-1-
久しぶりの青空が覗いた。
朝起きて紅茶を一杯飲み、すぐにアリスは、人形たちを連れて森を飛び立った。霧の湖を見下ろす日当たりのいい丘の斜面に陣取り、敷物をひいて人形を整列させていく。
「ああ、いい天気ね」
虫干しである。
湿度の高い魔法の森で、人形がカビや虫の被害から無縁でいられるのは、ひとえに彼女のこの努力のおかげだ。このところ雨まじりの雪が一週間ばかり続いて外出もままならず、アリスはやきもきしていたのだ。
晩冬の青空は澄み渡り、山ふもとにうっすら筋雲が漂っているだけ、近くの草原では妖精たちが怪しげな祭壇のようなものに十字架をおっ立て、なにやら気勢をあげている。
実に平和だ。
帰ったらお茶にしようか。いや、少し手をかけて料理するのもいいかもしれない。この数日、アリスは大したものを口にしていなかった。鱒の燻製を包んでパイを焼くか、それともカブや茸を炒めてからチーズをのせてグラタン風にするか。食材のストックを思い出しつつ、うきうきと吟味する。食べなくても生きられる身だからこそ、楽しみに妥協はしたくない。
陽射しはたっぷりとして、コートの内側がぽかぽかする。もうひとつの肉体的欲求が密かに忍び寄っていると気づいたときには、すでに手遅れだ。
だめよ、こんなところで寝ちゃいけない……。
しかし睡魔は隙間のない弾幕でごり押ししてくる強敵である。少々の抵抗ののち被弾して、アリスはあっさり意識を手放した。
目玉のついた帽子をかぶり高下駄をはいた九尾の吸血鬼が厳かに頷くと、銀髪の従者が巨大なナイフを振り上げる。寝台に縛り付けられたアリスは指一本動かせない。
「いやあ!」
目が覚めた。
当然のごとく夢である。抱えた膝の間に顎が落ちていた。
背中に汗をかいている。アリスは、湖の向かいに影を曳く紅い屋敷を睨みつけた。主人はともかく従者の見かけがまんま十六夜咲夜だったのだから、この抗議は正当である。
そして。
「うるさいなあ……」
アリスは腰を上げる。太陽の位置はさして変わっていないから、眠っていたのはほんのひと時だろう。
妖精たちは何やら言い争いをはじめていた。おかげで目がさめたともいえるが、生贄にされる夢など見た原因の一端も、やはり彼女らにあるはずだ。
「ちょっと、あんた達――」
ぎゃあぎゃあ騒ぐ妖精たちに、斜面を下って近づいていく。
傍に来ると、妖精の囲む祭壇の詳細が見えてきた。枯れ枝を組んで板を渡した三段のつくりで、一番下に食べ物や酒、ひとつ上の段には色とりどりの石や色鮮やかな落葉、冬に咲く花などが、氷でできた皿や壷などに入れて飾られている。最上段の中央に穴を開けて通した十字架には、手を広げた女がぶら下がっていた。両手と足首を氷でできた輪っかで繋ぎ止められている。生者か死体か、はたまた案山子か、逆光で判然としない。
しょせんは妖精のすることだとスルーしていたが、かなり手が込んでいる。さてしかし、とアリスは首をかしげた。
生贄の儀式でなければ、これはなんだろう。葬礼かしら。
しかし、死に縁のない妖精がそんな習慣を持つとは聞いていない。仲間どころか自分が「一回休み」になったところで、翌日にはそれを忘れているのだから。
「おー? なんだ、人形使いか」
アリスが来たことで黙り込んだ妖精たちをかき分けて、チルノがやってくる。喧嘩していたのは彼女で、相手のサニーミルクは離れてふくれっ面だ。
「なんなの、これ」
祭壇を指さすと、チルノはふふんと胸をそらす。
「見てわかるでしょ、嫁入り道具だよ!」
さっぱり意味がわからない。
まあ、朝から晩まで野原で輪になって踊っているような連中だ。意図を深読みしたところで徒労だろうし、さして知りたくもない。万が一異変ならば巫女の領分だ。アリスは関わらないことと決め、人形たちのもとへ戻ろうとする。虫干しもそろそろいい頃合のはずだ。
「あっ」
背中でチルノの声がした。
空気が動く。何が起きているのか分からぬまま勘が働いた。アリスは数体の人形に魔法の糸を通して手繰り寄せ、物理的な防御陣を展開する。
ずしりと衝撃。
振り返ると、倒れこんできた十字架を人形たちが受け止めていた。吊るされた女の顔が振り返った肩口すぐ近くに迫って、アリスは少しぎょっとする。その白い頬には、まるで生気が感じられなかった。
「もー、だからもっとしっかり固定しなきゃだめって言ったのに……。すみません、アリスさん」
祭壇の裏から出てきたのはスターサファイアだ。十字架の根元を確認しているその背に、アリスは声をかけた。
「なにこれ、人形なの?」
「はい」振り向いたスターは十字架の女に手のひらを向けた。「雛人形です!」
なるほど下の段はひな壇というわけだ。しかし、と傾いた十字架と垂れ下がる人形をアリスは眺める。総合的な見た目はそう、処刑台と上るための階段だ。
妖精たちはわいわいと束になり、十字架と女を元通りに押し上げにかかる。
「サニー、ちょっと手伝ってよ」スターが呼ぶ。
「ふん」サニーは相変わらずむくれたままだ。「私はぜったい手伝わないからね!」
「なによ、さっきから文句ばっか、サニーには頼まないよーだ!」
眉を逆立ててチルノが喚く。そうこうするうちに十字架は再び天にそびえ、スターが飛び上がって丸太をゆすって強度を確かめている。
「大丈夫みたい。じゃ、そろそろ運んじゃいましょ」
「完璧を期するアーティスト・あたいとしてはまだちょっと物足りないんだけど」
「やりすぎてもよくないわ。ほらチルノ、そっち持って」
サニーを除く妖精たちが祭壇を囲む。せーの! と声ばかり上がって祭壇はぴくりともしない。
「こりゃ、だめだ。重くてとても持ち上がんないよ」
「そうね。たとえサニーが手伝っても」
「嫌よ!」
「はいはい。誰か助けを借りないと」
「そうだね、助けを」
嫌な予感がした。
アリスはそそくさと妖精たちから距離をとり人形をすべて回収すると、敷物を丸める。さいわい魔法の森は正面である。飛び上がって真っ直ぐ飛んでいけばいい。
なのにどうして、そこで振り返ってしまったのか。きらきらした視線が虫ピンみたいに降り注いでアリスの手足を刺し止めた。
……クールよ、アリス。ここはクールに断るのよ。
-2-
湖から川へ流れ込む砂州に迫る森の入り口に、小さな影が佇んでいた。
「来たわよ、ルナ!」
スターが手を振って飛び出していく。チルノが続き、ほかの妖精たち、遅れてサニーが、ちらりとアリスの方を窺ってから飛んでゆく。
降りてくる仲間たちに囲まれて、彼女は恥ずかしそうに首を縮めた。
「おかしくない……かな?」
ためつすがめつ、チルノはその周りをぐるっと歩く。
「ぜんぜんおかしくない、可愛いじゃん!」
「ありがと、チルノ」
「ふふ、すてきよルナ」
「ありがとう、スター」
そして残るサニーはそっぽを向いたまま、ルナチャイルドは気遣わしげにそちらに視線を送っている。
そうだった。以前、妖怪と偽ってアリス邸を訪れて懲らしめられた三人組だ。氷精が混じっていたから混乱してしまった。しかし巻き毛のルナチャイルドはどうしたわけか、花かんむりをかぶり純白のシーツで身を包んで、王女様のように立っているのだ。
ともあれ現在のアリスにとって、そんなことはどうでもいい。
「あんたたち、ねえ。私のこと、忘れてるでしょ」
魔力をゆるめると、ゴリアテ人形はゆっくりと祭壇を地面に下ろした。氷の器ががちゃんと鳴る。結局断りきれず、ゴリアテのスペルを発動してここまで運んできたのだ。はじめは曲りなりにも手を貸していた妖精たちも、すぐにまたチルノとサニーが喧嘩を勃発させると、まわりを飛び回って喝采を送る始末。スターだけは後ろで支えている振りをしていたが、他にも人形を飛ばしていたアリスは、彼女の手が祭壇に触れていなかったのを知っている。
だいたい、どうせ移動させるのなら運んだ先で組み上げればいいものを。そう指摘したところで今さら気づいたのはアリスも同様である。だから言わない。
「はぁ……疲れたわ」
ゴリアテ人形とシンクロして肩を回してほぐす。弾幕がブレインであることは譲れないが、魔法はそれなりにパワーなのかもしれない。
「こら、アリス! それもっと大事に扱ってよね」
チルノがすっ飛んできて足を踏み鳴らす。
「調子にのるな」
「あだだだだだ」
ゴリアテにやんわりとアイアンクローをかけられ、持ち上げられたチルノが足をばたばたさせる。おそらくは世界最大の少女人形を遠巻きに見上げていたルナが、意を決したようにその足元に駆け寄りぺこりと頭を下げた。
「あなたが運んでくれたの? ありがとう!」
「いや、私よ」
口をはさみつつ、ゴリアテに膝を折らせてお辞儀させるのを忘れない律儀なアリスである。
「ね、ほらみて、あたいが用意したの。雛人形!」
ばしばしとチルノが祭壇の横っ面をはたく。アリスは、磔になった等身大の人形を見上げた。それが山ふもとに姿をみせるという厄神を模したものであるのは、すでに察しがついていた。
嫁入り道具として一般的なものは箪笥や鏡台だが、雛人形がそこに含まれることもある。幼いころからともに桃の節句を祝ってくれた人形を連れて、新婦は嫁いでいくのだ。
厄神、鍵山雛だから雛人形。単純な連想だが納得ではある。厄の神の像なんて勝手に作れば災いを招きそうなものだが、人間ではないアリスにはさしたるタブーだとは思えない。
第一、ちょっと嫉妬したくなるほどにこの「雛」人形、よく出来ているじゃないの。抜けるような白い肌には艶すら浮かんでいるのだ。遊び暮らすだけの妖精たちに、こんな特技があったなんて。
人形の足元に近寄って、細部まで作りこまれたスカートやリボンの意匠を熱心に観察しながら目線を上げていくと、じっと見下ろしている深い色の瞳に、ばったり出くわした。
くちゅん!
