冬の晴れた日のことです。
この日の博麗神社にも、いつものように人妖が集っていました。
神社の主、霊夢とその親友魔理沙。そして、霊夢の恋人パチュリーと、しょっちゅう訪れては食事を求めてくるルーミアです。
「霊夢、そばつゆが辛いんだけど」
ネギも山葵も入っていないお椀を持ったパチュリーが言いました。
「あんた、また全部そばをつゆに入れたんでしょ。前から言ってるじゃない。こういう盛りそばは、半分だけつゆにつけるもんだって」
お手本を示すかのように半分だけつゆにつけて、霊夢はそばをすすります。
「どう考えても、全部つけられるように濃さを調節した方が楽だと思うけどなぁ」
「ま、藪そばはこうやって食べるのが乙ってもんだぜ」
ルーミアの言葉に、魔理沙はしみじみと言いました。ニ人とも慣れた手つきでそばを啜っています。
「これ、藪そばっていうの? ニ八そばじゃないの?」
魔理沙の「藪そば」という言葉に反応したパチュリーが尋ねました。
「いや、たぶん二八そばでもあってるぜ? 藪そばでもあるが」
「藪そばでも、ニ八そばでもあるってこと?」
「そうだぜ」
パチュリーの疑問に魔理沙がうなずきます。
「藪そばっていうのは、甘皮も一緒に挽いたそばで、香りが高いんだ。そのぶんちょっとざらつくがな。逆にそばの実の真ん中だけ使う更科そばは、真っ白なそばで、なめらかだぜ」
「じゃあニ八そばっていうのは?」
「そば粉が八、うどん粉がニだから、ニ八そばって言うんだぜ」
「あれ? そうだっけ?」
魔理沙の説明に、ルーミアがピクンと反応しました。
「ニ八そばって、ニ八でもって十六文で売るからニ八そばって言うんじゃなかったっけ?」
「そうよ。というわけで、魔理沙、ルーミア、ちゃんと十六文払っていきなさい」
「それは、丼で暖かいそばを出したときに言うんだな」
「風鈴も鳴らしてないしねー」
霊夢のちょっとした冗談など、どこ吹く風で。魔理沙とルーミアはあっさりとかわして、そばを食べ切りました。
食べきったあとは、まるで我が家のように博麗神社の中での時間を過ごしていきます。
魔理沙とパチュリーは魔法使いらしく読書を。霊夢はいつものようにお茶を。ルーミアは霊夢の膝を枕に、すやすやと寝息をたてています。
冬らしい静かな時間が流れていくなか、ふとパチュリーが言いました。
「魔理沙、それ、うちの図書館の本じゃない」
「うおっ? そうだっけか?」
「とぼけないでよ。そのとき、一緒に十冊以上借りたわよね?」
「なっ。そんな借りてないはずだぜ?」
「全部言ってあげるわ。チャート式魔力演算演習1と2。マドンナ魔法理論。1対1の魔術演習。このあたりまではまともね。それと……、そういえば、魔理沙こんな本も借りてたのね。恋する……」
「うわ! やめろ」
そう言って、魔理沙はあわてて本を放りだして、パチュリーの口を手で塞ぎます。そのままの勢いでパチュリーは魔理沙に押し倒されてしまいました。
普通なら、目と目が合って何かが始まるところですが、残念ながらこの二人にそのようなことはありませんでした。息苦しくなったパチュリーが魔理沙の手を軽くたたいて、手を外させるだけです。
「まったく、バラされたくないなら、さっさと返しなさいよね。ちゃんと十六冊。どうせその帽子から出せるんでしょ」
「仕方ないなぁ。本がないなら、いても仕方ないから、帰るかぁ」
そう言うと魔理沙はとんがり帽子をひっくり返します。数を数えながら帽子の中に手を入れると、次々と本が出てきました。
「ひぃ、ふぅ、みぃ…………、十一、十二、十三。なぁ、パチュリー、今何時だ?」
「えっと……、十四時くらいね」
「そっかぁ。十五、十六と。ちゃんと返したからな。それじゃ、わたしは帰るぜ」
ポスっと帽子をかぶると、魔理沙は箒にまたがって、あっという間に飛び去っていきます。
それから、ほんの数分後、また新しい妖怪が博麗神社にやってきました。
「清く、正しい、射命丸です! パチュリーさんの不倫疑惑を検証しにやってきました!」
「うるさい。ルーミアが起きる」
「読書の邪魔」
「いくらなんでも、霊夢さんもパチュリーさんも酷いですよ……」
文が泣く真似をしますが、霊夢はまったくの無視。パチュリーも、文を一瞥だけして読書に戻っていきました。この3人の関係というのは、こういうものなのでしょう。文の方も、とくに気にすることなく取材を始めます。
