【数刻後:勇儀の部屋】
「……っ」
…………どこだ ここは
…頭が重い いや慣用句でなくて実際に
ただ、その重い頭はやけに柔らかく弾力に溢れたものに寄り掛かり、沈んでいる
鋭利な痛みを感じた首と、鈍い痛みを感じた肩には包帯が巻かれていた
全身酒臭いな… と溜め息を吐けば、やはり息も酒臭い
………半裸じゃないか
機能性だけの、色気も何も無い簡素な下着だけを着て、その上から浴衣が羽織らされている
にも関わらず熱い位に暖かいのは、畳の上で胡座をかいた誰かの脚の上に横向きに身を縮込ませた姿勢で座らされ、逞しい腕に抱えられていたからである
「、起きたかい?」
その“誰か”と目が合う
正確には正面より左前方、部屋の角に置かれた鏡に映る“誰か”と目があった
“そいつ”は頭に一角を頂き、その下の額に手拭いを鉢巻き状に巻いていた 右手もまた然り
……血が滲んでいる
“そいつ”も浴衣を羽織っており、下は普段通りだったが…上はサラシも巻いてなかった
まぁとにかく、壁を背に床に座り、その上に自分が座らされている訳だ
「胸ぐらい隠しなさいよ…」
立ち上がり、羽織った浴衣の上を腕が名残惜しそうに滑り落ちるのを置き去りにして鏡へ歩み寄った
「ちょいと汚しちまってね さっきまで身体を拭ってたところだ」
短くない爪で鎖骨を掻く
「私まで拭いてくれだなんて頼んでないわよ」
鏡に布を覆い被せて更に壁に向け、帰り際に瓶を拾って勇義の膝に戻り、背中を預ける
「…そんなに嫌だったかい?あの鏡」
贈り物に蓋をされては自信も無くなる
「アンタはどうだか知らないけど、座ってる間中自分の顔が正面にあったら嫌なのよ 私は」
…後頭部の収まりが悪い 弾力のせいで
「…あぁそれがなぁ、お前さんの方がよっぽど酷い有り様だったからな、汚れ方 失礼したよ」
戻ってきた小さい腰に後ろから腕を回し、持って来たワインボトルにも手を伸ばす
しかしパルスィは回された腕には手を添えたが、伸ばされた手は軽く払った
「えぇ、浴びる様に…じゃないか… 実際に浴びたからね」
ワインの詮は既に一度抜かれていた
パルスィはよいしょと指先で摘まんだ詮を引き抜き、そのまま煽った
角度も口の付け方も心得ている 一筋とて溢れない
「…ちゃんとパルスィみたいだな」
勇儀らしくもない、安心したかの様な言い方だった
「私はいつだってパルスィよ」
パルスィらしくもない、誇らしげな言い方だった
口を離したボトルが、小さな両手ごと大きな手を覆われる
「で…“彼女”は誰だったんだい?」
「誰でもないわよ」
左手を包む左手はそのままに、右手を包む右手は払いのけ、逆にボトルを掴ませる様に挟み込んだ
勇儀の手の甲に触れるパルスィの手の甲には、巻かれた手拭いから染み出した赤がうっすら移っていた
二つの手が、バランスよく一本のボトルを支える
「最近だか大昔だかも分からない時分に死んで、魂も記憶の大半も消えたってのに、恨みと記憶の切れ端だけが残った残骸よ」
左手も引き抜き、瓶を明け渡す
「私“こんな”だからさぁ…呼び寄せるのはしょっちゅうで、強い怨念だとたまに表に出ちゃうのよ」
「そいつは………難儀だな」
膝の上の人の事を考えると自前の杯は使いにくい パルスィ同様口をつけて傾けた
それに追い縋る様に吐き捨てた
「酒に酔って頭が回らない時なんかは特にね」
「…、お前さんそれで」
普段酒の席に出ないのか、とでも続けるつもりか
「賑やかなのは性に合わないし、アンタの杓の相手させられると思うと癪に障るからよ」