可愛いくしゃみに身をよじった雛の手足の枷から、氷の破片がぱらりと落ちかかった。
「本物じゃないの!」
胸倉を掴まれてもチルノは得意満面である。
「あったりまえじゃーん。ダチが嫁にいくってのにホンモノを用意できないなんて、氷の妖精の名がすたるってものよ」
「何、威張ってるのよ……」
おめでとー、おめでとー!
どこに隠れていたのか、チルノたちよりひと回り年下に見える妖精たちが頭上を飛び回り、光弾を飛ばす。一人一色しか出せないようだが、合わさって花のようだ。
「みんな、ありがとう。……私、幸せになるね」
ルナが小さな手をあわせてじっと雛を拝む。磔刑の聖者はといえば、手足の縛めをどうにか振りほどこうとして、のけぞったり膝を曲げたり、おかしな舞いを披露していた。
つまりこれは妖精の結婚「ごっこ」なのだ。アリスはやっと理解した。妖精の遊びにつき合わされ、時間を無駄にしたわけだ。花嫁はルナチャイルド、ずっと不機嫌なサニーミルクはさしずめ、娘の結婚を認めようとしない「お父さん」といったところか。
ゴリアテのスペルを解呪された人形がだんだん小さくなっていくのを、興味津々とルナとスターが見入っている。準備なしに発動したために膨大な魔力を消費してしまったが、返せといって取り戻せるものでなし、さっさと退散するのが賢明だろう。
「アリスさん、来てくれたんですね」
元のサイズまで縮まったところでルナは人形を抱き上げ、アリスにさし出した。
「あげるわ、その子」
アリスはぶっきら棒に人形をつき返す。ご祝儀よ、なんて口に出せばおままごとにまともに付き合っているみたいで恥ずかしいから、黙っている。
「本当!? 嬉しい、ありがとう!」
人形を胸にぎゅっと抱きしめている。少し肌寒い風が吹き、ルナのおくれ毛が震えた。彼女の髪を飾るかんむりに、ふとアリスの目が留まった。
-3-
それは砂のように乾いた雪の吹きすさぶ、月のない晩だった。
里の蔵人たちには、出来上がった酒や味噌から少しずつ神様の取り分として、蔵の内外に設けた神棚や祠に供える慣わしがある。妖精たちはそれをこっそりくすねる。その夜のルナも、そうやって集めた味噌を溜め込んでいる仲間から少し分けてもらい、持ち帰る途中だった。湖にほど近い、立ち木まばらな林で、歯の根も合わず震えながらさまよっている一人の男を見かけた。
スターやサニーが一緒なら悪戯をしかけたかもしれないが、一人ならやり過ごすのが無難だ。ただの人間とて妖精にとっては脅威となりうる。放置した結果そいつが野垂れ死んだり、獣や妖怪に襲われたとしても、知ったことではない。
なのになぜか、ルナは声をかけてしまった。大木の根元の落ち葉の乾いたところへ案内し、火を起こして、栗鼠が雪の下に隠した栗を掘り出し、炙ってから味噌を塗って食べさせると、男はいたく感激して、ありがとうありがとうとルナの手を握った。
「キミみたいな子がお嫁さんに欲しい、って。きゃあ」
ふっくらした頬を赤らめて、ルナは口を手で隠してふるふる首を振る。
やっぱりね。しょせんはお子様妖精の思い込み。
アリスは内心安堵する。馴れ初め話まで出てきたのには驚いたが、ちょっと聞き出してみればこんなもの。かわいいものだ。人間と出会ったのは本当だろうが、男の言葉はただの一般論だろう。ここはひとつ上から目線でツッコミを入れてやるべきか。
「彼は今夜、二頭立ての牛車で迎えに来てくれるのよ」
おっとまだ続きがあったか。ルナは組んだ指にあごをのせる。
「新婚旅行は、アタミ」
アタミ? どこよそれ。
「あーアタミか」「定番よねー」と妖精たちは納得の様子だ。
「煉瓦の家に住んで、庭に菜園をつくるの。大きな犬を飼うのよ」
紅魔館の影響か、近頃は石組みの瀟洒な家にあこがれる里人も多いと聞く。実際建ててみると暑かったり寒かったり、なかなかうまくいかないらしいが。
「それでね、ここからが大事なんだけど。私、結婚後の生活について、彼にいくつか約束させたの」
ん、生活?
