霊夢が倒れた。
その知らせを聞いたのは、咲夜が紅茶を淹れに私の部屋を訪れた時の事だった。
「え、霊夢寝込んでいるの?」
「はい、今は落ち着いているようですが、神社を訪れていた魔理沙が見つけるのが遅ければ少々危なかったかもしれない、と八意 永琳さんは仰っておりました」
「咲夜、ちょっと出掛けてくるわ。お姉様には適当に話をしておいてちょうだい」
「……承知いたしました。ですが、せめて美鈴をお連れください」
「ーー解ったわよ。連れて行くわ」
「ありがとうございます。では、私は一足先に美鈴に話をしておきますわ」
本当は私一人で行きたかったところだけれど、表向きの監視役ひとりで外に出られるのを考えれば、多少の窮屈さなんて大したことではない。
扉の脇に立て掛けられた日傘を掴み、私は部屋の扉を開いた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
「ん、フランに美鈴か、一体どうしたんだ? 霊夢なら今留守だぞ」
神社の縁側で本を広げていた魔理沙は、私達の姿を認めると口を開いた。
「嘘は要らないわ。霊夢が寝込んだっていう事は知っているわ。今日は見舞いに来たの」
「知らせたのは咲夜の奴か」
「心配しなくても、私は霊夢に何もしないわ。私が霊夢に執心なのは知っているでしょう? 顔色が悪いわよ、少し休んだらどう? 美鈴」
私の言葉に背後に控えていた美鈴が動く。
「そうもいかない。霊夢が倒れたのを何処で聞きつけたのか知らないけれど、余計な奴がちょっかいを掛けに来るからな」
つまりは霊夢の身の回りの世話を兼ねた護衛ということだろう。妖怪退治を行う以上、恨まれることも多そうだものね。
一定以上の力を持つ者は博麗の巫女を害することの意味を正しく理解しているが、何処にでもそれを解さない認識の甘い奴はいるということだ。
「それなら、私が代わるから魔理沙は暫く休んでいなさい。無理をしてあなたまで倒れちゃどうしようもないでしょう」
美鈴の言葉に、魔理沙は探るような視線を向けて来るが、暫くそうした後一つ息を吐き出した。
「解った、そしたらおまえ達に任せる。私は少し休むよ」
「任せなさい。紅魔館の門番は伊達ではないのよ」
「それじゃ美鈴、無粋な輩の排除は任せたわよ」
「お任せください、フラン様」
そう言うと、美鈴は境内の比較的目立つ位置に移動していく。
そこいらの低級の妖怪や妖獣は、一度でも紅魔館を襲撃したことがある者であれば、それらの排除をこなす美鈴の強さを知っているはずだから、その姿を見ればそう簡単に襲ってはこないだろう。
美鈴は姿を見せるだけで抑止力として十分な効果を発揮する。それを彼女自身も理解しているのだろう。
「私は霊夢の部屋の隣にいるから何かあれば呼んでくれ」
覚束無い足取りで歩いていく魔理沙を見送って、私は靴を脱いで縁側に上がる。目指すは霊夢の部屋だ。
障子をそっと開ける。足を踏み入れてみればそこには布団が敷かれ、その脇に桶が一つ置かれていた。
「霊夢、調子はどう?」
呼び掛けてみるが返事は無い。
近付いてみれば、未だ寝入っているようだった。
その額には絞ったタオルが乗せられている。タオルを取り、水の張られた桶の中に浸す。
それから額に手を当ててみれば、やはり熱は下がっていないようだった。普段の彼女と比べると、その体温は高い。
くすぐったそうに霊夢が身を捩る。けれども、目を覚ます様子は無い。
タオルを濡らして、よく絞ってから再び彼女の額に乗せる。
荒い息遣いが耳に届く。
「……霊夢、私が付いてるから」
そこで、ふと今思い付いたことを実行に移してみる。
霊夢の頭を少しだけ持ち上げて、そこに私の膝を滑り込ませた。つまるところ、膝枕。私は人間よりも体温が低いため少しは役に立つかと思ってこうした、後悔はしていない。
