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#01
暮れなずむ陽の光を背中に浴びながら、私は人里から命蓮寺に向かって歩き続けていた。手に触れられそうなくらいに低い雲が空にずしんと胡座をかくような、それはそれは寂しい晩秋の夕暮れ時のことだ。
お寺に寄せてもらう前に亡くなった子供のお墓に参ろうと道を外れたところ、背後に誰かが降り立つ音が鼓膜を打ち、振り向く間もなく両肩をつかまれたもんだから、私はどら猫に睨まれた子鼠みたいに飛び上がってしまった。
「協力してくれ、追われてるんだよ!」その子は云った。「すぐに別の妖怪が来るから、間違った方向を教えてやってくれ、好いな!」
訳も分からずに頷くと、その子はベテランの兵隊さんさながらに近くの藪へと頭から飛び込んだ。白や赤の混じった黒髪から一対の小振りな角が生えていて、つっかけみたいな代物を履いていた。
「――小傘っ!」
“別の妖怪”とはすなわち、ぬえちゃんのことだった。今にも巨人に立ち向かわんばかりに三叉槍を構えて、黒髪を逆立たせている。
「どうしたの?」
「今めっちゃ生意気そうな奴が通らなかった!?」
「生意気そうなのはぬえちゃんも同じでしょ」
「あ、そっか。――って違う違う! ほら角が生えてる妖怪で、だっせぇサンダル履いてる奴!」
「その子なら」私は明後日の方角を指さした。「あっちの方に飛んでったよ」
「ば、ばかもーん! そいつが天邪鬼だ、追えぇぇぇッ!」
……ぬえちゃんが飛び去ってから、私は小さく溜め息を漏らして「もう好いよ」と呼びかけた。彼女は髪を木の葉だらけにして、芋虫のごとく這いずりながら藪から出てきた。
「は、腹を打ってしまった……」
「大丈夫?」
「平気だ、こんくらい」げふっと咳が転がる。「ふぅ、おかげで助かった。――まっ、お礼は云ってやらないけどな!」
「は?」せっかく協力してあげたのに。「あなた、ちょっと人様に対する態度がなってないんじゃない?」
「シャラップ・メンっ!」そいつは手を上げた。「それよりだな。……お前、もしかしなくても付喪神か?」
「だったら何さ」
「ふっふっふ、なら話は早い。いかにも虐げられていそうな顔をしているからすぐに分かった。――どうだ、下剋上に興味はないか? 一緒にレジスタンスをやってみないか?」
「れじすたんす?」
「今の強者が支配する幻想郷の勢力図を塗り変えてやるんだ。そして我々のような弱き者が好き勝手に暮らせる理想の世界を創り上げる。どうだぁ?」
槍を振りかざして風車に突撃してゆく西洋の騎士さながらに、茄子色の傘を振り上げて紫さんや幽香さんに突進してゆく自分の姿を思い浮かべた。想像するだけで鳥肌が立った。
「や、止めておくわ!」
「ふん、あいつと同じことを云うんだな」
「――ぬえちゃんと?」
少女は大げさに溜め息を漏らす。「……珍しく下手に出て『私やあんたみたいな弱小妖怪でも幻想郷をひっくり返せるってことを思い知らせてやろうよ!』って提案したんだ。そしたら見事にぶちギレされた」
「いや、そりゃ駄目でしょ」
ぬえちゃんは見かけ以上にプライドだけは高いのだ。変なところでからかい過ぎると最後には拗ねてしまい、アルマジロみたいに丸まって口も利いてくれなくなる。
「やれやれ、やる気のない輩を誘っても仕方がないか」
と奴はまたも無遠慮な口調でのたまった。
「だが、まだ諦めないぞ。連中に思い知らせてやるまではな」
私は茄子傘の柄を握りしめた。「どうしてそこまでして……」
その子は不敵な笑みを浮かべると、目にも止まらぬ素早さでデコピンを見舞ってきた。
「あいた!」
「教えてやんねー」
そして大地を蹴り上げてから、上下逆さまの格好で冬空へと沈んでいった。私に向かって“あかんべえ”をしながら、ゆっくりと。
何だったんだろう、あれ。頭に疑問符を浮かべながら私は墓地に踏み込んだ。
墓石の表面や卒塔婆の葬列、小道の脇に佇む柳の枝を寒々しい風が撫でていった。刺すような寒さに震えながら角を曲がって目的の墓に辿り着くと、そこには先客がいた。したたる血を振りかけた赤い頭髪と外套に、夜の闇を閉じ込めた真っ黒い衣服、――妖怪だ。
「……さっきは災難だったわね、あなた」
「はい?」
彼女の声はくぐもっていて、まるで独り言のようだった。
「先日ね、私も誘われたけど面倒だからパスしてやったわ。あいつのおかげで里から追い出されそうになったし。死んでも協力なんかしてやるもんか」
「だ、だよねぇ」私は調子を合わせてから話題を変えた。「あなたも、この子と知り合いだったの?」
「知り合いってほどじゃない」彼女は鼻風邪を引いたモグラのごとく喋った。「でも。……うん、悪い人間じゃなかった。それだけでも墓参りをする理由にはなる」
「好いひとね、あなた」
「妖怪よ」
「私達さ、――何処かで会ったことない?」
「まさか」
初めて顔を向けてくれた。
「そんな筈ないわよ、初対面」
「そうかなぁ」
こんな赤い髪を持ったひと、忘れる筈がないと思うんだけど。
「ま、好いや。――私は多々良小傘。あなたの名前は?」
「……赤蛮奇」
「赤飯機?」
「赤蛮奇! どう聞いたらお赤飯になるのよ!」
「やっと大きな声を出してくれた」
私が笑いを返してやると、赤蛮奇さんは外套の襟を引き上げて顔をすっぽりと隠してしまった。彼女の肩に白い粒が舞い降りたのはまさにその時で、私は瞬きしてから口を開いた。
「雪? もしかして」
「あらほんと」
「やっと降ってきた!」
「また一段と寒くなるわね」
空に胡座をかいていた灰色のヴェールが輝きを増したような気がした。寒さで鬼灯(ほおずき)のように色づいた彼女の頬が、白く濁った息の向こうに霞んで見えていたのだ。
#02
「雪っ、――雪ですよ霊夢さん!」
「毎年のことじゃないの。興奮しちゃってまぁ」
「よく見て下さい。綺麗な結晶になってる」
「あんたくらいの大きさならともかくね、そんなこと私に云われても分からないわよ」
少名針妙丸は縁側に腰かけた巫女の膝によじ登って、袴に舞い降りた雪のひとひらを抱きしめた。雪は体温で儚くもあっという間に溶けてしまい、小袖がしっとりと濡れてしまった。
「きゃっ! 冷たい、寒いです霊夢さん……」
「云わんこっちゃない」博麗霊夢は頭を掻いて立ち上がった。「そこで待ってなさい。替えの着物持ってくるから」
「面目ありません」
霊夢が去ってしまうと、針妙丸は残された座布団に寝転んで胸いっぱいに息を吸った。銀色の空から降りしきる粉雪は、その一粒一粒がまるで生きているかのように出鱈目な方向に動いて見えた。霊夢の体温の名残が心地好くて、また雪の模様が目に優しくて、つい眠り込んでしまいそうになった時だった。
「――め、姫っ!」
「その声は」針妙丸はむっくりと起き上がった。「せーじゃ、――正邪なの?」
「しーっ!」鬼人正邪が雨樋に足を引っかけて逆さまにこちらを見下ろしていた。「巫女は?」
「今、私の替えの服を取りに行ってくれてるけど」
「少し話せないか?」
「また悪だくみ?」針妙丸は眉をひそめた。「最初から最後までひとを騙しておいて、よくも現れる気になったわねぇ」
正邪はそっぽを向いて口笛を吹く真似をした。
溜め息をつく気すら起きない。「……それで、話って?」
天邪鬼が手を伸ばしてきたので、針妙丸は彼女の指にしがみついた。すぐに屋根の上へと引き上げられ、彼女の肩へと着地する。相変わらず正邪の肩は小さく痩せていて、乗り心地は悪かった。
しばらく間があった。正邪は冬空を見上げてはうつむき、口の中で言葉を転がしているようだ。格好は以前と少しも変わっていない。
「……寒くないの?」
「“寒い”って云ったらどうする」
「一緒に炬燵入らない? すっごくあったかいのよ。霊夢さんが美味しい蜜柑だって用意してくれるし」
「ふんっ」正邪は鼻を鳴らした。「いやはや、小さくなったな。姫」
「貴方こそ、何だか前よりちっちゃくなった気がするわぁ」
「小槌の魔力が失われたからな、その反動だ。おかげでいまいち調子が出ない。……白黒の魔法使いも妖怪も付喪神も、どいつもこいつも小槌の魔力が切れた途端に私から離れていきやがった」
「辛い?」
「大きなお世話だ」
「まだ何も云ってないのに」
正邪は霊夢が用意していた醤油煎餅を勝手にばりばりと食べ始めた。
「……むぐ、今日はちょっと偵察に来たんだ。ま、あの様子を見る限り余計な詮索は不要だったみたいだがな」
「なにさ、心配してくれちゃってんの?」針妙丸は顔を綻ばせて云う。「それはそれは、今年でいちばん心にぐっと来るニュースだわ!」
天邪鬼は「しまった」という顔をして、三色混じりの髪をがりがりと掻いた。その拍子に肩が前後左右に揺れたので、針妙丸は危うく軒下まで転がり落ちそうになった。
「心配どころじゃない、後腐れが無くなって清々してるさ」
「あらら、それでも好いわ。貴方に気にかけてもらうなんて、なんだか気色悪いし!」
「この野郎」
「それよりさ、今はどうしてるの? 無事に逃げられたみたいだけど」
「同志を募ってるんだ。今度は打ち出の小槌に頼らなくても済むようにな、念入りに計画を練ろうと思ってる」
針妙丸は顎が落ちかねないほどにあんぐりと口を開けた。
「……ま、まだ諦めてなかったの? あんな酷い目に遭ったのに?」
「えらいこっちゃなってるのは姫だけだろ。こちとらまだまだ快調だ」
「誰のせいで小さくなったと思ってんのよ」
「小さいといろいろ便利じゃないか」正邪は煎餅を噛み砕いた。「腹ァいっぱい食えるし」
「好い加減にしなさいよ、まったくもう。――そうだ、私が以前の大きさに戻ったら、また一緒に暮らすってのはどうかしら? いつまでもここに居るって訳にもいかないし――」
「ばーか」
人差し指で頭を小突かれて、針妙丸の頭は大きく仰け反った。
「――首の骨が折れたらどうすんのよ、このバカの邪鬼!」
「そうそう、私は天邪鬼なんだよ。姫」正邪は舌を出して笑った。「退かぬ・媚びぬ・省みぬ。馴れ合いなんて御免だね」
首の痛みと正邪の言葉とで、針妙丸の声が雨雲のように湿った。「ほんとうに、本当に私を道具みたいに利用していただけだったの、正邪? ……百パーセント?」
「もちろん」即答だった。「話はそれだけ、じゃあな」
彼女は素っ気なく飛んでいってしまった。ご丁寧にも飛べなくなっている自分を冷たい屋根瓦に置き去りにしていきやがった。濡れてしまった小袖もいよいよ冷えて、くしゃみが寒空に溶けていったけれど、針妙丸は正邪が消えた方角から目を離すことができなかった。
何故なら、自分を瓦に下ろしてくれた正邪の手つきは、あくまで優しく気遣わしげだったのだ。かつて一緒に過ごしていた時分のように。
駆けつけてくれた霊夢に対して、針妙丸は何も話せなかった。しかし霊夢は天邪鬼が来たことをどうしてか見抜いてしまって、色々と言葉をかけてくれた。あいつは何も出来やしないから安心して。何かしてきやがったら私が出向くから。
針妙丸は「そうじゃない」と首を振ることしかできなかった。何が好くて、何が駄目なのか。私が本当に哀しんでいるのは正邪の行いそのものではないのだと思った。彼女の、あのひっくり返った心のことがただ気になってしまうのだった。
この小さな小さな身体には、まだまだ分からないことが沢山ある。
#03
封獣ぬえが手土産を持参して命蓮寺の母屋から出かけたのは、その翌日のことである。年末になったら大掃除を手伝うようにと念を押してくる入道使いや、日頃のいたずらの仕返しに雪玉(呪いの海水をたっぷり染み込ませた特別製)を部屋に投げ込んでくる舟幽霊にすっかり辟易してしまったのだ。
昨夜のうちに雪は幻想郷を覆ってしまい、田園から山々まで銀世界に姿を沈めてしまったが、朝になってみれば天気そのものは快晴だった。ぬえは軽やかな足取りで正門に差し掛かったが、背中に雪の塊を放り込まれて三尺ばかり飛び上がった。
「ご機嫌うるわしゅう」
「あ、あんたねぇ……」
天邪鬼が頭上に逆さまに浮かんでいた。裸足にサンダル、半袖と相変わらず寒そうな格好だ。手にはいつの間にか土産の包み。ぬえの赤いリボンと正邪の青いリボンとが天地を隔てて睨み合った。
「それ返して。痛い目を見たくないならね」
「レジスタンスに協力するなら返してやるよ」
「またそのこと?」ぬえは腕を組んだ。「云ったでしょ。私はそんなもんに興味はないの。ひとを困らせてメシウマする程度なら悪くはないけど、テロリストに転職するつもりは毛頭ないわ」
「お前の正体不明の能力は、絶対に使える」正邪の眼が光った。「引っかき回す目的にも、逃亡する際の囮にだって使える。応用次第で本当にこの世界をひっくり返せるかもしれない」
「そりゃ高く買われたもんね。ありがと。さっさと返しやがれ」
「大昔に地底に墜とされたって聞いたぞ。平安京の大妖怪だか何だか知らないが、それが今じゃ妖怪寺の門徒に落ちぶれてやんの。――好い加減、飽き飽きしてるんじゃないのか」
「何を云って――」
「“住めば都。一緒に暮らしていれば少しは他の連中に溶け込めるかもしれない”なんてナンセンスだ。正体不明が聞いて呆れる。そろそろ自分を取り戻してみたらどうだ、兄弟?」
ぬえは三叉槍の柄を石畳にこつこつと叩きつけた。唇が無意識に引き結ばれて、眼は鋭く細まった。正邪は中空でシャボン玉のように落ち着きなく身体を反転させていたが、その紅い瞳だけは真っ直ぐにぬえの胸へと向けられていた。その瞳を見つめているうちに、ぬえの心の中に猛っていた炎は鳴りを潜めてゆき、跡にはくすぶりを続ける灰だけが残された。
「……あんた、もしかしてさ」ぬえは口を開いた。「最初から私を勧誘するつもりなんてないんじゃないの?」
「なんだと?」
「本当は単に私が気に入らないだけでしょ。だからちょっかいを掛けてくるんじゃない? どうしても協力して欲しいってんなら、菓子折り持参で頭を下げなさいよ。逆立ちしたってできっこないでしょうけど」
天邪鬼は動きを止めて、つまらなそうに肩をすくめた。放り投げるようにしてぬえに包みを返すと、中途半端に舌を出した。
「へーんだ、好い子ちゃんぶりやがって。寺の連中から嫌われるのが怖いだけなんだろぉ? ここで暴れると和尚さんから大目玉だもんなー」
命蓮寺を後にして、ぬえは人里の方角に向かった。感情が高ぶって火照った頭には、冬の寒風はちょうど好い薬になった。正邪とのやり合いを思い返しているうちに飛行する速度は落ちてゆき、遂には林道に着地してしまった。歩きたい気分だったのだ。
正邪は命蓮寺に残った。寺の中には味方に引き入れられそうな奴がいるかもしれないと踏んでいるのだろう。ひらひらと手を振って歩いてゆく彼女の背中が、今にも日差しで溶けてしまいそうに見えた。
林道にも雪がしっかり降り積もっていたが、そこに残された獣の足跡がぬえの目前を横切っていた。足跡の持ち主の気配はなく、ただ過去に起こった出来事を指し示す痕跡だけが息づいていた。ちょうど手首に刻まれた矢傷のように。
「……嫌われるのが怖いだけ、か」ぬえは呟きを落っことした。「ひとの心配をするよりも、自分の心配をしろっての。天邪鬼」
#04
子供達は雪を目にして大はしゃぎだった。赤蛮奇は多々良小傘の隣で寺子屋の柵に背中を預けながら、雪玉をぶつけ合う幼子らの様子を見守っていた。陽の光が雪に反射して、さながら祝福するかのように子供らを優しく包んでいる。
「晴れて好かったね。みんな楽しそう」小傘が笑った。「きっと風の神様が気を利かせてくれたんだよ。雲を払ってくれてさ」
「……それで用事って何? まさか一緒に生徒の御守をしろって?」
「そ。ひとりじゃ手が足りないのよ。ちょっと目を離した隙に遠くに行っちゃうからさ、後で慧音さんに苦労をかけないように」
「その先生は何してるのさ」
「小テストの採点。いつもは寝る時間を削ってやってるって。昼休みの時だけでも見てくれると、とても助かるんだそうよ」
「なるほどね」
赤蛮奇は小傘に貰ったいちご味の飴玉を噛み砕いた。飴なんて口にしたのはいつ以来だろう。
ふと、小傘が云った。「子供は嫌い?」
「……苦手なだけ。でかい連中よりかはマシだけど」
「人間が嫌いなの?」
「距離を取ってるだけよ」
「でも里に紛れて暮らしてるんでしょう?」
「あなたね」赤蛮奇は柵から身体を離した。「余計な詮索をしないと気が済まないわけ? 根掘り葉掘りひとに訊ねていったい――」
「ご、ごめんなさい。赤蛮奇さんのことを、もっと知りたくって」
「知りたい?」
小傘は頷いた。「お互いのことを知り合っておかないと、いつまで経ってもぎくしゃくしたままでしょ? ――あ、そっか。それなら私の方から話さないと失礼だよね。ごめんなさい」
「いや、好いわよ別に――」
聞いちゃいなかった。あれこれと話し出す少女を横目で見ながら、赤蛮奇はこめかみに指を当てた。けれども話が付喪神になったきっかけに及んだところになって、顔を上げて話を遮った。
「人間に捨てられたから? だから付喪神に?」
「ん、そう」小傘は茄子色の傘に目を落とした。「こんな色だからね。気に入ってもらえなかったんじゃないかな」
彼女のまつげは微かに震えていた。
赤蛮奇は首を振る。「ふつう、あなたみたいな付喪神は使ってた奴に復讐するか、さもなければ人間に怨みを晴らすものだって聞いたことがあるけれど」
「ちょっと前まではね、そうだったよ」でもさ、と小傘は呟くように云った。「きっかけがあって。“こんなの空しい”って思っちゃったの。それよりも私に出来ることを積み上げていって、人間を見返してやる方がやりがいがあるんじゃないかって気がついたの」
「……あんた、妖怪よね?」
「人間に近しく暮らす妖怪が居ても好いんじゃないかな」
「わからない。――分からないわ」
こいつに付き合ったのは間違いかもしれない、そう思った時だった。
子供の放った雪玉が弾丸のごとく飛来して、赤蛮奇のヘッドに直撃した。ひと溜まりもなく首が取れてしまい、雪の絨毯に受け止められて冷たい感触が頬に伝わってきた。
赤蛮奇の視界には冬の澄んだ青空が映っていた。二羽の小鳥が仲睦まじく鳴きながら蒼を横切っていった。そこには自由があった。一瞬の沈黙を経た後になって、ようやく子供達の悲鳴が耳に届いた。
「やれやれね。小傘っ、子供らをなだめてやって――」
「――ヒエッ!? 首が、赤蛮奇さんの首が椿の花みたいに!」
「せいせいせい、なんであんたまで驚いてんのよ! 同じ妖怪でしょうが!」
小傘は腰を抜かしていた。膝を寄り合わせてへなへなと、絵画になりそうなくらい芸術的な腰の抜かしっぷりであった。子供達が一斉に寺子屋へと逃げ込んでゆき、フライパンのごとき頭突きが得意技のハクタク先生が参上つかまつるのは時間の問題となった。
「まったくもう!」
ヘッドを拾い上げて元に戻すと、震える小傘の手から飴玉をひとつ奪い取って口に含んだ。悔しいくらいに甘かった。
「……そういや云ってなかったわね。私の種族は“ろくろ首”よ。――それじゃ」
自慢のマントを翻して、赤蛮奇はその場を去った。
やっぱり世の中上手くいかないものだ。また失敗してしまった。
