§1.血いさきものたち
何かの音を耳にして、レミリアは眼をぱちりと開いた。起き上がり、ベッドの上から辺りに油断なく視線を振り向ける。隣で眠っている咲夜をかばうように。
いた。
あいつだ。
毎年毎年、図々しくも私の大切なものを奪って行く。今日もまた。
紅魔館の眠る真昼間。わずかに寝室に漏れる光を頼りに目を凝らすと、子どもには耳障りな波長の音で飛び回る一匹の蚊の姿が浮かび上がった。夏は始まったばかり、まだ蚊取り線香の類は用意していない。
(どこから入ってきたのかしら)
レミリアは布団からそろそろと這い出し、床の上に降り立った。
(蚊如きに嫉妬するなんて、自分でもみっともないと心底思うわ。でも……お前なんかに、咲夜の血は吸わせない)
強力無比の吸血鬼とはいえ、ハンデがある。咲夜を起こしてはならない。レミリアは無意識のうちに右手を後ろに引き、半身の構えをとっていた。攻める手を隠し、最短経路で攻撃するためだ。
蚊の方にも後に引けぬ理由があった。交尾を済ませた後、紅魔館前の湖からここまでくるのに体力を使いすぎていたのだ。しかし卵を作るのに必要なタンパク質のためには、人間から血を貰わないといけない。血を吸わない蚊と吸う蚊とでは産める卵の数に天地の差がある。吸うものは、その種類によって両生類・鳥類・哺乳類を吸血の対象に選ぶ。そしてこの種類の蚊にとっては、厚い毛皮を持たない人間の高タンパクな血が最も良かった。妖怪の血は概して新鮮さに欠け、あまり良くない。レミリアのような亡者の、腐った血などは問題外だ。
レミリアが瞬時に距離を詰め、右手で横ざまに一発。外した。蚊は腕の生み出す空気の乱れに流され、バランスを崩した。一般的な蚊は扇風機程度の風でも飛行不能になる。音を頼りにもう一発。レミリアのアッパーカットが決まり、蚊を天井に叩きつけた。
「よしっ」
レミリアは手応えに満足し、得意になって咲夜の頬にキスをした。咲夜を痒みから守ったのだ。達成感を胸にもぞもぞと布団に潜り込み、そのまま再び眠りについた。
昆虫は、その大きさに対し非常に堅牢である。例として、蟻は地球上ならどんな高さから落としても下が地面である限り死なないことが知られている。蚊の脚はひしゃげ、翅は折れかけていたが、目的に必要な口吻はまだ残っている。蚊は天井から落ち、ぶんぶんともがいたあげくに、なんとか生物らしきものの表面に到着した。最後の力を振り絞り、針をその柔らかい肌に突き立てた。
日没直後、紅魔館の食事の時間。
「レミィ、足を掻かない、みっともない」
「痒いんだもの。昨日のあいつにやられたんだわ。やっつけたと思ったけど、一杯食わされた、いや食われた」
「何よアイツって」
「蚊よ。人間を刺すやつ」
「珍しいわね。アンデッドの血なんて好き好んで飲まないじゃないのあいつら。面白そう」
「お嬢様、パチュリー様、デザートにスイカ食べます?」
「やったー」
寝室の壁。蚊は良質のタンパク質を補給し、血を消化して卵を生産するために休んでいた。排泄口から余計な水分を捨て、吸血鬼の魔力を体内に凝縮した。
彼女の吸った血の味は、先祖が吸ったどの動物のそれとも違った。ついさっきまで死に瀕していたが、いまや体内を今までにない力が循環しているのを感じていた。それはまさしく『数奇な運命』だった。蚊の体組織は吸血鬼の血液の成分で変質し、折れた外殻もあっという間に修復されていた。
さっき血を頂いた連中が自分に何かしら対策を打つ前に、ここを出ていかなければならない。日没からしばらくして、蚊は卵を産み付ける水場を探しに飛び立った。生まれてくる三百の子を育てられる所をだ。故郷の湖は理想的で、何しろ霧で一日中直射日光が当たらないのが本能的に良かった。しかし、もう少し人間の血にありつけそうな所を探してもいい。自分の中で人間の血の魅力が更に増していたし、体重の倍ほどの血を吸ったにも拘わらず、遠くに行くだけの体力がみなぎっているのだ。体側部の気門から外の空気を吸う。館の前の花壇には一足先に紅いカンナの花が咲いていた。
§2.五分間吸血鬼
一ヶ月後。人里の酒屋。
「貴方、確か吸血鬼の所のメイドでしたよね? 申し訳ありませんが、貴方にはウチの酒は売れませんな」恰幅の良い、禿頭の中年男性がきっぱりと言った。
「はあ」咲夜は困惑した。
目の前の品の良い口髭を蓄えた御主人とは、人里に行く機会があれば時々ワインと清酒を買いに行く程度の間柄である。彼女とは積極的な交流こそないものの、それほど仲が悪いはずもなかった。そもそも以前咲夜がレミリアに蕎麦に合う酒を頼まれた時も、蕎麦焼酎を用意してくれたのは彼である。人里でも彼は紳士的と評判が良く、正当な理由もなく突然咲夜に意地悪をするとは考えられない。咲夜に向いている敵意も、悪意というよりは純粋な恐れと理不尽に対する怒りからくるもののように感じられた。
「何か、誤解があるのではないでしょうか?」
「ふむ、そうお考えになりますかな?」
文字通り『申し訳がなかった』。深く理由を追及できる雰囲気でもなく、咲夜は諦めて退散した。人里は数週間ぶりではあったが、そもそも里に入った時から周りの視線が不穏だったのだ。
せめて何かしら手がかりは得ないとと、咲夜は寺子屋に向かった。太陽が刺すように照りつける歩道の途中で、何やらうつむいて沈んだ様子で歩いている阿求と出会った。阿求とは特別親しいわけではなかったが、顔ぐらいは知っている。この子なら事情を知っている予感がした。
「あの」
「小鈴……」
咲夜が話しかけようとした瞬間に、阿求は何か独り言を言った。しかし咲夜に気づくと、仇敵に向けるような一瞥をくれて方向を変えてしまった。咲夜はやれやれと首を振り、そのまま道を進めた。大通りを歩いている間にも人が咲夜を避ける避ける。存在もしない過去のトラウマを刺激されそうな扱いに耐えているうちに、咲夜は寺子屋についていた。非常に長い道だった。
幸運な事に慧音は暇だった。
「というわけで、全く身に覚えがないのですが」
「お前には覚えがないかもな」
取り付く島もない。吸血鬼の館と人里との関係が良好でもそれはそれで不自然だったが、コミニュケーションが全く成立しないのは困った。
咲夜は手ぶらで人里を後にした。
紅魔館。図書館にはレミリアやパチュリーが紅茶を飲んだりお菓子を食べたりしてくつろげる小部屋がある。人差し指の第二関節まで沈むほどの絨毯が、入る者の足に分厚い感触を与える。パチュリーは安楽椅子で本を読んでいて、レミリアはソファーにうつ伏せに寝転がっていた。
「え、お酒買ってこれなかったの? つまみも? ワインは? ビールは? 日本酒はー?」レミリアが腕をばたばたとさせた。
「申し訳ございません」
「優雅な貴族生活が大ピンチね」パチュリーが言った。
「エンゲル係数が下がるので、家計のピンチは助かりますわ」
「クオリティオブライフも大幅減よ」レミリアは明らかに不満だった。
咲夜は簡単に事の顛末を話した。
「今に始まった話じゃないけど、えらく嫌われたものね」
「酒屋の主人は『吸血鬼の所のメイド』と言ったのよね? 半獣も『お前には』と? わざわざ? 咲夜個人に対する恨みと言うよりはレミィか、この館全体に対する恨みがあるんじゃないかしら」
「お嬢様の紅い霧のせいでしょうかね。あれは人里の生活をかなりの間ストップさせたと聞きます」
「今更? だってアレ、ルールに基づいて解決したじゃん。霊夢にボコられてさあ。解決したら恨みっこなしよ」
「反省の色が見えないわね」
「それに異変の後も咲夜は里の人間と取引できてたわけだし、今になって急に断る理由にはならないわよ」
「それもそうですねえ」
その後のレミリアとパチュリーは、天狗の間で流行っている将棋のルールについて盛り上がった。チェス派の咲夜には分からない話題だったので、テーブルに置かれた本の中から適当に面白そうなものを拾って読んでいた。
ひと通り話題が落ち着いてパチュリーがふと咲夜の方を見やると、彼女に羽と牙が生えているのに気づいた。羽はレミリアよりはミニサイズだが、蝙蝠に近いそれである。普段は深い青色をした瞳も、今は澄んだ緑色をしていた。
「ちょっとちょっと咲夜どうしたの!」
「はい? どうしたって、いつも通り健康ですわ」
「レミィ、まさか貴方!」
「え、何?」
レミリアは咲夜の方をちらりと見やった。
「……いやいやいや! 確かに時々咲夜の血は吸ってるけどそんな量じゃあないし!」
「まあ! お嬢様ったらこんなところでそんな事を言わないでください、恥ずかしいですわ」
「咲夜はもうちょっと焦りなさい! パチェ、ちょっとこれどうなってるの!?」
レミリアに言われて、咲夜はようやく自分の状態に気づいたようだった。
「うーん、私はあと一五〇年ぐらいは人間でいるつもりだったのですが、残念です」
「それって多分もう死んでるわよね? レミィ、なんだか分からないけどとにかく第一容疑者は貴方よ。小悪魔、いらっしゃい」
「はい、いかが致しました?」
「ちょっと咲夜の様子がおかしいから(いつもの事だけど)、吸血鬼について書かれた本を集めて」
「はーい。でもパチュリー様、咲夜さんは至極健康そうに見えますが」
「貴方の眼は節穴なの? どう見ても立派な牙と羽が生えて……あれ?」
咲夜の牙と羽は消え失せていた。
「咲夜、ちょっと背中見せて」
口にも背中にも、どこにも妖怪化の痕は見つけれらなかった。瞳の色も元の深い青に戻っていた。
「間違いなく私に生えてました、よね? 集団幻視というものでしょうか」
「とにかく私のせいじゃないわ、今まで何度も貧血にならない程度に血を吸ってきたけどこんな事一度もなかったし!」
「前例がないことは無罪の証明にはならないわ」
「悪魔の証明って知ってる?」
「ああそう小悪魔、戻っていいわよ」
「はーい。何だったんだろ」
「あーもう! 吸血鬼が眷属を増やす時はその意志をもって為すものよ。吸血鬼にするつもりもないのにいつの間にかなってるって事は聞いたことがない」
「無意識の内にレミィが望んでたとか……でも確かに、いったん吸血鬼になってからまたすぐに人間に戻るって事は不可解ね。ともかくイレギュラーなことが起こってるのは間違いない」
「永遠亭に診せに行くわよ。咲夜、今日のメイドは開店休業、竹林に向かって全速前進!」
「了解です。ああ、また仕事がたまる」
出発の準備を整え、門から美鈴に見送られる最中、咲夜は無意識の内に太ももを掻いた。誰にも見つからない書物の影に、食事を終えて満腹した蚊が止まっていた。
永遠亭診察室。
「あれ、貴方達が原因じゃなかったの?」
きょとんとする永琳を尻目に、レミリアは咲夜の方を見やった。診察机の前の回転椅子に三人は座っている。
「自分とこの従者をわざわざ変にする主人がどこにいるの。それより原因って何よ。他に患者がいるような口ぶりね」
「ええ、人里からも何人も同じ症状の人が来ているのよ。みんな緊張状態になってるのが見てとれるわ。まあ仕方ないわよね、あんな事件が起こったんだもの」
「ほう、詳しく?」
夜の人里は夏祭りに沸いていた。
「どうだい、入りの方は?」マミゾウが言った。
「上々でさあ、親分!」鉢巻を締めた金魚屋の男が答えた。
ラムネ屋、風船、スーパーボール。マミゾウは普段小鈴と会うための姿に化け、綿菓子を片手に大通りを悠々と歩いている。何もお菓子目当てだけではない。同じく人に化けた子分たちに的屋を経営させているので、繁盛しているか様子を確かめたかったのだ。結果は子分の言ったとおり上々であった。ただ河童の店はかなりのやり手のため、その近くの店は少し苦戦していた。
他の屋台から漂ってくる焼きそばの焼ける匂いを楽しんでいると、人混みの中に小鈴と阿求を見つけた。声を掛けようとしたが、何やら不穏な様子である。
「大丈夫? お医者さんに診てもらった方が良くない?」阿求が言った。
「ううん、ちょっと人の少ないところに行きたい。ここは騒がしすぎるわ」小鈴が言った。息が荒く、肌は青白く、普段は優しい赤色の瞳は緑色にぎらぎらと光っていた。マミゾウは残りの綿菓子を口の中に押し込み、こっそりと後をつけた。
「うちの店がバザーに出した本、売れてるかしら」
