作中描写、表現に不快の念を抱かれる方がいらっしゃるかも知れません。
また、独自の解釈が多く見られます。
御注意をお願いします。
1
メルランが演奏を終えると、妹のレイラがパチパチと拍手を送った。
「すごいわ、姉さん。また上手になったんじゃない」
ベッドの上で上体を起こして聴いていたレイラが満面の笑みで賛辞を贈る。
「そ、そうかな」
少し照れてどもりながら、メルランは答えた。
正直なところメルランのトランペットは余りにもつたなく、とても上手とは言えない。さっきの演奏でも、何度も音階を間違えた揚げ句、一部の楽節で高い音を出しきることができなかった。
所詮、お世辞だということぐらいわかっている。しかし、レイラの誉め方に嫌みがないせいで悪い気はしない。むしろ、鬱の気のあるメルランにとってレイラから贈られる賛辞の言葉は心の支えにすらなっていた。
メルランは妹のレイラが大好きだった。
透き通るような白くきめ細かい肌に、人形のように大きな目。幼いけれど落ち着いていて思いやりが感じられる優しい声。病弱なせいで少し薬臭いことさえ、全てが愛おしかった。
けれど、何よりも大好きだったのはきれいな艶のある黒髪だった。
ほとんど顔つきが似ていない姉妹であっても、その黒髪だけはメルランとほとんど同じと言って良いほどよく似ていた。それが自分とレイラの関係が特別である証拠のように思えていた。
メルランには父と姉、それに妹がもう一人いるが、彼らとの折り合いはレイラほど良くはない。
父のプリズムリバー伯爵は優しいけれど、表情が読めず何を考えているのかよくわからない。鬱屈とした性格のメルランは勝気で年の差がある姉のルナサとも、几帳面で極端に信心深い妹のリリカともそりが合わなかった。
他の家族と相性が悪い以上、仲の良いレイラと一緒に過ごすことが必然的に多くなる。
病気がちでほとんどの時間をベッドの上で過ごすレイラは、メルランの吹くトランペットをとても喜んでくれた。それで、レイラの部屋でトランペットを吹くことが日課になっている。
「姉さん、もう一曲、聞きたいわ」
「じゃあ、今度はかえるの歌にしようかな……」
演奏できる曲目はかえるの歌にきらきら星、メヌエットぐらいしかない。それでもレイラは飽きもせず聞いてくれる。
マウスピースに口をあて、強く息を吹き出す。かなり練習してもいまだに下手糞で、頬が少し膨らんでしまい、へろへろとした音が出てしまう。
一瞬もう投げ出してしまいたくなるが、それでも嬉しそうに聴いている妹を見て、必死に演奏を続ける。
三分の一ほど吹いたところで、どたどたという足音とともに、ノックもせずルナサが部屋に上がり込んで来た。
「うるさいわよ。毎日毎日、へったくそなトランペットを吹いて。おちおちと寝てもいられないわ。
私が屋敷にいるときはもう演奏しないで頂戴」
低い角度からたくさんの日差しが部屋に差し込んでいて、冬の太陽は既に高く昇っている。こんな時間まで寝ているのはこの屋敷ではルナサぐらいである。
「う、うん」
「はっきりしないわね。
何年やっても上達しないんだから、良い加減あきらめてそんなもの捨ててしまえば良いのに。
いっそ私が今、捨てさせてあげるわ」
長くきれいに爪を伸ばした手が、トランペットに触れる。磨き込まれて金色に輝く楽器の表面にうっすらと指紋が付いた。
「一丁前に、楽器の手入れだけはちゃんとしているみたいね。
私はそういう中途半端さが大嫌いよ」
表情を歪めてルナサはメルランから楽器を奪い取ろうとする。必死の抵抗もむなしく、十歳以上年上のルナサに対して勝ち目はありそうにもない。
「ルナサ姉さん、止めて!」
レイラが声を張り上げた。ドスン、と階上で何か大きなものが落ちる音が響いた。
ルナサは一瞬、あっけにとられたようだが、何事もないことを理解すると、奪い取ったトランペットを床に叩きつけようとした。
突き倒されたメルランは立ち上がることもできず、すすり泣くだけだった。
「ルナサ、もうその辺にしておきなさい」
騒ぎを聞きつけたプリズムリバー伯爵が、部屋の入口に立っていた。その顔にはいつものように目を細めた、優しそうな笑みが浮かんでいる。
ぶっきら棒にトランペットがメルランに向かって放り投げられる。思わず取り落としそうになって、慌てて楽器を両手で抱きとめた。
ルナサは仏頂面で、さっさと部屋を出ていった。
「お前たちも、今度からはルナサに気を使うようにしなさい」
「はい!」
「は、はい……」
レイラは元気よく、メルランは消え入りそうな声で返事をした。
伯爵が出て行くのを見届けて、メルランはほっと胸をなでおろした。
「ルナサ姉さんも、お父様には敵わないのね」
レイラはくすくすと笑っていた。
「もっと、みんな仲良くできたら良いのになあ。
あっ、そういえば私、みんなの絵を描いてみたの。姉さん見てくれないかしら?
今日はもうトランペットの演奏はできないでしょうし」
鉛筆で緻密に描かれたレイラの絵は、専門の画家が描いたと見間違うほど上手だった。髪の毛や肌の質感、人の体のバランス、そして何より表情が生き生きと表現されている。どこかの誰かのトランペットとは天と地ほどの差があった。
メルランは少し興奮気味に言った。
「すごい上手だわ。貴方がこんなに絵が上手だったなんて、私、知らなかった。
でも、どうしてこんな絵を描いたの?」
絵の中のメルラン達はみんなはち切れそうなほど明るい表情で笑い合っていた。現実の家族とはかけ離れた光景だ。
「うん、私、本当にみんな仲良くして欲しいのよ」
レイラは本当に良い子なんだなあ、と思った。自分ではそんなこと考えたこともなかった。
――私はレイラだけいれば良いのにな……。
正直なところそういう気持ちが強い。でも、にこにこしている妹を見てそんなことは口にできない。
「ルナサ姉さんがもっと年が近くて気が強くなかったら、リリカがもっと楽しくて話しやすい性格だったら、一緒にいても楽しいのかなあ。
でも、一番いやなのは自分かな……。もっと明るい性格だったら良いのに。
見た目ももっと派手で良いから……。明るい色合いの髪も良いなあ。実は憧れてるのよ。とくにシルバーブロンド。レイラと一緒の今の黒髪も良いけど」
「姉さん。そんなこと言わないで。人を自分勝手にこんな人になって欲しいなんて思っちゃ駄目。同じように、今の自分が駄目な子だって思いこむのはもっと駄目よ」
幼いながらも本当にしっかりとしている。姉のほうが、たしなめられる体たらくだ。
「今度トランペットを吹いてもらうとき、姉さんをスケッチしてあげるわ。そのときの姉さんはとってもかっこいんだもの。きっと自信だって湧いてく……」
ゲホゲホとレイラは激しく咳き込んだ。メルランは慌てて薬と水を探す。取り乱したせいで椅子に足を引っ掛けて、倒してしまった。
「そんなにあわてなくても大丈夫よ、メルラン姉さん。
薬ならそこの棚にあるから持ってきて。
それを飲んだらしばらく休むことにするから」
「うん」
メルランはくすりをレイラに手渡し、飲むのをしっかりと見届けた。
「じゃあ、私も部屋に戻るわ」
部屋に戻る途中、地下室への鉄扉の前を通るといつも禍々しい雰囲気に圧倒される。分厚い鉄でできた物々しい扉で、まるで地獄への入口のようだ。
廊下には父が集めた珍しい海外の品物が陳列してある。心霊趣味が高じてウイジャ板や降霊用の振り子といったものまで並べてあり、廊下も地下室の扉に負けず劣らず陰鬱だ。
――お腹が痛い……。
数日前からずっと下腹部に痛みを感じていた。誰かに相談できれば良いのだが、父や姉に打ち明けるのは何となく嫌だった。明らかに自分よりも調子の悪いレイラには心配をかけたくない。
痛みをこらえてメルランは自室に戻った。
2
レイラの部屋に入り浸るようになったのは数年前の出来事がきっかけだった。
窓が開いていて、そこから雲一つないどこまでも広がっていく青空が見える。からりとした夏の風にカーテンが揺れている。冬の今とは違う夏の爽やかな日のことだった。
