今年の春告精は、随分と気が早いらしい。雪も風の冷たさもまだ残っているというのに、上空から浮かれた様子で弾幕の雨を降らせてくる。冬の名残を惜しむ雪女との弾幕ごっこは、地上から見ると雪の花火とも思えた。香霖堂の屋根へ勝手に登った魔理沙は、真新しいマフラーを鼻下に当てて二人の弾幕ごっこを眺めている。くすんだ赤の毛糸で編まれたそれは、バレンタインデーにアリスから貰ったものだ。一月ほど経った今でも、思い出しては顔が綻ぶ。ニヤける表情を霖之助に見られる度散々からかわれるから――マフラーを深く巻くのにはそんな理由もあった。それでも仕方ないだろうと、人知れず魔理沙は思う。霊夢よりも、パチュリーよりも、他の誰よりもアリスのことが好きなのだから。
人間であることに拘って彼女を悲しませる事に比べれば、持論をねじ曲げるくらいは屁でもない。勝手な都合で置いて逝かれる辛さは、魔理沙自身身に染みている。実の両親と和解するつもりはない、彼女にとって親と呼ぶべき存在は魅魔だけだと思っている。今住処としている洋館も、元はと言えば魅魔が隠れ家の一つとして使っていたものだ。勝手に借りている形ではあるが、今尚師であり親である彼女を待ち続けている。淡い期待とは分かりつつも、いつかは返ってくることを頑なに信じて。ただそれだからと言って、アリスにまで自分の思いを押し付けるようなことはしたくない。彼女には帰る場所があり、暖かく迎えてくれる家族がいる。彼女自身が自立したつもりであっても親にとっては娘であり、姉にとっては妹である。その関係はお互いが否定しない限り、生涯変わることはない。実家を捨て、あるいは捨てられ、拾ってくれた師に失う痛みを教わったからこその思考だった。
「……霊夢は、どうなんだろうな……」
詳しい生い立ちまでは知らないが、霊夢には生みの親の記憶はあるのだろうか。今の彼女にとって親がいるとするならば、それは紫以外にいないだろう。そして冬の間に聞いた、霊夢が布団を新調したという噂。霊夢が「あいつ」と交際していることは、魔理沙も知るところである。カカオ豆を貰いに紅魔館へ行った時など、主が語る愚痴の半分はそれだった。元々は霊夢狙いだった吸血鬼の少女も、友人が恋敵になってあろうことか結ばれるとまでは思っていなかったらしい。それよりも魔理沙にとっては、メイドが主に放つ嫉妬のオーラの方がよっぽど怖かった。主従として超えてはならない一線はあるだろう、とは釘を刺しているもののどうするかは本人次第だ。とかく、春が近いとなれば霊夢達のことが紫に知れるのも必然だろう。最近彼女からは疎ましがられているが、それでも友人の一人として気にはしておくべきと思うのだ。
「まあ、上手くやれよな」
森にはいないであろう二人に、魔理沙は呟いた。
気の早い鶯の声が、神社の所々で聞こえる。桜に交じった梅は既に見頃を過ぎて、酒の肴には少し寂しい趣となっている。雪が残る境内の森では、ふきのとうが顔を出し始めている。これだけ春の兆しが揃っているというのに、空に春告精の姿は見えない。空気が冷たいからだろうか――否、春の気配に浮かれてなどいられない、淀んだ空気が支配していたからだ。
居間のちゃぶ台を囲むのは三人、紅白の少女と紅い第三の瞳を胸元に置く少女、そして二人に厳しい眼差しを叩きつける妖怪の賢者。具体的には後者二人が東西差し向かいで座り、南側に紅白の少女が座っている。東に座る賢者の顔には貼り付けたような作り笑いが浮かべられ、サトリ妖怪の目を以ってしてもその真意は伺えない。涙目で視線を賢者から逸らしつつ、第三の瞳を動かしてもう一人に助けを求める。しかし彼女の心は「アンタが自力で何とかするしかない」と、つれない答えしか返ってこない。いや、実際そうしなければならないのは分かっているのだが、如何せん怖すぎて言葉が出ない。
