秋の名残りも色を落とした冬の染め始めの候、屋敷の庭の蝋梅が、ぐずついた赤ん坊のように不安げにゆっくりと咲いて、私をひと安心させたある日のことであった。
鈴奈庵からの帰り道で、奇妙なものを見た。誰にも履かれていないつっかけが一足分、ひとりでに歩いていたのだ。主の足が無いのに歩いていたというのもおかしなことではあるが、まるで履かれているかのようにつっかけは私の目の前へと、四ツ辻を左より現れたのであるから、他に形容をし難い。初めはつむじ風が巻き上げているのかと勘違いしたが、やはりどうにもそのつっかけはひとりでに歩いていたのである。しかもそれは私を見つけたかのように突如として留まり、右と左をちゃんと揃え、こちらを見つめてきた。つっかけに見つめられるなどという突飛な経験は生まれてこのかた、さらに言えば前世でさえも無かったこと故に、私は呆然と口を開けたままで見つめ返してしまった。するとつっかけは踵に当たる方を気持ち上げた。どうやら会釈のようであった。存外にも礼儀正しい。口を開けたままでは無礼になると、想わず私も、どうも、と軽く会釈をし返した。つっかけは満足したのか、そのまま四ツ辻を右へと進んで行って、消えた。なんとも奥ゆかしいつっかけであった。あれの主はきっと名のある女士であろう。足運びの雰囲気がなんとなく柔らかだった。何度も言うが、足は無かったのだが。
誰というでもなく、挨拶をされるというのは悪い気はしないものだ。それがたとえひとりでに歩くつっかけからであったとしても、心身ともに朗らかになる気がする。これがもしも挨拶をされなかったりこちらが会釈しても返ってこなかったりすると、途端に気持ちが沈み、冬空でひしめき合う鉛雲がずっと自分の上だけに残っているかのような不遇をかこつ心模様となる。なかなか晴れないことを理由に身体の機敏ささえ失われてくる。また再び青空を拝むには、やはり春一番のような荒々しくも力強い挨拶が必要なのだと想うものである。
右に進んだつっかけとは逆に、私は四ツ辻を左へと曲がって、屋敷へと戻った。屋敷の塀沿いに歩くと、楚々と甘い香りが私の鼻を優雅に誘った。私の蝋梅である。塀越しでも気付けるこの香り。通りすがりの者でさえ、呼び止められるかのようにその場で佇んでしまいそうな芳しい誘い。手が掛かるほど育ちが悪いわけではなかったが、それでもなお、ついつい自慢に想う。
そうして塀の上から顔を出す蝋梅の蕾をひとつ見つけると、私はやはり嬉しくなって想わず手を上げ、微笑みかけた。やあ、奥ゆかしいね、と、そんなつもりであった。確たる返事を期待しているわけでもなし、しかし蝋梅の蕾は、その名の通り蜜蝋のような黄色い塊で微かに、揺れた。すわ此奴も会釈をしたのかと、もしやと想って背丈が伸びるほど驚いたが、なんてことはない、すぐそばに蝋梅を揺らした者が居たのである。
そやつは嬉々として蝋梅の枝上を渡り歩いていた。枝の先まで達してしまうと隣の枝に飛び、またさらに次々と別の枝へと移ってゆく。まるで、自らに振りかかる危うさを楽しんでいるかのようであった。本当に愉快そうで、向かうところ敵無しといった風情。お日様が着物を着て飛び跳ねているかのような朗らかさのある姿はしかし、明らかに普通の人間ではなかった。掌に乗りそうなほどの小ささ。所謂小人である。だがそんなこととは関係なく、私の蝋梅の上で狼藉は許さない。
「なにしてる、枝を折るつもりか」
私がそう声を荒げると、その小人は、一旦こちらを見たかと想うとここぞとばかりに歯をむき出した笑顔を輝かせ、また別の枝へと飛ぶ。片足に乗るそやつの重さを支え、蝋梅の細枝がたわわにしなる。それが健気すぎて、いよいよ以て不憫に想えてきた。
小人は、より一層の元気さで、やあ、とばかり腰にぶら下げた一振りを抜き放つ。
刃は、無い。ただ細く鋭い切っ先がお日様に向かって閃いている。
「我こそは少名 針妙丸と申す。やあやあ、お天道様の下に推参仕った」
そう言った少名は、またも軽々と跳ねる。まるでけんけんぱをするかのように軽快な足取りで、踏みつけた私の蝋梅が非道く撓む。やっと枝から離れ、塀の縁へと着地した途端に少名は私に向かって刀を振った。それは鍔もあれば柄もあるのだが、やはり刃が無い。刀身となる部分がとても細い。針、か。
「こちらに妖怪変化が潜んでいるはずだ。神妙にお引き渡し願おう」
なにやら不穏なことを言ってくる始末。しかも明らかにこちらのことは考えていない。
「待て待て。急にそんなことを言われても困る」
先ずは私の蝋梅にこれ以上の被害及ばぬようにしなければならぬ。いまは塀の上で上機嫌であるが、いつまた蝋梅の枝に戻って飛び跳ねないとも限らない。ここで反発心に任せ、言を荒らげれば、こやつの関心は再び私の蝋梅に移ってしまうかもしれない。せっかく咲いたのにそれでは不憫すぎる。なにより、私の寿命が縮む。
なので起死回生。この稗田阿求、一世一代の勝負を仕掛ける。
「中でお茶でもいかがですか」
私がそう言うと、塀の上で少名がこちらをしげしげと見ながら、ふむ、と唸る。
「お茶よりも菓子はあるのかしら」
「善処しましょう」
幸いにも鈴奈庵からの帰りがけに大福を買っている。人里でも人気のお店であるから、これならば文句あるまい。私は、その包みを掲げ示す。
すると少名は途端にほくほくとした破顔を見せ、針の刀を収めた。
「仕方ないな。菓子があるなら、仕方ない」
「お菓子なら仕方ありません」
「で、あるな」
どうやら私は賭けに勝ったらしい。
――屋敷の門まで来ると、それまで塀の上を渡っていた少名が私の肩に飛び乗って来た。突然のことだったので私は大いに驚いてしまい、少名は危うく足を滑らせて落ちてしまうところであった。私の耳にしがみつき、そのすぐそばで、ひゃあ、と悲鳴を上げるものだから、驚いた上に煩くてかなわない。包みを持たない左手で少名を庇いつつ、私自身もその場にしゃがみ込んでしまった。私が、危ないではないか、とつい荒げると、
「おお、巫女ならばこんな事ぐらいで驚きゃしないのだが。よっぽど避けられるのに」
と言って悪びれるつもりもないようで、またもや歯を見せて笑った。少名は身体を起こし、労っているのか、しがみついていた私の耳をそっと撫でてきた。他人に、しかも小人に耳を撫でられるのは滅多にないことだったので、今度は私が、ひゃあ、と悲鳴を上げてしまった。またぞろ、少名が転げ落ちそうになる。
「あ、危ないではないか。だから、勝手なことをしてもらっては困るんだ」
「良かれと想ってやっているのに。ん、耳を触られるのは嫌いなのか」
どれ、と、再び私の耳へと手を伸ばそうとする少名を、片手で握り制す。掌にそれなりの柔らかき感触。そのまま人形よろしく、身動き出来ずに少名は静かになった。流石に手足を動かせないと、その元気印も鳴りを潜めようらしい。すぐになにやら低い声で唸り出したので、どこも触られぬよう、もう片方の手に抱えていた包みの中に押し込んでやった。
しばらく包みの中でもごもごとやっているので、私はそのうちに屋敷の門をくぐり、玄関の戸を開け、閉め、そそくさと上がり框に腰を下ろした。ついでに、包みの結びを緩めて、少名が自然と出てこれるようにしてやる。しかし未だもごもごとやっていた。
私が長靴の紐を解いていると、屋敷の奥から女中が来てくれた。おかえりなさいませ、と言いながら、膝を付いて少名が入ったままの包みを拾い上げる。女中はなにも知らずに両手で包みを上と下から挟んでいた。ちょっとだけ唸る声が聞こえた。
面白そうなので、私は知らぬふりをして少名に尋ねてみる。
「それで、なにをしにいらっしゃったのでしたっけ」
振り向くと、果たして呆然としている女中の顔。それはそうであろう。なにを今更、とのことであろう。きょときょとと少しの間だけ不審そうに首をふって、ごくりと唾を飲み想い切ったふうにして女中は、ええはい、と非常なる重苦しげに答えた。
「稗田様にお仕えするため、ですけども」
この時点ですでに私は笑うことを堪えているのだが、ちょうど包みのほころびから少名がやっとこさ顔を出したところだったので、咳で誤魔化し誤魔化し、体面を保つ。出てきた少名は包みの陰に隠れていて、女中からは見えていないようであった。
「小さな頃からこちらにお世話になってますから、そんな今更。だって阿求様はご存知でしょうから、なんでそんなこと聞くんです」
「妖怪変化の為に参上したと先ほど言ったであろうが」
