● 嘘と演者
室内は、薄暗い。
畳三畳ほどもあろうかという重厚な大机の上には積み上げられた書物、金属の鈍い光を放つ渾天儀と拡大鏡、ひっくり返されたところを見た事がない砂時計、いつぞや人形遣いに作らせた可憐な人形、黒い羽のペンに何百枚もの紙片、主の意を受けて輝く魔法の燭台、そしてその下にいかにも無造作に置かれたそれ――。
「そんなにこれが気になる?」
主は本から顔を上げると、燭台の下に目をやる。雑多な品々に埋もれるようにそこに置かれているのは――
人間の頭蓋骨だった。
魔女はその古びた石灰質に手を伸ばす。黄ばんだそれを両手で持つと、彼女はいかにも愛おしげな目でその頭蓋骨と見つめ合うようにしている。心なしか、先程より燭台の光量が落ちたような気がした。虚ろになった眼窩と幻の視線を交し合う魔女のその姿は、瞬く淡い光に照らされ、なにか蟲惑的と言うか、いや、言葉を濁さず正直に言おう。
その魔女の姿に、魔理沙は確かに淫らなものを感じたのだ。
「この頭蓋骨はね――」
ごくり、と魔理沙の喉が鳴る。図書館の大机の隅にいつもある頭蓋骨。それがあの無表情な魔女に、あんな貌(かお)をさせているのだ。
「この頭蓋骨はね、私の十五歳のときのものよ」
魔理沙は無言で手元のクッキーを投げつけた。それも何枚も。
「なッ、やめなさい。ちょっと!」
「うるせえ! 変な期待させやがって、このッ!」
この魔女は変なところで芝居がかった行動をするのだ。普段無表情でそっけないだけに、彼女に慣れ親しんだ者にもそれがよく効く。この前も見事に人形遣いを怒らせていた。魔理沙も今まさに乙女心の一番湿った粘ついた部分をこれでもかと刺激されてしまったのだ。
「なにが『私の15歳の頭蓋骨』だ。私はなぁ! 私はてっきり――」
「なによ。『私の初めての恋人の頭よ』とでも言うと思った?」
「くそッ!」と図星を指された魔理沙は黙るしかない。最後の一枚のクッキーを投げつけて、魔理沙は机に足を乗せ、椅子に埋まるようにして嘲笑の視線を避けた。
「それで――」魔女はごとりと音を立てて、無造作に骨をもとあった場所に置いた。かなりぞんざいな扱いである。
「それで、魔理沙がこの頭蓋骨を気にしていたのは、『そういう曰く』を期待してたからって事でいいのかしら?」
「ああ? いや、そうじゃないんだが……」
実際はパチュリーの芝居に引き込まれただけで、魔理沙が頭蓋骨を気にしていたのには別の理由がちゃんとある。
帽子を目深に被りなおし、そっぽを向いたまま魔理沙は話す。魔女の視線は、もう手元の本に戻っている。
「この前さ、家の掃除をしたんだよ」
「するとガラクタのなかから見覚えのない頭蓋骨が見つかったと。重症ね」
「話させておいて先回りするなよ。それに重症って何だ」
「あなたの窃盗癖よ。無意識に盗んでくるなんて、しかもそれが頭蓋骨とはね」
「失礼な奴だな。私はちゃんと選別してるぜ。厳選と言ってもいいくらいだ」
「ならなんで、そこに見覚えの無いものが混じっているのよ」
「だから、そういう話なんだよ」
「つまり、盗んだときは頭蓋骨じゃなくて、生首だったと。やっぱりハンサムなのを厳選したのかしら。より重症ね」
「あのな、いや、まぁいいや。ともかくそういう話なんだよ」
そこで、やっと魔理沙は視線を戻した。例によってパチュリーは本に視線を落としたままで、その周りで彼女の使い魔が床に落ちたクッキーを拾っている。もし彼女が焼いたものだったら悪い事したなと、今更ながら思った。
「咲夜さんに言いつけますから」
と、そういって小悪魔は薄く笑って去っていった。咲夜のお仕置きは彼女の能力のせいで回避不能だからどうしようもない。どうせ、食べようとしていた団子が口に入る寸前で床に落ちたクッキーにすり替わるとかその手の奴だ。
「んで、パチュリーはどう思う?」
「どうって。私の見解はもう言ったでしょ。残念だけど、心の病気とは上手く付き合っていくよりないわ」
「お前な、少しくどいぞ」
もう温くなった紅茶を啜り、皿に手を伸ばしてから其処に何も無いことを思い出して、さっきは早まったなと、魔理沙はちらと思った。
「私が考えるに、可能性は二つだ」
「一つ目の可能性は、私が気付かなかっただけで、もとから家にあったケースだ。あそこに住む事にしたとき香霖と掃除修繕したんだが、隅々まで磨きこんだというわけじゃないからな。家具なんかは元からあった奴使ってるし、紛れ込んでいても不思議じゃない」
「二つ目は誰かが悪戯だか嫌がらせだかで誰かが私の家に骸骨を置いていった可能性。これは正直薄いと思っていたんだが、いまのパチュリーのしつこい弄り方を鑑みるに、十分ありえると思い直した。その場合、犯人の最有力候補はそこの引き篭もりだな。咲夜にやらせれば、ばれっこないし」
魔理沙は精一杯粘っこい視線で魔女を見て、それからゆっくりと身を乗り出して言った。
「で、パチュリー。お前か?」
「『ちょっと悪戯したいから、この頭蓋骨を魔理沙の家に持っていって』って私が頼んで、咲夜が素直に『わかりました』って応えると思っているのなら、やはり貴方は重症ね。しかも、その悪戯のための頭蓋骨は魔理沙が掃除をするという、レアイベントに拠らなければ発見されない訳で、そういう甚だ心もとない確率に依存する計画を私が立てると思っているなら、更に重症だわ」
「お前な……」
どうも演技力では、魔理沙はそこの引き篭もりに大分及ばないらしい。と言うよりも、そもそもこの書痴は先ほどから魔理沙を一瞥とてしていない。魔理沙はもう手元に投げつけるべき物が無いのが残念だった。
「ま、わかっちゃいたんだけどな。アレは元からあの家にあったんだ、多分。となると何で家の中に骸骨なんか置いとくんだと。同じように机に骸骨のせてる奴に訊いてみようと、そういう話だよ」
「そこの頭蓋骨はね――」
魔理沙が話すあいだ一切顔を上げなかった書痴が、ちらりと燭台の下を見る。
「『私の15歳の時の』とか言ったらマスパだかんな」
それで、魔女は一瞬言葉に詰まった。本当に撃ってやろうかと思う。
「その頭蓋骨は……ただのインテリアよ。魔女の書斎にはお似合いでしょ?」
「偽物には見えないけどな」
「本物よ。だけど別に謂れはないわ。いつ手に入れたのか、覚えてさえいないわ」
「ふーむ。最高につまらん答えだ……」
「真実なんてそんなものよ。いいからその八卦炉を下ろしなさい」
「んじゃ、私の家のアレもインテリアなのか?」
「知らないわよそんな事」
