(23)
今日こそ、決着をつけるつもりだった。
方法は何でもいい。口喧嘩でも、取っ組み合いでも、命の獲り合いでも。
とにかく、あんな妖怪がこの地底に存在するのが、私には許せなかったのだ。
もともと、気に食わない奴だった。
会ったことはなかったが、そいつの評判は、それまでにたくさん聞いていた。
どれもこれも、耳が腐りそうな風聞。
親切で気さく。心優しく頼り甲斐があって、困ったときに力になってくれる、面倒見のいい土蜘蛛。
妬ましい。
特に私が苛立ったのは、そいつが『まともな妖怪』と言われていることだった。
そんな奴がこの地底にいてたまるか。土蜘蛛だぞ。
疫病を撒き散らす、えんがちょの対象で、嫉妬を食い物にする橋姫と変わらぬ嫌われ者の妖怪だ。
それが、親切で気さくで面倒見がよくて、まともな妖怪だと? 気色悪いことこの上ない。
噂に嫉妬するくらいでは我慢ならなかった。
見たことのないその土蜘蛛を想像するだけで、胸のむかつきがおさまらなくなり、気分を変えるために何度も水浴びしても、そいつに対する不快感がぬぐえなかった。
この地底でそんな風に善意を振りまいて、何の得があるというのか。きっと親切の仮面をかぶって、裏で優越感に浸っているだけだ。地底妖怪としては三流どころか、害悪といっていい。
ついに耐えかねた私が決心をして、噂の主が一人でいる時を狙って話しかけようとしたのが、一年ほど前のことだった。
その土蜘蛛の第一声も、最悪だった。
「ようやく話しかけに来たのね」
これだ。全て見透かしたような口ぶり。
私が以前からこいつの姿を、じっと影から盗み見ていたことに気付いていたのだろう。
遠くから爪を噛んで見つめるしかなかった橋姫を、陰で嘲笑っていたに違いない。
その日は、私が何も言わずに即刻帰ったので、それだけで終わった。
逃げたわけじゃない。戦う準備をしに戻ったのだ。
次に話しかけたのは、十三日後であった。
やはりそいつがたまたま一人でいる時をねらって、機先を制するためにこちらから声をかけようとしたら、
「どうぞ。お茶が入ってるよ」
前と同じく、すでに気付かれていた。
どうしてだろう。息を限界までひそめ、一切の物音を立てぬよう、細心の注意を払って近付いたのに。
土蜘蛛はケラケラと癇に障る笑い方をしながら、種明かしをしてきた。
この風穴地帯には見えないくらい細い妖気の糸が張り巡らされていて、使い魔の蜘蛛も徘徊しているらしく、誰かがこいつの住む穴に近づけば、すぐに報せが入る仕組みになっているらしい。加えて橋姫の妖気というのは独特で、存外分かりやすいものだそうな。
じゃあなぜ私に声をかけなかったのか、と問い質すと、
「来る者は拒まず。でも来ない奴は知らない」
味も素っ気もない答えが返ってきた。
やはりこの土蜘蛛は噂とはまるで違うやつだと、私は確信した。
全然親切なんかじゃない。世話焼きなどもっての他だ。
もちろん私は、彼女のもてなしを受けたかったわけではない。
当初の目的通り、化けの皮を剥がしてやるため、その場で散々罵ってやった。
醜い偽善者。薄汚い狡猾なデブ蜘蛛。
私は他の妖怪みたいに騙されない。どうせそのお茶も病原菌まみれなんだろう。
思いつく限りの毒舌を吐いてやった。
どんな甘い顔をされても、猫なで声をされても、引っかからない自信が私にはあった。
それよりも、目の前で土蜘蛛がしおらしくなったり、べそをかく姿を期待していた。
ところが、だ。
この土蜘蛛は私よりも……いや、五分だ。ともかく私と五分に限りなく近いほど、口が悪かった。
心優しい性格などしていなかったし、考えていたほど穏やかでも断じてなかった。
額に青筋を立てながら、そのくせ生き生きとした声で、私の罵詈雑言の嵐に刃向かってきたのである。
曰く。
ウザいの代表の橋姫の中でも、これほどやかましい奴にはお目にかかったことはないし、自分のことを棚に上げておせっかいとは笑わせるが、せっかくなので言い返してやろう。土蜘蛛にも、できることとできないことがある。たとえば頭からつま先まで嫉妬菌が詰まっている橋姫を、病気にさせること。しかも見た目は挙動不審、言葉は支離滅裂、主張は荒唐無稽、総じて厚顔無恥。薬湯に沈めて蓋をしとかなきゃ除菌できそうにない半病人に、黴菌が新しく宿る場所などあるものか。大体デブとはどこを見て言ってるんだ。私のお尻が羨ましいのか。悔しかったら、その鉛筆みたいに貧相で触ってもらえる場所もなければノミが足を引っかける場所もない絶壁の体を何とかしてから一昨日来やがれ、三下トンチキ妖怪。
完走まで三十秒。頭の回転だけでなく、舌の回る速さも、恐るべきものだった。
言葉に詰まった私が……不運にも喉が詰まったのだ、その時は。
とにかく叫びながら飛びかかると、投げ飛ばされた。
何度飛びかかっても、ひっくり返された。しかもご丁寧に、毎回違うやり方で投げられた。
目標を変えて部屋の家具を滅茶苦茶にしてやろうとすると、ビンタされて、「きぇー」と外に蹴りだされた。
噂は噂でしかない。
あの凶暴で口の悪い土蜘蛛が、優しいわけでも親切なわけでも世話焼きなわけでもないことが判明した。
だからといって、そのまま引き下がれるわけがない。それから私のリベンジの日々が始まった。
相手の哲学を真っ向から叩き潰すために、完璧な理論武装をした。
口喧嘩になっても勝てるよう、毎日のようにイメージトレーニングを積んだ。
受け身の訓練もした。投げられると痛かったからだ。それだけではない。格闘の訓練もやった。
かつて地上にいた頃に聞いた僧兵の噂を真似て、橋の上に立ち、通る者手当たり次第に喧嘩を売った。
おかげで生傷が増えたが、以前よりも格段に強くなった自信があった。
が、何度挑戦しても、私はあの土蜘蛛に勝てなかった。
そして一年が過ぎ去り、今私は、奴の家の洞穴のすぐ側まで来ている。
負のお百度参りもこれまで。今日こそ決着をつけてやるのだ。七日前も同じ決意をしていたのだが。
まずは気配を探ることから始める。……どうやら今日は一人だけらしい。
あの土蜘蛛ときたら、前は客と呑んでいたし、その前は別の妖怪と夜通し喋っていたし、その前に覗いた時は宴会なんぞやっていた。おちゃらけ妖怪め。
けれども、彼女に対する嫉妬の材料が増えるのは、よいことだった。その分、橋姫である私の実力が高まるからだ。
私は意を決して、彼女の住む穴に入り込んだ。
土蜘蛛は私に背を向けて、石の椅子に座っていた。
チャンスとみて、先制口撃を仕掛けようとした私は、思いとどまる。
その光景に何かを感じたからではない。
何かが鼻についたのだ。
よく知っているような知らないような、妙に生臭いにおいが部屋に漂っていた。
とりあえず、こちらに気付かせるために、適当に入口の壁を叩いてみる。
土蜘蛛の肩が動いた。それまで粘土の人形のようだった気配が、妖怪のものへと変化した。
奴は顔をこちらに向けぬまま、「あんたか……」とだけ呟いた。
まさか私に気付いてなかったのだろうか。いやそんなはずはない。
今までは玄関口に立つよりも遥か手前で、気配を察知されていたのに。
「来てやったのよ。今日こそあんたと、決着をつけるためにね」
私は宣戦布告する。
途切れた溜息のようなものが聞こえた。土蜘蛛が、笑ったようだ。
「ちょっと……待ってくれないかね……」
その声は、いつも対決する時の軽薄な感じと異なり、何だか重苦しかった。
もしやこいつは今、体調を崩しているのだろうか、と私は考える。
それは好都合だ。相手が弱っている時に叩くのは兵法の常道と聞く。
これまでの借りを十倍にして返してやる。
私は息を吸い込む。
見計らったかのように、土蜘蛛が振り向いた。
彼女は以前見た時と変わらぬ、傷一つない顔をしていた。
けれども、その手には、
「…………っ!!」
私は罵声のために吸い込んでいた息を、残らず悲鳴に変えた。
理解しがたい光景が、そこにあったから。
「あんた……何してんのよ!!」
土蜘蛛の腕に、桶に入った子供の『髑髏』が噛みついていた。
彼女の足元には、血だまりができていた。私が嗅いだのは、その血の臭いだったのだ。
なのに土蜘蛛の表情は、不自然なほど綺麗なままだった。
痛みをこらえている様子もない。それが尚更薄気味悪く、凄惨な……地の底相応の光景を作り出していた。
「見ての通りだよ……」
土蜘蛛は腕に食いついた髑髏に目を落としながら、そんな風に囁く。
私はますます理解ができなくなった。
なぜなら死にかけているのが土蜘蛛ではなく、その腕を血まみれにさせている『妖怪』の方だと気付いたから。
「これね……釣瓶落としっていうんだ。……難しい妖怪でさ」
暗く濁った声で、土蜘蛛は語り始めた。
「まだ生まれたばかりで、古井戸の中に捨てられた子供がこうなる。飢えて凍えて、泣く力がなくなって、息が止まって、干からびた体に残った魂に、悪いものがとりついて妖怪になる。でも、妖怪になっても、長生きはできないんだよね……」
髑髏の額を、血で濡れることも構わず、白い掌が撫でている。
「もう少し年を重ねていれば、感情の整理ができるもんかもしれないけど……そうなる前に死んじゃったから、折り合いがつけられないのかな……この子らはみんな、親に飢えてる。そこに付け込んだ怨霊が、恨みとか怒りとかを吹き込んで、しまいには自分の業に苛まれて暴れ回った挙句に、こんな風にしゃれこうべになっちゃって……」
私にもようやく分かった
彼女が今腕に抱いている髑髏は、釣瓶落としのなれの果てなのだ。
かつて私も見たことがあった。業にとらわれ、本性をむき出しにした釣瓶落としの姿を。
この地底で最も非力でありながら、もっとも凶悪な気性の妖怪。
そしてそれは無謀にも、自分より力で勝るものに襲い掛かり、朽ち果てて死んでいく。
でも私には、まだ分からなかった。
そんな救いようのない死にかけた妖怪を愛おしそうに語り、優しく接するこの土蜘蛛が。
一体何になるのだ、そんなことをして。
世話好きという自分の噂を守るためか? 私にこれを見せつけようと待ち構えていたのか?
ありえない想像にすがりたくなる。でも自分に益のない行動を取る方が、よっぽどありえない。
「放っておけば……」
「この子はさ。親にも、地上にも、旧都にも、地底の仲間にも見捨てられた妖怪なんだよ」
私の声を遮って、彼女は微かに首を振る。
「たった一匹の土蜘蛛にさえ受け入れてもらえないなんて、可哀想じゃんか」
私はしばらく、何も言えずに黙っていた。
土蜘蛛の腕から、黒い滴が落ちる音を、息をひそめて聴いていた。
どれくらい時間が経ったのだろう。
「……逝っちゃった」
ぽつりとした土蜘蛛の一言で、私は我に返った。
目の前で釣瓶落としの躯が、水の混じった砂に変わり、空気に溶けていく。
今まで見届けた時と同じだ。妖怪は死ねば、何も残さない。
自らの血まみれの腕を、土蜘蛛は冷めた目で見つめていた。
「……泣かないの?」
私の馬鹿な問いに、彼女は自嘲気味に口を歪める。
「涙なんて残ってやしないさ。私は人間じゃなくて、妖怪なんだから。私の涙で何かが変わるんだったら、泣きたい気もするけどね」
それは感情が涸れ果て、心に瑞々しさを失った、古くから地底に棲む妖怪だけが持つ声だった。
「きっと私は、いい加減何かが狂ってるんだろうね。水橋パルスィ。たぶんあんたの方が、正しい妖怪なんだと思うよ。だから私は、この生き方を押し付けるつもりはない。認めてもらえるとも思っちゃいないさ」
土蜘蛛がはじめて、己の弱みをさらけ出し、負けを認めていた。
そう言われても私は自らの感情に、折り合いがつけられぬままだった。
今もまだ私は彼女に嫉妬している。けどこれは、皆からいい噂をされて、ちやほやされていることに対するものではない。
地底妖怪としての格の差に、嫉妬しているのだ。
土の下で暮らす妖怪は、生まれ持った業にいかに準じるかしか考えておらず、その頭にネジは一つも残ってない。
殺意、病、飢餓、嫉妬、数多の醜い業を互いにぶつけ合い、どれだけ卑しく、狂っているかがそのまま妖怪の格となる。
だが、そんな終わってる世界の中で、自らの本分を忘れ、救いの光を求めるほど卑しくて狂っていることはない。
すなわち、どう考えてもこいつの方が私よりも異常だ。そんな風に認めたくないから、嫉妬している。
「で、今日もまた喧嘩の押し売り?」
土蜘蛛が、こちらに目を向けた。
「あ……え……」
何をしにきたのか、私は思い出す。
けれども、用意してきたあらゆる言葉が、全て頭から消えていた。
固まったまま、空っぽになった武器庫を隅々まで漁って、ぶつけるべき何かを懸命に探し、
「……その傷だけど」
私は彼女に負けないくらい冷めた視線を意識して、血まみれの腕を見据えながら言った。
「うちにはいい薬があって、それを使えば怪我の治りは早いのよ。まぁ、あんたのところには無いかもしれないけどね」
「……………………」
「どう? 妬ましいでしょ?」
「………………は?」
と土蜘蛛は口を開けて固まっていた。
彼女の弾けるような笑いが洞穴に響き、私が茹だった頭で退散したのは、それから間もなくのことだった。
◆◇◆
冬が好き。
同意なんて欲しくない。炬燵から眺める雪景色などに、私は一切興味を抱かない。
寒さが厳しくなる冬は、誰かに寄り添い、結びつきを強めたくなる季節。
つまり私の栄養分である嫉妬の材料が増えるということ。
もしかしたら冬が嫌いだから、好きなのかもしれない。要するに橋姫は矛盾した複雑な妖怪ということだ。
「……さむ」
風穴地帯を歩いていた私は、掌を息で温めてから、自分の耳に当てた。
私の耳は奇怪な形をしている。横に大きく尖っていて、ぴくぴくとネズミのように動く。
だから私に似合う耳当ては、特別に注文でもしない限り存在しない。
元来、耳を塞ぐのが嫌いでもあった。他人の陰口が聴こえなくなるから。
防寒具はマフラーだけで十分だ。今巻いているのは、昨年もらったものである。
くれた相手には、特に何もあげていなかったし、お返しも考えていなかった。
何をあげれば喜ぶのか。自分があげられるものというのは何か。
そもそも橋姫から物をもらって嬉しいと思うだろうか、という根本的な悩みまで……。
いや、こんなことで悩むのは私らしくない。善意に善意で返すなんていうのは、橋姫の行いではない。
凍る寸前の水が滴る、暗い道を進んでいくと、灯りのついた洞穴が目に入る。
扉も鍵もないその住み処は一見不用心だが、ここらには見えない糸が張ってあって、盗人はすぐにバレる……だっけ。
玄関口に立つと、暖気に包まれ、編み物をしている土蜘蛛が目に入った。
彼女は手を止めて、顔を『下げる』。
「あれ、パルスィ。こんばんは」
黒谷ヤマメは天井から逆さに垂れながら、編み棒を慣れた手つきで動かしていた。
今さら驚くまでもない出迎え方である。ただ彼女の台詞に、私は眉をひそめる。
「何が『あれ』よ。私がそこまで近づいていることはわかってたんでしょう」
「うちに寄らずに通りすぎるのも、いつものことじゃん」
思わず口をつぐんだ。
まさかこいつ、私がこの家に寄らない時の理由に気付いていないのだろうか。
膨らませて楽しい話題ではなかったので、私は靴の泥を落としてから、奥の台所の方へと向かった。
「お茶、もらうわよ」
「どうぞ。勝手に淹れて飲んで」
客を客とも思わぬ態度も、いつものことである。
何だかムカついたので、私は籠の中から彼女のカップを探り当てながら言った。
「同じ葉でいいわね」
「あれ、私にも淹れてくれるんだ」
と驚いた逆さまの顔が、「じゃあお願い」とほころぶ。
その表情を見て、やっぱり止める、仕返ししてやるつもりだった私は、黙ってやかんに水を汲んだ。
お湯を沸かしながら、しばし思いに耽る。橋姫としての在り方について、とか。
不思議なことに、最近は自宅で過ごすよりも、このヤマメの家で過ごす方がくつろげるような気がしていた。
最初からそうだったはずがない。出された食べ物に黴菌がついてないかとか、他の客に私の悪評を広めてるのかもとか、持ち上げてからいつかどん底に落とすつもりなのではなどと、一々怪しんでばかりだった。
疑いながらも付き合いを続けていたのは、こいつが本物かどうか見極めようとしていたからだ。
私が認めるに値する、地底妖怪かどうか。異端でありながら排除されず、この風穴で一つの地位を築いている彼女は、受け入れがたい生き方ではあっても、私の好奇心を刺激してやまなかった。
そしてそのうち、色々なことを気にしなくなった。
名前で呼び合い、世間話で時間をつぶし、時に議論をしてお腹を空かせ、食事を共にするうちに、この黒谷ヤマメという奴は、本当に一筋縄ではいかない奴なのだと再確認せざるを得なかった。
「これ味付け濃すぎ。どんな舌してんのよ」と嫌味を言ったら、「あはは、煮詰まる前はちょうどよかったんだけど、次は気を付けるわ」と思いのほか素直な答えが返ってくる。
「私ほど不幸な奴はいないわ。妬ましい」と愚痴を言ったら「私ほど幸せな妖怪もいないねぇ。あ、もしかして羨ましい?」と聞きたくもない最低の答えが返ってくる。
「あんたも私のことが嫌いなんでしょ」と憎まれ口を叩けば「何言ってんの。わさびは辛いから美味しいのよ」と思ってもみない珍妙な答えが返ってくる。
「バーカ」と言えば「アーホ」と分かりやすい答えが返ってくる。
まるで読めん。
こうなると、私もだんだんと疑いの目を向けるのが馬鹿馬鹿しくなってくる。
最近ではお互いにほとんど遠慮がなくなってきて、こうしてお茶を淹れるのも珍しくない仲となっていた。
でも、警戒していた昔の方が今よりも心地悪かったとしても、橋姫としてはむしろ正しかったのではないか。
そんな風に悩みかけた時、私はいつもここのお茶を飲んで気を静めるか、酒を飲んで忘れるかしていた。
すでに慣れきってしまった今となっては皮肉なことに、むしろこうしてこの香りを嗅ぐ度に、そのことを追懐するようになっている。
「あ、そうだった。あとでもう一杯分淹れてくれないかしら。うんと薄いやつ」
む、と嫌な予感が働いた。
「誰か来るわけ?」
「うーん、来るというかなんというか……」
「だったら私はすぐに帰らせてもらうわよ。どうせ大した用事もないし」
お茶を淹れ終えた私は、両手にカップを持って、ヤマメの方に戻った。
……と、視界の端に何か妙なものが映った。
ここの家具の配置はもう把握している。
応接間にはテーブルと茶箪笥。今来た台所のある部屋は水回り関連となっていて、浴室などもそこにある。
もう一つの部屋は寝室であり、和ダンスと柔らかい糸でこさえたベッドが置いてある。
あれれ。そのベッドの側に、見慣れない桶が置いてあ……
「うわぁ!!」
思わず叫んで飛び退いた私は、ヤマメに叱られた。
「こら! 大きな声出したら起こすじゃないのさ」
「な、何よあいつ。もしかして新入り?」
「そういうこと。今もあの子の靴下を編んであげてたんよ。あ、ちょっとこぼれてる。布巾布巾」
彼女に指図されながら、私は舌打ちして、テーブルにこぼれたお茶を拭きはじめる。
さらにその妖怪について質問を重ねようと思った矢先、
「おおっと。そろそろ食料の調達に行ってこないと。ごめんパルスィ。留守番頼める?」
「はぁ?」
「三十分くらいで戻るから。あとキスメのお守りもよろしく」
「ちょっ」
止める間もなく、ヤマメは逆さまの状態から糸を大きく振り、風穴に吹く突風のようにサーッと出て行った。
テーブルを拭き終えた私は、布巾をその上に軽く投げつけ、幾分軽くなったカップを口に持っていく。
「ったく……なんで私が……」
お茶の香りを吸い込んでも、気分は落ち着かなかった。
こんな時に誰か知らない客が来たらどうしろというのか。私に応待しろっていうのか。まっぴらごめんである。
この家にいるもう一人――桶に入った釣瓶落としは、どうやら今の騒ぎの中でも眠ったままのようだった。
私は立ち上がって寝室に入り、ベッドの側の、その緑色の髪をした幼い妖怪を覗きこんでみる。
「名前はキスメか……九番目の娘ってことかしらね」
ヤマメが釣瓶落としという妖怪に特別な思い入れがあるということを、私は知っていた。
この種の妖怪は例外なく凶暴だ。というより、悪い意味で『幼い』。自分の欲望を制御する術を知らない。
一方でその力は、やはり子供らしく非力であり、望みを叶えられるほどの強さを持ち合わせていない。
だから己の飢えを満たすことはできず、幼いままに滅んでいく。そんな哀れな宿命を持っているのだ。
憎しみが過ぎれば肉が腐り、骨となり、力尽きれば砂に変わる。
魂は怨霊となって、永久に地底を彷徨うことになる。
この地底で最も救われる要素の薄い妖怪で、同時に穴暮らしの惨めな様の体現者といえた。
ヤマメの夢は、業から解放された釣瓶落としを、一人前の妖怪として育てあげることだと聞いていた。
普通に成長して、普通に道理を学んで、普通に妖怪として末永く生きていける釣瓶落とし。
そんなことを真面目に考えているのだから、とんでもなく夢見がちな土蜘蛛だという私の印象は、初めから変わっていなかった。
すでに八度も失敗して、一度は片腕を失いかけているというのに、まだ懲りてないのだ。
だが少しだけ、共感できなくもない。
私達にも昔は、普通に子供を産んで育てられる時代があったはず。
妖怪となり、命を繋ぐ意味を失ってからは……ましてやこの地底においては、その営みは夢想であり、狂気に等しい。
日陰のタールの上に種を撒くようなもので、芽が出ることはあっても、育つことはない。
少なくとも私には、そんな奇跡は信じられない。
それに、その大事な子のお守りを、よりによって地底一不義理の嫌われ者である自分に託すとは。
「何考えてんのかしらねー、あいつは」
私が一人で文句を垂れていると、釣瓶落としの瞼が動いた。