いきなり真顔でそんなことを言い出したルナに戸惑っていると、「そうそう、そこ大切よねー」と所帯じみた声がかかる。
まさかのチルノだった。
「愛がすべてを許容できる期間って、そうは長くないから……」
スターは沈痛な声を出し、喧嘩していたサニーですら、
「ま、まあ。家事の分担とか子供の数とか、義実家との関係とか、あとから揉めたくはないもんね」
と加わってくる。四人はしみじみと囲んだ地面にうなだれている。
なんだこの激おませ集団。そりゃ、見た目で年齢はわからないから、そんな経験があってもおかしくはないかもしれないが。
アリスは動揺を隠せない。――そういえば私、結婚したことなかった。
「そう。だからね」ルナは厳かに続けた。「家事は基本的に折半でしょ。料理と洗濯は私、掃除とゴミ出しは彼ね。忙しくても朝ごはんだけは一緒にしよう。記念日と誕生日はしっかり祝おう。ごはんのときにむずかしい話はしない。年に一度は旅行しよう。お互いの趣味は尊重すべし。彼は貯えが相当あるみたいだったけれど、それは結婚前の資産だから私は手をつけない。お互いの実家にはなるべく順番で里帰りしましょうってことになったけれど、そこはまだ話し合いの余地ありね。えーとそれから、子供は三人くらいでしょ、男の子が一人に女の子二人がいいな。一年ぐらい二人で過ごしてから取り組もうか、ってことになった。そして年とった後だけれど、彼五十くらいになったら脱サラしてお店やりたいって言うから……」
アリスはぐるぐる目の回る思いだった。ここで不意に話題を振られたら被弾は免れ得ない。
「ねえ人形使い、どう思う?」
チルノ先輩、容赦ない自機狙いですね。
「え? ど、どうって……」
「アドバイスとかさぁ。上から目線でさぁ」
見開いた瞳には一点の曇りもない。
妖精たちはそろってアリスの言葉を待つ態勢である。こうなればやぶれかぶれだ。
「すると、何? 喧嘩しても、朝晩のキスだけは欠かさないようにしようって、そんな約束までしてるのかしら」
「えっ」
ルナは熱湯に放り込まれたカニみたいに真っ赤になり、それは仲間に伝播する。
「キ……ス?」
「そ、そんな……」
「恥ずかしい……」
一斉に顔を抑えてしゃがみこむ。なんなのよ一体。
辛くもアリスは勝利を収めたようだ。胸をなでおろしていると、
「って、そうじゃないでしょ!」
「お父さん」が敢然と立ち上がった。
「なんでそこでそんな話になるの! 人間と結婚だなんて、おかしいでしょ!? ルナは騙されてるんだ、その男、きっと妖精に悪戯されたことがあるのよ。仕返しにルナを捕まえて酷いことをしてやろうって魂胆に違いないわ!」
吐き出した気炎でサニーの前髪がピンピン跳ね上がる。大変な剣幕だ。手のひらをぎゅっとつむって、ルナは身を守る貝みたいになる。
「そんなことない、優しい人だったもん……」
「絶対騙されてる!」
「違うもん!」
「ルナの馬鹿!」
「サニーの分からず屋!」
睨み合う目と目が潤んでいる。遊んでいるうち本気になっちゃうアレかー、とアリスは嘆息した。気の利いたアドリブで仲裁できればいいのだが、正直そういうのは苦手だ。助けて神様。
手近なところで厄神様がいるが、雛は妖精作の雛壇の上にゆったり横座りし、我関せずと空を眺めている。こんなことして呪われちゃうわよ、とアリスが妖精たちを半ば脅しつけることで十字架から解放されたのだが、当人ずっと寝ていてことの経緯は覚えていないらしい。己を祀る祠の奥で眠っていたところを攫われたあげく磔にされたわけだが、「妖精ちゃんのすることじゃ、しょうがないわね」と、あっさりチルノたちを許したんだから大らかなものだ。
「別に、いーじゃん。結婚ぐらいさあ」
飽きたのか離れて飛びまわっていたチルノが、緑髪の妖精の手をひいて戻ってくる。
「あたいなんて何度も結婚してるよ?」
ねえ大ちゃん、と笑いかけられ、隣の子が真っ赤になる。二人の左手の薬指に、草のつるを結んだ指輪が巻かれていた。
――いやだチルノちゃん、恥ずかしい。HAHAHA、見せ付けてやればいいさ、あたいと大ちゃんの仲じゃないか。
高い空をピーヨロヨロと鳶が横切り、二人の妖精は見つめあい、三人の妖精は黙り込む。しばしの空白を、ぐすりとサニーの鼻音が断ち切った。
「どうして、そんなこと言うの。どうして、人間のところへ嫁に行くなんて。どうして……。これまでずっと、何をするのも三人一緒だったじゃない。ルナは、私たちのことがキライになっちゃったの?」
恐ろしいものでも飲み込んだかのように、丸めたルナの背がぶるりと震えた。
「そんなことない、サニー。私、そんなつもりじゃ……」
「じゃあ、どうして!」
「私は、応援したいって思うの」
アリスの隣でずっと黙っていたスターが、二人に近づいていく。
「スターは平気なの!?」
「ちょっと落ち着いてよサニー。もしもその人間がルナを傷つけるつもりなら、二人きりのときに何もしないわけがないじゃない」
「そう……かなあ?」
スターと、それからルナに手を握られて、サニーの目の端に結んだ涙の珠がぽろりと落ちかかる。
おかしい。
違和感が、アリスの中でみっちり膨らんでいた。いくらなんでも雰囲気がシリアスすぎるんじゃないか。ただのごっこ遊びだと思っていたけれど、
「ひょっとしてこれって全部、本当のことじゃないかしら……。って、思ってるでしょ」
「きゃあ!」
声というより息を耳に吐きかけられて膝が砕けそうになる。いつの間にか、祭壇から降りた厄神がアリスに張り付くように立っていた。
「な、何よ。だったらあの子、本気で人間に嫁入りしようとしてるっていうの」
「ふふふ。さあ、どうかしらねえ」
雛は踊るようにアリスの周りを歩くと、柔らかく目を細めた。
午後にさしかかった空の縁がうす黄色く輝き、冷たい風が吹きはじめる。妖精たちは手を取り合って小声を交わしていた。この三人が別々に行動しているのをアリスは見たことがない。妖精の社会というのはどういうものなのかわからないけれども、それは家族と同じなのではないか。
「ねえ? 相手がどんなやつか確かめてからでも遅くないじゃない。悪いやつなら、サニーと私でこらしめてやれば良い。二度と妖精にちょっかい出せないように」
スターがうふふと怖い感じで笑い、サニーの肩を叩いてチルノが割って入る。
「そういうことならあたいもひと肌脱いでやるよ。もし私らでも手を焼くようなら、アリスが出て行ってやっつけてくれるから!」
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ」
なんでそこで巻き込む。誰にも負けないサイキョーなんだから! とかいつも言ってるじゃないの。
「私は、関係ない……」
「えっ」
三妖精はアリスが驚くほどに驚いた顔をした。「帰っちゃうの、アリスさん」
駆け寄ってくるルナが、長いシーツを踏んづけて転びかける。とっさに身を乗り出して抱きとめた。ずり落ちたルナの花かんむりが目の前にある。
「ねえ」
ずっと気になっていた。草や花を編みこんで輪にしたかんむりには、貝の殻が宝石のように結わえてある。大きさは小鳥の卵くらいで色は青緑、そこらの湖や川では見かけない珍しい巻き方をしていた。
「あ」
ルナが気づいてかんむりを押さえる。
「見るだけよ。大丈夫、死ぬまで借りたりしないから」
ずれたかんむりを直してやりながら細部を観察する。雛に指摘される前から奇妙に感じてはいたのだ。
「これ、どうしたの」
「もらったんです」
その男に、ということだろう。
「花は?」
「お花はみんなが集めてくれて、大ちゃんが輪っかに編んでくれて」
「ふうん」
つる草で編んだ円周に、片栗や仏の座といった早春の花々がふんだんに結び付けられている。祭壇に飾ってあるのも合わせて、これだけの量を用意するのは相当に骨だったはずだ。湖にまだ氷が残り、森の下草が雪に埋もれているのである。妖精がいくら自然の具現だとしても、容易いこととは思えない。
おまけに、
「なーに?」
アリスの視線に気づいて見返す厄神様。彼女の強制スカウトまでやってのけたのだから。
ルナの羽織るシーツに指をかけて手繰り寄せる。アリスは迷っていた。
「その人間。優しそうだったのね?」
「うん」
短く、ルナは即答した。
「あのね。私を膝にのっけて、朝までずっとお話してくれたの」
「どんなお話?」
サニーやスターも、アリスたちの傍に集まってくる。
「いろんな! そう、人間についての、お話。食べるものとか着るものとか、昔のこととかね。歴史っていうのかな……。遠い遠い国の風景についてだとか、人間たちが守ってる、ヘンテコな決まりごととか。いろいろ教えてくれたの! すっごく楽しかった。私、もっともっと知りたいって思ったの」