髪を撫でる。普段はなかなか触らせてくれないから、こうして触れられるのは少し嬉しい。
「ん、ん……」
「霊夢、起こしちゃった?」
身動ぎした霊夢と目が合う。
「……フランドール?」
「霊夢が倒れたって聞いて、居ても立ってもいられずに来ちゃった。気分はどう?」
「ただの風邪で大袈裟ね。今は大分良いわ。で、何この状況?」
「膝枕。どう、嬉しい? 止めてって言っても止めないけど」
「風邪が移っても知らないわよ」
「妖怪は丈夫なの。移るなんてあり得ないわ。私の体温なら冷やすには丁度良いんじゃないかしら?」
「……そうね、確かにあんたのこの体温なら丁度良いかもね」
「アンデッド様々って所かしら。暫くこうしているから、もう少し寝ていたら?」
「その前に一度着替えたいわ」
霊夢は上半身を起こす。
「この感じだと、昨日は着替えてないと思うのよ。少しベタベタするし」
「そうなの? そしたら私も手伝ってあげる。着替えと身体を拭くくらいどうって事無いわ」
「は? いやそれくらい自分で出来るわよ」
「駄目よ、病人は大人しく任されていれば良いの。舐めても大丈夫なくらいピカピカにしてあげるわ」
「その言葉で激しく不安だわ」
「それじゃ、準備してくるから大人しくしているのよ。あ、脱衣所にあるタオル借りるからね」
霊夢の言葉を黙殺して脇に置かれた桶を持って立ち上がると、脱衣所へと足を向けた。
何処に何があるのかは勝手知ったる他人の家。聞かなくても大体の物は分かっている。
タオルを脱衣所の棚から拝借して、隣接されている温泉へ向かう。
せっかく常時使える温泉が側にあるのだから使わない手は無い。わざわざ井戸から水を汲んできて竈で沸かす手間も無いしね。
地下深く、地獄からの間欠泉を使った温泉の湯を桶に汲んで、その中にタオルを浸すと桶を持って霊夢の部屋へと戻る。
「お待たせ、霊夢」
桶を抱えて部屋に入ると、霊夢は布団から上半身を起こす。
桶を布団の脇に置いて、部屋の隅に置かれた桐箪笥から襦袢を一着引き出して、それも桶から少し放して手の届く位置に置いておく。
「私が脱がす?」
「いらないわ。自分で出来るから」
私の言葉に返して、霊夢は自身の襦袢に手を掛けた。
彼女の言葉に大人しく見守ろうかと思ったけれど、汗で張り付くのか脱ぎ難そうにしているのを見かねて結局は私が脱がせた。
少し汗の浮いた背中に絞ったタオルを当てて拭き上げる。
「熱くない?」
「ん、大丈夫よ。熱くないわ」
下ろした黒髪をズラした時に覗いたうなじに、牙を突き立てたい衝動に耐えつつ、背中を拭き終える。髪を下ろして、見えなくなった首筋にホッと密かに息を吐いた。
彼女が回復したら一滴くらい血を貰おうかと考えながら、タオルを桶に浸して絞り今度は前に回り込む。
「前くらいは自分でするわ。それにしても、あんた手慣れてるわね」
「パチュリーから借りて読んでた本に簡単な介護の本もあってね。こんな所で役に立つなんて思わなかったわ」
分身相手に練習した甲斐があったってものね。
差し出したタオルを受け取って、霊夢は身体を拭いていく。
「あー、フランドール。そんなに見つめられると拭き難いんだけど」
「何、今更恥ずかしがっているの? 今まで一緒にお風呂に入ったり色々しているのに、裸一つで何をそんなに恥ずかしがるのよ。ほら、何時までもそんな格好していると風邪が悪化するよ」
タオルを受け取って桶に入れてから、霊夢に襦袢を着せる。
「それじゃ、さっさと布団かぶって寝る寝る。何なら子守歌でも歌ってあげようか?」
「要らないわよ。そんな歳じゃないわ」
布団に潜り込む霊夢。
「私は一度桶とタオルを片付けてきちゃうね。直ぐ戻ってくるから、大人しく寝てるんだよ」
「あんたは私の母親か」
「あら、私は母親じゃなくて恋人よ。大事な人を心配するのは当然でしょう」