両者とも当たり前に答え、少名はもう腰まで這い出ているもしかし、それが見えぬ女中は突然聞こえた声により一層の不審な顔。今度はきょろきょろと辺りを見回す始末。しかも包みも一緒に振り回すものだから、少名はまるででんでん太鼓の紐に付いた玉のようにあっちへ振れたり、こっちへ振れたり。見ている分にはそれはもう大変に面白かった。笑いを堪えることが馬鹿らしくなるほどで、声を叩き出すようにしてはしゃいでしまった。
私の様子に気づいた女中が、途端に仁王像のように顔を歪ませる。私がいつもこの女中に対してからかっていたので、大概にどうせまた、ということなのだろう。普段からの行い故の研ぎ澄まされし視線。大変に辛い。でも少名が包みに足だけ引っ掛けて、その様子がまるでぶら下がった干し柿のように侘びしくあったから、さらにこみ上げてくるのは必至である。
「なにがおかしいのですか。また私をからかっているのですか」
と、ちょっと今にも泣きそうになっていたので、流石に不憫だと想い、私は目尻を擦りながら女中が持つ包みへと、指を示した。そこを見てごらん、と、私が言い、女中は果たして少名を目にした。あらまあ。素っ頓狂な声に少名が目を覚ます。
「かわいらしい。こちらはなんて妖怪なんでしょうかね」
小さな頭を振り振り、少名は自分を見つめる女中へと三度笑った。しかし妖怪ではない、として口上を述べる。
「我こそは少名 針妙丸と申す。小人だ。悪いがお嬢、ちょっと降ろしてほしい」
女中はいたく感嘆としたのか、ため息混じりに深く頷いて少名を上がり框に降ろしてやった。その仕草は名品の茶碗を扱うが如く、ゆっくりと丁寧なものであった。いつもの仕事であっても、これほど丁寧ではない。よほどお嬢と呼ばれたのが気に入ったのであろう。
「うむ、すまんな。助かった。足が引っかかってはどうにも、な。ついでにその、包みを開けてはくれまいか、お嬢。美味しそうな匂いがしたから、ちょっと見定めたい」
またもやお嬢と呼ばれ、女中は私の袖口を執拗に引っ張ってくる。そう急かさなくとも、こんなに近くに居るのだから、聞き逃すはずがないであろう。私としては、だからなんだとしか言いようがないのだが。
少名は一所懸命に小さい身体を動かして包みを解き、大福を露わにさせると、これはこれは、なるほど、と、大きく頷いては何事か唸っている。大きさ、形は普通の大福なのだが、小人として見るにはやはり大したものなのであろう。一見して、大きさは少名と同じくらいなのだ。ついに腕組みまでして、少名はこちらに振り向いた。
「ここで食べてよろしかったか」
「よろしくない」
ここはまだ玄関である。
「少名殿、流石にそれは些かはしたない。奥の間までお待ちなさい」
「ん、小人であるからどこであろうが大して変わらないのだがな」
だからと言って、ここで食べ始められたら私が困る。私だって大福を食べたい。玄関ではなく、もっと暖かい、畳の上の火鉢の傍などでゆったりと食したい。
お茶をご用意させますから、と、私は未だ呆けている女中に指で示した。一度では覚めなかったので、女中の鼻先で両手を打ち合わせる。はっと我に返って、女中は粗相を見つけられた家猫のように、慌てて勝手の方へと消えていった。
「で、あるか」
少名は大いに残念そうであった。
私が包みを持ち上げようとすると、少名がその上へとよじ登ってきた。包みの上から愛しそうにどっかと抱きつき、もはや離しそうもない風情。仕方がないのでそのまま持ち上げ、私は奥の間へと向かった。
廊下を曲がり、屋敷の庭沿いを眺めながら歩む。私の蝋梅が見えて、想わずほくほくとしてしまう。遠目でも淡く映える薄黄色の花弁、そして儚くも微かに香る匂い。これが頬を緩ませずにいられようか。ついつい歩みも緩めると、下から見上げてくる視線に気づいた。案の定、少名である。
「よほどあの木が大切と見えるな。熱心なことだね」
「貴女だってご熱心でしょう。妖怪退治なんて、巫女のようなこと、おいそれと出来ることではないから」
「うん、その巫女に言われたんだけど」
はたと、立ち止まって、私は包みの上で大の字に寝そべる少名を見下ろした。巫女に言われた、と。
「どうしたことです。病にでも罹って外に出られなくなったのですか、巫女は」
「ああ、出不精。寒いって」
「はあ」
なんたることであろうか。暢気、暢気と想っていたが、これほどとは。
「実は巫女の元でしばらく世話になっていて、謝礼の代わりにちょっと働いてこい、と言われた。なるほど小槌の魔力も大方戻ってきてることだし、肩慣らしにちょうど良かろうかな」
「はあ。なんとも感服なことです。巫女と違って」
人は冬になると身も心も篭もると言うが、それにしたって自らの一分であろうはずの妖怪退治を誰かに任せ、寒いから出掛けたくないというのはいかがなものか。暢気ではなく怠けである。由々しき事態である。
それに比べて少名は存外にも勤勉なことである。よっぽど頼もしく想える。多少なりもやんちゃなところはあるが、根底から前向きなのであろう、自らに振りかかる火の粉で焚き火を熾し、芋を焼いて大いに楽しんでしまいそう。そんな気概がある。
「しかし、妖怪変化なんて物騒なもの、うちに居るかな」
つい先日、付喪神の騒ぎがあったし、様々な人や妖怪が出入りする人里ではある。しかし我が屋敷でそういった類のものは居ないはずである。由緒正しき稗田の家で、もしそのようなものが居ればそれこそ博麗の巫女が黙ってはいない。はずである。きっと。
巫女の怠慢、先日の付喪神の騒ぎと、繋ぎ合わせてみると不安を感じてしまうことも少々。それでも杞憂が八割。大概は心配のから騒ぎで終わってしまうもの。果たして止めていた歩みも進めよう。廊下は寒いし、早く座敷に入って大福を食べよう。妖怪なんて、屋敷に居るわけがない。
庭沿いの廊下を突き当たり、右に曲がったところが私の座敷である。襖の向こうは暖かい居心地の良い場。美味しい大福を持ち込んだとあれば、心も躍るというもの。少名と包みを片手に持ち替え、空いた左手で襖を開く。頬を撫でる奥床しき暖かさ、ぬくもりの花園。
「居るな。そこだ」
少名が、大の字に寝そべったままで、針の刀を抜き放つ。その切っ先がすらりと閃き、いま私が開けた襖の隙間から座敷の中を指し示した。突然の告白。急過ぎて座敷に入ろうとしていた私の足が一歩を踏み出したままで固まる。私の杞憂がひっくり返った。
なにがいらっしゃる、と私が聞くと。
「妖怪変化、逆柱」
その言葉を発するが早いか、針の刀に示された座敷の柱が、突如として非常なる変異を起こす。ぶるぶると震えたかと想ったら、柱の木目が渦巻きのように廻り出し、それが幾つもの節目を巻き込みながらひとつの大きな目玉となりて、ぎょろり、針の刀にも負けぬ鋭い眼光を放ってきたのである。私の暖かな花園であるはずの座敷が、途端に奇異な雰囲気へと変貌する。どうしたものか。
想わず、後ずさる。つい今朝までもここで寝起きしていた私が居た、という事実に直面して、ちょっとした傷心を抱いてしまう。
と、はたと気づいてしまった。
「ああ、こやつ覗きか。なんとけしからん」
私は今朝までこの座敷で寝起きし、好きな書物を読んで一喜一憂し、美味しいものを食べては頬を蕩けさせ、女中に悪戯する案を考えては真面目になり、怒られては顔を膨らまし、好きなこと嫌いなことを一緒くたにしてきた。さらに些か恥ずかしいことを言えば、着替えだってこの座敷でしている。それらすべて見られていたのである。なんとけしからん、破廉恥極まりない。
これまでの記憶をすべて憶えているが故に、どうにも思慮に耽ってしまい、手元が緩くなったようで、大福の入った包みを少名ごと廊下の板の上に落としてしまう。鈍重そうな音を出し、はらりと包みが乱れた。少名は少々驚いただけのようで、すぐに大福の方を心配そうに見つめていた。痛かったであろう、と、まるで幼子をあやすかのように大福を撫でている。
「大福は大切にすべきだぞ」
「少名殿はこやつを退治しにいらっしゃったのでしょう。すぐに、手早くお願いします」
「それがな、うん。あれには手を出せない」
そう言って針の刀をぶらぶらと持て余している。手を出せない、とは。
「あれは所謂大黒柱だ。手を出したは良いがそのせいでこの屋敷が潰れちゃうかもしれぬぞ」
「では、せめて妖怪としての性質のみを除く、とか」
「そんな都合の良いこと、出来るわけなかろうさ。妖怪変化は将棋の『成金』だ。成ってしまったら、もう元には戻れない」