「そんなの別に、結婚なんてしなくたってわかるじゃない」
サニーはそう言ったが、スターはこくこく頷いている。どちらの発言を肯定しているのか、わからない。
「そっか」
アリスがシーツを抜き取ると、ルナの小さな肩がぴくりと震えた。不思議そうに見上げてくるので、大丈夫、と髪を撫でる。
「人間のお嫁さんになるのって、きっと大変なことよね」
結局のところルナは、人間に憧れているだけではないのか。好きだとか色恋だとか、そういう次元の話ではないのではないか。
言えなかった。アリス自身、女として誰かを愛したことはないのだ。愛だの恋だの正直わからない。だから妖精の言うことだとして、頭から否定するのはためらわれた。
「このままでも素敵だけれど」立ち上がってシーツを広げた。「これに鋏を入れる許可、くれないかしら。きっと後悔はさせないわ」
え? と妖精たちがそろって目と口を丸くする。
「ドレスか!」案外とチルノの勘がいい。「でも、アリスごときにできるのか?」
「失礼なやつめ」
手が塞がっていたので一体人形を飛ばしてどつかせる。
「ええと。人間が迎えに来るのね? いつ?」
「今夜」ルナは林の上に広がる空を見渡す。「日が暮れてから、だって」
「場所はここでいいのね」
こくりと頷いた。
「いいわ。日暮れまでには完成させるから。もしそれより早く相手が来たら、待たせておけばいい」
それもまた男の度量を試すことになるだろう。
「やらせてくれるかしら?」
アリスは、ルナではなくサニーを見て言った。
期待に目を輝かせる仲間とアリスとを見比べて、「お父さん」は不安と戸惑いを額に浮かべたまま、「わかった」と小声で返事をした。
-4-
一歩、森に入ればまだ冬の気配が濃厚である。我が家のドアをくぐってコートを脱ぐと、アリスはすぐに裁縫用の人形を数体同時に起動して、作業にとりかかった。
妖精たちと別れ家路のさなか、アリスの頭の中ではすでに線と線が新たな面を生み出していた。イメージしていたのは、シーツそのものにあまり手をかけずチューブ型に縫い合わせるドレス。ストックしてあるレースやフリルを別の人形にとってこさせ、スケッチしながら合いそうなものを探す。
ボタンはどれか。パニエはいるか。
あっという間に必要な裁断をすませ、裏地の処理にかかる。全体的に大まかな作業を人形で行いながら、アリスは自分でも針を握って手元に集中する。光沢のある銀糸を、感覚にまかせて縫いこんでいくのだ。
簡単に採寸してきたルナの体のサイズを確認しつつ、どこかにかんむりと同じ、貝のモチーフを加えたくなった。人里を訪れたとき、半月を模した七宝のブローチがあったのを思い出したのだ。色味といい大きさといい、かんむりの貝にそっくりだ。浅くあけた背中をコルセット風にしぼって、留め具のようにそのブローチを配するのは、いいアイデアなんじゃないか。
すでにドレスは着られる形になっている。少し迷ったが、妥協したくない気持ちが勝った。日暮れまでに完成させるとすれば、十分に時間はある。ストーブの火を落とし、マフラーを巻いて冬空に飛び出した。
森の木々を飛び越えながら、不意に腹の底から笑いがこみ上げてくる。いったいどうして、私はあの子たちにおせっかいを焼いているんだろう?
自分でもよくわからない。わかりたくて手を動かしている。
そうやってアリスは生きてきた。
『アリスさん』
ルナの採寸を済ませ引き上げるところで、声をかけてきたのはサニーだった。
『本当は、知ってたの』
『何を?』
近くの仲間たちを気にしてか、アリスの傍でくるっと背を向けると、独り言みたいな声が浮いてくる。
『人間のする結婚ってやつ。ルナ、ずっとずっと憧れてたの。私知ってた、ベッドの下に、ルナが人間のことを書いた本とか沢山隠してるの、知ってたもん。私もスターもね。知らないのはルナだけ』
一方的に喋って、サニーはアリスの返事を待たず、手を頭の後ろに組んでぶらぶら歩いていく。
人間「ごっこ」……。
アリスは、たった今あとにしてきた自分の部屋を思い出している。チェストにベッド、裁縫箱にアイロン、タペストリー。食器棚とそこに並ぶ食器、暖炉。ランプ。みんなみんな、人間の生み出したものだ。人形たちや洋服の大半はアリスお手製だけれど、それらにしたって、一から私が作りました、といえるだろうか。
人間の真似事が好きなのは妖精に限らないのだ。この地においてはつまるところ、妖怪も吸血鬼も魔女も、人間のような服を着て人間の住まうような屋根の下で暮らしているのである。
それでいい、と思っていた。都合のいいところだけ人間の持ち物をつまみ食いして、あとは遠ざけておけばいい。あやかしにはあやかしの世界がある。
けれどなぜか心が冷える。風にあたる体の前面みたいに冷える。うす青い頭上の空のように不安になってくる。そしてその不安は、アリスがこれまで漠然と持ち続けてきたもののように思えるのだ。
『応援したいって思う』
スターはそう言った。アリスの思いもそれに近いのかもしれない。仲間たちが集めた花で編んだかんむりで飾り、人間を迎えようというルナの姿は、眩しかった。勇気がみなぎっていた。応援する以外に何ができるのだろう。なんのことはない、アリスはもう少し彼女らと遊んでいたかったのだ。
……かもしれない。断定はすまい。
ほどなくアリスは里に着いた。
暖かい時間を見計らって皆外出するせいか、通りはなかなかの賑わいだ。追い立てられるように小間物屋に入り、目当てのブローチを手にいれると、ようやく人心地がついた。
ついでに、使えそうな布地を見ておこうと服飾の店へ足を向ける。細々した店の並ぶ路地の反対側の空き地には、催しでもやっているのか大きな天幕が張られ、のぼりが立っている。書かれている文字を読もうとして、アリスは天幕の脇からこちらに振られる小さな手に気がついた。
「やあやあ」
アリスが近づくと、因幡てゐは膝ではさむようにしていた火鉢から身を起こす。
「あんた何やってるの?」
「見りゃわかるでしょ。商売商売」
そう言われても横の小卓に並べられた品々は、ガラクタにしか見えない。
「これが、偽の月の石ね。こっちは月の酒の偽物。これは月人が持ってきたと伝えられるただの茶碗。んでもってこれは、月の姫にもらったと昔のえらい人が固く信じていた宝石。っぽいガラス玉」
頼みもしないのに次々指をさして教えてくれる。
「偽物ばっかりじゃない」
「いや、まあ」てゐは頭をかいた。「単なる在庫整理っていうか。いらないから捨てる、って姫様が言ってたの、ひとつでも売れればめっけものだと思って持ってきただけよ」
妙に殊勝な言い草にかえって警戒心が湧く。すると端に置いてある一つをてゐがひょいとつまみあげた。
「この貝殻は」
「それは?」
アリスは何気ない風を装って訊く。ルナがつけていた貝殻と、色や模様は違えど形はそっくり同じだ。
「子安貝。またの名を宝貝。海の貝だからちょっとは珍しいかもね」
「――の、偽物?」
「貝殻としては本物。どう?」
てゐのつまむ前にわずかに目線を走らせただけである。なんとも目ざといものだ。アリスはかぶりを振り、マフラーを肩にかけ直した。
「いらないわ」
細い路地に入ると、どこか食堂でもあるのか醤油の煮える匂いがしてくる。そういえば食いっぱぐれているなあ、と思いつつアリスは一軒の狭い戸口を開けた。片側に商品棚のせり出した鰻の寝床のような通路を、見覚えのあるメイド服がふさいでいる。
「うわっ」
邪教の神官、登場。転寝に見た夢がアリスの脳裏にフラッシュバックして、思わず声が出た。
「何よ、失礼ね」
アリスと気づいて緩みかけた咲夜の顔が憮然としたものになる。人里の活気に馴染むには、一人で森で暮らすアリスにとっていつも少しばかり時間を要する。咲夜は人間だがそのあたりは同じなのかもしれない、と思うと少し申し訳なくなった。
「あ、いやごめんなさい。ちょっと驚いただけ」
「人を希少動物みたいに言わないでよ。ここじゃ、あなたの方が珍しいんじゃないの」
けれども咲夜の機嫌は悪くなさそうだった。手にした鮮やかな真紅の布を楽しげに見せてくる。
「これ、どうかしら? ウチのカーテンで使うにはもってこいと思ったんだけど」
「窓なんてないじゃない、あの館」
妖精たちのことを、アリスは誰かに話すつもりはなかった。気が変わった理由は咲夜の雰囲気の柔らかさにもあったが、彼女の住まう紅い屋敷が大勢の妖精メイドを抱えているのが頭をよぎったからだ。
「結婚。妖精と人間がね。ふうん」
