酷く疲れていた。
妖怪の身であるものの、肉体的な疲労とは無縁の身である事は承知してはいても八雲紫は重い疲労を確かに感じていた。
別に何をしていた訳でもない。
むしろ、何もしていないからこそ疲労が溜まるばかりなのだと。
昨夜、藍に忠告された事を思い出す。
「紫様のその疲れたという意識はきっと濁っているからであると思いますよ。最近は殆ど外へ出ることもなく結界の修繕ばかりではありませんか」
「それもそうね」
「以前の紫様はよく幻想郷を隅々まで見渡していたものではありませんか。それは結界の異常を点検するという目的故にかもしれませんが、そういった何気ない外出が気晴らしになっていた筈です。最近はそういった事もあまりなさいませんね」
「藍の言う通りだわ」
「でしたら」
「でもね、藍。私は疲れているのよ。こんな身体で外などへ出たら死んでしまうかもしれないわ」
「はあ」
「でも、そうね。気晴らしに外へ出るというのは悪くないと思うわ」
気怠くそう答えて、八雲紫はその翌日か、あるいはその翌々日に久方ぶりに外へ出ようと決意した。
具体的には今代の博麗の巫女である博麗霊夢を訪ねに博麗神社へと向かおうと淡く決意したのである。
その夜、博麗の巫女は日課の行水を終え寝間着へと着替えたところであった。
月の奇麗な夜だなと何気なく思った時に気配と予感がした。
そういう予感を信じる事に博麗霊夢は些かの躊躇もない。
妖怪の気配が濃厚に神社に満ちている。
恐ろしく禍々しくて悍ましい妖怪の気配が。
博麗霊夢は祝詞を唱える。
邪気を払い清浄を寿ぐ祝詞を。
博麗神社は祝詞により静寂を取り戻した。
居る。
博麗霊夢はそう思い寝所の障子を開けると予感は当たり妖怪八雲紫が気怠い顔で霊夢の布団に寝そべっていた。
その姿は神社という清潔な場に全く似つかわしくない淫らで不浄な格好であると。
断じた博麗の巫女は全く無抵抗でなすがままの大妖怪八雲紫を抱き起こすと顔に強く平手を打った。とても真剣な表情で。
「いい顔よ霊夢。ちょっと元気が出たわ」
「今すぐ出て行ってちょうだい。来るならちゃんと手順を踏む約束よ」
「霊夢、私疲れているのよ」
「私だって眠いわ。明日も早いのだからもう寝るつもりなの。なによ、こんな時間に非常識よ」
「私ね霊夢に優しくして貰いたくて来たの。ねえどうして最近私の事を呼んでくれなくなったの?」
「あんたに何の用事があるっていうのよ」
「以前は特に用がなくても呼んでくれたわ。私そういうのが嬉しかったの。霊夢に必要とされていると実感出来ていたわ。でも最近は本当に霊夢と距離を感じるの。どうしてかしらね。いつ何処で違えてしまったのかしら」
「そんな泣き言を喚きに来たのかしら。勘違いしないで欲しいのだけど私からすればあんただって調伏の対象なのよ。問答無用で調伏しないのは精々の情けからだわ。でもいい加減我慢も限界かもしれない。そんな汚らしい妖気を神社に振り撒くなんて本当に正気なのかしら」
まず八雲紫は博麗霊夢の右足を飴細工を壊すかのようなさり気なさでへし折った。
骨が粉々に圧潰する音と共に神社内に巫女の絶叫が木霊した。
それは想像を絶する痛みのあまり腹の底から振り絞るような凄まじい絶叫であった。
此処は人里離れた博麗神社。
巫女がどれだけ泣き叫ぼうが誰にも聞こえない。
誰も来ない。
随分と月が奇麗な夜だと八雲紫はふと思った。
「霊夢、私が支えているわ。だから倒れないで聞いてちょうだい。私ね霊夢と昔のように一緒に居たいのよ。いつの間にか霊夢は随分と成長してしまったのね。それとも周囲の関係性が貴方を大人にさせてしまったのかしら。あの金髪の娘。あれを消せば昔の霊夢に戻ってくれるのかしら」
「お願い、魔理沙は何も関係ないわ」