ダマスク柄のえんじ色の絨毯の上で、ビスクドールがばらばらに砕け散っていた。お父様からレイラがもらった珍しい人形だった。
お父様は貿易商だから、珍しい異国の品物をメルランたちに与えることがよくあった。けれど、レイラにあげた物は後にも先にもあれだけだったような気がする。
それが理由だったのかはわからないが、レイラはその人形をすいぶん大事にしていたようだった。
人形はかなり強い衝撃で壊れたようで、やけに遠くまで破片が飛び散っていた。普段置いてある棚からレイラが取り落としてしまっただけでは、こんな壊れ方はしない。
もっと高い所から、天井辺りから一気に落っこちたような、そんな砕け方をしているように見えた。
まだ、十歳にもなっていない幼いレイラがひっくひっくと嗚咽を上げて泣いている。その頃、短い間だけ勤めていたメイドが促しても、床に座り込んだまま動こうとしなかった。
ちょうどその頃、メルランはお父様からトランペットを貰ったばかりで、片時も離さずに持って歩いていた。
演奏できるようになったばかりの曲を聴いてもらいたくて、家族の部屋を回っていたのだけれど、誰も相手にしてくれなくて最後にレイラの部屋の戸を叩いたのだった。
泣いているレイラを見て、メルランはおろおろしながらも何かできないかと必死に考えた。握り締めた楽器を見て、新しい曲を聴いてもらうことに決めた。今考えると恥ずかしいが、その時のメルランはその考えはレイラを慰める最高のアイデアだと思っていた。
初めてまともに演奏できるようになった曲、きらきら星。
今でも、レイラが一番喜んでくれる思い出の曲だ。
幼いメルランの小さな手ではどう頑張っても指が届かず、リズムに合わせてきれいな音を出すことは難しかった。息の出し方も今以上に下手で、よれたぐずぐずの音しか出ない。
それでもレイラは喜んでくれていた。泣いてぐしゃぐしゃだった表情が、ぱっと明るくなった。
「メルランねえさん、すごい」
「う、うん。ありがとう、レイラ」
レイラはすっかり機嫌を直して、にこにことメルランに笑いかけていた。この出来事からメルランはレイラと仲良くなって、よく部屋に出入りするようになったのだ。
乾いた夏の風が吹く。心地よいが、少々強すぎたせいか楽譜が窓の外まで飛ばされてしまった。
楽譜がないと演奏なんてできない。せっかくレイラに喜んでもらえたばかりだというのに。メルランは必死に我慢したつもりだったが、口をへの字に結んでべそをかいていた。
「うっ、ぐすっ、ひぐ」
抑え込もうとしても、泣き声をこらえることができない。
「ねえさん、泣かないで」
顔を上げると、なくなったはずの楽譜が何事もなかったかのように元の場所にあった。
――もしかして、本当は飛んでなかったのかな……?
よく見ると楽譜の端には土が付いていて、芝生の青臭い匂いがした。やはり外に飛ばされたのは間違いない。
――でも、どうやってここまで戻ってきたんだろう?
レイラは体が弱く、起き上がって外に取りにいける状態ではない。そもそも、あんな一瞬で外に取りにいって戻って来ることなんて、どんな人間にも無理だ。
レイラはどんな魔法を使ったんだろうか。
思い返してみると、もっと前からレイラのまわりでは不思議なことがよく起きていた。
小さいときには誰も動かしていないのにベットメリーが勝手に回っていたり、ぐずっているときには突然クラッカーのような音が連続で鳴ったりすることもあった。
そもそも、ビスクドールの壊れ方だっておかしいところがある。普通に落として壊れたならばあそこまでばらばらに砕け散ったりはしない。
でも、そんな奇妙なことについて他の家族とは話したことがなかった。ほかのみんなは知らないのだろうか。そうだとしたら、どうしてメルランだけが知っているのだろう。
考えれば考えるほど不思議だった。
3
その日、プリズムリバー伯爵が買い手のつかなかった珍品を屋敷に持ち帰ってきた。伯爵は貿易の仕事をしているので、売れ残ったものを家に持ち帰ることはたまにあることだった。
三人の木でできた人形が付いたやけに大きなオルゴール。木製の変な帽子をかぶった人形はそれぞれ、ヴァイオリン、トランペット、ピアノを演奏している。
なんとも中途半端な楽器の組み合わせで、音楽の知識がない人、もしかすると西洋音楽に詳しくない東洋人が作ったのかもしれない。
伯爵はこういった変わった物、とくに心霊に関するものが大好きで、結局売り物にせず屋敷で保存しているものも多かった
台の隅には不思議な角ばった字で名が入っていたが、メルランには読めなかった。明らかにアルファベットではないし、アラビア文字でもないようだ。もっと別の、東の国のものなのだろうか。
「ちょっと回してみても良いかしら」
案の定、一番初めに興味を持って手を付けたのは勝気なルナサだった。
「ああ、構わんよ」
いくらハンドルを回しても全く音が鳴らない。そもそも、シリンダーが付いているかどうかすらよくわからないような形をしている。
「つまらないわね。こんながらくたさっさと捨てちゃったら」
元々、エキゾチックなものや心霊に関するものに興味があるわけでもない。単に新しい物好きなだけなので、長く向き合って動かし方を見つけようとはしなかった。
「ああ、でもちょうど今は使用人がいなかったわね。仕方がないわ」
早く新しいのをみつけた方が良いわね、とルナサはぼやいて去っていった。
この屋敷ではメイドにしろ家庭教師にしろ、雇っても長続きした試しがない。どうしてなのかはわからない。
考えてみると、雇った人は女性ばかりだった。それも何か関係があるのだろうか。
どちらにしても、いなくなった母親の代わりになるような人はこの屋敷にはいない。メルランは仲の良いレイラと肩を寄せ合って生きるしかなかった。
「これは漢字、東洋の端のほうの国で主に使われてる文字ね」
珍しくリリカが父の持ってきたものに興味を示していた。リリカは敬虔なキリスト教徒で、心霊といった教義に反するものを好いていなかったはずである。
「リリカ姉さんは博識ね」
リリカが父のコレクションに興味を示すことも珍しいが、レイラと二人で話すところを見るのも珍しい。たまたま今日は調子がよくて部屋の外に出ているが、普段レイラは余り部屋から出られないので、同じ家にいるのに接点が少ない。
レイラの言葉を無視してリリカは様々な角度からオルゴールを観察していた。
「見たところまともな機械の部分もないみたいだけれど……」
ハンドルを回してみたがやはりピクリともしない。
「そもそもこれは本当にオルゴールかさえ怪しいわね。でも、この手のものはたいてい罰当たりなものよ。お父様もこんなものを集めたりしないで、もっと信仰をもって清らかな生活を送れば良いのに」
リリカは卓に置いてあった聖書を抱えて、いってしまった。
気が付くとお父様もいなくなっていた。ホールにはレイラとメルラン二人だけになった。
「ねえ、姉さん。私たちも回してみない?」
「うん。でも、姉さんやリリカがやっても駄目だったし」
「駄目もとで良いじゃない。ほら、先にやってみて」
「レイラが先にやってよ」
「いやよ。姉さんが先にやってよ。ほら、ほら」
根負けしたメルランがハンドルを回してみる。始めは何の手応えもなく回っていたが、もうやめようと思ったときに妙な感触があった。
オルゴールの上に乗っていた人形が、まるで本物の人間のように動き演奏を始める。奏でられる音は明らかにオルゴールのものではなかった。本物の楽器で演奏されたオーケストラそのものだった。
「すごいわ!」
レイラの言葉にメルランもうなずく。
またルナサにうるさいと言われないか戦々恐々だったが、何の反応もない。これだけの大音響なのだから、リリカやお父様も何かしら反応しても良いはずだ。
「もしかして、私たちにしか聞こえないのかな?」
「そうかもしれないわ。でもこれってすごい!