「さっき慧音先生が物色してるのを見たわよ」
「げ、妖魔本に目をつけられませんように。あんまりヤバそうな本は出してないけど」
マミゾウはその本に見覚えがあった。小鈴が親に代わって切り盛りしている貸本屋・鈴奈庵は、通常の外来本や稀覯本を扱う他に裏の家業がある。妖怪のしたためた書物・妖魔本を小鈴が店の売上を使って蒐集しているのだ。それらの貸し借りを通じて稗田阿求とも親交を深めているのであるが、小鈴の両親には無断だ。その中には『私家版百鬼夜行絵巻』を始めとした、強力な妖怪の封じられた書物も含まれている。マミゾウと霊夢の忠告の甲斐あり、それら危険性の高い書物は店の中の簡単には手を出せない場所に仕舞ってあるという。だが、天狗の記録した鬼との飲み比べの勝敗(一年以上毎日飲み明かしていたのだろう、百二十八勝二百五十六敗だった)・覚から人間に宛てた恋文(驚くことにその恋は成就し、結婚生活は人間が生きている間続いた)といった、愉快ではあるが比較的害のないものはこうして普通の本に紛れて古本市に出てくるのだ。
後ろ姿から、マミゾウは小鈴の背中が少し膨らんでいるのを見つけた。
やがて里から少し離れた、人通りのない広場に出た。火事など有事の際に避難場所とする、いわゆる火除け地である。人を効率よく逃がすのが目的なので、祭りの際は出店はもちろん花火を見るために集まる事も禁止だった。そのためか里の他の場所に比べて空気が澄んでいる。マミゾウは火除け地の中でも木立のある場所、藪に隠れた。
運良く二人は木立から近すぎず、遠すぎない場所で歩みを止めた。
「星が良く見えるわ。阿求、ここはロマンチックね。素敵」
「のんきねえ。気分はもうよくなったの?」
「だいぶ。とてもいい場所だもの。それだけで気分がよくなるってものよ」
小鈴は何かを待ちきれないような顔をしていた。その口から時折覗くあれは犬歯だろうか。大きな犬歯、背中の膨らみ、まさか。
小鈴はじっと、燃えるような眼つきで阿求を見つめた。
「どうしたの?」
「ねえ阿求、今どうしようもなく貴女が欲しいの」
小鈴は阿求の首に手を回し、抱き寄せる。柔らかい感触と髪の香りに阿求は赤面した。
「ちょっと小鈴、いきなり何を」
「貴女の血をちょうだい?」
小鈴が大口を開けた瞬間、マミゾウはとっさに距離を詰め、小鈴の襟首を引っつかんだ。右手で阿求ごと持ち上げるが、小鈴は阿求の襟を掴んで離さない。鞭をしならせるように軽く一振りすると、小鈴の手から阿求がすっぽ抜け、弧を描いて藪に落ちる。
「逃げろ!」
「はいい!」
痛む背中も顧みず、脱兎のごとく駆け出す阿求。大人に知らせなければ! 小鈴はすかさず蝙蝠に変化し阿求を追うが、マミゾウが赤い鳥を手から発してそれを撃ち落とした。小鈴はたまらず蝙蝠変化を解除、マミゾウは再びその襟首を掴んだ。
「捕まえたぞい。観念せい」
「あのまま吸えてればみんな幸せだったのに、ひどいです」
小鈴は空いた腕を後ろに回し、マミゾウの右手首を思いきり掴んだ。瞬間、がくんとマミゾウの手から力が抜ける。
「何たる馬鹿力、腕が痺れて動かん!」
握った所を萎えさせる、吸血鬼の異能を以って小さな手がギリギリと締め上げる。襟首の自由になった小鈴は手首を持ったままマミゾウに向き直り、もう片手で手刀を脳天目掛けて打ち下ろす。
「吸血鬼相手にこの姿ではキツいのう!」
マミゾウは当たる寸前に人化を解除し、もくもくと大量の煙を放つ。小鈴は反射的に手を離し、煙を吸い込まないように後ろに駆けて距離をとった。煙の中心を睨みつけると、煙のあった所には巨大な尻尾に葉っぱの帽子、右腕をだらりと下げた化け狸の姿が現れていた。左手で持った煙管を口に咥えている。
「外の世界では変身ひーろーが人気じゃが、元の姿に戻ると強くなる場合はどう言うのかのう?」
「阿求、大丈夫だった!?」花屋の娘が言った。
「うん、じきにウチの人が迎えに来るはず。小鈴、どうしちゃったんだろう」
「一体どうやって逃げたの?」
「小鈴の店に時々来る人が助けてくれたの。いや、たぶんヒトというより……」
阿求の知らせは村中を駆け巡り、緊急対応が始まった。最初こそパニックになりかけたものの、こういった事態を予測して日頃から訓練しているために里の避難誘導は迅速である。時折飛び交う大声も、怒号というよりは純粋な相互連絡と喝に近いものだった。マミゾウの子分たちはすでに屋台を放棄していた。
小鈴はマミゾウへとじりじりと距離を詰め始める。いつの間にか阿求の逃げた方をマミゾウが塞ぐ形になっていたのだ。マミゾウにとって吸血鬼の体術は脅威だが、小鈴の方も先ほどの煙を警戒しているようだった。
「謎の多い方ですからどんな人だろうと思ったら、化け狸だったのですね。そのお姿も可愛らしくて素敵です」
「もうちょっと怯えられるかと覚悟したんじゃが、張り合いがないのう。儂、妖怪なのに」
「本の知識ではありますが、これでも妖怪については大体識っているので。例えば、『カーミラ』という本に載っていましたっけねえ。『吸血鬼が握った箇所は麻痺する』とか」
「ふん、確かに儂の右手はまだ動かんよ。だがおぬしを化かすには残りの四本で十分だぞい」
「もしかして尻尾も数えてます、それ? まあ、貴女と私が戦う理由は無いですよね。私が欲しいのは阿求の血であって妖怪の血ではありませんし。逃がしてくださいません?」
「駄目じゃ」
「ですよねー。じゃあ『私は』逃げません」
マミゾウが言葉の意図を図りかねると、その視界の端から三人の小鈴が現れた。
「『吸血鬼は分身できる』ここは私が食い止めるから、私達は阿求の血を吸ってきて!」
一瞬にして分身たちがマミゾウを抜き去り、里の方向に駆け出した。
「させんよ」
分身たちの歩みが鈍る。里の方から十人のマミゾウが飛んで来たのだ。一人だけ本物に比べやたらと豊満だったが。
「あやつめ、胸を盛るなといつも言うておろう。儂は好きでこの格好をしとるんじゃ」
分身一人が強行突破を図るが、マミゾウの一人が吐き出した煙に思いきり突っ込む。煙は巨大な鎖分銅に化け、分身小鈴の身体に巻き付いた。万力のような力でもがくも鎖の方はますます締まる。
「小鈴の簀巻き、一丁あがり! 残りも簀巻きにしてやろう」
「まだまだ!」
巻かれた分身は大量の蝙蝠に変化し、鎖の拘束から抜け出す。そのまま人里に向かおうとすると、再び大量の赤い鳥が突っ込んできた。分身マミゾウの生み出した動物たちが分身蝙蝠を丁寧に撃ち落としていく。拘束されなかった方の分身小鈴達が二人掛かりで豊満なマミゾウに掴みかかる。だが瞬間に豊満マミゾウは十数匹の緑色をした犬に変化し、小鈴達の手足にやたらめったら噛み付く。小鈴達は顔をしかめながら腕を振って犬たちを吹き飛ばすが、落ち着いた時には更に押しかけてくる犬に囲まれていた。残りの八人の分身マミゾウは悠々と眺めている。
「残り三人、十対三じゃな」
「くっ」
焦る小鈴の注意をそらすべく、本物のマミゾウはさっき咥えていた煙管を差し出した。
「この煙管、中々便利な代物でな。少しひねると笛になるんじゃ。人には聴こえんが狸にゃ聴こえる」
(うーん、あの煙と動物をどうにかしないと迂闊に近づけない)
小鈴は閃いた。
(あ、こっちも煙になればいいじゃない)
小鈴達は水に入ったドライアイスのような音を出して蒸発し、紅く濁った霧となる。霧を吸った犬が倒れ、鳥が落ちる。マミゾウだった子分たちも倒れこみ、たまらず変化を解いた。
「毒か」
「『吸血鬼は霧になれる』一対多数です」
(この姿だと蝙蝠ほどは速く動けないけど、先に貴女を仕留めるには十分でしょうね)
霧が揺らめき、マミゾウ本体を囲み出した。逃げれば良いのに、どういう訳だか霧を抜ける事ができない。マミゾウは口を覆うが、肺臓には少しずつ霧が容赦無く吸い込まれていく。
『普段から妖怪の本を沢山読んでいて良かったと思いますよ。自分が今できる事が当意即妙に全部分かるんですもの』
確かに知識があるのが厄介じゃな、それに頭も回る、マミゾウは思った。もし子分を呼んでなければ分身達が人里を蹂躙していただろう。だが霧になっている間はここに足止めしておける。
『ああー、早く阿求の血が欲しい、あの子が最初じゃなきゃやだ、さっさと貴女を狸汁にしなきゃ』
「知っとるかい? 狸はまずいんじゃよ、雑食だからのう。美味しいのはアナグマの方じゃ」
「アナグマも雑食じゃありませんでしたっけ?」
時間稼ぎの会話を交わす間にも、マミゾウの動きが目に見えて鈍くなってきた。子分たちは焦って見つめるが体が動かない。霧は更に濃くなる。マミゾウは体を震わせ、地面に座り込んだ。
「来るな……」
弾を生成できなくなったのか、マミゾウは帳簿、徳利、煙管、眼鏡とあらゆるものを左手で投げ出した。しかし霧の小鈴には意味をなさない。
『やけっぱちですか、お見苦しい。あんなに強そうだったのにちょっとがっかりですよ?』
マミゾウを取り囲む霧が濃さを増していく。小鈴はマミゾウの指が痙攣し出すのを見て、頃合いだと思った。霧が集まりヒトの姿に収束する。マミゾウの前に立つ。
「さて、私は阿求の元に行かなければなりません。これぐらいで貴女を殺せるとは思いませんが、しばらく眠っててもらいますよ!」
小鈴は伏せるマミゾウの首に手刀を振り下ろした。延髄を鈍く抉る音が鳴り響く。小鈴の。小鈴が破壊したのは徳利だった。視界がぐらぐらするが、激痛に軋む首で振り返ると、小鈴の後ろには左手で手刀を構えてニヤリと笑うマミゾウが立っていた。
「い、入れ替わる隙はなかったはず」
「自分の徳利に投げてもらうのって結構しゅーるな気分じゃぞ?」
「さっき投げた……やけっぱちじゃあなかったんですね」
「霧のままじゃ速くは動けなさそうだったからの、阿求を追う前に一度霧化を解くと思ったんじゃ。後はその隙を突けばよろしい」
「やっぱり、貴女は凄く恰好いいです」
「ただの狸寝入りじゃよ。ちょっと前に儂を倒しにきた人間たちなら容易く見破ってたじゃろうなあ」
「とっても血が吸いたかったもので、焦りすぎましたかねえ」
「ああ。じゃが確かにおぬしの知識は凄い。あと千年ぐらい智慧を付けられたら、儂もどうなってたか分からんかったじゃろうて」
「長い、長すぎます」
阿求に呼ばれて村の男衆、女衆で腕に覚えのある者が集まってきた。周りにわずかに残る紅い霧を吸い込まないように慎重に、場を取り囲む面子には慧音も混じっている。
「小鈴、頭突きは何回がいいんだ? とりあえず五十回くらいいっとくか?」
「慧音先生! 助けてください、狸に襲われてるんです!」
「稗田のから狸は味方だと聞いている。姑息な真似はよせ」
「阿求はきっと化かされてるんですよ。こんな事でせっかくのお祭りをぶち壊しにしてはなりません」
「後で頭突き五十回追加」
「そんなぁ。首が痛いんですよ、よしてください」
マミゾウは拾い上げた徳利を軽く振って修復し、それを持って何やらブツブツと唱え出した。今の小鈴を拘束するためには何処かにまるごと閉じ込める必要がある。マミゾウの子分達は毒の霧から解放されてその様子をじっと見守った。
(あの中はお酒くさそうだなあ)
形勢不利。三十六計逃げるに如かず。小鈴は軋む首を押して地面を蹴り抜いて、まっすぐ空へと飛び出した。
「逃がすか!」
慧音は白く光る使い魔を同心円状に展開し、光の陣を張って妨害。里の人間たちも各々があらかじめ準備しておいた結界を張る。
小鈴は圧倒的な加速度で光の壁をぶち破った。強い衝撃が襲ったが、吸血鬼には耐えられる。風を切り、羽を広げてもっと高く、高く──
逃げられる! 場の誰もが確信したが、小鈴には違和感があった。どうやっても加速しない、むしろ遅くなっていく。せっかくここまで上がったのに。いつの間にか牙は引っ込み、羽は背中が吸収して消えていた。瞳もぎらつく緑色から優しい赤色に戻っていた。
「え、嘘、私は今まで何を、阿求は……」
我に返るも時既に遅し、ふと下を見ると五百メートル下に地面が。普段の小鈴は飛べない。
「助け」
落ちる──
同じく垂直に飛んでいたマミゾウは小鈴に追いつき、小鈴の落ちるスピードに合わせる。右手を振った。
(よし、右手はもう使える!)