構えた八卦炉を懐にしまいこむと、魔理沙はグイっともう冷め切った紅茶を一気に飲み干した。なぜか口の中には紅茶と一緒にふやけたクッキーが入っていた。それも何枚も。
◇◇◇
ランプの光は頼りない。その頼りない、家にたった一つの光で、今魔理沙が何をしているのかと言えば、しゃれこうべと睨めっこである。昼間、図書館を後にした魔理沙は香霖堂でこの家の前の住人について尋ね、更に人里でも訊いてまわったが、どうも実のある回答は得られなかった。魔理沙の家は一人で住んでいる事を考えなくとも広い。その殆どがガラクタで埋まっているために居住空間としては食べて寝る最低限でしかないが、建築物としての家という視点に立てば、一人でこれより大きな家に住んでいるものは、幻想郷には居ないかもしれない。
2階の南側の角部屋の寝室で、魔理沙はこの家の前の住人に思いをはせている。遺された骸骨を前に。考えてみればおかしな点ばかりなのだ。洋風建築である上に幻想郷では珍しい2階建てで、2階は小部屋だが3部屋もある。この間取りを考えたら、家族が住んでいたと考えるより無いが、ここは魔法の森である。魔法使い一家だろうか。何を馬鹿なと笑いそうになるが、それがありえるのだ。人里では魔理沙は大工を訪ねた。こんなでかい家、大工無しでは建てられないと思ったし、魔法の森で働いた大工など、有名ですぐに見つかると思ったが、里の大工達は皆首を横に振った。魔法の森で家を建てた大工など居るわけがないと言うのだ。魔法の森でこのでかい家を大工の力も借りずに建てたとなると、魔法使いかそれに類する者の存在を想定しないのは難しい事だった。
結局、魔理沙に残されたのは、今の紅魔館のように人妖定かではない者共が、かつてこの家に住んでいたのではないかと言うおぼろげな推測だった。そして彼らは皆消えてしまった。死んだのか去ったのか、それはわからないけれども。そうして今の紅魔館にいるような者共の一人が、紅魔館の魔女のようにインテリアでこのドクロを飾っていたのだろうか。
魔理沙がこの家の来歴に、拘ってしまうのは西洋建築だから、というのもある。魔理沙の母は魔理沙と同じように金髪だった。母がどのように幻想郷に流れ着いたのか、そんな疑問を魔理沙が持つ前に彼女は居なくなってしまったから、今となってはどうしようもないのだが、同じように西洋から来たかもしれないこの家の前の住人と、魔理沙はなにか奇妙な繋がりを覚えずには居れないのだ。親父に訊くか、とも思う。が、家に顔は出したくなかった。
魔理沙はランプを吹き消して横になる。サイドテーブルに積まれた読みかけの本の上にはドクロが乗っている。
◇◇◇
「明日、一日休みを取れないか?」
口内に詰め込まれたふやけたクッキーを咀嚼して、そう訊いてきたのは魔理沙である。咲夜は開け放ったクローゼットを前に、その時の事を思い出して考え込んでいた。
こない時は何週間も来ないが、来る時は三日とおかずに来る。魔理沙が紅魔館に来るのはそんな日常的な光景だから、咲夜も昼間は大抵相手にもしない。たまにどういうつもりか、図書館にも行かずに魔理沙は屋敷の中をうろついたりする。そういう時は大概咲夜を探している時で、ニッと笑って「今日はお前が目当てで来たんだ」と咲夜の部屋に上がりこんでお茶を共にしていったりする。
「今度、お前を家(うち)に泊めてやる」
と、魔理沙が言ったのはもうずいぶん前のことで、咲夜は忘れかけていたのだが、どうやらその時が来たらしいと、先の問いを発せられた時に咲夜は少し浮き立つような、変な気分になったものだった。そうして、その奇妙な気分のまま、主に明日一日休みが欲しいと、何度も噛みながら、やっと言い切ったのだ。理由を問われたらなんと言って誤魔化そうかと、そればかり頭の中にあった。何故だか素直に魔理沙の家に遊びに行くとは言えない気がした。主はその時、随分と長いこと咲夜のことを見つめて、それから酷く面白く無さそうに「まぁ、よかろう」と答えた。その主の行動を見て、咲夜は柄にも無く自分の顔面が熱を持つのを感じて時を止めてしまった。理由など隠した所で主には何もかも見通されてしまうのだ。寝床についても変な気分は消えず、朝起きて普段通りのルーチンワークで寝不足の目を擦りながら身だしなみを整えた後で、このメイド服で休日を過ごすのはおかしいのじゃないかと、はたと気が付いたのだった。
そうして、咲夜は開け放ったクローゼットの前で顎に手をやりつつ考え込んでいるのだ。咲夜は私服と呼べるものを殆ど持っていなかった。
◇◇◇
「よう、美鈴」
いつもならば客として来たのか、泥棒として現れたのか宣言して、さっさと門を抜けていく魔理沙が門前に留まって美鈴を親しげに見上げて微笑んでいる。奇妙と言うよりは気味が悪い。箒には大きな籐のバスケットが引っ掛けてある。
「あの、魔理沙さん。私の顔に何か付いてますかね? それとも凄い寝癖だとか」
「いやなに、今日で門番をする美鈴が見納めだと思うと、名残惜しくてな……」
「……どういう意味ですか」
「つまりな、今日、紅魔館はその館の中でもっとも価値ある、至宝と呼べるものを、大盗賊の私に盗まれてしまうんだ。しかも、私は屋敷の中にさえ入らずにな」
「そ、それで、私がクビになると、そういう話ですか!」
「残念だよ。美鈴」
魔理沙は少し悲しげに笑う。風は初秋の柔らかなものの筈なのに、それに触れる肌はどうしてこうも緊張しているのか。秋は終焉の象徴でもある。それを感じ取っているとでも言うのだろうか。
「クビで済めばいいんだけどな。いや、クビで済むよう祈ってるよ」
「な、なにを平然と! そう言われて、私が魔理沙さんを好きにさせるとお思いですか!」
「でも、勝てないだろ?」
「そこまで言われては、仕方がありません。紅魔館のため、紅美鈴、弾幕勝負のルールを破る事だって吝かではありません」
美鈴は腰を落とし構えをとる。体術で闘う構えをとるのは、相当に久しぶりの事だ。背中にじわりと汗が滲むのを感じる。気息を整え体勢は万全だ。五感は冴え、足元の砂粒が鳴るのを美鈴は聞いた。
「まぁ、待てよ美鈴。私はこれから一世一代の大泥棒をやる。事が事だから賞賛なんて求めちゃいないんだが、それでも人間てのは自分のなした事を誰かに、他の誰かに見届けて欲しいと願うものなんだ」
「私に、それを見届けろというのですか! 馬鹿も休み休み言ってください。私はこの紅魔館の門番です!」
「美鈴、お前、見たくないか? 私が見事奇術のようにこの館の至宝をさらって行くところを。この霧雨魔理沙、一世一代の業と言う奴を」