「ところで、パチュリーさん。先ほど魔理沙さんに押し倒されていたのはどうしてですか?」
「別に。ただ、ちょっと魔理沙を辱めてあげようと思っただけ」
「それって、本のことでですか?」
「そういえば、パチュリー。あんた、魔理沙に時そばやられてたわよ?」
文の質問に、霊夢が突然割り込みました。
「時そばって、魔理沙が本の数を誤魔化したこと?」
「なんだ。パチュリーも気づいてたんだ」
「当たり前じゃない。幻想郷じゃ、この程度の悪戯なんてよくあるはなしだし。ま、そこまでして読みたいなら、一冊くらいなら別にかまわないわ」
「ふぅん。パチュリーも、案外優しいじゃない」
「うるさい」
パチュリーは顔を背けると、再び本に向けて視線を落とします。霊夢はそれ以上追及することもなく、膝にのせたルーミアの頭を軽くなでてからお茶をすすりました。
「あの……、霊夢さん? 時そばって、何のことですか?」
いきなり飛び出してきた「時そば」という言葉に、文が不思議そうな顔をして尋ねます。
「時そばっていう、お金を誤魔化すはなしがあるのよ。そばって、ニ八でもって十六文で商うでしょ?」
「それを誤魔化すんですか?」
「ひぃ、ふぅ、みぃ、よぉ、って数えて、やー、のあとに今、何刻だい? ってたずねるのよ」
「それで?」
「その時がここのつだから、そのあと何事もなかったように十、十一って続けるわけ。そうすると一文サバが読める」
「へぇー、面白いですね。簡単そうですし」
その時の文の顔は、紅茶にべラドンナを混ぜようとする従者のように笑っていました。
結局、この新聞記者は、そのあとすぐに帰ってしまいます。おそらくさっさと用事を済ませて屋台に向かうのでしょう。
霊夢もパチュリーも、どうでもいいやと思っていましたが、この日はまだ訪問者がありました。このことが、射命丸文の運命を決定づけることになります。
「霊夢さん、います?」
やってきたのは、大きな鍋を持った妖夢でした。
「霊夢ならいるよ? その鍋、カレー? いい匂いがする」
霊夢の代わりに客人を迎えたルーミアが鼻をひくひくさせながら言います。ルーミアが出迎えでも妖夢が驚かないあたり、この神社では当たり前のことなのでしょう。
「霊夢、妖夢が来たよ? カレー持って」
「妖夢? で、なんでカレー?」
「幽々子様が急に紫さんの家に行くことになって。ちょっと食べきれないですし」
「まぁ、ありがたくいただいておくけど。鍋は今度返せばいいわよね?」
「はい。また何かのときに」
「それで、妖夢はこれからお酒?」
「え!? なんでわかったんですか?」
「なんでってねぇ……」
霊夢は呆れた顔をして、パチュリーの方を見ます。そこには、同じく呆れた顔をしてうなずくパチュリーの姿がありました。
「だって、妖夢は筋金入りの呑兵衛じゃない」
実はこの妖夢、かなりのザルなのです。いや、ザルなんてものではありません。ワクです。その強さは、あの射命丸文を潰したほど。ミスティアの屋台最強とまで言われています。
「仕方ないじゃないですか。お酒美味しいですし」
「でも、妖夢がお酒を飲みに行くなら、ちょうどいいかも」
そういうと、パチュリーは妖夢にこっそりと耳打ちをしました。
パチュリーの話を聞いた妖夢は一瞬いたずらっぽく笑うと、こくんとうなずきます。
「ねぇ、妖夢に何を頼んだの?」
妖夢がお酒を飲みに言った後、霊夢は尋ねました。
「別に大したことじゃないわよ。ちょっとあの天狗に反撃しただけ」
「文なんて、いつもあんなもんじゃない」
「だって、わたしが不倫なんかするわけないじゃない」
それだけ言うと、パチュリーは再び読書に戻っていきます。
霊夢は何も言えず、頬を赤らめながら胸をそっと抑えていました。
「あれ、霊夢、顔赤いよ?」
勝手にみかんを食べていたルーミアが気楽に尋ねますが、霊夢は「なんでもない」と言うことしかできませんでした。
☆☆☆
人通りの少ない真っ暗な道の一角に、ぼんやりと輝く赤提灯があります。
その屋台は、ちんりん、ちんりんと風鈴の音を響かせながら、ふんわりと出汁の香りをなびかせていました。
その香りにつられたのか、一人の呑兵衛が屋台へと入っていきます。
「こんばんはー。今日は妖夢一人ですかー」
「いらっしゃい。今日も寒いですね」
仕事を終えて屋台にやってきた文を、店主のミスティアが落ち着いた微笑みで迎えます。
時刻は夜の八時過ぎでした。
