※この作品は『切り捨て御免と千里眼』シリーズの完結編です。
「はい」
とんっ、と少し乱暴に置かれた湯飲みを見つめて、妖夢は目をぱちくり。
「それ飲んだらとっとと帰るのよ」
「霊夢ー、茶菓子がないぜー」
「今持ってくるから黙って待ってなさい!」
魔理沙の催促に怒鳴り声を上げながら、湯飲みを持ってきた少女――“楽園の素敵な巫女”博麗霊夢は再び台所のほうへと消えていく。
日は中天を過ぎ、緩やかに沈み始めていた。もうしばらくすれば幻想郷は茜色に染まり、そして妖怪の蔓延る夜が訪れるだろう。
そんな昼を少し過ぎたころ、妖夢は博麗神社の縁側に腰掛けていた。左を見ると、“普通の魔法使い”霧雨魔理沙がふうふうと湯飲みに息を吹きかけている。
とりあえず、と妖夢も湯飲みに手を伸ばし、
「あち」
「気を付けろよ。霊夢の淹れるお茶は熱いんだ」
「遅いわよ」
並んでふたり、ふうふうと。
やがて自分の茶と三人分の羊羹を盆に載せた霊夢が、妖夢の右隣に座った。
「おお、羊羹!」
「ありがとう、霊夢」
「素敵なお賽銭箱はあちら」
ぴっ、と神社の表側を指差してから、霊夢はずずずと茶をすする。あとで入れておこうかなと思いつつ、妖夢は羊羹を頬張った
――うん、入れよう。羊羹おいしい。
たまたま里で鉢合わせた魔理沙に半ば引きずられるようにして連れてこられたのだが、来て良かったかもしれない。買い出しも終わっているし、美味しい羊羹と茶を楽しむくらいの寄り道をしてもバチは当たらないだろう。
「……で、何かあったのか?」
早々に羊羹をたいらげた魔理沙は、湯飲みに口をつけたままちらりとこちらを見て言った。
「……何かって?」
思わず、手が止まる。
「いや、なんか元気ないなーと思ったんだが、違ったか?」
「まぁたあんたは余計なお節介を」
「いいだろ、別に」
「人の事情に土足で踏み込むような真似はするものじゃないわ」
「失礼な。ちゃんと靴は脱いで、さらに優雅に一礼までしていますわ」
「嘘おっしゃい」
「あ、あの!」
やいのやいのと話すふたりの間から妖夢は声を上げた。
「えっと……」
左右から視線を受けながら、言葉を続ける。
「魔理沙、心配してくれてありがとう」
「おう、もっと敬え」
「茶々いれない」
「霊夢も気付いていたの?」
「……まあ、なんとなく」
見抜かれていた。
だから、魔理沙は茶に誘ってくれたのか。だから、霊夢は美味しい羊羹を振舞ってくれたのか。
言外には出さないが、ふたりとも気にかけてくれていたのだ。
ならば、
「私は、」
ならば話さねば、ふたりの優しさを無碍にすることになる。
「私は、強くなっているのかな、って、不安になっていたの」
「……」
「ふたりは椛のこと、覚えてる?」
「覚えてるぜ」
「……あの天狗よね」
――霊夢のやつ、かろうじて思い出したな。
椛――“山のテレグノシス”犬走椛は妖怪の山の白狼天狗だ。妖夢はかつて妖怪の山に足を踏み入れ、そこで椛と出会った。
始まりは敵同士。だが今は、多くの時を共有し、妖夢とって椛は無二の友となっていた。
「椛には、たまに稽古をつけてもらっているんだけど、」
「ああ、守矢神社でチャンバラしてるな」
「うん。でもね、私はまだ椛から一本も取ったことがないの……」
相手は、かの白狼天狗。幻想郷でも屈指の力を持つ天狗の中でも、特に戦闘に秀でた種族だ。半人半霊の妖夢とは、生まれながらにして度し難い力の差があった。
しかし、だがしかしである。
「師匠から剣を教えてもらって、椛からも稽古をつけてもらって、それでも私は、まだ椛の足元にも及んでいない」
まだ、妖夢の剣は天狗に届かない。
「だから、ちょっと、ね」
そう言って、妖夢は力なく笑った。
「ふーん……」
話を聞いた魔理沙は頭の後ろで手を組んでごろんと転がる。
「ま、いいいんじゃないか?」
「いいんじゃないかって……」
このままでは師に、椛に、そして主人に申し訳が立たない。自分は白玉楼の盾だ。強くならなければいけないのに。
「私はさ、妖夢の気持ちがよく分かる。いや、お前よりもずっと、その気持ちは私のほうが強い」
「……そうなの?」
「そりゃあそうさ。考えてもみろよ。私の周りにいる魔法使いどもはどうだ? 人形遣いも、本の虫も、坊さんだって、どいつもこいつも人間を辞めたり元から人間じゃなかったりで、高い魔力を手に入れている。持ちうる魔力の差、スキルの差なんて推して知るべし、だぜ。
でも、私はそいつらを超えて大魔法使いになるんだ。そのくらいのことでいちいち挫折してたら時間がいくらあっても足りないぜ」
「あ……確かに」
魔理沙はあくまでも“人間の”魔法使いなのだ。魔理沙の前にもまた、妖夢と同様に種族の壁が立ちはだかっていた。
でも、そんな壁を前にしてもなお、空を真っ直ぐ見上げる金の瞳はとても透き通っていて。その探求の光が、妖夢には眩しかった。
「ま、とは言え、だ。妖夢は私よりもちょっとばかし長生きだろうからな。たまには立ち止まってみるのもいいんじゃないか?」
「……ちょっとばかし、か」
「食器、片付けるわよ」
と、魔理沙の顔を見る妖夢の横で、霊夢が立ち上がった。そして、それぞれ空になった皿を盆に重ねて乗せていく。
「まあ、なんていうか……私は魔理沙みたいに偉そうなことは言えないんだけど、」
「偉そうとはなんだ」
「天狗に見初められたんなら、少なくともボンクラじゃあないんじゃない?」
「みそッ……!?」
ぼっ、と。一気に顔が熱くなった。
「ちょっと霊夢!?」
「ま、頑張んなさいな」
妖夢の言葉には取り合わず、霊夢は足早に奥へと消えていってしまった。その後姿を眺めていた魔理沙は、
「まあ、霊夢にしては頑張ったほうじゃないか?」
そう言ってからからと笑った。
「ああもうっ、霊夢ったら……」
――見初められただなんて、そんな……
「霊夢は霊夢なりに励まそうとしてくれたんだ。そう言ってやるな」
「……そうね。霊夢、ありがとう」
小さく呟き、妖夢は湯飲みへ視線を落とした。たゆたう緑は丁度良い温度にまで下がっていた。
確かに、少し焦りすぎていたのかもしれない。もとより相手は白狼天狗。少し稽古をつけてもらった程度で勝てるはずもないのだ。悩むのは数年、数十年経ってからでいいではないか。
ず、と茶をひとくち。心地よい渋みが口の中いっぱいに広がった。
「魔理沙もありがとう。少し気分が楽になったわ」
礼を言いつつ妖夢が顔を向けると、
「へえ、てっきり造花だとばかり思っていたんだが……」
魔理沙が一輪の花を手に、それをまじまじと観察していた。楼観剣の鞘に括りつけられていた花だ。
「ちょっと魔理沙!? なにやってるの!?」
妖夢は慌てて花を奪って怒鳴った。しかし魔理沙はあっけらかんと言う。
「いや前から気になっていたんだ。刀に花なんてアンバランスだから、いったいどんな花なんだろうなって」
「あああ、取っちゃ駄目って言われてたのに……」
「その花はいったい何なんだ? 造花じゃなくて本物の花のようだが」
「ちょっと魔理沙うるさい」
「ハイ」
この花は、師――祖父から楼観剣を受け継いだ時に祖父が括りつけたものだった。『絶対に取ってはならない』という言葉とともに。
当時の妖夢にも、今の妖夢にも、祖父がどうしてそんなことを言ったのかは分からなかった。だが、それでも尊敬する祖父の言葉である。妖夢は今日までそれを守り続けていた。
だというのに。
「元に戻しときゃバレないって」
「黙って」
「ハイ」
もちろん花は元に戻すつもりだ。だが、このことは正直に話さねばならない。祖父は白玉楼を出てしまっていて、今はどこを放浪しているとも知れぬ根無し草。いつ戻ってくるかも定かではないが、しかしその時にはきちんと話して、謝って、如何様な罰でも受ける覚悟だった。
結び目が綻んでやしないだろうか。不安だったので、妖夢は花を括っていた紐を一度ほどいて……
「あら?」
ふと、気が付いた。
花のついていた位置よりも少し上に札が貼ってある。赤い縁取りで、妖夢には読めない文字が書き込まれた札だ。これも祖父に剥がさないよう言われていたものだった。
その符の端が、僅かに燻り、欠けていた。否、現在進行形で欠けている。じりじりと端から焼け焦げてきているのだ。
「な、なに、どうして?」
このままでは全て焼けてしまう。妖夢は慌てて札の焼き目に手のひらを押し付けようとした。この程度ならば、素手でも無理やり消せるだろう。
しかし、
ぽんっ。
「あっ」
限界だったのだろうか、妖夢が手を出す前に札は小さな火をあげ、一気に燃え尽きてしまった。
それが、異変の始まりだった。
…………
はらり、はらり。
舞い散る木の葉はただ紅く。
中秋の幻想郷、妖怪の山。日が昇ってしばらく、昼の少し前といったころ。降り注ぐ陽光は、そよぐ風は、心地よく。くん、と鼻を利かせれば、どこからともなく甘い香りが漂っていて。
轟々――
九天の滝を背に、白狼天狗の犬走椛は山の麓を俯瞰していた。
パチン、パチン、と背後――滝の裏側に設えられた休憩室から音が聞こえる。非番か休憩中の同僚たちか、あるいは河童たちが大将棋に興じているのだろう。
平和だった。今日は魔法使いの突撃もなく、侵入者もない。
椛は滝から突き出した足場の上であぐらをかいて、懐から一枚の符を取り出しぼんやりと眺めた。白紙のそれは、しかしただの符ではない。それは、幻想郷において力の証とも言える代物。弾幕ごっこの要、スペルカードの原紙だった。
この符には、まだ何も書かれていない。術者が自身の妖力、霊力と想い描く弾幕を記録して、初めてスペルカードとして使うことができる。
「うーむ」
そんな符を前に、椛は頭を悩ませていた。何か新しいスペルカードでも作れないものかと思い立ったものの、いざ考えてみるとなかなか出てこないものである。
「……また今度にするか」
やがて嘆息し、椛は符をしまった。
その時、
「犬走!」
風が荒れた。
突風は椛の白い髪を、衣を、そして狼の尾を激しく暴れさせた。
吹き飛ばされそうになった八角帽を手でおさえながら、椛は立ち上がって声のほうに目を向けた。
「騒がしいですね。何か良いネタでも手に入ったんですか? 射命丸さん」
風とともに現れた黒髪の少女は、
「澄ましてる場合じゃないわよ。ほら、これ」
“伝統の幻想ブン屋”鴉天狗の射命丸文は、いつになく険しい表情のまま手にした紙束を椛に放り投げた。
風に煽られ、あらぬ方向へ飛んでいきそうになった紙束を慌てて掴み取り、
「……花果子念報?」
椛は刷られた文字を読み上げた。
花果子念報――少し前から、文と同じように山の外の出来事を記事にするようになった新聞だったか。
文がなぜそんなものを渡したのか。疑問に思いながら椛は紙面に目を走らせ……
「なんだ、これは……?」
呆然と呟いた。
『
辻斬り注意報
昨日未明、妖怪の山でもお馴染みの魔法使い、霧雨魔理沙氏が辻斬りの被害に遭った。
容疑者は事件当時、霧雨氏と一緒に博麗神社にいたとされる冥界の魂魄妖夢氏。現在、魂魄氏は行方をくらませており、これからも被害が増える可能性が――
』
「理由は分からないけど、魂魄さんが魔理沙を斬ったらしいわ」
「そんな……何かの間違いでは?」
妖夢が魔理沙を斬った? 本当に? だとしたらなぜ?
椛は震える瞳で記事を読み進めていく。
『
――なお、霧雨氏は命に別状はなく、現在は竹林の診療所で静養をしている。いつかの借りを返したいと考えているならば、今しかない。
』
命に別状はない。その一語に、椛はひとまず安堵の息をついた。
しかし、である。
これは鴉天狗の新聞だ。その内容には捻じ曲がった主観や妄想が混ざっているのではないだろうか。この記事のどこまでが本当なのか、椛はことの真偽を確かめたかった。魔理沙のいる場所は……
――竹林の診療所……永遠亭か。
「行きなさい」
そう言いながら、文は椛の背を押した。足場から落ちそうになった椛は空を飛びながら目を丸くする。
「っと……え?」
「気になるんでしょ?」
「それは……そうですが……」
「ここは私が見ておくから、早く行きなさい」
この記事は、遅かれ早かれ椛の目につくことになっていたに違いない。その時、椛は持ち場を離れずにいられただろうか? そんな椛の葛藤など、文にはお見通しだったのだろう。だから先んじて事態を椛に伝え、この場を請け負うと言ってくれたのだ。
普段は人をからかったり何かと鬱陶しいところが目立つが、こういう時の文は、頼りになる。
「では……申し訳ありませんが、お願いします」
「ん。ただし、事の真相が分かったら教えなさいよね」
こういうところは抜け目がない。
「了解です」
椛は苦笑しながら答えた。それから休憩所に顔を出して――やはり同僚の白狼天狗と河童たちだ――持ち場を離れる旨を伝える。当然、仕事の引き継ぎの話になり全員が俯いたが、この場は文が引き継いでくれる。椛がそのことを話そうとした瞬間、
「じゃああんた、お願いね」
同じく休憩所の中を覗いていた文が目に留まった白狼天狗を指差してそう言ったのだった。
「……」
引き継ぐとはいったい何だったのか。
同僚は露骨に嫌そうな顔をしたが、相手が射命丸文では首を縦に振るしかなかった。
鴉天狗の間に限らず、文のことを知るものは多い。逆らえばどんな弱みを“捏造”されてしまうやら。流石に申し訳なかったので、その同僚には食事を奢ることを約束した。
――さて。
自由に動けるようになった椛は身支度を始めた。
「それで、どこに行くの?」
大太刀と盾を背負う椛に文が問いかけた。椛は肩紐の具合を確かめながら思案する。
「そうですね……」
あてはふたつある。
ひとつは新聞にも載っていた、竹林の診療所“永遠亭”だ。魔理沙から当時の妖夢の様子を聞くことができるだろう。仮に記事の内容が事実だったとしても、妖夢が理由もなく人を斬るとは考えられなかった。
そしてもうひとつは冥界の“白玉楼”だ。妖夢の仕事場にして下宿先。ここに住む妖夢の主人からも話を聞く価値はあるはずだ。もしかしたら、妖夢はもうここに戻っているかもしれない。
「……まずは、永遠亭に」
結果、椛はそう答えた。魔理沙とは知らぬ仲ではない。妖夢のことが気になるが、彼女の容態も確かめておきたかった。
「そう。私は魂魄さんの目撃情報がないか調べておこうかしら。何か分かったら鴉を飛ばすわ」
「ありがとうございます」
――妖夢、お前はどこにいる? 何をやろうとしている? なぜ霧雨魔理沙を斬った?
疑問は尽きない。とにかく状況を把握しなくては。
ねっとりとまとわりつく嫌な風を感じながら、椛は地を蹴った。
…………
山から人里へ。そして人里からほど近いところに迷いの竹林の入り口はあった。永遠亭は竹林の奥深くにあるため、空からは確認できない。そのうえ永遠亭の兎による細工が竹林全体に及んでいるせいで、上空からの到達は不可能なのだ。
竹林の入り口に降り立つと、ひとりの少女が椛を出迎えた。
「妹紅か」
「久しぶりね」
「私が来るのをずっと待っていたのか?」
「まさか。こいつを読んだからね。近いうちに来るんじゃないかって気にしていたのよ」
そう言って、月白の髪の少女――“蓬莱の人の形”藤原妹紅は持っていた花果子念報を軽く掲げた。
「永遠亭まで行くんでしょ? 案内するわ」
竹林に住む妹紅は、里から永遠亭までの道案内をしている。ただの人間では辿り着くことさえ困難な永遠亭だが、妹紅にとってはただの一本道とさして変わらない。永遠亭に行くならば妹紅の協力は不可欠なのだ。
しかし、
「ありがたい話だが、不要だ」
椛は申し出を断った。
「……本当に大丈夫なの?」
「ああ。私には“これ”がある」
心配そうに問う妹紅に、椛は自身の鼻をちょんと示した。
かつて椛は、病気で倒れた妖夢を担いで永遠亭まで行ったことがあった。その時は妹紅に道案内を依頼したのだが、今は永遠亭の匂いを覚えている。いかに感覚を狂わせる竹林とて、嗅覚までは狂わせられなかったのだ。
「それならいいけれど、でも少しだけ同行させてもらっていいかしら? 話しておきたいこともあるし」
「ああ、構わない」
椛は妹紅を伴って竹林へと踏み込む。くん、と鼻を鳴らして、
――こっちだな。
かすかな薬品の匂いを嗅ぎ取り、そちらへ向かう。
「へえ、分かるものなのね」
「一応は狼の眷属だからな」
感嘆の声に少しだけ尾を振り、歩を進めていく。
「それで、話とは?」
「そうそう。忠告しておきたかったのよ」
「忠告?」
風が吹いたか、辺りの笹の葉がざわめき始めた気がした。
「ええ。気を付けなさい。理由はどうあれ、妖夢は魔理沙を斬ってしまった」
あの記事の内容が事実ならば、だが。
「人妖を問わず、あの子を慕っているものは多いわ。その怒りの矛先、警戒の根が貴方にも及ぶ可能性は十分にある」
「なるほど」
こうして魔理沙のもとを訪れようとする行為も、人によっては『仲間がとどめを刺しに来た』と解釈するかもしれない。
だとしたら、決して楽な道中にはならないだろう。一刻も早く妖夢を見つけなければならない。
この事件のことは既に幻想郷中に広まっている可能性がある。魔理沙の仇討ちを企てるものが出てこないとも限らないのだ。妖夢を見つけ、守らなくては
「椛」
と、妹紅が椛の肩を掴んだ。仕方なしに歩みを止めて向き直ると、眼前に妹紅の顔があった。
「なんだ?」
「自覚はあるだろうけど、あえて言わせてもらうわよ」
こちらの心を射抜くように、妹紅は椛の目を覗き込んで言う。
「貴方は妖夢のことになると冷静さを失う。自分のやるべきこと、自分にできることを常に念頭に置いて行動しなさい。分かったわね?」
「……ああ、承知している」
内心の焦りを汲み取られてしまったのだろう。本当に、この蓬莱人は聡い。
しばし妹紅は椛の目を見つめ続ける。逸らさず正面から迎えてやると、やがて藤原妹紅はひとつ頷き、椛の背を押した。
「言いたいことはそれだけ。引き止めて悪かったわね」
「いや、ありがとう」
「健闘を祈っているわ」
視線を交わして頷きあって、そして椛は駆け出した。身体能力の高い白狼天狗である。飛ぶよりも走るほうが速いのだ。
竹林は深みを増していく。状況は相変わらず不透明なままだが、それもいずれ晴れていくだろう。
――まずは、霧雨魔理沙だ。
永遠亭に運ばれたと報じられていた魔理沙。彼女から話を聞くことができれば、何かしら分かるはずだ。
まず自分のやるべきことは、今の状況を把握することだ。そのためにできることは、魔理沙から話を聞くこと。
しっかりと確認し、椛は走る速度を上げた。
…………
眼前に広がるは、静寂をまとった日本家屋。永遠亭だ。
この一帯は特に静かだった。その雰囲気に、動物も、植物さえも息を潜めているかのように錯覚させられる。
「少しっ、はぁ、急ぎすぎたか……」
切れ切れの呼吸を整えながら、椛は呟いた。そこまで急いだつもりはなかったが、無意識のうちに歩が進んでいたらしい。
――ここに霧雨魔理沙がいる。
それと……
魔理沙は無事なのだろうか。
彼女は生身の人間だ。少しの怪我でも命に関わってしまう。刀傷などもっての他だろう。
「ふう……」
ようやく呼吸が落ち着き、椛は永遠亭の敷居をまたいだ。鼻につく薬品の匂いに顔をしかめつつ、戸を開く。
その時。
「動くな」
背後でガシャリと金属音。次いで足元から光。視線だけを足元に向けると、椛を取り囲むように山吹色の陣が張られていた。
そして開いた戸の奥、建物の中にいたのは、
「博麗霊夢」
黒髪の少女と、
「アリス・マーガトロイド」
金髪の少女だった。
このふたりがここにいるということは……
――やはり、妖夢は……?
「物騒だな」
視線をふたりに戻して椛が言うと、アリスは肩をすくめた。
「そうね、貴方が“どちら側”なのか、私たちには判断がつかない。だから多少は、ね?」
「分かってると思うけど、妙な動きをしたら退治するわよ」
「……」
――“どちら側”なのか、か。
まさしく妹紅の言ったとおりになったものだと、椛は内心で苦笑いを浮かべていた。
大人しく従ったほうがいい。ここへは争いに来たのではないのだから。それに、博麗の巫女と人形遣いを同時に相手取れるとは到底思えなかった。
椛はゆっくりと背の盾と大太刀を取り外すと床に置き、両手を挙げながらふたりのほうへと蹴った。椛の手から武器が離れ、霊夢とアリスは少しだけ安堵し、しかし同時に怪訝な表情を浮かべた。
「随分と素直ね」
「お前たちとは争う理由がない」
「だったら、何をしに来たの?」
「霧雨魔理沙と話がしたい」
「なぜ?」
「事の詳細が知りたい。妖夢が理由もなく人を斬るとは、到底思えないのだ」
博麗霊夢とアリス・マーガトロイドは、霧雨魔理沙の特に親しい友人だ。ふたりは魔理沙の身を案じて永遠亭に残っていたのだろう。例えば、魔理沙を仕留め損ねた妖夢が再度襲撃に来る可能性。例えば、案山子念報で提案されていたように、かつて魔理沙に苦汁を舐めさせられたものが仕返しにくる可能性。
ふたりにとって、椛は最も警戒すべき妖怪のひとりなのかもしれない。何しろ椛は、妖夢ととても近しいし、弾幕ごっこで何度も魔理沙に敗れている。
だが、どれだけ疑われていても行かなくてはならない。だから、
「きっと、何か理由があったに違いない。頼む、霧雨魔理沙と話をさせてくれ」
両手は挙げたままだが、精一杯の誠意を込めて椛は頭を下げた。人間に頭を下げるなど、プライドの高い天狗という種族においてはありえない行為だった。
「……」
息を飲む気配。やがて背後で再びガシャリと金属の音が聞こえた。
「霊夢、会わせてあげましょう。ここで話していても埒が明かないわ」
アリスが矛を収めてくれた。しかし、足元の陣はまだ消えていない。
「何よアリス、こいつの肩を持つの?」
「そういうわけじゃないけど」
ふたりのやり取りを聞きながら、しかし椛はまだ顔を上げない。まだ椛の命は霊夢に握られている。
「私たちがいれば彼女も下手に動けないでしょうし、話を聞くだけってことなら、さっさと要件を済ませて出て行ってもらいましょう」
「……」
こうっ、と、陣の光が強くなる。肌がぴりぴりと痛んだ。
「顔を上げなさい」
有無を言わさぬ声色。椛が顔を上げると、そこには異変解決を生業とする“博麗の巫女”が立っていた。
恐ろしい。これが数多の異変に身を投じ、そのことごとくを解決してきた少女の姿なのか。身体は小さく、しかし身にまとう霊力は底知れない。
「魔理沙から話を聞いて、それでどうするつもり?」
だが臆してはいけない。椛は霊夢の目を真っ向から見返した。
「分からない。だが、妖夢がこのような凶行を続けるようであれば、止める」
「あんたにできるの?」
「私が止める」
「……」
光がさらに強まった。ぴりぴりとした痛みは、やがて熱さを伴いながら身体の内側まで達し、血液が沸騰しているのではないかと思わせるほどになっていた。しかし退かない。唯一の手がかりなのだ。
椛も、霊夢も、ただ真っ直ぐに視線を交わす。その光景をアリスは黙って見ていたが、彼女の傍らにいる――先ほどまで椛の背を取っていたやつだろうか――槍を持った人形だけが、ふたりをおろおろと見ていた。彼女の内心を表しているのかもしれない。
「……」
「……」
ふ、と。
霊夢は小さく息をついて、手を軽く払った。瞬間、椛の足元に展開されていた陣が霧散する。そして霊夢は踵を返して歩き出した。
「ついてきなさい」
「……いいのか?」
「アリスの意見に賛成ってだけよ。用が済んだらとっとと出て行くこと」
肩越しに椛を見る霊夢の目は、まだ鋭かった。
が、ひとまず窮地から脱することはできたらしい。椛は二の腕や肩をさすりながら霊夢のあとを追った。
「武器は私が預かっておくわね」
「アリス・マーガトロイド、感謝する」
「いいから、さっさと用事を済ませて帰ってくれないかしら?」
大太刀と盾を拾い上げながら、アリスはそ知らぬ顔で言った。
「よう、椛じゃないか!」
ベッドの上には、桃色の魔法使いがいた。
「久しいな、霧雨魔理沙」
「ああ、相変わらずお堅いやつだ」
いつもの黒白の衣装ではなく、ゆったりとした薄桃色の入院着に身を包んだ魔理沙は上半身を起こしてからからと笑った。その様子に、椛は安堵の息をつく。
「お前は相変わらず元気そうで何よりだ」
「バカ言うな。結構バッサリやられちまったんだぜ? それに、こんな管まで通されて、元気なものか」
魔理沙は腕の点滴や腹のガーゼを見せながら元気良く呻いた。
「まったく診療所ってのは退屈なところだな。何もすることがない」
「何もするな。休め」
入院している理由を考えてもらいたい。
「いやいや、このままじゃ身体がなまっちまう、! あだだ……」
と、魔理沙は顔をしかめると腹をおさえて身を折ってしまった。
「お、おい!」
「魔理沙!」
「魔理沙、はしゃぎすぎ」
慌てたアリスに身体を支えられ、魔理沙はゆっくりとベッドに寝かせられた。
「さっさと用件済ませちゃって。でないとそいつ、また騒いで傷口開いちゃいそうだし」
「そ、そうだな」
壁に背を預けてため息交じりの霊夢に、椛は同意した。もう少し身体を労わってほしいものである。
椛は居住まいを正すと、改めて口を開いた。
「霧雨魔理沙、聞きたいことがある」
「分かってる。妖夢のことだろ? 私も話したいと思っていたんだ」
ひとつ頷き、魔理沙は金の瞳を天井に向けた。
「霊夢とアリスも聞いてくれ。話すぜ。あの時なにがあったのかを」
◆ ◆ ◆
あの時の妖夢は様子がおかしかった。原因はおそらく、あいつの刀だ。
――刀?
ああ。楼観剣と言ったか。あの時、私は楼観剣をちょっと見せてもらっていたんだ。あれの鞘に付いている花に興味があってな。だって刀に花なんてアンバランスだろう?
で、その後だ。妖夢が私の手から楼観剣と花を取り上げたあと、鞘に貼り付けられていた札が焼け落ちた。その瞬間……
――何があった?
妖気が噴き出した。
――妖気だと?
そうだ。それも生半可な濃度じゃないぜ。そこらのちんけな妖怪だったら、あてられただけで気が狂っちまうんじゃないかと思うほどだ。私も危うくぶっ倒れるところだったぜ。
ただ、妖夢はそれほど堪えていないようだったな。
――妖夢は以前、月の狂気にやられている。その影響で、多少なりともそういったものに耐性がついていたのかもしれない。
なるほど、月の狂気、か。
「この力……この力があれば、私はもっと強く……!」
妖夢は、楼観剣の放つ妖気に魅せられてしまったようだった。だが、あんなもんを間近で浴び続けていたら、いくら妖夢でも壊れてしまうと思った。だから私は止めたんだ。「そいつはヤバイ」ってな。
「魔理沙、邪魔しないで。これは私のものよ」
私の言葉は妖夢に届かなかった。
噴き出す妖気は収まる様子もないし、とにかく力尽くでも妖夢から楼観剣を引き剥がさにゃならんと思って、私はミニ八卦炉を構えた。
で、
「うるさいな」
◆ ◆ ◆
「次の瞬間にはこの有様ってわけだ」
布団の上から腹をとん、と叩いて魔理沙は自嘲ぎみに笑った。
「……楼観剣は、妖怪が鍛えた刀だと聞いたが」
「どんな大妖怪が鍛えたんだか。あの刀、かなりヤバイ代物だぜ。あの札が妖気を押さえ込んでいたんだろうが、しかしなんだって急に焼けちまったんだ?」
「……楼観剣の秘密を、暴く必要があるかもしれないな」
鍵は、楼観剣の鞘に貼り付けられていた札。妖夢が豹変した原因は、魔理沙の言うとおりそれなのだろう。楼観剣の放つ妖気がどれほどのものかは分からないが、その妖気を抑えないことには事態の収拾は難しいに違いない。最悪の場合は折ってしまっても……
――いや、それはまずいかもしれない。
大量の妖気を内包しているであろう刀である。下手に折って、内部の妖気が幻想郷中に蔓延でもしてしまったら目も当てられない。
白玉楼に行こう。あそこならば、きっとこの事態を収める手立てがあるはずだ。
と、
「おしゃべりはそこまで」
霊夢が懐から札を取り出しながら言った。
「結界に誰か入ってきたわ」
「こっちでも確認したわ。椛、早く行きなさい」
促され、椛の背に冷たいものが伝う。まさか、
「まさか……!」
「ええ。人形たちの目にしっかりと映ってる。“彼女”よ」
『三分間だけ待ってあげる。それで説得できなかったら、退治よ』
がつんがつんと永遠亭の廊下を足早に歩きながら、椛は霊夢の言葉を反芻していた。
――説得……
どうすればいい? 「楼観剣をこちらに渡せ」か? それとも「魔理沙に謝れ」か?
どちらも違う気がする。魔理沙の話では、今の妖夢は正気を失っている。力に囚われているのだ。その彼女から力を取り上げようとすればどうなるか、それは魔理沙が身をもって証明しているではないか。
まともな話し合いは難しいだろうか……?
――ならば、
ならば、残る手は。
「ッ!?」
ずきん、と頭が痛んだ。頭の中に、嫌な映像が流れ込んでくる。
血と、人と、妖。傍らに転がる刃は、三本。
「の、残る、手、は……」
――こ、これは……!
かつて地の底で見た、“絶望”の形。自分は妖夢を殺してしまうかもしれないと、無意識のうちに考えているのだろうか。
残る手は、力尽く。妖夢から楼観剣を無理やり引き剥がしてしまうのだ。
では誰がそれをやる?
霊夢は駄目だ。おそらく彼女は手加減をしない。楼観剣がはらんでいる危険性を考えれば、躊躇うことなく殺す気で妖夢を攻撃するだろう。
ならば、
――私がやるしかない。
しかし、力尽くはあくまでも最後の手段。魔理沙では駄目だったが、椛の言葉なら聞いてくれるかもしれない。今の映像も気がかりであるし、可能な限り交戦は避けたかった。まずは説得を試みるべきだ。
――妖夢は、
「私の言葉を聞いてくれるだろうか……?」
出会ってこれまで、妖夢とは多くの時間を共有してきた。互いに手を取り歩いた距離は、相対して振るってきた剣の数は、ふたりの距離を確実に縮めてきたはずだ。
思わず零れた言葉に頭を振って、椛は強い吐息とともにそれを締め出した。そうだ、自分の言葉は妖夢に届く。届かせる。
改めて決意し、椛は玄関をくぐり外に出た。
辺りは薄闇に包まれ始めていた。日はまだ沈みきっていないようだが、背の高い竹が群生する竹林ゆえ、その恩恵は既にほとんど受けられなくなっていた。
そんな、逢魔が時とも言うころ、永遠亭に向かって歩いてくるものがいた。
白いブラウス、緑を基調としたベストとスカート。肩あたりでざんばらに切り揃えられた銀の髪の上には黒いリボン。背には、腰の位置で地面と平行になるように携えられた短刀と、斜めに負う長刀は鞘のみで。抜き身の刃は右の手に。
なるほど、と椛は思った。少女の携える長刀――楼観剣から魂が底冷えするかのような気配を感じる。
――禍々しい。
素人目にも分かる。『あれは危険だ』と。
少女は――“半人半霊の庭師”魂魄妖夢は、椛の姿を見ると笑みを浮かべた。いつもの、幼さの残る優しい微笑み。だが、その身にまとう妖気は尋常ならざるおぞましさで。
「椛」
細く、高く、しかしよく通る声で、名前を呼ぶ。
「やっぱりここにいたんですね」
「……私を探していたのか?」
「はい。集中すればですけど、かすかに妖気が視えるようになったので、椛の妖気を辿ってきました」
楽しげに話す妖夢の瞳は、
「その眼は……」
蒼と紅の合わさった、色鮮やかな紫水晶。
「ええ、視えます。それに、以前のような不安定さもありません。楼観剣が力をくれたおかげで、私はこの眼を完全に制御できるようになったんです!」
妖夢は楼観剣を見つめ、うわごとのように呟く。
「師匠も人が悪いわ。こんな力を封印していたなんて。これさえあれば、何が来たって恐くない。幽々子様をお守りすることも、幻想郷中の春を集めることだって!」
「霧雨魔理沙を斬ったのは、楼観剣を奪われそうになったからか」
椛の問いに、妖夢は楼観剣の峰をそっと撫でた。愛おしげに、狂おしげに。
「……そうです。魔理沙は、楼観剣の力が欲しかったのね。そして私が力を得たことが羨ましかった。だからもっともらしいことを言って楼観剣を取り上げようとしたんだわ」
「違う。それは違うぞ、妖夢。霧雨魔理沙は本当に」
「違わないですッ!」
怒声とともに楼観剣が振るわれた。ビュンと空を斬る音。だが、間合いの遥か外だ。
しかし……
「!?」
左頬に痛覚。触れてみると、ぴちゃりと手についたのは真っ赤な血だった。楼観剣のまとう妖気が刃と成して飛来してきたのだろうか。
妖夢は楼観剣を持ったまま頭を抱えて泣き叫ぶ。
「なんで!? どうして椛までそんなことを言うんですか!? みんな私に力を持ってはいけないと言う!!」
「妖夢、落ち着け! 楼観剣の妖気はまともじゃない。そのまま持ち続けていては、お前の身体がもたないぞ!」
「そんなのただの口実でしょう! 私が未熟者だから、半人前だからって、みんな馬鹿にしているんだ!」
「妖夢!!」
やはり、言葉は届かないのか。
人一倍“強くなりたい”と願い続けてきた妖夢である。ようやく手に入れた力を手放すことが恐いのだ。元の自分に、弱かったころの自分に戻りたくないのだ。
だから、
「だから……!」
妖夢は楼観剣を構えた。
「椛、私と勝負してください。あなたに勝って、私はこの楼観剣を持つに足る存在だと証明して見せます!」
「……」
強さの証明。
天狗は、幻想郷で力を持つ妖怪の中でも上位に位置する。人間たちの間では神格化されるほどだ。そして白狼天狗は、その天狗の中でも特に戦闘に秀でた種族。椛に勝つことができれば、力の証明としては十分すぎるくらいだろう。
椛は黙して妖夢を見つめ、
「今のお前と戦うことはできない」
しかし静かにそう言った。
「なぜです!? いつか約束したじゃないですか! 『また勝負する』って! 今がその“いつか”ですよ!」
「違うな」
激昂する妖夢に対し、椛は努めて静かに告げる。
「私が戦いたいのは、強くなった魂魄妖夢だ。道具の力に頼って強くなったと勘違いするような餓鬼ではない」
「か、勘違い……餓鬼ですって……!?」
「妖夢。その刀は、その力は、紛れもなくお前が持つべきものだ。誰も奪おうなどとは思っていない」
「それは嘘よ。だって、魔理沙も、椛だって」
「聞け。私は身の丈の話をしている。
妖夢、お前の師はどうだった?」
「師匠?」
「そうだ。お前の師は、刀の妖気に頼って力を誇示するような剣士だったのか?」
「そんなことない! 師匠は強かったわ。楼観剣の妖気なんて関係なしに」
「そうだろう。腕が立てば、武器など関係ない。いくら強い武器を使おうとも、使い手が未熟では意味がないのだ」
「……でも」
椛は背負っていた大太刀と盾を地面に放りながら、妖夢に近づいていく。構えを解き、腕をだらりと下げて俯く妖夢に動く気配はない。
「妖夢。お前は今一度、認めなくてはならない。“自分は弱い”と。“自分は未熟だ”と」
ふたりの距離が近づいていく。そして、やがてその距離はゼロに。
「そして、覚えておけ」
椛は妖夢の身体を優しく抱きしめながら言った。
「お前は強くなっている。道具の力に頼らずとも、その剣は天狗に近づいている」
「椛……」
妖夢の身体から力が抜けていく。その後ろ頭を椛は優しく撫でた。さらり、と細い銀の髪が指の間を流れる。
――届いただろうか。
この腕の中にいる少女は、まだ幼い。迷いもするし、間違いも犯す。こうして力に溺れて心を乱すこともあるだろう。だから、自分が導いてやらねばならない。
「さあ、妖夢、剣を」
「椛……私は、」
俯いたままのよう夢は、途切れ途切れに言葉を紡ぎ、やがて搾り出した言葉は、
「それでも私は、今強くなりたい……!」
椛の頭の中を真っ白にした。
どんっ、と妖夢に突き飛ばされた椛は成す術もなく尻餅をついた。そして妖夢は楼観剣を振りかざす。
「よ、妖夢……?」
「今のままじゃ駄目なんです。私はッ、強く、ならないと!」
そう言って振るわれた妖刀を、椛はただ呆然と見ていることしかできなかった。
ぎッ!
「馬鹿! 何やってるの!」
一閃を止めたのは、小さな人形だった。
「くっ、アリス! 霊夢!」
妖夢の視線の先を辿って椛が振り向くと、そこには霊夢とアリスの姿。霊夢の手には、既に数枚の札が握られていた。
そして、
「時間切れよ」
それを迷わず妖夢に投げ放つ。
「博麗霊夢!!」
霊力を帯びて一直線に飛んでいく札は、しかし後退する妖夢の楼観剣によって全て切り伏せられた。
妖夢が下がった隙にふたりは前に出て、椛を庇うようにして立つ。
「ふん、やるじゃない」
「博麗霊夢、待ってくれ! まだ、」
「待たない」
椛の言葉は聞き入れられなかった。霊夢はこちらを一瞥もせずに、さらに大量の札を取り出す。
「妖夢。強くなりたいって気持ちは、まあ分からんでもないけど、ちょっとやり過ぎ。大人しく退治されなさい」
そして二度、三度と投擲した。
放射状に飛び行く札は、先ほどと軌道が違う。正面のものはこれまで通り真っ直ぐに、しかし斜めに投げ放たれた札は途中で大きく弧を描く。狙いは全て、妖夢に向かっていた。このままでは囲まれて逃げ場がなくなってしまう。
「ちッ!」
これには妖夢も焦ったのか、舌打ちをしながら一枚の符を取り出した。
「霊夢には分からないわよ! 大した努力をしなくても何でもできる霊夢には!」
妖夢は符を口にくわえると、腰の短刀“白楼剣”を抜き放ち、大きく後退しながら迫り来る札の群れを睨み据える。
楼観剣と白楼剣。それぞれ刃渡り違いの刀を握った腕を交差させ、刹那。
「断霊剣『成仏得脱斬』!!」
スペルカード宣言。そして解き放たれしは妖気の奔流。大気が荒れて辺りの竹をざわつかせ、椛の白い髪を、衣をなぶった。
そして天に向かって咆哮をあげる真っ赤な柱は、飛び来る札のことごとくを消し飛ばした。
『椛……』
妖気の向こうから声が聞こえる。
『あの秋の日の決着を、必ず』
「妖夢!」
その言葉を最後に、妖気はふつりと消えた。あとに残ったのは椛と霊夢とアリスの三人だけ。それと、漂う妖気とかすかな桜の香り。
「馬鹿。私だって努力してるわよ」
呟く霊夢の言葉に返答はなく。
妖夢の姿は、どこにもなかった。
…………
この階段を登るのは、もう何度目だろうか。
長い長い石造りの階段を、椛はひとりで歩いていた。
自分の高下駄以外に音を立てるものはない。“ここ”の住人はみな、音を、声を出さないのだ。
あのあと――妖夢の姿を見失った三人は、各々の行動に出た。
霊夢は永遠亭を出て、妖夢を探しに行った。魔理沙を斬り、椛の説得に応じず、そして霊夢の前から逃走を図ったのだ。彼女は妖夢を退治する気だろう。
アリスは永遠亭に残って魔理沙の看病をしている。先の一件もあり、放っておいてはまたいつ無茶をするか分かったものではないが、アリスがついているならば大丈夫だろう。
そして椛は、永遠亭で狂気を抑える薬――抗狂剤を受け取ったあと、もうひとつの手がかりに向かっていた。
本当は今すぐにでも妖夢を追いかけたかったのだが……
――追って、私はどうすればいい?
椛の言葉は、妖夢に届かなかったのだ。もはや手段は選んでいられない。霊夢よりも先に妖夢を取り押さえ、事態を収拾しなくては。
しかし、
――情報が少ない。
妖夢の身に起きている異変の原因――妖怪が鍛えたとされる刀“楼観剣”の放つ妖気。それと、かつての異変で瞳に宿った“月の狂気”。このふたつが妖夢を狂わせているに違いない。しかし、椛は楼観剣について何も知らなかった。これでは妖夢を取り押さえたところで事態の収拾は成せない。楼観剣のほうも何とかしなくては。
楼観剣は、妖夢が祖父から譲り受けたもの。彼ならば、楼観剣に起こった異変について何か知っているはずだ。
しかし、あいにく妖夢の祖父――魂魄妖忌は今どこにいるか分からない。彼を探している時間はなかった。
となれば、残るは……
「ここ、だな」
階段を昇りきり、大きな門扉の前に立って椛はひとりごちた。
ここはかつて魂魄妖忌が、そして今は妖夢が仕える亡霊姫の住む屋敷。冥界の白玉楼。
ふたりの主、西行寺幽々子ならば楼観剣について何か知っているかもしれない。そう考えた椛はここに足を運んだのだった。
門扉を前に、小さく深呼吸をひとつ。まがりなりにも冥界の管理人が住む屋敷である。何度か来たことがあるとはいえ、緊張はあった。
心の準備を整えてから、椛は拳を振り上げ、
どん、どん、どん、どん。
「頼もう! 西行寺幽々子殿にお目通り願いたい!」
声を張り上げ、待つことしばし。
『……』
門扉が音もなく開いて、中から霊魂がひとつ姿を現した。
霊は物言わず――言えず、だろうか――扉を開けたまま再び中へ。入れ、ということなのだろう。
「失礼する」
椛は門をくぐると扉を閉めてから霊のあとを追った。
玄関で高下駄を脱いで、縁側を歩く。庭園に植えられている木々は、自身の葉を紅く染め、死の世界に彩りを与えていた。さながらそれは、亡者どもの流した血のごとく。
はらり。
散った葉が、木の根元に小さな血溜まりを作っていた。
「時に、魂魄殿は居られるだろうか?」
『……』
問うが、やはり案内の霊は何も言わず。ただ、その身を左右に揺さぶっているのが答えなのだろう。
やがて、縁側に腰掛ける女の姿が椛の目に入った。
桜色の髪と、人魂模様があしらわれた空色の着物を身にまとう彼女は、呆けたように空を見上げている。だが、その姿さえも女の美貌を以てすれば魅力的に見えた。
「西行寺殿」
案内の霊が脇に移動するのを確認してから、椛は女――白玉楼の主、西行寺幽々子に声をかけた。
幽々子はゆったりとした動作でこちらを見やって、そして少しだけ表情を和らげた。
「あら、あらあら、椛ちゃん」
「お久しぶりです」
「久しぶりねぇ」
少し、元気がないように見える。
幽々子は控えていた霊に茶と座布団を用意するよう命じてから、椛にやんわりと微笑んだ。
「ちょっと待っててね」
やがて先んじて座布団が用意され、椛はその上に正座で腰を下ろした。そして早速切り出す。
「西行寺殿、本日は、」
「まあまあ、お茶が来るまで待ちなさいな」
「は……」
出鼻を挫かれてしまった。あまり時間はないのだが。
しかし、彼女を前にしては何事も暖簾に腕押し、糠に釘。急いても蝶のようにひらりひらりとかわされてしまうだけだろう。椛は大人しく茶が出てくるのを待った。
「……」
妖夢は、椛との再戦を求めている。“あの秋の日の決着”とは、すなわちふたりが出会ったあの日のこと。
『一撃を入れることができれば、お前の勝ちだ』
そう。あのとき椛はそう言った。白狼天狗と半人半霊、その埋めがたい力の差に、椛はそんなハンディキャップを妖夢にくれてやったのだ。結果として、そのハンデのおかげで妖夢は椛に勝利したのだが。
それが納得できていなかったのだろう。だから妖夢は求めたのだ。正々堂々の真剣勝負を。
だが……
――妖夢、それが本当にお前の望みなのか?
彼女は今、誰のために剣を振るっている? 何のために剣を振るっている?
と、茶と煎餅の乗った盆が運ばれてきた。閑話休題だ。
幽々子に倣って椛も湯飲みに口をつけてから、改めて本題を口にした。
「西行寺殿」
「ええ。話してもらえるのよね?」
しかし、またも言葉を遮られてしまう。だが、今度は先を促す言葉。幽々子の表情は、いつもの柔和なものではなかった。薄桃色の瞳は鋭く、場の空気が引き締まったかのような気さえする。おそらく幽々子は、妖夢のしたことを知っているのだ。ここまで情報を持ってきたのは、おそらく文だろう。
「……はい。私の見聞きした全てをお話します」
文から聞いたこと、魔理沙から聞いたこと、そして、一度は相見え、そしてまた姿を消してしまったこと。椛はこれまでのことを話していった。幽々子は時おり相づちを打ちながら、椛の話を静かに聞いていた。
やがて椛が話し終わると、幽々子は湯飲みに口をつけてから、
「そう」
吐息とともにぽつりとそれだけ呟いた。
「妖夢の乱心の発端は楼観剣の妖気にあると考えられます。西行寺殿、楼観剣とは、いったい何なのです?」
問いに、幽々子は頬に手をあて思案の仕草を見せて、
「……花は、なかったのね?」
問い返してきた。
「花、とは?」
「楼観剣の鞘に括りつけられていたでしょう? 桜色の、小さな花」
記憶を辿り、妖夢の姿を思い出す。
妖夢がいつも肌身離さず持っていた刀。長刀“楼観剣”と短刀“白楼剣”。そのうち、斜めに背負っていた楼観剣の鞘、その先端近くには、いつも小さな花が揺れていた。
だが、あの時は……
「ありませんでした」
そうだ。楼観剣の鞘からは札だけでなく、魔理沙の手によって花もなくなっていたのだ。だが、それが何か関係でもあるのだろうかと椛は訝しむ。
「本当のきっかけはそれよ」
だから、幽々子の言葉に椛は目を丸くすることしかできなかった。
「あの花が何だと言うのです?」
「楼観剣にかけられていた封印の鍵は、あの花よ。札が担っていたのは“道しるべ”」
「“道しるべ”?」
「ええ。実のところ、楼観剣について知っていることは、私もほとんどないわ。あれは妖忌が持ち込んだものだから」
「魂魄、妖忌……」
「分かっているのは、あの刀が大きな妖力を持っていて、とても危険だと
いうこと。だから妖夢に渡す際に封印が施された。
あの花は、妖気を養分として咲き続ける妖怪花でね。楼観剣の発する妖気を吸収して花を咲かせていたのよ。あの札は、妖気が外に漏れないように花へと誘導するためのものだった」
「つまり、霧雨魔理沙が鞘から花を外してしまったことで札は妖気の送り先を失い、溜め込みすぎた結果、焼け落ちてしまったと?」
「たぶんね」
頷いて、幽々子は茶をひとくち。
原因は分かった。あの花こそが封印の鍵だったことには驚いたが、ともあれこれで再封印の方法も分かったも同然だ。
しかし……
「魂魄妖忌殿は、なぜ封印に花を用いたのでしょう? あれほど簡単に破られてしまうような封印では、とても運用できたものではありません」
「『妖夢も女の子だから、刀も少しくらい可愛いほうがいいだろう』って言ってたけど」
「……」
「嘘よ、うそうそ」
思わず「糞じじい」と吐き捨てそうになったところで、幽々子はぱたぱたと手を振った。顔に出ていただろうか。
「ここには命がなくて、でも、あの子は半分だけ生きているから。“命”とはどういうものなのか、自分以外の命を身近に置いておきたかったのよ」
「命……」
「と言っても妖怪花だし、結局そんな私たちの我が侭のせいでこんなことになっちゃったんだけどね」
幽々子は自嘲の笑みを浮かべ、そして目を伏せた。
「……妖夢は、どうなるのかしら?」
「それは……」
「ええ、霊夢に楯突いたのでしょう? なら、決まっているわよね」
「……」
下がった声色で分かる。彼女が今どんな状況を想像しているのか。再びこちらに向けられた瞳の輝きで分かる。何を覚悟しているのか。
幽々子は、ふ、と小さなため息をついた。
「うちの庭師の問題だもの。主人の私が落とし前をつけないと、ね」
西行寺幽々子は死を操る。その彼女がつける落とし前とは、すなわち……
「その必要は、ありません!」
ざわり、ざわりと尾が総毛立つ気配を感じながら、椛は思わず声を張り上げた。
「椛ちゃん……?」
幽々子が面食らった表情を見せているが、構わず続ける。
「妖夢は、妖夢は私が捕らえます! そして罪を償わせ、必ず西行寺殿のもとへ送り届けます!」
「……」
「差し出がましい願いだということは承知しています。ですが、どうか、どうかあと少しだけ時間をください!」
そして思い切り平伏して懇願した。
――やってしまった。
冥界の管理人に意見をするなど、部外者の――それも山でさえ地位の低い椛のしていいことではない。
椛は死を覚悟した。幽々子の力ならば指の一振り、吐息のひとつで椛を殺すことができるだろう。
頭を上げることができない。ああ、自分の命は、死んだ世界の、死んだ屋敷の、死んだ木目を見ながら終わってしまうのだろうか。そんなことを思う。まだ、やらなくてはならないことがあるというのに。
何も言わず幽々子の立ち上がる気配を感じた椛は、いよいよこれまでかと目を固く閉じた。
衣擦れの音が近づいてくる。額に汗を感じる。
「椛ちゃん」
そして、椛の頭の上に手が置かれた。びくりと震える頭の上で、その手が右に、左に……
「貴方、本当にいい子ね」
「……え?」
告げられたのは、死の宣告ではなかった。
平伏姿勢の椛の頭を撫でながら、幽々子は言う。
「そう……貴方は、妖夢を救いたいと言っているのね」
「……はい」
「できるの?」
「……」
一度は失敗している身だ。即答は、できない。
「分かりません」
だが、
「ですが、命を賭す覚悟です」
そして、
「もしも彼女を止めることができなければ、その時は……」
その時は、
「私が妖夢を殺します」
その覚悟も、ある。
「……」
「その後は、西行寺殿の好きになさっていただいて構いません」
椛は思っていた。今回の異変、根本的な原因は自分にあるのではないかと。
あの日……あの秋の日に妖夢と出会わなければ、椛は彼女に興味を持つこともなかった。友達になりたいなどと思うこともなかった。また、椛がいなければ、妖夢は今でも主のためだけに生きていたはずだ。あそこまで強さを求めることはなかっただろう。
友の契りが、強さへの渇望が、魂魄妖夢を狂わせたのだ。
だから、椛は決意した。始まりが自分ならば、終わりも自分でなければならないと。そして自分もまた、その責を負わねばならない。
自分勝手な話だ。
――……いや、
天狗など――妖怪とは、もともと傲慢で嘘つきな存在だ。そういうものなのだ。
それに、何にしろ時間がない。既に博麗の巫女が動いている以上、彼女より早く妖夢を見つけてこちらでかたをつけなければならないのだ。
「西行寺殿、件の妖力封じの札と妖怪花を私にお与えください。必ずや、必ずや妖夢を」
「……顔を上げて頂戴」
応じて椛は視線を床から幽々子へ。しかし、幽々子は椛を見ておらず、椛の背後に目を向けていた。
「と、言うわけなんだけれど、椛ちゃんに手を貸してあげてくれない?」
「は……?」
幽々子の視線を追って椛は振り返ったが、そこには誰もいない。ただ、白玉楼の縁側が延びるばかりだ。
椛は訝しみながら再び幽々子のほうへ向き直って、
「ハァイ♪」
「!?」
目の前にいた金髪の女に驚いて飛び退いた。
「なっ、なな、何奴!?」
「うふふ、いい反応ね」
女は、何に脈絡もなく宙に現れていた。
細く赤いリボンの付いた白の帽子に長い金髪。そして道服を模した紫色のドレスを身にまとう美女。開いた扇子で口元を隠して楽しげに微笑む様は妖艶で。
ただし、上半身だけだった。
女の身体は、腰から下がぷっつりと失われていた。上半身だけで宙に浮き、笑っているのだ。妖怪であることは間違いない。
――下半身がない?……否。
下半身は、何かに飲み込まれていた。いや、その“何か”に、椛は見覚えがあった。
虚空を切り裂き現れたこの空間。女の下半身は、よどんだ紫色をぶちまけ、いくつもの目玉を散りばめた空間の中にあった。
それは、こことは違うどこかに繋がっているもの。結界の綻び、あるいは空間の裂け目。
――スキマ!