案の定、咲夜は驚いた様子を見せなかった。
商店街から少し歩いた四辻に面した茶店で、外の長椅子に並んで腰かけた二人の前を、子供らがはしゃぎ声をあげて駆け抜けていく。
年老いた夫婦は手をつないでゆっくり歩き、太った犬がそこらを嗅ぎまわる。向かいの魚屋では猫が鮒を狙い、丸太のような腕をふりあげて対峙するおかみさんの背では、赤ん坊がすやすやと寝入っていた。
「なんだか人、多いわね」
アリスは粟餅の入った善哉をすすった。望んでいた食事ではないが、臓腑に染み渡る甘さだ。
「万象展をやってるからね、広場で。というかアリス、あなたもそれ目当てで森から出てきたのかと思ったわ」
「竹林の連中の? 前にもやってなかったっけ」
てゐの後ろの天幕はそれだったかと、アリスは思い至る。
「ええ。なんでも出張版らしいわよ。私もちらっと見てきたけど、大したものはなかったわ。あんまり貴重なものは永遠亭から持ち出せないんでしょ」
付け合せの沢庵を噛んで、銀髪のメイドは美味しそうにほうじ茶を飲んでいる。何もかもミスマッチだが、様になっているのが憎いところだ。
「それで、何か感想はないの。咲夜のところにも妖精、いっぱいいるじゃない」
話を戻すというよりしびれを切らしてアリスは咲夜を促した。ルナのことを聞いてから、咲夜はずっと物思いに半身を浸してタイミングを図っているように見えたのだ。
「そうね。大勢いるわね」咲夜はくすりと笑う。「あの子たちはこうやって、今日の私みたいに里に遣わされることもあるし、そこらへんの野良妖精より人間に接する機会は多いかもしれないわ」
「……それで?」
「私が知っているだけでこれまで三人、人間の男に見初められた子がいたわ」
口づけようとした湯呑みを捧げ持ち、咲夜はじっと小さな水面に目を落とした。
「告白されて断ったのが一人。その子は、今も館にいるわ。彼女はとうとう理解できなかったの。なぜ人間が自分に好意を寄せるのか……それがどう特別なのか、ということが」
紅魔館で働くメイドたちは、三妖精やチルノたちと比べ全般、大人っぽい体つきをしている。きれいなエプロンドレスを着て髪を整え、彼女は今日も暗い廊下を行き来しているのだろう。恋心だけは理解できないままで。
「もう一人は、風になった」
はあ、と吐いた咲夜の息が白く流れる。その瞬間だけ、通りの賑わいが消えたようにアリスは感じた。
「メイドの中で一番料理がうまい子で、子供のころ私も教わったものよ。手紙を受け取った彼女、とっても嬉しそうだったわ。相手は職人の見習いで、前々からお互い憎からず思いあっていたみたい。彼は危険をおかして紅魔館の前までやってきた。その子がお嬢様に許されて出て行って、恋人の胸に飛び込むところを、私は見ていたわ。それでたぶん、はじめての口づけだったはず。唇が触れ合った途端にね、まるで砂が風に吹かれるように、髪も体もつるりとほどけて、空気に薄まって、彼女は消えてしまったの。それっきりだった。今でもその彼が里の外を歩くとき、耳元に風がじゃれついてくることがあると、話には聞くわ」
タイツに包んだ膝をさすり、思い出したように咲夜は、きっと幸せすぎたのねと、小さく付け加えた。
アリスは懐にしまった紙包みの感触を確かめる。服の上からでも、それは確かに月の形をしている。
「じゃ、じゃああと一人は?」
少し声が上ずった。
「あそこ」
無造作に咲夜は指をさす。猫を追い払った魚屋の女房は、ざんばら髪を荒っぽく撫で付けながら、遊びから帰ってきた上の子を「手を洗ってきなさい!」と叱り付けている。赤子が背中で泣き出した。
「あのおかみさん?」
「ええ」
「まさか。どう見たって人間じゃない」
「子供を身ごもったら人間になったの。祝言をあげるまで確かに妖精だったのに、おとぎ話よね。空を飛べなくなって、年々老いていく。皺もできるし、あんなに体つきもごつくなっちゃって。私やお嬢様のことも、ほとんど忘れてしまってるみたい」
奥から出てきた小太りの亭主の手には、大きな鯉と出刃包丁が握られている。喧嘩みたいなやりとりがあり、夫婦はげらげら笑い出す。周りの客もどっと沸く。赤ん坊だけが泣いている。
「でもまあ、けっこう幸せそうよね」
ご馳走様、と咲夜は立ち上がる。道草が長すぎたと、アリスも飲み残しの湯呑みを置いた。
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カラリ、と硬い音がした。
なかば眠りの世界に溶け込んでいた意識を、てゐはあわててかき集めた。
火鉢からのっそり体を起こすと、のっぺり墨絵のように沈んだ街を、夕映えが背後から照らしている。
万象展も閉会の時刻を過ぎ、ロープの張られた天幕の奥はひっそりとしている。広場を出た分かれ道には、来場者と思しき人影もちらほら見えるが、てゐの周囲は閑散としていた。
結局、昼ごろに人形使いに声をかけたきり、客という客は現れなかった。くたびれ損かとため息をついて、足元に転がった子安貝の貝殻を拾おうと屈みこむ。
伸ばした手の先に、古めかしい沓(くつ)がある。
その男がてゐの注意をひいたのは、締め切られたはずの天幕から出てきたようにしか思えなかったからではない。
服装や物腰が、里人の一般とどこか違って浮いていたから、でもない。
長く生きてきた地上の兎にとっても、あまりに異質な表情だったのだ。男はすべてを見ていた。家路につく人々、家族で語らい店の看板を指さし、空飛ぶ烏を仰ぎ、にぎやかに散らばっていく群集から離れて、なにもかも丸ごと見ようとしていた。
いとおしそうに。懐かしむように。
よちよち歩きの幼な子か、この世を去ろうとする老人か。そういうものの顔に浮かぶのなら不自然ではないかもしれない。あまりに不純物がなさすぎるのだ。
警戒心と興味の狭間で、てゐはじっと見上げていた。
男がかすかに笑う。すると見た目相応の人間くささがにじむ。薄い唇が何事かつぶやき、その意味を考えようとてゐが注意を内に向けたわずかの間に、男の姿は消えていた。広場の出口へと足音が聞こえた気がしたが、左右に伸びていく道のどちらに目をこらしても、それらしい姿は見つからない。
「……なんだったんだ?」
一人ごちて、貝殻を卓に戻そうとして気づく。卓の上の子安貝は減っていない。
最初から数え間違っていたのか、あるいは。
天幕の奥から鈴仙の呼ぶ声がする。片付けを手伝わされるのは御免、とあらかじめ下に広げておいた敷き布でガラクタを一気にまとめて背負いつつ、てゐは男の横顔を思い出していた。
――牛車は、ちょっと無理そうだなあ。
彼は確かに、そう言ったのだ。
-5-
家に戻るとアリスは再び人形を総動員し、一時間ほどでドレスを仕上げた。
その間思考は千々に乱れた。咲夜の話がただの出任せである可能性も考えた。妖精などに入れ込んでと、からかわれているのではないか。彼女は悪魔を向こうにまわし奇術を見せる食わせ者だ。客のいない手品はやらないとしても。
確かめるすべはない。
人間と結ばれることで、妖精の身に何が起こるのかも。
どうすべきなのかわからない。
手を動かすことで後押ししているようで、けれど止めることはできなかった。
出来上がったドレスを抱え、アリスはあわただしく森を抜ける。地平線を目指して狐の親子のような雲が連なり、先導する親狐の鼻先は赤く染まっていた。
妖精たちはおとなしく元の場所にいた。焚き火が見えるが湖近くの吹きさらし、家まで招いて待たせればよかったかとアリスは後悔した。
「おかえりなさい!」
真っ先にルナが気づいて駆けてくる。飼い犬みたいに待ち受ける彼女に、アリスはまずかんむりをかぶせてやり、結ばれた貝を額に垂らした。そして畳んだままのドレスを手渡した。
「着てみて。サイズはどうかしら」
少し、誇らしげな声が出てしまった。焚き火の傍で厄神がニヤニヤしている。っていうかまだいたのか。神は暇なのか。シーズンオフなのか。
仲間たちの真ん中でルナがドレスを広げる。わっ! と歓声があがった。ルナはまわりを見回して、大きな岩の上で足をぶらぶらさせている友人に呼びかける。
「サニー、ねえサニー、光を曲げて」
「どうしてさ」
「だってほら、ここって隠れるような場所がないし」
「別に私たちだけだし、恥ずかしがらなくっても……まあ、いいよ」
サニーの機嫌はだいぶ持ち直したようだ。彼女が飛び降りてくると、ルナの肩に手を置いたスターもろとも、三人の姿がふいと掻き消える。
(ほらー、どうせルナ一人じゃまともに着られないんでしょ。手伝ってあげる)
(馬鹿にしないでサニー、このくらい一人で……あれ、あれれ? どっちが前?)