タイミングを測って背中から小鈴を抱き止め、落下傘に変化した。ナイロンを模した尻尾柄の布がぶわっと広がり、減速のショックを軽減していく。下から吹き上げる風を感じながら待っていると、地面に到達する頃には落下速度のほとんどを殺せていた。里の人々が見守る中、変化を解いたマミゾウは小鈴を抱いてそろりと着地。彼女が不調を訴えてからこの間、五分であった。
「おーい小鈴、大丈夫か? ……何じゃ、気を失っとる」
安全を確認して、里の人間たちが駆け寄ってきた。
「よくやった、化け狸!」
「この娘、座敷牢に入れるか? また暴れられると困る」
「いや診療所に運ぶのが先だ!」
「ああ、小鈴を頼むよ。後から儂も行く」マミゾウは小鈴を引き渡した。
人間達はマミゾウを質問攻めにした。
「狸さん、すごーい!」
「あのでっかい布は一体?」
「ぱらしゅーとというものじゃ。外の人間は飛べないからの、空からふわふわ落ちて遊ぶ時に使う」
「へえ。でも飛べないのにどうやって空まで上がるんだ?」
「でっかい鉄の鳥を使うんじゃ。まあそれはまた今度聞かせてやるぞい。今は小鈴の見舞いに行くのが先じゃ」
「親分、大丈夫でしたか? 霧の時はもう駄目かと思いましたよ」金魚屋の姿に戻った子分が聞いた。
「おう、みんな良くやってくれた。おぬしらが居なかったら逃げられとったよ。一通り落ち着いたら宴会じゃな。奮発してやるぞい」
「よっしゃー!」子分たちは歓声を挙げた。
「その前に、何が起こったか聞かせてくれないか? 記録を取らなきゃならん」慧音が割って入った。
「小鈴と一緒かい?」
「もちろんだ。格子越しだがな。稗田のも呼ぶ」
「それはありがたい」
祭りの実行委員会本部には永遠亭の出張所がある。担当している鈴仙が小鈴を診た後、小鈴の両親が見舞った。その後は慧音による事情聴取が始まった。妖怪に対する封印を施した木の格子が小鈴のベッドとマミゾウ達を隔てていた。人間には無害であり、もし小鈴が再び妖怪化すれば効力を発揮する事となる。
「私は上白沢慧音、寺子屋で教えるのと歴史の編纂、非常時に里を守るのを仕事にしている。お前が騒動を収めるのに尽力してくれたのはこの目で見ていたし、小鈴の友人というのも本当だろう。が、一応素性は聞いておかねばなるまい。何もんだ?」
「儂は二ッ岩マミゾウ。佐渡の二ッ岩と言えば分かるかのう?」
えっと驚く小鈴をよそに事情聴取を続ける。
「そうか、お前が最近ここに来たという二ッ岩……何もんかと思っていたが、只もんではなかったようだな」
マミゾウの証言は阿求や小鈴とも完全に一致し、現場に残る証拠とも矛盾しなかったので、事実関係が争われる余地はなさそうだった。阿求の言うには、ちょうどマミゾウが小鈴を見つける直前に小鈴は妖怪化したらしい。
「しかし妙じゃな、普通の吸血鬼は瞳が紅いものじゃろう?」
「ええ、私もそれを知識として知っていたので、最初は小鈴が吸血鬼だと気付けなかったのです。瞳が緑色でしたから」
「しっかりした知識はかえって柔軟な発想を縛るものだな。私もそういう所があるから分かる」
「緑色ねえ。自分では瞳の色なんて見えなかったけど、何となく気持ち悪いなあ」
「小鈴は、どうなる?」マミゾウが慧音に問うた。
「被害は出なかったとはいえ、人を不意打ちでスペルカード抜きに襲ってしまったからなあ。よりによって稗田の御令嬢をだ。しばらくここに入院という形を取るだろうが、実質的に軟禁は避けられないだろうな」慧音は顔をしかめた。
小鈴が言った。
「すごく、血が吸いたくなったんです。食べなきゃ、仲間を増やさなきゃ、阿求を仲間にしてあげなきゃって……お腹の空いた人に一緒にご飯を食べよう? って誘ってあげるような気持ちでした。つまり、自分では全くの善意だったんです。今でもあれが私だったとは信じられません。私、悪い事をしてしまいました」小鈴は押しつぶされそうな顔で泣いていた。
「阿求、ごめんね……」
しばらく黙った後、阿求が言った。
「小鈴、私は怒ってないからね」
「えっ」
「信じられないなら、態度で示すわ」
阿求は格子越しに小鈴の手を取り、その甲にキスをした。小鈴は驚いて赤面した。
マミゾウも語りかけた。
「おぬしが阿求を襲ったのは、きっとおぬしのせいじゃない。少なくともいきなり吸血鬼化したのが小鈴のせいのはずがない。他に原因があるに違いない。だからおぬしがここから出られるように、儂からも出来る限りのことをしよう」
小鈴は涙を拭った。
「ありがとう、みんな、ありがとう……!」
慧音も釣られて泣いていた。
「貴方ってあの有名な佐渡の二ッ岩だったんですね! 素敵です!」小鈴は目を輝かせた。マミゾウは困惑した。
「こらこら、妖怪に憧れるんじゃあない」慧音は窘めた。
「えへへ」小鈴は照れ隠しか、無意識に首筋を掻いていた。
焚き火を囲んだ、狸の宴会。子分の狸たちはマミゾウが用意したとびきり上等の酒に舌鼓を打っていた。マミゾウは時折空を睨みつけてぎりりと歯ぎしりしたが、それに気づくものはいなかった。
鈴奈庵。診療所から戻った小鈴の父は蝋燭の灯を頼りに階下の本棚を漁っていた。目的の物を見つけ出すと場所を紙に記録し、懐にしまった。小鈴の父は印刷業に掛り切りで、貸本屋の方は小鈴がかなりの部分を手伝ってくれていた。小鈴の不在が長引くようなら売り子を雇わねば……父親は小鈴が戻ってくるだろうことについては疑いを持っていなかった。しかしその間の穴埋めは、小鈴以上に上手くやってくれる人がいるだろうか? 実利以上の痛手の大きさを思案した。
「スペルカードルールもよく把握していない妖怪が突然街中に出現し、人間を襲う。確かに厄介だわね」レミリアが言った。
「新聞には出ていませんでしたが」咲夜が言った。
「人里はみんな貴方にだんまりだったでしょう? 犯人が分からないのに妖怪や天狗にぺらぺら喋ったらそっちのが驚きよ」永琳が言った。
「ああ、箝口令ですか」
「で、貴方は暴走しなかったの? メイドさん?」
「はい。別段何事も無くいつも通りでしたわ」
「変わったのは咲夜の外見だけよ」
「鍛えてますから」
「多分そういう問題じゃない」
「おかしいわねえ。突然吸血鬼化した五分間、知性と記憶は完璧に保たれていながら、たいていの人間は人格を変容させるほどの吸血衝動に襲われるわ。そして五分間吸血鬼に噛まれた者も同じように五分間吸血鬼になる。それでさっき話したように、騒動を起こして軟禁されている人も出ているのに」
「まあ酷い」
「できるだけこちらで入院できるように取り計らうつもりだけどね。研究もしたいし」
「それで大体合点がいったわ。人間たちの咲夜への扱いが妙に厳しかったけど、私かフランが人間を吸血鬼にしたと思ってるのね」
「ええ。私も貴方達が元凶じゃないかと疑ってたぐらいだし、人里の皆がそう考えるのも無理は無い」
「人間に恐れられるのは私の本分だから構わないんだけど、やってもいないことまで私たちの責任にされるのはごめんだわ。本気で眷属を増やしたいなら五分と言わず永遠に吸血鬼にするし、五分だけなんて器用な真似無理よ。まして誰にも気づかれずに街中でなんて」
「いちおう妹さんにも話を聞いておいてね」
「その可能性はない。前よりは外出禁止は緩めてるけど、あいつにこっそり私の目を盗んで何かできるような慎重さはないわ。あいつならもっと派手にやる」
「うーん。今回の現象についてはこっちで研究を進めたいから、ちょっと咲夜や貴方、妹さんの血液とか体組織のサンプルをもらえないかしら? 確実に濡れ衣を晴らしたいでしょう?」
「やむをえないわね。その騒動のせいでこっちは欲しい酒が飲めないのよ。そっちで何か分かったら知らせてちょうだい」
「しかし妙ですね。私と他の人間とでいったい何が違うのでしょう?」咲夜は首を傾げた。
永遠亭の研究室。
「さあ、統計学の時間よ」机の前に座って永琳が言った。
五分という時間は発症中の患者を拘束し直接検査するには短すぎた。しかし被害が増えると手がかりも集まり、手がかりがあるなら別のアプローチもできる。永琳は妖怪兎たちに調査させたが、里の人間は喜んで協力してくれた。人里は連日吸血騒ぎの話で持ちきりで解決に向けて意識が高まっていた。そして今永琳は研究室で鈴仙が整理したデータを更にふるいにかける作業をしている。発症した場所、時間帯、患者の体質、その他もろもろ。
まずカルテから患者の特徴で絞り込む。貧困層が多い。基本的に年齢層は低いが、大人もいる。全体的に体温が高い。酔っていると発症率が上がる。
「新陳代謝の高さが関係している?」
永琳は人里の地図、上空から撮った写真と現場で撮った写真の束を取り出した。十分な枚数の高精細な写真と明晰な頭脳のお陰で、永琳は頭のなかで里をまるごと立体的に再現できた。居住ブロックごとに患者を分類。特に寝ている間に発症した患者だ。やはり生活環境はそれほど良くない。日当たりが悪く、古い家が多い。
「まあこれは人間の病気全般に言えるわね。弱り目に祟り目というやつかしら」
原因は不明だが、公衆衛生を改善すれば発症率は下がりそうだ。そのためには人里を再開発するだけの投資が要る。
次に時間帯で絞り込む。屋外で発症したのは雨の降っていない夜に限られていた。
「やっぱり吸血鬼化の犯人さんも日光が苦手なのかしら。それに雨にはほとんど重ならない。魔女さんか風祝さんに頼む?」
更に場所で絞り込む。ここで永琳は手応えを感じた。事件が起こった場所の多くは半径三〇メートル以内に防火水槽などの水場がある。
「水、ね」
ただ周りで全く事件の発生しない水場もあったので、必ずしも水場の存在がすぐに発症に結びつくわけでも無さそうだった。
「水場の中にも違いがある。飲料水は大丈夫のようね。不潔な水?」
ここで永琳は仮説を立てた。水と患者の新陳代謝が関係する病気の種類は限られている。
「人を吸血鬼にする病気の媒介者がいる? 水を根城にした妖怪の仕業?」
ともかく、水が鍵を握っていそうだ。さらなる調査が必要だ。スケジュールを立てるため、永琳は鈴仙を呼び寄せた。
「明日は人里に出かけるわよ。現場を直接見る必要が有るわ」
「分かりました。ということは何か手がかりが?」
「水。みんな水場の近くで発症しているみたい。貴方の作ったデータは読みやすかったわ」
「ありがとうございます。この暑いのに水の近くに行くだなんて、蒸しそうですねえ」
「ひんやりするスプレーを持って行かないとね。今日はもう寝るわ。お休みなさい」
打ち合わせを終え、永琳は明日に備えて睡眠を取りに行った。輝夜がきっと寝室で待っている。永琳は期待を胸にくすりと笑った。
太陽のギラつく、真昼の人里。医者と助手は大通りを歩く。
「暑い……何でこんな時間に来たんですかあ」鈴仙が汗を流しながら永琳に言った。さっき買ったアイスキャンデーはもう食べてしまった。
「犯人が日光を避けているのなら、一番太陽光が多い時を狙ったほうが居場所が絞れるってものでしょ」
「ああ、なるほど。そういえば人間を流水が苦手な吸血鬼にする犯人が、水を根城にしているというのも変ですね」