果たして少名は針の刀さえ鞘に収めてしまう始末。そして再び大福の上に寝そべり、大きく深呼吸。大変に幸せそうにしている。
先程の頼もしいという少名への感慨を払拭しつつ、やはりあの巫女の元から来たことも頷ける暢気さである。もはやどんなことを言おうと、貼り付けたかのように大福にくっついてしまって、非常にだらしない。いっそ大福になってしまえばいいのに。そうしたら私が食べてやるのに。
少名は私を見上げて、言う。
「先客が居るようだし、他の座敷で大福食べようか。別にここでも構わないけれど」
「働かざる者食うべからずという諺があります」
大いに正論である。
未だこちらを見つめている逆柱にもなんだか申し訳ない。沙汰がどうなるかあやつ自身はもちろん気になるようで、大きな目玉をきょろきょろとして不安そうにしている。どうにも場の雰囲気がおかしい。
すると、廊下を誰かがこちらへやって来る気配がした。
「お茶をお持ちしましたよ。廊下でなにをなさっておいでですか」
先程お茶を頼んだ女中が、きっちりと仕事をこなして運んで来たのである。働きとしては立派なことだが、いまは取り込み中である。お盆から直接湯呑みを掴み、その場で一口。今度は私が女中から、はしたないなどと言われてしまうが、仕方がなし。ここに居てもしようがないので、女中には里で有名なお団子屋さんでお団子を買うおつかいを頼み、早々に行ってもらった。きっと美味しいお団子を買ってきておくれ。
「少名殿はお団子はお好きでいらっしゃられるか」
「慕情にも似たものを持っているな」
なるほどと想うが、それはそれでどうかとも想う。
「お団子」
「ふむ」
「大福にお団子も付けましょう。ただし、あの逆柱をどうにかしてくださったら」
「やろう」
疾風迅雷、正確無比であった。
大福の上に寝そべっていた少名はゆっくりとしかし、神妙な様子でそこから下りた。形を崩して大福を台無しにしてしまわぬように、との配慮なのであろう。床板に両足で着地し、よたよたとした足取りで敷居まで進み、片足で飛び越えて座敷へと入って行った。敷居を踏まない、という礼儀はどこで教わったのであろう。小人が敷居を踏んだとて、きっと大したものではなかろうに。
座敷に入った少名はそのまま歩いて逆柱に近づいていく。てっきりその腰にぶら下げたもので対処するのかと想っていたのに、存外にも悠長としている。それにしても小人であるから一歩ずつが小さい。本人は大張り切りで、のしのしと歩いているようだが、私から見ればちょうど雛人形が歩いているようなもので、なかなか逆柱まで遠く焦れったい気分になる。もうこちらが運んでやろうかと想い始めたら、少名が声を上げた。
「我こそは少名 針妙丸と申す。大福と団子を食べるために参上仕った」
それは言わずともよろしいと想う。目的も違っている。
「美味しく食すにはどうやら逆柱、お前のことをどうにかしなければならぬ。大人しくどうにかなるならば、こちらも非常に楽なのだが、いかがだろうか」
そのようなことを正直に言って果たして素直に従うものであろうか。どうにも少名の言動がいまいち迫力に欠けるので、見守っているこちらは大変落ち着かない。
やはりと言うか、当然と言うか。逆柱の方は少名の言うことに納得してないらしく、大きな目玉をさらに大きく見開いて、なにやら気色ばんでいる風情であった。声自体が私には聞こえはしないものの、ぎょろぎょろと血走る目玉、その黒目の部分にちょうど柱の節のような丸い文様が浮かび忙しなく震えている様子は、怒りを察するに有り余る。結構な抜き差しならぬ状況なのではなかろうか。
なのに少名ときたら、ふんふん、と、頷いているばかりで一向にその腰の獲物で逆柱を退治する素振りを見せない。柄に手を触れてさえいない。いや、針の刀を鞘に収めたまま、それを支えにして楽な姿勢にまでなっている。敵愾心というものを持ち合わせていないのだろうか。私はついついその場で地団駄を踏みそうになる。
「逆柱は嫌だと言っているぞ」
少名がこちらに振り向いて当然のように悠長なことを告げる。そんなことは言われなくとも重々承知しているのである。
「私は逆柱に出て行ってもらいたいのですよ。なるべく穏便に。それを成就させるのが少名殿の名分でありましょう」
「針の穴に糸を通すようにはいかんぞ」
呆れたような声を出すので、私は足下に落ちている包みの中の大福に目を映してしまった。拾い上げて、この大福がどうなってもいいのかと、脅し文句でも言ってやろうかと想ったのである。人質ならぬ大福質である。あれほど大事にしていた大福だから、さぞや狼狽して大義名分をきっと果たしてくれると考えた。そのちょっとの間、少名から目を離した。目を戻すと、様子が変わっている。少名の細い爪楊枝のような右腕に、その背丈に見合わぬ大きなものが握られていた。針の刀ではない。
「大福と団子の為だ、致し方ない。この小槌の肥立ち具合、確かめさせてもらおう」
敢然とした声の後、少名は、小槌を振りかぶる。小さな身体に備わる存外な怪腕ぶりが軽々と頂に達する小槌に現れ、否が応でも私の期待を躍らせる。これまでの暢気さが吹き飛ぶほどの勇猛さ。想わず感嘆とした吐息が漏れようというもの。小槌は重々しく、玉鋼の如き輝きを携え、幽邃を滲ませる荘厳なる姿は、小人が持つという制約さえ甘んじて承ろうとする懐深き気概を感じさせた。
いくぞ、と、少名 針妙丸が小槌を素早く振り抜く。刹那の宙の震えがあり、次の瞬間には少名の身体が空中へと舞った。
「おお」
感嘆が低い声で漏れてしまう。私の期待を一心に詰め込んで小さき影がいま、逆柱へと猪突する。と、想われたが、あまりに素早すぎて私の目では追い切れない。それは逆柱とて同じようで、大きな目玉のくせに少名の姿を捉えられず、ぐるぐると目を回していた。そのまま少名は消えてしまった。
暫く、重苦しい沈黙。私と逆柱はふたりぼっちで佇んでしまった。間が保たず、私は逆柱に軽く会釈してしまった。あちらさんも、大変に気まずいのか目だけで挨拶をしようと努力しているようであった。
「どこを見ている。こちらだぞ」
気まずい雰囲気を裂く一束の天啓の如き少名の声。それは果たして天井から聞こえてきた。
「ここだ、ここ」
見上げれば、逆さまで天井に張り付く小人がひとり。悠々としてこちらへと見慣れた破顔を光らせていた。
あっけらかんとしたその様子に、こちらが余程呆けてしまう。開いた口が塞がらないとは、正しくこのこと。一体、どういうつもりであろう。
「敗れたり逆柱。我自身が逆さになったからにはお前が逆さであろうはずがない。故にお前はもう逆柱でなくなった」
「少名殿、私にとってはまだ逆柱のままなのですが」
そう言った私に少名は皆まで言うなとばかりに小さい掌を見せる。その顔は非常な覚悟を眉間に刻む必死そうな風情である。私にはとてもそんな想いは抱けないのである。
同じく開いた瞼が閉じられないといった雰囲気の逆柱は、やはり呆けたまま少名を見つめていた。大きな目玉が溢れんばかりに見開いて、黒目の文様もぐったりとして元気が無い様子。その心境は汲んでも汲みきれぬほど理解出来る。
私と逆柱の両方を置いてけぼりにし、少名は、聞いてくれ、と静かに切り出した。
「お前は逆柱ではない。我にとっては。つまりは付喪神のようなものだ。だから、我はお前を退治しない。弱者を虐げるつもりは毛頭ないのだからな」
視線を俯かせ、急に表情が斜陽を帯びる。少名の闊達とした破顔が、夕陽のように切実としたなにかを浮かび上がらせていた。
少名は、どしり、と、天井に座り込む。逆さまである。そこになんの偏屈も意固地さも無い。最初から逆さまなら、世界はどのように見えようか。
「話を聞く。なんでも話せ。なんでもよい。我はお前と同じ、逆さまだ」
逆柱はじっと少名を見つめている。
まずは世間話から。少名はそう言って喋り始めた。