(ふふふ。ルナ、こっち)
(ありがと。……うえぇ!?)
(嘘教えないでよスター。もーほら、じっとして。スター、そっち持って)
姿なき草原に、声だけが響いている。
「ウェディングドレスかー、作ってあげたんだ」
急に疲れを感じて焚き火の前に座り込んだアリスに、雛が近づいてくる。アリスが目を上げると、手を広げて立ち止まった。
「あらごめんなさい。流したばかりだから厄はまとっていないの。心配しなくっても――」
「そんなこと気にしてないわよ」
アリスが傍らを叩いて示すと、雛は嬉しげにすり寄って来て切れ目なく喋っている。――今回の厄は大物だったのよ。冬前から抱え込んでいたんだけど、なかなか流れなくってね。三日三晩うんうん気張ってようやく流れてくれたときは頭が真っ白になるくらい嬉しくってねー。
適当にうんうんと相槌を返していると、突如視界を遮られる。額がくっつきそうな距離で、雛はまじまじとアリスの目を覗き込んでいた。
「ちょっと、何よ」
「舌を出して」
有無を言わせない。やむなくちろっと出した先っぽを、雛の指がつまんで無造作に引っ張った。
「ぐえっ」
盛大にえづく。
手を離して、雛は肩をすくめて笑った。
「な、何のつもり!?」
「溜まってる厄はなし、と。胃腸も健康ね。その割に、陰気な顔してるけど」
手近の枝を拾って二つに折ると、雛は呪いごとのような手つきで火に放り込んだ。
「あなたのドレス、きっと似合うわよ」
消えた三妖精を囲んで、他の妖精たちは歌いながら輪をかいている。草むらに長く伸びた彼女らの影を見つめて、アリスは膝をかかえて黙っていた。
「女の子が一番綺麗になれるときですものね。懐かしいわー」
組んだ手を前に突き出して、んー、と雛は伸びをする。――もしや厄神様も経験者ですか。そこんとこ詳しく聞きたいような、聞きたくないような。
「物好きなのね、アリス」
返答代わりに、アリスも枝を拾って炎に投げ込んだ。乾いているからすぐ燃えて、焚き火の底で亀裂のように輝く。
「お人好しというべきかしら」
「あなただって。ずっとあの子たちについていたんでしょ。お人好しははどっちよ」
「あら。私が関心があったのは人形使い、あなたの方よ。聞いてた噂と、ずいぶん違う」
冬の乾いた夕暮れに、雛の唇の奥で赤い舌が場違いなほどつやつや光っている。
「ドレスを作ってあげる、って言い出したとき、あの妖精の子をマネキン人形として、ただ自分の創作意欲を満たしたいのだろうって。私はアリス、あなたをそんな風に思っていたの」
「はあ?」――ええそうよその通りだわ。肯定するつもりが、先に怪訝な声が出てしまった。観念するしかない。「なに、それ」
「誤解しないでね。別に非難してるわけじゃないの。妖精なんてボウフラみたいにどんどん湧くんだから、生かすも殺すも好きにすればいいわ。返り討ちに合わない程度にね。マネキンならマネキン扱いだっていいのよ。ええ、そう、今ここで神が認めます」
整った笑顔が急速に能面みたいに見えてくる。実のところ、チルノたちの仕打ちを相当恨んでいたのかもしれない。
「……なに、妖精、嫌いなの?」
アリスはおそるおそる尋ねた。
「そうね、嫌いよ」
湖の上をふらふら戻ってくるのはチルノだ。大きなススキの穂を束ねて抱えている。
「人間や、妖怪と違って厄も薄味だしね。つまらないわ」
そう言いながら、チルノに手を振る雛はひどく優しい目をしていた。
「ひーなー!」
一気に加速したチルノが滑り込むように着地する。祭壇の壷にススキを放り込み、憤然と壇上を示す。
「駄目じゃない! ちゃんとお雛様やってないとさ!」
「あら、ごめんなさい」雛は悪びれず焚き火を棒でかく。「あそこにじっとしてるのも結構つらいのよ」
「うーん? そうかー」
額にかわいい皺をよせて、しばしチルノは思案した。
「じゃあ、ルナと一緒にお嫁にいってからでいいよ!」
「ありがと。優しいわね」
つむじをぐりぐり撫でられて、猫みたいに目を細めている。
「おまたせー」
スターの声がした。
いつの間にか、妖精たちの歌がやんでいた。
カーテンが翻るみたいに景色がぶれた。サニーとスターの間を押し出されるように、ルナがおずおずと進み出た。
ほう、と老人の賢者みたいにチルノがあごをしごく。
アリスの正直な感想としては、少し地味だったかな、である。見た目がほぼ子供のルナには、もう少し光物を増やした方がよかったろうし、元がシーツだから野暮ったさも抜けきらない。銀糸の刺繍もそこを救いきれていない。
「何か言ってあげなさいよ」
笑いながら雛が肘を突っついてくる。いつの間にか、ルナはアリスのすぐ前に立っていた。小さな手のひらでドレスを何度も撫でつけ、毛の生え変わったばかりの動物みたいに落ちつかない。
妖精たちも口をつぐみ、じっと二人を注視している。
似合ってないわよ。
そう言ってやれば、ルナは人間との一切合財をあきらめ、妖精として生き続ける道に戻る気になるのではないか。
閉じたうつくしい、花輪の内側へ。
アリスはルナの額にかかる髪をそっと撫でつけた。
「うん。可愛い。よく似合っているわよ」
妖精たちが再度どっと賑わい立つ。あえかな羽音で飛び立ち、思い思いの弾幕で、喜びの色を投げる。紺色の帳が包みだした雲の下を、寝起きの星か蛍のように、騒然とそそっかしく光が重なっていく。
ゆるくカールした睫を震わせ、ルナは胸の前で手を組んで見上げている。
「私、いいお嫁さんになれると思うよ。自信あるもん」
その言い草に雛が横を向いて噴き出した。風にふくらむドレスの裾を押さえつつ、ルナはよたよたとアリスのスカートの腰に抱きついてきた。
「そっか」
「うん」
「あとは、王子様を待つだけね」
雛がつぶやくと、ひときわ大きくどおん、と弾幕がはじけてすでに薄暗い森の木々が枝から雪を散らす。アリスを見上げるルナの唇が、小さく動いた。
「聞こえないわ」
指を立ててもう一度、と促すと、ルナは爪先立ちになってアリスのケープを引っ張るから、自然耳を貸すような格好になる。
「怖くなってきた」
「そう」
瞳をきらきらさせて、ルナは心底嬉しそうに叫んだ。
「怖いよ!」
『勿体無いわよね』
永琳はそう言ったというから、ある程度事情は掴んでいたのだろう。
――よさそうな子だったって聞くじゃない。どうして思い切らなかったのかしら。男心は、わからないわー。
ずいぶん後になって、用事で永遠亭を訪れたアリスが、兎二人から聞いた話である。
「出張版」月都万象展を開くにあたり、永遠亭では保有する品々の整理が行われたが、その際一冊の書物が発見される。
古い月の文字で記された『竹取物語』である。
いまや永琳くらいしかまともに読めないその文字の、しかし書かれている内容となると、地上に伝わる一般的なそれと地名、人名に至るまでさしたる差異はなく、永琳が輝夜とともに行方をくらましたのち、再び地上へ降りた月の者が、なんらかの理由で流布していた物語を書き記したものと推測された。
ただし月の古代文字は、地上に文明が誕生する以前に失われている。書自体はせいぜい千年程度前のもので、永琳はそれが残された意図を図りかねたものの、どうせ誰も読めないのだからと、展示物のひとつに加えたのである。