「声が弱々しいわ霊夢。そんな威勢では私を説得出来ないわよ。こういう時は口に唾を溜めて私の顔に吐き掛けるくらいの事をしないとダメよ。右足が折れたくらいで心まで屈服するだなんて今後が心配ね。少し鍛え方が足りなかったのかしら。私の霊夢。可愛い霊夢」
痛みのあまり口から血が流れる博麗霊夢を痛みと恐怖と怯えで童のように血の気を失い小刻みに震える博麗霊夢を八雲紫はこれ以上なく優しく抱きしめる。むらさきのドレスに霊夢の血がついたが暫く洗わず、このままでいようと思った。
「確かに霊夢にこの宿命を背負わしたのは私。随分と無茶をさせた。色々な事があったわね。だからもう巫女をやめてみるというのはどうかしら。霊夢は今日から普通の人間。人里にご両親だって用意してあげる。そこで当たり前の人生を送って死ぬの」
「・・・私に両親が居るの?」
「居るわ。居る事にしてあげる。何でも出来るわ。それでこの神社にはもっと聞き分けの良い巫女をまた何処かから連れてくるわ。そういうのはどうかしら」
「お願いよ紫、私を今すぐ殺して頂戴。私はこんな有りさまで生きていられるほど恥知らずではないの」
「また明日来るわ。私はね疲れているのよ。でも今は随分と身体が軽くなった気がするわ。霊夢、自殺しようとしても苦しいだけよ。博麗の巫女は神徳の加護により滅多な事では死なないようになっているの。だから苦しまないで。痛みは直に引くわ。それではまた明日。ごきげんよう」
八雲紫は博麗霊夢の必死の引き止めにも関わらず煙のように消え失せた。
翌朝、博麗霊夢は半ば呆然とした意識の中、覚醒した。
右足は既に完治していて怪我の痕跡は何処にもなかった。
痛みひとつ感じなかった。
けれど、布団には血の跡が。
昨夜、激痛のあまり口を強く噛んだ時に漏れてきた血が。
あれは嘘でも夢でもないと即物的に主張していた。
けれども口内に傷跡もなければ血の味だってしなかった。
博麗の巫女はもっと強いものだと思っていた。
けれどそれは一方的な思い込みに過ぎなかったのだ。
思い返せば命名決闘法という制限の中の戦いによって巫女は幻想郷最強であったのだ。
その枠を外れた戦いとなれば普通の人間と何ら代わり映えしない巫女がそもそも理不尽と暴力の象徴のような妖怪を相手に何が出来たというのだろう。
今の今までそのような事を考えもしなかった。
けれど、一度考えてしまうと信じられないほど恐ろしかった。
気が向ければ何時でも何処でも何かしらの妖怪に喰い殺されても不自然ではない。
今日まで何の気なしに生きてこられたのは単純にその時が来なかっただけなのだ。
例えば鬼や吸血鬼や烏天狗や神様共の虫の居所が悪くて、あるいは突然の空腹等の些細な理由により紙細工のように簡単に殺されてしまうかもしれないということ、生殺与奪に自らが全く関与できていない現状を博麗霊夢は今はっきりと認識したのである。
もう、妖怪退治等出来ないどころか、こんな人里離れた辺鄙な神社に昨日まで何の疑問もなしに独りきりで寝起きしていたなんて本当に信じられなかった。正気の沙汰ではないのだ。
けれどもどうするべきなのだろうか。
巫女が妖怪に怯えているという事を天狗に知られたらどうなるのだろうか。
それを想像した瞬間に激しい嘔吐感に襲われたが必死に耐えた。
吐いてしまえば完全に恐怖に屈してしまうと何故か思ったからだ。
次に博麗霊夢は泣きだした。
心では必死に涙を止めなければと頑張るのだけど意に反して涙は止めどなく流れだし止める事が出来なかった。
涙が止まらない事実が霊夢を蝕んだ。
今まで怖くて泣いた事なんて一度もなかったから、それをより処としていたのにも関わらずぼろぼろと。
誰に助けを求めれば良いのだろうか。
魔理沙はダメだと思った。