赤蛮奇は小走りで往来を進みながら思った。子供らの悲鳴と恐怖に歪んだ彼女の顔が脳裏にちらつく。何故だろう、怖がってもらえたのに気分が悪い。ちくしょう、という呪いの言葉が口から漏れるばかりだ。
そうして考え事に気を取られて、前を好く見ていなかったのがいけなかった。赤蛮奇は通りがかった少女に派手に肩をぶつけてしまった。
「――ったァ、何様のつもりよ。あんた、喧嘩売ってんの?」
真っ黒なワンピース、胸元に紅いリボン。さらに血の色に染まった宝石みたいな瞳。
赤蛮奇は反射的に身を引いた。
「ご、ごめんなさい。ぼんやりしてしまって」
「ぼんやり?」少女は手を広げた。「眼は付いてるんだから前くらい見えるでしょ。あんた野良の妖怪ね、ちょっと痛い目に遭ってみる?」
少女の肩からカラスの羽毛のように黒い筋が立ち昇るのを見て、赤蛮奇は鳥肌立った。それはいつか見た古の妖力だった。
「あ、あ……」唇が震える。「ちゃ、ちゃんと謝る。謝るから――」
「――こらっ、ぬえちゃんったらもう!」
小傘だった。茄子色の傘を振り回しながら隣に仁王立ちする。
ぬえと呼ばれた少女はたじろいだ。「こ、小傘。あんたなんで――」
「また関係ないひとに八つ当たり? 今度は何をして叱られたの?」
「ぶつかってきたのはこいつよ」
「ちゃんと謝ってるじゃない! こんなところで騒ぎを起こしたらどうなるか分かってる?」
ぬえは周囲を見回して注目を浴びてしまっていることに気づくと、慌てて二色三対の翼を引っ込めた。舌打ちをひとつこぼしてから、ぶつかった拍子に落ちてしまった紙の包みを拾い上げた。
「あーあ、濡れちゃった。なんてこった」
喉がようやく息を吹き返した。赤蛮奇は云った。「本当にごめん。なんなら弁償でも」
「いや好いわよもう」ぬえは小傘の顔を窺いながら答える。「私の方こそ不注意だった。ちょっと機嫌が悪くてさ、勘弁してちょうだいね」
赤蛮奇は頷いて外套の襟を引き上げた。小傘もうんうんと頷く。
「ぬえちゃん、だいぶ素直になってきたじゃない」
「ほっとけ」
ぬえは手をひらひらと振りながら角を曲がっていった。それを合図に立ち止まっていた人びとは自身の生活に戻ってゆく。
「大丈夫?」
「……平気」目を合わせられなかった。「知り合い?」
「うん、封獣ぬえって名前なの。大切な友達」
「ぬえって、あの“鵺”?」
「全然そうは見えなかったでしょ?」
ナチュラルに失礼なことをのたまう小傘であった。
「人間と宜しくやってるかと思えば、次の瞬間には鵺と友達なんて」溜め息が漏れる。「ますますあなたが分からなくなってきたわ」
「ぬえちゃんは悪い子じゃないよ?」
「……信じられない」
小傘が首を傾げる。赤蛮奇は蕎麦屋の軒先の柱に寄りかかって彼女の瞳を見つめた。右は青空の色、左はいちごの色。くりくりと落ち着きなく輝きを放つ、誰からも好かれそうな大きな瞳だった。
「信じられない。そんな風に、人間とも妖怪とも打ち解けてやっていけるなんて、私は信じたくない。ずっと前からそうだった」
「ど、どうしたの? なんでそんなこと云うの?」
「あなたは知らないと思うけど、私は以前からあなたのことを見ていたの。子供達に芸を披露していたり、赤ちゃんの子守をしていたあなたのことを」
小傘は手を打ち合わせた。「――思い出した! やっぱり赤蛮奇さんだったんだ。いつも遠くから見てたよね、赤い髪をした女の子」
思いっきりバレておった。赤蛮奇は襟に顔を埋めた。
「私は、私はね」自分は何を云おうとしているのだろう、唇が勝手に動いている。「……どいつもこいつもうんざりで、だからできるだけ距離を取って暮らしたかったの。人間からも妖怪からも。厭になる連中ばかりだから。でも、――でも正直に云うと、あなたのことが羨ましい」
小傘は黙って聞いてくれていた。
「子供は苦手だけど、子供の笑顔は好きよ。でも好きだからこそ眩しくてたまらないの。雪に反射した陽の光みたいに。子供達が遊んでいる姿を見ていると、何故だか胸が苦しくなってくる。そんな風にはしゃいでたら、転んじゃう。そんな風に笑われたら、辛くなる」首を振った。「……ごめん。こんな言葉じゃ、分かってもらえないと思うけど」
もっと云うべきことがあるはずだと思った。でも恥ずかしさが勝ってしまい、赤蛮奇は押し黙った。付喪神の少女は意味もなく傘を開いてくるくる回してみせると、飴玉を差し出してきた。赤蛮奇が手のひらで受け取ると、小傘は微笑んだ。
そして云った。「……ねぇ、私がいちばん幸せになる瞬間ってどんな時か、教えてあげよっか」
頷きを返す。
「ひとつはね、油断している子供を驚かすのに成功してお腹が膨れた時で、――もうひとつは、雨に濡れそぼって泣いている子供のために、この傘を差しかけてあげる時だよ」
「……つまり?」
「あなたの能力は、とっても使える」
「は?」
「さぁさぁ、お立ち合いお立ち合い!」
再び寺子屋の庭、呼び集めた子供達の前で、小傘は茄子色の傘を器用に回していた。……赤蛮奇の頭を乗せて。遊園地のティー・カップなんて目じゃないくらいに視界が激しく揺さぶられて、ぶっちゃけると吐きそうだった。どうしてこうなった。
子供達は怖がりながらも好奇心を誘われているようだった。歓声こそないものの、小傘の新しい芸に興味津々なようだ。あとひと押しが必要みたいだった。こうなったらやけくそだ。
「い、――いつもより余計に回っておりまぁぁぁすっ!」
爆笑が巻き起こった。子供達の笑い声が鼓膜を優しく打つ。自分のことを小傘と同じように“親しい存在”として受け止めてくれたようだった。冬の寒さにも負けない暖かな笑い声に、赤蛮奇は包まれていた。
「――ぐふっ」
そして、泡を噴いて失神した。
#05
人里で小傘らと別れた後、所用を済ませた封獣ぬえは迷いの竹林に分け入った。真っ白にお化粧した竹が、挨拶するかのように積もった雪を葉っぱから滑り落とした。ぬえは竹の緑と雪の白と空の青とに親しみながら、竹林の荒ばら屋に向かった。
腐れ縁の家には本人の他にも来客がいて、二人して筍(たけのこ)の味噌漬けをぽりぽりつまみながら将棋を指していた。引き戸を開けたぬえは呼吸ふたつ分ほど硬直してから、久しぶり、と声をかけた。
「――あら、封獣じゃない。久しぶり」藤原妹紅が振り返って朗らかに笑った。「入って入って。せっかく暖まってきたところだし。熱が逃げちゃう」
ぬえは頷いて戸を閉めると、妹紅の隣に正座してから手土産の包みを渡した。
妹紅はどてらの袖を伸ばして受け取った。
「ん、何これ?」
「水羊羹。前うちに来た時、気に入ってたみたいだから」
「へぇ、気が利くじゃない。ありがとう」
すかさず頭を撫でてこようとしたので、ぬえは「子供扱いすんな」と身を離した。その時になって、ようやく向かいの客がこちらに気づいたらしく将棋盤から顔を上げた。
「……あなたが封獣鵺?」滑らかな毛並みの尻尾がくるりと円を描く。「はじめまして、今泉影狼よ」
ぬえは頷いた。妹紅に頭をぽかりと叩かれたので、仕方なく「よろしく」と云い添えた。影狼は牙を見せて笑いながら盤に視線を戻す。
「竹林に住んでるニホンオオカミの妖怪なのよ」妹紅が解説する。「最近知り合ったばかりなんだけど、筋が好くて成長も早いから楽しませてもらってる」
お褒めの言葉に影狼は返事もしなかった。だが尻尾はせわしなく板の間をはしゃぎ回り、耳はピサの斜塔のごとく天井を向いた。
「ほら、可愛いところがあるでしょ?」妹紅が云った。「封獣も嬉しくなると羽根が動き回るけど、それに似てると思わない?」
ぬえはそっぽを向いた。一方の影狼が次の手を指すと、妹紅は数瞬の考を挟むこともなく致命的な妙手を返す。哀れにも影狼の耳は倒壊し、凶悪な爪をかじり始め、グルルルという唸り声まで漏れ始めた。
「ん、美味しい」爪楊枝で水羊羹を口に含んでから、妹紅が云った。「それで今日は何の相談?」
「相談ってほどじゃないんだけど」ぬえは応じる。「この前の、小人と天邪鬼が起こした異変のことは知ってる?」
影狼が顔を上げる。赤ワインのような色をした瞳がきらめいた。
妹紅が腕を組む。「話くらいは」
「里じゃ噂にもなってなかったみたいだけど」
「影狼から聞いたよ。下剋上がどうたらって」
ぬえは頷いた。「話が早くて助かる」
「私から云わせてもらえばね」淹れ立ての緑茶を飲み干してから妹紅は云った。「その天邪鬼のことを、一概に否定はできないな」
「なんでさ?」
「どうしてなの?」
ぬえと影狼が揃って声を上げたのを見て、妹紅は笑った。
「封獣は正邪とかいう奴とやり合った訳だし、影狼は被害者のひとりだから、疑問に思うのも無理はないかもしれないけどね」
「でも、あいつは幻想郷を壊そうとしたのよ。あの小槌のおかげで満月なのに人前に姿を現す羽目になっちゃったし。おまけに魔法使いには自慢の髪を焦がされるし。おかげで自慢のキューティクルが……」
恥ずかしい、とばかりに影狼は水羊羹をもぐもぐしながら嘆いた。
「つまりね、下剋上をしたいっていう気持ちも分からないでもないってことよ」妹紅が云った。「……私は封獣や影狼よりも永く生きてる。それに元は力のないただの人間だったから、それで千数百年とやってきたもんだから、――その虐げられてきた連中の立場に共感を覚えずにはいられない。“鬼”だの“畜生”だのと蔑まれてるとね、どうしても“何もかもひっくり返ってしまえ”っていう想いが湧き上がってくる。ひとの頭の上に胡座をかいて笑っている連中を見ていると、心の底から憎らしくなってくる」
妹紅は事実を確認するかのように淡々と話した。
「……その正邪って奴も、見た目は鬼に似ているんでしょう? ――昔は鬼の連中がやりたい放題やっていたから、妖怪の中でも鬼に対する憎悪ってのは深かったと思う。でも実力じゃ鬼には敵わない。その鬱憤晴らしに天邪鬼という種族に恨み辛みがぶつけられたって可能性もなくはない。実際のところは当の本人に訊いてみなければ分からないけれど」
――理由を考えてみなければならないよ、と妹紅は続けた。
「“天邪鬼という生まれつきの種族だから”ってことだけで判断していたら、たぶん何処にも行き着けない。私も幻想郷に暮らして長いから分かってきたけれど、この世界に渦巻く種族間の軋轢というのは、意外と根が深いように思う。単純な実力差の問題だけじゃなくて、もっと根の深い問題があるような気がする」
……妹紅が話を結んでからも、ぬえと影狼は言葉を繋げることができなかった。釣り合った天秤のような危なげな沈黙が囲炉裏の熱にほだされていた。ぬえはリストバンドに覆われた左手首を無意識に握りしめていた。影狼は無言のままに水羊羹をぱくぱくと食べ続けていた。
「つまり」ぬえは呟いた。「話し合いが肝心ってこと?」
「殴り合いよかマシでしょう」
「私はそっちも好みなんだけど」
「しょうがない奴だなぁ」
妹紅は微笑みを分けてくれた。やっぱりこいつに話して好かったとぬえは思った。考え込んでいる様子の影狼を見ながら、思い切って二人に訊ねてみた。
「それにしてもさ、二人ともどうしてそんな仲好さそうなの?」
妹紅と影狼は同時に答えた。
「そりゃ、こいつが狼女の割には話の分かる奴だから」
「それは、このひとが人間にしては話を分かってくれるひとだから」
二人は顔を見合わせた。
その様子を見て、ぬえもようやく笑顔を取り戻すことができた。
#06
ぬえが竹林に向かったちょうどその頃、鬼人正邪は命蓮寺の境内を散策していた。ひとつひとつの部屋を見て回り、出会った門徒の妖怪ことごとくに声をかけて回ったが、一様に嫌そうな顔をされた。
正邪は気に留めることなくのんびりと本堂に差し掛かったが、そこで話し声が聞こえてきたので手近な柱に身を隠した。
「――衝動という衝動は元来から抑えがたいものですし、私も宴会ですとか縁日ですとか、そうした“ハレ”の時節にまでとやかく云うつもりはありません。――しかし日常的にお酒を嗜んで乙に構えているというのはどうにも――」
それは寺の和尚の声だった。説教されている二人の門徒は固くて冷たい板の間に直に正座させられていたが、説教している当人までが座布団も敷かずに座っているのは正邪にしてみれば滑稽だった。
どうやら飲酒の禁を破ったことを戒められているらしい。
「……お寺といっても所詮は妖怪寺だな。底が知れるってもんだ」
と正邪は思った。思っただけではなく実際に声に出して云った。
カチン、ときたらしい。説教されていた尼さんと水兵が振り返って、柱の影にいるこちらを険しい目で睨みつけてくる。正邪はわざとらしく笑ってみせた。
和尚が声をかけてきた。「貴方が先の異変を起こしたという天邪鬼ですね?」
「だったら何だ、私に説教したって無駄だよ。ひとから怒られるとね、もっと困らせてやりたくなるんだよ」
正邪は柱から歩み出ながら応えた。和尚はしばらく考え込むように顔を伏せていたが、やがて手を打ち合わせて云った。
「それなら、お茶でも飲みながらお話しませんか。――美味しい美味しいどら焼きもあるんですよ?」
「姐さんっ、あのどら焼きは私と村紗が――」
「一輪?」
「……失礼しました」
横目で見られて黙り込む尼の妖怪を笑いながら、正邪は「悪くない」と思った。ちょうど腹も減っていたところだし、他人のお菓子を失敬して苦い汁を飲ませられるなら一石二鳥と云える。
「……好いだろう。ただし、繰り返すが説教はするなよ。私はどら焼きが食べたいんだ」
「ええ、もちろん」
聖白蓮は頷いた。
正邪は、まずちゃぶ台に用意されたどら焼きの半分以上を自分のために確保した。対面に座した白蓮は涼しい顔だったが、その後ろに正座させられている雲居一輪と村紗水蜜は唇を噛んでいた。
愉快である、と正邪は緑茶を音を立てて啜った。
「それにしても狭いな。ここが本当に和尚の部屋なのか? 蟻んこの女王だってもっとマシな居室を持ってるぞ」
「私には丁度好いのです。昔から手狭な部屋で暮らしてきましたし、それに他の子よりも大きな部屋で楽をするのは心苦しいので」
「はーん、ご立派なこった」
白蓮は異変のことを語らせようと仕向けてきた。命令はされたくないと答えると、ご丁寧にも「お願い」されたもんだから、それならしょうがないと正邪はどら焼きを口に含んでふがふがしながら語り出した。そのやり取りが終わる時分には一輪と水蜜の肩は小刻みに震えていた。
異変のいきさつを子細漏らさず披露している間、正邪は極上のどら焼きを失敬しては頂戴し、頂戴しては失敬した。針妙丸をまんまと騙した件(くだり)で緑茶のお代わりを要求すると、一輪が替えを注いでくれたのだがその手もやはり震えていた。
緑茶にも菓子にも手を付けずに話を聞き終えるは白蓮、反論も意見も一切なく、語り手の話に相槌を返すばかりだった。正邪が最後の白あんを平らげるのを見届けてから、白蓮は口を開いた。
「……貴方が“下剋上”を望むのは、貴方が天邪鬼だからですか? それとも、貴方の仰る“強者”に何か怨みがあるからですか?」
軒先から雪の塊が落っこちて敷石に着地した音が、縁側と障子とを隔てて部屋まで届いてきた。正邪はその音を聞き、また白蓮の声を聞きながらしばらく口を開いていたが、我に返ってちゃぶ台を平手で叩いた。
「おい、――“説教はするな”って云ったよな?」
「もちろん」和尚は頷く。「ただ知りたくて質問しているのです」
「どうだかな」そらおいでなすったと思いながら正邪は答えた。「分かりきったことを質問して、遠回しに目下の相手を責めるんだ。――ちょいそこの舟幽霊、茶のお代わり! ――そういう性根の嫌らしい連中のことを、私はこれまで何百人と見てきたよ」
「それはあんたの被害妄想じゃないの?」
水蜜が急須を取りながら声を上げた。
白蓮が顔を向ける。「ね、村紗?」
「だって、聖、――だって」
正邪は首を四十五度ほど傾けた。
「ふっふっふ、被害妄想をしているのはどっちだか。――なぁ、大量殺人をしでかしたお前ならさぞかし怨みも深かろう。どうだ、自分を解き放って、ふんぞり返ってる連中に断固復讐してやろうじゃないか」
水蜜の顔が真っ赤に染まった。のみならず磯の香りが部屋中に立ち込め、袖から覗いた両手の皮膚が緑色に濡れ始めた。立ち上がりかけた一輪の肩と、うつむいてしまった水蜜の肩とに手を置いて、白蓮は「この二人は」と静かに云った。
「確かに修行の至らぬところはあるかもしれません。今回のようにお恥ずかしいところを見せてしまうこともあります。人間の性(さが)に根ざした怨みのあまり、数多くの過ちを犯してしまったことも事実です。――ですが、その性と闘って何度も試練に耐え、最後には私を救い出してくれたのも事実なのです。……この二人は、私の誇りです」
「だったらなんだ?」正邪は低い声で答えた。「大切な部下を侮辱するなって、――そういうことか?」
いえ、と白蓮は首を振り、あろうことか微笑みかけてきた。正邪は思わず背筋を伸ばしてしまった。
「つまり、……もしも貴方が自分の妖怪としての性に何処か後ろめたい気持ちを持っているのなら、私は貴方を導くことができます。また、貴方が過去に根ざした怨みを今も捨て切れないというのなら、私は貴方の怨みを受け止めてみせます。ですから、もし貴方さえ宜しければ――」
――白蓮の声はそこで途切れた。正邪は自分の右手を見た。替えてもらったばかりの湯呑みを握り締めた手は震えていて、そしてその中身は白蓮の頭にかかっていた。彼女の前髪から緑茶が滴り落ち、ちゃぶ台の木目をしたしたと打った。
「それ以上は」
手の中で湯呑みが砕けた。
「……それ以上は、説教だ」
呆然としていた一輪と水蜜が今度ばかりはと立ち上がり、殺意をぎらつかせた目つきで妖力を爆発させた。ひと言も発しない白蓮を睨みつけながら正邪も負けじと立ち上がり、大声で云った。
「いつもいつも、いっつもそうだ! ひとを散々に虐げておきながら、次の瞬間には吐き気がするほど汚れのなさを装った手のひらを差し出してきやがる。――本当に手のひら返しをしやがるのは、お前ら“強者”の方じゃないか!」
白蓮は答えない。きらきらと滴の溜まった瞳をこちらに向けているだけだった。瞳の奥には全てを受け容れるべく広がった青い海だけが見えた。そして両手を広げて差し出してきた。その手のひらには茨の傷が今も残っていた。
「あ……」
正邪は後ずさりながら手で口を覆った。今、自分は何を云ってしまったのだろう。余計なことを、それも致命的なことをぶちまけてしまったような気がした。背中に障子が触れたのに気づくと、正邪は捨て台詞のひとつも残さずに戸を開け放ち、冬空へと飛び出した。
#07
彼女には首から上が存在しなかった。
柳に周りを取り囲まれた墓場の中央に彼女は佇んでいた。私は傘の柄を握りしめて彼女の方へと近づいた。名前を呼びかけようとしたけれど、舌が痺れたように固まっていてひと言も発することができなかった。恐るおそる肩に手を置いて揺さぶってみても、彼女は動かない。
その内、胸の底から抗いがたい衝動が湧き上がってきて、私はそれを抑え込もうと懸命に首を振った。ろくろ首の彼女、頭を外したままに会話ができたり胴体を動かすことのできる彼女。――ああ、その“断面”はいったいどうなっているのだろう?