ところが、里の広場に天幕を張り品物を運び込んだのちに、設営の手伝いに駆りだされていたとある里の娘がこの書に目をつけ、作業の合間にこっそり読みきってしまったのだ。古代の月文字が――記述者の施術か元からの性質かは不明であるが――呪術的な力を帯びている、と判明したのはその娘、本居小鈴の判読眼の能力が永琳に知られるより先に、書そのものに明瞭な変化が生じたことにによる。
登場人物の一人が、文中から忽然と消えてしまったのだ。
消えたのはかぐや姫に求婚する五人の公達のうちの一人だった。彼が消え、まるではじめから求婚者が四人であったかのようにストーリーは進行し、与えられる難題も、獲得に失敗するくだりも変わらず、やはり姫は月へと帰って結びとなっていた。
本来読めないはずの文字でも理解してしまう小鈴の能力は、文字に結び付けられた他の一切までも呼び起こしてしまう可能性があった。それにより生まれたものが人間なのか、妖怪なのかは分からない。永琳は鈴仙らを使って消えた一人について調べさせたが、翌日には「彼」は何食わぬ顔で本の中に戻っており、消えていた間の情報も集まらなかった。
万象展が開催されたひと月ばかりの間、異常は起こらなかった。ところが展示の最終日になって、再び「彼」は出奔する。
予断をもとに、今度は永琳は何もせず待ち続けた。前回と同じく、次の日には「彼」、つまり石上の中納言の名は書中にあり、それ以降二度と同じ現象は起きなかった。書は、永遠亭の奥深くに仕舞われている。永琳が予測したとおり、二度の夜はどちらも新月だった。
多くの妖物は月の光に力を得るが、彼にとってはそうではなかったのだろう。アリスはあの日、ついに現れなかった男に初めてかすかな感情を寄せた。月の姫の呪縛を逃れても、結局彼の出会ったのは月の光の妖精だったのだから。
物語という運命に戻った登場人物に逃げ場はない。彼は今も、決して振り返ることのない姫の心を射止めるため、難題を求めて断崖に上り続けているのであろう。
永遠に。
まあ、ちょっと重荷に感じても無理はないわね、と永琳もまた同情しきりだったらしい。
『同じ女をずっと追わされるなんて苦痛よね、男だったら。そうは思わない?』
そう話を振られた輝夜は、なんとも複雑な表情だったという。
鈴仙はアリスを前に口ごもり、その場面だけはてゐが臨場感たっぷりに再現してくれた。
-6-
霧の湖ほとりの建物というと吸血鬼の赤い館がまず挙がるが、比較的ひらけた場所にある紅魔館から遠く、鬱蒼とした森から屋根を突き出しているのが、プリズムリバー姉妹の暮らす廃洋館である。
ライブの多い春から秋には一緒に行動することの多い三姉妹であるが、シーズンの谷間となるとそれぞれのペースで起居して、お互いあまり干渉しないのがセオリーだ。
暖炉の前で転寝をしていたルナサが目覚めてはじめに思ったのは、今日はまだ妹二人のどちらとも顔をあわせていないな、ということであった。
時計を見ると日付が変わっている。訂正、昨日からだ。
「……なに?」
やけに外が騒がしい。
湖近辺でも霧が濃く陰気なこのあたりには人間はもちろん、鳥や獣すら好んで近づかない。おかげで気兼ねなく演奏もできるというわけで、ライバルは夏場の蝉の大合唱だけである。
張り出し窓に額をくっつけたルナサの目に飛び込んだのは、赤々と燃える火の光だ。湖に向かって館の左手の木立を透かして、たくさんの影が蠢いていた。
あわてて廊下に走り出た。パジャマ姿のリリカと鉢合わせる。
「ああ、お姉ちゃん。おやすみー」
「あれ、何?」
そんな短い質問でも、しっかり意味は通じたらしい。
「知らなーい。お手洗いに起きただけだもん」リリカはふわ、とあくびをした。「でも、なんか妖精が遊んでるみたいね。珍しいよね、この辺に誰か来るなんてさ」
そんなのどかな様子だったろうか。ルナサは二階のバルコニーから外へ飛び出した。
冬場で水位の下がった川へと下る広々とした段丘のあちこちで焚き火が燃え、それぞれを囲む背中から影が伸びる。全体でどのくらいの人数がいるものか、酒を酌み交わして騒ぎ、歌い、果ては弾幕勝負に興じている者もいる。雪こそ降っていないもののまだ二月だ。ルナサには狂気の沙汰としか思えなかった。
「おっ。ルナサさんめーっけ」
いつの間にか隣に浮かんでいるのは天狗の記者である。暗くてよくわからないが、眼下の乱痴気騒ぎには近辺で見かける妖怪たちが多く混じっているようだ。
「ちょうどよかった! あと足りないのは音楽だろうって話になっていたんですよ。是非一曲お願いします」
「はあ?」
「さささ、めでたい席ですから陽気なやつを」
ぐいぐい引っ張られて誘導される。文の吐く甘ったるい酒の匂いがぷんと鼻についた。
「え、陽気。それはちょっと、私じゃ無理っていうか」
「堅いこと言いっこなしですよ。――皆さん、ルナサさんが来ましたよ!」
肩をつかまれ、賑わいの内に押し出される。――お、ユーレー楽団の姉。ゴキゲンなやつ頼むぜ、などと声もかかる。
ルナサは焦った。
「その、だから、メルランじゃないと。私じゃ暗い曲になっちゃうし……。メルラン、ねえメルランー!」
のっそりそびえる洋館めがけて妹の名を叫びかけるが、何の反応もない。マイペースなリリカはもうベッドの中だろうし、メルランは今夜屋敷にいるかどうかもわからない。
「ほらほら遠慮なさらず、いつでもどうぞ。皆きっと喜びますよ」
文が広げた両手を煽るように振り上げ、群集は一斉に拍手する。ことここに至り拒絶し続けるのも無粋と腹を決め、ルナサはバイオリンを体の横に浮かべて、ふと疑問を覚えた。
「めでたい? ねえねえ、結局これって何の集まりなの?」
闇に半面塗り込められてもはっきり分かる赤ら顔に、文は満面の笑みを浮かべた。
「存じません!」
砂糖をいれたドクダミ茶のような、胃痛をこらえて笑っているような、そんな複雑な音色が夜を割って流れる。眉をしかめてバイオリンを担ぐのは、騒霊姉妹の長女だ。さすが本職、深みのある音だとアリスは感心する。無理に陽気に振舞っているような、ぎこちなさはあるけれど。
そういえばプリズムリバー邸の鼻先だった。ルナが求婚者との再会にこの場所を指定したのは、ほかに目印になりそうなものがなかったからかもしれないが――むろん対岸には、もっと派手に目を引く赤い館だってある――森から半身を突き出した、人気のない洋館の風情がことさら不気味だからだろう。相手の度胸を試しているわけで、のんびりしているようで案外しっかりしているものだ。
ルナの小さな姿は火の前にある。やけくそ気味に疾走するバイオリンに乗り、雛に手をとられて踊り、くるくる回っている。
やんやと周囲の歓声。白いドレスが残像をひいて木蓮の花のようだ。
「来なかったのね」
アリスの隣で、咲夜がぽつりと言った。
妖精たちの騒ぎに誘い出されたか、湖の近場で暮らす妖怪に続き、通りがかりの天狗やら百鬼夜行中の付喪神だのがぞろぞろ集いはじめたのは、夜ふけて日付をまたぐころだった。
『これは何の集まりなのか?』