私の言葉に、彼女は頭まで布団を被ってしまう。
ただ、一瞬だけ見えたその顔は朱色に染まっていて、私は口の端が持ち上がるのを指先で押さえることで自制した。
「……早く元気になってね」
呟いた言葉は届いたのか、私には分からなかった。
◆◇◆◇◆◇◆◇
気が付くと、私は湯飲みを片手に神社の縁側に座っていた。
朝の日差しが降り注ぐ中、空を見上げている。
空に手をかざして、熱くも痛くも無い日の光を遮る。
顔に影が差す。ふと、そこで微かな音が耳に届いた。
コップを弾いたような、そんな音色だった。
腰を上げて音の出所を探る為に私は歩を進める。
音が響く。
一つ。二つ。
それは直ぐに見つかった。
障子を開けた先には、家具も何も無い部屋の畳の上に位牌が一つ。
それを見た瞬間に、私は冷たい物が全身を這い回る様に感じた。
震える足で一歩一歩近づき、震える手で誰かの位牌を掴む。
それを胸に抱える様にして、私は歩き回る。
見つからない誰かを捜して。
「 」
喘ぐように名前を口にするが、言葉は耳に届かない。
言い様の無い喪失感に涙を溢れさせながら、それを拭うこともせずに部屋という部屋の障子を開けていく。
どの部屋も家具一つ無く、人の姿すら無い。
私は耐え切れず、ついにその場に崩れ落ちる。
みっともなく泣きながら、名も言えない誰かを必死に想う。
そして、世界は白く染まり、砕ける様に暗転した。
◆◇◆◇◆◇◆◇
「フランドール、大丈夫?」
直ぐ側から聞こえたその言葉に、私は目を覚ました。
間近に霊夢の顔あった。
幾度か眼を瞬かせて、私は何時の間にか霊夢の布団に潜り込んで眠ってしまっていたことに気がついた。
既に夜になっている様で、行灯には火が灯されて室内を淡く照らしていた。
「え、私何時の間に眠ってたの!?」
「私が目を覚ました時にはもう船を漕いでいたわよ。だからこうして引っ張り込んだのよ」
「う、ごめん」
看病している者が眠りこけるなんて失態に、私は顔を覆いたくなる。
「これ以上眠くならなかったから、丁度良い暇潰しにはなったわ」
「むぐぐ!」
「……何だかうなされいていたようだったから起こしたんだけど、怖い夢でも見た?」
優しい笑みを浮かべて、霊夢が私を見る。
それに頷いて霊夢を抱きしめると、その胸元に頭を擦り付けて息を吐き出す。
胸の内にくすぶる不安感を払拭するように。
「少し、このままでいさせて」
「本当に、歳食っている割にはまだまだ子供ね」
「むう、私子供じゃないわ。霊夢よりずっとずっと大人だもの」
「はいはい、そうね。もう少し大人しくしていなさい」
私の頭を撫でる。
ただそれだけで何だか安心してしまう事に、ちょっとだけ悔しさが募る。
「私は絶対霊夢を簡単には死なせないから」
「うん? 人間以外にするっていうのは全力で抵抗するわよ」
「それは分かっているわ。だから、霊夢は私に看取られるまま天寿を全うするの。それ以外の方法でだなんて殺させない」
「……だったら、この風邪もさっさと治さなきゃいけないわね」
「当然、完膚無きまでに叩き潰してあげるわ」
「はいはい、期待しているわよ、フランドール」
「あ、そうだ」
「どうかした?」
霊夢が不思議そうな顔をする。
「昔から風邪を引いた人を早く治す方法があるのは知っている?」
今度は何だか嫌そうな顔をする。
「あんた、まさか」
「私が貰ってあげる」
悪戯を実行する時の様に笑みを彼女に向けて、私は顔を近づける。
「そもそも、妖怪は丈夫だから風邪なんて引かないって……」
「なら、風邪を引くまで何度でもするだけよ。ほら、大人しくして」
「ん、んむぅー!?」
その後は何があったかは、私と霊夢だけの秘密。
あ、翌朝には霊夢は完治しました。とだけここに記しておく。
END
その知らせを聞いたのは、咲夜が紅茶を淹れに私の部屋を訪れた時の事だった。