姉さん、お父様に頼んで、これを私たちの宝物にできないかなあ」
「うん」
確かにそうできればとても素敵だと思う。もともと、お父様も壊れていると思っていそうだし、頼み込めば取っておくことも出来るかもしれない。
ふと目をやると、オルゴールから三人の小さな人影が屋敷の中に散っていったような気がした。
不思議に思っていると、レイラがまたゲホゲホと咳き込んだ。
「そろそろお部屋に戻らないと……」
「わかってるわ、姉さん」
レイラを部屋に送ったあと、メルランは自分の部屋でベッドに倒れ込んだ。
―――お腹が痛い……!
前よりも痛みが強くなっている。ここ数日間ずっと痛みが取れなかった。今日になっても和らぐどころか強まっているような気がする。これからも痛みが続くかもしれないと思うと、気が滅入りそうだった。
4
夕食はほとんど喉を通らなかった。
心配して優しい声をかけてくれたお父様には、とりあえず大丈夫と答えておいた。
リリカは少し気になった様子でメルランを見たが、それ以外何も反応を示さなかった。
ルナサ姉さんに至っては、普段通りマナーが良いはずなのにどこかいら立っているような忙しない食べ方で食事を取っているだけで、メルランのことなど気にもかけていなかった。
――お腹が痛い……。
日に日に痛みがひどくなっているような気がする。
余りのひどさに部屋に戻ることも出来ず、ホールでへたり込んでしまった。
下腹部にどろりとした嫌な感触がした。スカートにどす黒い血がにじんでいる。血は下腹部から出ていて、下着から染み出していた。
――何、これ……。
ひどい不快感を覚えて、胃液しか入っていない胃の中身をもどしそうになる。
「いやだッ!」
わけがわからずメルランは叫んだ。からからに乾いた口の中が苦酸っぱい味がする。
ホールから一番近い場所にある部屋から、不機嫌な怒声が浴びせられた。
「どうしたのよ!」
ルナサはどこか見下すようにメルランを眺めて、したり顔で何か納得したようだった。
「ああ、メンスね。ちょっと待ってなさい」
とくに蔑むようなことをいったはずではないのに、よそよそしく棘のある言い方に聞こえた。ルナサは自室に戻り、何かを探している。
「さっさとこれで拭き取りなさい」
さも触るのがいやだというように、脱脂綿の塊を投げつけてきた。
――何が起ってるの?
――私、どうしちゃったの?
訳がわからない。パニックになってしまい、頭の中がごちゃごちゃでどうして良いかわからない。涙が零れ落ちて、嗚咽が漏れた。ルナサはそんな様子を見てますます苛立ちを強めていく。
股間から流れ出る血液が、ダマスク柄のベージュの絨毯に赤黒い染みを作っている。ルナサに大きく舌打ちをされた。
メルランが口をへの字に結んで顔を上げると、プリズムリバー伯爵がじっとべたつくような視線を注いでいた。二人の視線が交錯し、睨みあうような状態になる。
明らかに喜ぶような状況ではないのに、伯爵はさも嬉しそうに笑っていた。
緊迫した沈黙が場を支配する。しかし、それは突如として破られた。
「お前ごときがお父様に色目を使うなぁッ!」
乾いた音が屋敷に響く。平手で打たれたメルランは倒れ込んだ。泣き声を我慢できない。
部屋から飛び出してきたリリカが、惨状を見てはるかに大きな声で金切り声をあげた。
「うるさいッ!」
怒りを募らせたルナサはつかつかと歩み寄り、拳でリリカを殴りつけた。カチン、という音がして歯がフローリングの床を転がる。口からはたらりと血が垂れていた。
「いつもただ黙ってるだけなくせにこういうときだけはうるさく叫ぶのね。
聖書ばかり読んで誰にも関心がないなんてふりしてる卑怯者の分際で。
貴方が私とお父様のことを見下してることなんて、わかってるのよ。
全く、ただ『あれ』を見ただけでこんなことになるなんてね」
「やめて……。
あんな汚いもの思い出したくない。思い出させないで……」
「あのときほど激しくお父様が私を愛してくれた日は後にも先にもなかったわね。
でも、あのとき私たちを覗いている出歯亀がいたのよね。
好奇心は猫も殺すってところかしら。でも、私たちだってみんな、ああいう過程を通して生まれてきたのよ。
それを、まあ、蒲魚ぶっちゃって……。本当は全部理解してるんでしょう?
私たちを汚いなんて思うのは筋違いも良いところだわ」
「よりによって実の父親となんて……。
姉さんなんて地獄に落ちれば良い! この淫売の魔女! 主は必ず見ていらっしゃる。裁きは必ず下るわ!」
絞り出すようにリリカが声を張り上げた。その瞳には狂信的な光が宿っている。
ふん、とルナサが鼻を鳴らす。
「本当に仕方のない。可哀そうな子……。
今度は貴方も一緒にお父様と遊ばせてあげるわ。そうすれば貴方も少しはましになるかもしれないわね」
恐怖と憤怒が入り混じった表情を浮かべ、リリカは押し黙った。
「姉さん、一体どうしたの?」
部屋から出てきたレイラがメルランに走り寄る。体調が優れないせいか青白い顔をしている。屋敷を少し走っただけなのにぜいぜいと息切れしていた。
姉妹の間にレイラの小さな体が奮い立つ。そのとき、手に握りしめていた絵がはらりと落ちた。
この間見せてもらった家族みんなが笑っている絵だった。よほど気に入っていたのか、さっきまで部屋の中で見返していたらしい。
阿鼻叫喚の地獄絵図の中では、その素朴で優しい絵が別の世界からもたらされた物のようでメルランは悲しくなった。
「もう止めて、ルナサ姉さん」
「ふん、妾の子の分際で私に意見するつもり? 逆にあの女の娘だから、そんな厚顔無恥なことができるのかもしれないけれど」
強い意志を湛えたレイラの目を見てルナサはにやりとした。その先を察したレイラが青ざめて叫んだ。
「姉さん、駄目! それは言わないで!」
ルナサは勝ち誇ったように笑った。
「いやらしいことに、あの女は私たちの叔母。とくに貴方『たち』は母親でもあるから血が濃いのよね。
貴方はもう知ってたみたいね。むしろ、そこでへたり込んでるのに聞かせたくなかったってところかしら?」
「止めて、もうそれ以上は……」
「あら、どうせそいつも知っているでしょう? 母親が貴方と同じことぐらい」
指差した先には現実感のないまま、二人の話を聞いていたメルランがいた。
全く知らなかった。
しかし、自分が妾腹であったことについて、とくに感じることは何もなかった。それどころか、むしろ嬉しいような気さえしていた。大好きなレイラとお母さんが同じだということだから。
ただでさえ血の気のないレイラの顔が、今は死人のように青ざめていた。ここは喜ぶところなんじゃないかな、喜んで欲しいなとメルランは思った。
さらに決定的な打撃を与えようと、したり顔でルナサが続ける。
「しかし、貴方もここまで知っててこんな絵を描いてたの。本当にこの家には頭のおかしな連中しかいないわね」
そう言って、レイラの絵を拾い上げ、油や薬品で汚れた棚から黄燐マッチを取り出した。
「もう止めて、ルナサ姉さん。お願いだから……」
絞り出すようにレイラは言った。弱く、やせ細った体が小刻みに震えている。
「駄目よ。こんな精神が不安定なときに描いたもの、とっとと処分した方が良いに決まってるでしょ。これは貴方たちのためなのよ」
シュッとマッチを擦る音がして、次の瞬間、絵を描いた紙が赤く燃え上がった。あっという間に燃え尽きて、黒いばらばらの破片になって床に落ちた。
レイラが泣きながらルナサに掴みかかった。しかし、病気がちで幼い彼女が敵うはずもなく、あっけなく押し倒された。
倒れ伏したところで勢いよく蹴飛ばされる。小さな体が壁に叩きつけられ、動かなくなった。
メルランは凍りついたように動けなかった。ただ血走った目でルナサを凝視していた。
堤防が決壊しそうだ。よくわからない何かが暴れ出す。そんな気がする
屋敷のいたるところで破裂音がした。館が振動し、放心したリリカが映り込んだ姿見に亀裂が入る。中世の騎士の甲冑が倒れてばらばらになった。
空気を切り裂く音とともに飾り物の槍が飛んで、ルナサの顔をかすめた。槍は黒檀の柱時計に突き刺さり、壊れた時計が狂ったように幾度も鐘を打った。
一瞬、怯えたように見えたルナサだったが、また余裕を取り戻して話を続ける。もはや人ではない、鬼のような形相をしていた。
「貴方たちの母親の周りでも不思議なことが起きていたわね。
あの女の力はただ銃声みたいな音を鳴らしたり、家を少し揺らすだけで、何の役にも立たないものだったわ。どうせ貴方の力もそんな程度でしょう? それで私を脅そうなんて十年早いのよ。
あの女は少し頭がおかしかったから、地下室に閉じ込めておいたのよ。
悔しいけれど、お父様のお気に入りを保存するという理由も兼ねて。
ちゃんとエサもやっていたし、ときどきお父様が可愛がっていた。それも、そこの小汚いがりがりの子どもを産んだときに死んでしまったけれどね」
「エサ」というところを妙に強調している。そんな言葉でメルランを傷つけようとしているらしかったが、正直なところどうでも良い。会ったことのない母親なんて、いくら傷つけられようと構わない。
ただレイラを小汚いといったことは聞き捨てならない。
そんな様子に気付いたのか、ルナサは不愉快そうに顔をゆがめた。
「そう言えば、この間お父様が持ってきたオルゴール、あれは貴方たちがずいぶんと気に入っていたわね。
でも、あんな音の鳴らないがらくた、取っておいてもどうしようもないでしょう?