空気に触れたつぶらな瞳が、ふてくされた橋姫の顔を映す。
「……誰?」
彼女は私を見て、小首をかしげた。
「ヤマメちゃんの……お友達?」
ぶっ、と私は吹き出しかけた。
あいつ、自分のことをヤマメちゃんなどと呼ばせてるのか。ありえん。
あとでこのネタで散々からかってやろう。橋姫に留守番を押し付けた報いだ。
「私は水橋パルスィ。パルスィさんと呼びなさい」
「…………」
「しょうがないから、ヤマメが帰ってくるまで三十分だけ、あんたの友達を演じてやるわ」
「…………」
「べろべろばー」
「……うふふ」
私はしばらく、予定よりも熱心に遊んでやった。
子供に笑顔を向けられた経験が、今までなかったから。
◆◇◆
私は水の音が好きだ。
これは冬が好きなのと違って、別に同意する者がいても構わない。
地下水が流れていく音を聴くと、心が洗われていく。誰かに教えたりはしないけど、それは偽ることのできない本音だ。
けれども絶対に勘違いしてほしくないのは、私は別に橋に立っているから橋姫ではないということ。
橋の側で過ごす時間が一番長いのは確かである。丸二日、無言で立ち続けてみたこともあった。
考えてみると、確かにこんなことをしている妖怪は他にはいないかもしれない。
ただし今日の私は、独りじゃなかった。
「誰も通らないねー」
「そんな日もあるわ」
残念そうな釣瓶落としに、私はそう言ってやった。
彼女、キスメがここに来るのは、今日が初めてではない。
さすがにヤマメの家で過ごす時間の方がずっと長いだろうし、私達も主にそこで会話している。
そして時たま、今日みたいに忘れた頃に彼女が顔を見せにやってきて、二人だけで過ごすことも稀にあった。
ただし、会話の内容はいつも薄っぺらい。
「ほんとに来ないねー」
「そんな日もあるって言ったでしょう」
「パルスィちゃんって冬でもこうしてるの?」
「そうよ」
「誰も来なくても?」
「関係ないわ」
「そうなんだ」
「………………」
「………………」
「………………」
「ねぇ、パルスィちゃん。お話してくれない?」
「そんなものは持ち合わせてないわ」
「じゃあ私のお話、聞いてくれる?」
「そんなものに興味がないわ」
「じゃあねー。ピザって十回言って」
「塩辛、つくだ煮、納豆、梅干し、たくあん、わさび漬けに山椒漬け。あとは何があるかしら」
「……せめて一回くらいは言ってよ」
「性格の悪い奴に、そんなお題を出しても無駄よ。だって性格が悪いんだから」
「じゃあ、また笛を吹いてくれない?」
「今日は持ってないわ」
「嘘つきー」
キスメは口を尖らせる。
私に冷たくあしらわれているというのに、一向に帰る様子がなかった。
何度追い払っても戻ってくる。学習能力のない子犬と変わらない。
これほど懐かれるようになった原因は一つしか考えられなかった。
彼女と出会ったばかりの時に、にらめっこであやしてやったからに違いない。思えば、余計なことをしてしまった。
「この前ね。ヤマメちゃんがパルスィちゃんのこと話してたよ」
「ああそう」
「うん」
「………………」
「………………」
「何で黙ってるのよ。なんて言ってたか話しなさいよ」
「え? お話聞いてくれるの?」
「まぁ暇だしね。暇だから聞いてあげるのよ」
「じゃあ話すね。ヤマメちゃんから聞いたんだけど」
「ええ」
「パルスィちゃんは、人様の短所よりも長所ばっかり注目しているところが、きずに玉だって」
「なるほどね」
私はうなずいて納得してから――般若となった。
「『きずに玉』!? あのアマ、今度会ったら目に物みせたる!」
「え、だ、ダメだよパルスィちゃん! 喧嘩しないで!」
「売られた喧嘩は買うわ。橋姫だって、やるときゃやるのよ。たとえ相手が自分より気が強くて馬鹿力で口が達者だとわかっていてもね」
「そ、そうかなぁ。パルスィちゃんの方が、ヤマメちゃんよりも悪口とか凄そうだけど……」
「あんたはあいつの本性を知らないのよ。私はあいつに口喧嘩と腕相撲で勝ったことがないわ」
「でもヤマメちゃんって、優しくて、お話も面白いし、物知りだよね」
「そういう学説もあるみたいだけど、私はノーコメント」
「みんなヤマメちゃんのこと頼りにしてるみたい」
「だったら、あんたもそんな妖怪を目指してみたら?」
「なりたいなー、でもパルスィちゃんみたいになってもみたいかも」
「………………」
一瞬揺らいだ心を覚られぬよう、私は川の流れに目をやりながら、平坦な声で言った。
「お世辞いうほど余裕があるのねキスメ。いつからそんなに増長したのかしら」
「本当だもん。だって、パルスィちゃんもカッコいいから」
「カッコいいんじゃないわ。カッコつけてるだけよ」
「どう違うの?」
「後者はただのやせ我慢。ほうら、そう思ったら見苦しくなってきたでしょう」
「えー、そんなことないよ。なんていうかなぁ、自分に厳しくて、我慢強くて、それにヤマメちゃんと同じで、困ってる時に助けてくれるし」
「助けてあげないわよ」
「そう言ってても助けてくれるのが、パルスィちゃんだもん」
「勝手に決めつけないでほしいわ。私になんて憧れなさんな。あんたは地底の未来を生きる妖怪なんだから」
「パルスィちゃんだってそうでしょ」
「私はいずれ、地底の遺物扱いされるのが関の山。それでも構わないけどね」
そう嘯きつつ、私は懐からいつもの道具を取り出した。
「あ、やっぱり持ってるじゃない」
「今思い出したのよ。性格が悪いからね」
「私は性格が悪くても、パルスィちゃんのこと好きだよ」
「性格が悪いのは否定しないのね」
「えっ……そんな……ごめんねパルスィちゃん。ごめんね」
桶の中でペコペコと頭を下げる釣瓶落としを見て、私は何だか肩の力が抜けていた。
本当に、地底に住む妖怪とは思えない。こっちが妬ましくなるほど、物事を素直に捉えている。
私は口元まで持っていった笛に、静かに息を吹き込んだ。
流水の音に意識を委ね、水車のように演奏を続ける。
ちらりと横目で見てみると、キスメは瞼を閉じて、私の吹く笛に聞き入っていた。
心の中で苦笑して、音を紡ぐことに集中する。
昨今の地底では、釣瓶落としの数がどんどん減っているようだった。
元々寿命の短い妖怪である上に、ここ数十年で井戸に捨てられる人間の子供がずいぶん減ったからだという。
すなわち、このキスメはヤマメが育てる最後の釣瓶落としの子になる可能性がある。
こんな大人しい彼女も、いずれ釣瓶落としの凶暴な性質に目覚めるかもしれない。
たとえその性質に溺れることがなくとも、己が一体どんな妖怪なのか、気付く時がくるだろう。
その時、ヤマメみたいな妖怪と、私みたいな妖怪。
地底の未来を歩む彼女は、どっちを選ぶのだろう。
答えはすでに出ているはずなのに、性根の腐った橋姫の私は、水っぽい演奏を続けながら、心のどこかで暗い期待を抱いていた。
『期待するだけでいいわけ?』
私は目を開け、笛を吹くのを止める。
川の下流に、ぼんやりと浮かぶ影があった。
「誰よあんた」
とりあえず、呼びかけてみる。
影と向き合ったまま、眠ったままのキスメを庇えるよう、その桶の前にさりげなく足を移動させながら。
『迎えに来たわ。水橋パルスィ』
私は訝しむ。
影の声が、どこかで聞いたような声だったのだ。
『貴方をそこから救ってあげる。だから、そろそろ私達に手を貸して』
「手を貸す? なんの義理があって? 私が助けてやってもいいのは、せいぜい二人だけよ」
きっと未来永劫、二人だけだろうと思いつつ、私は返事した。
一瞬だけ、最近一緒に笛を吹いた、一本角の鬼の姿を思い出したものの、すぐに除外する。
……ん? 最近? 最近とはいつのことだ?
「ああ……これは記憶じゃなくて、夢なのね」
この現実味のない雰囲気に、ようやく合点がいった。
私はよく、過去にあった出来事の夢を見る。
嫉妬の材料となる記憶を再生する場として。もしくは、ありもしない幸福を思い描き、起きて自らの境遇に苦しみ、嫉妬するための道具として。
我ながらねじくれているが、橋姫というのは、元来そういう妖怪なのである。
「で、人の夢にまで出張ってきたあんたは、一体何者?」
影は嗤ったようだった。
何か不吉な予感がする。キスメをもっと側に寄せようと、足元を見た私は……
「…………」
いつの間にか、桶が中身ごと消えていることに気付いた。
『そんな釣瓶落としは……貴方に相応しくない……』
「ふん」
私は思わず鼻で笑う。
「大きなお世話よ。誰だか知らないけど、とっとと消えなさい」
『そうはいかない……今の貴方を見ていると、反吐が出そうだわ。どうしてそんな日常を求めるの。橋姫なら橋姫らしい生き方があるでしょう』
「……はっ。おあいにくさま。私は一度たりとも、橋姫でよかったなんて思ったことはないのよ」
夢の中の私は、いつも正直者だった。
心に蓋をすることなく、思う存分言い返せる。
「いつも自分が卑しくて、蔑み続けてきたわ。嫉妬してなきゃ自分が保てなくて、他の奴らと打ち解けるなんてもっての外。こんな惨めで理不尽な生涯、割に合わない」
『…………』
「あんたはもしかして、嫉妬の神様? じゃあ訊ねるけど、どうして幸福らしい幸福を私に用意してくれないの。せっかくいい流れになって私が幸せのパンにありつけても、あんたは横からちぎり取って、台無しにしてしまう。私は耐えるしかない。泣くことも許されず、いつも涙を笛の音の中にしまってきた」
夢の中だから、正直になれる。夢の中だから、罪にはならない。
夢の中で、私は自由に思いを言葉にできる。
「まぁでも、こんな私でも仲良くしてくれる奴はいるけどね。橋姫じゃなくて、水橋パルスィにとっての幸せをくれる二人。あいつらは本当に地底の天然記念物に違いないわ」
『……予想以上に歪んじゃってるのね、貴方』
その自覚はある。
橋姫とは全く違う生き方にいつの間にか引き寄せられ、彼女達と過ごす安穏な時間に堕ちていってしまった私は、歪んでいるどころの話ではあるまい。
もし私が土蜘蛛だったら、あるいはキスメのような釣瓶落としだったら。
もしくは鬼か、なんでもいい、橋姫以外の妖怪だったら、こんなことで悩まずに済んだだろうに。
そんな風に嫉妬してしまうのも、やっぱり私が橋姫だからなのだろうか?
悩みはいつも堂々巡りのまま、時だけが刻まれていく。
川の上に浮かぶ影が、だんだんと大きくなっていった。
いいや。こちらに近づいてくるのだ。
影は痛ましげに、やはりどこかで聞いた声で私に語りかけてくる。
『貴方をその悩みから救ってあげる。だからそろそろ、私達の元に来たらどう? 本物の橋姫の貴方なら、誘わずとも私達の野望に力添えしてくれると思っていたのだけど』
「なんの話よ。さっきから気持ち悪い声で近づいてきて……。顔くらいなら見せたらどうなの」
『へぇ……私の顔が見たいのね』
それを聞いた瞬間、吐き気に近い、嫌な予感が働いた。
警戒する私の前で、影はどんどん大きくなる。
徐々にその奥に潜む者の顔が、おぼろげながら、見えてきて、
(24)
意識が橋の上から、固い地面に落下した。
背中に衝撃が加わり、肺から無理矢理空気を押し出される。耳鳴りと頭痛がリフレイン。
「げふっ」と品も可愛さもない声が、喉から漏れた。
とんでもない目覚ましを食らった私は、身を起こし、額に手をやって、左右に視線を動かした。
感覚野が拾っていくのは、橋の下の川ではなく、見慣れた我が家の寝室でもなく、動き回る鬼の群れだった。
白いマスクをした治療師らしき鬼が歩き回り、担架を運ぶ鬼達に指示を出している。
床には私と同じく、敷かれた茣蓙の上で体を横たえている妖怪がたくさんいた。
雰囲気から察するに、ここは何か負傷者を手当てするために設けられた、緊急の避難所らしかった。
それにしても、ひどい建物だ。鉄骨らしきものを組まれて造られていて、壁と入口の境界がなく、屋根があるだけマシ、といった代物である。
鬼らしいといえば鬼らしい。衛生管理なんてろくに頭にないのだろう。
私――水橋パルスィは徐々に、意識を失う前の記憶を取り戻していった。
旧都で起こった謎の異変。その原因を確かめるために、旧地獄街道を南に向かっていたその途中で、上からいきなり大岩が降ってきて、押しつぶされたのだ。
道理で体の節々が痛いわけである。……いやいや本当に潰されたのであれば、そのくらいで済むはずがない。
確か潰される前に、側にいた勇儀に突き飛ばされたんだった。
直後に大岩に向かって放たれた弾幕の光景も脳裏を過ぎる。
それ以上は思い出せなかったが、きっとあいつが身を挺して助けてくれたから、私は無事だったのだろう。
という推理を終え、ここにいない鬼のことを少し見直した。
そして、あいつがここにいないという事実を改めて認識し、慌てて自らの喉に手をやる。
「うっそ……」
まだ私の首には、万本綱がはまっている。
けどもう一方の先で同じように縛られているはずの勇儀がいない。ついに解けたのだ!
ナイスフリーダム、って喜べばいいのだろうか。どうせ解けるなら昨日解けてほしかった。
せっかく今朝から慣れてきた気もしていたのに……ないないないないない。
胸中に浮かんだ奇妙な感情を全力で無視して、私は頭を働かせた。
一体いつ、どうして外れたのか。あの大岩が乱麻堂の真上から降ってきた時か。
そもそも、あれから一体何がどうなってここに自分がいるのか。大体ここは旧都のどこだ。
「ねぇ、ちょっと!」
忙しそうに歩き回っていた鬼に尋ねるため、私は声をかけた。
その鬼はこっちを見るなり両目を吊り上げ、乱暴な口調で、
「なんだ起きたのか! ならさっさとそこをどくか、今すぐ手伝いをしろ!」
「はぁ!?」
「お前は気絶してただけだ! 軽傷だ! けどここはまだまだ、くたばりぞこないが運び込まれそうなんでな! 橋姫風情に場所を用意してやってるだけありがたく思え!」
なんて言いぐさだ。私は今、意識を取り戻したばっかりなんだぞ。
鼻息を荒げながら、無礼な鬼の後頭部に投げつけるものがないか探して――ふと思いとどまり、私は自分の顔に触れてみた。
ミズメの面が取れている。身に着けていた外套――所々が擦り切れていた――の中や、茣蓙の周囲を探ってみても、見つからなかった。
あれがなければ、ただの橋姫として扱われるのも無理はない。
第一、鬼というのは弱者にとことん冷たい種族だ。
普通のことなのだが、昨晩まで鬼ヶ城でちやほやされていたために、感覚にずれが生じているようであった。
とりあえず私は、建物の外へと出て、現在の位置や状況を確認することにした。
鬼達は忙しそうだったし、負傷者に訊ねるわけにもいかないし、たった今「さっさとどけ」と言われたのだから文句はないだろう。
倒れた負傷者の間にある細い道を通って、壁に開いた穴の一つから外に出る。
表には『第六避難所』と描かれた標識が立っていた。
自慢じゃないが、旧都の地理には全く明るくない。でもとりあえず、鬼ヶ城の天守という、もっとも目立つ建物を見つけたことで、大体の位置がわかった。ここからの離れ具合を見ると、今いる場所は旧都の北部らしい。
もう少し行けば艮坂に着く辺りだろう。乱麻堂は遥か南側にあるので、そこからここに何らかの手段で運び込まれたらしい。
私は再び、久しぶりに触れる自らの首に手を当て、考え込んだ。
万本綱がどうやって外れたのかも気になるが、その後勇儀がどうしたのかも気になる。
あの落石で、私だけが無事で、勇儀の方が助からなかったとは考えにくい。
とすると、ここに自分を運んだのは勇儀だろうか。
いや、それはない。
綱が外れた後でも、あいつなら鬼ヶ城に自分を預けるだろうし、配下の鬼にもそう頼むだろう。
私は横目で、今も次々と避難所に担架に載せられた妖怪が運ばれてくるのを確認した。
おそらくああやって私も救助されたのだろうが。
突然、地面がぐらぐらと揺れ、背筋が寒くなった。
喧燥を縫って、耳に遠鳴りが届く。方角は南西。
旧都の異変は、まだ終わっていないらしい。となれば、勇儀の居場所については容易に想像がついた。
あの鬼のことだから、とっくに現場へとたどり着き、解決に動いているに違いない。
しかしあれからどれくらい時間が経過しているのか。地底最強の鬼が苦戦しているとなると、いよいよただ事ではなさそうだ。
現場に向かって、勇儀と合流するべきだろうか。
綱が外れた今、協力する必要がなくなったのも確かだが、何となく放っておくのも忍びない。
一方で、また体調を崩してお荷物になるのではないか、という懸念もある。
私はそれよりもいい案を思いついた。鬼ヶ城にいるであろうヤマメと合流するのだ。
こんな時に相談する相手としてはうってつけだし、キスメの安否についても気がかりだったから。
私は北に向かって急いで飛ぶことにした。
が、鬼ヶ城へと続く艮坂にたどり着かないうちに、検問にぶつかった。
街道に立つ鬼の兵卒らが、すかさずこちらに槍を向け、
「貴様! どこへ向かうつもりだ! ここから先は鬼以外立ち入り禁止だ!」
「鬼ヶ城よ! 大事な話があるから、ここを通らせて!」
鬼達の表情が一瞬固まり、
「できるはずがなかろう! この非常事態にふざけたことをぬかすな、穴暮らしが!」
ああそうだろう。一介の橋姫がこの非常事態に鬼ヶ城に向かいたいなど、気でも狂っているとしか思えまい。
槍の穂先で突き返されながら、私は舌打ちする。
昨晩羅刹の間に出入りしていた鬼なら話が通じるかもしれないのに。
いや、やはり『ミズメ』に戻らなくては彼らにも信じてもらえず、同じ扱いを受けるだけだろう。
それにあの時の自分も相当酔っぱらっていたため、ほとんどの顔が思い出せない。
この状況では、勇儀かヤマメになんとかコンタクトを取るくらいしか手段が取れそうになかった。
あるいはせめて、誰か知っている顔が近くにいれば……。
「こらー! そこ! 何で指示通りに動かないのよ、あんぽんたん!」
何やら場に相応しくない、舌足らずな声が聞こえた。
見れば、辻の真ん中で鬼の小娘が、六角棒を振り回しつつ指示している。
道行く妖怪に命令を下していることから、上位の鬼であることが分かるが、はっきりいって全く貫録がなく、なんだか口を与えられた桃饅頭が威張ってるようにも見える。
しかしながら私は、穴の開くほどその光景を見つめてしまった。
まさかこのタイミングで見つかるとは、天の導きとしか思えない。
咄嗟に駆けだそうとして……回れ右をする。
避難所の中へと戻り、先程の無礼千万な鬼に再び声をかけた。
「ねぇあんた」
「なんだ、またお前か! 忙しいんだから話しかけるな」
「私の持ち物を知らない? こんな形をした赤い……」
必死に説明しながら、その在り処を問い詰めようと試みる。
話を聞き終えた私は、すぐに裏手にある焼却炉へと猛ダッシュした。
◆◇◆
「いいよー運んじゃって! まだあっちの建物は空きがあるから!」
鬼ヶ城の一員である杏魅は、旧地獄街道三番通りで、避難誘導をしていた。
宴会の時と違って、青色の忍装束に近い服装を身にまとっている。さらに鬼の代表的な服飾品である鉄輪を手首にはめ、軽く戦化粧を施して、ばっちり決めていた。
本来は彼女も、使われる立場だ。けれども上の鬼達がほとんど出払ってしまったことにより、繰り上がりの形で、この立場を任されたのであった。
しかしながら杏魅は全く嬉しく思っていなかった。むしろ、ご機嫌斜めである。
やっていることはただの交通整理で、六角棒をあっちやこっちに振って流れを指示しているだけなのだから。
「ん!? ちょっと~!」
杏魅は両眉を吊り上げ、いきなり通りを横断してきた担架を運ぶ集団を見咎めた。
他の救助隊と進路が重なって、危うく団子になるところである。
「何勝手なことしてんの! あんた達どこのグループ!? どっから来たの~!?」
「南側の負傷者です! 中央部の避難所ではもはや危険と判断されたので、ここに収容するという指令がありました!」
「うげ」
思わず呻く。
それはすなわち、旧都の防衛線が大きく北に後退したことに他ならない。
結界を破って、敵が侵入してきたのだ。四天王敗北の報せの信憑性が高まった。
「まー仕方ないわ。いいわよ、こっちの道から運んじゃって」
「へい!」
伸ばした六角棒の方向に、えっさ、ほいさと鬼が次々に担架を運んで行く。
とそこで、街道を飛んできた別の鬼が、杏魅の元に着地し、
「ご苦労さん!」
と声をかけてきた。伝令役の同僚である。
「もう指令は届いてるか? これから南側の負傷者がここらにもなだれ込んでくるぞ」
「そうね、でもまさかこんなにいるなんて……」
「怨霊の傷は癒えにくいからな。場所によっては水害も収まってないようだし、きっとまだ増え続けるだろう」
「う~、やんなるなぁ、もう。こんなの柄じゃないよぉ」
杏魅は泣き言を口にした。
本当であれば、自分も上の鬼達に混じって、南の戦場へと向かっていたはずなのである。
勇儀様が敗れた。
その一報が届いた瞬間、鬼ヶ城周辺は混乱のるつぼと化した。
戦いにいけと言われたり、住民を避難させろと言われたり、指揮が乱れに乱れる有様。
杏魅の所属していた小隊にいたっては、紐が切れて坂に落ちた数珠のように、バラバラになりながらも黄泉比良坂へとまっしぐらに走り出したのである。
杏魅もまた、その最後尾についていた。何しろ、あの勇儀様が討たれたというのだ。
それが真実であろうと誤った情報であろうと関係ない。大将が敗れたと聞けば、是が非でも仇討に向かいたくなるのが鬼の性である。
けれども、即座に伝えられた副首領の命令がそれを許さなかった。
直属の部隊が散り散りになってしまったため、新たに部隊が設置され、杏魅に臨時隊長のお鉢が回ってくることとなったのだ。
というわけで今は不承不承、救助活動の誘導に専念していた。
柄じゃない。こんなのが柄だったら、鬼失格である。