「……クビでは済まないかもしれないと言ったのは、貴方じゃないですか。お嬢様はあんなですが怒ると恐いんですよ」
「まぁ、そうなんだが。でもお前は永遠に語り継げる偉業を記憶に刻む事になる」
なんと言うことだ。自分はこの紅魔館の一員で、大げさでなく家族だと思っていたのに、なのに今、自分は篭絡されようとしている。見てみたい。見てみたいのだ。目の前の魔女見習いは、しかも館に入りさえしないと言うではないか。
「なにも暴れたりしないさ。いつものようにうたた寝していたんだ、お前は。気付いたら全て終わっていた。そういうことさ」
そう言うと、魔理沙はふわりと浮かび上がった。美鈴は縛られたように動けない。何が起こるのか見当も付かないから、飛び掛る事だってできない。色々な事が頭を巡っているうちに、魔理沙はゆっくりと飛んで、ある部屋の窓を叩いた。あの部屋は何処だったか。この館は外見と内部構造が一致していないから、外からではそこに住んでいる者でさえどの部屋かわからない。主の部屋だけは常に場所が同じだから、わかるのだが。
魔理沙は、もう一度、優しく窓をノックした。すると、その窓はゆっくりと開き、そして――
そして『私服の』咲夜が現れ、魔女の箒に横座りに乗ると、魔理沙は帽子を取って美鈴のほうに振り、凄い速度で飛び去っていったのだった。
「咲夜さんが……盗まれてしまいました……」
聞いている者など誰もいないのに、そう美鈴は呟き、がくりと膝を地に着いた。
◇◇◇
「ねぇ、魔理沙。これ私が自分で飛んじゃ駄目なの?」
「なんだよ、私の後ろは不満か?」
「そうじゃないのだけれど」
箒の上は思ったよりもずっと乗り心地が悪かった。細い箒に横座りだからバランスが取り辛い。魔理沙が一度目のノックをした時、咲夜はまだメイド服のままで顎を撫でながら考えている真っ最中だった。ノックの音で慌てて時を止めて、今から考えれば慌てる必要など無いのだが、あたふたと適当に着替えて箒に乗ったのだった。結果、咲夜の出で立ちはセミタイトの黒いスカートにブラウスと言う、ただただ無難なもので、箒に跨る事もできず、選ぶ余地など殆どなかったのだと、判りきった言い訳を自分に言い聞かせつつ魔理沙の腰にしがみつく事になった。
人が高い場所に関心を持つのは俯瞰というものが持つ力による、と言ったのは誰だったか。魔理沙の背から見下ろした世界は咲夜が思っていたものとは随分違うものだった。普段はできるだけ歩く事を心がけている咲夜とて、空は飛ぶ。飛ぶのだが現状とは高度からして違う。幻想郷でやたらと空を飛びまわっているのは一に天狗で、二に魔理沙だ。それだけの事はあった。
そもそも人間が地上で見ている風景だって、地べたに顔を擦り付けて居るわけでもないから、厳密に言えば俯瞰なのだ。なのにこの高度から見る世界は、明らかに、咲夜が普段見ているものとは違う。ただ高度が上がっただけというものではない、異質なものを感じざるを得ないのだ。今、自分が見ている世界は魔理沙の世界なのだと、そう思った。この景色が異質なものだとしたら、どの高度までが普段と同質で、何処を境に人は異質と感じるのか。そんなどうでもいい事を咲夜は考えていた。
随分飛んで、丘と言うか小山というか、ともかく短い草に覆われたそんな場所に降り立った。周りは森なのに、不思議とこの丘には木が生えていない。向こう側の斜面は崖のようだった。
「ここは、私のお気に入りなんだ」
見晴らしは悪くないが、特に綺麗な風景と言うわけでもない。悪く言えば平凡とも言える風景だった。
「そこの崖のすぐ向こうが、結界なんだ。外と幻想郷(ここ)を隔てる」
つまり、魔理沙は外を見たくてここに来ているのか。崖の向こうは例によって森で、その向こうは山が延々とつらなっている。それに遮られて、ここら見れる外の光景など限られたものだ。博麗神社から東を見たって外は見れるから、魔理沙がここを特別視するのは、きっと自分が見つけた場所だからだろう。魔理沙はマットを広げて昼食の用意をしている。少し遅い昼食に何が出るかはもうわかっている。
サンドウィッチはマスタードがよく効いた咲夜好みの味だった。吸血鬼はニンニクに限らず香辛料があまり得意ではないから、紅魔館の食事は自然と刺激から遠くなる。美鈴も香辛料が好きだから、咲夜と二人でたまにとんでもなく辛い料理を夜食に作ったりする。
「ごちそうさま。美味しかったわ。だけどこれ、あなたが作ったんじゃないわね」
「ばれたか。いや予想通りだけどな」
「食器も随分趣味のいいものだし、何よりその魔法瓶。それは紅魔館(ウチ)がアリスに贈ったものよ」
「なんだよ。あいつ少しは隠す努力をしろよ」
ぶつぶつ言いながら魔理沙は暖かい紅茶に口をつける。暑くもなく、寒くもなく、時折初秋の乾いた風が丘を吹き抜ける。二人は外のほうを向いてしばらくそうやって座っていた。
「なぁ、咲夜。咲夜は外を知ってるんだろ」
「そうね。でも私はここのほうが好きよ?」
「ああ、知ってるよ。……でもさ、私はいつか外を視てみたいんだ。こんな覗き見みたいなのじゃなくてさ」
魔理沙は足を伸ばし、後ろに手を付いた。その手が咲夜の小指に触れた気がした。
「私は、外の事を何にも知らないからさ。なんつーか、これでも少しは不安なんだ」
「だから、もし……。もし、私が外に行く時は――」
帽子の鍔の蔭から、魔理沙の少し染まった頬が見える。
咲夜は外界に愛着も郷愁も持っていない。むしろ、自分のような人間が、仮初めであっても人らしく生きられる、このおとぎの国を気に入っている。それでも、魔理沙が外に行くと言うのなら、それについて行っても良いかもしれないとさえ、思う。嫌な思い出ばかりの外の世界も、この全てに前向きな、小さな魔法使いと一緒ならば、また別な見え方をするに違いない。見慣れた筈の幻想郷が、魔理沙の高度によって違ったものに見えたように。
「――咲夜も、一緒に来てくれないか」
そうだ、それも悪くは無いかも知れない。無論、お嬢様と館を放り出していくわけには、行かないのだが。
「そうね、それも悪くは……ふッ無いかも、……プッ、アハ、アハハハハハハ」
そこで、もう咲夜には耐えられなかった。突如として吹き出した咲夜に魔理沙は呆然としている。
「…………おい。なんだよ、笑う事ないだろ!」
「アッハ、アハ。ごめんなさい。でも、これは。これは思ってたよりキツイわ。プッハハハハ」
「何だよお前。大爆笑じゃねーか。そんなに可笑しいかよ!」
「可笑しいわよ。『一緒に来てくれ』って、プッフハハハハ。男に言いなさいよせめて」