女はスキマを通して冥界に現れていたのだ。
この女はいったい何者なのか。身構え、警戒をあらわにする椛だったが、対照的に幽々子はいつもと変わらぬ様子でため息をついた。
「ちょっと、驚かさないであげて」
「あら、いいじゃない。最近みんな慣れてきちゃったみたいで、驚かし甲斐がなかったんだもの」
ふたりは旧知の間柄なのだろうか。闖入者と親しげに話す幽々子を見ながら、椛は少しだけ構えを緩めた。
「西行寺殿、お知り合いなのですか?」
「ええ、お友達よ。貴方も聞いたことくらいはあるんじゃないかしら?」
幽々子が紡いだその名を聞いて、
「“八雲紫”の名を」
椛は驚愕した。
「八雲……紫、だと……!?」
「よろしくね、犬走椛ちゃん」
そして女は――“妖怪の賢者”と謳われる大妖怪、八雲紫は面白そうに目を細めた。
「結論から言わせてもらうと、私は協力できないわ」
幽々子と紫は縁側に腰掛け、椛は正座でふたりの傍らに。そして霊の持ってきた茶には手をつけず、紫はそう言った。
「あらあら、それは残念」
「立場上ね。残念だけど、霊夢の判断は正しい。今の妖夢は幻想郷にとって害だわ。
楼観剣を取り上げることで彼女が正気に戻る保証もないし、あの子は既に人間、妖怪の双方に手を出している」
「八雲殿。妖夢は妖怪を斬っていたのですか?」
寝耳に水だった。文からは『魔理沙を斬った』という話しか聞いていない。椛が永遠亭からここに来るまでの間に、妖夢はさらに罪を犯していたというのか。
焦燥感をあらわにする椛の様子に、紫は呆れたような目を向けた。
「何を仰っていますやら。被害者は貴方だというのに」
「……は?」
「永遠亭で妖夢に襲われたでしょう?」
「あ……」
そうだ。妖怪の被害者は、他でもない椛だったのだ。椛は震える手で自身の頬に触れた。今はもう治っているが、そこには確かに妖夢から付けられた刀傷があったのだ。
しかし、
「しかし、」
「抗弁は不要ですわ」
あれは襲われたわけではない。そう言おうとした椛の言葉は遮られた。
「貴方が何を言おうと、どう思っていようと、“妖夢が妖怪を襲った”という事実は変わらない」
「う……」
悔しいが、紫の言っていることは正しい。
「彼女は今、人間でも、妖怪でも、幽霊ですらない立場にいる。幻想郷においてそれはあまりにも例外的、あまりにも危険域。放っておけば何が起きるか、私でも想定がつきませんわ」
「八雲殿の力で、妖夢を助けることはできないのですか?」
「難しいわね。彼女は半人半霊。もともと生と死の境界が曖昧な子なのよ。そこに妖怪の力まで取り込んでしまっては、私の力を以ってしても存在を切り分けるにはリスクが高すぎる。
だから、私は貴方に手を貸すことができない。私は幻想郷側の存在なのよ。貴方はどうなのかしら? “妖怪の山の”犬走椛さん?」
「わ、私、は……」
立場、とは。
八雲紫は彼女自身が言ったとおり、幻想郷の、つまり妖怪の側の存在だ。そして西行寺幽々子は冥界側の存在。
――では自分は?
言われるまでもない。椛は妖怪の山の白狼天狗だ。それはすなわち、妖怪の……
――いや、だが……!
それでは、それでは駄目だ。それはすなわち“妖夢の敵”であるということ。それは椛の望むところではない。
しかし椛は幽霊ではないし、ましてや半人半霊でもない。冥界側につくことはできないのだ。仮に生命の理を無視してこちらについて、妖夢を救うことができたとして、それから椛はどうなる? 山の、幻想郷のはみ出しものとして、冥界で暮らす? 本当にそれが許されるのか? あるいは可能なのか?
「私は……」
――私は、何者なのだろう?
違う、そうではない。
友と体裁を天秤にかけるなど、なんて情けないことを考えているのだ、自分は。
妖怪の山の天狗は、何よりも友を、仲間を大切にする。
だから、
「私は、妖怪の山の白狼天狗です。そして、」
それと同時に、
「妖夢の友です」
それが、椛の答えだった。
「妖夢が道を誤ったのならば、それを正すが友の勤め。たとえ博麗の巫女が相手であろうと、私は妖夢を見捨てるような真似はできません」
「……幽々子、貴方も同じ考え?」
「そうねえ……」
先ほどは自らの手で始末をつけると言っていた幽々子だったが、しかし彼女は頬に指をあてて思案し、
「私は、妖夢がこれ以上人様に迷惑をかけるようならって思っていたけれど、考えが変わったわ」
立ち上がると、椛の後ろから覆いかぶさるようにして抱きしめた。
「さっ、西行寺殿?」
「だって、あの子の友達が助けてくれるって言っているんですもの。信じてみたくならない?」
「あ……」
――……信じて、くれるのか。
こんな、一度は失敗した自分を、幽々子は信じてくれると言うのだ。これほど光栄で、これほど嬉しいことはない。
ならばその思いに報いねばならない。椛は表情を引き締めると紫を見た。
「八雲殿、博麗霊夢の邪魔はいたしません。どうかご助力いただけませんか」
「……」
しかし、紫の表情は険しい。
「言ったでしょう? 私は幻想郷を守らなくてはならない。幻想郷に住む妖怪たちを、人間たちを、動物を、植物を……もちろん、貴方もね。貴方のやろうとしていることは、幻想郷に対する危険因子を残すということ。お分かり?」
「……はい。ですが妖夢は」
「情に訴えるような話は真っ平よ。私だって幽々子の友達だもの。友達の悲しむような真似はしたくない。けれど、これは仕方のないこと。
いつか貴方のところの鴉天狗が言っていた言葉を借りましょうか。『組織に属するということは、自分の意思だけでは動くことができなくなるということ』。それが、たとえトップであろうともね」
「……」
「だから私は貴方に協力することができない。貴方のやろうとしていることは、幻想郷の意思に反している」
紫の周りから小さなスキマが現れ始めた。ひとつ、ふたつ、みっつ……同時に、スキマの数が増えるごとに紫のまとう妖気が大きくなっていった。
「そう、逆に私は、妖夢を生かさんとする貴方を止めなくてはならない」
無数のスキマの中から、様々な形、太さの黒い筒が顔を覗かせていた。“銃”と呼ばれる武器の先端部分だ。
呼吸が苦しい。心臓が鷲掴みにされているかのように早鐘を鳴らす。八雲紫という大妖の放つ妖気、威圧感の影響か。いや、あるいは本当に椛の心臓を握りつぶそうと掴んでいるのかもしれない。紫の能力を以ってすれば容易いことだろう。
だが、
「それでも私は、魂魄妖夢の友だから」
引くわけにはいかない。
椛は立ち上がると、縁側に腰掛けたままの紫と対峙した。
「天狗は、仲間を何よりも大切にする種族だから」
違う。間柄とか、種族とか、そんな話ではない。
「私が、妖夢と一緒にいたいから!」
そう、それだけの話なのだ。ただそれだけの、簡単な答え。そして、何よりも強い想いだ。
幽々子を背に、椛は身構えた。そして『どうする?』と自問する。
スキマは紫の周りだけでなく、椛たちの周りにも展開されていた。もちろん、全て銃身が顔を覗かせた状態で、だ。
――どうする?
幻想郷を統べるものに逆らったのだ。この場から逃れることができるだろうか。
――否。
スキマに捕まってしまえば、椛ではどうすることもできないだろう。
では戦う?
――それも、否。
たとえ被弾を覚悟で紫に向かったとて、ここに現れた時と逆にスキマの中へ逃げ込まれてしまったらおしまいだ。
啖呵を切ったものの、進退ままならない状況だった。
「……」
紫は動かない。動く必要がないのだろう。扇子で口元を隠したまま、こちらを見ている。眼光は鋭く、少しその気になれば視線で相手を射殺せるのではないかと思えるほどだ。
しかし、
「……」
ふ。と、紫のまとう妖気が霧散した。
「やめたわ」
「は……?」
辺りのスキマが次々と消えていく。紫はぱちんと扇子を閉じて笑みを浮かべた。そして扇子をこちらに向けて言う。
「貴方みたいな小物妖怪なんて、生きていようが死んでいようが関係ありませんもの。だから私は、貴方を殺すのをやめて力を温存することにします」
「こも……」
「私はこれから楼観剣を封印するために新たな札を作らなくてはなりませんの」
紫は庭に下りると扇子を一閃。虚空を切り裂き人ひとりが通れる大きさのスキマを作りだした。そして大げさにため息をつく。
「大変な作業ですわ。札が完成したあとは、疲れてしばらく休まないといけないわね」
「……八雲殿?」
肩越しに振り向きこちらを見る紫の目に宿る光は。
「札の作成で二日、それから回復に最低でも一日は要るでしょう。まあ、霊夢な
らその間に妖夢を退治してしまうかしら?」
「……」
「ではおふたりとも、ご機嫌よう。どうぞ無駄なあがきに精を出してくださいまし。うふふ……」
含み笑いを妖しく響かせながら、紫はスキマの向こう側へ消えてしまった。
「……」
椛は呆然と庭園を見つめながら、紫の言葉を反芻した。
――それは、つまり……
「三日あげるって言ってたわね」
「……はい。私にもそう聞こえました」
助かったのだろうか。いや、正しくは、
――助ける時間を与えられた、か。
紫は言っていた。『友人の悲しむことはしたくない』と。しかし彼女には彼女の立場がある。そのジレンマの結果が、今の行動、言動だったのだろうか。
ともあれ、紫から与えられた時間は三日。しかし、霊夢の行動には制限がかかっていないため、ゆっくりはできない。霊夢よりも早く妖夢を見つけて、彼女を捕らえなければならないという現状は変わっていなかった。楼観剣の妖気を抑えることはできないにせよ、何とかして妖夢の身に巣食っている狂気だけでも払うのだ。
流石の霊夢も、力を失い理性を取り戻した妖夢を退治するほど鬼では……鬼では……
「……」
鬼ではないはずだ。
『あ、そうそう』
と、虚空に小さなスキマが現れて、そこから紫の声が聞こえてきた。
『これはただの世間話。妖夢の刀の鞘に付いている花は、かの“花童子”が持っていたと謂われている花だそうですわね。可愛らしい花だし、知識人に咲いている場所を聞き出して藍にでも採りに行かせようかしら』
「花童子……?」
『では御機嫌よう』
そしてスキマはふつりと閉じた。
「……」
「知識人のところへ行って、花のありかを聞き出せって」
「ええ、そう言っていましたね」
――花童子……
聞いたことのない名だった。
その名を頭の中で反芻して刻み込みながら、椛は次に行くべきところを定める。椛の知っている知識人と言えば……
「椛ちゃん、今日はここで休んでいくでしょう?」
次の目的地を思い浮かべていた椛の顔を覗き込んで幽々子は言った。確かに、もう夜も遅い。普通ならば、朝まで休んでから行動すべきだろう。
「……いえ、ありがたいお話ですが、先を急ぎます」
しかし、椛は申し出を断った。
「でも、こんな遅くじゃ……」
「大丈夫でしょう。次の目的地は“夜の王”と呼ばれるものの居城です。むしろ、今から行けば丁度いい時間かもしれない」
正確に言えば、用があるのはその夜行性の主の友人なのだが。
ともあれ椛は、改めて幽々子と向き合った。自分よりも少し背の高い幽々子の瞳を見つめながら、言う。
「西行寺殿、先ほどはありがとうございました」
「さっき?」
「私を信じると、そう言ってくださったこと、感謝しています」
幽々子に言葉がなければ、紫は退いてくれなかったかもしれない。幽々子が……“八雲紫の友人”が妖夢の死を望まなかったから、椛は命を失うこともなく、妖夢を救う時間を与えられたのではないか。
「ああ、そんなこと。だって、貴方は妖夢の友達だもの」
しかし、幽々子はなんでもないと言うように微笑み、椛の頭を撫でた。
「妖夢をお願いね」
「はい、必ず」
その微笑みは、やはり少し寂しそうで。だから、椛は強く想う。
――必ずこの場に、彼女の隣に、また妖夢を。
なでこ、なでこ。
そうだ、妖夢を救うことは自分のためだけではない。幽々子も……紫だって、本当はあんなこと望んではいないのだ。霊夢だってきっと、立場上、仕方なく。
なでこ、なでこ。
なればこそ、身動きのできる自分がやらなければならない。妖夢を救うことは、自分にしかできないことなのだ。
なでこ、なでこ。
――……
「……あの、いつまで撫でているのでしょう?」
「あらごめんなさい。あまり触り心地が良かったから。嫌だったかしら?」
「い、いえ、嫌ではないのですが……その、あまり慣れていなくて」
性だろうか、ふるりと震える尻尾をさりげなくおさえつつ、椛は一歩、二歩と後ずさる。そして名残惜しげな白い指先を見つめながら、表情を引き締めた。
「では、行きます」
「ええ、気を付けて」
霊夢よりも早く妖夢を捕らえなければならない。が、その前に手に入れなければならないものがある。とにかく時間がなかった。
ばさりとスカートを翻し、椛は足早に白玉楼を辞した。次ここに戻ってくる時は、妖夢と一緒だ。
…………
冥界を出てしばらく。椛は幻想郷の空を飛んでいた。見上げた空には薄い雲が広がっていて、星の姿は見えない。雲の向こうから煌々と輝く月だけが、唯一の光源だった。
――満月……
「いや、まだか」
僅かに欠けた月を見て、椛はひとりごちた。満月まではあと一日、二日といったところだろうか。あまり好ましい状況ではなかった。
完全な満月の放つ光は、妖怪の力を、そして月の狂気を活性化させる。
性格の豹変、“狂気の瞳”の活性化。これ以上狂ってしまったら、妖夢はどうなってしいまうのだろうか。次は、妖夢の何が狂ってしまう?
辺りが霧に包まれてきた。眼下にはぽっかりと広大な湖が広がっている。“霧の湖”だ。その名の通り年中濃い霧が漂っている場所であるため、別段珍しい光景ではないのだが、なんとなく嫌な雰囲気に思えた。まるで椛の心象が現れているかのような、そんな錯覚。
このまま妖夢の狂気が加速すれば、椛の手に負えなくなってしまうかもしれない。そうなってしまえば……
「……いかん」
悪いほうに考えが傾いてしまっている。それを回避するために動いているのだ。頭よりも身体を動かさなければ。
気持ちと一緒に沈み込んでいた視線を上げて、椛は前方を見据えた。夜闇の中、霧の向こうにかすかに見えるは、紅き館。目的の場所は、その地下にあった。
「“動かない大図書館”パチュリー・ノーレッジ」
ぽつりと呟いたのは、椛が面識を持つ中でおそらく一番の知識人、かの館――紅魔館に住む魔女の名前。
紅魔館の地下には、幻想郷のもの、外の世界のもの、古書、新書、一般向け、成人向け、図鑑、辞典、専門書、魔道書と、あらゆる文献が集まる大図書館がある。パチュリーは、その大図書館の主と言っても差し支えのない存在だった。彼女ならば、紫の言う“知識人”足り得るだろう。
館の近くの湖畔に降り立った椛は、緊張した面持ちでひとつ息をついてから歩き出した。パチュリーのもとへ行くためには、大きな関門が待っているのだ。
その関門は、既にこちらの接近に気が付いていたようだ。腕を組んだ仁王立ちで、館の門の前に立ちはだかっていた。
真紅の長髪に、緑を基調としたチャイナドレス風の拳法着を身にまとった女。身長は高下駄を履いた椛と同じくらいなのだが、今の彼女はそれよりもずっと大きく感じた。おそらくそれは、本気で椛を警戒している証拠。『絶対に通さない』という意思の具現。
「止まりなさい」
女の放った制止の言葉に、椛は大人しく従った。ふたりの間は、およそ十尺。ひと息もあれば詰められる距離だ。
「久しぶりね。犬走さん、だったかしら?」
「ああ」
そして女は――紅魔館の門番“華人小娘”紅美鈴は半身を引いて腰を落とし、構えをとった。
「悪いけど、今は貴方を館に入れることはできないわ」
「……」
やはり、ここでも椛は招かれざる存在であるようだ。
時間が惜しい。強行突破したいところだが、しかし紅魔館とことを構えるわけにはいかない。椛は両手を挙げて交戦の意思がないことを示した。
「私は争いに来たのではない。パチュリー・ノーレッジ殿にお目通り願いたい」
「パチュリー様に?」
椛の行動に美鈴の構えが揺らいだ。彼女は霊夢と違ってあまり頑固ではないようだ。説得できるだろうか。
「鴉天狗の新聞を読んだのだろう? 今の妖夢は正気ではない。そして、私が妖夢と通じているのではないかと、そう疑っているのだろう?」
「……」
「私は正気で、妖夢を元に戻すためにここに来た。ノーレッジ殿の知識をお借りしたいのだ」
「……それを証明できる? 妖夢が正気ではなくて、貴方が正気であるということを」
「できない。『信じてくれ』と言うより外はない」
「そう。ならやっぱり、私は貴方に『大人しく帰れ』と言うしかないわ。紅魔館の門番として」
「……」
どうしたものか。
今の妖夢が正気ではないことは会えば分かるのだが、それは無理な話。かと言って、自身が正気であると証明するにはどうすればいいのか椛には見当がつかなかった。悪魔の住む館に入るために悪魔の証明をしなければならないなど、滑稽な話である。
「このままでは、妖夢は博麗霊夢に退治されてしまう」
「それは……ご愁傷様ね」
「私は、自分が狂っていないことを証明することができない。だが、」
あるいは、山の外に興味を持った時点で椛は異端。狂っているのかもしれない。
だが、たとえ狂っていたとしても、揺るがないものはある。
「友を救いたいと思う気持ちだけは、どれだけ狂っていても失っていないつもりだ」
そして椛は意を決して歩き出した。
「動くな!」
制止の言葉は構わず、椛は進む。
「馬鹿……っ!」
美鈴が身を屈めたように見えた次の瞬間、彼女は椛の眼前にいた。右の半身はぎりり、ぎりりと引き絞られていて、
「破ッ!!」
裂帛とともに放たれた掌底が椛を穿つ。
…………
薄く広がっていた雲は、いつの間にかなくなっていた。しかし、白み始めた空に星は見えない。
仰向けに倒れているのだと気が付いた椛は、ゆっくりと身体を起こした。腹に鈍痛。どれくらい眠っていたのだろうか。
「なんで避けなかったの?」
「貴方とは戦う理由がない」
すぐ隣に立っていた美鈴の問いに、椛は腹をさすりながら答えた。
「私は妖夢を救いたいだけだ。友のためならば、この身など惜しくはない。この程度で信用を得られるのならば、安いものだ」
「……貴方、やっぱり狂っているわね」
「友のために命を懸ける。主人のために命を懸ける。大きな違いはないと思うが」
「あ……」
手加減をしてくれたのだろうか。骨にも内臓にも異常はなさそうだった。
顔を上げた先には、ぽかんとした表情でこちらを見ている美鈴がいた。
「何かおかしなことを言っただろうか?」
「ああいや、なんでもないわ。貴方の言うとおり」
問うと、美鈴はぱたぱたと手を振って笑った。
「私の負けね。ここで貴方に『狂っている』なんて言ったら、私も、咲夜さんも、誰だって狂っていることになっちゃう」
「いや、別に私はそんなつもりで言ったわけでは」
「分かってる。貴方はいつだって真面目で、狂ってなんかいない。パチュリー様のところに案内するわ」
「い、いいのか?」
「ええ。ただし、私もついていくけどね」
そして美鈴は、少し不恰好なウインクを椛に送った。
魔力の明かりがぽつり、ぽつりと灯された廊下を、椛は美鈴の先導で歩く。門番が門を離れて大丈夫なのかと不安になったが、美鈴には直属の部下がいるようで、彼女たちに門番を引き継いでいた。
「と言っても、妖精だからあんまり長くは留守にしていられないけどね」
そう言って美鈴は苦笑した。
やがてふたりは地下へと続く階段を降っていく。
「今の時分、レミリア・スカーレット殿は?」
「まだ起きていると思うわよ。いつも通りなら、テラスでティータイムを楽しんでいらっしゃるか、館を適当にうろついていらっしゃるか……」
紅魔館の主“永遠に紅い幼き月”レミリア・スカーレットは吸血鬼である。夜行性の彼女ならば深夜に尋ねるほうが都合が良かろうと思い、椛は白玉楼から休みなしでここまで来たのだった。結局、美鈴に叩きのめされたおかげで訪問は明け方になってしまったが。
用件が済んだら挨拶くらいはしておくべきか。そんなことを考えているうちに階段は終わり、薄暗い通路の先で一枚の大扉がふたりの前に立ちはだかった。
「あるいは……」
言いながら、美鈴は扉を開く。
ぎぃぃ……
重厚な音を立てて開いていく扉の奥から漂ってくるのは、蔵書の多い空間特有の、本の香り。それと、本の香りに混ざって椛の鼻腔に滑り込んできたかすかなこれは……
――血の、匂い……?
「あるいは、パチュリー様とお話をされているかもと思ったんだけど、やっぱりここにいらしたみたいね」
思わず足が止まってしまったが、気が付いたのは椛だけのようだ。変わらぬ足取りで進む美鈴を追って椛も大図書館へと踏み込む。
背の高い本棚が整然と並んだ空間。壁まで本棚になっていて、その蔵書量は計り知れない。
扉をくぐって正面、少し開けた空間に白いクロスの敷かれたテーブルがあった。テーブルの上にはティーカップがふたつと、大きめの皿に盛られたクッキーの山。そしてテーブルについてクッキーを摘んでいるのは、ふたり。菫色の髪の少女と、空色の髪の少女だ。
「レミリアお嬢様、パチュリー様、お客様ですよ」
テーブルの傍で足を止めた美鈴は、一礼とともにそう言った。ふたりの視線が椛に集まる。
椛が慌てて頭を下げると、先に声をかけてきたのは空色――レミリア・スカーレットのほうだった。
「やぁやぁ、犬走椛くんじゃないか。久しぶりだね」
「お久しぶりです。スカーレット殿、ノーレッジ殿」
すると、からからと笑っていたレミリアは、少しだけ顔をしかめた。
「堅苦しいな。“レミリア”と呼んでくれて構わないよ」
「……は、い、いえ、しかし」
なりは小さくとも、幻想郷のパワーバランスの一角を担う紅魔館の主である。名前を、それも呼び捨てなど畏れ多い。
しかし、レミリアにはその態度が気に喰わなかったようである。眉間にしわを寄せて、椛を睨み付ける。
「私は『“レミリア”と呼んでくれ』と言っているのだが?」
ばさり、と蝙蝠の羽が空打ちされる。椛はびくりと震わせ、自然と視線が落ちていく。
「は、はい! では、僭越ながら……お久しぶりです。れ、レミリア……殿」
「……」
――敬称もまずかったか!?
椛にとってはこれが限界だったのだが、レミリアは変わらずに椛を睨み続けている。これはもしや、命の危機なのでは?
冗談ではない。まさか呼び方ひとつで死んでたまるものか。椛は助けを求めてパチュリーを見た。パチュリーはいつの間にか本を広げていた。既にこちらへの興味を失ってしまったようだ。次に美鈴のほうを見た。美鈴は困ったような笑みを浮かべて「無理、無理」と言いたげに手をぱたぱたと振りながら後ずさりしている。
がたん、とレミリアが立ち上がった。そしてゆっくりとした動作でこちらへ歩いてくる。その指先には、鋭利な爪。
一歩、一歩。レミリアの接近と同じ速度で椛は後退する。ばさり、とさらに空打ちを一回。溢れる妖気が椛の身体を叩く。
――どうする? どうする?
一旦退くべきか。しかし退いてどうなる? ここで情報を得られなければ、他に行くあてがないのだ。退いても意味がない。それに、余計な時間を食っている時間もない。こうしている間にも、霊夢が妖夢を追い詰めているかもしれないのだ。
――こんな……こんなくだらないことで時間を食っている場合ではない!
相手は吸血鬼。妖力の差は圧倒的。身体能力にしても天狗と同等か、それ以上か。特に速さに至っては鴉天狗に匹敵するかもしれない。非常に分の悪い戦いだ。しかし、負けるわけにはいかない。椛は大太刀に手を……
「ま、冗談はこの辺にしておきましょうか」
手をかけようとしたところで、レミリアはくるりと転進して再びテーブルについた。そしてクッキーをひとつ口の中に放り込む。手の爪は、いつの間にか元に戻っていた。
「……は?」
「好きに呼んで構わないわよ、別に。そんなことに目くじらを立てるほど器の小さな私ではなくてよ?」
「は、はあ……」
「んー、うまい」
呆然とする椛をよそに、レミリアはクッキーと紅茶に舌鼓を打ち始めた。
助かったのだろうか。と言うより、ただの冗談だったのか。まったく趣味の悪い。こちらが白狼天狗だったからよかったものの、力の弱い妖怪だったら存在を保っていられなかったかもしれない。それだけ、レミリアの放つ妖気は、威圧感は強大だった。
「ほら、そんなところに突っ立ってないで、こっちに来なさい。咲夜のクッキーはおいしいわよ」
「は、はあ……では、失礼します」
もっとも、大いにくつろいでいる今は見る影もないが。
空いている椅子に座ると、次の瞬間には椛の前にティーカップが現れていた。既に暖められているようで、カップの内側からかすかに湯気が立っている。
そして、椛の傍らには銀髪の少女。
「召し上がれ」
「十六夜咲夜か」
紅茶を注ぐ銀髪――紅魔館のメイド長“完全で瀟洒な従者”十六夜咲夜の姿を見て、椛はふと気が付いた。
「身を清めることをお勧めする」
「あら、どうして?」
「血のにおいが消えていないぞ」
おそらく、先ほどまで肉――おそらく、人間の肉だ――を捌いていたのだろう。咲夜の身体からは、かすかに血のにおいが漂っていた。ここに入った時に感じた血のにおいも、彼女のものだろう。
ただし、これは本当にかすかなにおい。今はまだ椛のような鼻の利くものでなければ気が付かないくらいのもの。だがいずれは、その“かすか”を積み重ねていけば、それは身体にこびりついて無視できなくなってくるだろう。
悪魔に魂を売ったものとは言え、外面だけでも人間でいたいのならば、血のにおいなど身にまとうものではない。
「成る程。狼の貴方の前では、もう少し匂いにも気を使うべきでしたわ。失礼致しました」
紅茶を注ぎ終えた咲夜はにこりと微笑むと、姿を消した。湯浴みに行ったのか、次の仕事に移ったのか。
手に取ったカップから漂うは、鼻腔をくすぐるほのかな甘い香り。ひとくち含めば口の中に広がるは、爽やかな柑橘系の風味。オレンジティーだ。
「美味い」
思わず感嘆の言葉が零れた。
「さて、そろそろ用件を聞こうかしら。ま、私じゃなくてパチェに会いに来たんだろうけど」
と、口の端にクッキーの食べかすを付けたレミリアは言った。椛はひとつ頷き、カップを置くと居住まいを正す。
「ノーレッジ殿、貴方の知識をお借りしたい」
「……そう」
しかし、パチュリーの意識は手元の本に向けられたままだった。彼女の興味を惹ければ良いのだが。そう思いながら椛は続ける。
「“花童子”という言葉をご存知だろうか?」
「……花童子」
記憶を手繰るように、パチュリーの視線が本から外れた。が、すぐに戻されてしまう。
「いいえ、知らないわ」
「……そうか」
「ねね、何の話よ?」
ただ、こちらの興味は惹けたらしい。
「妖夢の持つ刀、楼観剣の鞘に付いている花は、その花童子が持っていたものだと謂われているらしい」
「ふーん。で、それがどうかしたの?」
ついでにパチュリーの耳に入ってくれれば都合がいい。身を乗り出すレミリアのほうへ身体を向けて、椛は語った。これまでのことを。そして、これからのことを。
「私は“花童子の花”を手に入れ、妖夢を捕らえます。妖夢の身に巣食っている狂気は、八意殿から貰った抗狂剤で祓い、楼観剣の妖気は、八雲紫の作る妖力封じの札と“花童子の花”で再封印。これでこの事件の解決を図っています」
「なるほどねー。八雲紫が動いているってことは、結構おおごとになっていたのね。パチェ、本当に何も知らないの?」
「……」
レミリアの問いに、パチュリーは再び思案の表情を見せる。本から視線を外し、口元に手をあて「花童子……花童子……」と呟いている。
やがてその視線は、身を捻って図書館の奥へと向けられた。
「小悪魔!」
「はい、パチュリー様。お呼びですか?」
本棚の影から現れたのは、ワインレッドの長髪が美しい少女だった。
「東洋の伝承や妖怪についての文献はまとめてあったわよね。あの辺の本を適当に持ってきなさい」
「はい、ただいま」
ぺこりと一礼すると、少女は辺りをぐるりと見回した。そして再び本棚の森に消えていく。その後姿を見送ってから、椛はパチュリーに頭を下げた。
「すまない」
「貴方たちには、ふたつ貸しがあったのを思い出したわ」
「ふたつ?」
「ひとつは魔法の実験体になってもらったこと。もうひとつは妹様の遊び相手をしてもらったこと。私はまだ、そのうちひとつしか返していなかった」
「……ありがとう」
こちらを見る紫紺の瞳には、僅かに好奇の光が宿っていた。彼女の、魔女としての好奇心を刺激できたようだ。貸し借り以上に信用できる動機である。
「ところで、彼女は?」
本を取りに行った少女を思い出しながら椛は問いかけた。以前ここを訪れた時にはいなかったが。
「真名は教えられないけど、低級の悪魔よ。随分前に召喚したんだけれど、とんだじゃじゃ馬でね。手懐けるのに苦労したわ」
「ほう、あれが悪魔か」
八百万の神々がおわす地に住んで久しいが、ふたつ名ではない正真正銘の悪魔には会ったことがなかった。率直な感想を述べると、頼りなく見える。
そんな考えが顔に出ていたのだろうか、パチュリーはにやりと笑って言う。
「侮らないことね。見た目は小さいけれど、力はあるわよ」
「パチュリー様、こんなものでよろしいでしょうか?」
パチュリーのほうが背は低いように見えたが。
そんな突っ込みを入れる間もなく、椛は眼前に広がる光景に硬直とした。
ありていに言うと、本棚が飛んできたのだ。
「おおお!?」
一拍遅れて驚愕の声を上げて、椛は椅子を蹴倒し立ち上がって大太刀と盾を構えたが、果たしてそれにどれほどの意味があろうか。いや、少なくとも、呑気に紅茶を飲んでいる目の前のふたりよりは意味のある行動のはずだ。
しかし、椛の行動のほうこそが無意味であると思い知らされたのは、その直後だった。
「上出来よ」
そう言いながらパチュリーが指をかざすと、本棚は空中でぴたりと動きを止めた。そして指の動きに従ってゆっくりと地面に下ろされる。
「でも、本は大切に扱うこと。投げるなんてもっての外よ」
「す、すみません」
戻ってきた小悪魔の額に小さな魔力弾を当てながら、パチュリーは立ち上がった。ふわりと宙に浮き、本棚のほうへ飛んでいく。
「さて、花童子とは何なのかしらね。“童子”ということは、鬼に関係しているのかしら。単純に“花”という単語から連想すると、あの妖怪のことが脳裏をよぎるわね。ほら、貴方も手伝いなさい。これだけの蔵書を私ひとりに調べさせる気?」
「あっ、すまない、今行く」
慌ててパチュリーのもとへ小走りする椛を、レミリアがクッキーをかじりながらにやにやと見ていた。
…………
ぺらり。
「花童子……花童子……」
「地方によって呼び方が違う可能性があるわ。その名称に拘らないこと」
「わ、分かった」
ぺらり。
「パチェ、何か面白いマンガとかない?」
「小悪魔!」
「はい。さ、レミリアお嬢様、こちらに」
「……厄介払いされてる?」
「ち、違いますよぉ!」
ぺらり。
「へえ。酒呑童子に、茨木童子。童子にも色々あるんですね」
「……美鈴。貴方、門はどうしたの?」
「妖精たちに任せてありますよ」
「大丈夫かしら……?」
ぺらり。
…………
「みなさん、紅茶を淹れましたのでひと息いれてください。咲夜さんの淹れた紅茶ほど美味しくはないですけど……」
小悪魔の呼びかけに、椛は顔を上げた。隣を見ると、随分と多くの本が積まれていた。代わりに本棚に並んでいた本はだいぶ減っている。
「ん……っ!」
大きく伸びをすると、肩や背の骨がぽきぽきと音を立てた。ずっと縮こまって本を読み漁っていたせいで、身体が凝り固まっていたようだ。
「休憩がてら情報をまとめましょうか」
「ああ」
開いていた本を閉じて、椛は立ち上がった。この本にも、役に立ちそうな情報はなさそうだ。
いつの間にかクッキーの皿が空になっていた。レミリアが食べてしまったのだろう。ちなみに、当のレミリアは床に寝っ転がって漫画を読みふけっていた。紅魔館当主の威厳などは欠片も感じられない。
「さて。では、分かったことを話してもらおうかしら」
各々がテーブルについたのを確認してから、パチュリーは口火を切った。と、真っ先に美鈴が手を上げる。
「どうやら、花童子というのは雨乞いのシンボルだったみたいです」
「と言うと?」
「ある地方の書物に、雨乞いの儀式をしている最中に花童子が現れると、必ず雨が降るとありました」
「つまり、花童子は天候に干渉することができると。かなり力を持った童子のようね」
「“神である”との記述もありましたね」
「神、ね。それなら天候の改変も容易、か」
天候の改変と言えば、気質によって周囲の天候が変わってしまうという異変があったと、妖夢が話していたか。あれは確か、ひとりの天人が戯れで起こしたものだと記憶しているが。
何か関係があるのかもしれない。そう思って話すと、しかしパチュリーは首を横に振った。
「比那名居天子は関係ないでしょうね。彼女の……というより、彼女の持つ緋想の剣が起こす天候の改変は、周囲の人妖の気質に依存する。雨のみを狙って起こすことは難しいと考えられるわ」
「そうか」
彼女の居場所は分かっている。妖怪の山よりもさらに高み、天界だ。居場所が分かっている相手ならば都合が良かったのだが。
「それで、貴方は何か見つけた?」
「真偽のほどは定かではないが、花童子の姿絵と思しきものを発見した」
言いながら、椛は二冊の本を開いてふたりに見せた。
どちらに本にも、一輪の大きな花を抱えた子どもの絵が描かれている。そして、絵の下には“花童子”の文字。
「この花が楼観剣の鞘についていた花だとすれば、花童子はかなり小柄なものだと考えられる」
「小さいと言うか、手のひらサイズ?」
「……それより、気になるのだけれど」
しばし二枚の絵を見比べていたパチュリーが、花童子の一点を指差した。
「全体的な特徴はどちらもよく似ているわ。ただ、」
「そう、私も気になっていた」
それは、花童子が持っている花。
「この二枚の絵で花童子が持っている花は、明らかに違う」
片や花びらが五枚の簡素な花。片や花びらの量は多く一枚一枚が細長いタンポポのような花。同じ種類の花には、とても見えなかった。
「……いかんせん過去の文献。表記や言い伝えにブレがあっても不思議ではないわ」
パチュリーは本に視線を落としたまま呟いた。自分の言葉を確認するように。
「ただ、美鈴の話を聞いて、この絵を見て、私の中でひとつの仮説が生まれた」
そしてひとつ息をつくと、テーブルにつく面々を見渡した。椛、美鈴、いつの間にかテーブルについてたレミリア。そして、テーブルの側に控える小悪魔。
全員が話を聞いていることを確認したパチュリーは、その仮説を述べる。
「花そのものに、力はない」
視界が、揺らいだ。
花に力がないとは、どういうことなのか。では、今まで調べたことは全て無駄だったのだろうか。
椛が問うよりも早く、パチュリーは二の句を告げた。
「重要なのは“花童子が持っていた”という事実」
「……それは、つまり?」
「例えば花童子が神だと仮定したとしても、天候の改変には大きな力が必要となる。だから、おそらく花童子は周囲の生気、霊気、妖気……あるいは人の願いなんかを取り込んで天候改変のエネルギーにしていたのではないかしら」
周囲の気を自分のものにする。妖気を吸収して自身の養分にしていたという楼観剣の花によく似ていた。
椛にはパチュリーの言わんとしていることが分かり始めてきた。
「楼観剣の花は、その力の一部を受け継いでいる。つまりこれは、花そのものが特殊なのではなく、花童子からの神徳を間近で受け続けた結果、後天的に力が宿ったものと考えられるわ」
妖気の吸収能力はあくまでも副産物であると、パチュリーはそう言っているのだ。つまり、
「つまり探さなくちゃいけないのは花ではなく、花童子本人ということですか?」
「そのほうがいいかもしれないわね」
美鈴の言葉にパチュリーは頷いた。
状況は、おそらく好転した。
あるかどうかも分からない花を探すよりも、いるかどうかも分からない花童子を探すほうがずっと希望がある。何せ、妖怪の山には八百万の神々がおわすのだから。もしも花童子が神なのだとしたら、本人が山にいるかもしれない。
「さて犬走椛。ひとまずはこんなものだけど、貴方の助けになったかしら?」
「ああ。助かった、ノーレッジ殿」
「言っておくけど、これはあくまでも仮説。無条件に信じ込まないこと」
「分かっている。だが、闇雲に探すよりはずっといい」
次の目的地は、妖怪の山だ。神ならばあてがある。きっと何か情報が得られることだろう。
「行くの?」
「ああ、もう十分だ」
調べればさらに情報を得られるかもしれないが、こちらは急ぎの身。霊夢が動き出してから、既に半日以上が経過している。あまり長居はしていられない。
椛は席を立つと、深く頭を下げた。
「協力してくれて本当にありがとう」
「借りを返しただけよ」
この件が片付いたら、パチュリーには事の顛末を話してやろうか。少しでも彼女の知識欲の足しになれば良いのだが。そう思いながら椛は踵を返した。
その背に、
「犬走椛」
声をかけたのは、レミリアだった。
「なんでしょう?」
「私からの選別よ。ありがたく受け取りなさい」
レミリアはにやにやと笑いながら言う。
「私には、お前の運命が視えている」
「!?」
「だけどそれは、無限に枝分かれした運命のほんの一握り。終着点はまだ私にも分からない。だから私が言えるのはこれだけ」
「……」
「お前はこれから、選択を迫られるだろう。慎重に選ぶことだ。誤った先は、お前の想定している“最悪”だ」
「それは……」
椛の想定している“最悪”とは。
「葛藤しろ。苦悩しろ。どれだけ辛かろうと、苦しかろうと、泣こうが喚こうが構わん。だが最後には必ず選択しろ。お前が選択しろ。そうでなければ、“最悪”を回避することはできない」
「……肝に、命じておきます」
――選択……
いったい何を選ばされるのだろう。レミリアは、椛の中からどんな運命を見出したのだろう。
しかし、それを聞くという“選択”は、おそらく誤りだ。それは考えることを放棄したことになってしまうかもしれない。
レミリアのほうへも一礼し、そして椛は大図書館をあとにした。これから訪れる“選択”というものに、拭いきれない不安を感じながら。
…………
はらり、はらり。
舞い散る木の葉は、ただ紅く。
赤い鳥居、古びた社、掃き掃除をする風祝。中天を過ぎた太陽は穏やかな日差しを幻想郷に注いでいた。
妖怪の山の中腹に位置するここは“守矢神社”。山のコミュニティに属さない人妖の侵入が許された唯一の場所だ。そして、椛の次の目的地である。
「東風谷殿」
落ち葉のない参道を歩きながら声をかけると、風祝――“祀られる風の人間”東風谷早苗は翡翠色の長髪をなびかせてこちらに向き直った。
そして、
「椛さん! 昨日はどこに行ってたんですか!? 探してたんですよ!」
血相を変えて詰め寄ってきた。
「それと、“早苗”って呼んでくださいっていつも言ってるじゃないですか!」
「落ち着け。分かったから、早苗、済まなかった」
余計なことで怒られた気もするが、ひとまず早苗の肩を掴んで引き剥がし、椛は制止の声を上げる。
「言いたいことは分かっている。それで早苗に聞きたいことがあって来たのだ」
「聞きたいことだなんて悠長な……私に聞きたいこと?」
「そうだ。“花童子”という名に聞き覚えはあるだろうか?」
「“花童子”……?」
おうむ返しをしてから、早苗は頬に手をあて小首をかしげた。何とか本題を押し込んで黙らせることに成功した椛は、小さく息をつく。
彼女が――“現人神”たる彼女こそが、椛が唯一もっている神のあてだった。
早苗を含めた守矢神社の面々はみな、つい数年前まで外の世界に住んでいた。“花童子”の所在が幻想郷にあるか外の世界にあるか判断がつかない今、幻想入りして間もない彼女らは貴重な情報源だ。何しろ、妖怪の山が幻想入りしたのは数百年以上も昔なのだから。
しばし思案の表情を見せたのち、早苗は首を横に振った。
「ごめんなさい、初めて聞く名前です」
「そうか……」
――やはり知らないか。
さもありなん。早苗はまだ若い。幻想入りするほど古い文献に載っているような童子のことなど、知らなくて当然だ。この回答は予想できていただけに、落胆は小さかった。
そして、椛の本当の目的はここから。
「神奈子様と諏訪子様にも聞いてみましょうか?」
きた。
「ああ、頼む」
齢二十にも満たない早苗は知らなくとも、古より外の世界に顕現していた“彼女ら”なら、知っているかもしれない。
「神奈子様、諏訪子様」
『聞いていたよ』
社のほうへ向けられた早苗の呼びかけに、応じる声はすぐに返ってきた。
次の瞬間、社の入り口近く、賽銭箱の前の空間がぐにゃりと歪んだ。そして歪みの中からふたりの女が現れる。
ひとりは片膝を立てて座る、青みの強い菫色の髪の大柄な女だ。背に負う注連縄と御柱は軍神の証。女は目を細めて値踏みするように椛を見つめていた。
もうひとりは金髪の小柄な少女。服に施された妙に生々しい蛙の刺繍と、少女のかぶっている帽子についた一対の目玉が、無感情な視線をこちらに向けているような気がして気味が悪い。しかし、当の少女が椛に向けている視線は好奇一色のようであるが。
このふたりが、守矢神社におわす二柱、“山坂と湖の権化”八坂神奈子と“土着神の頂点”洩矢諏訪子だ。
神の降臨に早苗は礼をし、椛は跪いた。
「よい。白狼天狗よ、顔を上げなさい」
「は……」
「貴方はどこぞの鴉天狗と違って礼儀を弁えているようね」
「恐縮です」
射命丸文は神をも恐れぬか。
文の取材姿勢に慄きながら椛は立ち上がると、改めて頭を下げた。
「お初にお目にかかります、八坂神奈子様、洩矢諏訪子様」
「うむ。まあ玄関先で立ち話もなんだ、上がりなさい」
社の向こう側、神社の居住区を示し、神奈子は踵を返して歩き出した。
「早苗、お茶の用意を」
「はい、かしこまりました」
神奈子のあとを追ってぱたぱたと早苗は小走りをして、しかし諏訪子だけは椛を見つめたまま動かなかった。
「……あの、何か?」
「いやあ、貴方は本当に、他の天狗たちとは違うんだなって思って」
気まずくなった椛が問うと、諏訪子はそう答えてぺろりと舌なめずり。
「それは、どういう……?」
「美味しそうってコト」
ぞわり。
背筋を嫌な汗が流れ、思わず頬が引きつってしまったが、気付かれなかっただろうか。諏訪子はにっこりと笑うと、それ以上は何も言わずに行ってしまった。
「……」
不気味極まりない。
ともあれ。
椛は小さく深呼吸をすると、歩を進めた。立ち止まっている時間などないのだから。
「どうぞ」
「ありがとう」
礼を言いつつ椛は湯飲みを受け取り、口をつけた。熱々から少しだけ冷まされた、丁度良い温度の緑茶だ。
守矢の居間、その四角い卓には神奈子と諏訪子が隣同士で、椛はその対面に。最後に早苗が空いている面に腰を下ろした。
「さて、」
ず、と茶をひとくちすすってから神奈子は切り出した。
「“花童子”について、だったわね」
「はい」
「どうしてうちを頼ろうと思ったのか、まずはその辺の経緯を聞かせてもらおうかしら」
突然訪れて『花童子を知らないか』ときたのだ。今の椛の立場を考えれば、詳しい事情のひとつも聞きたくなるだろう。
この説明をするのはこれで何度目だろうな。そんなことを思いながら椛は居住まいを正すと、話を始めた。
辻斬り事件の記事から始まり、楼観剣の放つ妖気について、妖夢との対峙、幽々子と紫から聞いた楼観剣の鞘の花について、そして紅魔館での調査結果。
「私は妖夢を死なせたくない。そのためには、彼女の身に巣食う狂気を祓い、楼観剣を再封印する必要があります」
「そこで花童子の花が必要なんですね」
「ああ」
全てを元に戻すのならば、楼観剣の封印に花童子の花が必要不可欠だ。
神奈子は先ほどと同じように目を細め、値踏みするように椛を見つめる。
「それで、貴方は花童子に会ってどうするつもり?」
「花を譲ってもらえるよう頼みます」
「譲ってもらえなかったら?」
「……その時は、他の方法を、探します」
力尽くで、とは言えなかった。
「花は楼観剣の封印に必要なものですが、すぐに手に入らなかった場合は楼観剣をどこかに隔離して、時間をかけて別の方法を探ることも可能でしょう」
「本当は?」
問いを重ねてきたのは、諏訪子だった。諏訪子はにやりにやりと笑いながらこちらを見ている。
「本当、とは?」
「尻尾に出ているよ。焦燥が、葛藤が。今の言葉は貴方の本当の言葉じゃないでしょ?」
「!?」
椛は慌てて自身の尻尾に触れた。白狼天狗の証たる白い尾は総毛立ち、ひどく緊張していた。
落ち着け、落ち着け、と尻尾を抑える椛を見て、諏訪子はけろけろと笑う。
「神の前で隠し事なんて、不敬じゃないか」
「……申し訳ございません」
「謝罪はいいからさぁ、本当はどうしたいのさ? 教えてくれなきゃ祟るよ?」
この神が“祟る”と言うと洒落にならない。
嘘や綺麗事は通じないだろう。下手をすれば本当に祟られてしまうかもしれない。椛は観念すると、ため息をひとつついてから白状した。
「言うことを聞かないようであれば力尽くで。それでも渡さないと言うのであれば作らせます。“花童子の花”と言っても元はただの花ですし、作れないことはないでしょう。こちらは急いでいるんです。そんな問答に割く時間なんてありません」
口早に言い切り見回すと、早苗と神奈子はややあっけに取られた顔をしていた。正直に言いすぎただろうか。ただ、諏訪子だけは満足げに頷いている。
「うんうん、貴方もやっぱり天狗ね。妖怪はそれくらいワガママじゃないと」
「は、はあ……」
この小さい神は、何が言いたいのだろう?
と、諏訪子は小さく飛び跳ねて立ち上がると、部屋を出て行ってしまった。
「……?」
「気まぐれなやつめ。すまないね。あいつのことは放っておいて頂戴」
「はあ」
ため息交じりの神奈子の言葉に、こちらは生返事を返すことしかできず。
「そ、それで、花童子の件なのですが……」
とにかく話を進めなければと椛が言うと、神奈子は眉間にしわを寄せ、渋い表情を見せた。
「うむ、早苗の友人の頼みだ。本音はどうあれ危害を加えないと約束するのならば、案内しよう」
「あ、ありがとうございます!」
「だけど、」
喜びは束の間だった。
「彼女は外の世界にいる。私たちの力を以ってしても、結界の外に出られるか分からないわ」
――外の、世界……?
「仮に出られるとしても、結界に孔を開けるために数日はかかるでしょう。果たしてそれを八雲紫が許してくれるかしら」
「…………そう、ですか……」
続く神奈子の言葉は、より深刻なものだった。八雲紫の許しはともかくとして、それよりも問題は……
――数日……
先ほどはああ言ったものの、できれば花もすぐ手に入れたい。神奈子が無理ならば、他に手段はないだろうかと記憶を辿る。
外の世界――幻想郷と言う閉じられた世界から抜け出せるものはきわめて少ない。椛の知る限りでは、幻想郷の創造主たる“妖怪の賢者”八雲紫だけ。山の上層部では結界破りが行われていると聞いたことがあるが、これはあくまで噂であるし、山を頼ることは難しいだろう。どちらも協力を仰げるようなあてではなかった。
そういえば、外の世界から幻想郷に迷い込んできた人間がふたりいたか。しかし、そのふたりは既に幻想郷の外へ帰ってしまっているし、仮にこの場にいたとしても、そもそも彼女の能力は得体が知れなさすぎる。
と。
「……そういえば」
ふたりを元の世界に帰す手助けをしてくれたのは、八雲紫の式、八雲藍だったか。あの時、藍は紫から力を貸し与えられ、結界の綻びから外への路を作っていた。
今、紫は楼観剣を封印するための札を作っていて手が離せない。となれば……
「……」
「椛さん?」
心配そうに声をかけてくる早苗に「大丈夫だ」とだけ言って椛は立ち上がり、ぐるりと辺りを見回しながら声を上げた。
「聞いているのでしょう、八雲藍殿! 姿を見せていただけないか!?」
待つことしばし。
『いつから気付いていたの?』
「きゃあ!?」
唐突に聞こえてきた声に早苗が悲鳴を上げた。声のほうへ目を向けると、そこには人ひとりが立って通れるほどの大きさの“スキマ”がひとつ。
声の主が、スキマの中から姿を現す。
金の髪、金の瞳。青と白を基調とした導師服を身にまとった女だ。そして何より目を引くのは、彼女の臀部から花弁のように広がる金色。その尾は九本。
「綺麗……」
早苗がため息混じりに呟くのも頷ける。それほどまでに、その女は美しかった。
女は――“八雲紫の式”八雲藍は穏やかな微笑を浮かべて神奈子に一礼をした。
「お久しゅうございます、八坂様」
「へえ、八雲の式かい。これは珍客だね」
「季節の挨拶くらいには伺いたいといつも思っているのですが、なにぶん紫様も私も忙しい身でして」
「なに、気にしていないわ。
それよりも、彼女の話を聞いてあげなさい。貴方に用があるのは、私じゃなくて彼女のほう」
「ええ、分かっておりますとも」
頷き、ようやく藍はこちらに向き直った。
「久しぶりね、犬走椛さん?」
「はい、お久しぶりです」
「それで、いつから気付いていたの?」
「『もしかしたら』と思ったのは、つい先ほどでした。今の私は、おそらく妖夢の次に幻想郷で“例外的”な存在ですから」
「なるほど」
椛の答えに藍はくすくすと笑った。
今の幻想郷で妖夢を救うために行動を起こしているのは、おそらく椛だけ。八雲紫の想定を超えた“何か”をやらかすとしたら、椛なのだ。故に、監視がついていてもおかしくはない。
「私は呼んだ理由は?」
「お分かりでしょう?」
そう、ここでのやり取りも見ていたであろう藍ならば分かっているはずだ。
「藍殿、貴方は外の世界への路を作ることができますね?」
「……ええ、可能よ」
「準備や移動にかかる時間は?」
「ゼロ」
やはり。
神の力を以ってしても外の世界へ行くには一朝一夕では不可能。だが、幻想郷を創造したスキマ妖怪の力ならば? 式ではあるが、紫の力の一部を貸し与えられている藍ならば、外への路を作ることは可能なのでは? 椛はそう考えたのだ。
そして今、それが可能だと分かった。
しかし……
「藍殿、私を外の世界に連れて行ってはくれないだろうか」
「紫様からその命令は受けていない」
これも、やはり。
八雲の式が、主に断りもなく結界に孔を開けることはないだろう。主である八雲紫の命令こそ絶対である藍に理屈は通じない。
だから、
「ですが、八雲殿はそれを望んでおられるはずです」
「どうして?」
「妖夢が死ねば、西行寺殿が悲しみます」
「……」
その主を出汁にする。
予想される異変の終焉。それは紫にとっても回避したい未来であるはずだ。だから彼女は、自分に時間を与えた。花の情報を与えた。椛はそう考えていた。この考えに藍が思い至らないはずがないだろう。
「紫殿と相対してなお私は自由な行動が許されている。それが何よりの証拠でしょう? お願いします。どうか力をお貸しください」
「……」
しかし、
「紫様の真意がどうあれ、私は貴方を外界に連れて行く許可を得ていない」
「ならば許可を」
「紫様は今お忙しい」
「そこをなんとか」
「ならない」
「時間がない」
「それはこちらも同じこと」
「……」
――折れないか。
せめて紫と交渉をする機会くらいはもらえないか。そんな椛の期待さえも切って捨てる身も蓋もなさだった。
椛はふらりと藍に歩み寄ると、彼女の両肩を掴んで頭を下げる。
「頼むっ……! もう、藍殿しか頼れるものがいないのです……!」
「……貴方、」
直後、藍が動いた。
こちらの手を片方は払いのけ、もう片方は掴んで捻り上げながら後ろに回りこんで床に押し倒してきた。突然のことに、またあまりの手際の良さに椛は反応する間もなく畳の床にどたんと倒される。
「ぐお!?」
「あ、あの、あんまり暴れないでくださいね……?」
「役者には向かないわね」
「な、何の話だ!?」
ぎりぎりと極められた腕の痛みに耐えながら見上げると、藍が苦笑とともにため息をついた。
「頬が引きつりすぎ、目が据わりすぎ。動きも固くてぎこちないし。『いざとなったら首根っこを掴んででも』って考えが透けて見えていたわよ?」
「ち……!」
確かに、これで駄目なら力尽くでもと考えていたが、看破されていたようだ。やはり慣れないことはするものではない。
ならばもはや演技は不要だ。椛は深く息を吐くと手の中に妖力を集中させる。
「だったら……!」
「!?」
次の瞬間、藍は椛の拘束を解いて飛び退いた。
「四の五の言わずに協力してもらえませんかね?」
手元の妖力を慎重に収めながら立ち上がると、藍は乾いた笑みでこちらを見ていた。
「密着状態で起爆性のある弾幕を作るなんて、気でも狂っているの? 爆発すれば、貴方だって無事では済まないというのに」
「自分では正気のつもりですけどね」
他人から見れば狂っているように見えるのかもしれない。だがそれは仕方の無いこと。
なぜなら、
「ただ、必死なだけです」
今すぐ外界へ行く手段は藍しか持っていないのだ。なりふり構っている余裕などない。
椛は身を低くして身構えた。その身の野性を抑えることなく、牙を剥き出し、赤みのかかった黒檀の瞳をぎらつかせて。
「さあ、外の世界へ連れて行ってもらおうか」
「……必死、ね」
「あの、ですからケンカは外で……」
早苗の言葉はひとまず無視。今は藍から目を離すわけにはいかない。
顎に手をあて、楽しげにこちらを見る藍は隙だらけに見えた。しかし油断はできない。相手は八雲藍の式なのだ。持ちうる妖力は椛のそれを大きく上回っているだろう。体術にしても、先ほど椛を押し倒した手際を見るに、侮れるものではない。
さあ、どう出る?
「……」
と、
「ああ。そういえば、紫様から預かっていたものがあるわ」
「なに?」
ぽんと手をつき藍は袖の中から紙切れを取り出した。差し出されたそれを、椛は受け取り確認する。
「とりあえず時間稼ぎ用、だそうよ」
長方形、赤い縁取り、中央に何かが記された札。
「これは……?」
「妖力封じの札。対人対物なんでもござれ。対象に貼り付けるだけで妖力を抑える効果があるわ。突貫で作ったものだから長くはもたない、とのことよ」
――妖力封じの札、か。
楼観剣から溢れる妖気を押さえ込む手段。これがあれば、紫が作っている本番用の札が完成するまでの時間稼ぎが可能となる。
しかし、
「どうしてこれを私に?」
先ほどまでは協力を拒んでいたというのに。
「もしもの時の保険ってやつね。紫様が札を完成させるまでの間に妖夢が行動を起こさない保証はない。もしもそうなった時のために、彼女を止めるためのカードは一枚でも多く用意しておきたいのよ」
「……ふむ」
回りくどい言い方をする。
――要は『彼女を止めろ』と、そう言いたいのだろう?