「日光や流れ水は穢れを浄化する。でも流れずに溜まった水は淀み、病や穢れを生み出すのよ」恐らく犯人は通常の吸血鬼ではない。未知のウィルスか、生物か、あるいは単に隠れるのが上手い吸血鬼か……
鈴仙はもう一本アイスキャンデーを買おうと店に足を止めた。しかしさっき買った店よりも高かったので、諦めて再び歩き出した。そのさっきの店のアイスも昨日より値段が上がっていた。
「なんか最近、モノが高くありません?」
「生活不安のせいよ。私達がこの騒動を解決すれば、きっと元の鞘に収まるわ」
二人は人里で一番事件の発生が多い地域に向かっていた。人口を構成するのは主に貧困層、低地でボロ家が多い。地面に落ちているゴミも多い。複数の吸血鬼化発生地点から地図上の半径三〇メートル分、コンパスで円を描くと円同士が重なる家があった。
「でもここ、防火水槽も池もないのよね」永琳はメモと円がびっしりと書かれた地図を持って言った。
何か地図や写真だけでは分からない秘密があるに違いない。狭くなっていく道を抜けると、二人は目的の家に辿り着いた。やはり古びている。
家同士の隙間を縫ってこっそり裏に回ると、軒下に五つほど腰の高さほどの陶器製の水瓶が置いてあった。年季の入った苔が生えていて、蓋が開けてある。中身はあまり見たくない。永琳は家と家の隙間から覗く空を見つめ、簡単に太陽の軌道と角度を頭の中でシミュレートした。
「ここには一日中太陽が当たらないわね。写真だけじゃ分からなかったわ」
「かなり臭いですね」
「物理的にもね」
鈴仙はルーナー・ジョークを無視して表に回り、扉をノックした。
「ごめんください」
「あら、お医者様じゃないですか。こんなところに何の用事で?」中からは痩せぎすの中年女性が現れた。髪を団子にして後ろの方で留めている。家人にとって鈴仙は『困窮した我が家にただ同然の値段で置き薬を売ってくれる兎』であり、上司の永琳のこともすぐに信用した。
「ここでは言いにくい話なんですけど」
「どうぞどうぞ、大したおもてなしはできませんが」
中は畳は痛み、ふすまは一枚足りず、障子は破れて直す余裕もないといったところだった。鈴仙は薬を売り歩く過程でこのぐらいのボロ屋は見慣れていたが、豪邸に住み慣れている身としてはいたたまれないものがあった。永琳は永遠亭を建てる前の苦労を思い出していた。当初は野宿同然だった。輝夜と二人きりなのは嬉しかったが。
「単刀直入に言いますとね、裏の瓶が最近の吸血騒ぎの原因なのではと」狭い居間で鈴仙は言った。
「まあ」家人は青くなった。
「まだ確かではありませんが、古い水の近くで事件が起こることが多くて」
「うう、あれは私がこの家に移る前からあったのです。何に使うのかも分からないのですけど。それに私自身は吸血鬼になったことがなくて」私の責任ではないと言いたげだったが、鈴仙はそう言いたくなる気持ちも分かった。自分の不始末が原因と知られたら近所からどんな目で見られるか分かったものではない。
「あの水瓶を研究室に持って行って調べたいのです。可能なら全部、蓋を閉めた状態で」
「分かりました。お医者様の役に立つなら喜んで提供いたします。なるべくこっそりお願いしますね」
「もちろん秘密は守ります。結果が分かったらお知らせしましょうか?」
「いえ、結構です」家人は早くこの話を終わらせたそうだった。まあいい、そのおかげでスムーズに事が運ぶのだ。鈴仙は思った。
「では後ほど兎に運ばせます。とにかく水回りには気をつけてくださいね」
今度は永遠亭の実験室。二人は汗だくになった服を替え、上から身体を覆う白い研究衣、手袋、マスクなどを付けていた。月面製で清潔さは指折りだ。
「さあ、生物学の時間よ」永琳が言った。結った髪が後ろで盛り上がっている。
「あの瓶、正直言って触りたくないんですけど。手袋越しとはいえ」
「私だってそうよ。腹をくくりなさい」
鈴仙は実験室の端の床に置いてある水瓶の蓋を開けた。その淀んだ水の表面には埃や葉の切れ端が浮いており、ボウフラがたくさん蠢いていた。団子にヒゲの生えたようなユーモラスな形をしたこの幼虫は、文字通り棒を振るようなリズミカルな泳ぎ方をしており、時折何かを掻き込むように口を動かしている。
「キモっ」
「正直ねえ。これから嫌でも見慣れるわ。もしかしたらいきなり大当たりを引き当てたかもしれない」
鈴仙がボウフラをシャーレごとに分け、一つ一つ実験していった。一体ピンセットで裂いてみたが、切断面から細かい泡を出しながらすぐに元通りになってしまった。
「凄いわね。プラナリアだって再生には二週間掛かるのに」
「師匠は一瞬じゃないですか」
「まあそうだけど。やっぱり不老不死なのかしら」
サンプルの一つに太陽光を再現するライトを放射すると、幼虫たちはもがきながら水に溶けていった。
「これは……! 光に弱い、吸血鬼の特徴があります!」
「うんうん、幼虫も見慣れると愛嬌があるわね」
「絶賛虐殺中ですけどね」
ボウフラに混じっていた蛹から成虫が羽化する様子を、永琳は待ちきれない様子で観察していた。水面に浮く蛹が割れ、長い口吻と翅を折り畳んでゆっくりと抜けて行く。その複眼は緑色に輝いていた。
「緑色! もう決まったようなものだけど、後は雌雄揃えて交尾させなきゃ」
数日後。幾つかの作業を終えた後、永琳は子供の腕ぐらいの太さのパイプのようなものを実験室の机に載せた。時々波打つその表面は健康的な肌色で、両端が机の端に置いてある血液を流すポンプに繋がっている。
「何ですかこのシュールでグロテスクな物体は」
「本居小鈴ちゃんの細胞から複製したぷにぷにの二の腕よ」
「うわあ犯罪的」
「流石に人間を丸ごと人体実験に使うわけにはいかないから、実験に使う事に同意を得た上で皮膚の組織を貰ったの。彼女はこの件で最初の患者だったから喜んで協力してくれたわ」
永琳はあらかじめ交尾させておいた雌の蚊の入った試験管を取り出し、その口を複製の腕に押し付けた。蚊が口吻を肌に差し込み、しばらく中で動かした後に目的の血管を探し出した。あの独特の痒みの原因である唾液を注入し、蚊の身体が膨れ上がっていく。永琳は吸い終わった蚊を再び隔離した。
少し待つと、蚊が刺したところから腕のコピー全体に青白さが広がっていく。二人は息を飲んだ。幾つかの試薬を用いて組織を調べると、吸血鬼の体組織の特徴を備えている事が分かった。体組織は太陽光ライトを当てると黒く焦げた。
「ビンゴ! なるほど、蚊が犯人だったのね。データ整理だけでは引っ掛からない訳だわ」
「この季節、蚊に刺された人なんて多すぎてただ普通の蚊に刺されたのか、事件の犯人に刺されたのかなんて見分けられませんものね」
頭脳明晰な永琳と言えど、十分な情報が手元になければ真実にはたどり着けない。そもそも永琳が本来不要だった満月の異変を起こしたのも、博麗大結界の事を知らなかったからだった。
さらに調査を進めたところ、紫外線以下の波長の光を当てると成虫も黒い煙を出して蒸発することが分かった。
「よしっ! 後は吸血鬼化を予防する薬か、吸血鬼を人間に戻す薬を作れば解決ですね!」
「それは無理ね。二つとも」
「えっ……なぜ?」
「吸血鬼になるという事は亡者になるということなの。亡者になることを予防するという事はすなわち不老不死よ。人里の人間を全員蓬莱人にしていいっていうのなら薬の製造を姫様に頼むけど、そんなことをしたら私も姫様もただじゃすまないでしょうね。良くて追放」
「げー。じゃあ、戻す薬も?」
「亡者を生者に戻すということになるわね。流石の私も蘇りの薬は作れないわ。でなかったら月人たちはどんな犠牲を払ってでも私を取り戻したでしょう」
不老不死の月人といえど、完全な不死の蓬莱人と異なり事故死の可能性はいまだある。
「しかし、少し前に聖人たちが死体から蘇ったじゃないですか」
「より正確には尸解仙ね。儀式にはあらかじめ仙薬など様々な物を準備する必要があるし、そもそもあれは死体がそのまま復活するんじゃなくて復活のベースとなる肉体、依代の存在が前提なの。死体の方は朽ちて無くなるのよ。依代を壊された方はそのまま亡霊になったと聞くわ」
神子と布都の身体は宝剣と皿がベースである。依代の壺を布都にすり替えられた屠自古はそのまま死んでいった。
「人間たちを全員尸解仙にしていいのならそうするけど、後は言わなくても分かるわね」
「困りましたねー。仙人といえば、例えばキョンシーとかも治せないんです?」
「キョンシーに傷つけられた人も一時的に亡者になるわけだけど、同じ理由で私にはそれを予防する事も治療する事も無理ね」
永琳は自分の限界を心得ていた。時間を掛けて研究を進めればいつかは達成できるかもしれないが、越えるべきハードルが多すぎる。
「今回の件……吸血病と名づけましょうか。吸血病をすぐに解決したいのなら、何か別のアプローチがいるわ。さしあたってやるべきことは蚊の封じ込めかしら。幸い弱点はないわけではない」
「紫外線に弱いなら何とかやりようがありそうですね」
「とりあえず今日はこんなところね」
二人が実験の後片付けをして、汚れた研究衣を処理して実験室を出ると、輝夜が永琳の胸に抱きついてきた。永琳もにっこり笑って抱きしめ返した。
「えいりーん! お仕事終わったのね!」
「やっと区切りがついたわ。まだまだこれからだけど」
「吸血騒ぎ、いったい何が原因だったの?」
「蚊よ。血を吸う虫」
「えっ、じゃあボウフラとか変な水とか触ったの? 実験中?」
「ええ。でも手袋とか身体を守るものをちゃんと付けてたから大丈夫よ」
「……シャワー浴びてきてっ!」
輝夜は引きつった顔で永琳を突き放した。
浴場の前の更衣室。医者と助手は着替えを持ち込み、冷たいシャワーを浴びるために服を脱いでいた。永遠亭内は冷房が効いているために服にはあまり汗は染み付いていない。
「しくしく。汚いのは全部脱いだから綺麗だって言ってるのに」
「まあ確かに師匠の言うとおりですけどねえ。感覚ってものがありますから」
「でも輝夜に『シャワー浴びてきて』って言われて今とてもいい気分」
「そっすね」
「というわけで、騒ぎの原因は吸血鬼の力を得た蚊だと判明したわ」紅魔館の応接間、真っ赤なソファーに腰掛けて永琳はレミリアに言った。彼女の隣には鈴仙が座っている。レミリアとの間のテーブルには紅茶のカップが三つと、何枚かの白紙の紙とペンが載っていた。
「おめでとう。ライバル出現は嬉しくないけど、私も濡れ衣が晴れそうで安心だわ。でも最後のは言う必要あったの?」
「ただの愚痴よ」
「そう……」
「すみません、ウチの師匠が」鈴仙はやれやれと首を振った。
「で、わざわざ報告しに来てくれたのはありがたいんだけど、何で人払いしたの? パチェや咲夜の意見もきっと役に立つわ。かたや知識人、かたや元患者だし」
「嫌に親切ね。一人じゃ不安なの?」
「こら」
「冗談よ。実はね、貴方の血液と吸血蚊の体組織を比べた結果、いろんな特性が一致したの。つまり、今回の犯人は貴方の血から生まれたという事ね」
「え、なにそれは」寝耳に水である。かつて蚊から咲夜を守るために戦ったことはレミリアの記憶の彼方であった。
