達から必死に隠れようとしているようにすら思われた。だが隠者の庵としては、それはあまりにも豪華なものであった。
私は玄関の前へと降り立ち、今一度人間達の気配を探ったが、やはり全視聴覚を用いてもそれらしきものは感じられなかった。取手へと手を伸ばし、自らの方へ軽く引くと、鍵や閂に妨害を受けることもなくあまりにも簡単にその扉は開かれた。都合の良すぎる流れに一抹の不安を覚え、腕の中のフランをやや強く抱きしめたが、好奇心に誘われるまま私はその扉の奥へと足を踏み入れた。
全神経を集中させながら私はフランを抱き館の中をゆっくりと歩いたが、案の定屋内にも人間の姿を見つけることは出来なかった。だが人間の手を離れているからといって、館はそれを囲繞する森の獣達のねぐらと化しているわけでもなかった。
かつての主君の居城のように、この館にも窓はそれほど多く取り付けられてはおらず、外に輝く満月の光も屋内にはほとんど差し込んでは来ていなかった。だが僅かに入り込むか弱い月光ですら、外装と同じ素材で造られた壁の暗赤色を反射させるには充分であった。かつてのこの館の主人はこれほどまでにこの建材を愛していたのだろうか、と私は思った。
館には大小合わせて十を越えるほどの部屋があったが、そのいずれも盗人の類に荒らされたような痕跡はなかった。どの部屋も一通りの調度品は揃っており、主人の間だったと思われる大部屋にはこの屋敷の外観に劣らない豪華な寝台や机が備え付けられていた。多少の埃臭さは否めなかったが、どれもまだ充分に実用に堪えうるものであった。
一通りの地上階の観察が終わったところで、私は玄関からは離れた場所にあった地下へと続く階段を見つけた。私は最後の下調べと思い、そこへと足を伸ばした。地下には案の定貯蔵庫が造られていた以外にも、地上階と同様に家具の置かれた地下室も数室設けられていた。だが最も私の気にかかったのは、他の部屋からはやや距離を置いて造られていた奇妙な部屋であった。
その部屋には軽く百冊はあるであろう大量の書物が乱雑に並べられていたが、その多くはこの国のラテン文字とも、また母国のキリル文字とも思えない全く不可解な文字で記述されていた。挿絵も円や三角形、星や月の意匠が組み合わさったものが主であり、私には到底それが何を表しているのかすらも理解できなかった。ごく僅かにラテン語らしき言語で記された本を見つけることはできたが、その文章も「家族を中から歌う」などといった不思議な用語法が多く、十分に意味を解すことは不可能であった。謎は深まるばかりであったが、特に私達に害を与えるとは思えなかったため私は特に何もせずその部屋を後にした。
珍奇な書物はかつての館の主人の所有物であったのだろうが、そのような書物の収集は人気のない場所に奇抜な意匠の大きな館を建てる奇妙な元主人に相応しい趣味だと私には思えた。奇妙な趣味を持つ主人であったが故に、この館も気まぐれでその所有を放棄しても不思議なことはないと私には思えた。これまで見てきた道理から外れた館の様子は、高級な家具や苦労して集めたであろう収集物を残したまま転居をするはずがない、などという常識的な考えを適用するにはそぐわなかった。
とはいえ、私達は虫の良い理想通りの新居を驚くほどの短時間で手にすることができた。どうやら私は、建物を探すことにかけては天賦の才を与えられているようであった。
書物の部屋を出ると、腕の中で眠っていたフランが小さく唸りその目を開けた。
「お姉様、もう魔法は効いたの?引越しは済んだ?何だかちょっと頭も痛いんだけど」
「ええ、ちゃんと成功して新しいお家に着いたわよ。頭痛は魔法の副作用だから我慢して頂戴、すぐに治るから心配しなくてもいいわ」
フランは私の腕から離れ立ち上がると、辺りを見回して私に尋ねた。
「もしかして、この建物が全部私達のお家なの?」
「ええ、そうよ。前のお家と比べると広すぎるかもしれないけど、なかなか悪くはない家じゃないかしら」
「すごいわお姉様、まるで貴族様の住むお屋敷みたいね!」
フランはそう言うと、少しはしゃいだ様子で周囲を駆けまわった。
彼女の「貴族様」という言葉に私は本来の、例え下級であったとしても、支配者階級としての出自の誇りをくすぐられた気がした。身体は異形の者となったとしても、あくまで私の精神はかつての短い人間時代の種々の記憶に囚われているようであった。
「貴族様の住むお屋敷、ね。じゃあそんなとこに住む私達も、貴族の一員って言っていいのかもしれないわね」
私は少し笑いながらそう言った。
「貴族?私とお姉様が?何だか、それも面白いわね」
フランも同じく笑顔でそう言った。
「じゃあ貴族様らしく、私達にも家の名前が欲しいわね。せっかくイングランドに越してきたんだし、家名ぐらいこの国の言葉の名前が欲しいわ。簡単で、それでいて素敵なのが」
「家の名前だなんてますます素敵、どんなのがいいかしら?」
「そうね、私達の大好きな血の赤い色なんてどうかしら?それもすごく新鮮で、いくらでも飲みたくなるような綺麗で鮮やかな真っ赤な色がいいわ。ちょうどこの屋敷の色も赤いしね。そんなイングランド語って知ってる、フラン?」
「うーん。……スカーレット、って言葉がそれかしら」
「スカーレット!いい響きじゃない、気に入ったわ。じゃあ私達の家名はスカーレットね、私レミリアと貴女フランドール、ふたりだけの高貴な一族。悪くないんじゃないかしら?」
「確かに素敵だわ!そんな格好いい名前も持てて、こんな立派なお屋敷に住めて、信じられないわ!」
彼女はまるで祝日の食事を前にした子供のように弾んだ声でそう言った。
「そうね、どうせだし、この館にも名前を付けましょうか。……確かどこかで聞いたことあるけど、イングランド語で『悪魔』は『デビル』で『館』は『マンション』だったわよね?」
私は館の名前の自分なりの妙案が浮かび、そうフランに尋ねた。
「お姉様って珍しい言葉は知ってるのね。確かにそうだけど」
「じゃあこの館の名前は赤い悪魔の館、スカーレットデビルマンション、ってのはどうかしら。これも結構格好いい名前だと思うけど」
「うーん、お姉様……それは何だか、ちょっとダサいと思うわ。それに私達のことを悪魔だなんて、なんだか」
「何よ、いいじゃない、私が気に入ってるんだから。間違っても私達は人間じゃあないんだし」
「まあいいけど……お姉様って名前の感性は微妙ね」
「う、うるさいわよ、黙ってなさい!どうせ名前なんか、他のものと区別が出来ればそれでいいのよ」
「はいはい、分かったわお姉様」
「それと、引越しはしてもフランは地下の部屋から出ちゃ駄目よ。イングランドも外は危ないし、地上には太陽の光があることは変わんないんだから」
それからのイングランドでの私達の日々は全く平穏に、そして驚くほど早く過ぎていった。極稀に森で迷った哀れな人間が自ら館へと犠牲となりに訪れる以外は、私達の住居は人間世界から完全と言って良いほどに隔絶していた。だが血液採取のために人間の居住地をうろつく僅かな時間ですら、人間達の社会を垣間見るには充分であった。
田舎の国とはいえ、この島も戦乱から完全に逃れることはできなかった。一度だけ近隣の街や村を燃やし尽くす程の戦が起こったが、戦火は決して森を越えて館を訪れることはなかった。
街の掲示や道端に落とされた檄文に書かれたイングランド語を慣れないながら読むには、やはりその戦乱も宗派間の争いが一因にあるようであった。だがそれは決して、かつてほどの異端に対する排斥運動といったものではなく、むしろ大義名分のために宗派の旗印を持ちだしたようにすら思えた。
そして戦乱が終わり再び平穏な日々が流れ始めると、その宗教離れはさらに加速していった。人々の帰属意識は宗教宗派、信じる神や解釈による共同体よりも、自らを生んだ国土と文化に傾いていった。規範となるべき思想は旧来の聖典ではなく、「理性」と言う存在に次々と置き換えられていった。
その「理性」の優位と正当性を象徴するように、これまでの数百年の間には全く想像さえ出来なかった物や技術が驚くべき速度で生み出されていった。街々はそれぞれ黒煙を吐く奇妙で巨大な蛇のような乗り物によって結ばれ、草原が広がっていた郊外には同様に黒煙を上げ轟音を立てる巨大な建物が次々と建設されていった。毒々しい煙や生気の感じられないからくりで構成された、かつてとは全く変わってしまったこの島の風景を見て、私はこうとすら思った。もし地獄というものがあり、そこに住むという悪魔が領地を持っていたとしたならば、その地の風景はここと驚くほど似ているのだろうと、そこでは水車や風車の代わりにあの醜悪で巨大な建物があり、車を引く馬は草ではなく火を喰むのであろうと。
周囲の街や村も拡大し、人間の数も驚くほどに増えたが、だからといって私達の食料の確保が楽になることは決して無かった。街は新たに生まれた松明の炎よりも格段にまばゆい光を放つ照明によって夜遅くまで照らされ、それに伴って人間達の行動時間も以前とは比較にならないほどに伸びていった。真夜中ですら街の中心部には灯火の下で騒ぐ人間達が居るような状況で、昔のように気づかれないまま人間の生き血を奪うことは容易ではなかった。建材や薪のためか私達の館を覆う森林も少しずつ伐採されてゆき、じりじりと人間の領域は館へと近づいてきていた。
ある日の夕方、玄関広間から扉を叩く音が響いた。私は久々の食料となるべき迷い人の到来と胸を弾ませ、日光が差し込まない程度に距離を取りつつも、扉の前に立ちこう言った。
「どうぞ、お入りください」
扉が開くと、そこにはこうもりの羽を模したような髪飾りをつけ、尻に妙な黒い紐を立てた茶色の長髪をした妙齢の女性と、ややそれよりも背の低い紫色の長髪をした若い娘が表れた。奇妙な出で立ちだと私は思ったが、新たな技術を用いた人間達の流行なのであろうかと深くは考えなかった。
「あら、貴女方のような女性がたったお二人でわざわざこのような森の奥深くまで訪れるとは。道にお迷いでしょうか?」
私がそう言うと、紫髪の娘がこう答えた。
「いいえ、私達は貴女に会いに来たのよ。吸血鬼のお嬢様」
彼女が唐突に言った「吸血鬼」という言葉に私は慄然とした。何故、この娘はたった今初めて会ったばかりの私の正体を知っているのかという疑問が湧いた。そして同時に、かつて祖国にいた時に一度だけ私のもとに訪れた刺客を思い出した。有無を言わさず理由も無く私の命を狙った刺客達のように、この娘もまた何ゆえか私達の命を狙いに来たのかと長年忘れていた恐怖が私の心の中で小さく芽生えた。
だが娘は私の反応には興味を持つこともなく、素っ気ない様子で言葉を継いだ。
「もちろん、貴女に危害を与えるつもりなんか無いわ。ただこの館にあるというグリムワールを読ませて頂けないかと頼みに来たの」
私は内心動揺しつつも、突如として突拍子もない事を口走るこの娘はおそらく狂人なのであろうと考え、ぶしつけな口調でこう言った。
「何をそちは言いたるや?私はそちに吸血鬼なぞと呼ばれる筋合いはないわ。それにグリムワールなるものも、うちの館にはないはずよ」
そう言うと娘は軽く笑いながらこう言った。
「ごめんなさい、説明が足りなかったわね。グリムワールっていうのは、つまりは魔法の本のことよ。普通の文字以外で書かれてるものが多いから、そういう知識がなければ何を書いてあるのか全く分からないはずだけど、そんな変な本はここにはなかったかしら?」
そして彼女は最後にこう付け足した。
「でも、噂通りかなり長く生きているようね、吸血鬼のお嬢様」
娘の説明で私は地下の部屋に乱雑に積まれていた不可解な書物の存在を思い出したが、同時に彼女のあまりにも常軌から外れた内容の言葉を平然と言う様子に狂人であるという考えは確信に変わった。
「馬鹿なことを言うんじゃないわよ、それにもしその魔法の本があらましかば、そちがいかにせんと申すのだ?」
「魔女として、魔法の研究をするのに必要なのよ」
「魔女?そちは真に奇妙なことを申す、吸血鬼といい魔女といい、そんなのは御伽話の中にこそありけれ。ほら、そこのお姉さんもこの娘に言い給え、そちが気は確かなりや?って」
私が失笑とともに紫髪の娘と妙齢の女性にそう言うと、その娘は意地悪気にほほえみながらこう答えた。
「あら、じゃあ私が間違ってるのかどうか、試してみる?」
「やってみなさい、そちが能うものならばな」