一体何故、こんな事になってしまったのだろうか。ただ私は、霊夢さんと一緒にいたいだけなのに。第三の瞳を持つ少女、古明地さとりの心に過るのはそんな疑問だった。彼女と紅白の少女、博麗霊夢との付き合いは夏の終わりに始まり、冬になってお互いの意識に気付いてから本格化した。図書館の整理で処分に困った外来本が神社に押し付けられ、更にそれを霊夢が地霊殿に押し付けたのが始まりである。自ら神社に赴いて一晩で読み切るばかりか、熱っぽく語ったさとりが思いのほか可愛く思えたのが霊夢側の理由。常々疎ましがられる自分の能力を気にしないばかりか、さらりと「便利」とまで言って受け入れて貰えたのがさとりの理由。自覚してしまえば後は早いもので、度々お互いの家に赴いては体を重ね、心を通わせる仲にまで発展している。程良く節度を弁えた交際を続けているからか、からかわれても邪険にされたり咎められたりはしなかった。あの口煩い閻魔でさえ、二人の関係自体に口を出さなかったと言えば理解できるだろう。
だからこそ今ここで、取り調べでも受けるかのように妖怪の賢者と対峙させられている状況は二人にとって想定外だった。厳密には霊夢は薄々ありそうだと思っていたようだが、さとりに心を読ませないまでするとは思っていなかったらしい。とは言え親子ほどに付き合いの長い賢者が何を考えているのか、霊夢には気がついていた。聡明なさとりの事だから、彼女も同じように分かってはいるのだろう。それならあなたが何を言うべきか、分かっているわよね? ちゃぶ台の上に肘を乗せて顔の前で手を組んだ霊夢は、横目でもう一人を睨みつつさとりに心で話しかける。相手が一瞬怪訝の表情を浮かべたのを合図に、意を決してさとりは口を開く。
「初めまして、でよろしいでしょうか。八雲さん」
「……ええ、古明地さとりさん。随分と口が重かったじゃない」
嫌味ったらしい言い方で答えた紫に、さとりの表情が引きつる。二人の様子を交互に伺っていた霊夢は小さなため息をついて、目を伏せた。一拍置いて、さとりが言葉を続ける。
「はい。それで八雲さん、あなたは私に何の用事でしょうか?」
「それは心を読めば分かるんじゃない?」
「アンタが読ませないから聞いてるんじゃないの」
呑剣な、しかし鋭い言葉で霊夢は紫を牽制する。じっとりとした言い方に滲む言外の意図に、さしもの彼女も一瞬言葉を失った。続けて何かを言いかけたが、そのまま視線をさとりに振る。ここから先はさとりが追求しろと言いたいらしい、彼女が視線に気づくと霊夢は再び視線を落とした。
「……八雲さん、答えてくださいませんか? 何故心を読ませないのに、心を読めと言ったのか」
「愚か者の思考ね。自分では何も考えず、すぐに答えを知ろうとする」
「では私の推論を勝手に語らせていただきます。合っていれば愚かというのは撤回していただけますか」
「……いいわ、話してみなさい」
「あ、紫? 言っとくけど正直に答えなさいよね。でないと意味が無いから」
さとりが話しだす前に、霊夢が紫に釘を刺す。苦虫を噛み潰した顔で霊夢とさとりを交互に見つめたものの、すぐに表情を戻す。
「結論から言いましょう……私を試したのですね。霊夢さんとの関係を知った上で」
「っ!?」
さとりの言葉に、初めて霊夢が姿勢を崩す。紫の表情にも微かに驚きが見て取れたあたり、何かを突いたのは間違いない。しかし食いついたのは霊夢の方だった。
「どういう事よ……紫がアンタを試すって」
「今の状況がそのままそうなんです。どんな伝手でかは分かりませんが、私と霊夢さんがどんな関係か、確信しているでしょう」
「……心を読んだの?」
「いいえ、それはあなたが一番分かっている筈です。そしてその質問は認めているのと同じですよ」
