「ありがとう咲夜」
そう言って私が日傘を上げたときには、もう咲夜の姿はなかった。
博麗神社までの道のりを、咲夜は私のメイドらしく、静謐とした従順さで送り届けてくれた。
よくよく見れば歩いてきた林道のずっと向こう、道沿いに茂る草木の間で咲夜がこちらにぺこりと、頭を下げていた。そして、また消えた。
送ってくれた礼にと言った言葉だったのに、それを聞きたくないかのように、咲夜は帰ってしまった。
なにがあっても、明日迎えに来てちょうだい。道中で私がそう忠告したときも、咲夜は黙って頷いただけで、日傘を注意深く私の上で掲げていた。
そう言えば、咲夜はここまでずっとなにも喋らなかったっけ。
ただ音も立てずに、まるで雪が溶けていくときのようにして、咲夜は微笑んでいるだけだった。
「ありがとう」
夜王たる私の、心臓はいま、追い詰められた小鼠みたいに震えている。必死に顔だけ取り繕っても、胸の中という穴蔵ではボロを出すまいと緊張して、怯えている。
そんな姿、妹にはとても見せられない。
いや、たとえ誰にだって見せるわけにはいかない。
特に、この博麗神社に住む、博麗の巫女には。
私は唇を固く結び、神社の母屋へと一歩踏み出した。時はもう夕暮れ、明日は雪が降るとパチェの予報で出ていたから、ぐったりと薄のろな雲が空を覆っていて、苦手な夕陽を隠してくれていた。
夕陽で生まれていたはずの私の影もなにもかも、薄暗い曇り空に紛れてしまって、辺りは不思議なほど静かだった。
「ご、ごめんください」
母屋の入り口でどもらないように注意しながら、言う。
「れ、霊夢?」
巫女の名前を呼んでみても、返事は無い。奥の座敷と想える部屋から、蝋燭の灯りだけがこぼれている。
居ない。そう想えた私は肩の力が抜けた気がして、でもすぐに日傘の取っ手を握る手に、力を入れなおした。
少しだけ、ほんの少しだけホッとしている自分を感じたのだ。
私は力任せに声を出そうと、震える小鼠を追い出そうと、胸いっぱいに空気を吸い込んだ。
それ、出してしまえ。
タイミングを計っていた私の口を、聞き慣れたあの声が塞ぐ。
「レミリア? どうしたの、こんな時間に」
博麗霊夢の、落ち着いた声がした。
それとは裏腹に、私は、今にも蝙蝠に化けて逃げ出しそうなところを必死に堪え、なんとか踏み留まり、その声の出処を探った。
出る時を見失った小鼠は、霊夢の声を聞いただけで、少し、静かになってくれた。
「ごめんね、いま手が離せなくて」
もう一度聞けば、霊夢がどこに居るのかすぐに分かった。
母屋を挟んで向こう側、勝手口のある、
「こっちよ、いま台所にいるの。ぐるっと回って来て」
呼ばれた私は返事をする余裕も無く、ただ早足に霊夢の元へと足を向けた。
外はもう、肌が痛むほど明るくない。私は日傘を閉じて、小鼠の心臓を逃さぬよう、ぎゅっと胸の前で右手を握る。
左手に、昨晩作ったお菓子が入った紙袋を下げて、私は母屋の角を曲がった。
すぐに見えた台所の格子窓からは湯気が出ていて、霊夢の鼻歌が聞こえた。
なんだかずいぶんと機嫌が良いらしい。いつものんびりしていて、暢気にお茶を飲んでいるとなにを考えているのか分からないものだけど、今日は珍しく、嬉しそうに楽しそうにしているようだった。
私は格子窓の前まで来て、そこから霊夢に話しかけた。
「霊夢?」
「なに、こんな時間にどうしたの?」
どうしたの、なんて気軽なものじゃない。私は、必死の想いでここまで来たんだ。
「霊夢。霊夢あのね? 明日、バレンタインじゃない?」
今にも逃げそうな小鼠をしっかりと閉じ込めて、震えそうな唇に契を結んで。
「ああ、そうね、バレンタイン。魔理沙やアリスも言っていたっけ」
「そうバレンタイン。だ、誰かにチョコレートをあげる日、なんだけど」
自分でも恥ずかしいくらいに一途に。この日がくるのを待っていたんだ。
「そ、それで、わたし、ね? れ、霊夢に、ちょこれー」
「チョコレート! 一杯もらっちゃったのよね! お賽銭箱に入らないくらい、たくさん」
なのに。
「まだ明日じゃないのに、みんな持ってくるの。早い者勝ちだとかなんとか。おかしいわよね」
それなのに、あなたの声が遠くて。届かない自分が歯がゆくて。
「魔理沙とアリスと、文と幽香と青娥と、驚いたのはあの紫にももらっちゃってね。てんてこまい。びっくりするじゃない? そんな一度にさ」
格子窓の向こう、一所懸命なあなたの喋り方はとてもかわいいのに。
「他にもたーっくさん。明日から大変よ、お茶請けにチョコレートなんて、きっと合わないでしょうねぇ。溶かしちゃって、ケーキにでもしようかしら、なんて考えたけど」
私は、私のツマラナイ部分であなたに嫌な想いをしてほしくなくて、日傘を広げて、来た道を。
私は。
「でも、ぜんぶお断りしちゃった」
私は。
「レミリアが来るの、待ってたから」
私は、振り返った。
.
脳内再生余裕でした。
僕は忘れないこの日を君を誰にも渡さない
……すごい、まるでシーンを切り取ったみたいに、鮮明に浮かびました。
多分もうすぐ雨も止んで 二人 たそがれ
名曲は廃れないなあ
ずるいw
かく言う私もおっさんでしてね