怪我をするのは自らが弱いからであり、受け入れて然るべき。それが旧都のルールだったはず。
何だって今になって、彼らを助けなければいけないのだろうか。
「それと、いい報せか悪い報せか、わからんがな……」
同僚が苦い顔で報告してくる。
「戦況が危うくなってきている予感がある。そうなったらいよいよ、俺たちも戦闘だ」
「闘うのは歓迎だけど、それって上の鬼がみんなやられちゃった時だよね。ちょっと気が滅入るなぁ。なんか他にいいニュースないの?」
「俺が聞きたいくらいだ。悪い噂なら山ほどあるぞ。戦地に赴いた城の鬼達はもう全滅したとか、勇儀様の肉体が怨霊に憑かれて暴走してるとか。どれもこれも南から逃げてきたり、怪我人を運んでくる奴らが動転してのたまってることだけどな」
「なるほどね。どうせなら騒ぎが収まるまで、大人しく倒れて口を閉じてくれてるといいんだけどね~」
人間であれば不謹慎な発言に顔をしかめるところであるが、鬼に限ってはこれが平常である。
ただこの状況でそれを口にできるこの娘も、ある意味肝が据わっているといえよう。
同僚が「そういえば……」と何か思い出すように、斜め上に目をやりながら、
「いいニュースというか笑えるニュースだが、乱麻堂の瓦礫の下敷きになってた橋姫がいたそうだぞ」
「ぷっ、なにそれ、よく見つけて連れてこれたわね」
「近くを通りかかった鬼の衆が、偶然はみ出た体を発見したそうだ。五寸釘みたいに瓦礫に頭から突っ込んで、足をぴんと伸ばしてたらしい」
「あはは、冗談でしょいくらなんでも」
「嘘は吐かないぜ。おそらく旧都の外に住む奴だろうが、放置するのも寝覚めが悪かったんだろう」
「ふぅん」
よっぽど悪運が強かったのね、と杏魅は述べておいた。
あいにく多くの鬼と同じく、彼女は橋姫の素姓などに興味は湧かない。まぁ助かったのならおめでとう、くらいのものだ。あとは一服の清涼剤となる笑いを提供してくれてありがとう、とか。
そういえば、比良坂に現れた巨大妖怪を操っているのは橋姫だという話も聞いた気がするが、そんな笑える噂まで流れてくるのだから、いよいよ旧都も大変なことになっているのだろう。
「んじゃ、俺は別の隊のところに行ってくる。しっかりやれよ」
「今度はいい報せか、差し入れの酒持ってきてね~」
去っていく同僚をそう見送ってから、杏魅は避難の誘導に戻った。
ここで何か、持ち場を放り出すいいきっかけみたいなのが来ないかな~、と不埒なことを思い浮かべて。
「杏魅」
「うぇえ! サボってないわよ!」
背後から呼び捨てで名前を呼ばれ、杏魅は慌てて振り向き、
「…………へっ? えっ、えええええ!?」
悲鳴を上げ、腰が抜けるほど驚愕した。
何しろそこに立っていたのは、『赤い面をつけたマント姿の鬼』。
すなわちあの星熊勇儀の盟友、ミズメだったのだから。
「ど、どうしてここにお姉様が!? 私、お姉様はきっと南側に戦いに行ってると思ってました……!」
「ちょっとドジを踏んじゃってね」
ミズメは気だるそうに肩をすくめる。
相変わらず、鬼には珍しいくらいクールな仕草だ。グッとくる。
「あの化け物の攻撃で瓦礫の下敷きになってたの。そこの避難所で手当を受けていたのよ」
「さすがミズメお姉様! 不死身の生命力ですね!」
杏魅は指を組んだ手に渦巻きほっぺをすり寄せて、褒めながらはしゃいだ。
思いがけず一対一で話せる機会が巡ってきたことが嬉しくてたまらない。
「それより、私が意識を失ってた間の状況について説明してほしいのだけど」
「えーと、それっていつからですか。というか私もずっと北側で働いていて、南の方は噂話くらいしか情報が回ってこないんですよ。特に、巨大妖怪に勇儀様が負けたっていう話が流れてから、こっちは本当に大変で」
「巨大妖怪!? 勇儀が負けた!?」
「それも聞いてなかったんですか!? 他にも、色んな噂がありますよ。南に向かった城の鬼達が全滅して生首が陳列されてるとか、勇儀様が怨霊に憑かれてスーパー勇儀になって暴れてるとか。この事態を引き起こしたのは橋姫だとか」
「は、橋姫……!? それ本当なの!?」
ミズメの驚きぶりは、音のない雷撃に打たれたようだった。
勇儀が負けたという一報については、彼女は綱を結び合っていた仲なのだから、さもありなんとうなずける。
けれども、橋姫という情報を受けて、なぜかミズメがさらに驚いたことが、杏魅には不思議だった。
どう考えても他の噂の方が凄味があるのだが。
「本当かどうかは、わかりませんよ~。っていうか絶対ありえないですって。だって同じ鬼ならともかく、橋姫ですよ?」
「ま、まぁそうね。ありえないわ」
「とにかく、南でまだ戦闘が続いてるのは間違いありません。時々こっちにまで震動が……」
言い終わるよりも早く、地面が大きくぐらついた。
南を向く杏魅の胸が高鳴り、口元まで笑みが込み上げてくる。
よほど激しい戦闘が繰り広げられているのだろう。鬼の血がうずいて仕方ない。
「ね~ぇ、お姉様。これからまた南に向かうんですよね? よかったら叔父上を説得して、私も連れてってくれたら、ってええ!?」
顔を戻した杏魅は飛び上がった。
ミズメが地べたに倒れ込んでいたのだ。
「お、お姉様!? どうしたんですか!」
「聞こえる……聞こえるわ……」
「いや、そりゃあ聞こえますよね。あんなに大きい音なんだから」
「違うの……声が……声が……!」
「ちょちょちょっと、お姉様!」
あまりの事に、杏魅はうろたえるしかない。
ミズメが面に指を這わせ、呻き声を上げて地面を転がりはじめたのだから。
まるで狐憑きのような急変ぶりである。
「おーい! 大八車が衝突したぞー! 誰か手を貸せー!」
「こらぁそこの小娘ぇ! しっかり仕事しろー!」
「ああもう、うるさいなぁ! 今大変なんだから勝手に動いてなさい!!」
投げつけた六角棒が、文句を言ってた鬼の頭に命中する。
騒ぎがさらに大きくなっていたが、杏魅はそちらに背を向けてシカトし、ミズメの側に屈みこむ。
「お姉様! しっかりしてください! お姉様!」
「あんたは……一体……」
「杏魅ですよ杏魅! 忘れないでください!」
「誰なの!?」
ミズメが地面に向かって、悲鳴をぶつけた。
「どうして『私の声』で呼ぶの!? 一体誰!?」
◆◇◆
『私は貴方だからよ。水橋パルスィ』
正体を現した『橋姫』は可笑しそうに答えた。
私の声と気味の悪いくらい似たトーン。そして川の上に浮くその姿は、私と全く同じ外見だった。
これは一体、何の悪夢なのだろう。
『早くこっちに来なさい。橋姫の本懐を遂げさせてあげる』
「本懐……!?」
橋の上に立つ私は、身を引いて言った。
「何の話よ! 未来永劫救いようのない橋姫に、そんなもの存在しないわ!」
『いいえ、忘れてるだけ。それが貴方の夢。そして、この子の願いでもある』
その橋姫は愛おしそうに、抱きかかえているものに頬を寄せる。
汚泥と混ざった毒の霧のような、黒々とした影の塊に。
『ふふふふ、この子は今、とびきり素敵な夢を見ているわ。貴方も見てみたくない?』
突如、私の瞼の裏に、橋姫が送り付けてきた光景が流れ出す。
岩で造られた山のように大きな怪物が、旧都の端で暴れていた。
その足元にいる鬼達を、彼らを遥かに上回る圧倒的な力と怨霊の呪いで、虫けらのように駆逐している。
噂には聞いていたが、実際に映像を目にしてみると、まさしく化け物の中の化け物としか言いようがない。
そして『私』もいた。
化け物の頭に乗り、怨霊達を従えているその橋姫は、今話している橋姫と同一の存在だとわかった。
そこに映る彼女もまた、やはり私、水橋パルスィと同じ姿をしていた。
言葉にならぬ衝撃を受ける。今起こっている映像よりも、その奥にある『原理』に戦慄した。
『わかったでしょう。貴方にはわかるはず。この最強の妖怪、堕威陀羅の力の源が』
その通りだ。分かる。分かるけど、そんなことがあり得るのだろうか。
この異変の正体が、ただの怨霊でも、ましてや水神でもなく、まさかそんなものだったなんて。
本懐という意味も、ようやくわかった。こいつは一体……なんてことをしでかそうとしているのだ。
『それは、この子のおかげ。この子が私達の元に来てくれた。私はこの子の夢の手助けをしてあげている』
「誰よこの子って!」
肝心なことを話さぬ橋姫に、私は疑問を叩きつける。
「あんたは誰なのよ! 私の姿で暴れまわるのはやめて! 大迷惑よ!」
『まだわからないの? 私が何者なのか、私達が何者なのか』
「貴方……達……」
橋姫の体が、抱きかかえた影と共にとろけはじめ、崩れていく。
『早く混ざってきなよ……待ちきれないよ……ね? ……ちゃん……』
まさか……嘘でしょ……そんな……貴方は……。
◆◇◆
「……メお姉様! お姉様ってば!」
その声に起こされ、私はようやく、杏魅に揺さぶられている自分に気が付いた。
またもや気を失っていたらしい。
「うわごとを呟いてましたよ。声が、声がって」
「……ええ」
私はうなずいた。
今はもう、耳は正常に戻っている。もう一人の自分の呼び声は聞こえてこなかった。
伝えるべきことは、伝え終えたということかもしれない。
そして今、私には何が起こっているのか、『全て理解できた』。
遠くにいる巨大な怪物の正体が。自分を待っている声の正体が。
そして、敵の真の目的までも。
「大変だわ」
急いで勇儀に……いや彼女が今動けないなら、鬼達の上層部に伝えなくては。
事は一刻を争う。これはもはや、旧都だけの問題にとどまらなくなっている。
だが同時に思う。
本当に私がやろうとしている行動は、正しいのかどうか。
橋姫の本懐……その言葉が心に重くのしかかっている。あいつが言っていることは、間違っていないのではないか。
「…………そうよね」
天秤に乗ったものの重さの割に、思いのほか決断を早く下せた。
「杏魅。今、鬼達に指示を出しているのはどこのどいつなの。鬼ヶ城に行けば会える?」
「え、作戦本部なら、鬼ヶ城の本丸じゃなくて、側の二の丸にあるって聞きました」
「大至急、案内して」
鬼の両肩を掴んで、私は懇願する。
身震いする杏魅の顔は上気しており、すでに持ち場を離れる決意と、溢れんばかりの悦びが宿っていた。
(25)
黄泉比良坂の大異変が起こってから、約五時間が経過している。
力の勇儀の片腕であり、対策本部の責任者である左近は、同じ城に住む角を持つ同輩ではなく、地霊殿の主であるサトリ妖怪、古明地さとりと共に作戦を練っていた。
「避難経路は確保できた。今一度聞くが、敵が目指しているのは鬼ヶ城ではなく、旧都の中央街なのは間違いないのだろうな」
「信用してください。我が地霊殿にある灼熱地獄跡には怨霊の噴出孔があります。敵の狙いがそこだとすれば、今後危ういことになりかねません」
「では、朱雀街全域に兵力を集結させよう。小規模の結界を張り直すことができれば尚よいが、あいにく東西の管理所と連絡が取れなくなっている。それができれば、術は今からでも間に合うだろうが……」
「白虎街を警備する第七班と八班はまだ『心』が保たれています。落ちた西棟の管理所には、そのどちらかの隊を向かわせればよいかと。東棟は通信機が壊れているだけのようです。遣いの者を数名出せば……」
よどみない会話を続ける一方で、左近の胸中にある使命感が、ある種の違和感としのぎを削っていた。
旧都の戦力は、作戦本部を設けた当初よりも大幅に減退している。
城の重鎮や実力者達が指揮系統から離脱し、残っている手駒が若い鬼だけなので至極当然である。
しかしながらその分、組織としては上手く回っていた。
彼らはいずれも左近のことを敬っており、逆らえるほど強くもない。
故になまじ力のある鬼よりも、命令を素直に聞くし作戦を立てやすい。
船頭多くして船山に登る、とはいうものの、初めは空きが多くなったこの部屋に多少なりとも心もとなさを覚えていた左近も、今はむしろ清々していた。
違和感というのは別のことだ。
今回不本意ながら手を結ぶこととなった、古明地さとりについてである。
その能力には、舌を巻かざるを得ない。彼女は敵だけではなく、全軍の行動はおろか士気までも、報告抜きで的確に把握してしまうのだ。
よって左近は通信を用いて、こちらから一方的に部隊に命令を下すことが可能となり、迅速な作戦変更も軽々と行うことができた。
もはやこのサトリ妖怪は、頭脳の下で完璧な補佐を約束する脊髄のごとき参謀となっている。
さらに、彼女はここに来てから私情を一切挟もうとせず、淡々と左近に協力していた。
勿論表向きの態度ではあるのだろうが、己の家族であるペット達の敗北を耳にしても、眉ひとつ動かさなかったのだ。心を読む妖怪の精神は、鋼鉄の要塞で守られているらしかった。
味方の力に畏怖しながら――そしてその畏怖も読んでいるはずである――左近は腕比べとはまた異なった高揚感を覚えざるを得ない。
しかし戦況は相変わらず、芳しくなかった。ひとまず、被害を最小限に食い止めるための避難の指示は完了していた。敵の進軍を阻み、粘る算段の方もできている。
が、それでも勝ちに結びつく明確な道が見えてこないのだ。
「じり貧だな」
「……ええ。時間稼ぎはできていますが、敵が何かつけいる隙を見せない限り、このままでは食らいつくことはできても、倒し切ることができません」
さとりも気付いている。
敵のねらいや明確な弱点がはっきりしない以上、今まで打ち立てた策は旧都の延命措置にしかならない。
それに加えてこの地底では、外からの増援を頼みにすることができない。
なんとか、この状況を一手でひっくり返す手段が見つかればよいのだが……。
左近は横目で、奥にある葛籠をねぐら代わりにしている付喪神の方を見た。
彼女は一時間ほど前から、眠りに落ちている。
細部が異なっているとはいえ、それは左近にとって、記憶を呼び覚ます光景だった。
今、あの力の後継者は一体どんな夢を見ているのだろうか。いつ目覚めるかは分からないが、あの式神の手で臥姫の最後の予言が完成した時、それがこの苦境を救う道標となるかどうか。
「叔父上~! 入るよ~!」
その声に思索を乱され、左近はこめかみを引きつらせた。
この非常事態に何たるふざけた態度か。たとえ部外者であるさとりの前であっても、拳骨一つで済ますわけにはいくまい。
左近は会議室に現れた彼女をギロリと睨みつけ……
……その背後に立つ妖怪を見て、さらに片目を見開き、髪の毛を逆立てた。
「貴様!?」
巨体が風のように動く。
迸った殺気を追いかけ、拳が唸りをあげて『橋姫』の姿に迫っていく。
寸前。
空気を広範囲に弾き飛ばしながら、拳の軌道は斜めにそれた。
轟音と共に、罅が入る間もなく、部屋の壁の一つがただの横穴に変わり果てた。
「ちょっと叔父上!?」
左近の突きを弾いたのは、橋姫の傍にいる杏魅だった。
尻もちはついているが、彼女も鬼の端くれである。怒りに任せた左近の一撃を、ギリギリで捌いていた。
「何すんのよいきなり! 痛いじゃない!」
「どけ杏魅っ! そやつこそがこの騒ぎの元凶なのだ!!」
「ええ!?」
杏魅は目の前で仁王と化している鬼と、後ろで自分と同じく尻もちをついた妖怪を見比べる。
妖怪が立ち上がりながら呻いた。
「ったく……だから鬼は嫌いなのよ」
拳圧で外れかけた面に手をかけ、彼女は素顔を顕にする。
杏魅は驚きのあまり呆然となった。
「はし……ひめ?」
呟く彼女の方を見て、『ミズメ』は微笑む。
その妖怪特有の、緑色に輝く瞳を向けながら。
「昨晩あんたは嫌いだって言ってたわよね。そいつの言う通り、私は橋姫よ。軽蔑した?」
旧都の若い鬼の両目に、一瞬、怒気が流れ込む。
叔父に変わって、その拳を振るわんとする気配が、室内に流れる。
けれども彼女は、炎を浮かばせた目を、ぎゅっと閉じて言った。
「……あの宴で、勇儀様に膝をつかせることができた御方を、軽蔑なんてできません」
「あっそ。まぁ、どっちでも構わないけど」
「なんで隠してたんですか! それに、お姉様が犯人って一体……!」
「どういうことなのですか……?」
その声は杏魅のものではなかった。
奥にいた古明地さとりが、驚きを顕にして、椅子から腰を浮かせている。
「貴方は一体、何者?」
彼女がここにきて、その鉄面皮を崩したのは、はじめてのことであった。
パルスィはそちらを向いて言う。
「ちょうどいいわ。あんた、サトリね」
「……ええ、そうです」
「私が嘘をついているかどうか、あんたが判定しなさい。そうすればこの鬼も少しはまともに聞く姿勢になるだろうから」
「なるほど、大した胆力をお持ちのようで」
さとりが皮肉を添えて、冷静に評する。
心を読まれることを恐れる妖怪ばかりの地底で、ここまで大胆に交渉を持ちかけてくる者は普通いない。
橋姫は改めて、鬼の副首領と対峙した。
「今旧都で暴れてる、巨大妖怪。あれは私が関わっていなくもないわ」
「ぬけぬけと……貴様があの化け物を操っておるのだろうがっ!」
「それは違います」
「何!?」
「この橋姫と、あの怪物を誘導しているのは、別の存在です。なぜなら一方は、いまだに旧都の南にいる。その心を感じます」
断言するさとりに、左近は困惑していた。
己の頭では、彼女がこの状況で嘘をつく利点がすぐに浮かばなかったのだ。
さとりが訝しげに眼を細める。
「けれどもなぜ、あの橋姫は貴方の姿をしているのですか」
「それはね。あれは私の『鏡』だからよ。サトリ妖怪でも暴けなかったのは、意外だったわ」
「なんのことだ」
「今はそっちは置いておく。問題はあの橋姫じゃない。彼女が従えている大妖怪の方」
突然、水橋パルスィの様相が変わった。
二つの緑色の炎が鋭く伸びて、左近の片目の奥まで射抜く。
「それを作り出したのは、あんた達も同然だってことを教えてやりにここに来たのよ。鬼の副首領」
再び部屋に緊張が満ちていた。
怒りにとらわれていた鬼に代わり、橋姫から怒りが立ちのぼっている。
「そして古明地さとり。あんたも同罪。あれはこの旧都に住む妖怪全員の産物ともいえるからね」
さとりはそう矛先を向けられても、何かを言い返そうとしなかった。
ただ両目を閉じて、細い息を卓の上にこぼし、
「……そういうことですか」
と囁くように言った。
諦観と憐憫が混ざり合ったような、疲れた声だった。
左近にはまだ分からない。無論、杏魅もである。
「……地底がどれくらい広いか、鬼の貴方達は考えたことがあるかしら」
語り部が部屋の中心まで、一歩ずつ足を進める。
そこにある円卓には、旧都の全体図が広げられていた。
「地底はね。地上にある妖怪の楽園よりも、ずっと広い。この旧都一つじゃおさまりきらないほど広い世界。当然、妖怪もそれだけたくさんの数がいた。橋姫に土蜘蛛、釣瓶落とし。そんなものは僅かな割合に過ぎない。地上の者達に忌み嫌われた、ありとあらゆる妖怪が住んでいたわ」
パルスィは地図の側に立ち、それを見下ろしながら、淡々と語る。
「けどその数は今や、旧都に住む妖怪よりも少ない。なぜか知ってる? 全て野垂れ死んで、怨霊に身を落としたからよ」
怨霊、という言葉が発せられた瞬間、部屋の温度が下がった気がした。
橋姫の独白のような昏い語り口にも、左近は言いしれぬ寒気を感じていた。
「そいつらはみんな、旧都に憧れていた。地上で受け入れられない自分達に用意された、新しい楽園だと、この都に希望を抱く者が多かった。そして、鬼に追い出された。鬼は狂いを許容しても、弱さを許容できない。そうよね」
「………………」
「排斥された妖怪は、旧都の灯を遠くから眺めながら、狂おしいばかりの渇きを覚え続けた」
地底は妖怪にとっても、生きるのに楽な世界ではない。
病や呪いが蔓延り、怨霊も当然のごとく脅威となり得る。
だが、地底が苦界である決定的な要因は、「人間がいない」ことに他ならなかった。
人の肉体はおろか、魂でさえ地底を彷徨うことは少ない。けれども妖怪は人間と関わりを持つことで、自らの存在を保つことができる。
鬼の都である旧都もまた、その恩恵を受けているのだ。なぜならそれは、臥姫という一人の人間の意思を元に築かれた都だからである。
彼女が旧都にもたらした消えることのない灯は、追い出された地底の妖怪に、あまりにも眩しく映った。
「旧都に対する、そんな仲間外れ達の積年の『妬み』、怨念こそが、あの妖怪の正体よ。水の気を大量に含んだ大岩は、それを溶媒にして怨霊と化した地底妖怪達をたっぷりと吸収した。そして今借りを返すため、ああして暴れまくってるってわけ」
左近は無言のまま、さとりの方に目線で確かめる。
彼女は顎をわずかに下げ、少なくともこの橋姫は、嘘を吐いていないということを認めていた。
パルスィが引きつった笑みを浮かべる。
「反省なんて、できないでしょう?」
「なんだと……」
「鬼は己の強さが、全て正しいと思ってる。弱い者は滅ぶのが当然だと思っている。そんな傲慢な心が、あれを生んだのだから。結局鬼は鬼をはじめとした強者のための楽園しか作れなかった。それが今、過去に捨てた弱者の亡霊に、強者の理念を振りかざされて、滅ぼされようとしてるんだから、皮肉な話よね」
「貴様……ここに説教をしにきたのか」
「ふん、説教の一つでもしたくなるわ。この私が言ってやるまで誰も気が付かなかったことを、少しは悔いなさい。そしてあの世にいる例の巫女のかわりに、そっちの付喪神にも謝り倒すことね」
左近を見据えたまま、橋姫は指で臥姫の式神を示す。
「彼女の主人が予言してから七十五年の間、あんた達は自分達の生き様を省みようとしなかった。もしその間に過ちに気付いていれば、あそこまで怨霊が増え、強大になることはなかった。きっと予言した巫女は、本当は自分の予測が外れてほしかったんでしょうよ。あんた達が変わってくれることに、一縷の希望を抱いていたのかもしれない。でも現実は彼女の言うとおりになってしまったわ。この都にいる奴らの驕りのせいでね」