言葉にはしなかったが、さとりは紫の言葉にもう一つの確信を得た。紫は最初から、自分達の関係を否定するつもりなどない。冬眠の話はお燐から聞いていたし、霊夢も大凡の目安を語ってくれた。異変の時は冬だったが、起きていた理由もすぐに納得がいった。もし自分と霊夢の交際が彼女にとって許し難いものであるならば、こんな形は取らないだろう。恐らくは霊夢の目につかない場所で、自分の手を汚すこと無く、消しに来たのではないか。幻想郷そのものを牛耳る妖怪だ、それくらいの伝手は有ったって何の不思議もない。
話している内に冷静になれたのか、一度回り出した思考はスルスルと論理の糸を紡いでいく。でももうそれもほとんど必要ない、あとは自分の正直な気持ちを伝えるしかないのだから。
「ですから八雲さん……認めていただけますか? 私と霊夢さんの関係は、恐らくあなたが確認した通りだと思います。私はその……恥ずかしいですけど、正直に答えて下さい」
一瞬驚いた顔になったものの、すぐに表情が微かに綻ぶ。さっきまでの作り笑いではなく、どこか不気味さを感じさせる柔和な笑みだ。
「……気が抜けたわ。必死になってた私がバカみたいじゃない」
「え……と?」
「付き合ってるんでしょ、あなた達。魔法使いのバカップルみたいに」
「ちょっ!? あんなのと一緒にしないでよ!!」
紫の言葉に霊夢が顔を赤く染めたことで、さとりにもようやく意味が飲み込めた。霊夢の心に映る金髪二人の甘ったるい所業は、さとり自身幾つか心当たりがあった。そこに思い至って、今更顔から火が出るほど恥ずかしくなってしまった。自分がするのと他人を見るのとは、全く意味が違うと認識させられてしまう。最も森とあらばどこでもやらかす二人に比べれば、互いの自宅でだけイチャつく彼女達のほうがよっぽど真っ当なのだが。
分かりやすく狼狽する二人の少女に、紫の笑顔から不気味さが消える。本心をさらけ出した無防備で無垢なその表情に、さとりが気付く。それまで心にドロドロと渦巻いていた冷たい闇が薄れ、少しづつ紫の思考と感情が見えてくる。
「申し訳ありませんでした、さとりさん。あなたの言う通り少しばかり意地悪して、試させていただきました。あなたが霊夢に相応しい存在か、あなた自身がどこまで本気かをね」
サトリ妖怪に嘘は無駄だと紫も分かっているのか、本心のままに言葉を連ねる。同時にどうやって二人の関係を知ったのか、その経緯も第三の眼を通じて流れ込んでくる。紫が冬眠時に見る夢は、幻想郷全土のリアルタイム状況であるようだ。はるか上空から俯瞰していることもあれば、人と同じ大地の目線になることもある。森の奥で唇を重ねる二人の魔法使い、半人半霊をからかう尸解仙、主に吸血されそうになっているメイド。種々様々の風景に、雪深い博麗神社の俯瞰が交じる。勝手口には見慣れた髪の少女が立ち、慌てて出てきた霊夢に気づくと嬉しそうに体を揺らした。すっと地面に降りていく感覚とともに視界が地面に近づくと、二人の顔がはっきりし始める。素っ気ない表情に照れを隠す巫女と、心底幸せそうな少女。二人の顔が確認できた所で、視界が閉じた。
「……そういう事だったんですね」
「ええ、勝手に覗いちゃってごめんね」
そもそもこのスキマ妖怪に隠し事自体が不可能だろう、そうは思うものの口にはしない。それよりも本題を聞いていない、さとりにとってはそちらが気になって仕方がなかった。いや、心を読めるようになって結論は分かっているのだがどうしても紫本人の口から言って欲しかった。さとりの思いを代弁したのは、霊夢だった。
「で、紫? 回りくどい事言ってないで結論言いなさいよ」
「ああ、そうね。良いでしょう、貴方達の交際に私は口を挟みません。節度を持って付き合ってるようですし、さとりの思いも確認しました。幻想郷の主として、また霊夢の保護者として――さとりさん、私はあなたを歓迎します」