「え、霊夢寝込んでいるの?」
「はい、今は落ち着いているようですが、神社を訪れていた魔理沙が見つけるのが遅ければ少々危なかったかもしれない、と八意 永琳さんは仰っておりました」
「咲夜、ちょっと出掛けてくるわ。お姉様には適当に話をしておいてちょうだい」
「……承知いたしました。ですが、せめて美鈴をお連れください」
「ーー解ったわよ。連れて行くわ」
「ありがとうございます。では、私は一足先に美鈴に話をしておきますわ」
本当は私一人で行きたかったところだけれど、表向きの監視役ひとりで外に出られるのを考えれば、多少の窮屈さなんて大したことではない。
扉の脇に立て掛けられた日傘を掴み、私は部屋の扉を開いた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
「ん、フランに美鈴か、一体どうしたんだ? 霊夢なら今留守だぞ」
神社の縁側で本を広げていた魔理沙は、私達の姿を認めると口を開いた。
「嘘は要らないわ。霊夢が寝込んだっていう事は知っているわ。今日は見舞いに来たの」
「知らせたのは咲夜の奴か」
「心配しなくても、私は霊夢に何もしないわ。私が霊夢に執心なのは知っているでしょう? 顔色が悪いわよ、少し休んだらどう? 美鈴」
私の言葉に背後に控えていた美鈴が動く。
「そうもいかない。霊夢が倒れたのを何処で聞きつけたのか知らないけれど、余計な奴がちょっかいを掛けに来るからな」
つまりは霊夢の身の回りの世話を兼ねた護衛ということだろう。妖怪退治を行う以上、恨まれることも多そうだものね。
一定以上の力を持つ者は博麗の巫女を害することの意味を正しく理解しているが、何処にでもそれを解さない認識の甘い奴はいるということだ。
「それなら、私が代わるから魔理沙は暫く休んでいなさい。無理をしてあなたまで倒れちゃどうしようもないでしょう」
美鈴の言葉に、魔理沙は探るような視線を向けて来るが、暫くそうした後一つ息を吐き出した。
「解った、そしたらおまえ達に任せる。私は少し休むよ」
「任せなさい。紅魔館の門番は伊達ではないのよ」
「それじゃ美鈴、無粋な輩の排除は任せたわよ」
「お任せください、フラン様」
そう言うと、美鈴は境内の比較的目立つ位置に移動していく。
そこいらの低級の妖怪や妖獣は、一度でも紅魔館を襲撃したことがある者であれば、それらの排除をこなす美鈴の強さを知っているはずだから、その姿を見ればそう簡単に襲ってはこないだろう。
美鈴は姿を見せるだけで抑止力として十分な効果を発揮する。それを彼女自身も理解しているのだろう。
「私は霊夢の部屋の隣にいるから何かあれば呼んでくれ」
覚束無い足取りで歩いていく魔理沙を見送って、私は靴を脱いで縁側に上がる。目指すは霊夢の部屋だ。
障子をそっと開ける。足を踏み入れてみればそこには布団が敷かれ、その脇に桶が一つ置かれていた。
「霊夢、調子はどう?」
呼び掛けてみるが返事は無い。
近付いてみれば、未だ寝入っているようだった。
その額には絞ったタオルが乗せられている。タオルを取り、水の張られた桶の中に浸す。
それから額に手を当ててみれば、やはり熱は下がっていないようだった。普段の彼女と比べると、その体温は高い。
くすぐったそうに霊夢が身を捩る。けれども、目を覚ます様子は無い。
タオルを濡らして、よく絞ってから再び彼女の額に乗せる。
荒い息遣いが耳に届く。
「……霊夢、私が付いてるから」
そこで、ふと今思い付いたことを実行に移してみる。
霊夢の頭を少しだけ持ち上げて、そこに私の膝を滑り込ませた。つまるところ、膝枕。私は人間よりも体温が低いため少しは役に立つかと思ってこうした、後悔はしていない。
髪を撫でる。普段はなかなか触らせてくれないから、こうして触れられるのは少し嬉しい。