「いや私はそんなつもりじゃ…」
「それに、アンタのペースで呑まされたら誰だってまともじゃいられないわよ」
「……」
空にしてしまったボトルを申し訳無さげに床に置く
「…あの怨念の亭主も、酒呑みだったみたいね」
自分の身の上話の様に語るパルスィ
取り憑かれ、夢遊病の様な状態だった僅かな間の事とは言え、あの泣き叫んでいた女は確かに自分だったのだから
「気が大きくて、大口叩いて、人当たりがよくて、お節介で、器用じゃないけど真っ直ぐなお人…」
からかう様な暗い声色に、勇儀は尻が痒そうに座り直した
座布団が無いからではないだろう
「…そんなに似てた、のか?」
「だからこそあの怨念もあそこまでお喋りだったんでしょうね もし亭主が生きてアンタの立ち位置にいたら、同じ台詞ばっかり吐いてたんじゃないかしら」
普通怨念なんて会話も成り立たずに喚き散らすだけよ?とも
「まぁ、あとは…」
「?」
横向きに座り直し、右のこめかみを胸に押し付けに寄り掛かる
「私が言いたい事とも重なってたんでしょうね、あの怨念の不満は」
「……」
「……」
「…その」
「今度はこっちから質問」
間を繋ごうと口を開きかけた勇義を制す
喉元からグルグルと無理矢理空気を閉じ込め、呑み込む音が聞こえた
そんな音すらもいちいち聞く度に何かが満足してしまう自分が、心底鼻につく
「あんたは、誰を相手に喋ゃ、喋ってたの?」
……喋ゃ?
「パルスィに決まってるだろ?」
事実の通りに告げた
「……」
けれど、答えを聞いても私の肩に手引っ掛けて見上げる様に睨むパルスィ
「…橋で見つけて話し出した時から当然パルスィが相手のつもりだったし、だけど話してる内に様子がおかしいとは思ったし、パルスィ本人が喋ってるのか怪しいとは思った」
胸に頬を乗せてグニグニと押し付ける
「……で まぁ…やっぱり話せば話す程別人みたいで、アンタが気絶するまでには“誰かいるんだなぁ”と思って、な」」
頭に手を乗せ、額を人差し指で掻く
「だから…最後の『私の大
ペシ
「っ…?」
…頬を叩かれた
丁寧に左頬に右手を添え、右の頬を左手で張った
「?…『大事な人を殺さな
テンッ
…また叩かれた
まるで力の入ってない、蚊も殺せなさそうな強さではある
が
(なんだなんだ…)
叩かれた理由もそうだが、それより分からないのが…
(何で笑ってるんだ…)
その笑ってるパルスィは、ひっくと喉を鳴らして立ち上がり、壁に寄り掛かる勇義の隣に座る
…またひくっと肩が揺れた
「……パルスィ」
「酔ってるわよ」
早い
「自覚なら、あるわよ…さっきから、そう言ってんでしょぉ?」
口角が釣り上がり、尖った歯の数々が覗く
「『私の大事な人を、殺さないでおくれよ』ぉ~…だって」
ゆらりと右手が持ち上がり、勇義の額に触れる
「ったく、アンタって人は…」
親指の腹が手拭いに滲んだ血の中心に触れ、押し込まれる
「いででで」
「本ッ当に…あんな恥ずかしい台詞よく言えたもんだねぇまったく…嫌でもビックリするわよ」
それで酔いが醒めたなら結果オーライだな
「じゃああれでよかっ」
「よかないわよ」
ペシッと額を叩いて、自分の額をぶつけた
流石に痛いのが深刻になって来た
「お陰で私…アンタ殴っちゃったじゃない…」
「……ん?」
あの台詞を最後にパルスィは気絶した筈だが
「ッだから、あんたの事瓶で…」
「んぁあそっちか」
話が変わっていたか
(…『恥ずかしい台詞を言われ殴ってしまった』…?)