文が椅子に座っている間に、端で座ってそばを啜っていた妖夢とミスティアがこっそりと目を合わせます。その目は「やっぱり」と語っていました。
「今夜はおそばやってるんですか?」
「ちょっと魔理沙さんからいいキノコをもらったので。秋だったら焼くんですけど、冬なので暖かいそばにしました」
「わたしも一杯もらっていいですか?」
「すぐできるので、お酒飲んで待っててくださいね」
ミスティアが、徳利に熱燗を注ぎながら言います。
「あ、日本酒で思い出しました。これ、せっかくなので、みなさんで飲んでください」
出された熱燗を徳利に注ぎ、一気に飲み干した文は、持ってきた包みをミスティアに渡しました。
そこに入っていたのは、大きな一升瓶。幻想郷では有名な酒蔵の大吟醸です。
「取材をしていたらいただいてしまって。天狗の飲み会に出すには、ちょっともったいなさすぎますし」
「こんないいお酒、いただいてしまっていいんですか?」
「ミスティアさんならぜんぜん。いつもお世話になっているので」
「文さん、なんか企んでませんよね?」
ミスティアがちょっといたずらっぽい顔をして尋ねました。
「え、別に何も企んでませんよ? 本当に偶然いただいてしまったものなので」
「そういうことなら、ありがたくいただいておきますね」
「はい。遠慮せずにもらっちゃってください」
そんな日本酒をめぐるやりとりをしている間に、そばが茹で上がって、出汁やキノコと一緒に丼に盛られます。
「はい、おまちどうさま」
丼を置くと、文はパチンと音を立てて箸を割り、静かな音をたてて出汁を啜りました。
「ちゃんと出汁を取ってあるんですねー」
「うちはおでんも出しますからね。出汁の準備はいつでもしてあるんです」
「そばも、ちゃんと細いですし。太いそばもありますけど、やっぱりそばは細い方が美味しいですよね」
文は出汁からはじまり、麺、具と次々にミスティアのそばを褒めていきます。
「ごちそうさまでした」
最後にすべて出汁を飲み干すと、丼を静かにおきました。
その後、もう一杯お酒を追加してそれを飲み干すと、文は席を立ちます。
「これはお酒の分と。あとそばはいくらですか?」
「はい。十六文いただきます」
「あ、ちょっと細かいので、手出してもらえます?」
文に言われて、ミスティアは手を広げます。
「えっと、ひぃ、ふぅ、みぃ、よー、いつ、むぅ、なな、やー。あ、ミスティアさん、いま何時ですか?」
「えっと……、よっつ。いや、ここのつです」
「とお、十一、十二、十三、十四、十五、十六と。ごちそうさまでした」
もう一度言うと、文は足早に去っていきました。
店内には、ミスティアと妖夢がニ人残されています。
「ミスティアさん、なんで知ってて騙されたんですか?」
残っていた出汁を啜っていた妖夢がミスティアに尋ねました。
ニ人とも、もちろん文がやろうとしていたことは知っています。
「だって文さん、わざわざお酒持ってきてくれたじゃないですか。どう見ても、一文以上しますし」
「たしかにそうですけどね……。でも、そこまでして、やりたいことですかねぇ」
妖夢がすっかり呆れた口調でいいます。
それはそうでしょう。わざわざ一文のために、高い大吟醸を用意したのですから。
「わたしとしては嬉しいですけどね。なんというか、お店を大事にしてもらえてる気分で」
「ミスティアさんは、本当に人がいいですね」
「いいお客さんに恵まれているからですよ」
そう言って、ミスティアはいつもの夜と同じように微笑みます。いつ来てもあるその笑顔に、お客さんはさそわれているのかもしれません。
「ところで……」
出汁を飲みきった妖夢が、レモンハイを口にしながらミスティアに尋ねました。
「結局、ミスティアさん、文さんの丼に魔理沙さんからもらったホテイシメジ、入れたんですよね? 文さん、一週間以上お酒飲めませんよ?」
ホテイシメジ。どんな人でも一週間程度、下戸にしてしまう魔法のキノコ。
「いや……。それはその……。ちょっとした出来心で。天狗が完全に悪酔いするって見てみたいじゃないですか。もちろん、今度料理でお詫びしますけど」
結局、ミスティアも幻想郷の住人。
やはり悪戯好きであることに、かわりはないのでした。
下戸になって酒乱になる文の姿も見たいかも。
ごちそうさん。
しかし、ホテイシメジを食べさせるなんて幻想郷の住人にとってはことさら酷なことを…