立場とは誠に面倒なものだと椛は改めて思った。
とは言え、時間稼ぎの手段が手に入ったことは幸運だった。
だが、
「しかし花童子の花がない」
あれがなくては、どちらにしろ封印は完成されない。異変は解決しない。
藍の力が借りられない以上、確実性はないが神奈子に頼むしかないだろう。その場合は時間が要るらしいが、それまでの間は椛が妖夢を守り抜かなければならない。
誰から? 言わずもがな、博麗霊夢だ。だが、これまで彼女が解決してきた異変の顛末を聞くに、妖夢を無力化し楼観剣の妖気を封じておけば、いきなり攻撃してくることはないだろう。あとは酒でも渡しておけば大人しくなるはずだ。それで大人しくならなかった場合は……
――私の力で、博麗霊夢を抑えることができるだろうか……?
相手は、数多の異変を解決してきた“楽園の素敵な巫女”だ。一筋縄どころの話ではないだろう。おそらく勝ち目は……
「貴方の悩みは、おそらく杞憂」
思考の底に差し込んできたのは、そんな言葉。藍の顔を見ると、彼女は笑みを浮かべて天井を示した。
「上……?」
見上げると、そこにあるのは板張りの天井。なにやらばたばたと物音が聞こえる。
「……?」
やがて“ばたばた”は“どたどた”に変わり――これは足音だろう――少し遠ざかると徐々に降りてゆき、また近づいてきて……
「あったあった!」
諏訪子の形となって部屋に飛び込んできた。
「騒々しいわね。今度はなんだい?」
ため息をつく神奈子を見て、諏訪子はにんまりと笑う。
「神奈子じゃ役に立たないから、私が一肌剥いでやろうと思ってね」
「剥ぐな。一肌は脱ぐもんだ」
「そんなことはどうでもいいよ。それより、これこれ」
言いながら諏訪子が差し出したのは、細長い木箱。蓋を開いたその中には桜色の一輪の花。
どくん。
「私は土着神でね。同じ土地に長く住んでいた分、神奈子と違って地元では顔が広かったのよ」
「余計なお世話よ」
「だから、ご近所さんの花童子とも仲が良くてねぇ。こっちに来る時にこうして餞別を貰っていたってわけ」
「そ、それは、まさか……」
「ぴんぽーん。貴方の探している“花童子の花”ってやつよ。貴方の望んでいる力もちゃんと持っているわ。まあ、実際は妖気に限らず色んな力を取り込もうとしているみたいだけどね」
今日ほど神に感謝したことはない。祟り神だ何だといわれている諏訪子が、今は救いの女神に思えて仕方がなかった。
椛は畳の床に膝をつき、手をつき、額をつけた。
「洩矢様。どうか、どうかその花をお譲りください」
そして懇願する。
「代償ならば何でもお支払いいたします。この身も、命さえも、差し出す覚悟でございます。ですから、どうか……!」
「……」
恥も外聞もない。誇りなんてくそくらえだ。あるのは、ただ“友を助けたい”という想いひとつ。
しかし、その椛の想いを諏訪子は鼻で笑い、ため息で吹き散らした。
「私さぁ、今とっても退屈してるのよね。白狼天狗の土下座なんか見るよりもやりたいことがあるの。お分かり?」
「……いえ」
そして諏訪子の口は三日月を形作る。
「みんな大好き、“神遊び”」
午後の穏やかな陽光に照らされ白々と輝き、幾本もの御柱が突き立つ。守矢神社の裏手にある大きな湖。その上空で椛は諏訪子と対峙していた。
「貴方、弾幕ごっこは苦手なんですってね!」
諏訪子が声を上げる。
その通りだった。弾幕ごっこにおける椛の実力は、精々が中の下といったところか。白狼天狗の中ではできるほうだが、日常的に弾幕に触れている射命丸文や博麗霊夢、霧雨魔理沙には遠く及ばない。彼女らと相対したことのある諏訪子を、椛の実力でどれほど満足させられるだろうか。
「そんな貴方のために特別ルールを設けるわ!」
「特別ルール?」
ぴっ、と、諏訪子は人差し指を立てる。
「貴方の勝利条件は、一度でも私に触れること!」
「触れる、だけ?」
「そ。弾幕を撃とうが石を投げようが、何をしてもいいわ。とにかく私に直接触れることができたら、貴方の勝ち」
「……それで、敗北条件は?」
「私の弾幕に三回被弾すること。どうかしら?」
「三回……」
弾幕を撃っている相手に接近することは至難だろうが、普通の弾幕ごっこよりはずっと現実的かもしれない。三回の被弾が許されているのなら、それだけチャンスがあるということ。
――断る理由は、ない。
「分かりました。よろしくお願いします」
「オッケー。私を楽しませることができれば、花は貴方にあげる。心してかかってきなさい」
「はい!」
となれば、これは邪魔だな、と椛は携えていた大太刀と盾を湖の縁に向かって投げつけた。それらは鋭く回転しながら飛んでゆき、地面に突き刺さる。
椛は身構え臨戦態勢を取るが、しかし諏訪子は直立したままで、とがめるように言う。
「慌てなさんな。神の戯れよ。きちんと作法に則って始めましょう?」
「は、はあ……」
「二拝二拍一拝。知ってるでしょ?」
神社を参拝する際の、一般的な参拝方法だったか。
出鼻を挫かれながらも、椛は構えを解いて姿勢を正す。弾幕ごっこの開始に二拝二拍一拝が適切かは分からないが、礼儀は大切だ。
「まずは二拝」
二度、深く頭を下げる。二回のお辞儀は神に対する敬意を示す意味がある。諏訪子もやっているが、神自身がこの礼をすることに意味はあるのだろうか。
「次に二拍」
二回の拍手で神へ願いを伝える。やはり、椛と一緒に諏訪子も両手を打ち合わせ。
ぱんっ、
一拍、
ぱんっ!
二拍。その瞬間、
ぞ!!
諏訪子の身体から弾幕が噴き出した。
「なに!?」
「で、最後に一拝」
締めくくりの一礼を諏訪子は呑気にしているが、こちらはそれどころではない。
大小様々な大きさの弾幕が椛に殺到してきていた。さらに、諏訪子の左右からは赤と青の錐状弾幕が伸びて徐々にこちらへ迫ってきている。
「ちィ!」
舌打ちをしながら椛は退路を求めて視線を走らせる。左右が駄目なら上下。そう考えて上昇するも、錐弾は椛の位置にあわせて高さを変えてくる。このまま錐弾が左右から迫ってくれば、挟まれて終わりだ。
――いや……
錐弾の片方、赤いほうが先に途切れて道ができた。錐弾から逃れるにはあそこを使うしかない。椛は開いた道に身体を滑り込ませた。
迫り来る弾幕は自機狙いながらも精度が甘く設定されているようでかなり散っているが、誘導後の射線から外れてしまえば密度はかなり薄くなる。
「開宴よ!」
諏訪子の声が響く。
――汚い!
などと悪態をついている暇もない。左へ避けて第一波をやり過ごした椛が諏訪子を視認すると、彼女の横には一枚の符がくるくると回っていた。既にスペルカードは発動していたのだ。
そして彼女は再び両手を広げる。
――まさか……!
椛の予想通り、諏訪子が手を打ち合わせた。
ぱんっ、ぱんっ!
ぞ、ぞぞ!
手拍子に合わせて弾幕が噴き出す。同時に、やはり洩矢諏訪子の左右から赤青二色の錐弾。今度は先ほどと反対側が赤色で、やはり先に途切れた。
椛は自機狙いの弾幕を回避しつつ、錐弾から逃れるために右へ。
二拍、自機狙い、錐弾。二拍、自機狙い、錐弾。
二週、三週と弾幕をやり過ごし、観察を続けた椛は理解する。
――見えたぞ、法則と隙が。
自機狙いの弾の雨と、左右どちらかに退路を用意した錐弾の混成。隙間の大きいほうへ自機狙い弾を引きつけ、回り込んで諏訪子の正面に戻る。これの繰り返しだ。やはり弾幕ごっこ用のスペルカード。きちんと避けられるように作られている。
神社では、参道の中央は神の通り道として歩くことは不敬とされている。諏訪子の正面の位置取りを維持させずに左右へ避けさせるこの弾幕は、そんな作法から生まれたものなのだろうか。
ともあれ、弾幕の法則は理解した。となれば見えてくる、踏み込む隙は……
――手拍子の瞬間!
自機狙い弾は、出現と同時に諏訪子の頭上へ浮かび上がる。その瞬間だけ、諏訪子と椛の間を遮るものがなくなるのだ。それこそ、道。
二拍、自機狙い、錐弾。二拍、自機狙い、錐弾……
自機狙い弾幕の先、消え行く錐弾のさらに向こうに諏訪子の姿が見えた。
――ここだ!
椛は足元に妖力を集中させ簡易の足場とし、それを踏みしめ諏訪子に向かって一直線に跳躍した。手拍子で次の弾幕を生み出していた諏訪子が目を瞠る。スペルカードの維持に霊力を割いている今なら、まともな回避はできないはずだ。
自機狙い弾幕を紙一重でかわしながら、ぐんぐんと諏訪子との距離が縮まっていく。そして目前まで迫った諏訪子に向かって椛は手を伸ばし……
「あら、時間切れだわ」
諏訪子の傍らにあったスペルカードが散り消え、同時に弾幕も霧散した。そして諏訪子は身体を反らす。結果、椛の手は空を切り、諏訪子とすれ違うこととなった。
「くっ!?」
「狙いは良かったけれど、ちょっと時間をかけすぎたわね」
――仕損じた!
諏訪子と距離を取りつつ、椛は歯噛みした。あと数秒、数瞬あれば済んだというのに、弾幕の見極めから勝負に出るまでに時間をかけすぎた結果だ。少し慎重になりすぎたか。
だが幸いなことに被弾はしていない。まだ勝機はある。
「いいわよ。楽しい、楽しい」
諏訪子けろけろと笑う。
「楽しいから、面白いものを見せてあげる」
そしてこちらに手をかざし、
「ちょっと降りましょ」
「うお!?」
上から下に、軽く振った。その瞬間、椛の全身に尋常ならざる重みが襲い掛かる。まるで巨大な鬼の手に押さえつけられているかのような、そんな重圧。
――飛んでっ、いられない……ッ!
じわり、じわりと降下する椛と一緒に降りながら、諏訪子は早苗へと声を上げた。
「早苗! よく見てなさい!」
「えっ、私ですか!?」
諏訪子はそっと湖面に手を触れる。ちゃぷん、と、小さな波紋が広がってゆき。
「神様ならこれくらいはできるようにならないとね!」
瞬間、
ごぱんっ!!
「!?」
湖が“開けた”。
朝焼けを照り返して輝いていた湖の水が岸辺に追いやられ、中央の湖面が剥き出しになったのだ。その様、西洋の闘技場さながらか。
唖然としながら、早苗は顔の前で力なく手を振った。
「いやいやいや……モ、モーゼじゃ駄目ですか?」
「あんなんじゃ足りない足りない」
「諏訪子、貴様何をしているか! ちゃんとあとで元に戻しなさいよ!」
「分かってるって、五月蝿いなあ」
諏訪子は椛とともに湖の底へと降り立つ。同時に椛の身体を押さえつけていた重圧が消えた。
「今度は地上ステージとしゃれ込もうじゃない。貴方もこっちのほうがやりやすいでしょ?」
「……よろしいので?」
確かに。地に足がついている分、空よりもずっと動きやすい。
「構わないわ。地の利を得たのはこちらも同じ」
ぺろり、と、諏訪子は細長い舌で唇を舐めた。
「私は坤を創造する神様だもの」
そして諏訪子は帽子を手に取り前方に掲げる。その中から現れたるは、二枚目のスペルカード。
「『マグマの両生類』」
宣言とともに帽子をかぶり直して真上に跳躍。くるりと一回転すると、手から地面に落ちていく。
そして、
ざぷんっ!
諏訪子の身体は地面の中に沈んでしまった。同時に、真っ赤な弾幕が辺りに飛び散る。
「これは!?」
飛び散った弾幕は重力の影響を受ける類のものらしく、上に飛んでいたものはやがて上昇を止め、そして一斉に降り注いできた。
じゅ!
地に落ちた弾幕が地面を焼いた。見れば、そこには赤い液状のものが溜まっている。
――溶岩か!
ただの弾幕ではないらしい。地底深くの溶岩を霊力で包み込み、弾幕として打ち出しているのだろうか。触れば痛い熱いではすまないだろう。
降り注ぐ溶岩弾を避けつつ椛は諏訪子の姿を探した。地中に潜った彼女が次にどこから仕掛けてくるのか予測がつかない。
――……いや。
目玉のついた小麦色の帽子。
「……」
それが、地面に落ちていた。そして、ずる、ずる、と、動いている。
――……隠れきれていないが。
あれに触っても、勝ちになるのだろうか。
辺りに溜まってごぽんごぽんと泡を立てる溶岩に気をつけつつ、椛は帽子に近づいていく。上空からの弾幕はほとんど回避した。もう気にする必要は無いだろう。
と、
ぎょろり。
目玉が動いた。そして、こちらと目が合った。
『……』
「…………ッ!」
椛が帽子に飛び掛るのと、
ザパァ!
諏訪子が地面から飛び出したのは、ほぼ同時だった。
「残念でした!」
「ちィ!」
先ほどまで諏訪子が潜っていた地面に手をつき舌打ちする椛の前で、諏訪子は再び地面に潜る。飛び散り降り注ぐ溶岩弾。
固い地面。ただの地面だった。諏訪子が出入りした時は液状化しているように見えたが、神のなせる業か。
溶岩弾を避けながら、椛は考える。
ただ闇雲に追いかけているだけでは埒が明かない。隙を見つけて狙わねば。
諏訪子が跳ぶ。潜る。そして溶岩弾。
「おっと」
回避しようとした方向が溶岩で満たされていることに気が付いた椛は、慌てて軌道を変えた。辺りにかなりの溶岩が溜まってきている。これ以上長引かせると、足の踏み場がなくなってしまいそうだ。諏訪子の帽子も溶岩の中に隠れてしまって、本格的にどこから出てくるのか分からなくなってしまっているし、これ以上長引かせてはせっかくの足場がまったく使えなくなってしまう。
――ともあれ、試してみるしかないか。
うだうだと考えることに時間をかけていては、先ほどの二の舞だ。
諏訪子が飛んだ。椛はその着地点を予測。落下を始めた辺りでそこに向かって走った。隙ができるとしたら、地面に潜る瞬間か。
しかし、
「それも残念」
着地の直前に諏訪子は空を蹴って跳躍した。椛の手はまたも届かない。
――だが、まだ!
ぎッ! と、見上げて諏訪子を睨み据える。この距離ならば、まだ届く。
椛は両足に力を込めて、真上に跳躍。諏訪子に追いすがった。
「そのがむしゃらさ、いいわねぇ」
しかし諏訪子は焦ることもなく。
「嗚呼、貴方の心から滲み出る“負”は本当に美味しい」
「負だと!?」
恍惚の表情を浮かべながら身を捻る。その背後をすり抜けてこちらに向かってくるは、一発の溶岩弾。すぐ、目の前だった。
「しまっ……!」
「その不安、その後悔、もっと私に味わわせて頂戴!」
――避けられない!
椛は無理やり溶岩と身体の間に右手を割り込ませ、溶岩弾を殴り飛ばした。直撃よりはマシだ。
次の瞬間、弾幕は割れてただの溶岩へと戻って椛に降り注いだ。
「グ、ぉ!! う……ッ!」
熱さよりも、痛みよりも、最初に感じたものは痺れだった。右腕を中心に痺れが全身を駆け巡り、痛みはそれから。最後に熱が襲い掛かる。
溶岩に触れてしまった右の袖が発火している。紅葉の散りばめられた藍色のスカートもだ。
諏訪子は既に手の届かないところまで逃げてしまっているし、今はまず火を消さなくては。
椛は空を蹴り、場の壁を形成している水の中に飛び込んだ。秋も深まり、冬間近といった季節。水は身を切るような冷たさだった。灼熱から氷点へ。陶器なら割れてしまうところだ。
などと、そんなことを考えている場合ではない。椛はすぐさま水の中から飛び出すと、ごろんと地面に転がった。
「あらら、大丈夫?」
「っ……はい」
心配そうに声をかけてくる諏訪子に応じながら、椛は呼吸を整える。諏訪子がスペルカードを終了させたからだろうか、辺りに広がっていた溶岩は消えていた。
――まずい。
肉の焦げた臭いが鼻につく。右手の感覚がほとんど失われていた。炭とまではいかないが、溶岩をかぶってしまったせいで焼け爛れている。これではまともに動かすこともできないだろう。
「今度は焦りすぎたわね」
その通りだった。
諏訪子に触れることばかりに気が向きすぎて、周辺の警戒が疎かになっていた。初見の弾幕を前にして一番やってはいけないことだ。結果として虚を突かれ、被弾してしまった。
「リタイアもありよ?」
「ご、ご冗談を……」
ちゃんと笑えているだろうか。椛は不敵な笑みを浮かべてみせる。
「遊びはまだまだこれからでしょう?」
こんなところで折れている場合ではないのだ。何がなんでも花を手に入れなくてはならない。
「いいわねぇ、熱いわねぇ」
諏訪子が帽子を掲げる。
「それじゃ、遠慮しないわよ!」
中から飛び出したるは、三枚目。
「土着神『手長足長さま』!」
諏訪子が跳ぶ。そして本来の湖面より少し低いところで止まると、両手足をいっぱいに広げた。
次の瞬間、その手先、足先から、
ビッ!!
錐弾が発生した。
「まだまだ、動き足りないわね!」
諏訪子が左手を振り上げる。その動きに追従して錐弾も高々と天へと向かう。
「ちッ!」
舌打ちをしながら椛は横に跳んだ。刹那、諏訪子が腕を振り下ろすと同時に、椛がいたところを錐弾が走る。
「それ!」
次いで諏訪子は足を振るう。足先からの錐弾が薙ぎ払うように迫ってきた。椛はこれを跳躍で回避し……
「こっちばかり見ていると、足元をすくわれるわよ」
「!?」
「ほら」
諏訪子が椛の背後を指差した。その示す先――錐弾の道行きを辿っていくと……
「ちょっと待て!」
水の壁に反射した錐弾がすぐ目の前まで迫ってきていた。
椛は着地と同時に横っ飛び。紙一重で錐弾をかわした。
――厄介な!
跳弾性のある弾幕に、この地形。上下左右に加えて背後にまで気を配らなければならないとは。
諏訪子との距離は遠い。湖面近くの高さにいる彼女の懐へは、一足飛びで入り込むことはできないだろう。どうしても迎撃する隙を与えてしまう。
だが、よく見てみろ。あれほど長大な弾幕、距離を詰めてしまえば使い物にならないはずだ。えてして長射程の武器は懐が疎かになるもの。それにあれだけの質量の弾幕ならば、霊力の消費も大きいはず。諏訪子の肩が大きく上下しているように見えるのは、決して見間違いではないだろう。
――討てる!
両手の錐弾を使った挟撃をかわしながら、椛は覚悟を決めた。この弾幕で終わりにする。
諏訪子は空中でくるんと縦に回転。そして踵落としの要領で叩きつけられた錐弾を椛は紙一重で回避した。そして、
「いくぞ!」
吼えて椛は強く地を蹴る。白狼天狗の脚力で蹴り出された一歩は、圧倒的な速さで諏訪子のもとへとその身を運んでいく。
「来なさい!」
楽しげに応じて諏訪子は手足を振るう。こちらを薙ぎ払わんと襲い掛かる錐弾を最小限の動きで錐弾を避けながら、椛は諏訪子へと肉薄する。
「させないわよ!」
諏訪子が両手、両足を同時に振るった。四方から錐弾が迫ってくる。上下左右への回避は困難。後退しても当たるし、前に出ても諏訪子のもとに辿り着く前に追いつかれるだろう。
――距離は……?
もう、射程圏内だ。
椛は停止するとありったけの妖力を足元に集めた。そして集めた妖力を空間に固着させ、強固な足場とする。
――この技術は、妖夢に教わったものだったな。
思えば、妖力霊力の扱いは妖夢のほうが上手かった。大雑把な弾幕しか撃てない椛と違って、妖夢は多彩な弾幕を操り、また弾幕以外でも応用していた。そんな霊力の応用のひとつがこれだ。地上戦を得手とする椛にとって、空中で足場を作れるこの妖力の使い方は非常に重宝できるものだった。
足元を妖力でしっかり固め、椛は身構えた。錐弾はもう目の前だ。両腕で目元とを腹を庇い、迎え撃つ。
――腕、もげたりしないよな……?
恐ろしい想像が脳裏をよぎったが、もはや退路はない。
「これで二被弾目!」
諏訪子の声と同時に、錐弾が椛に突き刺さった。
「グっ、お、お……!」
それは腕を貫き腹にまで達してしまったのではないかと錯覚するほどの衝撃。やはり錐弾。受けた箇所が刺すような痛みに襲われた。出血はしていないようだが。
しかし、妖力の足場のおかげで踏みとどまることができた。焼けた右腕も、もげてはいない。睨み据えた先には隙だらけの土着神、洩矢諏訪子。
「やばっ……!」
この距離ならば、一足飛びだ。
まさか吹き飛ばないとは思っていなかったのだろう。驚愕の表情を見せる諏訪子に向かって、椛は跳躍した。
「これで終わりだ!!」
左手を伸ばす。
「でも、やっぱり残念」
「!?」
諏訪子の口が三日月を描く。弾幕が消える。そして伸ばした手が諏訪子に触れた。
「それは私の赤蛙」
瞬間、諏訪子の身体は赤く染まり、そして爆発した。
「まさか!?」
――偽者!?
爆発した諏訪子から無数の弾幕がばら撒かれる。避けようがない。
被弾し、爆風に煽られる中で見たものは、弾幕の向こう側にいる諏訪子の姿と、
「土着神『宝永四年の赤蛙』」
四枚目のスペルカードだった。
「やー、面白かったわー!」
「……」
全ての弾幕が消え、戻ってきた静寂を割って諏訪子の声が響いた。決戦の場と化していた湖は、ふたりが湖面よりも上に出たあとで再び水で満たされ、今は静かに揺らめくばかり。
椛と諏訪子は岸辺へと向かっていた。無傷の諏訪子に比べて、椛は酷い有様だ。
腋出しの白い装束、その両袖は跡形もなく、さらに右腕には重度の火傷。紅葉の散りばめられた藍色のスカートは裾の一部が焦げてしまっていた。それに加えて最後の被弾。無数の弾幕によって衣服、身体ともにどこもかしこもぼろぼろだった。
――負けた……
四枚目のスペルカード。よもやあの局面で切ってくるとは。完全に予想外だった。避けようもない。
いつの間に入れ替わっていた? なぜ気付けなかった? どこで誤った?
――……駄目だ、今は後悔している場合ではない。
次の手を考えなくては。妖夢の居場所も霊夢の動向も知れない。あと二日もすれば、八雲紫まで動き出してしまう。何とかそれまでに封印の手立てを揃えなくては。
「諏訪子様、椛さん、お疲れさまです」
湖のほとりに降り立った椛と諏訪子を、早苗と神奈子が迎えた。
「その、椛さん……大丈夫、ですか?」
「……ああ」
早苗の心配そうな呼びかけに応じつつ、椛は思考を巡らせる。
やはり神奈子に外の世界への移送を依頼するべきか。すぐに花を手に入れることはできないが、花童子に直接会うことができる。問題は花を手に入れるまでの間だ。博麗の巫女から妖夢を守り抜くことができるか。
あるいは、八雲紫に頼み込むか。しかし、だがそのためにはまず紫の住処を暴かなくてはならない。彼女の式である八雲藍に頼めれば早いのだが、あいにく藍には既に断られている。紫に会う方法があるとしたら……
――八雲藍の式。
話に聞いたことがある。マヨイガという地に、藍の式がいると。彼女を取り込むことができれば、八雲への道が開けるのではないか。
「それじゃあ、はいこれ」
だが、
――時間がなさすぎる。
マヨイガを探して、藍の式を探して、八雲の地へと案内させて紫との謁見を求む。そして紫と交渉をして外の世界に行って花を手に入れ帰還する。とても間に合うものではない。
――どうすればいい? どうすればいい?
駄目だ。やはり神奈子に依頼するほうが現実的か。
次手を決めて拳を握り締めようとした椛は、手の中にあるものに気が付いた。
「え?」
無事な左手、その手のひらの上に小さな木箱があった。
花童子の花だ。
「え? なんっ、これは……?」
「やだなあ、言ったでしょ?」
突然のことに目を白黒させていると、諏訪子はぱたぱたと手を振りながら言う。
「『私を楽しませることができたら、花をあげる』って。貴方との神遊び、とっても楽しかったわよ」
「あ……」
そういえば、そんなことを言っていた気がする。だが、だがしかし、
「ですが、私は負けました」
「勝負の結果なんて関係ないのよ。要は私が楽しめたかどうかなんだから」
「……」
「だいたい、神様に勝とうなんておこがましいにもほどがあるわね」
金の瞳に見つめられ、椛は返す言葉が浮かばなかった。
良いのだろうか、貰ってしまっても。
だが、これで妖夢を救うための手立てが揃うのだ。この機を逃す手はない。目的を思い出せ。何よりも優先すべきものを。
――妖夢……!
木箱をそっと握り締め、椛は深く、深く頭を下げた。
「ありがたく、頂戴いたします」
「うむ、よろしい」
これで、これで……
「やりましたね、椛さん! おめでとうございます!」
「いだだ! 早苗! ありがとう! ありがとう! だから抱きつくのはやめてくれ!」
花を見つめているところで早苗に抱きつかれ、椛は悲鳴を上げた。
体中が痛んだ。特に右腕は火傷がひどい。今から治癒に専念すれば、明日には動かせるようになるだろうか。とは言え、動かせるようになったとて、これでは剣を握ることさえできるかどうか……
「早苗、離れなさい。天狗殿が痛がっている」
「え? ああっ、ごめんなさい! 大丈夫ですか!?」
「あ、ああ……」
右腕をさすっていると、神奈子が椛のほうへ手をかざす。
「諏訪子。遊ぶのは構わないが、アフターケアがなっていないな」
――暖かい。
神奈子の力だろう。心地よいぬくもりとともに、身体の傷が癒えていく。
「少し辛抱してね」
「おお……ありがとうございます」
「なに、身内のフォローをしているだけよ」
「ちょ、私だって今やろうと思ってたのよ!」
慌てた様子で諏訪子が手を一振りすると、破損していた服が元通りになった。丸ごとなくなっていた袖までもだ。
「おお!?」
「怪我の治療は神奈子に任せてあげる」
「減らず口ね」
「うるさい! あんたもぶちのめしてやろうか!」
「ほぉう? 威勢は良いが、随分とお疲れのご様子じゃあないか。そんな状態で私に勝てるとでも?」
「じょーだん、あんたなんて指先ひとつでダウンよ!」
「ネタが古い……」
「あああ、神奈子様も諏訪子様もケンカしないでください」
触らぬ神に祟りなし、だ。椛は口喧嘩を続ける二柱と、それをなだめる現人神のことはさておくこととした。
抗狂剤、妖力封じの札、そして花童子の花。鍵は全て揃った。あとは博麗霊夢よりも先に妖夢を見つけ、これらを以って彼女を捕縛、狂気を祓い楼観剣の妖気を抑え、花童子の花とともに再封印の時を待つする。あと少し、あと少しで……
――しかし、妖夢は今どこにいる?
永遠亭で相対した時に感じた、あの妖気は今は感じない。どこかで水浴びでもしてしまったのか、においもしない。手がかりが、何もなかった。
だが、幻想郷は箱庭。有限の世界だ。必ず見つけられる。
――そう、この空の下に、必ず。
「……ん?」
見上げた空、まばらに散った白い雲と、まだ高い位置にいる太陽。それと、黒点がひとつ。
「なんだ?」
黒点は徐々に大きくなり、やがて形もはっきり見えてきて……
「カァァァ!!」
「おお!?」
それは椛の額を目掛けて矢のように飛んできた。
「ななっ、なんですか今の!?」
「鳥だったわね」
「でっかい鴉だったわ」
そう、飛んできたのは鴉だった。その事実に、尻餅をついた椛はそのままがっくりとうな垂れ、力なく呟いた。
「驚かせて申し訳ない。あれは、おそらく身内だ……」
まさか迷わず射抜きにかかってくるとは、椛も予想していなかったが。
椛を仕留め損ねた鴉はそのまま上昇し、しばしして転身。再び椛を射抜きにかかる。
「また来ますよ!」
「問題ない」
早苗が警告の声を上げる。しかし、今度は避けるつもりはなかった。傷はすっかり癒えている。丸焦げに近かった右腕もだ。これならば、と椛は立ち上がり、真正面から鴉を見据える。
「カァァァ!!」
「――ッ!」
がっし、と。
椛は飛んできた鴉の嘴を掴んで、その動きを止めた。
「カッ……!?」
「これは“白羽取り”という技だ」
「ちょっと違います」
鴉はしばし羽ばたき椛の腕を蹴って逃れようとするが、やがてそれが無駄だと分かると大人しくなった。
椛が空いている腕を差し出し下ろしてやると、鴉は羽繕いをしてから、
『久しぶりだナ、犬走椛』
そう言った。
「……」
「……」
『なんダ、その沈黙ハ?』
ぽかんとする椛と早苗、そして特に驚いた様子もなく鴉を眺めている二柱を見て、鴉は小首をかしげた。
「天狗ちゃんの知り合い?」
「いえ、その……。すまない。知り合いに喋る鴉はいなかったと記憶しているのだが……」
鴉は、ヒトの言葉を操れない。できるとしたら、それは妖怪化したものくらいだろう。少なくとも、椛はこれまで喋る鴉に会ったことが……
「あ」
『思い出したカ』
記憶を辿り、ひとつだけ思い当たる節があったことに気が付く。
妖夢と出会って間もないころのことである。人間の里で物見遊山をしていた椛と妖夢のふたりを監視していて、後にあっさり椛に捕まった鴉がいたが……
「あの時の出刃亀鴉か」
「出刃亀とは失礼ナ。鴉に向かって亀とは失礼ナ」
怒るところは、そこだろうか。
あの時、この鴉は射命丸文と関わりがあるようだった。つまり、この鴉は文の遣いということになる。
「そうか、ヒトの言葉を操れるまで成り上がったのだな」
『ふふン。ただのカラスとは違うのだヨ、ただのカラスとハッ!』
鴉はばさり、ばさりと翼で空を打つ。
『と、それどころではなイ。犬走椛。文様からの伝言ダ。「至急、人間の里まで来ること。カフェーにて待つ」』
「射命丸さんが?」
妖夢の居所を掴んだのだろうか。しかしそれならば、わざわざ人里で話す必要はないと思うが。
「分かった。すぐに向かおう」
何か事情があるのかもしれない。
傷は完全に癒えているようだった。焼け焦げていた右手を握って開いて具合を確かめる。こちらも問題はなさそうだ。
と、その右手を早苗が掴む。
「椛さん、行くんですね」
「ああ」
心配そうな面持ち。早苗にとっても妖夢は友人と言える間柄なのだから、当然のことだった。だが、
「絶対……絶対に、」
「早苗」
これ以上は、言わせてはいけない。
「お前の気持ちは確かに受け取った。ありがとう」
「椛さん……」
早苗とて山に属する身である。誰が聞いているかも分からないのだ。山の意向が分からない以上、迂闊な発言はさせられない。
椛は改めて三柱に向き直ると、深く礼をした。
「では、私はこれで」
「椛ちゃん、また遊びましょうね」
「いや、それは……」
溶岩はこりごりだった。
「いいや、次は私と遊んでもらうわよ?」
「いや、それも……」
御柱に叩き潰されるのもご遠慮願いたい。
『早くしロ』
「分かった分かった。では、失礼します」
執拗に狼の耳を嘴で引っ張る鴉を振り払いながら、椛は守矢神社を辞した。文からの呼び出しに、言い知れない不安を胸に抱えながら。
…………
人里についたころには、空模様は茜に染まり始めていた。時間帯ゆえ、家路に着くものたちで大通りを歩く人妖の数はまだ多い。
幸いなことに、椛の姿を見咎めるものはいなかった。花果子念報には椛のことまで書かれていなかったので、当然と言えば当然なのだが。
大通りから外れてしばし、閑散とした通りに件のカフェーはあった。夕餉の近い時分であるためか、客の入りは少ない。
オープンテラスの席のどこにも文の姿はなく、椛は店内に入った。バニラ、シナモン、果物各種等、様々な香りが鼻孔を満たしていく。少々甘ったるすぎる気もするが、悪くない。やはり店内も人の姿はまばらだった。
「いらっしゃいませ。お一人様ですか?」
「いや、人と待ち合わせをしている……」
フリフリの衣装に身を包んだ女性店員を適当にあしらいながら椛は店内を見回し、やがてひとりの人物に目をつけた。
「……」
その人物は、襟を立てた外套に身を包み、目深に被ったつばの広い帽子と広げた新聞で顔を隠していた。近づいてみると、黒曜石を薄く削って作られた眼鏡で目元も隠している。
見るからに怪しい。
「なんて格好をしているんですか」
「あやや、バレてしまいましたか」
椛が近づいて話しかけると、謎の人物――文は帽子とマスクを外しながら苦笑した。
「外の世界で伝統的な変装スタイルです。密会をする時はこの格好が一番だと」
「……」
どうにも、この人が取り入れる外の世界の文化はどこかずれているような気がする。
「以前も言いましたよね。どれだけ姿形を変えようとも、私には“これ”があります」
文の対面に座った椛は、自分の鼻をちょんと触る。
「ここは甘いにおいが充満しているから、ご自慢の鼻も利かないと思ったのですが」
「ええ、かぎ分けるのに骨が折れましたよ。……いやまあ鼻に頼らずとも、見た目の怪しさで一目でしたが」
ウエイトレスにコーヒーを注文した椛は、しばし適当な雑談に興じる。
やがてコーヒーが運ばれてきて、ウエイトレスが十分に離れたことを確認してから、椛は改めて用件を切り出した。
「それで、はなし」
「チョコレートパフェでございます」
「あ、はーい、それ私」
「……それで、話とは?」
――本当に緊急なんだろうな!?
思わず暴れだしたくなったが、ぐっと堪える。
しかし、椛の憤りなどどこ吹く風と、文はスプーンで生クリームをすくいあげると口へ運んだ。
「んー、おいし」
「……あの」
「あっ」
椛が唸るように声をかけると、文はこちらを見て『はっ!』、と何かに気がついた様子を見せた。そして今度はアイスクリームの部分をすくうと、椛のほうへと突き出す。
「はい、あーん」
「やりませんからね」
「……焦る気持ちは分かるけどね」
「……」
そうは言うが、仕方がないだろう。妖夢の行方は分からない。霊夢が退治に動き出してからもうすぐ丸一日が経とうとしている。
霊夢は妖夢を退治――最悪の場合は殺す気でいる。妖夢を殺させないためにはどうすれば良いか。
妖夢の主人である西行寺幽々子と、幻想郷の管理者である八雲紫は自由に動くことができない。どちらも立場上の問題で、だ。
友が、殺されようとしている。救えるのは、おそらく自分だけ。冷静でなければならないと頭では理解しているが、さりとて冷静でいられるものか。
「とにかく今は甘いものでも食べて落ち着きな、さい!」
「んグっ!?」
思考の海に沈み込もうとしていた椛の口の中に、テーブルから身を乗り出した文はアイスクリームを押し込んだ。
ひんやりとしたバニラアイスと、その上に乗った生クリーム、チョコレートソースの甘味が絶妙にマッチしていて、
「……美味い」
思わずそう呟くと、文は笑みを浮かべた。
「少しは落ち着けたかしら?」
「……ええ。ありがとうございます」
やり方は強引であったが、おかげで頭がすっきりした気がする。あまり意識はしていなかったが、やはり疲れが溜まっていたのだろう。
「よし。それじゃ、本題に移るわよ」
――ようやくか。
山ではなく、人里での密会。緊急の知らせ。あまり良い話ではないことは想像に難くない。
しかし、身を固くした椛とは正反対に、文はパフェを食べながら言う。まるで世間話でもするかのように。
「山から呼び出しがかかったわ。至急、直属の大天狗のもとへ馳せ参じること」
「呼び出し、ですか」
なんだろうか。
この件から手を引けと、命令が下されるのだろうか。
椛が妖夢と交流を持っていること。そして今、妖夢を探していることは山の天狗たちも知っているはずだ。山としては不干渉か、他の勢力と同じ方向を向いていたいに違いない。すなわち、“魂魄妖夢は敵である”という認識。
そう、例外は椛なのだ。人間と妖怪の双方に刃を向けてしまった妖夢の味方は、一握りしかいないだろう。
「そう。私は、貴方を大天狗様のもとへ連れて来るように仰せつかったのよ。力尽くでもね」
「それは穏やかではないですね」
「ええ。何しろ貴方は重要参考人なんだもの」
「重要参考人?」
と、文はパフェを食べる手を止めた。そして僅かに目を伏せ、声のトーンを落として。
「魂魄さんが天狗を斬ったわ」
「!!」
紡がれた言葉に、椛は目を瞠った。
――やってしまった……とうとうやってしまった!
これで山は、不干渉ではいられなくなる。妖夢に対して報復を与える方針に移行するだろう。
「被害に遭ったのは、若い白狼天狗。哨戒中に侵入者――魂魄さんね――を発見して、追い返しに出向いたところ返り討ちにされてしまったらしいわ。
命に別状はなし。今は意識も回復して休んでいるはずよ」
ぴっ、とスプーンをこちらに突きつけ、文は続ける。
「で、ここからが問題よ。
魂魄さんは哨戒の天狗に伝言を残して去っていったらしいわ」
「……伝言、とは?」
『犬走椛へ。明日の早朝、始まりの地にて待つ。あの秋の日の決着を』
「……」
――始まりの地……そして決着……
「これ、デートのお誘いだと思う?」
「だとしたら、血なまぐさいデートになりそうですね」
軽口に軽口を返しつつ、しかし椛の心中は穏やかではなかった。
椛は妖夢と交流がある。それだけでも聴取の対象足り得るだろう。そのうえ妖夢本人からご指名があれば、なるほど“重要参考人”だった。
上層部は、もしかしたら椛のことを疑っているのかもしれない。椛が妖夢を利用して山に歯向かおうとしているのではないか。そう思っているのではないか。
ありえない話だ。だが、
――妖夢を山に連れ込んだ前科があるだけに、否定は通らないかもしれないな。
だとしたら、のこのこと山に出向けば拘束は免れないだろう。それは好ましくない。
しかし、
――行かないわけには……
大天狗からの、妖怪の山からの命令である。椛には逆らうことができなかった。それは生来の生真面目さもあるだろうが、“白狼天狗”という種族そのものに刻まれた性なのかもしれない。
どうする?
自問に答えられるのは、自分だけだ。
「たぶん、貴方が思っているよりも山は残酷な言葉を寄越してくるわ」
否。答えは、正面から来た。
いつの間にかカップの中で揺らめくコーヒーをじっと見つめていた椛は顔を上げた。
「行くわよ。私もできるだけ取り計らいはしてみるから」
ただ、その言葉が何なのかを教える気はないらしい。拘束以上の措置となると、ありもしない反乱計画に関して拷問されるかもしれないということだろうか。
空になったパフェグラスの向こうで席を立つ文の表情は、いつになく暗い。
「……はい」
手付かずのコーヒー。流石にもったいないと思い、椛はカップを取ってひとくちだけ飲んでから立ち上がった。砂糖もミルクも入れていないコーヒーは、いつもよりずっと苦く感じた。
…………
「殺せ」
「は……、あの、それは、どういう……?」
妖怪の山の奥まったところに天狗の集落はある。人間の里ほどではないが、規模は決して小さくなく、妖怪という単一性の高い存在が作る集落として考えれば異例と言ってもいいはずだ。
そんな天狗の里の一角、天魔をはじめとする重役や鼻高天狗たちが働く役所の一室で、椛はその命を受けた。
「どうもこうもなかろう。魂魄妖夢は我らが同胞を刃にかけた。報いは受けてもらわねばならん」
聞き間違いではないかと、そう願いながら聞き返した椛に帰ってきたのは、やはり同じ言葉だった。
「魂魄妖夢を、殺せ」
「……ッ!」
――待て。待て、待て、まて、まてまてまてまてまてまてまてまてまてまて……!!
誰が、誰を殺すと?
――私が? 妖夢を?
冗談ではない。そんなこと、できるわけがない。友を殺す天狗など、在ってなるものか!
まだだ。まだ何か方法があるはずだ。妖夢を殺さず、他の天狗たちの溜飲を下げる方法が。
「……恐い顔をしているな」
「えっ、あ」
言葉に、椛は弾かれたように顔を上げた。その視線の先に立っているのは、大層な大男だった。
身長は、高下駄を履いた椛よりも頭ふたつ以上は高いだろうか。数百年――あるいは数千年かもしれない――かけて鍛え上げられてきた筋骨隆々とした体つきは、どんな大岩だろうと粉々に砕くことが可能だろう。真っ白な髪の毛と、白狼天狗からの成り上がりの証である狼の耳と尻尾もまた白く、雄雄しい。
服は、他の上役が着ているようなお飾りが多いものではなく、下っ端が着ている装束と大差がなかった。哨戒天狗を束ねる身として、外見よりも機能性を優先してのことだろう。
その男は、白狼、鴉、鼻高、山伏、それぞれの天狗が修練を重ねることによって辿り着ける高み、“大天狗”と呼ばれる種だった。
大天狗は嘆息すると、少し身を屈めて椛の瞳を覗き込む。
「お前が魂魄妖夢と友人関係であるということは知っている。だからこそ、この仕事はお前に任せるのだ」
「……と、言いますと?」
「友の不始末、己で払拭したいだろう? そして今一度、証明して見せろ。お前が“妖怪の山の白狼天狗”であると。お前には山のために生き、山のために死ぬ覚悟があると」
「……」
「己を殺して、山への忠誠を示せ」
――やはり。
この男は……いや、山は、椛と妖夢が共謀しているのではないかと、疑っているのだ。
馬鹿馬鹿しい、とは言えなかった。そうだ、これが“妖怪の山”なのだ。
閉じられた社会。外部からの干渉は受け付けず、だが己が力は誇示したがる。
身内を傷つけられた意趣返しの意味も、もちろんあるだろう。だが今回の任には、おそらくもうひとつの意味がある。
それは、“異変の解決”。
妖夢は既に霧雨魔理沙を――“人間”を斬り、さらに天狗までもを斬っている。そして博麗の巫女も動き出している。事態はもはや“異変”と呼んでも差し支えのないところにまできていた。
その異変を、妖怪の山の天狗が解決する。いつもならば霊夢や魔理沙に先を越されてしまうところだが、今回は異変の元凶がこちらを指名しているのだ。これほどの好機があろうものか。
これ以上の被害拡大を防いで山が異変を解決したとなれば、その実績は幻想郷での発言力を強くすることだろう。何しろ相手は人妖の双方に被害者を出している“辻斬り”なのだから。
妖怪の山は、魂魄妖夢を己が出世の食い物にしようとしている。
「……――わ」
「大天狗様」
……今、自分は何を言おうとしたのだろう。
喉元まで出かかった椛の言葉を遮ったのは、文だった。
「射命丸か。お前の仕事は終わりだ。ご苦労、下がっていいぞ」
露骨に渋い表情を見せる大天狗に、しかし文はへらへらと笑う。
「いやですねえ大天狗様。そんな邪険に扱わなくたっていいじゃないですか」
――うざったい……
一応は椛の援護をしてくれるのだろうが、そう思わざるを得なかった。
「さてさて。我々天狗は仲間との絆を何よりも大切にします。そのことは大天狗様ももちろんご存知のはず。でしたらお分かりでしょう。犬走にしてみれば、今や魂魄妖夢も立派な“仲間”なのです。その仲間を殺せとの命、この場で承諾しろと言うのも酷な話。
大天狗様が――あるいはもっと上の方かは存じませんが、犬走が今回の異変の片棒を担いでいると見て、同士討ちを狙っているという考えは理解しているつもりです」
「射命丸、貴様!」
言いすぎだ。
だが、文は閉口せず続ける。
「しかしです。今回の任、果たして今の犬走に達成できるでしょうか?
相手は白狼天狗ひとりを倒すほどの手練れ。精神的に不安定な状態にある犬走に倒せるかは甚だ疑問です」
妖怪とは、その存在を精神に強く依存するものである。どれほど強い力を持つ妖怪でも、精神的な揺さぶりひとつで本来の力を発揮できなくなることもあるのだ。
「博麗の巫女よりも早く異変を解決させられるチャンスは今しかありません。この機を逃せば異変の解決に失敗するだけでなく、魂魄妖夢を刺激してさらなる被害拡大を招いてしまう可能性さえあります。そうなってしまっては、山の立場は悪化の一途。それは山の望むところではないでしょう?」
「う、む……」
まくし立てる文に気圧されながら大天狗は頷きかけ、
「ああいや」
慌てて首を横に振った。
「決して犬走のことを疑っているわけではない。あくまで向こうが犬走を指名してきているだけで、」
「そんなもの、わざわざ守ってやる必要もないですよね?」
「射命丸!! 黙っていろ!」
「おお、こわいこわい。では、私は退散いたしましょうか」
堪忍袋の緒が切れた大天狗が声を荒らげると、文は肩をすくめてそそくさと部屋を出て行ってしまった。
「鴉天狗め……」
「その……大天狗様……?」
「ああ、すまない。少し興奮してしまったな」
咳払いをして腕を組み、しばし思案したのち大天狗は椛に向き直る。
「……そうだな。犬走、どうする? 今ならまだ他の連中に任せることができるが」
「い、いえっ! やらせてください!」
反射的に椛はそう答えていた。しかし、当然ながら大天狗の顔には疑いの色が濃い。
「できるのか?」
「……」
――できるのか……?
大天狗の問いを胸中で繰り返す。
山の敵対者は倒すべし。それは白狼のみならず、全ての天狗の使命である。分かっている。分かってはいるが、相手は……
――相手は妖夢だぞ。
彼女に巣食う狂気を祓う手立ては揃っている。殺さずとも事態を収拾できるところまで来ているのだ。今さらそんな殺害命令など、受けられるものか。
だが、今ここで断れば、妖夢と相対する機会がなくなってしまう。
「できます」
今は、形だけでも意思を示さなくては。
「私が……私が、魂魄妖夢を、殺します」
「……うむ。では頼んだぞ」
ひとつ頷き、大天狗は部屋の扉のほうへと歩き出した。そしてすれ違いざまに、椛の肩に手を乗せ、
「期待している」
耳元でそう囁いた。
「……はい」
――私は……
…………
「犬走」
山の木々のうち、特に太く背の高い杉の枝の上にうずくまる椛の背に声がかかった。緩慢な動きで頭を上げて声のほうへと顔を向けると、そこにいたのは普段と変わらぬ様子の文だった。
「生きてる?」
「かろうじて、といったところでしょうか」
問いに力なく答え、椛はため息をついた。
椛は悩んでいた。椛は妖夢を救いたいと思っている。楼観剣の呪縛から解き放ってやりたいと。
だが山は、妖夢を殺せと言う。天狗を斬った妖夢を山は許さないだろう。
――どうすればいい?
山の意思に逆らうことはできない。しかしそれでは、妖夢を救えない。
今の椛からは確固たる意思が失われつつあった。拠り所もなく、ただ状況に流されているだけ。どうするべきか、何が最善なのか。
――そうか。これが……
レミリア・スカーレットが言っていた“選択”なのだろう。
友をとるべきか、山をとるべきか。選べる道はひとつだけ。誤れば……
「“最悪”、か」
「なに?」
「レミリア殿に言われました。『お前は“選択”を迫られる。誤れば、お前の想定する“最悪”が訪れるだろう』と」
「ふーん。貴方の考えてる“最悪”って?」
「……」
それはきっと、あの日見た映像。椛の手によって下される、妖夢の死。山の命に従うことは、それはすなわち椛にとっての“最悪”に他ならない。これを回避するには、いったいどうすればいい?
そも、今の椛に妖夢を殺すことができるのだろうか。精神の弱り果てた――力の弱った椛に、楼観剣の妖気を得た妖夢を。
――……ああ、そういう選択肢もあるのか。
返り討ち。妖夢に殺されるのならば、本望だった。
だが、
――違う。これは正解ではない。
根本的な解決になっていない。これでは妖夢が退治される未来は変わらない。ただ、逃げているだけだ。
考えなくてはならない。妖夢を殺さず、楼観剣を封印し、山と博麗の巫女が納得する結末を。その選択肢を。
「とうっ」
「い!?」
思考の海に沈んでいた椛の脳天に、文の手刀が炸裂した。
「いきなり何を!」
椛は声を荒らげたが、しかし文は引くことなく顔を近づけてくる。そして声色を下げ、椛を睨み付けながら言う。
「質問に答えなさいよ。貴方の想定している“最悪”って何?」
「……それは、」
と、今度はぱっと椛から距離をとると、大げさに肩をすくめて見せた。
「ああ、もういいわ。あんたが考えている程度の状況なんて、私でも簡単に想像がつく」
「なっ……!」
「まったく、いつまでもいつまでもうじうじと。誇り高き白狼天狗サマの名が泣くわね」
これは明らかな挑発だ。わざわざ乗ってやる必要はない。どうせ口論になったところで、この口の達者な鴉天狗には勝てないのだから。
椛は内心の憤りを抑えつつ、唸るように返す。
「だから……だから、必死に考えているんじゃないですか。全員が納得する方法を」
「無駄よ、無駄。あんたがいくら考えたところで、この事態を解決させる手段は出てこない」
「だったら! 私はどうすればいいんですか!?」
「それよ」
「!?」
文はヤツデの団扇をぴっと椛に突きつける。
「あんたって本当にむっつりよね」
「む、むっ……?」
「言いたいこと何も言わないで、ひとりで悩んで。見てらんないわよ」
「……だが、何でも騒げば解決するわけではない」
「そんなもん当たり前じゃない。でも試しもしないでじっとしていることがいいとも思えないわ」
「何事にも失敗の危険性がある。それを考慮しないで行動することは愚かだ」
「だったら、動かないこともまたリスクのある行動だわ。今回はまさしくそれね。あんたが何も言わないから、山は魂魄さんを殺す方向で動き続けている。あんたが何か言えば……魂魄さんを殺さずに済む解決策を提示すれば何かが変わったはずよ」
「だが私には、その方法が思いつかない」
「それでも話しなさいよ!!」
ごうっ!
文の怒号に呼応して、風が荒ぶった。
呆然とする椛の胸倉を掴み上げ、文はさらに言い募る。
「不完全でも、考えがまとまっていなくても! 何かを言えば、選択肢ができれば、考えてもらえるかもしれなかったでしょ! 僅かでも助かる可能性が出てたかもしれないでしょ!」
「……」
「でもあんたはそれをやらなかった。『もう駄目だ』と諦めてしまっているから。魂魄さんは助からないと思っているから」
「ちっ、違う!」
「違わないわね。本当に彼女を助けたいと思っていたなら、あの場で言うべきことはいくらでもあったはずよ。ねえ、どうして何も言わなかったの?」
「それは……」
「教えてあげましょうか?」
「あんたは山に逆らえない」
「あんたはこれまで、ずっと、ずっと、山の言いなりになって生きてきた。『山のため』なんて大義名分を振りかざして、自分では何も考えないで行動してきたのよ。
その、これまでの生き方が、今のあんたを作り出してる」
「……」
「でも、これは別にあんたが悪いわけじゃない。そういう環境で育ってしまったから、仕方のないことよ。でもね、」
文は椛を突き飛ばすと団扇を大きく振りかぶり、
「あんたは今こそ、そのくだらないしがらみを断ち切らなくてはならない!」
樹上で尻餅をついた椛に向かって思い切り振り下ろした。
次の瞬間、
ごぉう!
「!?」
椛の周りで風が渦巻く。
「こ、これは……?」
『さあ、犬走、叫びなさい』
正面で喋っている文の声はあらゆる方向から響いてきた。
『貴方の周りを風で覆ったわ。そこなら、何をどれだけ叫ぼうとも外には聞こえない。もちろん、私にもね』
「射命丸さん……」
『貴方は十分頑張ってる。たまに不平不満を吐いたところで、誰も文句は言わないわ』
「……」
良いのだろうか。
山に仕える身として、その様なことが、本当に許されるのだろうか。
だが、だがしかし、
「…………あ、」
今、この空間にいるのは椛だけ。他の誰も聞いていない。誰に知られることもない。
ずっと押さえ込んできた感情が、脈動した。
「あ、あ、あ、」
熱い、熱い。
胸の奥から焼け付くような思いが溢れてくる。喉の奥から飛び出そうとしている。
「ああああああああああああああああああああ!!」
抑えられない。
「ふざけるな! ふざけるなよ!!
なぜ私が妖夢を殺さねばならない! あいつは私の友達だ! 大切な友達だ!
だというのに! 妖怪の山は! 幻想郷は! どうしてこうも残酷なのだ!?
山なんてどうでもいい! 幻想郷なんてどうでもいい! 種族がなんだ! 体裁がなんだ! そんなもの知ったことか!
私は! ただ! ひとえに!」
「妖夢と一緒にいたいだけだ!!」
ただそれだけの願いなのに、なぜ叶わない?