私がそう言い終わると、娘は何やらもごもごと口の中で静かにつぶやき、右手の人差し指を私の方に向けた。その瞬間指の先からは青白い閃光が丸く飛び出してきたかと思うと、私の身体の周りを回転しながら高速で飛び回った。その閃光は私の目の高さまで上昇すると、顔の前ではじけ飛び、虹色の火花を放ちながら消えていった。
眼前で繰り広げられた光景に全く理解が追いつかないままあっけにとられていると、娘は気持ち得意げな様子でこう言った。
「どう、これで私が魔女だって信じてくれたかしら?御伽話から出てきた存在は、何も貴女だけじゃないのよ」
「え、ええ。さすがにこんなもの見せられたら信じるしか無いわ」
明らかに道具も何も持たない手から放たれた光は、人間達の技術の結晶である街の灯のそれとは明らかに異なっていた。
「そういえば、私としたことが無礼なことに自己紹介を忘れてたわ。私はパチュリー、パチュリー・ノーレッジ、そしてこの子は私の使い魔よ。お見知り置きを」
「私はレミリア、よ。このスカーレット家の当主になるわ。こちらこそ」
未だに目の前の光景を半ば信じることができないままでありながらも、自分達と同じ人外に出会えた衝撃に私は満ちあふれていた。
「ところで、使い魔、っていうのは?」
私は耳慣れない言葉をパチュリー・ノーレッジと名乗る娘に尋ねた。
「小間使いみたいなものよ。ただ魔力さえ与えておけばいい分、人間の小間使いよりも便利はいいけどね」
「その娘の名前は?」
「下級の悪魔だからちゃんとした名前も無いわ。まあ私はコアクマ、とでも言ってるけどね」
「悪魔……魔女といい魔法といい、もうなんでもありね」
「あら、吸血鬼がそんなことを言うのね。それより、グリムワールはここにあるのかしら?」
「ええ、多分あれのことだったら、地下にいっぱいあったはずよ。そちを案内するから来なさい」
「えっと、一つ言わせてもらうと貴女の『そち』って二人称と言葉遣い、もう今の世の中じゃ教会の説法か古めかしい演劇ぐらいでしか聞かないわ。今は例え相手のことを尊敬してなくても、例え相手が一人だけでも『貴女』って言うのが普通よ。それに、貴女の三人称も少し古めかしいのが混じってるわよ」
「へえ、言葉まで変えるなんて人間達の世も面倒ね」
私は彼女達を地下の書物部屋へと案内した。地下という温度や湿度の変化が少ない特性が幸いしてか、グリムワールなどという奇妙な書物は数百年の時を経ても紙質の劣化はほとんど見られなかった。パチュリーはその光景を見て予想以上に豊富で良質の収集だと目を輝かせ、私に軽く礼を述べると、どこからか紙と辞書とを持ち出しその魔術書の解読を始めた。ひとたび彼女が書物を読み始めると、意図的か否か、私が声をかけようと眉一つ反応を示すことはなかった。
彼女の使い魔は部屋の扉を開け、部屋から一歩出たところでこちらの方へと振り返り、目と指とで私も外に出るように促した。それに従い私も廊下に出ると、彼女は静かに扉を閉じて気弱な表情と声でこう言った。
「すみません、主人は一度書物に夢中になられるといつもあのように周りのことが見えなくなってしまいまして」
「構わないわ。そんなにそ……貴女の御主人を夢中にさせる本が我が家にあって光栄だわ。それにお客様を対応する準備も出来てなくて、少し申し訳ないのは私の方よ」
私はそう答えて、彼女に質問を投げかけた。
「貴女はコアクマ、って言ったかしら。よくこの館と私の正体が分かったわね。どこでどうやって知ったのかしら?」
「正直なところ、今日いきなり用事も行き先も告げずに主人について来い、と言われたものですから、私には全く分からないのです。ただ今日の外出はその頭と背中の羽も、尻尾も隠す必要はないと言われたので不思議には思っていましたが」
「やっぱり悪魔って言うぐらいだから、その羽も尻尾も飾りじゃないのね」
少し間を置いて、私は質問を付け足した。
「貴女は、私や貴女の御主人みたいな、人間以外の存在にはどのくらい会ったことがあるのかしら?もちろん貴女と同じ種族でも構わないわ」
「何度か主人のサバトに同行させていただいたことがありますので、そこで多少は主人以外の魔女の方とお会いしたことはあります。しかしそれでも、そこでお会いした魔女の方は片手で数えられる程度でしょうか」
彼女は何本か指を折りそう言った。
「サバト?貴女達ってユダヤだったの?」
「いいえ、そう意味ではなく単に魔女達の集まりのことをそう呼ぶのだそうです。もっとも、私がお邪魔させていただいたものはどれも集まりと言うにはあまりに小規模なものでしたが」
「なるほどね、そのサバトに来る魔女ってのはどんな感じだったの?やっぱり婆さん姿だったり、箒に跨ってたりするのかしら?」
悪魔という名称がそぐわないほどに威厳のない彼女の所作に少しばかりの不審と可笑しさを覚え、私は軽く冗談めかしながらそう尋ねた。
「いいえ、どの方も服はもちろん、顔や髪型まで普通の若い人間の女性と変わらない格好をしてらっしゃって、自分から魔女と名乗っても信じてもらえはしないほどです。赤毛の方すらいらっしゃいませんから」
少し黙った後で、彼女は言葉を付け足した。
「ですから、主人の紫色の髪はその中でも目立つのです。お分かりだと思いますが、私達は人間達に目立つことを好みません。にも関わらず人目を引く髪の色を変えない主人は他の魔女の方々にも不思議に思われているようです」
「あら、今の人間達の道具とか、それこそ魔法なんかを使えば髪の色ぐらい簡単に変えられるって思ってたけど、そうじゃないのかしら」
「私もそのようなことを言ったことはあるのですが、主人ははっきりとは答えてくれませんでしたので」
彼女がそう言ったところで、扉の向こうから使い魔を呼ぶ主人の魔女の声が聞こえた。
「すみません、主人の手伝いがありますので、私はこれで」
「分かったわ、色々教えてくれて感謝するわ。食事なんかを振る舞えない代わりと言っては何だけど、帰るときに伝えてくれればこの館ではゆっくりしてくれて構わないわ。それと一つ注意があるんだけど、あの奥の部屋にはなるべく近づかないほうがいいわ。……いえ、近づいても入っても構わないけど、その時はちゃんと私を呼ぶことね。そうミス・ノーレッジにも伝えておいて頂戴。じゃあ私も失礼するから」
私はこの館の唯一の危険、フランの部屋への注意を与えると、私はその場を後にした。
その後私は日課のフランとの退屈しのぎの会話を交わしに彼女の部屋へと向かった。しかしつい先程眼前で起こった魔術の奇跡とそれを起こした珍しい来客のことをその時は話題に挙げはしなかった。フランが誤った興味を持ち、来客に危害を与えることを私は恐れていた。
彼女との会話を終え自室に戻った後でも、今日の出来事を事実として再確認するには未だ時間がかかった。自らとフランという実例があるにも関わらず、人間に酷似した姿を持ちながら人間ではない種族が実在するということに激しい衝撃を受けていた。自分達だけがこの世に実在する人外の存在であると言うこれまでの私の考えは「社会」に対する疎外感をもたらしていたが、同時に私達はそれゆえ他のものとは違う特別な存在であるという矜持にも繋がっていたことは否定できなかった。
衝撃の大部分はその矜持が崩されてしまったことによるものであったが、初めて出会った吸血鬼以外の人外の存在に出会ったことによる感動も同様に私の心を震わせていた。
一体魔女とは、魔法とは、同じ人外という括りだけでは分かるはずもない異なる種族に対する尽きせぬ興味が私の頭にあふれた。使い魔の断片的な情報はそれを解決するどころか、新たな興味を更に引き出したに過ぎなかった。
パチュリーと名乗るあの魔女ともっと話をしてみたいものだ、そう思いながら私は完全に日の沈んだ窓の外の濃い夜霧と薄い雪に覆われた風景を眺めた。
朝の光が窓掛けの隙間からうっすらと差込み始める頃に、パチュリーとその使い魔のふたり組は私の部屋を訪れた。目の周りに深くくまを刻んだパチュリーは椅子に座る私を見るとややかすれた声でこう言った。
「今日は長々とグリムワールを読ませてくれて本当に感謝するわ。貴重な本ばかりで本当に助かったわ」
私は椅子から立ち上がり、彼女にほほえみながらこう答えた。
「貴女の役に立ったのだったら光栄だわ。こう言っては気に障るかもしれないけど、あいにく私にはわけの分からないがらくたみたいな物だったから、上手く使えるひとが見つかって良かったわ」
彼女もその答えにほほえむと、少し申し訳なさ気な声でこう尋ねた。
「それと、一つお願いがあるんだけど」
「何かしら、あのグリムワールを譲ってくれないか、とかかしら?まあ別にそれなら構わないけど」
「いえ、別にそこまでは望んではいないわ。あれだけの書物を持って帰るだなんて面倒だし、隠し場所にも困るわ。ただ、明日以降もここに来てあれを読ませてもらえないか、と思って」
「あら、それくらいなら喜んでお応えするわ。美味しいお酒も豪華な料理も相変わらず用意は出来ないけど、それでも良ければ一向に構わないわ」
そう言った後で私はあることを思いつき、パチュリーにこう尋ねた。
「ところで貴女、どこらへんに住んでるの?」
「……どうしてそんなことを聞くの?」
その質問に彼女は少し顔を歪めた。予想外の反応に私は少し戸惑い、慌てて言葉を付け加えた。
「いえ、もしここから遠いところに住んでるんだったら、この館に通うのも大変でしょう、って思っただけよ。他意はないわ。ここは見ての通り広くて空き部屋も多いし、ひとりふたり増えたところで困ることなんかないから、わざわざ来てもらうよりもうちにしばらくいたほうが貴女達としても都合がいいんじゃないかしら、って思ったのよ。食事なんかはそれこそ用意は出来ないけれど……どうかしら?」
私がそう言うと彼女は安心したような表情を浮かべ、こう答えた。
「寝てる間に私達の血は吸ったりしない、って約束できるならそれこそ喜んで泊まらせていただきたいわ」
「もちろんよ。私が血を吸うのは普通の人間からだけよ」
「有難いわ。で、どの部屋を貸してもらえるのかしら?」
「使い魔に伝えておいた地下室以外なら何処でもいいわ。家具のある部屋ならお好きな処にどうぞ」
「じゃ、書物の部屋の隣の空き部屋がいいわ。すぐに資料が見れるし」
私は彼女達をその部屋へと案内すると、パチュリーは家から少し物を持って来させても良いかと尋ねた。私は構わないと言うと彼女は書き付けを使い魔に渡し、人目に気をつけるようにと言って送り出した。使い魔のコアクマは器用に羽と尻尾を髪や服の中に隠すと私とパチュリーに頭を下げて部屋を出て行った。既に少し眠気を感じていた私は彼女が戻って来られるように館の鍵を開けたままにしておくことを伝え、自室へと戻った。
翌日から、フランの部屋に向かう前にパチュリー達の部屋を訪れることが新たに私の日課に加わった。パチュリーは私達とは違い決して朝に眠り夜に目覚めはせず、多くの人間達のように主に昼間に活動を行う種族のようであった。故に私が彼女の部屋に向かうのは基本的に両者ともに無理なく目覚めている時間帯の夕暮れ時であった。
パチュリーは人外とはいえ私とは違い、決して人間の水準を遥かに超える強靭な肉体を持っているわけではなかった。むしろ時折空咳の軽い発作に悩まされる彼女の体の弱さは、並みの人間をも下回るようにすら思えた。だが肉体の貧弱さとの引き換えか、彼女は豊富な読書量に裏打ちされた幅広い分野に渡る知識を身につけていた。
彼女はグリムワールに限らずあらゆる分野の読書を好んでおり、居室にいる時も常に使い魔に持ち込ませたと思われる大量のグリムワールではない書物のいずれかを読んでいた。それは分厚く大仰な装丁の本であることもあれば、文字と精密な絵とが所狭しと並べられている重ねられた粗悪な紙の束であることもあった。だが居室で読む書物に彼女が没頭することはあまり無いようで、私が声をかけると彼女はすぐに読書を中断し返事をした。
彼女の幅広い見識から生み出される話は、どうしても少し鼻につく衒学の感は否めなかったが、常に私を魅了した。文献や魔法の術式を読み解くのに必要であるためと様々な国や民族の言語にも彼女は精通していた。その範囲は広く、耳にしたことのない遙か極東の国の言葉にまで及んでいた。彼女の使い魔の名前「コアクマ」というのはその極東の島国、「日本」という国の言葉であり、「小さな悪魔」を意味するのであるとも教えてくれた。
