「年明け初の満月って素敵に思わない?」
童女のようなあどけなさを伴った響きが夜の静寂を渡る。
「…寒くなければ…」
それと対照的に『勘弁してくれ』とばかりの震える声が夜の空気に凍った。
今にも踊りだしそうに夜の道を歩くのは、宇佐見 蓮子。
対照的にガチガチと歯の根も合わない音を出しつつ縮こまっているのは、マエリベリー・ハーン。
いつもはメリーの暴走に振り回されている蓮子が、メリーを逆に振り回している図は珍しい。
「ねえ蓮子」
道を跳ね回らんばかりの蓮子に、メリーが凍りつきそうな声で訊ねる。
「今、何時だっけ?」
蓮子はそれにうきうきしながら答える。
「本日は十六夜だから午前三時くらいかな?」
その声に口から白い息をエクトプラズムの様に長く吐きながらメリーは再び問う。
「今の気温って何度だっけ?」
懐から出した電子温度計を確認して、しれっと蓮子は言った。
「マイナス十度ね。でもおかげでこんな風景も見られるんだから寒さなんてもうもう、へっちゃら」
「…それはあんただけよ…」
死にそうな声のメリーは分厚い防寒着で重装備なのだが、それでも寒さを我慢できない。
周りの風景を見る余裕も無く、自らを抱きしめるようにガタガタ震えている。
(なんでこうなった…)
いつも暴走しているメリーとストッパーの蓮子の立場が逆転している事を改めて自覚して、メリーは持ってきたポットから、
ミルクティーを淹れてすすった、が、体は温まりそうに無い。
大学の冬休みを利用した旅行を提案したのはメリーだが、蓮子の指定した行き先が下総の国と言う事で油断していた。
彼女達が今居る場所は、ウルツの町。イチハラの山の中なのだ。
山の中と言っても、開発が進んで私立大学が近くにあり、学生向けのアパートが軒を連ねるちょっとした学生街にも近い。
とは言え、気候の差は駅のあるヤワタの街と比べると十度近い差があった。
「地図で確認したけど、まさかここまで寒いとは…蓮子、あんた知っててここに来たわね?」
恨み視線のメリーの声は完全に震えている。
「うん、帰省して久しぶりに食い道楽のおじさんに会ったら、ここに行くといいって言われてね?」
蓮子は弾んだ声で答える。
「そのおじさんが学生やってた頃にこの辺りに住んでいたんだって」
二人がいる所はウルツを通るモバラ街道から大学へ行く途中の道だった。
月の光以外に明かりの無い道は、ボロいアスファルト。
その道にはきらきらと、月の光を受けて光る何かがあった。それは来た道から行き先へと続いている。
「ねえ蓮子」
「ん?」
年代モノのロボットの様な、ぎこちなさで歩きながらメリーが問う。
「この道の光っているのって、何?」
その問いに「野暮ねえ」と言って、蓮子は答えた。
「霜よ。この季節しか見られない風景だっておじさんが言ってたから、わざわざこの時間に来たんだし」
蓮子の周りで光っているのは道だけではない。
古びた有刺鉄線の木柱にも、枯れた草や葉の落ちた木にも、常緑樹らしき木の葉にも同じ輝きが宿っている。
「しかし本当に残ってたのね。こんな風景、東京でも都でも見たこと無いわ」
「そりゃ都は雪の中だもん。って言うかいつまでここにいるの?私、夜明けまでに死ねる自信があるわよ」
鼻をすすりながら抗議するメリーの顔は涙目だ。
「房総は温暖な土地なんて聞いていたのに何でこんなに寒いのよ…」
「上総のタテヤマに行けばそうかもしれないけど、下総や中総は山に入ればこんなものよ?」
メリーの止まらない泣き言に蓮子はしれっと言う。
事実、前日に泊まったヨウロウの街は木の葉が霜で真っ白になるほどの気候だった。
そこへ行く為に立ち寄ったゴイの街では水溜りが凍っていなかったのに、ヨウロウの街は凍っているどころか霜柱まで見られる状態だ。
この時点で気づくべきだったとメリーは後悔する、が、関東の冬を経験したことの無い彼女にはどだい無理な話だ。
「とにかくどこか温まれる所をコンビニでもいいから探して…宿までたどり着ける自信が無い…」
月の光で真っ青になったメリーが死にそうな声で言った。多分明かりがあれば唇まで紫になっているだろう。
メリーが本当に危険だと判断して、蓮子は小型タブレットの地図を見る、が、近くには何も無い。
これは不味い、と周りを見渡した時、近くの高圧線の鉄塔に明かりのついた小屋を見つけた。
地図には載っていないが、看板らしきものが有る。
「メリー、お店があるわ。あそこでひと休みしましょ」
その言葉に、メリーが不思議そうに言う。
「蓮子、何も無いけど?」
「え?私には見えるわよ?とにかく近くに行って見れば解るわ」
蓮子に見えて、メリーには見えない。普通は逆なのに何があったんだろう?