「私は……これでも真剣だったんだぞ。それを……」
「何よ、まだ続ける気なの? ハァ。笑ったわ。こんな笑ったの何時以来かしら。いいわ。種明かしをしてあげる」
目尻に浮いた涙を指で拭って「その前に飲み物飲ませて」と紅茶を飲んで、はぁと大きく息をついてやっと咲夜はまともに話が出来るようになった。本当に、声を出して大笑いしたのなんて、もしかしたら、産まれて初めてかもしれないと、そう思った。
「パチュリー様がね『魔理沙はこれから先しばらく、芝居がかった演技で人を騙そうとして来るから、せいぜい笑ってあげなさい』って。何の事かと思ってたけど、まさかこんな形で来るとは思ってなかったわ」
「あいつ……。アッ! ちょっと待て、その話まさか美鈴も」
「勿論知ってるわよ。まさか美鈴にもやったの? プッハハハハハ」
「おい、笑いすぎだぞ……」
「美鈴、上手かったでしょ。もう想像付きすぎて、可笑しいわ。魔理沙の演技に乗ってくれたでしょ?」
「クソッ! なんだよ私が乗せられてただけかよ」
「なかなか名演だったわよ。お世辞抜きで」
魔理沙は地面の草を引き抜いて風に投げた。あの引き篭もりにはいつか復讐してやると決意した。
「まぁ、いいよ。お前が腹抱えて笑う所なんて、相当珍しいだろうしな。それで満足しといてやるよ」
◇◇◇
「話には聞いていたけど、これは凄い有様ね」
魔理沙の家の一階は昼なお暗い。なぜ暗いかといえば窓が殆どその機能を果たしていないからだ。無論カーテンなど懸かっていない。山と積まれたガラクタで塞がれているだけだ。その昼なお暗い魔理沙の宝物庫は、西側の窓の隙間から漏れる赤い陽に、普段より一層と怪しげな雰囲気を漂わせていた。
「貴方、どこで寝たり食べたりしてるのよ? まさか外?」
「馬鹿言うな、二階はキレイなんだ」
大きくため息を一つつくと咲夜はすいすいガラクタを避けて階段から二階に上がっていった。この家を訪れたものは大概ガラクタに足をとられて転ぶもので、それは「あの」霊夢でさえそうだったのだが、どうも、咲夜は別種のようだった。その姿を少し詰まらなそうに見送った魔理沙はキッチンで茶を沸かし、これまたアリスに焼いてもらったリンゴのパイを用意した。
魔理沙がこの家唯一の生活空間に入ると、咲夜はベッドに腰掛けて、ついでに言えばこのベッドもまた唯一この家で人間が腰掛けることの出来る場所である、ドクロと睨めっこをしていた。
「魔女っていうのは、こういう物を手近に置きたがるものなのかしら。パチュリー様も机に置いてるわよね」
「そうかもしれないが、それは少し違うんだ」
魔理沙も隣に座って、謎のドクロの事を、そして、何処に訊きにいっても誰も何も知らないなら、唯一の手掛かりである、この家自体を調べるしかないと結論付けた事を喋った。それには協力者が欠かせないのだ。
「と、いうわけで、どうだ? 咲夜」
「なにが『どうだ?』よ」
「だから、ほら、ウチの一階の状況を見てさ、こう、整理魔の血が滾ってきたろ?」
「あなた、まさか、自分の家の掃除をさせる為に私を呼んだの?」
咲夜は少しの間、不思議そうに首を傾げたあと、ぴくりと頬を引きつらせて訊いた。
「いや、違う。そうじゃないんだ。なんつーか、ほら、ついでだ。ついで」
「……ガッ」
魔理沙には一瞬何が起きたのか理解できなかった。どうやら自分の喉輪を咲夜が右手一本で締め上げているようだと気付いたのは、大分苦しくなってからだった。何とか止めさせようと手を伸ばすが、魔理沙の手は空を切るばかり、リーチの差はいかんともし難い。咲夜の前髪を透かして彼女の暗紅色に染まった瞳を見た時、どうやらこれは本気で不味いと、やっと現状を認識したのだった。
一方の咲夜は、浮ついたような変な気分で過ごした昨日の事や、主の前での無様な取り繕いをした事や、今朝なにを着て行くか悩んで何時間も過ごした事とかが頭を巡っていたのだった。
「咲夜……落ち着け…………はな、せば……わかる……」
喰い込む咲夜の指の下で頚動脈がドクドク鳴っているのが聞こえる。
「……私が、悪かった………………多分」
それで、やっと咲夜は手を放した。魔理沙はベッドに倒れこんでいくつか咳き込み、息をついた。
「お前な、少しは加減しろよ。死ぬかと思ったぞ」
「私は殺してやろうかと思ったわ」
それから、二人で軽い夕食をとった。咲夜は嫌がったが、約束だからと魔理沙がごねて、風呂にも一緒に入った。無論、この家にベッドは一つしかないし、誰かが横になれるようなスペースは床にない。
◇◇◇
翌朝、魔理沙が目覚めると、同じベッドに寝ていたはずの咲夜はもう居なかった。はて、一時は怒らせてしまったものの、寝る前はそう悪い雰囲気でもなかったはずと思いつつ身を起こすと、階下からがさごそと音がする。寝間着のまま靴を履き、階段を降りようとして目を疑った。階段の先が、一階が明るいのである。慌てて降りると、かっちり身だしなみを整えた咲夜がガラクタ共を屋外に運び出しているところだった。
「おはよう」
「おう……おはよう。咲夜、その……」
「さっさと――」
それは大事なものだから丁寧に扱ってくれとか、外に放り出すなんて、にわか雨でも振ったらどうするんだとか、言いたい事は山ほどあったのだ。
「着替えてきなさい」
「……おう」
咲夜の眼はそれを言わせないだけの力があったし、その眉間のによった皺は逆らう事の無意味さを暗示していた。回れ右して寝室に戻った魔理沙は着替えながら、ああいう表情も練習せにゃいかんなと、まずそれを考え、それから危機に瀕しているコレクションをいかに救うかを考えた。
とにかく――
とにかく、絶対捨てないぞ、とまず心に決めた。そうは言っても、あの眼つきで迫られたら、果たして拒否できるか。泣き落としは咲夜に通じるだろうか。ここから先は意思力の勝負だと気合を入れた。鋼の意思。それこそが肝心だ。それから、今日の咲夜は私服だからナイフは仕込んで居まい、だから恐いのは体術だけだ、昨日の事もあるし、咲夜のリーチの内側に入る時は十分に気をつけなければと、そう考えた。
顔を洗って、咲夜の前に進み出る時、魔理沙は何か悪い事をして母親に呼ばれた幼児の様な心持だった。おずおずと外にいる咲夜の所に行くと彼女は魔理沙の足元にシャベルを放ってきた。
「掘りなさい」
「……掘れって、お前」
「物を捨てる穴がいるでしょ」
「ほ、掘らないぞ! アレは皆、大事なものなんだ!」
