Coolier - 新生・東方創想話

運命の愚者・第三部

2014/04/21 21:14:03
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 それまでの経緯はどうであれ、数百年ぶりに持つこととなった小間使いという存在に私は内心喜びを抱いていた。それは新たな労働力が加わり雑事の負担が減ることによるものではなく、ある種の所有欲や独占欲といったような欲望が満たされることによるものであったのだろう。領地こそ無かったが、配下の者を持つことによって私は名実ともに貴族としての立ち位置を手に入れたように思えた。だがその立ち位置を与えてくれた新たな小間使い自体は、私の僅かな期待にすら全く応えないものであった。

 私は館の案内を終え自室に帰ると、メイリンに初めての仕事を与えた。

「じゃ早速だけどメイリン、私にお茶を淹れてくれないかしら。パチェの部屋で茶葉を貰って、さっき教えた台所で入れてきなさい。茶器もそこに置いてあるから」
「はい、分かりました。お嬢様」

数分ほどして、メイリンは茶器を載せた盆を持って戻ってきた。だが両手で持つ盆をしきりにぐらつかせ、載せた茶器を必死に落とすまいと全身で平衡を保とうとするその様子は明らかにそれに不慣れな様子であった。私は慌てて彼女から盆を受け取り、机の上にゆっくりと載せた。

「何だか危なっかしいわね、でもまあ、ありがとう」

そう言って盆の上に視線を落とすと、器の上に受け皿が載せられていることに気がついた。

「メイリン、ソーサーは蓋じゃないのよ。これはこんな風にカップの下に敷くもので……」

そう言いながら受け皿を外すと、器の中には薄い紅色の茶の中に浮かぶ、黒い茶葉の塊が表れた。

「貴女、一体どんなお茶の淹れ方してるのよ!」

私は驚きのあまり思わず声を荒らげた。その反応に当惑したかのように、彼女は慌ててこう言った。
「えっ、ちゃんと器もお湯で温めましたし、淹れるお湯も沸かしてからちゃんと少し冷ましましたよ。一体何がお気に召さなかったのですか?」
「お気に召さないも何も、どうして飲むためのカップでお茶を淹れようと思うのよ。お茶はポットで淹れるものじゃない。それにお湯も冷ましちゃ駄目じゃない、沸かしたての熱いので淹れなきゃ味が落ちちゃうわ」
「そうだったんですか……。申し訳ございません、母国ではそのようにお茶を淹れていましたので……」

 メイリンの反応に悪気が無かったことを察した私は、それ以上彼女を責めようという気を無くした。

「まあ、まだ貴女はこの国に来たばっかりみたいだし、色々教えなきゃいけないことも多いみたいね。次からはちゃんとするのよ」

私はそう言って、器の中のぬるく味気のない茶を飲んだ。

 メイリンの不得手は茶の淹れ方に限らず、あらゆる家事雑事に及んでいた。床の掃除も戸棚の整理も何をやらせても危なげであり、私は日々職務を行う彼女の姿が視界に入るたびに緊張を覚えた。身体能力が高いのか、物を取り落としそうになった時なども彼女は間一髪で持ち直すのが常であったが、その様子は却って私の緊張を余計に張り詰めさせ、また結果として失敗には至らないことで叱責の機会も失わせた。つまるところ私は人間達が言うところの「不良債権」というものを手にしてしまったのかもしれない、とすら思った。

 数週間を過ぎ、彼女の小間使いとしての適性を疑い始めたある日、私はある種残酷とも言えかねない案が浮かび、メイリンにこう尋ねた。

「貴女は見たところ、体も丈夫そうだし運動も得意そうだけど、それには自信があったりするのかしら?」
「はい、一応体を動かすことは得意だと思っていましたが」
「だったら折り入って頼みたいことがあるんだけど」
「何でしょうか、お嬢様」

少しのためらいはあったが、私はこう言った。

「一応私の妹のことは紹介してたでしょう?あの娘の遊び相手になってほしいのよ」
「遊び相手、ですか?ええ、その程度でしたら何の問題もありません。フランドール様のことであれば大丈夫だと思います。折り入って、などとおっしゃられたので少し身構えましたが」

メイリンはほほえみながらそう答えた。

「もちろんそう言ったのには理由があるわ。あの娘はそうは見えないかもしれないけど、恐ろしい力を持ってるのに、それを扱う思慮に欠けてる部分があるの。姉としてはそれが心配でね、ちゃんと私以外のひとと触れ合って色々と学んでほしいのよ」
「ですが学ぶ、と言うとパチュリー様の方がお頭もよろしくて向いているのではないでしょうか?」
「生憎、以前にやってはみたけど、体の弱いパチェにあの娘の相手は無理だったわ。それにそこまで高尚なことを教えるつもりはまだないし、体の丈夫な貴女なら、と思っての頼みなんだけど、大丈夫かしら?」
「ええ、きっと大丈夫だと思いますよ、お嬢様」

深く考える様子もなく、彼女は軽く応じた。

「ありがとう、助かるわ」

私もそれ以上の警告を加えはしなかった。



 私はメイリンを連れて、フランの部屋に向かった。友人をあのような危険な目に遭わせてしまった以上、パチェと初めてフランの部屋を訪れた時のような恐怖はもちろんあったが、その恐怖は以前と比較すれば格段に軽いものであった。それはメイリンの身体能力を信頼するがゆえのことでもあり、また同時に残酷な考えが私の脳裏に存在したがゆえでもあった。私は扉を軽く二回叩き、見えないフランに向かってこう言った。

「フラン、入って大丈夫かしら?」
「構わないわよ、お姉様」

少しくぐもった彼女の声を確認して、私は扉を開き中へと入った。フランは小椅子に腰掛け、私が又貸ししたパチェの本に目を通していた。

「お姉様、この本って面白いわね。時計とか手袋を持ってて喋るうさぎさんなんて本当にいるのかしら」

視線を本に集中させたまま、フランはその感想を述べた。

「さあ、世界は広いんだし、何処かしらにはいるかもしれないわね。でもまあ、そんなにその本が面白かったんだったら、ちゃんと貸してくれたパチェにもお礼を言っておかないとね」
「そうね……。私はあんなことしちゃったから、それはお姉様から頼むわ」

静かにそう言った後で視線を上げると、私の横に立つメイリンの姿に彼女は気が付いたようであった。

「お姉様、その女のひとって確か……」
「ええ、新しく来た小間使いのメイリンよ」

私がそう言うと、メイリンはフランにお辞儀をした。

「フランにもちゃんと詳しい紹介をしようと思って、連れてきたのよ。中国っていう遠い国から来たらしいから、色々話を聞いたら、面白いことも聞かせてくれるんじゃないかしら」
 フランは小椅子に座ったまま簡単な自己紹介と挨拶を済ませると、生来の好奇心でメイリンを質問攻めにした。彼女の祖国の場所やその気候や風土、生息する動植物やその様子、その国の言葉や何故そのような遠い国からやってきたのか、姉の友人ではないのか、どうして小間使いとなることとなったのか、そして外の様子はどうなっていたのか等、私が彼女に聞いたことから興味の及びもしなかったことまでフランは詳細に尋ねた。私はその会話のさなか、久々に妹が屈託のない笑顔を浮かべているのを見て取った。

 他者と会わせること自体は彼女にとって望ましいものである、という考えは間違いではなかったと自分に言い聞かせながら、私は危険で残酷な最後の賭けをするために椅子から立ち上がり、こう言った。

「話が盛り上がってるところで悪いけど、私は外で血を採って来なきゃいけないから、その間フランはメイリンと一緒にいい子でお留守番してなさい。じゃあメイリンも、頼んだわよ」

 私はフランに他者を傷つけることも殺すこともなく、「正しく」接することの機会を最後にもう一度与えようと思った。メイリンにその役を頼んだのは彼女に説明したように身体能力の高い彼女であれば危険は未然に回避することが出来るだろうと考えてのことはもちろんあった。だが同時に、もし彼女が命を失ってしまうことになったとしてもそれは出来の悪く心の奥に反抗心を秘めた使い勝手の悪い小間使いを体よく処分する都合の良い結果となり、その時フランの前で彼女の死を殊更大袈裟に嘆き悲しみでもすればそれは他者の生命の尊さを教えるこれ以上とない教材となるであろう、という恐ろしい残酷な考えも僅かに思考の片隅に存在していた。

 部屋の扉の取手を掴んだ瞬間にその考えが今一度脳裏に色濃く浮かび、私は着手しようとしている行為の恐ろしさに軽く身震いをした。だがフランのメイリンと話している時に見せた朗らかな笑顔も脳裏に優しく浮かんだ。私は数秒ほど立ちすくんだ後、彼女を信じる決心を固めた。

「フラン、ちゃんと貴族の女の子らしく、いい子にしてるのよ」

最後に私はそう付け足すと、彼女の部屋を後にした。



 私はいつもの様に、イーストエンドと名付けられているという闇に覆われた地区へと血液の採取に向かった。パチェの忠告も充分に承知していたが、それでもやはり郊外よりも市内の方が食料の確保に適していたのは確かであったし、その中でも最も暗く、最も人通りのまばらなその場所は不利な他の条件を斟酌しても狩場としては最適解だった。空には満月の翌日の明るい月が輝き、暗い入り組んだ路地裏を静かに照らし出していた。少しだけ春が近づき暖かさを含み始めた夜風が吹いても、この場所ではただいたずらに不衛生な瘴気を舞い上がらせるだけであった。

 私は上空から一人横たわる一人の中年の男を見つけ、人影がないことを確認するとその近くへと降り立った。彼は黒くくすんだぼろきれのような外套に身を包み、高らかにいびきを立てながらぬめった石畳を枕に眠っていた。寝息からは男のすえた体臭に混じって、色濃い酒の香りが漂っていた。私は服をかき分け男の首の辺りを露わにすると、静かにそこへと牙を突き立てた。充分量の血を飲み終えた後、フランと貯蔵のための血液の採取を始めた。外套の懐から瓶を取り出すと、私はその瓶口を自らの口に当て、口腔から溢れる血液をその中に収めた。

 私がそのような一連の行為をしている間も男は目を覚ますこともなく、大いびきを立てながら幸せそうに眠りこけていた。私は吸血を数百年続けているが、眠る人間をその行為によって目覚めさせたことは一度も無い。パチェの話では南国や東洋には人に痛みを覚えさせることなくその血を吸う蚊という小さな虫がいるということであったが、私のような吸血鬼もそれらと似たような仕組みを持っているのだろうか、とその時考えていた。

 私は血液の確保を終え、帰途へ就こうと立ち上がった。だがその時背後に足音が近づき、月光で形作られた影がこちらに伸びてくるのを感じ取った。思わず振り返った私の目に飛び込んできたその者の姿を、私は忘れることはないだろう。

 私より少し大きい程度の彼女の体躯は他の貧民達と変わらない薄汚れた服に包まれていたが、その肌は生きた人間のものとは思えないほど青白く、頭はまるで老婆のような白髪に覆われ、双眸には私のような真っ赤な瞳が月の光を反射させていた。その者は体格と顔つきから判断するならば、十代半ばを決して超えないであろう年の人間の少女であるはずであった。だがあまりにも異常なその風貌に私は呆然とし、自身の正体を見た人間に対して行うべき処分すらも忘れたまま、彼女の姿をぼんやりと見つめていた。その少女も私の姿にしばらく呆然としていたが、突如として眼を今一度見開くと、憤怒と憎悪、そして殺意すら込められた表情で私を見つめ、ゆっくりとこちらに歩いてきた。

 私はその時吸血鬼となって初めて、言いようもない底知れぬ恐怖を感じた。冷静に考えれば彼女がただの武器も持たぬ人間の小娘であれば私に危害を加える事など出来ないはずであったが、彼女の形相と深紅の眼球はそういった論理を超えた、本能的ともいえる畏怖を私に引き起こした。それは初めて私に向けられた、恐怖心の混じることのない純粋な敵意によって引き起こされたものであったのだろう。一瞬ではあるがその時、私は自然の摂理の中で獲物となるべき草を喰む動物達の心情が理解出来た気がした。大慌てで私は血液の詰まった瓶を懐に収めると、ぬかるむ地面を蹴って空へと飛び上がった。