どんな事があっても巻き込みたくはなかった。
あれも強がっているようで所詮人間なのだ。
巫女を庇った時点で殺されるだろう。
次に妖怪の山の巫女に相談するという案が浮かんだが消えた。
そもそも何を相談するというのだろう。
妖怪が怖いから保護して欲しいとでも言うのだろうか。
悪い冗談である。
検討するまでもないが吸血鬼にどうして人間が頼れるというのだろう。
あるいは人里のあの半獣を頼るというのはどうだろうか。
けれどもそれは人里全体を巻き込みかねない所業である。
結局のところ力という担保なしに幻想郷で生きてく事は出来ないという当たり前の事実の前に為す術もなかった。
次に、八雲紫の事を思った。
意図的に遠ざけていた。
月と地底の件からというもの八雲紫を意識的に無意識的に遠ざけていたのである。
底意を感じたからだと思う。
怖かったのだ。
道具として使い捨てのモノとして扱われる事が。
月では大恥をかいたし地底はとてもとても怖いところだった。
そんなところへ平気で送り込む八雲紫を何処かで怖いと思っていたのだ。
また、彼女と出会ったら次はどんな酷い事を命じられるのか分からなかったから。
故に遠ざけていた。
その漫然な恐れや不安が昨夜は徐ろに顔を出し霊夢を喰らい尽くしたのだ。
もはや、恐ろしくて部屋の障子すら開けられない程に。
外に誰か居るのではないかと思うと堪らなかった。
鬼が天狗が妖怪が居るかもしれない。
今日、何の気なしに気紛れで心変わりして殺しに来るかもしれない。
笑顔で優しい言葉の甘えた気分の後で何の前触れもなく暴力を振るわれるかもしれない。
笑った顔のままで。
抱きしめたまま残虐に殺されるかもしれない。
誰が私を救ってくれるだろうか。
どうして巫女なんてしているのだろうか。
簡単な事であった。
今直ぐ八雲紫を呼んで何かも彼女に一切合切を預けて服従してしまえばこの不安や恐怖は解消されるだろう。
けれど、それを懇願した瞬間に彼女の関心を瞬時に失う事は分かっていたから、けれどもギリギリで耐えなければと決意を新たにしたのである。
今夜、彼女と何を話そうかと。
少しだけ気分が落ち着いた。
「今夜はね久しぶりに体調が良いの。霊夢のいい顔をみていると本当に元気が出るわね」
予告通りその日の夜に現れた八雲紫は博麗霊夢の顔を撫でると変わらずに優しい声で語りかけた。
いつだって彼女は優しかったのだ。
「今の霊夢は博麗を名乗るに値しない。もうきっと空も飛べない事でしょう。それは悲しい事だけどもっと早くにそうするべきだった。そうすれば月や地底に行かずに済んだかもしれない」
「でも、そんな私をあんたは見捨てるのよ。博麗じゃない私って何の価値もないわ」
「そんな悲しい顔をしてはダメよ。霊夢、貴方の代わりなんて幾らでもいるの。仮に昨日の時点でもあまり貴方には価値なんてなかったのよ。私と藍がいれば幻想郷は永続される」
「じゃあどうして」
「いいかしら。高々人間風情が価値を語るだなんて傲慢であるという事を知りなさい。霊夢、貴方という個体に私が興味を持ったのは単なる偶然なのよ。例えばあの雲の形がまるで綿菓子のようで美味しそうだと思う程度の偶然なの。私が見初めたのよ。それだけが貴方の価値よ。紅と白の装束の可愛らしい少女が世界を統べるお話が好きだったの。それだけの事なのよ」
「私は、これからどうすればいいのかしら」
「私の胸の中で泣きなさい。その後で貴方の処遇を考えます。もう幻想郷に異変は起こらない。結局のところどのようなイレギュラを取り込んでも世界は安定する事が証明されてしまった。もはや管理者としては特にやる事もなくなってしまったの」
「じゃあ・・・随分と退屈になるわね」