またパチュリーは居室で不思議な茶褐色の液体を飲むことを好んでいた。ある時私はその液体について魔法の薬か何かかと尋ねると、彼女は笑ってそのような大それたものではなく、人間達がよく飲む「茶」と呼ばれる飲料であると答えた。試しにと飲ませてもらうと、私の口中には不思議な香りと独特の渋みが広がった。それらの生み出す味わいはさすがに血液には劣るものの、上質な麦酒にも比肩できると思えるほどの素晴らしいものであった。
人間達の趣味も決して悪いものばかりではないものだとパチュリーに言うと、気に入ったのであればいくらでも茶ぐらいなら入れてあげるという返答が戻ってきた。ここに滞在させてもらっている分の宿代としては安すぎるかもしれないが、という彼女の言葉にそのようなことはないがと私は笑って答えた。私が茶を飲み始めたのは、この時からであった。
「それにしても、人の生き血を啜る吸血鬼様がまさかこんな可愛らしい幼子の姿をしてる、って人間達が知ったらどう思うかしらね」
茶が波々と注がれた器を使い魔から受け取りながら、パチュリーはそう言った。
「あら、そんなこと言ったら老いの影すら見えてない若娘が魔女だなんて人間達が知ったら、どうなるかしらね」
熱い茶を少しすすり、口腔内を潤わせた後で私はそう言った。
「多分、自分達の馬鹿らしさにようやく気づくんじゃないかしら。勝手に的外れな虚像を創りあげて、自分達だけで恐れた挙句に、何百年間も魔女狩りなんか言って人間同士殺し合ってたんだから。そうじゃないとしたら想像と違う、なんて言って私が魔女だとは信じようとしないでしょうね」
「何百年間も、ね。そういえば、貴女もそう見えて長く生きてたりするのかしら?」
私はかねてより抱いていた疑問について尋ねた。
「いえ、生憎今のところ実年齢と年格好は人間達と変わらないわ。まあこれ以上歳を取ろうとも思わないけどね」
「取ろうとも思わない、って自殺でもする気?」
「まさか物騒な。ただ魔法で老化を止めるのよ。そんなに難しいことじゃないわ」
「魔法で年齢が自由自在だなんて、羨ましいわね」
私は彼女の胸元の服の膨らみを見てそう言った。彼女は幼いまま時が止まってしまった私とは異なり、望めば子供を宿すことも可能であるのだろうと考えた。
「簡単な魔法の実験ですら人間達の目と法律を気にしなきゃならない面倒な世の中に生きてるんだもの、自分の体ぐらいは好きにさせて欲しいものよ」
「だからその髪の色もそのままにしてる、って?」
私は彼女の使い魔との初めての会話を思い出し、そう尋ねた。
「そうよ。多少ケチ付けられたところで物心付いた時から気に入ってるこの紫の髪はそう変える気にはならないわ」
「物心付いた時からって、小さい頃からそんなに目立つ髪をしてると、色々困ったでしょうに」
「まあ人間達からは気味悪がられたり言いがかりを付けられたり、いい反応を貰ったことはなかったわね。とはいってもこの髪の色だけで私が魔女だなんて疑われたことだけはなかったから、別に構いはしなかったけどね」
「だからといってよく人に嫌われる髪を好きになれるわね」
「蛇や鼠に嫌われたところで、どうって事はないでしょう?それと同じことよ」
「蛇や鼠は私達みたいに言葉を喋ったりしないからね」
彼女の比喩に少し違和感を覚え、私はそう言った。
「喋ったところで大した違いはないわ。どっちにしろ人間なんて私達みたいな力を持ってない、ただ数が多くて厄介なだけの種族なんだから。でもその人間達のおかげで、この髪もより一層魅力的に思えるってものだけどね。私の生まれつきの魔力と同じであんな奴らには絶対持てやしない、選ばれたものにだけ与えられる特権の象徴、って感じでね」
彼女は独特の自慢気な口ぶりでそう言った後、軽く二、三回咳払いをした。
「あら、じゃあ私のこの青い髪も血が飲める特権の象徴なのかしらね」
私は少し笑いながらそう言うと、彼女の言葉を反芻した。
確かに彼女の言う通り、人間というものは私達のような飛行能力や魔力といった特別な力も持たず、ただその生息数だけが徒に多い存在であるということに異論は無かった。加えて私の目にした戦乱や同胞への裏切りといった人間達の行為は、彼らへの悪印象をさらに強めるには充分であった。彼女が人間を蛇や鼠といった到底美しいとは言えない動物に例えるのも、十二分に納得の行く話であった。
だがその比喩に少なからず反発を覚えたのは、短い時間ながらも私の幼少期に人間としての過去があるためであろうかと考えた。幼い頃の経験は人間の一生の性格を形作るものであると言うが、それは人生のさなか種族が変わり、人間の寿命を遥かに超える存在となっても適用されうるのであろうと私は思った。遠い過去の記憶は人間達への拭い去れない歪んだ形の同族意識を私に植え付けており、それゆえ私はすでに吸血鬼となり、人外としての意識を持っているにも関わらず、人間達にやや肩入れをしてしまうところがあるのだろう。
だが彼女は生まれながらにして魔力を持つ、人間とは違った存在である魔女という認識を幼い頃から持っている。それ故に自分とは関係の無い存在の人間を客観的に、そして冷徹に判断することが出来るのであろう。私にはそれが羨ましく思えた。遥か昔の僅かな思い出に縛られる私とは異なり、パチュリーは超自然の存在として確固たる自我を持っている。
「そういえば魔女ってのは魔法の材料に人間の生き血を使うことがある、だなんてのを聞いたことがあるけど、あの噂ってのは本当なのかしら」
私は数秒の沈黙の後で、パチュリーにそう尋ねた。
「私はまだそんな素材を使ったことは無いけど、人間を素材にする魔法の術式や薬なんかはいくらでもあるわ」
彼女は淡々とそう答えた。
「もしそれが必要になったとしたら、やっぱり殺してでもそれを調達するのかしら?」
「肉料理が食べたくなったら、牛や羊を屠殺するでしょう?」
「もしその相手が、年端もいかない小さな子供だとしても?」
「仔牛や仔羊の肉は、成獣の肉よりも美味しいものじゃない」
彼女のその言葉に、私は少し笑ってこう言った。
「やっぱり、パチェって面白いことを言ってくれるわね」
「あら、パチェって私のことかしら?」
「ええ、そのつもりだったけど、もしかして気に触っちゃったかしら」
「いいえ、素敵な響きよ、レミィ」
彼女も笑って、私の言葉に答えた。
ある日例のように私がパチェの部屋を訪れると、彼女は私にささやかな贈り物があると言って私に小さな花束を手渡した。花束には紅色のばらと、葱坊主のような形状をした白い花がそれぞれ数本ずつ入っていた。
「あら、花束だなんて素敵な贈り物じゃない。こう花を見るのはいつぶりかしら」
そう言って顔の前まで花束を持ち上げると、私は妙な芳香を感じ取った。
「でも何かしらこの匂い。この白い花から出てるみたいだけど、せっかくのばらの香りが台無しだわ。一体この花は何なの?」
「にんにくの花よ」
パチェは何故か少し頷きながらそう答えた。
「にんにく、ね。見た目はそれなりに可愛らしいけど匂いは最悪なのね」
「えっと、ばらは大丈夫なの?」
彼女は何かを確かめるような素振りでそう答えた。
「大丈夫ってどういうこと?まあ見たところまだ萎れてもないし良い香りもしてるし、綺麗だと思うけど」
「そうなのね。じゃあちょっとこの鏡を見て貰いたいんだけど」
パチェは小さな手鏡を持ち出すと私の方に差し出した。言われたとおりに鏡面を覗きこむと、そこにはやや怪訝そうな表情を浮かべた彼女の顔が反射していた。
「何?私の顔に何か付いてるの?」
そう言って手鏡を受け取り入念に覗いたが、そこには目やにの汚れすら無い、真っ赤な瞳をした、変わることなく幼いままの私の顔が映っているばかりであった。
「色々とごめんなさいね、最後にこれなんだけど」
パチェはその言葉とともに銀色の十字架をおもむろに取り出し、そのまま私の目の前で揺らし始めた。
「今日のパチェ、何だか不思議なことをするわね。魔法の研究で寝不足なのかしら?」
私のその質問にも答えず、彼女は私にこう尋ねた。
「十字架も大丈夫なの?」
「大丈夫ってどういうことよ?」
「見ても平気なの?嫌な気分になったりしないの?」
「嫌な気分、って何よ。まあ私としては宗教に関しちゃ嫌な思い出には事欠かないけど、ひとの持ってる装飾品に文句言うほどじゃないわ」
彼女の数々の不審な行動に疑念と少しの苛立ちを抱きながら、私はこう言った。
「さっきから一体何なの?何か私の検査でもしてるの?」
「ごめんなさい、小説に書かれてた吸血鬼の特徴が本当かどうか確かめてみたくて色々試させてもらってたの。吸血鬼はばらとかにんにくが嫌いで、鏡に身体が映らなくて、神聖なものを嫌がるって。でもやっぱり人間の考えた設定なんてほとんど嘘だったわ。もっと他にも弱点はあったけど、この調子じゃそれもでたらめでしょうね」
パチェは少し申し訳なさげにそう答えた。
「何よ、こそこそしなくてもそう言ってくれれば別に協力ぐらいしてあげたのに。ところで、小説って何?」
「言ってみれば御伽話の現代版みたいなものよ。作り話の書かれた本のこと。御伽話と一緒で楽しい物語もあれば悲しい物語も、怖い物語も何でもあるわよ」
「その現代の御伽話に吸血鬼が出てた、ってわけね」
「ええ、もう五年前に出た本だけど、それなりに今でも人間達には人気のあるやつにね」
「面白いわね。その吸血鬼が出てる小説ってのはどんな名前が付いてるの?」
「『ドラキュラ』って題名よ」
唐突に放たれた、懐かしくも決して忘れることの出来ない名を耳にして、私は身体に電流が流れるような感覚を覚えた。
「貴女今、その小説の題名をドラキュラって言ったかしら?」
自分の耳をにわかには信じることが出来ず、そう確認した。
「ええ、確かにドラキュラって名前の本よ。まあイングランド語じゃ耳慣れない響きではあるわね」
「それってもしかして人の名前なの?」
「そうよ。よくドラキュラが名前だって分かったわね」
「どういう物語なのか、少し教えてくれないかしら」
私は思わず早口になりながらも、そう尋ねた。
「まあ人間の考えた馬鹿らしい恐怖小説だけど、トランシルヴァニアの貴族で吸血鬼のドラキュラ伯爵がこのロンドンにやってきて、美女の血を吸っていくってお話よ。血を吸われて殺された人も吸血鬼になっちゃうんだけど、結局は大学教授達の一行に伯爵共々殺されちゃうわ。貴族の吸血鬼、ってのが何だかレミィみたいってふとその本を思い出してね」
物語の中のこととはいえ、祖国のかつての主君、ヴラド公の渾名と同じ名を持つ登場人物が自分と同じ吸血鬼であるということに私は少し嬉しさを感じたが、それ以上にその主君の名を持つ吸血鬼が人間達に殺されてしまうという結末に不快感を覚えた。だが私の出会ったヴラド公とは異なる小説の設定に疑問を抱き、パチェにこう尋ねた。
「そのドラキュラ……卿はトランシルヴァニアの貴族なの?その南のワラキアじゃなくて?それに公爵じゃなくて伯爵なの?」
「あら、変なところに興味が行くのね。イングランドにいてワラキアなんて地名を知ってるのは意外だけれど、爵位を気にするのはさすが貴族様といったところね。家格は聞いたことはなかったけど、スカーレット家って侯爵家なのかしら」
彼女は冷笑を浮かべながらそう言った後、言葉を継いだ。
「間違いなくこの小説の吸血鬼、ドラキュラ卿はあくまでトランシルヴァニアの伯爵って設定よ。さっきから妙に興味深く話を聞いてくるけど、何か気になることでもあったの?」
「ええ、もうすごく昔のことになるけど、私、ドラキュラって渾名の人間を知っててね。もしかしたらそれに関係あるのかも、って思って聞いてみただけよ。まさか吸血鬼の名前になってるとはね」
私はそう言ってドラキュラ、祖国の言葉で小さな竜や小さな悪魔といった意味を持つ渾名の主君、ヴラド公を今一度思い出した。彼とともに過ごした期間は決して長くはなかったが、それでも私の記憶に彼の姿を深く彫り込むには充分であった。豊かな漆黒の長髪と口ひげをたくわえ、優美な口調で固く強い信念を語り、全ての身寄りを失った私のような幼子にも貴族の家門の当主であると軽んずる事なく応対した彼は、最高の主君の風格を備えているように当時の私には思えたものであった。