 飛び帰る道中も、私は何度も後ろを振り返った。無事に館へと辿り着き、玄関の扉を閉めた後も私の心臓は強い拍動を刻んでいた。髪の生え際からは妙に冷ややかな汗が頬を伝って流れ、肩を揺らす呼吸もしばらく止むことはなかった。半ば忘れていた、メイリンが訪れる直前、新聞の記事を読んだ時に覚えた不幸の未来への直感が彼女の面貌に重ねて感じられた。私は扉に背中を預け、足の力が抜けて行くままに床へと座り込んだ。

 もしかすると彼女こそが、この島国での生活を終わらせる「運命」そのものなのではないかという考えが私の頭に浮かび、恐ろしい彼女の姿と相まって破滅の未来に対する恐怖をさらに強めた。しかしもしそうであったとしても、彼女を無力化する絶好の機会を逃してしまった以上、もうどうしようもないことであった。むしろ決して変えることのできない運命の具現化であるからこそ、私は彼女に危害を与えようという気すら起こらなかったのだろうかとすら思った。「運命の淑女」は、慈愛に満ちた笑顔を浮かべはしなかった。

 私は無為と静寂に耐え切れず立ち上がった。その時、フランの部屋に遊び相手の名目でひとり残してきたメイリンのことを思い出した。運命とは異なった別の恐怖が私の頭に浮かんだが、却ってそれは好都合であった。激しい頭痛が生じた際に頭を何かに打ち付けることで本来の痛みを忘れさせようとするように、私は正体の見えない茫漠とした恐怖を身近な恐怖でかき消そうとした。



 フランの部屋の前に着くと、ひとりで何かを読み上げるような彼女の声が聞こえた。

「……こう叫びました。『その女の首をはねてしまいなさい!』」

言葉の過激さに私は思わず慄然とし、扉の取手に伸ばす手を止め、今一度扉の向こうの声に耳をそばだてた。

「『馬鹿げてるわ!』、とアリスがきっぱりと大きな声で言うと、女王様は黙り込みました」

恐ろしい台詞は単に本を朗読しているようであったが、部屋の中からは彼女の声以外の音は聞こえはしなかった。私は覚悟を決めると、静かに扉を開いた。

「王様はその手を女王様の腕に乗せると、おずおずした様子で言いました。『なあお前よ、よく考えておくれ、この娘はほんの子供じゃないか!』」

フランがそう言った直後、別の声が私に呼びかけた。

「あら、お嬢様、お帰りでしたか」

その言葉に驚き視線を上げると、椅子に腰掛けたメイリンの膝にフランが座って本を広げている光景が私の目に入った。

「あ、お姉様、お帰りなさい!」

フランはそう言って本を置くと私の下へと走り寄った。

「ノックがないからちょっとびっくりしちゃったわ。お姉様の言う通り、ちゃんといい子にしてたわよ。メイリンがまだこの国の言葉に自信が無いって言ってたから、本を読んであげてたの。……私もちょっとわからない言葉があったけどね」

彼女は最後の言葉を小声で言うと、私に笑顔を見せた。彼女の後ろでメイリンが私の方に近づいてきたのを認めると、私はフランに部屋で読書を続けるように言い、メイリンを部屋の外へと連れ出した。

 「私がいない間、何も無かったの?」

私は少しの驚きとともに彼女にそう尋ねた。

「ええ、フランドール様もとても朗らかないい子でしたよ。さすがお嬢様の妹様ですね」
「体に触られたりなんかしなかったの?」

そう恐る恐る聞くと、メイリンはほほえみを浮かべて答えた。

「お嬢様、変な言い方をしますね。とりあえず、一緒に手遊びなどはしましたけれども」
「それで……大丈夫だったの?傷とかできなかったの?」

私は彼女の両手を手に取り、じっくりと観察した。

「ですから大丈夫ですよ。この通り、私にもフランドール様にも、何の問題もありませんでしたし、お嬢様って本当に心配症なんですね」

メイリンは少し声を出して笑いながらそう言った。私も彼女が五体満足であることを確認すると、笑顔で彼女にこう言った。

「本当に無事みたいね、良かったわ。ちゃんとフランの相手をしてくれて助かったわ、これからもお願いするかもしれないけど、その時もよろしくね。今日はありがとう。じゃあ、この血をいつもの場所に置いてきてくれないかしら」
「はい、喜んで」
「ああ、そうよ、置いてきたその後にお茶を淹れてフランの部屋に持って来てくれないかしら。私と、フランと、貴女の分で、カップは三つ頼むわ」
「私の分も、ご一緒でよろしいのですか?」
「ええ、今日はちゃんと仕事をしてくれたから、そのご褒美よ」

彼女は感謝の言葉を述べながら笑顔で頭を下げると、小走りで台所へと向かった。

 部屋の中に戻ると、フランが私に話しかけた。

「お姉様、一体何の話をしてたの?」
「何でもない、ただの普通のお話よ。でもメイリンがフランのことを褒めてたわよ、いい子だったってね」
「もちろんよ、ちゃんと私は言われたことは守るもの」

そう言って彼女は可愛らしい笑顔を浮かべた。その幸せそうな表情を見て、私の心の中にも清々しい喜びが満ちあふれた。

 喜びが生まれた瞬間、それまでの恐怖が姿を消し、隠そうとしていたもう一つの茫漠とした恐怖が再び表れた。路上で目にした少女の顔とそこに浮かぶ破滅の運命の予感が、再び私の脳裏に浮かんだ。むしろそれまでの恐怖の種が幸福に転じたことで、却って襲い来るであろう不幸が増大することに戦慄を覚えた。フランの笑顔が、白い光に溶けてゆくような感覚を覚えた。
「どうかしたの?お姉様」

私の顔を見て、フランはそう尋ねた。

「いいえ、何でもないわ。そんなことよりも、メイリンがお茶を淹れてきてくれるから、その準備をしときましょう」



 フランとメイリンを交えての談笑も、私の恐怖を消すことはできなかった。だが彼女達と離れ、私ひとりで恐怖に耐えるほうが何倍も困難だろうということは分かっていた。私はフランが眠気を覚える夜明け前まで、彼女達のいる部屋から離れようとはしなかった。自室に戻り寝台に体を横たえても、そのような状況では当然眠れるはずもなかった。必死にまぶたを閉じても、赤い眼球だけが生気のない青白い顔に輝く少女がその裏に浮かんだ。窓掛け越しに強い日光が差し込む時刻になっても、私には睡魔の影すら近づきはしなかった。私は寝台から起き上がると、部屋の扉を開き、地下へと向かった。

 私はパチェの部屋の扉を叩き、中へと入った。彼女の使い魔は少し驚いた顔をしたが、いつもの様に茶を淹れると小机の上に器を置き、椅子を引いて私の席を確保した。

「あら、こんな時間に来るだなんて珍しいわね」

レミィは厚い本を閉じると、私の方を見てそう言った。

「ええ、少し眠れなくてね」

私はそう言って、用意された茶を口中に流し込んだ。

「茶に入ってるカフェインは目を余計覚ますわよ」
「いいのよ、どうせ眠れそうにないし、飲んだほうが落ち着けるわ」

私の顔を今一度彼女は覗きこむと、こう言った。

「その様子だと、何か不安なことがあるようね」
「ええ、少しね」

私はしばらく口をつぐんだ後、言葉を継いだ。

「ねえ、パチェってあのイーストエンド、ってとこの生まれだったわよね?」
「それがどうかしたの?」

険しい顔でパチェはそう答えた。

「貴女以外にあの場所に人間じゃない者が住んでるのか、って気になってね」
「さあ、どうかしらね」
「どうかしら、じゃなくているかいないかを知りたいの」

私は少し語気を強めた。

「だから分からないわ、そもそもそこに住んでたからって言って何でも分かってるわけじゃないしね。少なくとも私は見聞きしたことはないけど、貴女みたいにひっそりと暮らしてる可能性は否定出来ないわ」
「じゃあ白髪で目が赤い、十代半ばぐらいの背恰好の女の子については知らないかしら?そうじゃなくても、そんな見た目の怪物がいる、なんてことは?」
「さあ、どっちも聞いたことないわ」
「じゃあせめて吸血鬼とか魔女に心の底から、それも殺したいほどに、恨みを持ってる誰かがいる、ってのは?」
「馬鹿らしい話ね、そもそも私達の存在なんか本気で信じられちゃいないじゃない。もし吸血鬼の天敵、なんてものがいるんだったら、私より貴女のほうが詳しいでしょう。少なくとも魔女に関しては人間以外、そういうのは知らないわ」

鼻で笑いながらパチェはそう言った後、こう尋ねた。

「で、その下らないことがレミィの不安の種だっていうの?」

 彼女の言葉に私は少し反感を覚えたが、確かに客観的に見れば下らないことなのであろうと苦笑いを浮かべ、正直に打ち明けた。

「ええ、実は昨日そこに血を採りに行った時に、その赤い目で髪の白い、生気のない肌をした女の子に私の姿を見られてね」
「またあんなとこ行ってたの。でもそんなこと、貴女ぐらい長く生きてればこれまで何度もあったことなんじゃないの」

パチェは口角を上げながらそう言うと、茶で口を潤した。

「確かにそうなんだけど、あの娘の様子は他の人間とは違ってたわ。赤い目と白髪と生気のない肌の、恐ろしい外見もそうだし、……恐怖心の無い、剥き出しの敵意を向けられたのはあれが初めてだったわ」

パチェは私の言葉を聞くと震える手で器を机に置き、笑いを堪え切れない様子でこう言った。

「で、初めてそんな人間に会ったから怖くて眠れなくなった、ってこと?レミィって可愛いとこあるわね」

彼女はそう言うと声を上げて笑い始めた。

「世の中にはアルビノ、って全身の色素が無くなる症状があってね、その体質の人間は髪も肌も真っ白になって、瞳は後ろに流れる血の色で赤くなるの。ちょうど白うさぎの体毛とか目の仕組みと同じよ。確かに珍しいけど、私達みたいな存在とは違ってちょっと教養のある人間なら誰しも仕組みまで知ってる、人の世に認められたものよ。敵意を向けられた、ってのもきっと慌てた貴女の勘違いでしょ。そうじゃないとしても、ただの気違いだから気にする必要なんかないわ。そんな奴はあそこにゴロゴロいるもの。まあでもこれに懲りたら、もうあんなとこ行かないことね」

 確かに彼女が大笑いするのも無理は無いと私は思った。数百年を生き、人智を超えた力を持つ怪物が、偶然出会った少女の姿を見て眠れないほど怯えるという事実だけを見れば、それはさぞ滑稽なものであることに違いはなかった。もし立場が代わり、パチェが外で出会った何者かの容姿が恐ろしく眠れないと私の部屋を訪れたとしても、私は彼女と同様に高笑いで迎えたことだろう。私の説明から導き出される結論は、決して子供じみた恐怖を覚えたに過ぎない以上のものにはならないということは分かっていた。

 苦笑を浮かべながら彼女を見つめ、笑い声とそれに続く空咳が収まった後で私はゆっくりと口を開いた。

「また貴女を笑わせることを言うかもしれないけど、私は至って本気よ。その娘に恐怖を感じたのは、何もその、アルビノだかニヴェノだか知らないけど、そんな症状のせいだけじゃないわ。私はあの娘に、何か恐ろしい、とてつもない不幸をもたらすような、そんな、言葉でうまく表せないけど、そういう感じを覚えたのよ」

パチェはどうせ信じはしないだろうと内心思いながらも、私はそう言った。

「とてつもない不幸をもたらすような、って一体何よ」

顔をほころばせたまま、パチェはそう尋ねた。

「わからないわ、でも前にもこんな感じがした時があったの。そしてこの感覚を覚えた時は、予感の通りに、それが襲いかかったわ」
「それが怖いの?その不幸が自分に襲いかかるのが?」
「そうじゃないわ、その不幸は私には襲いかからないの。いつも私の大事な人を、私の親や主君を襲ったわ。その命を引き換えにしてね。だから私が怖いのは、その娘が貴女や貴女の使い魔、フランやメイリンを襲いはしないのか、ってことなのよ。私はどうなっても構わないわ、ただ貴女達が心配なの」

