活字を追って集中力の途切れた頭に、時計の鐘が突き刺さった。
こめかみを揉み解しつつ、なんとはなしに往来へ目を向けると頭痛が余計にひどくなった。
入り口脇にひっそりと佇む人影。貧乏神の到来である。
「いつからいたんです。さっさと中に入ってください」
「どういたしまして、わちきのことは信楽焼きの狸とでもお思いになってくんなんし」
そこは招き猫になるくらいの努力をしろ。
入り口に向かう足取りもつい荒っぽくなってしまう。
「いいから」
「きゃっ」
暖簾の向こうに手を伸ばして人影を引きずり込んだ。
ぶりっこめ。なにが「きゃっ」だ。
「適当に座っててください。お茶を淹れてきますから」
客になる可能性が見込めなくとも、持て成さない理由にはならない。悲しいかな、商人の性である。
この隙に逃げてるかな、なんて盆に湯呑みを載せて店に戻ると……まだいた。定規を当てたような格好で座っているのはいいとして、趣味の悪い傘が机に立てかけられていて邪魔臭い。
「どうぞ」
湯呑みを置いたら小傘さんはびくりと竦んだ。
椅子を引くとまた驚かれたので、胸中に「ざまあみろ」が飛来した。
「あの」
小傘さんがおずおずと切り出した。
「私、お客さんじゃなくて」
「知ってます」
「お金もなくて」
「知ってます」
お茶を啜ってひと呼吸置いた。
「いい? 何度も言ってるけど、あんなとこにいたら借金取りか物乞いみたいにご近所さんから思われるでしょ。妖怪ってだけでお客さんも入り辛くなるし、変な噂が立ったらどうしてくれるのよ。入るなら入るで、うちに来ない選択肢がないんだったら最初っから……」
ちりんと入り口から鈴が聞こえた。
「邪魔するぞい」
「いらっしゃいませ相川さん!」
椅子を跳ね飛ばして立ち上がってしまう。
「ご無沙汰じゃの」
「もう、ほんとですよ」
「寂しかった」なんて付け加えるのはきっとやりすぎ。ぱたぱたと小走りでお客様を出迎える。
今日の相川さんはたっぷりした海老茶の袴に萌黄色をした羽織。丸めがねの奥で細められる目が最高にかっこいい。
「本日はどのような御用向きでしょうか」
「本音を言えばかわいい店主の顔を見たさに、なのじゃがそれでは申し訳が立たんのう」
「やだ、お上手なんだから」
頬が地滑りを起こした。
私、下品な笑い方してないよね?
「いやいや、器量よしの娘さんなんじゃから贔屓にも力が入るて。さて、この本なんじゃが……」
商談の間、相川さんはずっと私を見ていてくれた。飴をひとつ頂いて、頭も撫でてもらえるおまけつき。お帰りになる背中は夕暮れの中ですらっと伸びて、いつにも増してのかっこよさです。
ああ、次はいついらしてくださるんでしょう。飴は神棚にあげとかなくちゃ。頭も洗いたくないけれどそうも言ってられなくて、ほんとに罪な方である。
買い取った本を胸に押し頂いて店内へ戻ると、赤と青の瞳が私を見ていた。さっきと変わらない力の入った姿勢のままで、よくもつものだと感心した。
「まだいたんですね」
ちょっとは口答えしてくるかなと思ったけれど、小傘さんは曖昧に笑っただけだった。
仕方ない。大人しくしていたようだし、お茶を淹れ直すくらいはしてやってもいいだろう。
***
お説教の甲斐あって、小傘さんは自分から中へ入ってくるようになった。初めの頃は声を掛けただけで逃げる不審者だったんだから大幅な進歩と言える。
あとは追い払って寄り付かないようにしてしまえたら片がつくわけだけど、どうしたらいいんだろう。いっそ放って置いても構わないのかも。霊夢さんにお願いするほどじゃなさそうな微妙加減だし。
「何してるの」
「本の修繕。見ればわかるでしょ」
小傘さんは興味津々といった様子で私の手元を覗き込む。
見られているとやり辛いけど、仕事は溜まるばかりで待ってくれない。なるべく気にしないようにして頁の破れ目を繕ったり、擦り切れた綴じ紐を取り替えたりしていたら、
「うへへ」
「なによ、気味の悪い笑い方して」
「んーん」
組んだ腕に顎をもたせて小傘さんはゆるゆると首を振る。
なんでいきなり馴れ馴れしくなった。
「手伝う?」
「いらない」
得体の知れない妖怪なんかに任せられるか。
「だいたい貴女、経験あるの」
「ないよ」
やっとわかった。小傘さんってバカなんだ。
「どうしてそれでやろうって思えるのよ」
お饅頭だしてやったんだから大人しくしてろ。
「だって、手伝いたくなったから」
思わず手が止まった。
「なんで驚いてるの」
「いえ、だって」
今の声は赤ん坊をあやす母親みたいで、泣きたくなるほど優しかった。
「だって?」
小傘さんは色違いの瞳をくりっとさせて小首を傾げた。
うん、きっと気のせいだ。媚を売るんなら相手を選べ、ぶりっこめ。
「手伝いたいって言うんなら手伝ってもいいけど」
「いいの!?」
「ただしひとつだけよ。こんな風に」修繕中のものを掲げた「特に痛んでそうな本を集めてきて。染みがあるだけとか少し破れてるくらいなのはかわいそうだけど後回し。妖魔本も変に刺激したら困るから避けて。できる?」
「楽勝よ」
うちの蔵書数を前にして大胆な発言だ。本棚の森をずんずん突き進む小傘さんの背中に、やっぱりバカなんだなと改めて思う。
なにはともあれ厄介払いは大成功。めでたく作業再開の運びである。
こういう細かい仕事は結構好きだ。文字の湖に沈んでいくこととどこか似ていて、鼓膜が優しい水に浸されるようにして周囲の音はしんしんと絶えていき、