紅い眼をした咲夜がこちらを振り返る。恐くなんかないと言い聞かせたが、魔理沙はつい視線を外してしまった。魔理沙は咲夜の足元の当たりを見て、それで、あっと思った。もう彼女のリーチの内側だった。
「イデッデデデ!」
「こっちに来て――」
咲夜は魔理沙の頬を掴んで、引き摺るように彼女を、今は陽光を浴びる運び出したガラクタの前にもって来た。
「よく見なさい。本当にこれ全部大事なの?」
薄暗い宝物庫で怪しげな光を放っていたはずのそれらは、陽光の下で神秘性を剥ぎ取られ、情けない姿を晒していた。「非道い事しやがる。これじゃ、まるでゴミじゃないか」と言おうとして、はっと口を噤んだ。
そうして魔理沙はシャベルを動かしながら、自分の墓穴を掘らされる死刑囚の気分を満喫した。
咲夜が怒り出さない程度には掘って、魔理沙はもそもそと穴から這い出して室内へ入った。物が運び出された後のそこは予想以上に広かった。それ自体は気持ちのいいことなのだが、あの暗く怪しげな雰囲気が失われてしまった事を残念に思う魔理沙も同時にそこに居た。床は、すでに一通り水拭きされているようだった。あのスカートで雑巾掛けは結構大変だったろうなと、そう思って咲夜を見ても相変わらずパリッとした何時もの姿のままで、それが妙に悔しい。
その咲夜は階段のしたの壁を睨んで仁王立ちしている。
「ここって、出っ張ってるじゃない?」
「ああ? ああそうだな?」
「外から見たら、逆にここの壁は凹んでるはずなのに、さっき確認したけど、そんな凹みは外壁には無いわ」
「あー……」
「ちょっと、しっかりしなさいよ。この家の秘密を探るんでしょ?」
そう言えばそんな理由だったのだこの掃除は。魔理沙はこれから自らの手で葬らねばならないだろう、己の半身とも言えるあれこれを思って、それ所ではなかったのだが。
階段の下の壁は確かにまるで階段を支えるかのように出っ張っている。この家の平面形は単純な長方形にキッチンが付け足されているような形だから、確かに変ではある。魔理沙がこの家に住み始めたのは、まだ幼いと言ってさえよい頃だったから、こんな単純な事にも気付かずに、いつの間にかガラクタに埋まっていたのだろう。
何かが、塗り込められている。と気づいた時、魔理沙の沈殿していた心は徐々に対流し始め、外に放り出してあったシャベルを引っ掴むと、それで力一杯壁を殴りつけた。キレイに白く塗られた土壁は意外に簡単に崩れた。その向こうには、地下への階段が覗いていた。それでもう、魔理沙の心は沸騰するかのようだった。隠し部屋、隠し通路、そうしたものを魔理沙は常に世界に求め続けて来たのだ。それが、何と言うべきか――自宅にあったのだ。
自分の顔の隣に魔法の光を浮かべ、魔理沙は第一歩を踏み出す。壁に手を付きながら慎重に。石の階段はあまり精巧なできとは言えず、各段の高さはちぐはぐで降りにくかった。
「何だよ! ただの地下室じゃねーか!」
「それ以上を期待していたの?」
「そりゃお前、すんごいダンジョンがだな――」
「民家の地下にダンジョンを求めるなんて、あなた相当重症よ」
咲夜まであの図書館の引き篭もりのような事を言う。階段は十段と少ししかなかった。魔理沙の目の前には小さな机が一つ。その上にはボロボロになった小さな本。その本に魔理沙が手を伸ばそうとしていると、後ろで咲夜が言った。
「でも、大分あなた好みな感じよ、この地下室。気味の悪いものが一杯」
後ろを振り返ると幾つもの天井まで届く棚に、ガラスの容器に入ったなにかの生き物標本だとか、鉱石の欠片だとか、様々な色の粉末だとかが、所狭しと並んでいる。半分以上は割れて、中味が床に散乱していたが、それでも相当な量である。奥には大きな机もあって、ガラスのレトルトやらフラスコやらが並んでいる。それで魔理沙はいっぺんに機嫌を直した。魔理沙は駆け出すように棚によって、ガラス容器に張られたラベルを調べたり、実験器具を確かめたりしている。口からは「あー」とか「おー」とか数々の言葉にならない音が漏れてとても見れたものではない。
これは、面倒な事になったと。咲夜はそれを眺めながら思っていた。昼前には館に帰る積りだったのに、魔理沙はしばらくこの地下で恍惚の時を過ごすだろう。多分、これは自分がいくら脅したところで変えられない。そうなると、屋外に搬出したままのガラクタを選別して、整理するのは魔理沙が正気に戻ってからになるだろうし、果たしてそれが何時になるのか見当も付かない。放っておいて帰ろうかしら、とも思うのだが、これでにわか雨でも降ってガラクタが本当のゴミに変わってしまったら、それはそれは恨まれるだろう。
仏心を出して掃除を初めてしまった時点で自分の負けなのだ。諦めて咲夜は歪な石段を登り、そこに散乱している崩れた土壁の破片を掃き出した。それから玄関を出て、山と積まれたガラクタの前に暗澹とした気分で戻った。このまま、全てをまた家に運び込むのは、あまりの無為に咲夜の心がどうかしてしまう。今の内に全てを穴に放り込んで埋めてしまうのが正解なのは判ってはいても、あのガラクタに我を忘れて興奮する魔理沙の姿を見てしまうと、実行に移せない。矢張り、咲夜は負けたのだった。結局、咲夜はどう見てもゴミというものだけ魔理沙の掘った穴に放り込んで、また家に戻す事にした。無論、咲夜なりに整理整頓してだ。これで、文句を言われたら本当に付き合いを考えようと心に決めて。
◇◇◇
もう、少し見ただけで、魔理沙には判った。この地下室を使っていたのは、魔法使いだ。間違いない。魔理沙には棚に並んでいる薬品と秘薬の種類から、その魔法使いの専門もわかるし性別もわかる。ともすれば、そこの机の前で実験にいそしむ「彼」の姿まで目に浮かぶようだった。自分よりずっと古典的な分野を専門とする、男の魔法使いが、確かにこの家に暮らして、この実験室を使っていたのだ。
そこまで一気に調べて、魔理沙は地下の饐えた空気を肺一杯に吸い込んで、一息ついた。そうして八畳ほどの陰鬱な空間を一度ぐるりと輝く瞳で見渡した。それから次に考えねばならない事、つまり、地下室はなぜ塗り込められたのか、封印された地下室がなぜこうも荒れているのかを考えた。四方の壁を点検して、やはり封印が完璧だった事を確認すると、魔理沙は思い出して階段傍の小机の上の本を手に取った。
本は手記だった。書かれている文字は鮮明だったが、地下の湿気と虫食いの為に、薄い洋紙は酷く劣化していてページをめくる度にボロボロと崩れた。活字ならともかく、雑な筆記体で書かれた手記は、紙の劣化もあって、かなりの部分が魔理沙には判読不能だった。