私がそう言うと、彼女の顔から笑顔が少し消えた。

「あら、心配してもらってありがたいわね。でもそれは貴女の、単なる予感に過ぎないんでしょう?その女の子が貴女に敵意を持ってた、っていうのと同じくらい、貴女の主観的なものじゃない。客観的なものがないなら、それは迷信と変わらないわ」
「あら、魔法なんてものを使う貴女がそんなこと言うのね」
「ええ、魔法はちゃんと同じ呪文や儀式で同じ結果が出せる、客観的なものよ。少なくとも私の術式ではね。ただ私達以外は持たない、魔力って要素が不可欠なだけよ。でも貴女の予感、だなんて他のひとに証明できるの?そうじゃないなら、それは迷信よ」
「もちろん証明なんか出来ないし、貴女には迷信かもしれないけど、私にはそうは思えないの。その予感はその……まるで避けられない……運命、みたいに私は思えるの」

イングランド語であっても相変わらず、「運命」という言葉を発音した時に私の背中には寒気が走った。

「死の運命だなんて、まあカサンドラごっこをするのは貴女の勝手だけど」

茶を口に含んだ後で、パチェはそう言った。

「ごっこで終わらせたいのなら、ちゃんと貴女達もその娘に警戒はしててよ。もし出会ったりなんかしても、すぐに逃げて頂戴。取り越し苦労で終わるなら、それ以上に私の望むことはないんだから」
「貴女と一緒で、ちゃんと私も人間たちには目立たないようにしてるし、大丈夫よ。血液採取だ何だので人間達に近づく機会がない分、貴女より安全かもしれないわ」

彼女はそう言って、言葉を継いだ。

「それとレミィ、昔の中国にもしかしたら天が落ちてくるんじゃないか、って心配した人がいたそうよ。きっと貴女も、カサンドラなんかじゃなくて、その人なんじゃないかしら」
「私も、そうであることを望むばかりよ」

そう答えて、私は器の茶を飲み干した。

 その後は彼女との会話はあまり続かず、パチェが分厚い魔導書を辞書とともに開くと状況を察し、私は別れの挨拶と最後の注意を言って部屋を後にした。



 その後自室に戻ると、私はメイリンを起こして茶を淹れさせた。少なくとも茶を飲んでいれば、多少の不安は和らぐ気がした。窓掛けから漏れる日差しの黄色と赤色が濃くなり、その光が伸び始めた頃にようやく私の下に眠気が訪れた。私は服も着替えずに、睡魔が導くまま寝台の中に身をねじ込んだ。

 その晩、久々に私は記憶に色濃く残る夢を見た。

 昼間の広い、青草の茂る平原で私は鎖を編んだ甲冑を着込み左腰に剣を帯び馬に跨っていた。夢でよくあることのように、その地が故郷ワラキアだということは不思議と何の説明もなく分かっており、また太陽の光溢れる屋外に何の対策もせず無事に立てていることは不自然には思わなかった。周りを見渡すと背後に同様に武装した兵士達が整列して立ち並び、来るべき敵へと備えているのが見てとれ、左にはかつての主君、ヴラド公が同様に甲冑を着て馬に乗っていた。彼は私の顔を見ると、口も動かさず静かに剣を抜き、馬首の向く方向へと何か示すようにそれを振りかざした。剣の先には、先程まで影も見えていなかった敵兵の大群が現れていた。彼はその武器を頭上高く掲げると、馬を駆って敵の群れへと突撃を始め、兵士達もそれに従った。私も剣を抜き、いつの間にか目前へと迫っていた敵兵達の間を駆けながら彼等を斬り続けた。だが物量に押され友軍は倒れてゆき、気が付くと戦場に残った味方は主君ヴラド公のただ一騎のみになっていた。彼は私に目で合図をすると、血路を切り開きながら退却を始めた。彼に従い私も逃げていくうちに、次第に鬱蒼とした森のなかへと入っていることに気が付いた。視線を上げるとそこにはこの館が見え、私は安心して中へと入り、同時に主君を招き入れた。

「ここまで来れば、もう安全でしょう」

私がそう言うと、少しくぐもった主君の声が答えた。

「だが、この近くには『緋色の悪魔の館』という怪物が住むとかいう館があるということを聞いたが、大丈夫だろうか」

私はその時戯れで付けていた館の名前を思い出し、笑いながら答えた。

「ええ、その『緋色の悪魔の館』というのは私の住むこの館のことですよ。でもご安心ください。私は決して、主君を裏切る叛臣ではございませんから」

だがその時、突如としてそれまでの会話相手とは全く声色の違う、高く震えた声が答えた。

「そう、悪魔、というのはお前だったのね」

その声に驚きヴラド公の方へと振り返ると、そこには昨晩目にした白髪の少女が恐ろしい目で私を睨みつけていた。



 夢はそこで終わった。日はとうに暮れ、穏やかな闇が部屋中に満ちていた。寝台から抜け出すと、私は机の上に残していた急須から時間が経ち濃く出すぎた茶を器に移し、一気に飲み干した。額の冷汗を拭いながら、夢の中ですらも私は彼女の影に怯えているのかと私は苦笑いを浮かべた。そして妙に生々しく脳裏にこびりつく夢のその内容に、私は今一度思いを巡らせた。

 故郷とかつての主君を夢に見たのはしばらく前にパチェに借りた「ドラキュラ」という小説を読んだせいであったのだろうか、ではどうして読んだ直後ではなく今その夢を見たのであろうか。運命に対する恐怖のあまり、無意識のうちに心休まる故郷と敬愛する主君を思い描いたのであろうか。だがそうであれば何故、その心酔し館にまで招き入れる主君が私の恐れる少女に変貌したのであろうか。自分でも半ば忘れていた、悪魔という言葉の入った館の名前が夢の中で語られたのは何故だったのか、自らの中に未だ残る、人間としての甘さを払拭しようと突発的に付けた名前が今更ながらに思い出された理由とは?

 もしや、彼女に繋がる何者かは既にこの館の内に、同胞として心を許し迎え入れた者達の内にあり、その者を「悪魔」らしい冷酷さで予め始末してしまえ、そのような夢の啓示なのではないだろうか。そういった狂気に満ちた考えが、にわかに脳裏に浮かんだ。

 人外の同胞として、まず私の頭に浮かんだのはパチェとメイリンのふたりであった。両者ともに何処からか、何者にも知られていないはずのこの館を訪れ私の信任を得て住み着いていた。ここの情報を掴もうと思えば、いくらでも手にすることができる立場に彼女達はおり、それを流すことも容易ではあった。

 しかしながら合理的に考えて、わざわざ外部の者にこの館を知らせる必要性など見つかりはしなかった。人間やその社会に自らの存在と住処を知られることは館の人外の居住者誰もが望まぬことであった。もしここに住む誰かに敵意があるとしても、これまでに自ら手を下す機会は何度もあったはずであり、危険を犯してまで他者の手を借りることなど、どんな愚者であろうと計画するはずのないことであった。

 だとすればその繋がりが彼女たちに全くの悪意が無いものであるとしたら、何も知らぬ魔女や東洋の神を通して、吸血鬼の私やフランに近づき、破滅させることを目的とした何者かがいるとすれば?その考えが浮かんだ時、私はパチェと初めて出会った時の言葉を思い出した。彼女は間違いなく、私のことを吸血鬼だと知っており、そして「噂通り」という言葉を呟いていた。パチェはその噂の出所は一体どこから得たのであろうか、そしてもしその「噂」を伝えた者が彼女を自覚のない尖兵としてこの館に送り込んだとするのであれば?その尖兵の連絡を断ってしまうことで、被害を最小限に食い止めることは出来るのではないだろうか。しかしもしそうであったとしても、それが彼女を始末する理由になるのであろうか、長い寿命の中で初めて出会うことのできた、生まれながらに同等の立場と視点を持つ人外の同胞の友を……殺してしまう理由には?

 そもそも「運命」に失わせたくはない、大切なひとであるはずのパチェやメイリンを自らの手に掛けようなどと考えている時点で偏執的な思考に陥っているということは僅かながらに自覚していた。だがこれまでに覚えもしない途方も無い恐怖は私を立ち上がらせ、ゆっくりと扉の外へと向かわせた。



 地下のパチェとその使い魔が眠る部屋の扉を小さく開け、その内部を私は窺った。乱雑に書物が散らされた室内で、使い魔は布を掛けた木の長椅子の上で横になって毛布にくるまり、パチェは奥の寝台に背をこちら側に向けて眠っていた。ふたりの規則的な静かな寝息以外は、何の物音もそこからは聞こえてこなかった。私は息を殺し、余計な音を立てぬよう足元の本や家具に細心の注意を払いながら彼女の寝台のそばへと歩んでいった。

 私の手が届くほどの距離まで近づいても、パチェは相変わらず穏やかに眠っていた。長い紫色の髪は彼女のこめかみを伝い、耳の下で顎と背中の方向にその流れを分けていた。そしてその二つの紫の小川の間からはまるで中洲のように、色白の彼女の首が浮かび上がっていた。数秒ごとに呼吸による収縮を繰り返すその器官は小さな私の掌ですら簡単に包み込めそうなほどか細かった。ここを私の力で握りつぶしてしまえば、人間の男を殺すよりも遥かに容易に始末してしまうことは出来るのだろう。そう考え私は口中の僅かな唾を飲み込み、右手を緩やかに伸ばし始めた。

 細くなめらかな直毛が私の指に絡みついた。静かに払いのけると、それは殆ど何の抵抗も示すこと無く私の手に従い、ほんの少し隠していた首を露わにした。彼女の首に触れようとした時、私は手が震え血の気を失い冷たくなっていることに気が付いた。異常な精神の下でも、自身の着手しようとしている行為の重大性は十分自覚していた。だがそれ以上に私の思考を支配していたのは茫漠とした運命に対しての恐怖と、偏執的な仮説から導かれた潜在的な生活の破壊者と繋がりうる者を排除しなければならないという観念であった。たとえ始末しようとしている者が一度は気を許した同胞であったとしても、この娘を殺しさえすれば、私の他の親類を失わせこの生活を脅かすものはいなくなるのだ、そう自分に言い聞かせながら私はいつの間にか止まっていた手を再び伸ばし始めた。

 か細い首筋に私の手のひらが触れた瞬間、柔らかな彼女の体温が右手全体にゆっくりと広がっていった。指の腹に触れた薄い皮膚の向こう側で、温かい血液が規則正しくゆるやかに流れていくのを感じた。だがそれと同時に、彼女は小さく高い声で叫び声を上げ、体を小さく寝台の上で跳ね上げた。私は驚き手を離し、後方へと数歩仰け反った。彼女から離れ思考に空白が生まれた瞬間、つい直前まで自分が行おうとしていた行為のあまりの恐ろしさと愚かさをようやく自覚した。パチェは慌てた様子で何かを呟き右手の指を鳴らすと白く輝く光球をその手の上に創りだし、周りを照らしながら見回した。大きく目を見開いたままの彼女と視線が合った瞬間、私は彼女とのこれまで組み上げてきた友人としての信頼関係を失うことを覚悟した。一体何者が、自らを殺めようとしたものと親しい関係を築き維持していこうなどと考えるのであろうか。私は愚かな予感と偏執に従い愚行を犯したことに激しい後悔を覚えた。



 だがパチェは私の顔を見つめるとその表情を緩め、心から安心した調子の声でこう言った。

「あらレミィ、貴女だったの。こんな夜中にいきなりだったからびっくりしちゃったわ」
「え、あの……ごめんなさい、本当に、心から謝るわ、どうか、この私を許してくれないかしら」

錯乱と狂気の結果による悔恨の感情に満たされていた私は、彼女の言葉をよく飲み込まないまま突発的に懺悔の言葉を口走った。

「何よ大げさな謝り方ね、別に私は司祭なんかじゃないわよ。まあ出来ることだったら、次からは私達の寝てる時には来ないように頼むわ。それといくら家主様でも部屋に入るときはノックぐらいしてくれるとありがたいわ」
「ええ、本当に、ごめんなさい」

パチェのあまりの寛大な反応に私はより一層の羞恥を覚え、今一度謝罪の言葉を重ねた。彼女は私の言葉に軽く笑うと、こう言った。

「で、こんな夜中に一体何かあったの?まだアルビノの女の子が怖いのかしら?」
「ええ、そう……、なんだけど、それだけじゃないわ。貴女に……聞きたいことがあってね」

未だ収まらぬ気味の悪い鼓動を感じながら、私はこの部屋へと訪れた本来の気違いじみた理由を隠し、震える声でそう言った。

「何のこと?イーストエンドのことならもう私からはあれ以上の情報はないわよ」
「いえ……、そうじゃないの。どうやってパチェはこの館の場所が分かったのか、気になってね」