「貴方が故意に吸血蚊を作り出したのかはもちろん分からないから、みんなには黙っておいてもいい。そちらのメイドも吸血蚊の被害に会ってる事だしね。でも、貴方にはもう少しの間今回の件に協力することをお勧めしておくわ」
「くっ、何もしてないのに嵌められた気分」
こいつらは私を思い切り利用するつもりだ。レミリアは思った。しかし確かに、この件をこのまま放置しておくのも安心できない。疑惑を完全に晴らすため、もう少し働く必要がありそうだ。
「で、でも! 私の協力なんて要るのかしら。あんた自称天才でしょ? 誰の力を借りなくてもパパっと解決できるでしょう」
鈴仙が『こいつ、意外と面倒くさがりね』というような視線を向けた。
「いや、この件はすぐにでも解決する必要があるわ。総力を挙げてね。幻想郷中の力を借りても対処できるかどうかってところ」
「どうして?」
永琳は顎に指を当てて一、二秒思案し、その指を鳴らした。
「では、疫学の時間にしましょう」
「またそれですか」
永琳は机の上に置かれた紙とペンを取り、Basic Reproduction Numberと大きく書いた。意外と丸くて可愛らしい字だった。
「BRN、発生指数という指標があるわ。地球上だとジョージ・マクドナルドという科学者が作ったみたいね」永琳が言った。
「それは何です?」鈴仙が聞いた。
「『理想的な条件下で一人の感染者から何人の二次感染者が発生するか』、簡単に言うと一人の人間から何人に伝染るかということね。強い麻疹は十二から十四、エイズは一ちょっと」永琳は紙に棒人間と、メジャーな感染症に対応するいくつかの数字を書いた。
「一を下回ったら増えずに絶滅って事かしら?」レミリアが言った。
「いい着眼点ね、その通りよ」一より小さな数を無限に掛けていけば、いつかはゼロに収束する。
「蚊が媒介すると、BRNはすごく増えるの。では蚊が媒介する病気の場合、BRNは何に依存するかしら? はいお二人さん、競争スタート」
「蚊の繁殖力」レミリアの即答。永琳は微笑んだ。
「そう! 早かったわね。鈴仙、弟子が聴講生に負けちゃダメよ」
鈴仙はむぅ、と考えるように掌で口を抑えた。
「あと二つよ」
「ヒトを刺すかどうか?」 鈴仙が言った。
「その通り。ヒトを刺さなければそもそもヒトには感染しないわね。これで同点」
「あの蚊が妖怪や妖精も刺したり伝染したりするなら厄介だわね」
「ここは人間よりも人間以外がずっと多いからね。最後は?」
二分ほど間が空いた。
「うーん……ちょっと分かりません」
「私もギブ」
「寿命。『ヒトに病原体を伝染すまで蚊が生き残れるか』よ。そしてこれは繁殖力や吸血性よりずっと大きなファクターなの。蚊を媒介とした感染症のBRNを増やす最大の要素だわ」
鈴仙とレミリアが息を呑んだ。
「察したようね」
永琳は紙に『100×100×100×100×100×……』と書いた。
「蚊は一度に百個単位の卵を産む。これを何世代か繰り返せばあっという間に京単位になってしまう。もちろん地球上は蚊で溢れかえっていないわね。何故?」
「なぜなら、捕食者がいるから、ですね」
「私が人間を食べるようにね」
「そう。蚊は弱い生き物で、天敵がたくさんいるわ。幼虫はメダカに喰われ、成虫はクモに喰われ。いくら多く卵を産むと言っても、その多くは成虫になって吸血する前に脱落していく」
「死を見越した人海戦術が前提の産卵数ってわけか」
「でも、もし産まれた幼虫全員が不老不死の素質を持っていたら、そして喰われても死なずに成虫になれたら? 想像したくもないわ。人々に病気を移すまで確実に生き残る蚊が、自然界にはない割合の倍々ゲームで増えていく。不老不死と蚊、これ程恐ろしい組み合わせがあるかしら? それは今、現実に起こっている事なの。あの蚊を人為的に封じ込めない限り、幻想郷の人間全てが吸血病になるのは時間の問題。患者の数で永遠亭がパンクする前にやっつけてしまいたいところね」
三人は紅茶を飲み干した。
「早期解決の重要性は理解できたかしら?」
「分かったわ、分かったわよ」レミリアは降参し、頭を振った。どうやらレミリアが思った以上に事態は深刻のようだ。
医者達が帰った後、レミリアは大体の状況を咲夜とパチュリーに語った。しかし自分の血液の事については伏せておいた。
§3.大循環
月光の差す人里。早苗は吸血鬼化した里人と交戦していた。
「これが例の五分間吸血鬼!」
里の見回りをしていた早苗が叫び声を聞き、恐慌状態で通りを逃げ惑う人々の流れをさかのぼって飛んでいくと、住宅地の丁字路で突き当りの壁の破壊に勤しんでいる吸血鬼がいた。壁を殴りつけ、スポンジケーキのように穴を開けているのは青い作務衣に身を包んだ細面の青年だ。青年の破壊活動は吸血衝動に対する精一杯の抵抗だった。完全な八つ当たりである。早苗は星が描かれた一枚のカードを手に呪文を唱えだした。
開海「海が割れる日」
早苗の左右に地割れが走る。割れ目から水の壁が湧き昇り、丁字路の左右を塞いで青年を閉じ込めた。気づいて振り向いた青年が緑眼を光らせながら早苗に向かってくる。
「それっ!」
早苗は札から緋い槍を生み出し、青年をめがけて一本、二本、三本と投げた。その全てを青年は僅かに右にずれて避けたが、直後にその反対側から水壁がうねり横ざまに襲った。反動で吹っ飛んだ青年はさらに反対側の水壁に背中を叩きつけられ、そのまま水の中に飲まれていった。
「ぶくぶく」
「しまった、これでは何を言っているのか分かりません」
水の壁に取り込まれた青年を眺めながら困る早苗のところに、走って霊夢が到着した。
「遅かったか!」
「珍しく運が悪いですね」
「うぎぎ。人間が街中で突然ゲリラ化して暴れ出す。しかも退治までのタイムリミットは五分間。私が着いた時には全てが終わってる事が多いし、どうすりゃいいってのよ、私だけじゃ対応不能だわ」
「ええ、私も偶然行き当たったから倒せたようなものでした。もはや無差別テロですね」
「お困りのようだな!」
二人の間にしゅるしゅると回転しながら落下してきた大皿の上から、物部布都がこれ以上はないぐらいにもったいぶった様子で現れた。
「おぬしらも道教を学べばもっと遠くに瞬間移動できるぞ! 場所の通報さえ受ければ一発だ! さあ改宗し、我々のもとで太子様と道の修行を積もうではないか!」
「あんたも間に合ってないじゃないの」
「そこに気づくとは。やはり博麗の巫女、侮るべきではないのう」
「わざとやってます?」
「まあ、この前のお面の子の異変で道教はちょっとかじったけど、便利といえば便利ね」
「そうであろう、そうであろう! やはり神道と道教は相性がよいぞ。かつて神道に身を置いていた我としては鼻が高い!」
「ああ、霊夢さんが懐柔される!」
「異変解決の方が大事よ。そういう早苗もこないだ道教に改宗してたじゃない」
「うっ」
「うむ、人心の乱れるのは為政者たる太子様の望む所ではない。であるからにして、こうして命を受け里を見て回っているのだ」
「何をぬけぬけと」
「むしろ乱れた人心に乗じて信仰を集めるつもりですよね?」
「ふふ。それはおぬしらも同じであろう」布都はニヤリと笑った。抜けているくせに妙に抜け目がないのがこの道士の矛盾した所だった。
「確かに、事件に間に合えば人里での私の威厳を取り戻すチャンスなんだけどねえ」
「珍しくやる気ですね」
「そうだ、あの吸血鬼はどうした? 間に合わなかったとはいえ、せめて一目見ておきたい」
「あ、やば。ごめんなさい! ごめんなさい!」
早苗は水の壁を解き、とっくに牙の引っ込んだ青年を引きずりだした。元の瞳は黒かった。水の塊が落ちて地面を広がっていき、丁字路の壁に当たって波打つ。地割れは残りの水を吸い込みながら徐々に閉じていった。
「ふうう……早く出してくださいよお。でも、私を止めてくれてありがとうございます」
「おい、大丈夫だったか?」丁字路の右から強面で洋装の青年が駆けつけてきて問うた。作務衣の青年の知り合いらしい。
「ああ、山の神様に助けてもらったよ。ここの住人はなんとか襲わずに済んだが、だいぶ辺りを壊してしまった。強い衝動だ……コントロールが効かない」
青年はゲホゲホと水を吐きながら早苗に一礼し、尻を掻きつつ里の住人たちに連行されていった。
大抵の里人は小鈴ほど吸血鬼に関する知識がないので、大した特殊能力は使わずに肉体の力で暴れるだけに留まる。それでもその圧倒的な暴力は里の生活にとって脅威であった。
「ワープも使えるけど、距離だけなら咲夜の能力があれば一瞬よね」
「でも通報が届かないと意味がないし、原因を潰さないと元の木阿弥。一体何が里人を狂わせているのでしょう」
「その原因が分かったわ」
三人の間に八雲紫が空間を『割って』入った。
「紫! いったい何やってたの!」
「探してたの? しょうがないじゃない、人里に混乱をきたさないようにちょっと調整しててね。明日の朝になったら会見が始まるから、それまで待ちなさい」
「今だって事件が発生したばかりなのに、そんな悠長なこと言っていられるんですか?」
「とりあえず貴方達にはこの遠隔通信機能付き陰陽玉を貸してあげるわ。人里の各所に通報用の陰陽玉を撒いておくから、里人から通報を受けたらそちらに行けばいい」
「地底で使った奴ね」
「妖怪が人間の異変解決に肩入れするとは不可解だのう。我が人間として生きていた頃は妖怪は完全な敵だったぞ?」
「里の人間という貴重な市場を一つの妖怪に独占させておくと、他の妖怪たちとのバランスが取れないのよ。それに『妖怪は人里で暴れてはいけない』というルールを犯人は堂々と破っている」
「一つの妖怪だと?」
「正確には一種類だけどね」
翌朝、人里の集会場。普段はちょっとしたイベントや公的行事にしか使われることのない会場は、いまや青い顔をした里人たちと興味津々の鴉天狗の記者たちでごった返していた。
「はい、これがその吸血病の原因、吸血蚊です」
永琳は講演台から聴衆に向けて、試験官に入った蚊の姿を見せた。蚊の姿は永琳の後方の映写幕にも大写しにされた。聴衆が息を呑む。聴衆の手元のレジュメには蚊の成虫、幼虫、卵の詳細な図と以下のメモ書きが書かれていた。
・幻想郷に広く分布している蚊とは外見で見分けがつかない。
・通常の蚊より高い飛行能力や繁殖能力を持つ。
・卵と幼虫の時から再生能力を持つが、日光、特に紫外線以下の波長の光を当てると消滅する。
・あまりにも小さいため、通常の吸血鬼と違い結界やにんにく、鰯の頭を軒先に吊るしておく程度ではすり抜ける。
・ただし流れ水の上には入れず、雨の日は屋外に出てこれない。
・蚊取り線香では殺せないが、避けておくことはできる。
・この蚊に刺されると、人間は五分間だけ吸血鬼となる。五分間吸血鬼に噛まれたものも五分間吸血鬼となる。
・五分間吸血鬼になったものは通常の吸血鬼の特徴をほぼ全て備えているが、力はオリジナルの吸血鬼に劣り、瞳の色は紅ではなく緑色である。
などなど。
「人間の血を吸って吸血鬼に変えるのは交尾後の雌の蚊のみで、普段の蚊は花の蜜を吸って暮らしています。彼女たちはヒトの血から卵を産み出し、一回の産卵で百個単位の卵を産みます。三世代目で百かける百イコール万単位に増えます。逆に言えば、刺させさえしなければこの幾何級数的増加を防ぐことができましょう」