何ページも日付と判る単語だけ拾って行く内に、魔理沙はそれが魔法使いの手による彼の妻の看病の日誌だという事に気が付いた。ページをめくる毎に増えていくネガティブな言葉と魔術への不信。
彼の娘への言及もあった。寝たきりで日々弱ってゆく母親とその看病で憔悴してゆく父親のあいだで、健やかに育つ彼女はまるで希望そのもののように書かれていた。
彼女の陽光に輝く金髪と明るい鳶色の瞳がいかに美しいか。
魔理沙は慌てて西暦で書かれた日付を確認した。計算は合う。髪の色も瞳の色も合っている。おまけに「彼女」の父は魔術師だった。もう十分だ。魔法使いの資質というものが遺伝するのか魔理沙は知らないが、それを除いたって符合するものが多すぎる。魔理沙の母と同じ色の髪と瞳をもつ、魔理沙の母と同じくらいの歳の娘が、この家には住んでいたのだ。
つまり、この家は母の家族の家だったのだ。
魔術師の妻は良くならなかったろう。この荒れ果てた実験室とそれが塗り込められている事から考えると、妻を救えなかった彼は魔術を捨ててしまったに違いない。妻の死を機に魔術を捨てた彼とその娘がどうなったのか、手記をパチュリーか誰かに読んでもらえれば判るのかも知れないが、魔理沙はもうこれ以上追及する気になれなかった。
あの、今は魔理沙の寝室のサイドテーブルにあるドクロは、もしかしたら母の家族の遺骨かもしれないのだ。魔術を捨てた失意の彼が妻の遺体に手を出したのか、彼の娘である母はそれを目にしていただろうか。魔理沙は知りたくなかった。
魔理沙にとって確実なのは、母はこの住みなれたこの家を、この森を出て人里に入り、つまらない道具屋と結婚した事だけだ。
そして母の娘である魔理沙は魔法使いを志し、人里を出てこの森に、この家に住んでいる。――まるで、逆さまになぞっている様だと、そう思った。魔理沙は自分の人生を自分の決断と努力で歩んできたはずだったのに、この手記を読んだだけで、それは何か魔理沙の生まれる前から定められていた運命に従っているだけのように感じられてしまうのだ。まるで何をしても仏の掌上から逃れ得なかった孫悟空のように、魔理沙もまた自分の力で築いてきたはずの自分の道のりが実は他人の手によって舗装されていたかのような、そんな気分だった。そんな訳は無い。そんな筈は無いのだ。自分が今の霧雨魔理沙という存在になる為にどれほどの苦心と努力をしたのか、それは自分が一番知っているのだ。それでも、知ってしまった事はすぐには忘れられない。
自宅の謎を解いた高揚はどこにも無く、かといって、運命などと言うものに素直に打たれない魔理沙は沈鬱とするわけでもない。ただ、地に足が着かないような、ふわふわした気分で地下室の隅に座り込み、ボロボロの手記を弄くっていた。そのたびにページは崩れた。もうまともに読むことは出来ないだろう。
魔理沙は自分がどれほどそうして座っていたのか、見当もつかなかったが、そのうちに、こつこつと足音が聞こえ、ギリリと音が出そうなほど眉をしかめた咲夜が降りてきた。
「一階、片付けたわよ。適当にだけど」
「ああ、あー……」
「それなりに捨てたわよ。どう見てもゴミっていうものを選んだつもりだけど」
こう言ったら、きっと魔理沙は怒鳴りだすか、ゴミの穴目掛けて駆け出すか、どちらかだろうと咲夜は思っていたが、意外にも魔理沙は平静だった。
「あー、なんだ、その、悪かったな。休日なのに働かせて」
拍子抜けして眉が緩んだ。
――ずるい。
普段自分勝手な者は皆こうやって、偶にしおらしくなって自分を懐柔してくるのだ。頭の中に自分の周りの自分勝手な者共の顔を思い浮かべて、それからどうも自分の周りにはそういう者しか居ないようだと気付いて、妙な気分になった。
「それで、何かわかったの?」
「ああ……お袋の家だったよ」
「この家が?」
「正確にはお袋の家族の家かな」
「……そう」
普段、魔理沙は自分の家族の事を他人に喋ったりしないから、咲夜はあれやこれやと今まで断片的に聞いた魔理沙の周辺を思い出さねばならなかった。
「血は争えないわね。人里を飛び出して、知らずに住み着いた先がお母様の家だなんて」
「ああ、やっぱり……そうなのかな」
座り込んだ魔理沙の返事は妙に力が無かった。
◇◇◇
暗い室内。重厚な大机。拡大鏡に渾天儀。前に来た時から、何も、変わっていない。手記を読んだだけで、随分と様相を変えてしまった魔理沙の足元に比べて、この魔女の居城のなんと確固としたことか。
「なぁ、パチュリー。魔法使いの資質ってのは遺伝するもんかな?」
「『魔法使いの資質』を定義してもらわないと、なんとも言えないわね」
「んんー、 巫女とか退魔師とかさ、ああいうのは家系があるだろ? だから魔法使いにもあるのかと思ったんだがな」
「彼らは言葉で何かを学んで力を得るわけじゃないでしょ。理屈ではなくて精神の感応力が力の源なのだから、やはり適した家系というのがあるのでしょうね。『筋』(すじ)というのだったかしら。あなただってわかっていると思うけど、魔術は理論よ。理論を実践するのに精神力と体力が必要だといえば、それはその通りで、そういったものがある程度遺伝するのは確かだけれど、それは決して魔術に必須なものではないわ。理論とは学び理解さえすれば、誰にだって実践できるものよ」
「ああ、まぁ、そうなんだろうな」
そこで、パチュリーは紅茶を一口含んだ。
「お母さんの家だったらしいわね」
「ああ、咲夜から聞いたか。そうらしい。お袋の親父は魔術師だったよ」
「縁を感じる? 運命と言ったほうがいいかしら?」
「私は運命なんて信じてない」
「でしょうね。でも、信じてないから運命なんて無いとは言えないわね」
この魔女には自分が言いたいことなぞ全てお見通しなのかもしれないと思う。言いたいことはおろか、自分がここに来た理由も知っているのだろう。
「今日は、レミィに話を聞ききに来たんじゃないの?」
「いんや、ただの暇つぶしだぜ。大体、あいつに『運命とはなんだ?』って訊いたって解るような答えは帰って来ないだろ?」
「それは確かにそうね」
実の所、魔理沙は今日、紅魔館の門を潜るまで、レミリアに話を聞くつもりだった。広い前庭を歩いているうちに気が変わって、用も無いのに図書館に目的地を変えた。有り体に言えば、魔理沙は怖かったのだ。なんら確たる傍証も無いボロボロの手記一冊を読んだだけで、自分の過去がまるですり替わってしまったかのように感じているのだ。もし仮に、あの自分勝手な吸血鬼が魔理沙の未来を宣託しようものなら、自分と自分の世界は一体どうなってしまう事か。