――少名と逆柱との話は多岐にわたるものであったようだ。その内容を聞き取ろうにも、言葉が分かるのは少名の方だけで、逆柱の言うことは私には分からない。言葉さえ聞こえてこない。それでも、少名の喋りは止まらず、逆柱の目玉は忙しなく、それでいて感情豊かな雰囲気できょろきょろと動いていたから、きっと会話は弾んでいたのであろう。最近の天気の話、湿気の話、木として生きていた頃の話、鳥の巣が自分の枝に出来た話、一個の卵が割れた話、巣離れする雛を見送った話、次の年は誰も戻って来なかった話、すぐそばに雷が落ちた話、夜空の星が流れるのを見た話、自分の影で小さな花が枯れた話、蝉がうるさかった話、雨が降らずに枯れそうになった話、雪の重みに耐えた話、枝が折れて悲しかった話、雲の高さを知った話、海の遠さを知った話、初めて人間を見た話、自分が切り倒されたときの話、自分が細かく別れてゆく話、船に乗って海を渡った話、海の上の湿気の話、もっと細かく別れてゆく話、柱として生まれ変わった話、この屋敷の大黒柱になった話、先代の話、先代が亡くなったときの話、先々代の話、先々代が亡くなったときの話、新しい阿礼乙女が生まれたときの話、自分が見える部屋を選んでくれて嬉しかった話、その成長を見守る話、年々の着替えの様子を見つめる話……。
「ん、待って」
「話の腰を折るんじゃない。続けよ」
座って話を聞き取っていれば、性懲りもなくけしからんことを言い始める。慌てて私が立ち上がり、話を止めようにも少名は天井に座っていて届かないし、逆柱はぎょろりとしていて近寄りがたいしで、結局最後まで少名に聞かれてしまった。
「なるほどな、分かった」
「一体なにが分かるのです」
「色々とだな。色々。逆柱の言い分、しかと聞き遂げた」
少名はすらりと針の刀を抜き放つ。幾度と無く抜身を見せるが、不可思議にも全く役に立っていない刀である。
「やはり我は逆柱を退治せぬ。話を聞けば悪い奴ではない。むしろ逆柱はこの屋敷の正しく大黒柱で身をやつして長年見守って来ている。感謝こそすれ、追い出すなどと我が許さん。逆柱として目覚めたばかりのこいつを、祝うつもりぐらいでなければ浅薄極まりない。屋敷の主としてそんな豪胆さを持つべきだろう」
「ふむ」
一理あるし、私だとて逆柱に同情する心持ちがある。感謝の気持ちも、吝かではない。これまで屋敷の柱を担ってきたその働きは、筆舌に尽くしがたいほどの自己犠牲ぶりである。私は素直に有難いと想えた。そしてこれからも、守ってほしいとさえ想うに至る。
私もこの想いを逆柱に伝えようと、口を開きかけたとき、少名が、
「しかしこのままでは私が大福と団子にありつけぬ。難儀なことだね」
「いや、それはほら、少名殿、私とて鬼ではないのですから」
「ならばこうしよう。逆柱よ、別の柱にお移りよ」
またもや突飛なことを言うものである。先程自分で言っていたではないか。手を出せば屋敷自体が潰れかねない、と。ということは、移動だって難しいということではないのか。
少名は抜身の刀を立てて、小人ながらも背筋を伸ばして、言う。
「妖怪変化とは将棋の『成金』だと言っただろう。成ったらもう元には戻れないが、一歩前に進めるようになる。例えそれが斜めにしか動けぬ駒でもな。つまりは力を持つということだ。今まで出来なかったことが出来るようになるのだ」
「ほほう、面妖、いや不思議なものです」
だから別の柱に移ることだって出来る、として、少名はそれなりの説得力で締めくくった。さらに言えば、逆柱とは木の生えていた方向とは上下逆に柱を設置し、長年の魔力によって妖怪変化するらしく、そしてどうやら、この稗田の屋敷の柱すべてが上下逆になっていると言うのである。
「たぶん、呪術の応用だろうかな」
そんなに気にすることじゃないよ、と、少名は言うが、知らされた身としてはあまり暢気なものではない。
悩んでいる私の上で、早速少名が逆柱に激励する。
「さあいけ逆柱よ。私の大福と団子のために」
針の刀をぶんぶん、白い光跡を残しながら腕ごと回している。
もはやなるようになれと、逆柱の方も息巻いて黒目の文様を一層回していた。私の方はは屋敷の柱について悩みたいところではあるが、もう私以外は軽妙なる計画を成就させようと存分に発起している風情なので、こちらも身を任せるしかあるまい。一蓮托生、死なばもろとも。いや失敗してもらっては大いに困るのだ。兎にも角にも成功を祈り、励ますしか他にない。
私は着物の袖を捲り、両手に大福を掲げ、逆柱へと声を上げる。
「そうだ、覗きはいけない。頼むから穏便に事を済ませるんだよ、出来れば逆柱にはずっとこの屋敷に居てもらいたい。移り先は庭側の柱が善い。家の者にはあとで必ず紹介するから」
なんだか私が一等無理を言っているような気がする。未だ天井に逆さまで張り付いている少名、大福を振り回す私、そして飛び出んばかりの大きな目玉がぐるぐるしている大黒柱。大いに面妖なる座敷の雰囲気。
目玉の回転が最高潮に至った瞬間、微かな空気の乱れを起こしつつ逆柱の瞼が閉じる。後には見慣れた木の節目だけ、重なる年輪に逆柱の募った想いという波紋が広がるだけ。
「おお」
「うまくいったか」
再び小槌を振って元の向きに戻る少名。そんなに安易に使うべきではないと想う。
襖を開け放ち、急いで廊下へと飛び出る。少名を肩に乗せて私はそそくさと廊下を走り、その角を曲がった。幾つかの柱が立ち並ぶ庭側の廊下、冬の明るい日差しが柱の影を伸ばしている。暫し、息を呑む。肩の少名も流石に黙り込む。ごくり、ふたり同時に喉を鳴らした。
永遠と感じれる数秒、鳥の囀りと、私の蝋梅の微かな香りが、ささやかながらも勇気を与えてくれる。
「だいふくっ」
奇妙な掛け声とともに少名が急に耳元で叫んだ。指し示す針の刀の切っ先を目で追うと、玄関側から一本目、その柱の節目がぐるぐると回っている。
「だんごっ」
さらに奇妙に叫んで、少名は私の肩から待ちきれずに飛び降りる。小さな歩幅で必死そうに駆けていく。私も、ゆっくりと足裏の感触を確かめながら歩んでいく。日差しが優しげに暖かい。
柱に近づくと節目の回転が集まって、先程と同じような、しかし小さくなった目玉が現れた。ほっと胸を撫で下ろす。移り変わりが成功したのである。
やったぞなあ、と、少名も足下でまるで毬のように跳ねていた。逆柱の目玉が、瞬きをして無事だと合図する。
「良かった、本当に」
私はそこで初めて、逆柱に触れた。庭側で陽を浴びているからだろうか、ほんのりと暖かく、指先に優しい木の肌触りであった。微かに脈動を感じる。生きている、そう、生きているのである。
「一件落着、であるな。これで晴れて大福と団子を食せるぞ。ここに来た甲斐があったというものだ。そうだ、あの親切なつっかけにも礼を言いたいな。今やどこに居るのか検討もつかないが」
素早く、少名が私の着物をよじ登ってくる間に、大いに気になることを言う。
「つっかけ。つっかけを見たのですか」
「うむ、そうだ。博麗神社でひなたぼっこしていたら、つっかけの付喪神が現れてな。逆柱が生まれたから手を貸してやってくれと、言ってきた。巫女も同じ場で聞いていたから、付喪神ならあんたの領分でしょと、我に押し付けてきたのだ」
そのつっかけ、もしや私が見たつっかけと同じ者ではなかろうか。そう言えば、四ツ辻で見たとき、この屋敷側から現れたのであった。なんとも、摩訶なる縁。それこそ一等奇妙なものである。
「不思議なものです。なにも知らぬことが惜しいと想えるくらいに」
知らなければ良いことも沢山あるがな、と、少名は私の腕まで登ってきたところで呟いていた。左手の大福を狙っているのであろう、またぞろ白き小山に飛びかかっていった。
「なにはともあれ大福だ、団子だ。早く団子。団子をはよう」
「さっき買いに行かせましたから、もう戻ってくるでしょう。まだ食べないでくださいますか。お茶も淹れなおさせますから」
大福の上にうつ伏せに寝て、両足をぶらぶらとはしたなきこと野分の如し。だがそれもまた善き哉と受け入れられる程度には、私も安らかな気持ちを抱く。その気持ちの一端を支える私の屋敷の逆柱は、久しく見るであろう外の景色に想いを馳せているようであった。見つめる先、私の蝋梅が、風で揺られて会釈をする。
「阿求様、大変です」
大いに穏やかな時間を、女中のばたばたとした忙しなさが押し退けていった。どうにもわきまえない。
「騒がしい。折角一段落したのに。それにお団子は。買いに出かけたのではなかったのか」
「ですから大変なのです。つっかけが、私のつっかけが無いのです。消えて見つからないのですよ」
「ああ、なるほど。そういうこと。じゃあお団子は無し、か」
繋がった紐が縁を形作る。その場、その世を結ぶ不思議で見えぬ縁の紐は、逆さまであろうと変わりはしない。時にして、大変に切ないものではあるが。
見上げる視線の小人が、小さくも確かさの宿る、春の芽吹きのような声で、呟く。
「で、あるか」
―了―
.