仰いだ空は、霞んでいた。少しだけ息を切らせてうな垂れた椛の目に映ったのは、枝の上に落ちていく涙の粒。
やがて風は解かれ、文が近づいてきた。
「ちゃんと言えた?」
「……ええ」
「気分は?」
「あまり良くないですね」
「……そう」
いくら叫んだところで状況は変わらない。山も霊夢も妖夢を退治したがっているし、山は椛にそれをやらせたがっている。冥界からの助け舟もない。八雲紫は、嘘を言っていなければあと二日間は動かないだろう。
「ただ……」
「ただ?」
状況は変わっていない。だが、ひとつだけはっきり分かったことがあった。
それは、
「ただ、自分のやるべきことが、分かった気がします」
それと、自分の気持ち。
「色々なことがありすぎて頭の中がぐちゃぐちゃに混乱していましたけど、今ので改めて分かりました」
「私は、妖夢のことが好きなんだと」
ただそれだけの、シンプルな想い。
「だから私は、妖夢を助けたい。絶対に殺させない」
いつか、誰かに言われたことがあった。『あなたは妖夢に恋をしている』と。今の、この気持ちが恋なのかどうか、椛には分からなかった。だが、そんなことは些細な問題なのだ。あるのはただ“好き”という気持ち。それ以上、余計なことを考えるのは後回しだ。
涙を拭い、仰いだ天には数多の星と、狂気の力を振りまく満月が輝いていた。
「……いい顔ね」
あまり長いこと見ていては、気が触れてしまう。下ろした視線の先、こちらを見る文の表情は、とても柔和だった。
「いいわ。貴方の願い、私が叶えてあげる。上の連中は私に任せて、貴方は……“椛”は」
「……!」
「思いっきり戦って、魂魄さんを殺さず、彼女の狂気を祓いなさい」
「……はい」
突然のことで思わず目を瞠ってしまった。まったく、鴉天狗ごときが白狼天狗の名を呼び捨てにするなど。
だが……悪くない。
椛は深く、深く息を吐いた。意外と、気分は晴れたのかもしれない。なんとなく、身体が軽くなった気がする。今まで見えていなかった、進むべき道が見えるようになったからだろうか。
そして、椛は微笑んだ。
「頼みます、“文さん”」
「あ……」
次の瞬間、今度は文のほうが目を瞠り、頬を紅潮させた。そして団扇で顔の下半分を隠して椛をじとりと睨み付ける。
「い、いきなりは反則……」
「貴方が言いますか」
先に言ってきたのはそちらだろうに。
照れる文はおいておくとして、さて、と椛は立ち上がった。
「では、休みます」
「……そう。がんばってね」
「はい」
自分にできることは剣を振ることだけだ。上層部の説得を請け負うと言っているのだ。面倒ごとは文に任せて、自分のやるべきことを……自分のやりたいことをやろう。
――あの月のように。狂ったように。
やはり自分は、既に狂っているのかもしれない。空に浮かぶ月を見上げて、椛は笑みを浮かべた。
…………
吐く息は、かすかに白く。
雲のない、ほの暗い青空。月はまだ高く、太陽は山の向こう側から僅かに頭を覗かせているくらいで。
そんな早朝。
中秋の幻想郷、妖怪の山。その彩りは、ただただ紅く。冬が訪れ、木々がその色を失うまでは、もう少し時間がかかりそうだった。
そこに落とされた白がひとつ。
「始まりの場所……」
白は――椛はひとりごちる。
山の一角に、平地のようになだらかで木の少ない場所があった。その場所……妖夢と初めて対峙した場所こそが、彼女の言う“始まりの場所”なのだろう。
始まりは敵同士。妖夢は山への侵入者で、椛は守護者だった。
がさり。
踏みつけた落ち葉が悲鳴を上げる。
久しく相対していなかった“剣士”の敵。故に、椛は妖夢に興味を抱いた。この、身の丈に合わぬ長刀を担いだ少女は、どのような剣を見せてくれるのか、と。
一合目で分かったことは、彼女がまだ未熟だということ。このまま戦ったところで、椛の勝利は明白だということ。だから、椛はその戦いに条件をつけた。『自分に一撃でも与えることができたら、お前の勝ちだ』と。
結果として、妖夢は椛に一太刀浴びせることに成功し、勝利を手にした。
――だがそれは、ただ勝利条件を満たしただけのこと。
その一撃は決して致命打ではなったし、その直後に妖夢は気を失っている。ただの殺し合いだったなら、妖夢は死んでいただろう。
その顛末が、彼女の中で“しこり”として残っているのだろう。だからこその、この場所。だからこその『あの秋の日の決着を』という言葉。
「それほど、私に勝ちたいのか。妖夢」
「はい」
投げかけた問いに答えるは、少女がひとり。
「だって、椛は私の目標なんですから」
黒いリボンに、肩でざんばらに切り揃えられた銀の髪。白いシャツの上には、緑を基調とした人魂模様のついたベスト。スカートも同様の意匠だ。
そして背には、腰の位置で地面と平行になるように携えられた短刀と、斜めに負われた札も花も付いていない長刀の黒い鞘。抜き身の刃は右の手にあった。付き従うように彼女の周りを漂うは、大きな霊魂がひとつ。
「……“視えて”いるのか?」
こちらを見つめる紅い瞳。それはかつて、世界が紅く染まって見えると言っていた瞳だ。
「ええ。よく、視えます」
頷き、少女は――“半人半霊の半人前”魂魄妖夢は微笑んだ。
「よかった。伝言はちゃんと届いたんですね」
「妖夢、なぜ天狗を斬った?」
「正当防衛ですよ。私はただ伝言をお願いしようとしただけなのに、向こうがいきなり襲い掛かってきたんです」
「……そうか」
その、迂闊な白狼天狗を責めることはできないだろう。妖夢の持つ楼観剣から立ち上る妖気は、魂を底冷えさせるような不気味さだった。こんなものが山に入ってくれば、椛とて一も二もなく剣を抜くだろう。
「妖夢、」
「説得は無駄ですよ」
「……」
「私は椛と戦いたい。戦って、強くなったんだって証明したいんです」
妖夢が楼観剣を構える。
「それに、今の私は侵入者。侵入者の撃退は哨戒天狗の仕事、ですよね?」
「それは……」
「椛が戦わないって言うのなら、私はこのまま山を登ります。出会った妖怪は片っ端から斬るでしょうね」
「……妖夢」
説得がきかないことは、つい先日から分かっていたつもりだった。ただ、聞きたいことがあった。
「妖夢。お前は誰のために戦っている?」
「……誰の、ため?」
「そうだ。誰のために、何のために戦っている?」
「誰の……何の……」
今の妖夢は、ただ強さだけを求めている。彼女は白玉楼の庭師で、西行寺幽々子の剣術指南役だ。その強さの先には目的があって然り。目的もなく振るわれる強さなど、ただの凶刃に他ならない。
――言ってくれ。『西行寺幽々子のため』と。『白玉楼のため』と。そうでなければ……
「そ、それは……」
しかし妖夢は次の言葉を紡がない。思い悩むように、苦しむように額に手をあて小さく首を横に振るばかりで。
そして、
「そんな……そんな、こと……どうでもいいじゃないですか」
やがて出した答えが、それだった。
「……本気で言っているのか?」
「ええ……それは、もう。剣士たるもの、相対すれば戦いになることは必定。そこに……理由なんて、いらないでしょう?」
「妖夢……」
椛は確信した。今の妖夢は、もう椛の知っている妖夢ではない。彼女は力に溺れ、月の狂気に侵され、狂ってしまった。
――この狂気、祓わねばならない。
「私にはあるぞ。戦う理由が」
「それは?」
問いに、背負っていた大太刀と盾をそれぞれ両手に持ち直し、椛は答える。
「お前を救うためだ」
「……なんですか、それ」
「お前は強くなっていない。ただ、楼観剣の力と月の狂気でおかしくなっているだけだ」
「……私が、弱いと?」
妖夢の表情が悲痛に歪む。そして楼観剣を握ったまま頭を抱えて空を仰ぎ見た。
「まだ……まだ、だめなの? 私はまだ“守られる側”なの? いやだ、いやだ、いや……弱いのはいや! だって、私は、私はただ……」
植生の薄いここからは、雲ひとつない、まだ藍の色が残る空がよく見える。そこに向かって、妖夢は飛んだ。
「私はただ!」
「妖夢!?」
「椛と肩を並べて歩きたかっただけなのに!!」
「!!」
ぐらり、と視界が揺らいだ。
妖夢の抱く強さへの渇望。その根源には、やはり椛がいる。
――私が、悪いのか? 私は、私はただ……
椛が呆然としている間に妖夢は木の上まで浮かび上がり、両腕を広げて彼方を見据える。
「月よ! その狂気を私に寄越しなさい!」
西の彼方には、沈み行く満月。妖夢の瞳が、紅く、紅く、輝く。
「待て妖夢!!」
――月の狂気をさらに取り込むつもりか!
妖夢を止めるべく、椛は慌てて地を蹴った。しかし、
「邪魔するな!」
振るわれた楼観剣、そこから放たれた真紅の妖刃に椛は弾き飛ばされる。
「がッ!」
「あっはっはっ! 強く! 強く! もっと強くならなきゃ!」
かろうじて防いだものの、大太刀を持つ手が痺れている。恐ろしい威力だった。
妖夢の周りが陽炎のように揺らめき、風が暴れ始めた。楼観剣の妖気と月の狂気が互いに干渉しあっているのだろうか。
「駄目だ、妖夢!」
「平気ですよ! 今の私なら! 私は強いですからね!」
「妖夢!!」
そんなわけがない。平気なはずがない」。
楼観剣の妖気も、月の狂気も、妖夢の身に余る力だ。受け入れられるだけの器は、妖夢には無い。
このまま狂気を取り込み続ければ、身体がもたない。許容量を超えた水が注ぎ込まれたダムの末路は……
「ッ……駄目だ!」
再び妖夢に取り付こうとする椛だったが、
「アッハハハハハハハハハハハ!!」
取り巻く風が勢いを増していて近づくことができない。吹き飛ばされないように踏ん張ることで精一杯だった。飛ぶこともままならない。
陽炎の様に揺らめいていた妖気は、今やはっきりと見えるまでに濃度を増していた。あまりの濃さに、吐き気を覚える程だ。
「よ、妖夢……!」
地に縛り付けられ見上げる椛の呼びかけは、妖夢に届かない。妖夢はただ、轟々と渦巻く狂気の中で哄笑を続けていた。
やがて、
「ッハッハッハッハッハッ!!」
…………
ぴたり、と笑い声が止まった。同時に渦巻いていた風も妖気も鳴りを潜め、静寂が訪れる。
「……?」
訝しむ椛の前に、ぐったりとうな垂れた妖夢が降りてくる。楼観剣を持つ手も力なく、かろうじて引っ掛けているような状態だ。
「よ、妖夢……?」
「……」
恐る恐る声をかけると、ゆらりと上体を起こして妖夢はこちらを見た。その瞳は、血の流れよりもなお紅く。彼女の半身たる半霊もまた、紅く染まっていた。
しばし黙してこちらをじっと見ていた妖夢が、口を開く。
「気安いな」
「え?」
「誰だ、お前は?」
「……なんだと?」
――今、妖夢は何と言った?
「お前は誰かと聞いている」
言葉を失う椛に、妖夢は重ねて問いかける。その目は警戒心に満ちていて、決して冗談を言っているようには見えなかった。
まさか、まさか……
――記憶が狂ってしまったのか!
妖夢が取り込んだ狂気は、肉体だけではなく精神にまで影響を及ぼしてしまったのだろうか。
「妖夢、本気で言っているのか?」
「なぜその様なことを聞く? なぜ私の名前を知っている?」
「……」
――待てよ。
逆にこれは好奇なのでは?
記憶が狂っているのならば、上手く話を誘導することで戦わずして楼観剣の封印が可能なのではないか。
妖夢の記憶がどれほど狂っているのか分からないが、少なくとも椛のことは覚えていないようだ。辺りを物珍しげに眺めていることから、今ここにいる理由もはっきりしていないのかもしれない。
ひとつずつ、確認しなければ。
「いや、失礼した。私の名前は“犬走椛”。この、妖怪の山の白狼天狗だ」
背後を示しながら答えてやると、妖夢は得心がいったように手を打った。
「妖怪の……そう、妖怪の山。私は妖怪の山に来ていたんだ」
――妖怪の山は知っている? 何か目的があって来た……ということになっているのか。
もう少し、突いてみることにしよう。
「お前の名前は“魂魄妖夢”で相違ないか?」
「……だから、なぜ私の名前を知っている?」
警戒の色が強くなる。
「いや……噂を少し」
「……ふん」
適当にはぐらかすと、妖夢は鼻を鳴らした。そして椛の姿をまじまじと見始める。
「白狼天狗、と言ったな?」
「ああ」
「強いのか?」
「……」
――これは……
この問いは、おそらくどちらを選んでも行き着く先は同じだろう。
「そうだな、私は強いぞ。お前よりも遙かに、な」
ならば、精一杯吹いてやろうではないか。これで下がればよし。下がらなければ……
「なら、確かめさせてもらう」
言うが早いか、妖夢がこちらに突進してきた。そして手にした楼観剣を上段から振り下ろす。
ギづッ!
「いきなり何をする」
一撃を盾で防ぎつつ、椛は問う。答えは分かっているが。
「言ったろう? 『確かめさせてもらう』と。私は強いものと戦いたい」
予想通りの返答。椛はさらに問う。
「魂魄妖夢よ。お前はなぜ戦う?」
「強くなるため」
「何のために?」
「分からない」
「……」
即答された。先ほどのような逡巡もなく。
「ただ、私は強くならなければならない。そんな気がする」
次いで紡がれた言葉は、ひどく漠然としたものだった。
「冥界の――西行寺幽々子のためではないのか?」
「西行寺、幽々子……?」
押しが弱まった。
椛は盾を一気に押し出し妖夢を弾き飛ばす。しかし、この程度で体勢を崩すようなことはなく、妖夢は落ち着いて着地した。そして再び、対峙。
「それは、誰だ?」
「……」
――西行寺幽々子のことも、か。
しかし、椛の時とは違って、その瞳には動揺の色が見える。覚えてはいないが引っ掛かりを感じる。そんなところだろうか。
妖怪の山と白狼天狗は覚えている。椛と西行寺幽々子は覚えていない。このふたつの差はいったい何だ?
それは分からないが、だが少なくとも魂の底までは狂気に侵されていないのかもしれない。だとしたら、
――引き戻せる見込みはあるはずだ。
「知りたければ、私の言うことを聞くことだ」
「……」
これで言うことを聞いてくれれば、労せず抗狂剤を飲ませることができるのだが。
「……いや」
しかし、
「お前を倒してから、改めて聞くことにしよう」
そう言って、妖夢は再び突進してきた。
ギッ!
――そうなるよな!
やはり、戦わなければならないか。
横薙ぎの楼観剣と、椛の大太刀が噛み合う。重い。楼観剣の妖気と狂気の影響か、腕力も上がっているようだ。が、まだ椛には届かない。
「いいだろう、相手になってやる。だが、よもや勝てるなどとは思っていないだろうな?」
「……勝たなきゃいけない。私は、お前に、勝たなきゃいけない!」
「!?」
ぐい、ぐい、と大太刀が押し返される。力が上がっているようだった。
――このままでは……!
「ちッ!」
舌打ちをし、椛は後ろに跳んだ。ひとまず距離をとって様子を……
「そんな気がする!」
妖夢が腰の短刀――白楼剣を抜いた。そして腕を交差させ、
「結跏趺斬!!」
楼観剣と白楼剣で前方の空間を切り開く。瞬間、二刀の軌跡をなぞるように、真っ赤で極太の剣気が発生して椛に襲い掛かる。
――逃げ場は!?
受けるのは危険すぎる。椛は視線を巡らせた。
横は駄目だ。×字の剣気は左右に大きく広がっていて、避けきる前に捉まってしまう。
ならば、
――上!
上は丁度×字の谷間にあたる。跳躍で飛び越せる高さだった。
両足に力を込めて跳躍。剣気の上を行く。
その頭上から、
「ハァ!!」
二刀が振り下ろされた。
ガヅッ!
上に逃れることは予測済みだったのだろう。椛よりもさらに上からの斬撃を椛は盾で受け、地面へと叩き落とされる。落下の最中、足元を一瞥して椛は妖力を固めて足場を作った。しかし、急ごしらえで作った足場など、作った瞬間に割れてしまう。それでも椛は足場を作る。それもまた割れる。
作る、割れる、作る、割れる……
何枚も何枚も重ねられた足場は少しずつ落下の勢いを殺いでゆき、着地の衝撃を確実にやわらげていく。
やがて、ぐしゃり、と紅葉を踏みつぶして椛は着地した。足への衝撃はほとんどない。見上げた先には、さらなる追撃の構えを見せる妖夢の姿。僅かに同様の表情が見える。よもやまともに着地されるとは思っていなかったのだろう。
「くっ!」
うめき声とともに振り下ろされた二刀を避け、椛は妖夢の背後に回り込む。
「甘い」
隙だらけの背に打ち込むは、刃を返して峰打ちの構えを見せる大太刀の一振り。
――これで、終いだ。
どっ!
瞬間、大きな木槌で横殴りにされたかのような衝撃は、椛の身体を易々と吹っ飛ばした。
「がっ!?」
「何が、甘いって?」
吹き飛ばされた椛を追って、妖夢はさらに楼観剣を薙ぎ払う。
「ちっ!」
横に転がり一撃を回避した椛は、立ち上がって後ろに跳躍、
「!?」
しようとしたが、バランスを崩して尻餅をついた。見れば、高下駄の片方、その歯が半ばから斜めに切り落とされていた。
「高いところから尊大なやつめ。くだらない驕りは捨てろ、白狼天狗」
追撃はなく、白楼剣を鞘に収めてこちらを見下ろしながら妖夢は言った。その傍らには、真紅の霊魂がひとつ。
「そうか、半霊……!」
椛を吹き飛ばしたものの正体は、妖夢の半霊だったようだ。霊体だからだろうか、まるで気配を感じることができなかった。
「周囲に対する警戒が疎かだ」
「……そうだな」
椛は高下駄と足袋を脱ぎ捨て素足になると、改めて立ち上がって妖夢と距離をとった。
――弾幕や半霊を使われたのは初めてだったからな。
初めて出会ったあの日から、椛は幾度となく妖夢と剣を交えてきた。しかし、その中で妖夢は一度として弾幕も半霊も使わなかったのだ。椛とは“剣士”としての戦いを望んでいたからだろう。だから、椛は妖夢の動きにのみ集中していた。半霊への警戒を怠っていた。それは椛の落ち度だ。
だが、今の妖夢が求めているものが“剣士”としての勝利ではなく、“強さの証明”としての勝利なのだということが分かった。剣士としてではないのならばルールは無用。弾幕も半霊も使って不思議ではない。
素足の椛は二度、三度と地面の感触を確かめてから、大太刀を構えた。次からは半霊にも気をつけなければ。
「いくぞ」
大地を踏みしめ、小さく告げて。そして椛は駆けた。その足運びは、先ほどよりも明らかに早い。
「なっ!?」
驚愕に目を瞠る妖夢に向かって大太刀を振り下ろす。
ぎ! ぎ、ぎ……!
鍔迫り合い。しかし、今度は椛のほうが押す、押す、押す。
「高下駄を斬ったのは失敗だったな」
刃を挟んで顔を突き合わせ、椛は言った。
これまで椛と地面を繋ぎとめていたものは、高下駄の薄っぺらな歯だけだった。しかし今は違う。足全体で大地を掴むことができる。高下駄の時よりも、踏ん張る力も蹴り出す力も増大して当然だった。
すなわち、
「お前では私に勝つことはできない」
「な、なんだと……!?」
「そうだ。その、剣ではッ!」
ギァン!
裂帛とともに妖夢を弾き飛ばし、間髪入れずに追撃。
「くっ!?」
体勢を崩しながらも妖夢は次の一撃を避け、さらに距離をとるべく交代する。
「逃がさん」
が、立て直す時間など与えるものか。椛はさらに前へ。
「その剣では……!」
横薙ぎ、逆袈裟、突き……
「身体も! 心も! 狂気に侵された、その剣では!」
受けて、流して、避けて……
「私を倒すことはできない!!」
がぎん!
「あぐっ!」
楼観剣の防御ごと地面に叩きつけてやったが、妖夢はすぐに立ち上がって後退する。
「……そうだった。“視えて”いるのだったな」
ひとつ、失念していたことを思い出した。
――今の妖夢は妖気を視ることができる。
かつて狂気に侵されたその瞳。最初は生霊が視えるようになり、次に妖気が視えるようになった。今回も妖気が視えているのだとしたら……
――こちらの動きは予測される。
妖怪ならば誰もがその身に宿す妖気。それは弾幕や飛行に使う燃料のようなもので、身体を動かすにしても大なり小なり妖気の変動はある。高く跳躍しようとすれば、足に妖気が集まるし、剣を振るえば腕に来る。
すなわち、こと戦闘において妖視の能力とは未来視に近い力。故に、妖夢は椛の――白狼天狗の猛攻に耐え続けることができたのだ。
「くそ……何なんだ、あいつは……!?」
妖夢の毒づきを聞き流しながら、椛は大太刀を地面に突き刺し懐から一枚の符を取り出した。
「ならば、見えようが見えまいが関係のない攻撃をするまでだ」
「それは……!?」
「見せてやろう。これが、お前との出会いを経て手に入れた力だ
」
符――スペルカードを口にくわえて妖力を送り、大太刀を構え、そして椛は宣言する。
「狗符『桜刀鞍馬と紅団扇』」
送り込んだ妖力を糧に、椛に新たな力が授けられる。増幅され、定義に基づきスペルカードから返された妖力の半分は大太刀に集まり、長大な桜色の刃を形成した。そして残りの半分は盾へ。こちらは盾にスタンプされた楓模様をそのまま大きくしたかのように広がっていく。まるでそれは、巨大な紅葉のようだった。
普段の大太刀よりもさらに長い桜色の太刀と、紅葉を模した盾を携えた椛が駆ける。大太刀から舞い散る粒子は、まるで桜の花びらが如く。
「避けきれるものなら、避けてみろ」
花びらとともに袈裟懸けの一撃。しかし、それは地面を叩き潰すのみに終わった。
「言われなくとも!」
妖夢の姿は、遙か前方に。大きく後ろに跳躍していた。大太刀の間合いよりも遠い。だが、慌てる必要はない。
次いで椛は紅葉となった盾を振りかぶる。当然こちらも、妖夢に届かせられるほど大きくはない。
が、
「何を……?」
「これは、」
椛は構わず、振り上げた盾を力いっぱい振り下ろした。
「鴉天狗の団扇だッ!!」
ごおおおおう!!
直後、発生したのは荒れ狂う風。まさしく鴉天狗が持つ団扇から放たれたかのごとき暴風は、妖夢の身体をもみくちゃにしながらさらに後方へ吹き飛ばした。
「何だそれはぁぁぁ!?」
怒号を上げながら吹っ飛んでいく妖夢を追って椛は駆ける。妖夢は背後を確認し、激突しそうになった木に足をつけて停止。そこに、椛が大太刀を振り下ろした。
「おお!」
「ちくしょう!」
ギ!
かなり無理のある体勢だが、それでも妖夢は楼観剣を掲げ、直撃を免れる。が、そんな防御でまともに受けられることもなく。
「落ちろ!」
メギッ!
強烈な一撃は、背後の木をへし折って妖夢の身体を斜め下方へ打ち落とした。
「ぐッ! っは……!」
背中から地面に叩きつけられあえぐ妖夢に、椛はさらなる追撃の一手。
「おおおおあぁ!!」
高く掲げた盾。妖力で形作られた紅葉が、さらに、さらに巨大になっていく。そして最終的に自身よりも二回り以上も大きくなった紅葉を、椛は思い切り叩きつけた。倒れた状態でこの攻撃範囲。避けられようものか。荒れ狂う風に木々が軋み、落ち葉が舞い上がる。
と、ここでスペルカードの効果が切れた。大太刀と盾が元の姿を取り戻す。妖力の紅葉が消えたあとには、両腕を眼前で交差させて防御の姿勢をとる妖夢の姿。
――好機!
椛は妖夢に飛びつくと馬乗りになった。そして楼観剣を持つ右手を左手で押さえ込む。
「くっ! 離せ!」
「離さない」
ばたばたと暴れるが、大丈夫。おさえきれる程度だ。
椛は大太刀を地面に突き刺すと、懐から抗狂剤を探す。
「待っていろ。今、」
とんっ。
小さな衝撃。次いで、吐き気。
「え……?」
おそる、おそる、見下ろすと、
「どけ」
椛の腹に白楼剣が突き立てられていた。
喉の奥から何かがこみ上げてくる。強張る身体に妖夢の抵抗を抑えることなどできるわけがなく、やがて椛は倒され地面に横たわった。
――熱い。どこが? 腹か? 喉か? 分からない。呼吸が、苦しい……
「げほっ!」
堪えきれずに大きく咳き込むと、吐き出された真っ赤な血が椛の白い装束を、広がる落ち葉を紅く染めた。
「は、あ゛……あ゛、」
言葉にならない呻きが喉から零れる。身体に力が入らない。吐き気は治まらず、咳き込む度に血が溢れてくる。
「返せ」
地面に横たわったままの椛に足をかけ、腹に刺さった白楼剣を妖夢が引き抜いた。
「あ゛あ゛あ゛!!」
ずるずると激しい痛みの波が全身を駆け巡り、椛は悲鳴を上げた。どくどくと腹の出血が加速する。
――……いかん、血を……血が…………!
肉体の損傷は問題ではない。ヒトの身をしているとは言え、椛は妖怪――それも、とりわけ頑丈な白狼天狗だ。多少の怪我で死ぬことはないだろう。
しかし、ヒトの身である以上、その構造は限りなくヒトに近い。腹を刺されれば痛いし、血を失い続ければ肉体活動が停止してしまう。
とにかく出血を止めなくては。そう思い、椛は薄れかけた意識で腹に妖力を集めた。傷口の細胞活動を活性化し、少しでも早く止血を……
ぴちゃり。
「終わりか?」
椛を中心に広がる血溜まりを踏んで、妖夢がこちらを見下ろしていた。
「……ぐ」
「……」
なんとか首と目線だけ動かして見上げる。その表情には、些かの感慨も持っていないように見えた。
「さっさととどめを刺せばよかったものを」
「……」
ふ、と小さなため息をついた妖夢が次に見据える先は、
「この先には、お前よりも強い天狗がいるのだろう?」
「……!」
妖怪の山、その奥地。
「知っているぞ。白狼天狗の上には“大天狗”が。そのさらに上には“天魔”と呼ばれる種族がいると。ならば、そいつらとも手合わせ願いたいものだ」
さく、さく、と落ち葉を踏んで、妖夢は椛のもとから去っていく。
――行かせては……いけない!!
ここで自分がしくじれば、妖夢は間違いなく殺される。大天狗や天魔の強さは、白狼天狗などとは比較にならないのだから。
――動け! まだ動けるはずだ! 私がやらなくてはいけないんだ!!
「う……お、お、お……!」
重たい身体に、沈みゆく意識に喝を入れ、椛は立ち上がる。
「……しぶといな」
「ぜェ……行かせは、しない……」
歩みを止めてこちらに向き直った妖夢は呆れの表情。
「お山のために、か。大層な覚悟だ」
「……そんな、ものではない」
「なに?」
山のためではない。ただ、ただひとえに椛が守りたいものは。
「自分のために、お前のために、私は……!」
「私の? 何のことだ?」
妖夢の問いに答えられるだけの余裕は、もう残っていなかった。地面に刺さったままの大太刀を引き抜き、構える。
「さあ、来い。私はまだ生きているぞ」
「……まあ、いい」
妖夢が符を取り出して、
「死にたいと言うのなら、望み通りに」
楼観剣を振り上げながら宣言する。
「断迷剣『迷津慈航斬』」
それは、かつて見た空色ではなかった。
楼観剣を覆って形成される真紅の刃。その凝縮された妖力は、辺りの空間を歪ませているようにも見える。
その、長大で凶悪な刃を、妖夢は大上段から振り下ろした。
――ああ、くそ。
身体が重い。動きが緩慢すぎる。このままでは食らってしまう。偉そうなことを吹いておきながら、この体たらくは何だ。
腹の傷が痛む。吐き気は治まらない。違う、そんなことを考えている場合ではない。とにかく、避けなくては。
混濁した意識の中で、椛は身体を動かしていた。しかし、やはり避けることは難しそうだ。ただの大振りだというのに。
左手の盾を頭上に掲げながら身体を右に傾ける。軌道を逸らせることさえできれば、ひとまず十分のはずだ。
ぐしゃあ!!
次の瞬間、大地が悲鳴を上げ落ち葉が舞った。衝撃で椛の身体は吹っ飛ばされる。
「うおぁ!」
このまま倒れてしまっては、二度と起き上がれなくなる。椛は慌てて立ち上がり、
「ぐ……!?」
左の肩口に激痛を覚えた。そして、どさり、がしゃがしゃん、と何かが落ちる音がいくつか。
何か……いや、何が落ちたのか、分かってしまった。椛はできるだけ精神を乱さぬよう覚悟してから、そちらを見る。
地に落ちたものは、先ほどまで装備していたもの。紅い楓模様が中央にスタンプされた、白狼天狗標準装備の盾。楼観剣の一撃を受けて真っ二つにされていた。
それと、左腕。
軌道を逸らせることすらできなかった。楼観剣の一撃は、盾を切り裂き手首を切断し、さらに肩口まで達して椛の左腕を斬りおとしていたのだ。
「ぐ、うぉ……!」
膝をつき、肩をおさえて椛はうめき声を上げた。
失われた左腕。その喪失感が吐き気を加速させる。咳き込み、血を吐く。
一方、スペルカードを解いた妖夢は楼観剣を一振りし、踵を返して再び山の奥へと向かっていった。
「本当にしぶとい。だが、もう諦めろ」
――……駄目だ!!
「う、お、おおお!」
「!?」
絶え絶えの意識を失わないよう、椛は必死に雄たけびを上げながら妖夢を追う。追って、大太刀を振り下ろすが、しかしそれは避けられた。勢い余った椛は、そのまま倒れる。
「……何なんだ、お前は?」
「う……ぐ…………」
立ち上がろうともがく椛を見て、妖夢が震える声で呟く。
「何で、そこまで……」
「わ、私は……」
左手を使おうとして再び倒れこみ、ないことに改めて気付かされ、それでも大太刀を杖代わりに立ち上がる。一歩、二歩と後ずさる妖夢の姿は、霞んでいてよく見えなかった。
「お前を……」
泥だらけでも、傷だらけでも。どれだけぐしゃぐしゃになったとしても、
「お前を、救いたい」
「……」
妖夢が今どんな顔をしているのか、椛はよく見えなかった。だが、さぞや驚いていることだろう。見ず知らずの――今の妖夢にとっては――白狼天狗に『救う』だの何だのと言われているのだ。冷静に考えれば、今の自分は意味不明で滑稽に見えるだろう。
「本当に、何なんだ、お前は。……いや。もう、いい」
妖夢が懐からスペルカードを取り出し、口にくわえる。
「お前は、斬る」
そしてとる構えは。
腰を落とし、左の半身を下げる。身を捻り、右手の楼観剣は左の腰辺りに持っていく。そして左手は楼観剣に添えて。
その構えは、居合い。すなわち、あのスペルカードの正体は。
――現世斬……!
魂魄妖夢の、最速の剣。その速さゆえ、ひとたび間合いに入ってしまえば回避は不可能。
「懐かしいな」
「……」
「あの時は、そのスペルカードに敗れたのだ」
今回もやはり、防御も回避もできないだろう。
だが、
「今度は勝つ」
「ほざけ!」
妖気が渦巻く。
真紅の妖気の中心にいる妖夢は、真紅の瞳でこちらを睨み据え、宣言する。
「人符『現世斬』!!」
次の瞬間、妖夢が消えた。
引き延ばされた刹那。白狼天狗の――“千里先まで見通す程度の能力”を持つ椛の眼を以ってしても、確認できたのは影のみ。椛にできるのは、自身の身体と、襲い掛かる凶刃の間に大太刀を突き立てることだけだった。
延びる、延びる、刹那が延びる。混濁していた意識は、掠れていた視界は鮮明に。身体は時間に抗うことができず、しかし妖夢の剣を間近で見届けられることにいつしか椛は満足感を覚えていた。
――そうだ。この剣だ。この剣で、私は……
思い出されるのは、あの秋の日。盾を真っ二つに切断し、椛の腕を切り裂き、そして新たな世界を切り開いてくれた現世斬。この一撃があったから、今の自分がある。妖夢という友ができた。
それだけではない。亡霊姫、蓬莱人、月の頭脳、風祝、華人小娘、動かない大図書館、紅い悪魔、悪魔のメイド、七色の人形遣い、時の瞳、境界の瞳、楽園の巫女、風水師、九尾、火車、地獄烏、第三の目、妖怪の賢者、土着神、軍神。多くの出会いが椛にもたらされた。出会いの数だけ、相対の数だけ椛の世界は広がった。強くなれた。
そして今、形はどうあれ、こうしてまた妖夢と真剣勝負ができたのだ。いつかの約束、巡り巡ったこの結末。満足に値する……
――違うッ!!
今、自分はいったい何を考えていた?
あれが走馬灯と言うものなのだろうか。妖夢に出会ってからの記憶が次々と思い出されて、えも言えぬ充足感、幸福感に包まれて。
――ここはまだ終わりではない! 私が見たかった強さの果てではない!!
妖夢がどれほど強くなるのか。それが最初の興味だった。その結果が力に溺れ、あげく狂気に飲み込まれましたでは、あんまりではないか。
何とか、何とかしなくては。だが、引き延ばされた刹那は、とうとう終わりを迎えようとしていた。
正面やや右から迫る楼観剣。その刃は大太刀を羊羹のように切断し、やがて椛の横っ腹に到達する。服が斬られ、皮が斬られ、肉が斬られ、筋肉が斬られて内臓が斬られ……
――終わってたまるか。
「!」
楼観剣が骨まで達しようとした時、緩慢だった肉体の動きが急に滑らかになった。
椛は腹を斬られながらも一歩を踏み出し、無事な右手を伸ばす。
ぴたり、と楼観剣が止まった。
「な……!?」
信じられないと言った表情だった。妖夢は目を瞠り、自身の手元と椛を交互に見て、震える。
楼観剣を持つ妖夢の手は、椛に掴まれていた。
「な、んで……私の、剣が……貴様のどこに、そんな、力が……!?」
「さあな。私にも分からない」
「何なんだ……お前はいったい、私の何なんだ!?」
「……私は、」
椛は右手に力を込める。腹から血が吹き出した。みしり、みしり、と骨が軋む音。
「私は!」
ごきん!
「あぐ!?」
骨が折れる。楼観剣が地に落ちた。
椛は片足を胸元まで引き上げ、妖夢の手を引き身体を寄せて、
「お前の親友だ!!」
思い切り鳩尾に蹴りを入れた。
「う゛ッ!!」
手を離し、吹っ飛ぶ妖夢を見ながら椛は懐に手を突っ込む。そして掴んだ一枚の札――妖力封じの札を地面に落ちた楼観剣に叩きつけてから、駆ける。よろめき、倒れかけ、しかしすぐに持ち直して椛は再び手を懐に。次に取り出すは抗狂剤の入った袋だ。中には錠剤が二粒入っている。べっ、と口の中に溜まっていた血を吐き捨ててから、椛はそれを口に含んだ。
やはり鳩尾への一撃は効いたか、妖夢はまともに着地することもできずに背中から倒れこんだ。その左腕を、
「うおお!」
椛は思い切り踏み抜いた。
「ああッ!!」
ばぎり、と鈍い音を立てて骨が折れる感触が足から伝わる。これで両腕は潰した。残るは半霊だが、あれが何かをするよりも、こちらがことを済ませるほうが早いだろう。
椛は妖夢の腰に手を回し、身体を引き上げ額を合わせた。
「はぁ……はぁ……」
揺れる紅い瞳、上気した頬。吐く息は白く、互いの白が混ざり合って。
妖夢の額には汗が滲んでいた。さもありなん。両腕の骨を折られ、鳩尾にきつい一撃を食らっているのだ。未だ意識も戦意を失わずにこちらを睨み付ける精神力は、生来のものか、それとも狂っているがゆえか。
「わ、私は、強くならなくては……!」
「そうだな」
「お前に勝たなきゃ、意味がない」
「いつか勝てるさ」
「なに?」
「だが、それは今ではない。今度は正々堂々と向かってくることだな」
微笑み、そして椛は妖夢の唇に自身の唇を重ねた。
「んぅ!?」
目を瞠り、硬直する妖夢を見つめながら、椛は舌を伸ばす。
「んっ、んん!?」
妖夢の口の中に舌をねじ込みこじ開けて、含んでいた抗狂剤を押し込む。吐き戻されないよう喉の奥までしっかりと。異物感に妖夢はえづくが、お構いなしだ。
「!? ~~!!」
一粒、二粒とも抗狂剤を飲み込ませ、ようやく椛は唇を離した。血の混ざった唾液が、ふたりの間で糸を引く。
「ん、はぁ……」
「……」
――これで……?
妖夢に動きはない。まだ混乱しているのか、ただ呆然と椛を見つめ。
「……私はお前を知らなくて、でもお前は私を知っている」
「ああ」
「私はお前を『殺す』と言ったのに、お前は私を『救う』と言う」
「ああ」
「私にとってお前は“敵”なのに、お前にとって私は“親友”なのか?」
「そうだ」
ひとつ、ひとつ。妖夢は椛の肯定を受け取り、かみ締め、
「…………私は……誰?」
やがてぽつりとそう呟いた。
「お前は魂魄妖夢だ。半人半霊で、白玉楼の庭師で、西行寺幽々子の剣術指南役で……」
「……」
「生真面目で、甘いものが大好きで、負けず嫌いで、漫画や小説に影響されやすくて、私や藍殿の尻尾に目がなくて、情にもろくて、」
「……ろくでもない」
「そうだな。お前はまだ、心も身体も半人前だ。だが、」
椛はそっと妖夢を抱きしめる。
「私は、そんなお前がたまらなく愛おしい」
とくん、とくん。
妖夢の鼓動を感じる。少し低い体温も、耳をくすぐる熱い呼吸も。妖夢を感じる何もかもが心地よかった。今この瞬間は、全てを忘れられる、傷の痛みも、過去のいさかいも、未来への不安も、何も、かも。
「……椛」
やがて、自身の名を呼ぶ声に、椛は身体を離した。椛を見つめる妖夢の瞳は、ゆっくりと赤みを失い始めている。抗狂剤が効いてきているのだ。
紫色の瞳の妖夢は、涙を流す。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
「私はいい。私よりも、謝らなければならないものがたくさんいるだろう」
「でもっ、でも、椛だって……私は、椛の……!」
もう一度、椛は妖夢を抱きしめてやった。後頭部に手を沿え、胸元に。
「今は休め。私も疲れた」
「椛……椛……」
さらさらの銀髪を撫でてやりながら、椛はゆっくりと妖夢に覆い被さるように倒れた。ああ、このままでは押しつぶしてしまう。そう思い、何とか寝転がって妖夢の上から降りると、仰向けの視界に広がった空が、とても広かった。戦いの余波で辺りの木々がなぎ倒されたせいだ。
狂気の月は沈み、太陽が顔を覗かせていた。
――ああ、今日もいい天気になる。
すう……と、身体から力が抜けていく。瞼が重たくなってきた。もはや指先ひとつ動かせる気がしない。
腕と腹の出血は止まる気配を見せない。天狗の頑丈さを過信しすぎていたか。このままでは失血死してしまうかもしれない。
「……椛?」
胸元から妖夢がこちらを見ていた。両腕は動かせないだろうに、無理をして這ってきたのだろうか。
「ああ……大丈夫だ。大丈夫……」
「しっかりしてく――! も――! ――――――!?」
まだ何か言っているようだが、よく聞こえなかった。
――大丈夫。少し、眠たいだけだ。
そう言ったつもりだが、自分が正しく言葉を発しているかどうか、それさえも分からない。
どくん、どくん。
閉じた視界。暗闇の中で聞こえるのは、妖夢の声と、木々のざわめき、鴉の鳴き声。そのどれもが、だんだんと遠ざかっていく。そして、入れ替わるように心臓の鼓動が頭の中を満たしていく。
辺りの音はなくなって、鼓動の音が痛いほど大きくなって。
――案ずるな、妖夢。
どくん。
やがて、鼓動の音も聞こえなくなった。
――妖夢……。
…………
目が覚めた時、椛はベッドの上にいた。
身体を起こそうとして腹の痛みに悶え、そして左腕がないことに気付いてまた吐きそうになった。しかし、僅かに胃液が出てきたくらいで、他には何も出てこない。胃袋の中は空っぽのようだ。
だが、
――生きている。
どうやら、死に損なったらしい。しぶといものだな、と椛は薄く苦笑を浮かべた。
その時、
「あ、起きてる」
聞こえた声に顔だけ上げると、洗面器を抱えた少女が部屋に入ってきていた。
菫色の長髪と、長い兎の耳。この少女は確か……
「左腕とお腹以外におかしなとこある?」
「いや、問題ない……はずだ」
「意識はハッキリしているみたいね。あら、吐いちゃった?」
胃液や唾液で僅かに湿った枕を見て、少女は洗面器から丸まった手ぬぐいをふたつ取り出す。
「申し訳ない」
「気にしないで。右手は使える? ほら、これで顔を拭いて」
「ああ。ありがとう」
手ぬぐいのひとつを椛に渡すと、少女はもうひとつで枕を拭いていく。
「鈴仙殿、だったか」
「覚えていてくれたのね。嬉しいわ」
濡れ手ぬぐいで顔を拭きつつ問うと、肯定が帰ってきた。とすれば、
――ここは永遠亭か。
誰がここに運んだのか、想像はつく。
「妖夢は……?」
他の病床、そのどれもが空っぽだった。自分がこうして運ばれたなら、てっきり妖夢も一緒だと思っていたのだが。
「妖夢だったら、もう冥界に戻ったわよ。ちょっとお腹を失礼」
「……なんだと?」
布団をめくり、上着をめくって腹に巻かれた包帯を点検しながら返された鈴仙の言葉に、椛は疑問符を浮かべた。
両腕の骨を折ったのだ。そうそうすぐに動き回れるわけがないと思うのだがが。
「こっちは問題なさそうね。それじゃあ、次は腕のほう」
ひとつ頷いて、鈴仙はベッドの反対側へ回り込む。
「だってあなた、二週間も眠っていたのよ」
「二週間!?」
思わず飛び起きそうになり、しかし激痛に襲われ僅かに身じろぎをすることしかできなかった。
「そう。本当は一ヶ月くらいは入院してなきゃいけないんだけど、どうしてもって言われて。まあ、お師匠様が許可したんだから大丈夫だと思うけど」
「……そう、か」
「腕のほうも経過は良好ね。お腹空いたでしょ? お粥を作ってくるから、ちょっと待ってて」
「ああ……」
――二週間……
腹が減るわけである。
しかしそうなると、状況がまるで分からなかった。ひとまず妖夢は無事のようだが……
この二週間で何があったのか、知る必要がある。動くことができない以上、情報源は彼女か、彼女の師匠だけになるだろうか。
「い、……椛」
「……お久しぶりです?」
訂正。真偽はともかくとして、最速の情報源がそこにいた。
やってきた文から事情を聞き、椛は事態の推移を把握した。
しかし、
――泣いている文さんなんて、初めて見たな。
大声を上げて泣き喚くようなことはなかったが、目を覚ました椛を見た文は目に涙を浮かべ「馬鹿」だの「心配かけて」だの「お犬サマ」だのと文句の嵐だった。何か言い返してやろうかとも思ったが、しかしこちらとしてもかなり無茶をした自覚はあるので、今回はおとなしく謝ることにした。
閑話休題。あの戦いを見ていた文は、決着を確認した瞬間に楼観剣を回収し、椛と妖夢を担いで永遠亭に直行した。当然のごとく文の他にもふたりを監視していた天狗がいて追ってきたそうだが、そこは幻想郷最速を誇る鴉天狗である。易々と追跡を振り切り、ここまで運んできたそうだ。永遠亭は道のりを知らないものには辿り着くことが非常に困難な地。かくまうには最適の場所だった。
そして、椛たちを永遠亭に預けたあと、文はひとりで天狗の里に向かった。椛と妖夢を連れ去った文を拘束しようとする天狗を蹴散らし、椛の上司――白狼の大天狗に会い、報告をしたとのこと。
曰く、「魂魄妖夢に取り憑いていた“妖”は、犬走椛が確かに“殺した”」と。
そんな理屈が通るものかと思ったが、まあ、文のことである。納得“させた”のだろう。
白狼の大天狗だけではない。今回の件に関わっていた上役の天狗全員を説き伏せてきたと文は言う。
「おかげで貴重な切り札を何枚も失う羽目になったわ」
そう言いながら睨み付けている手帖の頁には、横線が大量に引かれていた。
「すみません」
「いいわよ別に。その代わり、私が困った時には椛にも手伝ってもらうからね」
「ええ、それはもう、何なりと」
おそらく、椛には想像もつかないほどの苦労をかけてしまったのだろう。いつものような元気はなく、どことなくやつれているようにも見えた。椛にとっても文は命の恩人になるのだ、協力を請われて断ることなどできようものか。
「ところで文さん。妖夢はもう冥界に戻ったと聞きましたが、その……狂気は、どうなりました?」
「安心なさい。魂魄さんに取り憑いていた狂気は完全に祓われたわ。貴方が寝ている間、魂魄さんは検査検査、検査の連続でね。
八意先生が『完ぺき!』って豪語するくらいの薬を処方していたから、もう大丈夫なんじゃないかしら」
「そうですか。良かった……」
「それと、貴方の狂気もね」
「私の?」
まさか。
「そう。魂魄さんの攻撃を受けたせいかしらね。貴方の身体にも狂気が蔓延していた」
「そうですか……」
――それであの時……
合点がいった。
狂気は毒であると同時に、宿した身体に大きな力をもたらす。椛が現世斬を止めることができたのは、妖夢から伝播した狂気が力を与えてくれたおかげだったのだろう。だとしたら、どうにも複雑な心境だが、椛は狂気に命を救われたことになる。
「あー……それから、八雲紫がここに来たわ」
「八雲紫が……」
「争いに来たわけではなかったようね。楼観剣と花童子の花を欲しがっていたから渡してやったわ。そしたら『ご苦労様』とだけ言い残して帰っていった。たぶん、今ごろは楼観剣も封印されているんじゃないかしら」
「つまり……」
「そ。これにて一件落着。大団円ってやつよ」
狂気は祓われ、楼観剣は再び封印された。異変は解決したのだ。
ほっと胸をなでおろすと同時に、椛は疑問が残っていることを思い出した。
「では、妖夢は異変が解決したから帰ったので? しかし私が妖夢に負わせた怪我は……」
二週間そこらで治るものではないはずだ。
文はばつの悪そうな表情を浮かべながら椛の問いに答える。
「魂魄さんは……紫さんから白玉楼での謹慎を命じられたわ」
「!」
「期間は未定。怪我が治ってからでいいとは言われていたんだけど、本人の希望で絶対安静を条件に帰宅を許可してもらったみたい。まあ、両腕とも使えないんじゃ、休む以外にできることもないだろうけど」
「だったら……」
どうしてわざわざ?
「ま、彼女にも思うところがあるんでしょ。たとえ狂気のせいとは言っても、事実は変わらないんだから。魔理沙を斬ったことも……椛を斬ったことも」
「……」
ずきり、と傷口が痛んだ。
「だから、しばらくそっとしておいてあげなさい」
「……はい」
頷くことしかできなかった。
「あー、そうそう。大天狗様から伝言」
手を打ち文は手帖をぺらぺらとめくって、ある頁に書き記された文章を読み上げる。
「『犬走よ、ご苦労だった。此度の戦い、しかと見届けさせてもらったぞ』」
「う。」
まさか、大天狗が直々に戦いを見ていたのだろうか。だとしたらまずい。最初から殺す気のない戦いをしていたのだ。文の口添えがあるとは言え、命令違反には違いない。
「そう構えなさんなって。えっと、『過程はどうあれ、異変を解決したことには違いない。ありがとう。お前のように芯の強い部下を持てたことを誇りに思う』」
「大天狗様……」
「『ひとまずゆっくり休め。いずれ酒でも酌み交わそうではないか』」
「……何とか、首の皮一枚で繋がったようですね」
もともとは抹殺命令である。椛自身が裁かれる可能性すらあったのだが、大天狗の温情には平伏するしかない。
安堵の息をつく椛に、しかし文は眉間にしわを寄せ。
「『ただし、……』」
…………
それからしばらくして、今回の異変を知るきっかけとなった記事を書いた鴉天狗、“今どきの念写記者”姫海棠はたてが椛の前に現れた。彼女は椛の姿を見るなり頭を下げ謝罪した。『自分が記事にしなければ、もっと内密にことを収められたのではないか』と。『友達を危険な目に遭わせてしまってごめんなさい』と。
はたては悪くない。彼女が記事にしなかったとて、遅かれ早かれ事態は表面化していただろうし、なれば被害を最小限に抑えられたものとして、むしろ彼女の情報の早さは賞賛するべきだろう。
その旨を伝えると、彼女は少しだけ泣いて、そして笑った。
……
それから、霧雨魔理沙も見舞いに来た。
「傷はもう大丈夫なのか?」
「おう、もうバッチリだぜ」
そう言ってめくった服の下には、極々薄い傷跡の残る白い肌があった。この傷跡もじきに消えることだろう。
「これで私たちはハラキリメイツだな!」
「……お断りだが」
……
他にも、藤原妹紅や東風谷早苗、アリス・マーガトロイドなど、多くの人妖が椛の見舞いにやって来た。おそらく、文の計らいだろう。
「確かに話して回ったけれど、みんなが来てくれたのは貴方の人徳よ?」
「……ありがたい」
……
しかし、傷が完治し永遠亭を発つその日になっても、妖夢が来ることはなかった。
…………
轟々――
高い空に雲はなく、午後の麗らかな陽光を遮るものはない。
静寂を砕くは大瀑布、九天の滝。その流れの中には、上流からの贈り物であろう紅い木の葉がちらほらと見えた。紅葉は山を下り、河童の集落を抜けて人間の生活圏まで秋を届ける。
春には桜、夏は潤い、紅葉の秋、雪解けの冬。その流れは、いつだって絶えることなく幻想郷に季節を巡らせ続けていた。
巡る、巡る、季節は巡る。
滝の中ほどに、大きく突き出した岩場があった。そして、そこに立つはひとりの少女。
紅い、普通の下駄。裾に紅葉模様が散りばめられた藍色のスカートに袖口の広い白の装束。雪のような白い髪の上には小さな赤い八角帽。そして、種族の象徴たる真っ白な狼の耳と尻尾。
足場に突き立てた幅広の太刀、その柄尻に右手を乗せて、少女は幻想郷を俯瞰する。
河童の友人が川のほとりで油まみれのまま茶を飲んでいた。また何ぞ得体の知れないカラクリを作っているのだろうか。いい笑顔を――いや悪い顔をしている。
人間の里では、広場に人だかりができていた。中心にいるのは、七色の人形遣い。子どもが多いところを見るに、いつもの人形劇だろう。今回の登場人物は……
「……!?」
千里眼を使い舞台で動き回る人形を見て、思わず目を瞠った。
主な登場人物は、狼の耳と尻尾を持つ白髪の少女と、銀髪の剣士のようだった。剣士が、自身よりもずっと大きな人形を相手に大立ち回りを演じているのが見える。ちなみに、白髪の少女は椅子に縛り付けられていた。
どこかで見たことのある光景に、頬が熱くなる。やめてもらいたい。近くで笑っている普通の魔法使いもグルだろう。
ため息をひとつ。
――まあ、何はともあれ、
「平和だな」
少女は――椛はぽつりと呟いた。
季節は巡り、秋。腹の傷はとうに完治し、哨戒の任に復帰して久しい。
ただし、
「ん……あ、ふ」
大太刀の柄尻に乗せていた右手を口元に持っていき、欠伸をひとつ。左の袖が、静かに揺れた。
椛の左腕は、失われたままだった。
『向こう三年間は左腕の再生を禁ず』
それが、山から下された唯一の罰である。
椛を含め白狼天狗を二名、人間一名に被害を出した、かつての異変の罰。被害者一名につき一年。分かりやすい計算である。
そもそも異変の発端に椛が深く関わっていたのだ。山としても立場上、椛に責を負わせる必要があった。身内にまで被害が出ている以上は死罪もあったかもしれない。
だが異変を解決したのもまた椛だということも事実。その差し引きの結果が、今回の裁きである。
「やはり慣れんな」
ぼやいて、椛は空っぽの袖を見つめた。
その時、
びゅう――
一陣の風が吹いて袖をはためかせ、白い髪を乱れさせた。
「椛」
名を呼ぶ少女は、鴉天狗の射命丸文だ。
「どうも。どうかされましたか?」
彼女には、随分と助けられた。片腕での生活が始まった当初は何かと苦労したものだったが、その度に文は手を貸してくれた。鴉天狗というだけで白狼天狗からは疎ましがられているというのに、わざわざ椛の家にまで来て世話を焼いてくれたのだ。何かと誤解をされやすいが、彼女も立派な“妖怪の山の鴉天狗”なのだ。
文は椛の顔を見るや笑みを浮かべ、山の麓を指差す。
「仕事よ」
「?」
示されたほうへ目を向ける。仕事、とは。
――……ああ。
「なるほど」
頷き、椛は大太刀を引き抜いて地を蹴った。山を背に、白き狼が宙に舞う。
滝つぼ手前まで自由落下していった椛は、そこから妖力を制御し木々の上をなぞるように飛ぶ。紅葉に彩られたそれは、まるで秋色の絨毯。
椛の目指す先には、人影があった。
たまにいるのだ。知ってか知らずか、妖怪の山に入ろうとするものが。ここは天狗の領域。いかなるものの侵入も許さない。そのための哨戒。そのための椛たち白狼天狗である。故に、侵入者がいればこうして出向く。天狗に遭遇すれば、たいていのものは引き返していくからだ。それでも引き返さないようなら、力尽くだ。
――この時を、どれほど待っただろうか。
思い出す。あの秋の日を。
――あの日も私は、こうして……
侵入者を見つけ、追い返しに向かい。
――全てはそこから始まったのだ。
ここから始まり、ここで終わり、そしてまた始まる。
巡る、巡る、そしてまた……
侵入者は――正確には、まだ侵入者ではなかった。山よりも少し手前に、ただ静かにたたずんでいた。まるで、何かを待っているかのように。
何を言うべきかは分かっている。“彼女”が何を求めているのか、分かっている。
椛は降り立ち、対峙して。
だから、言うのだ。
――さあ、始めよう。
「そこの人間と幽霊」
了
「はい」
とんっ、と少し乱暴に置かれた湯飲みを見つめて、妖夢は目をぱちくり。
「それ飲んだらとっとと帰るのよ」
「霊夢ー、茶菓子がないぜー」
「今持ってくるから黙って待ってなさい!」
魔理沙の催促に怒鳴り声を上げながら、湯飲みを持ってきた少女――“楽園の素敵な巫女”博麗霊夢は再び台所のほうへと消えていく。
日は中天を過ぎ、緩やかに沈み始めていた。もうしばらくすれば幻想郷は茜色に染まり、そして妖怪の蔓延る夜が訪れるだろう。
そんな昼を少し過ぎたころ、妖夢は博麗神社の縁側に腰掛けていた。左を見ると、“普通の魔法使い”霧雨魔理沙がふうふうと湯飲みに息を吹きかけている。
とりあえず、と妖夢も湯飲みに手を伸ばし、
「あち」
「気を付けろよ。霊夢の淹れるお茶は熱いんだ」
「遅いわよ」
並んでふたり、ふうふうと。
やがて自分の茶と三人分の羊羹を盆に載せた霊夢が、妖夢の右隣に座った。
「おお、羊羹!」
「ありがとう、霊夢」
「素敵なお賽銭箱はあちら」
ぴっ、と神社の表側を指差してから、霊夢はずずずと茶をすする。あとで入れておこうかなと思いつつ、妖夢は羊羹を頬張った
――うん、入れよう。羊羹おいしい。
たまたま里で鉢合わせた魔理沙に半ば引きずられるようにして連れてこられたのだが、来て良かったかもしれない。買い出しも終わっているし、美味しい羊羹と茶を楽しむくらいの寄り道をしてもバチは当たらないだろう。
「……で、何かあったのか?」
早々に羊羹をたいらげた魔理沙は、湯飲みに口をつけたままちらりとこちらを見て言った。
「……何かって?」
思わず、手が止まる。
「いや、なんか元気ないなーと思ったんだが、違ったか?」
「まぁたあんたは余計なお節介を」
「いいだろ、別に」
「人の事情に土足で踏み込むような真似はするものじゃないわ」
「失礼な。ちゃんと靴は脱いで、さらに優雅に一礼までしていますわ」
「嘘おっしゃい」
「あ、あの!」
やいのやいのと話すふたりの間から妖夢は声を上げた。
「えっと……」
左右から視線を受けながら、言葉を続ける。
「魔理沙、心配してくれてありがとう」
「おう、もっと敬え」
「茶々いれない」
「霊夢も気付いていたの?」
「……まあ、なんとなく」
見抜かれていた。
だから、魔理沙は茶に誘ってくれたのか。だから、霊夢は美味しい羊羹を振舞ってくれたのか。
言外には出さないが、ふたりとも気にかけてくれていたのだ。
ならば、
「私は、」
ならば話さねば、ふたりの優しさを無碍にすることになる。
「私は、強くなっているのかな、って、不安になっていたの」
「……」
「ふたりは椛のこと、覚えてる?」
「覚えてるぜ」
「……あの天狗よね」
――霊夢のやつ、かろうじて思い出したな。
椛――“山のテレグノシス”犬走椛は妖怪の山の白狼天狗だ。妖夢はかつて妖怪の山に足を踏み入れ、そこで椛と出会った。
始まりは敵同士。だが今は、多くの時を共有し、妖夢とって椛は無二の友となっていた。
「椛には、たまに稽古をつけてもらっているんだけど、」
「ああ、守矢神社でチャンバラしてるな」
「うん。でもね、私はまだ椛から一本も取ったことがないの……」
相手は、かの白狼天狗。幻想郷でも屈指の力を持つ天狗の中でも、特に戦闘に秀でた種族だ。半人半霊の妖夢とは、生まれながらにして度し難い力の差があった。
しかし、だがしかしである。
「師匠から剣を教えてもらって、椛からも稽古をつけてもらって、それでも私は、まだ椛の足元にも及んでいない」
まだ、妖夢の剣は天狗に届かない。
「だから、ちょっと、ね」
そう言って、妖夢は力なく笑った。
「ふーん……」
話を聞いた魔理沙は頭の後ろで手を組んでごろんと転がる。
「ま、いいいんじゃないか?」
「いいんじゃないかって……」
このままでは師に、椛に、そして主人に申し訳が立たない。自分は白玉楼の盾だ。強くならなければいけないのに。
「私はさ、妖夢の気持ちがよく分かる。いや、お前よりもずっと、その気持ちは私のほうが強い」
「……そうなの?」
「そりゃあそうさ。考えてもみろよ。私の周りにいる魔法使いどもはどうだ? 人形遣いも、本の虫も、坊さんだって、どいつもこいつも人間を辞めたり元から人間じゃなかったりで、高い魔力を手に入れている。持ちうる魔力の差、スキルの差なんて推して知るべし、だぜ。
でも、私はそいつらを超えて大魔法使いになるんだ。そのくらいのことでいちいち挫折してたら時間がいくらあっても足りないぜ」
「あ……確かに」
魔理沙はあくまでも“人間の”魔法使いなのだ。魔理沙の前にもまた、妖夢と同様に種族の壁が立ちはだかっていた。
でも、そんな壁を前にしてもなお、空を真っ直ぐ見上げる金の瞳はとても透き通っていて。その探求の光が、妖夢には眩しかった。
「ま、とは言え、だ。妖夢は私よりもちょっとばかし長生きだろうからな。たまには立ち止まってみるのもいいんじゃないか?」
「……ちょっとばかし、か」
「食器、片付けるわよ」
と、魔理沙の顔を見る妖夢の横で、霊夢が立ち上がった。そして、それぞれ空になった皿を盆に重ねて乗せていく。
「まあ、なんていうか……私は魔理沙みたいに偉そうなことは言えないんだけど、」
「偉そうとはなんだ」
「天狗に見初められたんなら、少なくともボンクラじゃあないんじゃない?」
「みそッ……!?」
ぼっ、と。一気に顔が熱くなった。
「ちょっと霊夢!?」
「ま、頑張んなさいな」
妖夢の言葉には取り合わず、霊夢は足早に奥へと消えていってしまった。その後姿を眺めていた魔理沙は、
「まあ、霊夢にしては頑張ったほうじゃないか?」
そう言ってからからと笑った。
「ああもうっ、霊夢ったら……」
――見初められただなんて、そんな……
「霊夢は霊夢なりに励まそうとしてくれたんだ。そう言ってやるな」
「……そうね。霊夢、ありがとう」
小さく呟き、妖夢は湯飲みへ視線を落とした。たゆたう緑は丁度良い温度にまで下がっていた。
確かに、少し焦りすぎていたのかもしれない。もとより相手は白狼天狗。少し稽古をつけてもらった程度で勝てるはずもないのだ。悩むのは数年、数十年経ってからでいいではないか。
ず、と茶をひとくち。心地よい渋みが口の中いっぱいに広がった。
「魔理沙もありがとう。少し気分が楽になったわ」
礼を言いつつ妖夢が顔を向けると、
「へえ、てっきり造花だとばかり思っていたんだが……」
魔理沙が一輪の花を手に、それをまじまじと観察していた。楼観剣の鞘に括りつけられていた花だ。
「ちょっと魔理沙!? なにやってるの!?」
妖夢は慌てて花を奪って怒鳴った。しかし魔理沙はあっけらかんと言う。
「いや前から気になっていたんだ。刀に花なんてアンバランスだから、いったいどんな花なんだろうなって」
「あああ、取っちゃ駄目って言われてたのに……」
「その花はいったい何なんだ? 造花じゃなくて本物の花のようだが」
「ちょっと魔理沙うるさい」
「ハイ」
この花は、師――祖父から楼観剣を受け継いだ時に祖父が括りつけたものだった。『絶対に取ってはならない』という言葉とともに。
当時の妖夢にも、今の妖夢にも、祖父がどうしてそんなことを言ったのかは分からなかった。だが、それでも尊敬する祖父の言葉である。妖夢は今日までそれを守り続けていた。
だというのに。
「元に戻しときゃバレないって」
「黙って」
「ハイ」
もちろん花は元に戻すつもりだ。だが、このことは正直に話さねばならない。祖父は白玉楼を出てしまっていて、今はどこを放浪しているとも知れぬ根無し草。いつ戻ってくるかも定かではないが、しかしその時にはきちんと話して、謝って、如何様な罰でも受ける覚悟だった。
結び目が綻んでやしないだろうか。不安だったので、妖夢は花を括っていた紐を一度ほどいて……
「あら?」
ふと、気が付いた。
花のついていた位置よりも少し上に札が貼ってある。赤い縁取りで、妖夢には読めない文字が書き込まれた札だ。これも祖父に剥がさないよう言われていたものだった。
その符の端が、僅かに燻り、欠けていた。否、現在進行形で欠けている。じりじりと端から焼け焦げてきているのだ。
「な、なに、どうして?」
このままでは全て焼けてしまう。妖夢は慌てて札の焼き目に手のひらを押し付けようとした。この程度ならば、素手でも無理やり消せるだろう。
しかし、
ぽんっ。
「あっ」
限界だったのだろうか、妖夢が手を出す前に札は小さな火をあげ、一気に燃え尽きてしまった。
それが、異変の始まりだった。
…………
はらり、はらり。
舞い散る木の葉はただ紅く。
中秋の幻想郷、妖怪の山。日が昇ってしばらく、昼の少し前といったころ。降り注ぐ陽光は、そよぐ風は、心地よく。くん、と鼻を利かせれば、どこからともなく甘い香りが漂っていて。
轟々――
九天の滝を背に、白狼天狗の犬走椛は山の麓を俯瞰していた。
パチン、パチン、と背後――滝の裏側に設えられた休憩室から音が聞こえる。非番か休憩中の同僚たちか、あるいは河童たちが大将棋に興じているのだろう。
平和だった。今日は魔法使いの突撃もなく、侵入者もない。
椛は滝から突き出した足場の上であぐらをかいて、懐から一枚の符を取り出しぼんやりと眺めた。白紙のそれは、しかしただの符ではない。それは、幻想郷において力の証とも言える代物。弾幕ごっこの要、スペルカードの原紙だった。
この符には、まだ何も書かれていない。術者が自身の妖力、霊力と想い描く弾幕を記録して、初めてスペルカードとして使うことができる。
「うーむ」
そんな符を前に、椛は頭を悩ませていた。何か新しいスペルカードでも作れないものかと思い立ったものの、いざ考えてみるとなかなか出てこないものである。
「……また今度にするか」
やがて嘆息し、椛は符をしまった。
その時、
「犬走!」
風が荒れた。
突風は椛の白い髪を、衣を、そして狼の尾を激しく暴れさせた。
吹き飛ばされそうになった八角帽を手でおさえながら、椛は立ち上がって声のほうに目を向けた。
「騒がしいですね。何か良いネタでも手に入ったんですか? 射命丸さん」
風とともに現れた黒髪の少女は、
「澄ましてる場合じゃないわよ。ほら、これ」
“伝統の幻想ブン屋”鴉天狗の射命丸文は、いつになく険しい表情のまま手にした紙束を椛に放り投げた。
風に煽られ、あらぬ方向へ飛んでいきそうになった紙束を慌てて掴み取り、
「……花果子念報?」
椛は刷られた文字を読み上げた。
花果子念報――少し前から、文と同じように山の外の出来事を記事にするようになった新聞だったか。
文がなぜそんなものを渡したのか。疑問に思いながら椛は紙面に目を走らせ……
「なんだ、これは……?」
呆然と呟いた。
『
辻斬り注意報
昨日未明、妖怪の山でもお馴染みの魔法使い、霧雨魔理沙氏が辻斬りの被害に遭った。
容疑者は事件当時、霧雨氏と一緒に博麗神社にいたとされる冥界の魂魄妖夢氏。現在、魂魄氏は行方をくらませており、これからも被害が増える可能性が――
』
「理由は分からないけど、魂魄さんが魔理沙を斬ったらしいわ」
「そんな……何かの間違いでは?」
妖夢が魔理沙を斬った? 本当に? だとしたらなぜ?