永琳は聴衆をなるべく安心させるような口調を選ぼうとしたが、それでも聴衆からありありと不安が伝わってきた。
「対策としては、卵を産む場所となる水たまりを作らないこと。無理な場合は水たまりに銅や油、塩を撒いて産めないようにすること。日当たりの悪いところにある水場は密封し、蚊の入る隙間を作らないこと。家の窓や扉には網戸を取り付けること。寝るときには蚊帳を張ること。夜の間は蚊取り線香を焚くこと、ですね。とにかく水回りには気をつけてください。蚊を家に入れない、刺させない、増やさない。この三原則さえ守れば人里から蚊を退ける事は十分に可能です。絶滅させるのは難しいでしょうけどね」
妖怪の山。玄武の沢の少し暗い場所を選んで潜ると、金属製で観音開きの扉がある。こびりついた藻の様子から作られて数十年は経っていそうだが、不思議と錆はない。扉を開けて水の通路をしばらく進み、見えてきた水面を上がると、そこには河童のアジトがあった。マミゾウは応接室に通された。河童の部屋では唯一整頓された場所である。
聖徳太子。ここもあそこも聖徳太子。机を埋め尽くし、キセルをふかしてソファーにゆったりと座っているマミゾウの顎に届きそうなほどに積み上がった聖徳太子。聖徳太子といっても耳あてをつけている方ではなく、立派なヒゲを生やして紙の上に印刷されている御仁である。山と積まれた紙幣を前にして、にとりは息を呑んでいた。震える声で机の向こう側の狸に問う。
「きょ、今日は何をお求めで? ウチにこんなに高くつく商品は無いんだけど」
「そう緊張するでない。欲しいのはおぬしの手先とのーみそじゃ。今日は客としてでなく投資家としてきたんじゃよ。幻想郷全てを顧客にしたびっぐでぃーるのな」
「偽物じゃないよな?」
「当たり前じゃ。おぬしの尻の青い時から人間相手に金貸しをやっとるからの、本物の金も腐るほど持っとる。こんなにうまい話はめったにないぞい? おぬしら河童の腕次第じゃがな」
「詳しく聞こうじゃん」
吸血病の媒介が蚊だと公表され、人里のパニックは多少なりとも薄らいだ。脅威は依然として減っていないものの、少なくとも完全に正体不明ではなくなったのである。
紅魔館に対する疑惑を崩していないものも居たが、少なくとも大部分からは以前のような敵意はなくなった。
酒屋の主人は平謝りだった。
「こちらは私からのお詫びの印です。どうぞお受け取りください」
貴重な外来品のモルト・ウィスキーだった。突き抜けるアルコールの刺激とオーク材の樽の香りを愉しみ、レミリアはすっかり機嫌を直した。
「美味しい! こんなの私だって滅多に飲んだことないわ。咲夜、今後もあそこで買い物してきなさい」
「現金ですねえ」そういいつつも、咲夜もしっかり楽しんだ。阿求からは蔵書のカタログが贈られ、パチュリーが選んだものが図書館のコレクションに加わった。
慧音はまだ疑っている者の一人だった。
「意外と危機感の無い奴が多いな。知らないうちに妖怪にされるかもしれないのに」
「日頃から妖怪を嫌っていても、いざ自分が同じ立場になるとそれを正当化する心理が働くものよ。ずっとパニック状態よりはマシじゃない?」妹紅が自嘲気味に答えた。蓬莱の薬の影響か、妹紅には吸血病に対する耐性があるようだった。だがもちろん、人間全員に蓬莱の薬を大盤振る舞いするわけにはいかない。
代わりに別のパニックが始まった。
ある朝、慧音が編纂の休憩がてら散歩でもしようかと扉を開けると、寺子屋の前を里人の行列が横切っていた。何列も、何列も。
「う、うおお?」
驚いた慧音が左右を見回すと、右の百メートル先の薬屋の方まで行列が続いていた。山高帽を被った老紳士に、黒髪をセミロングにした三十ほどの女性。その他諸々。
「こら、邪魔ですよ。子供達が寺子屋に来れなくなるじゃないですか」慧音は並んでいた里人の一人に話しかけた。
「あ、慧音先生、すみません。でもこうして並ばないと蚊取り線香に間に合わないんですよ~」主婦らしき小太りの中年女性だった。
「蚊取り線香?」
「ほら、吸血蚊に蚊取り線香が効くって話、聞いてません? 朝のチラシにあの薬屋さんが書いてあったんですよ~」
慧音は主婦から渡された薬屋のチラシを見た。何もかも高い。特に問題の蚊取り線香は相場の四倍だった。
「法外な。よくこんな値段で商売になりますね」
この店は永夜異変前から人里で商売をしていた数少ない薬屋であった。それなりの薬を人々に高く売りつけていたため儲かってはいた。しかし竹林の薬師が現れてから質の高い薬がタダみたいな値段で売られる。競合店がいない状況に頼り切っていたこの店が対抗策を打ち出せずに経営が傾くのは時間の問題だった。
しかしこのところ潮目が変わった。吸血騒動が始まってからというもの、人里では生活不安が広がった結果として日用品の買いだめ需要が上がりつつあった。それに味を占めた商人たちは、各々が顔の利く仕入先から日用品を買い占め始めたのだ。その中でも薬屋は蚊取り線香を独占していた。そして吸血騒動が蚊の仕業だと判明して需要が爆発。薬屋はすかさず大量の広告を打って民衆の心を鷲掴みにした。まさに慧眼、起死回生の一手であった。
「このところ何でも高くなって~。でも仕方ないですよね、こんなご時世ですから」
多くの店は騒動に関係ない商品も値上げしていた。もちろん、値段据え置きで商品を提供しようとする良識的な商人もいたにはいた。しかし里全体の生活コストが上がったからには、食い扶持を稼ぐために値上げせざるを得なくなったのだった。
「ここのところインフレになってきているのは感じていたが、ここまでくると幻想郷版狂乱物価と言ったところか。これはまずいぞ」
慧音は幻想郷の外の歴史を知っていた。今の状況は西暦一九七四年の石油危機の時に、トイレットペーパーをはじめ日用品が買い占められたことを彷彿とさせた。
その内にシャッターが上がり、薬屋が開店した。人の列がゆっくり動き出した。最初は一人ひとりが買っていったが、その内に行列が崩れ、焦った人々が押し寄せた。血相を変えた人々が押し合いへし合い、時々肘打ち、狭い薬屋の中はまったくの混乱を示していた。
「ちょっとアンタ、抜かさないでよ!」「馬鹿野郎、俺が先だ!」
「蚊取り線香は一人三点まででお願いします! 一人三点まで!」
黒髪を七三分けにして丸眼鏡を掛けた薬屋の主人が、雪崩れ込む客を必死で制止しようとしていた。
彼は積まれていく紙幣に内心ご満悦だった。あのにっくき永遠亭が線香を増産したり、妖怪の賢者が物資の緊急輸入を決めるには、もう少し時間がかかるはず。その間に在庫を売り抜ければしばらく楽ができる。ただでさえ物価高で今月は苦しいのだ。少しは投機でぼろ儲けをしないとやっていけない。
しばらくすると、大通りの向こうから河童たちが馬鹿でかい荷台付きの機械式の車、外の世界で言うトラックのようなものに乗って猛然とやってきた。
「どいたどいたー!」「河童の車のお通りだ!」
やがて車は薬屋の隣に止まった。河童たちがぞろぞろと車から降り、車の荷台を開ける。そこには河童の帽子のロゴマークと同じ、蛇のような白い文様の描かれた蚊取り線香の箱が山と積まれていた。値札に書かれた値段は相場の三分の一だ。薬屋の主人は顔を青くした。
「河童印の蚊取り線香! よく効いて安いよ! 効き目は人間の古くからの盟友、河童の技術へのプライドが保証済みだい!」ヘアピンを額でバッテンの形に留めた河童が言った。
「うおおーこっちのが安い! 売ってくれ!」
「除虫菊の種も売るよー。地中海原産、明治時代にこの国に輸入された蚊取り線香の材料、天然ものだよー」おかっぱ頭の黒髪の河童が言った。
「それもください!」
「魚にも毒だから気をつけてねー」
「あ! ウチ金魚飼ってるわ! どうしよう!」
河童たちが声を上げると薬屋に並んでいた人の流れが河童の方に逸れていく。河童の出店は売り子や列の整理にある程度の人員を割いていたため、薬屋の時ほどの混乱は無かった。薬屋の主人は唖然とした。
にとりが列の整理員として前に出ると、客の中から歓声が上がった。
「はいはいー、抜かさないで抜かさないでー、前を抜いたら尻子玉抜くよー」
「河童さーん! 相変わらずかっこいいよー!」
「この前霧雨の娘さんをドリルでぶっ飛ばすの見てたぜー!」
「またあのペットボトルロケット見せてくれー!」
宗教者による人気争奪戦と感情の消え失せた夜の異変は、未だ人々の記憶に残っていた。その中でも人気を多く集めていた一人だったにとりは、河童の技術力に対する憧憬も含めて格好の広告塔であった。しかしにとりの方はといえば、久しぶりの人だかりを前にして疲れきっていた。
「うう、やりにくい。あそこにいるあの人なんて、前の祭りの的屋で騙したこと忘れてるのかなあ」
「なあに、おぬしの人望じゃよ。あの発表から人間たちが混乱する前に蚊取り線香を即座に増産し、人々に安く提供する。これが投資の第一弾じゃ」人里に来る時の人間体でマミゾウがトラックから現れた。
「こ、こんなの不当廉売だ! 俺はこの状況に全てを賭けてたのに、こんな形で便乗されちゃあこっちが潰れちまう」薬屋の主人は血相を変えてマミゾウに詰め寄った。
「む、どうした?」マミゾウは薬屋の中を一瞥した。確かに景気は良くなさそうだ。
「よし、それならそちらの蚊取り線香の在庫は全てこちらで買い上げてやろうじゃないか。ただし今の馬鹿っ高い方の値段でなく、定価でな」
「へ、へえ……? それならまあ潰れなくて済むが……ありがとうございます? いや儲けのチャンスを失ったから感謝はおかしいか? いやいやいや」
「すまんのう。だが人里から蚊を追い出すためには、里の人間全員が蚊取り線香を買えないと意味がないんじゃ。富んだ者から貧しい者まで一人残らずな。だから蚊取り線香だけは特別に安く売る必要がある。おぬしも阿漕なことはせずに、真面目な商売に励むことだ。なあに、潰れそうなら儂が店ごと買収してやるぞい」
「二ッ岩!」騒ぎの中にマミゾウを見つけ、慧音がやってきた。
「慧音どのじゃないか。また会ったのう。小鈴は大丈夫かい?」
「もう少しで出られると思う。犯人の正体も割れたし、阿求や私からも働きかけていることだしな」
「そうか、良かった」
「これも『儂から小鈴に出来る事』の一環か?」
「その通りじゃ。人間が完璧に吸血蚊の対策を出来れば、小鈴を始めとした吸血病患者たちを恐れる必要はなくなる。そのためにはこうして金と商品の流れを作るのが一番なんじゃよ」
「うむ、それなら河童を人里に入れたことについては不問としよう。連中も人間を襲うよりは商売を優先しているようだからな」
「そいつは助かる。新製品を売るためにあっちこっちでゲリラ的に商売をやっているものでな。口コミで評判が知れ渡れば、直に人里の店にも商品を卸せるようになるとは思うがのう」
「なるべく貧しいものにお金が回るようにしてくれ。みんな物価高で苦しんでいる」
「最初からそのつもりじゃ」
人里近くの湿地帯。餌となる人間に近づきやすく、日の差さない水場の多いために産卵もしやすいこの場所は、吸血蚊にとって重要だった。