「ん、ん……」
「霊夢、起こしちゃった?」
身動ぎした霊夢と目が合う。
「……フランドール?」
「霊夢が倒れたって聞いて、居ても立ってもいられずに来ちゃった。気分はどう?」
「ただの風邪で大袈裟ね。今は大分良いわ。で、何この状況?」
「膝枕。どう、嬉しい? 止めてって言っても止めないけど」
「風邪が移っても知らないわよ」
「妖怪は丈夫なの。移るなんてあり得ないわ。私の体温なら冷やすには丁度良いんじゃないかしら?」
「……そうね、確かにあんたのこの体温なら丁度良いかもね」
「アンデッド様々って所かしら。暫くこうしているから、もう少し寝ていたら?」
「その前に一度着替えたいわ」
霊夢は上半身を起こす。
「この感じだと、昨日は着替えてないと思うのよ。少しベタベタするし」
「そうなの? そしたら私も手伝ってあげる。着替えと身体を拭くくらいどうって事無いわ」
「は? いやそれくらい自分で出来るわよ」
「駄目よ、病人は大人しく任されていれば良いの。舐めても大丈夫なくらいピカピカにしてあげるわ」
「その言葉で激しく不安だわ」
「それじゃ、準備してくるから大人しくしているのよ。あ、脱衣所にあるタオル借りるからね」
霊夢の言葉を黙殺して脇に置かれた桶を持って立ち上がると、脱衣所へと足を向けた。
何処に何があるのかは勝手知ったる他人の家。聞かなくても大体の物は分かっている。
タオルを脱衣所の棚から拝借して、隣接されている温泉へ向かう。
せっかく常時使える温泉が側にあるのだから使わない手は無い。わざわざ井戸から水を汲んできて竈で沸かす手間も無いしね。
地下深く、地獄からの間欠泉を使った温泉の湯を桶に汲んで、その中にタオルを浸すと桶を持って霊夢の部屋へと戻る。
「お待たせ、霊夢」
桶を抱えて部屋に入ると、霊夢は布団から上半身を起こす。
桶を布団の脇に置いて、部屋の隅に置かれた桐箪笥から襦袢を一着引き出して、それも桶から少し放して手の届く位置に置いておく。
「私が脱がす?」
「いらないわ。自分で出来るから」
私の言葉に返して、霊夢は自身の襦袢に手を掛けた。
彼女の言葉に大人しく見守ろうかと思ったけれど、汗で張り付くのか脱ぎ難そうにしているのを見かねて結局は私が脱がせた。
少し汗の浮いた背中に絞ったタオルを当てて拭き上げる。
「熱くない?」
「ん、大丈夫よ。熱くないわ」
下ろした黒髪をズラした時に覗いたうなじに、牙を突き立てたい衝動に耐えつつ、背中を拭き終える。髪を下ろして、見えなくなった首筋にホッと密かに息を吐いた。
彼女が回復したら一滴くらい血を貰おうかと考えながら、タオルを桶に浸して絞り今度は前に回り込む。
「前くらいは自分でするわ。それにしても、あんた手慣れてるわね」
「パチュリーから借りて読んでた本に簡単な介護の本もあってね。こんな所で役に立つなんて思わなかったわ」
分身相手に練習した甲斐があったってものね。
差し出したタオルを受け取って、霊夢は身体を拭いていく。
「あー、フランドール。そんなに見つめられると拭き難いんだけど」
「何、今更恥ずかしがっているの? 今まで一緒にお風呂に入ったり色々しているのに、裸一つで何をそんなに恥ずかしがるのよ。ほら、何時までもそんな格好していると風邪が悪化するよ」
タオルを受け取って桶に入れてから、霊夢に襦袢を着せる。
「それじゃ、さっさと布団かぶって寝る寝る。何なら子守歌でも歌ってあげようか?」
「要らないわよ。そんな歳じゃないわ」
布団に潜り込む霊夢。
「私は一度桶とタオルを片付けてきちゃうね。直ぐ戻ってくるから、大人しく寝てるんだよ」
「あんたは私の母親か」
「あら、私は母親じゃなくて恋人よ。大事な人を心配するのは当然でしょう」
私の言葉に、彼女は頭まで布団を被ってしまう。