私は瞼を上げた。磁石に吸い寄せられるように彼女に身体を密着させて、紅い外套の奥に息づく彼女の首を覗き込んだ。
あっ――という声が漏れて、私はその場に尻餅をついた。濡れそぼった泥の感触が伝わってくる。彼女はしゃがみ込んで私と首の高さを合わせてきた。その断面は空洞になっていて、入り口のところには円形に沿って鋭い歯がびっしりと並んでいた。
首を寄こせ、という地響きのような声と共に、彼女は私の肩を凄まじい力でつかんで身を乗り出し、そして、――……
赤蛮奇さんが私を避けるようになってしまってから、かれこれ数週間が経つ。あの日、つまり一緒に新しい芸を披露して子供達に喜んでもらえた日から、私は毎日のように赤蛮奇さんと会っては話をした。私の友達を紹介したり、幻想郷のあちこちを案内して回った。
最初のうちは彼女も喜んで付き合ってくれたのだけど、――ある日、うつむいて「さよなら」と云い残して以来、私に近づかないようになってしまった。声をかけても目をそらされ、子供達の相手をしている時も姿を現さないようになった。
それからだ、彼女の悪夢を見るようになったのは。私は起き上がるといつも膝を抱きしめて、独りぼっちで震えるしかなかった。私は赤蛮奇さんに、何か取り返しのつかないことをしてしまったのだろうか。
「――という訳なんだけど」
『それは貴方/あんたが悪い』
「やっぱり!?」
二人は声を揃えて「やれやれ」という仕草をした。風見幽香さんはテーブルに頬杖をついて溜め息を吐き出し、八雲紫さんはお皿に盛られたチョコチップ・ココアクッキーをむしゃむしゃした。
「よ、よろしければ理由をお聞かせ願えないでしょうか……?」
「嫌よ」と冷たく云い放つ幽香さん。「それは小傘、――あなたが自分で気づかなければならない問題だから。肥料をやり過ぎると花が枯れてしまうのと同じように、甘やかし過ぎたらあなたのためにならない」
「むぅ」私は顔を伏せた。「紫さんも?」
「こればかりはねぇ。幽香に賛成だわ、珍しいことだけど」
「あんたに同意されても全っ然嬉しくないわね」
「あら偶然。私もですわ」
でもそうね、と幽香さんは紅茶のカップを持ち上げる。「ヒントくらいは与えてあげる。手っとり早く云うとね、小傘は突っ走り過ぎ。マイペースが悪い方向に働いたってこと。立派な花弁が開くまでは、もっと慎重にならなくちゃいけないわ」
幽香さんは言葉を切ってハーブ・ティーに親しんだ。口調こそ辛辣ではあったけれど、彼女の表情は花を慈しむ時分と似ていた。それで私は何も云い返すことができなくなって、うつむいた。……やっぱり私が悪い、ということだ。
太陽の畑。――冬のひまわり。誰もが落ち込んでいるかのように頭(こうべ)を垂れて、花びらから茎に至るまで赤茶色に老いてしまっている。雪を被って枯れ果てているひまわり達。その中でテーブルを囲んでお茶を飲むというのは、ちょっとしたホラーだった。
私が枯れてしまった花々に視線をさまよわせている間に、二人の大妖怪は会話を続けてゆく。
「そう云えば私は異変のことほとんど何も知らなかったんだけど、あんたはどうなのよ?」
「今回はそっとしておきましたわ。霊夢達で充分解決できる規模だったし、事実その通りになったしね」
「なんなら私が出向いてあげても好かったのに。“下剋上”ってんなら喜んで相手になってあげるわよ」
「妖怪のあなたが異変を解決しても意味ないでしょう?」
「それは残念ね。一ボスから六ボスまで束になって掛かってくれば好いのよ。ほら“弱い奴は群れたがる”ってよく云うじゃない」
「幽香、あなた顔が怖いわよ……」
「あっ――紫、それ私のクッキーなんだけど。もっと遠慮して食べなさいよ」
「あなたのだから遠慮なく頂くの」
「この野郎」
……私は顔を戻して訊ねた。
「その異変のことなんだけど。幻想郷には、――不満を持ってるひとが沢山いるの? 私、全然気づかなかった」
紫さんと幽香さんはお互いの襟首から手を離して、顔を見合わせた。
扇子で口元を隠しながら紫さんが目を伏せて云う。「……確かにフラストレーションの溜まっている妖怪も、相当数いるかもしれないわね。妖獣に付喪神、天邪鬼に小人族。いろんな妖怪やら人間もどきがいるもの。問題が起こらない訳がない。今回の異変は、ある意味起こるべくして起こったと云えなくもない。……外の世界と同じように」
「へぇ、源平合戦じゃあるまいに、今になっても外には“下剋上”なんてあるのね」
幽香さんの言葉に紫さんは首を曖昧に振った。
「幻想郷には妖怪の“種族”があるように、外の世界には人間の“民族”があるのよ。その間の軋轢は昔の時代と変わらずに、いやむしろ増してきている。幻想郷だけじゃない、外の世界もまた上と下とで、――あるいは北半分と南半分とで争ってるのよ」
紫さんは言葉を結んだ。冷たい風が吹き渡りパラソルがなびいた。冷めてしまった紅茶の水面が揺れていた。
私は今の話をどう呑み込めば好いのか分からなかった。私を取り巻いている世界がこうも危ういバランスの上に成り立っているということ。その事実、その現実に、いったい何を。
私は言葉を探した。「……強いひとと弱いひとが争うのなら」息を吸った。「紫さんと幽香さんは、どうして私の話を聞いてくれるの?」
二人は即答してくれた。
「そりゃ何と云ってもあなたって面白いし、何よりも――」
「――虐めたくなるくらいに可愛い」
「そうそれ」
「ひどい」
私はテーブルに突っ伏した。
幽香さんの言葉が降ってくる。「……ところで、どうして小傘は小槌だか何だかの影響を受けなかったのかしら」
紫さんの笑い声。「“そのままのこの子”が一番ってことでしょう」
「なるほど、納得したわ」
意味ありげに笑い合う二人の妖怪は“冬の寒さなんてまるで意に介してません”と云うかのように自然に振る舞っていた。それが本当の強さなのだとしたら、私は彼女にそんな“自然な強さ”を見せてあげることができるのだろうか? 嬉しくなったら自然に笑って、……哀しくなったら自然に泣いて。
#08
一輪と水蜜の機嫌がすこぶる悪い。ここ最近は何とか落ち着いてきたけれど、こちらの顔を見る度に気まずそうに視線をそらしてくる。訳も分からずに地底以来の腐れ縁に避けられて、ぬえは地味に傷ついた。
今日はクリスマスという名前の祭日らしい。フランドールから届いた招待状を読みながら、ぬえは境内を横切って門前へと向かった。今は命蓮寺に留まっていてもろくなことがなさそうだった。
ちょうど小傘が門を通って入ってくるところだったので、ぬえは立ち止まって話をした。小傘は手にバスケットを持っていて、その中身は赤い花弁を咲かせた花々で埋まっていた。
「どうしたのそれ?」
「サザンカだよ、ぬえちゃん」小傘は笑顔で答えた。「幽香さんがくれたの。寒い時季に咲く素敵な花だって」
ぬえは寒さで色づいた小傘の頬を見つめた。「……幽香ってあの花の妖怪でしょう? 危険な妖怪って聞いてるけど大丈夫なの?」
「優しいひとだよ。ちょっと怖いところもあるけれど。記録や噂話だけでひとを決めつけちゃ駄目だよ、ぬえちゃん」
小傘の物云いにぬえはすかさず云い返そうと口を開いたが、顔をうつむけて語っていた妹紅の姿を思い出して息をついた。
「……悪かったわよ、もう。私が悪うございました」
「ぬえちゃん、……最近素直になりすぎて逆に気味が悪いよ」
「ちくしょーッ!」
ぬえは小傘と別れて紅魔館へと向かった。小傘は手先の器用な一輪に相談して、サザンカの花を何かに利用するらしい。
正邪のこと。一輪と水蜜のこと。そして自分自身のこと。あれこれと似合わない考え事をしながら、人里の上空を通り過ぎて柳の運河に差し掛かった時だった。
「――えっ」
いきなり視界の天地が逆転した。ぬえは翼をはためかせて反転しようとしたけれど、動かした方向とは逆の角度へと身体が傾いて制御できなくなった。慌てて上昇しようと風を切ると今度は急降下してしまう。全身の筋肉の動きが完全に上下左右反対になっていて、ぬえはたちまちパニックになった。
受け身の体勢も取れないままに、ぬえは真っ逆様に墜落した。
赤蛮奇は鉄球を吐き出すかのごとく重い溜め息をついた。柳の運河の土手に腰かけて遠くの山並みを見つめる。雪を冠に頂いた山々は、昼の光を受けて山肌をさらしていた。
これからどうしよう、と呟きを川面に落っことしては瞳を閉じる。何をしようにもやる気が起きない。人間を怖がらせるのも億劫だ。まるで小麦を挽く水車のように田園風景に自分を溶け込ませる以外にやることが思いつかない。
行く宛のない息をもう一度吐き出して、赤蛮奇は姿勢を変えた。
――頭上からぬえがホールイン・ワンしてきたのは、まさにその時である。
ビルディング破砕用の鉄塊が直撃したかのような痛烈な一撃を喰らった赤蛮奇は、ひと溜まりもなく気絶して当然のごとくフライング・ヘッドした。視界が例の忌まわしき傘回しのように急転回し、世界という世界が冷水の闇に閉ざされた。
「――大成功!」
懐かしき天邪鬼の麗しき美声が耳に届く。ぬえは低い唸り声を漏らしながら立ち上がった。ひと筋の血が鼻緒を伝ってゆくのを感じた。冗談でなく本当に頭蓋骨が割れたのかもしれん。
「なんだ生きてるのか。とんでもない石頭だなぁ」
「……ちょっとでもあんたを理解しようって気になった自分を殴ってやりたい」ぬえは三叉槍を拾い上げた。「てめえぶっ飛ばしてやる」
「ふふん、いつでも掛かってこいよ」
ぬえは眉を釣り上げた。「逃げないなんて見上げた根性じゃない。格の違いってやつを見せてあげるわ」
正邪はにへらと笑った。ひびの走ったコンクリートのような笑みだ。髪は落武者のごとくぼさぼさで、意匠の施された服も今は汚らしい。ひきつけでも起こしたかのように肩が震えていた。何があったんだろう、とぬえは訝しんだ。
「まぁ、どうでも好いわ」使い魔の口からスペルカードを取り出す。「――宣言なさい」
「五枚だ」正邪もカードを広げて叫ぶ。「決着をつけよう!」
――持って生まれた形質ばかりはどうにもならない。それは正体不明という能力を授かった自分がいちばん好く知っている。
自分を保つためにはあらゆるひとと距離を取る必要があるけれど、その理由は近づかれたら自分を知られてしまうからだ。いつも他のひととの境界線を計るのに疲れてしまって、ついこちらから離れていってしまいそうになり、その度に自分も相手も傷ついてしまう。
“私とあなたは違う”ということ。立場が違うことを承知で分かり合うということ。分かり合えずとも適切な距離を保つということ。心と心の間に横たわる力加減を間違えないということ。それだけのこと。本当にそれだけのことなのに。
正邪の戦い方は、ほとんどヤケクソと云っても好いくらいだった。何としてもこちらを打ち倒そうと真正面から向かってきた。その時の天邪鬼の少女は間違いなく本気だった。捨て身だった。相手を踏み破るまでは突進することを止めない怒れる動物のように。
正邪。鬼人正邪。――あんたはただ自分のために世の中を変えたかったの? 持って生まれた種族が種族だから、性質が性質だから、自分が自分だから、――だから幻想郷をひっくり返そうとしたの?
それとも、誰にも分かってもらえない切実な理由を抱えていた? もしそうなら、――私があんたの話を聞いてあげることだってできたのに。――今まで私の話を黙って聞いてくれた沢山の人びとと同じように。
……ただ、同じように。
「……あんたさ」
「なんだ?」
「天邪鬼のくせに弾幕ごっこはめちゃんこ強いじゃない。もう少しで負けるところだったわ」
「やめろ。褒められると身体の調子がおかしくなる」
「弾幕ごっこでならさ、あんただって本当に幻想郷をひっくり返せるかもしれないわね。いつの日か」
「それじゃ駄目なんだよ」
ぬえと正邪は運河の川岸に大の字で寝転がっていた。いつの間にか雪が降り出していて、二人の白く濁った吐息が冬空に溶けていった。これがホワイト・クリスマスなんだな、とぬえはぼんやり思った。
「それじゃ駄目なんだ」正邪は繰り返した。「それじゃ本当の下剋上にはならない。弾幕ごっこでいくら強くなったって、所詮はこの世界の“ルール”の中でのし上がったに過ぎないだろ」
「でもさ、あんたは異変の時は弾幕ごっこで巫女や魔法使いやメイドと戦ったんでしょう? ちゃんと幻想郷の“ルール”に従って異変を起こして……」
息を吸い込む音が隣から伝わってきた。冬の空気を切り裂いて。「利用できるもんなら何でも利用するさ。“弱者が強者と対等に戦えるために作られたルール”――それが弾幕ごっこってんなら、せいぜい使わせてもらおうじゃないかってこと」
ぬえは首を傾けた。「なんだか矛盾してるような」
「分からないならいい。私達の立場が違うだけだ」
正邪は遙かな空を眺めながら、ぽつりと言葉を転がした。
「“似て非なる者を悪む。郷原は徳の賊なり”」
「……なにそれ?」
「私がいちばん許せないのはな、聖人面をして偉そうに似而非(えせ)道徳を説く連中のことだ。地底にいたお前なら分かるだろ? いかにも好いひとに見せかけて世間に媚びてる連中のことだよ。本当の“聖者”ってのはそんなんじゃない。――絶対にそんなんじゃない」
「うちの和尚はどうだった?」
「あいつは本物かもしれない。だから余計に気に喰わない」
「ほんっとに天邪鬼ね、あんた。逆に感心するわ」
「お前はどうなんだ?」
正邪の紅い瞳がこちらを向いた。二人は見つめ合った。
「どうしてもレジスタンスに加わる気はないのか?」
「しつこいわねぇ。はっきり云うわ、嫌よ」
「そうか。……私達は似た者同士だと思ったんだがな」
「根っこのところは違ったってことね」
「似て非なり、だな」
それが答えだった。絹のヴェールであるとか、竹の垣根であるとか、そういった邪魔なものが全て取り払われたような気分だった。二人は遮るもののない心からの笑い声を交わし合った。そして握手の代わりにお互いの身体に蹴りをかました。
「……それで、話は終わったの、お二人さん?」
頭上からおぞましき声が降ってきた。ぬえは正邪と顔を見合わせた。正邪は唇を歪めて肩をすくめてみせた。ぬえも乾いた笑い声を漏らした。――そしてお猿さんのごとく飛び起きて、二人そろって博麗の巫女に土下座したのだった。
#09
物音に気づいて玄関を開けると、そこには両手に桶を抱えた彼女がいて、吹雪の荒ぶ中で亡霊のように佇んでいた。やはり首はなくなっていて表情が分からない。私が何も云えないでいると、金属の爪で黒板を引っかくような笑い声を立てながら、彼女は桶の中身を私の身体にぶちまけてきた。粘つくそれは水なんかじゃなかった。血みどろの手を見た私は、腰を抜かして絶叫した――。
「――こがさ、小傘!」
飛び起きた私の肩を揺さぶりながら、赤蛮奇さんが涙声で呼びかけてきた。夢と現実の彼女を混同してしまった私は、目の焦点が合わないままに全力で抵抗した。
「やめて、やめてよ! どうせ私の身体が目当てなんでしょ!」
「なに云っちゃってんの!? ――正気に戻ってよ、小傘ぁ!」
頬を往復ビンタされてようやく私は我に返った。瞳に涙をいっぱい溜めながら、赤蛮奇さんが蝋燭の明かりに浮かび上がっていた。
「ど、どうしたの? こんな時間に……」
「お願い、助けて。もう小傘以外に頼れるひとがいないの」
彼女が私の名前を呼んでくれたのは、この時が初めてだった。それくらいに彼女は動揺しているのだと気づいて、私は深呼吸して話を聞き出そうとした。
「……頭を失くしちゃったの」
「は?」
「だから、私のヘッドが見つからないの」
彼女はボケているのだろうか。
「頭って、今あなたの身体に乗っかってるじゃない」
「そうじゃなくて」彼女はもどかしげに首を振った。「普段使ってる頭がどっかいっちゃったのよ。これは予備。というか二つ目」
彼女はざっと経緯を説明してくれた。今日の昼間、空からロケットだか隕石だかが吹っ飛んできて、それが直撃して気を失ってしまったらしい。頭は衝撃で胴体との接続が切れてしまって、柳の運河に流されたまま行方不明になってしまったそうだ。
取る物も取りあえず私は彼女を連れて外に出た。泣く子も眠る丑三つ時だった。里の明かりは絶え果てており、夜空に散りばめられた星々が道しるべになった。私は泣きじゃくる赤蛮奇さんを連れて運河を下流の方へと辿っていった。
「もしかしてさ」道中、私は彼女に言葉をかけた。「ここ最近の悪い夢って、――全部あなたのせいだったの?」
彼女はひぐ、と嗚咽を漏らして答えた。「ごめんなさい。……気持ちが落ち込むと私は周りのひとに悪夢を見せてしまうの。ずっと小傘に声を掛けようって思ってたんだけど、いつも寝床にお邪魔するだけに終わっちゃって……」
「そ、それって犯罪じゃない! 不法侵入だよ不法侵入! 自警団のひと呼ぶわよ!」
「本当にごめんなさい」
また泣き出してしまった彼女を見ながら、私は変な笑い声を上げてしまった。なんて不器用なひとなんだろう。私よりも不器用なひとがこの幻想郷にいるなんて。
行き着いた先は霧の湖だった。昼間は濃霧に包まれているこの湖も、今は対岸の林まで見通せる。妖精のひとりもいなかったけれど、代わりに微かな歌声が風に乗って流れてきた。
私達は手を繋いで歌声のする方向へと飛んでいった。中央付近まで進むとそこには突き出した大きな岩があって、その岩に誰かが腰掛けていた。
「せ、セイレーンだわ」隣で赤蛮奇さんが震えた。「……戻りましょうよ小傘。舟ごと沈められちゃうわ、私達」
「しっかりしてよ。あなた浮いてるじゃない」
「あ、そっか」
近づきながら私は瞼を開閉させた。岩に腰掛けている少女の足は魚の尾ひれそのままになっていて、手元には両手で抱え込めそうなくらいに大きな金魚鉢が置いてあり、赤蛮奇さんの首がきれいな石の中に混じってその鉢に入っていた。
あの、と声をかけると人魚さんは歌を中断し、慌てて湖に飛び込もうとしたので、私と赤蛮奇さんは待って下さいと大声で呼び止めた。
「そ、それ以上近づかないで」彼女は手のひらをこちらに向けた。「せっかく気持ち好く歌っていたのに」
「ごめんなさい、ただ私の首を返してもらいたくて」
赤蛮奇さんが声をかけると、人魚さんはろくろ首の顔と金魚鉢の頭とを何度も見比べた。黒真珠みたいに綺麗な瞳が瞬いて星のようだった。
「見ての通りそれは私の首なの。拾ってくれてありがとう。大切にしてるところ悪いけど、返してもらえないかしら?」
「た、確かに嘘ではないようね」彼女は恐々と云った。「でも拾ったのは私よ。こんな可愛らしい首、そう簡単には手放せないわ」