とりあえず、メリーの手を引いて店のほうへ行くが、メリーは
「幻でも見てるんじゃないの?本当に何も無いわ」と言うばかりだった。
それでも不審がるメリーの手を引っ張って、店の扉の前に立つ。
看板には「白岩亭」とだけ書いてあり、古臭いガラスの引き戸と古い暖簾が下がっている。
遠慮がちに引き戸を開けると、暖かい空気が二人を包む。
ここでようやくメリーが気づいた。
「え?お店?本当にあったんだ」
どうやら扉を開けるまで本当に見えなかったらしい。
そこで、二人に声がかかる。
「いらっしゃいませ…まだ見える人がいたのね。このお店」
湯気の向こうでは白いエプロンにダッチキャップ、青いワンピースの女性が珍しいものを見る目で蓮子たちに話しかける。
顔は日本人ではない、北欧系の顔だが、話す日本語は流暢だった。
カウンターには学生らしき、Gジャンに灰色のコートを重ね着した青年がいるだけだ。
蓮子はその顔にデジャヴュを覚えたが、青年は黙々と何かを食べている。
そこで店主が蓮子たちに声をかけた。
「とにかく、そこを閉めてカウンターにいらっしゃいな」
言われるままに席に着くと、壁には古めかしいポスターに品書きの書かれたボードがあり、年代モノのテレビが
見たことの無い番組を流している。
「あの…ここはどう言うお店なんですか?」
蓮子の問いに店主は、
「まずは注文を聞いてからね。特にそこのガタガタ震えてるお嬢さん、適当に選んで頂戴」
顔色どころか唇まで色を失いかけているメリーが開口一番「あったかいもの!」と叫ぶように言う。
どうやら品書きを見る余裕も無いらしい。
蓮子は少し品書きを見て、おでんを頼む。
出されたおでんをつまみながら、蓮子はメリーを横目で見る。
彼女はわき目も振らずに餅巾着を夢中で食べていた。
その必死さを見て「悪いことをしたな」と蓮子は心の中で反省する。
そこで、さっきまで黙ってカウンターで食事をしていた青年が注文を出した。
「アネさん、注文よろし?」
「…アネさんじゃ無くて店長か名前で呼んでほしいわね。私にはレティ・白岩って立派な名前があるんだから」
「でも、自分よか歳は上でしょう?」
「あまりそのことに言及すると、酒の代わりにメチル出すわよ?」
「そりゃ困りますよ。目が見えなくなったらここに来られなくなりますし。とにかくも店長さん、ジンジャーエールお願いします」
店主は冷蔵庫からジンジャーエールの瓶を取り出すと、栓抜きと一緒に彼の前に置く。
「とりあえず自分で開けて。女心の機微に疎い男はこれだから失恋するのよ」
青年は眉根を寄せながら無言で瓶と栓抜きを取る。どうやら痛いところを突かれたらしい。
そこで店主…レティは蓮子たちに振り返る。
「二人とも、落ち着いた?」
いきなり話を振られて蓮子は戸惑ったが、メリーの方はいつものマイペースに戻って
「餅巾四つと田楽ください」と早くも注文を出している。
レティは蓮子を見て、訊いた。
「そちらのお嬢さんは何かある?お任せならスズメの丸焼きでも沢蟹のから揚げでも出せるけど?」
「…あ、じゃあ、焼き鳥を塩で」
その顔を見ていたレティが、蓮子に訊いた。
「不思議そうな顔してるわね?何か私の顔についてる?」
「いえ、実は…」
蓮子はこの店が彼女しか見えず、隣のメリーには見えなかったことを言った。
レティは納得した顔で答える。
「この店は冬が好きな人か、月と星の見る夢を見える人にしか見えないのよ。結界の類ではなくて、魔法に近いかな?」
「月と星…あそこのお兄さんもそうなんですか?」
蓮子の問いに、レティは
「ああ、アレは冬の月と霜が降りた道を歩くのが好きなのよ。で、何故か何の能力も無いのにこの店を見つけて常連になってるわ」
「テンチョーサン、その言い方は酷くねえですか?流石に自分でも傷つきますよ?」
青年が異を唱えるが、レティはばっさりと言う。
「初対面で年齢訊いてくること自体無礼なのよ。食材にされないだけマシだと思いなさい。この朴念仁」
それを聞いた青年はボソッと言った。
「中華包丁と柳葉包丁で人を壁に縫いとめて置いて言うこっちゃないと思いますよ…?」
苦い顔でジャンジャーエールを流し込んで、青年はテレビの映像を見だした。
「…仲がいいのか悪いのか解らない関係ですね」
蓮子が正直に感想を言う。