花の蜜で食事を終えたばかりの雄の蚊が木陰を飛んでいると、一匹のトンボが迫ってきた。その羽音は蚊にとっては嵐のようだ。蚊の二〇〇倍の体重を持ち、幼虫も成虫も捕食するこの昆虫は、脅威以外の何物でもない。人間が素手で軍艦に立ち向かうようなものだ。
蚊は一瞬でその六本の足になすすべもなく捕らえられ、そのまま手近な木の枝に叩きつけられた。天敵は発達した顎をギチギチと振動させ、獲物のひしゃげかけた首をかじり取る。
しかし首は捕食者の口内で紅い煙を発して蒸発した。残された胴体からは新たな首が再生する。もう一度掻き切るが同じ事だ。いくら切っても首が生えてくるので、そのうちトンボは諦めて蚊を放して飛んでいった。腹の足しにはならなかったようだ。
解放された蚊はふらふらと湿地帯の水たまりへと向かっていた。水たまりの近くには蚊柱があり、交尾をするチャンスだ。たどり着いて、つがいとなる雌を探そうと上下に飛んでいると、そこに白い防護服を着た人間の男が踏み込んできた。男は背負った紫外線照射装置のスイッチを入れ、丸いフラッシュ・ストロボから死の光線を蚊柱に向けて放射した。逃げ遅れた成虫達は次々と黒い煙を出して蒸発していった。
彼はこの場の成虫をほとんど全滅させた事に満足し、近くにあるだろう水場を探す。辺りを歩き回っていると、草に隠れていた水たまりに足を向こう脛まで突っ込んでしまった。葉っぱの切れ端、蚊の舟型に固まった卵やボウフラどもが浮いている。男は悪態をつきながら足を引っ張りだし、水たまりに紫外線を照射した。ボウフラはびちびちと激しく身体を震わせながら卵と一緒に溶けていった。男は全てが溶けたのを確認して背中から瓶を取り出し、栓を抜いて水たまりに油を撒いた。これならとりあえずは産卵できまい。
「ふう、終わった終わった。油が切れたから今日は終いだ。河童とリグル様々だな」
男は一仕事を終えた顔で人里へと帰っていった。
少し前の、月夜の草むら。吸血蚊事件を受けて、八雲藍は事態の打開に役立ちそうな様々な妖怪たちとの交渉事に当たっていた。
「というわけでリグル・ナイトバグ、貴方の力と知恵を貸してほしい。あの吸血蚊はどうにかならないか?」
リグルは腕を組んでいた。
「確かに私は蛍を筆頭に様々な蟲達を従わせられるよ。でも、吸血蚊……あの子たちに血を吸うなとは言えないわね。それはあの子たちが生きるのと増えるのをやめろと命令するのに等しいもの。私がこの先何千年も生きて大妖怪になったとしても、あの子たちにそんな横暴なことはさせられない。生きることと増えることはそれ自体が虫にとっての目的なのよ」
「そりゃあ私だって貴方に同胞を殺すのに躊躇があるのは分かっている。でもこのままだと幻想郷中の虫の秩序どころか、生態系全部が崩れるのは貴方自身がよく分かってるだろう?」
リグルは押し黙っていたが、しばらく空を見つめた後に話し出した。
「分かったわ、私からもできる限り協力する。ただしそれは止むを得ない場合を除いて、吸血蚊以外を殺さないのが条件よ。もし薬を使ったりして、殺さなくていい虫をいっぱい殺したら、私はその時点で手を引くから」
「オーケー。取り敢えず何かパッと思いつくことはない?」
「トンボやミズスマシは蚊を食べるから彼らを動員してもいいけど、食べても死なないんだったら無駄じゃないかしら。食べる量にも限りがあるし。むしろ吸血蚊を食べる事で不老不死が散らばる事の方が心配ね」
「その心配は無用だ。不老不死が広がるのは吸血蚊の子供だけ。蚊を食べた虫は太陽光を当てても平気で、寿命でそのまま自然死したことが竹林の医者の調査で分かっている」
「なるほど、それなら安心。とりあえず、食べても死なない蚊がいたら連絡するようにトンボたちに言ってみる。近くに蚊の産卵場所があるかも知れないからね」
「あまり遠くに飛ばないのか?」
「うん。種類によるけど生まれた場所から三十メートルぐらいかな」
「意外と狭いな」
「本気を出せば数キロ飛べるらしいけどね。その蚊が吸血鬼の力を持ってるなら、多分もっと」
「後は……知り合いに狸がいる。今は河童とつるんで何かをやっているから、そいつに会って欲しい」
「狸の知り合い? 狐と狸って仲が悪そうだけど」
「まあそうなんだけど、あいつはアイデアを持ってるからな。利害が一致してるなら、下手に邪魔せず任せたほうが上手くいくかもしれない」
藍と話を終え、リグルは蛍の集合体と化して飛んでいった。一匹一匹が静かに光り、全体として移動プラネタリウムのように見えた。
河童のアジト、工作室。埃っぽいこの部屋の壁には旋盤が並び、様々な工具が箱に詰められて床に置かれている。その中で一番ましな整頓具合の机の上には、網、懐中電灯、小型扇風機、発泡スチロールの箱などがマミゾウによく見えるように並べられていた。
「試作品が出来たよ。あんたの指定通り『安価で』『効果が高く』『人間にも簡単に作れる』ものだ」にとりが言った。
「よし、説明してくれ」マミゾウが言った。にとりは試作品を一つ一つ手にとってデモンストレーションを始めた。
「まず、蚊帳。網で出来たテントを張って寝てる間に刺されなくする。何の変哲も無いものだけど、いちおう吸血蚊を寄せ付けないように魔除けの呪文が施された繊維も編み込んでみたよ」
にとりは部屋の少し広い所で蚊帳を広げてみせ、蚊の通る隙間の無い事をマミゾウに確認させた。
「うむうむ、基本じゃな」
「次に網戸作成キット。網と枠と工具のセットだ。大まかなサイズの差はあるけど、窓と扉の両対応。網には例によって吸血蚊避け繊維を編み込んだ」
にとりは袋の中から材料を取り出し、マミゾウに渡して作らせた。壁に取り付けてあるモデルの窓枠の採寸、それを元にした材料のサイズ合わせと組み立て、最後に窓枠への取り付け。説明書の図を頼りに全てがスムーズに行われた。
「おお、本当に簡単じゃのう」
「説明書通りにやれば誰でも自分の家に合わせて網戸を作れる。文字が読めない人のために図案も豊富だ。簡単だってことをアピールするならこれぐらいはやらないとね」
「網戸もろくに張れていない家も地域によってはまだまだあるからのう。こちらの懐中電灯みたいなものは?」
「ブラックライト。紫外線を出して殺虫スプレー代わりに使える。どこに当ててるのか分からないと困るから、紫色の光も混ぜてあるけどね」
にとりはリュックから吸血蚊が一匹入った試験管を取り出し、電灯のスイッチを入れた。紫の光線を当てられた蚊は管の中で一瞬の内に蒸発した。
「繁殖地を『片付ける』広拡散用とか色んなタイプを作るつもりだけど、一番量産することになるのはこのタイプだね」
「お見事。次で最後じゃな?」
にとりは壁に取り付けられている白い箱を指差した。その下にはファンが設置され、その更に下に白い網がぶら下がっている。にとりがリモコンのスイッチを入れると、モーターが静かに音を立てて回り出した。箱からは白い煙が吐き出されていく。
「蚊の捕獲トラップ、リグル監修だ。蚊は動物の吐く二酸化炭素に引き寄せられる習性があるから、この箱の中に入ってるドライアイスで引きつける。その後このファンで吸い込む。吸い込んだ先のこの網の袋にはブラックライトが仕掛けられてるから、吸血蚊だけを効率的に殺せる。ドライアイスはビールとか他の製品を作る時に発生した二酸化炭素を再利用して作られるから、環境への負担は無い。後はスピーカーを使って雄の蚊の羽音を出し、交尾直前の雌の蚊を惹きつけるという手もある。これならドライアイスを補充しなくても電気が続く限り使えるよ」
「蚊の分布調査にも使えそうだな。上出来じゃ。さすが河童、素晴らしいのう」
「たいしたテクノロジーは使ってないけど、誰にでも使えるしとっても安い。シンプルな脳みそを持った奴にはシンプルな対策がいいね。でさあ、『安い』と『効果が高い』は分かる。人間に買わせるわけだからね。でも人間に作らせる意味が分からないんだけど。全部河童持ちじゃあ駄目なの?」
「うむ、それにはちゃんと理由がある。工場を作ったら、おぬしらは技術者として人間たちを監督するんじゃ。それはこれこれこういう訳でな……」
「……なる程、それは見込みがあるかもしれないが、そんなに上手くいくかな?」
「人間の力を舐めん方がいいぞい。千年以上連中と付き合ってきた儂が言うんだから間違いない。恥ずかしながら一度逆に一杯食わされた事もある」
「へえ、あんたがねえ。じゃあ求人の方は頼むよ。私達めんどくさいの嫌いだし」
「うむ」
鬱蒼と植物の生い茂る、魔法の森の霧雨魔法店。散らかり放題の書斎の中で、魔理沙は革張りの研究ノートに今日の成果をまとめていた。やがて煮詰まってくると、魔理沙はノートに顔を伏せた後に大きく伸びをした。気分転換の時間だ。
「さあ、後片付けといくか」
魔理沙はノートを閉じて羽ペンとインクを片づけ、机の端に置いておいた木の箱から小さなアンプルを取り出し、その口をちぎった。中に入っていた、海水をたたえる洞窟のように輝く深青色の液体を飲み干す。強烈なミントの香りに魔理沙は顔をしかめた。爽快なのは確かだがどうにも慣れない。次に木箱から親指サイズの試験管を三つ取り出し、蓋を空けて口を左の二の腕に押し付けた。中の蚊が刺した三箇所から青白い斑点が広がり、金色の瞳が草葉についた朝露の煌めくような緑色に変わっていく。一分も立たない内に小さな羽が服の背中を突っ張らせ、口の端からは可愛らしい牙が覗いていた。
「これで十五分だ。痒い」
魔理沙は蚊を再び試験官に閉じ込め、椅子から立ち上がって部屋の真ん中に移動した。目を伏せて、十秒掛けてゆっくりと深く息を吸い込む。
「それっ!」
魔理沙の身体が四十五匹の黒い蝙蝠に変化し四散する。蝙蝠はきーきーと鳴き声を上げながら部屋中を飛び回り、鉤爪を本・アイテム・その他衣類に食い込ませて部屋の整理を始めた。仕舞い忘れたハンカチ・片方だけの白靴下・汗の染み付いたパジャマは洗濯かごに放り込まれ、『イースター島のひみつ』『環境アセスメント』『ウォーターシップ・ダウンのうさぎたち』『一九八四年』『誰でも使える! 光の魔法入門上級編』といった本が次々に本棚に収納されていく。使い終わったアンプル、新聞や薬包紙はゴミ箱に叩き込まれる。蝙蝠の一匹が赤銅色でこぶし大の金属箱を掴むと、紅い閃光とともに電流が流れた。
「あつっ!」どどめ色の煙を上げて、蝙蝠が一匹蒸発した。
「うっかりしてたぜ、あれは取り扱い注意に格上げだな」
あっという間だった。要らないものを捨てるだけで一週間はかかりそうな部屋だ。魔理沙の甘い見積もりにより十五分でカタをつけるはずが、七分で全てが整っていた。途中二、三匹がマジックアイテムにしかけられていた罠の犠牲になったものの、全体からすれば誤差の範囲だった。掃除の終息を見届けて、蝙蝠たちは部屋の真ん中で人の姿に収束した。再び現れた魔理沙は首を振って辺りを見回し、机の上に残る深青色のアンプルを見てニヤリと笑った。全てが目算通りだ。
「血が欲しくて暴れるんだから、要は食欲とか衝動を抑える薬を作ればいいんだ。全然難しいことじゃない」
魔理沙は床に残っていたブラックライトを拾い上げ、机の方に歩いて行った。試験管の一本一本に死の光線を当て、先ほど血を吸った蚊の三匹全てに止めを刺した。試験官の中には黒い煙と魔理沙の血液だけが残った。魔理沙は満足そうに二の腕に痒み止めを塗った。