ちょっと臆病なところはあるけれど、彼女もさしもの妖怪でひと筋縄ではいかないみたいだった。一方の赤蛮奇さんは「可愛らしい」と云われて例のごとく襟に首を埋めてしまった。
「……どうすれば返してくれるの?」
私の言葉に人魚さんは唇に指を当てては、鉢の頭と私の顔とを交互に見比べていた。
「そうね」と頷きがひとつ。「綺麗な石。――あなたの持ってる綺麗な石が欲しいわ。そこの紅い石よ」
指さされた私は驚いた。「石なんて持ってないよ?」
「ちゃんと持ってるじゃない。その左目の石……」
「ひっ――」私はのけぞった。「こ、これは義眼なんかじゃないわ。正真正銘、私の目玉よ!」
「ますます素敵だわ。左右で色が違うなんて」
「ちょっとちょっと」赤蛮奇さんが割り込んだ。「どうして小傘の眼を欲しがるのよ。この子は関係ないじゃない」
人魚さんが着物の袖を打ち振った。「じゃあ、――あなたの紅い石を頂けますか?」
「それとこれとは――」
私は思い切って云った。「……わ、分かった。でもお願い、痛くしないでね?」
二人はダチョウの卵を詰め込まれたみたいに口を開いて私を見た。
「さぁ、私の眼をあげるわ。だから赤蛮奇さんの頭を返して」
私が岩場に取りついて見上げると、人魚さんはあたふたと尾ひれをぴちぴちさせ始めた。
「そんな本気で受け取るなんて、……冗談ですよ冗談」そう云って金魚鉢から頭を取り上げた。「また今度で好いから、陸に上がれない私の代わりに、どうか素敵な石を見つけてきて下さいな」
全身の力が抜けた。奈落の底に墜ちてゆくかのように深い息をついてから、私は赤蛮奇さんの首をぎゅっと抱きしめたのだった。
わかさぎ姫さんの歌が湖畔の砂場まで響いてくる。群生した葦に囲まれながら私と赤蛮奇さんは肩を寄せ合い、真っ赤なマントにくるまっていた。冬仕様の彼女の外套は真綿でも入っているかのように軽くて温かかった。
「誰かから聞いた話なんだけど」私は云った。「冬はね、人肌の恋しさに人と人との距離が縮まるからとっても暖かいの。だから、一番あったかい季節は、冬なんだって」
赤蛮奇さんは答えなかった。人魚の歌声を聴きながら星空を見上げていた。吐き出された呼吸と発せられなかった言葉とが互いに絡み合いながら夜空へと昇っていった。
「笑わないで欲しいんだけど」赤蛮奇さんはようやく云った。「ちょっと、引け目を感じちゃって。小傘ってほんとに友達が沢山いるんだなぁって思ってさ。案内してくれた場所のひとがみんなあなたのことを笑顔で出迎えるんだもの。……なんだか息苦しくなっちゃって」
赤蛮奇さんは私から顔をそむけて言葉を結んだ。身体をしきりに動かして落ち着かないようだった。
突っ走り過ぎ。マイペースが悪い方向に働いた。――幽香さんが云った通りだった。私だって赤蛮奇さんと同じだったじゃないか。誰にも驚いてもらえなくてひもじい想いをしていた時分、私は他の妖怪のことをずっと羨ましいと思っていた。人間をいとも簡単に恐怖させてしまうぬえちゃんにだって、私は心の底では独りで嫉妬していたのだ。
……自分が恵まれた立場になった途端に、独りぼっちの気持ちを忘れてしまうなんて。――ひどい、ひどい手のひら返しだ。
「ごめんなさい」私は奥歯を噛んだ。「赤蛮奇さんの気持ちを、私は何も考えてなかった……」
「あ、謝らなくていい」彼女がこちらを振り返った。「あなたは何も悪くない。私が不器用なだけよ。それだけのこと」
「私、ただ赤蛮奇さんと仲好くなりたくて、……ずっと遠くから私のことを見てくれていた、――忘れないでいてくれた、あなたと友達になりたかったの」
「私だって、小傘と……」
赤蛮奇さんは赤い髪を揺らしてうつむいた。ぼそぼそと何事かを呟いたけれど、何を云っているのか分からなかった。
こんなに近くにいるのに、伝わらないことだってあるんだ。
彼女が顔を上げた。「私達の気持ちは同じだった。そうよね、小傘」
「うん」
「……立場が違うだけだったのよ、私達。でも今なら大丈夫、平気。小傘と距離を取ることの方が辛いって、ちゃんと分かったから」
赤蛮奇さんはマントの中で私の手を握りしめてきた。暖かい、春の日だまりのように暖かくて柔らかな手だった。
「改めて、よろしく。――小傘」
「うん、うん。こちらこそ、よろしくお願いします」
私は彼女の手を両手で包み込んだ。――自然に笑うということ、自然に泣くということ。赤蛮奇さんはそれを同時にやろうとしたものだから、彼女の表情は泣き笑いになった。
「――小傘」
「なに?」
「私の名前のことなんだけど」
「赤蛮奇さん?」
「それじゃ長くて呼びづらいと思う」
「うーん、じゃあ……」
「貸本屋の子には『赤(せき)さん』って呼ばせてる」
「なんだか名字を呼び捨てるみたいで苦しいかな。――“蛮奇ちゃん”でどう?」
「好いわね」
「“赤(あか)ちゃん”でも好いけれど……」
「ど、どうか“蛮奇”でお願いします!」
「了解しました!」
「…………」
「…………」
「わかさぎ姫さんの歌、素敵だね。なんだか心が溶けちゃいそう」
「そうね」
「子供達にも聴かせてあげたいな」
「勝手に姿を見せなくなって嫌われてないかしら、私」
「まさか、大丈夫だよ」
「でも……」
「あ、そうだ! ――それじゃこんなのはどう?」
「?」
#10 Epilogue
明け方、封獣ぬえは自室で胡座をかきながら、枕元にあった手紙とサザンカの髪飾りとを見つめていた。
手紙は多々良小傘からだった。赤蛮奇と二人してサンタクロースの真似事をして、夜の内にサザンカの花を子供達にプレゼントして回ったらしい。子供扱いされたことにぬえは腹が立ったけれど、手紙の先を読み進めてゆく内に憮然とした表情はいつしか苦笑に変わった。
ぬえは髪飾りを手に取って頭に挿すと、パジャマ姿のまま鏡の前に座った。黒髪には機雷が爆発したみたいな寝癖がついていて、その下には普段は見たくもないと思っている自分の顔が左右反対に映っていた。
でもその時は、真っ赤な髪飾りを付けてはにかんだ表情を浮かべている今なら、自分の笑顔も悪くないと思えたのだった。寒い季節にもひたむきに生きる可憐な花が、ぬえの髪には咲いていた。
ぬえは庭へと顔を向けた。太陽が朝靄を破って真新しい光を世界に投げかけていた。庭に積もった雪は光を反射してきらきらと輝いていた。そうした庭の風景を見ていると、何故だかぬえは掛け値なしに幸福な気持ちになってきた。危うく嗚咽が漏れてしまうところだった。命蓮寺の庭に一日の始まりを告げる新しい“陽”が差し込んでいるということが、とても心に沁みたのだった。
紅魔館でのクリスマス・パーティーは昨日の正邪との一件でお流れになってしまったから、今日はその釈明をしなければならない。フランドールの烈火のごとく怒った姿が脳裏をよぎって気が重いが、謝らないと今度は地下室に引きこもる始末になるので仕方がない。
バスケットにカベルネ・ソーヴィニヨンの赤ワインを入れて、玄関で赤い靴を履いていると、後ろから白蓮が「ぬえ」と呼びかけてきた。ぬえが振り向くと、そこには白蓮の他にも一輪と水蜜がいて、何やら真剣な表情でこちらを覗き込んできた。
「な、なによ」じろじろと遠慮のない視線を向けられて、ぬえは二人の同居人を睨んだ。「なんか文句でもあるの? この前のイタズラのことなら――」
「可愛いね」
「そうね」
「――はぁ!?」
舟幽霊の声に入道使いが賛同した。水蜜がサザンカの髪飾りに手を触れ、一輪は真正面から両肩をつかんできた。二人とも目を潤ませて切実そうな表情を浮かべていた。
「やっぱり違うよね、一輪?」
「うん。――全然違う」
「さっきから何よもう! 恥ずかしいから離れてってば!」
ぬえは助けを求めて白蓮を見たけれど、彼女はとろけんばかりの微笑みを浮かべるばかりだった。一輪に今度は頬をつかまれて、ぬえは顔をそらせなくなってしまった。
「ぬえ、……あんたは可愛いままでいなさいね」
「不良になっちゃ駄目だよ。そのままのぬえでいて」
「――……ッ!」
癖っ毛が一斉に逆立つのを感じた。頭からスチーム・ポットみたいに湯気が吹き出しそうだ。白蓮から焙じ茶の入った水筒を渡されて、ようやく解放された。
「いってらっしゃい、ぬえ」
白蓮の声に返事もできずに、ぬえは玄関を飛び出した。後ろから三人の幸せそうな笑い声が追いかけてくる。ぬえはそれを背中で聞きながら、ばか、ばかと言葉を転がし続けた。
博麗霊夢に異変の分と里の近辺で暴れた分と併せてこってり絞られたせいで、鬼人正邪は博麗神社でご厄介になるほどに傷ついてしまった。ひと晩が明けた今日になっても妖力が戻らず、布団から出ることも叶わない。
「せーじゃ、大丈夫?」
少名針妙丸がちっちゃなお盆を手に部屋に入ってきた。お盆にはこれまたミニマムなおにぎりが二つ乗っていて、両手で数えられそうなくらいの米粒で握られた代物らしかった。
「これ食べて、早く元気になってね。私の手作りなのよ」
そう云って布団の脇にお盆を置いてから、膝の上によじ登ってきた。正邪は針妙丸の藤色の髪を人差し指で突つきながら、言葉を落っことした。
「……なんでだ?」
「どうしたの?」
「分かってるだろ? 私は姫を騙していた。利用していただけなんだ。百パーセントね。この前だってそう云っただろう。あれは私としては訣別の挨拶のつもりだったんだがな」
針妙丸はふんふんと頷いた。頭に乗っけたお椀を背中に下ろして正邪の身体に近寄り、着物の袖を広げて服にしがみついてきた。
「おいこら、離れろ」
「……やだ」
「あ?」
「これでお別れなんて、やだ」
正邪は絶句した。「……姫、おまえ」
「確かにね」針妙丸は語った。「確かに私は貴方に騙されたし、おかげで酷い目に遭ったよ? それでも、正邪が私の能力(ちから)を頼りにしてくれたことに変わりはない。私嬉しかったの、貴方に頼ってもらえて。一緒に城で暮らしたのも楽しかった。夢を語り合えた。大きなことなんて何もできないって思ってた小人の私でも、あんな大それたことができるんだって」そこで声が詰まった。「……可能性、正邪は私に可能性をくれたの。真っさらな希望をくれたんだよ。だから――」
そして上目遣いにこちらを見上げてきた。
「また貴方が困った時は、いつでも私を呼んで。力になるから。だから正邪も私に会いにきてよ。手ぶらで好いからさ」
でも下剋上だけは勘弁ねー、そう云って針妙丸は鈴を転がすように笑った。
正邪は手のひらで目元を覆った。心臓から熱い塊が喉までせり上がってきて、それは口を通り抜ける際に逆さまに転がって笑いとなった。堪えようとしても笑い声は次から次へと唇から溢れて、針妙丸の髪にぽたぽたと染み込んだ。
「……姫、まったくお前って奴は」正邪は云った。「お人好しが過ぎるぞ。いつか悪い奴に騙されても知らないからな」
「もう騙されたじゃない、貴方に」
「あはは、そういやそうだった」
正邪は笑い続けた。
鈍痛を訴えてくる身体を気合いで起こして、正邪は針妙丸と二人で縁側に腰掛けた。外は一面の銀世界で、針妙丸はまたもや興奮して雪の山に飛び込み、その結果として腰まで埋もれてしまった。むー、むー、と騒ぎ立てる彼女の足をつまみ上げて、正邪はお姫様を救出した。
「反省しないな姫は」
小人の少女はこちらを不思議そうに見ていた。
「……なんだよ」
「びっくりしてるのよ。あなたなら私を助ける代わりに、もっと雪をかけて完全に埋めちゃいそうだから」
げっ――と正邪は悲鳴に近い声を漏らした。背中から腕にかけて鳥肌が立って、悪寒が奔流のごとく背筋を駆け昇ってきた。呆けた針妙丸の顔に徐々に笑みが広がってゆくのを見て、正邪は慌てて両手を振った。
「い、今のはナシだ、ノーカンだ!」
「そっかそっか、なるほどねー」針妙丸が頷く。「つまり“お前だけは特別”って、そういうことなんでしょ? せーじゃ?」
「うぐぐぐ、違う! 断じて違う!」
こうなったら引っ捕まえてもう一度雪の中にダイブさせてやる! ――頬を染めて首をいやいやと振る針妙丸に手を伸ばしかけた時だった。正邪は遙かな空にひとりの少女が飛んでいるのを見た。ここからじゃ姿形は判然としなかったけれど、あの異形の翼は見間違えるはずもない。
「あいつ……」
「そんな正邪ったら、ああ……、でも正邪になら好いかな、――ってどうしたの?」
「いや」首を振る。「いや何でもない。――なぁ、姫?」
正邪は針妙丸を見つめた。それだけで少女は頬を染めてうつむいてしまった。この野郎、と思いながら言葉を綴った。
「……柄にも無くいろいろと考えたんだが、それも姫とどっかの誰かさんのせいでどうでも好くなっちまった。――情けないな、ほんと。私は私なんだ。それ以上でもそれ以下でもない。……そのことを思い出すまでにすんごい回り道をしてしまったよ。――姫、お互い全快になってこの妖怪神社とおさらばしたら、ちょっと何処かに出かけないか? 馴れ合いなんかじゃないぞ。勘違いすんな。――ただ、レジスタンスの野望を遂行するためにも、この幻想郷のことをもっと好く知っておくべきだと思ってね。――ほら“彼を知り己を知れば百戦殆(あや)うからず”ってよく云うだろ? あれだよ。自分の力を過信してふんぞり返ってる強者よりも、自分の無力を知って努力を続ける弱者の方が何倍も偉いんだよ。――だからさ、姫」
「正邪ってほんと面倒くさいね」
「てめえ」
「あ、ぬえちゃんだ」
「あら本当」
多々良小傘の声に赤蛮奇は遙か上空を仰いだ。湖畔の吸血鬼の館に向かって鵺妖怪が飛んでゆくのが見えた。冬の空は曇っていることが多いけれど、いったん晴れたらこんなにも澄んだ青空が広がっているんだということを、赤蛮奇は初めて知った。
「見つからないね、綺麗な石」
「下流の方に転がれば転がるほど角が取れて丸くなる。まだまだ諦めるには早いわよ」
「物知りだね、蛮奇ちゃん」
二人はわかさぎ姫に献上するための石を探して、幻想郷の川をあちこちと巡っていた。いちごの飴玉を舌で転がしながら、飽きることなく探し続けた。
その小休止に川岸から道に戻ろうとした時だった。小傘の声に赤蛮奇は振り向いた。付喪神の少女は道の脇にしゃがみ込んで何やらを熱心に見つめているようだった。
小傘は紺色のコートに赤色のマフラーを巻いていて、頭にはこれまた赤い、昨夜に使用したサンタクロースの帽子をまだ被っていた。赤蛮奇はお揃いのマフラーに顔を埋めて寒さを凌ぎながら、小傘の隣に腰を落とした。
「……雪だるま?」
「そうみたい」
雪だるまは膝にも届かないほどに小さく、まるで御伽噺に登場する小人のようだった。木の小枝が腕として差し込まれていて、頭には葉っぱの耳がついていた。道ばたの、それも里からこんなに離れた場所に雪だるまなんて、と赤蛮奇は驚いた。
「ちっちゃくて可愛いな」
小傘が茄子色の傘を片手に持ち替えて腕を伸ばし、雪だるまに触れると、たちまちに身体の雪は崩れてしまった。そしてその中から、ほとんど苗木に等しい幼木が現れて、太陽の光に洗われて燦々と輝いた。
息を呑んで若木を見つめる赤蛮奇の隣で、小傘が口を開いた。「そっか、……この木の周りに雪が降り積もって、まるで雪だるまみたいに見えたんだね。枝が腕みたいに突き出して、ちょうど葉っぱだけが頭の上に飛び出して」
「あぁ、なるほどね。……ちょっとびっくりしたわ」
小傘は微笑んだ。「こんにちは、小さな小さな忘れ木さん」
まるで挨拶を返すかのように、風に煽られて若木の枝が傾いだ。
「この子は、知ってるんだと思う」
「なにを?」
「これから何ヶ月も寒くて厳しい季節を乗り越えていかなくちゃならないけれど、その先にはきっと素晴らしい春の景色が自分のことを待っているんだって、この子は知ってるんだよ。だからこんなに誇らしく立ってるんだと思う」
「そ、そんなこと分かるの?」
「まさか」小傘が舌を出す。「そんな気がするだけ」
若木から手を離して、小傘は自分の手を握ってきた。赤蛮奇も息を飲み込んでから、優しい力加減になるようにと気をつけながら、彼女の手を握り返した。
澄み渡った青空を見上げながら、小傘は笑って云った。「……同じひとつの命なんだもの。私達と根っこの気持ちは一緒なんじゃないかな。暖かいのが大好きで、楽しい毎日を夢見ていて、――」
「――独りぼっちは、寂しい」
「そうそれ」
小傘に手を引かれて赤蛮奇は傘の柄を握った。そこに小傘のもう片方の手が重なった。伝わる温もり、柔らかい手のひらの感触、照れながら微笑む彼女の顔、……その全てが火照った血液と一緒に心の臓に流れ込んで、ひとつに溶け合った。ずっと放ったらかしにしてしまっていた最後の氷が溶け始めるのを、赤蛮奇は胸の奥で感じていた。
震える吐息が大気に流れていった。真新しい気持ちでお礼を云おうとした。ありがとう、小傘。本当に、何から何まで。言葉にならない想いを手のひらに丸ごと預けて、赤蛮奇は勇気を振り絞って小傘の肩を抱き寄せた。
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Ambivalence toward You
(原題: Hello, Forgotten Little Tree)
(原題: Hello, Forgotten Little Tree)
【似て非なり (慣)】
[孟子(尽心下)「孔子曰く、似て非なる者を悪(にく)む」]
(解) 外見は似ているが実体は異なる。
――新村出 編『広辞苑』岩波書店、第六版(2008年)より。
[孟子(尽心下)「孔子曰く、似て非なる者を悪(にく)む」]
(解) 外見は似ているが実体は異なる。
――新村出 編『広辞苑』岩波書店、第六版(2008年)より。
#01
暮れなずむ陽の光を背中に浴びながら、私は人里から命蓮寺に向かって歩き続けていた。手に触れられそうなくらいに低い雲が空にずしんと胡座をかくような、それはそれは寂しい晩秋の夕暮れ時のことだ。
お寺に寄せてもらう前に亡くなった子供のお墓に参ろうと道を外れたところ、背後に誰かが降り立つ音が鼓膜を打ち、振り向く間もなく両肩をつかまれたもんだから、私はどら猫に睨まれた子鼠みたいに飛び上がってしまった。
「協力してくれ、追われてるんだよ!」その子は云った。「すぐに別の妖怪が来るから、間違った方向を教えてやってくれ、好いな!」
訳も分からずに頷くと、その子はベテランの兵隊さんさながらに近くの藪へと頭から飛び込んだ。白や赤の混じった黒髪から一対の小振りな角が生えていて、つっかけみたいな代物を履いていた。
「――小傘っ!」
“別の妖怪”とはすなわち、ぬえちゃんのことだった。今にも巨人に立ち向かわんばかりに三叉槍を構えて、黒髪を逆立たせている。