私が処分しておいてあげるわ」
ルナサはオルゴールの置いてある棚に近寄る。さっきから起こっている不思議な現象を気にも留めず、表情は狂気に満ちていた。
「これに懲りたら、もうお父様を誘惑したりしないようにね」
ルナサがオルゴールを掴んで高く掲げた。
レイラの指がぴくり、と動く。まともに動かない体を引き摺って、這っていこうとする。
オルゴールを一旦テーブルに置いたルナサは、満面の笑みで――絵を見せてくれたときのレイラに似ているけれど、全く違う悪魔のような凶悪な顔つきで、レイラの頭を踏みつける。頭が床にぶつかる鈍い音がして、レイラはギャッと悲鳴を上げた。
「止めてッ!」
呪縛が解けたかのようにやっとメルランは声を出すことができた。大声で叫んだはずなのにかすれた声しか出なかった。
もう自分の力だけではどうしようもない。助けを求めるように父のほうに目を向けた。
伯爵はただ、じっと凄惨な姉妹の様子を眺めていた。いつものように細めた目が普段より少し開いていて、琥珀色の瞳が覗いている。それは余りにも不気味で、人ではない汚らわしい獣か悪魔のようだった。
――笑ってる。
――私たちが自分をめぐって争っているんだと思って喜んでるんだ……。
カラン、と石炭の崩れる音がした。真っ赤に熱された火かき棒が、薄暗い中赤々と燃える暖炉から引き抜かれる。悪魔の持つ剣のように禍々しく燃え立つその得物が妹に向かって突き付けられた。
リリカが眼球が飛び出しそうなほど目を見開いて、口角泡を飛ばしながらメトロノームのように正確なリズムで、呪詛の言葉を延々と唱え続けている。
狂人たちが取り囲む中で、一人まともな少女が床に突っ伏しながらすすり泣いていた。
メルランは姉と父を睨め付けた。仄暗い中でぎろりと剥いた目が不気味に輝く。
地下室の鍵がガチャリと開き、勢い良く開いた鉄扉が壁にぶつかる轟音が響き渡る。地下から、黴と鼠の糞の臭いがする風が吹き込んでくる。
屋敷全体が激しく揺れ、一個大隊が一斉射撃をする音と像の走る足音のような音が響き続ける。
窓ガラスが粉々に砕け散り、ガラスの破片がメルランの目の上を切り裂く。傷口がぱっくりと開き、血がにじみ出した。
オルゴールの人形がはち切れそうなほど激しく、狂ったように楽器を弾き、大音響で不協和音だらけのオーケストラを奏で始めた。
メルランに不思議な力の波が押し寄せていた。体にこれまで感じたことのないような力が漲り、強烈な万能感が満ちる。
マホガニーの椅子やポールハンガーがメルランの周囲を浮いて回っている。
ルナサは一瞬、ひるんだ表情を見せたが、また人とは思えない影が差した顔つきで、熱を帯びた鋼を妹の顔に近づけた。髪の毛がちりちりと焼け焦げ、甘ったるく嫌なにおいが鼻を突く。
メルランは頭の中で二人が壁に叩きつけられるさまを思い描いた。特別なことは何もない。それは、ただ手足を動かすのと同じような感覚だった。
まるで紙細工のように二人の体がふっ飛び、壁に叩きつけられた。壁がひび割れ、ミシリと骨の砕ける音がした。
伯爵とルナサの手足が、糸の切れた操り人形のようにあらぬ方向に曲がっている。
まだ意識があるのか、ただの死後の生理的反応なのか、体を痙攣させながらルナサの焦点の合わない目がメルランを向いた。
とどめと言わんばかりにアイアンウッドの重いテーブルが飛んでいく。腹から下が押しつぶされ、大量の吐血とともに崩れ落ちた。
壁に叩きつけられたプリズムリバー伯爵の胸には燭台が突き立てられていた。伯爵は悪魔のように気味の悪い笑みが張り付いたまま、絶命していた。
一瞬、茫然としていたリリカが発狂したように、メルランを指差し、もはや意味をなしていない言葉で喚き立てる。
レイラはかろうじて顔だけを起こして、現実感のない地獄絵図を凍りついた表情で眺めていた。
目の上の傷から血が流れ落ち、メルランの熱に浮かされ紅潮した頬を伝う。どろりとした鼻血が止まらず、床にまで滴り落ちている。彼女は大きく体を震わせながらレイラを一瞥すると、目を開いたまま床に倒れ込んだ。
5
レイラはリリカの乗った馬車が屋敷を出て行くところを眺めていた。リリカはあの出来事のあと、訳のわからないことばかり喚いて、まともに喋ることすらできなくなった。
メルランが倒れた後、屋敷の近くを通りかかった人が尋常ならざる様子に気付いて人を呼んでくれた。
レイラは体こそぼろぼろだったがかろうじて正気を保っていた。
一方のリリカは歯が欠けたぐらいで怪我こそレイラより少なかったが、悪魔や地獄についてひたすら狂ったように語るだけになっていた。
一向にリリカの状態は回復せず、精神病院に収容されることになった。
メルランは死んだ。原因不明の高熱が下がらず、明け方には息を引き取った。脳出血らしいが、脳内の血管がほとんど切れていて、通常ではありえないことだと医者が言っていた。
一人だけまともな状態で生き延びたレイラは、悪魔の子として白眼視された。そのせいで、引き取り手もいない。体が弱いことでも嫌われていたのかもしれない。
レイラは屋敷に一人だけ取り残された。遺体だけは運び出されたが、あの夜の惨劇の跡もまだ片付けられていない。
ずっと見送っていたリリカを乗せた馬車がうっそうとした森に吸い込まれていく。
――本当に一人になっちゃった……。
広い屋敷に取り残され、強い孤独感を覚える。あの場所から運び出したオルゴールを見つめた。
どうしてこうなってしまったのかわからない。レイラはただ家族に仲良くして欲しかった。それがどれ程グロテスクな家族であったとしても。
ガラスの割れた窓から吹き込んでくる風が冷たくて、病気がちの体には堪える。外では粉雪がちらついていた。
背後に何かの気配を感じる。
レイラが振り返ると、メルランの思い描いた理想の姉妹たちがいた。
また、独自の解釈が多く見られます。
御注意をお願いします。
1
メルランが演奏を終えると、妹のレイラがパチパチと拍手を送った。
「すごいわ、姉さん。また上手になったんじゃない」
ベッドの上で上体を起こして聴いていたレイラが満面の笑みで賛辞を贈る。
「そ、そうかな」
少し照れてどもりながら、メルランは答えた。
正直なところメルランのトランペットは余りにもつたなく、とても上手とは言えない。さっきの演奏でも、何度も音階を間違えた揚げ句、一部の楽節で高い音を出しきることができなかった。
所詮、お世辞だということぐらいわかっている。しかし、レイラの誉め方に嫌みがないせいで悪い気はしない。むしろ、鬱の気のあるメルランにとってレイラから贈られる賛辞の言葉は心の支えにすらなっていた。
メルランは妹のレイラが大好きだった。
透き通るような白くきめ細かい肌に、人形のように大きな目。幼いけれど落ち着いていて思いやりが感じられる優しい声。病弱なせいで少し薬臭いことさえ、全てが愛おしかった。
けれど、何よりも大好きだったのはきれいな艶のある黒髪だった。
ほとんど顔つきが似ていない姉妹であっても、その黒髪だけはメルランとほとんど同じと言って良いほどよく似ていた。それが自分とレイラの関係が特別である証拠のように思えていた。
メルランには父と姉、それに妹がもう一人いるが、彼らとの折り合いはレイラほど良くはない。