「これ、どこに置いたらいいかな」
甘美な世界に割り込まれた。いくらなんでも戻るの早すぎ。
どうせ適当に引っこ抜いてきたんだろうなとため息を堪えていたら、どれもこれも文句なしの痛みっぷりだった。何故だ。
「また驚いてる」
私の顔を読んだのか小傘さんは嬉しげだ。
やり込められたみたいで悔しい。
「ちょっとね。本は机の脇に積んでおいて」
「うん、じゃあどんどん持ってくるわね」
きらきらした笑顔で小傘さんが駆けていく。嫌な予感は嫌になるくらいに当たるもので、私がひとつ繕うごとに本の塔もひとつ建つ。贅沢な話だけれどやめて欲しい。
入梅までにこなせる量を超えかけたところで「待った」を掛けた。
「いいの?」
「もう十分。休んでくれていいわよ」
「でも」
「お願いだから休んでて」
渋々といった態で小傘さんは脇の椅子に腰掛ける。
認めなくちゃいけない。この妖怪は、よく分からないけど有能だ。
「まぁ助かったわ。ありがと」
「こちらこそっ」
妙な返事だったけれども、調子に乗らないとはなかなか出来たバカである。
ちょこなんと行儀よく座ってにこにこしているところは、褒められるのを待っている犬にも見える。ので、誘惑に負けた。
「へ?」
小傘さんは驚いてるみたいだけどこっちだってびっくりだ。
私の手が、水色の髪を撫でていた。ちょっと癖っ毛なところがふわふわしていて気持ちいい。
「わちき、もういかなきゃっ」
真っ赤になった小傘さんが外に飛び出していった。律儀にも傘は忘れず握り締めてた。
なんだあれ。
***
あれならもう来ないかなとのんびりしてたら油断した。
入り口脇にひっそりと佇む人影。暖簾の下から見慣れてしまった下駄が覗いてる。消極的ながらも立派な営業妨害の復活だ。うんざりである。
ひとまず小傘さんを引っ張り込んで茶を出した。お説教もした。しっかり反省したようで、椅子に大人しく畏まっているのでひと安心と思いきや、
「そのお茶碗、昨日はいなかったわよね」
食器を拭っていたら指摘された。案外に目ざとい。
「ちょっと買い足したの」
「そう」
うまく誤魔化せたか緊張する。買い足したのは真っ赤な嘘で、たまに生まれたての付喪神がいつの間にか紛れ込んでいるのだ。原因は公言できるような類じゃないし突っ込まれるとまずい。
手元に突き刺さってくる視線を無理やりに無視していたら、
「何か手伝えることってない?」
「え?」
間抜けな声で問い返してしまった。
「ああうん、手伝いね。じゃあ本棚の埃を払ってもらおうかな」
「任せてっ」
はたきを手に取り組みだした。気が抜けた。
私の心配は杞憂だったようだし、昨日とまったく同じ展開にちょっと救われた気分にもなった。ついやってしまったあれが子供扱いしてしまったようで、小傘さんの帰ったあとに大分気まずい思いをしたのだ。この申し出は「気にしていない」との表明だと受け取った。
なのに、今の状況はなんだろう。
「終わったわよ」
「ありがとね」
感謝を告げても小傘さんは私の傍から離れずに、もじもじそわそわ落ち着かなくて指を組んだり戻したり。いつものぶりっこかと思ったけれど違うっぽい。二色の瞳がちらちら私の手を盗み見るのである。気にしていないどころじゃなかった。
それは私の身長を知った上での狼藉か。発育のよろしくない阿求にも一寸ちょっと負けてるんだ。高下駄まで履いてるあんただとあれだぞ、前に立ったらあんたの顎にものすごく頭突きしやすそうなんだぞ。
なにも出来ずに固まってたら、小傘さんは決まり悪そうに傘を掴んだ。
「じゃあ私……」
「座って」
出し抜けの命令に、小傘さんは戸惑った。
「そこ、椅子、あなた、座る」
何故か片言だった。叱られるとでも思ったのか、腰を据えた小傘さんは体を縮こまらせて待っている。
ちょっとだけ躊躇った。私の勘違いだったら舌を噛んで死ぬしかない。
躊躇いながら腕を伸ばして、小傘さんは私の手の行き先を見守って、それから笑った。ぶたれることを少しくらい警戒してもいいはずなのに能天気にもほどがある。
「んふっ」
小傘さんは目を瞑って私の手を味わってる。いいのかなぁ、これ。あからさまな年下によしよしされて喜んでるお姉さん。倒錯的な光景だ。手のひらをくすぐる感触に逃げたい気分でいっぱいになった。
そんなこんなで、変なのに懐かれた。
どうやら学習してしまったようで、明くる日もその次も、手伝いが終わったら小傘さんはすっかり自分のものにした椅子に座る。三日も経つと遠慮は綺麗さっぱりなくなって、頭を無言で差し出してくる。お客さんの手前では恥ずかしくてとても出来ない。人目がなくなるまで待たせていると、焦れたんだろう小傘さんは頭を手のひらに猛然と押し付けてくる。「辛抱が足りないわね。いやらしい子」なんて冗談が飛びかけて、自分の色惚け具合に愕然とした。活字に飢えたからって艶本まで漁るのは厳に慎むべきである。
「今日は何したらいい」
当たり前のように訊かれてついに詰まった。
日参されたら手伝いの種も尽きる。理由を抜きに撫でても構わないはずなんだけど、それは少し違う気がした。私は彼女の飼い主ではない。
「貴女、朗読してみない」
「ろーどく?」
懇切丁寧に説明した。
週に一度、我が鈴奈庵にて開かれる子供向けの朗読会なのである。子供達はお話から妖怪への対処を学び、親御さんの間ではうちの評判が高まると、実も利もある催しだ。