確かにヴラド公は戦乱で混迷する国内をまとめるために非道な手段も使い、それ故ドラキュラなどという不吉な渾名を付けられてはいた。だがそれでも彼は私の目にした人間の中で最も尊敬できる者であった。一国の君主たるもの、時として非情な判断を下さなければいけないということぐらい私にも分かっていた。
そんな彼の名を持つ者が例え御伽話の中であっても、私と同じ種族として描かれているということには同胞としての誇らしさもあり、また決して人間達から好かれることのないであろう存在に落とし込むことへの申し訳の無さもあった。
そのような追憶の断片は、私の口から自ずからあふれ出ていた。
「ヴラド殿下が私と同じ吸血鬼……ドラキュラ卿なんてね……」
「何一人でぶつぶつ言ってるの?ヴラド殿下って?」
パチェは私の独言に疑念を抱いたようであった。
「いえ、ちょっとそのドラキュラに関して思い出すことがあってね」
「ふーんそうなの。何、その本はこの部屋に持ってきてるから、そこまで気になるのなら読んでみたらどう?最後には吸血鬼が死ぬ話だし、不愉快だったら無理に全部読めとは言わないけど」
そう言いながら彼女は背後の本の山を数秒漁ると、黄色い装丁の本を取り出した。表紙には赤文字で飾り気なく、『ドラキュラ、ブラム・ストーカー著』という情報だけがイングランド語で書かれていた。
「もう私は読み終わってるから別に期限は付けないわ。ごゆっくりどうぞ」
そう言ってパチェは私に本を手渡した。
その日の夜中から私は早速その『ドラキュラ』を読み始めた。イングランド語は主にフランとの会話で覚えていったため、口語発音とあまりにも異なる綴りの表記や時代とともに変化した用語法に戸惑いはしたものの、パチェから一緒に借りた字引や彼女の説明にも頼りつつ少しずつ私は久々の読書を進めていった。
新時代の小説はかつての御伽話とは異なり、あらゆる風景や登場人物達の心情が各自の視点で日記の形式を借りうっとおしいまでに細かく書き表されていた。物語はパチェの説明したとおりトランシルヴァニアから始まり、情景描写の中にはカルパティアやモルダヴィアといった懐かしい地名や少し訛った祖国語の単語も所々に見られた。ただ、祖国の言葉はほとんど人間以外の怪物を指す語彙がその多くを占めており、またハンガリーの言語と、祖国を含むルーマニアの言語を混同しているようにも思われた。
ドラキュラ伯爵にロンドンへの引越の手続きを依頼されたイングランド人の法律家は彼の居城へと招かれるが、そこに軟禁され様々な怪奇現象を体験する。法律家はその怪奇現象の元凶はドラキュラ伯であると考え、命からがら彼の居城から抜け出し、ロンドンへと戻る。だがその間にドラキュラ伯もロンドンへとやってきており、法律家の妻の友人女性を襲い、時間をかけて彼女の血を吸い、衰弱死に陥れる。そのさなか彼女の病状を不審に思った人間達は、生物学と呼ばれるらしい生命現象を扱う学問の教授に捜査の協力を頼み、彼はドラキュラ伯が原因だと断定する。死後吸血鬼と化した彼女を人間達は再び殺し、新たに彼の標的となった法律家の妻は何としても守ろうとする。結果人間達は彼女を無事守り切ることに成功し、ドラキュラ伯は故郷へと逃げ帰る。だが人間達は彼を追い、彼はトランシルヴァニアの居城の目前で殺されてしまう。
長い書物にしっかりと目を通すというのは子供の時の授業以来であり、また前述のようにイングランド語の書き言葉に慣れていなかったことも重なって三百頁以上もあるその本を読破するには丸一月近くを要した。だがその話の筋だけを簡単にまとめてしまえば、単にこの程度のものであった。
物語の中のドラキュラ「伯」はトルコ人と戦った一族であるという台詞はあったが、自身をトランシルヴァニア人、そしてハンガリー系であるセーケイ人だと称していた。半ば予め分かっていたようなものであったが、決してその物語は実在の君主としてのヴラド「公」を描いていたわけではなかった。
ドラキュラというその名を題名に冠しているにも関わらず、彼は他の登場人物達と比べて描かれた分量は非常に少なかった。だが僅かな描写のどれも彼は非常に礼節を重んじる紳士として描写されており、それだけは唯一私の記憶の中のヴラド公と一致している部分であった。そしてそこだけが唯一、作品に好感が持つことができた所でもあった。
しかし申し訳程度に紳士的に描かれた吸血鬼像を除けば、その小説はあまりにも下らないものであった。吸血鬼の特徴や弱点の誤謬は情報不足が故の無知であると百歩譲って認めることはできても、作中に描かれた人間達の行為は私には全く納得の行かない不快なものであった。
確かに不用意に獲物の命を奪ってしまうドラキュラ伯も吸血鬼としては愚かなものであったが、それに対する人間達の反応も度を超えているように私には思われた。人間というものは同胞を殺されてしまった時、その殺人者をイングランドから遥か遠く離れたトランシルヴァニアの地まで追跡し復讐を果たさねば気が済まないものなのであろうか。そう考えると私は背中に大きな氷の板を差し込まれたような感覚がした。
それ以上に私が恐ろしく気味悪く感じたことは、その復讐が怨嗟から起こる個人的なものではなく、全人類全社会に必要な絶対的な正義の行為のような文脈で描写されていたことであった。むしろそれは復讐といったものよりも、友人の死を良い口実とした一方的な吸血鬼に対する排斥や粛清といったほうが近いようにすら思われた。登場人物の言動や行動は、ドラキュラ伯の命を奪わねばならない理由というものは女性を殺したからではなく、単に彼が吸血鬼であるからだ、とでも言わんばかりであった。その思想は物語の全編を通して流れる宗教への全幅の信頼感と相まって、私に今一度人間の排他性を思い起こさせた。
作品集178に収録の運命の愚者・第二部
の続編です。
戦火を逃れるために、再び数十年ぶりの引越しを決意したが、我が妹フランドールという愛おしいながらも問題のある同伴者がいることによって、今回の転居は以前のようにあまり悠長に新天地を求めて旅をするということにはいかないようであった。
だが平和でなければ成り立ちようがない商業によって繁栄していたこのアントワープにまで戦火が及びつつあるほど、近辺の地域は非常に混迷した状況にあった。帝国内は言うまでもなく、隣国のフランスなどというもう一つの大国ですら、国内の新たな「異端」の反乱によってその情勢は間違っても穏やかであるとは言えないようであった。どうやらこの大陸の近場には、フランを安全に匿うことの出来る場所は存在しないように思われた。
「困ったもんねえ、また戦だなんて」
食料となる血液の採取を通りで終え、帰ってきた小屋の地下室で私はそう誰に言うでもなく呟いた。外は既に空も白み始める頃であったが、窓のないこの部屋は四六時中私達のような夜の者でなければ視覚を働かせることができないほどの闇に包まれていた。
「戦、って何、お姉様?」
椅子に座っていたフランはいつまで経っても変わることのない、持ち前の善悪の区別の付かない狂気と背中合わせの純朴さでそう尋ねた。
「あら、説明したことなかったかしらね。戦ってのは、まあとにかく怖くて面倒なものよ。物は満足に手に入らなくなるし、人間達は色んなとこで剣を振り回して殺し合いを始めたり、火を放って火事を起こしたりするわ。それに巻き込まれでもしたら、自分や自分の大切なひとの命も無くしちゃいかねないわ。そんなのがこの街で起ころうとしてるの」
「そんなの困るわ、お姉様。どうすればいいの」
フランは少し怯えた様子でそう言った。
「だからそうならないようにこの街から出て、他のところにお引越ししようって考えてたんだけど、あいにくこの近くのどの街も似たような状況らしいわ。困ったものよ」
「どの街も、ってゲントとかブラセルズとかもなの?」
「ええ、特にブラセルズが一番危ないらしいわ。とにかく、この大陸だと何処に行っても戦争だらけみたいよ。スペインとかイタリーとかに行くなら分からないけど、いくらなんでも遠すぎるしそこまでの道もわかんないわ」
私のその言葉にフランは少し不思議そうな表情を浮かべると、こう尋ねた。
「大陸の街が危ないの?でも確かイングランドの国って、ここから近くの島にあるんじゃなかったかしら?そこもやっぱり危ないの、お姉様?」
フランのその提案を聞くまで、私はすっかり海峡の対岸にあるというその田舎の島国の存在を忘れかけてしまっていた。もともとこの街に来てから、その国に関する景気の良い噂はほとんど聞かれることはなく、私はその国に大した印象を持つことはなかった。その上最後の大陸の領土カレーを失ったという情報が十数年前に流れた後は、その王国の近況は一切この都市では話されなくなっていた。
その地に関する情報がない以上、イングランドは必ずしも安全であると言うことはできなかったが、同時に絶対に危険であるとも断定することはできなかった。むしろ私には近国であるにも関わらず、行ったこともない地中海の国々すらも差し置いて話題から消え去るようなしがない島国は戦乱とは無縁であるとすら思えた。
どちらにせよ危険と分かりきっているこの街やその近辺に留まるよりも、新たな場所へと転居をするべきであるというのは明白だった。私の記憶が定かであれば、この街の港からその地への船便も出ていたはずだった。
「イングランドね……すっかり忘れてたわ。よく覚えてたわね、フラン。確かに悪くないかもしれないわ」
「うん、私その国の言葉覚えてるもん。あいらぶでぃー、まいしすたー。とかね」
「あら素敵、そういえばフランは前にイングランドの街に住んでたのよね。ところでそれってどういう意味なの?」
「お姉様、大好きよ。って意味よ」
「そう言われると嬉しいわね。で、そういう時はどう返せばいいのかしら」
「そうね。あいさんくでぃー、そーどぅーあい。かしらね」
「あいさんくでぃー、そーどぅーあい。そんな感じでこれから色々教えてくれると役に立つかも知れないわね」
「じゃあ決まりね、お引越しだわ!」
フランは少し声の調子を上げた。
「ええ、じゃあその準備を始めないとね。とは言っても持ってくものもそう多くないでしょうけど」
私がそう言うとフランは目を輝かせ、さらに弾むような声でこう言った。
「嬉しいわお姉様、私やっとまた外の景色が見られるのね!ずーっとこの部屋の中にいて私いい加減退屈もしてたの、今の通りってどうなってるのかしら?まだその戦は来てないのよね?」
その笑顔を見て、私はフランの恐るべき能力と、何ゆえ彼女をこの地下室に住まわせたかという理由を思い出した。もしもフランがその爆発的な破壊力を外で行使してしまったなら。陸上ならまだしも狭い空間に人間達が詰め込まれ、周りは水に囲まれた船上でその「もしも」を起こしてしまったなら……。私の背筋を悪寒が駆け抜けた。私はフランを確かに愛していたが、その理性を信頼することはできなかった。
「うーん、残念だけど外には出ないのよ。期待させちゃってごめんなさいね」
私は少し間を置いて、なだめるような調子の声でそう言った。
「えー、またお出かけはお預けなのー。でも、外にも出なくてどうやってお引越しするの?……まさか私を置き去りにでもする気なの?」
「まさか、そんなことはしないわ。ただちょっと……魔法を使うのよ」
短時間でもっともらしい理由をでっち上げることなど出来ず、私は子供騙しのような言い訳をした。
「魔法?お姉様って魔法なんて使えたの?」
驚きと訝しみが交じり合ったような表情と声色でフランはそう尋ねた。
「そりゃそうよ。私達普通の人間なんかじゃない、吸血鬼なんだもの。魔法の一つぐらい使えるに決まってるわ。それを使えば、そのイングランドになんかひとっ飛びよ」
「でも、私はそんなの使えないわ」
「それはまだまだフランが成長の途中だからよ。そのうち、私ぐらいに成長して落ち着きが出たら、貴女も使えるようになるわ」
「お姉様ぐらいの落ち着きが出たら、ね」
フランは少し薄笑いを浮かべてそう言った後、言葉を継いだ。
「ところでその魔法を使うにしても、引越しはいつにするの?」
「鉄は熱いうちに鍛えたほうがいいわ。さすがに日が昇る今からは無理だけど、今夜にでも発ちましょう。それと、もうこんな時間だから眠いでしょうけど、魔法の準備に必要だから今日は夜まで絶対に寝ちゃ駄目よ。変に寝ちゃうとこの魔法は失敗しちゃうからね」
何とか厳しい言い訳を実現させる案が浮かんだ私は、最後の文を気持ち語気を強めながらそう言った。