ただ、一瞬だけ見えたその顔は朱色に染まっていて、私は口の端が持ち上がるのを指先で押さえることで自制した。
「……早く元気になってね」
呟いた言葉は届いたのか、私には分からなかった。
◆◇◆◇◆◇◆◇
気が付くと、私は湯飲みを片手に神社の縁側に座っていた。
朝の日差しが降り注ぐ中、空を見上げている。
空に手をかざして、熱くも痛くも無い日の光を遮る。
顔に影が差す。ふと、そこで微かな音が耳に届いた。
コップを弾いたような、そんな音色だった。
腰を上げて音の出所を探る為に私は歩を進める。
音が響く。
一つ。二つ。
それは直ぐに見つかった。
障子を開けた先には、家具も何も無い部屋の畳の上に位牌が一つ。
それを見た瞬間に、私は冷たい物が全身を這い回る様に感じた。
震える足で一歩一歩近づき、震える手で誰かの位牌を掴む。
それを胸に抱える様にして、私は歩き回る。
見つからない誰かを捜して。
「 」
喘ぐように名前を口にするが、言葉は耳に届かない。
言い様の無い喪失感に涙を溢れさせながら、それを拭うこともせずに部屋という部屋の障子を開けていく。
どの部屋も家具一つ無く、人の姿すら無い。
私は耐え切れず、ついにその場に崩れ落ちる。
みっともなく泣きながら、名も言えない誰かを必死に想う。
そして、世界は白く染まり、砕ける様に暗転した。
◆◇◆◇◆◇◆◇
「フランドール、大丈夫?」
直ぐ側から聞こえたその言葉に、私は目を覚ました。
間近に霊夢の顔あった。
幾度か眼を瞬かせて、私は何時の間にか霊夢の布団に潜り込んで眠ってしまっていたことに気がついた。
既に夜になっている様で、行灯には火が灯されて室内を淡く照らしていた。
「え、私何時の間に眠ってたの!?」
「私が目を覚ました時にはもう船を漕いでいたわよ。だからこうして引っ張り込んだのよ」
「う、ごめん」
看病している者が眠りこけるなんて失態に、私は顔を覆いたくなる。
「これ以上眠くならなかったから、丁度良い暇潰しにはなったわ」
「むぐぐ!」
「……何だかうなされいていたようだったから起こしたんだけど、怖い夢でも見た?」
優しい笑みを浮かべて、霊夢が私を見る。
それに頷いて霊夢を抱きしめると、その胸元に頭を擦り付けて息を吐き出す。
胸の内にくすぶる不安感を払拭するように。
「少し、このままでいさせて」
「本当に、歳食っている割にはまだまだ子供ね」
「むう、私子供じゃないわ。霊夢よりずっとずっと大人だもの」
「はいはい、そうね。もう少し大人しくしていなさい」
私の頭を撫でる。
ただそれだけで何だか安心してしまう事に、ちょっとだけ悔しさが募る。
「私は絶対霊夢を簡単には死なせないから」
「うん? 人間以外にするっていうのは全力で抵抗するわよ」
「それは分かっているわ。だから、霊夢は私に看取られるまま天寿を全うするの。それ以外の方法でだなんて殺させない」
「……だったら、この風邪もさっさと治さなきゃいけないわね」
「当然、完膚無きまでに叩き潰してあげるわ」
「はいはい、期待しているわよ、フランドール」
「あ、そうだ」
「どうかした?」
霊夢が不思議そうな顔をする。
「昔から風邪を引いた人を早く治す方法があるのは知っている?」
今度は何だか嫌そうな顔をする。
「あんた、まさか」
「私が貰ってあげる」
悪戯を実行する時の様に笑みを彼女に向けて、私は顔を近づける。
「そもそも、妖怪は丈夫だから風邪なんて引かないって……」
「なら、風邪を引くまで何度でもするだけよ。ほら、大人しくして」
「ん、んむぅー!?」
その後は何があったかは、私と霊夢だけの秘密。
あ、翌朝には霊夢は完治しました。とだけここに記しておく。
END
色…々………!?
さすが495歳。なんかかっこよかったです。
愛する人が病に倒れたとき、そばで看病してあげる子は正義