となると…
「もしかして“アレ”が原因で?殴ったのか?」
「ッ…」
思い当たって示した台詞は、パルスィの思う台詞と一致した様だ
今度は鎖骨の下に頭突き…と呼ぶには勢いが無い、ただの寄り掛かり
「いやでも“アレ”は…」
無意識の内に失礼な事を言ってしまったかとは予想したが…“アレ”で?
殴られる様な意味合いはなかった筈だが
「そう言うッ…無自覚な所が、その…イライラするのよ!」
「あぁ、そりゃ…スマン…」
「何が悪いか分からないまま謝ったでしょ?」
「ぅ…」
「あ~もういいのよ!今は私が謝ってんだから!」
いや、怒ってる様にも見えるが…
「それで…アンタを殴って、怪我させて、気絶させたのにそのままほったらかしにして…」
「あぁそうだ、上着掛けてくれてあり…」
「ぶん殴るわよ!?」
涙目で唸られた
「ぁぃ…」
「えっと…あと、また橋で訳分かんない事して、手に怪我させて…」
本当にごめんなさい、と
普段のパルスィなら絶対にしない、目を合わせながらの謝罪
「それと…ッ追い掛けて来てくれて、ありがと… 何か助けられて、ここまで運んでもらったし」
鼻を啜りながらようやく目を逸らす
酒の力を借りたとは言え、パルスィには負担が大きかった様だ
「……」
「……なんとか言ったらどうなの?」
眉根を捻らせ睨まれる
「あぁうん、その…」
本当に酔ってる…んだろうなぁ
表情がコロコロ変わる
「、でも、私を殴った時点でその怨念にはもう憑かれてたんだろ? なら…」
「えぇ 普段の私なら、流石に酔っててもモノで殴ったりしないわ」
素手で引っ叩いたのか
「怨念も怨念で、アンタの“アレ”で怒ったのよ」
「!?ぅえぇ!?」
“アレ”ってそこまで失礼な台詞だったのか!?
そんなつもりは…
「…私みたいに横から嫉妬してるだけの奴からすれば、小っ恥ずかしくて…あとはまぁその開けっ広げな体(てい)に少し腹が立つ位だけど…」
台詞の刺々しさとは対照的に、欠伸混じりに目元を擦る仕草は可愛らしい
「あの怨念は…多分前世で亭主に対する疑心暗鬼が一番強い時に、似た様な台詞を言われたんだろうね」
顔も知らない、恨み辛みだけになった概念について
パルスィは真摯に語った
「本当か嘘かを通り越して、馬鹿にされてるとしか思えなかったんだろうさ」
「……やっぱり、殴ったのかな? その怨念…の、持ち主も 亭主を」
「殴ったのか斬ったのかは分からないけど、状況は似た様なものだったんだろうね…」
声が小さくなってきた
「逃げて、飛び降りて、溺れて…それでも死にきれないから首を掻き切って…」
首の包帯がむず痒いのか、肩を竦める
「…そんな死に方をしなきゃならん程、悲しかったのか?」
悪意を向けられたならまだしも、好意を信じられず…だ等と
「悲しい…ううん違うの 分からなかったのよ、きっと、何も…」
浴衣の袖に腕を通し、襟を手繰り寄せて縮込まる
このまま寝るつもりの動きだ
「普段は…少なくとも彼女から見ればぞんざいに扱われてるのに…言葉だけで好意を示されても…不安になるだけよ…」
流石に浴衣一枚だけじゃ涼し過ぎたか 胸元に擦り寄って来る
その仕草が、やけに物悲しく見えた
「そこが私達との違いだったんだろうね」
鼻から抜ける呆れ笑いが胸にそよぐ
「誠にありがたい事に、勇義は鬱陶しい位に毎日構ってくれてたからね お陰で…照れ隠しで済んだわ」
「……そりゃどうも」
照れ隠しにしちゃ中々良過ぎる入り方をした一振りだったなぁ
「あとは…女自身の、問題…」
パルスィの言葉は既に寝言の様になっていた
なっていたのに、確かなものを感じた
「女は…亭主を疑って、そのままだった…」