「ふうん、わかったわ。でもちゃんと起きてられるかしら」
「大丈夫よ、それまで私がずっと遊んであげるから」
「じゃあ良かったわ、でもどんな魔法か楽しみだわ」
「ええ、でもちょっと待ってなさい、一応魔法の薬の素材があるか確認してくるから」
そう言って私は一階の台所へと上がり、戸棚の中に「素材」が残されていたことを確かめた。その封を開け、香りと味を確かめてまだその効能が残っていることを認めると、私はその瓶を持って地下室へと戻り、フランの相手をしながら夜を待ち望んだ。
案の定新たな夜が近づく頃には、フランは頭をしきりにかくつかせ、その潤んだ両目は自重に耐え切れないまぶたによって隠されようとしていた。既に「魔法」を使う必要性も無いようにも思えたが、彼女の持つとても制御することの出来ない力を考えれば、慎重になりすぎるということはなかった。
「はい、よく頑張ったわね、じゃあこの薬を飲んだら魔法の準備は終わりよ、後はフランが眠れば魔法が効いて、起きる頃には新しい家に着いてるはずだから」
そう言って私は、フランに血液を混ぜた火酒で満たされた杯を渡した。私が思いついた「魔法」とは彼女を酔わせて眠らせ、そのうちに彼女を新たな土地へと私が連れて行くという、子供騙しの言い訳に似つかわしいあまりにも単純なものであった。酩酊による睡眠程度では僅かの間しかフランの行動を制限することはできないことは分かっていたが、空を飛べば彼女が眠っている間にイングランドへと辿り着くことができるだろうという自信はあった。それに何もしないよりは、フランを酔わせることでその行動を制限できる時間が伸びるはずだと私は考えていた。
「血も混ぜて飲みやすくしてるけど、ちゃんと一気に飲むのよ。じゃないと効果が弱まっちゃうから」
彼女は生返事をすると、私の言葉通り杯を一気に乾かした。飲み干した直後にフランは軽く咳き込んだが、吐き出す様子は見せなかったことに私は内心胸をなでおろした。
「魔法の薬って結構強烈なのね、すごく喉に来るわ。お姉様は飲まないの?」
「私は後で飲むわよ、じゃあおやすみなさいフラン。起きた時にはイングランドよ」
そう言って彼女を寝かしつけると、数分後にはフランから少し大きな、規則的な寝息が聞こえ始めた。私は彼女の首元と太ももの下にそれぞれ手を差し入れ静かに抱え上げると、玄関へと昇り、小屋の扉を開けた。周りに人影がないことを今一度確認すると、夜の帳に完全に覆われた空を見上げた。軽く屈伸をして反動を付けると背中の翼を広げ、私は大陸の大地から両足を離した。
地上の人間達に私達の姿を悟られぬよう、私は鷹が飛ぶほどの高さまで舞い上がった。初夏の心地良い夜風は、上空では少しばかり冷たく激しいものとなった。あれほど多くの人間達が住んでいた大都市アントワープも、夜空から見下ろせば周りに点在する街の光点よりも少しばかり大きいだけの、橙色の小さな炎に過ぎなかった。
二度目の旅立ちの決意を新たにし、両腕の中のフランを改めてしっかりと強く抱きしめると、私は翼をはためかせその島があるという西の方角へと針路を定めた。気持ち早めの速度で二時間も飛行を続けると陸地は途切れ、暗い海が顔を覗かせた。水平線の先にはまだ何も見えはしなかったが、私は自分の記憶を信じ飛行を続けた。少しばかり恐れていた海の流水も、空の上まではその効力を働かせはしないようであった。
大陸を離れて半時間程が過ぎた頃に、私は水平線の先に頭上の欠けのない月の光を反射して白く輝く岸壁を目にした。近づくほどに大きくなってゆく島の表面は、見渡す限りの緑の若草と点在する木立で覆われていた。
かつて歩いたドイツ人達の国ほどの鬱蒼とした森林はこの島には広がっていなかったにも関わらず、フランダースのように開けた土地に都市が遍在しているわけではなかった。辺鄙な島国という前情報からの私の印象に違わず、眼下の光景に都市と言えるべきものはやや大きめの川のほとりに広がる街が一つあるだけであった。確かに灯火の明るさを見るにその規模はアントワープと同等か、僅かに大きなものであったのかもしれないが、茫漠と広がる野の闇の中にただ一つ浮かぶ都市の明かりは私には寂しげなものにすら思えた。
とはいえもう都市に住む気はなかった私には、そのようなことは瑣末なことであった。食料となる人間が豊富であることは確かに魅力ではあったが、同時に潜在的な敵となる彼らの群れの中に住むのは私達の正体が万が一明らかになってしまった時には面倒な事態になることは明らかであったし、それに汚物が散らされた悪臭の漂う石畳にも私は辟易していた。
そして私はひなびたイングランドの景色を鳥瞰で眺めながら、ふと遥か昔のこととなってしまった故郷ワラキアでの日々を思い出した。飾り気の無いこの島の眺望は生まれた屋敷の窓の向こうに見えた青草が映える草原の記憶と重なり合い、私は郷愁を覚えた。さすがに今から故郷へと戻ろうなどという気を起こしていたわけではなかったが、以前のように人間達の喧騒から離れた場所に、だが同時に食料の確保に不便がない程度に人間の生息地からは遠くはない場所に住むことができれば、とはおぼろげに考えていた。
そのようにぼんやりと虫の良い考えを浮かべながら飛行を続けていると、私は川沿いのその街からやや離れた木立の中ほどに、不自然に木の途切れた空間があるのを見つけた。その場所の上空まで飛んでゆくと、眼下には建築物らしきものが小さく見えた。夜とはいえまだ人間達が寝静まるほど遅い時刻ではなかったが、周りの都市や村落のように灯火は点ってはいなかった。私は僅かな期待を抱き、その場所へと降下を始めた。
その建物に向けてゆっくりと高度を下ろしていくにつれ、小規模に思えた周囲の木立も本来の広大さを現した。森の闇からは小さく獣の声や夜鳥の歌が聞こえ、人間達の影は辺りに見えるはずもなかった。
八百歩程はありそうな塀に四方を囲まれたその建造物はそれ自身も幅奥行きともに三百歩は優に越えるほどの広さを持ち、塀と建物の間は雑草が無秩序に伸び育っていた。直線の傾斜がついた屋根の合間からは煙突が数本と、大きな文字盤を持った時計台が伸びていた。時計の針や窓枠を除いては、その建物は塀に至るまで全てが赤色のれんがによって造られており、その外観は周りの緑色の植物からなる風景と奇妙な対照をなしていた。時計の文字盤は三時前後を示していたが、それほど夜が更けているはずもなく、装置が作動していないことは明らかだった。
その建物は確かに荒れ果ててはいたが、明らかに人間の、それもある程度の財力を持つであろう者が住む館の外観を呈していた。しかしそれは森林の奥深くに存在するものとしては異様なものであった。建築物の近辺を見渡しても森の外へと通じるような道らしき道は見つからず、まるでその館は人間達から必死に隠れようとしているようにすら思われた。だが隠者の庵としては、それはあまりにも豪華なものであった。
私は玄関の前へと降り立ち、今一度人間達の気配を探ったが、やはり全視聴覚を用いてもそれらしきものは感じられなかった。取手へと手を伸ばし、自らの方へ軽く引くと、鍵や閂に妨害を受けることもなくあまりにも簡単にその扉は開かれた。都合の良すぎる流れに一抹の不安を覚え、腕の中のフランをやや強く抱きしめたが、好奇心に誘われるまま私はその扉の奥へと足を踏み入れた。
全神経を集中させながら私はフランを抱き館の中をゆっくりと歩いたが、案の定屋内にも人間の姿を見つけることは出来なかった。だが人間の手を離れているからといって、館はそれを囲繞する森の獣達のねぐらと化しているわけでもなかった。
かつての主君の居城のように、この館にも窓はそれほど多く取り付けられてはおらず、外に輝く満月の光も屋内にはほとんど差し込んでは来ていなかった。だが僅かに入り込むか弱い月光ですら、外装と同じ素材で造られた壁の暗赤色を反射させるには充分であった。かつてのこの館の主人はこれほどまでにこの建材を愛していたのだろうか、と私は思った。
館には大小合わせて十を越えるほどの部屋があったが、そのいずれも盗人の類に荒らされたような痕跡はなかった。どの部屋も一通りの調度品は揃っており、主人の間だったと思われる大部屋にはこの屋敷の外観に劣らない豪華な寝台や机が備え付けられていた。多少の埃臭さは否めなかったが、どれもまだ充分に実用に堪えうるものであった。
一通りの地上階の観察が終わったところで、私は玄関からは離れた場所にあった地下へと続く階段を見つけた。私は最後の下調べと思い、そこへと足を伸ばした。地下には案の定貯蔵庫が造られていた以外にも、地上階と同様に家具の置かれた地下室も数室設けられていた。だが最も私の気にかかったのは、他の部屋からはやや距離を置いて造られていた奇妙な部屋であった。
その部屋には軽く百冊はあるであろう大量の書物が乱雑に並べられていたが、その多くはこの国のラテン文字とも、また母国のキリル文字とも思えない全く不可解な文字で記述されていた。挿絵も円や三角形、星や月の意匠が組み合わさったものが主であり、私には到底それが何を表しているのかすらも理解できなかった。ごく僅かにラテン語らしき言語で記された本を見つけることはできたが、その文章も「家族を中から歌う」などといった不思議な用語法が多く、十分に意味を解すことは不可能であった。謎は深まるばかりであったが、特に私達に害を与えるとは思えなかったため私は特に何もせずその部屋を後にした。
珍奇な書物はかつての館の主人の所有物であったのだろうが、そのような書物の収集は人気のない場所に奇抜な意匠の大きな館を建てる奇妙な元主人に相応しい趣味だと私には思えた。奇妙な趣味を持つ主人であったが故に、この館も気まぐれでその所有を放棄しても不思議なことはないと私には思えた。これまで見てきた道理から外れた館の様子は、高級な家具や苦労して集めたであろう収集物を残したまま転居をするはずがない、などという常識的な考えを適用するにはそぐわなかった。
とはいえ、私達は虫の良い理想通りの新居を驚くほどの短時間で手にすることができた。どうやら私は、建物を探すことにかけては天賦の才を与えられているようであった。
書物の部屋を出ると、腕の中で眠っていたフランが小さく唸りその目を開けた。
「お姉様、もう魔法は効いたの?引越しは済んだ?何だかちょっと頭も痛いんだけど」
「ええ、ちゃんと成功して新しいお家に着いたわよ。頭痛は魔法の副作用だから我慢して頂戴、すぐに治るから心配しなくてもいいわ」
フランは私の腕から離れ立ち上がると、辺りを見回して私に尋ねた。
「もしかして、この建物が全部私達のお家なの?」
「ええ、そうよ。前のお家と比べると広すぎるかもしれないけど、なかなか悪くはない家じゃないかしら」
「すごいわお姉様、まるで貴族様の住むお屋敷みたいね!」
フランはそう言うと、少しはしゃいだ様子で周囲を駆けまわった。
彼女の「貴族様」という言葉に私は本来の、例え下級であったとしても、支配者階級としての出自の誇りをくすぐられた気がした。身体は異形の者となったとしても、あくまで私の精神はかつての短い人間時代の種々の記憶に囚われているようであった。
「貴族様の住むお屋敷、ね。じゃあそんなとこに住む私達も、貴族の一員って言っていいのかもしれないわね」
私は少し笑いながらそう言った。
「貴族?私とお姉様が?何だか、それも面白いわね」
フランも同じく笑顔でそう言った。
「じゃあ貴族様らしく、私達にも家の名前が欲しいわね。せっかくイングランドに越してきたんだし、家名ぐらいこの国の言葉の名前が欲しいわ。簡単で、それでいて素敵なのが」
「家の名前だなんてますます素敵、どんなのがいいかしら?」
「そうね、私達の大好きな血の赤い色なんてどうかしら?それもすごく新鮮で、いくらでも飲みたくなるような綺麗で鮮やかな真っ赤な色がいいわ。ちょうどこの屋敷の色も赤いしね。そんなイングランド語って知ってる、フラン?」
「うーん。……スカーレット、って言葉がそれかしら」
「スカーレット!いい響きじゃない、気に入ったわ。じゃあ私達の家名はスカーレットね、私レミリアと貴女フランドール、ふたりだけの高貴な一族。悪くないんじゃないかしら?」
「確かに素敵だわ!そんな格好いい名前も持てて、こんな立派なお屋敷に住めて、信じられないわ!」
彼女はまるで祝日の食事を前にした子供のように弾んだ声でそう言った。