さらにうまくいったら、うちに入り浸る妖怪が人畜無害そうな奴であると近所に伝わってくれるかもしれない。
「だったら私、怪談がしたい」
願ったり叶ったりなのだけれども、変な妖怪だとつくづく思う。
結果としては大成功を収めた。熱心に種本を読み込んでは弁舌爽やかに口演するのみならず、アドリブを挟んで外連味たっぷりに子供達を怖がらせた。あんまりきゃあきゃあ騒がしいので、大人が覗きに来るほどである。随所で怪声を上げる唐傘もいい仕事をしてたと思う。あれ、どんな仕組みなのかしら。
で、これも学習したんだろう。私といっしょに子供達を見送るなり、小傘さんが入り口から一直線に駆けて椅子へ直った。
「ん」
無防備につむじが突き出された。成功によほど気を良くしたらしく、撫でたら撫でたで頬を崩して次の本を選び始めるし、鼻歌まで漏れ出した。
もしかしたら私は結構な拾い物をしたのかもしれない。お饅頭と手のひらだけで従順な労働力を確保したのだ。「濡れ手で粟のひとつかみ」と運慶先生からもお褒めを頂けることだろう。気まぐれな妖怪のことだからある日ふらっと消えるのかもしれないけれど、そこはそれ、私の懐はびた一文痛まないのである。
算盤にほくほくして小傘さんに目を向けると、優しい気分が吹き飛んだ。
「よだれよだれよだれっ」
「んあー」
間一髪だ。
まぶたが半分落ちかけてる小傘さんは袖で口端をごしごし擦って……いやいや貴女、仮にも女の子がそれはない。
「これ使いなさい」
「うん」
「眠いんなら寝てていいから。あとで起こしてあげる」
「ん」
生返事もおざなりに小傘さんは机に沈没してしまった。
元が夜行性の多い妖怪。このバカもそのひとりなのかもしれない。それに初挑戦の朗読で案外気も張って……ないわね、この突っつきたくなる間抜け面。鼻ちょうちんを膨らませ始めても驚かない。勧めた私も私だけれど、人間の前で昼寝ってどんな了見してんのさ。
水色の髪に触れたら、癖っ毛に柔らかく受け止められた。ここ数日ですっかりお馴染みになってしまった感触だ。頭を撫でると間抜け面がにへらと歪んだ。太平楽なものである。
妖怪って、なんの夢を見るのかな。
***
「ぬし様にはご機嫌さんでうれしうありんす。蝶の遊ぶ艶やかな浮世に、わちきとそろそろ冷やかしにおいでくんなんし」
朝一番に飛び込んでくるなり、わけの分からないことを言い出した。眉をひそめる私へ、しどろもどろに弁解する小傘さんを要約したらこうなるらしい。「私とデートしませんか」。
妖怪と、ねぇ……
「引きこもってばかりって体に悪いんでしょ」
巨大なお世話だ。
「天気はあまり良くないけど、きっとすっきりするから」
快晴に文句を付ける貴女の感性がすっきりしない。
「いきなり言われても支度に時間が掛かるんだけど」
「待ってる! 怪談の本読んでてもいい?」
げっそりした。
「好きにして」
遠まわしな拒否はバカに通じないらしい。きっぱり断らなかった私も立派な同類なんだろう。暖簾を下げて奥に入った。
つまりはあれだ、今日は厄日なのだ。今朝は夢見からして悪かった。小傘さんが私に跨り手妻遣いよろしく傘の上で鉄輪を回していたのである。ぐったり疲れて起きた後もひどかった。いくら洗っても顔はしゃんとしないし、髪は何度結わえてもしっくり来ない。店に入ったら足元は冷たくて、本がみんなしんとしていた。こんな日は客足だって芳しくないだろう。すっぱり観念して着替えである。
フレアのワンピースは髪に合わせて赤のギンガム。腰は幅広のリボンで前に結び目を持ってきて、あとはケープレットを羽織って終わりなんだけど、なんかこれ、過剰にひらひらしているような……気にすることじゃないか。よろしい、がま口とハンカチはちゃんと持ってる。
親に昼食の不要を告げて店に戻った。
「それかわいい。貴方のそんな格好初めてみたっ」
「はいはい、ありがとさん」
うん、嬉しくない。小傘さんだとむしろ嫌味に聞こえる。いつもの私はどうせかわいくないエプロンです。
連れ立って外に出ると五月晴れの見本だった。午後に入れば汗ばむくらいになりそうだけど、山からの風は冷たいし肩を出すにはまだ早い。ケープは正解だ。
「で、行く当てはあるの」
訊ねると小傘さんは大威張りでふんぞり返った。
良くぞ聞いてくれたと言わんばかりの態度である。
「良くぞ聞いてくれました」
ほんとに言った。
「私、色々考えてきたのよ。こっち!」
「は?」
私の手を取って小傘さんは待ちきれないように駆け出した。幽かに残る朝の香りと昼の温みが耳元を抜けていく。革靴を履いてきてよかった。こんなに走るのっていつ以来だろう。煙々羅の時はそこそこがんばった気がするなー。
なんて悠長に考えてたら小傘さんの勢いは全く衰えずに二町駆けてお代わりにもう三町。ほぼ全力疾走に近いままで汗は滲むし、貴様、「手加減」を辞書でいっぺん引いて来い。
視界にきら星が散り始めたところで「待った」を掛けた。こんなのばっかりだ。
「ごめんなさい。思いついたら止まらなくなるのって悪い癖だって知ってるんだけど」
「そんなこと、貴女を見ていれば分かるわよ」
下駄でもお構いなしに走れるってどういうことなんだろう。膝に手をつくこちらと違って、小傘さんはけろっとした顔つきだ。いくら私が不健康な生活をしているからって不公平なものである。