紫の宣言に霊夢は安堵の溜息を漏らし、流し目とともにさとりへ微笑みかける。ほっとして蕩けるように、彼女はちゃぶ台へと突っ伏した。霊夢は何事かと心配になったがすぐ、さとりの肩が震えていることに気付く。しゃくりあげる涙声と時折混じる鼻声で、霊夢だけでなく紫も察する。さっきまで霊夢がさとりにしていたように、紫が霊夢に目配せを送る。さとりの側に寄り添い、頭を撫でながら少しづつ彼女の体を胸に抱き寄せていく。
――ありがとう、頑張ったわね
第三の瞳で見た霊夢の心に、さとりの思いが言葉になって紡がれる。
「……怖かった、なんで……紫さん……っぐっ……」
「分かってるでしょうに」
「分かっ、てても……あんな……脅されて……!」
「そうね。でももう大丈夫、アンタのこと認めてくれたじゃない」
霊夢の言葉に、今度こそさとりの心は限界だった。もう一人いることも厭わず、滂沱の涙を零しながら泣き叫ぶ。先程までの恐怖、不安、立ち向かうために振り絞ったありったけの勇気。認めてもらえた嬉しさと安堵、そして愛しい人の暖かさに包まれる安心感。自分の事なのに、ないまぜになりすぎて言葉がまとまらない。声になる言葉はただひとつ、壊れたようにその言葉を繰り返す。
「霊夢さん……霊夢さん……!」
「っ……呼ばなくったって、ここに居るじゃない」
仲睦まじい二人を、紫は何も言わず祝福する。自らの手で育て上げてきた彼女にとって、霊夢は実娘に等しい。友人達は自分を光源氏と勘違いしているようだが、あるのは親としての感情。彼女が誰と付き合おうと、巫女の本分さえ忘れなければ口を出す筋合いもない。それでも霊夢が本気の交際をしているとなればやはり相手は気になるし、確かめたくもなる。少々底意地の悪い真似はしたものの、これくらいでへばられるようでは霊夢をやる訳にはいかない。でもお詫びくらいはした方がいいかしら。
スキマを開いた紫は腕を伸ばし、その先にいた相手へとデコピンを打ち込んだ。森の中、丁度神社の中が伺えるあたりから「あやっ」と短い悲鳴が聞こえる。声の主は即座に撤退を決め込んだようだが、フィルムと手帳のページは別のスキマを開いて回収しておいた。人の恋路を邪魔する野暮な客にはお引取り願って、彼女は腰を上げ台所へと足を向ける。朝餉くらいは用意してあげても、バチは当たるまい。
人間であることに拘って彼女を悲しませる事に比べれば、持論をねじ曲げるくらいは屁でもない。勝手な都合で置いて逝かれる辛さは、魔理沙自身身に染みている。実の両親と和解するつもりはない、彼女にとって親と呼ぶべき存在は魅魔だけだと思っている。今住処としている洋館も、元はと言えば魅魔が隠れ家の一つとして使っていたものだ。勝手に借りている形ではあるが、今尚師であり親である彼女を待ち続けている。淡い期待とは分かりつつも、いつかは返ってくることを頑なに信じて。ただそれだからと言って、アリスにまで自分の思いを押し付けるようなことはしたくない。彼女には帰る場所があり、暖かく迎えてくれる家族がいる。彼女自身が自立したつもりであっても親にとっては娘であり、姉にとっては妹である。その関係はお互いが否定しない限り、生涯変わることはない。実家を捨て、あるいは捨てられ、拾ってくれた師に失う痛みを教わったからこその思考だった。
「……霊夢は、どうなんだろうな……」
詳しい生い立ちまでは知らないが、霊夢には生みの親の記憶はあるのだろうか。今の彼女にとって親がいるとするならば、それは紫以外にいないだろう。そして冬の間に聞いた、霊夢が布団を新調したという噂。霊夢が「あいつ」と交際していることは、魔理沙も知るところである。カカオ豆を貰いに紅魔館へ行った時など、主が語る愚痴の半分はそれだった。元々は霊夢狙いだった吸血鬼の少女も、友人が恋敵になってあろうことか結ばれるとまでは思っていなかったらしい。それよりも魔理沙にとっては、メイドが主に放つ嫉妬のオーラの方がよっぽど怖かった。主従として超えてはならない一線はあるだろう、とは釘を刺しているもののどうするかは本人次第だ。とかく、春が近いとなれば霊夢達のことが紫に知れるのも必然だろう。最近彼女からは疎ましがられているが、それでも友人の一人として気にはしておくべきと思うのだ。