鈴奈庵からの帰り道で、奇妙なものを見た。誰にも履かれていないつっかけが一足分、ひとりでに歩いていたのだ。主の足が無いのに歩いていたというのもおかしなことではあるが、まるで履かれているかのようにつっかけは私の目の前へと、四ツ辻を左より現れたのであるから、他に形容をし難い。初めはつむじ風が巻き上げているのかと勘違いしたが、やはりどうにもそのつっかけはひとりでに歩いていたのである。しかもそれは私を見つけたかのように突如として留まり、右と左をちゃんと揃え、こちらを見つめてきた。つっかけに見つめられるなどという突飛な経験は生まれてこのかた、さらに言えば前世でさえも無かったこと故に、私は呆然と口を開けたままで見つめ返してしまった。するとつっかけは踵に当たる方を気持ち上げた。どうやら会釈のようであった。存外にも礼儀正しい。口を開けたままでは無礼になると、想わず私も、どうも、と軽く会釈をし返した。つっかけは満足したのか、そのまま四ツ辻を右へと進んで行って、消えた。なんとも奥ゆかしいつっかけであった。あれの主はきっと名のある女士であろう。足運びの雰囲気がなんとなく柔らかだった。何度も言うが、足は無かったのだが。
誰というでもなく、挨拶をされるというのは悪い気はしないものだ。それがたとえひとりでに歩くつっかけからであったとしても、心身ともに朗らかになる気がする。これがもしも挨拶をされなかったりこちらが会釈しても返ってこなかったりすると、途端に気持ちが沈み、冬空でひしめき合う鉛雲がずっと自分の上だけに残っているかのような不遇をかこつ心模様となる。なかなか晴れないことを理由に身体の機敏ささえ失われてくる。また再び青空を拝むには、やはり春一番のような荒々しくも力強い挨拶が必要なのだと想うものである。
右に進んだつっかけとは逆に、私は四ツ辻を左へと曲がって、屋敷へと戻った。屋敷の塀沿いに歩くと、楚々と甘い香りが私の鼻を優雅に誘った。私の蝋梅である。塀越しでも気付けるこの香り。通りすがりの者でさえ、呼び止められるかのようにその場で佇んでしまいそうな芳しい誘い。手が掛かるほど育ちが悪いわけではなかったが、それでもなお、ついつい自慢に想う。
そうして塀の上から顔を出す蝋梅の蕾をひとつ見つけると、私はやはり嬉しくなって想わず手を上げ、微笑みかけた。やあ、奥ゆかしいね、と、そんなつもりであった。確たる返事を期待しているわけでもなし、しかし蝋梅の蕾は、その名の通り蜜蝋のような黄色い塊で微かに、揺れた。すわ此奴も会釈をしたのかと、もしやと想って背丈が伸びるほど驚いたが、なんてことはない、すぐそばに蝋梅を揺らした者が居たのである。
そやつは嬉々として蝋梅の枝上を渡り歩いていた。枝の先まで達してしまうと隣の枝に飛び、またさらに次々と別の枝へと移ってゆく。まるで、自らに振りかかる危うさを楽しんでいるかのようであった。本当に愉快そうで、向かうところ敵無しといった風情。お日様が着物を着て飛び跳ねているかのような朗らかさのある姿はしかし、明らかに普通の人間ではなかった。掌に乗りそうなほどの小ささ。所謂小人である。だがそんなこととは関係なく、私の蝋梅の上で狼藉は許さない。
「なにしてる、枝を折るつもりか」
私がそう声を荒げると、その小人は、一旦こちらを見たかと想うとここぞとばかりに歯をむき出した笑顔を輝かせ、また別の枝へと飛ぶ。片足に乗るそやつの重さを支え、蝋梅の細枝がたわわにしなる。それが健気すぎて、いよいよ以て不憫に想えてきた。
小人は、より一層の元気さで、やあ、とばかり腰にぶら下げた一振りを抜き放つ。
刃は、無い。ただ細く鋭い切っ先がお日様に向かって閃いている。
「我こそは少名 針妙丸と申す。やあやあ、お天道様の下に推参仕った」
そう言った少名は、またも軽々と跳ねる。まるでけんけんぱをするかのように軽快な足取りで、踏みつけた私の蝋梅が非道く撓む。やっと枝から離れ、塀の縁へと着地した途端に少名は私に向かって刀を振った。それは鍔もあれば柄もあるのだが、やはり刃が無い。刀身となる部分がとても細い。針、か。
「こちらに妖怪変化が潜んでいるはずだ。神妙にお引き渡し願おう」
なにやら不穏なことを言ってくる始末。しかも明らかにこちらのことは考えていない。
「待て待て。急にそんなことを言われても困る」
先ずは私の蝋梅にこれ以上の被害及ばぬようにしなければならぬ。いまは塀の上で上機嫌であるが、いつまた蝋梅の枝に戻って飛び跳ねないとも限らない。ここで反発心に任せ、言を荒らげれば、こやつの関心は再び私の蝋梅に移ってしまうかもしれない。せっかく咲いたのにそれでは不憫すぎる。なにより、私の寿命が縮む。
なので起死回生。この稗田阿求、一世一代の勝負を仕掛ける。
「中でお茶でもいかがですか」
私がそう言うと、塀の上で少名がこちらをしげしげと見ながら、ふむ、と唸る。
「お茶よりも菓子はあるのかしら」
「善処しましょう」
幸いにも鈴奈庵からの帰りがけに大福を買っている。人里でも人気のお店であるから、これならば文句あるまい。私は、その包みを掲げ示す。
すると少名は途端にほくほくとした破顔を見せ、針の刀を収めた。
「仕方ないな。菓子があるなら、仕方ない」
「お菓子なら仕方ありません」
「で、あるな」
どうやら私は賭けに勝ったらしい。
――屋敷の門まで来ると、それまで塀の上を渡っていた少名が私の肩に飛び乗って来た。突然のことだったので私は大いに驚いてしまい、少名は危うく足を滑らせて落ちてしまうところであった。私の耳にしがみつき、そのすぐそばで、ひゃあ、と悲鳴を上げるものだから、驚いた上に煩くてかなわない。包みを持たない左手で少名を庇いつつ、私自身もその場にしゃがみ込んでしまった。私が、危ないではないか、とつい荒げると、
「おお、巫女ならばこんな事ぐらいで驚きゃしないのだが。よっぽど避けられるのに」
と言って悪びれるつもりもないようで、またもや歯を見せて笑った。少名は身体を起こし、労っているのか、しがみついていた私の耳をそっと撫でてきた。他人に、しかも小人に耳を撫でられるのは滅多にないことだったので、今度は私が、ひゃあ、と悲鳴を上げてしまった。またぞろ、少名が転げ落ちそうになる。
「あ、危ないではないか。だから、勝手なことをしてもらっては困るんだ」
「良かれと想ってやっているのに。ん、耳を触られるのは嫌いなのか」
どれ、と、再び私の耳へと手を伸ばそうとする少名を、片手で握り制す。掌にそれなりの柔らかき感触。そのまま人形よろしく、身動き出来ずに少名は静かになった。流石に手足を動かせないと、その元気印も鳴りを潜めようらしい。すぐになにやら低い声で唸り出したので、どこも触られぬよう、もう片方の手に抱えていた包みの中に押し込んでやった。
しばらく包みの中でもごもごとやっているので、私はそのうちに屋敷の門をくぐり、玄関の戸を開け、閉め、そそくさと上がり框に腰を下ろした。ついでに、包みの結びを緩めて、少名が自然と出てこれるようにしてやる。しかし未だもごもごとやっていた。
私が長靴の紐を解いていると、屋敷の奥から女中が来てくれた。おかえりなさいませ、と言いながら、膝を付いて少名が入ったままの包みを拾い上げる。女中はなにも知らずに両手で包みを上と下から挟んでいた。ちょっとだけ唸る声が聞こえた。
面白そうなので、私は知らぬふりをして少名に尋ねてみる。
「それで、なにをしにいらっしゃったのでしたっけ」
振り向くと、果たして呆然としている女中の顔。それはそうであろう。なにを今更、とのことであろう。きょときょとと少しの間だけ不審そうに首をふって、ごくりと唾を飲み想い切ったふうにして女中は、ええはい、と非常なる重苦しげに答えた。
「稗田様にお仕えするため、ですけども」
この時点ですでに私は笑うことを堪えているのだが、ちょうど包みのほころびから少名がやっとこさ顔を出したところだったので、咳で誤魔化し誤魔化し、体面を保つ。出てきた少名は包みの陰に隠れていて、女中からは見えていないようであった。
「小さな頃からこちらにお世話になってますから、そんな今更。だって阿求様はご存知でしょうから、なんでそんなこと聞くんです」
「妖怪変化の為に参上したと先ほど言ったであろうが」