父のプリズムリバー伯爵は優しいけれど、表情が読めず何を考えているのかよくわからない。鬱屈とした性格のメルランは勝気で年の差がある姉のルナサとも、几帳面で極端に信心深い妹のリリカともそりが合わなかった。
他の家族と相性が悪い以上、仲の良いレイラと一緒に過ごすことが必然的に多くなる。
病気がちでほとんどの時間をベッドの上で過ごすレイラは、メルランの吹くトランペットをとても喜んでくれた。それで、レイラの部屋でトランペットを吹くことが日課になっている。
「姉さん、もう一曲、聞きたいわ」
「じゃあ、今度はかえるの歌にしようかな……」
演奏できる曲目はかえるの歌にきらきら星、メヌエットぐらいしかない。それでもレイラは飽きもせず聞いてくれる。
マウスピースに口をあて、強く息を吹き出す。かなり練習してもいまだに下手糞で、頬が少し膨らんでしまい、へろへろとした音が出てしまう。
一瞬もう投げ出してしまいたくなるが、それでも嬉しそうに聴いている妹を見て、必死に演奏を続ける。
三分の一ほど吹いたところで、どたどたという足音とともに、ノックもせずルナサが部屋に上がり込んで来た。
「うるさいわよ。毎日毎日、へったくそなトランペットを吹いて。おちおちと寝てもいられないわ。
私が屋敷にいるときはもう演奏しないで頂戴」
低い角度からたくさんの日差しが部屋に差し込んでいて、冬の太陽は既に高く昇っている。こんな時間まで寝ているのはこの屋敷ではルナサぐらいである。
「う、うん」
「はっきりしないわね。
何年やっても上達しないんだから、良い加減あきらめてそんなもの捨ててしまえば良いのに。
いっそ私が今、捨てさせてあげるわ」
長くきれいに爪を伸ばした手が、トランペットに触れる。磨き込まれて金色に輝く楽器の表面にうっすらと指紋が付いた。
「一丁前に、楽器の手入れだけはちゃんとしているみたいね。
私はそういう中途半端さが大嫌いよ」
表情を歪めてルナサはメルランから楽器を奪い取ろうとする。必死の抵抗もむなしく、十歳以上年上のルナサに対して勝ち目はありそうにもない。
「ルナサ姉さん、止めて!」
レイラが声を張り上げた。ドスン、と階上で何か大きなものが落ちる音が響いた。
ルナサは一瞬、あっけにとられたようだが、何事もないことを理解すると、奪い取ったトランペットを床に叩きつけようとした。
突き倒されたメルランは立ち上がることもできず、すすり泣くだけだった。
「ルナサ、もうその辺にしておきなさい」
騒ぎを聞きつけたプリズムリバー伯爵が、部屋の入口に立っていた。その顔にはいつものように目を細めた、優しそうな笑みが浮かんでいる。
ぶっきら棒にトランペットがメルランに向かって放り投げられる。思わず取り落としそうになって、慌てて楽器を両手で抱きとめた。
ルナサは仏頂面で、さっさと部屋を出ていった。
「お前たちも、今度からはルナサに気を使うようにしなさい」
「はい!」
「は、はい……」
レイラは元気よく、メルランは消え入りそうな声で返事をした。
伯爵が出て行くのを見届けて、メルランはほっと胸をなでおろした。
「ルナサ姉さんも、お父様には敵わないのね」
レイラはくすくすと笑っていた。
「もっと、みんな仲良くできたら良いのになあ。
あっ、そういえば私、みんなの絵を描いてみたの。姉さん見てくれないかしら?
今日はもうトランペットの演奏はできないでしょうし」
鉛筆で緻密に描かれたレイラの絵は、専門の画家が描いたと見間違うほど上手だった。髪の毛や肌の質感、人の体のバランス、そして何より表情が生き生きと表現されている。どこかの誰かのトランペットとは天と地ほどの差があった。
メルランは少し興奮気味に言った。
「すごい上手だわ。貴方がこんなに絵が上手だったなんて、私、知らなかった。
でも、どうしてこんな絵を描いたの?」
絵の中のメルラン達はみんなはち切れそうなほど明るい表情で笑い合っていた。現実の家族とはかけ離れた光景だ。
「うん、私、本当にみんな仲良くして欲しいのよ」
レイラは本当に良い子なんだなあ、と思った。自分ではそんなこと考えたこともなかった。
――私はレイラだけいれば良いのにな……。
正直なところそういう気持ちが強い。でも、にこにこしている妹を見てそんなことは口にできない。
「ルナサ姉さんがもっと年が近くて気が強くなかったら、リリカがもっと楽しくて話しやすい性格だったら、一緒にいても楽しいのかなあ。
でも、一番いやなのは自分かな……。もっと明るい性格だったら良いのに。
見た目ももっと派手で良いから……。明るい色合いの髪も良いなあ。実は憧れてるのよ。とくにシルバーブロンド。レイラと一緒の今の黒髪も良いけど」
「姉さん。そんなこと言わないで。人を自分勝手にこんな人になって欲しいなんて思っちゃ駄目。同じように、今の自分が駄目な子だって思いこむのはもっと駄目よ」
幼いながらも本当にしっかりとしている。姉のほうが、たしなめられる体たらくだ。
「今度トランペットを吹いてもらうとき、姉さんをスケッチしてあげるわ。そのときの姉さんはとってもかっこいんだもの。きっと自信だって湧いてく……」
ゲホゲホとレイラは激しく咳き込んだ。メルランは慌てて薬と水を探す。取り乱したせいで椅子に足を引っ掛けて、倒してしまった。
「そんなにあわてなくても大丈夫よ、メルラン姉さん。
薬ならそこの棚にあるから持ってきて。
それを飲んだらしばらく休むことにするから」
「うん」
メルランはくすりをレイラに手渡し、飲むのをしっかりと見届けた。
「じゃあ、私も部屋に戻るわ」
部屋に戻る途中、地下室への鉄扉の前を通るといつも禍々しい雰囲気に圧倒される。分厚い鉄でできた物々しい扉で、まるで地獄への入口のようだ。
廊下には父が集めた珍しい海外の品物が陳列してある。心霊趣味が高じてウイジャ板や降霊用の振り子といったものまで並べてあり、廊下も地下室の扉に負けず劣らず陰鬱だ。
――お腹が痛い……。
数日前からずっと下腹部に痛みを感じていた。誰かに相談できれば良いのだが、父や姉に打ち明けるのは何となく嫌だった。明らかに自分よりも調子の悪いレイラには心配をかけたくない。
痛みをこらえてメルランは自室に戻った。
2
レイラの部屋に入り浸るようになったのは数年前の出来事がきっかけだった。
窓が開いていて、そこから雲一つないどこまでも広がっていく青空が見える。からりとした夏の風にカーテンが揺れている。冬の今とは違う夏の爽やかな日のことだった。
ダマスク柄のえんじ色の絨毯の上で、ビスクドールがばらばらに砕け散っていた。お父様からレイラがもらった珍しい人形だった。
お父様は貿易商だから、珍しい異国の品物をメルランたちに与えることがよくあった。けれど、レイラにあげた物は後にも先にもあれだけだったような気がする。
それが理由だったのかはわからないが、レイラはその人形をすいぶん大事にしていたようだった。
人形はかなり強い衝撃で壊れたようで、やけに遠くまで破片が飛び散っていた。普段置いてある棚からレイラが取り落としてしまっただけでは、こんな壊れ方はしない。
もっと高い所から、天井辺りから一気に落っこちたような、そんな砕け方をしているように見えた。