「そうね。霊夢、私ね霊夢とゆっくり山登りがしたいわ」
「山登り?」
「そうよ、お弁当を持って二人で山登りするの。もう霊夢は飛べないのだから何処へ行くにも歩いて行くしかないから。私も付き合うわ。藍にね色々作って貰いましょう。それで頂上まで登ったら写真を撮りましょう、きっと綺麗で楽しいわ」
「その後は?」
「ま、下山は大変だから隙間で帰ってきましょうか」
「何よそれ」
「それでね、帰ってきたら途中で摘んだ山菜を料理して晩酌にするの。川で魚を釣るのもいいわね。それから私と霊夢と藍と橙で一緒の布団で寝るのよ。そして朝起きたら藍が朝餉を用意してくれているからね、あの子ったら何時も目玉焼きを完熟にしてしまうのよ。その日はね湖で船を出して漕ぐのよ。今まで霊夢はそういう事を知らなかったから教えてあげたいわ。それからね、次の日にはね、えっとね、ああ、本当に何をしようかしら。こんなにこんなに幸せな事があったのね。どうしてもっと早くこんなに霊夢が苦しむ前に、ねえ、もっと、ねえ、早く、私が・・・」
散々泣きはらした後に二人は神社から消え失せて、二度と人々の前に姿をみせることもなかったのである。
妖怪の身であるものの、肉体的な疲労とは無縁の身である事は承知してはいても八雲紫は重い疲労を確かに感じていた。
別に何をしていた訳でもない。
むしろ、何もしていないからこそ疲労が溜まるばかりなのだと。
昨夜、藍に忠告された事を思い出す。
「紫様のその疲れたという意識はきっと濁っているからであると思いますよ。最近は殆ど外へ出ることもなく結界の修繕ばかりではありませんか」
「それもそうね」
「以前の紫様はよく幻想郷を隅々まで見渡していたものではありませんか。それは結界の異常を点検するという目的故にかもしれませんが、そういった何気ない外出が気晴らしになっていた筈です。最近はそういった事もあまりなさいませんね」
「藍の言う通りだわ」
「でしたら」
「でもね、藍。私は疲れているのよ。こんな身体で外などへ出たら死んでしまうかもしれないわ」
「はあ」
「でも、そうね。気晴らしに外へ出るというのは悪くないと思うわ」
気怠くそう答えて、八雲紫はその翌日か、あるいはその翌々日に久方ぶりに外へ出ようと決意した。
具体的には今代の博麗の巫女である博麗霊夢を訪ねに博麗神社へと向かおうと淡く決意したのである。
その夜、博麗の巫女は日課の行水を終え寝間着へと着替えたところであった。
月の奇麗な夜だなと何気なく思った時に気配と予感がした。
そういう予感を信じる事に博麗霊夢は些かの躊躇もない。
妖怪の気配が濃厚に神社に満ちている。
恐ろしく禍々しくて悍ましい妖怪の気配が。
博麗霊夢は祝詞を唱える。
邪気を払い清浄を寿ぐ祝詞を。
博麗神社は祝詞により静寂を取り戻した。
居る。
博麗霊夢はそう思い寝所の障子を開けると予感は当たり妖怪八雲紫が気怠い顔で霊夢の布団に寝そべっていた。
その姿は神社という清潔な場に全く似つかわしくない淫らで不浄な格好であると。
断じた博麗の巫女は全く無抵抗でなすがままの大妖怪八雲紫を抱き起こすと顔に強く平手を打った。とても真剣な表情で。
「いい顔よ霊夢。ちょっと元気が出たわ」
「今すぐ出て行ってちょうだい。来るならちゃんと手順を踏む約束よ」
「霊夢、私疲れているのよ」
「私だって眠いわ。明日も早いのだからもう寝るつもりなの。なによ、こんな時間に非常識よ」
「私ね霊夢に優しくして貰いたくて来たの。ねえどうして最近私の事を呼んでくれなくなったの?」
「あんたに何の用事があるっていうのよ」
「以前は特に用がなくても呼んでくれたわ。私そういうのが嬉しかったの。霊夢に必要とされていると実感出来ていたわ。でも最近は本当に霊夢と距離を感じるの。どうしてかしらね。いつ何処で違えてしまったのかしら」