容赦のない言葉に対し、左近は言葉で逆らう術を持っていなかった。
たとえ拳を用いても、この呪詛を退けることはできない。その行為こそが、橋姫が糾弾した行いそのものなのだから。
静聴していた当事者の一端が、無感情な声で口を挟む。
「貴方は、あの橋姫の企みが分かっているのでしょう、水橋パルスィさん。それとも、この場で説明せずに一人であの場に行くつもりですか」
「何?」
左近が振り向き、さとりの方を凝視する。
「それはどういう意味だ古明地」
「あの怪物はやはり我々の懸念通り、暴れる以外の能を隠していたということです。あれが百年分の怨霊を吸収した岩だとすると、それは巨大な爆弾に等しい存在です。解放されれば旧都は呪い尽くされ、妖怪の住めぬ都に……いいえ、それ以上のことが起こってしまうかもしれません」
杏魅が口に手を当てて青ざめていた。
能天気な彼女であっても、たった今どれだけ恐ろしい事態が進行しているのかを理解したのだ。
都の存亡を賭けて戦っている左近にいたっては、言うまでもない。
パルスィは浮足立つ鬼をせせら笑い、
「そういうこと。あいつの……私の姿をした橋姫は、あの巨人を暴れさせるだけで気が晴れるなんてことはないわ。旧都の中心部にある灼熱地獄跡で、さらに怨霊を取り込み、爆弾を破裂させて、徹底的に鬼達を滅ぼすのが目的。もちろんあんたの家も例外じゃないわよ、サトリ妖怪」
「迷惑な話ですね……」
さとりは煩わしげに言った。
敵の目的が地霊殿の建つ灼熱地獄跡だという予想は正しかったものの、引き起こす災害の規模は、想定の範囲外だったのだろう。
今の話が実現すれば、被害は地底だけにとどまらない。おそらくは、地上の幻想郷も。
「私はこれから、あれと決着をつけにいくつもり」
橋姫の口から、冷笑が消えていた。
「だから、あんた達は兵を引かせなさい。これ以上攻めを繰り返しても、無駄な犠牲を出すだけだろうから」
ぎり、と左近の奥歯が噛みしめられた。
落石のような唸り声が、喉から漏れ出る。
「貴様には、止める策があるというのだな……」
「さてね」
「申せ」
「申せですって? 偉そうな態度ね」
「頼む!!」
左近はその場に両膝をつき、角を垂れた。
「望めばこの首を差し出してやろう! 地に頭をこすりつけてもいい! それで満足なのだろうお前は!!」
「お、叔父上!」
「止めるな杏魅!」
駆け寄ろうとした鬼の娘が、その一声で制される。
ただし左近の行動に驚いたのは、彼女だけではなかった。
「鬼が橋姫風情なんかに、頭を下げてもいいわけ?」
「鬼を舐めるなよ、水橋パルスィ」
頭がわずかに持ち上がる。
黒い髪の毛の間から火を封じ込めた紅玉が、パルスィの視線を正面から受け、跳ね返す。
「貴様は知らぬだろう。鬼がこの旧都をどれだけの心血を注いで造り上げたかを。貴様ら浅瀬の連中は、歩み寄ることも、力を貸そうと申し出ることもなかった。我らが貴様らの弱さを疎んだのは然り。なれど貴様らもまた、鬼の強さを疎んだのではないか。鬼が築きしこの都にて、鬼の理念を度外視して寄生しようなど言語道断」
「……………………」
「所詮我らは混じり得ぬ存在だったということだ。それがしは過去を悔いるつもりはない。貴様らはやはり我らにとって、『穴暮らし』の他の何者でもない」
パルスィの瞳に、再び炎が戻る。
「その鬼に劣る妖怪に、あんたは頭を下げているのよ。どこまで恥知らずなの」
「それもまた、鬼故だ」
我が意を得たりと、左近は片頬を歪めた。
「このような窮地において、誇りなど何の役にも立たぬ。力を振りかざし、蛮勇を誇る鬼は未熟な輩に過ぎん。先程この部屋には、そんなたわけ共が燻っていたところだ。き奴らは真の鬼ではない。無論、それがしもな」
「………………」
「けれども勇儀様は違う。それがしの主君は放浪を捨て、この地の礎となるために、旧都に残った。何よりも仲間を大事にする、地底一気高い鬼だ。彼女こそ、この左近が認めた真の鬼。その片腕を名乗るそれがしが、この程度できぬわけがなかろう!」
血を吐くような訴えが、鬼の口から発せられた。
「だから頼む! 策があるというのであれば加担させてくれ! 我々鬼の一同にも、旧都を守らせてくれ!!」
左近は床に頭を打ちつける。
ただしその背中は、今にも弾け飛びかねないほど、墳激を溜めた瘤が盛り上がっていた。
鬼が示した、死をも辞さぬ覚悟。
パルスィはそれを見下ろし、
「厚かましいだけでなく、暑苦しいわね……本当に鬼って好きになれないわ」
ため息を吐いて言った。
面を顔につけ直し、彼女は跪く鬼にあっさりと背を向けながら、
「とにかく、これは私の宿題でもある。あんた達鬼にはどうすることもできないから、傍観してなさい。忠告はしたわよ」
「待てっ!」
出て行こうとする橋姫を、左近が立ち上がり、追う。
しかし、扉が開いた瞬間、思いもよらぬ歓声が部屋の中まで飛び込んできた。
「ミズメの姐御!!」
「ミズメ様!!」
「どうか、勇儀様の仇を!!」
「俺たちにも助太刀させてくれ!」
左近は瞠目した。
本丸を五段とするなら、この二の丸は三段の高さがある。
その下、建物の周辺を囲む広場に、百に近い数の鬼達が集まっていたのだ。
すでに橋姫は、『ミズメ』の姿でこの辺りを回っていたらしい。
しかしこの騒がれぶりはどうしたことか。
集まった若い鬼達は、英雄か救世主を前にしているかのように 彼女の名を口にしている。
たとえ平時であっても、同じ鬼であっても、今の地底においてこれほど彼らから賛嘆の声を浴びることのできる者がいるだろうか。
一人だけ、左近には心当たりがある。けれどもそれは断じてこの橋姫ではない。なのに……。
水橋パルスィは鬼達を睥睨しながら、一言、声を落とした。
「死ぬわよ、あんた達」
しん……と歓声が静まり返る。
「けどその覚悟があるなら、私についてきなさい」
雄ォオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!
鬼達の士気が一気に燃え、天まで届かんばかりに昇っていった。
二の丸を土台から揺るがすほどの妖気が、下で大渦を巻いていた。
左近は片目をこする。橋姫の背中にまたもや、自らの主君の影を重ねてしまった。
鬼は強者に憧れる。強者の背中を見て、自らを叱咤し、何倍もの力を得ることができる。
だからこそ、その先頭に立てるのは、鬼の四天王としての覚悟を背負った、鬼の中の鬼だけなのだ。
いや『だけ』なはずだった。
パルスィが飛び降りた。
杏魅も左近の側を通り過ぎて、下の群れに加わりにいく。
もう一人通り過ぎようとした小さな影は、小鬼だった。
臥姫の遺した、あの付喪神だ。
いつの間に目覚めたのだろう。今の歓声に起こされたのか。
いや、そうではない。彼女は足を止め、顔いっぱいの笑みを浮かべて、一枚の絵を差し出してきた。
そこには、
「まさか……」
「なるほど。それが最後の絵だったのですね」
隣から背伸びして覗きこんださとりが、微笑んで言う。
まさしく左近の手には、偉大な巫女の予言の……最後の一枚がそこにあった。
一枚目。左上、すなわち南西にあたるその絵には、綱を手にした一本角の勇姿が描かれている。
二枚目。右下、すなわち南東にあたるその絵には、岩石を掲げた巨人の体と影が描かれている。
三枚目。右上、すなわち北東にあたるその絵には、巨人の上部と怨霊を操る橋姫の姿が描かれている。
そして、一枚目と同じ側にある四枚目、北西にあたるその絵には……。
「臥姫……これがお前が指し示す未来だというのか」
そこには一本角の鬼と並び立つ、もう一人の橋姫。
さらに彼女が率いる鬼の軍団が、描かれていたのである。
(26)
都の北から南まで伸びる旧地獄街道は今、壊滅した朱雀町へと入る直前で途切れていた。
そこから先が、分厚い結界によって阻まれていたからだ。
妖しくも物々しい光景だった。
身の丈九尺を超える鬼が横一列に並んで、両腕を前に突きだし続けているのである。
結界の表面に近い空間で、稲妻かと見紛うほどの火花が、絶え間なく散っていた。
けれども鬼達は掛け声を上げながら、交代で力場を維持しようと踏ん張っている。
彼らを指揮しているのは、髭を蓄えた白髪の老人だった。
小柄な仙人のような出で立ちだが、身動きは矍鑠としており、顔は酔ったように赤らんでいる。
額には鬼の証拠である一本角。老人は団扇を片手に、鬼達を叱りつけていた。
「各々、隊列を乱すでないぞ! 一歩たりとも退くことは、この翁が許さぬ!」
彼の名は酒翁。仲間からは翁と呼ばれる古株の鬼である。
旧都が造られて以来、その結界の管理を任されている者だ。
この大異変が起こってから、虎の子の結界を破られた酒翁は、責任者として切腹する覚悟を決めた。
が、異変がいまだ解決せぬ以上、それは許されない。
上の命令によって、この場を中継点として術を張り直し、決死の覚悟で補強し続けているのだった。
さもなくば、すぐにでも結界が消滅してしまうほど、これより南の戦闘が過激なのである。
結界の補強を手伝っているのは、酒翁の配下だけではない。鬼ヶ城に住む鬼も混ざっている。
彼らは南に現れた怪物と対決するためにここを訪れたのだが、酒翁に説得され、考えを改めた者達だった。
ただしその理由は、老いた鬼の威光でも剣幕でもない。彼らは『力の差』を見せつけられ、屈服したのだ。
「翁ぁ!」
通信用の箱を持ち歩いている鬼が、駆け足でやってくる。
「間もなく左近様がここに到着するそうです!」
「ぬぁにぃ!?」
酒翁は牙をかみ合わせ、凄まじい形相で報告者を睨みつけた。
ありえぬことである。左近がここに来れば、鬼ヶ城の指揮の座には誰がおさまるのか。
だが目を凝らしてみれば、確かに街道を下ってくる集団が見えた。
その勢いときたら喧嘩神輿のようで、まさしく暴徒と呼ぶに相応しい鬼の群れであった。
しかも、怒号と共に突っ込んでくるそやつらは、よくよく見れば、若い鬼ばかりである。
地底に潜って以来久しくなかった修羅場に、気でも狂ったのであろうか。
「どけどけぇ! ミズメ様のお通りだぞ!」
やはり、わけがわからない。
酒翁が指示するまでもなく、配下の鬼達が集団の前に立ちはだかり、
「なんだお前達は!!」
「下がれ下がれ!!」
旧都を守護する結界班は、いずれも元は城で四天王に仕えていた者達である。
猛り狂っていた若い鬼達も、彼らの前では餓鬼と変わらない。皆勢いを殺し、たたらを踏んで止まっていた。
が、
「通してやれ!!」
集団の後方から、結界班をも慄然とさせる妖気のこもった、喝の声が撃ち込まれる。
酒翁はその姿を確認し、
「さ、左近殿!?」
と一驚を喫した。
若者達を左右に分け、先頭までやってきた左近は、酒翁の前に立ち、
「翁。結界を一時解いていただきたい」
「な、な、な」
「策が見つかった。取り掛かるには、向こう側へと渡らねばならない。すぐに取りかかってくれ」
その隻眼は、城にいる時と変わらず、狂気とは無縁の冷静さと実直さを湛えていた。
しかし酒翁は首を振る。
「いいや、ここから先へ向かうことは許さん!」
「翁! ならばそれがし、旧都の副首領として、命令を下させてもらう!」
「ならん! こちらもやはり命令なのじゃ! 左近殿、気持ちは分かるが退いてくれ!」
「何っ!?」
左近がその言の意を計ろうとした、その直後である。
結界が前触れもなく、バゴン、と手前に大きく膨張した。
金属質の音と共に、表面がでこぼこに歪み、時間をかけて元の形に戻っていく。
異様な光景に、若い鬼達がどよめいた。旧都を守る結界の強固さは、誰もが知っている。
のみならず、その規模が縮小すれば、より頑丈になるのが道理である。
だというのに、鬼の妖力をもってしても、押さえつけるのに必死な様子であった。
奥に潜む妖気の台風、その源を左近は察した。
「そうか……」
呟きには安堵と感嘆の両方がこもっていた。
「勇儀様は……やはり無事であったのだな」
「無事などではないぞい!」
酒翁が肩越しに結界を見やりながら、言い捨てる。
その向こう側の光景は見えない。ただし結界の表面では、轟音と共に幾度も凹凸が出現し、その度に修復されていく。
「見よ、あの有様を。いかに凄まじい闘いぶりかが分かる。他の鬼じゃ参加することもままならんのだ。巻き込まれて細切れになりかねん。その本気を受けていまだ立っている、あの化け物の憎々しいことよ」
左近は聞きながら、状況を理解した。
おそらく二の丸から自分が命令をここに発する前に、すでに勇儀は酒翁に結界を引き直すよう命令していたのだろう。
そして今、
「勇儀様は、独りで戦場に?」
「いや、張り直す前に、儂の言葉に耳を貸さず飛び込んだ輩も大勢おったわい。おそらく無事じゃなかろうて」
「ぬぅ……」
「左近殿。お主までもこの奥に入ろうと申すならば、儂が全力をもって止めることになる。その後ろのひよっこ共もじゃ。ここは一旦お嬢に任せて、あそこに集まっておる負傷者を前線から運び出してやってくれ」
酒翁が溜息をついて慨嘆する。
たとえ他の鬼が暴走したとしても、左近だけは旧都の錨となって、必ずや踏みとどまってくれるであろうと頼りにしていたのだ。
「なぜここに参った。お主が城を離れれば、どのようなことになるか分からぬはずがあるまい」
「面目ない。だが、この目で確かめたいものができたのだ」
「真に確かな策があるというのか?」
「いや。なれど試してみる価値は、あるやもしれぬ」
しかし、その鍵となる存在が、近くにいないことに左近は気づいた。
荒野と化していた朱雀街の一角に、即席の治療場が設けられ、傷ついた鬼達が運ばれるのを待っている。
鬼の他にも、火車や地獄鴉など、見慣れぬ妖怪も混じっていた。
そして……
「まさか」
橋姫が両膝をついて、必死に声をかけている相手に気付き、左近は瞠目した。
「ヤマメ!!」
パルスィは彼女のその姿を目の当たりにし、威勢をどん底にまで叩き落とされた。
ここに来る時に定めていた覚悟が、一気に瓦解しかけた。
仰向けになり、目を閉じて横たわる土蜘蛛の顔から、生気が抜け落ちている。
口の辺りには、吐いた血の痕が残っていた。
パルスィは止めようとする鬼を振り払い、側に跪いたまま、声をかけ続ける。
「ヤマメ! 私よ! お願い応えて!」
「……あは」
土蜘蛛の瞼が薄く開き、口元に微笑が浮かぶ。
「……本物のパルスィだ……お面しててもわかるよ」
パルスィの心が大きく震えた。
目の奥が熱くなり、感情が血流に乗って駆け巡る。
「『あいつ』にやられたのね? そうなんでしょう」
「ちょっとドジっちゃってね……どうしてあんなのをあんたと間違っちゃったんだか……くっ!」
身を起こそうとしたヤマメの表情が、苦しげに歪む。
側にいた救護の鬼が説明してくれた。
「あの化け物に危うく叩き潰されるところだったんです。息を吹き返した勇儀様の攻撃が間に合ったおかげで、我々がここまで連れ出すことができました」
「命は助かるの?」
「救ってみせます。けれどもすぐにこの場から離して、避難所に運ばなくてはなりません」
「それでいいわ。言っておくけど、間違っても『第六避難所』とかに運ばないで。きちんとした手当を受けさせないと、どこに隠れてもあんたを見つけ出して、生皮をはいでやる。そして熱湯につけてから五体を八つ裂きにして内臓を抉り取って火で炙って、灰を旧都の下水道に投げ込んでやるからね。いい?」
尋常ならざる気迫に押され、鬼は訳の分からぬ様子ながらも、青い顔でうなずく。
それを見届けてから、パルスィはもう一度ヤマメの手を取り、
「休んでなさいヤマメ。後は全て任せて」
「…………パルスィ」
「何?」
「…………ちゃんと帰ってきてよ」
「…………」
パルスィは何も言わず、素早くうなずいた。
この面をしていること、そして自分が鬼じゃなかったことに感謝する。
立ち上がり、北へと運ばれていく担架を背に、パルスィは結界の方へと歩んだ。
左近と向き合っている、小柄な老いた風貌の鬼に言う。
「私を向こうに行かせて」
酒翁は口をつぐんだ。
理屈ではうなずけるはずもない。ただし面の奥の凄絶な眼差しには、歴戦の戦士である酒翁にとっても、言下に一蹴することのできない凄みがあった。
さらに、翁にとって正体不明の妖怪の背後には、百名近くの鬼達が、同じく覚悟の顔で控えていたのである。
鬼は理屈よりも、その意志の強さを尊ぶ。
酒翁は手にした大団扇を、背後に向けて掲げた。
ぶくぶくと泡を立てていた結界の表面に、光の亀裂が走った。
直後、そこから漏れ出た絶大な妖力が、周辺を烈風となって巡った。
肌を切る刃を伴って、身を殴る猛威が入り乱れる。鬼達が呻きを漏らしながら、それぞれが我が身を庇った。
慌ててパルスィも体を丸めて踏ん張り、全力で飛ばされないようにしながら、現れたその光景を見つめる。
山のように大きな岩の怪物。
そしてその頭上には、嫉妬の念で身を包む緑の修羅と、
自らの血で染まった赤い鬼がいた。
(27)
かつて国造りの神は、その力を天地創造のために活かした。
大地を掘り返すことで山を築き、雨雲を絞ることで大河を造った。
それから幾千年が経ち、この世に生まれ落ちたその鬼は、古の神に並ぶ力を、己の喧嘩のために用いた。
彼女が闘う度に国が傾き、新たな地図が描かれ、歴史に拳の痕が埋め込まれた。
やがてその鬼は、本気で力を振るうことを止めてしまった。
日々の無聊を酒で慰め、仲間とのじゃれ合いで埋め続けた。
いつしか、彼女の真の力を語ることのできる鬼は、ほとんどいなくなってしまった。
しかし、今ここに、新たな伝説の証人達が生まれようとしている。
龍の背骨のごとくしなる腕の先には、流星を思わせる岩塊。
三つ、四つと続けざまに、岩の拳は空中の一点を狙う。
豆粒ほどの鬼が、己の二つの拳で、それらを全て打ち払う。
すでに何百と繰り返した攻防。衝撃が余波を生み、辺りの地形を小刻みに、大きく変えていく。
巨人の攻撃は、永遠に続くかと思われた。
弾幕のような華麗さがない。ただ強さのみが表れた拳。そして性質の悪いことに、怨みで穢れてもいる。
紛れもなく強敵中の強敵。そして一切引くことなく闘いに臨み続ける自分は、
――鬼そのものだな。
激しい戦闘のさなか、星熊勇儀は嗤いながら、そう胸中で繰り返した。
いくら子分に慕われ、敬われようと、自分は聖人でも神でもない。
生まれた時から闘いの場を欲した、生粋の鬼である。
どんな綺麗事も、この快楽の前では無為。都を守る責務などは、忘却の彼方。
あるのは純粋な、戦闘の本能のみ。
一方で、そんな己を冷めた目で眺める心も、わずかに残っていた。
また同じ過ちを繰り返すつもりか。独りの力で、その拳のみで解決できると盲信しているのか。
だがこの肉体に巡る血と、その奥に宿る魂は、闘いに恋焦がれたまま、止まることを知らない。
「このっ……! 死にぞこないめ!」
橋姫が苛立っていた。
すでに彼女の従える巨人から、何度も決定打となり得る一撃を勇儀はもらい続けている。
その度に意識を飛ばされ、力づくで己を引き戻していた。
そして冷めた自分と熱くなった自分が、同時に一つの解を導く。
――違う。
殴られ、命を削られながら、勇儀は否定する。
――ちっとも重くない。こんな拳が効くものか。
歳晩のすさびで味わった、あの痛みを思い出した。
水橋パルスィの拳は、こんなに軽くはなかった。友を想う、魂の叫びのこもった、美しい一撃だった。
こんな澱み切った強いだけの拳は、彼女にふさわしくない。
――誰だお前は。
勇儀は拳で語りかける。
――誰なんだお前は。
橋姫は応えない。
彼女が示すのは、あくまで拒絶の感情。
どこまでも穢れた一撃が、勇儀の体をいたぶり続け、ついには、
「…………ぐ」
今度の意識の喪失は、思いのほか長かった。
気がつけば、勇儀は血だまりの中、地面に倒れ伏していた。
両脚の感覚はとうに消えている。闘いのさなか、勘で重心を定めるようになった時から、己の限界が近いことは悟りかけていた。
どんなに強くても、永遠に闘いで時間を埋めることはできない。
『永遠』や『時間』をほしいままにできるのであれば別だが、勇儀にその力はない。
鬼は最強であっても、万能ではないのだ。どうして今まで、忘れていたのだろう。
「臥姫…………」
口の中でその名を呟く。
七十五年前の、あの冬の記憶が脳裏に甦っていた。
後悔の念が胸の内に広がり、意識を絶望の淵に引きずり込もうとしてくる。
怨霊にやられた怪我が原因だ。だがそれだけではないかもしれない。
星熊勇儀たるものが、初めて己の生き方に、疑問を抱いてしまった。
どれだけ腕を磨こうと、届かない境地があったのだろうか。それを悟れなかったからこそ、ここで何も守れずに敗れ去るのだろうか。
結局、自分は鬼のままで、鬼以上の存在にはなれなかった。
けれども、
――全く……変わっていなくは……ない……か。
勇儀はもう一度、笑みを取り戻す。
釣瓶落としの姿を見たあの時、拳の勢いが止まった。
昔の、地底に潜る前の自分であれば、迷いなく振り抜けていたはずだった。
けれども、あの頃の自分では、ここまで長く粘ることはできなかっただろう。
結界で隔離されたこの空間であっても、自分を信じる者達の思いが感じられる。
この背中の熱は、地底に潜って得たものだ。百年以上かけて得た、大切な宝物だ。
その度に、かつての山の四天王、力の勇儀は立ち上がれる。
これこそが大地の下で培った、新しい強さ。
「行くぞ……」
地面に伏せたまま、体内の妖気を練り上げ、勇儀は再び起き上がろうとする。
と、堕威陀羅の動きが止まった。
勇儀もその気配を感じ、信じられぬ思いで首をねじった。
――どうしてだ……!?