椛は震える瞳で記事を読み進めていく。
『
――なお、霧雨氏は命に別状はなく、現在は竹林の診療所で静養をしている。いつかの借りを返したいと考えているならば、今しかない。
』
命に別状はない。その一語に、椛はひとまず安堵の息をついた。
しかし、である。
これは鴉天狗の新聞だ。その内容には捻じ曲がった主観や妄想が混ざっているのではないだろうか。この記事のどこまでが本当なのか、椛はことの真偽を確かめたかった。魔理沙のいる場所は……
――竹林の診療所……永遠亭か。
「行きなさい」
そう言いながら、文は椛の背を押した。足場から落ちそうになった椛は空を飛びながら目を丸くする。
「っと……え?」
「気になるんでしょ?」
「それは……そうですが……」
「ここは私が見ておくから、早く行きなさい」
この記事は、遅かれ早かれ椛の目につくことになっていたに違いない。その時、椛は持ち場を離れずにいられただろうか? そんな椛の葛藤など、文にはお見通しだったのだろう。だから先んじて事態を椛に伝え、この場を請け負うと言ってくれたのだ。
普段は人をからかったり何かと鬱陶しいところが目立つが、こういう時の文は、頼りになる。
「では……申し訳ありませんが、お願いします」
「ん。ただし、事の真相が分かったら教えなさいよね」
こういうところは抜け目がない。
「了解です」
椛は苦笑しながら答えた。それから休憩所に顔を出して――やはり同僚の白狼天狗と河童たちだ――持ち場を離れる旨を伝える。当然、仕事の引き継ぎの話になり全員が俯いたが、この場は文が引き継いでくれる。椛がそのことを話そうとした瞬間、
「じゃああんた、お願いね」
同じく休憩所の中を覗いていた文が目に留まった白狼天狗を指差してそう言ったのだった。
「……」
引き継ぐとはいったい何だったのか。
同僚は露骨に嫌そうな顔をしたが、相手が射命丸文では首を縦に振るしかなかった。
鴉天狗の間に限らず、文のことを知るものは多い。逆らえばどんな弱みを“捏造”されてしまうやら。流石に申し訳なかったので、その同僚には食事を奢ることを約束した。
――さて。
自由に動けるようになった椛は身支度を始めた。
「それで、どこに行くの?」
大太刀と盾を背負う椛に文が問いかけた。椛は肩紐の具合を確かめながら思案する。
「そうですね……」
あてはふたつある。
ひとつは新聞にも載っていた、竹林の診療所“永遠亭”だ。魔理沙から当時の妖夢の様子を聞くことができるだろう。仮に記事の内容が事実だったとしても、妖夢が理由もなく人を斬るとは考えられなかった。
そしてもうひとつは冥界の“白玉楼”だ。妖夢の仕事場にして下宿先。ここに住む妖夢の主人からも話を聞く価値はあるはずだ。もしかしたら、妖夢はもうここに戻っているかもしれない。
「……まずは、永遠亭に」
結果、椛はそう答えた。魔理沙とは知らぬ仲ではない。妖夢のことが気になるが、彼女の容態も確かめておきたかった。
「そう。私は魂魄さんの目撃情報がないか調べておこうかしら。何か分かったら鴉を飛ばすわ」
「ありがとうございます」
――妖夢、お前はどこにいる? 何をやろうとしている? なぜ霧雨魔理沙を斬った?
疑問は尽きない。とにかく状況を把握しなくては。
ねっとりとまとわりつく嫌な風を感じながら、椛は地を蹴った。
…………
山から人里へ。そして人里からほど近いところに迷いの竹林の入り口はあった。永遠亭は竹林の奥深くにあるため、空からは確認できない。そのうえ永遠亭の兎による細工が竹林全体に及んでいるせいで、上空からの到達は不可能なのだ。
竹林の入り口に降り立つと、ひとりの少女が椛を出迎えた。
「妹紅か」
「久しぶりね」
「私が来るのをずっと待っていたのか?」
「まさか。こいつを読んだからね。近いうちに来るんじゃないかって気にしていたのよ」
そう言って、月白の髪の少女――“蓬莱の人の形”藤原妹紅は持っていた花果子念報を軽く掲げた。
「永遠亭まで行くんでしょ? 案内するわ」
竹林に住む妹紅は、里から永遠亭までの道案内をしている。ただの人間では辿り着くことさえ困難な永遠亭だが、妹紅にとってはただの一本道とさして変わらない。永遠亭に行くならば妹紅の協力は不可欠なのだ。
しかし、
「ありがたい話だが、不要だ」
椛は申し出を断った。
「……本当に大丈夫なの?」
「ああ。私には“これ”がある」
心配そうに問う妹紅に、椛は自身の鼻をちょんと示した。
かつて椛は、病気で倒れた妖夢を担いで永遠亭まで行ったことがあった。その時は妹紅に道案内を依頼したのだが、今は永遠亭の匂いを覚えている。いかに感覚を狂わせる竹林とて、嗅覚までは狂わせられなかったのだ。
「それならいいけれど、でも少しだけ同行させてもらっていいかしら? 話しておきたいこともあるし」
「ああ、構わない」
椛は妹紅を伴って竹林へと踏み込む。くん、と鼻を鳴らして、
――こっちだな。
かすかな薬品の匂いを嗅ぎ取り、そちらへ向かう。
「へえ、分かるものなのね」
「一応は狼の眷属だからな」
感嘆の声に少しだけ尾を振り、歩を進めていく。
「それで、話とは?」
「そうそう。忠告しておきたかったのよ」
「忠告?」
風が吹いたか、辺りの笹の葉がざわめき始めた気がした。
「ええ。気を付けなさい。理由はどうあれ、妖夢は魔理沙を斬ってしまった」
あの記事の内容が事実ならば、だが。
「人妖を問わず、あの子を慕っているものは多いわ。その怒りの矛先、警戒の根が貴方にも及ぶ可能性は十分にある」
「なるほど」
こうして魔理沙のもとを訪れようとする行為も、人によっては『仲間がとどめを刺しに来た』と解釈するかもしれない。
だとしたら、決して楽な道中にはならないだろう。一刻も早く妖夢を見つけなければならない。
この事件のことは既に幻想郷中に広まっている可能性がある。魔理沙の仇討ちを企てるものが出てこないとも限らないのだ。妖夢を見つけ、守らなくては
「椛」
と、妹紅が椛の肩を掴んだ。仕方なしに歩みを止めて向き直ると、眼前に妹紅の顔があった。
「なんだ?」
「自覚はあるだろうけど、あえて言わせてもらうわよ」
こちらの心を射抜くように、妹紅は椛の目を覗き込んで言う。
「貴方は妖夢のことになると冷静さを失う。自分のやるべきこと、自分にできることを常に念頭に置いて行動しなさい。分かったわね?」
「……ああ、承知している」
内心の焦りを汲み取られてしまったのだろう。本当に、この蓬莱人は聡い。
しばし妹紅は椛の目を見つめ続ける。逸らさず正面から迎えてやると、やがて藤原妹紅はひとつ頷き、椛の背を押した。
「言いたいことはそれだけ。引き止めて悪かったわね」
「いや、ありがとう」
「健闘を祈っているわ」
視線を交わして頷きあって、そして椛は駆け出した。身体能力の高い白狼天狗である。飛ぶよりも走るほうが速いのだ。
竹林は深みを増していく。状況は相変わらず不透明なままだが、それもいずれ晴れていくだろう。
――まずは、霧雨魔理沙だ。
永遠亭に運ばれたと報じられていた魔理沙。彼女から話を聞くことができれば、何かしら分かるはずだ。
まず自分のやるべきことは、今の状況を把握することだ。そのためにできることは、魔理沙から話を聞くこと。
しっかりと確認し、椛は走る速度を上げた。
…………
眼前に広がるは、静寂をまとった日本家屋。永遠亭だ。
この一帯は特に静かだった。その雰囲気に、動物も、植物さえも息を潜めているかのように錯覚させられる。
「少しっ、はぁ、急ぎすぎたか……」
切れ切れの呼吸を整えながら、椛は呟いた。そこまで急いだつもりはなかったが、無意識のうちに歩が進んでいたらしい。
――ここに霧雨魔理沙がいる。
それと……
魔理沙は無事なのだろうか。
彼女は生身の人間だ。少しの怪我でも命に関わってしまう。刀傷などもっての他だろう。
「ふう……」
ようやく呼吸が落ち着き、椛は永遠亭の敷居をまたいだ。鼻につく薬品の匂いに顔をしかめつつ、戸を開く。
その時。
「動くな」
背後でガシャリと金属音。次いで足元から光。視線だけを足元に向けると、椛を取り囲むように山吹色の陣が張られていた。
そして開いた戸の奥、建物の中にいたのは、
「博麗霊夢」
黒髪の少女と、
「アリス・マーガトロイド」
金髪の少女だった。
このふたりがここにいるということは……
――やはり、妖夢は……?
「物騒だな」
視線をふたりに戻して椛が言うと、アリスは肩をすくめた。
「そうね、貴方が“どちら側”なのか、私たちには判断がつかない。だから多少は、ね?」
「分かってると思うけど、妙な動きをしたら退治するわよ」
「……」
――“どちら側”なのか、か。
まさしく妹紅の言ったとおりになったものだと、椛は内心で苦笑いを浮かべていた。
大人しく従ったほうがいい。ここへは争いに来たのではないのだから。それに、博麗の巫女と人形遣いを同時に相手取れるとは到底思えなかった。
椛はゆっくりと背の盾と大太刀を取り外すと床に置き、両手を挙げながらふたりのほうへと蹴った。椛の手から武器が離れ、霊夢とアリスは少しだけ安堵し、しかし同時に怪訝な表情を浮かべた。
「随分と素直ね」
「お前たちとは争う理由がない」
「だったら、何をしに来たの?」
「霧雨魔理沙と話がしたい」
「なぜ?」
「事の詳細が知りたい。妖夢が理由もなく人を斬るとは、到底思えないのだ」
博麗霊夢とアリス・マーガトロイドは、霧雨魔理沙の特に親しい友人だ。ふたりは魔理沙の身を案じて永遠亭に残っていたのだろう。例えば、魔理沙を仕留め損ねた妖夢が再度襲撃に来る可能性。例えば、案山子念報で提案されていたように、かつて魔理沙に苦汁を舐めさせられたものが仕返しにくる可能性。
ふたりにとって、椛は最も警戒すべき妖怪のひとりなのかもしれない。何しろ椛は、妖夢ととても近しいし、弾幕ごっこで何度も魔理沙に敗れている。
だが、どれだけ疑われていても行かなくてはならない。だから、
「きっと、何か理由があったに違いない。頼む、霧雨魔理沙と話をさせてくれ」
両手は挙げたままだが、精一杯の誠意を込めて椛は頭を下げた。人間に頭を下げるなど、プライドの高い天狗という種族においてはありえない行為だった。
「……」
息を飲む気配。やがて背後で再びガシャリと金属の音が聞こえた。
「霊夢、会わせてあげましょう。ここで話していても埒が明かないわ」
アリスが矛を収めてくれた。しかし、足元の陣はまだ消えていない。
「何よアリス、こいつの肩を持つの?」
「そういうわけじゃないけど」
ふたりのやり取りを聞きながら、しかし椛はまだ顔を上げない。まだ椛の命は霊夢に握られている。
「私たちがいれば彼女も下手に動けないでしょうし、話を聞くだけってことなら、さっさと要件を済ませて出て行ってもらいましょう」
「……」
こうっ、と、陣の光が強くなる。肌がぴりぴりと痛んだ。
「顔を上げなさい」
有無を言わさぬ声色。椛が顔を上げると、そこには異変解決を生業とする“博麗の巫女”が立っていた。
恐ろしい。これが数多の異変に身を投じ、そのことごとくを解決してきた少女の姿なのか。身体は小さく、しかし身にまとう霊力は底知れない。
「魔理沙から話を聞いて、それでどうするつもり?」
だが臆してはいけない。椛は霊夢の目を真っ向から見返した。
「分からない。だが、妖夢がこのような凶行を続けるようであれば、止める」
「あんたにできるの?」
「私が止める」
「……」
光がさらに強まった。ぴりぴりとした痛みは、やがて熱さを伴いながら身体の内側まで達し、血液が沸騰しているのではないかと思わせるほどになっていた。しかし退かない。唯一の手がかりなのだ。
椛も、霊夢も、ただ真っ直ぐに視線を交わす。その光景をアリスは黙って見ていたが、彼女の傍らにいる――先ほどまで椛の背を取っていたやつだろうか――槍を持った人形だけが、ふたりをおろおろと見ていた。彼女の内心を表しているのかもしれない。
「……」
「……」
ふ、と。
霊夢は小さく息をついて、手を軽く払った。瞬間、椛の足元に展開されていた陣が霧散する。そして霊夢は踵を返して歩き出した。
「ついてきなさい」
「……いいのか?」
「アリスの意見に賛成ってだけよ。用が済んだらとっとと出て行くこと」
肩越しに椛を見る霊夢の目は、まだ鋭かった。
が、ひとまず窮地から脱することはできたらしい。椛は二の腕や肩をさすりながら霊夢のあとを追った。
「武器は私が預かっておくわね」
「アリス・マーガトロイド、感謝する」
「いいから、さっさと用事を済ませて帰ってくれないかしら?」
大太刀と盾を拾い上げながら、アリスはそ知らぬ顔で言った。
「よう、椛じゃないか!」
ベッドの上には、桃色の魔法使いがいた。
「久しいな、霧雨魔理沙」
「ああ、相変わらずお堅いやつだ」
いつもの黒白の衣装ではなく、ゆったりとした薄桃色の入院着に身を包んだ魔理沙は上半身を起こしてからからと笑った。その様子に、椛は安堵の息をつく。
「お前は相変わらず元気そうで何よりだ」
「バカ言うな。結構バッサリやられちまったんだぜ? それに、こんな管まで通されて、元気なものか」
魔理沙は腕の点滴や腹のガーゼを見せながら元気良く呻いた。
「まったく診療所ってのは退屈なところだな。何もすることがない」
「何もするな。休め」
入院している理由を考えてもらいたい。
「いやいや、このままじゃ身体がなまっちまう、! あだだ……」
と、魔理沙は顔をしかめると腹をおさえて身を折ってしまった。
「お、おい!」
「魔理沙!」
「魔理沙、はしゃぎすぎ」
慌てたアリスに身体を支えられ、魔理沙はゆっくりとベッドに寝かせられた。
「さっさと用件済ませちゃって。でないとそいつ、また騒いで傷口開いちゃいそうだし」
「そ、そうだな」
壁に背を預けてため息交じりの霊夢に、椛は同意した。もう少し身体を労わってほしいものである。
椛は居住まいを正すと、改めて口を開いた。
「霧雨魔理沙、聞きたいことがある」
「分かってる。妖夢のことだろ? 私も話したいと思っていたんだ」
ひとつ頷き、魔理沙は金の瞳を天井に向けた。
「霊夢とアリスも聞いてくれ。話すぜ。あの時なにがあったのかを」
◆ ◆ ◆
あの時の妖夢は様子がおかしかった。原因はおそらく、あいつの刀だ。
――刀?
ああ。楼観剣と言ったか。あの時、私は楼観剣をちょっと見せてもらっていたんだ。あれの鞘に付いている花に興味があってな。だって刀に花なんてアンバランスだろう?
で、その後だ。妖夢が私の手から楼観剣と花を取り上げたあと、鞘に貼り付けられていた札が焼け落ちた。その瞬間……
――何があった?
妖気が噴き出した。
――妖気だと?
そうだ。それも生半可な濃度じゃないぜ。そこらのちんけな妖怪だったら、あてられただけで気が狂っちまうんじゃないかと思うほどだ。私も危うくぶっ倒れるところだったぜ。
ただ、妖夢はそれほど堪えていないようだったな。
――妖夢は以前、月の狂気にやられている。その影響で、多少なりともそういったものに耐性がついていたのかもしれない。
なるほど、月の狂気、か。
「この力……この力があれば、私はもっと強く……!」
妖夢は、楼観剣の放つ妖気に魅せられてしまったようだった。だが、あんなもんを間近で浴び続けていたら、いくら妖夢でも壊れてしまうと思った。だから私は止めたんだ。「そいつはヤバイ」ってな。
「魔理沙、邪魔しないで。これは私のものよ」
私の言葉は妖夢に届かなかった。
噴き出す妖気は収まる様子もないし、とにかく力尽くでも妖夢から楼観剣を引き剥がさにゃならんと思って、私はミニ八卦炉を構えた。
で、
「うるさいな」
◆ ◆ ◆
「次の瞬間にはこの有様ってわけだ」
布団の上から腹をとん、と叩いて魔理沙は自嘲ぎみに笑った。
「……楼観剣は、妖怪が鍛えた刀だと聞いたが」
「どんな大妖怪が鍛えたんだか。あの刀、かなりヤバイ代物だぜ。あの札が妖気を押さえ込んでいたんだろうが、しかしなんだって急に焼けちまったんだ?」
「……楼観剣の秘密を、暴く必要があるかもしれないな」
鍵は、楼観剣の鞘に貼り付けられていた札。妖夢が豹変した原因は、魔理沙の言うとおりそれなのだろう。楼観剣の放つ妖気がどれほどのものかは分からないが、その妖気を抑えないことには事態の収拾は難しいに違いない。最悪の場合は折ってしまっても……
――いや、それはまずいかもしれない。
大量の妖気を内包しているであろう刀である。下手に折って、内部の妖気が幻想郷中に蔓延でもしてしまったら目も当てられない。
白玉楼に行こう。あそこならば、きっとこの事態を収める手立てがあるはずだ。
と、
「おしゃべりはそこまで」
霊夢が懐から札を取り出しながら言った。
「結界に誰か入ってきたわ」
「こっちでも確認したわ。椛、早く行きなさい」
促され、椛の背に冷たいものが伝う。まさか、
「まさか……!」
「ええ。人形たちの目にしっかりと映ってる。“彼女”よ」
『三分間だけ待ってあげる。それで説得できなかったら、退治よ』
がつんがつんと永遠亭の廊下を足早に歩きながら、椛は霊夢の言葉を反芻していた。
――説得……
どうすればいい? 「楼観剣をこちらに渡せ」か? それとも「魔理沙に謝れ」か?
どちらも違う気がする。魔理沙の話では、今の妖夢は正気を失っている。力に囚われているのだ。その彼女から力を取り上げようとすればどうなるか、それは魔理沙が身をもって証明しているではないか。
まともな話し合いは難しいだろうか……?
――ならば、
ならば、残る手は。
「ッ!?」
ずきん、と頭が痛んだ。頭の中に、嫌な映像が流れ込んでくる。
血と、人と、妖。傍らに転がる刃は、三本。
「の、残る、手、は……」
――こ、これは……!
かつて地の底で見た、“絶望”の形。自分は妖夢を殺してしまうかもしれないと、無意識のうちに考えているのだろうか。
残る手は、力尽く。妖夢から楼観剣を無理やり引き剥がしてしまうのだ。
では誰がそれをやる?
霊夢は駄目だ。おそらく彼女は手加減をしない。楼観剣がはらんでいる危険性を考えれば、躊躇うことなく殺す気で妖夢を攻撃するだろう。
ならば、
――私がやるしかない。
しかし、力尽くはあくまでも最後の手段。魔理沙では駄目だったが、椛の言葉なら聞いてくれるかもしれない。今の映像も気がかりであるし、可能な限り交戦は避けたかった。まずは説得を試みるべきだ。
――妖夢は、
「私の言葉を聞いてくれるだろうか……?」
出会ってこれまで、妖夢とは多くの時間を共有してきた。互いに手を取り歩いた距離は、相対して振るってきた剣の数は、ふたりの距離を確実に縮めてきたはずだ。
思わず零れた言葉に頭を振って、椛は強い吐息とともにそれを締め出した。そうだ、自分の言葉は妖夢に届く。届かせる。
改めて決意し、椛は玄関をくぐり外に出た。
辺りは薄闇に包まれ始めていた。日はまだ沈みきっていないようだが、背の高い竹が群生する竹林ゆえ、その恩恵は既にほとんど受けられなくなっていた。
そんな、逢魔が時とも言うころ、永遠亭に向かって歩いてくるものがいた。
白いブラウス、緑を基調としたベストとスカート。肩あたりでざんばらに切り揃えられた銀の髪の上には黒いリボン。背には、腰の位置で地面と平行になるように携えられた短刀と、斜めに負う長刀は鞘のみで。抜き身の刃は右の手に。
なるほど、と椛は思った。少女の携える長刀――楼観剣から魂が底冷えするかのような気配を感じる。
――禍々しい。
素人目にも分かる。『あれは危険だ』と。
少女は――“半人半霊の庭師”魂魄妖夢は、椛の姿を見ると笑みを浮かべた。いつもの、幼さの残る優しい微笑み。だが、その身にまとう妖気は尋常ならざるおぞましさで。
「椛」
細く、高く、しかしよく通る声で、名前を呼ぶ。
「やっぱりここにいたんですね」
「……私を探していたのか?」
「はい。集中すればですけど、かすかに妖気が視えるようになったので、椛の妖気を辿ってきました」
楽しげに話す妖夢の瞳は、
「その眼は……」
蒼と紅の合わさった、色鮮やかな紫水晶。
「ええ、視えます。それに、以前のような不安定さもありません。楼観剣が力をくれたおかげで、私はこの眼を完全に制御できるようになったんです!」
妖夢は楼観剣を見つめ、うわごとのように呟く。
「師匠も人が悪いわ。こんな力を封印していたなんて。これさえあれば、何が来たって恐くない。幽々子様をお守りすることも、幻想郷中の春を集めることだって!」
「霧雨魔理沙を斬ったのは、楼観剣を奪われそうになったからか」
椛の問いに、妖夢は楼観剣の峰をそっと撫でた。愛おしげに、狂おしげに。
「……そうです。魔理沙は、楼観剣の力が欲しかったのね。そして私が力を得たことが羨ましかった。だからもっともらしいことを言って楼観剣を取り上げようとしたんだわ」
「違う。それは違うぞ、妖夢。霧雨魔理沙は本当に」
「違わないですッ!」
怒声とともに楼観剣が振るわれた。ビュンと空を斬る音。だが、間合いの遥か外だ。
しかし……
「!?」
左頬に痛覚。触れてみると、ぴちゃりと手についたのは真っ赤な血だった。楼観剣のまとう妖気が刃と成して飛来してきたのだろうか。
妖夢は楼観剣を持ったまま頭を抱えて泣き叫ぶ。
「なんで!? どうして椛までそんなことを言うんですか!? みんな私に力を持ってはいけないと言う!!」
「妖夢、落ち着け! 楼観剣の妖気はまともじゃない。そのまま持ち続けていては、お前の身体がもたないぞ!」
「そんなのただの口実でしょう! 私が未熟者だから、半人前だからって、みんな馬鹿にしているんだ!」
「妖夢!!」
やはり、言葉は届かないのか。
人一倍“強くなりたい”と願い続けてきた妖夢である。ようやく手に入れた力を手放すことが恐いのだ。元の自分に、弱かったころの自分に戻りたくないのだ。
だから、
「だから……!」
妖夢は楼観剣を構えた。
「椛、私と勝負してください。あなたに勝って、私はこの楼観剣を持つに足る存在だと証明して見せます!」
「……」
強さの証明。
天狗は、幻想郷で力を持つ妖怪の中でも上位に位置する。人間たちの間では神格化されるほどだ。そして白狼天狗は、その天狗の中でも特に戦闘に秀でた種族。椛に勝つことができれば、力の証明としては十分すぎるくらいだろう。
椛は黙して妖夢を見つめ、
「今のお前と戦うことはできない」
しかし静かにそう言った。
「なぜです!? いつか約束したじゃないですか! 『また勝負する』って! 今がその“いつか”ですよ!」
「違うな」
激昂する妖夢に対し、椛は努めて静かに告げる。
「私が戦いたいのは、強くなった魂魄妖夢だ。道具の力に頼って強くなったと勘違いするような餓鬼ではない」
「か、勘違い……餓鬼ですって……!?」
「妖夢。その刀は、その力は、紛れもなくお前が持つべきものだ。誰も奪おうなどとは思っていない」
「それは嘘よ。だって、魔理沙も、椛だって」
「聞け。私は身の丈の話をしている。
妖夢、お前の師はどうだった?」
「師匠?」
「そうだ。お前の師は、刀の妖気に頼って力を誇示するような剣士だったのか?」
「そんなことない! 師匠は強かったわ。楼観剣の妖気なんて関係なしに」
「そうだろう。腕が立てば、武器など関係ない。いくら強い武器を使おうとも、使い手が未熟では意味がないのだ」
「……でも」
椛は背負っていた大太刀と盾を地面に放りながら、妖夢に近づいていく。構えを解き、腕をだらりと下げて俯く妖夢に動く気配はない。
「妖夢。お前は今一度、認めなくてはならない。“自分は弱い”と。“自分は未熟だ”と」
ふたりの距離が近づいていく。そして、やがてその距離はゼロに。
「そして、覚えておけ」
椛は妖夢の身体を優しく抱きしめながら言った。
「お前は強くなっている。道具の力に頼らずとも、その剣は天狗に近づいている」
「椛……」
妖夢の身体から力が抜けていく。その後ろ頭を椛は優しく撫でた。さらり、と細い銀の髪が指の間を流れる。
――届いただろうか。
この腕の中にいる少女は、まだ幼い。迷いもするし、間違いも犯す。こうして力に溺れて心を乱すこともあるだろう。だから、自分が導いてやらねばならない。
「さあ、妖夢、剣を」
「椛……私は、」
俯いたままのよう夢は、途切れ途切れに言葉を紡ぎ、やがて搾り出した言葉は、
「それでも私は、今強くなりたい……!」
椛の頭の中を真っ白にした。
どんっ、と妖夢に突き飛ばされた椛は成す術もなく尻餅をついた。そして妖夢は楼観剣を振りかざす。
「よ、妖夢……?」
「今のままじゃ駄目なんです。私はッ、強く、ならないと!」
そう言って振るわれた妖刀を、椛はただ呆然と見ていることしかできなかった。
ぎッ!
「馬鹿! 何やってるの!」
一閃を止めたのは、小さな人形だった。
「くっ、アリス! 霊夢!」
妖夢の視線の先を辿って椛が振り向くと、そこには霊夢とアリスの姿。霊夢の手には、既に数枚の札が握られていた。
そして、
「時間切れよ」
それを迷わず妖夢に投げ放つ。
「博麗霊夢!!」
霊力を帯びて一直線に飛んでいく札は、しかし後退する妖夢の楼観剣によって全て切り伏せられた。
妖夢が下がった隙にふたりは前に出て、椛を庇うようにして立つ。
「ふん、やるじゃない」
「博麗霊夢、待ってくれ! まだ、」
「待たない」
椛の言葉は聞き入れられなかった。霊夢はこちらを一瞥もせずに、さらに大量の札を取り出す。
「妖夢。強くなりたいって気持ちは、まあ分からんでもないけど、ちょっとやり過ぎ。大人しく退治されなさい」
そして二度、三度と投擲した。
放射状に飛び行く札は、先ほどと軌道が違う。正面のものはこれまで通り真っ直ぐに、しかし斜めに投げ放たれた札は途中で大きく弧を描く。狙いは全て、妖夢に向かっていた。このままでは囲まれて逃げ場がなくなってしまう。
「ちッ!」
これには妖夢も焦ったのか、舌打ちをしながら一枚の符を取り出した。
「霊夢には分からないわよ! 大した努力をしなくても何でもできる霊夢には!」
妖夢は符を口にくわえると、腰の短刀“白楼剣”を抜き放ち、大きく後退しながら迫り来る札の群れを睨み据える。
楼観剣と白楼剣。それぞれ刃渡り違いの刀を握った腕を交差させ、刹那。
「断霊剣『成仏得脱斬』!!」
スペルカード宣言。そして解き放たれしは妖気の奔流。大気が荒れて辺りの竹をざわつかせ、椛の白い髪を、衣をなぶった。
そして天に向かって咆哮をあげる真っ赤な柱は、飛び来る札のことごとくを消し飛ばした。
『椛……』
妖気の向こうから声が聞こえる。
『あの秋の日の決着を、必ず』
「妖夢!」
その言葉を最後に、妖気はふつりと消えた。あとに残ったのは椛と霊夢とアリスの三人だけ。それと、漂う妖気とかすかな桜の香り。
「馬鹿。私だって努力してるわよ」
呟く霊夢の言葉に返答はなく。
妖夢の姿は、どこにもなかった。
…………
この階段を登るのは、もう何度目だろうか。
長い長い石造りの階段を、椛はひとりで歩いていた。
自分の高下駄以外に音を立てるものはない。“ここ”の住人はみな、音を、声を出さないのだ。
あのあと――妖夢の姿を見失った三人は、各々の行動に出た。
霊夢は永遠亭を出て、妖夢を探しに行った。魔理沙を斬り、椛の説得に応じず、そして霊夢の前から逃走を図ったのだ。彼女は妖夢を退治する気だろう。
アリスは永遠亭に残って魔理沙の看病をしている。先の一件もあり、放っておいてはまたいつ無茶をするか分かったものではないが、アリスがついているならば大丈夫だろう。
そして椛は、永遠亭で狂気を抑える薬――抗狂剤を受け取ったあと、もうひとつの手がかりに向かっていた。
本当は今すぐにでも妖夢を追いかけたかったのだが……
――追って、私はどうすればいい?
椛の言葉は、妖夢に届かなかったのだ。もはや手段は選んでいられない。霊夢よりも先に妖夢を取り押さえ、事態を収拾しなくては。
しかし、
――情報が少ない。
妖夢の身に起きている異変の原因――妖怪が鍛えたとされる刀“楼観剣”の放つ妖気。それと、かつての異変で瞳に宿った“月の狂気”。このふたつが妖夢を狂わせているに違いない。しかし、椛は楼観剣について何も知らなかった。これでは妖夢を取り押さえたところで事態の収拾は成せない。楼観剣のほうも何とかしなくては。
楼観剣は、妖夢が祖父から譲り受けたもの。彼ならば、楼観剣に起こった異変について何か知っているはずだ。
しかし、あいにく妖夢の祖父――魂魄妖忌は今どこにいるか分からない。彼を探している時間はなかった。
となれば、残るは……
「ここ、だな」
階段を昇りきり、大きな門扉の前に立って椛はひとりごちた。
ここはかつて魂魄妖忌が、そして今は妖夢が仕える亡霊姫の住む屋敷。冥界の白玉楼。
ふたりの主、西行寺幽々子ならば楼観剣について何か知っているかもしれない。そう考えた椛はここに足を運んだのだった。
門扉を前に、小さく深呼吸をひとつ。まがりなりにも冥界の管理人が住む屋敷である。何度か来たことがあるとはいえ、緊張はあった。
心の準備を整えてから、椛は拳を振り上げ、
どん、どん、どん、どん。
「頼もう! 西行寺幽々子殿にお目通り願いたい!」
声を張り上げ、待つことしばし。
『……』
門扉が音もなく開いて、中から霊魂がひとつ姿を現した。
霊は物言わず――言えず、だろうか――扉を開けたまま再び中へ。入れ、ということなのだろう。
「失礼する」
椛は門をくぐると扉を閉めてから霊のあとを追った。
玄関で高下駄を脱いで、縁側を歩く。庭園に植えられている木々は、自身の葉を紅く染め、死の世界に彩りを与えていた。さながらそれは、亡者どもの流した血のごとく。
はらり。
散った葉が、木の根元に小さな血溜まりを作っていた。
「時に、魂魄殿は居られるだろうか?」
『……』
問うが、やはり案内の霊は何も言わず。ただ、その身を左右に揺さぶっているのが答えなのだろう。
やがて、縁側に腰掛ける女の姿が椛の目に入った。
桜色の髪と、人魂模様があしらわれた空色の着物を身にまとう彼女は、呆けたように空を見上げている。だが、その姿さえも女の美貌を以てすれば魅力的に見えた。
「西行寺殿」
案内の霊が脇に移動するのを確認してから、椛は女――白玉楼の主、西行寺幽々子に声をかけた。
幽々子はゆったりとした動作でこちらを見やって、そして少しだけ表情を和らげた。
「あら、あらあら、椛ちゃん」
「お久しぶりです」
「久しぶりねぇ」
少し、元気がないように見える。
幽々子は控えていた霊に茶と座布団を用意するよう命じてから、椛にやんわりと微笑んだ。
「ちょっと待っててね」
やがて先んじて座布団が用意され、椛はその上に正座で腰を下ろした。そして早速切り出す。
「西行寺殿、本日は、」
「まあまあ、お茶が来るまで待ちなさいな」
「は……」
出鼻を挫かれてしまった。あまり時間はないのだが。
しかし、彼女を前にしては何事も暖簾に腕押し、糠に釘。急いても蝶のようにひらりひらりとかわされてしまうだけだろう。椛は大人しく茶が出てくるのを待った。
「……」
妖夢は、椛との再戦を求めている。“あの秋の日の決着”とは、すなわちふたりが出会ったあの日のこと。
『一撃を入れることができれば、お前の勝ちだ』
そう。あのとき椛はそう言った。白狼天狗と半人半霊、その埋めがたい力の差に、椛はそんなハンディキャップを妖夢にくれてやったのだ。結果として、そのハンデのおかげで妖夢は椛に勝利したのだが。
それが納得できていなかったのだろう。だから妖夢は求めたのだ。正々堂々の真剣勝負を。
だが……
――妖夢、それが本当にお前の望みなのか?
彼女は今、誰のために剣を振るっている? 何のために剣を振るっている?
と、茶と煎餅の乗った盆が運ばれてきた。閑話休題だ。
幽々子に倣って椛も湯飲みに口をつけてから、改めて本題を口にした。
「西行寺殿」
「ええ。話してもらえるのよね?」
しかし、またも言葉を遮られてしまう。だが、今度は先を促す言葉。幽々子の表情は、いつもの柔和なものではなかった。薄桃色の瞳は鋭く、場の空気が引き締まったかのような気さえする。おそらく幽々子は、妖夢のしたことを知っているのだ。ここまで情報を持ってきたのは、おそらく文だろう。
「……はい。私の見聞きした全てをお話します」
文から聞いたこと、魔理沙から聞いたこと、そして、一度は相見え、そしてまた姿を消してしまったこと。椛はこれまでのことを話していった。幽々子は時おり相づちを打ちながら、椛の話を静かに聞いていた。
やがて椛が話し終わると、幽々子は湯飲みに口をつけてから、
「そう」
吐息とともにぽつりとそれだけ呟いた。
「妖夢の乱心の発端は楼観剣の妖気にあると考えられます。西行寺殿、楼観剣とは、いったい何なのです?」
問いに、幽々子は頬に手をあて思案の仕草を見せて、
「……花は、なかったのね?」
問い返してきた。
「花、とは?」
「楼観剣の鞘に括りつけられていたでしょう? 桜色の、小さな花」
記憶を辿り、妖夢の姿を思い出す。
妖夢がいつも肌身離さず持っていた刀。長刀“楼観剣”と短刀“白楼剣”。そのうち、斜めに背負っていた楼観剣の鞘、その先端近くには、いつも小さな花が揺れていた。
だが、あの時は……
「ありませんでした」
そうだ。楼観剣の鞘からは札だけでなく、魔理沙の手によって花もなくなっていたのだ。だが、それが何か関係でもあるのだろうかと椛は訝しむ。
「本当のきっかけはそれよ」
だから、幽々子の言葉に椛は目を丸くすることしかできなかった。
「あの花が何だと言うのです?」
「楼観剣にかけられていた封印の鍵は、あの花よ。札が担っていたのは“道しるべ”」
「“道しるべ”?」
「ええ。実のところ、楼観剣について知っていることは、私もほとんどないわ。あれは妖忌が持ち込んだものだから」
「魂魄、妖忌……」
「分かっているのは、あの刀が大きな妖力を持っていて、とても危険だと
いうこと。だから妖夢に渡す際に封印が施された。
あの花は、妖気を養分として咲き続ける妖怪花でね。楼観剣の発する妖気を吸収して花を咲かせていたのよ。あの札は、妖気が外に漏れないように花へと誘導するためのものだった」
「つまり、霧雨魔理沙が鞘から花を外してしまったことで札は妖気の送り先を失い、溜め込みすぎた結果、焼け落ちてしまったと?」
「たぶんね」
頷いて、幽々子は茶をひとくち。
原因は分かった。あの花こそが封印の鍵だったことには驚いたが、ともあれこれで再封印の方法も分かったも同然だ。
しかし……
「魂魄妖忌殿は、なぜ封印に花を用いたのでしょう? あれほど簡単に破られてしまうような封印では、とても運用できたものではありません」
「『妖夢も女の子だから、刀も少しくらい可愛いほうがいいだろう』って言ってたけど」
「……」
「嘘よ、うそうそ」
思わず「糞じじい」と吐き捨てそうになったところで、幽々子はぱたぱたと手を振った。顔に出ていただろうか。
「ここには命がなくて、でも、あの子は半分だけ生きているから。“命”とはどういうものなのか、自分以外の命を身近に置いておきたかったのよ」
「命……」
「と言っても妖怪花だし、結局そんな私たちの我が侭のせいでこんなことになっちゃったんだけどね」
幽々子は自嘲の笑みを浮かべ、そして目を伏せた。
「……妖夢は、どうなるのかしら?」
「それは……」
「ええ、霊夢に楯突いたのでしょう? なら、決まっているわよね」
「……」
下がった声色で分かる。彼女が今どんな状況を想像しているのか。再びこちらに向けられた瞳の輝きで分かる。何を覚悟しているのか。
幽々子は、ふ、と小さなため息をついた。
「うちの庭師の問題だもの。主人の私が落とし前をつけないと、ね」
西行寺幽々子は死を操る。その彼女がつける落とし前とは、すなわち……
「その必要は、ありません!」
ざわり、ざわりと尾が総毛立つ気配を感じながら、椛は思わず声を張り上げた。
「椛ちゃん……?」
幽々子が面食らった表情を見せているが、構わず続ける。
「妖夢は、妖夢は私が捕らえます! そして罪を償わせ、必ず西行寺殿のもとへ送り届けます!」
「……」
「差し出がましい願いだということは承知しています。ですが、どうか、どうかあと少しだけ時間をください!」
そして思い切り平伏して懇願した。
――やってしまった。
冥界の管理人に意見をするなど、部外者の――それも山でさえ地位の低い椛のしていいことではない。
椛は死を覚悟した。幽々子の力ならば指の一振り、吐息のひとつで椛を殺すことができるだろう。
頭を上げることができない。ああ、自分の命は、死んだ世界の、死んだ屋敷の、死んだ木目を見ながら終わってしまうのだろうか。そんなことを思う。まだ、やらなくてはならないことがあるというのに。
何も言わず幽々子の立ち上がる気配を感じた椛は、いよいよこれまでかと目を固く閉じた。
衣擦れの音が近づいてくる。額に汗を感じる。
「椛ちゃん」
そして、椛の頭の上に手が置かれた。びくりと震える頭の上で、その手が右に、左に……
「貴方、本当にいい子ね」
「……え?」
告げられたのは、死の宣告ではなかった。
平伏姿勢の椛の頭を撫でながら、幽々子は言う。
「そう……貴方は、妖夢を救いたいと言っているのね」
「……はい」
「できるの?」
「……」
一度は失敗している身だ。即答は、できない。
「分かりません」
だが、
「ですが、命を賭す覚悟です」
そして、
「もしも彼女を止めることができなければ、その時は……」
その時は、
「私が妖夢を殺します」
その覚悟も、ある。
「……」
「その後は、西行寺殿の好きになさっていただいて構いません」
椛は思っていた。今回の異変、根本的な原因は自分にあるのではないかと。
あの日……あの秋の日に妖夢と出会わなければ、椛は彼女に興味を持つこともなかった。友達になりたいなどと思うこともなかった。また、椛がいなければ、妖夢は今でも主のためだけに生きていたはずだ。あそこまで強さを求めることはなかっただろう。
友の契りが、強さへの渇望が、魂魄妖夢を狂わせたのだ。
だから、椛は決意した。始まりが自分ならば、終わりも自分でなければならないと。そして自分もまた、その責を負わねばならない。
自分勝手な話だ。
――……いや、
天狗など――妖怪とは、もともと傲慢で嘘つきな存在だ。そういうものなのだ。
それに、何にしろ時間がない。既に博麗の巫女が動いている以上、彼女より早く妖夢を見つけてこちらでかたをつけなければならないのだ。
「西行寺殿、件の妖力封じの札と妖怪花を私にお与えください。必ずや、必ずや妖夢を」
「……顔を上げて頂戴」
応じて椛は視線を床から幽々子へ。しかし、幽々子は椛を見ておらず、椛の背後に目を向けていた。
「と、言うわけなんだけれど、椛ちゃんに手を貸してあげてくれない?」
「は……?」
幽々子の視線を追って椛は振り返ったが、そこには誰もいない。ただ、白玉楼の縁側が延びるばかりだ。
椛は訝しみながら再び幽々子のほうへ向き直って、
「ハァイ♪」
「!?」
目の前にいた金髪の女に驚いて飛び退いた。
「なっ、なな、何奴!?」
「うふふ、いい反応ね」
女は、何に脈絡もなく宙に現れていた。
細く赤いリボンの付いた白の帽子に長い金髪。そして道服を模した紫色のドレスを身にまとう美女。開いた扇子で口元を隠して楽しげに微笑む様は妖艶で。
ただし、上半身だけだった。
女の身体は、腰から下がぷっつりと失われていた。上半身だけで宙に浮き、笑っているのだ。妖怪であることは間違いない。
――下半身がない?……否。
下半身は、何かに飲み込まれていた。いや、その“何か”に、椛は見覚えがあった。
虚空を切り裂き現れたこの空間。女の下半身は、よどんだ紫色をぶちまけ、いくつもの目玉を散りばめた空間の中にあった。
それは、こことは違うどこかに繋がっているもの。結界の綻び、あるいは空間の裂け目。
――スキマ!
女はスキマを通して冥界に現れていたのだ。
この女はいったい何者なのか。身構え、警戒をあらわにする椛だったが、対照的に幽々子はいつもと変わらぬ様子でため息をついた。
「ちょっと、驚かさないであげて」
「あら、いいじゃない。最近みんな慣れてきちゃったみたいで、驚かし甲斐がなかったんだもの」
ふたりは旧知の間柄なのだろうか。闖入者と親しげに話す幽々子を見ながら、椛は少しだけ構えを緩めた。
「西行寺殿、お知り合いなのですか?」
「ええ、お友達よ。貴方も聞いたことくらいはあるんじゃないかしら?」
幽々子が紡いだその名を聞いて、
「“八雲紫”の名を」
椛は驚愕した。
「八雲……紫、だと……!?」
「よろしくね、犬走椛ちゃん」
そして女は――“妖怪の賢者”と謳われる大妖怪、八雲紫は面白そうに目を細めた。
「結論から言わせてもらうと、私は協力できないわ」
幽々子と紫は縁側に腰掛け、椛は正座でふたりの傍らに。そして霊の持ってきた茶には手をつけず、紫はそう言った。
「あらあら、それは残念」
「立場上ね。残念だけど、霊夢の判断は正しい。今の妖夢は幻想郷にとって害だわ。
楼観剣を取り上げることで彼女が正気に戻る保証もないし、あの子は既に人間、妖怪の双方に手を出している」
「八雲殿。妖夢は妖怪を斬っていたのですか?」
寝耳に水だった。文からは『魔理沙を斬った』という話しか聞いていない。椛が永遠亭からここに来るまでの間に、妖夢はさらに罪を犯していたというのか。
焦燥感をあらわにする椛の様子に、紫は呆れたような目を向けた。
「何を仰っていますやら。被害者は貴方だというのに」
「……は?」
「永遠亭で妖夢に襲われたでしょう?」
「あ……」
そうだ。妖怪の被害者は、他でもない椛だったのだ。椛は震える手で自身の頬に触れた。今はもう治っているが、そこには確かに妖夢から付けられた刀傷があったのだ。
しかし、
「しかし、」
「抗弁は不要ですわ」
あれは襲われたわけではない。そう言おうとした椛の言葉は遮られた。
「貴方が何を言おうと、どう思っていようと、“妖夢が妖怪を襲った”という事実は変わらない」
「う……」
悔しいが、紫の言っていることは正しい。
「彼女は今、人間でも、妖怪でも、幽霊ですらない立場にいる。幻想郷においてそれはあまりにも例外的、あまりにも危険域。放っておけば何が起きるか、私でも想定がつきませんわ」
「八雲殿の力で、妖夢を助けることはできないのですか?」
「難しいわね。彼女は半人半霊。もともと生と死の境界が曖昧な子なのよ。そこに妖怪の力まで取り込んでしまっては、私の力を以ってしても存在を切り分けるにはリスクが高すぎる。
だから、私は貴方に手を貸すことができない。私は幻想郷側の存在なのよ。貴方はどうなのかしら? “妖怪の山の”犬走椛さん?」
「わ、私、は……」
立場、とは。
八雲紫は彼女自身が言ったとおり、幻想郷の、つまり妖怪の側の存在だ。そして西行寺幽々子は冥界側の存在。
――では自分は?
言われるまでもない。椛は妖怪の山の白狼天狗だ。それはすなわち、妖怪の……
――いや、だが……!
それでは、それでは駄目だ。それはすなわち“妖夢の敵”であるということ。それは椛の望むところではない。
しかし椛は幽霊ではないし、ましてや半人半霊でもない。冥界側につくことはできないのだ。仮に生命の理を無視してこちらについて、妖夢を救うことができたとして、それから椛はどうなる? 山の、幻想郷のはみ出しものとして、冥界で暮らす? 本当にそれが許されるのか? あるいは可能なのか?