息を整えてからは並足で行った。しばらく進むと値切りの掛け合いに威勢の良い呼び込みなど、あっという間に周りは黒山の人だかりになった。
どうやら小傘さんは十日市を案内したかったらしい。野菜や編み細工に胡散臭い魔法使いの露天商と、節操のない店並びの中でも特に目を惹くのが、
「あれ」
空き地の一角。自慢げに指を向けられた先で、簡易な舞台が設けられている。なるほど、森の人形遣いが来ていたようだ。
考えなしに誘っていたんなら張り倒していたところだったので安心した。不定期ながらも結構な人気の人形劇で、私も何度か見たことがある。小傘さんは馴れた様子で私を引いて観客の間に収まった。座り込む子供達と、立ち見の大人達に挟まれた格好だ。
劇は既に始まっていた。どうやら桃太郎のようなんだけど、様子がおかしい。
「ああ犬姫、あなたの尻尾は魔法の杖。ただのひと振りで私の心を奪ってしまった」
ブロンドの桃太郎が口説き始めた。よくよく見れば人形の背負う旗印は桃でなくてハートである。熱烈な求愛に犬はまた満更でもなさそうで、あれよあれよという間に猿も雉も同じ調子で口説かれるし、きびだんごはどこ行った。
恋多き珍道中は反感を買いそうなものだけれども観客からの声援は上々だった。この桃太郎、王子様とピエロの兼任で忙しく、捨て身でお供達を庇ったかと思えば次の瞬間、満身創痍になりながらも大仰なあまりに滑稽さも滲む姿で愛を歌い上げる。もはやお姫様になったお供の甘い言葉やつれない態度に、子供達は一喜一憂するのである。
で、小傘さんもそうなんだろうなと思っていたら、ちょっと違った。窮地の局面では眉を寄せて、笑いどころではくすりと零す。あとはふわふわ微笑んでいるだけで、なんだか拍子抜けだ。
「ん?」
こちらへ気づいた小傘さんに視線で問われたので桃太郎へ戻った。鬼ヶ島の門番を篭絡したところだった。当然のように鬼達も美女ぞろいという設定らしい。
隣で騒がれたら他人の振りを決め込むつもりだったので、物静かなのは僥倖なのかもしれない。けど、うん、やっぱり変な妖怪である。今も唇の端を緩めて、舞台を見る目も眩しそうに細めていて、
――だって、手伝いたくなったから。
何故かしら、あの時もこんな顔をしてたんだと思えた。
意識の外で、わっと歓声が上がった。舞台では鬼の頭領が桃太郎をお姫様抱っこしていて……なによこれ。
一応冒険の目的は達成したようで、勝負に勝った桃太郎は約束どおり頭領のものとなり、翁に嫗、鬼やお供といっしょに愛の従者として幸せに暮らしたのでした。どっとはらい。
ものの見事に奇天烈な結末だけれど大団円には違いない。
出演者達のかわいらしい一礼に観衆から拍手が飛んで、ざるを抱えたエプロンドレスの人形達も後列目掛けて飛んでくる。普段着らしい人形も相変わらずかわいい。おひねりを投げ込んで、さてお開きといった段になったんだけれどもなんだか妙だ。小傘さんが動こうとしないのだ。じっと注がれる視線の先には、子供達の手で撫でられる小さな役者さん達の姿である。
そうか、大人しかったのは単に我慢してただけだったんだな。ちょっとだけ見直したぞ。
「行ってきたら? 待ってるから」
かわいいものを好いて、一体何が悪いのか。
促してみるものの小傘さんはゆるゆると首を振った。
「私が混ざってもおかしいでしょう。それに、あの子たちが喜んでいれば十分だから」
変に達観した態度である。まぁ子供達に譲るのは立派だ。
幕が降りたら昼時と丁度いい具合だったので色気もなく蕎麦を啜った。店先には立ち飲みの場があるような、つまりはそんな蕎麦屋である。小傘さん相手に気取ったって仕方ないし、カフェーの探索は阿求とやっている。
色々考えてきたというのは真実らしくて、
「貴方って本が好きでしょ」
だから、と店を出た足で古書を扱う一角に向かった。
こう言うと阿求にちょっと呆れられるけれど、帯や小物を眺めるよりも本の方が性に合ってる。遺品の整理だかなんだかで、稀覯本が何食わぬ顔で並んでいたりするから市は侮れない。うちに持ち込んでくれたならしっかり査定してあげられるというのに、もったいない話である。
まだ見ぬ出会いに心を躍らせていたら、繋いでいた手がぎゅっと握りこまれた。隣を見上げると、小傘さんは顔を強張らせていて、
「は? ちょっとなによいきなりっ」
背後に回って私を盾にしてくれた。
ほんとにもう、なんなのよ……って、
「相川さんっ」
小傘さんの視線を辿ると、雑踏の中でも見まごう方なき凛々しい御姿。健気な私を御覧になって弁天様が引き合わせてくださったのかもしれない。
いや、なんでこいつが相川さんに怯えるのだ。大概失礼じゃないか。
とにかく一刻も早くご挨拶へ向かいたいのに、背中に鬱陶しいのが張り付いているせいでうまいこと歩けない。私の声に振り向いた相川さんが先に寄ってきてくださる始末である。
「奇遇じゃのう」
「ええ、本当に」
ああ、かわいい服を選んできてよかった。
「お元気そうで何よりです。こちらには御商用に?」
「いやさ、恥ずかしながらお元気ということものうて、昨晩にしたたか呑んでまだ抜けん酔い覚ましじゃよ。それ、ひどいご面相じゃろう」
おどけてみせるお姿も素敵である。相川さんはぐっと顔を寄せてきて、切れ長の目の下にうっすらできた隈を指し……近いっ。整いすぎてるお顔が近い。嬉しいけどこれは死ねる。
「師匠!」
「おっと」
うん?