張り直された結界が、再び開こうとしている。
翁の判断なのか。なぜだ。私はまだ敗れていないぞ。
勇儀は静かに憤る。しかし、結界の向こうにいる無数の鬼の気配は、阻む壁がなくなっても、こちらにやってこようとしなかった。
ただ一つ。
鬼のそれとは異なる気配が飛んでくる。
何者だ、と勇儀は瞼の血をぬぐって、その気配の主を見つめ――
呼吸を忘れるほど驚いた。
雷を練り込んだ炎のごとき面をかぶる、一人の妖怪がそこにいた。
「…………パルスィ?」
雨に濡れた稲穂色の髪が、風にそよいでいる。ぼろぼろの外套の上に、白銀の綱が帯のように巻かれている。
面の奥では、澄んだ緑の瞳が光っていた。
本物だ、と勇儀は確信した。
その肩に巻きつけている万本綱も、彼女こそが、自分の知っている水橋パルスィであると裏打ちしていた。
ただしやはり、以前のパルスィと異なっている部分もあった。
姿勢が違うのだ。足場のない空中で真っ直ぐに立ち、垂れた腕の先で拳を軽く握り、凛と構えるその姿勢には、城で狼狽しながら過ごしていた橋姫の面影はない。
より洗練され、統一された妖気の炎が、背中から立ち昇っていた。
二人の橋姫が、空中で向かい合った。
巨人を従える一方が毒に溢れた沼だとすれば、面をつけた一方は清澄な水を思わせる佇まいである。
先に口を開いたのは、
「ようやく来たのね『水橋パルスィ』」
今の今まで勇儀と闘っていた、毒の沼の方だった。
彼女はまるで、百年来の戦友と再会したかのような、愉悦の笑みを浮かべていた。
「意外と遅かったけど、心配していなかったわ。貴方はいずれここに来ると信じていた。なぜなら貴方こそ、私達を導いてくれる存在なのだから」
勇儀は状況を理解できていない。
けれども、一方が本物で、一方が偽物であるという確信はいよいよ深まった。
おそらく本物であろう水橋パルスィは、面をつけた顔を軽く振って、
「私が導かなくとも、あんた達はやりたいことをやるでしょう。こいつを灼熱地獄跡に放り込むのね」
「そうよ! 堕威陀羅の力はこんなものではない。旧都の中心街でこいつが破裂すれば、溜まりにたまった怨念が吹き出て、旧都全域を侵すことができる。そして今度は上の層の奴らを食らいつくし、間欠泉から地上まで噴き上がる。つまり地上にある楽園まで、一気に消し去ることができるのよ! そこからはまさしく、私達が夢見た世界が待っている。橋姫の本懐を、ついに遂げることができる!!」
彼女の仰々しい宣言に合わせ、堕威陀羅の咆哮が大気をびりびりと震わせる。
このとてつもない大音声も、百年分の怨霊の大軍団が叫んでいると思えば、納得できるものだった。
その全てが灼熱地獄に封じられた怨霊と合わさり、拡散すれば、まさしく地上の幻想郷まで呪いが達するのは間違いないだろう。
「けれど今のこの瞬間も……いい眺めね……」
揺らめく橋姫の双眸が、倒れた勇儀の方に向けられる。
「本当にいい眺めだわ! そう思わない!? なんて無様なの。ここが楽園だと信じていた、めでたい連中。自分達が最強だと信じている、愚かな連中。だから、こんな目に遭うことになる。これは貴方達が蒔いた種。大事な大事な都が、あと少しで滅びてしまう。地面に寝そべったまま、指を咥えて見ているしかない。そんな貴方達を、私達が踏みにじる。なんて素敵なのかしら」
一つ一つの言葉が、重くのしかかり、勇儀の心を蝕んでいく。
橋姫は再び、パルスィの方に向き直った。
「水橋パルスィ。貴方は私達を導く権利と義務がある。貴方の存在は、この堕威陀羅を完全無欠なものにしてくれる。嫉妬を操る貴方の能力は、堕威陀羅にとって掛け替えのない心臓となるでしょうね」
怨念で呪われし両腕が、少しずつ左右に広げられていく。
死者に群がる蝶の女王が、羽化を遂げようとするかのように。
「さぁ……来てちょうだい」
黒く澱んだ愛しさをこめ、橋姫は艶めかしく囁く。
「私達の元へと。この腐った地底を踏み潰し、次は地上の楽園を滅ぼす。貴方にもその素敵な光景を見せてあげるから」
二人の会話の下で、堕威陀羅も動きを止めている。
その体表で、地虫が跳ねるかのごとく、青紫の炎が激しく動いていた。
橋姫の体を中心に、興奮が怨霊達に伝播しているのだ。
呪いの沼底から誘う手に、空中を歩くようにして、本物のパルスィが一歩ずつ近付いていく。
「やめろ……」
勇儀は手を伸ばしながら、そう警告した。
膝に力を注ぎ、己に活を入れ、歯を食いしばって、立ち上がろうとする。
パルスィは橋姫に、あと数歩の距離まで近付いていた。
顔にかぶった赤い面をはずし、一度髪を振る。瓜二つの橋姫と対峙し、彼女がはじめに発したのは、
「ぶわぁ~~~~~~~か」
と、緊張した空気を虚仮にするような一声だった。
聞いていた勇儀の膝が、再び折れる。
「なーに勘違いしてんのよイカレ頭。言っとくけど、私はあんたに協力する義理なんざ一切ないわ。誰が仲間になんてなるもんか。ファッキューオトトイカムバック」
「はぁ!?」
橋姫が困惑していた。
パルスィは尚も小馬鹿にした様子で言う。
「私がここに来た理由はただ一つ。あんたを止めて、このバカ騒ぎを終わらせるためよ」
「ふざけルな!! 何を言ッテ!!」
錯覚か、と勇儀は思った。
パルスィと対峙する橋姫の姿に影が生じ、ぶれたように見えたのだ。
しかもその声色も、妙にざらついていた。
「あんたの気持ちは、私が一番わかるわ。まぁ当然よね」
激昂する橋姫と対照的に、新たに現れた橋姫は冷静な、そして真剣な言葉で諭す。
「でももう十分よ。地底妖怪の嫉妬心の恐ろしさは、今日で数百年分、あいつらの心身に刻ませることができたでしょう。旧都の鬼だって反省する頭くらい持ってるわ。あとはこのでくの坊が大人しくなれば、全員が傷つき、全員が助かる。めでたしめでたしってわけ」
『全員が平等に痛みを分ける世界なんて、認められるはずがないじゃない!! あんたそれでも橋姫なの!?』
再び、パルスィの姿をした橋姫は、子供じみた仕草で喚き散らし、地団駄を踏み始める。
『妬ましい! 鬼が妬ましい! 強い奴らが妬ましい! だから全て滅ぼす! それが今できるのよ!? できるならやるしかない! それが橋姫の本懐でしょ!』
「嫉妬っていうのはね。そいつを殺したって、消えはしないわ」
パルスィの無慈悲な『導き』が、橋姫の魂を串刺しにした。
「忘れることなんてできない。消してしまったら、永遠にそいつにとり憑かれることになる。だから私は橋姫に……人から妖怪に堕ちた」
『うるさい!』
「嫉妬はそいつの幻影を乗り越えない限り、消えはしない。結局は自分次第だって気付かない限りね」
『うるさい! そんなこと説教される筋合いはないわ! だって私達は橋姫じゃない!』
「ええ、そうよ」
『持っている奴らに嫉妬し、憎む! 持っていない自分を噛みしめ、慈しむ! それが私達の生き方でしょう!』
「その通りよ。きっと貴方は間違ってない」
パルスィは寂しげに苦笑する。
そして、己の幻影に、これ以上ないほど優しく伝えた。
「けど私は、貴方とは違う。嫉妬しなくたっていい。そんな未来、私は望んでない」
瞬間、橋姫は本当に胸に風穴を開けられたかのように、蒼白になった。
その表情が示しているのは、紛れもなく、追い詰められたことによる怯え。
『あんた……自分が何言ってるかわかってるの……!?』
「ええもちろん、わかってるわ」
肯定し、パルスィはついに、とどめの一言を放つ。
「だからもう、夢から覚めなさい。『キスメ』」
聞いていた勇儀は、息を呑んだ。
その微かな音が、橋姫の金切声によってかき消された。
パルスィと全く同じ外見をかたどっていた姿が、飴のように引き伸ばされ、異形と化し――
――いくつもの怨霊に分裂した。
唖然としていた勇儀は、次いで理解する。
彼女を含めて、この場で悟った者は、ほんの数名だっただろう。
なぜ『橋姫』が水橋パルスィの姿をしていたのか。
百年物の怨霊は、キスメという釣瓶落としの無意識を借り、それを足掛かりにしてこの異変を起こしたのだ。
夢は善悪の境界が曖昧となり、その本能を解放させる力を持っている。かつての釣瓶落としも含めた怨霊達――復讐の準備が整ったその者らにとって、旧都に現れたキスメは救世主的な存在といえた。
その者らは、現世を生きる彼女が生まれつき持っていた業に訴えかけ、堕威陀羅の核とした。
そして怨霊達は彼女の無意識から、水橋パルスィの姿を伝道師として選んだのである。
旧都を恨むイメージがもっとも強い妖怪の幻影を使い、キスメを復讐の鍵とするために。
敵の作戦を暴く能力を持つ古明地さとりであっても、それを読むことは適わなかった。
彼女の力では、意識は読めても、無意識を的確に捉えることはできないのだ。故に鬼ともども欺かれた。
真相に気付き、解決へと動くことができたのは、今この場にいるオリジナルの橋姫、水橋パルスィだけだったのである。
今、堕威陀羅を動かしていた胎児の夢が、大きく揺らいでいた。
主導していた『橋姫』が消えたことで、周囲に残った怨霊達の動きも明らかに鈍くなっている。
勝機と見た鬼達が動き出し、堕威陀羅から一定の距離を保ちながら取り囲み始めた。
やがて、巨人の胸の緑色の玉が輝きを増し、その中で眠る釣瓶落としの影が……。
どす黒い闇をかぶせられ、見えなくなった。
見守っていた全ての鬼が、凍りついた。
堕威陀羅の体から『はみ出した』、あまりにも……あまりにも濃密な怨霊の塊に慄然とした。
旧都の各所で暴れ回った怨霊は、ほんのわずかなものに過ぎなかったのだ。
途方もなく大きな岩盤の内部に、百年かけて堆積したそれは、黄泉の沼に等しい深い絶望で満たされている。
旧都を脅かす怪物の、真の姿がそこにあった。
鬼達をここに向かわせたのが本能なら、その体を今縛り付けているのもまた、本能といえた。
妖怪であれば誰しもが忌み嫌う怨霊が、これほど集まれば手の施しようがない。
精神を食われた妖怪は、妖怪から別のものに成り果て、やがて怨霊の仲間入りをすることになるのだ。
それは妖怪にとって、死と同義である。
数千のしゃれこうべが転がるような音が大気を震わせた。
鬼達の怯えを感じ取り、怨霊達が嘲笑っているのだ。
穢れた汚泥の中で、緑色の『核』が鈍く輝いていた。それは目覚めかけた釣瓶落としの肉体を、再び呑みこもうとする。
が、次の瞬間だった。
「っざっけんなぁああ――!!」
絶望と無力感が生み出していた静寂を、一人の叫びが切り裂いた。
次の瞬間、旧都を代表する妖怪の群れが、残らず度肝を抜かれた。
ただ一人、水橋パルスィだけが一切躊躇うことなく、『生身』で怨霊の海に突入していったのだ。
無茶だ。いや無茶という言葉すら生ぬるい。
妖怪であろうと何であろうと、自殺行為に等しい。吸血鬼が太陽に体当たりするようなものだ。
なのに彼女は不格好な体勢で泳ぐようにして、呪いの山をよじ登ろうとしていた。
怨霊にその身を食われながらも、執念で突き進んでいた。
その姿が、反撃の狼煙となった。
はじめに動いたのは、力の一本角だった。
義侠心の固まりである星熊勇儀が、その橋姫の背中を見て、何も行動を起こさぬはずがない。
彼女もまた、傷だらけの体を奮い立たせ、地を蹴った。
そして、旧都の先頭に立つ鬼が駆け出した瞬間、その片腕の声が全軍に活を入れる。
「続けぇ――っ!!」
地底を揺るがすときの声が黄泉比良坂に轟き、全ての鬼が突撃した。
叫び、もがきながら壁をよじ登る橋姫を目指して、鬼達は堕威陀羅の足下に組みつき、上を目指す。
怨霊達は、それぞれぐちゃぐちゃに入り乱れた感情で、彼らに反抗した。
それは百年の時を経て、ようやく実現した、旧都とそれ以外の地底の妖怪達の、対等の立場でのぶつかり合いであった。
一方があまりにも強すぎるため、そして一方が無統制であったために、いつも勝利の美酒を呷る陣営は決まっていた。
怨霊となった妖怪達は、鬼に対抗する手段を見つけた。彼らには勝つ道が用意されていた。
その誤算となった『裏切り者』が、鬼の陣営の先頭に立っている。
パルスィは気力と体力を振り絞り、死にそうな痛みをこらえながら、なんとか堕威陀羅の核の位置に到達していた。
「出しなさいこら!!」
核の表面を、思いっきり蹴りつける。
が、緑の殻には罅ひとつ入らなかった。
堕威陀羅が憤怒の呻きを発しながら、こちらを振り落とそうと揺れ動く。
「私に任せろパルスィ!!」
追いついた勇儀が、パルスィのすぐ隣に立った。
力が物を言う局面で、彼女の右に出るものはない。
右手を刀の形に構え、中に眠る釣瓶落としを傷つけぬよう、一息で表面を切り裂く。
内から緑色の核液がほとばしり、
堕威陀羅の絶叫が、地底に響き渡った。
有り余る怨念の暴威が、鬼達の体を埃のように吹き飛ばす。
覚悟も気合も踏みにじるかのような威力に、パルスィもまた、なすすべもなく空中に投げ出されていた。
ただし落ちない。
その背中を、膝まで怨霊に浸かってこらえていた片目の鬼が受け止めていたのだ。
「まだだ水橋!!」
撥ね飛ばされるようにして、パルスィの体が波動に逆らい、再び核の元へと舞い戻る。
宙で泳いだ手を、勇儀が取った。寸分の狂いもない、絶妙な呼吸で。
そして思いっきり振り回す。一切遠慮のない、馬鹿力で。
「行けパルスィ!! 今度こそキスメを起こしてやれ!! 取り返すんだ!!」
叩きつけられるようにして、パルスィは緑の池に上半身を突っ込んでいた。
すかさず肺に溜めこんだ空気を、腹の底から押し出し、その名を叫ぶ。
肉声で。思念で。幾度も。何度でも。
その手を限界まで伸ばしながら。
◆◇◆
彼女は、不思議な闇に抱かれていた。
冷たいのに、ずっと触れていたい。
初めてのはずなのに、とても懐かしい。
哀しくてたまらないのに、どこまでも穏やか。
慣れ親しんだ桶の奥底にも似た、ゆりかごのような闇に抱かれながら、彼女は沈み続けていた。
沈みゆく中、彼女と同じ気持ちを共にする者がたくさんいた。
それらは仲間だった。仲間はずっと行方知れずだった彼女に、ぴったりと収まる場所を用意してくれていた。
彼女が疑問を抱く前に、その魂は皆と結びつき、すぐに一つの妖怪となっていた。
彼女には、体の感覚が残っていなかった。
今まで感じたことのない、耐えがたき眠気に、全て覆い隠されてしまったようだった。
そのかわり、無限に等しい情報の流れが、自らの内側を巡って外へと出ていくのだけが感じ取れていた。
これほどまでに愉しい不自由を前にして、彼女は果てのない悦びを覚えていた。
めくるめく衝動。
その衝動こそが、彼女に唯一にして絶対の答えを与えてくれた。
彼女はずっと、この気持ちを忘れていた。
本当は、その気持ちと共に生きていくはずだったのに、裏切り続けてしまったのだ。
今、解き放たれた心が、同じ仲間の心と共に闇を作り、大きな船となって世界を旅している。
彼女は思うがままに吠え続けた。
闇の外を脅し続けた。
命の香りに牙を突き立てた。
その度に弾ける哀しみの連鎖に、歓喜した。
なんて心地よい世界だろうか。
幸福を与えてくれた仲間に、彼女は皆が望むものを、なんでも与えるつもりでいた。
ずっとこうしていたい。ここでみんなと、哀しみを共有していたい。
だからこのまま、闇の中に溶けながら、どこまでも沈んでいくことを、彼女は厭わなかった。
たとえそれが、永遠の時間に繋がっていたとしても。
――違うでしょう。
その声は、時折聞こえてくる雑音とは、全く違う響きを持っていた。
彼女の回りにある闇が、激しく動いた。
――あんたが夢見た未来は、その程度のものだったわけ?
彼女は耳を貸したくなかった。
それに夢ならすでに見えている。愉しくて、哀しい夢を、仲間と共に見ている。
――化け物操りながら、真っ暗闇で陶酔に浸ってんじゃないわよ。妬ましい。
『とうすい? パルスィちゃん、それどういう意味……』
彼女はそう応えていた自分に、びっくりしていた。
今のは一体、なんだろう。
――ダメよキスメ。目を覚ましてはダメ。
闇が彼女に警告してくる。
――これはただの夢だから。その声はただの幻想。
彼女はすでに知っていた。これがただの夢だということを。
――私達が側にいるから、安心して。
彼女は安心した。そして再び、さらに深い眠りへと沈んでいく。
どこまでもどこまでも、闇と共に。
――さっさと起きなさいキスメ!! さもないとただじゃおかないわよ!?
その乱暴な声が、最後の一滴となった彼女の意識に、莫大な感情を呼び覚ました。
――私達を裏切るつもり!? 私のことも、あんだけ遊んでやった恩も忘れるっていうの!?
急に、哀しくなるのが嫌になった。
急に、眠り続けるのが怖くなった。
急に、沈んでいくのが恐くなった。
急に、忘れてしまうことが許せなくなった。
――その声は私じゃない!! あんたのものでもない!!
その通りだった。
彼女が知っている声は、闇の奥へといざなう優しい囁きではない。
いつも新しい地平へと引っ張ってくれる、不器用な叱り声だった。
――私が認めた地底の未来が、そんなカスみたいな夢で満足してんじゃないわよ!!