まだ、十歳にもなっていない幼いレイラがひっくひっくと嗚咽を上げて泣いている。その頃、短い間だけ勤めていたメイドが促しても、床に座り込んだまま動こうとしなかった。
ちょうどその頃、メルランはお父様からトランペットを貰ったばかりで、片時も離さずに持って歩いていた。
演奏できるようになったばかりの曲を聴いてもらいたくて、家族の部屋を回っていたのだけれど、誰も相手にしてくれなくて最後にレイラの部屋の戸を叩いたのだった。
泣いているレイラを見て、メルランはおろおろしながらも何かできないかと必死に考えた。握り締めた楽器を見て、新しい曲を聴いてもらうことに決めた。今考えると恥ずかしいが、その時のメルランはその考えはレイラを慰める最高のアイデアだと思っていた。
初めてまともに演奏できるようになった曲、きらきら星。
今でも、レイラが一番喜んでくれる思い出の曲だ。
幼いメルランの小さな手ではどう頑張っても指が届かず、リズムに合わせてきれいな音を出すことは難しかった。息の出し方も今以上に下手で、よれたぐずぐずの音しか出ない。
それでもレイラは喜んでくれていた。泣いてぐしゃぐしゃだった表情が、ぱっと明るくなった。
「メルランねえさん、すごい」
「う、うん。ありがとう、レイラ」
レイラはすっかり機嫌を直して、にこにことメルランに笑いかけていた。この出来事からメルランはレイラと仲良くなって、よく部屋に出入りするようになったのだ。
乾いた夏の風が吹く。心地よいが、少々強すぎたせいか楽譜が窓の外まで飛ばされてしまった。
楽譜がないと演奏なんてできない。せっかくレイラに喜んでもらえたばかりだというのに。メルランは必死に我慢したつもりだったが、口をへの字に結んでべそをかいていた。
「うっ、ぐすっ、ひぐ」
抑え込もうとしても、泣き声をこらえることができない。
「ねえさん、泣かないで」
顔を上げると、なくなったはずの楽譜が何事もなかったかのように元の場所にあった。
――もしかして、本当は飛んでなかったのかな……?
よく見ると楽譜の端には土が付いていて、芝生の青臭い匂いがした。やはり外に飛ばされたのは間違いない。
――でも、どうやってここまで戻ってきたんだろう?
レイラは体が弱く、起き上がって外に取りにいける状態ではない。そもそも、あんな一瞬で外に取りにいって戻って来ることなんて、どんな人間にも無理だ。
レイラはどんな魔法を使ったんだろうか。
思い返してみると、もっと前からレイラのまわりでは不思議なことがよく起きていた。
小さいときには誰も動かしていないのにベットメリーが勝手に回っていたり、ぐずっているときには突然クラッカーのような音が連続で鳴ったりすることもあった。
そもそも、ビスクドールの壊れ方だっておかしいところがある。普通に落として壊れたならばあそこまでばらばらに砕け散ったりはしない。
でも、そんな奇妙なことについて他の家族とは話したことがなかった。ほかのみんなは知らないのだろうか。そうだとしたら、どうしてメルランだけが知っているのだろう。
考えれば考えるほど不思議だった。
3
その日、プリズムリバー伯爵が買い手のつかなかった珍品を屋敷に持ち帰ってきた。伯爵は貿易の仕事をしているので、売れ残ったものを家に持ち帰ることはたまにあることだった。
三人の木でできた人形が付いたやけに大きなオルゴール。木製の変な帽子をかぶった人形はそれぞれ、ヴァイオリン、トランペット、ピアノを演奏している。
なんとも中途半端な楽器の組み合わせで、音楽の知識がない人、もしかすると西洋音楽に詳しくない東洋人が作ったのかもしれない。
伯爵はこういった変わった物、とくに心霊に関するものが大好きで、結局売り物にせず屋敷で保存しているものも多かった
台の隅には不思議な角ばった字で名が入っていたが、メルランには読めなかった。明らかにアルファベットではないし、アラビア文字でもないようだ。もっと別の、東の国のものなのだろうか。
「ちょっと回してみても良いかしら」
案の定、一番初めに興味を持って手を付けたのは勝気なルナサだった。
「ああ、構わんよ」
いくらハンドルを回しても全く音が鳴らない。そもそも、シリンダーが付いているかどうかすらよくわからないような形をしている。
「つまらないわね。こんながらくたさっさと捨てちゃったら」
元々、エキゾチックなものや心霊に関するものに興味があるわけでもない。単に新しい物好きなだけなので、長く向き合って動かし方を見つけようとはしなかった。
「ああ、でもちょうど今は使用人がいなかったわね。仕方がないわ」
早く新しいのをみつけた方が良いわね、とルナサはぼやいて去っていった。
この屋敷ではメイドにしろ家庭教師にしろ、雇っても長続きした試しがない。どうしてなのかはわからない。
考えてみると、雇った人は女性ばかりだった。それも何か関係があるのだろうか。
どちらにしても、いなくなった母親の代わりになるような人はこの屋敷にはいない。メルランは仲の良いレイラと肩を寄せ合って生きるしかなかった。
「これは漢字、東洋の端のほうの国で主に使われてる文字ね」
珍しくリリカが父の持ってきたものに興味を示していた。リリカは敬虔なキリスト教徒で、心霊といった教義に反するものを好いていなかったはずである。
「リリカ姉さんは博識ね」
リリカが父のコレクションに興味を示すことも珍しいが、レイラと二人で話すところを見るのも珍しい。たまたま今日は調子がよくて部屋の外に出ているが、普段レイラは余り部屋から出られないので、同じ家にいるのに接点が少ない。
レイラの言葉を無視してリリカは様々な角度からオルゴールを観察していた。
「見たところまともな機械の部分もないみたいだけれど……」
ハンドルを回してみたがやはりピクリともしない。
「そもそもこれは本当にオルゴールかさえ怪しいわね。でも、この手のものはたいてい罰当たりなものよ。お父様もこんなものを集めたりしないで、もっと信仰をもって清らかな生活を送れば良いのに」
リリカは卓に置いてあった聖書を抱えて、いってしまった。
気が付くとお父様もいなくなっていた。ホールにはレイラとメルラン二人だけになった。
「ねえ、姉さん。私たちも回してみない?」
「うん。でも、姉さんやリリカがやっても駄目だったし」
「駄目もとで良いじゃない。ほら、先にやってみて」
「レイラが先にやってよ」
「いやよ。姉さんが先にやってよ。ほら、ほら」
根負けしたメルランがハンドルを回してみる。始めは何の手応えもなく回っていたが、もうやめようと思ったときに妙な感触があった。
オルゴールの上に乗っていた人形が、まるで本物の人間のように動き演奏を始める。奏でられる音は明らかにオルゴールのものではなかった。本物の楽器で演奏されたオーケストラそのものだった。
「すごいわ!」
レイラの言葉にメルランもうなずく。
またルナサにうるさいと言われないか戦々恐々だったが、何の反応もない。これだけの大音響なのだから、リリカやお父様も何かしら反応しても良いはずだ。
「もしかして、私たちにしか聞こえないのかな?」
「そうかもしれないわ。でもこれってすごい!