「貴方って師匠でしょ。もしかして見に来てくれたの?」
この状況ってなんだろう。小傘さんらしき人物が相川さんの首根っこにかじりついてる。
傍らにはふわふわ浮いてる茄子の傘。あなた、便利ね。
「いやいや、生憎じゃがお嬢さんのような知人はおらんよ」
「本当?」
小傘さんがキスでもするかのように覗き込んだ。いらっときた。
「失礼でしょ。いい加減離れなさいっ」
「きゃっ」
なんとか引っぺがせたけど、こんな時までぶりっこしてるし。
「本当に師匠じゃないの?」
「儂のような半端者にお嬢さんの師は務まらんさ」
まだしつこい。
どたばたのせいで周りから注目され出してるし、ここはさっさと抜けるが吉だ。
「申し訳ありません。本日は急ぎますので後日、ご来店の折りにあらためて」
「儂も退散するとしようかい。引き止めて悪かったのう」
気遣ってくださるお言葉で身も竦む思いである。挨拶もそこそこに、ぐずぐずしてるバカを引っ張って場を離れた。四つ五つも露店を過ぎたら好奇の目はすぐ置き去りにできたけれども、私の気持ちが落ち着かない。
奇跡の出会いがあっという間に台無しなのだ。残念に思うなっていうのが無理で、とんでもない無礼も働いてしまったし。怯える小傘さんを気に留めなかった私が悪いんだろうか。ああもう、ぐるぐるする。
「ごめんなさい、怒ってる?」
知らず知らず早足になっていたらしい。遅れ気味だった小傘さんが小走りに隣へ並んだ。
私を窺う色違いの目は、叱られるのを覚悟している子犬だろう。足を止めてため息をつくと全身が萎んだ。
このバカは、そういう奴だと知っている。一度懐いた相手にはとことんまで甘え倒すのだ。ふたりがうちに来る以上、遅かれ早かれ起きることだったんだろう。
「怒ってないわよ。ちょっと驚いただけ」
「そうみたいだけど、でも」
「大丈夫だから。ほら、貴女が案内してくれるんでしょ」
手を繋ぐと、一瞬戸惑ってから小傘さんは笑った。
「うん」
世話が焼けるものである。
道々、気になったことを訊ねてみた。何故、知った顔ならあそこまで怯えたのか。
「見た目が違うし、別のものだと思って怖かったから」
「他人の空似ならそんなものでしょうね」
それにしても、いくら私が相川さんの知り合いだからって背中に隠れないで欲しい。
王子様だったらいっぱつで退場だ。
「師匠は頭が良いし、とても偉い方なのよ」
どうやら小傘さんに火を付けてしまったようで、自慢話が始まった。
「今日のことも師匠が考えてくれたの。朗読のお礼をしたいけど何をしたら喜んでくれるかなって相談して」
なるほど、そいつの差し金だったのか。
「全然偉ぶらなくて、いつも優しくしてくれて……」
聞かされていると嫌な気分になってくる。何故を突き詰めるとひとつの可能性に思い当たった。
件の師匠とは性格も似ているようだし、相川さんにまで懐くかもしれない。
「……それでね、昨日もお酒を」
「ちょっと待って」
「なに」
「貴女、相川さんにまたお会いしても抱きついたらダメよ」
「しないけど、なんで」
「なんで、って」
懐いたらいけないことはあるだろうか。
「迷惑になるからダメ」
「分かった」
素直でよろしい。
相川さんはうちの上得意なのである。粗相があってはならないし、かわいがられるのは私ひとりで十分だ。恋敵は少ないに限る。
懸念が解消されたところでお目当ての路地に到着だ。古書屋の常連が天幕を張って、合間には飛び込みの露天もちらほら見える。歩を進めるごとに、見知った顔から挨拶を投げられては返していく。
古びた和紙に、掠れた墨。ぷんと漂う黴の匂い。ああ、心が安らぐ。天日に曝された本の香りは、うちだと虫干しの時くらいでしか味わえないのだ。今の私は大層しまりのない顔をしてるんだろうけど、そんなこと構ってられない。
方々を漁っている間、小傘さんが気になったけどいつ見てもにこにこしていた。
「退屈じゃない?」
「全然。貴方って本が好きなんだって嬉しくなるもの」
少し人が好すぎると言うか、さすがに気も咎めてくる。
やはりこういうのは自分ひとりか、同好の士と来るに限るのだ。
「もういいの?」
「堪能したから」
「そう、よかった」
まだにこにこしてる。もらいっぱなしも悪いし今日のお礼に団子をおごった。
これも師匠の入れ知恵なのか、思い出したように小傘さんがおごると言い出して少々難儀したけれど、強引に勧めたら満面の笑みで頬張っていた。犬だ。
「貴方って鈴も好きなんでしょう」
「名前にも入ってるから愛着はあるわね。って」
遠い声に振り向くと、小傘さんが今しがた過ぎた露天で立ち止まっていた。目を離したらあっという間にはぐれそうで危なっかしい。やっぱり手は繋いでおこう。
店先には鈴が文字通りの鈴生りになっている。脇の看板には「払魔の鈴」なんて仰々しく大書されているけれど、小傘さんが平気で手に取ってる時点でもうダメだ。見るからに妖怪してるお客を迎えておっちゃんも挙動不審になっている。ちょっと気の毒な光景である。
「これください」
買うの?
「なんだかふたりとも驚いてるわね」
それはそうだ。慌てたおっちゃんも代金を受け取り損ねかけている。
というか鈴ってひょっとして、
「私に?」
「そうよ、どう?」
得意満面に差し出されたのは、小振りな鈴に革紐を通したネックレスである。
買う前に訊いて欲しかったけれども好みとそれほど外れてないからよしとしよう。
「付けてあげる」
「じゃあ、お願い」
なんて軽々しく応えたのが間違いだった。鈴を持った腕が何故か正面から首に回された。
人前だし、たとえ小傘さんでも結構どきどきするものだ。ふわふわした髪は頬に擦れてくすぐったいし、花みたいな柔らかい香りもするし。私に合わせてかがむ姿は見た目相応のお姉さんである。
「やっぱり師匠から言われたの? 贈り物をしなさいって」
「そうよ」
へぇ。
「できたっ」
もぞもぞやっていた小傘さんが離れた。