両者とも当たり前に答え、少名はもう腰まで這い出ているもしかし、それが見えぬ女中は突然聞こえた声により一層の不審な顔。今度はきょろきょろと辺りを見回す始末。しかも包みも一緒に振り回すものだから、少名はまるででんでん太鼓の紐に付いた玉のようにあっちへ振れたり、こっちへ振れたり。見ている分にはそれはもう大変に面白かった。笑いを堪えることが馬鹿らしくなるほどで、声を叩き出すようにしてはしゃいでしまった。
私の様子に気づいた女中が、途端に仁王像のように顔を歪ませる。私がいつもこの女中に対してからかっていたので、大概にどうせまた、ということなのだろう。普段からの行い故の研ぎ澄まされし視線。大変に辛い。でも少名が包みに足だけ引っ掛けて、その様子がまるでぶら下がった干し柿のように侘びしくあったから、さらにこみ上げてくるのは必至である。
「なにがおかしいのですか。また私をからかっているのですか」
と、ちょっと今にも泣きそうになっていたので、流石に不憫だと想い、私は目尻を擦りながら女中が持つ包みへと、指を示した。そこを見てごらん、と、私が言い、女中は果たして少名を目にした。あらまあ。素っ頓狂な声に少名が目を覚ます。
「かわいらしい。こちらはなんて妖怪なんでしょうかね」
小さな頭を振り振り、少名は自分を見つめる女中へと三度笑った。しかし妖怪ではない、として口上を述べる。
「我こそは少名 針妙丸と申す。小人だ。悪いがお嬢、ちょっと降ろしてほしい」
女中はいたく感嘆としたのか、ため息混じりに深く頷いて少名を上がり框に降ろしてやった。その仕草は名品の茶碗を扱うが如く、ゆっくりと丁寧なものであった。いつもの仕事であっても、これほど丁寧ではない。よほどお嬢と呼ばれたのが気に入ったのであろう。
「うむ、すまんな。助かった。足が引っかかってはどうにも、な。ついでにその、包みを開けてはくれまいか、お嬢。美味しそうな匂いがしたから、ちょっと見定めたい」
またもやお嬢と呼ばれ、女中は私の袖口を執拗に引っ張ってくる。そう急かさなくとも、こんなに近くに居るのだから、聞き逃すはずがないであろう。私としては、だからなんだとしか言いようがないのだが。
少名は一所懸命に小さい身体を動かして包みを解き、大福を露わにさせると、これはこれは、なるほど、と、大きく頷いては何事か唸っている。大きさ、形は普通の大福なのだが、小人として見るにはやはり大したものなのであろう。一見して、大きさは少名と同じくらいなのだ。ついに腕組みまでして、少名はこちらに振り向いた。
「ここで食べてよろしかったか」
「よろしくない」
ここはまだ玄関である。
「少名殿、流石にそれは些かはしたない。奥の間までお待ちなさい」
「ん、小人であるからどこであろうが大して変わらないのだがな」
だからと言って、ここで食べ始められたら私が困る。私だって大福を食べたい。玄関ではなく、もっと暖かい、畳の上の火鉢の傍などでゆったりと食したい。
お茶をご用意させますから、と、私は未だ呆けている女中に指で示した。一度では覚めなかったので、女中の鼻先で両手を打ち合わせる。はっと我に返って、女中は粗相を見つけられた家猫のように、慌てて勝手の方へと消えていった。
「で、あるか」
少名は大いに残念そうであった。
私が包みを持ち上げようとすると、少名がその上へとよじ登ってきた。包みの上から愛しそうにどっかと抱きつき、もはや離しそうもない風情。仕方がないのでそのまま持ち上げ、私は奥の間へと向かった。
廊下を曲がり、屋敷の庭沿いを眺めながら歩む。私の蝋梅が見えて、想わずほくほくとしてしまう。遠目でも淡く映える薄黄色の花弁、そして儚くも微かに香る匂い。これが頬を緩ませずにいられようか。ついつい歩みも緩めると、下から見上げてくる視線に気づいた。案の定、少名である。
「よほどあの木が大切と見えるな。熱心なことだね」
「貴女だってご熱心でしょう。妖怪退治なんて、巫女のようなこと、おいそれと出来ることではないから」
「うん、その巫女に言われたんだけど」
はたと、立ち止まって、私は包みの上で大の字に寝そべる少名を見下ろした。巫女に言われた、と。
「どうしたことです。病にでも罹って外に出られなくなったのですか、巫女は」
「ああ、出不精。寒いって」
「はあ」
なんたることであろうか。暢気、暢気と想っていたが、これほどとは。
「実は巫女の元でしばらく世話になっていて、謝礼の代わりにちょっと働いてこい、と言われた。なるほど小槌の魔力も大方戻ってきてることだし、肩慣らしにちょうど良かろうかな」
「はあ。なんとも感服なことです。巫女と違って」
人は冬になると身も心も篭もると言うが、それにしたって自らの一分であろうはずの妖怪退治を誰かに任せ、寒いから出掛けたくないというのはいかがなものか。暢気ではなく怠けである。由々しき事態である。
それに比べて少名は存外にも勤勉なことである。よっぽど頼もしく想える。多少なりもやんちゃなところはあるが、根底から前向きなのであろう、自らに振りかかる火の粉で焚き火を熾し、芋を焼いて大いに楽しんでしまいそう。そんな気概がある。
「しかし、妖怪変化なんて物騒なもの、うちに居るかな」
つい先日、付喪神の騒ぎがあったし、様々な人や妖怪が出入りする人里ではある。しかし我が屋敷でそういった類のものは居ないはずである。由緒正しき稗田の家で、もしそのようなものが居ればそれこそ博麗の巫女が黙ってはいない。はずである。きっと。
巫女の怠慢、先日の付喪神の騒ぎと、繋ぎ合わせてみると不安を感じてしまうことも少々。それでも杞憂が八割。大概は心配のから騒ぎで終わってしまうもの。果たして止めていた歩みも進めよう。廊下は寒いし、早く座敷に入って大福を食べよう。妖怪なんて、屋敷に居るわけがない。
庭沿いの廊下を突き当たり、右に曲がったところが私の座敷である。襖の向こうは暖かい居心地の良い場。美味しい大福を持ち込んだとあれば、心も躍るというもの。少名と包みを片手に持ち替え、空いた左手で襖を開く。頬を撫でる奥床しき暖かさ、ぬくもりの花園。
「居るな。そこだ」
少名が、大の字に寝そべったままで、針の刀を抜き放つ。その切っ先がすらりと閃き、いま私が開けた襖の隙間から座敷の中を指し示した。突然の告白。急過ぎて座敷に入ろうとしていた私の足が一歩を踏み出したままで固まる。私の杞憂がひっくり返った。
なにがいらっしゃる、と私が聞くと。
「妖怪変化、逆柱」
その言葉を発するが早いか、針の刀に示された座敷の柱が、突如として非常なる変異を起こす。ぶるぶると震えたかと想ったら、柱の木目が渦巻きのように廻り出し、それが幾つもの節目を巻き込みながらひとつの大きな目玉となりて、ぎょろり、針の刀にも負けぬ鋭い眼光を放ってきたのである。私の暖かな花園であるはずの座敷が、途端に奇異な雰囲気へと変貌する。どうしたものか。
想わず、後ずさる。つい今朝までもここで寝起きしていた私が居た、という事実に直面して、ちょっとした傷心を抱いてしまう。
と、はたと気づいてしまった。
「ああ、こやつ覗きか。なんとけしからん」
私は今朝までこの座敷で寝起きし、好きな書物を読んで一喜一憂し、美味しいものを食べては頬を蕩けさせ、女中に悪戯する案を考えては真面目になり、怒られては顔を膨らまし、好きなこと嫌いなことを一緒くたにしてきた。さらに些か恥ずかしいことを言えば、着替えだってこの座敷でしている。それらすべて見られていたのである。なんとけしからん、破廉恥極まりない。
これまでの記憶をすべて憶えているが故に、どうにも思慮に耽ってしまい、手元が緩くなったようで、大福の入った包みを少名ごと廊下の板の上に落としてしまう。鈍重そうな音を出し、はらりと包みが乱れた。少名は少々驚いただけのようで、すぐに大福の方を心配そうに見つめていた。痛かったであろう、と、まるで幼子をあやすかのように大福を撫でている。
「大福は大切にすべきだぞ」
「少名殿はこやつを退治しにいらっしゃったのでしょう。すぐに、手早くお願いします」
「それがな、うん。あれには手を出せない」
そう言って針の刀をぶらぶらと持て余している。手を出せない、とは。
「あれは所謂大黒柱だ。手を出したは良いがそのせいでこの屋敷が潰れちゃうかもしれぬぞ」
「では、せめて妖怪としての性質のみを除く、とか」
「そんな都合の良いこと、出来るわけなかろうさ。妖怪変化は将棋の『成金』だ。成ってしまったら、もう元には戻れない」
果たして少名は針の刀さえ鞘に収めてしまう始末。そして再び大福の上に寝そべり、大きく深呼吸。大変に幸せそうにしている。