「まあ、上手くやれよな」
森にはいないであろう二人に、魔理沙は呟いた。
気の早い鶯の声が、神社の所々で聞こえる。桜に交じった梅は既に見頃を過ぎて、酒の肴には少し寂しい趣となっている。雪が残る境内の森では、ふきのとうが顔を出し始めている。これだけ春の兆しが揃っているというのに、空に春告精の姿は見えない。空気が冷たいからだろうか――否、春の気配に浮かれてなどいられない、淀んだ空気が支配していたからだ。
居間のちゃぶ台を囲むのは三人、紅白の少女と紅い第三の瞳を胸元に置く少女、そして二人に厳しい眼差しを叩きつける妖怪の賢者。具体的には後者二人が東西差し向かいで座り、南側に紅白の少女が座っている。東に座る賢者の顔には貼り付けたような作り笑いが浮かべられ、サトリ妖怪の目を以ってしてもその真意は伺えない。涙目で視線を賢者から逸らしつつ、第三の瞳を動かしてもう一人に助けを求める。しかし彼女の心は「アンタが自力で何とかするしかない」と、つれない答えしか返ってこない。いや、実際そうしなければならないのは分かっているのだが、如何せん怖すぎて言葉が出ない。
一体何故、こんな事になってしまったのだろうか。ただ私は、霊夢さんと一緒にいたいだけなのに。第三の瞳を持つ少女、古明地さとりの心に過るのはそんな疑問だった。彼女と紅白の少女、博麗霊夢との付き合いは夏の終わりに始まり、冬になってお互いの意識に気付いてから本格化した。図書館の整理で処分に困った外来本が神社に押し付けられ、更にそれを霊夢が地霊殿に押し付けたのが始まりである。自ら神社に赴いて一晩で読み切るばかりか、熱っぽく語ったさとりが思いのほか可愛く思えたのが霊夢側の理由。常々疎ましがられる自分の能力を気にしないばかりか、さらりと「便利」とまで言って受け入れて貰えたのがさとりの理由。自覚してしまえば後は早いもので、度々お互いの家に赴いては体を重ね、心を通わせる仲にまで発展している。程良く節度を弁えた交際を続けているからか、からかわれても邪険にされたり咎められたりはしなかった。あの口煩い閻魔でさえ、二人の関係自体に口を出さなかったと言えば理解できるだろう。
だからこそ今ここで、取り調べでも受けるかのように妖怪の賢者と対峙させられている状況は二人にとって想定外だった。厳密には霊夢は薄々ありそうだと思っていたようだが、さとりに心を読ませないまでするとは思っていなかったらしい。とは言え親子ほどに付き合いの長い賢者が何を考えているのか、霊夢には気がついていた。聡明なさとりの事だから、彼女も同じように分かってはいるのだろう。それならあなたが何を言うべきか、分かっているわよね? ちゃぶ台の上に肘を乗せて顔の前で手を組んだ霊夢は、横目でもう一人を睨みつつさとりに心で話しかける。相手が一瞬怪訝の表情を浮かべたのを合図に、意を決してさとりは口を開く。
「初めまして、でよろしいでしょうか。八雲さん」
「……ええ、古明地さとりさん。随分と口が重かったじゃない」
嫌味ったらしい言い方で答えた紫に、さとりの表情が引きつる。二人の様子を交互に伺っていた霊夢は小さなため息をついて、目を伏せた。一拍置いて、さとりが言葉を続ける。
「はい。それで八雲さん、あなたは私に何の用事でしょうか?」
「それは心を読めば分かるんじゃない?」
「アンタが読ませないから聞いてるんじゃないの」