「どうしたの?」
「今めっちゃ生意気そうな奴が通らなかった!?」
「生意気そうなのはぬえちゃんも同じでしょ」
「あ、そっか。――って違う違う! ほら角が生えてる妖怪で、だっせぇサンダル履いてる奴!」
「その子なら」私は明後日の方角を指さした。「あっちの方に飛んでったよ」
「ば、ばかもーん! そいつが天邪鬼だ、追えぇぇぇッ!」
……ぬえちゃんが飛び去ってから、私は小さく溜め息を漏らして「もう好いよ」と呼びかけた。彼女は髪を木の葉だらけにして、芋虫のごとく這いずりながら藪から出てきた。
「は、腹を打ってしまった……」
「大丈夫?」
「平気だ、こんくらい」げふっと咳が転がる。「ふぅ、おかげで助かった。――まっ、お礼は云ってやらないけどな!」
「は?」せっかく協力してあげたのに。「あなた、ちょっと人様に対する態度がなってないんじゃない?」
「シャラップ・メンっ!」そいつは手を上げた。「それよりだな。……お前、もしかしなくても付喪神か?」
「だったら何さ」
「ふっふっふ、なら話は早い。いかにも虐げられていそうな顔をしているからすぐに分かった。――どうだ、下剋上に興味はないか? 一緒にレジスタンスをやってみないか?」
「れじすたんす?」
「今の強者が支配する幻想郷の勢力図を塗り変えてやるんだ。そして我々のような弱き者が好き勝手に暮らせる理想の世界を創り上げる。どうだぁ?」
槍を振りかざして風車に突撃してゆく西洋の騎士さながらに、茄子色の傘を振り上げて紫さんや幽香さんに突進してゆく自分の姿を思い浮かべた。想像するだけで鳥肌が立った。
「や、止めておくわ!」
「ふん、あいつと同じことを云うんだな」
「――ぬえちゃんと?」
少女は大げさに溜め息を漏らす。「……珍しく下手に出て『私やあんたみたいな弱小妖怪でも幻想郷をひっくり返せるってことを思い知らせてやろうよ!』って提案したんだ。そしたら見事にぶちギレされた」
「いや、そりゃ駄目でしょ」
ぬえちゃんは見かけ以上にプライドだけは高いのだ。変なところでからかい過ぎると最後には拗ねてしまい、アルマジロみたいに丸まって口も利いてくれなくなる。
「やれやれ、やる気のない輩を誘っても仕方がないか」
と奴はまたも無遠慮な口調でのたまった。
「だが、まだ諦めないぞ。連中に思い知らせてやるまではな」
私は茄子傘の柄を握りしめた。「どうしてそこまでして……」
その子は不敵な笑みを浮かべると、目にも止まらぬ素早さでデコピンを見舞ってきた。
「あいた!」
「教えてやんねー」
そして大地を蹴り上げてから、上下逆さまの格好で冬空へと沈んでいった。私に向かって“あかんべえ”をしながら、ゆっくりと。
何だったんだろう、あれ。頭に疑問符を浮かべながら私は墓地に踏み込んだ。
墓石の表面や卒塔婆の葬列、小道の脇に佇む柳の枝を寒々しい風が撫でていった。刺すような寒さに震えながら角を曲がって目的の墓に辿り着くと、そこには先客がいた。したたる血を振りかけた赤い頭髪と外套に、夜の闇を閉じ込めた真っ黒い衣服、――妖怪だ。
「……さっきは災難だったわね、あなた」
「はい?」
彼女の声はくぐもっていて、まるで独り言のようだった。
「先日ね、私も誘われたけど面倒だからパスしてやったわ。あいつのおかげで里から追い出されそうになったし。死んでも協力なんかしてやるもんか」
「だ、だよねぇ」私は調子を合わせてから話題を変えた。「あなたも、この子と知り合いだったの?」
「知り合いってほどじゃない」彼女は鼻風邪を引いたモグラのごとく喋った。「でも。……うん、悪い人間じゃなかった。それだけでも墓参りをする理由にはなる」
「好いひとね、あなた」
「妖怪よ」
「私達さ、――何処かで会ったことない?」
「まさか」
初めて顔を向けてくれた。
「そんな筈ないわよ、初対面」
「そうかなぁ」
こんな赤い髪を持ったひと、忘れる筈がないと思うんだけど。
「ま、好いや。――私は多々良小傘。あなたの名前は?」
「……赤蛮奇」
「赤飯機?」
「赤蛮奇! どう聞いたらお赤飯になるのよ!」
「やっと大きな声を出してくれた」
私が笑いを返してやると、赤蛮奇さんは外套の襟を引き上げて顔をすっぽりと隠してしまった。彼女の肩に白い粒が舞い降りたのはまさにその時で、私は瞬きしてから口を開いた。
「雪? もしかして」
「あらほんと」
「やっと降ってきた!」
「また一段と寒くなるわね」
空に胡座をかいていた灰色のヴェールが輝きを増したような気がした。寒さで鬼灯(ほおずき)のように色づいた彼女の頬が、白く濁った息の向こうに霞んで見えていたのだ。
#02
「雪っ、――雪ですよ霊夢さん!」
「毎年のことじゃないの。興奮しちゃってまぁ」
「よく見て下さい。綺麗な結晶になってる」
「あんたくらいの大きさならともかくね、そんなこと私に云われても分からないわよ」
少名針妙丸は縁側に腰かけた巫女の膝によじ登って、袴に舞い降りた雪のひとひらを抱きしめた。雪は体温で儚くもあっという間に溶けてしまい、小袖がしっとりと濡れてしまった。
「きゃっ! 冷たい、寒いです霊夢さん……」
「云わんこっちゃない」博麗霊夢は頭を掻いて立ち上がった。「そこで待ってなさい。替えの着物持ってくるから」
「面目ありません」
霊夢が去ってしまうと、針妙丸は残された座布団に寝転んで胸いっぱいに息を吸った。銀色の空から降りしきる粉雪は、その一粒一粒がまるで生きているかのように出鱈目な方向に動いて見えた。霊夢の体温の名残が心地好くて、また雪の模様が目に優しくて、つい眠り込んでしまいそうになった時だった。
「――め、姫っ!」
「その声は」針妙丸はむっくりと起き上がった。「せーじゃ、――正邪なの?」
「しーっ!」鬼人正邪が雨樋に足を引っかけて逆さまにこちらを見下ろしていた。「巫女は?」
「今、私の替えの服を取りに行ってくれてるけど」
「少し話せないか?」
「また悪だくみ?」針妙丸は眉をひそめた。「最初から最後までひとを騙しておいて、よくも現れる気になったわねぇ」
正邪はそっぽを向いて口笛を吹く真似をした。
溜め息をつく気すら起きない。「……それで、話って?」
天邪鬼が手を伸ばしてきたので、針妙丸は彼女の指にしがみついた。すぐに屋根の上へと引き上げられ、彼女の肩へと着地する。相変わらず正邪の肩は小さく痩せていて、乗り心地は悪かった。
しばらく間があった。正邪は冬空を見上げてはうつむき、口の中で言葉を転がしているようだ。格好は以前と少しも変わっていない。
「……寒くないの?」
「“寒い”って云ったらどうする」
「一緒に炬燵入らない? すっごくあったかいのよ。霊夢さんが美味しい蜜柑だって用意してくれるし」
「ふんっ」正邪は鼻を鳴らした。「いやはや、小さくなったな。姫」
「貴方こそ、何だか前よりちっちゃくなった気がするわぁ」
「小槌の魔力が失われたからな、その反動だ。おかげでいまいち調子が出ない。……白黒の魔法使いも妖怪も付喪神も、どいつもこいつも小槌の魔力が切れた途端に私から離れていきやがった」
「辛い?」
「大きなお世話だ」
「まだ何も云ってないのに」
正邪は霊夢が用意していた醤油煎餅を勝手にばりばりと食べ始めた。
「……むぐ、今日はちょっと偵察に来たんだ。ま、あの様子を見る限り余計な詮索は不要だったみたいだがな」
「なにさ、心配してくれちゃってんの?」針妙丸は顔を綻ばせて云う。「それはそれは、今年でいちばん心にぐっと来るニュースだわ!」
天邪鬼は「しまった」という顔をして、三色混じりの髪をがりがりと掻いた。その拍子に肩が前後左右に揺れたので、針妙丸は危うく軒下まで転がり落ちそうになった。
「心配どころじゃない、後腐れが無くなって清々してるさ」
「あらら、それでも好いわ。貴方に気にかけてもらうなんて、なんだか気色悪いし!」
「この野郎」
「それよりさ、今はどうしてるの? 無事に逃げられたみたいだけど」
「同志を募ってるんだ。今度は打ち出の小槌に頼らなくても済むようにな、念入りに計画を練ろうと思ってる」
針妙丸は顎が落ちかねないほどにあんぐりと口を開けた。
「……ま、まだ諦めてなかったの? あんな酷い目に遭ったのに?」
「えらいこっちゃなってるのは姫だけだろ。こちとらまだまだ快調だ」
「誰のせいで小さくなったと思ってんのよ」
「小さいといろいろ便利じゃないか」正邪は煎餅を噛み砕いた。「腹ァいっぱい食えるし」
「好い加減にしなさいよ、まったくもう。――そうだ、私が以前の大きさに戻ったら、また一緒に暮らすってのはどうかしら? いつまでもここに居るって訳にもいかないし――」
「ばーか」
人差し指で頭を小突かれて、針妙丸の頭は大きく仰け反った。
「――首の骨が折れたらどうすんのよ、このバカの邪鬼!」
「そうそう、私は天邪鬼なんだよ。姫」正邪は舌を出して笑った。「退かぬ・媚びぬ・省みぬ。馴れ合いなんて御免だね」
首の痛みと正邪の言葉とで、針妙丸の声が雨雲のように湿った。「ほんとうに、本当に私を道具みたいに利用していただけだったの、正邪? ……百パーセント?」
「もちろん」即答だった。「話はそれだけ、じゃあな」
彼女は素っ気なく飛んでいってしまった。ご丁寧にも飛べなくなっている自分を冷たい屋根瓦に置き去りにしていきやがった。濡れてしまった小袖もいよいよ冷えて、くしゃみが寒空に溶けていったけれど、針妙丸は正邪が消えた方角から目を離すことができなかった。
何故なら、自分を瓦に下ろしてくれた正邪の手つきは、あくまで優しく気遣わしげだったのだ。かつて一緒に過ごしていた時分のように。
駆けつけてくれた霊夢に対して、針妙丸は何も話せなかった。しかし霊夢は天邪鬼が来たことをどうしてか見抜いてしまって、色々と言葉をかけてくれた。あいつは何も出来やしないから安心して。何かしてきやがったら私が出向くから。
針妙丸は「そうじゃない」と首を振ることしかできなかった。何が好くて、何が駄目なのか。私が本当に哀しんでいるのは正邪の行いそのものではないのだと思った。彼女の、あのひっくり返った心のことがただ気になってしまうのだった。
この小さな小さな身体には、まだまだ分からないことが沢山ある。
#03
封獣ぬえが手土産を持参して命蓮寺の母屋から出かけたのは、その翌日のことである。年末になったら大掃除を手伝うようにと念を押してくる入道使いや、日頃のいたずらの仕返しに雪玉(呪いの海水をたっぷり染み込ませた特別製)を部屋に投げ込んでくる舟幽霊にすっかり辟易してしまったのだ。
昨夜のうちに雪は幻想郷を覆ってしまい、田園から山々まで銀世界に姿を沈めてしまったが、朝になってみれば天気そのものは快晴だった。ぬえは軽やかな足取りで正門に差し掛かったが、背中に雪の塊を放り込まれて三尺ばかり飛び上がった。
「ご機嫌うるわしゅう」
「あ、あんたねぇ……」
天邪鬼が頭上に逆さまに浮かんでいた。裸足にサンダル、半袖と相変わらず寒そうな格好だ。手にはいつの間にか土産の包み。ぬえの赤いリボンと正邪の青いリボンとが天地を隔てて睨み合った。
「それ返して。痛い目を見たくないならね」
「レジスタンスに協力するなら返してやるよ」
「またそのこと?」ぬえは腕を組んだ。「云ったでしょ。私はそんなもんに興味はないの。ひとを困らせてメシウマする程度なら悪くはないけど、テロリストに転職するつもりは毛頭ないわ」
「お前の正体不明の能力は、絶対に使える」正邪の眼が光った。「引っかき回す目的にも、逃亡する際の囮にだって使える。応用次第で本当にこの世界をひっくり返せるかもしれない」
「そりゃ高く買われたもんね。ありがと。さっさと返しやがれ」
「大昔に地底に墜とされたって聞いたぞ。平安京の大妖怪だか何だか知らないが、それが今じゃ妖怪寺の門徒に落ちぶれてやんの。――好い加減、飽き飽きしてるんじゃないのか」
「何を云って――」
「“住めば都。一緒に暮らしていれば少しは他の連中に溶け込めるかもしれない”なんてナンセンスだ。正体不明が聞いて呆れる。そろそろ自分を取り戻してみたらどうだ、兄弟?」
ぬえは三叉槍の柄を石畳にこつこつと叩きつけた。唇が無意識に引き結ばれて、眼は鋭く細まった。正邪は中空でシャボン玉のように落ち着きなく身体を反転させていたが、その紅い瞳だけは真っ直ぐにぬえの胸へと向けられていた。その瞳を見つめているうちに、ぬえの心の中に猛っていた炎は鳴りを潜めてゆき、跡にはくすぶりを続ける灰だけが残された。
「……あんた、もしかしてさ」ぬえは口を開いた。「最初から私を勧誘するつもりなんてないんじゃないの?」
「なんだと?」
「本当は単に私が気に入らないだけでしょ。だからちょっかいを掛けてくるんじゃない? どうしても協力して欲しいってんなら、菓子折り持参で頭を下げなさいよ。逆立ちしたってできっこないでしょうけど」
天邪鬼は動きを止めて、つまらなそうに肩をすくめた。放り投げるようにしてぬえに包みを返すと、中途半端に舌を出した。
「へーんだ、好い子ちゃんぶりやがって。寺の連中から嫌われるのが怖いだけなんだろぉ? ここで暴れると和尚さんから大目玉だもんなー」
命蓮寺を後にして、ぬえは人里の方角に向かった。感情が高ぶって火照った頭には、冬の寒風はちょうど好い薬になった。正邪とのやり合いを思い返しているうちに飛行する速度は落ちてゆき、遂には林道に着地してしまった。歩きたい気分だったのだ。
正邪は命蓮寺に残った。寺の中には味方に引き入れられそうな奴がいるかもしれないと踏んでいるのだろう。ひらひらと手を振って歩いてゆく彼女の背中が、今にも日差しで溶けてしまいそうに見えた。
林道にも雪がしっかり降り積もっていたが、そこに残された獣の足跡がぬえの目前を横切っていた。足跡の持ち主の気配はなく、ただ過去に起こった出来事を指し示す痕跡だけが息づいていた。ちょうど手首に刻まれた矢傷のように。
「……嫌われるのが怖いだけ、か」ぬえは呟きを落っことした。「ひとの心配をするよりも、自分の心配をしろっての。天邪鬼」
#04
子供達は雪を目にして大はしゃぎだった。赤蛮奇は多々良小傘の隣で寺子屋の柵に背中を預けながら、雪玉をぶつけ合う幼子らの様子を見守っていた。陽の光が雪に反射して、さながら祝福するかのように子供らを優しく包んでいる。
「晴れて好かったね。みんな楽しそう」小傘が笑った。「きっと風の神様が気を利かせてくれたんだよ。雲を払ってくれてさ」
「……それで用事って何? まさか一緒に生徒の御守をしろって?」
「そ。ひとりじゃ手が足りないのよ。ちょっと目を離した隙に遠くに行っちゃうからさ、後で慧音さんに苦労をかけないように」
「その先生は何してるのさ」
「小テストの採点。いつもは寝る時間を削ってやってるって。昼休みの時だけでも見てくれると、とても助かるんだそうよ」
「なるほどね」
赤蛮奇は小傘に貰ったいちご味の飴玉を噛み砕いた。飴なんて口にしたのはいつ以来だろう。
ふと、小傘が云った。「子供は嫌い?」
「……苦手なだけ。でかい連中よりかはマシだけど」
「人間が嫌いなの?」
「距離を取ってるだけよ」
「でも里に紛れて暮らしてるんでしょう?」
「あなたね」赤蛮奇は柵から身体を離した。「余計な詮索をしないと気が済まないわけ? 根掘り葉掘りひとに訊ねていったい――」
「ご、ごめんなさい。赤蛮奇さんのことを、もっと知りたくって」
「知りたい?」
小傘は頷いた。「お互いのことを知り合っておかないと、いつまで経ってもぎくしゃくしたままでしょ? ――あ、そっか。それなら私の方から話さないと失礼だよね。ごめんなさい」
「いや、好いわよ別に――」
聞いちゃいなかった。あれこれと話し出す少女を横目で見ながら、赤蛮奇はこめかみに指を当てた。けれども話が付喪神になったきっかけに及んだところになって、顔を上げて話を遮った。
「人間に捨てられたから? だから付喪神に?」
「ん、そう」小傘は茄子色の傘に目を落とした。「こんな色だからね。気に入ってもらえなかったんじゃないかな」
彼女のまつげは微かに震えていた。
赤蛮奇は首を振る。「ふつう、あなたみたいな付喪神は使ってた奴に復讐するか、さもなければ人間に怨みを晴らすものだって聞いたことがあるけれど」
「ちょっと前まではね、そうだったよ」でもさ、と小傘は呟くように云った。「きっかけがあって。“こんなの空しい”って思っちゃったの。それよりも私に出来ることを積み上げていって、人間を見返してやる方がやりがいがあるんじゃないかって気がついたの」
「……あんた、妖怪よね?」
「人間に近しく暮らす妖怪が居ても好いんじゃないかな」
「わからない。――分からないわ」
こいつに付き合ったのは間違いかもしれない、そう思った時だった。
子供の放った雪玉が弾丸のごとく飛来して、赤蛮奇のヘッドに直撃した。ひと溜まりもなく首が取れてしまい、雪の絨毯に受け止められて冷たい感触が頬に伝わってきた。
赤蛮奇の視界には冬の澄んだ青空が映っていた。二羽の小鳥が仲睦まじく鳴きながら蒼を横切っていった。そこには自由があった。一瞬の沈黙を経た後になって、ようやく子供達の悲鳴が耳に届いた。
「やれやれね。小傘っ、子供らをなだめてやって――」
「――ヒエッ!? 首が、赤蛮奇さんの首が椿の花みたいに!」
「せいせいせい、なんであんたまで驚いてんのよ! 同じ妖怪でしょうが!」
小傘は腰を抜かしていた。膝を寄り合わせてへなへなと、絵画になりそうなくらい芸術的な腰の抜かしっぷりであった。子供達が一斉に寺子屋へと逃げ込んでゆき、フライパンのごとき頭突きが得意技のハクタク先生が参上つかまつるのは時間の問題となった。
「まったくもう!」
ヘッドを拾い上げて元に戻すと、震える小傘の手から飴玉をひとつ奪い取って口に含んだ。悔しいくらいに甘かった。
「……そういや云ってなかったわね。私の種族は“ろくろ首”よ。――それじゃ」
自慢のマントを翻して、赤蛮奇はその場を去った。
やっぱり世の中上手くいかないものだ。また失敗してしまった。
赤蛮奇は小走りで往来を進みながら思った。子供らの悲鳴と恐怖に歪んだ彼女の顔が脳裏にちらつく。何故だろう、怖がってもらえたのに気分が悪い。ちくしょう、という呪いの言葉が口から漏れるばかりだ。
そうして考え事に気を取られて、前を好く見ていなかったのがいけなかった。赤蛮奇は通りがかった少女に派手に肩をぶつけてしまった。
「――ったァ、何様のつもりよ。あんた、喧嘩売ってんの?」
真っ黒なワンピース、胸元に紅いリボン。さらに血の色に染まった宝石みたいな瞳。
赤蛮奇は反射的に身を引いた。