「常連でも調子に乗ればそんなモノよ。アレは夢んたれとか夢の久作とか言われるような人間なのに、変な所だけ現実主義でね」
「夢んたれ?」
「夢ばかり見て、夢を食べて生きてるような人間のことよ。そして何気ない一言が地雷になる人間ね。ああ言う男は気をつけなさい」
滅多切りにせんばかりの勢いで常連をこき下ろし、レティは話を続ける。
「で、話を戻せば、この店はさっき言ったように月と星の夢が霜に反射して、過去と未来と現在を同時に再現する日だけ現れるの。
だから時系列はこの店の中だけ特別になっているわ」
そこで注文を食べつくしたメリーが訊いて来る。
「じゃあ、あの常連さんって今の人じゃないの?」
レティは「勿論」と答えて続けた。
「彼は年代で言えば1996年の人間よ。貴方達の時系列は何年?」
「20XX年ですけど…二十年以上前ですね」
そこで青年がテレビを見ながら言う。
「未来はどうだか知らんですが、自分の時代はこの辺森と藪ばっかでね。五月頃になるとキジが鳴いていますよ。この店の有る鉄塔の付近も
雑草で覆われた荒れ地でしてね、山菜とかが生えてますよ」
蓮子たちの時代ではそこはもう整地されて後は開発するだけの状態になっている。大体、大学の周りはコンクリートで固められた
整った環境になっていて、自然のものはあまり存在しない。
それを聞いた青年は、鬱々とした顔で言う。
「利便のために残すべきものを潰すか、未来はイカレタ時代になりそうですな」
それにレティが突っ込む。
「たかが二十三歳が何老けた事言ってるのよ。そんな台詞は仙人にでもなってから言いなさい」
メリーが驚いた顔になる。
「え?あなた二十三なの?歳相応に見えないわ」
青年はその言葉にたいした反応は無く、「十九の頃から言われてますよ」とだけ返して、テレビを見ている。
蓮子はカバンからデジカメを取り出し、青年に訊いた。
「すみません、写真一枚取らせていただけま」「勘弁してください」
にべも無く却下された。
「写真は嫌いですか?」
「嫌いですよ。魂吸い取られるんで」
メリーがその言葉にむせて咳き込む。何故かツボに嵌ったらしい。
苦しそうな笑いと咳き込みが響く中、レティは青年に言った。
「写真の一枚や二枚取らせなさいよ。どうせ店を出れば会うことは無いんだし。しかもその言い訳、明治の人間じゃないんだから」
彼はそれでも抵抗する。
「古い男だとお思いでしょうが、古い奴ほど、新しいモノを欲しがるモンです……新しいモノなど、何処にあるでしょう?
生まれた土地は荒れ放題、今の世の中、どっちを見ても、真っ暗闇じゃあございませんか」
偏屈と変人の混ざったその態度は、蓮子の記憶にある誰かと同じだった。
「ウダウダ言ってないで写真くらい取らせなさいって。そんなんじゃ何処に行っても真っ当に生きられないわよ」
青年はその言葉に、降参したように顔を渋くするが、OKを出さない。が、床においていたのか、リュックを取り出して中身をあさり、
なにやら取り出し「これでも持って行って下さい」と折れ曲がったパンフレットのようなものをレティに渡す。
「そこの『部の紹介』の所に載ってますよ。店長さん、お勘定願います」
そそくさと席を立って勘定を済ませると、青年はそのまま出て行ってしまった。
「明らかに挙動が不審だったけど、このパンフレットに何かあるのかな?」
「見れば解ると思うわ」
と二人がレティから受け取ったパンフレットを読んでいくと、とある部の紹介に彼は居た。
よれよれの服装は変わらないが、頭に巻いているのは唐草模様のバンダナ、そして右手には奇怪な形のグローブをはめている。
格好のインパクトが強すぎて他の部員よりも浮いているが、彼自身の姿に違和感は無い。
メリーは写真を見た瞬間から腹を抱えて笑っている。
レティは写真を見て、
「こっちの方がよっぽど恥ずかしい格好ね。流石過去に職務質問されたって愚痴ってただけあるわ」と苦笑した。
そこでメリーが表紙を見て言った。
「蓮子、このパンフレット、この近所の私立大学の奴じゃない?名前が同じだわ」
確認してみると、確かに確認した地図と同じ大学の名前だ。
「…この頃のこの大学、ここしかなかったのね。確か今は池袋にもキャンパスがあったはずね」
蓮子は学校紹介を見ながら自分の記憶と照合する。