息を落ち着けながら、私は偏執を生み出す一助となった彼女への疑問をこの際解決しようと思い、そう尋ねた。

「そうね、ここのことはサバト、つまり魔女の集会よ、そこで聞いたわ。ロンドン近くの森の奥に魔術に興味を持った中世の貴族が内密に建てた館があって、グリムワールも沢山眠ってるってね。ついでに、いつの間にかそこには小さな女の子の姿をした吸血鬼が住み着いてる、って話も聞いてたわ」
「サバト、ね。そこにはどのくらい魔女が来てるの?」
「五か六でも来ればいいほうだわ、それにこんな使い魔を合わせて、十二がせいぜいかしら」

パチェはそう言って、上半身を起こしあっけにとられた様子でこちらを見ている彼女の使い魔を指差して、言葉を継いだ。

「でも、その中にもアルビノなんかいやしないわ。人間型の使い魔も含めて、髪も金髪か茶髪ばっかりよ」
「だったら、その話をした魔女、ってのは誰か、教えてくれるかしら?」
「疑り深いわね、でも誰かは分からないわ。私がいない時のサバトでもう話になってたらしくて、その話題が出た時は皆知ってる風だったし、そもそも元を辿れば人間たちの古い伝承みたいだったからね」

 皆知っている、という言葉を聞き、私は眼前が真っ白になる感覚を覚えた。だが気を持ち直すと、彼女への質問を続けた。

「先にそれを知った他の魔女は、どうしてここに来なかったのかしら」
「さあ、特に古いグリムワールに興味がなかったからじゃないかしら。私は丁度研究に行き詰まってたから是非とも読みたかったけどね。それに、あの森だって話にはなってたけど、詳しい場所までは分からなかったみたいだし。私もこの館は検索魔法を何重にも掛けて、苦労して割り出したわ」
「じゃあここは、魔法を使ってでも簡単には分からないってこと?」

私がそう尋ねると、パチェはほほえみながら答えた。

「ええ、ましてや普通の人間なら、まともな道もない森のなかにあるこの館なんて偶然でもなけりゃ見つけられないと思うわ」
「でも、もしメイリンみたいな、私のチーだか霊力だかの何かを辿って来れる者がいたとしたら?」
「私も彼女のその能力に興味があって直接話してみたけど、中国でもそれを上手く感じて操れる者なんて滅多にいないらしいわ。中国人が特殊能力を持ってるだなんて、やっぱり小説の中だけでのお話よ。そもそもそんな不思議な能力持ってたら、私や彼女みたいに、普通の人間と違った貴女や私達と友好的に接しようとするんじゃないかしら」
「そう、ね。まあ、そうでしょう、ね」

 私は彼女の説明を聞きながらも、内心の不安は消えずにいた。私の心はしつこくも未だ、論理を超えた、得体の知れない恐怖に支配されていた。その様子を見て、パチェは静かにこう言った。

「まあでもそんな妄想に取り憑かれるほど怖いんだったら、屋敷なんか放っておいてここから逃げてもいいんじゃないかしら。それとも何、せっかくの封土を手放すのが惜しいのかしら?」
「もし狙われてるのが私だ、って思ってたら、そうしたかもしれないわね。でも私が感じてる不安は貴女やフランの身に対してのものよ。私はどうなってもいいの、貴方達さえ無事ならね」

私はそう言いながら、その言葉と正反対のことを犯そうとしていた、先程までの狂った精神状態に陥った自分を恥じた。そうして思わず目を伏した私に、パチェは穏やかな声でこう言った。

「だったら、尚更どうしようもないわね。私は特に身や命の危険は今のとこ感じちゃいないし、きっとフランドールちゃんも、メイリンもそうでしょう。それに、私達がそう簡単に人間に殺されるはずなんかないじゃない。ただ貴女だけが、誰にも分からない、確たる証拠もない訳の分からない恐怖に怯えてるのよ。問題が貴女の心の中にある以上、それを最終的に解決できるのは貴女以外にいないわよ。その調子で何年も何十年も、他愛も無い人間の小娘が私達を殺す妄想に取り憑かれたくはないでしょう?」

彼女が繰り返した妄想、という言葉が私の胸に鋭く刺さった。

「妄想、ね。もちろん、そうに決まってるわ」
「そのためには、何か気分を変えてみることね。まあその一助になればいいけど、本ぐらいなら貸してあげるわ。ちょっと古いものだけど、この『緋色の研究』なんて面白かったわよ。書名的にも、ちょうど貴女にぴったりじゃないかしら」

彼女は枕元の蔵書の山を数秒漁ると、小さく笑いながら白黒の装丁の本を私に差し出した。私は軽い礼を言い突然の深夜の来訪を改めて詫びると、足早に彼女の部屋から出て行った。



 自室に戻り椅子に深く腰掛けた後、改めて自分の手を染めようとしていた愚行とそれに至った偏執に激しい後悔を覚え、私は髪を両手で激しく掻きむしりながら膝の上に頭を伏せた。そしてパチェの言った妄想、という言葉を今一度思い返した。一時的な狂気を生み出し、挙句の果てに友を殺害してしまおうなどと考えさせた、この常に私の頭を支配している破滅の運命の予感のそもそもが単なる妄想だとするならば、私はただの白痴どころか癲狂の極みではないかと思った。

 私は「運命」などという妄想に取りつかれ、既に狂気に陥っていたのではないかと考えた。狂人は体系立った妄想を抱き、自身を王者や神のように理由もなく考える事があるというが、吸血鬼の私もそのような症状に罹患しているのではないか。人智を超えた自身の能力は身体的な膂力に限ることなく、形而上の運命などという存在するかどうかすら分からないものを感知できるのだ、という馬鹿げた空想に取り憑かれているのではないかと考えた。

 それを確かめようと、私は今一度過去に覚えた運命の予感を思い返した。祖国では家族を失った生家の陥落、他国で捕縛された主君の出立、そしてアントワープではフランが重病にかかる原因となった、彼女の雨天の外出のそれぞれ直前に私は同様の予感を感じていた。だが改めて考えてみれば、当時の祖国は当時国力差の甚だしい異教の帝国との交戦状態にあり、戦火に巻き込まれることなど予想ができたはずであった。それにフランの件も、幼子を一人で通りに出すなど、普通の人間でも危険を想像し控えさせうることといえた。つまるところ、私は誰でも簡単に想像がつきうる単純な因果関係を、運命などという大袈裟な言葉に包み込んでいるのではないか、そう思い、自分に言い聞かせた。

 だが、今回の予感に関しては、それは当てはまらないように思われた。まともに考えればパチェの言葉のように街中からこの道もない森の奥の館まで通常の人間が来れるはずもなく、また無事に訪れたとしてもこの館の住居者達を殺すことなど容易ではないはずであった。ましてや目や髪の色が違うだけの小娘なら、尚の事であった。故に心配するようなことが一体何処にあるのだろうか、そう考えて然るべきであった。

 しかしそういった合理的な論理も、私の頭を支配する強大な恐怖を取り除きはしなかった。私の理性や度重なるパチェによる、その確信は単なる妄想と言うべき固定観念である、という説得にも応じることはなく、私の思考はこの予感は運命だと確信を否定することはなかった。そしてその時、私はついに完全に狂ってしまったのだ、という考えに至った。



 その時扉を叩く音が聞こえ、私は頭を上げた。

「お嬢様、お目覚めでしょうか?お茶の準備ができていますが、お部屋に入ってもよろしいでしょうか」

メイリンの声に一瞬の安堵を覚えたが、自らの状況を思い出すと私はこう答えた。

「いえ、ちょっと、しばらくは私の部屋に入らないでくれないかしら」
「入らないで、とは一体どうかされたのですか?」

扉の向こうで彼女はそう尋ねた。
「ええ、ちょっと……私、何かすぐれなくてね」
「体調がよろしくないのですか?でしたらなおのこと、看病いたしませんと」
「いいのよ、もし貴女達に何かあると困るわ」
「ですがお嬢様」
「いいのよ!これは命令よ!良くなったら私の方から部屋を出るから、それまではここに来ないように頼むわ。お茶も血も、持ってこなくて結構よ。飲みたくなったら自分で準備するわ」

語気を強めて、私はそう言った。

「はい、分かりました、お嬢様」

少し間を置いて、メイリンは静かにそう答えた。

「そうね、私は具合が良くないからしばらくは部屋から出れないし、勝手に部屋にも来ないでってことをパチェ達に伝えておいてくれないかしら。それと、貴女にはしばらく昨日みたいにフランの世話を頼むわ。食事も含めてね」

そう言った後で、私は言葉を継いだ。
「私が外に出れない間、フランにも貴女達にも何事も無いように、重ね重ね頼むわよ」
「はい、お嬢様」

その返事の後、足音は扉から静かに遠ざかっていった。

 私は狂気に囚われ、半ば制御できなくなっていた自分を恐れていた。この精神状態でこの館の誰かと会ってしまったのならば、今度こそその者を殺してしまうのかもしれないとすら私は思っていた。たとえフランであろうと、私は狂乱の衝動を抑えこむ自信は無かった。癲狂は治癒されうるものなのかという思いはあったが、少なくとも、この破滅の運命の予感が何らかの形で終わりを告げるまでは、決して誰とも会うべきではないと私は考えていた。大した意味は無いと知りつつも、扉の前に椅子を動かし鍵の代わりとし、そしていつの間にか床に転がっていたパチェの本を手に取ると、せめてもの心慰にそれを読もうとした。だが止むことのない不安と恐怖は私の思考を完全に阻害し、文章の繋がりを途切れさせた。充分に働かない頭の中でアフガニスタンやマイワンドなどという珍妙な、構成上特に意味のない単語だけが妙に印象に残り、大多数の単純な言葉で紡がれる物語の線を何度も切っていくような印象を覚えた。

 久々に体験した無為の孤独は、絶えず気味悪く波打つ感情と相まって異常なまでに時間を長く感じさせた。よくも私はかつてこのような生活を数十年間も送れたものだとすら思った。私は本を置き、部屋の中を歩きまわり、窓掛けを小さく開いては夜霧に浮かぶ新葉が萌え出で始めた周囲の木々を眺めもした。それでも、私の狂気は癒やされることはなかった。

 ろくに眠ることもできず、食欲も沸かず、私は捉えどころの無い恐怖に支配された、千秋にも思える数日を孤独に過ごした。部屋の明るさで昼と夜の区別はできたが、その変化が何度起こったのかを正確に数える気にはなれなかった。蟄居は私の狂気を軽減するどころか他の刺激を減少させたことで私に無駄な思索の時間を与え、抗う術のない恐怖を更に肥え太らせた。そしてその増大した恐怖がさらなる癲狂を生み、次こそ友人や妹に、私が最も恐れているその運命を自ら与えてしまうのではないか考え、ますます自室の外へと向かうことを恐れるようになっていった。



 殆ど眠れもしないまま迎えたある日の夕方に、部屋の扉が静かに二回叩かれ、パチェの使い魔が私の名を呼んだ。長らく耳にしていなかった他者の発する声と音に私は恐怖感を覚えたが、努めて冷静な声で私の病気のことは聞かなかったのかと尋ね返した。彼女は聞いてはいたが、今夜彼女とパチェはサバトに行き朝まで戻っては来ないため、一応の報告をしておいたほうが良いだろうと命じられ、そのために来たとおずおずとした声で答えた。私は少し笑いサバトは夜に行われるのかと独言とも質問とも分からないものを呟いた後で、ふたり共に充分に気をつけることを扉の向こうの使い魔に言った。彼女は感謝の言葉を述べると、足早に扉の前から去っていった。