彼女はもがきながら、必死に応えようとした。
夢の終わりを告げるその声に、すでに無い自分の手を伸ばそうと試みた。
上へ。上へと伸ばす手に、
闇の中、一筋の光が、真っ直ぐに伸びてきた。
◆◇◆
「キスメ!!」
パルスィはついに、彼女の桶に触れられるところまで到達していた。
蠢く怨霊の闇が、重い。腕にへばりつき、足に絡みつき、心を侵し、餌にしようとしてくる。
パルスィはキスメに触れた左手の感覚と、右手で握った万本綱の感覚だけを頼りに、歯を食いしばって粘る。
「頑張れ、パルスィ!」
勇儀の応援が、反響して聞こえた。
たった数メートルの距離にいたというのに、精神が袋叩きにあっているこの状況では、位置がつかめない。
けどきっと彼女はまだ近くに、この万本綱の先にいると、信じられる。
パルスィは闇に呑まれながら、必死で頼んだ。
「勇儀……キスメを……!」
「わかった! 早くこっちへ!」
荒れ狂う怨霊の渦潮の中で、パルスィは大事に抱え込んでいた桶を、苦労して持ち上げる。
手が軽くなった。受け渡すことができたのだと分かる。
「次はお前だパルスィ! 綱から手を離すんじゃないぞ!」
けれどもパルスィは首を振った。
綱を通して、狼狽が伝わってきた。
「まさか、お前……」
勇儀が、今更になって気づいたようだった。
パルスィがここまで保ってきた、覚悟の表情の意味に。
「こうするしかなかったのよ……あとをお願い」
「そうはいかない」
万本綱が鬼の怪力によって、混沌の中、徐々に引っ張られていく。
「お前を連れて帰る。絶対に」
「旧都ならもう大丈夫よ……橋姫一匹が死んだって大したことにはならないわ」
「嫌だね。私にとっては、十分すぎるほど大したことだ」
「ヤマメに義理があるから?」
「あいつは関係ない」
パルスィは闇のかぶさった頭を持ち上げる。
こんな状況に似つかわしくない、それでいていかにも彼女らしい笑みを、勇儀は頬に刻んでいた。
「お前が気に入ったんだ。知り合ったばかりなのに、友を失うのは辛い」
へぇ、そいつは奇遇ね、とパルスィも笑った。
実は橋姫の自分を捨ててこんな馬鹿なことをしようと思ったのは、キスメとヤマメのためだけではなかった。
あれだけ憎んでいた旧都の中に、少しだけ、守りたい場所ができてしまった。
あれだけ嫌っていた鬼の連中が、少しだけ、気に入ってしまった。
そして今、こうして見つめ合っている鬼のことも、少しだけ。
もしかしたら、家に三つある椅子をもう一つ増やさなきゃいけないのかしら、とも考えていた時間もあった。
けどすでに意味はない。
「私にはもう、未来なんて残ってないからね」
パルスィは捨て台詞と共に、手を離した。
鬼の絶叫が、漆黒の中で途絶えた。
◆◇◆
闇は怒り狂っていた。
怨霊となっても残っていた、妖怪の本能に従い、仲間を奪われたことに激昂していた。
ただし、すぐにパルスィの体を食らい尽くそうともしなかった。
混乱している。当然だろう。パルスィは橋姫であり、ここにいる資格を持つ妖怪の一人なのだから。
ありとあらゆる呪いが、闇の中を渦巻いている。
妖怪となり、怨霊となり、恨みや妬み、憎しみを溜めこんだ、八百万の呪詛。
救いようのない、業の海。
だが、
――ああ……こんなに育っちゃって……。
パルスィはこの闇を、決して嫌いにはなれなかった。
キスメとはまた別の感情で、怨霊達を愛した。
流れていれば問題なかった嫉妬の念。しかし溜まり続けた結果、こんなにひどく腐ってしまって。
この子らには、自分こそが必要だったのだ。
怨霊の裁判にかけられる中、パルスィは闇の中で笛を取り出す。
不審な動きを感じ取ったのか、すぐ傍で見張っていた闇の一角が、すぐさま襲い掛かってきた。
ただその動きは直前で止まる。突如生まれた、笛の音によって。
パルスィは気にせず、笛の世界に入り込む。
いつもやっている通りに、水の流れをイメージしながら、吹くことに集中する。
すぐ傍で、憎しみに苦しみ続ける者達のために。
すぐ傍で、孤独に泣き続ける者達のために。
そして、どこかできっと、泣いている者達のために。
そして、どこかできっと、苦しんでいる者達のために。
水橋パルスィは、哀悼の笛を吹くのだ。
◆◇◆
旧都の鬼達は、誰もが呆然と立ち尽くしていた。
暴走した怨霊の塊が橋姫の姿を呑みこみ、岩の中へとまた潜ってしまった。
大巨人の妖気に撥ね飛ばされていた鬼達は、誰ともなく、死にもの狂いで彼女を助け出そうと、もう一度岩の壁に躍りかかった。
そんな彼らの昂ぶった気を、どこからともなく流れてきた、場にそぐわぬ音色が、たちまち鎮めたのである。
それは笛の音だった。
焦燥に騒いでいた血が大人しくなり、緊張をはらんでいた空気がなだらかになる。
ただの吹奏ではなかった。幾千の魂が泳ぐ大河のほとりで、たゆたう一枚の葉のような、幽かで穏やかな音だった。
膝をつく者がいた。はらはらと涙を流す者もいた。
あらゆる妖怪を従え、その岩峰を歩んできた鬼達に、尊崇の心が呼び覚まされていた。
なぜならその笛の音は、旧都が見捨てた魂の儚き歌声を、直接聴く者の魂に繋げていたからだ。
無上の調べは、他者を強さでしか理解できなかった鬼の琴線をつま弾いていた。
汲まれずに澱み続けた怨霊達の想いが、荒廃した旧都を霊気となって巡り、浸透していく。
動かなくなった岩山にも、変化が生じていた。
うずくまる巨体が笛の音に導かれ、その胴から水を滴らせながら、徐々に沈んでいく。
細かい石になり、やがて砂となり、溶けていく。黄泉の底へと還っていく。
そして、
「……消えた……」
旧都を壊滅させた妖怪の躯は、全て跡形もなく、夢か幻だったかのように消え去っていた。
そしてまた、笛の音もすでに、鬼の耳で拾うことはできなくなっていた。
勝利の凱歌は上がらない。
居並ぶ戦士達の顔には、いずれも敗北の念が浮かんでいる。
彼らの最前に立つ総大将、星熊勇儀もまた、同じであった。
はじめてできた橋姫の友を、たった一日で失うどころか、人柱にしてしまったのだ。
結局自分は、守りたいものを守りきれなかった。またしても悔恨が、傷ついた心に忍び寄ってくる。
いや……。
「……これは」
勇儀が目を見開く。
ずっと握りしめ、怨霊の沼の中に浸されていたことでぼろぼろとなっていた万本綱。
それが見えざる手に引かれたかのように、浮き上がったのである。
なぜ、という疑問の次に、もしや、という希望が生まれた。
まだこの勝負が、ついていないというなら。
勇儀の行動は早かった。懐から自分の笛を取り出し、すぐさま息を吹き込む。
頭を垂れていた鬼達が、ざわめきと共に顔を上げた。
力の勇儀が紡ぐ笛の音は、岩が消えるまで清聴していた笛とは対極の音色だった。
強く熱く、たくましい火の音。地底の常闇を吹き払う、明光の調べ。
万本綱が、勇儀の笛の音に乗って、宙を泳いでいく。
霊魂のようにゆらゆらと、岩が沈み、消えた跡に向かって。
鬼達のざわめきが、一層強くなった。
消えていたはずの、もう一つの笛の音が、また聴こえ始めたのだ。
水と火、陰と陽の音が絡まり合い、万本綱が解けていき、無数の糸へと転じる。
そして、耳を聾する新たな音と共に、地面が大きく隆起し、
「お、おい! あれを!」
鬼が指さし、ざわめきが感嘆の声に変わった。
広大な平地に、緑の粒が現れたのである。
地の底に誕生したその芽は、遠目からでも分かるほど、ぐんぐんと茎を伸ばしていき、
沙羅双樹が、地の底に出現していた。
並の大きさではない。ただの樹のはずもない。
日の光が届かぬ地底において、これほどの植物が育つことは考えられない。
茫然と見上げる鬼達の前で、一本の樹は光の胞子を放ちながら、さらに枝葉を伸ばし、成長していく。
やがて、奇しくも都を苦しめた炎と同じ、青い花を咲かせたのである。
そしてその樹の根元には……笛を手にした、橋姫の体が横たわっていた。
(28)
真っ白な世界から、やけに薄汚いところに来た。
目を覚ました水橋パルスィは、まずそんなことを思った。
ぼやけて二重に見えている天井を、意識が自動的に解釈していく。
と同時に、体の感覚が痺れを伴いながら徐々に戻ってくる。
薄汚いとはいえ、天井も元々は白かったのだろうし、空気も埃っぽくない。
枕は柔らかく、布団も適度の重さだった。腕には点滴の管のようなものがついている。
雰囲気から察するに、ここはどこかの診療所のベッド、らしかった。
「おはよ。寝坊助さん」
パルスィは反射的に顔を傾ける。
「あんまり目が覚めないもんだから、件の臥姫が乗り移ったのかと思ったよ」
椅子に腰かけ、ベッドに頬杖をつくように、こちらを見つめる顔があった。
意識することなく、名前が浮かび上がってくる。
自然と心の鍵を開けてくれるその声に、パルスィは応えようと口を動かすが、喉が渇ききっていた。
「あ、水いる? 体起こせるかな」
側にいた彼女、ヤマメは、横の小さな机に置いてあった魔法瓶とコップを手に取る。
パルスィも布団から手を差し出そうとしたが、力が上手く入らなかった。
「無理しなくていいよ。支えててあげるから、そうっとね」
しゅるる……とパルスィの手に糸が絡まる。
けれどもパルスィはコップよりも先に、別の方に手を伸ばそうとした。
何? とヤマメは目で聞いてくる。
パルスィが持ち上げた手は、ヤマメの瞼の下を、指でなぞった。
目覚めてからの、最初の一言。
「……心配かけたみたいね」
ヤマメの瞼が、魔法が解けたかのように一度震え、大きく開いた。
くしゃりと顔を歪ませた彼女は、パルスィの手を乱暴に取り、そこに額を押し付けてくる。
「当たり前だよ……! どんだけ心配したと思ってんのさ……!」
「…………」
「四日だよ四日! もう年も明けちゃったよ! このままずっと目を覚ましてくれないんじゃないかって……! っていうか、土蜘蛛が看病って、おかしくない!? 私だって一応怪我人だったのに! 何とか言ってみたらどうなのっ!」
「ふふ……」
放っておけばいつまでも喚いてそうな友人に、パルスィは微笑した。
冗談めかしているが、ヤマメの様子を見て、彼女がどんな風に自分を看病していたかがよく分かった。
四日間も寝ていたとは驚きだったが、その間、本当につきっきりでいてくれたのだろう。
パルスィはヤマメに支えられながら、慎重に体を起こした。
コップの水を口に含み、ゆっくりと飲み乾し、息を吐く。
改めて、部屋の中を眺め渡してみて、
「……なんでこんなに散らかってるわけ?」
病室にしては、やたら関係ないものが多かった。
壁には習字や禍々しい曼荼羅のようなものが貼ってあり、造花や彫刻等々……が所狭しと置かれている。
このまま旧都の市に持って行けば、すぐにでも店を開けるかもしれない。何とも節操のない品々であるが。
ヤマメが困ったように笑い、説明してくれる。
「全部鬼のお見舞い品だよ。あんたに感謝して、一日でも早く意識を取り戻すようにって。これでも毎日片づけてるんだけどね。もう置くとこがないよ本当に」
なるほど。道理で酒樽が混じってるわけだ。
もしあれらを送った当人らがここにいて、目覚めた時に顔を覗きこんでたりしたら、いよいよ私も本物の地獄に来たのか、と勘違いしていただろう。
ひとまず、部屋にいるのが、この土蜘蛛だけだったことにパルスィは安心した。
いや、
「キスメは……」
「あ、うん、大丈夫。さっきまでここにいて、今は勇儀と外に出てる」
「そう。元気なのね」
「元気は元気。でもあの巨人の心臓になってたこと、全然覚えてないっていうんだから、都合がいいよね。あんたのことすごく心配してたよ。帰ってきたらたぶん、喜んで跳ねすぎて天井に頭ぶつけるんじゃないかしら」
「…………」
心底ホッとしていた。
自分の頑張りが、決して無駄にはならなかったことに。
今までろくなことに努力したことがなく、何度も失敗を重ねてきたが、今回ばかりはしくじってはいけない機会だったから。
「そういえば勇儀も怪我してたんじゃないの? 血まみれだった気がするんだけど、あれも夢だったのかしら」
「ああ、あっちは心配するだけ損よ。こんな傷、鱈腹食べて美味い酒を飲めば治るって豪語して、本当に一晩で治しちゃってた」
「……理不尽な体してるわね」
「あはは、本当にね。それでね」
引き続き、パルスィはヤマメから、あの後に起こったことを聞いた。
たとえば旧都の被害状況。主に怪物が進撃してきた南側が一番ひどかったらしいが、復旧できないレベルではないらしく、工事の手を借りるために土蜘蛛を大量に募集しているそうな。犠牲者の数も少なくはなかったものの、仮に全く何もできずに怨霊の思うがままにされていれば、旧都の歴史に終止符を打たれていたのかもしれないことを考えれば、救いのある結果だった。
今回の異変の情報統制や復興計画については、鬼ヶ城と地霊殿の間で、早急に話が進められているらしい。
そして、もっとも根本的な問題であった、あの百年分の怨霊達はどうなったのかについても聞いた。
ヤマメが話した内容は、解決に動いたパルスィにとって、半分も予想できなかった結果だった。
「……つまり、完璧ではないけど、今のところ上手くいってるってこと。もしかしたらパルスィ、今回のことで表彰されたりするかもね」
「冗談じゃないわ。願い下げよ」
「ふふふ、そう言うと思って、ちゃんと勇儀と左近の旦那に話しておいたよ。向こうで便宜を図ってくれるらしいから、あんたは心配しないで、ゆっくり体を治しなさい」
「そう……」
「でね、パルスィ」
そう切り出したヤマメの声は、何やら意味深で、慎重な響きがあった。
「実は私、あんたに謝んなきゃいけないんだ」
「……何?」
「その、二人の首に巻きついてた万本綱の話だけどさ」
彼女はやはり、後ろめたそうな顔で告白する。
「城にいた時、これは水の気に反応したのが原因かもしれないって言ってたでしょ。でもそうじゃない可能性も、ちょっとあるんだよね」
「………………」
「もしかして、あれもキスメの無意識と同じく、私の無意識の念だったのかもしれない」
パルスィは無言のまま驚いて、続きに耳をそばだてた。
「私の友達ってさ。ほとんど二つに分かれちゃうんだ。風穴の辺りに住む妖怪と、旧都に住む鬼達。それぞれの代表が勇儀とパルスィで、二人と別々の雰囲気で付き合うことについては、気分転換にもなってたし、不満に思ってるつもりはなかったんだけど……でもホントは私、二人が仲良くなってくれたりしたら、もっと楽しいことになりそうなんだけどなぁ、なんて考えてもいたんだよね」
「ふぅん……」
「……………………」
「…………え、それだけ?」
「うん」
「それくらいで、あんな風に結びついたりするものなの?」
「万本綱って、私の分身みたいなもんだから」
「ああ……」
その一言で、すっと腑に落ちた。
一本一本に作成者の強い念をこめて紡がれた万本綱。
それは元は確かに、水の気を縛るためのものだったのだろう。
けれども旧都に住む鬼の象徴である勇儀と、旧地獄の外堀に住む妖怪の象徴である橋姫。
そのままでは決して交わることのない二人を結びつけたいと願った、共通する友である土蜘蛛の潜在的な意識が、あの万本綱に染みついていたとしたら。
そう考えれば、パルスィだけでなく、勇儀の首からも外れなくなった理由が納得できる。
――じゃああの時、乱麻堂が崩れてくるところで綱が解けたのは……まさか勇儀が私を本気で助けようとしていたから?
考えれば深みにはまりそうだったので、パルスィは軽く息を吐いて言った。
「気にすることはないわ」
「そ、そう?」
「こんな状態で怒ったってしかたないでしょ。許してあげるわよ」
「わぁお、珍し……じゃなかった。さすがパルスィ。ごめんごめん怒んないで」
安心したのか、ヤマメは一転、笑顔で懐くようにベッドに顔を寄せてくる。
「でもこれからの旧都も大変だよね~。南はまだほとんどの建物が直ってないし、いろんな問題を突きつけられた後だし。でもパルスィが身を呈して止めてくれなきゃ、もっと悲惨なことになってたんだからねぇ。本当にあんたはよくやったよ」
パルスィは土蜘蛛のさえずりを、黙って聞いていた。
よく喋る。いつもよりだいぶ浮かれているのがわかる。そんな彼女の姿を見ていると、
――やっぱり……言えないか……。
パルスィは己の勇気のなさを恥じた。
もう自分には、ほとんど時間が残っていない。
あの怨霊と対峙した時に、嫉妬するという橋姫の生き方を、はっきり否定してしまったのだから。
その決断は、精神を元にする妖怪にとって、自らの死を願うも同然の行為だった。
けれどもキスメの目を覚ますためには、ああする他なかった。
さもなくば、自分もまた、怨霊と共に旧都を破壊して回る側に加わっていただろう。
あの時から、未来は潰えていた。パルスィにとってこれは、最後の目覚めだったのだ。
きっとこの世界のどこかにいる嫉妬の神様が、珍しく情けをかけて、一度起こしてくれたのだろう。
今、喜びを露わにしている土蜘蛛と、もう一度言葉を交わすために。
けど彼女に、どう伝えればいいというのか。
自分の無事を、こんなに喜んでくれている友達に。
――ごめんヤマメ。私、何も言わずに消えちゃうと思う。
パルスィは目を閉じて、己の一生を振り返った。
本当に、ろくでもない妖怪人生だったけど、誰かの温もりの中で滅べるのなら、滅んでみるのも悪くない。
愛という偽善など、魂を腐らせるだけだと信じていたけど、そのおかげでこの時間が与えられたのであれば、受け入れてもいい。
最後の最後、私は幸福だった。
薄れゆく意識の中で、そんなことを思い浮かべ、
「でもなんかちょっと悔しいなぁ……」
その一言で、永遠となるはずだった眠りから、パルスィはふわりと持ち上げられた。
「あとになって聞いて、パルスィならできるんじゃないか、って思わなくもないけど、それでも本当にやっちゃうなんてねぇ。私だって旧都の危機のために必死で糸をより合わせたのに、最後の美味しいところは全部持っていきやがんの」
「………………え?」
「しかも勇儀と抜群のコンビだったんでしょ。私を仲間外れにして解決しちゃったわけだし。二人が仲良くなってくれたら、って思ってたけど、ううむあそこまで仲良くなるとは……複雑」
パルスィは茫然と、彼女の言葉をその身に受けていた。
「だからたぶんこれ、ある種の『嫉妬』なのかねぇ……だとしたら私もまだ修行不足さね。なはは」
ヤマメは頭をかきながら、照れたように笑う。
彼女の口から聞くまでもなかった。
ヤマメの心から沁みだした、その緑色の感情は、確かにパルスィの元に注がれていたのだから。
固まっていた心臓が、動き出す。
固まっていた感情が、流れ出す。
固まっていた涙腺が……ついに壊れた。
「う……うぅ……う~……!」
「ちょ、ちょっと? どうしたのパルスィ」
慌てたヤマメが、心配そうに肩をさすってくる。
パルスィはなおも「うぇええ~ん」と、恥らうことなく泣きじゃくった。
「だって……だってぇ……!」
「なになに一体どうしたっていうのさ。ほら泣くのはおよしって」
「ヤマメに妬いてもらう日が来るなんて……私……思ってなかったんだもぉん……!」
「え、私に妬いてもらう日?」
言葉にして繰り返すヤマメの目が、点になっていた。
「もしかして、嬉し涙なのそれ?」
「……うん……嬉しい……ううぅ~」
ああ、情けない。情けないけど、涙が止まらない。
誰かに嫉妬されたのは、初めてだったのだ。
そんなことは、ありえないと思っていた。
自分は一生橋姫で、だから嫉妬することしかできない妖怪なんだと思っていた。
でもこんな形で、こんなタイミングでだなんて。
「嫉妬されてそんなに喜ぶなんて……ひどいなぁ全く」
「ぐすっ……ひどいよね……でも私、嫉妬妖怪だもの」
「なるほど」
ヤマメが至極もっともだとうなずき、ついで吹きだしていた。
彼女は気づいていないのかもしれない。
パルスィがどれほど嬉しかったのかを。たった今、一人の橋姫の命を救ったということを。
水橋パルスィであることを止めず、橋姫であることも止めずに、そのまま生きていられる。
一番遠くにいる嫉妬の神様が、そう認めてくれて、一番近くにいる土蜘蛛の親友が、そう断言してくれた気がした。
格好がつかなくても、この温もりには代えられない。
まだ消えたくない。私は地底で暮らしたい。
「ヤマメ……私、怨霊にならなかった……」
「うん」
「約束通り、ちゃんと帰ってきた……!」
「そうだね」
土蜘蛛の腕が抱きしめ、心を引きとめてくれる。
「おかえりパルスィ。帰ってきてくれて、本当に嬉しかった。ありがとう」
橋姫は目を閉じ、涙を浮かべたまま、強く抱きしめ返した。
一本角の鬼と釣瓶落としが入ってきて、診療所全体に響く歓声を上げながら飛びついてくるのは、間もなくのことであった。
◆◇◆
旧都を揺るがした大異変の報は、その日のうちに地底全域に轟くこととなった。
破壊の規模もさることながら、地底に住む妖怪全体の存亡に関わっていたことなので、反響も過去に類を見ぬほど大きかった。
ただその情報がさらに拡散し、地上に噂となって届く頃には、すでに都の混乱は鎮静化に向かっていた。
鬼ヶ城と地霊殿が手を組み、迅速に事にあたった故である。
まず対外的な問題については、地霊殿が請け合うこととなった。
旧都の機構が部分的に回復した後、代表者である古明地さとりは半日で各所の被害状況をまとめ、此度の災難を引き起こした原因及び今後の対策案を加え、正式に閻魔に報告書を提出。
異変の直接的な火付け役となった釣瓶落とし、解決に尽力した橋姫と土蜘蛛については、表に引き出されることなく、元通りの生活が保障されることとなった。本来であれば到底許されるはずもない条件であったが、閻魔と同等の交渉力を持つ、サトリ妖怪の手腕が発揮されたといってよい。