「見た所、彼の時間では数ヶ月前の物みたいだけど、このはっちゃけ振りと今の間に何があったのかしら?」
その問いに、レティは言った。
「知っているのは本人だけよ。まああまり、良い思い出で無い事は確かね」
その後、メリーが思う存分飲み食いして一息ついた時、時計の鐘が鳴った。確認すると時間は六時をさしている。
レティが時計を見て二人に言う。
「そろそろ店じまいね。同じ環境にあればうちの店は何処にでも現れるわ。無理しない程度にまたいらっしゃい。
あと、この店の出口はあなた達が希望した場所に出られるわ。旅行で来たのなら宿の前とかね」
メリーがそれに続く。
「宿の前が良いな。もう歩くの疲れた」
蓮子も、
「そうね。メリーには無理させちゃったし、あまり歩かないほうが良いかな」
勘定を済ませて扉を開けると、宿の近くの、田んぼの広がる坂に出た。
その景色に、二人は息を飲む。
坂の下は雲海のような白い霧が、朝日を受けて虹色に輝いている。田んぼは殆ど見えない。
茜色の朝焼けに、虹の霧の海。
「空の上に居るみたいな風景ね…綺麗」
あの青年もこの風景を見たことがあるのだろうか?
時代も時間もまったく違う、が、目の前の風景は多分、彼も見ていたかもしれない、冬の朝の魔法だった。
その景色を写真に収めながら、二人は霧が薄れるまでその風景に見とれていた。
後日。
二人は京に戻る前に蓮子の実家に寄って、写真の確認と整理をして駅へと向かう。
その途中、彼女達は食い道楽のおじさんに会った。
「お?この時期はもう休みかね?」
よれよれのコートを着た彼の姿は、確かにパンフレットに居た青年の服と同じだ。
蓮子が下総の街へ行ってきたことを話すと、彼は遠い目をして、
「そうか。あの風景とかはまだ失われてなかったのか。懐かしいな。アネさんも元気なようで何よりだよ」と過去を思い出している。
メリーがそこで彼に訊く。
「あの、このパンフレット、見覚えありませんか?」
彼はそれを受け取って…読んだ途端に顔色が変わっていく。
「…これ、何処で手に入れたんだい?」
蓮子とメリーがその時の事を話すと、彼は頭を抱えて言った。
「何てこったい、学生時代のあん時に会ったのはやっぱり君らだったのか!もう会うまいと思っていたのに…!!」
二人は顔を見合わせて、頭を抱えてしゃがみこむ彼を見つめた。
学生時代から変人だったのか、と、あの店の青年と今までのおじさんの言動や変なノリを比べて、蓮子はなんとなく
おじさんがいつも一人で居る理由が解った気がした。昔からこんな人だったんだ、と。
誰にでも忘れてしまいたい過去はある。
しかし、誰かの記憶に刻み込まれてしまった以上、それを取り消す事は不可能だ。写真などで残っているならなおさらで。
羞恥に顔を上げられない彼の姿を見ながら、いつか自分達にもそんな事が降りかかるのだろうかと、二人は内心、不安に思う。
「この事は、この写真の事だけは内密にして欲しい!」
必死に頼み込む彼に、蓮子は訊いた。
「所で、この右手のグローブって何なんですか?」
「それはね、昔のゲーム機につけるオプションで、指の動きでキャラを操作できるコントローラーだよ。
パワーグローブって言うんだけどね…まさか三十年近くたって自分の黒歴史見るとは思わなかったよ…」
その後、がっくりと肩を落として去って行く彼を見送って、メリーが言った。
「私達も、ああなる日が来るのかな?」
蓮子は静かに答える。
「私は知らないけど、あなたは可能性ありよ。データに残っていれば」
「帰ったらデータ絶対破棄ね。旅の恥はかき捨てとは言ったけど、流石にあのおじさんを見てると洒落にならないわ」
自分を睨むメリーの視線を、蓮子は口笛を吹いてごまかそうとするが、多分無理だろう。
「蓮子、正直に全部データ出さなかったら友達やめるからね」
痛いところを突かれた。正直、メリーがいなければサークル活動が成り立たない。
うっかり口を滑らせたことを後悔しながら、蓮子はメリーに睨まれつつ、駅への道を歩き始めた。
童女のようなあどけなさを伴った響きが夜の静寂を渡る。
「…寒くなければ…」
それと対照的に『勘弁してくれ』とばかりの震える声が夜の空気に凍った。
今にも踊りだしそうに夜の道を歩くのは、宇佐見 蓮子。
対照的にガチガチと歯の根も合わない音を出しつつ縮こまっているのは、マエリベリー・ハーン。