「私は……」
――私は、何者なのだろう?
違う、そうではない。
友と体裁を天秤にかけるなど、なんて情けないことを考えているのだ、自分は。
妖怪の山の天狗は、何よりも友を、仲間を大切にする。
だから、
「私は、妖怪の山の白狼天狗です。そして、」
それと同時に、
「妖夢の友です」
それが、椛の答えだった。
「妖夢が道を誤ったのならば、それを正すが友の勤め。たとえ博麗の巫女が相手であろうと、私は妖夢を見捨てるような真似はできません」
「……幽々子、貴方も同じ考え?」
「そうねえ……」
先ほどは自らの手で始末をつけると言っていた幽々子だったが、しかし彼女は頬に指をあてて思案し、
「私は、妖夢がこれ以上人様に迷惑をかけるようならって思っていたけれど、考えが変わったわ」
立ち上がると、椛の後ろから覆いかぶさるようにして抱きしめた。
「さっ、西行寺殿?」
「だって、あの子の友達が助けてくれるって言っているんですもの。信じてみたくならない?」
「あ……」
――……信じて、くれるのか。
こんな、一度は失敗した自分を、幽々子は信じてくれると言うのだ。これほど光栄で、これほど嬉しいことはない。
ならばその思いに報いねばならない。椛は表情を引き締めると紫を見た。
「八雲殿、博麗霊夢の邪魔はいたしません。どうかご助力いただけませんか」
「……」
しかし、紫の表情は険しい。
「言ったでしょう? 私は幻想郷を守らなくてはならない。幻想郷に住む妖怪たちを、人間たちを、動物を、植物を……もちろん、貴方もね。貴方のやろうとしていることは、幻想郷に対する危険因子を残すということ。お分かり?」
「……はい。ですが妖夢は」
「情に訴えるような話は真っ平よ。私だって幽々子の友達だもの。友達の悲しむような真似はしたくない。けれど、これは仕方のないこと。
いつか貴方のところの鴉天狗が言っていた言葉を借りましょうか。『組織に属するということは、自分の意思だけでは動くことができなくなるということ』。それが、たとえトップであろうともね」
「……」
「だから私は貴方に協力することができない。貴方のやろうとしていることは、幻想郷の意思に反している」
紫の周りから小さなスキマが現れ始めた。ひとつ、ふたつ、みっつ……同時に、スキマの数が増えるごとに紫のまとう妖気が大きくなっていった。
「そう、逆に私は、妖夢を生かさんとする貴方を止めなくてはならない」
無数のスキマの中から、様々な形、太さの黒い筒が顔を覗かせていた。“銃”と呼ばれる武器の先端部分だ。
呼吸が苦しい。心臓が鷲掴みにされているかのように早鐘を鳴らす。八雲紫という大妖の放つ妖気、威圧感の影響か。いや、あるいは本当に椛の心臓を握りつぶそうと掴んでいるのかもしれない。紫の能力を以ってすれば容易いことだろう。
だが、
「それでも私は、魂魄妖夢の友だから」
引くわけにはいかない。
椛は立ち上がると、縁側に腰掛けたままの紫と対峙した。
「天狗は、仲間を何よりも大切にする種族だから」
違う。間柄とか、種族とか、そんな話ではない。
「私が、妖夢と一緒にいたいから!」
そう、それだけの話なのだ。ただそれだけの、簡単な答え。そして、何よりも強い想いだ。
幽々子を背に、椛は身構えた。そして『どうする?』と自問する。
スキマは紫の周りだけでなく、椛たちの周りにも展開されていた。もちろん、全て銃身が顔を覗かせた状態で、だ。
――どうする?
幻想郷を統べるものに逆らったのだ。この場から逃れることができるだろうか。
――否。
スキマに捕まってしまえば、椛ではどうすることもできないだろう。
では戦う?
――それも、否。
たとえ被弾を覚悟で紫に向かったとて、ここに現れた時と逆にスキマの中へ逃げ込まれてしまったらおしまいだ。
啖呵を切ったものの、進退ままならない状況だった。
「……」
紫は動かない。動く必要がないのだろう。扇子で口元を隠したまま、こちらを見ている。眼光は鋭く、少しその気になれば視線で相手を射殺せるのではないかと思えるほどだ。
しかし、
「……」
ふ。と、紫のまとう妖気が霧散した。
「やめたわ」
「は……?」
辺りのスキマが次々と消えていく。紫はぱちんと扇子を閉じて笑みを浮かべた。そして扇子をこちらに向けて言う。
「貴方みたいな小物妖怪なんて、生きていようが死んでいようが関係ありませんもの。だから私は、貴方を殺すのをやめて力を温存することにします」
「こも……」
「私はこれから楼観剣を封印するために新たな札を作らなくてはなりませんの」
紫は庭に下りると扇子を一閃。虚空を切り裂き人ひとりが通れる大きさのスキマを作りだした。そして大げさにため息をつく。
「大変な作業ですわ。札が完成したあとは、疲れてしばらく休まないといけないわね」
「……八雲殿?」
肩越しに振り向きこちらを見る紫の目に宿る光は。
「札の作成で二日、それから回復に最低でも一日は要るでしょう。まあ、霊夢な
らその間に妖夢を退治してしまうかしら?」
「……」
「ではおふたりとも、ご機嫌よう。どうぞ無駄なあがきに精を出してくださいまし。うふふ……」
含み笑いを妖しく響かせながら、紫はスキマの向こう側へ消えてしまった。
「……」
椛は呆然と庭園を見つめながら、紫の言葉を反芻した。
――それは、つまり……
「三日あげるって言ってたわね」
「……はい。私にもそう聞こえました」
助かったのだろうか。いや、正しくは、
――助ける時間を与えられた、か。
紫は言っていた。『友人の悲しむことはしたくない』と。しかし彼女には彼女の立場がある。そのジレンマの結果が、今の行動、言動だったのだろうか。
ともあれ、紫から与えられた時間は三日。しかし、霊夢の行動には制限がかかっていないため、ゆっくりはできない。霊夢よりも早く妖夢を見つけて、彼女を捕らえなければならないという現状は変わっていなかった。楼観剣の妖気を抑えることはできないにせよ、何とかして妖夢の身に巣食っている狂気だけでも払うのだ。
流石の霊夢も、力を失い理性を取り戻した妖夢を退治するほど鬼では……鬼では……
「……」
鬼ではないはずだ。
『あ、そうそう』
と、虚空に小さなスキマが現れて、そこから紫の声が聞こえてきた。
『これはただの世間話。妖夢の刀の鞘に付いている花は、かの“花童子”が持っていたと謂われている花だそうですわね。可愛らしい花だし、知識人に咲いている場所を聞き出して藍にでも採りに行かせようかしら』
「花童子……?」
『では御機嫌よう』
そしてスキマはふつりと閉じた。
「……」
「知識人のところへ行って、花のありかを聞き出せって」
「ええ、そう言っていましたね」
――花童子……
聞いたことのない名だった。
その名を頭の中で反芻して刻み込みながら、椛は次に行くべきところを定める。椛の知っている知識人と言えば……
「椛ちゃん、今日はここで休んでいくでしょう?」
次の目的地を思い浮かべていた椛の顔を覗き込んで幽々子は言った。確かに、もう夜も遅い。普通ならば、朝まで休んでから行動すべきだろう。
「……いえ、ありがたいお話ですが、先を急ぎます」
しかし、椛は申し出を断った。
「でも、こんな遅くじゃ……」
「大丈夫でしょう。次の目的地は“夜の王”と呼ばれるものの居城です。むしろ、今から行けば丁度いい時間かもしれない」
正確に言えば、用があるのはその夜行性の主の友人なのだが。
ともあれ椛は、改めて幽々子と向き合った。自分よりも少し背の高い幽々子の瞳を見つめながら、言う。
「西行寺殿、先ほどはありがとうございました」
「さっき?」
「私を信じると、そう言ってくださったこと、感謝しています」
幽々子に言葉がなければ、紫は退いてくれなかったかもしれない。幽々子が……“八雲紫の友人”が妖夢の死を望まなかったから、椛は命を失うこともなく、妖夢を救う時間を与えられたのではないか。
「ああ、そんなこと。だって、貴方は妖夢の友達だもの」
しかし、幽々子はなんでもないと言うように微笑み、椛の頭を撫でた。
「妖夢をお願いね」
「はい、必ず」
その微笑みは、やはり少し寂しそうで。だから、椛は強く想う。
――必ずこの場に、彼女の隣に、また妖夢を。
なでこ、なでこ。
そうだ、妖夢を救うことは自分のためだけではない。幽々子も……紫だって、本当はあんなこと望んではいないのだ。霊夢だってきっと、立場上、仕方なく。
なでこ、なでこ。
なればこそ、身動きのできる自分がやらなければならない。妖夢を救うことは、自分にしかできないことなのだ。
なでこ、なでこ。
――……
「……あの、いつまで撫でているのでしょう?」
「あらごめんなさい。あまり触り心地が良かったから。嫌だったかしら?」
「い、いえ、嫌ではないのですが……その、あまり慣れていなくて」
性だろうか、ふるりと震える尻尾をさりげなくおさえつつ、椛は一歩、二歩と後ずさる。そして名残惜しげな白い指先を見つめながら、表情を引き締めた。
「では、行きます」
「ええ、気を付けて」
霊夢よりも早く妖夢を捕らえなければならない。が、その前に手に入れなければならないものがある。とにかく時間がなかった。
ばさりとスカートを翻し、椛は足早に白玉楼を辞した。次ここに戻ってくる時は、妖夢と一緒だ。
…………
冥界を出てしばらく。椛は幻想郷の空を飛んでいた。見上げた空には薄い雲が広がっていて、星の姿は見えない。雲の向こうから煌々と輝く月だけが、唯一の光源だった。
――満月……
「いや、まだか」
僅かに欠けた月を見て、椛はひとりごちた。満月まではあと一日、二日といったところだろうか。あまり好ましい状況ではなかった。
完全な満月の放つ光は、妖怪の力を、そして月の狂気を活性化させる。
性格の豹変、“狂気の瞳”の活性化。これ以上狂ってしまったら、妖夢はどうなってしいまうのだろうか。次は、妖夢の何が狂ってしまう?
辺りが霧に包まれてきた。眼下にはぽっかりと広大な湖が広がっている。“霧の湖”だ。その名の通り年中濃い霧が漂っている場所であるため、別段珍しい光景ではないのだが、なんとなく嫌な雰囲気に思えた。まるで椛の心象が現れているかのような、そんな錯覚。
このまま妖夢の狂気が加速すれば、椛の手に負えなくなってしまうかもしれない。そうなってしまえば……
「……いかん」
悪いほうに考えが傾いてしまっている。それを回避するために動いているのだ。頭よりも身体を動かさなければ。
気持ちと一緒に沈み込んでいた視線を上げて、椛は前方を見据えた。夜闇の中、霧の向こうにかすかに見えるは、紅き館。目的の場所は、その地下にあった。
「“動かない大図書館”パチュリー・ノーレッジ」
ぽつりと呟いたのは、椛が面識を持つ中でおそらく一番の知識人、かの館――紅魔館に住む魔女の名前。
紅魔館の地下には、幻想郷のもの、外の世界のもの、古書、新書、一般向け、成人向け、図鑑、辞典、専門書、魔道書と、あらゆる文献が集まる大図書館がある。パチュリーは、その大図書館の主と言っても差し支えのない存在だった。彼女ならば、紫の言う“知識人”足り得るだろう。
館の近くの湖畔に降り立った椛は、緊張した面持ちでひとつ息をついてから歩き出した。パチュリーのもとへ行くためには、大きな関門が待っているのだ。
その関門は、既にこちらの接近に気が付いていたようだ。腕を組んだ仁王立ちで、館の門の前に立ちはだかっていた。
真紅の長髪に、緑を基調としたチャイナドレス風の拳法着を身にまとった女。身長は高下駄を履いた椛と同じくらいなのだが、今の彼女はそれよりもずっと大きく感じた。おそらくそれは、本気で椛を警戒している証拠。『絶対に通さない』という意思の具現。
「止まりなさい」
女の放った制止の言葉に、椛は大人しく従った。ふたりの間は、およそ十尺。ひと息もあれば詰められる距離だ。
「久しぶりね。犬走さん、だったかしら?」
「ああ」
そして女は――紅魔館の門番“華人小娘”紅美鈴は半身を引いて腰を落とし、構えをとった。
「悪いけど、今は貴方を館に入れることはできないわ」
「……」
やはり、ここでも椛は招かれざる存在であるようだ。
時間が惜しい。強行突破したいところだが、しかし紅魔館とことを構えるわけにはいかない。椛は両手を挙げて交戦の意思がないことを示した。
「私は争いに来たのではない。パチュリー・ノーレッジ殿にお目通り願いたい」
「パチュリー様に?」
椛の行動に美鈴の構えが揺らいだ。彼女は霊夢と違ってあまり頑固ではないようだ。説得できるだろうか。
「鴉天狗の新聞を読んだのだろう? 今の妖夢は正気ではない。そして、私が妖夢と通じているのではないかと、そう疑っているのだろう?」
「……」
「私は正気で、妖夢を元に戻すためにここに来た。ノーレッジ殿の知識をお借りしたいのだ」
「……それを証明できる? 妖夢が正気ではなくて、貴方が正気であるということを」
「できない。『信じてくれ』と言うより外はない」
「そう。ならやっぱり、私は貴方に『大人しく帰れ』と言うしかないわ。紅魔館の門番として」
「……」
どうしたものか。
今の妖夢が正気ではないことは会えば分かるのだが、それは無理な話。かと言って、自身が正気であると証明するにはどうすればいいのか椛には見当がつかなかった。悪魔の住む館に入るために悪魔の証明をしなければならないなど、滑稽な話である。
「このままでは、妖夢は博麗霊夢に退治されてしまう」
「それは……ご愁傷様ね」
「私は、自分が狂っていないことを証明することができない。だが、」
あるいは、山の外に興味を持った時点で椛は異端。狂っているのかもしれない。
だが、たとえ狂っていたとしても、揺るがないものはある。
「友を救いたいと思う気持ちだけは、どれだけ狂っていても失っていないつもりだ」
そして椛は意を決して歩き出した。
「動くな!」
制止の言葉は構わず、椛は進む。
「馬鹿……っ!」
美鈴が身を屈めたように見えた次の瞬間、彼女は椛の眼前にいた。右の半身はぎりり、ぎりりと引き絞られていて、
「破ッ!!」
裂帛とともに放たれた掌底が椛を穿つ。
…………
薄く広がっていた雲は、いつの間にかなくなっていた。しかし、白み始めた空に星は見えない。
仰向けに倒れているのだと気が付いた椛は、ゆっくりと身体を起こした。腹に鈍痛。どれくらい眠っていたのだろうか。
「なんで避けなかったの?」
「貴方とは戦う理由がない」
すぐ隣に立っていた美鈴の問いに、椛は腹をさすりながら答えた。
「私は妖夢を救いたいだけだ。友のためならば、この身など惜しくはない。この程度で信用を得られるのならば、安いものだ」
「……貴方、やっぱり狂っているわね」
「友のために命を懸ける。主人のために命を懸ける。大きな違いはないと思うが」
「あ……」
手加減をしてくれたのだろうか。骨にも内臓にも異常はなさそうだった。
顔を上げた先には、ぽかんとした表情でこちらを見ている美鈴がいた。
「何かおかしなことを言っただろうか?」
「ああいや、なんでもないわ。貴方の言うとおり」
問うと、美鈴はぱたぱたと手を振って笑った。
「私の負けね。ここで貴方に『狂っている』なんて言ったら、私も、咲夜さんも、誰だって狂っていることになっちゃう」
「いや、別に私はそんなつもりで言ったわけでは」
「分かってる。貴方はいつだって真面目で、狂ってなんかいない。パチュリー様のところに案内するわ」
「い、いいのか?」
「ええ。ただし、私もついていくけどね」
そして美鈴は、少し不恰好なウインクを椛に送った。
魔力の明かりがぽつり、ぽつりと灯された廊下を、椛は美鈴の先導で歩く。門番が門を離れて大丈夫なのかと不安になったが、美鈴には直属の部下がいるようで、彼女たちに門番を引き継いでいた。
「と言っても、妖精だからあんまり長くは留守にしていられないけどね」
そう言って美鈴は苦笑した。
やがてふたりは地下へと続く階段を降っていく。
「今の時分、レミリア・スカーレット殿は?」
「まだ起きていると思うわよ。いつも通りなら、テラスでティータイムを楽しんでいらっしゃるか、館を適当にうろついていらっしゃるか……」
紅魔館の主“永遠に紅い幼き月”レミリア・スカーレットは吸血鬼である。夜行性の彼女ならば深夜に尋ねるほうが都合が良かろうと思い、椛は白玉楼から休みなしでここまで来たのだった。結局、美鈴に叩きのめされたおかげで訪問は明け方になってしまったが。
用件が済んだら挨拶くらいはしておくべきか。そんなことを考えているうちに階段は終わり、薄暗い通路の先で一枚の大扉がふたりの前に立ちはだかった。
「あるいは……」
言いながら、美鈴は扉を開く。
ぎぃぃ……
重厚な音を立てて開いていく扉の奥から漂ってくるのは、蔵書の多い空間特有の、本の香り。それと、本の香りに混ざって椛の鼻腔に滑り込んできたかすかなこれは……
――血の、匂い……?
「あるいは、パチュリー様とお話をされているかもと思ったんだけど、やっぱりここにいらしたみたいね」
思わず足が止まってしまったが、気が付いたのは椛だけのようだ。変わらぬ足取りで進む美鈴を追って椛も大図書館へと踏み込む。
背の高い本棚が整然と並んだ空間。壁まで本棚になっていて、その蔵書量は計り知れない。
扉をくぐって正面、少し開けた空間に白いクロスの敷かれたテーブルがあった。テーブルの上にはティーカップがふたつと、大きめの皿に盛られたクッキーの山。そしてテーブルについてクッキーを摘んでいるのは、ふたり。菫色の髪の少女と、空色の髪の少女だ。
「レミリアお嬢様、パチュリー様、お客様ですよ」
テーブルの傍で足を止めた美鈴は、一礼とともにそう言った。ふたりの視線が椛に集まる。
椛が慌てて頭を下げると、先に声をかけてきたのは空色――レミリア・スカーレットのほうだった。
「やぁやぁ、犬走椛くんじゃないか。久しぶりだね」
「お久しぶりです。スカーレット殿、ノーレッジ殿」
すると、からからと笑っていたレミリアは、少しだけ顔をしかめた。
「堅苦しいな。“レミリア”と呼んでくれて構わないよ」
「……は、い、いえ、しかし」
なりは小さくとも、幻想郷のパワーバランスの一角を担う紅魔館の主である。名前を、それも呼び捨てなど畏れ多い。
しかし、レミリアにはその態度が気に喰わなかったようである。眉間にしわを寄せて、椛を睨み付ける。
「私は『“レミリア”と呼んでくれ』と言っているのだが?」
ばさり、と蝙蝠の羽が空打ちされる。椛はびくりと震わせ、自然と視線が落ちていく。
「は、はい! では、僭越ながら……お久しぶりです。れ、レミリア……殿」
「……」
――敬称もまずかったか!?
椛にとってはこれが限界だったのだが、レミリアは変わらずに椛を睨み続けている。これはもしや、命の危機なのでは?
冗談ではない。まさか呼び方ひとつで死んでたまるものか。椛は助けを求めてパチュリーを見た。パチュリーはいつの間にか本を広げていた。既にこちらへの興味を失ってしまったようだ。次に美鈴のほうを見た。美鈴は困ったような笑みを浮かべて「無理、無理」と言いたげに手をぱたぱたと振りながら後ずさりしている。
がたん、とレミリアが立ち上がった。そしてゆっくりとした動作でこちらへ歩いてくる。その指先には、鋭利な爪。
一歩、一歩。レミリアの接近と同じ速度で椛は後退する。ばさり、とさらに空打ちを一回。溢れる妖気が椛の身体を叩く。
――どうする? どうする?
一旦退くべきか。しかし退いてどうなる? ここで情報を得られなければ、他に行くあてがないのだ。退いても意味がない。それに、余計な時間を食っている時間もない。こうしている間にも、霊夢が妖夢を追い詰めているかもしれないのだ。
――こんな……こんなくだらないことで時間を食っている場合ではない!
相手は吸血鬼。妖力の差は圧倒的。身体能力にしても天狗と同等か、それ以上か。特に速さに至っては鴉天狗に匹敵するかもしれない。非常に分の悪い戦いだ。しかし、負けるわけにはいかない。椛は大太刀に手を……
「ま、冗談はこの辺にしておきましょうか」
手をかけようとしたところで、レミリアはくるりと転進して再びテーブルについた。そしてクッキーをひとつ口の中に放り込む。手の爪は、いつの間にか元に戻っていた。
「……は?」
「好きに呼んで構わないわよ、別に。そんなことに目くじらを立てるほど器の小さな私ではなくてよ?」
「は、はあ……」
「んー、うまい」
呆然とする椛をよそに、レミリアはクッキーと紅茶に舌鼓を打ち始めた。
助かったのだろうか。と言うより、ただの冗談だったのか。まったく趣味の悪い。こちらが白狼天狗だったからよかったものの、力の弱い妖怪だったら存在を保っていられなかったかもしれない。それだけ、レミリアの放つ妖気は、威圧感は強大だった。
「ほら、そんなところに突っ立ってないで、こっちに来なさい。咲夜のクッキーはおいしいわよ」
「は、はあ……では、失礼します」
もっとも、大いにくつろいでいる今は見る影もないが。
空いている椅子に座ると、次の瞬間には椛の前にティーカップが現れていた。既に暖められているようで、カップの内側からかすかに湯気が立っている。
そして、椛の傍らには銀髪の少女。
「召し上がれ」
「十六夜咲夜か」
紅茶を注ぐ銀髪――紅魔館のメイド長“完全で瀟洒な従者”十六夜咲夜の姿を見て、椛はふと気が付いた。
「身を清めることをお勧めする」
「あら、どうして?」
「血のにおいが消えていないぞ」
おそらく、先ほどまで肉――おそらく、人間の肉だ――を捌いていたのだろう。咲夜の身体からは、かすかに血のにおいが漂っていた。ここに入った時に感じた血のにおいも、彼女のものだろう。
ただし、これは本当にかすかなにおい。今はまだ椛のような鼻の利くものでなければ気が付かないくらいのもの。だがいずれは、その“かすか”を積み重ねていけば、それは身体にこびりついて無視できなくなってくるだろう。
悪魔に魂を売ったものとは言え、外面だけでも人間でいたいのならば、血のにおいなど身にまとうものではない。
「成る程。狼の貴方の前では、もう少し匂いにも気を使うべきでしたわ。失礼致しました」
紅茶を注ぎ終えた咲夜はにこりと微笑むと、姿を消した。湯浴みに行ったのか、次の仕事に移ったのか。
手に取ったカップから漂うは、鼻腔をくすぐるほのかな甘い香り。ひとくち含めば口の中に広がるは、爽やかな柑橘系の風味。オレンジティーだ。
「美味い」
思わず感嘆の言葉が零れた。
「さて、そろそろ用件を聞こうかしら。ま、私じゃなくてパチェに会いに来たんだろうけど」
と、口の端にクッキーの食べかすを付けたレミリアは言った。椛はひとつ頷き、カップを置くと居住まいを正す。
「ノーレッジ殿、貴方の知識をお借りしたい」
「……そう」
しかし、パチュリーの意識は手元の本に向けられたままだった。彼女の興味を惹ければ良いのだが。そう思いながら椛は続ける。
「“花童子”という言葉をご存知だろうか?」
「……花童子」
記憶を手繰るように、パチュリーの視線が本から外れた。が、すぐに戻されてしまう。
「いいえ、知らないわ」
「……そうか」
「ねね、何の話よ?」
ただ、こちらの興味は惹けたらしい。
「妖夢の持つ刀、楼観剣の鞘に付いている花は、その花童子が持っていたものだと謂われているらしい」
「ふーん。で、それがどうかしたの?」
ついでにパチュリーの耳に入ってくれれば都合がいい。身を乗り出すレミリアのほうへ身体を向けて、椛は語った。これまでのことを。そして、これからのことを。
「私は“花童子の花”を手に入れ、妖夢を捕らえます。妖夢の身に巣食っている狂気は、八意殿から貰った抗狂剤で祓い、楼観剣の妖気は、八雲紫の作る妖力封じの札と“花童子の花”で再封印。これでこの事件の解決を図っています」
「なるほどねー。八雲紫が動いているってことは、結構おおごとになっていたのね。パチェ、本当に何も知らないの?」
「……」
レミリアの問いに、パチュリーは再び思案の表情を見せる。本から視線を外し、口元に手をあて「花童子……花童子……」と呟いている。
やがてその視線は、身を捻って図書館の奥へと向けられた。
「小悪魔!」
「はい、パチュリー様。お呼びですか?」
本棚の影から現れたのは、ワインレッドの長髪が美しい少女だった。
「東洋の伝承や妖怪についての文献はまとめてあったわよね。あの辺の本を適当に持ってきなさい」
「はい、ただいま」
ぺこりと一礼すると、少女は辺りをぐるりと見回した。そして再び本棚の森に消えていく。その後姿を見送ってから、椛はパチュリーに頭を下げた。
「すまない」
「貴方たちには、ふたつ貸しがあったのを思い出したわ」
「ふたつ?」
「ひとつは魔法の実験体になってもらったこと。もうひとつは妹様の遊び相手をしてもらったこと。私はまだ、そのうちひとつしか返していなかった」
「……ありがとう」
こちらを見る紫紺の瞳には、僅かに好奇の光が宿っていた。彼女の、魔女としての好奇心を刺激できたようだ。貸し借り以上に信用できる動機である。
「ところで、彼女は?」
本を取りに行った少女を思い出しながら椛は問いかけた。以前ここを訪れた時にはいなかったが。
「真名は教えられないけど、低級の悪魔よ。随分前に召喚したんだけれど、とんだじゃじゃ馬でね。手懐けるのに苦労したわ」
「ほう、あれが悪魔か」
八百万の神々がおわす地に住んで久しいが、ふたつ名ではない正真正銘の悪魔には会ったことがなかった。率直な感想を述べると、頼りなく見える。
そんな考えが顔に出ていたのだろうか、パチュリーはにやりと笑って言う。
「侮らないことね。見た目は小さいけれど、力はあるわよ」
「パチュリー様、こんなものでよろしいでしょうか?」
パチュリーのほうが背は低いように見えたが。
そんな突っ込みを入れる間もなく、椛は眼前に広がる光景に硬直とした。
ありていに言うと、本棚が飛んできたのだ。
「おおお!?」
一拍遅れて驚愕の声を上げて、椛は椅子を蹴倒し立ち上がって大太刀と盾を構えたが、果たしてそれにどれほどの意味があろうか。いや、少なくとも、呑気に紅茶を飲んでいる目の前のふたりよりは意味のある行動のはずだ。
しかし、椛の行動のほうこそが無意味であると思い知らされたのは、その直後だった。
「上出来よ」
そう言いながらパチュリーが指をかざすと、本棚は空中でぴたりと動きを止めた。そして指の動きに従ってゆっくりと地面に下ろされる。
「でも、本は大切に扱うこと。投げるなんてもっての外よ」
「す、すみません」
戻ってきた小悪魔の額に小さな魔力弾を当てながら、パチュリーは立ち上がった。ふわりと宙に浮き、本棚のほうへ飛んでいく。
「さて、花童子とは何なのかしらね。“童子”ということは、鬼に関係しているのかしら。単純に“花”という単語から連想すると、あの妖怪のことが脳裏をよぎるわね。ほら、貴方も手伝いなさい。これだけの蔵書を私ひとりに調べさせる気?」
「あっ、すまない、今行く」
慌ててパチュリーのもとへ小走りする椛を、レミリアがクッキーをかじりながらにやにやと見ていた。
…………
ぺらり。
「花童子……花童子……」
「地方によって呼び方が違う可能性があるわ。その名称に拘らないこと」
「わ、分かった」
ぺらり。
「パチェ、何か面白いマンガとかない?」
「小悪魔!」
「はい。さ、レミリアお嬢様、こちらに」
「……厄介払いされてる?」
「ち、違いますよぉ!」
ぺらり。
「へえ。酒呑童子に、茨木童子。童子にも色々あるんですね」
「……美鈴。貴方、門はどうしたの?」
「妖精たちに任せてありますよ」
「大丈夫かしら……?」
ぺらり。
…………
「みなさん、紅茶を淹れましたのでひと息いれてください。咲夜さんの淹れた紅茶ほど美味しくはないですけど……」
小悪魔の呼びかけに、椛は顔を上げた。隣を見ると、随分と多くの本が積まれていた。代わりに本棚に並んでいた本はだいぶ減っている。
「ん……っ!」
大きく伸びをすると、肩や背の骨がぽきぽきと音を立てた。ずっと縮こまって本を読み漁っていたせいで、身体が凝り固まっていたようだ。
「休憩がてら情報をまとめましょうか」
「ああ」
開いていた本を閉じて、椛は立ち上がった。この本にも、役に立ちそうな情報はなさそうだ。
いつの間にかクッキーの皿が空になっていた。レミリアが食べてしまったのだろう。ちなみに、当のレミリアは床に寝っ転がって漫画を読みふけっていた。紅魔館当主の威厳などは欠片も感じられない。
「さて。では、分かったことを話してもらおうかしら」
各々がテーブルについたのを確認してから、パチュリーは口火を切った。と、真っ先に美鈴が手を上げる。
「どうやら、花童子というのは雨乞いのシンボルだったみたいです」
「と言うと?」
「ある地方の書物に、雨乞いの儀式をしている最中に花童子が現れると、必ず雨が降るとありました」
「つまり、花童子は天候に干渉することができると。かなり力を持った童子のようね」
「“神である”との記述もありましたね」
「神、ね。それなら天候の改変も容易、か」
天候の改変と言えば、気質によって周囲の天候が変わってしまうという異変があったと、妖夢が話していたか。あれは確か、ひとりの天人が戯れで起こしたものだと記憶しているが。
何か関係があるのかもしれない。そう思って話すと、しかしパチュリーは首を横に振った。
「比那名居天子は関係ないでしょうね。彼女の……というより、彼女の持つ緋想の剣が起こす天候の改変は、周囲の人妖の気質に依存する。雨のみを狙って起こすことは難しいと考えられるわ」
「そうか」
彼女の居場所は分かっている。妖怪の山よりもさらに高み、天界だ。居場所が分かっている相手ならば都合が良かったのだが。
「それで、貴方は何か見つけた?」
「真偽のほどは定かではないが、花童子の姿絵と思しきものを発見した」
言いながら、椛は二冊の本を開いてふたりに見せた。
どちらに本にも、一輪の大きな花を抱えた子どもの絵が描かれている。そして、絵の下には“花童子”の文字。
「この花が楼観剣の鞘についていた花だとすれば、花童子はかなり小柄なものだと考えられる」
「小さいと言うか、手のひらサイズ?」
「……それより、気になるのだけれど」
しばし二枚の絵を見比べていたパチュリーが、花童子の一点を指差した。
「全体的な特徴はどちらもよく似ているわ。ただ、」
「そう、私も気になっていた」
それは、花童子が持っている花。
「この二枚の絵で花童子が持っている花は、明らかに違う」
片や花びらが五枚の簡素な花。片や花びらの量は多く一枚一枚が細長いタンポポのような花。同じ種類の花には、とても見えなかった。
「……いかんせん過去の文献。表記や言い伝えにブレがあっても不思議ではないわ」
パチュリーは本に視線を落としたまま呟いた。自分の言葉を確認するように。
「ただ、美鈴の話を聞いて、この絵を見て、私の中でひとつの仮説が生まれた」
そしてひとつ息をつくと、テーブルにつく面々を見渡した。椛、美鈴、いつの間にかテーブルについてたレミリア。そして、テーブルの側に控える小悪魔。
全員が話を聞いていることを確認したパチュリーは、その仮説を述べる。
「花そのものに、力はない」
視界が、揺らいだ。
花に力がないとは、どういうことなのか。では、今まで調べたことは全て無駄だったのだろうか。
椛が問うよりも早く、パチュリーは二の句を告げた。
「重要なのは“花童子が持っていた”という事実」
「……それは、つまり?」
「例えば花童子が神だと仮定したとしても、天候の改変には大きな力が必要となる。だから、おそらく花童子は周囲の生気、霊気、妖気……あるいは人の願いなんかを取り込んで天候改変のエネルギーにしていたのではないかしら」
周囲の気を自分のものにする。妖気を吸収して自身の養分にしていたという楼観剣の花によく似ていた。
椛にはパチュリーの言わんとしていることが分かり始めてきた。
「楼観剣の花は、その力の一部を受け継いでいる。つまりこれは、花そのものが特殊なのではなく、花童子からの神徳を間近で受け続けた結果、後天的に力が宿ったものと考えられるわ」
妖気の吸収能力はあくまでも副産物であると、パチュリーはそう言っているのだ。つまり、
「つまり探さなくちゃいけないのは花ではなく、花童子本人ということですか?」
「そのほうがいいかもしれないわね」
美鈴の言葉にパチュリーは頷いた。
状況は、おそらく好転した。
あるかどうかも分からない花を探すよりも、いるかどうかも分からない花童子を探すほうがずっと希望がある。何せ、妖怪の山には八百万の神々がおわすのだから。もしも花童子が神なのだとしたら、本人が山にいるかもしれない。
「さて犬走椛。ひとまずはこんなものだけど、貴方の助けになったかしら?」
「ああ。助かった、ノーレッジ殿」
「言っておくけど、これはあくまでも仮説。無条件に信じ込まないこと」
「分かっている。だが、闇雲に探すよりはずっといい」
次の目的地は、妖怪の山だ。神ならばあてがある。きっと何か情報が得られることだろう。
「行くの?」
「ああ、もう十分だ」
調べればさらに情報を得られるかもしれないが、こちらは急ぎの身。霊夢が動き出してから、既に半日以上が経過している。あまり長居はしていられない。
椛は席を立つと、深く頭を下げた。
「協力してくれて本当にありがとう」
「借りを返しただけよ」
この件が片付いたら、パチュリーには事の顛末を話してやろうか。少しでも彼女の知識欲の足しになれば良いのだが。そう思いながら椛は踵を返した。
その背に、
「犬走椛」
声をかけたのは、レミリアだった。
「なんでしょう?」
「私からの選別よ。ありがたく受け取りなさい」
レミリアはにやにやと笑いながら言う。
「私には、お前の運命が視えている」
「!?」
「だけどそれは、無限に枝分かれした運命のほんの一握り。終着点はまだ私にも分からない。だから私が言えるのはこれだけ」
「……」
「お前はこれから、選択を迫られるだろう。慎重に選ぶことだ。誤った先は、お前の想定している“最悪”だ」
「それは……」
椛の想定している“最悪”とは。
「葛藤しろ。苦悩しろ。どれだけ辛かろうと、苦しかろうと、泣こうが喚こうが構わん。だが最後には必ず選択しろ。お前が選択しろ。そうでなければ、“最悪”を回避することはできない」
「……肝に、命じておきます」
――選択……
いったい何を選ばされるのだろう。レミリアは、椛の中からどんな運命を見出したのだろう。
しかし、それを聞くという“選択”は、おそらく誤りだ。それは考えることを放棄したことになってしまうかもしれない。
レミリアのほうへも一礼し、そして椛は大図書館をあとにした。これから訪れる“選択”というものに、拭いきれない不安を感じながら。
…………
はらり、はらり。
舞い散る木の葉は、ただ紅く。
赤い鳥居、古びた社、掃き掃除をする風祝。中天を過ぎた太陽は穏やかな日差しを幻想郷に注いでいた。
妖怪の山の中腹に位置するここは“守矢神社”。山のコミュニティに属さない人妖の侵入が許された唯一の場所だ。そして、椛の次の目的地である。
「東風谷殿」
落ち葉のない参道を歩きながら声をかけると、風祝――“祀られる風の人間”東風谷早苗は翡翠色の長髪をなびかせてこちらに向き直った。
そして、
「椛さん! 昨日はどこに行ってたんですか!? 探してたんですよ!」
血相を変えて詰め寄ってきた。
「それと、“早苗”って呼んでくださいっていつも言ってるじゃないですか!」
「落ち着け。分かったから、早苗、済まなかった」
余計なことで怒られた気もするが、ひとまず早苗の肩を掴んで引き剥がし、椛は制止の声を上げる。
「言いたいことは分かっている。それで早苗に聞きたいことがあって来たのだ」
「聞きたいことだなんて悠長な……私に聞きたいこと?」
「そうだ。“花童子”という名に聞き覚えはあるだろうか?」
「“花童子”……?」
おうむ返しをしてから、早苗は頬に手をあて小首をかしげた。何とか本題を押し込んで黙らせることに成功した椛は、小さく息をつく。
彼女が――“現人神”たる彼女こそが、椛が唯一もっている神のあてだった。
早苗を含めた守矢神社の面々はみな、つい数年前まで外の世界に住んでいた。“花童子”の所在が幻想郷にあるか外の世界にあるか判断がつかない今、幻想入りして間もない彼女らは貴重な情報源だ。何しろ、妖怪の山が幻想入りしたのは数百年以上も昔なのだから。
しばし思案の表情を見せたのち、早苗は首を横に振った。
「ごめんなさい、初めて聞く名前です」
「そうか……」
――やはり知らないか。
さもありなん。早苗はまだ若い。幻想入りするほど古い文献に載っているような童子のことなど、知らなくて当然だ。この回答は予想できていただけに、落胆は小さかった。
そして、椛の本当の目的はここから。
「神奈子様と諏訪子様にも聞いてみましょうか?」
きた。
「ああ、頼む」
齢二十にも満たない早苗は知らなくとも、古より外の世界に顕現していた“彼女ら”なら、知っているかもしれない。
「神奈子様、諏訪子様」
『聞いていたよ』
社のほうへ向けられた早苗の呼びかけに、応じる声はすぐに返ってきた。
次の瞬間、社の入り口近く、賽銭箱の前の空間がぐにゃりと歪んだ。そして歪みの中からふたりの女が現れる。
ひとりは片膝を立てて座る、青みの強い菫色の髪の大柄な女だ。背に負う注連縄と御柱は軍神の証。女は目を細めて値踏みするように椛を見つめていた。
もうひとりは金髪の小柄な少女。服に施された妙に生々しい蛙の刺繍と、少女のかぶっている帽子についた一対の目玉が、無感情な視線をこちらに向けているような気がして気味が悪い。しかし、当の少女が椛に向けている視線は好奇一色のようであるが。
このふたりが、守矢神社におわす二柱、“山坂と湖の権化”八坂神奈子と“土着神の頂点”洩矢諏訪子だ。
神の降臨に早苗は礼をし、椛は跪いた。
「よい。白狼天狗よ、顔を上げなさい」
「は……」
「貴方はどこぞの鴉天狗と違って礼儀を弁えているようね」
「恐縮です」
射命丸文は神をも恐れぬか。
文の取材姿勢に慄きながら椛は立ち上がると、改めて頭を下げた。
「お初にお目にかかります、八坂神奈子様、洩矢諏訪子様」
「うむ。まあ玄関先で立ち話もなんだ、上がりなさい」
社の向こう側、神社の居住区を示し、神奈子は踵を返して歩き出した。
「早苗、お茶の用意を」
「はい、かしこまりました」
神奈子のあとを追ってぱたぱたと早苗は小走りをして、しかし諏訪子だけは椛を見つめたまま動かなかった。
「……あの、何か?」
「いやあ、貴方は本当に、他の天狗たちとは違うんだなって思って」
気まずくなった椛が問うと、諏訪子はそう答えてぺろりと舌なめずり。
「それは、どういう……?」
「美味しそうってコト」
ぞわり。
背筋を嫌な汗が流れ、思わず頬が引きつってしまったが、気付かれなかっただろうか。諏訪子はにっこりと笑うと、それ以上は何も言わずに行ってしまった。
「……」
不気味極まりない。
ともあれ。
椛は小さく深呼吸をすると、歩を進めた。立ち止まっている時間などないのだから。
「どうぞ」
「ありがとう」
礼を言いつつ椛は湯飲みを受け取り、口をつけた。熱々から少しだけ冷まされた、丁度良い温度の緑茶だ。
守矢の居間、その四角い卓には神奈子と諏訪子が隣同士で、椛はその対面に。最後に早苗が空いている面に腰を下ろした。
「さて、」
ず、と茶をひとくちすすってから神奈子は切り出した。
「“花童子”について、だったわね」
「はい」
「どうしてうちを頼ろうと思ったのか、まずはその辺の経緯を聞かせてもらおうかしら」
突然訪れて『花童子を知らないか』ときたのだ。今の椛の立場を考えれば、詳しい事情のひとつも聞きたくなるだろう。
この説明をするのはこれで何度目だろうな。そんなことを思いながら椛は居住まいを正すと、話を始めた。
辻斬り事件の記事から始まり、楼観剣の放つ妖気について、妖夢との対峙、幽々子と紫から聞いた楼観剣の鞘の花について、そして紅魔館での調査結果。
「私は妖夢を死なせたくない。そのためには、彼女の身に巣食う狂気を祓い、楼観剣を再封印する必要があります」
「そこで花童子の花が必要なんですね」
「ああ」
全てを元に戻すのならば、楼観剣の封印に花童子の花が必要不可欠だ。
神奈子は先ほどと同じように目を細め、値踏みするように椛を見つめる。
「それで、貴方は花童子に会ってどうするつもり?」
「花を譲ってもらえるよう頼みます」
「譲ってもらえなかったら?」
「……その時は、他の方法を、探します」
力尽くで、とは言えなかった。
「花は楼観剣の封印に必要なものですが、すぐに手に入らなかった場合は楼観剣をどこかに隔離して、時間をかけて別の方法を探ることも可能でしょう」
「本当は?」
問いを重ねてきたのは、諏訪子だった。諏訪子はにやりにやりと笑いながらこちらを見ている。
「本当、とは?」
「尻尾に出ているよ。焦燥が、葛藤が。今の言葉は貴方の本当の言葉じゃないでしょ?」
「!?」
椛は慌てて自身の尻尾に触れた。白狼天狗の証たる白い尾は総毛立ち、ひどく緊張していた。
落ち着け、落ち着け、と尻尾を抑える椛を見て、諏訪子はけろけろと笑う。
「神の前で隠し事なんて、不敬じゃないか」
「……申し訳ございません」
「謝罪はいいからさぁ、本当はどうしたいのさ? 教えてくれなきゃ祟るよ?」
この神が“祟る”と言うと洒落にならない。
嘘や綺麗事は通じないだろう。下手をすれば本当に祟られてしまうかもしれない。椛は観念すると、ため息をひとつついてから白状した。
「言うことを聞かないようであれば力尽くで。それでも渡さないと言うのであれば作らせます。“花童子の花”と言っても元はただの花ですし、作れないことはないでしょう。こちらは急いでいるんです。そんな問答に割く時間なんてありません」
口早に言い切り見回すと、早苗と神奈子はややあっけに取られた顔をしていた。正直に言いすぎただろうか。ただ、諏訪子だけは満足げに頷いている。
「うんうん、貴方もやっぱり天狗ね。妖怪はそれくらいワガママじゃないと」
「は、はあ……」
この小さい神は、何が言いたいのだろう?
と、諏訪子は小さく飛び跳ねて立ち上がると、部屋を出て行ってしまった。
「……?」
「気まぐれなやつめ。すまないね。あいつのことは放っておいて頂戴」
「はあ」
ため息交じりの神奈子の言葉に、こちらは生返事を返すことしかできず。
「そ、それで、花童子の件なのですが……」
とにかく話を進めなければと椛が言うと、神奈子は眉間にしわを寄せ、渋い表情を見せた。
「うむ、早苗の友人の頼みだ。本音はどうあれ危害を加えないと約束するのならば、案内しよう」
「あ、ありがとうございます!」
「だけど、」
喜びは束の間だった。
「彼女は外の世界にいる。私たちの力を以ってしても、結界の外に出られるか分からないわ」
――外の、世界……?
「仮に出られるとしても、結界に孔を開けるために数日はかかるでしょう。果たしてそれを八雲紫が許してくれるかしら」
「…………そう、ですか……」
続く神奈子の言葉は、より深刻なものだった。八雲紫の許しはともかくとして、それよりも問題は……
――数日……
先ほどはああ言ったものの、できれば花もすぐ手に入れたい。神奈子が無理ならば、他に手段はないだろうかと記憶を辿る。
外の世界――幻想郷と言う閉じられた世界から抜け出せるものはきわめて少ない。椛の知る限りでは、幻想郷の創造主たる“妖怪の賢者”八雲紫だけ。山の上層部では結界破りが行われていると聞いたことがあるが、これはあくまで噂であるし、山を頼ることは難しいだろう。どちらも協力を仰げるようなあてではなかった。
そういえば、外の世界から幻想郷に迷い込んできた人間がふたりいたか。しかし、そのふたりは既に幻想郷の外へ帰ってしまっているし、仮にこの場にいたとしても、そもそも彼女の能力は得体が知れなさすぎる。
と。
「……そういえば」
ふたりを元の世界に帰す手助けをしてくれたのは、八雲紫の式、八雲藍だったか。あの時、藍は紫から力を貸し与えられ、結界の綻びから外への路を作っていた。
今、紫は楼観剣を封印するための札を作っていて手が離せない。となれば……
「……」
「椛さん?」
心配そうに声をかけてくる早苗に「大丈夫だ」とだけ言って椛は立ち上がり、ぐるりと辺りを見回しながら声を上げた。
「聞いているのでしょう、八雲藍殿! 姿を見せていただけないか!?」
待つことしばし。
『いつから気付いていたの?』
「きゃあ!?」
唐突に聞こえてきた声に早苗が悲鳴を上げた。声のほうへ目を向けると、そこには人ひとりが立って通れるほどの大きさの“スキマ”がひとつ。
声の主が、スキマの中から姿を現す。
金の髪、金の瞳。青と白を基調とした導師服を身にまとった女だ。そして何より目を引くのは、彼女の臀部から花弁のように広がる金色。その尾は九本。
「綺麗……」
早苗がため息混じりに呟くのも頷ける。それほどまでに、その女は美しかった。
女は――“八雲紫の式”八雲藍は穏やかな微笑を浮かべて神奈子に一礼をした。
「お久しゅうございます、八坂様」
「へえ、八雲の式かい。これは珍客だね」
「季節の挨拶くらいには伺いたいといつも思っているのですが、なにぶん紫様も私も忙しい身でして」
「なに、気にしていないわ。
それよりも、彼女の話を聞いてあげなさい。貴方に用があるのは、私じゃなくて彼女のほう」
「ええ、分かっておりますとも」
頷き、ようやく藍はこちらに向き直った。
「久しぶりね、犬走椛さん?」
「はい、お久しぶりです」
「それで、いつから気付いていたの?」
「『もしかしたら』と思ったのは、つい先ほどでした。今の私は、おそらく妖夢の次に幻想郷で“例外的”な存在ですから」
「なるほど」
椛の答えに藍はくすくすと笑った。
今の幻想郷で妖夢を救うために行動を起こしているのは、おそらく椛だけ。八雲紫の想定を超えた“何か”をやらかすとしたら、椛なのだ。故に、監視がついていてもおかしくはない。
「私は呼んだ理由は?」
「お分かりでしょう?」
そう、ここでのやり取りも見ていたであろう藍ならば分かっているはずだ。
「藍殿、貴方は外の世界への路を作ることができますね?」
「……ええ、可能よ」
「準備や移動にかかる時間は?」
「ゼロ」
やはり。
神の力を以ってしても外の世界へ行くには一朝一夕では不可能。だが、幻想郷を創造したスキマ妖怪の力ならば? 式ではあるが、紫の力の一部を貸し与えられている藍ならば、外への路を作ることは可能なのでは? 椛はそう考えたのだ。
そして今、それが可能だと分かった。
しかし……
「藍殿、私を外の世界に連れて行ってはくれないだろうか」
「紫様からその命令は受けていない」
これも、やはり。
八雲の式が、主に断りもなく結界に孔を開けることはないだろう。主である八雲紫の命令こそ絶対である藍に理屈は通じない。
だから、
「ですが、八雲殿はそれを望んでおられるはずです」
「どうして?」
「妖夢が死ねば、西行寺殿が悲しみます」
「……」
その主を出汁にする。
予想される異変の終焉。それは紫にとっても回避したい未来であるはずだ。だから彼女は、自分に時間を与えた。花の情報を与えた。椛はそう考えていた。この考えに藍が思い至らないはずがないだろう。
「紫殿と相対してなお私は自由な行動が許されている。それが何よりの証拠でしょう? お願いします。どうか力をお貸しください」
「……」
しかし、
「紫様の真意がどうあれ、私は貴方を外界に連れて行く許可を得ていない」
「ならば許可を」
「紫様は今お忙しい」
「そこをなんとか」
「ならない」
「時間がない」
「それはこちらも同じこと」
「……」
――折れないか。
せめて紫と交渉をする機会くらいはもらえないか。そんな椛の期待さえも切って捨てる身も蓋もなさだった。
椛はふらりと藍に歩み寄ると、彼女の両肩を掴んで頭を下げる。
「頼むっ……! もう、藍殿しか頼れるものがいないのです……!」
「……貴方、」
直後、藍が動いた。
こちらの手を片方は払いのけ、もう片方は掴んで捻り上げながら後ろに回りこんで床に押し倒してきた。突然のことに、またあまりの手際の良さに椛は反応する間もなく畳の床にどたんと倒される。
「ぐお!?」
「あ、あの、あんまり暴れないでくださいね……?」
「役者には向かないわね」
「な、何の話だ!?」
ぎりぎりと極められた腕の痛みに耐えながら見上げると、藍が苦笑とともにため息をついた。
「頬が引きつりすぎ、目が据わりすぎ。動きも固くてぎこちないし。『いざとなったら首根っこを掴んででも』って考えが透けて見えていたわよ?」
「ち……!」
確かに、これで駄目なら力尽くでもと考えていたが、看破されていたようだ。やはり慣れないことはするものではない。
ならばもはや演技は不要だ。椛は深く息を吐くと手の中に妖力を集中させる。
「だったら……!」
「!?」
次の瞬間、藍は椛の拘束を解いて飛び退いた。
「四の五の言わずに協力してもらえませんかね?」
手元の妖力を慎重に収めながら立ち上がると、藍は乾いた笑みでこちらを見ていた。
「密着状態で起爆性のある弾幕を作るなんて、気でも狂っているの? 爆発すれば、貴方だって無事では済まないというのに」
「自分では正気のつもりですけどね」
他人から見れば狂っているように見えるのかもしれない。だがそれは仕方の無いこと。
なぜなら、
「ただ、必死なだけです」
今すぐ外界へ行く手段は藍しか持っていないのだ。なりふり構っている余裕などない。
椛は身を低くして身構えた。その身の野性を抑えることなく、牙を剥き出し、赤みのかかった黒檀の瞳をぎらつかせて。
「さあ、外の世界へ連れて行ってもらおうか」
「……必死、ね」
「あの、ですからケンカは外で……」
早苗の言葉はひとまず無視。今は藍から目を離すわけにはいかない。
顎に手をあて、楽しげにこちらを見る藍は隙だらけに見えた。しかし油断はできない。相手は八雲藍の式なのだ。持ちうる妖力は椛のそれを大きく上回っているだろう。体術にしても、先ほど椛を押し倒した手際を見るに、侮れるものではない。
さあ、どう出る?
「……」
と、
「ああ。そういえば、紫様から預かっていたものがあるわ」
「なに?」
ぽんと手をつき藍は袖の中から紙切れを取り出した。差し出されたそれを、椛は受け取り確認する。
「とりあえず時間稼ぎ用、だそうよ」
長方形、赤い縁取り、中央に何かが記された札。
「これは……?」
「妖力封じの札。対人対物なんでもござれ。対象に貼り付けるだけで妖力を抑える効果があるわ。突貫で作ったものだから長くはもたない、とのことよ」
――妖力封じの札、か。
楼観剣から溢れる妖気を押さえ込む手段。これがあれば、紫が作っている本番用の札が完成するまでの時間稼ぎが可能となる。
しかし、
「どうしてこれを私に?」
先ほどまでは協力を拒んでいたというのに。
「もしもの時の保険ってやつね。紫様が札を完成させるまでの間に妖夢が行動を起こさない保証はない。もしもそうなった時のために、彼女を止めるためのカードは一枚でも多く用意しておきたいのよ」
「……ふむ」
回りくどい言い方をする。
――要は『彼女を止めろ』と、そう言いたいのだろう?
立場とは誠に面倒なものだと椛は改めて思った。
とは言え、時間稼ぎの手段が手に入ったことは幸運だった。
だが、
「しかし花童子の花がない」
あれがなくては、どちらにしろ封印は完成されない。異変は解決しない。
藍の力が借りられない以上、確実性はないが神奈子に頼むしかないだろう。その場合は時間が要るらしいが、それまでの間は椛が妖夢を守り抜かなければならない。
誰から? 言わずもがな、博麗霊夢だ。だが、これまで彼女が解決してきた異変の顛末を聞くに、妖夢を無力化し楼観剣の妖気を封じておけば、いきなり攻撃してくることはないだろう。あとは酒でも渡しておけば大人しくなるはずだ。それで大人しくならなかった場合は……
――私の力で、博麗霊夢を抑えることができるだろうか……?