先程の頼もしいという少名への感慨を払拭しつつ、やはりあの巫女の元から来たことも頷ける暢気さである。もはやどんなことを言おうと、貼り付けたかのように大福にくっついてしまって、非常にだらしない。いっそ大福になってしまえばいいのに。そうしたら私が食べてやるのに。
少名は私を見上げて、言う。
「先客が居るようだし、他の座敷で大福食べようか。別にここでも構わないけれど」
「働かざる者食うべからずという諺があります」
大いに正論である。
未だこちらを見つめている逆柱にもなんだか申し訳ない。沙汰がどうなるかあやつ自身はもちろん気になるようで、大きな目玉をきょろきょろとして不安そうにしている。どうにも場の雰囲気がおかしい。
すると、廊下を誰かがこちらへやって来る気配がした。
「お茶をお持ちしましたよ。廊下でなにをなさっておいでですか」
先程お茶を頼んだ女中が、きっちりと仕事をこなして運んで来たのである。働きとしては立派なことだが、いまは取り込み中である。お盆から直接湯呑みを掴み、その場で一口。今度は私が女中から、はしたないなどと言われてしまうが、仕方がなし。ここに居てもしようがないので、女中には里で有名なお団子屋さんでお団子を買うおつかいを頼み、早々に行ってもらった。きっと美味しいお団子を買ってきておくれ。
「少名殿はお団子はお好きでいらっしゃられるか」
「慕情にも似たものを持っているな」
なるほどと想うが、それはそれでどうかとも想う。
「お団子」
「ふむ」
「大福にお団子も付けましょう。ただし、あの逆柱をどうにかしてくださったら」
「やろう」
疾風迅雷、正確無比であった。
大福の上に寝そべっていた少名はゆっくりとしかし、神妙な様子でそこから下りた。形を崩して大福を台無しにしてしまわぬように、との配慮なのであろう。床板に両足で着地し、よたよたとした足取りで敷居まで進み、片足で飛び越えて座敷へと入って行った。敷居を踏まない、という礼儀はどこで教わったのであろう。小人が敷居を踏んだとて、きっと大したものではなかろうに。
座敷に入った少名はそのまま歩いて逆柱に近づいていく。てっきりその腰にぶら下げたもので対処するのかと想っていたのに、存外にも悠長としている。それにしても小人であるから一歩ずつが小さい。本人は大張り切りで、のしのしと歩いているようだが、私から見ればちょうど雛人形が歩いているようなもので、なかなか逆柱まで遠く焦れったい気分になる。もうこちらが運んでやろうかと想い始めたら、少名が声を上げた。
「我こそは少名 針妙丸と申す。大福と団子を食べるために参上仕った」
それは言わずともよろしいと想う。目的も違っている。
「美味しく食すにはどうやら逆柱、お前のことをどうにかしなければならぬ。大人しくどうにかなるならば、こちらも非常に楽なのだが、いかがだろうか」
そのようなことを正直に言って果たして素直に従うものであろうか。どうにも少名の言動がいまいち迫力に欠けるので、見守っているこちらは大変落ち着かない。
やはりと言うか、当然と言うか。逆柱の方は少名の言うことに納得してないらしく、大きな目玉をさらに大きく見開いて、なにやら気色ばんでいる風情であった。声自体が私には聞こえはしないものの、ぎょろぎょろと血走る目玉、その黒目の部分にちょうど柱の節のような丸い文様が浮かび忙しなく震えている様子は、怒りを察するに有り余る。結構な抜き差しならぬ状況なのではなかろうか。
なのに少名ときたら、ふんふん、と、頷いているばかりで一向にその腰の獲物で逆柱を退治する素振りを見せない。柄に手を触れてさえいない。いや、針の刀を鞘に収めたまま、それを支えにして楽な姿勢にまでなっている。敵愾心というものを持ち合わせていないのだろうか。私はついついその場で地団駄を踏みそうになる。
「逆柱は嫌だと言っているぞ」
少名がこちらに振り向いて当然のように悠長なことを告げる。そんなことは言われなくとも重々承知しているのである。
「私は逆柱に出て行ってもらいたいのですよ。なるべく穏便に。それを成就させるのが少名殿の名分でありましょう」
「針の穴に糸を通すようにはいかんぞ」
呆れたような声を出すので、私は足下に落ちている包みの中の大福に目を映してしまった。拾い上げて、この大福がどうなってもいいのかと、脅し文句でも言ってやろうかと想ったのである。人質ならぬ大福質である。あれほど大事にしていた大福だから、さぞや狼狽して大義名分をきっと果たしてくれると考えた。そのちょっとの間、少名から目を離した。目を戻すと、様子が変わっている。少名の細い爪楊枝のような右腕に、その背丈に見合わぬ大きなものが握られていた。針の刀ではない。
「大福と団子の為だ、致し方ない。この小槌の肥立ち具合、確かめさせてもらおう」
敢然とした声の後、少名は、小槌を振りかぶる。小さな身体に備わる存外な怪腕ぶりが軽々と頂に達する小槌に現れ、否が応でも私の期待を躍らせる。これまでの暢気さが吹き飛ぶほどの勇猛さ。想わず感嘆とした吐息が漏れようというもの。小槌は重々しく、玉鋼の如き輝きを携え、幽邃を滲ませる荘厳なる姿は、小人が持つという制約さえ甘んじて承ろうとする懐深き気概を感じさせた。
いくぞ、と、少名 針妙丸が小槌を素早く振り抜く。刹那の宙の震えがあり、次の瞬間には少名の身体が空中へと舞った。
「おお」
感嘆が低い声で漏れてしまう。私の期待を一心に詰め込んで小さき影がいま、逆柱へと猪突する。と、想われたが、あまりに素早すぎて私の目では追い切れない。それは逆柱とて同じようで、大きな目玉のくせに少名の姿を捉えられず、ぐるぐると目を回していた。そのまま少名は消えてしまった。
暫く、重苦しい沈黙。私と逆柱はふたりぼっちで佇んでしまった。間が保たず、私は逆柱に軽く会釈してしまった。あちらさんも、大変に気まずいのか目だけで挨拶をしようと努力しているようであった。
「どこを見ている。こちらだぞ」
気まずい雰囲気を裂く一束の天啓の如き少名の声。それは果たして天井から聞こえてきた。
「ここだ、ここ」
見上げれば、逆さまで天井に張り付く小人がひとり。悠々としてこちらへと見慣れた破顔を光らせていた。
あっけらかんとしたその様子に、こちらが余程呆けてしまう。開いた口が塞がらないとは、正しくこのこと。一体、どういうつもりであろう。
「敗れたり逆柱。我自身が逆さになったからにはお前が逆さであろうはずがない。故にお前はもう逆柱でなくなった」
「少名殿、私にとってはまだ逆柱のままなのですが」
そう言った私に少名は皆まで言うなとばかりに小さい掌を見せる。その顔は非常な覚悟を眉間に刻む必死そうな風情である。私にはとてもそんな想いは抱けないのである。
同じく開いた瞼が閉じられないといった雰囲気の逆柱は、やはり呆けたまま少名を見つめていた。大きな目玉が溢れんばかりに見開いて、黒目の文様もぐったりとして元気が無い様子。その心境は汲んでも汲みきれぬほど理解出来る。
私と逆柱の両方を置いてけぼりにし、少名は、聞いてくれ、と静かに切り出した。
「お前は逆柱ではない。我にとっては。つまりは付喪神のようなものだ。だから、我はお前を退治しない。弱者を虐げるつもりは毛頭ないのだからな」
視線を俯かせ、急に表情が斜陽を帯びる。少名の闊達とした破顔が、夕陽のように切実としたなにかを浮かび上がらせていた。
少名は、どしり、と、天井に座り込む。逆さまである。そこになんの偏屈も意固地さも無い。最初から逆さまなら、世界はどのように見えようか。
「話を聞く。なんでも話せ。なんでもよい。我はお前と同じ、逆さまだ」
逆柱はじっと少名を見つめている。
まずは世間話から。少名はそう言って喋り始めた。
――少名と逆柱との話は多岐にわたるものであったようだ。その内容を聞き取ろうにも、言葉が分かるのは少名の方だけで、逆柱の言うことは私には分からない。言葉さえ聞こえてこない。それでも、少名の喋りは止まらず、逆柱の目玉は忙しなく、それでいて感情豊かな雰囲気できょろきょろと動いていたから、きっと会話は弾んでいたのであろう。最近の天気の話、湿気の話、木として生きていた頃の話、鳥の巣が自分の枝に出来た話、一個の卵が割れた話、巣離れする雛を見送った話、次の年は誰も戻って来なかった話、すぐそばに雷が落ちた話、夜空の星が流れるのを見た話、自分の影で小さな花が枯れた話、蝉がうるさかった話、雨が降らずに枯れそうになった話、雪の重みに耐えた話、枝が折れて悲しかった話、雲の高さを知った話、海の遠さを知った話、初めて人間を見た話、自分が切り倒されたときの話、自分が細かく別れてゆく話、船に乗って海を渡った話、海の上の湿気の話、もっと細かく別れてゆく話、柱として生まれ変わった話、この屋敷の大黒柱になった話、先代の話、先代が亡くなったときの話、先々代の話、先々代が亡くなったときの話、新しい阿礼乙女が生まれたときの話、自分が見える部屋を選んでくれて嬉しかった話、その成長を見守る話、年々の着替えの様子を見つめる話……。