いつもはメリーの暴走に振り回されている蓮子が、メリーを逆に振り回している図は珍しい。
「ねえ蓮子」
道を跳ね回らんばかりの蓮子に、メリーが凍りつきそうな声で訊ねる。
「今、何時だっけ?」
蓮子はそれにうきうきしながら答える。
「本日は十六夜だから午前三時くらいかな?」
その声に口から白い息をエクトプラズムの様に長く吐きながらメリーは再び問う。
「今の気温って何度だっけ?」
懐から出した電子温度計を確認して、しれっと蓮子は言った。
「マイナス十度ね。でもおかげでこんな風景も見られるんだから寒さなんてもうもう、へっちゃら」
「…それはあんただけよ…」
死にそうな声のメリーは分厚い防寒着で重装備なのだが、それでも寒さを我慢できない。
周りの風景を見る余裕も無く、自らを抱きしめるようにガタガタ震えている。
(なんでこうなった…)
いつも暴走しているメリーとストッパーの蓮子の立場が逆転している事を改めて自覚して、メリーは持ってきたポットから、
ミルクティーを淹れてすすった、が、体は温まりそうに無い。
大学の冬休みを利用した旅行を提案したのはメリーだが、蓮子の指定した行き先が下総の国と言う事で油断していた。
彼女達が今居る場所は、ウルツの町。イチハラの山の中なのだ。
山の中と言っても、開発が進んで私立大学が近くにあり、学生向けのアパートが軒を連ねるちょっとした学生街にも近い。
とは言え、気候の差は駅のあるヤワタの街と比べると十度近い差があった。
「地図で確認したけど、まさかここまで寒いとは…蓮子、あんた知っててここに来たわね?」
恨み視線のメリーの声は完全に震えている。
「うん、帰省して久しぶりに食い道楽のおじさんに会ったら、ここに行くといいって言われてね?」
蓮子は弾んだ声で答える。
「そのおじさんが学生やってた頃にこの辺りに住んでいたんだって」
二人がいる所はウルツを通るモバラ街道から大学へ行く途中の道だった。
月の光以外に明かりの無い道は、ボロいアスファルト。
その道にはきらきらと、月の光を受けて光る何かがあった。それは来た道から行き先へと続いている。
「ねえ蓮子」
「ん?」
年代モノのロボットの様な、ぎこちなさで歩きながらメリーが問う。
「この道の光っているのって、何?」
その問いに「野暮ねえ」と言って、蓮子は答えた。
「霜よ。この季節しか見られない風景だっておじさんが言ってたから、わざわざこの時間に来たんだし」
蓮子の周りで光っているのは道だけではない。
古びた有刺鉄線の木柱にも、枯れた草や葉の落ちた木にも、常緑樹らしき木の葉にも同じ輝きが宿っている。
「しかし本当に残ってたのね。こんな風景、東京でも都でも見たこと無いわ」
「そりゃ都は雪の中だもん。って言うかいつまでここにいるの?私、夜明けまでに死ねる自信があるわよ」
鼻をすすりながら抗議するメリーの顔は涙目だ。
「房総は温暖な土地なんて聞いていたのに何でこんなに寒いのよ…」
「上総のタテヤマに行けばそうかもしれないけど、下総や中総は山に入ればこんなものよ?」
メリーの止まらない泣き言に蓮子はしれっと言う。
事実、前日に泊まったヨウロウの街は木の葉が霜で真っ白になるほどの気候だった。
そこへ行く為に立ち寄ったゴイの街では水溜りが凍っていなかったのに、ヨウロウの街は凍っているどころか霜柱まで見られる状態だ。
この時点で気づくべきだったとメリーは後悔する、が、関東の冬を経験したことの無い彼女にはどだい無理な話だ。
「とにかくどこか温まれる所をコンビニでもいいから探して…宿までたどり着ける自信が無い…」
月の光で真っ青になったメリーが死にそうな声で言った。多分明かりがあれば唇まで紫になっているだろう。
メリーが本当に危険だと判断して、蓮子は小型タブレットの地図を見る、が、近くには何も無い。
これは不味い、と周りを見渡した時、近くの高圧線の鉄塔に明かりのついた小屋を見つけた。
地図には載っていないが、看板らしきものが有る。
「メリー、お店があるわ。あそこでひと休みしましょ」
その言葉に、メリーが不思議そうに言う。
「蓮子、何も無いけど?」
「え?私には見えるわよ?とにかく近くに行って見れば解るわ」
蓮子に見えて、メリーには見えない。普通は逆なのに何があったんだろう?