「そんな泣き言を喚きに来たのかしら。勘違いしないで欲しいのだけど私からすればあんただって調伏の対象なのよ。問答無用で調伏しないのは精々の情けからだわ。でもいい加減我慢も限界かもしれない。そんな汚らしい妖気を神社に振り撒くなんて本当に正気なのかしら」
まず八雲紫は博麗霊夢の右足を飴細工を壊すかのようなさり気なさでへし折った。
骨が粉々に圧潰する音と共に神社内に巫女の絶叫が木霊した。
それは想像を絶する痛みのあまり腹の底から振り絞るような凄まじい絶叫であった。
此処は人里離れた博麗神社。
巫女がどれだけ泣き叫ぼうが誰にも聞こえない。
誰も来ない。
随分と月が奇麗な夜だと八雲紫はふと思った。
「霊夢、私が支えているわ。だから倒れないで聞いてちょうだい。私ね霊夢と昔のように一緒に居たいのよ。いつの間にか霊夢は随分と成長してしまったのね。それとも周囲の関係性が貴方を大人にさせてしまったのかしら。あの金髪の娘。あれを消せば昔の霊夢に戻ってくれるのかしら」
「お願い、魔理沙は何も関係ないわ」
「声が弱々しいわ霊夢。そんな威勢では私を説得出来ないわよ。こういう時は口に唾を溜めて私の顔に吐き掛けるくらいの事をしないとダメよ。右足が折れたくらいで心まで屈服するだなんて今後が心配ね。少し鍛え方が足りなかったのかしら。私の霊夢。可愛い霊夢」
痛みのあまり口から血が流れる博麗霊夢を痛みと恐怖と怯えで童のように血の気を失い小刻みに震える博麗霊夢を八雲紫はこれ以上なく優しく抱きしめる。むらさきのドレスに霊夢の血がついたが暫く洗わず、このままでいようと思った。
「確かに霊夢にこの宿命を背負わしたのは私。随分と無茶をさせた。色々な事があったわね。だからもう巫女をやめてみるというのはどうかしら。霊夢は今日から普通の人間。人里にご両親だって用意してあげる。そこで当たり前の人生を送って死ぬの」
「・・・私に両親が居るの?」
「居るわ。居る事にしてあげる。何でも出来るわ。それでこの神社にはもっと聞き分けの良い巫女をまた何処かから連れてくるわ。そういうのはどうかしら」
「お願いよ紫、私を今すぐ殺して頂戴。私はこんな有りさまで生きていられるほど恥知らずではないの」
「また明日来るわ。私はね疲れているのよ。でも今は随分と身体が軽くなった気がするわ。霊夢、自殺しようとしても苦しいだけよ。博麗の巫女は神徳の加護により滅多な事では死なないようになっているの。だから苦しまないで。痛みは直に引くわ。それではまた明日。ごきげんよう」
八雲紫は博麗霊夢の必死の引き止めにも関わらず煙のように消え失せた。
翌朝、博麗霊夢は半ば呆然とした意識の中、覚醒した。
右足は既に完治していて怪我の痕跡は何処にもなかった。
痛みひとつ感じなかった。
けれど、布団には血の跡が。
昨夜、激痛のあまり口を強く噛んだ時に漏れてきた血が。
あれは嘘でも夢でもないと即物的に主張していた。
けれども口内に傷跡もなければ血の味だってしなかった。
博麗の巫女はもっと強いものだと思っていた。
けれどそれは一方的な思い込みに過ぎなかったのだ。
思い返せば命名決闘法という制限の中の戦いによって巫女は幻想郷最強であったのだ。
その枠を外れた戦いとなれば普通の人間と何ら代わり映えしない巫女がそもそも理不尽と暴力の象徴のような妖怪を相手に何が出来たというのだろう。
今の今までそのような事を考えもしなかった。
けれど、一度考えてしまうと信じられないほど恐ろしかった。
気が向ければ何時でも何処でも何かしらの妖怪に喰い殺されても不自然ではない。
今日まで何の気なしに生きてこられたのは単純にその時が来なかっただけなのだ。