呑剣な、しかし鋭い言葉で霊夢は紫を牽制する。じっとりとした言い方に滲む言外の意図に、さしもの彼女も一瞬言葉を失った。続けて何かを言いかけたが、そのまま視線をさとりに振る。ここから先はさとりが追求しろと言いたいらしい、彼女が視線に気づくと霊夢は再び視線を落とした。
「……八雲さん、答えてくださいませんか? 何故心を読ませないのに、心を読めと言ったのか」
「愚か者の思考ね。自分では何も考えず、すぐに答えを知ろうとする」
「では私の推論を勝手に語らせていただきます。合っていれば愚かというのは撤回していただけますか」
「……いいわ、話してみなさい」
「あ、紫? 言っとくけど正直に答えなさいよね。でないと意味が無いから」
さとりが話しだす前に、霊夢が紫に釘を刺す。苦虫を噛み潰した顔で霊夢とさとりを交互に見つめたものの、すぐに表情を戻す。
「結論から言いましょう……私を試したのですね。霊夢さんとの関係を知った上で」
「っ!?」
さとりの言葉に、初めて霊夢が姿勢を崩す。紫の表情にも微かに驚きが見て取れたあたり、何かを突いたのは間違いない。しかし食いついたのは霊夢の方だった。
「どういう事よ……紫がアンタを試すって」
「今の状況がそのままそうなんです。どんな伝手でかは分かりませんが、私と霊夢さんがどんな関係か、確信しているでしょう」
「……心を読んだの?」
「いいえ、それはあなたが一番分かっている筈です。そしてその質問は認めているのと同じですよ」
言葉にはしなかったが、さとりは紫の言葉にもう一つの確信を得た。紫は最初から、自分達の関係を否定するつもりなどない。冬眠の話はお燐から聞いていたし、霊夢も大凡の目安を語ってくれた。異変の時は冬だったが、起きていた理由もすぐに納得がいった。もし自分と霊夢の交際が彼女にとって許し難いものであるならば、こんな形は取らないだろう。恐らくは霊夢の目につかない場所で、自分の手を汚すこと無く、消しに来たのではないか。幻想郷そのものを牛耳る妖怪だ、それくらいの伝手は有ったって何の不思議もない。
話している内に冷静になれたのか、一度回り出した思考はスルスルと論理の糸を紡いでいく。でももうそれもほとんど必要ない、あとは自分の正直な気持ちを伝えるしかないのだから。
「ですから八雲さん……認めていただけますか? 私と霊夢さんの関係は、恐らくあなたが確認した通りだと思います。私はその……恥ずかしいですけど、正直に答えて下さい」
一瞬驚いた顔になったものの、すぐに表情が微かに綻ぶ。さっきまでの作り笑いではなく、どこか不気味さを感じさせる柔和な笑みだ。
「……気が抜けたわ。必死になってた私がバカみたいじゃない」
「え……と?」
「付き合ってるんでしょ、あなた達。魔法使いのバカップルみたいに」
「ちょっ!? あんなのと一緒にしないでよ!!」
紫の言葉に霊夢が顔を赤く染めたことで、さとりにもようやく意味が飲み込めた。霊夢の心に映る金髪二人の甘ったるい所業は、さとり自身幾つか心当たりがあった。そこに思い至って、今更顔から火が出るほど恥ずかしくなってしまった。自分がするのと他人を見るのとは、全く意味が違うと認識させられてしまう。最も森とあらばどこでもやらかす二人に比べれば、互いの自宅でだけイチャつく彼女達のほうがよっぽど真っ当なのだが。
分かりやすく狼狽する二人の少女に、紫の笑顔から不気味さが消える。本心をさらけ出した無防備で無垢なその表情に、さとりが気付く。それまで心にドロドロと渦巻いていた冷たい闇が薄れ、少しづつ紫の思考と感情が見えてくる。
「申し訳ありませんでした、さとりさん。あなたの言う通り少しばかり意地悪して、試させていただきました。あなたが霊夢に相応しい存在か、あなた自身がどこまで本気かをね」