「ご、ごめんなさい。ぼんやりしてしまって」
「ぼんやり?」少女は手を広げた。「眼は付いてるんだから前くらい見えるでしょ。あんた野良の妖怪ね、ちょっと痛い目に遭ってみる?」
少女の肩からカラスの羽毛のように黒い筋が立ち昇るのを見て、赤蛮奇は鳥肌立った。それはいつか見た古の妖力だった。
「あ、あ……」唇が震える。「ちゃ、ちゃんと謝る。謝るから――」
「――こらっ、ぬえちゃんったらもう!」
小傘だった。茄子色の傘を振り回しながら隣に仁王立ちする。
ぬえと呼ばれた少女はたじろいだ。「こ、小傘。あんたなんで――」
「また関係ないひとに八つ当たり? 今度は何をして叱られたの?」
「ぶつかってきたのはこいつよ」
「ちゃんと謝ってるじゃない! こんなところで騒ぎを起こしたらどうなるか分かってる?」
ぬえは周囲を見回して注目を浴びてしまっていることに気づくと、慌てて二色三対の翼を引っ込めた。舌打ちをひとつこぼしてから、ぶつかった拍子に落ちてしまった紙の包みを拾い上げた。
「あーあ、濡れちゃった。なんてこった」
喉がようやく息を吹き返した。赤蛮奇は云った。「本当にごめん。なんなら弁償でも」
「いや好いわよもう」ぬえは小傘の顔を窺いながら答える。「私の方こそ不注意だった。ちょっと機嫌が悪くてさ、勘弁してちょうだいね」
赤蛮奇は頷いて外套の襟を引き上げた。小傘もうんうんと頷く。
「ぬえちゃん、だいぶ素直になってきたじゃない」
「ほっとけ」
ぬえは手をひらひらと振りながら角を曲がっていった。それを合図に立ち止まっていた人びとは自身の生活に戻ってゆく。
「大丈夫?」
「……平気」目を合わせられなかった。「知り合い?」
「うん、封獣ぬえって名前なの。大切な友達」
「ぬえって、あの“鵺”?」
「全然そうは見えなかったでしょ?」
ナチュラルに失礼なことをのたまう小傘であった。
「人間と宜しくやってるかと思えば、次の瞬間には鵺と友達なんて」溜め息が漏れる。「ますますあなたが分からなくなってきたわ」
「ぬえちゃんは悪い子じゃないよ?」
「……信じられない」
小傘が首を傾げる。赤蛮奇は蕎麦屋の軒先の柱に寄りかかって彼女の瞳を見つめた。右は青空の色、左はいちごの色。くりくりと落ち着きなく輝きを放つ、誰からも好かれそうな大きな瞳だった。
「信じられない。そんな風に、人間とも妖怪とも打ち解けてやっていけるなんて、私は信じたくない。ずっと前からそうだった」
「ど、どうしたの? なんでそんなこと云うの?」
「あなたは知らないと思うけど、私は以前からあなたのことを見ていたの。子供達に芸を披露していたり、赤ちゃんの子守をしていたあなたのことを」
小傘は手を打ち合わせた。「――思い出した! やっぱり赤蛮奇さんだったんだ。いつも遠くから見てたよね、赤い髪をした女の子」
思いっきりバレておった。赤蛮奇は襟に顔を埋めた。
「私は、私はね」自分は何を云おうとしているのだろう、唇が勝手に動いている。「……どいつもこいつもうんざりで、だからできるだけ距離を取って暮らしたかったの。人間からも妖怪からも。厭になる連中ばかりだから。でも、――でも正直に云うと、あなたのことが羨ましい」
小傘は黙って聞いてくれていた。
「子供は苦手だけど、子供の笑顔は好きよ。でも好きだからこそ眩しくてたまらないの。雪に反射した陽の光みたいに。子供達が遊んでいる姿を見ていると、何故だか胸が苦しくなってくる。そんな風にはしゃいでたら、転んじゃう。そんな風に笑われたら、辛くなる」首を振った。「……ごめん。こんな言葉じゃ、分かってもらえないと思うけど」
もっと云うべきことがあるはずだと思った。でも恥ずかしさが勝ってしまい、赤蛮奇は押し黙った。付喪神の少女は意味もなく傘を開いてくるくる回してみせると、飴玉を差し出してきた。赤蛮奇が手のひらで受け取ると、小傘は微笑んだ。
そして云った。「……ねぇ、私がいちばん幸せになる瞬間ってどんな時か、教えてあげよっか」
頷きを返す。
「ひとつはね、油断している子供を驚かすのに成功してお腹が膨れた時で、――もうひとつは、雨に濡れそぼって泣いている子供のために、この傘を差しかけてあげる時だよ」
「……つまり?」
「あなたの能力は、とっても使える」
「は?」
「さぁさぁ、お立ち合いお立ち合い!」
再び寺子屋の庭、呼び集めた子供達の前で、小傘は茄子色の傘を器用に回していた。……赤蛮奇の頭を乗せて。遊園地のティー・カップなんて目じゃないくらいに視界が激しく揺さぶられて、ぶっちゃけると吐きそうだった。どうしてこうなった。
子供達は怖がりながらも好奇心を誘われているようだった。歓声こそないものの、小傘の新しい芸に興味津々なようだ。あとひと押しが必要みたいだった。こうなったらやけくそだ。
「い、――いつもより余計に回っておりまぁぁぁすっ!」
爆笑が巻き起こった。子供達の笑い声が鼓膜を優しく打つ。自分のことを小傘と同じように“親しい存在”として受け止めてくれたようだった。冬の寒さにも負けない暖かな笑い声に、赤蛮奇は包まれていた。
「――ぐふっ」
そして、泡を噴いて失神した。
#05
人里で小傘らと別れた後、所用を済ませた封獣ぬえは迷いの竹林に分け入った。真っ白にお化粧した竹が、挨拶するかのように積もった雪を葉っぱから滑り落とした。ぬえは竹の緑と雪の白と空の青とに親しみながら、竹林の荒ばら屋に向かった。
腐れ縁の家には本人の他にも来客がいて、二人して筍(たけのこ)の味噌漬けをぽりぽりつまみながら将棋を指していた。引き戸を開けたぬえは呼吸ふたつ分ほど硬直してから、久しぶり、と声をかけた。
「――あら、封獣じゃない。久しぶり」藤原妹紅が振り返って朗らかに笑った。「入って入って。せっかく暖まってきたところだし。熱が逃げちゃう」
ぬえは頷いて戸を閉めると、妹紅の隣に正座してから手土産の包みを渡した。
妹紅はどてらの袖を伸ばして受け取った。
「ん、何これ?」
「水羊羹。前うちに来た時、気に入ってたみたいだから」
「へぇ、気が利くじゃない。ありがとう」
すかさず頭を撫でてこようとしたので、ぬえは「子供扱いすんな」と身を離した。その時になって、ようやく向かいの客がこちらに気づいたらしく将棋盤から顔を上げた。
「……あなたが封獣鵺?」滑らかな毛並みの尻尾がくるりと円を描く。「はじめまして、今泉影狼よ」
ぬえは頷いた。妹紅に頭をぽかりと叩かれたので、仕方なく「よろしく」と云い添えた。影狼は牙を見せて笑いながら盤に視線を戻す。
「竹林に住んでるニホンオオカミの妖怪なのよ」妹紅が解説する。「最近知り合ったばかりなんだけど、筋が好くて成長も早いから楽しませてもらってる」
お褒めの言葉に影狼は返事もしなかった。だが尻尾はせわしなく板の間をはしゃぎ回り、耳はピサの斜塔のごとく天井を向いた。
「ほら、可愛いところがあるでしょ?」妹紅が云った。「封獣も嬉しくなると羽根が動き回るけど、それに似てると思わない?」
ぬえはそっぽを向いた。一方の影狼が次の手を指すと、妹紅は数瞬の考を挟むこともなく致命的な妙手を返す。哀れにも影狼の耳は倒壊し、凶悪な爪をかじり始め、グルルルという唸り声まで漏れ始めた。
「ん、美味しい」爪楊枝で水羊羹を口に含んでから、妹紅が云った。「それで今日は何の相談?」
「相談ってほどじゃないんだけど」ぬえは応じる。「この前の、小人と天邪鬼が起こした異変のことは知ってる?」
影狼が顔を上げる。赤ワインのような色をした瞳がきらめいた。
妹紅が腕を組む。「話くらいは」
「里じゃ噂にもなってなかったみたいだけど」
「影狼から聞いたよ。下剋上がどうたらって」
ぬえは頷いた。「話が早くて助かる」
「私から云わせてもらえばね」淹れ立ての緑茶を飲み干してから妹紅は云った。「その天邪鬼のことを、一概に否定はできないな」
「なんでさ?」
「どうしてなの?」
ぬえと影狼が揃って声を上げたのを見て、妹紅は笑った。
「封獣は正邪とかいう奴とやり合った訳だし、影狼は被害者のひとりだから、疑問に思うのも無理はないかもしれないけどね」
「でも、あいつは幻想郷を壊そうとしたのよ。あの小槌のおかげで満月なのに人前に姿を現す羽目になっちゃったし。おまけに魔法使いには自慢の髪を焦がされるし。おかげで自慢のキューティクルが……」
恥ずかしい、とばかりに影狼は水羊羹をもぐもぐしながら嘆いた。
「つまりね、下剋上をしたいっていう気持ちも分からないでもないってことよ」妹紅が云った。「……私は封獣や影狼よりも永く生きてる。それに元は力のないただの人間だったから、それで千数百年とやってきたもんだから、――その虐げられてきた連中の立場に共感を覚えずにはいられない。“鬼”だの“畜生”だのと蔑まれてるとね、どうしても“何もかもひっくり返ってしまえ”っていう想いが湧き上がってくる。ひとの頭の上に胡座をかいて笑っている連中を見ていると、心の底から憎らしくなってくる」
妹紅は事実を確認するかのように淡々と話した。
「……その正邪って奴も、見た目は鬼に似ているんでしょう? ――昔は鬼の連中がやりたい放題やっていたから、妖怪の中でも鬼に対する憎悪ってのは深かったと思う。でも実力じゃ鬼には敵わない。その鬱憤晴らしに天邪鬼という種族に恨み辛みがぶつけられたって可能性もなくはない。実際のところは当の本人に訊いてみなければ分からないけれど」
――理由を考えてみなければならないよ、と妹紅は続けた。
「“天邪鬼という生まれつきの種族だから”ってことだけで判断していたら、たぶん何処にも行き着けない。私も幻想郷に暮らして長いから分かってきたけれど、この世界に渦巻く種族間の軋轢というのは、意外と根が深いように思う。単純な実力差の問題だけじゃなくて、もっと根の深い問題があるような気がする」
……妹紅が話を結んでからも、ぬえと影狼は言葉を繋げることができなかった。釣り合った天秤のような危なげな沈黙が囲炉裏の熱にほだされていた。ぬえはリストバンドに覆われた左手首を無意識に握りしめていた。影狼は無言のままに水羊羹をぱくぱくと食べ続けていた。
「つまり」ぬえは呟いた。「話し合いが肝心ってこと?」
「殴り合いよかマシでしょう」
「私はそっちも好みなんだけど」
「しょうがない奴だなぁ」
妹紅は微笑みを分けてくれた。やっぱりこいつに話して好かったとぬえは思った。考え込んでいる様子の影狼を見ながら、思い切って二人に訊ねてみた。
「それにしてもさ、二人ともどうしてそんな仲好さそうなの?」
妹紅と影狼は同時に答えた。
「そりゃ、こいつが狼女の割には話の分かる奴だから」
「それは、このひとが人間にしては話を分かってくれるひとだから」
二人は顔を見合わせた。
その様子を見て、ぬえもようやく笑顔を取り戻すことができた。
#06
ぬえが竹林に向かったちょうどその頃、鬼人正邪は命蓮寺の境内を散策していた。ひとつひとつの部屋を見て回り、出会った門徒の妖怪ことごとくに声をかけて回ったが、一様に嫌そうな顔をされた。
正邪は気に留めることなくのんびりと本堂に差し掛かったが、そこで話し声が聞こえてきたので手近な柱に身を隠した。
「――衝動という衝動は元来から抑えがたいものですし、私も宴会ですとか縁日ですとか、そうした“ハレ”の時節にまでとやかく云うつもりはありません。――しかし日常的にお酒を嗜んで乙に構えているというのはどうにも――」
それは寺の和尚の声だった。説教されている二人の門徒は固くて冷たい板の間に直に正座させられていたが、説教している当人までが座布団も敷かずに座っているのは正邪にしてみれば滑稽だった。
どうやら飲酒の禁を破ったことを戒められているらしい。
「……お寺といっても所詮は妖怪寺だな。底が知れるってもんだ」
と正邪は思った。思っただけではなく実際に声に出して云った。
カチン、ときたらしい。説教されていた尼さんと水兵が振り返って、柱の影にいるこちらを険しい目で睨みつけてくる。正邪はわざとらしく笑ってみせた。
和尚が声をかけてきた。「貴方が先の異変を起こしたという天邪鬼ですね?」
「だったら何だ、私に説教したって無駄だよ。ひとから怒られるとね、もっと困らせてやりたくなるんだよ」
正邪は柱から歩み出ながら応えた。和尚はしばらく考え込むように顔を伏せていたが、やがて手を打ち合わせて云った。
「それなら、お茶でも飲みながらお話しませんか。――美味しい美味しいどら焼きもあるんですよ?」
「姐さんっ、あのどら焼きは私と村紗が――」
「一輪?」
「……失礼しました」
横目で見られて黙り込む尼の妖怪を笑いながら、正邪は「悪くない」と思った。ちょうど腹も減っていたところだし、他人のお菓子を失敬して苦い汁を飲ませられるなら一石二鳥と云える。
「……好いだろう。ただし、繰り返すが説教はするなよ。私はどら焼きが食べたいんだ」
「ええ、もちろん」
聖白蓮は頷いた。
正邪は、まずちゃぶ台に用意されたどら焼きの半分以上を自分のために確保した。対面に座した白蓮は涼しい顔だったが、その後ろに正座させられている雲居一輪と村紗水蜜は唇を噛んでいた。
愉快である、と正邪は緑茶を音を立てて啜った。
「それにしても狭いな。ここが本当に和尚の部屋なのか? 蟻んこの女王だってもっとマシな居室を持ってるぞ」
「私には丁度好いのです。昔から手狭な部屋で暮らしてきましたし、それに他の子よりも大きな部屋で楽をするのは心苦しいので」
「はーん、ご立派なこった」
白蓮は異変のことを語らせようと仕向けてきた。命令はされたくないと答えると、ご丁寧にも「お願い」されたもんだから、それならしょうがないと正邪はどら焼きを口に含んでふがふがしながら語り出した。そのやり取りが終わる時分には一輪と水蜜の肩は小刻みに震えていた。
異変のいきさつを子細漏らさず披露している間、正邪は極上のどら焼きを失敬しては頂戴し、頂戴しては失敬した。針妙丸をまんまと騙した件(くだり)で緑茶のお代わりを要求すると、一輪が替えを注いでくれたのだがその手もやはり震えていた。
緑茶にも菓子にも手を付けずに話を聞き終えるは白蓮、反論も意見も一切なく、語り手の話に相槌を返すばかりだった。正邪が最後の白あんを平らげるのを見届けてから、白蓮は口を開いた。
「……貴方が“下剋上”を望むのは、貴方が天邪鬼だからですか? それとも、貴方の仰る“強者”に何か怨みがあるからですか?」
軒先から雪の塊が落っこちて敷石に着地した音が、縁側と障子とを隔てて部屋まで届いてきた。正邪はその音を聞き、また白蓮の声を聞きながらしばらく口を開いていたが、我に返ってちゃぶ台を平手で叩いた。
「おい、――“説教はするな”って云ったよな?」
「もちろん」和尚は頷く。「ただ知りたくて質問しているのです」
「どうだかな」そらおいでなすったと思いながら正邪は答えた。「分かりきったことを質問して、遠回しに目下の相手を責めるんだ。――ちょいそこの舟幽霊、茶のお代わり! ――そういう性根の嫌らしい連中のことを、私はこれまで何百人と見てきたよ」
「それはあんたの被害妄想じゃないの?」
水蜜が急須を取りながら声を上げた。
白蓮が顔を向ける。「ね、村紗?」
「だって、聖、――だって」
正邪は首を四十五度ほど傾けた。
「ふっふっふ、被害妄想をしているのはどっちだか。――なぁ、大量殺人をしでかしたお前ならさぞかし怨みも深かろう。どうだ、自分を解き放って、ふんぞり返ってる連中に断固復讐してやろうじゃないか」
水蜜の顔が真っ赤に染まった。のみならず磯の香りが部屋中に立ち込め、袖から覗いた両手の皮膚が緑色に濡れ始めた。立ち上がりかけた一輪の肩と、うつむいてしまった水蜜の肩とに手を置いて、白蓮は「この二人は」と静かに云った。
「確かに修行の至らぬところはあるかもしれません。今回のようにお恥ずかしいところを見せてしまうこともあります。人間の性(さが)に根ざした怨みのあまり、数多くの過ちを犯してしまったことも事実です。――ですが、その性と闘って何度も試練に耐え、最後には私を救い出してくれたのも事実なのです。……この二人は、私の誇りです」
「だったらなんだ?」正邪は低い声で答えた。「大切な部下を侮辱するなって、――そういうことか?」
いえ、と白蓮は首を振り、あろうことか微笑みかけてきた。正邪は思わず背筋を伸ばしてしまった。
「つまり、……もしも貴方が自分の妖怪としての性に何処か後ろめたい気持ちを持っているのなら、私は貴方を導くことができます。また、貴方が過去に根ざした怨みを今も捨て切れないというのなら、私は貴方の怨みを受け止めてみせます。ですから、もし貴方さえ宜しければ――」
――白蓮の声はそこで途切れた。正邪は自分の右手を見た。替えてもらったばかりの湯呑みを握り締めた手は震えていて、そしてその中身は白蓮の頭にかかっていた。彼女の前髪から緑茶が滴り落ち、ちゃぶ台の木目をしたしたと打った。
「それ以上は」
手の中で湯呑みが砕けた。
「……それ以上は、説教だ」
呆然としていた一輪と水蜜が今度ばかりはと立ち上がり、殺意をぎらつかせた目つきで妖力を爆発させた。ひと言も発しない白蓮を睨みつけながら正邪も負けじと立ち上がり、大声で云った。
「いつもいつも、いっつもそうだ! ひとを散々に虐げておきながら、次の瞬間には吐き気がするほど汚れのなさを装った手のひらを差し出してきやがる。――本当に手のひら返しをしやがるのは、お前ら“強者”の方じゃないか!」
白蓮は答えない。きらきらと滴の溜まった瞳をこちらに向けているだけだった。瞳の奥には全てを受け容れるべく広がった青い海だけが見えた。そして両手を広げて差し出してきた。その手のひらには茨の傷が今も残っていた。
「あ……」
正邪は後ずさりながら手で口を覆った。今、自分は何を云ってしまったのだろう。余計なことを、それも致命的なことをぶちまけてしまったような気がした。背中に障子が触れたのに気づくと、正邪は捨て台詞のひとつも残さずに戸を開け放ち、冬空へと飛び出した。
#07
彼女には首から上が存在しなかった。
柳に周りを取り囲まれた墓場の中央に彼女は佇んでいた。私は傘の柄を握りしめて彼女の方へと近づいた。名前を呼びかけようとしたけれど、舌が痺れたように固まっていてひと言も発することができなかった。恐るおそる肩に手を置いて揺さぶってみても、彼女は動かない。
その内、胸の底から抗いがたい衝動が湧き上がってきて、私はそれを抑え込もうと懸命に首を振った。ろくろ首の彼女、頭を外したままに会話ができたり胴体を動かすことのできる彼女。――ああ、その“断面”はいったいどうなっているのだろう?