「そうね、どうせだし、この館にも名前を付けましょうか。……確かどこかで聞いたことあるけど、イングランド語で『悪魔』は『デビル』で『館』は『マンション』だったわよね?」
私は館の名前の自分なりの妙案が浮かび、そうフランに尋ねた。
「お姉様って珍しい言葉は知ってるのね。確かにそうだけど」
「じゃあこの館の名前は赤い悪魔の館、スカーレットデビルマンション、ってのはどうかしら。これも結構格好いい名前だと思うけど」
「うーん、お姉様……それは何だか、ちょっとダサいと思うわ。それに私達のことを悪魔だなんて、なんだか」
「何よ、いいじゃない、私が気に入ってるんだから。間違っても私達は人間じゃあないんだし」
「まあいいけど……お姉様って名前の感性は微妙ね」
「う、うるさいわよ、黙ってなさい!どうせ名前なんか、他のものと区別が出来ればそれでいいのよ」
「はいはい、分かったわお姉様」
「それと、引越しはしてもフランは地下の部屋から出ちゃ駄目よ。イングランドも外は危ないし、地上には太陽の光があることは変わんないんだから」
それからのイングランドでの私達の日々は全く平穏に、そして驚くほど早く過ぎていった。極稀に森で迷った哀れな人間が自ら館へと犠牲となりに訪れる以外は、私達の住居は人間世界から完全と言って良いほどに隔絶していた。だが血液採取のために人間の居住地をうろつく僅かな時間ですら、人間達の社会を垣間見るには充分であった。
田舎の国とはいえ、この島も戦乱から完全に逃れることはできなかった。一度だけ近隣の街や村を燃やし尽くす程の戦が起こったが、戦火は決して森を越えて館を訪れることはなかった。
街の掲示や道端に落とされた檄文に書かれたイングランド語を慣れないながら読むには、やはりその戦乱も宗派間の争いが一因にあるようであった。だがそれは決して、かつてほどの異端に対する排斥運動といったものではなく、むしろ大義名分のために宗派の旗印を持ちだしたようにすら思えた。
そして戦乱が終わり再び平穏な日々が流れ始めると、その宗教離れはさらに加速していった。人々の帰属意識は宗教宗派、信じる神や解釈による共同体よりも、自らを生んだ国土と文化に傾いていった。規範となるべき思想は旧来の聖典ではなく、「理性」と言う存在に次々と置き換えられていった。
その「理性」の優位と正当性を象徴するように、これまでの数百年の間には全く想像さえ出来なかった物や技術が驚くべき速度で生み出されていった。街々はそれぞれ黒煙を吐く奇妙で巨大な蛇のような乗り物によって結ばれ、草原が広がっていた郊外には同様に黒煙を上げ轟音を立てる巨大な建物が次々と建設されていった。毒々しい煙や生気の感じられないからくりで構成された、かつてとは全く変わってしまったこの島の風景を見て、私はこうとすら思った。もし地獄というものがあり、そこに住むという悪魔が領地を持っていたとしたならば、その地の風景はここと驚くほど似ているのだろうと、そこでは水車や風車の代わりにあの醜悪で巨大な建物があり、車を引く馬は草ではなく火を喰むのであろうと。
周囲の街や村も拡大し、人間の数も驚くほどに増えたが、だからといって私達の食料の確保が楽になることは決して無かった。街は新たに生まれた松明の炎よりも格段にまばゆい光を放つ照明によって夜遅くまで照らされ、それに伴って人間達の行動時間も以前とは比較にならないほどに伸びていった。真夜中ですら街の中心部には灯火の下で騒ぐ人間達が居るような状況で、昔のように気づかれないまま人間の生き血を奪うことは容易ではなかった。建材や薪のためか私達の館を覆う森林も少しずつ伐採されてゆき、じりじりと人間の領域は館へと近づいてきていた。
ある日の夕方、玄関広間から扉を叩く音が響いた。私は久々の食料となるべき迷い人の到来と胸を弾ませ、日光が差し込まない程度に距離を取りつつも、扉の前に立ちこう言った。
「どうぞ、お入りください」
扉が開くと、そこにはこうもりの羽を模したような髪飾りをつけ、尻に妙な黒い紐を立てた茶色の長髪をした妙齢の女性と、ややそれよりも背の低い紫色の長髪をした若い娘が表れた。奇妙な出で立ちだと私は思ったが、新たな技術を用いた人間達の流行なのであろうかと深くは考えなかった。
「あら、貴女方のような女性がたったお二人でわざわざこのような森の奥深くまで訪れるとは。道にお迷いでしょうか?」
私がそう言うと、紫髪の娘がこう答えた。
「いいえ、私達は貴女に会いに来たのよ。吸血鬼のお嬢様」
彼女が唐突に言った「吸血鬼」という言葉に私は慄然とした。何故、この娘はたった今初めて会ったばかりの私の正体を知っているのかという疑問が湧いた。そして同時に、かつて祖国にいた時に一度だけ私のもとに訪れた刺客を思い出した。有無を言わさず理由も無く私の命を狙った刺客達のように、この娘もまた何ゆえか私達の命を狙いに来たのかと長年忘れていた恐怖が私の心の中で小さく芽生えた。
だが娘は私の反応には興味を持つこともなく、素っ気ない様子で言葉を継いだ。
「もちろん、貴女に危害を与えるつもりなんか無いわ。ただこの館にあるというグリムワールを読ませて頂けないかと頼みに来たの」
私は内心動揺しつつも、突如として突拍子もない事を口走るこの娘はおそらく狂人なのであろうと考え、ぶしつけな口調でこう言った。
「何をそちは言いたるや?私はそちに吸血鬼なぞと呼ばれる筋合いはないわ。それにグリムワールなるものも、うちの館にはないはずよ」
そう言うと娘は軽く笑いながらこう言った。
「ごめんなさい、説明が足りなかったわね。グリムワールっていうのは、つまりは魔法の本のことよ。普通の文字以外で書かれてるものが多いから、そういう知識がなければ何を書いてあるのか全く分からないはずだけど、そんな変な本はここにはなかったかしら?」
そして彼女は最後にこう付け足した。
「でも、噂通りかなり長く生きているようね、吸血鬼のお嬢様」
娘の説明で私は地下の部屋に乱雑に積まれていた不可解な書物の存在を思い出したが、同時に彼女のあまりにも常軌から外れた内容の言葉を平然と言う様子に狂人であるという考えは確信に変わった。
「馬鹿なことを言うんじゃないわよ、それにもしその魔法の本があらましかば、そちがいかにせんと申すのだ?」
「魔女として、魔法の研究をするのに必要なのよ」
「魔女?そちは真に奇妙なことを申す、吸血鬼といい魔女といい、そんなのは御伽話の中にこそありけれ。ほら、そこのお姉さんもこの娘に言い給え、そちが気は確かなりや?って」
私が失笑とともに紫髪の娘と妙齢の女性にそう言うと、その娘は意地悪気にほほえみながらこう答えた。
「あら、じゃあ私が間違ってるのかどうか、試してみる?」
「やってみなさい、そちが能うものならばな」
私がそう言い終わると、娘は何やらもごもごと口の中で静かにつぶやき、右手の人差し指を私の方に向けた。その瞬間指の先からは青白い閃光が丸く飛び出してきたかと思うと、私の身体の周りを回転しながら高速で飛び回った。その閃光は私の目の高さまで上昇すると、顔の前ではじけ飛び、虹色の火花を放ちながら消えていった。
眼前で繰り広げられた光景に全く理解が追いつかないままあっけにとられていると、娘は気持ち得意げな様子でこう言った。
「どう、これで私が魔女だって信じてくれたかしら?御伽話から出てきた存在は、何も貴女だけじゃないのよ」
「え、ええ。さすがにこんなもの見せられたら信じるしか無いわ」
明らかに道具も何も持たない手から放たれた光は、人間達の技術の結晶である街の灯のそれとは明らかに異なっていた。
「そういえば、私としたことが無礼なことに自己紹介を忘れてたわ。私はパチュリー、パチュリー・ノーレッジ、そしてこの子は私の使い魔よ。お見知り置きを」
「私はレミリア、よ。このスカーレット家の当主になるわ。こちらこそ」
未だに目の前の光景を半ば信じることができないままでありながらも、自分達と同じ人外に出会えた衝撃に私は満ちあふれていた。
「ところで、使い魔、っていうのは?」
私は耳慣れない言葉をパチュリー・ノーレッジと名乗る娘に尋ねた。
「小間使いみたいなものよ。ただ魔力さえ与えておけばいい分、人間の小間使いよりも便利はいいけどね」
「その娘の名前は?」
「下級の悪魔だからちゃんとした名前も無いわ。まあ私はコアクマ、とでも言ってるけどね」
「悪魔……魔女といい魔法といい、もうなんでもありね」
「あら、吸血鬼がそんなことを言うのね。それより、グリムワールはここにあるのかしら?」
「ええ、多分あれのことだったら、地下にいっぱいあったはずよ。そちを案内するから来なさい」
「えっと、一つ言わせてもらうと貴女の『そち』って二人称と言葉遣い、もう今の世の中じゃ教会の説法か古めかしい演劇ぐらいでしか聞かないわ。今は例え相手のことを尊敬してなくても、例え相手が一人だけでも『貴女』って言うのが普通よ。それに、貴女の三人称も少し古めかしいのが混じってるわよ」
「へえ、言葉まで変えるなんて人間達の世も面倒ね」
私は彼女達を地下の書物部屋へと案内した。地下という温度や湿度の変化が少ない特性が幸いしてか、グリムワールなどという奇妙な書物は数百年の時を経ても紙質の劣化はほとんど見られなかった。パチュリーはその光景を見て予想以上に豊富で良質の収集だと目を輝かせ、私に軽く礼を述べると、どこからか紙と辞書とを持ち出しその魔術書の解読を始めた。ひとたび彼女が書物を読み始めると、意図的か否か、私が声をかけようと眉一つ反応を示すことはなかった。
彼女の使い魔は部屋の扉を開け、部屋から一歩出たところでこちらの方へと振り返り、目と指とで私も外に出るように促した。それに従い私も廊下に出ると、彼女は静かに扉を閉じて気弱な表情と声でこう言った。
「すみません、主人は一度書物に夢中になられるといつもあのように周りのことが見えなくなってしまいまして」
「構わないわ。そんなにそ……貴女の御主人を夢中にさせる本が我が家にあって光栄だわ。それにお客様を対応する準備も出来てなくて、少し申し訳ないのは私の方よ」
私はそう答えて、彼女に質問を投げかけた。
「貴女はコアクマ、って言ったかしら。よくこの館と私の正体が分かったわね。どこでどうやって知ったのかしら?」
「正直なところ、今日いきなり用事も行き先も告げずに主人について来い、と言われたものですから、私には全く分からないのです。ただ今日の外出はその頭と背中の羽も、尻尾も隠す必要はないと言われたので不思議には思っていましたが」
「やっぱり悪魔って言うぐらいだから、その羽も尻尾も飾りじゃないのね」
少し間を置いて、私は質問を付け足した。
「貴女は、私や貴女の御主人みたいな、人間以外の存在にはどのくらい会ったことがあるのかしら?もちろん貴女と同じ種族でも構わないわ」
「何度か主人のサバトに同行させていただいたことがありますので、そこで多少は主人以外の魔女の方とお会いしたことはあります。しかしそれでも、そこでお会いした魔女の方は片手で数えられる程度でしょうか」
彼女は何本か指を折りそう言った。
「サバト?貴女達ってユダヤだったの?」
「いいえ、そう意味ではなく単に魔女達の集まりのことをそう呼ぶのだそうです。もっとも、私がお邪魔させていただいたものはどれも集まりと言うにはあまりに小規模なものでしたが」
「なるほどね、そのサバトに来る魔女ってのはどんな感じだったの?やっぱり婆さん姿だったり、箒に跨ってたりするのかしら?」
悪魔という名称がそぐわないほどに威厳のない彼女の所作に少しばかりの不審と可笑しさを覚え、私は軽く冗談めかしながらそう尋ねた。
「いいえ、どの方も服はもちろん、顔や髪型まで普通の若い人間の女性と変わらない格好をしてらっしゃって、自分から魔女と名乗っても信じてもらえはしないほどです。赤毛の方すらいらっしゃいませんから」
少し黙った後で、彼女は言葉を付け足した。
「ですから、主人の紫色の髪はその中でも目立つのです。お分かりだと思いますが、私達は人間達に目立つことを好みません。にも関わらず人目を引く髪の色を変えない主人は他の魔女の方々にも不思議に思われているようです」
「あら、今の人間達の道具とか、それこそ魔法なんかを使えば髪の色ぐらい簡単に変えられるって思ってたけど、そうじゃないのかしら」
「私もそのようなことを言ったことはあるのですが、主人ははっきりとは答えてくれませんでしたので」