姉さん、お父様に頼んで、これを私たちの宝物にできないかなあ」
「うん」
確かにそうできればとても素敵だと思う。もともと、お父様も壊れていると思っていそうだし、頼み込めば取っておくことも出来るかもしれない。
ふと目をやると、オルゴールから三人の小さな人影が屋敷の中に散っていったような気がした。
不思議に思っていると、レイラがまたゲホゲホと咳き込んだ。
「そろそろお部屋に戻らないと……」
「わかってるわ、姉さん」
レイラを部屋に送ったあと、メルランは自分の部屋でベッドに倒れ込んだ。
―――お腹が痛い……!
前よりも痛みが強くなっている。ここ数日間ずっと痛みが取れなかった。今日になっても和らぐどころか強まっているような気がする。これからも痛みが続くかもしれないと思うと、気が滅入りそうだった。
4
夕食はほとんど喉を通らなかった。
心配して優しい声をかけてくれたお父様には、とりあえず大丈夫と答えておいた。
リリカは少し気になった様子でメルランを見たが、それ以外何も反応を示さなかった。
ルナサ姉さんに至っては、普段通りマナーが良いはずなのにどこかいら立っているような忙しない食べ方で食事を取っているだけで、メルランのことなど気にもかけていなかった。
――お腹が痛い……。
日に日に痛みがひどくなっているような気がする。
余りのひどさに部屋に戻ることも出来ず、ホールでへたり込んでしまった。
下腹部にどろりとした嫌な感触がした。スカートにどす黒い血がにじんでいる。血は下腹部から出ていて、下着から染み出していた。
――何、これ……。
ひどい不快感を覚えて、胃液しか入っていない胃の中身をもどしそうになる。
「いやだッ!」
わけがわからずメルランは叫んだ。からからに乾いた口の中が苦酸っぱい味がする。
ホールから一番近い場所にある部屋から、不機嫌な怒声が浴びせられた。
「どうしたのよ!」
ルナサはどこか見下すようにメルランを眺めて、したり顔で何か納得したようだった。
「ああ、メンスね。ちょっと待ってなさい」
とくに蔑むようなことをいったはずではないのに、よそよそしく棘のある言い方に聞こえた。ルナサは自室に戻り、何かを探している。
「さっさとこれで拭き取りなさい」
さも触るのがいやだというように、脱脂綿の塊を投げつけてきた。
――何が起ってるの?
――私、どうしちゃったの?
訳がわからない。パニックになってしまい、頭の中がごちゃごちゃでどうして良いかわからない。涙が零れ落ちて、嗚咽が漏れた。ルナサはそんな様子を見てますます苛立ちを強めていく。
股間から流れ出る血液が、ダマスク柄のベージュの絨毯に赤黒い染みを作っている。ルナサに大きく舌打ちをされた。
メルランが口をへの字に結んで顔を上げると、プリズムリバー伯爵がじっとべたつくような視線を注いでいた。二人の視線が交錯し、睨みあうような状態になる。
明らかに喜ぶような状況ではないのに、伯爵はさも嬉しそうに笑っていた。
緊迫した沈黙が場を支配する。しかし、それは突如として破られた。
「お前ごときがお父様に色目を使うなぁッ!」
乾いた音が屋敷に響く。平手で打たれたメルランは倒れ込んだ。泣き声を我慢できない。
部屋から飛び出してきたリリカが、惨状を見てはるかに大きな声で金切り声をあげた。
「うるさいッ!」
怒りを募らせたルナサはつかつかと歩み寄り、拳でリリカを殴りつけた。カチン、という音がして歯がフローリングの床を転がる。口からはたらりと血が垂れていた。
「いつもただ黙ってるだけなくせにこういうときだけはうるさく叫ぶのね。
聖書ばかり読んで誰にも関心がないなんてふりしてる卑怯者の分際で。
貴方が私とお父様のことを見下してることなんて、わかってるのよ。
全く、ただ『あれ』を見ただけでこんなことになるなんてね」
「やめて……。
あんな汚いもの思い出したくない。思い出させないで……」
「あのときほど激しくお父様が私を愛してくれた日は後にも先にもなかったわね。
でも、あのとき私たちを覗いている出歯亀がいたのよね。
好奇心は猫も殺すってところかしら。でも、私たちだってみんな、ああいう過程を通して生まれてきたのよ。
それを、まあ、蒲魚ぶっちゃって……。本当は全部理解してるんでしょう?
私たちを汚いなんて思うのは筋違いも良いところだわ」
「よりによって実の父親となんて……。
姉さんなんて地獄に落ちれば良い! この淫売の魔女! 主は必ず見ていらっしゃる。裁きは必ず下るわ!」
絞り出すようにリリカが声を張り上げた。その瞳には狂信的な光が宿っている。
ふん、とルナサが鼻を鳴らす。
「本当に仕方のない。可哀そうな子……。
今度は貴方も一緒にお父様と遊ばせてあげるわ。そうすれば貴方も少しはましになるかもしれないわね」
恐怖と憤怒が入り混じった表情を浮かべ、リリカは押し黙った。
「姉さん、一体どうしたの?」
部屋から出てきたレイラがメルランに走り寄る。体調が優れないせいか青白い顔をしている。屋敷を少し走っただけなのにぜいぜいと息切れしていた。
姉妹の間にレイラの小さな体が奮い立つ。そのとき、手に握りしめていた絵がはらりと落ちた。
この間見せてもらった家族みんなが笑っている絵だった。よほど気に入っていたのか、さっきまで部屋の中で見返していたらしい。
阿鼻叫喚の地獄絵図の中では、その素朴で優しい絵が別の世界からもたらされた物のようでメルランは悲しくなった。
「もう止めて、ルナサ姉さん」
「ふん、妾の子の分際で私に意見するつもり? 逆にあの女の娘だから、そんな厚顔無恥なことができるのかもしれないけれど」
強い意志を湛えたレイラの目を見てルナサはにやりとした。その先を察したレイラが青ざめて叫んだ。
「姉さん、駄目! それは言わないで!」
ルナサは勝ち誇ったように笑った。
「いやらしいことに、あの女は私たちの叔母。とくに貴方『たち』は母親でもあるから血が濃いのよね。
貴方はもう知ってたみたいね。むしろ、そこでへたり込んでるのに聞かせたくなかったってところかしら?」
「止めて、もうそれ以上は……」
「あら、どうせそいつも知っているでしょう? 母親が貴方と同じことぐらい」
指差した先には現実感のないまま、二人の話を聞いていたメルランがいた。
全く知らなかった。
しかし、自分が妾腹であったことについて、とくに感じることは何もなかった。それどころか、むしろ嬉しいような気さえしていた。大好きなレイラとお母さんが同じだということだから。
ただでさえ血の気のないレイラの顔が、今は死人のように青ざめていた。ここは喜ぶところなんじゃないかな、喜んで欲しいなとメルランは思った。
さらに決定的な打撃を与えようと、したり顔でルナサが続ける。
「しかし、貴方もここまで知っててこんな絵を描いてたの。本当にこの家には頭のおかしな連中しかいないわね」
そう言って、レイラの絵を拾い上げ、油や薬品で汚れた棚から黄燐マッチを取り出した。
「もう止めて、ルナサ姉さん。お願いだから……」
絞り出すようにレイラは言った。弱く、やせ細った体が小刻みに震えている。
「駄目よ。こんな精神が不安定なときに描いたもの、とっとと処分した方が良いに決まってるでしょ。これは貴方たちのためなのよ」
シュッとマッチを擦る音がして、次の瞬間、絵を描いた紙が赤く燃え上がった。あっという間に燃え尽きて、黒いばらばらの破片になって床に落ちた。
レイラが泣きながらルナサに掴みかかった。しかし、病気がちで幼い彼女が敵うはずもなく、あっけなく押し倒された。
倒れ伏したところで勢いよく蹴飛ばされる。小さな体が壁に叩きつけられ、動かなくなった。
メルランは凍りついたように動けなかった。ただ血走った目でルナサを凝視していた。
堤防が決壊しそうだ。よくわからない何かが暴れ出す。そんな気がする
屋敷のいたるところで破裂音がした。館が振動し、放心したリリカが映り込んだ姿見に亀裂が入る。中世の騎士の甲冑が倒れてばらばらになった。
空気を切り裂く音とともに飾り物の槍が飛んで、ルナサの顔をかすめた。槍は黒檀の柱時計に突き刺さり、壊れた時計が狂ったように幾度も鐘を打った。
一瞬、怯えたように見えたルナサだったが、また余裕を取り戻して話を続ける。もはや人ではない、鬼のような形相をしていた。
「貴方たちの母親の周りでも不思議なことが起きていたわね。
あの女の力はただ銃声みたいな音を鳴らしたり、家を少し揺らすだけで、何の役にも立たないものだったわ。どうせ貴方の力もそんな程度でしょう? それで私を脅そうなんて十年早いのよ。
あの女は少し頭がおかしかったから、地下室に閉じ込めておいたのよ。
悔しいけれど、お父様のお気に入りを保存するという理由も兼ねて。
ちゃんとエサもやっていたし、ときどきお父様が可愛がっていた。それも、そこの小汚いがりがりの子どもを産んだときに死んでしまったけれどね」
「エサ」というところを妙に強調している。そんな言葉でメルランを傷つけようとしているらしかったが、正直なところどうでも良い。会ったことのない母親なんて、いくら傷つけられようと構わない。
ただレイラを小汚いといったことは聞き捨てならない。
そんな様子に気付いたのか、ルナサは不愉快そうに顔をゆがめた。
「そう言えば、この間お父様が持ってきたオルゴール、あれは貴方たちがずいぶんと気に入っていたわね。
でも、あんな音の鳴らないがらくた、取っておいてもどうしようもないでしょう?