ふと
自分を閉じ込める様に襟を閉じていた手から力が抜け、勇儀の首に回された
横抱きに支えてやればもう片手も昇り、背を逸らして真正面から両手で首に抱き着いた
(寝相が悪過ぎるぞ)
これでは腰を痛めてしまう
勇儀は眠り姫を抱えたままゆっくり横になった
酒と血とパルスィの髪の匂いに、畳の草の匂いが加わる
「……嫉妬する事と、嫉妬に駆られる事は、別問題… 女は結局、自分の憶測に押し潰されたのよ…」
「……」
何も信じられず、しかし信じようとせず
誰にも分かってもらえず、しかし知らせようとせず
何も分からず、しかし分かろうとせず
内側から弾けた不安は内側で跳ね返り続け、しかし女は外に出そうとはしなかった
その不安が本当だったら、恐かったから
ましてや、当の相手に問いただす等とてもとても
自分の選んだ道とは言え、それがどれだけ淋しく、不安で、心細かった事か
「…その女性(ひと)の怨念は…どうなったんだ?」
「落ちて溺れて引き裂いて…女は死んでも死にきれず、怨みを残した…」
首に絡み付くパルスィの腕が、少し冷たくなった気がした
「女の怨念は…惚れ込んだ男によく似た貴女の言葉を、男の言葉と受け止めて…ようやく死にきれた…」
不安になって頬に触れてみれば、手拭い越しに冷たさが伝わり、傷に染みるのを感じた
「ありがとう星熊勇儀…私を殺しきってくれて…」
悦ぶ吐息が胸に当たり、底知れぬ寒さを感じた
「…自分の言いたい事を言っただけだ」
だから
この憐れな怨霊に体温だけでも分けてやろうと、腕枕の為に回した左腕で背中を支え、髪に差し入れた右手を引き寄せ、抱き締めた
「どう受け止めるかは…アンタ次第だがな」
「ふふ、ふ…」
鎖骨に感じる冷えきった指先
「“私”…だった女、と、あの人も…あんたみたいに、しっかり自分の気持ちを、言い合えばよかったのかも、ね…」
過去を振り替える様な台詞だが、不思議と後悔の念は感じられなかった
「…かもな」
「この娘には、迷惑を掛けたね… あんまりにも、居心地がいいから、さ…」
「…私が言うべき事か分からんが、出来れば…離れて欲しいな そいつからは」
「心配要らないよ…言うでしょう? “怨みを晴らす”、って」
髪から手を離して手を取れば、おのずと顔同士も離れる
「晴れて、散って…消え逝くだけ、よ…」
静かに向かったパルスィの表情(かお)は、想像するのも及びつかない何かを重ね続けた、誰かのものだった
「もっとも……魂の方は、どうなったかなぁ…… 今頃成仏して……あの人、に……会えたかな……」
薄く開いた目蓋の奥の眼差しを確かめるより早く、顔から力が抜け、眠ってしまった
「ありがとう…………勇ましい鬼さん…………」
パルスィの身体に、体温が戻る
「私を 殺させないで くれ て」
「…ちゃんと、返事してなかったな」
拭いきれなかった、二人が身体に浴びた酒気が消え去り
「怒ってないわよ、パルスィ 私も悪かった」
小さな首と大きな掌についた傷も消え失せ
「だから…明日から少しでも…変えていこうね…」
酔い潰れた事のほとんど無い星熊勇儀が、微睡みに身を任せ、眠ってしまった
酒気に赤く染まる頬を涙で濡らし、しかし安心しきった表情で眠る、嫉妬深い恋人を抱き締めて
*****
【数刻前:勇義の部屋】
『…あんた、私にその旧友とやらの話する時、いっつもすっごい楽しそうね』
『ん~そうか? まぁ…ほろ酔い気分じゃ思い出話にも華が咲くってもんさ』
『な~にがほろ酔い気分よ… そんな安酒じゃ呑んだ内にも入らないくせに』
『ん? そりゃあれだよ』
お前さんに酔ってんだよ
怒ってない?
嫉妬はアレだね