相手は、数多の異変を解決してきた“楽園の素敵な巫女”だ。一筋縄どころの話ではないだろう。おそらく勝ち目は……
「貴方の悩みは、おそらく杞憂」
思考の底に差し込んできたのは、そんな言葉。藍の顔を見ると、彼女は笑みを浮かべて天井を示した。
「上……?」
見上げると、そこにあるのは板張りの天井。なにやらばたばたと物音が聞こえる。
「……?」
やがて“ばたばた”は“どたどた”に変わり――これは足音だろう――少し遠ざかると徐々に降りてゆき、また近づいてきて……
「あったあった!」
諏訪子の形となって部屋に飛び込んできた。
「騒々しいわね。今度はなんだい?」
ため息をつく神奈子を見て、諏訪子はにんまりと笑う。
「神奈子じゃ役に立たないから、私が一肌剥いでやろうと思ってね」
「剥ぐな。一肌は脱ぐもんだ」
「そんなことはどうでもいいよ。それより、これこれ」
言いながら諏訪子が差し出したのは、細長い木箱。蓋を開いたその中には桜色の一輪の花。
どくん。
「私は土着神でね。同じ土地に長く住んでいた分、神奈子と違って地元では顔が広かったのよ」
「余計なお世話よ」
「だから、ご近所さんの花童子とも仲が良くてねぇ。こっちに来る時にこうして餞別を貰っていたってわけ」
「そ、それは、まさか……」
「ぴんぽーん。貴方の探している“花童子の花”ってやつよ。貴方の望んでいる力もちゃんと持っているわ。まあ、実際は妖気に限らず色んな力を取り込もうとしているみたいだけどね」
今日ほど神に感謝したことはない。祟り神だ何だといわれている諏訪子が、今は救いの女神に思えて仕方がなかった。
椛は畳の床に膝をつき、手をつき、額をつけた。
「洩矢様。どうか、どうかその花をお譲りください」
そして懇願する。
「代償ならば何でもお支払いいたします。この身も、命さえも、差し出す覚悟でございます。ですから、どうか……!」
「……」
恥も外聞もない。誇りなんてくそくらえだ。あるのは、ただ“友を助けたい”という想いひとつ。
しかし、その椛の想いを諏訪子は鼻で笑い、ため息で吹き散らした。
「私さぁ、今とっても退屈してるのよね。白狼天狗の土下座なんか見るよりもやりたいことがあるの。お分かり?」
「……いえ」
そして諏訪子の口は三日月を形作る。
「みんな大好き、“神遊び”」
午後の穏やかな陽光に照らされ白々と輝き、幾本もの御柱が突き立つ。守矢神社の裏手にある大きな湖。その上空で椛は諏訪子と対峙していた。
「貴方、弾幕ごっこは苦手なんですってね!」
諏訪子が声を上げる。
その通りだった。弾幕ごっこにおける椛の実力は、精々が中の下といったところか。白狼天狗の中ではできるほうだが、日常的に弾幕に触れている射命丸文や博麗霊夢、霧雨魔理沙には遠く及ばない。彼女らと相対したことのある諏訪子を、椛の実力でどれほど満足させられるだろうか。
「そんな貴方のために特別ルールを設けるわ!」
「特別ルール?」
ぴっ、と、諏訪子は人差し指を立てる。
「貴方の勝利条件は、一度でも私に触れること!」
「触れる、だけ?」
「そ。弾幕を撃とうが石を投げようが、何をしてもいいわ。とにかく私に直接触れることができたら、貴方の勝ち」
「……それで、敗北条件は?」
「私の弾幕に三回被弾すること。どうかしら?」
「三回……」
弾幕を撃っている相手に接近することは至難だろうが、普通の弾幕ごっこよりはずっと現実的かもしれない。三回の被弾が許されているのなら、それだけチャンスがあるということ。
――断る理由は、ない。
「分かりました。よろしくお願いします」
「オッケー。私を楽しませることができれば、花は貴方にあげる。心してかかってきなさい」
「はい!」
となれば、これは邪魔だな、と椛は携えていた大太刀と盾を湖の縁に向かって投げつけた。それらは鋭く回転しながら飛んでゆき、地面に突き刺さる。
椛は身構え臨戦態勢を取るが、しかし諏訪子は直立したままで、とがめるように言う。
「慌てなさんな。神の戯れよ。きちんと作法に則って始めましょう?」
「は、はあ……」
「二拝二拍一拝。知ってるでしょ?」
神社を参拝する際の、一般的な参拝方法だったか。
出鼻を挫かれながらも、椛は構えを解いて姿勢を正す。弾幕ごっこの開始に二拝二拍一拝が適切かは分からないが、礼儀は大切だ。
「まずは二拝」
二度、深く頭を下げる。二回のお辞儀は神に対する敬意を示す意味がある。諏訪子もやっているが、神自身がこの礼をすることに意味はあるのだろうか。
「次に二拍」
二回の拍手で神へ願いを伝える。やはり、椛と一緒に諏訪子も両手を打ち合わせ。
ぱんっ、
一拍、
ぱんっ!
二拍。その瞬間、
ぞ!!
諏訪子の身体から弾幕が噴き出した。
「なに!?」
「で、最後に一拝」
締めくくりの一礼を諏訪子は呑気にしているが、こちらはそれどころではない。
大小様々な大きさの弾幕が椛に殺到してきていた。さらに、諏訪子の左右からは赤と青の錐状弾幕が伸びて徐々にこちらへ迫ってきている。
「ちィ!」
舌打ちをしながら椛は退路を求めて視線を走らせる。左右が駄目なら上下。そう考えて上昇するも、錐弾は椛の位置にあわせて高さを変えてくる。このまま錐弾が左右から迫ってくれば、挟まれて終わりだ。
――いや……
錐弾の片方、赤いほうが先に途切れて道ができた。錐弾から逃れるにはあそこを使うしかない。椛は開いた道に身体を滑り込ませた。
迫り来る弾幕は自機狙いながらも精度が甘く設定されているようでかなり散っているが、誘導後の射線から外れてしまえば密度はかなり薄くなる。
「開宴よ!」
諏訪子の声が響く。
――汚い!
などと悪態をついている暇もない。左へ避けて第一波をやり過ごした椛が諏訪子を視認すると、彼女の横には一枚の符がくるくると回っていた。既にスペルカードは発動していたのだ。
そして彼女は再び両手を広げる。
――まさか……!
椛の予想通り、諏訪子が手を打ち合わせた。
ぱんっ、ぱんっ!
ぞ、ぞぞ!
手拍子に合わせて弾幕が噴き出す。同時に、やはり洩矢諏訪子の左右から赤青二色の錐弾。今度は先ほどと反対側が赤色で、やはり先に途切れた。
椛は自機狙いの弾幕を回避しつつ、錐弾から逃れるために右へ。
二拍、自機狙い、錐弾。二拍、自機狙い、錐弾。
二週、三週と弾幕をやり過ごし、観察を続けた椛は理解する。
――見えたぞ、法則と隙が。
自機狙いの弾の雨と、左右どちらかに退路を用意した錐弾の混成。隙間の大きいほうへ自機狙い弾を引きつけ、回り込んで諏訪子の正面に戻る。これの繰り返しだ。やはり弾幕ごっこ用のスペルカード。きちんと避けられるように作られている。
神社では、参道の中央は神の通り道として歩くことは不敬とされている。諏訪子の正面の位置取りを維持させずに左右へ避けさせるこの弾幕は、そんな作法から生まれたものなのだろうか。
ともあれ、弾幕の法則は理解した。となれば見えてくる、踏み込む隙は……
――手拍子の瞬間!
自機狙い弾は、出現と同時に諏訪子の頭上へ浮かび上がる。その瞬間だけ、諏訪子と椛の間を遮るものがなくなるのだ。それこそ、道。
二拍、自機狙い、錐弾。二拍、自機狙い、錐弾……
自機狙い弾幕の先、消え行く錐弾のさらに向こうに諏訪子の姿が見えた。
――ここだ!
椛は足元に妖力を集中させ簡易の足場とし、それを踏みしめ諏訪子に向かって一直線に跳躍した。手拍子で次の弾幕を生み出していた諏訪子が目を瞠る。スペルカードの維持に霊力を割いている今なら、まともな回避はできないはずだ。
自機狙い弾幕を紙一重でかわしながら、ぐんぐんと諏訪子との距離が縮まっていく。そして目前まで迫った諏訪子に向かって椛は手を伸ばし……
「あら、時間切れだわ」
諏訪子の傍らにあったスペルカードが散り消え、同時に弾幕も霧散した。そして諏訪子は身体を反らす。結果、椛の手は空を切り、諏訪子とすれ違うこととなった。
「くっ!?」
「狙いは良かったけれど、ちょっと時間をかけすぎたわね」
――仕損じた!
諏訪子と距離を取りつつ、椛は歯噛みした。あと数秒、数瞬あれば済んだというのに、弾幕の見極めから勝負に出るまでに時間をかけすぎた結果だ。少し慎重になりすぎたか。
だが幸いなことに被弾はしていない。まだ勝機はある。
「いいわよ。楽しい、楽しい」
諏訪子けろけろと笑う。
「楽しいから、面白いものを見せてあげる」
そしてこちらに手をかざし、
「ちょっと降りましょ」
「うお!?」
上から下に、軽く振った。その瞬間、椛の全身に尋常ならざる重みが襲い掛かる。まるで巨大な鬼の手に押さえつけられているかのような、そんな重圧。
――飛んでっ、いられない……ッ!
じわり、じわりと降下する椛と一緒に降りながら、諏訪子は早苗へと声を上げた。
「早苗! よく見てなさい!」
「えっ、私ですか!?」
諏訪子はそっと湖面に手を触れる。ちゃぷん、と、小さな波紋が広がってゆき。
「神様ならこれくらいはできるようにならないとね!」
瞬間、
ごぱんっ!!
「!?」
湖が“開けた”。
朝焼けを照り返して輝いていた湖の水が岸辺に追いやられ、中央の湖面が剥き出しになったのだ。その様、西洋の闘技場さながらか。
唖然としながら、早苗は顔の前で力なく手を振った。
「いやいやいや……モ、モーゼじゃ駄目ですか?」
「あんなんじゃ足りない足りない」
「諏訪子、貴様何をしているか! ちゃんとあとで元に戻しなさいよ!」
「分かってるって、五月蝿いなあ」
諏訪子は椛とともに湖の底へと降り立つ。同時に椛の身体を押さえつけていた重圧が消えた。
「今度は地上ステージとしゃれ込もうじゃない。貴方もこっちのほうがやりやすいでしょ?」
「……よろしいので?」
確かに。地に足がついている分、空よりもずっと動きやすい。
「構わないわ。地の利を得たのはこちらも同じ」
ぺろり、と、諏訪子は細長い舌で唇を舐めた。
「私は坤を創造する神様だもの」
そして諏訪子は帽子を手に取り前方に掲げる。その中から現れたるは、二枚目のスペルカード。
「『マグマの両生類』」
宣言とともに帽子をかぶり直して真上に跳躍。くるりと一回転すると、手から地面に落ちていく。
そして、
ざぷんっ!
諏訪子の身体は地面の中に沈んでしまった。同時に、真っ赤な弾幕が辺りに飛び散る。
「これは!?」
飛び散った弾幕は重力の影響を受ける類のものらしく、上に飛んでいたものはやがて上昇を止め、そして一斉に降り注いできた。
じゅ!
地に落ちた弾幕が地面を焼いた。見れば、そこには赤い液状のものが溜まっている。
――溶岩か!
ただの弾幕ではないらしい。地底深くの溶岩を霊力で包み込み、弾幕として打ち出しているのだろうか。触れば痛い熱いではすまないだろう。
降り注ぐ溶岩弾を避けつつ椛は諏訪子の姿を探した。地中に潜った彼女が次にどこから仕掛けてくるのか予測がつかない。
――……いや。
目玉のついた小麦色の帽子。
「……」
それが、地面に落ちていた。そして、ずる、ずる、と、動いている。
――……隠れきれていないが。
あれに触っても、勝ちになるのだろうか。
辺りに溜まってごぽんごぽんと泡を立てる溶岩に気をつけつつ、椛は帽子に近づいていく。上空からの弾幕はほとんど回避した。もう気にする必要は無いだろう。
と、
ぎょろり。
目玉が動いた。そして、こちらと目が合った。
『……』
「…………ッ!」
椛が帽子に飛び掛るのと、
ザパァ!
諏訪子が地面から飛び出したのは、ほぼ同時だった。
「残念でした!」
「ちィ!」
先ほどまで諏訪子が潜っていた地面に手をつき舌打ちする椛の前で、諏訪子は再び地面に潜る。飛び散り降り注ぐ溶岩弾。
固い地面。ただの地面だった。諏訪子が出入りした時は液状化しているように見えたが、神のなせる業か。
溶岩弾を避けながら、椛は考える。
ただ闇雲に追いかけているだけでは埒が明かない。隙を見つけて狙わねば。
諏訪子が跳ぶ。潜る。そして溶岩弾。
「おっと」
回避しようとした方向が溶岩で満たされていることに気が付いた椛は、慌てて軌道を変えた。辺りにかなりの溶岩が溜まってきている。これ以上長引かせると、足の踏み場がなくなってしまいそうだ。諏訪子の帽子も溶岩の中に隠れてしまって、本格的にどこから出てくるのか分からなくなってしまっているし、これ以上長引かせてはせっかくの足場がまったく使えなくなってしまう。
――ともあれ、試してみるしかないか。
うだうだと考えることに時間をかけていては、先ほどの二の舞だ。
諏訪子が飛んだ。椛はその着地点を予測。落下を始めた辺りでそこに向かって走った。隙ができるとしたら、地面に潜る瞬間か。
しかし、
「それも残念」
着地の直前に諏訪子は空を蹴って跳躍した。椛の手はまたも届かない。
――だが、まだ!
ぎッ! と、見上げて諏訪子を睨み据える。この距離ならば、まだ届く。
椛は両足に力を込めて、真上に跳躍。諏訪子に追いすがった。
「そのがむしゃらさ、いいわねぇ」
しかし諏訪子は焦ることもなく。
「嗚呼、貴方の心から滲み出る“負”は本当に美味しい」
「負だと!?」
恍惚の表情を浮かべながら身を捻る。その背後をすり抜けてこちらに向かってくるは、一発の溶岩弾。すぐ、目の前だった。
「しまっ……!」
「その不安、その後悔、もっと私に味わわせて頂戴!」
――避けられない!
椛は無理やり溶岩と身体の間に右手を割り込ませ、溶岩弾を殴り飛ばした。直撃よりはマシだ。
次の瞬間、弾幕は割れてただの溶岩へと戻って椛に降り注いだ。
「グ、ぉ!! う……ッ!」
熱さよりも、痛みよりも、最初に感じたものは痺れだった。右腕を中心に痺れが全身を駆け巡り、痛みはそれから。最後に熱が襲い掛かる。
溶岩に触れてしまった右の袖が発火している。紅葉の散りばめられた藍色のスカートもだ。
諏訪子は既に手の届かないところまで逃げてしまっているし、今はまず火を消さなくては。
椛は空を蹴り、場の壁を形成している水の中に飛び込んだ。秋も深まり、冬間近といった季節。水は身を切るような冷たさだった。灼熱から氷点へ。陶器なら割れてしまうところだ。
などと、そんなことを考えている場合ではない。椛はすぐさま水の中から飛び出すと、ごろんと地面に転がった。
「あらら、大丈夫?」
「っ……はい」
心配そうに声をかけてくる諏訪子に応じながら、椛は呼吸を整える。諏訪子がスペルカードを終了させたからだろうか、辺りに広がっていた溶岩は消えていた。
――まずい。
肉の焦げた臭いが鼻につく。右手の感覚がほとんど失われていた。炭とまではいかないが、溶岩をかぶってしまったせいで焼け爛れている。これではまともに動かすこともできないだろう。
「今度は焦りすぎたわね」
その通りだった。
諏訪子に触れることばかりに気が向きすぎて、周辺の警戒が疎かになっていた。初見の弾幕を前にして一番やってはいけないことだ。結果として虚を突かれ、被弾してしまった。
「リタイアもありよ?」
「ご、ご冗談を……」
ちゃんと笑えているだろうか。椛は不敵な笑みを浮かべてみせる。
「遊びはまだまだこれからでしょう?」
こんなところで折れている場合ではないのだ。何がなんでも花を手に入れなくてはならない。
「いいわねぇ、熱いわねぇ」
諏訪子が帽子を掲げる。
「それじゃ、遠慮しないわよ!」
中から飛び出したるは、三枚目。
「土着神『手長足長さま』!」
諏訪子が跳ぶ。そして本来の湖面より少し低いところで止まると、両手足をいっぱいに広げた。
次の瞬間、その手先、足先から、
ビッ!!
錐弾が発生した。
「まだまだ、動き足りないわね!」
諏訪子が左手を振り上げる。その動きに追従して錐弾も高々と天へと向かう。
「ちッ!」
舌打ちをしながら椛は横に跳んだ。刹那、諏訪子が腕を振り下ろすと同時に、椛がいたところを錐弾が走る。
「それ!」
次いで諏訪子は足を振るう。足先からの錐弾が薙ぎ払うように迫ってきた。椛はこれを跳躍で回避し……
「こっちばかり見ていると、足元をすくわれるわよ」
「!?」
「ほら」
諏訪子が椛の背後を指差した。その示す先――錐弾の道行きを辿っていくと……
「ちょっと待て!」
水の壁に反射した錐弾がすぐ目の前まで迫ってきていた。
椛は着地と同時に横っ飛び。紙一重で錐弾をかわした。
――厄介な!
跳弾性のある弾幕に、この地形。上下左右に加えて背後にまで気を配らなければならないとは。
諏訪子との距離は遠い。湖面近くの高さにいる彼女の懐へは、一足飛びで入り込むことはできないだろう。どうしても迎撃する隙を与えてしまう。
だが、よく見てみろ。あれほど長大な弾幕、距離を詰めてしまえば使い物にならないはずだ。えてして長射程の武器は懐が疎かになるもの。それにあれだけの質量の弾幕ならば、霊力の消費も大きいはず。諏訪子の肩が大きく上下しているように見えるのは、決して見間違いではないだろう。
――討てる!
両手の錐弾を使った挟撃をかわしながら、椛は覚悟を決めた。この弾幕で終わりにする。
諏訪子は空中でくるんと縦に回転。そして踵落としの要領で叩きつけられた錐弾を椛は紙一重で回避した。そして、
「いくぞ!」
吼えて椛は強く地を蹴る。白狼天狗の脚力で蹴り出された一歩は、圧倒的な速さで諏訪子のもとへとその身を運んでいく。
「来なさい!」
楽しげに応じて諏訪子は手足を振るう。こちらを薙ぎ払わんと襲い掛かる錐弾を最小限の動きで錐弾を避けながら、椛は諏訪子へと肉薄する。
「させないわよ!」
諏訪子が両手、両足を同時に振るった。四方から錐弾が迫ってくる。上下左右への回避は困難。後退しても当たるし、前に出ても諏訪子のもとに辿り着く前に追いつかれるだろう。
――距離は……?
もう、射程圏内だ。
椛は停止するとありったけの妖力を足元に集めた。そして集めた妖力を空間に固着させ、強固な足場とする。
――この技術は、妖夢に教わったものだったな。
思えば、妖力霊力の扱いは妖夢のほうが上手かった。大雑把な弾幕しか撃てない椛と違って、妖夢は多彩な弾幕を操り、また弾幕以外でも応用していた。そんな霊力の応用のひとつがこれだ。地上戦を得手とする椛にとって、空中で足場を作れるこの妖力の使い方は非常に重宝できるものだった。
足元を妖力でしっかり固め、椛は身構えた。錐弾はもう目の前だ。両腕で目元とを腹を庇い、迎え撃つ。
――腕、もげたりしないよな……?
恐ろしい想像が脳裏をよぎったが、もはや退路はない。
「これで二被弾目!」
諏訪子の声と同時に、錐弾が椛に突き刺さった。
「グっ、お、お……!」
それは腕を貫き腹にまで達してしまったのではないかと錯覚するほどの衝撃。やはり錐弾。受けた箇所が刺すような痛みに襲われた。出血はしていないようだが。
しかし、妖力の足場のおかげで踏みとどまることができた。焼けた右腕も、もげてはいない。睨み据えた先には隙だらけの土着神、洩矢諏訪子。
「やばっ……!」
この距離ならば、一足飛びだ。
まさか吹き飛ばないとは思っていなかったのだろう。驚愕の表情を見せる諏訪子に向かって、椛は跳躍した。
「これで終わりだ!!」
左手を伸ばす。
「でも、やっぱり残念」
「!?」
諏訪子の口が三日月を描く。弾幕が消える。そして伸ばした手が諏訪子に触れた。
「それは私の赤蛙」
瞬間、諏訪子の身体は赤く染まり、そして爆発した。
「まさか!?」
――偽者!?
爆発した諏訪子から無数の弾幕がばら撒かれる。避けようがない。
被弾し、爆風に煽られる中で見たものは、弾幕の向こう側にいる諏訪子の姿と、
「土着神『宝永四年の赤蛙』」
四枚目のスペルカードだった。
「やー、面白かったわー!」
「……」
全ての弾幕が消え、戻ってきた静寂を割って諏訪子の声が響いた。決戦の場と化していた湖は、ふたりが湖面よりも上に出たあとで再び水で満たされ、今は静かに揺らめくばかり。
椛と諏訪子は岸辺へと向かっていた。無傷の諏訪子に比べて、椛は酷い有様だ。
腋出しの白い装束、その両袖は跡形もなく、さらに右腕には重度の火傷。紅葉の散りばめられた藍色のスカートは裾の一部が焦げてしまっていた。それに加えて最後の被弾。無数の弾幕によって衣服、身体ともにどこもかしこもぼろぼろだった。
――負けた……
四枚目のスペルカード。よもやあの局面で切ってくるとは。完全に予想外だった。避けようもない。
いつの間に入れ替わっていた? なぜ気付けなかった? どこで誤った?
――……駄目だ、今は後悔している場合ではない。
次の手を考えなくては。妖夢の居場所も霊夢の動向も知れない。あと二日もすれば、八雲紫まで動き出してしまう。何とかそれまでに封印の手立てを揃えなくては。
「諏訪子様、椛さん、お疲れさまです」
湖のほとりに降り立った椛と諏訪子を、早苗と神奈子が迎えた。
「その、椛さん……大丈夫、ですか?」
「……ああ」
早苗の心配そうな呼びかけに応じつつ、椛は思考を巡らせる。
やはり神奈子に外の世界への移送を依頼するべきか。すぐに花を手に入れることはできないが、花童子に直接会うことができる。問題は花を手に入れるまでの間だ。博麗の巫女から妖夢を守り抜くことができるか。
あるいは、八雲紫に頼み込むか。しかし、だがそのためにはまず紫の住処を暴かなくてはならない。彼女の式である八雲藍に頼めれば早いのだが、あいにく藍には既に断られている。紫に会う方法があるとしたら……
――八雲藍の式。
話に聞いたことがある。マヨイガという地に、藍の式がいると。彼女を取り込むことができれば、八雲への道が開けるのではないか。
「それじゃあ、はいこれ」
だが、
――時間がなさすぎる。
マヨイガを探して、藍の式を探して、八雲の地へと案内させて紫との謁見を求む。そして紫と交渉をして外の世界に行って花を手に入れ帰還する。とても間に合うものではない。
――どうすればいい? どうすればいい?
駄目だ。やはり神奈子に依頼するほうが現実的か。
次手を決めて拳を握り締めようとした椛は、手の中にあるものに気が付いた。
「え?」
無事な左手、その手のひらの上に小さな木箱があった。
花童子の花だ。
「え? なんっ、これは……?」
「やだなあ、言ったでしょ?」
突然のことに目を白黒させていると、諏訪子はぱたぱたと手を振りながら言う。
「『私を楽しませることができたら、花をあげる』って。貴方との神遊び、とっても楽しかったわよ」
「あ……」
そういえば、そんなことを言っていた気がする。だが、だがしかし、
「ですが、私は負けました」
「勝負の結果なんて関係ないのよ。要は私が楽しめたかどうかなんだから」
「……」
「だいたい、神様に勝とうなんておこがましいにもほどがあるわね」
金の瞳に見つめられ、椛は返す言葉が浮かばなかった。
良いのだろうか、貰ってしまっても。
だが、これで妖夢を救うための手立てが揃うのだ。この機を逃す手はない。目的を思い出せ。何よりも優先すべきものを。
――妖夢……!
木箱をそっと握り締め、椛は深く、深く頭を下げた。
「ありがたく、頂戴いたします」
「うむ、よろしい」
これで、これで……
「やりましたね、椛さん! おめでとうございます!」
「いだだ! 早苗! ありがとう! ありがとう! だから抱きつくのはやめてくれ!」
花を見つめているところで早苗に抱きつかれ、椛は悲鳴を上げた。
体中が痛んだ。特に右腕は火傷がひどい。今から治癒に専念すれば、明日には動かせるようになるだろうか。とは言え、動かせるようになったとて、これでは剣を握ることさえできるかどうか……
「早苗、離れなさい。天狗殿が痛がっている」
「え? ああっ、ごめんなさい! 大丈夫ですか!?」
「あ、ああ……」
右腕をさすっていると、神奈子が椛のほうへ手をかざす。
「諏訪子。遊ぶのは構わないが、アフターケアがなっていないな」
――暖かい。
神奈子の力だろう。心地よいぬくもりとともに、身体の傷が癒えていく。
「少し辛抱してね」
「おお……ありがとうございます」
「なに、身内のフォローをしているだけよ」
「ちょ、私だって今やろうと思ってたのよ!」
慌てた様子で諏訪子が手を一振りすると、破損していた服が元通りになった。丸ごとなくなっていた袖までもだ。
「おお!?」
「怪我の治療は神奈子に任せてあげる」
「減らず口ね」
「うるさい! あんたもぶちのめしてやろうか!」
「ほぉう? 威勢は良いが、随分とお疲れのご様子じゃあないか。そんな状態で私に勝てるとでも?」
「じょーだん、あんたなんて指先ひとつでダウンよ!」
「ネタが古い……」
「あああ、神奈子様も諏訪子様もケンカしないでください」
触らぬ神に祟りなし、だ。椛は口喧嘩を続ける二柱と、それをなだめる現人神のことはさておくこととした。
抗狂剤、妖力封じの札、そして花童子の花。鍵は全て揃った。あとは博麗霊夢よりも先に妖夢を見つけ、これらを以って彼女を捕縛、狂気を祓い楼観剣の妖気を抑え、花童子の花とともに再封印の時を待つする。あと少し、あと少しで……
――しかし、妖夢は今どこにいる?
永遠亭で相対した時に感じた、あの妖気は今は感じない。どこかで水浴びでもしてしまったのか、においもしない。手がかりが、何もなかった。
だが、幻想郷は箱庭。有限の世界だ。必ず見つけられる。
――そう、この空の下に、必ず。
「……ん?」
見上げた空、まばらに散った白い雲と、まだ高い位置にいる太陽。それと、黒点がひとつ。
「なんだ?」
黒点は徐々に大きくなり、やがて形もはっきり見えてきて……
「カァァァ!!」
「おお!?」
それは椛の額を目掛けて矢のように飛んできた。
「ななっ、なんですか今の!?」
「鳥だったわね」
「でっかい鴉だったわ」
そう、飛んできたのは鴉だった。その事実に、尻餅をついた椛はそのままがっくりとうな垂れ、力なく呟いた。
「驚かせて申し訳ない。あれは、おそらく身内だ……」
まさか迷わず射抜きにかかってくるとは、椛も予想していなかったが。
椛を仕留め損ねた鴉はそのまま上昇し、しばしして転身。再び椛を射抜きにかかる。
「また来ますよ!」
「問題ない」
早苗が警告の声を上げる。しかし、今度は避けるつもりはなかった。傷はすっかり癒えている。丸焦げに近かった右腕もだ。これならば、と椛は立ち上がり、真正面から鴉を見据える。
「カァァァ!!」
「――ッ!」
がっし、と。
椛は飛んできた鴉の嘴を掴んで、その動きを止めた。
「カッ……!?」
「これは“白羽取り”という技だ」
「ちょっと違います」
鴉はしばし羽ばたき椛の腕を蹴って逃れようとするが、やがてそれが無駄だと分かると大人しくなった。
椛が空いている腕を差し出し下ろしてやると、鴉は羽繕いをしてから、
『久しぶりだナ、犬走椛』
そう言った。
「……」
「……」
『なんダ、その沈黙ハ?』
ぽかんとする椛と早苗、そして特に驚いた様子もなく鴉を眺めている二柱を見て、鴉は小首をかしげた。
「天狗ちゃんの知り合い?」
「いえ、その……。すまない。知り合いに喋る鴉はいなかったと記憶しているのだが……」
鴉は、ヒトの言葉を操れない。できるとしたら、それは妖怪化したものくらいだろう。少なくとも、椛はこれまで喋る鴉に会ったことが……
「あ」
『思い出したカ』
記憶を辿り、ひとつだけ思い当たる節があったことに気が付く。
妖夢と出会って間もないころのことである。人間の里で物見遊山をしていた椛と妖夢のふたりを監視していて、後にあっさり椛に捕まった鴉がいたが……
「あの時の出刃亀鴉か」
「出刃亀とは失礼ナ。鴉に向かって亀とは失礼ナ」
怒るところは、そこだろうか。
あの時、この鴉は射命丸文と関わりがあるようだった。つまり、この鴉は文の遣いということになる。
「そうか、ヒトの言葉を操れるまで成り上がったのだな」
『ふふン。ただのカラスとは違うのだヨ、ただのカラスとハッ!』
鴉はばさり、ばさりと翼で空を打つ。
『と、それどころではなイ。犬走椛。文様からの伝言ダ。「至急、人間の里まで来ること。カフェーにて待つ」』
「射命丸さんが?」
妖夢の居所を掴んだのだろうか。しかしそれならば、わざわざ人里で話す必要はないと思うが。
「分かった。すぐに向かおう」
何か事情があるのかもしれない。
傷は完全に癒えているようだった。焼け焦げていた右手を握って開いて具合を確かめる。こちらも問題はなさそうだ。
と、その右手を早苗が掴む。
「椛さん、行くんですね」
「ああ」
心配そうな面持ち。早苗にとっても妖夢は友人と言える間柄なのだから、当然のことだった。だが、
「絶対……絶対に、」
「早苗」
これ以上は、言わせてはいけない。
「お前の気持ちは確かに受け取った。ありがとう」
「椛さん……」
早苗とて山に属する身である。誰が聞いているかも分からないのだ。山の意向が分からない以上、迂闊な発言はさせられない。
椛は改めて三柱に向き直ると、深く礼をした。
「では、私はこれで」
「椛ちゃん、また遊びましょうね」
「いや、それは……」
溶岩はこりごりだった。
「いいや、次は私と遊んでもらうわよ?」
「いや、それも……」
御柱に叩き潰されるのもご遠慮願いたい。
『早くしロ』
「分かった分かった。では、失礼します」
執拗に狼の耳を嘴で引っ張る鴉を振り払いながら、椛は守矢神社を辞した。文からの呼び出しに、言い知れない不安を胸に抱えながら。
…………
人里についたころには、空模様は茜に染まり始めていた。時間帯ゆえ、家路に着くものたちで大通りを歩く人妖の数はまだ多い。
幸いなことに、椛の姿を見咎めるものはいなかった。花果子念報には椛のことまで書かれていなかったので、当然と言えば当然なのだが。
大通りから外れてしばし、閑散とした通りに件のカフェーはあった。夕餉の近い時分であるためか、客の入りは少ない。
オープンテラスの席のどこにも文の姿はなく、椛は店内に入った。バニラ、シナモン、果物各種等、様々な香りが鼻孔を満たしていく。少々甘ったるすぎる気もするが、悪くない。やはり店内も人の姿はまばらだった。
「いらっしゃいませ。お一人様ですか?」
「いや、人と待ち合わせをしている……」
フリフリの衣装に身を包んだ女性店員を適当にあしらいながら椛は店内を見回し、やがてひとりの人物に目をつけた。
「……」
その人物は、襟を立てた外套に身を包み、目深に被ったつばの広い帽子と広げた新聞で顔を隠していた。近づいてみると、黒曜石を薄く削って作られた眼鏡で目元も隠している。
見るからに怪しい。
「なんて格好をしているんですか」
「あやや、バレてしまいましたか」
椛が近づいて話しかけると、謎の人物――文は帽子とマスクを外しながら苦笑した。
「外の世界で伝統的な変装スタイルです。密会をする時はこの格好が一番だと」
「……」
どうにも、この人が取り入れる外の世界の文化はどこかずれているような気がする。
「以前も言いましたよね。どれだけ姿形を変えようとも、私には“これ”があります」
文の対面に座った椛は、自分の鼻をちょんと触る。
「ここは甘いにおいが充満しているから、ご自慢の鼻も利かないと思ったのですが」
「ええ、かぎ分けるのに骨が折れましたよ。……いやまあ鼻に頼らずとも、見た目の怪しさで一目でしたが」
ウエイトレスにコーヒーを注文した椛は、しばし適当な雑談に興じる。
やがてコーヒーが運ばれてきて、ウエイトレスが十分に離れたことを確認してから、椛は改めて用件を切り出した。
「それで、はなし」
「チョコレートパフェでございます」
「あ、はーい、それ私」
「……それで、話とは?」
――本当に緊急なんだろうな!?
思わず暴れだしたくなったが、ぐっと堪える。
しかし、椛の憤りなどどこ吹く風と、文はスプーンで生クリームをすくいあげると口へ運んだ。
「んー、おいし」
「……あの」
「あっ」
椛が唸るように声をかけると、文はこちらを見て『はっ!』、と何かに気がついた様子を見せた。そして今度はアイスクリームの部分をすくうと、椛のほうへと突き出す。
「はい、あーん」
「やりませんからね」
「……焦る気持ちは分かるけどね」
「……」
そうは言うが、仕方がないだろう。妖夢の行方は分からない。霊夢が退治に動き出してからもうすぐ丸一日が経とうとしている。
霊夢は妖夢を退治――最悪の場合は殺す気でいる。妖夢を殺させないためにはどうすれば良いか。
妖夢の主人である西行寺幽々子と、幻想郷の管理者である八雲紫は自由に動くことができない。どちらも立場上の問題で、だ。
友が、殺されようとしている。救えるのは、おそらく自分だけ。冷静でなければならないと頭では理解しているが、さりとて冷静でいられるものか。
「とにかく今は甘いものでも食べて落ち着きな、さい!」
「んグっ!?」
思考の海に沈み込もうとしていた椛の口の中に、テーブルから身を乗り出した文はアイスクリームを押し込んだ。
ひんやりとしたバニラアイスと、その上に乗った生クリーム、チョコレートソースの甘味が絶妙にマッチしていて、
「……美味い」
思わずそう呟くと、文は笑みを浮かべた。
「少しは落ち着けたかしら?」
「……ええ。ありがとうございます」
やり方は強引であったが、おかげで頭がすっきりした気がする。あまり意識はしていなかったが、やはり疲れが溜まっていたのだろう。
「よし。それじゃ、本題に移るわよ」
――ようやくか。
山ではなく、人里での密会。緊急の知らせ。あまり良い話ではないことは想像に難くない。
しかし、身を固くした椛とは正反対に、文はパフェを食べながら言う。まるで世間話でもするかのように。
「山から呼び出しがかかったわ。至急、直属の大天狗のもとへ馳せ参じること」
「呼び出し、ですか」
なんだろうか。
この件から手を引けと、命令が下されるのだろうか。
椛が妖夢と交流を持っていること。そして今、妖夢を探していることは山の天狗たちも知っているはずだ。山としては不干渉か、他の勢力と同じ方向を向いていたいに違いない。すなわち、“魂魄妖夢は敵である”という認識。
そう、例外は椛なのだ。人間と妖怪の双方に刃を向けてしまった妖夢の味方は、一握りしかいないだろう。
「そう。私は、貴方を大天狗様のもとへ連れて来るように仰せつかったのよ。力尽くでもね」
「それは穏やかではないですね」
「ええ。何しろ貴方は重要参考人なんだもの」
「重要参考人?」
と、文はパフェを食べる手を止めた。そして僅かに目を伏せ、声のトーンを落として。
「魂魄さんが天狗を斬ったわ」
「!!」
紡がれた言葉に、椛は目を瞠った。
――やってしまった……とうとうやってしまった!
これで山は、不干渉ではいられなくなる。妖夢に対して報復を与える方針に移行するだろう。
「被害に遭ったのは、若い白狼天狗。哨戒中に侵入者――魂魄さんね――を発見して、追い返しに出向いたところ返り討ちにされてしまったらしいわ。
命に別状はなし。今は意識も回復して休んでいるはずよ」
ぴっ、とスプーンをこちらに突きつけ、文は続ける。
「で、ここからが問題よ。
魂魄さんは哨戒の天狗に伝言を残して去っていったらしいわ」
「……伝言、とは?」
『犬走椛へ。明日の早朝、始まりの地にて待つ。あの秋の日の決着を』
「……」
――始まりの地……そして決着……
「これ、デートのお誘いだと思う?」
「だとしたら、血なまぐさいデートになりそうですね」
軽口に軽口を返しつつ、しかし椛の心中は穏やかではなかった。
椛は妖夢と交流がある。それだけでも聴取の対象足り得るだろう。そのうえ妖夢本人からご指名があれば、なるほど“重要参考人”だった。
上層部は、もしかしたら椛のことを疑っているのかもしれない。椛が妖夢を利用して山に歯向かおうとしているのではないか。そう思っているのではないか。
ありえない話だ。だが、
――妖夢を山に連れ込んだ前科があるだけに、否定は通らないかもしれないな。
だとしたら、のこのこと山に出向けば拘束は免れないだろう。それは好ましくない。
しかし、
――行かないわけには……
大天狗からの、妖怪の山からの命令である。椛には逆らうことができなかった。それは生来の生真面目さもあるだろうが、“白狼天狗”という種族そのものに刻まれた性なのかもしれない。
どうする?
自問に答えられるのは、自分だけだ。
「たぶん、貴方が思っているよりも山は残酷な言葉を寄越してくるわ」
否。答えは、正面から来た。
いつの間にかカップの中で揺らめくコーヒーをじっと見つめていた椛は顔を上げた。
「行くわよ。私もできるだけ取り計らいはしてみるから」
ただ、その言葉が何なのかを教える気はないらしい。拘束以上の措置となると、ありもしない反乱計画に関して拷問されるかもしれないということだろうか。
空になったパフェグラスの向こうで席を立つ文の表情は、いつになく暗い。
「……はい」
手付かずのコーヒー。流石にもったいないと思い、椛はカップを取ってひとくちだけ飲んでから立ち上がった。砂糖もミルクも入れていないコーヒーは、いつもよりずっと苦く感じた。
…………
「殺せ」
「は……、あの、それは、どういう……?」
妖怪の山の奥まったところに天狗の集落はある。人間の里ほどではないが、規模は決して小さくなく、妖怪という単一性の高い存在が作る集落として考えれば異例と言ってもいいはずだ。
そんな天狗の里の一角、天魔をはじめとする重役や鼻高天狗たちが働く役所の一室で、椛はその命を受けた。
「どうもこうもなかろう。魂魄妖夢は我らが同胞を刃にかけた。報いは受けてもらわねばならん」
聞き間違いではないかと、そう願いながら聞き返した椛に帰ってきたのは、やはり同じ言葉だった。
「魂魄妖夢を、殺せ」
「……ッ!」
――待て。待て、待て、まて、まてまてまてまてまてまてまてまてまてまて……!!
誰が、誰を殺すと?
――私が? 妖夢を?
冗談ではない。そんなこと、できるわけがない。友を殺す天狗など、在ってなるものか!
まだだ。まだ何か方法があるはずだ。妖夢を殺さず、他の天狗たちの溜飲を下げる方法が。
「……恐い顔をしているな」
「えっ、あ」
言葉に、椛は弾かれたように顔を上げた。その視線の先に立っているのは、大層な大男だった。
身長は、高下駄を履いた椛よりも頭ふたつ以上は高いだろうか。数百年――あるいは数千年かもしれない――かけて鍛え上げられてきた筋骨隆々とした体つきは、どんな大岩だろうと粉々に砕くことが可能だろう。真っ白な髪の毛と、白狼天狗からの成り上がりの証である狼の耳と尻尾もまた白く、雄雄しい。
服は、他の上役が着ているようなお飾りが多いものではなく、下っ端が着ている装束と大差がなかった。哨戒天狗を束ねる身として、外見よりも機能性を優先してのことだろう。
その男は、白狼、鴉、鼻高、山伏、それぞれの天狗が修練を重ねることによって辿り着ける高み、“大天狗”と呼ばれる種だった。
大天狗は嘆息すると、少し身を屈めて椛の瞳を覗き込む。
「お前が魂魄妖夢と友人関係であるということは知っている。だからこそ、この仕事はお前に任せるのだ」
「……と、言いますと?」
「友の不始末、己で払拭したいだろう? そして今一度、証明して見せろ。お前が“妖怪の山の白狼天狗”であると。お前には山のために生き、山のために死ぬ覚悟があると」
「……」
「己を殺して、山への忠誠を示せ」
――やはり。
この男は……いや、山は、椛と妖夢が共謀しているのではないかと、疑っているのだ。
馬鹿馬鹿しい、とは言えなかった。そうだ、これが“妖怪の山”なのだ。
閉じられた社会。外部からの干渉は受け付けず、だが己が力は誇示したがる。
身内を傷つけられた意趣返しの意味も、もちろんあるだろう。だが今回の任には、おそらくもうひとつの意味がある。
それは、“異変の解決”。
妖夢は既に霧雨魔理沙を――“人間”を斬り、さらに天狗までもを斬っている。そして博麗の巫女も動き出している。事態はもはや“異変”と呼んでも差し支えのないところにまできていた。
その異変を、妖怪の山の天狗が解決する。いつもならば霊夢や魔理沙に先を越されてしまうところだが、今回は異変の元凶がこちらを指名しているのだ。これほどの好機があろうものか。
これ以上の被害拡大を防いで山が異変を解決したとなれば、その実績は幻想郷での発言力を強くすることだろう。何しろ相手は人妖の双方に被害者を出している“辻斬り”なのだから。
妖怪の山は、魂魄妖夢を己が出世の食い物にしようとしている。
「……――わ」
「大天狗様」
……今、自分は何を言おうとしたのだろう。
喉元まで出かかった椛の言葉を遮ったのは、文だった。
「射命丸か。お前の仕事は終わりだ。ご苦労、下がっていいぞ」
露骨に渋い表情を見せる大天狗に、しかし文はへらへらと笑う。
「いやですねえ大天狗様。そんな邪険に扱わなくたっていいじゃないですか」
――うざったい……
一応は椛の援護をしてくれるのだろうが、そう思わざるを得なかった。
「さてさて。我々天狗は仲間との絆を何よりも大切にします。そのことは大天狗様ももちろんご存知のはず。でしたらお分かりでしょう。犬走にしてみれば、今や魂魄妖夢も立派な“仲間”なのです。その仲間を殺せとの命、この場で承諾しろと言うのも酷な話。
大天狗様が――あるいはもっと上の方かは存じませんが、犬走が今回の異変の片棒を担いでいると見て、同士討ちを狙っているという考えは理解しているつもりです」
「射命丸、貴様!」
言いすぎだ。
だが、文は閉口せず続ける。
「しかしです。今回の任、果たして今の犬走に達成できるでしょうか?
相手は白狼天狗ひとりを倒すほどの手練れ。精神的に不安定な状態にある犬走に倒せるかは甚だ疑問です」
妖怪とは、その存在を精神に強く依存するものである。どれほど強い力を持つ妖怪でも、精神的な揺さぶりひとつで本来の力を発揮できなくなることもあるのだ。
「博麗の巫女よりも早く異変を解決させられるチャンスは今しかありません。この機を逃せば異変の解決に失敗するだけでなく、魂魄妖夢を刺激してさらなる被害拡大を招いてしまう可能性さえあります。そうなってしまっては、山の立場は悪化の一途。それは山の望むところではないでしょう?」
「う、む……」
まくし立てる文に気圧されながら大天狗は頷きかけ、
「ああいや」
慌てて首を横に振った。
「決して犬走のことを疑っているわけではない。あくまで向こうが犬走を指名してきているだけで、」
「そんなもの、わざわざ守ってやる必要もないですよね?」
「射命丸!! 黙っていろ!」
「おお、こわいこわい。では、私は退散いたしましょうか」
堪忍袋の緒が切れた大天狗が声を荒らげると、文は肩をすくめてそそくさと部屋を出て行ってしまった。
「鴉天狗め……」
「その……大天狗様……?」
「ああ、すまない。少し興奮してしまったな」
咳払いをして腕を組み、しばし思案したのち大天狗は椛に向き直る。
「……そうだな。犬走、どうする? 今ならまだ他の連中に任せることができるが」
「い、いえっ! やらせてください!」
反射的に椛はそう答えていた。しかし、当然ながら大天狗の顔には疑いの色が濃い。
「できるのか?」
「……」
――できるのか……?
大天狗の問いを胸中で繰り返す。
山の敵対者は倒すべし。それは白狼のみならず、全ての天狗の使命である。分かっている。分かってはいるが、相手は……
――相手は妖夢だぞ。
彼女に巣食う狂気を祓う手立ては揃っている。殺さずとも事態を収拾できるところまで来ているのだ。今さらそんな殺害命令など、受けられるものか。
だが、今ここで断れば、妖夢と相対する機会がなくなってしまう。
「できます」
今は、形だけでも意思を示さなくては。
「私が……私が、魂魄妖夢を、殺します」
「……うむ。では頼んだぞ」
ひとつ頷き、大天狗は部屋の扉のほうへと歩き出した。そしてすれ違いざまに、椛の肩に手を乗せ、
「期待している」
耳元でそう囁いた。
「……はい」
――私は……
…………
「犬走」
山の木々のうち、特に太く背の高い杉の枝の上にうずくまる椛の背に声がかかった。緩慢な動きで頭を上げて声のほうへと顔を向けると、そこにいたのは普段と変わらぬ様子の文だった。
「生きてる?」
「かろうじて、といったところでしょうか」
問いに力なく答え、椛はため息をついた。
椛は悩んでいた。椛は妖夢を救いたいと思っている。楼観剣の呪縛から解き放ってやりたいと。
だが山は、妖夢を殺せと言う。天狗を斬った妖夢を山は許さないだろう。
――どうすればいい?
山の意思に逆らうことはできない。しかしそれでは、妖夢を救えない。
今の椛からは確固たる意思が失われつつあった。拠り所もなく、ただ状況に流されているだけ。どうするべきか、何が最善なのか。
――そうか。これが……
レミリア・スカーレットが言っていた“選択”なのだろう。
友をとるべきか、山をとるべきか。選べる道はひとつだけ。誤れば……
「“最悪”、か」
「なに?」
「レミリア殿に言われました。『お前は“選択”を迫られる。誤れば、お前の想定する“最悪”が訪れるだろう』と」
「ふーん。貴方の考えてる“最悪”って?」
「……」
それはきっと、あの日見た映像。椛の手によって下される、妖夢の死。山の命に従うことは、それはすなわち椛にとっての“最悪”に他ならない。これを回避するには、いったいどうすればいい?
そも、今の椛に妖夢を殺すことができるのだろうか。精神の弱り果てた――力の弱った椛に、楼観剣の妖気を得た妖夢を。
――……ああ、そういう選択肢もあるのか。
返り討ち。妖夢に殺されるのならば、本望だった。
だが、
――違う。これは正解ではない。
根本的な解決になっていない。これでは妖夢が退治される未来は変わらない。ただ、逃げているだけだ。
考えなくてはならない。妖夢を殺さず、楼観剣を封印し、山と博麗の巫女が納得する結末を。その選択肢を。
「とうっ」
「い!?」
思考の海に沈んでいた椛の脳天に、文の手刀が炸裂した。
「いきなり何を!」
椛は声を荒らげたが、しかし文は引くことなく顔を近づけてくる。そして声色を下げ、椛を睨み付けながら言う。
「質問に答えなさいよ。貴方の想定している“最悪”って何?」
「……それは、」
と、今度はぱっと椛から距離をとると、大げさに肩をすくめて見せた。
「ああ、もういいわ。あんたが考えている程度の状況なんて、私でも簡単に想像がつく」
「なっ……!」
「まったく、いつまでもいつまでもうじうじと。誇り高き白狼天狗サマの名が泣くわね」
これは明らかな挑発だ。わざわざ乗ってやる必要はない。どうせ口論になったところで、この口の達者な鴉天狗には勝てないのだから。
椛は内心の憤りを抑えつつ、唸るように返す。
「だから……だから、必死に考えているんじゃないですか。全員が納得する方法を」
「無駄よ、無駄。あんたがいくら考えたところで、この事態を解決させる手段は出てこない」
「だったら! 私はどうすればいいんですか!?」
「それよ」
「!?」
文はヤツデの団扇をぴっと椛に突きつける。
「あんたって本当にむっつりよね」
「む、むっ……?」
「言いたいこと何も言わないで、ひとりで悩んで。見てらんないわよ」
「……だが、何でも騒げば解決するわけではない」
「そんなもん当たり前じゃない。でも試しもしないでじっとしていることがいいとも思えないわ」
「何事にも失敗の危険性がある。それを考慮しないで行動することは愚かだ」
「だったら、動かないこともまたリスクのある行動だわ。今回はまさしくそれね。あんたが何も言わないから、山は魂魄さんを殺す方向で動き続けている。あんたが何か言えば……魂魄さんを殺さずに済む解決策を提示すれば何かが変わったはずよ」
「だが私には、その方法が思いつかない」
「それでも話しなさいよ!!」
ごうっ!
文の怒号に呼応して、風が荒ぶった。
呆然とする椛の胸倉を掴み上げ、文はさらに言い募る。
「不完全でも、考えがまとまっていなくても! 何かを言えば、選択肢ができれば、考えてもらえるかもしれなかったでしょ! 僅かでも助かる可能性が出てたかもしれないでしょ!」
「……」
「でもあんたはそれをやらなかった。『もう駄目だ』と諦めてしまっているから。魂魄さんは助からないと思っているから」
「ちっ、違う!」
「違わないわね。本当に彼女を助けたいと思っていたなら、あの場で言うべきことはいくらでもあったはずよ。ねえ、どうして何も言わなかったの?」
「それは……」
「教えてあげましょうか?」
「あんたは山に逆らえない」
「あんたはこれまで、ずっと、ずっと、山の言いなりになって生きてきた。『山のため』なんて大義名分を振りかざして、自分では何も考えないで行動してきたのよ。
その、これまでの生き方が、今のあんたを作り出してる」
「……」
「でも、これは別にあんたが悪いわけじゃない。そういう環境で育ってしまったから、仕方のないことよ。でもね、」
文は椛を突き飛ばすと団扇を大きく振りかぶり、
「あんたは今こそ、そのくだらないしがらみを断ち切らなくてはならない!」
樹上で尻餅をついた椛に向かって思い切り振り下ろした。
次の瞬間、
ごぉう!
「!?」
椛の周りで風が渦巻く。
「こ、これは……?」
『さあ、犬走、叫びなさい』
正面で喋っている文の声はあらゆる方向から響いてきた。
『貴方の周りを風で覆ったわ。そこなら、何をどれだけ叫ぼうとも外には聞こえない。もちろん、私にもね』
「射命丸さん……」
『貴方は十分頑張ってる。たまに不平不満を吐いたところで、誰も文句は言わないわ』
「……」
良いのだろうか。
山に仕える身として、その様なことが、本当に許されるのだろうか。
だが、だがしかし、
「…………あ、」
今、この空間にいるのは椛だけ。他の誰も聞いていない。誰に知られることもない。
ずっと押さえ込んできた感情が、脈動した。
「あ、あ、あ、」
熱い、熱い。
胸の奥から焼け付くような思いが溢れてくる。喉の奥から飛び出そうとしている。
「ああああああああああああああああああああ!!」
抑えられない。
「ふざけるな! ふざけるなよ!!
なぜ私が妖夢を殺さねばならない! あいつは私の友達だ! 大切な友達だ!
だというのに! 妖怪の山は! 幻想郷は! どうしてこうも残酷なのだ!?
山なんてどうでもいい! 幻想郷なんてどうでもいい! 種族がなんだ! 体裁がなんだ! そんなもの知ったことか!
私は! ただ! ひとえに!」
「妖夢と一緒にいたいだけだ!!」
ただそれだけの願いなのに、なぜ叶わない?