 私はパチェ達の外出に特段の恐怖は覚えなかった。私や彼女達が何処にいようと、運命は必ず、この館の住民の何者かの命を奪いに訪れてしまうだろうという諦観にも似た思いが私にはあった。むしろパチェ達のもとにその運命が襲いかかってしまうのであれば、この館の外で、私の知ることのない場所で、眼前でその惨劇が引き起こされてしまうことよりも遥かに精神的には楽なのであるのかもしれない、という考えも浮かんでいた。ましてやその惨劇の直接の原因が自分自身ではないかと疑い始めていれば、尚更であった。だがそのような考えを持ちながらも、未だに私は運命の確信が妄想であるということを願っていた。数日間の狂気を育む根源は、この二つの相反する思考の激突であった。狂気に唯一打ち勝つことのできる、最も客観的で説得力のあるはずである論理という理性の娘すら、ある時は運命の確信から導かれた推論の弁護をし、またある時は後ろ盾を持たない私の確信そのものを嘲笑し、彼女が戦うべき狂気の後押しをした。

 私の精神をかき乱す二つの思考が共に有無を論じ合う、死の運命というものを私は今一度噛み締めた。死というものは、私達以外の大多数の定命の人間達には遅かれ早かれ必ずやって来る、運命と称しても確かに差支えのないものであった。私が生きているこの数世紀の間にどれほどの人間が生まれ、そして死んでいったのか、そして何故そのような多くの人間達はこの運命に耐えることが出来るのだろうかと考えた。何故友や肉親を失い、自らの肉体を失うことを受け入れられるのであろうかと考えた。どうしても避けようのないものであるならば、人間の精神は完全に覚悟を決め、平穏な心境になれるものなのであろうかと考えた時、パチェの「対処の出来ないものを何とかしたくて、未だに神様に頼ってる」という言葉が頭をよぎった。

 定命の人間達も自分達やその作り上げた技術だけでは死は克服できないのだ、故に見えない神に頼り、その教えに記された死後の楽園を信じて心の平穏を保っているのだ、と私は悟った。死後に乳と蜜の流れる心優しき神や天使や「人間」だけが住まう楽園で親しい者と一緒に永遠の命を楽しめるなどと信じれば、確かに死の苦痛も愛する者との暫時の別れと耐えられるのであるのかもしれないと考えた。そしてその確信を守るために矛盾する他の教えを暴力を用いてでも排除し、善業とされる教会への献金などを進んで行うのであろう、とぼんやりと思った。少なくとも、この私が過ごしたヨーロッパでの話ではあったが。

 だが、全ての者がそのように出来るのであろうか。人間だった私は違った。父母が死んでも、楽園で穏やかに生きる二人を想像することはできなかった。そして私は死を拒絶し、どんな事があっても生きていきたいと思った結果、この吸血鬼という存在に化してまで今日まで生きている。私が死をこれほどまでに恐れるのは、その影響が根強くあるのであろう。そしてその闇をふんだんに感じ、嫌悪感さえ覚えるようになった宗教に今更頼ることなども、私には考えられなかった。

 そもそも「人間」たちのための楽園に、私達吸血鬼や魔女などが受け入れられるとは考えられなかった。彼等のために作られた理想郷がもしあるとするのなら、何故その天敵をその領域の中に入れるようなことがあるのだろうか。だとすれば、私達は死んでしまった後に何処へと向かうのだろうか。そもそもこれほど長く生きている私のような吸血鬼や東洋の人外、魔法で老化すら止められるような魔女やその使役する使い魔に死が訪れるようなことがあるのだろうか。私は命を落とす人間以外の者の姿を見たとでもいうのだろうか、だがそうであったとすれば、この私の心を憔悴させ尽くす予感は何なのであろうか。答えに決して辿り着くことのない堂々巡りの推論は、私の狂気をより一層増長させた。



 扉が叩かれる音が聞こえ、私は思考の世界から現実へと引き戻された。窓の外には既に太陽の跡形はなく、ほんの少し欠けた月が地平線に近づいていた。

「何の用よ?パチェ達のことならもう知ってるわよ」

深くため息を付き、唾を飲み込み精神と声の調子を少し落ち着かせた後で私は扉にそう言った。

「いえ、パチュリー様達の件ではございません。館の血液の貯蔵が無くなってしまいましたので、その報告に参ったのです」

扉の向こうから、メイリンの声が答えた。

「そうだったの、それは困ったわね。フランにもどう説明すればいいのかしら」

私がぼんやりとそう言うと、少し改まった声で彼女は言った。

「やはり血液の貯蔵量もご存知ないということは、お嬢様はこの数日何もお口になされては無いのですね」
「そういえばそうだったわ。食欲が湧かなくてね」
「お言葉ですが、私の国では、薬と食事は同じ源である、という言葉があります。食事をお取りにならなければ、お嬢様の良くなるはずのご容態も良くなりはしないのではないでしょうか」

少し黙った後で、メイリンは言葉を継いだ。

「それに、私にはお嬢様のお身体に悪いところはないということは分かっています。お嬢様のチーはお会いした時と変わらず、生命力に溢れています。ですがそのチーには少しばかり、何かくぐもったものが感じられるのです。おそらくは、心の中に何かお悩みごとがあるためなのではないでしょうか」

彼女の言葉に私は苦笑いを浮かべた。

「そこまで分かるなら、その私の悩みの内容も分かるのかしら?」
「いえ、そこまでは分かりません。ただお心がすぐれないのであれば、ご食事も取らずお部屋に閉じこもりきりでは更に悪化してしまうのではないか、と思うのです。これを機に血液を取りに外へ行かれるのも傷心の良い気分転換になるのではないかと」

確かにこの狭い自室に引きこもり千日手の自己とのくだらない対話を続けても、事情は何の好転もしないことは重々感じていた。今日であればこの館にパチェ達もおらず、狂気を発露してしまうような対象が少ない分、外出はとりわけ望ましいのではないかと考えた。

「それもいいかもしれないわね。でもこう言っては何だけど、まだ貴女達に会えるような状況じゃないわ、とんでもない迷惑をかけちゃいそうだもの。貴女がここから離れて地下に行ったら、貴女の忠告通りに外で血を取ってくるわよ」
「承知致しました、では失礼致します。瓶はお部屋の前に置いておきますね」

 扉から離れていく足音に私は神経を尖らせて耳を傾けた。物音が数分間完全に途切れたのを確認して、私は扉の前の椅子をずらし、ゆっくりと取手を回した。扉の前の床には赤黒く汚れた、空の蓋付きのガラス瓶が横たわっていた。次からは部屋の前に小机でも置いたほうがいいのかもしれないと私は軽く笑って、その瓶を拾い上げた。



 万が一にもメイリンと顔を合わせることが無いように、館の中は足早に通り過ぎた。玄関の大扉を開き数日ぶりに夜風と星空の下に身を晒した瞬間、ほんの少しだけ私の心に安息の影が戻ってきたように思えた。森を通る湿気を含んだ冷ややかな春の新鮮な空気は、少しだけ私の癲狂を和らげたのだろう。

 だが外出の本来の目的であるはずの血液の採取については、全くそのあてを見つけることはできなかった。パチェに言われずとも、もはやこれまでの狩場であった貧民街どころか、都心にすら行く気は起きなかった。不用意に水辺に近づき溺れかけた子供が洗顔用の手桶の水すら恐れるようなるがごとく、私は彼女に関わる全てを恐れるようになっていた。

 私は翼を広げ空に飛び立つことはせず、目の前に広がる森に歩みを進めることにした。この森の中に万が一人間がいるのであれば、その人間から血を奪うこととしよう、そうでなければ森近くの村で獲物を探すこととしよう、そう私は考えた。むしろ血を確保するということよりも、私はこの潤いに満ちた甘い春の夜風を感じることに主眼を置いていたのだろう。

 上空を通っていたため入ることがなかった、館を取り囲む森に私はその時初めて足を踏み入れた。私の背丈が小さいこともあるのだろうが、大地から仰ぎ見る森は空から見下ろすよりも何倍も広大に感じられた。歩き始めてほんの数分で、私の水平面の視界は全て木々の幹に覆われた。足元には夜露で湿った朽ちかけの落ち葉とその隙間に育ち始めた若い青草がまばらにあるだけで、何処かへと繋がる道らしきものは獣道すら認めることはできなかった。驚嘆すべき不可視の能力をそれぞれ持つとはいえ、パチェやメイリンはよくこの森を通って私の館へと辿りつけたものだと感心した。彼女の言うように、何故この茫漠な森を人間が通り抜け館に辿り着けるのだろうか。私の心に少しずつ安堵が戻りつつあった。時折新芽の間におぼろげに輝く空の星を眺め、ふくろうや狼の消え入りそうな鳴き声を聞きながら、私は軟らかな地面を一歩一歩踏みしめた。かつて幼い頃に自然に満ちた外の風景を眺めることが好きだったことを心の片隅で思い出していた。

 僅かな心慰を味わうさなか、遠くの木々の合間に私は微かにきらめく一縷の光を目にした。首尾よく現れた新鮮な血液の提供者に心中で感謝を捧げ、光の進行方向の背後に回りこむように私は針路を定めた。帰宅した後には気分転換の外出を勧めたメイリンに礼を言わねばという思いが生まれた。厄介で無能な召使だと思うことは多々あれど、彼女は充分に良き小間使いであるのだろう。私は確かにその時、あれほどまでに心を悩ませていた運命の存在を一瞬だけ忘れることができていた。

 やや小柄な背恰好の獲物は左手に明かりを吊り下げ、右手に小銃を携えていた。犬こそ引き連れてはいなかったが、その姿は狩人と判断して然るべきであった。まだ幼さの残る猟師は未だ見ぬ大物を狙って蛮勇にも夜の森へ訪れたのか、また昼間の狩りに熱中するあまり日没を忘れ遭難してしまったのかは分からなかった。とはいえ真実がどちらにせよ、私がその人間を襲うにおいて大した意味は持たなかった。私とフランの分の血液を採取しても、どうせ彼の命を奪うほどではないだろう。もしかすると彼はそれによって森に恐怖を感じ猟師稼業を断念してしまうのかもしれないが、それは都会に恐怖を感ずるようになった私とお互い様だ。そうして私は狩人への距離を一歩一歩詰めていった。

 獲物まで二十歩ほどの距離まで近づいた瞬間、にわかに彼女の方向から微風が立ち、それに乗った照明の灯油の刺激臭が鼻をついた。同時に灯火はその真っ白な髪がなびき、純白の横顔に輝く赤い目が表れる光景を映しだした。私が直前まで若い狩人だと思っていた人間は、貧民街で出会った、運命をもたらす少女に他ならなかった。



 私は思わず近くの幹に身を隠した。僅かな時間忘れることのできていた恐怖は眼前で結晶化していた。激しい悪寒と膝の震えを覚え、心臓はより一層早く強く拍動した。衝撃のあまり悲鳴を上げそうになる口を慌てて両手で塞いだ。私の予感は狂気や妄想などが生み出した幻想ではなかった。その理由やこの森まで辿りつくことのできた由など分かりはしないが、彼女は私の同胞の命を奪おうとここまで来たのだ。

 静かに息を整え気を持ち直した後で、私はもう一度彼女の様子を窺った。彼女は私が身を隠す前と変わらず、周囲を見回しながらゆっくりと歩みを進めていた。どうやら夜闇と軟らかな地面が幸いしてか、未だ私の姿には気づいていないようであった。今静かに踵を返し、館へと急いで戻りメイリン達に事情を説明すれば、被害を最小限に抑えることができるのかもしれない、一瞬だけそう頭によぎった。だがそれは問題の先延ばしにしかならなかった。彼女がいつの日か私の館を発見し、襲撃することの黙認であった。

 それよりももっと根本的な方法があるではないか、つまり眼前の少女を今ここで殺してしまえばいいのだ、そのような考えが頭に浮かんだ。もし私に妄想があるとすれば、それは絶対に避けられない運命があると思い込んでいることなのではないか、そう自分に諭した。彼女が銃器を手にしているということは、自らの力がただの人間と変わらないためであろう。それにもし小銃を携えていたとしても、それで私達の命を奪うことはできないだろう。それでは何故彼女を恐れるのかという理由は思い当たらなかったが、彼女が私達を襲い危害を与えようとしているということだけで始末する理由には充分ではないか。白髪の少女は今ならまだ私に気づいてはいない。都心の貧民街で一度それを逃してしまっていた以上、彼女を殺害し終わりのない恐怖と狂気から開放される機会は、絶好の今を除いてありはしなかった。