はじめのうち、アリスたちにそう尋ねてくるものもいたが、お祝いなのよ、とか適当に誤魔化しておいた。めいめい火を起こし持ち寄った酒を酌み交わしはじめると、後から来たものはそちらに吸い込まれてしまい、今となってはおそらく発端が妖精とアリスたちであることすら、ほとんど誰も知りはしまい。文が嗅ぎ付けてきたのはそのタイミングで、アリスは一切関わりないふりをしたから、きっと取材には苦心しているだろう。もっとも、さっきから酒瓶片手に上機嫌な様子で、とっくに職務放棄を決め込んでいるようだが。
湖の向こうからは、主に言いつけられたとかで、咲夜が様子を見にやってきた。
『あらアリス、さっきぶり』
彼女には事情の説明がいらないから楽だ。
みな長い冬に抑えつけられ、発散する機会を待っていたのかもしれない。アリスは足踏みしつつ、火の傍で温めた土瓶から果実酒を飲む。一旦館に戻った咲夜が持ってきてくれたものだ。
「これ」
しばらく姿の見えなかったチルノがやってきて、アリスに手を突き出した。例の貝殻と同じ形のものが二つ三つ、掌に転がっている。
「落ちてたの」
「どこに?」
「森の際(きわ)のとこ。来ていたのかな」
夜気にしめった草を踏んでスターが近寄ってくる。その目はじっとチルノの手の上に注がれていた。
「私、気配を感じたんです」
スターはアリスと咲夜を見回し、ぼんやり笑った。
「夜のはじめごろかな。ああ私、そういう能力なんですけど。離れたところで、じっと動かない気配があるなって。……ルナに教えようかと思ったんですけど、そしたらルナは行っちゃうんじゃないかって、急に怖くなって」
老婆のようなため息である。ため息をつきすぎても妖精は人間になるんじゃないかとか、アリスはそんなことを考えていた。
「どうせ、あたいらがいっぱいいるから、恐れをなしたんでしょ! 人間は臆病だからね」
大上段に振りかぶり、チルノは湖に貝殻を放り投げた。
ルナは今度はサニーと踊っている。リズムなんて無視で、二人で肩を組んで足を振り上げる。その背後で、にぶい灰色の光が、空と山を分けようとしていた。
「お開きね」
ばたんと、咲夜が懐中時計の蓋を閉める。
勘のいい夜の住人たちが、朝だ、朝だと忌々しげにつぶやく。見上げると闇のうす皮が、みるみる剥がれ落ちていく。わずかの間にお互いの目鼻立ちが見えるようになっていた。
「アリスさん!」
飛びついてきたルナを、アリスは抱きとめた。ウェディングドレスの背の縫製が少し緩み、裾には植物の種が沢山くっついていた。
「ごめんなさい。せっかく作ってくれたのに」
本来の用途に使えなくて、という意味かもしれないが、アリスは気づかないふりをする。
「仕方ないわね。教えてもいいけど、自分で直すこと。いい?」
背中に手をつっこんでくすぐると、「ひゃっ!」とルナは身をよじって逃げ出す。サニーを文字通りぶら下げて雛が戻ってきた。
ルナサがスローな曲目へ移る。チルノたちの作った雛壇が、遠くの山みたいに青く浮かび上がる。十字架の横棒には小鳥が並んで首を縮めていた。
「どうしたの?」
サニーの声がしたので見れば、ルナはことさら眉をぐっと寄せて明るくなる地平に向かって腕組みをしていた。
「マリッジブルー、やってるの」
うふ、と咲夜が笑いをこぼす。きっとこれでよかったのだろう。いくらもせず日が昇るから、そうしたら、帰りましょうと号令をかけようと、アリスは機会をうかがっていた。ルナたち三人は神社近くに住んでいるはずだから、ひとまず森の家に招き、食事でもして休ませよう。入浴させてもいいし、ベッドを貸してもいい。チルノたちもついてくるなら構わないだろう。本来そんな、人間みたいにする必要はきっとないのだけれど、きっと今は、それが適切で洗練された都会派の振る舞いってやつだから。
いや違う。
アリスは、かすかに疲労のはりついた額の皮膚を冷えた指で揉む。――もうちょっとだけ、一人になりたくないだけ。私が。私だけの思考に、戻りたくないだけ。
「結婚できなくて残念? ルナ」
サニーが真っ直ぐ、訊ねた。あっさりとルナは首を振った。
「まあ、イケメンではあったよ」
「ルナの美意識は信用できないなあ」
「部屋が汚いのはサニーの方じゃあない?」
スターが二人に割り込む。焚き火が白く見える。あっけないほどぽっかり、山の谷間からくっきりした太陽の半円が覗いた。雪をかぶった斜面がぐんぐん赤らんでいく。
「ねえ」
急に何かにせっつかれるように、アリスはルナに呼びかけていた。「好きだったの?」
我ながら藪から棒な、枝葉を抜いた質問だったが、ルナは戸惑った顔はせずに、後ろに手を組んで首を傾けて「うーん」と唸った。子に問われて恋に生きた時代を振り返る母親のように、懐かしげな翳が頬をよぎっていた。
「わっかんない。なー」
そう言ってから、「ふふふっ」と思い出し笑いをする。
「どうしたの?」
「その人ね。私が妖精だって知ったらね。はじめてだって。妖精にははじめて会ったって言ってたな」
「なにそれ、もぐりじゃん! あたいらゴミみたいにいるのにさ」
叫んだチルノの袖を、呆れ顔で大妖精が引く。ルナはあくびをして、スカートの裾からアリスの渡した人形を取り出した。
「でも、怖くはなかったなあ。私のこと、人間の女の子みたいに扱ってくれたし、ねー」
人形の手をとり、話しかけている。
「やあやあお揃いで。ちょっと教えてくださいよ」
文の接近してくることをアリスは察していた。酒など一滴も口にしてません、というようなすまし顔でひらり舞い降りてきた鼻先に、槍を構えた上海人形を突きつける。
「話すことはないわ。記事にしない方が得策よ」
「矛盾したお答えなんですが。別にそんなつもりじゃ」
なくてですね、となぜか天狗は声を切って唇だけで喋る。
バイオリンが止んでいる。ルナサは愛用の楽器を耳にあて、弦をはじいたり揺すったりしていた。
残って宴会を続けていた連中が一斉にきょろきょろし始める。十字架に止まった鳥たちが飛び立った。
すべて一切の音もなく。
アリスはとっさにルナを抱きしめた。その能力だと気づいたからだ。胸元に押し付けられたルナの唇はかすかに動いて、何事かつぶやき続けていた。
サニーが駆け寄り、スターが下から覗き込む。チルノと大妖精がルナの背に手をおいた。咲夜と雛はアリスたちを囲むようにして立ち、目を白黒しながら文もなんとなく顔を寄せてくる。朝日の無遠慮な眩しさに表情は塗りつぶされているけれど、お互いの唇がつむいでいる内容は、読み取らずともわかった。
アリスもまたそれにならうことにする。普段ぜったい口にしないようなことでも、今なら言える。
元気だせ妖精!
大好きよ!
私がついてるわ!
どうせ聞こえないのだから。
【了】
結婚式=面倒くさいなので、なんだかんだで奮闘するアリスに新鮮な気持ちになりました。
物語の中での、いやに現実的なルナチャや複雑な表情をする輝夜はツボでしたw
でも、結局は結婚『ごっこ』だったなぁwと思ったら。
ラストのラストで心打たれました。
悲しくて、でも最高の結婚式でした。
竹取物語を絡めてくるとは予想外。
振り回されるアリス可愛い。
だが、ルナチャは決して嫁に出さん! 出さんぞ!
ロリコンは罪じゃない。振り向かないあの子が悪いのさ
アリスメインで三妖精、というのは書いてみたい組み合わせでした。
コメント、ありがとうございます。
貴公子殿の方も遊びではすまないと思って、その紙上の身を引いたのだったりして。
このような作品を書いてみたいものです。