仰いだ空は、霞んでいた。少しだけ息を切らせてうな垂れた椛の目に映ったのは、枝の上に落ちていく涙の粒。
やがて風は解かれ、文が近づいてきた。
「ちゃんと言えた?」
「……ええ」
「気分は?」
「あまり良くないですね」
「……そう」
いくら叫んだところで状況は変わらない。山も霊夢も妖夢を退治したがっているし、山は椛にそれをやらせたがっている。冥界からの助け舟もない。八雲紫は、嘘を言っていなければあと二日間は動かないだろう。
「ただ……」
「ただ?」
状況は変わっていない。だが、ひとつだけはっきり分かったことがあった。
それは、
「ただ、自分のやるべきことが、分かった気がします」
それと、自分の気持ち。
「色々なことがありすぎて頭の中がぐちゃぐちゃに混乱していましたけど、今ので改めて分かりました」
「私は、妖夢のことが好きなんだと」
ただそれだけの、シンプルな想い。
「だから私は、妖夢を助けたい。絶対に殺させない」
いつか、誰かに言われたことがあった。『あなたは妖夢に恋をしている』と。今の、この気持ちが恋なのかどうか、椛には分からなかった。だが、そんなことは些細な問題なのだ。あるのはただ“好き”という気持ち。それ以上、余計なことを考えるのは後回しだ。
涙を拭い、仰いだ天には数多の星と、狂気の力を振りまく満月が輝いていた。
「……いい顔ね」
あまり長いこと見ていては、気が触れてしまう。下ろした視線の先、こちらを見る文の表情は、とても柔和だった。
「いいわ。貴方の願い、私が叶えてあげる。上の連中は私に任せて、貴方は……“椛”は」
「……!」
「思いっきり戦って、魂魄さんを殺さず、彼女の狂気を祓いなさい」
「……はい」
突然のことで思わず目を瞠ってしまった。まったく、鴉天狗ごときが白狼天狗の名を呼び捨てにするなど。
だが……悪くない。
椛は深く、深く息を吐いた。意外と、気分は晴れたのかもしれない。なんとなく、身体が軽くなった気がする。今まで見えていなかった、進むべき道が見えるようになったからだろうか。
そして、椛は微笑んだ。
「頼みます、“文さん”」
「あ……」
次の瞬間、今度は文のほうが目を瞠り、頬を紅潮させた。そして団扇で顔の下半分を隠して椛をじとりと睨み付ける。
「い、いきなりは反則……」
「貴方が言いますか」
先に言ってきたのはそちらだろうに。
照れる文はおいておくとして、さて、と椛は立ち上がった。
「では、休みます」
「……そう。がんばってね」
「はい」
自分にできることは剣を振ることだけだ。上層部の説得を請け負うと言っているのだ。面倒ごとは文に任せて、自分のやるべきことを……自分のやりたいことをやろう。
――あの月のように。狂ったように。
やはり自分は、既に狂っているのかもしれない。空に浮かぶ月を見上げて、椛は笑みを浮かべた。
…………
吐く息は、かすかに白く。
雲のない、ほの暗い青空。月はまだ高く、太陽は山の向こう側から僅かに頭を覗かせているくらいで。
そんな早朝。
中秋の幻想郷、妖怪の山。その彩りは、ただただ紅く。冬が訪れ、木々がその色を失うまでは、もう少し時間がかかりそうだった。
そこに落とされた白がひとつ。
「始まりの場所……」
白は――椛はひとりごちる。
山の一角に、平地のようになだらかで木の少ない場所があった。その場所……妖夢と初めて対峙した場所こそが、彼女の言う“始まりの場所”なのだろう。
始まりは敵同士。妖夢は山への侵入者で、椛は守護者だった。
がさり。
踏みつけた落ち葉が悲鳴を上げる。
久しく相対していなかった“剣士”の敵。故に、椛は妖夢に興味を抱いた。この、身の丈に合わぬ長刀を担いだ少女は、どのような剣を見せてくれるのか、と。
一合目で分かったことは、彼女がまだ未熟だということ。このまま戦ったところで、椛の勝利は明白だということ。だから、椛はその戦いに条件をつけた。『自分に一撃でも与えることができたら、お前の勝ちだ』と。
結果として、妖夢は椛に一太刀浴びせることに成功し、勝利を手にした。
――だがそれは、ただ勝利条件を満たしただけのこと。
その一撃は決して致命打ではなったし、その直後に妖夢は気を失っている。ただの殺し合いだったなら、妖夢は死んでいただろう。
その顛末が、彼女の中で“しこり”として残っているのだろう。だからこその、この場所。だからこその『あの秋の日の決着を』という言葉。
「それほど、私に勝ちたいのか。妖夢」
「はい」
投げかけた問いに答えるは、少女がひとり。
「だって、椛は私の目標なんですから」
黒いリボンに、肩でざんばらに切り揃えられた銀の髪。白いシャツの上には、緑を基調とした人魂模様のついたベスト。スカートも同様の意匠だ。
そして背には、腰の位置で地面と平行になるように携えられた短刀と、斜めに負われた札も花も付いていない長刀の黒い鞘。抜き身の刃は右の手にあった。付き従うように彼女の周りを漂うは、大きな霊魂がひとつ。
「……“視えて”いるのか?」
こちらを見つめる紅い瞳。それはかつて、世界が紅く染まって見えると言っていた瞳だ。
「ええ。よく、視えます」
頷き、少女は――“半人半霊の半人前”魂魄妖夢は微笑んだ。
「よかった。伝言はちゃんと届いたんですね」
「妖夢、なぜ天狗を斬った?」
「正当防衛ですよ。私はただ伝言をお願いしようとしただけなのに、向こうがいきなり襲い掛かってきたんです」
「……そうか」
その、迂闊な白狼天狗を責めることはできないだろう。妖夢の持つ楼観剣から立ち上る妖気は、魂を底冷えさせるような不気味さだった。こんなものが山に入ってくれば、椛とて一も二もなく剣を抜くだろう。
「妖夢、」
「説得は無駄ですよ」
「……」
「私は椛と戦いたい。戦って、強くなったんだって証明したいんです」
妖夢が楼観剣を構える。
「それに、今の私は侵入者。侵入者の撃退は哨戒天狗の仕事、ですよね?」
「それは……」
「椛が戦わないって言うのなら、私はこのまま山を登ります。出会った妖怪は片っ端から斬るでしょうね」
「……妖夢」
説得がきかないことは、つい先日から分かっていたつもりだった。ただ、聞きたいことがあった。
「妖夢。お前は誰のために戦っている?」
「……誰の、ため?」
「そうだ。誰のために、何のために戦っている?」
「誰の……何の……」
今の妖夢は、ただ強さだけを求めている。彼女は白玉楼の庭師で、西行寺幽々子の剣術指南役だ。その強さの先には目的があって然り。目的もなく振るわれる強さなど、ただの凶刃に他ならない。
――言ってくれ。『西行寺幽々子のため』と。『白玉楼のため』と。そうでなければ……
「そ、それは……」
しかし妖夢は次の言葉を紡がない。思い悩むように、苦しむように額に手をあて小さく首を横に振るばかりで。
そして、
「そんな……そんな、こと……どうでもいいじゃないですか」
やがて出した答えが、それだった。
「……本気で言っているのか?」
「ええ……それは、もう。剣士たるもの、相対すれば戦いになることは必定。そこに……理由なんて、いらないでしょう?」
「妖夢……」
椛は確信した。今の妖夢は、もう椛の知っている妖夢ではない。彼女は力に溺れ、月の狂気に侵され、狂ってしまった。
――この狂気、祓わねばならない。
「私にはあるぞ。戦う理由が」
「それは?」
問いに、背負っていた大太刀と盾をそれぞれ両手に持ち直し、椛は答える。
「お前を救うためだ」
「……なんですか、それ」
「お前は強くなっていない。ただ、楼観剣の力と月の狂気でおかしくなっているだけだ」
「……私が、弱いと?」
妖夢の表情が悲痛に歪む。そして楼観剣を握ったまま頭を抱えて空を仰ぎ見た。
「まだ……まだ、だめなの? 私はまだ“守られる側”なの? いやだ、いやだ、いや……弱いのはいや! だって、私は、私はただ……」
植生の薄いここからは、雲ひとつない、まだ藍の色が残る空がよく見える。そこに向かって、妖夢は飛んだ。
「私はただ!」
「妖夢!?」
「椛と肩を並べて歩きたかっただけなのに!!」
「!!」
ぐらり、と視界が揺らいだ。
妖夢の抱く強さへの渇望。その根源には、やはり椛がいる。
――私が、悪いのか? 私は、私はただ……
椛が呆然としている間に妖夢は木の上まで浮かび上がり、両腕を広げて彼方を見据える。
「月よ! その狂気を私に寄越しなさい!」
西の彼方には、沈み行く満月。妖夢の瞳が、紅く、紅く、輝く。
「待て妖夢!!」
――月の狂気をさらに取り込むつもりか!
妖夢を止めるべく、椛は慌てて地を蹴った。しかし、
「邪魔するな!」
振るわれた楼観剣、そこから放たれた真紅の妖刃に椛は弾き飛ばされる。
「がッ!」
「あっはっはっ! 強く! 強く! もっと強くならなきゃ!」
かろうじて防いだものの、大太刀を持つ手が痺れている。恐ろしい威力だった。
妖夢の周りが陽炎のように揺らめき、風が暴れ始めた。楼観剣の妖気と月の狂気が互いに干渉しあっているのだろうか。
「駄目だ、妖夢!」
「平気ですよ! 今の私なら! 私は強いですからね!」
「妖夢!!」
そんなわけがない。平気なはずがない」。
楼観剣の妖気も、月の狂気も、妖夢の身に余る力だ。受け入れられるだけの器は、妖夢には無い。
このまま狂気を取り込み続ければ、身体がもたない。許容量を超えた水が注ぎ込まれたダムの末路は……
「ッ……駄目だ!」
再び妖夢に取り付こうとする椛だったが、
「アッハハハハハハハハハハハ!!」
取り巻く風が勢いを増していて近づくことができない。吹き飛ばされないように踏ん張ることで精一杯だった。飛ぶこともままならない。
陽炎の様に揺らめいていた妖気は、今やはっきりと見えるまでに濃度を増していた。あまりの濃さに、吐き気を覚える程だ。
「よ、妖夢……!」
地に縛り付けられ見上げる椛の呼びかけは、妖夢に届かない。妖夢はただ、轟々と渦巻く狂気の中で哄笑を続けていた。
やがて、
「ッハッハッハッハッハッ!!」
…………
ぴたり、と笑い声が止まった。同時に渦巻いていた風も妖気も鳴りを潜め、静寂が訪れる。
「……?」
訝しむ椛の前に、ぐったりとうな垂れた妖夢が降りてくる。楼観剣を持つ手も力なく、かろうじて引っ掛けているような状態だ。
「よ、妖夢……?」
「……」
恐る恐る声をかけると、ゆらりと上体を起こして妖夢はこちらを見た。その瞳は、血の流れよりもなお紅く。彼女の半身たる半霊もまた、紅く染まっていた。
しばし黙してこちらをじっと見ていた妖夢が、口を開く。
「気安いな」
「え?」
「誰だ、お前は?」
「……なんだと?」
――今、妖夢は何と言った?
「お前は誰かと聞いている」
言葉を失う椛に、妖夢は重ねて問いかける。その目は警戒心に満ちていて、決して冗談を言っているようには見えなかった。
まさか、まさか……
――記憶が狂ってしまったのか!
妖夢が取り込んだ狂気は、肉体だけではなく精神にまで影響を及ぼしてしまったのだろうか。
「妖夢、本気で言っているのか?」
「なぜその様なことを聞く? なぜ私の名前を知っている?」
「……」
――待てよ。
逆にこれは好奇なのでは?
記憶が狂っているのならば、上手く話を誘導することで戦わずして楼観剣の封印が可能なのではないか。
妖夢の記憶がどれほど狂っているのか分からないが、少なくとも椛のことは覚えていないようだ。辺りを物珍しげに眺めていることから、今ここにいる理由もはっきりしていないのかもしれない。
ひとつずつ、確認しなければ。
「いや、失礼した。私の名前は“犬走椛”。この、妖怪の山の白狼天狗だ」
背後を示しながら答えてやると、妖夢は得心がいったように手を打った。
「妖怪の……そう、妖怪の山。私は妖怪の山に来ていたんだ」
――妖怪の山は知っている? 何か目的があって来た……ということになっているのか。
もう少し、突いてみることにしよう。
「お前の名前は“魂魄妖夢”で相違ないか?」
「……だから、なぜ私の名前を知っている?」
警戒の色が強くなる。
「いや……噂を少し」
「……ふん」
適当にはぐらかすと、妖夢は鼻を鳴らした。そして椛の姿をまじまじと見始める。
「白狼天狗、と言ったな?」
「ああ」
「強いのか?」
「……」
――これは……
この問いは、おそらくどちらを選んでも行き着く先は同じだろう。
「そうだな、私は強いぞ。お前よりも遙かに、な」
ならば、精一杯吹いてやろうではないか。これで下がればよし。下がらなければ……
「なら、確かめさせてもらう」
言うが早いか、妖夢がこちらに突進してきた。そして手にした楼観剣を上段から振り下ろす。
ギづッ!
「いきなり何をする」
一撃を盾で防ぎつつ、椛は問う。答えは分かっているが。
「言ったろう? 『確かめさせてもらう』と。私は強いものと戦いたい」
予想通りの返答。椛はさらに問う。
「魂魄妖夢よ。お前はなぜ戦う?」
「強くなるため」
「何のために?」
「分からない」
「……」
即答された。先ほどのような逡巡もなく。
「ただ、私は強くならなければならない。そんな気がする」
次いで紡がれた言葉は、ひどく漠然としたものだった。
「冥界の――西行寺幽々子のためではないのか?」
「西行寺、幽々子……?」
押しが弱まった。
椛は盾を一気に押し出し妖夢を弾き飛ばす。しかし、この程度で体勢を崩すようなことはなく、妖夢は落ち着いて着地した。そして再び、対峙。
「それは、誰だ?」
「……」
――西行寺幽々子のことも、か。
しかし、椛の時とは違って、その瞳には動揺の色が見える。覚えてはいないが引っ掛かりを感じる。そんなところだろうか。
妖怪の山と白狼天狗は覚えている。椛と西行寺幽々子は覚えていない。このふたつの差はいったい何だ?
それは分からないが、だが少なくとも魂の底までは狂気に侵されていないのかもしれない。だとしたら、
――引き戻せる見込みはあるはずだ。
「知りたければ、私の言うことを聞くことだ」
「……」
これで言うことを聞いてくれれば、労せず抗狂剤を飲ませることができるのだが。
「……いや」
しかし、
「お前を倒してから、改めて聞くことにしよう」
そう言って、妖夢は再び突進してきた。
ギッ!
――そうなるよな!
やはり、戦わなければならないか。
横薙ぎの楼観剣と、椛の大太刀が噛み合う。重い。楼観剣の妖気と狂気の影響か、腕力も上がっているようだ。が、まだ椛には届かない。
「いいだろう、相手になってやる。だが、よもや勝てるなどとは思っていないだろうな?」
「……勝たなきゃいけない。私は、お前に、勝たなきゃいけない!」
「!?」
ぐい、ぐい、と大太刀が押し返される。力が上がっているようだった。
――このままでは……!
「ちッ!」
舌打ちをし、椛は後ろに跳んだ。ひとまず距離をとって様子を……
「そんな気がする!」
妖夢が腰の短刀――白楼剣を抜いた。そして腕を交差させ、
「結跏趺斬!!」
楼観剣と白楼剣で前方の空間を切り開く。瞬間、二刀の軌跡をなぞるように、真っ赤で極太の剣気が発生して椛に襲い掛かる。
――逃げ場は!?
受けるのは危険すぎる。椛は視線を巡らせた。
横は駄目だ。×字の剣気は左右に大きく広がっていて、避けきる前に捉まってしまう。
ならば、
――上!
上は丁度×字の谷間にあたる。跳躍で飛び越せる高さだった。
両足に力を込めて跳躍。剣気の上を行く。
その頭上から、
「ハァ!!」
二刀が振り下ろされた。
ガヅッ!
上に逃れることは予測済みだったのだろう。椛よりもさらに上からの斬撃を椛は盾で受け、地面へと叩き落とされる。落下の最中、足元を一瞥して椛は妖力を固めて足場を作った。しかし、急ごしらえで作った足場など、作った瞬間に割れてしまう。それでも椛は足場を作る。それもまた割れる。
作る、割れる、作る、割れる……
何枚も何枚も重ねられた足場は少しずつ落下の勢いを殺いでゆき、着地の衝撃を確実にやわらげていく。
やがて、ぐしゃり、と紅葉を踏みつぶして椛は着地した。足への衝撃はほとんどない。見上げた先には、さらなる追撃の構えを見せる妖夢の姿。僅かに同様の表情が見える。よもやまともに着地されるとは思っていなかったのだろう。
「くっ!」
うめき声とともに振り下ろされた二刀を避け、椛は妖夢の背後に回り込む。
「甘い」
隙だらけの背に打ち込むは、刃を返して峰打ちの構えを見せる大太刀の一振り。
――これで、終いだ。
どっ!
瞬間、大きな木槌で横殴りにされたかのような衝撃は、椛の身体を易々と吹っ飛ばした。
「がっ!?」
「何が、甘いって?」
吹き飛ばされた椛を追って、妖夢はさらに楼観剣を薙ぎ払う。
「ちっ!」
横に転がり一撃を回避した椛は、立ち上がって後ろに跳躍、
「!?」
しようとしたが、バランスを崩して尻餅をついた。見れば、高下駄の片方、その歯が半ばから斜めに切り落とされていた。
「高いところから尊大なやつめ。くだらない驕りは捨てろ、白狼天狗」
追撃はなく、白楼剣を鞘に収めてこちらを見下ろしながら妖夢は言った。その傍らには、真紅の霊魂がひとつ。
「そうか、半霊……!」
椛を吹き飛ばしたものの正体は、妖夢の半霊だったようだ。霊体だからだろうか、まるで気配を感じることができなかった。
「周囲に対する警戒が疎かだ」
「……そうだな」
椛は高下駄と足袋を脱ぎ捨て素足になると、改めて立ち上がって妖夢と距離をとった。
――弾幕や半霊を使われたのは初めてだったからな。
初めて出会ったあの日から、椛は幾度となく妖夢と剣を交えてきた。しかし、その中で妖夢は一度として弾幕も半霊も使わなかったのだ。椛とは“剣士”としての戦いを望んでいたからだろう。だから、椛は妖夢の動きにのみ集中していた。半霊への警戒を怠っていた。それは椛の落ち度だ。
だが、今の妖夢が求めているものが“剣士”としての勝利ではなく、“強さの証明”としての勝利なのだということが分かった。剣士としてではないのならばルールは無用。弾幕も半霊も使って不思議ではない。
素足の椛は二度、三度と地面の感触を確かめてから、大太刀を構えた。次からは半霊にも気をつけなければ。
「いくぞ」
大地を踏みしめ、小さく告げて。そして椛は駆けた。その足運びは、先ほどよりも明らかに早い。
「なっ!?」
驚愕に目を瞠る妖夢に向かって大太刀を振り下ろす。
ぎ! ぎ、ぎ……!
鍔迫り合い。しかし、今度は椛のほうが押す、押す、押す。
「高下駄を斬ったのは失敗だったな」
刃を挟んで顔を突き合わせ、椛は言った。
これまで椛と地面を繋ぎとめていたものは、高下駄の薄っぺらな歯だけだった。しかし今は違う。足全体で大地を掴むことができる。高下駄の時よりも、踏ん張る力も蹴り出す力も増大して当然だった。
すなわち、
「お前では私に勝つことはできない」
「な、なんだと……!?」
「そうだ。その、剣ではッ!」
ギァン!
裂帛とともに妖夢を弾き飛ばし、間髪入れずに追撃。
「くっ!?」
体勢を崩しながらも妖夢は次の一撃を避け、さらに距離をとるべく交代する。
「逃がさん」
が、立て直す時間など与えるものか。椛はさらに前へ。
「その剣では……!」
横薙ぎ、逆袈裟、突き……
「身体も! 心も! 狂気に侵された、その剣では!」
受けて、流して、避けて……
「私を倒すことはできない!!」
がぎん!
「あぐっ!」
楼観剣の防御ごと地面に叩きつけてやったが、妖夢はすぐに立ち上がって後退する。
「……そうだった。“視えて”いるのだったな」
ひとつ、失念していたことを思い出した。
――今の妖夢は妖気を視ることができる。
かつて狂気に侵されたその瞳。最初は生霊が視えるようになり、次に妖気が視えるようになった。今回も妖気が視えているのだとしたら……
――こちらの動きは予測される。
妖怪ならば誰もがその身に宿す妖気。それは弾幕や飛行に使う燃料のようなもので、身体を動かすにしても大なり小なり妖気の変動はある。高く跳躍しようとすれば、足に妖気が集まるし、剣を振るえば腕に来る。
すなわち、こと戦闘において妖視の能力とは未来視に近い力。故に、妖夢は椛の――白狼天狗の猛攻に耐え続けることができたのだ。
「くそ……何なんだ、あいつは……!?」
妖夢の毒づきを聞き流しながら、椛は大太刀を地面に突き刺し懐から一枚の符を取り出した。
「ならば、見えようが見えまいが関係のない攻撃をするまでだ」
「それは……!?」
「見せてやろう。これが、お前との出会いを経て手に入れた力だ
」
符――スペルカードを口にくわえて妖力を送り、大太刀を構え、そして椛は宣言する。
「狗符『桜刀鞍馬と紅団扇』」
送り込んだ妖力を糧に、椛に新たな力が授けられる。増幅され、定義に基づきスペルカードから返された妖力の半分は大太刀に集まり、長大な桜色の刃を形成した。そして残りの半分は盾へ。こちらは盾にスタンプされた楓模様をそのまま大きくしたかのように広がっていく。まるでそれは、巨大な紅葉のようだった。
普段の大太刀よりもさらに長い桜色の太刀と、紅葉を模した盾を携えた椛が駆ける。大太刀から舞い散る粒子は、まるで桜の花びらが如く。
「避けきれるものなら、避けてみろ」
花びらとともに袈裟懸けの一撃。しかし、それは地面を叩き潰すのみに終わった。
「言われなくとも!」
妖夢の姿は、遙か前方に。大きく後ろに跳躍していた。大太刀の間合いよりも遠い。だが、慌てる必要はない。
次いで椛は紅葉となった盾を振りかぶる。当然こちらも、妖夢に届かせられるほど大きくはない。
が、
「何を……?」
「これは、」
椛は構わず、振り上げた盾を力いっぱい振り下ろした。
「鴉天狗の団扇だッ!!」
ごおおおおう!!
直後、発生したのは荒れ狂う風。まさしく鴉天狗が持つ団扇から放たれたかのごとき暴風は、妖夢の身体をもみくちゃにしながらさらに後方へ吹き飛ばした。
「何だそれはぁぁぁ!?」
怒号を上げながら吹っ飛んでいく妖夢を追って椛は駆ける。妖夢は背後を確認し、激突しそうになった木に足をつけて停止。そこに、椛が大太刀を振り下ろした。
「おお!」
「ちくしょう!」
ギ!
かなり無理のある体勢だが、それでも妖夢は楼観剣を掲げ、直撃を免れる。が、そんな防御でまともに受けられることもなく。
「落ちろ!」
メギッ!
強烈な一撃は、背後の木をへし折って妖夢の身体を斜め下方へ打ち落とした。
「ぐッ! っは……!」
背中から地面に叩きつけられあえぐ妖夢に、椛はさらなる追撃の一手。
「おおおおあぁ!!」
高く掲げた盾。妖力で形作られた紅葉が、さらに、さらに巨大になっていく。そして最終的に自身よりも二回り以上も大きくなった紅葉を、椛は思い切り叩きつけた。倒れた状態でこの攻撃範囲。避けられようものか。荒れ狂う風に木々が軋み、落ち葉が舞い上がる。
と、ここでスペルカードの効果が切れた。大太刀と盾が元の姿を取り戻す。妖力の紅葉が消えたあとには、両腕を眼前で交差させて防御の姿勢をとる妖夢の姿。
――好機!
椛は妖夢に飛びつくと馬乗りになった。そして楼観剣を持つ右手を左手で押さえ込む。
「くっ! 離せ!」
「離さない」
ばたばたと暴れるが、大丈夫。おさえきれる程度だ。
椛は大太刀を地面に突き刺すと、懐から抗狂剤を探す。
「待っていろ。今、」
とんっ。
小さな衝撃。次いで、吐き気。
「え……?」
おそる、おそる、見下ろすと、
「どけ」
椛の腹に白楼剣が突き立てられていた。
喉の奥から何かがこみ上げてくる。強張る身体に妖夢の抵抗を抑えることなどできるわけがなく、やがて椛は倒され地面に横たわった。
――熱い。どこが? 腹か? 喉か? 分からない。呼吸が、苦しい……
「げほっ!」
堪えきれずに大きく咳き込むと、吐き出された真っ赤な血が椛の白い装束を、広がる落ち葉を紅く染めた。
「は、あ゛……あ゛、」
言葉にならない呻きが喉から零れる。身体に力が入らない。吐き気は治まらず、咳き込む度に血が溢れてくる。
「返せ」
地面に横たわったままの椛に足をかけ、腹に刺さった白楼剣を妖夢が引き抜いた。
「あ゛あ゛あ゛!!」
ずるずると激しい痛みの波が全身を駆け巡り、椛は悲鳴を上げた。どくどくと腹の出血が加速する。
――……いかん、血を……血が…………!
肉体の損傷は問題ではない。ヒトの身をしているとは言え、椛は妖怪――それも、とりわけ頑丈な白狼天狗だ。多少の怪我で死ぬことはないだろう。
しかし、ヒトの身である以上、その構造は限りなくヒトに近い。腹を刺されれば痛いし、血を失い続ければ肉体活動が停止してしまう。
とにかく出血を止めなくては。そう思い、椛は薄れかけた意識で腹に妖力を集めた。傷口の細胞活動を活性化し、少しでも早く止血を……
ぴちゃり。
「終わりか?」
椛を中心に広がる血溜まりを踏んで、妖夢がこちらを見下ろしていた。
「……ぐ」
「……」
なんとか首と目線だけ動かして見上げる。その表情には、些かの感慨も持っていないように見えた。
「さっさととどめを刺せばよかったものを」
「……」
ふ、と小さなため息をついた妖夢が次に見据える先は、
「この先には、お前よりも強い天狗がいるのだろう?」
「……!」
妖怪の山、その奥地。
「知っているぞ。白狼天狗の上には“大天狗”が。そのさらに上には“天魔”と呼ばれる種族がいると。ならば、そいつらとも手合わせ願いたいものだ」
さく、さく、と落ち葉を踏んで、妖夢は椛のもとから去っていく。
――行かせては……いけない!!
ここで自分がしくじれば、妖夢は間違いなく殺される。大天狗や天魔の強さは、白狼天狗などとは比較にならないのだから。
――動け! まだ動けるはずだ! 私がやらなくてはいけないんだ!!
「う……お、お、お……!」
重たい身体に、沈みゆく意識に喝を入れ、椛は立ち上がる。
「……しぶといな」
「ぜェ……行かせは、しない……」
歩みを止めてこちらに向き直った妖夢は呆れの表情。
「お山のために、か。大層な覚悟だ」
「……そんな、ものではない」
「なに?」
山のためではない。ただ、ただひとえに椛が守りたいものは。
「自分のために、お前のために、私は……!」
「私の? 何のことだ?」
妖夢の問いに答えられるだけの余裕は、もう残っていなかった。地面に刺さったままの大太刀を引き抜き、構える。
「さあ、来い。私はまだ生きているぞ」
「……まあ、いい」
妖夢が符を取り出して、
「死にたいと言うのなら、望み通りに」
楼観剣を振り上げながら宣言する。
「断迷剣『迷津慈航斬』」
それは、かつて見た空色ではなかった。
楼観剣を覆って形成される真紅の刃。その凝縮された妖力は、辺りの空間を歪ませているようにも見える。
その、長大で凶悪な刃を、妖夢は大上段から振り下ろした。
――ああ、くそ。
身体が重い。動きが緩慢すぎる。このままでは食らってしまう。偉そうなことを吹いておきながら、この体たらくは何だ。
腹の傷が痛む。吐き気は治まらない。違う、そんなことを考えている場合ではない。とにかく、避けなくては。
混濁した意識の中で、椛は身体を動かしていた。しかし、やはり避けることは難しそうだ。ただの大振りだというのに。
左手の盾を頭上に掲げながら身体を右に傾ける。軌道を逸らせることさえできれば、ひとまず十分のはずだ。
ぐしゃあ!!
次の瞬間、大地が悲鳴を上げ落ち葉が舞った。衝撃で椛の身体は吹っ飛ばされる。
「うおぁ!」
このまま倒れてしまっては、二度と起き上がれなくなる。椛は慌てて立ち上がり、
「ぐ……!?」
左の肩口に激痛を覚えた。そして、どさり、がしゃがしゃん、と何かが落ちる音がいくつか。
何か……いや、何が落ちたのか、分かってしまった。椛はできるだけ精神を乱さぬよう覚悟してから、そちらを見る。
地に落ちたものは、先ほどまで装備していたもの。紅い楓模様が中央にスタンプされた、白狼天狗標準装備の盾。楼観剣の一撃を受けて真っ二つにされていた。
それと、左腕。
軌道を逸らせることすらできなかった。楼観剣の一撃は、盾を切り裂き手首を切断し、さらに肩口まで達して椛の左腕を斬りおとしていたのだ。
「ぐ、うぉ……!」
膝をつき、肩をおさえて椛はうめき声を上げた。
失われた左腕。その喪失感が吐き気を加速させる。咳き込み、血を吐く。
一方、スペルカードを解いた妖夢は楼観剣を一振りし、踵を返して再び山の奥へと向かっていった。
「本当にしぶとい。だが、もう諦めろ」
――……駄目だ!!
「う、お、おおお!」
「!?」
絶え絶えの意識を失わないよう、椛は必死に雄たけびを上げながら妖夢を追う。追って、大太刀を振り下ろすが、しかしそれは避けられた。勢い余った椛は、そのまま倒れる。
「……何なんだ、お前は?」
「う……ぐ…………」
立ち上がろうともがく椛を見て、妖夢が震える声で呟く。
「何で、そこまで……」
「わ、私は……」
左手を使おうとして再び倒れこみ、ないことに改めて気付かされ、それでも大太刀を杖代わりに立ち上がる。一歩、二歩と後ずさる妖夢の姿は、霞んでいてよく見えなかった。
「お前を……」
泥だらけでも、傷だらけでも。どれだけぐしゃぐしゃになったとしても、
「お前を、救いたい」
「……」
妖夢が今どんな顔をしているのか、椛はよく見えなかった。だが、さぞや驚いていることだろう。見ず知らずの――今の妖夢にとっては――白狼天狗に『救う』だの何だのと言われているのだ。冷静に考えれば、今の自分は意味不明で滑稽に見えるだろう。
「本当に、何なんだ、お前は。……いや。もう、いい」
妖夢が懐からスペルカードを取り出し、口にくわえる。
「お前は、斬る」
そしてとる構えは。
腰を落とし、左の半身を下げる。身を捻り、右手の楼観剣は左の腰辺りに持っていく。そして左手は楼観剣に添えて。
その構えは、居合い。すなわち、あのスペルカードの正体は。
――現世斬……!
魂魄妖夢の、最速の剣。その速さゆえ、ひとたび間合いに入ってしまえば回避は不可能。
「懐かしいな」
「……」
「あの時は、そのスペルカードに敗れたのだ」
今回もやはり、防御も回避もできないだろう。
だが、
「今度は勝つ」
「ほざけ!」
妖気が渦巻く。
真紅の妖気の中心にいる妖夢は、真紅の瞳でこちらを睨み据え、宣言する。
「人符『現世斬』!!」
次の瞬間、妖夢が消えた。
引き延ばされた刹那。白狼天狗の――“千里先まで見通す程度の能力”を持つ椛の眼を以ってしても、確認できたのは影のみ。椛にできるのは、自身の身体と、襲い掛かる凶刃の間に大太刀を突き立てることだけだった。
延びる、延びる、刹那が延びる。混濁していた意識は、掠れていた視界は鮮明に。身体は時間に抗うことができず、しかし妖夢の剣を間近で見届けられることにいつしか椛は満足感を覚えていた。
――そうだ。この剣だ。この剣で、私は……
思い出されるのは、あの秋の日。盾を真っ二つに切断し、椛の腕を切り裂き、そして新たな世界を切り開いてくれた現世斬。この一撃があったから、今の自分がある。妖夢という友ができた。
それだけではない。亡霊姫、蓬莱人、月の頭脳、風祝、華人小娘、動かない大図書館、紅い悪魔、悪魔のメイド、七色の人形遣い、時の瞳、境界の瞳、楽園の巫女、風水師、九尾、火車、地獄烏、第三の目、妖怪の賢者、土着神、軍神。多くの出会いが椛にもたらされた。出会いの数だけ、相対の数だけ椛の世界は広がった。強くなれた。
そして今、形はどうあれ、こうしてまた妖夢と真剣勝負ができたのだ。いつかの約束、巡り巡ったこの結末。満足に値する……
――違うッ!!
今、自分はいったい何を考えていた?
あれが走馬灯と言うものなのだろうか。妖夢に出会ってからの記憶が次々と思い出されて、えも言えぬ充足感、幸福感に包まれて。
――ここはまだ終わりではない! 私が見たかった強さの果てではない!!
妖夢がどれほど強くなるのか。それが最初の興味だった。その結果が力に溺れ、あげく狂気に飲み込まれましたでは、あんまりではないか。
何とか、何とかしなくては。だが、引き延ばされた刹那は、とうとう終わりを迎えようとしていた。
正面やや右から迫る楼観剣。その刃は大太刀を羊羹のように切断し、やがて椛の横っ腹に到達する。服が斬られ、皮が斬られ、肉が斬られ、筋肉が斬られて内臓が斬られ……
――終わってたまるか。
「!」
楼観剣が骨まで達しようとした時、緩慢だった肉体の動きが急に滑らかになった。
椛は腹を斬られながらも一歩を踏み出し、無事な右手を伸ばす。
ぴたり、と楼観剣が止まった。
「な……!?」
信じられないと言った表情だった。妖夢は目を瞠り、自身の手元と椛を交互に見て、震える。
楼観剣を持つ妖夢の手は、椛に掴まれていた。
「な、んで……私の、剣が……貴様のどこに、そんな、力が……!?」
「さあな。私にも分からない」
「何なんだ……お前はいったい、私の何なんだ!?」
「……私は、」
椛は右手に力を込める。腹から血が吹き出した。みしり、みしり、と骨が軋む音。
「私は!」
ごきん!
「あぐ!?」
骨が折れる。楼観剣が地に落ちた。
椛は片足を胸元まで引き上げ、妖夢の手を引き身体を寄せて、
「お前の親友だ!!」
思い切り鳩尾に蹴りを入れた。
「う゛ッ!!」
手を離し、吹っ飛ぶ妖夢を見ながら椛は懐に手を突っ込む。そして掴んだ一枚の札――妖力封じの札を地面に落ちた楼観剣に叩きつけてから、駆ける。よろめき、倒れかけ、しかしすぐに持ち直して椛は再び手を懐に。次に取り出すは抗狂剤の入った袋だ。中には錠剤が二粒入っている。べっ、と口の中に溜まっていた血を吐き捨ててから、椛はそれを口に含んだ。
やはり鳩尾への一撃は効いたか、妖夢はまともに着地することもできずに背中から倒れこんだ。その左腕を、
「うおお!」
椛は思い切り踏み抜いた。
「ああッ!!」
ばぎり、と鈍い音を立てて骨が折れる感触が足から伝わる。これで両腕は潰した。残るは半霊だが、あれが何かをするよりも、こちらがことを済ませるほうが早いだろう。
椛は妖夢の腰に手を回し、身体を引き上げ額を合わせた。
「はぁ……はぁ……」
揺れる紅い瞳、上気した頬。吐く息は白く、互いの白が混ざり合って。
妖夢の額には汗が滲んでいた。さもありなん。両腕の骨を折られ、鳩尾にきつい一撃を食らっているのだ。未だ意識も戦意を失わずにこちらを睨み付ける精神力は、生来のものか、それとも狂っているがゆえか。
「わ、私は、強くならなくては……!」
「そうだな」
「お前に勝たなきゃ、意味がない」
「いつか勝てるさ」
「なに?」
「だが、それは今ではない。今度は正々堂々と向かってくることだな」
微笑み、そして椛は妖夢の唇に自身の唇を重ねた。
「んぅ!?」
目を瞠り、硬直する妖夢を見つめながら、椛は舌を伸ばす。
「んっ、んん!?」
妖夢の口の中に舌をねじ込みこじ開けて、含んでいた抗狂剤を押し込む。吐き戻されないよう喉の奥までしっかりと。異物感に妖夢はえづくが、お構いなしだ。
「!? ~~!!」
一粒、二粒とも抗狂剤を飲み込ませ、ようやく椛は唇を離した。血の混ざった唾液が、ふたりの間で糸を引く。
「ん、はぁ……」
「……」
――これで……?
妖夢に動きはない。まだ混乱しているのか、ただ呆然と椛を見つめ。
「……私はお前を知らなくて、でもお前は私を知っている」
「ああ」
「私はお前を『殺す』と言ったのに、お前は私を『救う』と言う」
「ああ」
「私にとってお前は“敵”なのに、お前にとって私は“親友”なのか?」
「そうだ」
ひとつ、ひとつ。妖夢は椛の肯定を受け取り、かみ締め、
「…………私は……誰?」
やがてぽつりとそう呟いた。
「お前は魂魄妖夢だ。半人半霊で、白玉楼の庭師で、西行寺幽々子の剣術指南役で……」
「……」
「生真面目で、甘いものが大好きで、負けず嫌いで、漫画や小説に影響されやすくて、私や藍殿の尻尾に目がなくて、情にもろくて、」
「……ろくでもない」
「そうだな。お前はまだ、心も身体も半人前だ。だが、」
椛はそっと妖夢を抱きしめる。
「私は、そんなお前がたまらなく愛おしい」
とくん、とくん。
妖夢の鼓動を感じる。少し低い体温も、耳をくすぐる熱い呼吸も。妖夢を感じる何もかもが心地よかった。今この瞬間は、全てを忘れられる、傷の痛みも、過去のいさかいも、未来への不安も、何も、かも。
「……椛」
やがて、自身の名を呼ぶ声に、椛は身体を離した。椛を見つめる妖夢の瞳は、ゆっくりと赤みを失い始めている。抗狂剤が効いてきているのだ。
紫色の瞳の妖夢は、涙を流す。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
「私はいい。私よりも、謝らなければならないものがたくさんいるだろう」
「でもっ、でも、椛だって……私は、椛の……!」
もう一度、椛は妖夢を抱きしめてやった。後頭部に手を沿え、胸元に。
「今は休め。私も疲れた」
「椛……椛……」
さらさらの銀髪を撫でてやりながら、椛はゆっくりと妖夢に覆い被さるように倒れた。ああ、このままでは押しつぶしてしまう。そう思い、何とか寝転がって妖夢の上から降りると、仰向けの視界に広がった空が、とても広かった。戦いの余波で辺りの木々がなぎ倒されたせいだ。
狂気の月は沈み、太陽が顔を覗かせていた。
――ああ、今日もいい天気になる。
すう……と、身体から力が抜けていく。瞼が重たくなってきた。もはや指先ひとつ動かせる気がしない。
腕と腹の出血は止まる気配を見せない。天狗の頑丈さを過信しすぎていたか。このままでは失血死してしまうかもしれない。
「……椛?」
胸元から妖夢がこちらを見ていた。両腕は動かせないだろうに、無理をして這ってきたのだろうか。
「ああ……大丈夫だ。大丈夫……」
「しっかりしてく――! も――! ――――――!?」
まだ何か言っているようだが、よく聞こえなかった。
――大丈夫。少し、眠たいだけだ。
そう言ったつもりだが、自分が正しく言葉を発しているかどうか、それさえも分からない。
どくん、どくん。
閉じた視界。暗闇の中で聞こえるのは、妖夢の声と、木々のざわめき、鴉の鳴き声。そのどれもが、だんだんと遠ざかっていく。そして、入れ替わるように心臓の鼓動が頭の中を満たしていく。
辺りの音はなくなって、鼓動の音が痛いほど大きくなって。
――案ずるな、妖夢。
どくん。
やがて、鼓動の音も聞こえなくなった。
――妖夢……。
…………
目が覚めた時、椛はベッドの上にいた。
身体を起こそうとして腹の痛みに悶え、そして左腕がないことに気付いてまた吐きそうになった。しかし、僅かに胃液が出てきたくらいで、他には何も出てこない。胃袋の中は空っぽのようだ。
だが、
――生きている。
どうやら、死に損なったらしい。しぶといものだな、と椛は薄く苦笑を浮かべた。
その時、
「あ、起きてる」
聞こえた声に顔だけ上げると、洗面器を抱えた少女が部屋に入ってきていた。
菫色の長髪と、長い兎の耳。この少女は確か……
「左腕とお腹以外におかしなとこある?」
「いや、問題ない……はずだ」
「意識はハッキリしているみたいね。あら、吐いちゃった?」
胃液や唾液で僅かに湿った枕を見て、少女は洗面器から丸まった手ぬぐいをふたつ取り出す。
「申し訳ない」
「気にしないで。右手は使える? ほら、これで顔を拭いて」
「ああ。ありがとう」
手ぬぐいのひとつを椛に渡すと、少女はもうひとつで枕を拭いていく。
「鈴仙殿、だったか」
「覚えていてくれたのね。嬉しいわ」
濡れ手ぬぐいで顔を拭きつつ問うと、肯定が帰ってきた。とすれば、
――ここは永遠亭か。
誰がここに運んだのか、想像はつく。
「妖夢は……?」
他の病床、そのどれもが空っぽだった。自分がこうして運ばれたなら、てっきり妖夢も一緒だと思っていたのだが。
「妖夢だったら、もう冥界に戻ったわよ。ちょっとお腹を失礼」
「……なんだと?」
布団をめくり、上着をめくって腹に巻かれた包帯を点検しながら返された鈴仙の言葉に、椛は疑問符を浮かべた。
両腕の骨を折ったのだ。そうそうすぐに動き回れるわけがないと思うのだがが。
「こっちは問題なさそうね。それじゃあ、次は腕のほう」
ひとつ頷いて、鈴仙はベッドの反対側へ回り込む。
「だってあなた、二週間も眠っていたのよ」
「二週間!?」
思わず飛び起きそうになり、しかし激痛に襲われ僅かに身じろぎをすることしかできなかった。
「そう。本当は一ヶ月くらいは入院してなきゃいけないんだけど、どうしてもって言われて。まあ、お師匠様が許可したんだから大丈夫だと思うけど」
「……そう、か」
「腕のほうも経過は良好ね。お腹空いたでしょ? お粥を作ってくるから、ちょっと待ってて」
「ああ……」
――二週間……
腹が減るわけである。
しかしそうなると、状況がまるで分からなかった。ひとまず妖夢は無事のようだが……
この二週間で何があったのか、知る必要がある。動くことができない以上、情報源は彼女か、彼女の師匠だけになるだろうか。
「い、……椛」
「……お久しぶりです?」
訂正。真偽はともかくとして、最速の情報源がそこにいた。
やってきた文から事情を聞き、椛は事態の推移を把握した。
しかし、
――泣いている文さんなんて、初めて見たな。
大声を上げて泣き喚くようなことはなかったが、目を覚ました椛を見た文は目に涙を浮かべ「馬鹿」だの「心配かけて」だの「お犬サマ」だのと文句の嵐だった。何か言い返してやろうかとも思ったが、しかしこちらとしてもかなり無茶をした自覚はあるので、今回はおとなしく謝ることにした。
閑話休題。あの戦いを見ていた文は、決着を確認した瞬間に楼観剣を回収し、椛と妖夢を担いで永遠亭に直行した。当然のごとく文の他にもふたりを監視していた天狗がいて追ってきたそうだが、そこは幻想郷最速を誇る鴉天狗である。易々と追跡を振り切り、ここまで運んできたそうだ。永遠亭は道のりを知らないものには辿り着くことが非常に困難な地。かくまうには最適の場所だった。
そして、椛たちを永遠亭に預けたあと、文はひとりで天狗の里に向かった。椛と妖夢を連れ去った文を拘束しようとする天狗を蹴散らし、椛の上司――白狼の大天狗に会い、報告をしたとのこと。
曰く、「魂魄妖夢に取り憑いていた“妖”は、犬走椛が確かに“殺した”」と。
そんな理屈が通るものかと思ったが、まあ、文のことである。納得“させた”のだろう。
白狼の大天狗だけではない。今回の件に関わっていた上役の天狗全員を説き伏せてきたと文は言う。
「おかげで貴重な切り札を何枚も失う羽目になったわ」
そう言いながら睨み付けている手帖の頁には、横線が大量に引かれていた。
「すみません」
「いいわよ別に。その代わり、私が困った時には椛にも手伝ってもらうからね」
「ええ、それはもう、何なりと」
おそらく、椛には想像もつかないほどの苦労をかけてしまったのだろう。いつものような元気はなく、どことなくやつれているようにも見えた。椛にとっても文は命の恩人になるのだ、協力を請われて断ることなどできようものか。
「ところで文さん。妖夢はもう冥界に戻ったと聞きましたが、その……狂気は、どうなりました?」
「安心なさい。魂魄さんに取り憑いていた狂気は完全に祓われたわ。貴方が寝ている間、魂魄さんは検査検査、検査の連続でね。
八意先生が『完ぺき!』って豪語するくらいの薬を処方していたから、もう大丈夫なんじゃないかしら」
「そうですか。良かった……」
「それと、貴方の狂気もね」
「私の?」
まさか。
「そう。魂魄さんの攻撃を受けたせいかしらね。貴方の身体にも狂気が蔓延していた」
「そうですか……」
――それであの時……
合点がいった。
狂気は毒であると同時に、宿した身体に大きな力をもたらす。椛が現世斬を止めることができたのは、妖夢から伝播した狂気が力を与えてくれたおかげだったのだろう。だとしたら、どうにも複雑な心境だが、椛は狂気に命を救われたことになる。
「あー……それから、八雲紫がここに来たわ」
「八雲紫が……」
「争いに来たわけではなかったようね。楼観剣と花童子の花を欲しがっていたから渡してやったわ。そしたら『ご苦労様』とだけ言い残して帰っていった。たぶん、今ごろは楼観剣も封印されているんじゃないかしら」
「つまり……」
「そ。これにて一件落着。大団円ってやつよ」
狂気は祓われ、楼観剣は再び封印された。異変は解決したのだ。
ほっと胸をなでおろすと同時に、椛は疑問が残っていることを思い出した。
「では、妖夢は異変が解決したから帰ったので? しかし私が妖夢に負わせた怪我は……」
二週間そこらで治るものではないはずだ。
文はばつの悪そうな表情を浮かべながら椛の問いに答える。
「魂魄さんは……紫さんから白玉楼での謹慎を命じられたわ」
「!」
「期間は未定。怪我が治ってからでいいとは言われていたんだけど、本人の希望で絶対安静を条件に帰宅を許可してもらったみたい。まあ、両腕とも使えないんじゃ、休む以外にできることもないだろうけど」
「だったら……」
どうしてわざわざ?
「ま、彼女にも思うところがあるんでしょ。たとえ狂気のせいとは言っても、事実は変わらないんだから。魔理沙を斬ったことも……椛を斬ったことも」
「……」
ずきり、と傷口が痛んだ。
「だから、しばらくそっとしておいてあげなさい」
「……はい」
頷くことしかできなかった。
「あー、そうそう。大天狗様から伝言」
手を打ち文は手帖をぺらぺらとめくって、ある頁に書き記された文章を読み上げる。
「『犬走よ、ご苦労だった。此度の戦い、しかと見届けさせてもらったぞ』」
「う。」
まさか、大天狗が直々に戦いを見ていたのだろうか。だとしたらまずい。最初から殺す気のない戦いをしていたのだ。文の口添えがあるとは言え、命令違反には違いない。
「そう構えなさんなって。えっと、『過程はどうあれ、異変を解決したことには違いない。ありがとう。お前のように芯の強い部下を持てたことを誇りに思う』」
「大天狗様……」
「『ひとまずゆっくり休め。いずれ酒でも酌み交わそうではないか』」
「……何とか、首の皮一枚で繋がったようですね」
もともとは抹殺命令である。椛自身が裁かれる可能性すらあったのだが、大天狗の温情には平伏するしかない。
安堵の息をつく椛に、しかし文は眉間にしわを寄せ。
「『ただし、……』」
…………
それからしばらくして、今回の異変を知るきっかけとなった記事を書いた鴉天狗、“今どきの念写記者”姫海棠はたてが椛の前に現れた。彼女は椛の姿を見るなり頭を下げ謝罪した。『自分が記事にしなければ、もっと内密にことを収められたのではないか』と。『友達を危険な目に遭わせてしまってごめんなさい』と。
はたては悪くない。彼女が記事にしなかったとて、遅かれ早かれ事態は表面化していただろうし、なれば被害を最小限に抑えられたものとして、むしろ彼女の情報の早さは賞賛するべきだろう。
その旨を伝えると、彼女は少しだけ泣いて、そして笑った。
……
それから、霧雨魔理沙も見舞いに来た。
「傷はもう大丈夫なのか?」
「おう、もうバッチリだぜ」
そう言ってめくった服の下には、極々薄い傷跡の残る白い肌があった。この傷跡もじきに消えることだろう。
「これで私たちはハラキリメイツだな!」
「……お断りだが」
……
他にも、藤原妹紅や東風谷早苗、アリス・マーガトロイドなど、多くの人妖が椛の見舞いにやって来た。おそらく、文の計らいだろう。
「確かに話して回ったけれど、みんなが来てくれたのは貴方の人徳よ?」
「……ありがたい」
……
しかし、傷が完治し永遠亭を発つその日になっても、妖夢が来ることはなかった。
…………
轟々――
高い空に雲はなく、午後の麗らかな陽光を遮るものはない。
静寂を砕くは大瀑布、九天の滝。その流れの中には、上流からの贈り物であろう紅い木の葉がちらほらと見えた。紅葉は山を下り、河童の集落を抜けて人間の生活圏まで秋を届ける。
春には桜、夏は潤い、紅葉の秋、雪解けの冬。その流れは、いつだって絶えることなく幻想郷に季節を巡らせ続けていた。
巡る、巡る、季節は巡る。
滝の中ほどに、大きく突き出した岩場があった。そして、そこに立つはひとりの少女。
紅い、普通の下駄。裾に紅葉模様が散りばめられた藍色のスカートに袖口の広い白の装束。雪のような白い髪の上には小さな赤い八角帽。そして、種族の象徴たる真っ白な狼の耳と尻尾。
足場に突き立てた幅広の太刀、その柄尻に右手を乗せて、少女は幻想郷を俯瞰する。
河童の友人が川のほとりで油まみれのまま茶を飲んでいた。また何ぞ得体の知れないカラクリを作っているのだろうか。いい笑顔を――いや悪い顔をしている。
人間の里では、広場に人だかりができていた。中心にいるのは、七色の人形遣い。子どもが多いところを見るに、いつもの人形劇だろう。今回の登場人物は……
「……!?」
千里眼を使い舞台で動き回る人形を見て、思わず目を瞠った。
主な登場人物は、狼の耳と尻尾を持つ白髪の少女と、銀髪の剣士のようだった。剣士が、自身よりもずっと大きな人形を相手に大立ち回りを演じているのが見える。ちなみに、白髪の少女は椅子に縛り付けられていた。
どこかで見たことのある光景に、頬が熱くなる。やめてもらいたい。近くで笑っている普通の魔法使いもグルだろう。
ため息をひとつ。
――まあ、何はともあれ、
「平和だな」
少女は――椛はぽつりと呟いた。
季節は巡り、秋。腹の傷はとうに完治し、哨戒の任に復帰して久しい。
ただし、
「ん……あ、ふ」
大太刀の柄尻に乗せていた右手を口元に持っていき、欠伸をひとつ。左の袖が、静かに揺れた。
椛の左腕は、失われたままだった。
『向こう三年間は左腕の再生を禁ず』
それが、山から下された唯一の罰である。
椛を含め白狼天狗を二名、人間一名に被害を出した、かつての異変の罰。被害者一名につき一年。分かりやすい計算である。
そもそも異変の発端に椛が深く関わっていたのだ。山としても立場上、椛に責を負わせる必要があった。身内にまで被害が出ている以上は死罪もあったかもしれない。
だが異変を解決したのもまた椛だということも事実。その差し引きの結果が、今回の裁きである。
「やはり慣れんな」
ぼやいて、椛は空っぽの袖を見つめた。
その時、
びゅう――
一陣の風が吹いて袖をはためかせ、白い髪を乱れさせた。
「椛」
名を呼ぶ少女は、鴉天狗の射命丸文だ。
「どうも。どうかされましたか?」
彼女には、随分と助けられた。片腕での生活が始まった当初は何かと苦労したものだったが、その度に文は手を貸してくれた。鴉天狗というだけで白狼天狗からは疎ましがられているというのに、わざわざ椛の家にまで来て世話を焼いてくれたのだ。何かと誤解をされやすいが、彼女も立派な“妖怪の山の鴉天狗”なのだ。
文は椛の顔を見るや笑みを浮かべ、山の麓を指差す。
「仕事よ」
「?」
示されたほうへ目を向ける。仕事、とは。
――……ああ。
「なるほど」
頷き、椛は大太刀を引き抜いて地を蹴った。山を背に、白き狼が宙に舞う。
滝つぼ手前まで自由落下していった椛は、そこから妖力を制御し木々の上をなぞるように飛ぶ。紅葉に彩られたそれは、まるで秋色の絨毯。
椛の目指す先には、人影があった。
たまにいるのだ。知ってか知らずか、妖怪の山に入ろうとするものが。ここは天狗の領域。いかなるものの侵入も許さない。そのための哨戒。そのための椛たち白狼天狗である。故に、侵入者がいればこうして出向く。天狗に遭遇すれば、たいていのものは引き返していくからだ。それでも引き返さないようなら、力尽くだ。
――この時を、どれほど待っただろうか。
思い出す。あの秋の日を。
――あの日も私は、こうして……
侵入者を見つけ、追い返しに向かい。
――全てはそこから始まったのだ。
ここから始まり、ここで終わり、そしてまた始まる。
巡る、巡る、そしてまた……
侵入者は――正確には、まだ侵入者ではなかった。山よりも少し手前に、ただ静かにたたずんでいた。まるで、何かを待っているかのように。
何を言うべきかは分かっている。“彼女”が何を求めているのか、分かっている。
椛は降り立ち、対峙して。
だから、言うのだ。
――さあ、始めよう。
「そこの人間と幽霊」
了
後日談、あってもいいのよ?
ありがとうございました。
しかし、魔理沙・・・
いや、魔理沙らしいっちゃらしいんだけどその辺についての諸々の描写とかフォローが欲しかった……
> 絶望を司る程度の能力さん、なななさん、諏訪子の嫁さん
後日談……さて、今のところは未定、です。
機会があれば、いずれ。
> 奇声を発する程度の能力さん、9
ありがとうございます。本当に皆様の応援あってこそでした!
>15, 16
魔理沙に関しては、そうですね。
反省しているつもりだったのですが、うまくアウトプットできていなかったかもしれません……
○○にて○○すること というタイトルを見るところから楽しみでした。
ある意味ムードもロマンスもあるけど
血なまぐさい無骨な口づけが椛らしいですね。
たまに掲載されるシリーズ物の読み切りみたいな感じで、見かけたらとりあえず目を通していたのですが、終わるとなると、やはり少し寂寥たる思いがあります
椛が腕を失っている以上、同じ時系列で物語は書きにくいでしょうし、三年後と言うのは想像しにくいので、本当に終わりなんだなと。(三年間、給料三割のカットとかならまだしも)
何はともあれお疲れっした
紅魔館の一連の話と諏訪子の性格が好きです
>22
甘い香りの椛よりは、血の匂いをまとった椛。
これが、私の中の椛ですね。
もう少しだけ甘くしてあげたいですけれど……
>23
諏訪子は初書きで不安だったのですが、そう言っていただけてほっと一息です。
これからもいろんなキャラクターの魅力を引き出せていけたらなと思います。
椛と一緒に、これまでのシリーズの布石を拾い集めていく過程が何とも云えず楽しかったです。
昔のお話を読み返してみると、この最終話を導くための旗があちこちに立っていて、思わず唸ってしまう場面もありました。
今回の事件を通して、互いにあらゆる意味で深手を負ってしまった二人ですが、きっとこの二人なら、何度でも乗り越えていってくれるだろうと信じています。
楽しい時間をありがとうございました。鞘の花氏に、そして椛と妖夢に花束を。
評価、コメントありがとうございます!
ふたりのこれからは、きっとこれまで以上に素敵なものになることでしょう。
花束、ありがたく頂戴いたします。こちらこそ、お付き合いいただきありがとうございました。
椛と妖夢、何の因果かこの二人の組み合わせっていいよなーとある日唐突に脳裏に浮かんだのですが、如何せんメジャーとは言い難いものですから中々二次創作に触れることも出来ずただ悶々としていたなか、ひょんな事からこのシリーズを知る事となりました。
本当に嬉しかったです、いざ読んでみれば、予てよりこの二人が出会うならこんなシチュエーションだろうな、この二人の力関係はこの位だろうな、この二人が仲良くなったらこんな関係になるだろうな、そんな風に想像していたイメージと驚くほど良く似ていて、それでいて話が進むにつれて自分では想像していなかった光景が広がって、完結編の文字が目に入った時はそれこそ震える手でページを開いたものです。
最後だけあって再登場するキャラクターも多く、椛が幻想郷中を駆け巡る様は二人の足蹠を辿っているようでもあり、ただ二人だけの絆ではなく出会った後にまた広がった世界があって、過酷な状況ながらもある種の優しさに支えられて、だからこそこの結末があるのだろうと思えました。
しかし物足りないと言えば物足りない部分もあります、何しろ椛視点で話が進むわけですから、狂喜に中てられて妖夢の本音が語られてもその後の妖夢の胸中は想像するしかないわけです。
未熟さゆえに親友に重傷を負わせてしまったわけですから、再会の折にも腹を括って居た筈がボロ泣きしてしまったりするかもしれませんし、ふとした瞬間に抗狂剤を飲まされた時の事を意識してしまうかもしれませんし、実質的に通い妻のポジションを射命丸に奪われてしまったことに嫉妬するかもしれませんし、椛さんのお世話は私がしますと奮起してまたもやひと騒動したりするかもしれないじゃないですか、ねえ?
戦闘描写とスペル(とスキル)カード描写が比較的多めということで、そのあたりで目を見張る
機会が多かったです。今回の妖夢なんかも、いずれは正気のままあの域にまで達するのかなと
思わせるような、説得力のある形に見えました。
一番印象的だったのは、風に隠された椛の本音の発露、ですね。
言いたいことを言えない状況を覆した文の気遣いと、結果的に自分に言い聞かせるような
形になって迷いの晴れた椛、ってのに胸を打たれました。
それにしても、ペンネームにしてるってことはそこから妖夢と椛を俯瞰し物語を書いているのかな、と
シリーズ始まってから思っていたのですが、最後の最後で本筋に絡みましたか。>flower on sheath