「ほら、かわいい」
「うん、まぁ、ありがと」
もやっとしたけれども、きらきらした笑顔に負けた。
小傘さんだってそれなりに頑張ってくれたのだ。
***
ぼそぼそとやる気のない雨が降っては止んでを四、五日繰り返してから、ようやっと本格的な梅雨に入った。
小傘さんは相変わらずでも、ひとつ変わったことがある。手隙になると以前はそのまま帰るなり本を読むなりしていたところに、隣で昼寝もするようになったのだ。
おかげさまで小傘さんの滞在時間が飛躍的に延伸した。慣れてしまった親は「娘が増えたみたい」だなんて無闇にかわいがるし、夕飯も出してしまうしで面白くない。「この子はすっかりませちゃって」なんて比べられても困るのだ。どうせ私はかわいげがないですよ。
小傘さんも無邪気に喜んでないで少しはしっかりして欲しい。腕を枕にした寝顔はあんまり油断しきっていて、「妖怪ってこんなものだっけ」と不安になる。
それで失敗をやらかした。
一度寝入れば起こすまでは目を覚まさない。どれだけ不用心なんだと思うけれども私にとっては好都合だ。読書中、手慰みに小傘さんの髪をいじる癖がついてしまったのである。そこで、いつものようにしていると、いつの間にか起きていたらしく頁から顔を上げて次の瞬間、赤い瞳とばっちり目が合った。
これは貴女のふわふわな髪が悪いのだ。私が責められるべき由来はない。咄嗟に言い訳が頭をよぎったけれど、やってしまったことは厳然たる事実だ。顔の茹で上がりそうな熱さを自覚して固まっていると、小傘さんは腰を浮かせて、いつかのように逃げるのかと思ったけれども違った。椅子を引きずり、私の方へ寄ってまた眠ってしまった。どうやら撫でやすい位置に動いてくれたらしい。
爾来、昼寝の時にはぴったり寄り添ってくるようになった。これはこれで撫でにくいし、梅雨は客足が増える時期でもある。暖簾の上で鈴の鳴るたびに、起こしてしまわないよう気を遣う必要が出てきてしまった。
とはいえ文句を言える立場でもない。接客やら換気やら、晴れ間を縫っては本の虫干し。なにかと慌しくとも読書に耽る余裕があるのは、ひとえに小傘さんのお陰である。心穏やかに梅雨を過ごせるのは大変に喜ばしい。二十四節季、数ある中でもこの季節の読書は格別で、さらさらと優しい雨音を背景に物語の世界を味わう時間は贅沢のひと言に尽きる。脇から上がる、ぷすーぷすーなんていう気の抜ける寝息には目を瞑ってあげよう。雨音に混じるのは何も小傘さんばかりだけじゃなく、草むらで鳴く雨蛙や、りんと鳴る鈴もいるのだ。
ほら、こんな風に。
「いらっしゃいませ」
捲られた暖簾の向こうは水墨画の雨模様。入ってきた客は早苗さんだった。
「今日はなんでしょうか。伝奇や冒険、ロマンスものも入荷してますよ」
「ロマンスは溢れているから。私じゃなくて二柱のお使い」
頬を染めて毎度ながらのノロケである。
「あら?」
早苗さんが水色の頭に目を留めた。
誰だってそうだ。いい加減、この反応にも慣れてきた。
「最近見ないと思っていたら、こんなところにいたのね」
お知り合い? だったら、
「起きて。早苗さんがいらっしゃったわよ」
「あ、折角だから起こさなくとも」
遅かった。もう小傘さんはもぞもぞと蠢動を始めている。目覚めの時だ。
どういうことなのか早苗さんを見ても眉を少し下げるだけで……
「いじわる巫女! どうして貴方がっ」
ちょっとびくっとした。
「ご挨拶。どうしてならこちらの台詞です。だらしない顔で寝て」
「わかった。さては私の寝首を掻きにきたのね」
小傘さんは敵意も犬歯も剥き出しだ。
「するならとっくにやってます。退治して欲しいのならそう仰ってくださればいいんですよ。こちらは年中無休ですから」
口をへの字に曲げた小傘さんは、早苗さんと私を二、三度見比べて、
「今日は日が悪いのよ。今にびっくりさせてやるから首を洗って待ってなさい」
ぷいとそっぽを向いてしまった。私に遠慮してくれたんだろうか。
本題に取り掛かる早苗さんを本棚の奥へ案内してから訊ねてみた。
「随分嫌われているようですけど何かあったんですか」
「ほら、あの子っていじめてオーラがすごいでしょう。だから少し構ってあげたら嬉しかったみたいで、ちょくちょくうちへ遊びに来るようになったのよね」
嬉しいという様子ではなさそうだけれど、小傘さんだしそんなものかもしれない。
「こちらには何故? 付喪神だし同類に惹かれたのかしら」
何故でしょうね。
「ちょっとした縁でしょうか」
「だったら悪い縁ではないんでしょうね。退屈しないと思うし」
仰るとおりです。
園芸の手引きと推理物ばかり十冊あまりも持って、早苗さんはお茶を出す前に帰ってしまった。
小傘さんが付喪神。新情報ではあるんだけど驚けない。大方、唐傘小僧の親戚だろうとは思ってた。
見送りから戻ると、小傘さんは難しい顔で机を見つめていて……何故。
「お帰りになったからもう平気よ」
早苗さんへ大分失礼な言い方になってしまった。
よほど根深いものを抱えているのか、呼びかけても聞こえている様子がない。肩を揺すってからようやく我に返る有様で、気にするなという方が無理だ。
「早苗さんのことで何かあったの」
ふるふると首を振られた。
だったらなんなのだ。
「なんでもないから」
いくら訊いても頑固に言い張る。
押し問答を続けても仕方ない。本を読みつつ横目に様子を窺うけれど、小傘さんは昼寝を再開するわけでなしむっつり黙り込んだままだし、空いている手のやり場に困る。
夕飯でも上の空でお代わりもしないから、親が手のひらで熱をはかっていた。二重の意味で小傘さんが風邪を引くとは思えない。
「気を付けてね」
様子が妙だし、仮にも女の子なのだから注意してし過ぎることはない。
見送りに出ると、傘の影に隠れていても小傘さんは五月晴れのように、やけに清々しい笑顔を浮かべていて、
「今までありがとう」
うん?