とりあえず、メリーの手を引いて店のほうへ行くが、メリーは
「幻でも見てるんじゃないの?本当に何も無いわ」と言うばかりだった。
それでも不審がるメリーの手を引っ張って、店の扉の前に立つ。
看板には「白岩亭」とだけ書いてあり、古臭いガラスの引き戸と古い暖簾が下がっている。
遠慮がちに引き戸を開けると、暖かい空気が二人を包む。
ここでようやくメリーが気づいた。
「え?お店?本当にあったんだ」
どうやら扉を開けるまで本当に見えなかったらしい。
そこで、二人に声がかかる。
「いらっしゃいませ…まだ見える人がいたのね。このお店」
湯気の向こうでは白いエプロンにダッチキャップ、青いワンピースの女性が珍しいものを見る目で蓮子たちに話しかける。
顔は日本人ではない、北欧系の顔だが、話す日本語は流暢だった。
カウンターには学生らしき、Gジャンに灰色のコートを重ね着した青年がいるだけだ。
蓮子はその顔にデジャヴュを覚えたが、青年は黙々と何かを食べている。
そこで店主が蓮子たちに声をかけた。
「とにかく、そこを閉めてカウンターにいらっしゃいな」
言われるままに席に着くと、壁には古めかしいポスターに品書きの書かれたボードがあり、年代モノのテレビが
見たことの無い番組を流している。
「あの…ここはどう言うお店なんですか?」
蓮子の問いに店主は、
「まずは注文を聞いてからね。特にそこのガタガタ震えてるお嬢さん、適当に選んで頂戴」
顔色どころか唇まで色を失いかけているメリーが開口一番「あったかいもの!」と叫ぶように言う。
どうやら品書きを見る余裕も無いらしい。
蓮子は少し品書きを見て、おでんを頼む。
出されたおでんをつまみながら、蓮子はメリーを横目で見る。
彼女はわき目も振らずに餅巾着を夢中で食べていた。
その必死さを見て「悪いことをしたな」と蓮子は心の中で反省する。
そこで、さっきまで黙ってカウンターで食事をしていた青年が注文を出した。
「アネさん、注文よろし?」
「…アネさんじゃ無くて店長か名前で呼んでほしいわね。私にはレティ・白岩って立派な名前があるんだから」
「でも、自分よか歳は上でしょう?」
「あまりそのことに言及すると、酒の代わりにメチル出すわよ?」
「そりゃ困りますよ。目が見えなくなったらここに来られなくなりますし。とにかくも店長さん、ジンジャーエールお願いします」
店主は冷蔵庫からジンジャーエールの瓶を取り出すと、栓抜きと一緒に彼の前に置く。
「とりあえず自分で開けて。女心の機微に疎い男はこれだから失恋するのよ」
青年は眉根を寄せながら無言で瓶と栓抜きを取る。どうやら痛いところを突かれたらしい。
そこで店主…レティは蓮子たちに振り返る。
「二人とも、落ち着いた?」
いきなり話を振られて蓮子は戸惑ったが、メリーの方はいつものマイペースに戻って
「餅巾四つと田楽ください」と早くも注文を出している。
レティは蓮子を見て、訊いた。
「そちらのお嬢さんは何かある?お任せならスズメの丸焼きでも沢蟹のから揚げでも出せるけど?」
「…あ、じゃあ、焼き鳥を塩で」
その顔を見ていたレティが、蓮子に訊いた。
「不思議そうな顔してるわね?何か私の顔についてる?」
「いえ、実は…」
蓮子はこの店が彼女しか見えず、隣のメリーには見えなかったことを言った。
レティは納得した顔で答える。
「この店は冬が好きな人か、月と星の見る夢を見える人にしか見えないのよ。結界の類ではなくて、魔法に近いかな?」
「月と星…あそこのお兄さんもそうなんですか?」
蓮子の問いに、レティは
「ああ、アレは冬の月と霜が降りた道を歩くのが好きなのよ。で、何故か何の能力も無いのにこの店を見つけて常連になってるわ」
「テンチョーサン、その言い方は酷くねえですか?流石に自分でも傷つきますよ?」
青年が異を唱えるが、レティはばっさりと言う。
「初対面で年齢訊いてくること自体無礼なのよ。食材にされないだけマシだと思いなさい。この朴念仁」
それを聞いた青年はボソッと言った。
「中華包丁と柳葉包丁で人を壁に縫いとめて置いて言うこっちゃないと思いますよ…?」
苦い顔でジャンジャーエールを流し込んで、青年はテレビの映像を見だした。
「…仲がいいのか悪いのか解らない関係ですね」
蓮子が正直に感想を言う。
「常連でも調子に乗ればそんなモノよ。アレは夢んたれとか夢の久作とか言われるような人間なのに、変な所だけ現実主義でね」
「夢んたれ?」
「夢ばかり見て、夢を食べて生きてるような人間のことよ。そして何気ない一言が地雷になる人間ね。ああ言う男は気をつけなさい」
滅多切りにせんばかりの勢いで常連をこき下ろし、レティは話を続ける。
「で、話を戻せば、この店はさっき言ったように月と星の夢が霜に反射して、過去と未来と現在を同時に再現する日だけ現れるの。
だから時系列はこの店の中だけ特別になっているわ」