「ん、待って」
「話の腰を折るんじゃない。続けよ」
座って話を聞き取っていれば、性懲りもなくけしからんことを言い始める。慌てて私が立ち上がり、話を止めようにも少名は天井に座っていて届かないし、逆柱はぎょろりとしていて近寄りがたいしで、結局最後まで少名に聞かれてしまった。
「なるほどな、分かった」
「一体なにが分かるのです」
「色々とだな。色々。逆柱の言い分、しかと聞き遂げた」
少名はすらりと針の刀を抜き放つ。幾度と無く抜身を見せるが、不可思議にも全く役に立っていない刀である。
「やはり我は逆柱を退治せぬ。話を聞けば悪い奴ではない。むしろ逆柱はこの屋敷の正しく大黒柱で身をやつして長年見守って来ている。感謝こそすれ、追い出すなどと我が許さん。逆柱として目覚めたばかりのこいつを、祝うつもりぐらいでなければ浅薄極まりない。屋敷の主としてそんな豪胆さを持つべきだろう」
「ふむ」
一理あるし、私だとて逆柱に同情する心持ちがある。感謝の気持ちも、吝かではない。これまで屋敷の柱を担ってきたその働きは、筆舌に尽くしがたいほどの自己犠牲ぶりである。私は素直に有難いと想えた。そしてこれからも、守ってほしいとさえ想うに至る。
私もこの想いを逆柱に伝えようと、口を開きかけたとき、少名が、
「しかしこのままでは私が大福と団子にありつけぬ。難儀なことだね」
「いや、それはほら、少名殿、私とて鬼ではないのですから」
「ならばこうしよう。逆柱よ、別の柱にお移りよ」
またもや突飛なことを言うものである。先程自分で言っていたではないか。手を出せば屋敷自体が潰れかねない、と。ということは、移動だって難しいということではないのか。
少名は抜身の刀を立てて、小人ながらも背筋を伸ばして、言う。
「妖怪変化とは将棋の『成金』だと言っただろう。成ったらもう元には戻れないが、一歩前に進めるようになる。例えそれが斜めにしか動けぬ駒でもな。つまりは力を持つということだ。今まで出来なかったことが出来るようになるのだ」
「ほほう、面妖、いや不思議なものです」
だから別の柱に移ることだって出来る、として、少名はそれなりの説得力で締めくくった。さらに言えば、逆柱とは木の生えていた方向とは上下逆に柱を設置し、長年の魔力によって妖怪変化するらしく、そしてどうやら、この稗田の屋敷の柱すべてが上下逆になっていると言うのである。
「たぶん、呪術の応用だろうかな」
そんなに気にすることじゃないよ、と、少名は言うが、知らされた身としてはあまり暢気なものではない。
悩んでいる私の上で、早速少名が逆柱に激励する。
「さあいけ逆柱よ。私の大福と団子のために」
針の刀をぶんぶん、白い光跡を残しながら腕ごと回している。
もはやなるようになれと、逆柱の方も息巻いて黒目の文様を一層回していた。私の方はは屋敷の柱について悩みたいところではあるが、もう私以外は軽妙なる計画を成就させようと存分に発起している風情なので、こちらも身を任せるしかあるまい。一蓮托生、死なばもろとも。いや失敗してもらっては大いに困るのだ。兎にも角にも成功を祈り、励ますしか他にない。
私は着物の袖を捲り、両手に大福を掲げ、逆柱へと声を上げる。
「そうだ、覗きはいけない。頼むから穏便に事を済ませるんだよ、出来れば逆柱にはずっとこの屋敷に居てもらいたい。移り先は庭側の柱が善い。家の者にはあとで必ず紹介するから」
なんだか私が一等無理を言っているような気がする。未だ天井に逆さまで張り付いている少名、大福を振り回す私、そして飛び出んばかりの大きな目玉がぐるぐるしている大黒柱。大いに面妖なる座敷の雰囲気。
目玉の回転が最高潮に至った瞬間、微かな空気の乱れを起こしつつ逆柱の瞼が閉じる。後には見慣れた木の節目だけ、重なる年輪に逆柱の募った想いという波紋が広がるだけ。
「おお」
「うまくいったか」
再び小槌を振って元の向きに戻る少名。そんなに安易に使うべきではないと想う。
襖を開け放ち、急いで廊下へと飛び出る。少名を肩に乗せて私はそそくさと廊下を走り、その角を曲がった。幾つかの柱が立ち並ぶ庭側の廊下、冬の明るい日差しが柱の影を伸ばしている。暫し、息を呑む。肩の少名も流石に黙り込む。ごくり、ふたり同時に喉を鳴らした。
永遠と感じれる数秒、鳥の囀りと、私の蝋梅の微かな香りが、ささやかながらも勇気を与えてくれる。
「だいふくっ」
奇妙な掛け声とともに少名が急に耳元で叫んだ。指し示す針の刀の切っ先を目で追うと、玄関側から一本目、その柱の節目がぐるぐると回っている。
「だんごっ」
さらに奇妙に叫んで、少名は私の肩から待ちきれずに飛び降りる。小さな歩幅で必死そうに駆けていく。私も、ゆっくりと足裏の感触を確かめながら歩んでいく。日差しが優しげに暖かい。
柱に近づくと節目の回転が集まって、先程と同じような、しかし小さくなった目玉が現れた。ほっと胸を撫で下ろす。移り変わりが成功したのである。
やったぞなあ、と、少名も足下でまるで毬のように跳ねていた。逆柱の目玉が、瞬きをして無事だと合図する。
「良かった、本当に」
私はそこで初めて、逆柱に触れた。庭側で陽を浴びているからだろうか、ほんのりと暖かく、指先に優しい木の肌触りであった。微かに脈動を感じる。生きている、そう、生きているのである。
「一件落着、であるな。これで晴れて大福と団子を食せるぞ。ここに来た甲斐があったというものだ。そうだ、あの親切なつっかけにも礼を言いたいな。今やどこに居るのか検討もつかないが」
素早く、少名が私の着物をよじ登ってくる間に、大いに気になることを言う。
「つっかけ。つっかけを見たのですか」
「うむ、そうだ。博麗神社でひなたぼっこしていたら、つっかけの付喪神が現れてな。逆柱が生まれたから手を貸してやってくれと、言ってきた。巫女も同じ場で聞いていたから、付喪神ならあんたの領分でしょと、我に押し付けてきたのだ」
そのつっかけ、もしや私が見たつっかけと同じ者ではなかろうか。そう言えば、四ツ辻で見たとき、この屋敷側から現れたのであった。なんとも、摩訶なる縁。それこそ一等奇妙なものである。
「不思議なものです。なにも知らぬことが惜しいと想えるくらいに」
知らなければ良いことも沢山あるがな、と、少名は私の腕まで登ってきたところで呟いていた。左手の大福を狙っているのであろう、またぞろ白き小山に飛びかかっていった。
「なにはともあれ大福だ、団子だ。早く団子。団子をはよう」
「さっき買いに行かせましたから、もう戻ってくるでしょう。まだ食べないでくださいますか。お茶も淹れなおさせますから」
大福の上にうつ伏せに寝て、両足をぶらぶらとはしたなきこと野分の如し。だがそれもまた善き哉と受け入れられる程度には、私も安らかな気持ちを抱く。その気持ちの一端を支える私の屋敷の逆柱は、久しく見るであろう外の景色に想いを馳せているようであった。見つめる先、私の蝋梅が、風で揺られて会釈をする。
「阿求様、大変です」
大いに穏やかな時間を、女中のばたばたとした忙しなさが押し退けていった。どうにもわきまえない。
「騒がしい。折角一段落したのに。それにお団子は。買いに出かけたのではなかったのか」
「ですから大変なのです。つっかけが、私のつっかけが無いのです。消えて見つからないのですよ」
「ああ、なるほど。そういうこと。じゃあお団子は無し、か」
繋がった紐が縁を形作る。その場、その世を結ぶ不思議で見えぬ縁の紐は、逆さまであろうと変わりはしない。時にして、大変に切ないものではあるが。
見上げる視線の小人が、小さくも確かさの宿る、春の芽吹きのような声で、呟く。
「で、あるか」
―了―
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英雄っぽくもあり、子どもっぽくもある針妙丸ちゃんが可愛くて仕方がありません
どのキャラも魅力的で良かったです。一番のお気に入りはつっかけ。