ふと、本ばかり見ていた魔女が顔を上げた。
「あら、『運命』が向こうからやって来たわよ」
魔女が顔を上げた先をみると、この館の主が小さな羽根をパタパタ羽ばたかせて、ちょうど図書館に入ってきたところだった。
その姿を見て魔理沙は背中に嫌な汗が滲むのを意識した。
「なんだ、魔理沙。来てたのか」
「……邪魔してるぜ」
本当に、尋ねなくても良いのかと、魔理沙は自問していた。訳のわからない答えでも何かのヒントくらいにはなるかも知れないのだ。この吸血鬼に視えている運命とは、一体どんなものだろう。自分の過去は本当に前もって定められていたものだったのか、自分の未来もまた、既に定まっているのか。
日中の事だから、吸血鬼の顔は微妙に眠たげだった。その眠たげな顔が魔理沙を見上げて動かない。魔理沙の方に眼を向けつつも、視線は魔理沙を透かして、そのずっと向こうを視ているような――。
こいつ、私を『視て』いる。そう気付いた。
「……チッ。おい! 『視る』なよ私を!」
さっきまで眠たげだったその顔は、今はなにか面白いものを『視た』かのように笑っている。
「『視られる』と何か困るのか? 魔理沙」
「うるせーな。嫌なだけだよ」
吸血鬼の紅い眼がぼうと光っている。魔理沙はその視線を避けるように、わざと大きく舌打ちして椅子に埋もれた。未来を尋ねれば、コイツは答えるだろうか。
「パチェ、この前の小説の続きが見たいんだけど」
「来る頃だと思ってたわ。食べながら読んだりしちゃ駄目よ」
魔女から本を受け取り、レミリアはこちらに背を向け、去ってゆく。
「ああ、そうだ――」
何か思い出したように立ち止まり、運命を操るという吸血鬼は顔を半分だけ魔理沙のほうに向けた。少し首をかしげ、さも面白そうに口角を上げ、そして――彼女は運命を告げた。
「魔理沙。お前、三日後に死ぬぞ」
◇◇◇
寝覚めは、最悪だった。身を起こしてベッドに腰掛け、両目の間を指で揉む。今日がレミリアの予言したその日だった。しばらく、そうやってぼうとしていると、あの吸血鬼の声が、鈍った頭の中に反響した。
「お前、三日後に死ぬぞ」
「クソが。あのオコチャマ吸血鬼め」
魔理沙は一つ悪態をつくと、やっと立ち上がった。顔を洗い着替えると、そこで今日という日をどう過ごすか考えて立ち尽くした。魔理沙は昨日まで、強いて普段通りに行動した。普段と違った事をするのは、あのレミリアの戯言を自分が信じているようで、腹立たしかった。今日も普段通りに過ごすだけだと、昨日、ベッドに横になるまでは、そう考えていたのだ。「くそッ」と、また一つ悪態をついた。だいたい、一日の予定を考えている時点で、もう普段通りではない。魔理沙はそんな予定など、何か特別な事でもなければ立てたことが無い。
そうして、しばらく考え込んで、今日は一日神社で過ごそうと、そう思いついた。その考えが、魔理沙にはとても素晴らしいものに思えた。そうだ、これはいい考えだ。霊夢が一緒なら、なにかと退屈しないで済むし、そこらじゅうに危険物がある自宅よりよほど安全だ。仮に、何かあっても霊夢がいれば大概の災難はなんとかなる気がする。それに――。
本当に自分が死ぬのなら、霊夢に見取ってもらえる。
そんな事を考えている事に気づいた時、魔理沙は本気で自己嫌悪に陥った。
「なにが『運命なんて信じない』だ。クソッ」
それから、大きく息を吐き出して、丸まった背を伸ばして胸を張った。
魔理沙は自分と言う人間の半分くらいは見栄で出来ていると思っている。ここが、正念場なのだ。今日の自分を見届ける者は誰もいない。だから、今日ここで張る見栄は自分への見栄だ。ここで見栄を張らずにどこで張るんだ、と自分に言い聞かせた。誰も騙せなかった拙い演技だが、せめて自分くらいは騙しきってやるんだと、そう決めた。
隣の部屋から、軽い本を四五冊持って戻ると、ベッドに寝転んで本を開いた。今日一日読書して過ごすことに決めたのだ。本の内容はまるで頭に入ってこなかった。文字通り活字を追っているだけで、それは読書ではなく字を順々に見ているだけだと、途中で馬鹿らしくなったが、強いてそれを続けた。そうやって普段の何倍も時間をかけて一冊の本を見終わり、サイドテーブルに置こうとした。
そのサイドテーブルの上から、ドクロが魔理沙を視ていた。
確か、ヴァニタスと言うのだったか。と魔理沙はふと思い出した。頭蓋骨は「避けられない死の運命」の象徴だと、どこかで読んだ。
魔理沙はかなり長い間、そうしてドクロと見詰め合っていた。このドクロが「避けられない死の運命」の象徴なら、つまり、今魔理沙が戦っている相手そのものだった。魔理沙はそれに手を伸ばす。その手が震えている事に気づきはしたが、どうすることも出来ない。
魔理沙は『運命』を手に掴み、それと向き合った。
この私がこんな所で死ぬわけが無い。死ぬというなら、自分はこの家で暮らし始めた最初の冬に死んでいた。あの冬、魔理沙は自分がこの森に積もった雪と瘴気に埋もれて、飢え凍えて死ぬのだと、何度も独りで泣いたものだ。あの冬の事を考えれば、今は天国みたいなものだ。それだけじゃない。あの冬以外にも、自分は幾度も死にかけているのだ。実験に失敗してキッチンが吹き飛んだ事もあるし、毒ガスが発生して三日昏倒していた事だってある。妖怪に殺されそうになった事は何故か無いが、人に殺されかけた事はある。その霧雨魔理沙が、あの乳臭い吸血鬼の予言一つで死ぬものか。
お前が私の死だというのなら、私はお前を吹き飛ばしてやる。私はいつでも塵も残さずお前を消し去る事だって出来る。
魔理沙はドクロの両のこめかみに指を添えて、それを睨み据える。その暗い眼窩に何も見えない事を幾度も確認して、それから張り出した前頭部を眺め、複雑に走った縫合線を指でなぞり、磨かれたように鈍く光を反射する後頭部を見た。そうして、魔理沙は――
魔理沙は、小さく「クソが……」と今日何度もついた悪態をもう一つ漏らした。
後頭部の下側、ちょうど背骨が繋がる穴のすぐ傍に、魔理沙は製造番号と製造業者のロゴの刻印を発見したのだった。
『運命』は贋物だった。
◇◇◇
門もろとも門番を吹き飛ばした魔理沙が紅魔館の玄関扉を開け放つと、ホールの真ん中に「お待ちしておりました」と言わんばかりにメイド長が待っていた。
「いらっしゃい魔理沙。お嬢様が図書館でお待ちよ」
「ああそうかよ。私が来ることなんてお見通しか」
この館の住人と来たら、そろいもそろって私を騙くらかしやがる。特にあの魔女と吸血鬼は一度泣かしてやらんと気が済まん。咲夜は、まぁ許す。怒ると怖いが掃除してくれたし、なんだかんだで操縦しやすい。