「もう来ないから」
ぱしゃぱしゃと水音が遠ざかっていく。
なんだそれ。
***
どうせ明くる日にはひょっこり顔を出すに違いない、なんて考えは甘かった。当てにしていた労働力がいなくなって仕事はどんどん溜まっていく。「小傘ちゃんどうしたのかしら」なんて親はこぼすし喧嘩を疑われてしまうしで、否定したら「お腹空かせてないといいけど」とかまたぞろ心配を始めるし。責任を取ってどうにかして欲しい。
外へ出たついでに路地を覗き込むことがある。ぼろけた戸板の影に茄子色の傘がうずくまってたりしやしないかなんて、期待してはないけれど。小傘さんは犬じゃない。
鈴を買ってネックレスに仕立てた。もらいっぱなしも悪いし、小傘さんだってお洒落のひとつもしていいはずだ。なんだったら次にふたりで外へ出た時は、服を見て回ってもいいかもしれない。着たきり雀でいられるともったいないのだ。小傘さんは足が長めだし女袴よりはスカートだと思う。
牛蛙が吼えて寝付けない夜に、想像の中で水色の髪をいじくった。椿油で梳いたなら阿求のようにさらさらと風に流れる髪になりそうだけど、やっぱり綿菓子のような感触も捨て難い。なんとなく私と同じふたつ結いにしてみたら、あんまり子供っぽくてひとりで笑ってしまった。かわいいんだけど、これはない。ひとしきり笑って、馬鹿みたいだったのでやめた。うつらうつらとしていたら、一番鶏が鳴いた。
「もちろん知っているわよ。取材も直接したし。まだ草稿だけど読む?」
駄目で元々。阿求に訊ねてみると意外な返事があった。危険とかけ離れた存在のくせして、一丁前なものである。でも里に馴染んできた顔の紹介も兼ねているのだし、そんなものなのかもしれない。
小傘さんが何者かだなんて、今更すぎてどうでもよかったんだけど。
「飽きたんじゃない? どのみち妖怪は言葉を大切にするから、もう来ないのは本当でしょうね」
――気まぐれな妖怪のことだからある日ふらっと消えるのかもしれないけれど、
「それより貴女、ちゃんと食べてる? 私より先に渡ったら許さないから」
そういう冗談は笑えないのでよして欲しい。早々に切り上げて屋敷を出た。
収穫がまるでなかったというわけでもなく正体は掴めた。小傘さんはひと所でじっとしてられない根無し草なのである。犬かと思えば野良猫で、うちには居着かなかったというだけだ。それか、私が捨てられたのだろう。
こんなことなら無理にでも、うちに通う理由を聞き出しておけばよかった。疑問を残したまま消えるなんて出来の悪い推理小説でもあるまいし、あんまりな話だ。私がそんなものを読ませられたら作者に抗議の手紙を送りつけている。消化不良の結末は食あたりを起こす厄介者なのだ。
長雨は足から来る。湿った空気がつま先から脛を上がって、気づいた頃には腰まですっかり冷えている。無音のままに積もる雪より、雨のほうがよほど静かだと思う。
本を読んでいる最中、伸ばした手が空を切る。
寂しいとか、そんな気はこれっぽっちもしない。元から大して好きでもなかった。どちらかと言えば嫌いなほうで、私はぶりっこが嫌いなのだ。どんな風に振舞えばかわいく見えるか鏡の前で研究する。気になるひとには猫なで声で、気を惹く仕草もたっぷり仕込む。恋敵を見かけたら力の限りに蹴り飛ばす。
ぶりっこは嫌いだ。小傘さんを見ていると苛々するし、惨めにもなってくる。こうして私が机に伏しているのも、全部貴女の責任なのだ。だから、早く来てよ。
あなたって、かわいいもの。
――私の懐はびた一文痛まないのである。
「うそつき」
***
ぎいと隣で椅子が軋んだ。
「小傘さんっ、今までどこに行って……」
続けられなかった。
霞む目には、明らかに小傘さん以外のものが映っている。
「起こしてしまってすまんのう」
渋みのある優しい響きの声だった。
「使いなさい」
ハンカチを差し出された。
腫れぼったい目でぼうと眺めて、ようやく気付けた。受け取ったらどこまでも甘えてしまいそうで、袖を使ってでたらめに顔を拭った。小傘さんを笑えない。
「失礼しました。遅くなりましたがいらっしゃい……」
「あの子がの」
割って入ってきた声に、寝ぼけた体が硬くなる。
「龍神様から上がって五つ目を西。行き当たった橋のたもとじゃ。ご存知かな」
知っている。近頃できたお寺へ続く道で、男の子達がよくフナを釣っている場所だ。
全身を耳にして次の言葉を待っていると、唇が動いた。
「あの子が待っとるぞい」
お礼も言えずに駆け出した。時間も呼吸も無駄にできない。りんと背後で鈴が鳴る。足元でぱしゃりと水が撥ねる。裾はあっという間に泥水だらけで足に重たくまとわりつくし、お気に入りのスカートだったのに最悪だ。貴女みたいに走れないのになんだってこんな苦労をさせるんだ。
――りん。
音が聞こえた。暖簾は後にしてきたはずなのに鈴が追いかけてきているようで、探ってみたら出所は首元だった。りんりん、りんりん。私を急き立てているようで、まだ間に合うと教えてくれているようで、何に間に合うって言うんだろう。
雨で滲む視界の中に黒い影が映りこみ、龍神様の脇を抜ける。辻はいちいち数えなくともどこに何があるかは知ってるし、飴屋の看板を目印にしたらいいのに、ひとつ、ふたつ、数え上げて馬鹿さ加減に腹が立つ。
水を吸って段々振りにくくなる袖に、たすきで絡げておけばよかったなんてますます馬鹿なことを考えて、似たような光景を最近どこかで見たようで、ふと人形劇が思い浮かんだ。豪雨の中、足を滑らせた犬が濁流に呑まれてしまう一幕だ。
波間に浮かぶ愛しの君を追いながら桃太郎は羽織りを脱いで袷も投げ捨て、さすがに袴を放り出す暇はなく、逆巻く流れに飛び込むのだ。無事助け出せた暁には見事に袴も流されていて、隠すものも隠さずに歓喜と愛を歌うのだ。ブロンドの人形が演じていても笑ってしまうくらいに泥臭い桃太郎だった。
――ああ犬姫、あなたの尻尾は魔法の杖。
さしづめあの傘が魔法の杖か。だったらなんだ、私も愛を歌うのか。冗談じゃない。私はあのバカを問い詰めるために走っているのだ。どうせまたぐずぐず言い出すだろうけれども知ったことか。私の親にまで心配を掛けておいて、文句があるならまずうちに引きずり込んでから聞いてやる。
さあ覚悟しろ。貴女の言う「首を洗って待っていろ」だ。もうひと息、家並みはまばらになり、水かさを増した流れも見えて、雨の煙る先には外へ通じる門が浮かび、
「うそつき」
畑と雑木林ばかりのぽっかり開けた景色に弓なりの橋が一本。土砂交じりの用水が長々と横たわっている。自分で思い込んでおきながら勝手なことを言うものだ。私は間に合わなかったんだ。
足が萎えて膝から落ちた。りんとひとつ鈴が鳴った。水溜りに座り込んでしまったお陰で、スカートの心配をする必要もなくなった。これ以上、汚れようがなくてひと安心だ。
ざらざらとした荒い息に、しゃっくりが徐々に混じってくる。
もう思いっきり泣いてしまおう。
泣く理由も忘れてしまうだけ泣いて風邪を引こう。二、三日も熱に浮かされて寝込んでしまえば、何が悲しかったのかも頭から抜け落ちてくれているだろう。
諦めてしまえば簡単だった。まだまだ苦しいのは変わらないのに喉は詰まって、雨粒で散々濁った景色はさらにぼやけて、端っこに紫が映っている。
「あ」
いた。
柳の影に佇む人影。傘を差してひとりっきりで。
叫びたいのに諦めてしまった喉は唸り声ばかり上げて、足はもう使い物にならない。半分以上は癇癪からだった。水溜りを両の手で打ちつけたら盛大な飛沫が散った。おめでとう私、上から下まで満遍なく泥だらけだ。
「ちょっとあなた!」
遅いのよバカ。
泣き出したいのを堪えていたら、小傘さんは助走もなしに跳ねて、用水に飛び込むのかと思ったら違った。傘に掴まるような格好で流れを飛び越してきた。初めて妖怪らしい姿を見た気がする。
目の前が小傘さんでいっぱいになった。
「傘も差さずにどうしたのよ。お寺に急用? とにかく捕まって。風邪引くでしょう」
手を取られてなんとか立てたけれど、何の話?