私は瞼を上げた。磁石に吸い寄せられるように彼女に身体を密着させて、紅い外套の奥に息づく彼女の首を覗き込んだ。
あっ――という声が漏れて、私はその場に尻餅をついた。濡れそぼった泥の感触が伝わってくる。彼女はしゃがみ込んで私と首の高さを合わせてきた。その断面は空洞になっていて、入り口のところには円形に沿って鋭い歯がびっしりと並んでいた。
首を寄こせ、という地響きのような声と共に、彼女は私の肩を凄まじい力でつかんで身を乗り出し、そして、――……
赤蛮奇さんが私を避けるようになってしまってから、かれこれ数週間が経つ。あの日、つまり一緒に新しい芸を披露して子供達に喜んでもらえた日から、私は毎日のように赤蛮奇さんと会っては話をした。私の友達を紹介したり、幻想郷のあちこちを案内して回った。
最初のうちは彼女も喜んで付き合ってくれたのだけど、――ある日、うつむいて「さよなら」と云い残して以来、私に近づかないようになってしまった。声をかけても目をそらされ、子供達の相手をしている時も姿を現さないようになった。
それからだ、彼女の悪夢を見るようになったのは。私は起き上がるといつも膝を抱きしめて、独りぼっちで震えるしかなかった。私は赤蛮奇さんに、何か取り返しのつかないことをしてしまったのだろうか。
「――という訳なんだけど」
『それは貴方/あんたが悪い』
「やっぱり!?」
二人は声を揃えて「やれやれ」という仕草をした。風見幽香さんはテーブルに頬杖をついて溜め息を吐き出し、八雲紫さんはお皿に盛られたチョコチップ・ココアクッキーをむしゃむしゃした。
「よ、よろしければ理由をお聞かせ願えないでしょうか……?」
「嫌よ」と冷たく云い放つ幽香さん。「それは小傘、――あなたが自分で気づかなければならない問題だから。肥料をやり過ぎると花が枯れてしまうのと同じように、甘やかし過ぎたらあなたのためにならない」
「むぅ」私は顔を伏せた。「紫さんも?」
「こればかりはねぇ。幽香に賛成だわ、珍しいことだけど」
「あんたに同意されても全っ然嬉しくないわね」
「あら偶然。私もですわ」
でもそうね、と幽香さんは紅茶のカップを持ち上げる。「ヒントくらいは与えてあげる。手っとり早く云うとね、小傘は突っ走り過ぎ。マイペースが悪い方向に働いたってこと。立派な花弁が開くまでは、もっと慎重にならなくちゃいけないわ」
幽香さんは言葉を切ってハーブ・ティーに親しんだ。口調こそ辛辣ではあったけれど、彼女の表情は花を慈しむ時分と似ていた。それで私は何も云い返すことができなくなって、うつむいた。……やっぱり私が悪い、ということだ。
太陽の畑。――冬のひまわり。誰もが落ち込んでいるかのように頭(こうべ)を垂れて、花びらから茎に至るまで赤茶色に老いてしまっている。雪を被って枯れ果てているひまわり達。その中でテーブルを囲んでお茶を飲むというのは、ちょっとしたホラーだった。
私が枯れてしまった花々に視線をさまよわせている間に、二人の大妖怪は会話を続けてゆく。
「そう云えば私は異変のことほとんど何も知らなかったんだけど、あんたはどうなのよ?」
「今回はそっとしておきましたわ。霊夢達で充分解決できる規模だったし、事実その通りになったしね」
「なんなら私が出向いてあげても好かったのに。“下剋上”ってんなら喜んで相手になってあげるわよ」
「妖怪のあなたが異変を解決しても意味ないでしょう?」
「それは残念ね。一ボスから六ボスまで束になって掛かってくれば好いのよ。ほら“弱い奴は群れたがる”ってよく云うじゃない」
「幽香、あなた顔が怖いわよ……」
「あっ――紫、それ私のクッキーなんだけど。もっと遠慮して食べなさいよ」
「あなたのだから遠慮なく頂くの」
「この野郎」
……私は顔を戻して訊ねた。
「その異変のことなんだけど。幻想郷には、――不満を持ってるひとが沢山いるの? 私、全然気づかなかった」
紫さんと幽香さんはお互いの襟首から手を離して、顔を見合わせた。
扇子で口元を隠しながら紫さんが目を伏せて云う。「……確かにフラストレーションの溜まっている妖怪も、相当数いるかもしれないわね。妖獣に付喪神、天邪鬼に小人族。いろんな妖怪やら人間もどきがいるもの。問題が起こらない訳がない。今回の異変は、ある意味起こるべくして起こったと云えなくもない。……外の世界と同じように」
「へぇ、源平合戦じゃあるまいに、今になっても外には“下剋上”なんてあるのね」
幽香さんの言葉に紫さんは首を曖昧に振った。
「幻想郷には妖怪の“種族”があるように、外の世界には人間の“民族”があるのよ。その間の軋轢は昔の時代と変わらずに、いやむしろ増してきている。幻想郷だけじゃない、外の世界もまた上と下とで、――あるいは北半分と南半分とで争ってるのよ」
紫さんは言葉を結んだ。冷たい風が吹き渡りパラソルがなびいた。冷めてしまった紅茶の水面が揺れていた。
私は今の話をどう呑み込めば好いのか分からなかった。私を取り巻いている世界がこうも危ういバランスの上に成り立っているということ。その事実、その現実に、いったい何を。
私は言葉を探した。「……強いひとと弱いひとが争うのなら」息を吸った。「紫さんと幽香さんは、どうして私の話を聞いてくれるの?」
二人は即答してくれた。
「そりゃ何と云ってもあなたって面白いし、何よりも――」
「――虐めたくなるくらいに可愛い」
「そうそれ」
「ひどい」
私はテーブルに突っ伏した。
幽香さんの言葉が降ってくる。「……ところで、どうして小傘は小槌だか何だかの影響を受けなかったのかしら」
紫さんの笑い声。「“そのままのこの子”が一番ってことでしょう」
「なるほど、納得したわ」
意味ありげに笑い合う二人の妖怪は“冬の寒さなんてまるで意に介してません”と云うかのように自然に振る舞っていた。それが本当の強さなのだとしたら、私は彼女にそんな“自然な強さ”を見せてあげることができるのだろうか? 嬉しくなったら自然に笑って、……哀しくなったら自然に泣いて。
#08
一輪と水蜜の機嫌がすこぶる悪い。ここ最近は何とか落ち着いてきたけれど、こちらの顔を見る度に気まずそうに視線をそらしてくる。訳も分からずに地底以来の腐れ縁に避けられて、ぬえは地味に傷ついた。
今日はクリスマスという名前の祭日らしい。フランドールから届いた招待状を読みながら、ぬえは境内を横切って門前へと向かった。今は命蓮寺に留まっていてもろくなことがなさそうだった。
ちょうど小傘が門を通って入ってくるところだったので、ぬえは立ち止まって話をした。小傘は手にバスケットを持っていて、その中身は赤い花弁を咲かせた花々で埋まっていた。
「どうしたのそれ?」
「サザンカだよ、ぬえちゃん」小傘は笑顔で答えた。「幽香さんがくれたの。寒い時季に咲く素敵な花だって」
ぬえは寒さで色づいた小傘の頬を見つめた。「……幽香ってあの花の妖怪でしょう? 危険な妖怪って聞いてるけど大丈夫なの?」
「優しいひとだよ。ちょっと怖いところもあるけれど。記録や噂話だけでひとを決めつけちゃ駄目だよ、ぬえちゃん」
小傘の物云いにぬえはすかさず云い返そうと口を開いたが、顔をうつむけて語っていた妹紅の姿を思い出して息をついた。
「……悪かったわよ、もう。私が悪うございました」
「ぬえちゃん、……最近素直になりすぎて逆に気味が悪いよ」
「ちくしょーッ!」
ぬえは小傘と別れて紅魔館へと向かった。小傘は手先の器用な一輪に相談して、サザンカの花を何かに利用するらしい。
正邪のこと。一輪と水蜜のこと。そして自分自身のこと。あれこれと似合わない考え事をしながら、人里の上空を通り過ぎて柳の運河に差し掛かった時だった。
「――えっ」
いきなり視界の天地が逆転した。ぬえは翼をはためかせて反転しようとしたけれど、動かした方向とは逆の角度へと身体が傾いて制御できなくなった。慌てて上昇しようと風を切ると今度は急降下してしまう。全身の筋肉の動きが完全に上下左右反対になっていて、ぬえはたちまちパニックになった。
受け身の体勢も取れないままに、ぬえは真っ逆様に墜落した。
◇ ◇ ◇
赤蛮奇は鉄球を吐き出すかのごとく重い溜め息をついた。柳の運河の土手に腰かけて遠くの山並みを見つめる。雪を冠に頂いた山々は、昼の光を受けて山肌をさらしていた。
これからどうしよう、と呟きを川面に落っことしては瞳を閉じる。何をしようにもやる気が起きない。人間を怖がらせるのも億劫だ。まるで小麦を挽く水車のように田園風景に自分を溶け込ませる以外にやることが思いつかない。
行く宛のない息をもう一度吐き出して、赤蛮奇は姿勢を変えた。
――頭上からぬえがホールイン・ワンしてきたのは、まさにその時である。
ビルディング破砕用の鉄塊が直撃したかのような痛烈な一撃を喰らった赤蛮奇は、ひと溜まりもなく気絶して当然のごとくフライング・ヘッドした。視界が例の忌まわしき傘回しのように急転回し、世界という世界が冷水の闇に閉ざされた。
◇ ◇ ◇
「――大成功!」
懐かしき天邪鬼の麗しき美声が耳に届く。ぬえは低い唸り声を漏らしながら立ち上がった。ひと筋の血が鼻緒を伝ってゆくのを感じた。冗談でなく本当に頭蓋骨が割れたのかもしれん。
「なんだ生きてるのか。とんでもない石頭だなぁ」
「……ちょっとでもあんたを理解しようって気になった自分を殴ってやりたい」ぬえは三叉槍を拾い上げた。「てめえぶっ飛ばしてやる」
「ふふん、いつでも掛かってこいよ」
ぬえは眉を釣り上げた。「逃げないなんて見上げた根性じゃない。格の違いってやつを見せてあげるわ」
正邪はにへらと笑った。ひびの走ったコンクリートのような笑みだ。髪は落武者のごとくぼさぼさで、意匠の施された服も今は汚らしい。ひきつけでも起こしたかのように肩が震えていた。何があったんだろう、とぬえは訝しんだ。
「まぁ、どうでも好いわ」使い魔の口からスペルカードを取り出す。「――宣言なさい」
「五枚だ」正邪もカードを広げて叫ぶ。「決着をつけよう!」
――持って生まれた形質ばかりはどうにもならない。それは正体不明という能力を授かった自分がいちばん好く知っている。
自分を保つためにはあらゆるひとと距離を取る必要があるけれど、その理由は近づかれたら自分を知られてしまうからだ。いつも他のひととの境界線を計るのに疲れてしまって、ついこちらから離れていってしまいそうになり、その度に自分も相手も傷ついてしまう。
“私とあなたは違う”ということ。立場が違うことを承知で分かり合うということ。分かり合えずとも適切な距離を保つということ。心と心の間に横たわる力加減を間違えないということ。それだけのこと。本当にそれだけのことなのに。
正邪の戦い方は、ほとんどヤケクソと云っても好いくらいだった。何としてもこちらを打ち倒そうと真正面から向かってきた。その時の天邪鬼の少女は間違いなく本気だった。捨て身だった。相手を踏み破るまでは突進することを止めない怒れる動物のように。
正邪。鬼人正邪。――あんたはただ自分のために世の中を変えたかったの? 持って生まれた種族が種族だから、性質が性質だから、自分が自分だから、――だから幻想郷をひっくり返そうとしたの?
それとも、誰にも分かってもらえない切実な理由を抱えていた? もしそうなら、――私があんたの話を聞いてあげることだってできたのに。――今まで私の話を黙って聞いてくれた沢山の人びとと同じように。
……ただ、同じように。
「……あんたさ」
「なんだ?」
「天邪鬼のくせに弾幕ごっこはめちゃんこ強いじゃない。もう少しで負けるところだったわ」
「やめろ。褒められると身体の調子がおかしくなる」
「弾幕ごっこでならさ、あんただって本当に幻想郷をひっくり返せるかもしれないわね。いつの日か」
「それじゃ駄目なんだよ」
ぬえと正邪は運河の川岸に大の字で寝転がっていた。いつの間にか雪が降り出していて、二人の白く濁った吐息が冬空に溶けていった。これがホワイト・クリスマスなんだな、とぬえはぼんやり思った。
「それじゃ駄目なんだ」正邪は繰り返した。「それじゃ本当の下剋上にはならない。弾幕ごっこでいくら強くなったって、所詮はこの世界の“ルール”の中でのし上がったに過ぎないだろ」
「でもさ、あんたは異変の時は弾幕ごっこで巫女や魔法使いやメイドと戦ったんでしょう? ちゃんと幻想郷の“ルール”に従って異変を起こして……」
息を吸い込む音が隣から伝わってきた。冬の空気を切り裂いて。「利用できるもんなら何でも利用するさ。“弱者が強者と対等に戦えるために作られたルール”――それが弾幕ごっこってんなら、せいぜい使わせてもらおうじゃないかってこと」
ぬえは首を傾けた。「なんだか矛盾してるような」
「分からないならいい。私達の立場が違うだけだ」
正邪は遙かな空を眺めながら、ぽつりと言葉を転がした。
「“似て非なる者を悪む。郷原は徳の賊なり”」
「……なにそれ?」
「私がいちばん許せないのはな、聖人面をして偉そうに似而非(えせ)道徳を説く連中のことだ。地底にいたお前なら分かるだろ? いかにも好いひとに見せかけて世間に媚びてる連中のことだよ。本当の“聖者”ってのはそんなんじゃない。――絶対にそんなんじゃない」
「うちの和尚はどうだった?」
「あいつは本物かもしれない。だから余計に気に喰わない」
「ほんっとに天邪鬼ね、あんた。逆に感心するわ」
「お前はどうなんだ?」
正邪の紅い瞳がこちらを向いた。二人は見つめ合った。
「どうしてもレジスタンスに加わる気はないのか?」
「しつこいわねぇ。はっきり云うわ、嫌よ」
「そうか。……私達は似た者同士だと思ったんだがな」
「根っこのところは違ったってことね」
「似て非なり、だな」
それが答えだった。絹のヴェールであるとか、竹の垣根であるとか、そういった邪魔なものが全て取り払われたような気分だった。二人は遮るもののない心からの笑い声を交わし合った。そして握手の代わりにお互いの身体に蹴りをかました。
「……それで、話は終わったの、お二人さん?」
頭上からおぞましき声が降ってきた。ぬえは正邪と顔を見合わせた。正邪は唇を歪めて肩をすくめてみせた。ぬえも乾いた笑い声を漏らした。――そしてお猿さんのごとく飛び起きて、二人そろって博麗の巫女に土下座したのだった。
#09
物音に気づいて玄関を開けると、そこには両手に桶を抱えた彼女がいて、吹雪の荒ぶ中で亡霊のように佇んでいた。やはり首はなくなっていて表情が分からない。私が何も云えないでいると、金属の爪で黒板を引っかくような笑い声を立てながら、彼女は桶の中身を私の身体にぶちまけてきた。粘つくそれは水なんかじゃなかった。血みどろの手を見た私は、腰を抜かして絶叫した――。
「――こがさ、小傘!」
飛び起きた私の肩を揺さぶりながら、赤蛮奇さんが涙声で呼びかけてきた。夢と現実の彼女を混同してしまった私は、目の焦点が合わないままに全力で抵抗した。
「やめて、やめてよ! どうせ私の身体が目当てなんでしょ!」
「なに云っちゃってんの!? ――正気に戻ってよ、小傘ぁ!」
頬を往復ビンタされてようやく私は我に返った。瞳に涙をいっぱい溜めながら、赤蛮奇さんが蝋燭の明かりに浮かび上がっていた。
「ど、どうしたの? こんな時間に……」
「お願い、助けて。もう小傘以外に頼れるひとがいないの」
彼女が私の名前を呼んでくれたのは、この時が初めてだった。それくらいに彼女は動揺しているのだと気づいて、私は深呼吸して話を聞き出そうとした。
「……頭を失くしちゃったの」
「は?」
「だから、私のヘッドが見つからないの」
彼女はボケているのだろうか。
「頭って、今あなたの身体に乗っかってるじゃない」
「そうじゃなくて」彼女はもどかしげに首を振った。「普段使ってる頭がどっかいっちゃったのよ。これは予備。というか二つ目」
彼女はざっと経緯を説明してくれた。今日の昼間、空からロケットだか隕石だかが吹っ飛んできて、それが直撃して気を失ってしまったらしい。頭は衝撃で胴体との接続が切れてしまって、柳の運河に流されたまま行方不明になってしまったそうだ。
取る物も取りあえず私は彼女を連れて外に出た。泣く子も眠る丑三つ時だった。里の明かりは絶え果てており、夜空に散りばめられた星々が道しるべになった。私は泣きじゃくる赤蛮奇さんを連れて運河を下流の方へと辿っていった。
「もしかしてさ」道中、私は彼女に言葉をかけた。「ここ最近の悪い夢って、――全部あなたのせいだったの?」
彼女はひぐ、と嗚咽を漏らして答えた。「ごめんなさい。……気持ちが落ち込むと私は周りのひとに悪夢を見せてしまうの。ずっと小傘に声を掛けようって思ってたんだけど、いつも寝床にお邪魔するだけに終わっちゃって……」
「そ、それって犯罪じゃない! 不法侵入だよ不法侵入! 自警団のひと呼ぶわよ!」
「本当にごめんなさい」
また泣き出してしまった彼女を見ながら、私は変な笑い声を上げてしまった。なんて不器用なひとなんだろう。私よりも不器用なひとがこの幻想郷にいるなんて。
行き着いた先は霧の湖だった。昼間は濃霧に包まれているこの湖も、今は対岸の林まで見通せる。妖精のひとりもいなかったけれど、代わりに微かな歌声が風に乗って流れてきた。
私達は手を繋いで歌声のする方向へと飛んでいった。中央付近まで進むとそこには突き出した大きな岩があって、その岩に誰かが腰掛けていた。
「せ、セイレーンだわ」隣で赤蛮奇さんが震えた。「……戻りましょうよ小傘。舟ごと沈められちゃうわ、私達」
「しっかりしてよ。あなた浮いてるじゃない」
「あ、そっか」
近づきながら私は瞼を開閉させた。岩に腰掛けている少女の足は魚の尾ひれそのままになっていて、手元には両手で抱え込めそうなくらいに大きな金魚鉢が置いてあり、赤蛮奇さんの首がきれいな石の中に混じってその鉢に入っていた。
あの、と声をかけると人魚さんは歌を中断し、慌てて湖に飛び込もうとしたので、私と赤蛮奇さんは待って下さいと大声で呼び止めた。
「そ、それ以上近づかないで」彼女は手のひらをこちらに向けた。「せっかく気持ち好く歌っていたのに」
「ごめんなさい、ただ私の首を返してもらいたくて」
赤蛮奇さんが声をかけると、人魚さんはろくろ首の顔と金魚鉢の頭とを何度も見比べた。黒真珠みたいに綺麗な瞳が瞬いて星のようだった。
「見ての通りそれは私の首なの。拾ってくれてありがとう。大切にしてるところ悪いけど、返してもらえないかしら?」
「た、確かに嘘ではないようね」彼女は恐々と云った。「でも拾ったのは私よ。こんな可愛らしい首、そう簡単には手放せないわ」
ちょっと臆病なところはあるけれど、彼女もさしもの妖怪でひと筋縄ではいかないみたいだった。一方の赤蛮奇さんは「可愛らしい」と云われて例のごとく襟に首を埋めてしまった。
「……どうすれば返してくれるの?」
私の言葉に人魚さんは唇に指を当てては、鉢の頭と私の顔とを交互に見比べていた。