例えば鬼や吸血鬼や烏天狗や神様共の虫の居所が悪くて、あるいは突然の空腹等の些細な理由により紙細工のように簡単に殺されてしまうかもしれないということ、生殺与奪に自らが全く関与できていない現状を博麗霊夢は今はっきりと認識したのである。
もう、妖怪退治等出来ないどころか、こんな人里離れた辺鄙な神社に昨日まで何の疑問もなしに独りきりで寝起きしていたなんて本当に信じられなかった。正気の沙汰ではないのだ。
けれどもどうするべきなのだろうか。
巫女が妖怪に怯えているという事を天狗に知られたらどうなるのだろうか。
それを想像した瞬間に激しい嘔吐感に襲われたが必死に耐えた。
吐いてしまえば完全に恐怖に屈してしまうと何故か思ったからだ。
次に博麗霊夢は泣きだした。
心では必死に涙を止めなければと頑張るのだけど意に反して涙は止めどなく流れだし止める事が出来なかった。
涙が止まらない事実が霊夢を蝕んだ。
今まで怖くて泣いた事なんて一度もなかったから、それをより処としていたのにも関わらずぼろぼろと。
誰に助けを求めれば良いのだろうか。
魔理沙はダメだと思った。
どんな事があっても巻き込みたくはなかった。
あれも強がっているようで所詮人間なのだ。
巫女を庇った時点で殺されるだろう。
次に妖怪の山の巫女に相談するという案が浮かんだが消えた。
そもそも何を相談するというのだろう。
妖怪が怖いから保護して欲しいとでも言うのだろうか。
悪い冗談である。
検討するまでもないが吸血鬼にどうして人間が頼れるというのだろう。
あるいは人里のあの半獣を頼るというのはどうだろうか。
けれどもそれは人里全体を巻き込みかねない所業である。
結局のところ力という担保なしに幻想郷で生きてく事は出来ないという当たり前の事実の前に為す術もなかった。
次に、八雲紫の事を思った。
意図的に遠ざけていた。
月と地底の件からというもの八雲紫を意識的に無意識的に遠ざけていたのである。
底意を感じたからだと思う。
怖かったのだ。
道具として使い捨てのモノとして扱われる事が。
月では大恥をかいたし地底はとてもとても怖いところだった。
そんなところへ平気で送り込む八雲紫を何処かで怖いと思っていたのだ。
また、彼女と出会ったら次はどんな酷い事を命じられるのか分からなかったから。
故に遠ざけていた。
その漫然な恐れや不安が昨夜は徐ろに顔を出し霊夢を喰らい尽くしたのだ。
もはや、恐ろしくて部屋の障子すら開けられない程に。
外に誰か居るのではないかと思うと堪らなかった。
鬼が天狗が妖怪が居るかもしれない。
今日、何の気なしに気紛れで心変わりして殺しに来るかもしれない。
笑顔で優しい言葉の甘えた気分の後で何の前触れもなく暴力を振るわれるかもしれない。
笑った顔のままで。
抱きしめたまま残虐に殺されるかもしれない。
誰が私を救ってくれるだろうか。
どうして巫女なんてしているのだろうか。
簡単な事であった。
今直ぐ八雲紫を呼んで何かも彼女に一切合切を預けて服従してしまえばこの不安や恐怖は解消されるだろう。
けれど、それを懇願した瞬間に彼女の関心を瞬時に失う事は分かっていたから、けれどもギリギリで耐えなければと決意を新たにしたのである。
今夜、彼女と何を話そうかと。
少しだけ気分が落ち着いた。
「今夜はね久しぶりに体調が良いの。霊夢のいい顔をみていると本当に元気が出るわね」
予告通りその日の夜に現れた八雲紫は博麗霊夢の顔を撫でると変わらずに優しい声で語りかけた。
いつだって彼女は優しかったのだ。
「今の霊夢は博麗を名乗るに値しない。もうきっと空も飛べない事でしょう。それは悲しい事だけどもっと早くにそうするべきだった。そうすれば月や地底に行かずに済んだかもしれない」