 私は覚悟を決め、翼を広げ勢い良く幹から身を乗り出した。その音でようやく彼女は私に気付き、こちらに顔を向けた。だがその表情は路地裏で出会った時の憤怒に満ちあふれたものではなく、気味の悪い笑顔を満面に浮かべたものであった。予想外の反応に完全に凍りついてしまった私に彼女は銃を構えながら、粗野な発音でこう言った。

「やっぱり、あんたはこの森にいたんだね」



 耳をつんざく短い爆音の後に、彼女の体は反動で大きくよろめいた。小さな物体が私の脇腹のすぐ横を通り抜けていくのを感じた。彼女は千載一遇の、私に僅かな傷を負わせる機会を逃したのだ。一瞬にして私の心は安堵に満ちた。どれほど彼女が銃の取り回しに長けていようと、銃口から弾を込めるのには数十秒ほどはかかってしまうだろう。それは彼女との十数歩の距離を詰め、頚椎を砕く時間としては充分だった。

「そうよ、でも外しちゃって残念だったわね」

安心した私はそう言って、彼女の方へ向かってゆっくりと歩き出した。だが彼女は怪訝そうな顔をすると落ち着いた様子で銃の横の取っ手を引き再び私に照準を合わせ、引き金を引いた。再度短い爆音が鳴ったかと思うと、私の右胸に鋭い痛みが走った。衝撃にのけ反った私に、冷たく彼女はこう言い放った。

「一発目はね」

 人間達の銃器が進歩していることは全く私の予想外のことであったが、それは大した問題ではなかった。弾丸の痛みはすぐに引き、銃創もじき治るだろう。結局彼女を殺すのに数秒の遅れが出るにすぎないはずだった。

「よく当ててくれたわね、でも私はね」

そう言いかけたところで、私は口中に鉄の香りに満ちた液体がこみ上げてくるのを感じ、激しく咳き込んだ。反射的に口を覆った手は、紅色に彩られていた。状況を飲み込めない私に、白髪の少女は笑いながらこう言った。

「にんにくってのは、ちゃんとあんたみたいな吸血鬼に効くんだね。手間かけて弾に塗りつけた甲斐があったよ。で、あんたは何だって言うんだい」

彼女はこちらにゆっくりと歩きながら、再び私に銃口を向けた。火薬の香りに混じって焼け焦げ芳香が強まったにんにくの臭気が鼻を突き、激しい吐き気を覚えた。とにかくこの場から離れなければならないと察し、なけなしの力を振り絞って立ち上がり翼を広げ地面を蹴った。数発の弾丸が空中で私の体をかすめ、彼女は口汚く静止と罵倒の言葉を私に投げかけた。右胸の痛みと出血は、未だ止まる様子を見せなかった。

 負傷のため、平時のように速度と高度を保ち飛行を続けることはできなかった。足は何度も木にぶつかり、その度に血液が地上へと滴り落ちた。




 館の塀まで辿り着いた時、私は飛ぶ力を失いゆっくりと地面に舞い降りそこに腰を落とした。これまで来た方向を振り返ると少しずつ白み始めた空の下に、私の血痕が鈍く輝いているのが認められた。彼女が私とこの館の場所を見つけてしまうのも、もはや単なる時間の問題となっていた。だが彼女はまだ私以外の人外の存在をはっきりと認識してはいないだろう、ゆえに彼女は視認した私を真っ先に殺そうとするはずだ。であればせめてその被害を最小限に留めなければ、そう思い私は未だメイリン達の残る館から離れようと反対側へと歩き始めた。出血をわずかでも抑えるために、私は袖の布地を破り、それを右胸の傷口に押し付けた。

 森の入り口へと再び足を踏み入れた瞬間、再び粗野な彼女の言葉が遠くから聞こえてきた。

「どこに逃げやがった、吸血鬼の餓鬼め!人間の血を飲んどいて、その人間が怖えとでも言うのかい?」

彼女は私の姿を見失ってしまったのだろう、そのために挑発を行い、私から姿を表すように仕向けているのだろうということはすぐに分かった。

「出て来い、悪魔の手先が!蛭の成り損ねえが!」

私は雑言に耳を貸す事なく、逆にその声が発せられる源を探そうとした。私に重症を負わせ罵倒し、精神を狂気に陥れさせた罪は、その生命を持って償わせようと考えていた。だがその次に彼女が発した言葉は、そのような私の冷静さを一瞬で失わせた。

「そうやって都合の悪い時は姿を隠して生きてきたのかい、くそったれた、串刺し領主のドラキュラの末裔のあんたはね!」

「貴女は今、何て言ったのかしら!」

忘れることのできない、自らの主君へも繋がる侮辱に突発的に怒りが爆発し、声を上げ私は木陰から身を乗り出した。そしてその返答は、二発目の左肩へ突き刺さる弾丸をもって答えられた。自らの愚行に後悔する暇もなく、私は大地に尻餅をついた。

「何度でも言ってやるよ、串刺し領主のドラキュラの末裔の小娘が」

そう言いながら歩み寄った彼女は、もはや気味の悪い笑みは浮かべていなかった。私を見つめるその眼差しは、初めて貧民街で出会った時と変わらない、殺意と憤怒に満ちたものであった。

 運命に対する恐怖も毒入りの弾丸による傷口の痛みも、激しい憤りが忘れさせていた。しかし気力だけでは、満身創痍の肉体は動かすことはできなかった。

「ドラキュラ殿下の末裔呼ばわりされるのは光栄ね、その前に汚らしい修飾語が付いてなければ、もっと素晴らしいんでしょうけどね」

絶え絶えになる息を抑えながら、私は皮肉を喉の奥から捻り出した。

「あんな奴の仲間で光栄だなんて、やっぱり怪物ってのはおかしな奴だね」

彼女はそう言って再び銃を撃ったが、弾は私に命中することは無かった。にんにくの凝縮された悪臭が硝煙とともに立ちのぼり、私は激しく咳き込んだ。

「誰が言ったかも分からない話を信じてるような、貴方達人間なんかには決して分かりはしないでしょうね、殿下の素晴らしさなんてね」

咳を抑えながら私がそう言うと、彼女は目を大きく見開いて怒鳴り上げた。

「ああ勿論さ、あたいはあんたみたいな人外とはまるっきり別物の、人間なんだからな!」

彼女はそう言って引き金を引いたが、爆音が後に続くことはなかった。舌打ちをしながら白髪の少女は銃身の取手を引いたが、その動作は何かに引っかかるように中断された。



 彼女は銃を下ろし、私の目前まで近づくと左手の灯火を眼前に差し出した。これは白髪の少女を仕留める絶好の機会だと知ってはいたが、私には既に手を振り回す力すら残ってはいなかった。気温差によって生まれた陽炎が視界を歪め、軽い熱気が私の頬を炙った。

「どうしてあんたは、あたいと同じ赤い目をしてるんだい、どうしてあんたみたいな化物が、人間のあたいと同じ目の色をしてるって言うんだい!」

熱で揺らぐ視界の向こうに、潤んだ紅色の瞳が灯明を反射して輝いているのが見えた。

「どうしてこの目のせいで、この姿のせいで、あたいは化物呼ばわりされなきゃならないんだい、どうしてあんたみたいな血を飲んで暮らす生き物呼ばわりされなきゃならねえんだい!」

彼女は震え声でそう言いながら、髪を掴み私の頭を揺さぶった。

「あいつらにはこの髪の色があたいと同じ見えるってのかい、そんな不気味な羽根があたいに生えてるとでも言うのかい!何であたいの体がこんなに小さくて、中国女の血を啜るんだと皆どうして信じちまうんだ!」

私はその言葉で、最初に破滅の予感を覚えた囲み記事を思い出した。

「私だって迷惑よ、貴女みたいな低俗な人間に間違えられるなんてね」
「何が迷惑だってんだい、あんたはあたいと間違えられて、死にそうになる思いでもしたって言うのかい、あんな大層なお屋敷に住んどいて、そんなことを言うつもりなのかい!」

私はその詰問に答えはしなかった。

「あんたが見つかって噂になってから、皆あたいのことを疑ったよ。この見た目のせいでね。スリやチンピラと一緒に過ごせても、化物の娘には無理だと部屋を追い出されたさ。もともと同居人には気味悪がられてはいたけどね。物乞いをしようにも、噂の広まったあたいの姿を見た輩は本気でびびって何処かへ逃げちまうんだ。自分の体すら売れやしねえさ」
「あら、可愛そうなアルビノの子だこと。でも、それだけで私を殺す理由になるの?」
「アルビノだのアルバムだの、訳の分からないことをグダグダ言うんじゃないよ!勝手に見た目のせいで濡れ衣を着せられて、人間扱いすらされなくなっちまった、あたいの気持ちなんか吸血鬼に分かってたまるもんか!」

彼女は涙声でそう叫んで、言葉を継いだ。

「あんたを殺して、その死体を見せつけて、あたいはあんたじゃないってことを皆に分からせてやるのさ。あたいが化物じゃない、真っ当な人間だってことをね。あの晩あんたの姿を見てから、あんたが実在するってほんとに知ってから、あたいはずっとそう思ってたんだ」

少女はそう言って、力を込めて銃身横の取手を引き弾の装填を行った。

「私を殺したら、貴女はそんな人間じゃなくなるわよ。真っ当な人間なら、そんな罪は犯さないわ」
「害獣を殺したところで、それが何の罪になるって言うんだい。あんたを殺しても、あたいは殺人者にはなれやしねえさ」
「そもそもそんなに貴女の思い通りに事が進むかしら、もうすぐ朝が来るわよ。日光を浴びた私の体は、はるばるあんなところまで形を保っていられるのかしら」
「もしそうなっても、あたいの復讐心だけは満たされるさ。テムズにあんたの体の残骸を投げ込んで、魚の餌になるのを見ればもっと清々するだろうね」



 そう言って彼女が照準を私に定めた時、館の方からけたたましく叫ぶ声が聞こえた。

「待ちなさい、お嬢様に何をしているの!」

音の方向に目をやると、こちらへ向かって全力で走り来るメイリンの姿があった。

 彼女の声で私は運命に対する激しい恐怖をにわかに思い出すと、絶え入りそうな声を振り絞って叫んだ。

「メイリン、ここに来ちゃ駄目よ!」

私の反応を見た少女は気味の悪い笑みを浮かべると、銃口をメイリンの方向へと素早く向け直し、銃弾を放った。彼女の動きは爆音とともに止まり、数秒を置いて地面に倒れ落ちた。

 一瞬の運命に対する絶望の後に、より一層の激しい怒りが生じた。信頼する臣下を失ったことへの怒りは、主君に対する侮辱にすら劣らないものであった。

「よくも貴女は私の大切な召使を!」

その言葉を言い終わらない内に、少女は私の口に銃口を突っ込んだ。

「黙りやがれ!大切な召使、そうか、あの中国女ってのもあんたとグルだったのかい、あんたはどれだけ人を馬鹿にすれば気が済むんだい!夜の街で吸血ごっこをして、人間に下らねえ噂を立てさせて、果てに貧乏の小娘を巻き込んで、とんでもない迷惑をかけて、それが楽しいっていうのかい、この見下げ果てた人でなしが!」

 それだけは誤解だ、と言おうとしたが、口の中を覆う鉄の銃身と漏れ出る吐き気を催すにんにくの臭気がそれを妨げた。

「まあ、あんただけじゃなくてその共犯も同時に始末できるのだけは感謝しようかね」

そう言って彼女は取手を引いたが、再び何かに引っかかったようにその動作を行う手を止めた。

「畜生、ぽんこつ銃め!弾込めすら満足に出来ねえのかい」

そう言いながら、少女は激しく取手を動かした。銃身は私の口腔の中で舞い踊り、歯と触れ合って騒々しい音を頭に響かせた。数秒間彼女は機械と格闘した後で、なんとか部品同士が噛みあうような音が静かに響いた。

「さあ、今度は外しようが無いよ。あんたを殺した後で、あの大層なお屋敷の中も探してみることにするよ。召使がいるくらいだったら、それ以外の奴らもきっといるんだろうからね」