「そうね」と頷きがひとつ。「綺麗な石。――あなたの持ってる綺麗な石が欲しいわ。そこの紅い石よ」
指さされた私は驚いた。「石なんて持ってないよ?」
「ちゃんと持ってるじゃない。その左目の石……」
「ひっ――」私はのけぞった。「こ、これは義眼なんかじゃないわ。正真正銘、私の目玉よ!」
「ますます素敵だわ。左右で色が違うなんて」
「ちょっとちょっと」赤蛮奇さんが割り込んだ。「どうして小傘の眼を欲しがるのよ。この子は関係ないじゃない」
人魚さんが着物の袖を打ち振った。「じゃあ、――あなたの紅い石を頂けますか?」
「それとこれとは――」
私は思い切って云った。「……わ、分かった。でもお願い、痛くしないでね?」
二人はダチョウの卵を詰め込まれたみたいに口を開いて私を見た。
「さぁ、私の眼をあげるわ。だから赤蛮奇さんの頭を返して」
私が岩場に取りついて見上げると、人魚さんはあたふたと尾ひれをぴちぴちさせ始めた。
「そんな本気で受け取るなんて、……冗談ですよ冗談」そう云って金魚鉢から頭を取り上げた。「また今度で好いから、陸に上がれない私の代わりに、どうか素敵な石を見つけてきて下さいな」
全身の力が抜けた。奈落の底に墜ちてゆくかのように深い息をついてから、私は赤蛮奇さんの首をぎゅっと抱きしめたのだった。
わかさぎ姫さんの歌が湖畔の砂場まで響いてくる。群生した葦に囲まれながら私と赤蛮奇さんは肩を寄せ合い、真っ赤なマントにくるまっていた。冬仕様の彼女の外套は真綿でも入っているかのように軽くて温かかった。
「誰かから聞いた話なんだけど」私は云った。「冬はね、人肌の恋しさに人と人との距離が縮まるからとっても暖かいの。だから、一番あったかい季節は、冬なんだって」
赤蛮奇さんは答えなかった。人魚の歌声を聴きながら星空を見上げていた。吐き出された呼吸と発せられなかった言葉とが互いに絡み合いながら夜空へと昇っていった。
「笑わないで欲しいんだけど」赤蛮奇さんはようやく云った。「ちょっと、引け目を感じちゃって。小傘ってほんとに友達が沢山いるんだなぁって思ってさ。案内してくれた場所のひとがみんなあなたのことを笑顔で出迎えるんだもの。……なんだか息苦しくなっちゃって」
赤蛮奇さんは私から顔をそむけて言葉を結んだ。身体をしきりに動かして落ち着かないようだった。
突っ走り過ぎ。マイペースが悪い方向に働いた。――幽香さんが云った通りだった。私だって赤蛮奇さんと同じだったじゃないか。誰にも驚いてもらえなくてひもじい想いをしていた時分、私は他の妖怪のことをずっと羨ましいと思っていた。人間をいとも簡単に恐怖させてしまうぬえちゃんにだって、私は心の底では独りで嫉妬していたのだ。
……自分が恵まれた立場になった途端に、独りぼっちの気持ちを忘れてしまうなんて。――ひどい、ひどい手のひら返しだ。
「ごめんなさい」私は奥歯を噛んだ。「赤蛮奇さんの気持ちを、私は何も考えてなかった……」
「あ、謝らなくていい」彼女がこちらを振り返った。「あなたは何も悪くない。私が不器用なだけよ。それだけのこと」
「私、ただ赤蛮奇さんと仲好くなりたくて、……ずっと遠くから私のことを見てくれていた、――忘れないでいてくれた、あなたと友達になりたかったの」
「私だって、小傘と……」
赤蛮奇さんは赤い髪を揺らしてうつむいた。ぼそぼそと何事かを呟いたけれど、何を云っているのか分からなかった。
こんなに近くにいるのに、伝わらないことだってあるんだ。
彼女が顔を上げた。「私達の気持ちは同じだった。そうよね、小傘」
「うん」
「……立場が違うだけだったのよ、私達。でも今なら大丈夫、平気。小傘と距離を取ることの方が辛いって、ちゃんと分かったから」
赤蛮奇さんはマントの中で私の手を握りしめてきた。暖かい、春の日だまりのように暖かくて柔らかな手だった。
「改めて、よろしく。――小傘」
「うん、うん。こちらこそ、よろしくお願いします」
私は彼女の手を両手で包み込んだ。――自然に笑うということ、自然に泣くということ。赤蛮奇さんはそれを同時にやろうとしたものだから、彼女の表情は泣き笑いになった。
「――小傘」
「なに?」
「私の名前のことなんだけど」
「赤蛮奇さん?」
「それじゃ長くて呼びづらいと思う」
「うーん、じゃあ……」
「貸本屋の子には『赤(せき)さん』って呼ばせてる」
「なんだか名字を呼び捨てるみたいで苦しいかな。――“蛮奇ちゃん”でどう?」
「好いわね」
「“赤(あか)ちゃん”でも好いけれど……」
「ど、どうか“蛮奇”でお願いします!」
「了解しました!」
「…………」
「…………」
「わかさぎ姫さんの歌、素敵だね。なんだか心が溶けちゃいそう」
「そうね」
「子供達にも聴かせてあげたいな」
「勝手に姿を見せなくなって嫌われてないかしら、私」
「まさか、大丈夫だよ」
「でも……」
「あ、そうだ! ――それじゃこんなのはどう?」
「?」
#10 Epilogue
明け方、封獣ぬえは自室で胡座をかきながら、枕元にあった手紙とサザンカの髪飾りとを見つめていた。
手紙は多々良小傘からだった。赤蛮奇と二人してサンタクロースの真似事をして、夜の内にサザンカの花を子供達にプレゼントして回ったらしい。子供扱いされたことにぬえは腹が立ったけれど、手紙の先を読み進めてゆく内に憮然とした表情はいつしか苦笑に変わった。
最近なんだか元気がないみたいだったから、特別にプレゼントしちゃいます。ぬえちゃんの髪に好く似合うよ、きっと。黒い髪に真っ赤なサザンカ、すんごい素敵だと思う。私が保証するよ。
ずっと前に、ぬえちゃんワインで散々酔っぱらった時に云ってたよね。命蓮寺にいるのがなんだかすごく場違いな気がするって。自分がいるだけでみんな迷惑してるんじゃないかって。
私はそんなことないと思う。そりゃイタズラされたら怒りたくもなると思うよ。でも白蓮さんも一輪さんも村紗さんも、みんなぬえちゃんのことすっごい暖かい目で見てるってこと、私は知ってるんだから。
このプレゼントは、私の気持ち。いつも仲好くしてくれてありがとう! 手紙だから云えることなんだけどね、私はそのままのぬえちゃんがいちばん好きなんだよ。ほんとに、冗談抜きに。
P.S. サザンカの花言葉は「困難に打ち勝つ・ひたむきさ」なんだって。これからもよろしくね、ぬえちゃん。
ずっと前に、ぬえちゃんワインで散々酔っぱらった時に云ってたよね。命蓮寺にいるのがなんだかすごく場違いな気がするって。自分がいるだけでみんな迷惑してるんじゃないかって。
私はそんなことないと思う。そりゃイタズラされたら怒りたくもなると思うよ。でも白蓮さんも一輪さんも村紗さんも、みんなぬえちゃんのことすっごい暖かい目で見てるってこと、私は知ってるんだから。
このプレゼントは、私の気持ち。いつも仲好くしてくれてありがとう! 手紙だから云えることなんだけどね、私はそのままのぬえちゃんがいちばん好きなんだよ。ほんとに、冗談抜きに。
P.S. サザンカの花言葉は「困難に打ち勝つ・ひたむきさ」なんだって。これからもよろしくね、ぬえちゃん。
ぬえは髪飾りを手に取って頭に挿すと、パジャマ姿のまま鏡の前に座った。黒髪には機雷が爆発したみたいな寝癖がついていて、その下には普段は見たくもないと思っている自分の顔が左右反対に映っていた。
でもその時は、真っ赤な髪飾りを付けてはにかんだ表情を浮かべている今なら、自分の笑顔も悪くないと思えたのだった。寒い季節にもひたむきに生きる可憐な花が、ぬえの髪には咲いていた。
ぬえは庭へと顔を向けた。太陽が朝靄を破って真新しい光を世界に投げかけていた。庭に積もった雪は光を反射してきらきらと輝いていた。そうした庭の風景を見ていると、何故だかぬえは掛け値なしに幸福な気持ちになってきた。危うく嗚咽が漏れてしまうところだった。命蓮寺の庭に一日の始まりを告げる新しい“陽”が差し込んでいるということが、とても心に沁みたのだった。
紅魔館でのクリスマス・パーティーは昨日の正邪との一件でお流れになってしまったから、今日はその釈明をしなければならない。フランドールの烈火のごとく怒った姿が脳裏をよぎって気が重いが、謝らないと今度は地下室に引きこもる始末になるので仕方がない。
バスケットにカベルネ・ソーヴィニヨンの赤ワインを入れて、玄関で赤い靴を履いていると、後ろから白蓮が「ぬえ」と呼びかけてきた。ぬえが振り向くと、そこには白蓮の他にも一輪と水蜜がいて、何やら真剣な表情でこちらを覗き込んできた。
「な、なによ」じろじろと遠慮のない視線を向けられて、ぬえは二人の同居人を睨んだ。「なんか文句でもあるの? この前のイタズラのことなら――」
「可愛いね」
「そうね」
「――はぁ!?」
舟幽霊の声に入道使いが賛同した。水蜜がサザンカの髪飾りに手を触れ、一輪は真正面から両肩をつかんできた。二人とも目を潤ませて切実そうな表情を浮かべていた。
「やっぱり違うよね、一輪?」
「うん。――全然違う」
「さっきから何よもう! 恥ずかしいから離れてってば!」
ぬえは助けを求めて白蓮を見たけれど、彼女はとろけんばかりの微笑みを浮かべるばかりだった。一輪に今度は頬をつかまれて、ぬえは顔をそらせなくなってしまった。
「ぬえ、……あんたは可愛いままでいなさいね」
「不良になっちゃ駄目だよ。そのままのぬえでいて」
「――……ッ!」
癖っ毛が一斉に逆立つのを感じた。頭からスチーム・ポットみたいに湯気が吹き出しそうだ。白蓮から焙じ茶の入った水筒を渡されて、ようやく解放された。
「いってらっしゃい、ぬえ」
白蓮の声に返事もできずに、ぬえは玄関を飛び出した。後ろから三人の幸せそうな笑い声が追いかけてくる。ぬえはそれを背中で聞きながら、ばか、ばかと言葉を転がし続けた。
◆ ◆ ◆
博麗霊夢に異変の分と里の近辺で暴れた分と併せてこってり絞られたせいで、鬼人正邪は博麗神社でご厄介になるほどに傷ついてしまった。ひと晩が明けた今日になっても妖力が戻らず、布団から出ることも叶わない。
「せーじゃ、大丈夫?」
少名針妙丸がちっちゃなお盆を手に部屋に入ってきた。お盆にはこれまたミニマムなおにぎりが二つ乗っていて、両手で数えられそうなくらいの米粒で握られた代物らしかった。
「これ食べて、早く元気になってね。私の手作りなのよ」
そう云って布団の脇にお盆を置いてから、膝の上によじ登ってきた。正邪は針妙丸の藤色の髪を人差し指で突つきながら、言葉を落っことした。
「……なんでだ?」
「どうしたの?」
「分かってるだろ? 私は姫を騙していた。利用していただけなんだ。百パーセントね。この前だってそう云っただろう。あれは私としては訣別の挨拶のつもりだったんだがな」
針妙丸はふんふんと頷いた。頭に乗っけたお椀を背中に下ろして正邪の身体に近寄り、着物の袖を広げて服にしがみついてきた。
「おいこら、離れろ」
「……やだ」
「あ?」
「これでお別れなんて、やだ」
正邪は絶句した。「……姫、おまえ」
「確かにね」針妙丸は語った。「確かに私は貴方に騙されたし、おかげで酷い目に遭ったよ? それでも、正邪が私の能力(ちから)を頼りにしてくれたことに変わりはない。私嬉しかったの、貴方に頼ってもらえて。一緒に城で暮らしたのも楽しかった。夢を語り合えた。大きなことなんて何もできないって思ってた小人の私でも、あんな大それたことができるんだって」そこで声が詰まった。「……可能性、正邪は私に可能性をくれたの。真っさらな希望をくれたんだよ。だから――」
そして上目遣いにこちらを見上げてきた。
「また貴方が困った時は、いつでも私を呼んで。力になるから。だから正邪も私に会いにきてよ。手ぶらで好いからさ」
でも下剋上だけは勘弁ねー、そう云って針妙丸は鈴を転がすように笑った。
正邪は手のひらで目元を覆った。心臓から熱い塊が喉までせり上がってきて、それは口を通り抜ける際に逆さまに転がって笑いとなった。堪えようとしても笑い声は次から次へと唇から溢れて、針妙丸の髪にぽたぽたと染み込んだ。
「……姫、まったくお前って奴は」正邪は云った。「お人好しが過ぎるぞ。いつか悪い奴に騙されても知らないからな」
「もう騙されたじゃない、貴方に」
「あはは、そういやそうだった」
正邪は笑い続けた。
鈍痛を訴えてくる身体を気合いで起こして、正邪は針妙丸と二人で縁側に腰掛けた。外は一面の銀世界で、針妙丸はまたもや興奮して雪の山に飛び込み、その結果として腰まで埋もれてしまった。むー、むー、と騒ぎ立てる彼女の足をつまみ上げて、正邪はお姫様を救出した。
「反省しないな姫は」
小人の少女はこちらを不思議そうに見ていた。
「……なんだよ」
「びっくりしてるのよ。あなたなら私を助ける代わりに、もっと雪をかけて完全に埋めちゃいそうだから」
げっ――と正邪は悲鳴に近い声を漏らした。背中から腕にかけて鳥肌が立って、悪寒が奔流のごとく背筋を駆け昇ってきた。呆けた針妙丸の顔に徐々に笑みが広がってゆくのを見て、正邪は慌てて両手を振った。
「い、今のはナシだ、ノーカンだ!」
「そっかそっか、なるほどねー」針妙丸が頷く。「つまり“お前だけは特別”って、そういうことなんでしょ? せーじゃ?」
「うぐぐぐ、違う! 断じて違う!」
こうなったら引っ捕まえてもう一度雪の中にダイブさせてやる! ――頬を染めて首をいやいやと振る針妙丸に手を伸ばしかけた時だった。正邪は遙かな空にひとりの少女が飛んでいるのを見た。ここからじゃ姿形は判然としなかったけれど、あの異形の翼は見間違えるはずもない。
「あいつ……」
「そんな正邪ったら、ああ……、でも正邪になら好いかな、――ってどうしたの?」
「いや」首を振る。「いや何でもない。――なぁ、姫?」
正邪は針妙丸を見つめた。それだけで少女は頬を染めてうつむいてしまった。この野郎、と思いながら言葉を綴った。
「……柄にも無くいろいろと考えたんだが、それも姫とどっかの誰かさんのせいでどうでも好くなっちまった。――情けないな、ほんと。私は私なんだ。それ以上でもそれ以下でもない。……そのことを思い出すまでにすんごい回り道をしてしまったよ。――姫、お互い全快になってこの妖怪神社とおさらばしたら、ちょっと何処かに出かけないか? 馴れ合いなんかじゃないぞ。勘違いすんな。――ただ、レジスタンスの野望を遂行するためにも、この幻想郷のことをもっと好く知っておくべきだと思ってね。――ほら“彼を知り己を知れば百戦殆(あや)うからず”ってよく云うだろ? あれだよ。自分の力を過信してふんぞり返ってる強者よりも、自分の無力を知って努力を続ける弱者の方が何倍も偉いんだよ。――だからさ、姫」
「正邪ってほんと面倒くさいね」
「てめえ」
◆ ◆ ◆
「あ、ぬえちゃんだ」
「あら本当」
多々良小傘の声に赤蛮奇は遙か上空を仰いだ。湖畔の吸血鬼の館に向かって鵺妖怪が飛んでゆくのが見えた。冬の空は曇っていることが多いけれど、いったん晴れたらこんなにも澄んだ青空が広がっているんだということを、赤蛮奇は初めて知った。
「見つからないね、綺麗な石」
「下流の方に転がれば転がるほど角が取れて丸くなる。まだまだ諦めるには早いわよ」
「物知りだね、蛮奇ちゃん」
二人はわかさぎ姫に献上するための石を探して、幻想郷の川をあちこちと巡っていた。いちごの飴玉を舌で転がしながら、飽きることなく探し続けた。
その小休止に川岸から道に戻ろうとした時だった。小傘の声に赤蛮奇は振り向いた。付喪神の少女は道の脇にしゃがみ込んで何やらを熱心に見つめているようだった。
小傘は紺色のコートに赤色のマフラーを巻いていて、頭にはこれまた赤い、昨夜に使用したサンタクロースの帽子をまだ被っていた。赤蛮奇はお揃いのマフラーに顔を埋めて寒さを凌ぎながら、小傘の隣に腰を落とした。
「……雪だるま?」
「そうみたい」
雪だるまは膝にも届かないほどに小さく、まるで御伽噺に登場する小人のようだった。木の小枝が腕として差し込まれていて、頭には葉っぱの耳がついていた。道ばたの、それも里からこんなに離れた場所に雪だるまなんて、と赤蛮奇は驚いた。
「ちっちゃくて可愛いな」
小傘が茄子色の傘を片手に持ち替えて腕を伸ばし、雪だるまに触れると、たちまちに身体の雪は崩れてしまった。そしてその中から、ほとんど苗木に等しい幼木が現れて、太陽の光に洗われて燦々と輝いた。
息を呑んで若木を見つめる赤蛮奇の隣で、小傘が口を開いた。「そっか、……この木の周りに雪が降り積もって、まるで雪だるまみたいに見えたんだね。枝が腕みたいに突き出して、ちょうど葉っぱだけが頭の上に飛び出して」
「あぁ、なるほどね。……ちょっとびっくりしたわ」
小傘は微笑んだ。「こんにちは、小さな小さな忘れ木さん」
まるで挨拶を返すかのように、風に煽られて若木の枝が傾いだ。
「この子は、知ってるんだと思う」
「なにを?」
「これから何ヶ月も寒くて厳しい季節を乗り越えていかなくちゃならないけれど、その先にはきっと素晴らしい春の景色が自分のことを待っているんだって、この子は知ってるんだよ。だからこんなに誇らしく立ってるんだと思う」
「そ、そんなこと分かるの?」
「まさか」小傘が舌を出す。「そんな気がするだけ」
若木から手を離して、小傘は自分の手を握ってきた。赤蛮奇も息を飲み込んでから、優しい力加減になるようにと気をつけながら、彼女の手を握り返した。
澄み渡った青空を見上げながら、小傘は笑って云った。「……同じひとつの命なんだもの。私達と根っこの気持ちは一緒なんじゃないかな。暖かいのが大好きで、楽しい毎日を夢見ていて、――」
「――独りぼっちは、寂しい」
「そうそれ」
小傘に手を引かれて赤蛮奇は傘の柄を握った。そこに小傘のもう片方の手が重なった。伝わる温もり、柔らかい手のひらの感触、照れながら微笑む彼女の顔、……その全てが火照った血液と一緒に心の臓に流れ込んで、ひとつに溶け合った。ずっと放ったらかしにしてしまっていた最後の氷が溶け始めるのを、赤蛮奇は胸の奥で感じていた。
震える吐息が大気に流れていった。真新しい気持ちでお礼を云おうとした。ありがとう、小傘。本当に、何から何まで。言葉にならない想いを手のひらに丸ごと預けて、赤蛮奇は勇気を振り絞って小傘の肩を抱き寄せた。
~ おしまい ~
.
暖かいお話でした。素晴らしかったです。
暖かい小傘たちも素直じゃないぬえたちもどちらも素敵です
この作品を読めたことに感謝を。
うまくまとまらなかったので、一言だけ失礼します。
貴方の描く幻想郷のキャラクター達は、本当に魅力的で、素晴らしいと思います。
この作品を書いてくださって、ありがとうございます。
一筋縄では行かない不器用なヤツラの交流に心があったかくなりました サンクス!
ひねくれキャラの中に沈んでる可愛さを突きつけられた
なんという優しいストーリー