そこで注文を食べつくしたメリーが訊いて来る。
「じゃあ、あの常連さんって今の人じゃないの?」
レティは「勿論」と答えて続けた。
「彼は年代で言えば1996年の人間よ。貴方達の時系列は何年?」
「20XX年ですけど…二十年以上前ですね」
そこで青年がテレビを見ながら言う。
「未来はどうだか知らんですが、自分の時代はこの辺森と藪ばっかでね。五月頃になるとキジが鳴いていますよ。この店の有る鉄塔の付近も
雑草で覆われた荒れ地でしてね、山菜とかが生えてますよ」
蓮子たちの時代ではそこはもう整地されて後は開発するだけの状態になっている。大体、大学の周りはコンクリートで固められた
整った環境になっていて、自然のものはあまり存在しない。
それを聞いた青年は、鬱々とした顔で言う。
「利便のために残すべきものを潰すか、未来はイカレタ時代になりそうですな」
それにレティが突っ込む。
「たかが二十三歳が何老けた事言ってるのよ。そんな台詞は仙人にでもなってから言いなさい」
メリーが驚いた顔になる。
「え?あなた二十三なの?歳相応に見えないわ」
青年はその言葉にたいした反応は無く、「十九の頃から言われてますよ」とだけ返して、テレビを見ている。
蓮子はカバンからデジカメを取り出し、青年に訊いた。
「すみません、写真一枚取らせていただけま」「勘弁してください」
にべも無く却下された。
「写真は嫌いですか?」
「嫌いですよ。魂吸い取られるんで」
メリーがその言葉にむせて咳き込む。何故かツボに嵌ったらしい。
苦しそうな笑いと咳き込みが響く中、レティは青年に言った。
「写真の一枚や二枚取らせなさいよ。どうせ店を出れば会うことは無いんだし。しかもその言い訳、明治の人間じゃないんだから」
彼はそれでも抵抗する。
「古い男だとお思いでしょうが、古い奴ほど、新しいモノを欲しがるモンです……新しいモノなど、何処にあるでしょう?
生まれた土地は荒れ放題、今の世の中、どっちを見ても、真っ暗闇じゃあございませんか」
偏屈と変人の混ざったその態度は、蓮子の記憶にある誰かと同じだった。
「ウダウダ言ってないで写真くらい取らせなさいって。そんなんじゃ何処に行っても真っ当に生きられないわよ」
青年はその言葉に、降参したように顔を渋くするが、OKを出さない。が、床においていたのか、リュックを取り出して中身をあさり、
なにやら取り出し「これでも持って行って下さい」と折れ曲がったパンフレットのようなものをレティに渡す。
「そこの『部の紹介』の所に載ってますよ。店長さん、お勘定願います」
そそくさと席を立って勘定を済ませると、青年はそのまま出て行ってしまった。
「明らかに挙動が不審だったけど、このパンフレットに何かあるのかな?」
「見れば解ると思うわ」
と二人がレティから受け取ったパンフレットを読んでいくと、とある部の紹介に彼は居た。
よれよれの服装は変わらないが、頭に巻いているのは唐草模様のバンダナ、そして右手には奇怪な形のグローブをはめている。
格好のインパクトが強すぎて他の部員よりも浮いているが、彼自身の姿に違和感は無い。
メリーは写真を見た瞬間から腹を抱えて笑っている。
レティは写真を見て、
「こっちの方がよっぽど恥ずかしい格好ね。流石過去に職務質問されたって愚痴ってただけあるわ」と苦笑した。
そこでメリーが表紙を見て言った。
「蓮子、このパンフレット、この近所の私立大学の奴じゃない?名前が同じだわ」
確認してみると、確かに確認した地図と同じ大学の名前だ。
「…この頃のこの大学、ここしかなかったのね。確か今は池袋にもキャンパスがあったはずね」
蓮子は学校紹介を見ながら自分の記憶と照合する。
「見た所、彼の時間では数ヶ月前の物みたいだけど、このはっちゃけ振りと今の間に何があったのかしら?」
その問いに、レティは言った。
「知っているのは本人だけよ。まああまり、良い思い出で無い事は確かね」
その後、メリーが思う存分飲み食いして一息ついた時、時計の鐘が鳴った。確認すると時間は六時をさしている。
レティが時計を見て二人に言う。
「そろそろ店じまいね。同じ環境にあればうちの店は何処にでも現れるわ。無理しない程度にまたいらっしゃい。
あと、この店の出口はあなた達が希望した場所に出られるわ。旅行で来たのなら宿の前とかね」
メリーがそれに続く。
「宿の前が良いな。もう歩くの疲れた」
蓮子も、
「そうね。メリーには無理させちゃったし、あまり歩かないほうが良いかな」
勘定を済ませて扉を開けると、宿の近くの、田んぼの広がる坂に出た。
その景色に、二人は息を飲む。
坂の下は雲海のような白い霧が、朝日を受けて虹色に輝いている。田んぼは殆ど見えない。
茜色の朝焼けに、虹の霧の海。
「空の上に居るみたいな風景ね…綺麗」
あの青年もこの風景を見たことがあるのだろうか?