彼女がそう言ったところで、扉の向こうから使い魔を呼ぶ主人の魔女の声が聞こえた。
「すみません、主人の手伝いがありますので、私はこれで」
「分かったわ、色々教えてくれて感謝するわ。食事なんかを振る舞えない代わりと言っては何だけど、帰るときに伝えてくれればこの館ではゆっくりしてくれて構わないわ。それと一つ注意があるんだけど、あの奥の部屋にはなるべく近づかないほうがいいわ。……いえ、近づいても入っても構わないけど、その時はちゃんと私を呼ぶことね。そうミス・ノーレッジにも伝えておいて頂戴。じゃあ私も失礼するから」
私はこの館の唯一の危険、フランの部屋への注意を与えると、私はその場を後にした。
その後私は日課のフランとの退屈しのぎの会話を交わしに彼女の部屋へと向かった。しかしつい先程眼前で起こった魔術の奇跡とそれを起こした珍しい来客のことをその時は話題に挙げはしなかった。フランが誤った興味を持ち、来客に危害を与えることを私は恐れていた。
彼女との会話を終え自室に戻った後でも、今日の出来事を事実として再確認するには未だ時間がかかった。自らとフランという実例があるにも関わらず、人間に酷似した姿を持ちながら人間ではない種族が実在するということに激しい衝撃を受けていた。自分達だけがこの世に実在する人外の存在であると言うこれまでの私の考えは「社会」に対する疎外感をもたらしていたが、同時に私達はそれゆえ他のものとは違う特別な存在であるという矜持にも繋がっていたことは否定できなかった。
衝撃の大部分はその矜持が崩されてしまったことによるものであったが、初めて出会った吸血鬼以外の人外の存在に出会ったことによる感動も同様に私の心を震わせていた。
一体魔女とは、魔法とは、同じ人外という括りだけでは分かるはずもない異なる種族に対する尽きせぬ興味が私の頭にあふれた。使い魔の断片的な情報はそれを解決するどころか、新たな興味を更に引き出したに過ぎなかった。
パチュリーと名乗るあの魔女ともっと話をしてみたいものだ、そう思いながら私は完全に日の沈んだ窓の外の濃い夜霧と薄い雪に覆われた風景を眺めた。
朝の光が窓掛けの隙間からうっすらと差込み始める頃に、パチュリーとその使い魔のふたり組は私の部屋を訪れた。目の周りに深くくまを刻んだパチュリーは椅子に座る私を見るとややかすれた声でこう言った。
「今日は長々とグリムワールを読ませてくれて本当に感謝するわ。貴重な本ばかりで本当に助かったわ」
私は椅子から立ち上がり、彼女にほほえみながらこう答えた。
「貴女の役に立ったのだったら光栄だわ。こう言っては気に障るかもしれないけど、あいにく私にはわけの分からないがらくたみたいな物だったから、上手く使えるひとが見つかって良かったわ」
彼女もその答えにほほえむと、少し申し訳なさ気な声でこう尋ねた。
「それと、一つお願いがあるんだけど」
「何かしら、あのグリムワールを譲ってくれないか、とかかしら?まあ別にそれなら構わないけど」
「いえ、別にそこまでは望んではいないわ。あれだけの書物を持って帰るだなんて面倒だし、隠し場所にも困るわ。ただ、明日以降もここに来てあれを読ませてもらえないか、と思って」
「あら、それくらいなら喜んでお応えするわ。美味しいお酒も豪華な料理も相変わらず用意は出来ないけど、それでも良ければ一向に構わないわ」
そう言った後で私はあることを思いつき、パチュリーにこう尋ねた。
「ところで貴女、どこらへんに住んでるの?」
「……どうしてそんなことを聞くの?」
その質問に彼女は少し顔を歪めた。予想外の反応に私は少し戸惑い、慌てて言葉を付け加えた。
「いえ、もしここから遠いところに住んでるんだったら、この館に通うのも大変でしょう、って思っただけよ。他意はないわ。ここは見ての通り広くて空き部屋も多いし、ひとりふたり増えたところで困ることなんかないから、わざわざ来てもらうよりもうちにしばらくいたほうが貴女達としても都合がいいんじゃないかしら、って思ったのよ。食事なんかはそれこそ用意は出来ないけれど……どうかしら?」
私がそう言うと彼女は安心したような表情を浮かべ、こう答えた。
「寝てる間に私達の血は吸ったりしない、って約束できるならそれこそ喜んで泊まらせていただきたいわ」
「もちろんよ。私が血を吸うのは普通の人間からだけよ」
「有難いわ。で、どの部屋を貸してもらえるのかしら?」
「使い魔に伝えておいた地下室以外なら何処でもいいわ。家具のある部屋ならお好きな処にどうぞ」
「じゃ、書物の部屋の隣の空き部屋がいいわ。すぐに資料が見れるし」
私は彼女達をその部屋へと案内すると、パチュリーは家から少し物を持って来させても良いかと尋ねた。私は構わないと言うと彼女は書き付けを使い魔に渡し、人目に気をつけるようにと言って送り出した。使い魔のコアクマは器用に羽と尻尾を髪や服の中に隠すと私とパチュリーに頭を下げて部屋を出て行った。既に少し眠気を感じていた私は彼女が戻って来られるように館の鍵を開けたままにしておくことを伝え、自室へと戻った。
翌日から、フランの部屋に向かう前にパチュリー達の部屋を訪れることが新たに私の日課に加わった。パチュリーは私達とは違い決して朝に眠り夜に目覚めはせず、多くの人間達のように主に昼間に活動を行う種族のようであった。故に私が彼女の部屋に向かうのは基本的に両者ともに無理なく目覚めている時間帯の夕暮れ時であった。
パチュリーは人外とはいえ私とは違い、決して人間の水準を遥かに超える強靭な肉体を持っているわけではなかった。むしろ時折空咳の軽い発作に悩まされる彼女の体の弱さは、並みの人間をも下回るようにすら思えた。だが肉体の貧弱さとの引き換えか、彼女は豊富な読書量に裏打ちされた幅広い分野に渡る知識を身につけていた。
彼女はグリムワールに限らずあらゆる分野の読書を好んでおり、居室にいる時も常に使い魔に持ち込ませたと思われる大量のグリムワールではない書物のいずれかを読んでいた。それは分厚く大仰な装丁の本であることもあれば、文字と精密な絵とが所狭しと並べられている重ねられた粗悪な紙の束であることもあった。だが居室で読む書物に彼女が没頭することはあまり無いようで、私が声をかけると彼女はすぐに読書を中断し返事をした。
彼女の幅広い見識から生み出される話は、どうしても少し鼻につく衒学の感は否めなかったが、常に私を魅了した。文献や魔法の術式を読み解くのに必要であるためと様々な国や民族の言語にも彼女は精通していた。その範囲は広く、耳にしたことのない遙か極東の国の言葉にまで及んでいた。彼女の使い魔の名前「コアクマ」というのはその極東の島国、「日本」という国の言葉であり、「小さな悪魔」を意味するのであるとも教えてくれた。
またパチュリーは居室で不思議な茶褐色の液体を飲むことを好んでいた。ある時私はその液体について魔法の薬か何かかと尋ねると、彼女は笑ってそのような大それたものではなく、人間達がよく飲む「茶」と呼ばれる飲料であると答えた。試しにと飲ませてもらうと、私の口中には不思議な香りと独特の渋みが広がった。それらの生み出す味わいはさすがに血液には劣るものの、上質な麦酒にも比肩できると思えるほどの素晴らしいものであった。
人間達の趣味も決して悪いものばかりではないものだとパチュリーに言うと、気に入ったのであればいくらでも茶ぐらいなら入れてあげるという返答が戻ってきた。ここに滞在させてもらっている分の宿代としては安すぎるかもしれないが、という彼女の言葉にそのようなことはないがと私は笑って答えた。私が茶を飲み始めたのは、この時からであった。
「それにしても、人の生き血を啜る吸血鬼様がまさかこんな可愛らしい幼子の姿をしてる、って人間達が知ったらどう思うかしらね」
茶が波々と注がれた器を使い魔から受け取りながら、パチュリーはそう言った。
「あら、そんなこと言ったら老いの影すら見えてない若娘が魔女だなんて人間達が知ったら、どうなるかしらね」
熱い茶を少しすすり、口腔内を潤わせた後で私はそう言った。
「多分、自分達の馬鹿らしさにようやく気づくんじゃないかしら。勝手に的外れな虚像を創りあげて、自分達だけで恐れた挙句に、何百年間も魔女狩りなんか言って人間同士殺し合ってたんだから。そうじゃないとしたら想像と違う、なんて言って私が魔女だとは信じようとしないでしょうね」
「何百年間も、ね。そういえば、貴女もそう見えて長く生きてたりするのかしら?」
私はかねてより抱いていた疑問について尋ねた。
「いえ、生憎今のところ実年齢と年格好は人間達と変わらないわ。まあこれ以上歳を取ろうとも思わないけどね」
「取ろうとも思わない、って自殺でもする気?」
「まさか物騒な。ただ魔法で老化を止めるのよ。そんなに難しいことじゃないわ」
「魔法で年齢が自由自在だなんて、羨ましいわね」
私は彼女の胸元の服の膨らみを見てそう言った。彼女は幼いまま時が止まってしまった私とは異なり、望めば子供を宿すことも可能であるのだろうと考えた。
「簡単な魔法の実験ですら人間達の目と法律を気にしなきゃならない面倒な世の中に生きてるんだもの、自分の体ぐらいは好きにさせて欲しいものよ」
「だからその髪の色もそのままにしてる、って?」
私は彼女の使い魔との初めての会話を思い出し、そう尋ねた。
「そうよ。多少ケチ付けられたところで物心付いた時から気に入ってるこの紫の髪はそう変える気にはならないわ」
「物心付いた時からって、小さい頃からそんなに目立つ髪をしてると、色々困ったでしょうに」
「まあ人間達からは気味悪がられたり言いがかりを付けられたり、いい反応を貰ったことはなかったわね。とはいってもこの髪の色だけで私が魔女だなんて疑われたことだけはなかったから、別に構いはしなかったけどね」
「だからといってよく人に嫌われる髪を好きになれるわね」
「蛇や鼠に嫌われたところで、どうって事はないでしょう?それと同じことよ」
「蛇や鼠は私達みたいに言葉を喋ったりしないからね」
彼女の比喩に少し違和感を覚え、私はそう言った。
「喋ったところで大した違いはないわ。どっちにしろ人間なんて私達みたいな力を持ってない、ただ数が多くて厄介なだけの種族なんだから。でもその人間達のおかげで、この髪もより一層魅力的に思えるってものだけどね。私の生まれつきの魔力と同じであんな奴らには絶対持てやしない、選ばれたものにだけ与えられる特権の象徴、って感じでね」
彼女は独特の自慢気な口ぶりでそう言った後、軽く二、三回咳払いをした。
「あら、じゃあ私のこの青い髪も血が飲める特権の象徴なのかしらね」
私は少し笑いながらそう言うと、彼女の言葉を反芻した。
確かに彼女の言う通り、人間というものは私達のような飛行能力や魔力といった特別な力も持たず、ただその生息数だけが徒に多い存在であるということに異論は無かった。加えて私の目にした戦乱や同胞への裏切りといった人間達の行為は、彼らへの悪印象をさらに強めるには充分であった。彼女が人間を蛇や鼠といった到底美しいとは言えない動物に例えるのも、十二分に納得の行く話であった。
だがその比喩に少なからず反発を覚えたのは、短い時間ながらも私の幼少期に人間としての過去があるためであろうかと考えた。幼い頃の経験は人間の一生の性格を形作るものであると言うが、それは人生のさなか種族が変わり、人間の寿命を遥かに超える存在となっても適用されうるのであろうと私は思った。遠い過去の記憶は人間達への拭い去れない歪んだ形の同族意識を私に植え付けており、それゆえ私はすでに吸血鬼となり、人外としての意識を持っているにも関わらず、人間達にやや肩入れをしてしまうところがあるのだろう。
だが彼女は生まれながらにして魔力を持つ、人間とは違った存在である魔女という認識を幼い頃から持っている。それ故に自分とは関係の無い存在の人間を客観的に、そして冷徹に判断することが出来るのであろう。私にはそれが羨ましく思えた。遥か昔の僅かな思い出に縛られる私とは異なり、パチュリーは超自然の存在として確固たる自我を持っている。
「そういえば魔女ってのは魔法の材料に人間の生き血を使うことがある、だなんてのを聞いたことがあるけど、あの噂ってのは本当なのかしら」
私は数秒の沈黙の後で、パチュリーにそう尋ねた。