私が処分しておいてあげるわ」
ルナサはオルゴールの置いてある棚に近寄る。さっきから起こっている不思議な現象を気にも留めず、表情は狂気に満ちていた。
「これに懲りたら、もうお父様を誘惑したりしないようにね」
ルナサがオルゴールを掴んで高く掲げた。
レイラの指がぴくり、と動く。まともに動かない体を引き摺って、這っていこうとする。
オルゴールを一旦テーブルに置いたルナサは、満面の笑みで――絵を見せてくれたときのレイラに似ているけれど、全く違う悪魔のような凶悪な顔つきで、レイラの頭を踏みつける。頭が床にぶつかる鈍い音がして、レイラはギャッと悲鳴を上げた。
「止めてッ!」
呪縛が解けたかのようにやっとメルランは声を出すことができた。大声で叫んだはずなのにかすれた声しか出なかった。
もう自分の力だけではどうしようもない。助けを求めるように父のほうに目を向けた。
伯爵はただ、じっと凄惨な姉妹の様子を眺めていた。いつものように細めた目が普段より少し開いていて、琥珀色の瞳が覗いている。それは余りにも不気味で、人ではない汚らわしい獣か悪魔のようだった。
――笑ってる。
――私たちが自分をめぐって争っているんだと思って喜んでるんだ……。
カラン、と石炭の崩れる音がした。真っ赤に熱された火かき棒が、薄暗い中赤々と燃える暖炉から引き抜かれる。悪魔の持つ剣のように禍々しく燃え立つその得物が妹に向かって突き付けられた。
リリカが眼球が飛び出しそうなほど目を見開いて、口角泡を飛ばしながらメトロノームのように正確なリズムで、呪詛の言葉を延々と唱え続けている。
狂人たちが取り囲む中で、一人まともな少女が床に突っ伏しながらすすり泣いていた。
メルランは姉と父を睨め付けた。仄暗い中でぎろりと剥いた目が不気味に輝く。
地下室の鍵がガチャリと開き、勢い良く開いた鉄扉が壁にぶつかる轟音が響き渡る。地下から、黴と鼠の糞の臭いがする風が吹き込んでくる。
屋敷全体が激しく揺れ、一個大隊が一斉射撃をする音と像の走る足音のような音が響き続ける。
窓ガラスが粉々に砕け散り、ガラスの破片がメルランの目の上を切り裂く。傷口がぱっくりと開き、血がにじみ出した。
オルゴールの人形がはち切れそうなほど激しく、狂ったように楽器を弾き、大音響で不協和音だらけのオーケストラを奏で始めた。
メルランに不思議な力の波が押し寄せていた。体にこれまで感じたことのないような力が漲り、強烈な万能感が満ちる。
マホガニーの椅子やポールハンガーがメルランの周囲を浮いて回っている。
ルナサは一瞬、ひるんだ表情を見せたが、また人とは思えない影が差した顔つきで、熱を帯びた鋼を妹の顔に近づけた。髪の毛がちりちりと焼け焦げ、甘ったるく嫌なにおいが鼻を突く。
メルランは頭の中で二人が壁に叩きつけられるさまを思い描いた。特別なことは何もない。それは、ただ手足を動かすのと同じような感覚だった。
まるで紙細工のように二人の体がふっ飛び、壁に叩きつけられた。壁がひび割れ、ミシリと骨の砕ける音がした。
伯爵とルナサの手足が、糸の切れた操り人形のようにあらぬ方向に曲がっている。
まだ意識があるのか、ただの死後の生理的反応なのか、体を痙攣させながらルナサの焦点の合わない目がメルランを向いた。
とどめと言わんばかりにアイアンウッドの重いテーブルが飛んでいく。腹から下が押しつぶされ、大量の吐血とともに崩れ落ちた。
壁に叩きつけられたプリズムリバー伯爵の胸には燭台が突き立てられていた。伯爵は悪魔のように気味の悪い笑みが張り付いたまま、絶命していた。
一瞬、茫然としていたリリカが発狂したように、メルランを指差し、もはや意味をなしていない言葉で喚き立てる。
レイラはかろうじて顔だけを起こして、現実感のない地獄絵図を凍りついた表情で眺めていた。
目の上の傷から血が流れ落ち、メルランの熱に浮かされ紅潮した頬を伝う。どろりとした鼻血が止まらず、床にまで滴り落ちている。彼女は大きく体を震わせながらレイラを一瞥すると、目を開いたまま床に倒れ込んだ。
5
レイラはリリカの乗った馬車が屋敷を出て行くところを眺めていた。リリカはあの出来事のあと、訳のわからないことばかり喚いて、まともに喋ることすらできなくなった。
メルランが倒れた後、屋敷の近くを通りかかった人が尋常ならざる様子に気付いて人を呼んでくれた。
レイラは体こそぼろぼろだったがかろうじて正気を保っていた。
一方のリリカは歯が欠けたぐらいで怪我こそレイラより少なかったが、悪魔や地獄についてひたすら狂ったように語るだけになっていた。
一向にリリカの状態は回復せず、精神病院に収容されることになった。
メルランは死んだ。原因不明の高熱が下がらず、明け方には息を引き取った。脳出血らしいが、脳内の血管がほとんど切れていて、通常ではありえないことだと医者が言っていた。
一人だけまともな状態で生き延びたレイラは、悪魔の子として白眼視された。そのせいで、引き取り手もいない。体が弱いことでも嫌われていたのかもしれない。
レイラは屋敷に一人だけ取り残された。遺体だけは運び出されたが、あの夜の惨劇の跡もまだ片付けられていない。
ずっと見送っていたリリカを乗せた馬車がうっそうとした森に吸い込まれていく。
――本当に一人になっちゃった……。
広い屋敷に取り残され、強い孤独感を覚える。あの場所から運び出したオルゴールを見つめた。
どうしてこうなってしまったのかわからない。レイラはただ家族に仲良くして欲しかった。それがどれ程グロテスクな家族であったとしても。
ガラスの割れた窓から吹き込んでくる風が冷たくて、病気がちの体には堪える。外では粉雪がちらついていた。
背後に何かの気配を感じる。
レイラが振り返ると、メルランの思い描いた理想の姉妹たちがいた。
たとえ幽霊とはいえ、最後に理想の家族に出会えたレイラが救われたと信じたいです。
GJ
そもそもあのオルゴールが登場した時点で、それが姉妹達にどう関わって行くのかと思って読みますし、オルゴールに付いていた人形に至っては東方ファン(特にプリズムリバー三姉妹のファン)にしてみれば「キター!」となるものですから。
それ以外が良かっただけに惜しい気がしました。