「でも、そんな私をあんたは見捨てるのよ。博麗じゃない私って何の価値もないわ」
「そんな悲しい顔をしてはダメよ。霊夢、貴方の代わりなんて幾らでもいるの。仮に昨日の時点でもあまり貴方には価値なんてなかったのよ。私と藍がいれば幻想郷は永続される」
「じゃあどうして」
「いいかしら。高々人間風情が価値を語るだなんて傲慢であるという事を知りなさい。霊夢、貴方という個体に私が興味を持ったのは単なる偶然なのよ。例えばあの雲の形がまるで綿菓子のようで美味しそうだと思う程度の偶然なの。私が見初めたのよ。それだけが貴方の価値よ。紅と白の装束の可愛らしい少女が世界を統べるお話が好きだったの。それだけの事なのよ」
「私は、これからどうすればいいのかしら」
「私の胸の中で泣きなさい。その後で貴方の処遇を考えます。もう幻想郷に異変は起こらない。結局のところどのようなイレギュラを取り込んでも世界は安定する事が証明されてしまった。もはや管理者としては特にやる事もなくなってしまったの」
「じゃあ・・・随分と退屈になるわね」
「そうね。霊夢、私ね霊夢とゆっくり山登りがしたいわ」
「山登り?」
「そうよ、お弁当を持って二人で山登りするの。もう霊夢は飛べないのだから何処へ行くにも歩いて行くしかないから。私も付き合うわ。藍にね色々作って貰いましょう。それで頂上まで登ったら写真を撮りましょう、きっと綺麗で楽しいわ」
「その後は?」
「ま、下山は大変だから隙間で帰ってきましょうか」
「何よそれ」
「それでね、帰ってきたら途中で摘んだ山菜を料理して晩酌にするの。川で魚を釣るのもいいわね。それから私と霊夢と藍と橙で一緒の布団で寝るのよ。そして朝起きたら藍が朝餉を用意してくれているからね、あの子ったら何時も目玉焼きを完熟にしてしまうのよ。その日はね湖で船を出して漕ぐのよ。今まで霊夢はそういう事を知らなかったから教えてあげたいわ。それからね、次の日にはね、えっとね、ああ、本当に何をしようかしら。こんなにこんなに幸せな事があったのね。どうしてもっと早くこんなに霊夢が苦しむ前に、ねえ、もっと、ねえ、早く、私が・・・」
散々泣きはらした後に二人は神社から消え失せて、二度と人々の前に姿をみせることもなかったのである。
そう思うからこそ次のように言いたい
なぜもっと「きちんと」書いてくれなかったのかと
ただの読者の傲慢ですね
能天気と評される霊夢がなぜこのように弱気になってしまったのかを含め、もっと描写を読みたいと思わせる一作でした。また楽しみにしたいです
二人の関係性は、当人同士にしかわからない。
辛口の酒を飲んでいるような作品。口の中で存在感を示し、嚥下した後も舌に残り続ける。
終盤の台詞のみの部分は流れるように読めるが、作品の奥までは読み取れなかった。
わからん。難しいものだ。
思い出すのはあの頃の日々。管理者と巫女は紫と霊夢として信頼関係で結ばれ、他のしがらみを考えなくてもよかった。お互いに、友だちになれる相手は相手しかいなかった。だから二人は、あたかも数十年働きづめだった老夫婦が青春を取り戻しに行くように、目的のない普通のひとのような生活ができる旅へと旅立ったのです。
哀しいのは、そんな悲痛に最後の希望へとすがりつく時ですら、妖怪として人間に相対するように霊夢に接してしまって、うさんくさく偉そうな管理者の態度をとってしまった紫の、仕事以外知らない老人のような振る舞いです。
でもここで終わるのも綺麗で素敵
最後は神隠しの主犯の面目躍如。
「もっと早く、私が…」の台詞。この後、本来ならどんな台詞が続くのだろうかとあれこれ考えてしまいます。
でもこういう種族差の中での関係って凄く好きです