時代も時間もまったく違う、が、目の前の風景は多分、彼も見ていたかもしれない、冬の朝の魔法だった。
その景色を写真に収めながら、二人は霧が薄れるまでその風景に見とれていた。
後日。
二人は京に戻る前に蓮子の実家に寄って、写真の確認と整理をして駅へと向かう。
その途中、彼女達は食い道楽のおじさんに会った。
「お?この時期はもう休みかね?」
よれよれのコートを着た彼の姿は、確かにパンフレットに居た青年の服と同じだ。
蓮子が下総の街へ行ってきたことを話すと、彼は遠い目をして、
「そうか。あの風景とかはまだ失われてなかったのか。懐かしいな。アネさんも元気なようで何よりだよ」と過去を思い出している。
メリーがそこで彼に訊く。
「あの、このパンフレット、見覚えありませんか?」
彼はそれを受け取って…読んだ途端に顔色が変わっていく。
「…これ、何処で手に入れたんだい?」
蓮子とメリーがその時の事を話すと、彼は頭を抱えて言った。
「何てこったい、学生時代のあん時に会ったのはやっぱり君らだったのか!もう会うまいと思っていたのに…!!」
二人は顔を見合わせて、頭を抱えてしゃがみこむ彼を見つめた。
学生時代から変人だったのか、と、あの店の青年と今までのおじさんの言動や変なノリを比べて、蓮子はなんとなく
おじさんがいつも一人で居る理由が解った気がした。昔からこんな人だったんだ、と。
誰にでも忘れてしまいたい過去はある。
しかし、誰かの記憶に刻み込まれてしまった以上、それを取り消す事は不可能だ。写真などで残っているならなおさらで。
羞恥に顔を上げられない彼の姿を見ながら、いつか自分達にもそんな事が降りかかるのだろうかと、二人は内心、不安に思う。
「この事は、この写真の事だけは内密にして欲しい!」
必死に頼み込む彼に、蓮子は訊いた。
「所で、この右手のグローブって何なんですか?」
「それはね、昔のゲーム機につけるオプションで、指の動きでキャラを操作できるコントローラーだよ。
パワーグローブって言うんだけどね…まさか三十年近くたって自分の黒歴史見るとは思わなかったよ…」
その後、がっくりと肩を落として去って行く彼を見送って、メリーが言った。
「私達も、ああなる日が来るのかな?」
蓮子は静かに答える。
「私は知らないけど、あなたは可能性ありよ。データに残っていれば」
「帰ったらデータ絶対破棄ね。旅の恥はかき捨てとは言ったけど、流石にあのおじさんを見てると洒落にならないわ」
自分を睨むメリーの視線を、蓮子は口笛を吹いてごまかそうとするが、多分無理だろう。
「蓮子、正直に全部データ出さなかったら友達やめるからね」
痛いところを突かれた。正直、メリーがいなければサークル活動が成り立たない。
うっかり口を滑らせたことを後悔しながら、蓮子はメリーに睨まれつつ、駅への道を歩き始めた。
典型パターンにならないよう気を付けなければ...。
ただ話の意図が見えづらい
日常の中の非日常(とても秘封らしいですね)を切り抜いたかと思えば、黒歴史の話になったり
雰囲気を醸すのは上手いんじゃないかな
そこかしこがうーんとなってしまった
なんでレティだったんだろう、とかは野暮かしらん
いつもとは違って蓮子の方が見つけたんですね