「だって、ここで待ってるって」
「なんのこと?」
色違いの瞳は心底から不思議がっている。
違う。今はそんなことじゃなくて、
「どうしていきなり来なくなるのよ。仕事がたまって仕方ないのよ」
「ひとりでやれてたんだから大丈夫だと思って」
「そんなこと、どうだっていいの。だから理由よ」
小傘さんは一歩下がって、私がその分前に出る。拳は痛くなるほど固まった。
下らない理由だったらビンタじゃなくてグーで行く。
「少し前に貴方のところへ付喪神が集まってきてたでしょ」
それがどうしたって言うのよ。
「私みたいな子が増えないように見張ってたんだけど、貴方って物に良くしてくれるし。早苗に言われて考えたら、私のいる意味ってなくなってたの。でも私が独り占めしてるみたいになってきて、それってみんなに悪いでしょう。だから」
言葉を切ってふわりと笑った。
「もういいかな、って」
なによそれ。ほんとうにもう、なによそれ。
欲しいものを欲しがって、一体何が悪いんだ。
「早く行こ。歩けないなら私の背中に……」
バカの頬を挟み込んで力いっぱいに引き寄せて、迎えにいくために背伸びもした。
首元で、りんと鳴る鈴を聞いた。見開かれる色違いの目を見て放してやった。
「今のって」
瞳と同じくらいに紅潮する顔で、「ざまあみろ」が飛来した。
どうだ、驚かせてやったぞ。貴女の十八番を奪ってやったんだ。
「どうして小鈴も驚いてるの」
そんなの、私だって知りたいわよ。
「やだよ」
何が嫌だって言うんだろう。
口を突いて出た声にまた自分で驚いて、でも溢れ出したら一瞬だった。
「やだぁ」
今度はわざわざ諦める必要もなくて、折角避けた雨の代わりに涙が頬を伝い始めた。
ああもう、小傘さんの前で恥ずかしい。やだって喚いてわあわあ泣いて、そこらのがきんちょよりひどい駄々っ子だ。いっそのこと腕も振り回してやろうかなんて投げやりに思っていたら、
「あの、これでいい?」
頭に触れるものがあった。顔を上げると心配そうな瞳があって、載せられたのは手のひらだった。おずおずと慣れない手つきで撫でられて、また涙が膨れ上がった。
私を甘やかさないで欲しい。小傘さんは犬じゃない。ちゃんとした妖怪で、泣けば手に入るだなんて勘違いをしたくない。伝えたくとも喉は他の事で忙しくて、撫でられるごとに跳ね除ける気も溶けていった。私はわがままだ。
「帰ろ。乗って」
ようやく涙が収まってきたところで、しゃがんだ背中を向けられた。
掴まるために手を伸ばして泥だらけの袖が目に入った。いくらなんでも憚られる。
「早く」
急かすでもなく、青い瞳で見つめられた。どこまで私を甘やかす気なんだろう。
澄んだ湖の色をした背中は案外に温かくて、私がすっかり冷えていることを思い出させた。代わりに頭は熱い上にはっきりしなくて、当然の結果だ。
ぱらぱらと傘が鳴る。とんとん下駄は揺りかごの調子で進んでいく。首へすがりつく腕になけなしの力が篭った。
「来ないって言わないで」
甘えきった声が出た。
「隣にいて」
とんとん下駄をみっつ、よっつと数えていったら、十でやっと返事があった。
「私を欲しがるなんて奇特な人間ね」
水色の髪の向こうで横顔が真っ赤だ。きっとかわいいんだろうけれど、覗き込む前に限界が来た。それからはもうあやふやだ。慌しい足音に周りを飛び交う大声と、私の親に抱きすくめられる小傘さんとか。
お決まりのように熱を出して、これまたお望みどおりに三日寝込んで、でも忘れるようなことはなかった。夜だったり昼だったり、目を覚ますといつだって赤と青の瞳があって、私の手は柔らかな手と繋がっていた。
***
「見張ってたんなら夜も来てたの」
「最初はそうしようとしたんだけど、師匠に叱られたから」
笑ってしまう。
つくづく変な妖怪だ。
「じゃあ、初めて昼に来た時、真っ赤になったのは」
「悪い妖術師だと思っていたのに女の子が出てきたんだもの。どうして?」
「訊いただけ」
かわいいな、って。また来ないか、どこかで期待していた。
先に懐いたのは、きっと私だ。調子に乗ると困るから教えてやらない。
背伸びをしたら鈴がふたつ、りんと鳴った。
誰とは言わんが師匠もグッジョブ。それにしても新しい組み合わせだなぁ。
Mが服着て歩いてるみたいな小傘はもう本当に苛め倒すの通り越して虐め殺したいくらいに好き
可愛い小傘だなと思って見ていたら、ハーレクイン系のロマンスみたいな話が展開され、王子役が小傘だった
何を言ってるのかわからねーとおも(ry
しかし常連のお師匠さん、タダもんじゃないな
いやはや素敵なお話でした。
鈴奈庵は単行本派なので2巻までの内容しか知らないんですよねぇ…
鈴奈庵に小傘絡んでくるんですかね?(マミゾウに対し師匠と呼ぶなど。 あと、神霊廟未プレイなのでそこでの話も知りませんが…)
そのへんを知らないので、私的には珍カプもいいところだったんですが、しかし内容はとても面白かったです(°▽°)