一方で対内的な問題、すなわち旧都そのものの復興は、実働部隊である鬼の主導によって行われることとなった。被害の少ない北側に正式な避難所を設け、優先順位に従って南側の瓦礫の撤去、損壊した建物の再建、物資の流通や生活保護等々の推進。さすがに懲りたのか、それまでの鬼の流儀に則った案、例えばこれを機に都の半分を弱者と共に切り捨てるやり方等は全く意見に上がらなかった。仮にそうなると今度は怨霊ではなく、都の妖怪の暴動を相手にする羽目になったかもしれない。
なお、復旧作業については、当然鬼だけでなく、その傘下である住人達も加わる予定となっているのだが、それに関して以前では考えられなかった未知の潮流のため、旧都の『再興』自体は道程が険しくなっているといってよかった。
そして異変の日から、三週間が経過した。
~エピローグ~
こと地底において。
二つの並んだ緑の火が、時折瞬きながら闇の中を移動していれば、それは鬼火とは限らない。
日の光の差さぬ洞穴で、もっとも目立つ色の瞳をしたその妖怪は、嫉妬と共に生きる種族だという。
「さむ……」
水橋パルスィは、マフラーの奥で呟いた。氷室と変わらぬ気温の風穴を、ひとり歩きながら。
この辺りは雪は降らないが、真冬になると今夜のように、道が凍結するほど冷えることがある。
妖怪といえども、寒いものは寒い。それぞれが様々な手段で防寒をする。
今日のパルスィは普段と変わらぬ服装ながら、首にはまだ新しい、淡いグリーンを下地にしたマフラーを巻いていた。手の込んだ彩色のそれは昨年もらったものであり、今年になってからようやく身に着ける機会が巡ってきたのだ。
それともう一つ、片手には小振りの風呂敷包みを提げていた。
どこかにお呼ばれした身繕いながら、パルスィの足取りは重かった。
橋姫には毎日のように様々な葛藤が付きまとう。
例えば、行きたくないけど行かなければ後悔する約束の時など。彼女の場合、ヴァルハラに向かう孤独な戦士の顔で、歯の治療に向かう人の子のような雰囲気を発しているのだから、なかなかに込み入っている様子だ。
といっても目的地は戦地でも歯医者でもなく、すでに通い慣れた土蜘蛛の家である。
今夜、数名のごく親しい者だけで開く宴会に招待されているのだ。
それは例年のことなのだが、今年は一つ問題がある。パルスィにとって、決して無視できない問題が。
ふと足を止めたパルスィは、昔の記憶を思い出していた。
黒谷ヤマメと知り合う前、はじめてあの洞穴に赴いた時も、この道を通ったのだった。
まさかそれから、何度も何度も通うことになるとは思ってもいなかったが、縁というのは不思議だ。
さて今日はこのまま行くか、それとも引き返すか。
それは常に己と共にある、究極の選択。
はたして私は水橋パルスィなのか、それとも橋姫なのか。
「おーい! パルスィー! そこの橋姫、パルスィじゃないかー!」
背筋がぴんと伸び、踵が浮いた。
洞窟の壁を響かせてやってきたのは、三里の距離からでも届きそうな、品の無い大声だった。
続いて、下駄を履いた二足の虎のような、駆け足の音が近付いてくる。
見て確かめるまでもなかったが、一応パルスィは振り返ってやった。
「やぁやぁ」
「…………」
片手を上げて挨拶するそいつの見た目が、予想とは若干違っていたので、パルスィは片眉をくねらせる。
見てるだけで寒くなってきそうな半袖の白い上着と、赤い筋の入った青紫の袴。
さらに長い金髪と紅色の一本角がトレードマークのその鬼は、星熊勇儀そのままだったのだが。
持ち物が違っていた。彼女はなんと、七斗は優に入りそうなほど大きな酒樽を、肩に担いでいたのだ。
旧都からここまで運んできたらしい。
とはいえ、鬼の体力についてはすでに知っているので、パルスィもこの程度で一々驚きはしなかった。
会うのは大体二週間ぶりだが、昨年のあの日に血みどろだったとは全く信じられぬ、元気そうな姿だ。
挨拶を返すのを待っていたのか、しばらく笑顔のままだった勇儀は、やがて首を傾げ、
「なんだ。また何か怒らせることしたか」
「……別に」
とだけ答えて視線をそらし、パルスィは能面モードで歩き出す。
今宵の宴の参加者の一人である彼女に見つかった以上、もはや悩んだりすることはできず、潔く目的地へと向かうしかない。
本当はこいつが交ざると聞いていたからこそ、宴会に行く足取りが重くなっていたというのに。
などと鬱々考えていたパルスィの垂れたマフラーが、横から伸びた手に摘まみ上げられた。
しかも鬼がそれを己の首にもかけだしたのだから、
「ちょちょ、ちょっと!? 何すんのよバカ!」
パルスィは慌てふためいて、手を伸ばし、取り返そうとする。
勇儀は何食わぬ顔で回避しながら、パルスィのマフラーを首に巻き、
「いいじゃないか。減るもんじゃないし」
「増えもしないわよ!」
どうしてこいつは、人の神経を予想もしない角度で逆撫でしてくるのか。
おまけに言ってもろくに聞かないので、なおさらたちが悪い。
仕方なく、やむなく、嫌々ながらパルスィは鬼とマフラーを共有し、風穴を行くことになった。
「いやー、思い出すなぁ、あの一日。こうして二人で旧地獄街道を歩いて城まで行ったんだ。お前はあの派手なお面をかぶってて、見物人がどいつもこいつも可笑しな顔してたっけ」
知るか、と悩める橋姫は口の中で呻く。さっきまでは寒かったが、今はむしろ暑い。
相変わらず鬼は体温が高いし、あの時していた万本綱よりもこのマフラーは短かったので。
なるべく肩をくっつけないようにパルスィが歩いていると、出し抜けに勇儀が言った。
「元気そうで何よりだ。不安の種が、一つ減ってくれたよ」
ちらり、とパルスィは無言のまま、横目で彼女を見る。
こいつなりに心配してくれていたのだろうか。自分が勘定に入っていたのが、パルスィには意外ではあった。
残る不安の種については聞くまでもなく窺い知れる。
念のため、パルスィは釘を刺しておいた。
「言っとくけど、あいつの家の前までこの格好で歩くつもりはないわよ」
「じゃあ私も一つ、マフラーを編んでもらおうかな。うーん、腹巻きでもいいな」
「寒いのは平気なんでしょう」
「まぁね。お、そうだパルスィ。お前、編み物できるか」
「毛糸をこんがらがらせるのなら得意よ」
「なんだそりゃ」
とりとめのない話を続けながら、二人は並んで歩く。
その間、誰かとこんな風に肩をくっつけて、あの家に行くのって今まであったかしら、などとパルスィは考えていた。
縁というのは、本当に不思議だ。
「いらっしゃ~い」
灯りのついた穴の向こうから、間延びした声が二人を招き入れた。
「ただいま」と応えたくなる気持ちを抑え、パルスィは敢えて「おじゃま」とだけ言って入る。
珍しくエプロンなどをしている土蜘蛛が、こちらに向かって会釈していた。
二人が訪れるまで台所で奮闘していたらしく、すでに食べ物のいい匂いがしている。
部屋の真ん中にある広い丸テーブルは、料理の皿を待ちかねているようだった。
「ようヤマメ!」と勇儀は挨拶してから、担いでいた樽を手近な場所に置き、
「お前も元気そうで何よりだ!」
「いやあんたと私は、旧都で会ってから二日ぶりじゃないのさ」
「二日だろうと何だろうと、健康のままなのはいいことだ。そこでパルスィと一緒になったんだよ」
「偶然ね」
そう付け加えながら、パルスィはマフラーを解き、持っていた風呂敷包みを彼女に渡す。
「はいこれ。オードブルっぽいもの。二種類しか作れなかったけど」
「十分、十分。毎度ありがとうござい。じゃ、座って待ってて。お茶とお酒、どっち?」
「まずはお茶」
「パルスィちゃん!」
奥の部屋から、ぽこぺんぽこぺんと釣瓶落としが跳ねてやってきた。
地底では希少価値の高い、一点の曇りも裏もない笑顔を浮かべている。
「今夜はみんなで楽しもうね! 私もお酒飲むよ!」
「私は病み上がりなんだから、お手柔らかにね」
「あ……」
「『ごめんね、ごめんね』はしなくていいわ」
ぽん、と頭に手を置くと、キスメの表情は安心したような、はにかんだ笑みに変わった。
けれどもパルスィの安堵の深さは、この釣瓶落としの比ではなかった。
あの異変に巻き込まれ、この中で一番大変な思いをしたはずのキスメは、幸いなことに何も覚えていないと聞いている。とはいえ何らかの悪い影響か、心の見えない傷が残っているのでは、とパルスィは不安に思っていたのだ。
が、今夜の桶娘は、とにかく元気が有り余っている様子であった。この分だと心配はあるまい。
勇儀の方の心配の種も、これで全部なくなったのではないだろうか。
「ほほー、これパルスィが作ったのか」
「……って、ちょっと!?」
件の鬼はパルスィが止める間もなく、パルスィが持参したミートローフを一つつまみ、口に放り込む。
「もぐ……おおっ! 何だこれは!? 頬が落ちそうだぞ!?」
「あんたねぇ! 宴会が始まってもいないのに、どうしてそう行儀の悪いことするのよ!」
「はん。鬼につまみ食いを禁じるなんて、河童にこの池で泳ぐなって言うようなもんだ」
「食いながら威張るなっ」
拳を振りかぶりながら、パルスィは詰め寄る。
と、お茶を淹れて戻ってきたヤマメが愉快そうに、
「いやはや、前から思ってたけど、パルスィは勇儀と一緒にいるとイキがよくなるよね」
「そこ! 魚みたいな名前のくせして、人を魚みたいに言うんじゃない!」
「はっはっは。私もようやく、こいつの楽しみ方がわかってきた気がするんだ」
「あんたは人を玩具みたいにーっ!」
しゅばばばば、とパルスィは拳を乱打するものの、勇儀は見もせずに、片手で全てさばききっていた。
悔しい。妬ましい。あの晩のようなまぐれは、そう何度も起こってはくれないのか。
とまれ、面子が揃って一息ついた後、四人は宴の準備を仕上げることになった。
パルスィはヤマメと共に台所に立ち、盛り付けの手伝いをした。
勇儀の仕事は持参した酒の準備である。ハサミを使わずに綱を引きちぎり、金槌を使わずに鏡開きを終える。
キスメは食器の運び役だった。地味な仕事ながら、一番はしゃいでいるのは彼女である。
そして滞りなく用意ができ、テーブルには豪勢な地底風おせち料理が並ぶこととなった。
勇儀が叩き割った樽の蓋をよけて、柄杓をつっこみ、四人分の枡に酒を注ぐ。
三人はそれを受け取って着席し、残った椅子が埋まるのを待つ。
「それでは、地底の新年を祝して……」
東西南北に座った四人は、酒の入った枡を手にした。
「乾杯!!」
こうして、ささやかな新年会は始まった。
勇儀が持ってきた酒は、キスメに気を遣ったのか、さほど強くなく、口当たりがよいものだった。
自然と乱痴気騒ぎではなく、酒食を交えた和やかな談笑を演出してくれる。
途中でキスメにせがまれ、勇儀とパルスィが、笛を披露する機会もあった。
ヤマメまでも年代物のお琴を引っ張り出して来たりして、なかなか愉快な演奏会となった。
風車のように。水車のように。それぞれの心を羽に受け、会話は途絶えることなく回っていく。
形が変わっても、壊れるとは限らない。むしろ前よりも勢いよく、軽やかとなるものもある。
パルスィは無理なく言葉を挟みながら、不思議な思いで眺めていた。
宴会を共にする三名ではなく、この時間をあるがままに過ごしている自分自身を、である。
そもそも、本当であればこの場に再び姿を現すことができるのが、奇跡的な話なのだ。
脳裏を過ぎるのは、あの黄泉比良坂での光景だった。
この世に再び戻ってきたパルスィは、幾度となく、あの時のことを振り返った。
本当に、自分が選択した行動は正しかったのだろうか。
釣瓶落としの無意識を借りて生まれたあの怨霊は、嫉妬の権化といっていい存在だった。
自らの感情を肯定し、暴走を厭わず、しかも望みを叶えるだけの絶対的な力を持った、橋姫の理想だった。
パルスィの力は、あの怨霊にとって決定的な要素になり得た。嫉妬を操る能力を用いて、怨霊達の力を増幅させ、地底を滅茶苦茶にすることもできたはずだった。
その方が橋姫として、自らの業に沿った、正しい行いだったのではないか。
けれどもパルスィは、その度に思い直すのだ。
あの時の選択は、橋姫としては異端だったかもしれない。けれども、橋姫でなければできなかった。
私はやるべきことをやっただけ。水橋パルスィは、消えたわけでも、生まれ変わったわけでもない。
今も橋姫のまま、この地底に生きている。
ただこうして三人と過ごす時間に、理屈を超えた親しみが芽生えていることも、否定はできなかった。
今までと比べて、なんとわかりやすい幸福なことか。
嫉妬の神様も、たまには気前のいいことをしてくれるものだ。
「静かで落ち着いてるが、こういう飲み会もまたいいもんだね」
と、くつろいだ様子の勇儀が、そんなことを述べた。
鬼にしては意外な一言に、パルスィは相槌を打つ。
「まぁ、旧都のお城でやったアレに比べれば静かよね」
大きな笑いが起こった。
反応のよさに、言った当人も思わず苦笑してしまう。
「しかし無茶をしたもんよねぇ。パルスィやキスメがあの宴に参加してただなんて、思い返してみても、ちょっと信じられないわ。あははは」
ヤマメが椅子にもたれつつ陽気に言う。
彼女はお酒が入るといつも以上に笑う、というより笑いが止まらなくなるという困った癖があった。
「私も最初の方しか覚えてないけど、すっごく迫力があって緊張したよ」
とこれは、いつものように桶ごと椅子に座るキスメの意見である。
彼女はお酒をほんの一口飲んだだけだったが、頬はほんのりと赤く染まっていた。
一方で、相変わらずのザル振りを見せつける勇儀は、真面目ぶった様子でうなずき、
「確かに、この宴席に座ってみると、鬼の流儀だけが全てじゃないってことを考えさせられる気がする。なんでも騒がしくごちゃごちゃとさせてしまうのが、私らに癖となって染みついてるってことも、よくわかる」
旧都の支配者は、そう謙虚な姿勢で言って、大盃の酒を呷る。
「都の連中とここらの妖怪が歩み寄るには、そうしたところから改めなきゃいけないのかもね」
「でもあの忘年会、そこまで厳しく言うほどのものだったかしら」
パルスィはすまし顔で、無意識にそう口を差し挟んでいた。
全員の視線が集まってくる。特に隣にいた勇儀は、身を乗り出して訊ねてきた。
「パルスィ。お前は鬼の宴会が、気に入ってくれたのか」
「まぁ、私は今夜みたいな飲み会の方が性に合ってるけど」
そう予防線を張っておく。
とはいえ、パルスィはお酒を一口飲みながらあの晩のことを思い出してみたが、やはり胸に浮かんだ意見は変わらなかった。
「たまには、ああいうのがあってもいいかな、くらいかな」
「それはつまり、気に入ったという意味でいいんだな? 嫌いじゃないんだな」
「嫌いでは……ないわね。料理はどれも食べたことがないものだったし、お酒も味は悪くなかったし、色々と面白いものも見られたし。その後の二日酔いは最悪だったけど、落ち着いて振り返ってみたら、鬼の宴会もなかなかだと思ったわよ」
「ななな、なんて素直なご感想。あのパルスィに後光が差して見える……私ゃもう砂に変わりそうだ」
ヤマメが感極まった様子で顔を覆う。
そのおでこに、パルスィが箸で飛ばした煮豆がヒットした。
「わざとらしいポーズはやめんか」
「あはは、いやでも嬉しいのは本当よ。だってこれで……」
「くぅ~」
と、勇儀が出し抜けに声を絞り出し――というには大きすぎる呻きを発した。
手足が見るからにうずうずとしており、今にも跳ねだしそうだ。
そんな風にパルスィが見ていると、本当に勇儀が跳ねた。膝を叩いて勢いよく立ち、
「よぉし! なら話は早い! なぁヤマメ! もう大丈夫だろうこれは!?」
「間違いない! 大丈夫! OKよ勇儀!」
「決まりだ!」
いぇーい、と手を打ち鳴らし、腕を交差させる鬼と土蜘蛛。
唐突に盛り上がり始めた二人に、橋姫と釣瓶落としはきょとんとなる。
「何の話?」
「実はだな。そろそろここに到着する予定なんだ」
勇儀の意味ありげな台詞と笑みに、パルスィの勘がざわついた。
問い詰める前に、行進……というより行軍の音が洞窟を反響して近づいてくる。
そして聞き覚えのある声も。
「ミズメお姉様ー!!」
弾かれたように、パルスィはそちらを見て、持った枡を取り落とした。
「ヤマメさん!!」
「ミズメの姐御ー!!」
「大将っ! ただ今、到着でござい!!」
ぐるぐるほっぺをした少女の鬼、野生の雄牛のような筋肉質の鬼、鉄棒を担いだのっぽの鬼、等々。
ヤマメ宅の玄関口に、いつの間にやら、そんな恐ろしく暑苦しい集団が勢ぞろいしていた。
どいつもこいつも、鬼ヶ城の忘年会に参加していた顔ぶれである。
中に入ってくるのを自重しているのか、ぎゅうぎゅう押し合いをしていて、尚更濃い絵面だ。
「わっはっは」と勇儀が破顔し、腕をいっぱいに広げて、
「というわけで皆の衆! 新年会の二次会は、これから旧都でやることにしよう!!」
玄関口にて、再び歓声が湧き起こった。
が、パルスィの口は、しばらく開いたまま動かなかった。
ようやく声が出せるようになっても、まだ頬のひくつきは解けていなかった。
「な……何……どういうことなの……」
「実は鬼ヶ城の新年会は、忘年会に勝るとも劣らない豪勢な宴なんだ。今年は例の騒ぎで遅くなっちゃったんだが、その解決の祝いも兼ねて、本日開くことになったわけだ。なんと場所はあの人食い広場。誰でも参加可能になっている。んで若い連中から、ぜひヤマメと『ミズメ』も連れてきてくれっていう声がたくさんあったんでね。あとは本人がうなずいてくれるかどうかだったんだけど」
「うなずいてないわよ!?」
パルスィは全力で否定してから、土蜘蛛の方に顔を向けて、
「ヤマメっ! あんたこれ知ってたわけ!?」
「二日前に旧都に行った時に相談されてさ。どう説得しようかと様子を窺ってたんだけど、手間が省けて何より何より」
「省くな!!」
一喝して、パルスィは席を立ち、何とか逃げ道を探す。
しかし唯一の出口が、ひしめく鬼で栓をされている。まさしく袋のネズミ状態である。
「あれからまた若い衆が入ったんです。ぜひミズメの姐御の啖呵を聞かせてやってください!!」
「料理長も広場で腕を振るってるところですよ!!」
「お姉様!! 今度は騎馬戦で旧都を巡りましょう!!」
「ちょっとあんた達!!」
耐えかねたパルスィは、ついに一喝した。
腰に手をあて、胸を張りながら、盛り上がる角持ち共に冷や水を浴びせる。
「私はミズメじゃなくて水橋パルスィ!! あんた達が大っ嫌いな橋姫よ!!」
鬼達は押し黙り、顔を見合わせた。
そして、
「よし担げ!!」
「聞いてよ!? なんで無視してんのよ!!」
「ヤマメさんもみんなで担げー!」
「え、こ、こらあんた達!」
「ぎゃー!! わー!! 下ろせー!!」
「勇儀ー! キスメのこと頼んだよー!」
もがきながら喚く橋姫と手を振って叫ぶ土蜘蛛は、あっという間に鬼の衆の神輿によって拉致されていった。
「さーて。今夜はあんな不覚は取らんぞ」
ヤマメ宅に残った勇儀は、腕をグルグルと回しながら、士気を高めた。
静かな催しも悪くないが、やはり宴会は大っぴらに飲んで騒ぐに限る。
しかも昨年の忘年会と今年の新年会では、全くと言っていいほど趣が異なっている。
おそらくかつてない豪勢な宴となるであろう。楽しまない手はなかった。
「じゃあ、キスメ」
同じく残っていた釣瓶落としに、勇儀は話しかける。
「私達も行くとするか」
「えっ、うん」
うなずくキスメは、どこか遠慮がちで、それでいて何かを思い詰めたような顔になった。
「勇儀さん! あの、話したいことがあるんだけど……!」
「ん、なんだなんだ」
勇儀は腰を折り曲げ、小さな桶妖怪の言葉に耳を傾けようとする。
――そういえば……。
と、勇儀は思い返した。
この釣瓶落としと一対一で話すのは昨年、旧都の診療所で以来だ。
ただその時のキスメは入院する橋姫のことで頭がいっぱいだったため、ほとんど口が利ける様子ではなかった。つまるところ、ちゃんと面と向かって会話するのは、今日が初めてということになるかもしれない。
それに加えて、今まで勇儀は彼女に恐がられているとばかり思っていたので、向こうから話かけられたことに、多少の驚きがあった。
ようやく巡ってきた機会に、何が待っているのかと期待してみたが、
「あのね……私、本当は全部覚えてるの。あの日のこと」
その告白の衝撃は、勇儀にとって決して小さなものではなかった。
己の足場がいきなり急斜面に変わったような気になり、本当にぐらつきかけた。
当惑もあらわに、釣瓶落としに問い質す。
「全部って……本当に全部か?」
「うん……大きな岩の妖怪になって、いろんなものを壊したこととか、たくさんの人をいじめたこととか……」
「ヤマメには話してないのか」
答えを予期していたものの、つい重ねて訊ねていた。
キスメは顔立ちに似合わぬ、哀しげに沈んだ面持ちで、こくりとうなずく。
「パルスィちゃんが入院してたから、私のことでヤマメちゃんに心配かけたくなくて、言いそびれて……」
「やれやれ……」
勇儀は頭に手をやった。
もしかすると、先程の宴でキスメが進んで酒を飲んだのも、この暗い顔を隠すためだったのだろうか。
だとすると、一本どころか三本くらい取られた気分である。
甘いぞヤマメ。こんな娘っこに気を遣われてどうすんだ。
ここにいない土蜘蛛にそう愚痴りたくなったものの、しかし同じく察することができなかった己にそんなことを言う資格がないことを、勇儀は自覚していた。旧都を預かる者としても、さっきまでの輪の中にいた者としても、救いの手を差し伸べるべき者がいるとすれば、それは自分だろう。
慣れない役柄ではあったが、勇儀は引き受けることにした。
「いいかキスメ。あれはお前の夢だったんだ」
まずはそう言って、彼女の心の重荷を取り除くことから始める。
「全部夢だったということにすればいい。そう思って生きろ。お前まで地底の闇を背負う必要はない。背負うべきなのは私ら鬼の側だ。それにヤマメだってパルスィだって、それくらい代わりに背負う覚悟ができてる。だから……」
「私には……背負う資格がないってこと?」
「む」
小声ながら鋭い切り返しに、勇儀は思わず口をつぐむ。
キスメはいやいやと、かぶりを振った。