 その時ようやく、私は自らの命の危険を覚えた。猛毒入りの弾丸が、喉を突き破って私の脳髄を貫通してしまうことを想像した。これまで感じ、正気さえ失わせていた親類を失うことに対する恐怖ではなく、吸血鬼となってから覚えることのなかった自らの死に対する恐怖が一瞬にして頭を支配した。そして彼女が引き金に指を掛け、その恐怖が頂点に達した瞬間、私はかつて感じたことのあるような、不思議な捉えようのない力が全身から沸き起こってくる感覚を覚えた。




 突如として私の周囲の地面が音を立てて震え始め、木々は生え始めたばかりの薄緑の新芽を震わせた。赤目の少女は手の動きを止め、異変を確かめようと視線を動かした。彼女の注意が離れた瞬間、私は尽きかけた体力を振り絞って右手と頭を動かし、口を塞ぐ鉄の筒を外した。彼女は私の動作を即座に認めると、荒々しい手つきで改めて銃口を私の眉間に突きつけた。

「あら、貴女は地震が怖くはないのね。この国の人間にしては珍しいわ」

私はそう言って、彼女に笑顔を投げかけた。あれほど私を苦しめ続けた、運命に対する恐怖、彼女に対する恐怖などというものはその時完全に消え去っていた。

 不可変で決定的な破滅の運命の存在を否定したわけではなかった。確かにそれは存在するのだ、ただその運命というものは、少なくとも私には決して歯向かうことはないのである。何故ならば私はその運命を操ることができるからなのである。そういった確信が、にわかに私の頭に生じていた。それはあまりにも荒唐無稽で馬鹿げているなどという理性や論理の説得を受け入れることはなかった。その確信を得る直前まで私に取り憑いていた、不可避の絶望的な運命が私の親類を襲ってしまうという妄想がそうであったことと、それはよく似ていた。

「偉そうなことを言いやがって、あんたはこんな地面の震えなんかで、あたいから逃げられるとでも思ったのかい!」

少女がそう言った瞬間、彼女の背後に白く淡い光が生じるような感覚を覚えた。私は彼女に死の運命が近づいていたのだと悟った。

「そうなの、でも残念ね。そうなると貴女は死んじゃうわよ、何故だかは私にも分からないけどね」

私がそう言うと、彼女は顔を紅潮させて逆上した。色素のない肌から浮かび上がる怒りの色は、その下に流れる鮮やかな血液の色をまざまざと示していた。

「人を馬鹿にするのも大概にしやがれ、死ぬのはあんたのほうだよ!」

そう言って少女は引き金を引いたが、銃身の途中からくぐもった鈍い金属音が鳴ったきり弾が発射されることはなかった。それと同時に取手の横で白い光がきらめいたように見えた。何度も繰り返し射撃を試みようとする彼女に、私はこう言った。

「もう撃とうとしないほうがいいわよ。きっとそれが貴女を殺しちゃうわ」

その言葉に動作を止めた彼女を見て、私は言葉を継いだ。

「貴女がかわいそうな人間だ、ってことは分かったわ。私のせいでとんでもない迷惑をかけたってこともね。でもそれで、命を失うことはないと思うわ」

私は少女の運命を今一度確かめるために、そう言った。

「そうやって、銃が動かない間に命乞いでもするつもりかい?」
「そう聞こえたならそれでも構わないわ。でも最後の言葉として、私の提案を聞くだけは聞いてくれないかしら」

私は返答を待つことなく、言葉を継いだ。

「もし万が一私を殺しても、貴女には何の得もないわ。私の死体は、貴女の種族の証明にはならないわ。人から付けられた悪名はどんなものであれ簡単に消えないことぐらい、私は知ってるわ。貴女の居場所はもう人間の世には無いのよ」

少女は私の最後の言葉を聞くと、慄然とした様子で目を見開いた。

「でも、私の館ならどうかしら。貴女一人置くぐらいなら、なんとも無いわ。この館で私の小間使いにでもなりなさい。私やそこで寝てるメイリン以外の同居者もいるし、寂しい思いはさせないわよ。あんな薄汚れた所より、いい暮らしは出来ると思うわ。貴女に迷惑をかけた、私のせめてもの罪滅しよ。もちろん、私の大切な召使を傷つけたことを忘れたわけじゃないわ。でもそれは、私への忠誠で償いなさい。これは私と貴女、お互いへの贖罪よ」

 そう私が言い終わると、少女は震えた声で答えた。

「それはつまり、あたいにあんたの、化物の吸血鬼の下で働いて、一緒に住めってことかい?」
「ええ、死ぬよりは賢い選択だと思うわ」

私がそう言うと一層激しい口調で彼女は怒鳴り上げた。

「ふざけやがって!あたいは人間だ、あんたみたいな薄汚れた、血を飲んで夜に生きるような、呪われた怪物なんかとは違うんだよ、そんな奴の下で働けだって!あんたはどんだけ人を馬鹿にすれば気が済むんだい!そうなるぐらいなら、それこそ死んだ方がマシってものじゃないか!」

そうして彼女は銃身の取手に手を伸ばそうとした。

「そう、とても残念だわ。じゃあ本当に最後に、一つだけ聞いてあげるわ」

一瞬の間を置いて、私は尋ねた。

「貴女って、神様は信じてるのかしら?」
「最後まで、あんたは人をコケにしやがって!」

彼女のその怒号の直後、激しい爆音が周囲に響き渡り、私の眼前は紅色の霧に染まった。小銃は銃身の中頃で爆発を起こし、飛び散った破片は持ち主である少女の頭を粉々にして激しいにんにくの悪臭を周囲にばら撒いた。

 飛び散った臭気に激しく咳き込んだ後で、私は彼女に哀悼の念を捧げた。最後まで人間であろうとし、その結果命を失った少女に深い哀れみと、僅かばかりの尊敬を覚えた。彼女が選んだ結果であるとはいえ、運命とはいかに残酷なものであろうか。

「もっと違った形で、貴女とは出会いたかったわ」

そう私は彼女の死体に呟いた後で、首から勢い良く流れる血液を口中に流し込んだ。数日ぶりの温かな他人の血液が、絶えかけた私の体力を回復させていくのを感じた。多量に吹き出す紅血は口腔からあふれ、頬や顎、喉を伝って胸まで流れ私の肌を赤く染めた。



 体力が回復しても、胸と肩に開いた傷の痛みは私が立ち上がることを妨げた。仕方なく私はメイリンが横たわる塀の側までいざりながら進んでいった。

 うつ伏せに倒れたメイリンの体からは、血液は流れ出てはいなかった。私は運命を克服したことを確信し、少し微笑むと静かに彼女の背中を揺すった。

「起きなさい、メイリン。貴女は銃弾なんかで死ぬような女じゃないでしょう」

メイリンは小さく唸ると顔を上げ、かすれた声で言った。

「お嬢様、ご無事でしょうか」
「とんでもないわ、下手したら死んでたところだったわよ。まだ満足に立てもしないわ」
「申し訳ございません、私としたことが気を失ってしまい、お嬢様をお守りすることができずに……」
「そんなことより、貴女の怪我はどうなの」
「胸の辺りを撃たれたようです。でも、もう大丈夫です」

そう言って、彼女は右腕をついて立ち上がった。

「それは良かったわ。あの毒は貴女には効かないのね。じゃあ悪いけど、私を部屋まで連れてってくれないかしら。せっかく助かったのに、朝日に焼かれたくはないわ」

空は既に藍色から水色へとその色を転じようとしていた。

「承知しました。では失礼致します」

メイリンはそう言って私の両膝裏と脇の下に手を差し入れ、身体を持ち上げた。

 私の体が地面から離れた時、館の横からこちらに駆け寄ってくるパチェとその使い魔の姿が見えた。

「レミィ、何か爆発するような音が聞こえたけど、何が……」

走り寄りながらパチェはそう尋ねようとしたが、私の血まみれの姿を見ると立ちすくみ、言葉を詰まらせた。

「ええ、例の白髪で赤目の女の子が来てね。危うく死ぬところだったけど、どうにか難を逃れたところよ」

そう言って私はパチェに微笑みかけた。

「そう……だったの。じゃあその傷は……大丈夫なの?」

彼女は視線を逸らしながら尋ねた。

「まだ左肩と右胸の傷口から血が出てるわ。早いとこ止血をしないといけないわね」

私は軽く右手で傷口を確かめるとそう答えた。

「左肩と右胸ね……分かったわ」

パチェはそう言うと視線を逸らしたまま私に近づいた。私の服をはだけさせ手短に傷口の場所を確認すると、再び目を逸らし両手をそれぞれ傷口にかざした。口の中でもごもごと何か呟くと、彼女の手のひらと私の患部に緑色の光がきらめいた。

「応急処置よ。とりあえずこれで血は止まるはずだけど、少なくとも明日の朝までは安静にしておくことね」
「どうもありがとう、パチェって優しいのね」

礼を述べた後で私はあることを思いつき、言葉を継いだ。

「そうよパチェ、その女の子の死体が森のすぐ入り口に転がってるから、欲しかったら貴女にあげるわ。私の血痕を辿ればすぐ見つかるはずよ。頭はぐちゃぐちゃで使い物にならないでしょうけど、まだ死にたての新鮮なやつだし、人体を使った何かの魔法の実験とかに使えるんじゃないかしら」

パチェはその言葉を聞くと小さく息を呑み込み肩を軽く跳ね上げ、慌てた様子で答えた。

「い、いえ、それはいいわ。今は生憎そっち方面の魔法よりも、面白そうな魔法をさっきのサバトで聞いてきたから、まずはそっちの方をやってみたいの。今日のところは、まだ人間は必要ないわ」
「そう、もったいないわね」

私は彼女の反応に事情を察し、優しく言葉を続けた。

「でもパチェ、やっぱり貴女って、本当に優しい魔女だわ」

 紙を通した知識だけでは、学べないものもあるのだとごく当然の事実を再確認した後で私はメイリンに部屋へ向かうよう命じた。



 メイリンが館の玄関扉を閉じた時、私を抱く頭上の彼女の顔を見上げ尋ねた。

「メイリン、貴女はどうしてあの時、私の所に来てくれたの?」

「はい、お嬢様のチーに、何か不穏なものを感じましたので、お嬢様の身に何かあったのではないかと思ったのです。しかし何のお力にもなれず、お嬢様にこのような大怪我すらさせてしまい、申し訳ございません」

メイリンは萎縮した様子でそう言った。

「いいのよ。あの時の弾が貴女に撃たれてなかったら、私は死んでたかもしれないもの。自分の身を顧みずに私を守ろうとしてくれた、貴女には感謝しなきゃいけないわ。ありがとうね」
「そう言われると、恐縮です」

少し緩んだ彼女の表情を見上げ、その頬に手を伸ばし撫でながら私はこう言った。

「だからその褒賞として、貴女に新しい職務と、それにふさわしい家名を与えようと思うの、私と同じ、スカーレットの名前をね。貴女はこれから私の近衛になって、二度とこんなことが起きないように私を守る栄誉を与えるわ。その代わり、貴女がこれまでやってきた掃除やお茶淹れみたいな雑用はもうしなくていいわ。もともと貴女には向いてなかったみたいだしね。そして貴女の名前は、メイリン・スカーレット、ってなるのかしら。どう、気に入ったかしら?」

私がそう言うと、メイリンはほほ笑みを浮かべて答えた。

「それは非常に光栄です、お嬢様。しかしながら、一つだけお願いがございます」
「何かしら、言ってみなさい」
「お名前を頂くのは有難いのですが、私は誇り高き中国の血を忘れたくはないのです。もしお許しを頂けるのであれば、私はスカーレット、というイングランド語を中国語に訳した形で、そのお名前を頂きたいのです」

私も笑顔でその要望に応じた。

「思ったとおりね、貴女のそういった骨のある所に私は興味を持ったのよ。じゃあスカーレット、って中国語だと何て言うのかしら」
「細かい色の違いはあるのかもしれませんが、恐らくは、ホン、という言葉が近いと思います」
「メイリン・ホン、えらく短くなるわね、でもいいんじゃないかしら」
「いえお嬢様、私の国では家名は個人名の先につけるのです。ですので、ホン・メイリンとなりますが、そう名乗ってもよろしいでしょうか」

私は軽く笑うと、その願いを聞き入れた。

「中国って面倒な国ね、でもいいわ。貴女はそれだけのことをやってくれたのだもの。じゃあ改めてこれからも、よろしく頼むわよ、ホン・メイリン」
「はい、お嬢様。仰せのままに」