「私はまだそんな素材を使ったことは無いけど、人間を素材にする魔法の術式や薬なんかはいくらでもあるわ」
彼女は淡々とそう答えた。
「もしそれが必要になったとしたら、やっぱり殺してでもそれを調達するのかしら?」
「肉料理が食べたくなったら、牛や羊を屠殺するでしょう?」
「もしその相手が、年端もいかない小さな子供だとしても?」
「仔牛や仔羊の肉は、成獣の肉よりも美味しいものじゃない」
彼女のその言葉に、私は少し笑ってこう言った。
「やっぱり、パチェって面白いことを言ってくれるわね」
「あら、パチェって私のことかしら?」
「ええ、そのつもりだったけど、もしかして気に触っちゃったかしら」
「いいえ、素敵な響きよ、レミィ」
彼女も笑って、私の言葉に答えた。
ある日例のように私がパチェの部屋を訪れると、彼女は私にささやかな贈り物があると言って私に小さな花束を手渡した。花束には紅色のばらと、葱坊主のような形状をした白い花がそれぞれ数本ずつ入っていた。
「あら、花束だなんて素敵な贈り物じゃない。こう花を見るのはいつぶりかしら」
そう言って顔の前まで花束を持ち上げると、私は妙な芳香を感じ取った。
「でも何かしらこの匂い。この白い花から出てるみたいだけど、せっかくのばらの香りが台無しだわ。一体この花は何なの?」
「にんにくの花よ」
パチェは何故か少し頷きながらそう答えた。
「にんにく、ね。見た目はそれなりに可愛らしいけど匂いは最悪なのね」
「えっと、ばらは大丈夫なの?」
彼女は何かを確かめるような素振りでそう答えた。
「大丈夫ってどういうこと?まあ見たところまだ萎れてもないし良い香りもしてるし、綺麗だと思うけど」
「そうなのね。じゃあちょっとこの鏡を見て貰いたいんだけど」
パチェは小さな手鏡を持ち出すと私の方に差し出した。言われたとおりに鏡面を覗きこむと、そこにはやや怪訝そうな表情を浮かべた彼女の顔が反射していた。
「何?私の顔に何か付いてるの?」
そう言って手鏡を受け取り入念に覗いたが、そこには目やにの汚れすら無い、真っ赤な瞳をした、変わることなく幼いままの私の顔が映っているばかりであった。
「色々とごめんなさいね、最後にこれなんだけど」
パチェはその言葉とともに銀色の十字架をおもむろに取り出し、そのまま私の目の前で揺らし始めた。
「今日のパチェ、何だか不思議なことをするわね。魔法の研究で寝不足なのかしら?」
私のその質問にも答えず、彼女は私にこう尋ねた。
「十字架も大丈夫なの?」
「大丈夫ってどういうことよ?」
「見ても平気なの?嫌な気分になったりしないの?」
「嫌な気分、って何よ。まあ私としては宗教に関しちゃ嫌な思い出には事欠かないけど、ひとの持ってる装飾品に文句言うほどじゃないわ」
彼女の数々の不審な行動に疑念と少しの苛立ちを抱きながら、私はこう言った。
「さっきから一体何なの?何か私の検査でもしてるの?」
「ごめんなさい、小説に書かれてた吸血鬼の特徴が本当かどうか確かめてみたくて色々試させてもらってたの。吸血鬼はばらとかにんにくが嫌いで、鏡に身体が映らなくて、神聖なものを嫌がるって。でもやっぱり人間の考えた設定なんてほとんど嘘だったわ。もっと他にも弱点はあったけど、この調子じゃそれもでたらめでしょうね」
パチェは少し申し訳なさげにそう答えた。
「何よ、こそこそしなくてもそう言ってくれれば別に協力ぐらいしてあげたのに。ところで、小説って何?」
「言ってみれば御伽話の現代版みたいなものよ。作り話の書かれた本のこと。御伽話と一緒で楽しい物語もあれば悲しい物語も、怖い物語も何でもあるわよ」
「その現代の御伽話に吸血鬼が出てた、ってわけね」
「ええ、もう五年前に出た本だけど、それなりに今でも人間達には人気のあるやつにね」
「面白いわね。その吸血鬼が出てる小説ってのはどんな名前が付いてるの?」
「『ドラキュラ』って題名よ」
唐突に放たれた、懐かしくも決して忘れることの出来ない名を耳にして、私は身体に電流が流れるような感覚を覚えた。
「貴女今、その小説の題名をドラキュラって言ったかしら?」
自分の耳をにわかには信じることが出来ず、そう確認した。
「ええ、確かにドラキュラって名前の本よ。まあイングランド語じゃ耳慣れない響きではあるわね」
「それってもしかして人の名前なの?」
「そうよ。よくドラキュラが名前だって分かったわね」
「どういう物語なのか、少し教えてくれないかしら」
私は思わず早口になりながらも、そう尋ねた。
「まあ人間の考えた馬鹿らしい恐怖小説だけど、トランシルヴァニアの貴族で吸血鬼のドラキュラ伯爵がこのロンドンにやってきて、美女の血を吸っていくってお話よ。血を吸われて殺された人も吸血鬼になっちゃうんだけど、結局は大学教授達の一行に伯爵共々殺されちゃうわ。貴族の吸血鬼、ってのが何だかレミィみたいってふとその本を思い出してね」
物語の中のこととはいえ、祖国のかつての主君、ヴラド公の渾名と同じ名を持つ登場人物が自分と同じ吸血鬼であるということに私は少し嬉しさを感じたが、それ以上にその主君の名を持つ吸血鬼が人間達に殺されてしまうという結末に不快感を覚えた。だが私の出会ったヴラド公とは異なる小説の設定に疑問を抱き、パチェにこう尋ねた。
「そのドラキュラ……卿はトランシルヴァニアの貴族なの?その南のワラキアじゃなくて?それに公爵じゃなくて伯爵なの?」
「あら、変なところに興味が行くのね。イングランドにいてワラキアなんて地名を知ってるのは意外だけれど、爵位を気にするのはさすが貴族様といったところね。家格は聞いたことはなかったけど、スカーレット家って侯爵家なのかしら」
彼女は冷笑を浮かべながらそう言った後、言葉を継いだ。
「間違いなくこの小説の吸血鬼、ドラキュラ卿はあくまでトランシルヴァニアの伯爵って設定よ。さっきから妙に興味深く話を聞いてくるけど、何か気になることでもあったの?」
「ええ、もうすごく昔のことになるけど、私、ドラキュラって渾名の人間を知っててね。もしかしたらそれに関係あるのかも、って思って聞いてみただけよ。まさか吸血鬼の名前になってるとはね」
私はそう言ってドラキュラ、祖国の言葉で小さな竜や小さな悪魔といった意味を持つ渾名の主君、ヴラド公を今一度思い出した。彼とともに過ごした期間は決して長くはなかったが、それでも私の記憶に彼の姿を深く彫り込むには充分であった。豊かな漆黒の長髪と口ひげをたくわえ、優美な口調で固く強い信念を語り、全ての身寄りを失った私のような幼子にも貴族の家門の当主であると軽んずる事なく応対した彼は、最高の主君の風格を備えているように当時の私には思えたものであった。
確かにヴラド公は戦乱で混迷する国内をまとめるために非道な手段も使い、それ故ドラキュラなどという不吉な渾名を付けられてはいた。だがそれでも彼は私の目にした人間の中で最も尊敬できる者であった。一国の君主たるもの、時として非情な判断を下さなければいけないということぐらい私にも分かっていた。
そんな彼の名を持つ者が例え御伽話の中であっても、私と同じ種族として描かれているということには同胞としての誇らしさもあり、また決して人間達から好かれることのないであろう存在に落とし込むことへの申し訳の無さもあった。
そのような追憶の断片は、私の口から自ずからあふれ出ていた。
「ヴラド殿下が私と同じ吸血鬼……ドラキュラ卿なんてね……」
「何一人でぶつぶつ言ってるの?ヴラド殿下って?」
パチェは私の独言に疑念を抱いたようであった。
「いえ、ちょっとそのドラキュラに関して思い出すことがあってね」
「ふーんそうなの。何、その本はこの部屋に持ってきてるから、そこまで気になるのなら読んでみたらどう?最後には吸血鬼が死ぬ話だし、不愉快だったら無理に全部読めとは言わないけど」
そう言いながら彼女は背後の本の山を数秒漁ると、黄色い装丁の本を取り出した。表紙には赤文字で飾り気なく、『ドラキュラ、ブラム・ストーカー著』という情報だけがイングランド語で書かれていた。
「もう私は読み終わってるから別に期限は付けないわ。ごゆっくりどうぞ」
そう言ってパチェは私に本を手渡した。
その日の夜中から私は早速その『ドラキュラ』を読み始めた。イングランド語は主にフランとの会話で覚えていったため、口語発音とあまりにも異なる綴りの表記や時代とともに変化した用語法に戸惑いはしたものの、パチェから一緒に借りた字引や彼女の説明にも頼りつつ少しずつ私は久々の読書を進めていった。
新時代の小説はかつての御伽話とは異なり、あらゆる風景や登場人物達の心情が各自の視点で日記の形式を借りうっとおしいまでに細かく書き表されていた。物語はパチェの説明したとおりトランシルヴァニアから始まり、情景描写の中にはカルパティアやモルダヴィアといった懐かしい地名や少し訛った祖国語の単語も所々に見られた。ただ、祖国の言葉はほとんど人間以外の怪物を指す語彙がその多くを占めており、またハンガリーの言語と、祖国を含むルーマニアの言語を混同しているようにも思われた。
ドラキュラ伯爵にロンドンへの引越の手続きを依頼されたイングランド人の法律家は彼の居城へと招かれるが、そこに軟禁され様々な怪奇現象を体験する。法律家はその怪奇現象の元凶はドラキュラ伯であると考え、命からがら彼の居城から抜け出し、ロンドンへと戻る。だがその間にドラキュラ伯もロンドンへとやってきており、法律家の妻の友人女性を襲い、時間をかけて彼女の血を吸い、衰弱死に陥れる。そのさなか彼女の病状を不審に思った人間達は、生物学と呼ばれるらしい生命現象を扱う学問の教授に捜査の協力を頼み、彼はドラキュラ伯が原因だと断定する。死後吸血鬼と化した彼女を人間達は再び殺し、新たに彼の標的となった法律家の妻は何としても守ろうとする。結果人間達は彼女を無事守り切ることに成功し、ドラキュラ伯は故郷へと逃げ帰る。だが人間達は彼を追い、彼はトランシルヴァニアの居城の目前で殺されてしまう。
長い書物にしっかりと目を通すというのは子供の時の授業以来であり、また前述のようにイングランド語の書き言葉に慣れていなかったことも重なって三百頁以上もあるその本を読破するには丸一月近くを要した。だがその話の筋だけを簡単にまとめてしまえば、単にこの程度のものであった。
物語の中のドラキュラ「伯」はトルコ人と戦った一族であるという台詞はあったが、自身をトランシルヴァニア人、そしてハンガリー系であるセーケイ人だと称していた。半ば予め分かっていたようなものであったが、決してその物語は実在の君主としてのヴラド「公」を描いていたわけではなかった。
ドラキュラというその名を題名に冠しているにも関わらず、彼は他の登場人物達と比べて描かれた分量は非常に少なかった。だが僅かな描写のどれも彼は非常に礼節を重んじる紳士として描写されており、それだけは唯一私の記憶の中のヴラド公と一致している部分であった。そしてそこだけが唯一、作品に好感が持つことができた所でもあった。
しかし申し訳程度に紳士的に描かれた吸血鬼像を除けば、その小説はあまりにも下らないものであった。吸血鬼の特徴や弱点の誤謬は情報不足が故の無知であると百歩譲って認めることはできても、作中に描かれた人間達の行為は私には全く納得の行かない不快なものであった。
確かに不用意に獲物の命を奪ってしまうドラキュラ伯も吸血鬼としては愚かなものであったが、それに対する人間達の反応も度を超えているように私には思われた。人間というものは同胞を殺されてしまった時、その殺人者をイングランドから遥か遠く離れたトランシルヴァニアの地まで追跡し復讐を果たさねば気が済まないものなのであろうか。そう考えると私は背中に大きな氷の板を差し込まれたような感覚がした。
それ以上に私が恐ろしく気味悪く感じたことは、その復讐が怨嗟から起こる個人的なものではなく、全人類全社会に必要な絶対的な正義の行為のような文脈で描写されていたことであった。むしろそれは復讐といったものよりも、友人の死を良い口実とした一方的な吸血鬼に対する排斥や粛清といったほうが近いようにすら思われた。登場人物の言動や行動は、ドラキュラ伯の命を奪わねばならない理由というものは女性を殺したからではなく、単に彼が吸血鬼であるからだ、とでも言わんばかりであった。その思想は物語の全編を通して流れる宗教への全幅の信頼感と相まって、私に今一度人間の排他性を思い起こさせた。