「私だって背負いたいよ。みんなみたいに背負える妖怪になりたい。強くなりたい。ヤマメちゃんみたいに、パルスィちゃんみたいに、勇儀さんみたいに……でも……」
再び勇儀を見上げる瞳には、地の底に墜ちた者に共通する、哀しき影がにじみ出ていた。
「でも私が強くなっても……あんなのになっちゃうのかな……。釣瓶落としが強くなるって……ああいうことなのかな……」
「………………」
勇儀はもう一度、深く反省した。
キスメの悩みは、想定していた以上に深刻であり、それに決して稚拙ではない。
彼女もまた、橋姫を捨てなかったパルスィと同じく、今も釣瓶落としのままでいる。
故にその業は、意識の裏側に引っ込んだだけであり、いつ再び目覚めるか分からないのだ。
ふむ、とうなずいて、勇儀はやり方を変えることにした。
考えてみれば、こんな風に言い含めるのは自分らしくないし、美学に反する。
いかにも鬼の四天王らしい説得というのは、もっとこう……
「……キスメ、私が見た初夢の話をしてやる」
声の調子を変え、勇儀は改めて話を切り出した。
釣瓶落としの顔が持ち上がるのを待って、しかつめらしく続ける。
「その初夢は、富士の山を見下ろし、巨大な鷹の背に乗りながら、焼き茄子を食うというもんだった。そこまでは素晴らしい夢だったんだが、途中で物凄い妖怪が現れて、いきなり決闘することになった。決着がつく前に目が覚めちゃったけど、そいつは恐ろしく手強い妖怪だった。本当に強かったんだぞ」
「そんなに? 勇儀さんでも、びっくりするくらい?」
「ああ」
「けど、夢の話でしょ?」
「あいにく私は、夢の中で負けた経験はない」
勇儀はさらりと断じた。
鬼が決して嘘をつかないということは、キスメも知識として頭に入っていたのだろう。
彼女はより一層真面目に、勇儀の語りに集中しはじめる。
「その私があの夢の中では、唯一敗北を覚悟したんだ。あれはきっと正夢に違いない。そいつは私のような強い肉体と妖力を持ち、ヤマメのような鋭い感覚と知恵を持ち、パルスィのような勇気と気高い心を持った……最強の『釣瓶落とし』だった」
一拍おいて、キスメの目が真ん丸に変わった。
勇儀が何を言いたかったかが、伝わってくれたらしい。
「む、ムリだよ。だって私は、そんなにすごい妖怪じゃないもん」
「いいや、確かにまだ未熟ではあるが、キスメはそんな凄いやつになれる唯一の妖怪だと私は思っている」
「ど、どうして」
「決まってるだろう」
鬼は親指を立て、片目を強くつむった。
「なにしろ、優秀な師匠が三人もいるんだからな」
瞬間、釣瓶落としの閉じた心が、再び広がっていくのが分かった。
枯れた桜が再び満開となるような、劇的な変化だった。そのつぶらな双眸に、もう影は残っていない。
あえて挑発的に、勇儀は訊ねた。
「不服か? 無理だと思って諦めるか?」
「ううん、私もみんなみたいな凄い妖怪になりたい!!」
「よぉし! なら早速新年会に行こう! 私達から学べることを喜び、盛大に楽しめ!」
勇儀は桶を豪快に持ち上げ、肩に乗せる。
「鬼の四天王に担がれるなんて機会、そうそうないぞ!」
「わぁ……!」
キスメが感激の声を上げた。
そのまま鬼の籠は洞穴を飛び出し、韋駄天となって、全速力で旧都を目指した。
轟々と耳元で風が吹く。
勇儀の走りに、恐れはない。
己を傷つけられる者はいない。己を阻める者はいない。
その絶対の自信を胸に、ひたすら道を駆けていく。妖気はまるで生きたマグマだ。
キスメは桶の縁にしがみつきながら、目を必死で開ける。
見知った洞窟の岩肌が、まるで別物のように流れていく。冬の冷気が白く染まりながら、左右二つに分かれていく。幾千もの絹の扉が、二人を先へと迎え入れてくれるかのように。
間近で鬼の熱に触れ、キスメは学び取ろうとする。憧れるだけではなく、近づこうと決める。
自分がかつて一瞬だけ得た、あの強さを払拭するために。己の業に立ち向かい、勝つために。
やがて薄暗い洞穴の先に、同じような熱源が見えてきた。
先行する鬼の神輿だ。
キスメは勇儀の肩に乗ったまま、桶から半身を出して、大きく手を振った。
「パルスィちゃーん! ヤマメちゃーん!」
「おーキスメ! 贅沢な籠だねそいつは!」
「ちょっと勇儀! こいつらどうにかしなさいよー!?」
「はっはっは! お前達! どっちが先に着くか競争しよう!」
鬼の群れが「おおおおー!」と吠え声で応え、傾斜を駆け下りていく。
洞穴の出口が見えてきた。視界がぐんと開け、旧地獄へとつながる。
そこは黄泉比良坂。
かつては都への通り道に過ぎず、岩ばかりが乱雑に並んだ閑散とした場所だった。
ただし今、その広大な土地は全く新しいものに生まれ変わっていた。
岩が整然と並べられ、きちんとした街道のようになっている。
その道を歩んでいるのは、鬼だけではなく、かつて『穴暮らし』と呼ばれていた者達も多い。
何より都を行ったり来たりする者の数が、遥かに増えていた。
果たして、あの異変は災厄だったのか、あるいは分水嶺だったのか。
いずれにせよ大妖怪堕威陀羅の破壊活動は、予期せぬ作用を地底に起こしていた。
一つは上の層から旧地獄へと通じる道が一挙に拡大したこと。
これにより、地底の妖怪は今までよりも遥かに気兼ねなく、ここを訪れることができるようになった。
二つ目は、肝心の旧都の仕組みが変わろうとしていること。
今や鬼ヶ城は都の外に住む妖怪についても、復興の支援役として受け入れる体勢を整えているのだ。
さる異変の経験を生かし、新たな異変の芽を摘むため、鬼達も生き方を改めようとしているのだった。
そして新たな都の象徴となりうるものが、都の南端に立っていた。
◆◇◆
長らく、まともな植物の生えることがなかった旧地獄に、その大木はしっかりと聳え立っていた。
若々しい葉をつけた見事な枝ぶりのそれは、地上の沙羅双樹とよく似ている。
違いといえば、葉だけでなく、幹や枝も緑がかっていること。
そして白ではなく、幽玄な印象を与える青い花を咲かせていることだ。
木の側に立つ古明地さとりは、立派に根が生えた地面を見つめながら、傍らにいるペットに尋ねた。
「どうなの、お燐」
聞かれた火焔猫燐は、軽くかざしていた手を下ろし、難しげな顔を作って言った。
「んー……暴走の兆候はないですね。けど単純に封印されてるってわけでもなさそうです。岩の中にいた時と違って、この下にいる怨霊の気配は、かすかに感じ取れてますし。安定しているような不安定なような……」
「なるほど。『あたいの頭じゃ全くわかんないよー困ったなぁ』ですか。……よくわかったわ」
「あわわ」
ずばり指摘され、燐は引き攣った誤魔化しの笑みを浮かべて、胸の辺りを押さえながら一歩引く。
さとりは僅かに肩を落としつつ、聞こえぬほど小さな溜息をこぼした。
「確かに、少々困りましたね。近いうちに閻魔様が、ここの視察に訪れると聞いていますし、それまでにこの木の実体をはっきりとさせておかないことには」
異変とは、世の秩序や運行から外れた現象。
それを考えれば、眼前にそびえ立つ緑の楼は、あの異変の残り香とも呼べるかもしれない。
昨年末の災厄が収束した後、最も議論の対象となったのがこの大木であった。
一体、この木はどうして生まれたのか。なぜ冬にもかかわらず花をつけているのか。あれほどいた大量の怨霊はどこに消えたのか。この一本の木によって封印されたのか。だとするとそれはどのような仕組みなのか。
あれから三週間が経った後も、何一つとして、分かっていない。
鬼ヶ城と地霊殿の合同会議の中で、鬼の陣営から「跡形もなく焼き払う」、あるいは「引っこ抜いて旧都から離れた場所に移す」など、様々な過激な案が出たものの、異変を再び引き起こす可能性を誰もが恐れたため、最終的に注意深く監視しつつ、いたずらに刺激せぬよう調査を続けるということで意見がまとまった。
ただ、実際にこの場に立ってみると、この大木から受ける印象は……
「……なんか、ホッとするような、不思議な感じ」
主人を挟んで、燐と逆の位置に立つ地獄鴉、霊烏路空がそう囁いた。
彼女らしいごく素直な感想に、さとりも心中で同意する。
猥雑とした旧都において、これほど穏やかな雰囲気を漂わせている場所は稀である。
今は立ち入りを制限されているが、この木を一目見ようと、日々地底の各所から色々な妖怪がここを訪れているそうな。
「お布団にくるまってるみたいな気持ち、かなぁ。もしかして、ここの怨霊も眠ってるんじゃない?」
「鋭いですね、おくう。貴方の言ってることが正しいかもしれないわ」
「ちょ、ちょっとさとり様! そんな簡単に同意されると、あたいの立場が……!」
「お燐が間違ってるとは言ってませんよ。怨霊達が封印で縛り付けられることなく、ここで眠っているとするならば」
さとりは木の根元から、視線を持ち上げた。
樹幹いっぱいに青く咲き誇る魂達が、絶えず柔らかな香りをもたらしている。
眠りを誘うその香気を味わいながら、彼女は目を細め、
「もしかすると怨霊達は、今もこの木の下で、夢を見ているのかしらね」
排斥され、憎しみにかられ、長らく安らぎを得られなかった地底の迷子達。
かつて憧れた旧都の側に、ようやく宿り木を見つけることができた。
何万という数の怨霊が夢を見ながら、やがては浄化されて、循環の中に戻っていくとすれば……。
果たしてそんな未来図は、この都の管理者である己にとって、都合がよすぎる絵だろうか。
「そろそろ広場に向かうとしましょうか」
えっ、と左右のペットが同時に主人の方を向く。
今夜、あの人食い広場が貸し切られ、鬼達による大規模な新年会が開かれるという話を彼女達は聞いている。
ただし、誰でも参加が可能なお祭り様式と銘打ってはいたが、サトリとその仲間達は歴史の上で、常に招かれざる者だった。
さとりは燐と空の、期待と不安の混ざった心を読みながら、含み笑いをして、
「向こうが己の心を犠牲にして歩み寄ってくださってるのです。たとえこの集いが今日限りとなっても、それはそれ。我々地霊殿の者も、皆さんの誠意に応えなくては」
「わぁ。だったら、こっちも楽しまなきゃ損ですよね。さとり様も飲みましょう!」
「でもいつも旧都を歩いてる時みたいに、鬼とか色んな妖怪から、嫌な目で見られたりしないかな」
「えへへ。実はあたい、一人仲良くなれそうな妖怪に心当たりがあるんだ。この前旧都で会ったんだけど、今日来てるかもしれないから、あとでおくうにも紹介してあげるね」
「本当に? どんな妖怪? 私も仲良くできる?」
賑やかな声と共に、三種の足音は木から遠ざかっていった。
気配が去った後、幹の陰にいた妖怪は、小さな顔をひょっこりと覗かせた。
辺りの気配を嗅ぐ、その白いおかっぱ頭の小鬼は、付喪神だった。
実は地霊殿の三名が来る前から、彼女はここで午睡をしていた。
臆病者の付喪神にとって旧都は大変におっかない場所であるものの、この木の近くだけは亡き主人の仕事場の次に落ち着く場所なのだ。ただし、毎日のように妖怪が訪れるために、その度に見つからないように隠れなくてはならず、ゆっくりとくつろぐことができたのは、今日が初めてだったのである。
というわけで木の根を枕にして、久しぶりに楽しい夢を見ていたのだが、先程の三名の話し声で目が覚めたのだ。とても真面目で難しそうな話だったので、出るに出られず、気配を消して隠れていたのだが……。
「素敵な夢だったね」
あらぬ方向から、いきなり声をかけられ、付喪神は飛び上がった。
いつからそこにいたのか、側で一人の妖怪が幹に背中を預けていた。
黒褐色の帽子をかぶった灰色の髪のその少女は、透明な笑顔で告げる。
「ねぇ。貴方がさっき見てた夢、描いて見せてくれない?」
どうして夢のことを、と付喪神はますますびっくりした。
確かにさっきまで見ていた夢はいいものだったけど、それが『予言』なのかどうかは分からなかったし、描き残す必要があるかどうかも分からなかった。
それに、気配に敏感な付喪神にも全く気配を感じさせないとは、この妖怪、一体何者だろうか。
帽子の少女は、何一つ疑問を顔に浮かべることなく、ただこちらを見つめ続けている。
付喪神はおずおずと自分の体の一部となっている筆と、白紙の絵巻を取り出した。
それから、主人に道具として仕えていた頃のことを思い出しながら、頭に残るその夢を描きはじめた。
昨年まで、付喪神は式神だった。
亡き主人が完成させられなかった絵を描き上げること。
それこそが予言の能力と共に、主人から与えられた最初で最後の命令だった。
もっと長く生きたい。長く生きて、恩返しがしたい。人間だった私を仲間に加えてくれた鬼の皆に。
けれども、私に残された寿命はわずか。だから私の代わりに貴方の絵で、この都の未来を守ってほしい。
主人の仕事場にて七十五年の眠りから目覚めた付喪神は、その間に見た膨大な夢をはりきって描写した。
予知夢は実現までの時間が近いほど正確となる。なので、まずは現時点で描ける絵を責任者である鬼に手渡し、その後は彼女の側について逐一予言を提供するつもりだった。
しかしながら付喪神の計算は、のっけから狂ってしまった。
なんと夢で見た都を滅ぼす妖怪『二人』が、頼りにするはずの一本角の鬼と一緒に、お堂に入ってきたのだ。
パニックとなりながら、何とかお堂から逃げ出したものの、それからがまた大変だった。
予言を完成させるまで、自分の身を自分で守らなくてはならず、言葉を話せなかったために、相談相手を見つけることもできなかった。予言の絵の源となる夢も、極めつけの悪夢と呼べる代物であり、眠りにつく度にうなされ、心がやせ細っていく思いだった。
だが紆余曲折あって、何とか旧都は異変に耐え、平穏を取り戻すことができたらしい。
怪物は滅び、怨霊は眠りにつき、主人が大好きだった都は守られた。
なのに付喪神の心は、まだ晴れない。
なぜ自分は主人の元に行けず、今もここにいるのだろう。
悩みに合わせて、筆の動きが鈍くなっていく。
まだ自分がこの世界に具現化したまま残っているという事実が、彼女を不安にさせていた。
旧都の異変が終わり、予言が必要なくなったはずなのに、まだこの怖い世界に置き去りにされている。
何かやり残したことがあるのだろうか、と探してみたものの、何も見つからないまま三週間が過ぎた。
今もまだ、帰り道を見失った迷子の気持ちである。
「わぁ、ここにいるのお姉ちゃんね。じゃあこれとこれは、お燐とおくうかしら」
背後の妖怪が身を乗り出し、指を伸ばしてきた。
馴れ馴れしいだけでなく、付喪神の後ろ頭にぺたりとくっついて筆の動きをさらに悪くしてくる。
それでいて、嫌悪感の類を相手に抱かせないのが不思議だった。
ようやく完成させた絵巻を、付喪神は背中の少女に渡す。
彼女は楽しそうに巻物を広げて眺めていたが、やがて右へ、左へと首を交互に傾けはじめた。
「あれ? あれあれ? 何か足りないよ」
「…………?」
「わかった。これ、貴方が描かれてないんだわ」
え、と付喪神は意外な指摘にたじろいだ。
見た夢を忠実に再現したつもりだったのだが、確かに、『あの夢』の中には観測者である自分も混ざっていたのだから、足りていないという批評は間違っていない。
「やりなおしー」と絵巻を返され、慌ててもう一度仕上げ直す。
生まれて初めて自分の姿を絵の中に描き入れながら、もしかして、と付喪神は思う。
もっと生きたかった私の代わりに、貴方がこの都の未来を守ってほしい。
それが主人の願いだった。
だとすると、まだこの世界に自分が残っているのは、そのお願い事が今も続いて……。
風が吹き抜けた。
付喪神は反射的に顔を上げる。
さわさわと音を立てる木の葉の間から、三つの流れ星が飛び出し、勢いよく天を横切っていった。
流星はそのまま、都の奥へと落ちていく。と同時に、歓迎するかのように花火が上がる。
側にいる妖怪が、急に立ち上がり、付喪神の手を取った。
「それじゃあ、これから行ってみよー」
「…………!」
断るタイミングを逸し、付喪神は彼女に手を引っぱられ、わけもわからず地面を蹴る。
まだ花火の止まぬ都へと、あせあせと宙を泳ぐように飛びながら。
沙羅双樹の根元。
地面に広げられたままの絵巻には、小さな予言者の見た夢が描かれている。
地底を救った仲良し四人。彼女らに協力した大勢の仲間達。
古びた殻を破って生まれた新しい都。その新たな時代の、元年の宴が。
(おしまい)
最近思うのは、良い作品と言うのは読者の心をとにかく揺さぶってくれるという事(前向きにせよ後ろ向きにせよ)なんだなと
予言の絵の全貌が明らかになった瞬間の自分のテンションと言ったらありませんでした
思わずオシッコを漏らしそうになって「俺の膀胱は危なかったのか」と、そこで初めてトイレに行かねば、と気づいたくらいで、文字通り「絵になる」と言う表現がぴたりです
「いけぇー」みたいな叫びなんかをセリフとして書かれると、自分はウソくささを感じてしまう方なんですが、この作品にはそれが無い
今風に言うと(迫真)て奴で、違和感ゼロで存分に勢いを楽しめました
異変の渦中も渦中、ド真ん中にいたキスメの印象は何故か薄いのですが(釣瓶落としの話を真剣に受け止めていなかったからだろうか?)…まぁ小さな事なんだろうなと思います
支離滅裂な感想ですが、このテンションで感想を書かざるを得ない位、気分を高揚させてくれた作品て事でひとつ
式神がでてきたときの描写で、一瞬だけ某天邪鬼が頭に浮かんだのは内緒。
最初、伏線から入ると大抵はよく分からず読むのをやめる時もあるがこの作品の冒頭はすぐに情景が脳内変換出来る様な工夫された文章ととても儚い会話だった
最初の十数行
それだけで
あっ(察し)
最初から最後まで一気に読んだのは言うまでもない
支離滅裂 ですか・・・
では一言で終わらせましょう
「乙」
素晴らしい作品をありがとう!
よいお年を
欲を言えば臥姫さんのエピソードをもっと読みたいと思いましたがそれは贅沢というものでしょう
またあなたのヤマメが見れたのも嬉しい驚きでした
本当に良かったです
式神てっきり正邪かと思いましたよw
主要人物もまた無駄なく活躍しててまたよかった
この小説を書いてくれて、ありがとう!
最近、創想話の得点が厳しくなっているけど、きっちりたくさんの人とコメントであふれますように。
ミズメ姐さんに惚れた瞬間。
世界観の構築から飽きさせない文章と、目が離せなくなって一気に読んでしまった転の部分まで、全て堪能させていただきました。
世界観を広げすぎたとは仰りますが、それをキッチリと纏めあげるのは見事の一言です。
まあ、なんつーか。簡潔に言えば、すげーおもしろかった!
面白かったです。
なんだかんだで鬼に慕われるようになってるのも微笑ましいやらうれしいやら。
釣瓶落としの設定に唸らされましたね。元来凶暴な妖怪と言うのがキスメとうまく結びついててスッと入ってきました。
ハッピーエンドになって臥姫も報われたであろう。お疲れさま。
しかし式神の初登場シーンで正邪を思い浮かべたやつはやっぱりいるんだなぁw
予言の全貌がわかった時は歯をガチガチしながらテンション爆発してました。
ちょっと覗いてみるか→一気読みという流れにさせてしまう引き込みが何よりも魅力ですね。
とても綺麗で、それでいて新年の希望を強く感じさせる素晴らしい物語でした。本当にいつも最高です!ありがとうございました!
大好きです
素晴らしいお話をありがとうございます!
パルスィ、勇儀、それぞれ対極的な生き方でありながらも、
ひょんなことから縁が結ばれていき、凄くワクワクしました。
あと、キスメちゃんが天使すぎて生きていくのが辛い。
ありがとう!
時を忘れて読み耽ってしまいました。
パルスィと勇儀の仲が良い話というのは良くありますが、設定を掘り下げて考えてみればこの二人は本来相容れぬ存在なんですよね。
この作品は、旧地獄の闇すらも全て掘り下げた上で、最終的に納得できる形でこの二人を親友と呼べる関係にまで持ってきたというのが、非常に素晴らしいと思います。
ヤマメ、キスメ、その他鬼達もとても良い働きをしてくれました。
あなたの作品のオリキャラは誰もが活き活きとしていて、読みながら楽しい気分にさせてくれました。
「サイダー色した夏の雲」を読んでから、ずっとあなたの作品の大ファンです。
これからも末永く、あなたの幻想郷をこの場所に紡ぎ出してくれれば、これ以上の幸せはありません。
……ここまで真面目な感想を書いておいてなんですが、この作品を読んで、ヤマメちゃんを惚れさせた草太が更に妬ましくなりました。妬ましい妬ましい妬ましい妬ましい……。
一言で言えば素晴らしかったです!
物語の転換点の度に心が揺さぶられるような感覚を味わってました。
終盤は涙目でした。
ハッピーエンドでよかった!
このような素晴らしい作品をありがとうございます!
そして、お疲れ様でした!
時間を忘れて楽しく読めました!ありがとう!
涙流すとは思わなかったが、面白かった
乙!!
2の終わりで「そうこなくっちゃ!」とにんまりしてしまいました
パルスィファン、地底組ファンで良かったと心底思います
賛辞を贈らずにはいられない!
本当にありがごうございました!
スゴイ!!
お美事にございます!
既存キャラ・オリキャラ双方が生き生きと描かれている様は圧巻でした。
最後のこいしちゃんも良かったです。
大作ゴチでした!
次回作も楽しみにしています。
このパルスィは神話になってもおかしくないレベル
キスメや筆姫のその後もフォローされていて気持ちよく読めました
これほどの大作、読めたことに感謝します
そんな作品がまた一つ増えました。
素晴らしい作品をありがとう
業にまみれた地底の妖怪たちの歪んだ有り様が空しくも好き……
勇儀や左近たち鬼の力強さ、一本通った意志がかっこいい……
怨念の悲哀が伝わってくるようで。
キスメは本当に恵まれた師匠を持ったな…と。
不思議なほどに解放感に溢れた読了感です。
本当に、ありがとうございました。