サトリ妖怪に嘘は無駄だと紫も分かっているのか、本心のままに言葉を連ねる。同時にどうやって二人の関係を知ったのか、その経緯も第三の眼を通じて流れ込んでくる。紫が冬眠時に見る夢は、幻想郷全土のリアルタイム状況であるようだ。はるか上空から俯瞰していることもあれば、人と同じ大地の目線になることもある。森の奥で唇を重ねる二人の魔法使い、半人半霊をからかう尸解仙、主に吸血されそうになっているメイド。種々様々の風景に、雪深い博麗神社の俯瞰が交じる。勝手口には見慣れた髪の少女が立ち、慌てて出てきた霊夢に気づくと嬉しそうに体を揺らした。すっと地面に降りていく感覚とともに視界が地面に近づくと、二人の顔がはっきりし始める。素っ気ない表情に照れを隠す巫女と、心底幸せそうな少女。二人の顔が確認できた所で、視界が閉じた。
「……そういう事だったんですね」
「ええ、勝手に覗いちゃってごめんね」
そもそもこのスキマ妖怪に隠し事自体が不可能だろう、そうは思うものの口にはしない。それよりも本題を聞いていない、さとりにとってはそちらが気になって仕方がなかった。いや、心を読めるようになって結論は分かっているのだがどうしても紫本人の口から言って欲しかった。さとりの思いを代弁したのは、霊夢だった。
「で、紫? 回りくどい事言ってないで結論言いなさいよ」
「ああ、そうね。良いでしょう、貴方達の交際に私は口を挟みません。節度を持って付き合ってるようですし、さとりの思いも確認しました。幻想郷の主として、また霊夢の保護者として――さとりさん、私はあなたを歓迎します」
紫の宣言に霊夢は安堵の溜息を漏らし、流し目とともにさとりへ微笑みかける。ほっとして蕩けるように、彼女はちゃぶ台へと突っ伏した。霊夢は何事かと心配になったがすぐ、さとりの肩が震えていることに気付く。しゃくりあげる涙声と時折混じる鼻声で、霊夢だけでなく紫も察する。さっきまで霊夢がさとりにしていたように、紫が霊夢に目配せを送る。さとりの側に寄り添い、頭を撫でながら少しづつ彼女の体を胸に抱き寄せていく。
――ありがとう、頑張ったわね
第三の瞳で見た霊夢の心に、さとりの思いが言葉になって紡がれる。
「……怖かった、なんで……紫さん……っぐっ……」
「分かってるでしょうに」
「分かっ、てても……あんな……脅されて……!」
「そうね。でももう大丈夫、アンタのこと認めてくれたじゃない」
霊夢の言葉に、今度こそさとりの心は限界だった。もう一人いることも厭わず、滂沱の涙を零しながら泣き叫ぶ。先程までの恐怖、不安、立ち向かうために振り絞ったありったけの勇気。認めてもらえた嬉しさと安堵、そして愛しい人の暖かさに包まれる安心感。自分の事なのに、ないまぜになりすぎて言葉がまとまらない。声になる言葉はただひとつ、壊れたようにその言葉を繰り返す。
「霊夢さん……霊夢さん……!」
「っ……呼ばなくったって、ここに居るじゃない」
仲睦まじい二人を、紫は何も言わず祝福する。自らの手で育て上げてきた彼女にとって、霊夢は実娘に等しい。友人達は自分を光源氏と勘違いしているようだが、あるのは親としての感情。彼女が誰と付き合おうと、巫女の本分さえ忘れなければ口を出す筋合いもない。それでも霊夢が本気の交際をしているとなればやはり相手は気になるし、確かめたくもなる。少々底意地の悪い真似はしたものの、これくらいでへばられるようでは霊夢をやる訳にはいかない。でもお詫びくらいはした方がいいかしら。
スキマを開いた紫は腕を伸ばし、その先にいた相手へとデコピンを打ち込んだ。森の中、丁度神社の中が伺えるあたりから「あやっ」と短い悲鳴が聞こえる。声の主は即座に撤退を決め込んだようだが、フィルムと手帳のページは別のスキマを開いて回収しておいた。人の恋路を邪魔する野暮な客にはお引取り願って、彼女は腰を上げ台所へと足を向ける。朝餉くらいは用意してあげても、バチは当たるまい。