魔理沙が図書館の大扉を乱暴に開けると、奥でパチュリーとレミリアがテーブルを囲んでいる。
「ああ、魔理沙。そろそろ来る頃だと思ってたよ。なんせ私には『視える』からな」
客用の椅子に腰掛けた吸血鬼はティーカップを手に、いかにも面白そうに笑っている。
「覚悟は出来てるんだろうな、五百歳児」
「なんだ、その態度は。私はお前の疑問に答えてやったんだぞ」
そう言うと、運命を操るという吸血鬼はおもむろに立ち上がり、普段は小さな翼を身の丈以上に広げると、ばさりと一つ羽ばたかせ、そして、厳かに言った。
「魔理沙。運命とは『そういうもの』だ」
それで、魔理沙の暴れる気はどこかに吹き飛ばされてしまった。もちろん、表には出さない。精一杯、私は怒っているんだという顔つきをして、レミリアを睨み返した。相手は何かニヤニヤ笑って、こちらの反応を楽しんでいるようだった。
「ああ、よくわかったよ。でもな、私は一言もお前に尋ねたりしてないぞ」
「魔理沙、暴れるなら外でやって」
「私と闘りたいなら、満月の夜に来るんだな。その時はちゃんと相手してやる」
そう宣言すると、レミリアは大きくした翼を畳んで、何時もどおりパタパタと小さな翼を羽ばたかせて出て行った。
それを見送ると、図書館はまた、普段通りだった。何時もどおり、客に眼もくれずに本を読む魔女と、背もたれと肘掛けに埋まりこむようにだらしなく座った魔女見習いが残った。
「それで、魔理沙、運命とはどういうものだったのかしら?」
「ああ? 知りたいなら、お嬢様に訊けばいいだろ」
「レミィの言葉じゃ解りようがないから訊いてるのよ。貴方はわかったんでしょ? 普段は教わってばかりなのだから、たまには逆に私に教えを垂れてもいいのじゃなくて?」
魔理沙は帽子に手をやって、それを目深に被りなおすと、詰まらなそうに口を開いた。
「運命ってのは――」
魔理沙が己の力で掴み取ってきたと思った半生は、手記を読んだだけで突如、運命の掌上に帰した。そして、震えるほどに感じた死の運命は実際は贋物だった。つまりは、そういうことだ。
「運命ってのは、気にしても仕様が無いもんだ」
「つまらない答えね」
「真実ってのはそういうもんだろ」
真実はつまらない。そうだ、嘘のほうがよっぽど劇的だ。思えば、この魔女の演技に騙されたところから始まっているのだ。ここ数日、魔理沙は騙され通しだ。美鈴に乗せられ、レミリアに騙され、最後には贋物の骸骨に弄ばれた。
魔理沙は燭台の下にいつも置かれている頭蓋骨に手を伸ばす。魔理沙の家にあったそれは贋物だった。魔理沙はそれを一時は母の両親のどちらかの頭骨かもしれないと、本気で思ったのだ。あの頭蓋骨が贋物だと解った時、腹立たしさの中に若干の安堵があった。
このドクロもパチュリーは「ただのインテリアだ」と言っていた。何かありそうに見えて、実際は何も無いのだ。真実とはそういうものらしい。
「何が『避けられない死の象徴』だ」と魔理沙は手の中の頭蓋骨を真上に放り上げた。くるくると回転しながら落ちてきた白骨を受け止めてふと前を見ると――
魔女が青い顔をして固まっていた。それを見て、魔理沙はもう一度、今度は更に高く投げる。
「……やッ、やめて! 魔理沙!」
ぽんと魔理沙が誰かの頭を受け止めると、青い顔の魔女は慌ててそれをひったくり、さも大事そうに両手に抱き抱えた。
それを見て、魔理沙はつい吹き出した。
――なにが『ただのインテリア』だ。
つまり、劇的な真実もあるのだ。
そう思うと、堰を切った笑いはなかなか止まりそうに無かった。
(了)
咲マリ美味しいです。例え偽物だとしてもうま〜い。
あときになったのですが数箇所リミリアになっております。
リミリア
キャラクターがらしくて良かったです、特に美鈴。実に良い性格をしています。幻想郷はそもそも皆「偽物」、空想の世界。これくらい虚と実が入り混じることなど、当たり前なのかもしれません。
嘘か真かどちらかを信ずることで先が決まる。
最後の慌てるパチュリーが可愛いです。ごちそうさまでした。
それぞれ生き生きと思考し、行動している様が伝わった。
とにもかくにもお姉さんな雰囲気の咲夜さんはいいものだ
貴方は作品の中で妖怪と人間の精神の描き方をかなりはっきり区別しているように見える、読んでいて興味深かった。そこからまた独特な東方への解釈が見えて、とても良かったと思う。
いつもありがとう。
これからも楽しみにさせて下さい。
もしかして逆なんでしょうか。
つまらない戯言を使わず、戯れる為に戯言を楽しむ。
それにしても、このお話ではどの登場人物たちも生き生きしていて素晴らしかったです
物語の方も霧雨家の過去や、パチュリーの頭蓋骨などとても面白い話が目白押しでした
という点について思いをめぐらしている最中です
うーん。どうかなー。
この作品について言えば、髑髏をうまく使っている点ですね
髑髏にご執心なパチュリーは、どっち側として書かれているかといえば
髑髏があらわす誰かに対してのものであり、
その誰かは既にいないのだから、ないものをあると言い張る正常な精神ということになりそう
そりゃ髑髏自体は不気味なものであって、悪趣味だけど
悪趣味だからといって妖怪の精神じゃないという解釈
だから「この頭蓋骨はね、私の十五歳のときのものよ」の解釈は
十五歳のときに死んだ最愛の誰かのものと読みやすいし、
そうであれば、わりと普通じゃないかな
日本人に限らず、骨ってどっかに残すし
髑髏を単なる骨としてではなくて、『誰か』に見立てているってことは
やっぱり普通な考えに思える
どちらかといえば咲夜さんのほうが人間視点で見てヤバいかもしんない
魔理沙いいね!
この咲夜さんは好みですね。
魔理沙亭はまったく関係無い魔術師の物だったかも知れないし、最後のパチェだって魔理沙を元気付ける為の演技かもしれないのだから。
私みたいなのは文章不信症というべきなのかな。
でも前半であれだけ嘘と演技をみせられたら疑いたくもなるw
かわいすぎるだろ
はぐらかされたような結論もあまりここでは見ない感じですし、オチの悪趣味なジョークも粋ですね
にしても、咲夜さんといい、パチェさんといい、どっかかわいい部分があるのが流石幻想郷。
物語の緩急とオチが最高すぎる。
あと薄々分かってたけどちゃんと内容がこれまでの話と繋がっててウキウキした。
これまでの作品でもフラグの集大成でもある気がしてピカイチに感じました。