 部屋へと戻り、私はホン・メイリンに最後の小間使いの仕事として、私の体の血を拭わせ新しい清潔な服に着替えさせるよう命じた。身を清めた私は彼女に軽く礼を述べるとそのまま寝台に身を横たえ、深い眠りに落ちた。恐怖も消え去り飢えも完全に満たされた私は、久しぶりに夢すら見ることのない穏やかな睡眠を味わうことができた。



 私が目覚めた頃には、既に窓掛けの隙間から差し込む太陽の光も消えていた。だが窓とは反対の方向から橙色の光が灯っているのに気づき、私は上半身を起こした。

「お目覚めかしら、レミィ。よく眠っていたようね、もう九時に近いわ」

パチェは手のひらに載せた小さな時計に軽く目をやって言った。彼女の側に置かれた小机の上で、持ち運び式の明かりが静かに灯っていた。

「ええ、パチェの魔法のおかげでね」
「それは良かったわ。貴女の容態が心配でお見舞いに来たんだけど、どうやら大丈夫そうね。何日か前に私の部屋にいきなり来た時みたいな、変な妄想に取り憑かれた様子も見えないわ」

そう言ったパチェは、既にいつもの知的な落ち着きのある振る舞いを取り戻していた。

「ありがたいことにね」

そう言って私は小さく笑った後、言葉を継いだ。

「でもこんな大怪我を負う前に、パチェの助言を聞いておけば良かったのかもしれないわ。すぐ熱くなる性格は抑えたほうがいいとか、それこそこんな館なんかさっさと諦めて何処かへ逃げれば、なんていう忠告をね」
「レミィって、一体何をやらかしちゃったのよ」

彼女はそう言いながら苦笑を浮かべた。

「串刺し公ドラキュラの末裔め、だなんて挑発につい乗っちゃってね。そうしてこのざまよ。短気で失うのは、何もお金だけじゃないみたいね」
「じゃあもう串刺し公、だなんて言っても怒らない?」
「もう諦めたわ」

私は軽いため息をつき、笑顔で答えた。

「じゃあ一つ聞きたいんだけど、レミィはそのヴラド三世と何かあったの?」
「何かあったも何も、その人はかつての私の主君よ。だからそんな人の末裔って呼ばれたことは、光栄に思うべきかもしれないわね。どんな名前でも、あの人を指し示すっていう事実は変わらないんだから」

そう言って私はくすくすと笑った。パチェは納得したような表情を浮かべ、私の顔を眺めていた。



 ひそみ笑いを浮かべたまま、私は再び口を開いた。

「まあでも今からでも、この傷が治ったらまたどこか新しい所に行くのも悪くないかもしれないわ。もうなんだか、私はこの島が嫌になっちゃったわ」

それを聞くとパチェは機を得たとばかりに、少し弾んだ声で言った。

「じゃあ是非とも私もそれに付いて行きたいわ。昨日のサバトで聞いてきた、行きたい国もあるしね。日本って国よ。そこなんかどうかしら」

彼女の発言に、私は不思議と反感を抱かなかった。

「日本、ね。確か貴女の使い魔の名前がその国の言葉だったかしら。でもそこってメイリンの国よりも遠い、遠い東の果ての国なんでしょう?まあそれでも何だか、楽しそうだけど」
「でしょう?しかもその国には、最近新しい場所ができたらしいわ、『幻想郷』っていう、私達みたいな人間以外の者達のための場所がね」
「げんそうきょう?」

耳慣れない異国語を私は尋ね返した。

「ええ、ユートピアとか無何有郷、とでも訳せばいいのかしら。そこだと、人間達よりも私達みたいな種族のほうが多いらしいわ。色んな国から私達みたいな存在が移住してるみたいだしどうかな、と思ったのよ」

その言葉を聞いて、私に不思議な笑みがこぼれた。

「私達のほうが人間よりも多い、つまりこんな風に、こそこそ人目を忍んで生きる必要はないってことかしら。素晴らしいわね。ますます行きたくなっちゃったわ。でもここから船に乗って、その国に着くまでは何日間かかっちゃうのかしら」

彼女は得意気に鼻で笑うと、私の言葉に答えた。

「そんなの心配する必要は無いわ。魔法を使えば、私達この館ごと一瞬でそこに飛べるわ。ちょうどそんな魔法を、昨日のサバトで聞いてきたのよ」

予想外の答えに、私は思わず声を上げて笑いを漏らした。

「本当に魔法って便利だわ、じゃあそれを使えばフラン達も家具も貴女の魔法の本も、何の輸送の心配もいらないのね」
「ええ、でもそれが出来るのは魔力の増幅が効く、皆既月蝕の夜だけなの」

その言葉を聞き、にわかに沸き立っていた私は少し落胆した。

「そうなの、残念ね、それって次はいつなら出来るの」
「そうね、次はグレゴリー暦で言うと一九〇二年四月二二日、ちょうど明日かしら」

再び私は声を上げて笑った。

「ちょうどいいじゃない、別にこの国でやり残したことなんて無いし、すぐにでもその場所に行きたいところよ」

そう言ったところで私は一つ思い出すことがあり、言葉を継いだ。

「そこにもちゃんと血液をくれる人間がいて、お茶も確保できるならね」
「そのくらいなら、きっと問題はないはずよ」

パチェは笑って答えた。



「パチェって、日本語は分かるのかしら」

転居の決心が固まった私は、彼女にそう尋ねた。

「ええ、一通りは問題無いと思うわ」
「じゃあ、引っ越してからはパチェに言葉を習わないとね。変に古めかしい言葉にならないように頼むわ」
「まあ、頑張ってみるわよ」
「じゃあ、是非とも最初に聞いておきたい日本語があるのよ」

得意げな笑いを浮かべるパチェに私はそう言った後、少しきまりの悪い笑いを浮かべ言葉を続けた。

「実はこの館、私がずっと前に名前をつけてたのよ。スカーレットデビルマンション、って名前をね。フランには不評だったけどね」

私の言葉を聞いて、パチェは思わず吹き出した。

「レミィって、名前のセンスは微妙ね」
「何百年も前に、フランにもそう言われたわ。で、それは日本語に直すとすると、どうなるの」
「そうね、直訳すると緋悪魔館、とでもなるんでしょうけど、やっぱりダサいもんはダサいわ」

苦笑いを浮かべたまま、彼女は言葉を継いだ。

「まあ少し意味はずれるけど、無理やり語感を良くしようとしたら紅魔館、ってなるのかしら。これなら多少はマシだと思うわ」
「紅魔館、ね。悪くはないかもしれないわ。紅魔館、こうまかん」

思いの外響きの良い異国語の館の名前を、私は繰り返し呟き微笑んだ。



 翌日の黄昏時、私は自室を抜け出し館の外庭へと足を向かわせた。にんにくという毒草の影響か、傷は未だに癒えることなく疼き続けていたが、なんとか立ち上がり歩くことだけはできた。地平線のすぐ上には濁った赤色に染まった、いつもより鈍い光を放つ満月が不気味に大きく見えていた。

 庭ではパチェが使い魔とふたりで測量器を操作しながら地面にろうそくを立て、不思議な文様を描いていた。パチェは私の姿に気づくと声をかけた。

「あらレミィ、わざわざ下りてきたの。大人しく寝てたほうが良かったんじゃないかしら」
「別に、このくらいなら大丈夫よ。それに体調が優れなくても、たまには外の風を浴びたほうがいい時もある、って分かったのよ」
「そうなの、でもちょうどいいわ。今まさに準備が終わったところでね、大魔法の発動をすぐ目の前で見れるわよ」
「あら、いい時に下りてきたのね」

私がそう言うと、パチェは最後の準備に使い魔を館の反対側へと向かわせた。

 彼女と私はふたりきりで残された。私は地面に残る、森から続く自らの血痕に目をやると、前日に感じた万能感を思い出し口を開いた。

「ねえパチェ、絶対に変えられない、運命ってのは本当にあるのかしら」

鼻で軽く笑った後で、パチェは答えた。

「まだそんなこと言ってるの?貴女は無事とは言えないけど、私も含めて結局この館の誰も、死んではないじゃない。避けられない運命なんて、結局来なかったのよ」
「でももしそれが、私がその運命を変えた結果だとしたら?予め決まった運命の糸を、私が操ったからだとしたら?」

そう言うと彼女は乾いた笑いを漏らした。

「カサンドラの次は創造主にでもなったつもりかしら?変えられない運命があって、それを変えることが出来たのは貴女に特別な力があるからだ、って考えるよりも、そもそも運命なんて決まってないものだ、って考えるほうが説明としては自然よ」
「そう、かしら。確かにそうなのかもね」

口では彼女に同意したが、内心は自分に新たに授かった能力の存在を否定できなかった。だがそれは対処のしようがない破滅の運命だけが見えてしまうという妄想よりも遥かに気楽なものであった。

「まあ、あれだけの大怪我をして生き残ったんだから、そう思っても不思議じゃないわ」

パチェは肩をすくめた後で、言葉を継いだ。

「それと、もし変えられない運命があるとしたら、そう貴女が思い込むことまで全部織り込み済みなんじゃないかしら。貴女が見えない恐怖に怯えて、その悪夢が実現しようとした直前で取り消して、自分は運命を操れる、って貴女に思わせるところまでね」
「なるほど、皮肉なもんね。でもそうだとしても、少なくとも私達の命が助かったことだけはその運命の淑女に感謝しなきゃいけないわ」

 その時私の頭に喜劇の道化役の姿が浮かんだ。脚本に従い突拍子もない言動や行動を繰り広げ、観衆を笑わせる俳優の姿を思った。もしこの世界が運命の描いた一つの脚本に過ぎないのなら、私はそこで慰み者の道化の役を割り当てられたに過ぎないのであろうか。
 だが脚本など絶対的なものではない。役者がそれに従わなければ、物語は作者の意図通りには進まない。私の役割が道化だとしても、それに従わねばならぬ理由などあるのだろうか。下らない筋書きに、どうして従うことなど出来るだろうか。



 突然、パチェの髪飾りから使い魔の声が響いた。

「パチュリー様、こちらは準備出来ました」

彼女はそれを口に近づけその声に応じた。

「分かったわ、じゃあ三二の一で一緒に行くわよ」

合図とともにパチェは呪文のようなものを十秒ほど唱えると、勢い良く両手を地面の文様に叩きつけた。周囲の幼葉が茂る森の風景がにわかに歪んだかと思うと、瞬く間に穏やかに水を満々と湛えた湖が眼前に表れた。いつの間にか遥か上空に登っていた満月の影は、穏やかな水面で黄金色に反射していた。



 この素晴らしき新世界で、どのような出来事が私達を待ち受けているかなど私にも分かりはしない。だが運命が物語を描き続ける限り、私は大人しくその愚者となり作者たる彼女を楽しませることとしよう。再び彼女が牙を剥き、私達を滅ぼそうとするその時までは。
遅筆に開き直ってると書き始めてちょうど二年経ってました。

一年以上遅れですが誤字指摘コメントありがとうございます。
めと
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コメント



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4.100名前が無い程度の能力削除
このシリーズは前から好きだったので良かったです。
「アルビノ」さんが気になるところですねぇ。続きがあるのならぜひ見たいです
6.100機械仕掛けの悪魔削除
待っていたかいがあった。
(≧▽≦)
続きが楽しみです
10.無評価名前が無い程度の能力削除
ずっと待ってましたーレミリアが大人びてて面白かったです
咲夜との出会いもそのうちぜひ…
11.100名前が無い程度の能力削除
非常に丁寧な文章で、細部に気をつけながら描かれているのが伝わってきました。
レミリアが自分の持つ能力を誇大妄想の類だと思い込み、持て余すというのは非常に新鮮な解釈で興味深く読むことが出来ました。
続きを待っています。
12.100名前が無い程度の能力削除
面白かったです!これは是非もっと評価されるべきだ…
この紅魔館の「今」の話も読んでみたいです
13.100名前が無い程度の能力削除
この作品に出会えて良かったと全て読み終わった今、しみじみと感じます
14.100名前が無い程度の能力削除
一気に1部~3部読みました、長かったですが面白かったです
アルビノの女の子途中まで咲夜かと思ったw
16.100名前が無い程度の能力削除
面白かった