「血を吸われると増えるのが困るんだから、吸血鬼の力だけ頂いて血は与えなければいい。いくら不老不死っつったって血がなければ卵は産めないんだからな。この調子でタダ乗りしてやるぜ」
魔理沙は書斎を出て、薄暗い実験室へと移動した。奥の炉の中の鍋は魔理沙が二人は軽く入れるほど大きく、深青色の液体の中には星屑が渦巻いている。先ほどアンプルに入っていたものと同じものだ。
「人体実験、大成功。明日からさっそく売り込みに行くとするか」
魔理沙は実験机の下からアンプルのセットが詰められた箱を取り出し、抑制薬を詰める準備を始めた。瞳の色は金色に戻っていた。
夕方の人里。大通りの端には全身を覆う薄い外套を被った男たちが集まり、頭を覆うフードの奥からは煌めく緑の双眸が覗いていた。現場には何俵もの土砂が荷台に乗って軽々と運ばれ、それを男たちがスコップで溝に次々と放り込む。傍から見ていると少し異様な速さだった。
「そろそろ時間切れだ。頼むよ」作務衣の青年が言った。
「おう。こっちに来い」強面の洋装の青年が言った。外套の下はジーンズに白いポロシャツという、およそ幻想郷には似つかわしくない格好である。強面の青年は青いアンプルを作務衣の青年に渡し、飲み干すのを見届けてから蚊の入った試験官を四本渡した。
男たちは蚊が卵を生むであろう水場を潰す工事に従事していた。他にも吸血鬼が壊した壁や設備の補修、防火用水はしっかりと蓋をされ、破れた窓は修理され、ゴミ捨て場にはトラップが設置された。
日がすっかり沈み、蚊取り線香の匂いが里中に立ち込め始める。男たちが休憩をとっている側を、人間体のマミゾウが通りがかった。
「工事は順調かね?」
「ええ、おかげさまで。そうそう、女の子が一人、貴方を探してましたよ」作務衣の青年が応えた。
「何?」
「急いだほうがいいと思いますよー」
「よし、ありがとう!」
マミゾウは鈴奈庵に向かって大通りを全速力で駆けだした。角を二つほど曲がり、途中で大きな池を通り過ぎた。更に角を二つ曲がると向こうの角から人の影が現れ、マミゾウに向かって抱きついてくる。マミゾウは抱き返した。左右に纏め上げた髪についた飾りからは鈴の音が聞こえる。
「小鈴、出られるようになったのか!」
「ええ、本当にありがとうございました!」
マミゾウは小鈴の両親から夕食に誘われ、本居家のディナーを楽しんだ。幻想郷では珍しい海魚などの海鮮料理がマミゾウの腹を満たした。
「すまんのう。予定も入れておらんかったのにこんなにご馳走になって」
「いえいえ、小鈴が表に出てこれるようになったのは貴方のお陰です。どうぞごゆっくり」小鈴の父親は痩せ型の紳士然とした人物で、マミゾウに好印象を与えた。
いくらかの人間は吸血鬼化してもなんとか吸血衝動を抑えることに成功し、そういう人間から順繰りに自由の身になっていった。魔理沙の抑制薬が大いに助けになったのもあったが、そもそも一度でも発症したことのある人間が多すぎて人里にはもう牢を作るためのスペースが残されていなかったのである。彼らは今までの汚名返上とばかりに吸血鬼の力を利用し、吸血鬼化した五分間に幻想郷中を全速力で駆け抜けたり怪力で資材を運ぶなどして土木工事を手伝った。ときおり吸血病を発症した者に出くわすこともあったが、霊夢達を呼ぶまでもなく里人が吸血鬼化して取り押さえた。結果として里の生産性は何倍にも増し、まさに百人力である。蚊の対策を兼ねた再開発は通常では考えられないスピードで進んでいった。
人里の近郊、紡績工場。ここでは現在蚊帳を製造していた。
かったり、こっとり、かったり、ことり。工場の隅から隅まで力織機がずらりと並ぶ。妖怪の山から引かれた核融合エネルギーを頼りに男巻きが回転し、機織り機の中に魔除けを含んだ糸を送り込んだ。綜絖によって上下へ交互に分けられた縦糸が筬を通って伸び、その間に糸を巻かれたシャットルが割り込んで横糸が差し込まれる。それが上下した綜絖によって縦糸に挟まれ、編み上がった布が女巻に巻き込まれていく。
出来上がった布がテーブルの上に次々と送り込まれ、それを横断するレールの上を滑るカッターが斬っていった。布を蚊帳に使うのに適切な大きさに切る工程に従事している人間たちの中に、いつかの水瓶を永琳に渡した痩せぎすの中年女性がいた。彼女は夫に先立たれて以来定職に就くことが出来ないでいた。この度の求人は収入が少ない未亡人にとっては願ってもないものだ。
「今日も一日お疲れ様! これで線香でも買ってください」
仕事を終えた水瓶の未亡人は一週間分の給金の詰まった封筒を工場監督の河童から渡され、その足で人里の薬屋へと足を運んだ。
「いらっしゃいませ」
店頭には入荷したばかりの蚊対策グッズが並んでいた。河童印の蚊取り線香、魔理沙の抑制薬アンプル、ブラックライトなどなど。水瓶の未亡人は網戸セットを二つと蚊帳を購入した。ボロくなった我が家にはちょうどいい。薬屋の主人は七三分けの頭を恭しく下げ、未亡人を見送った。
「どうかね、調子は」人間体のマミゾウが薬屋に顔を出した。
「ああ、どうも。親分が売れ筋の商品を回してくれるんで潤ってます。助かりまさあ」
にとりが横から顔を出した。
「すごい、土木工事してた奴らが蚊帳を、蚊帳を作ってた奴らが蚊取り線香を買ってくよ!」
「な? 蚊帳や網戸、蚊取り線香の顧客は大部分が破れた家に住んでいる貧しき人間じゃ。せっかく商品を作っても、そういった者たちが買えなければ意味がない。蚊帳を買うにも給金がいる。食い詰めた者に仕事を世話してやる、これが商売の王道じゃよ」
妖怪の山の玄武の沢。マミゾウとにとりが河童のアジトに戻ろうとすると、空から降りた射命丸文が立ちふさがった。訝しげにマミゾウを睨めつけている。
「な、何ですか天狗様、こんなところに如何なる用事があっていらっしゃいまして?」にとりは顔をひきつらせた。
「落ち着きなさい。最近河童を使って何かやってる狸というのは、貴方かしら?」
「おお、可愛いお嬢ちゃんじゃのー。儂にはもうこんな短いスカートは履けんから羨ましいわい」
「ああ! マミゾウが孫を見るおばあちゃんのような目つきに!」
「だれがおばあちゃんじゃ」
「ちょっ、ちょ、話を逸らさないで」
「すまんすまん。で、いかにも儂が化け狸じゃが、何か問題でも?」
「え、えっと、単刀直入に言うと、勝手にウチの技術者を別勢力に引き抜かれちゃ困るのよ!」
「なるほどなるほど、河童だけでなく天狗にも一枚噛ませろというわけじゃな?」
「いや、そういうわけじゃ」
「遠慮せんでよい。一大事業じゃ、巻き込む頭数は大きければ大きいほどよい。ところでお嬢ちゃん、新聞大会が近いそうじゃな?」
「ええ、だから何かしら? あとお嬢ちゃん呼ばわりはやめなさい」
「そこでじゃ、人間からたっぷりと購読数を稼げる素晴らしい儲け話があるんじゃが……」
「……話ぐらいは聞いておきましょうか」
マミゾウは事業の意図、文が協力できること、それが新聞の質の向上にどれだけ役立つのか、どれ位利益が得られるのかを簡単に説明した。
「どうじゃ? 良い話じゃろ?」マミゾウは笑った。
「なるほど、悪くはないですねえ」文もニヤリと笑った。
「じゃあ、天狗様も参加するつもりで?」
「ええ、ここは一つ、抜け駆けさせてもらいましょう」
「良かったあ。今の仕事から降ろされたらどうしようかと思ってましたから」
「よっぽど儲かるんですねえ」
「うぐ」
守矢神社。早苗が河童の蚊取り線香を買ってきた夜、蛙神・諏訪子は本殿の床で伸びていた。
「うふふ……神奈子、あそこにでっかいお星様が見えるよぉ……早苗のグレイソーマタージみたいで綺麗、素敵……」
「諏訪子ォォオオ! しっかりおし! 貴方が死んだら私生きていけない!」神奈子は諏訪子を抱いて半狂乱だった。
「でも神奈子の方が綺麗だよ……」
「嬉しいけどそういう場合じゃない!」
「そういえば、蚊取り線香って両生類にも神経毒性がありましたねー」
早苗は理系知識を披露する程度には冷静だった。
「あ、あと爬虫類にも」
「ゴデュファ!」蛇神・神奈子も吐血した。
「今更!?」諏訪子は飛び起きた。
「お母さんもお父さんも蚊取り線香を買って来なかったわけが分かりましたよ」
二柱にひとしきり怒られた後、早苗は蚊取り線香の燃え残りをゴミ捨場に捨てに行った。残りは誰かに配ろう。戻ってくる時に玄関のポストに入っていた文々。新聞の夕刊を取って広げた。一面の下の段には河童の蚊取り線香とブラックライトの広告が載っている。生活欄に載っている巷で噂の吸血蚊の記事を一瞥した。最近の文々。新聞は吸血蚊事件について詳細で正確な解説と対策を載せていると人里で好評だったので、早苗も読んでみたくなったのだ。そこには目を引く一行があった。
「あれっ? これは!」
その一行は彼女の知識と化学反応を起こした。早苗は閃きを胸に慌てて二柱のところに戻った。
「なんだい、早苗。蚊取り線香はもうたくさんだよ? 危うくオールウェイズ永眠するところだったんだから」諏訪子が言った。
「いやいや。実は……」早苗は今しがた思いついたアイデアを二柱にひと通り説明した。
「……なるほど。それなら一挙に片付くかもしれないわ。でもそれは使うタイミングを相当慎重に選ばないといけないんじゃないのかしら?」神奈子が言った。
「ええ、確かにリスクはあります。しかし蚊がねずみ算式に増える以上、突くならここしかないかと」
「よし分かった。早速手配しましょう。多分皆乗ってくれると思う」
「早苗良くやった! 流石理系! 流石私と神奈子の子孫!」
「蚊取り線香を買ってきたことは無しにしてあげるわ。これは妖怪退治であると同時に我々の力をアピールするチャンス。今度何でも好きなものを買ってあげる」
「えへへ。ありがとうございます」
昼の人里。慧音とマミゾウは大通り沿いのカフェーのテーブルテラスで簡単な食事を取っていた。日光はパラソルが遮り、周りに植えられている観葉植物のおかげで夏の屋外でもそれなりに居心地は良い。肉の入ったクラブハウス・サンドイッチ片手にマミゾウが外に目をやると、大通りの中心には何やら人だかりができていた。
「しんぶーん! しんぶーん!」だいぶ人間たちに売れているらしい。中心から首の覗いた射命丸文と目が合うと、文は新聞を一部マミゾウめがけて投げつけてきた。
「それっ!」
少し狙いが外れ、慧音が頭上に手を伸ばして受け取った。広げると『進む吸血蚊対策』『化け狸が主導』『ここ一週間の吸血事件の解説は三面参照』などと書いてある。
「なんだ、提灯記事じゃないか」
「本当は口コミだけで回るのが一番なんじゃが、ある程度は宣伝にも金を掛けんとな」
「うむ、人里での吸血事件の発生数も減ってきた。完全ではないが、人里に蚊を近づけさせなければ幻想郷全体から蚊を追放できる日も近いだろう」
「ほっほっほ。妖怪よ、人間よ、幻想郷に金をぐるぐる回すのじゃ。直に最も貧しい家庭でさえも網戸を取り付け、蚊帳と蚊取り線香を準備できるようになるじゃろう」
「ああ、経済を循環させ、富を生むサイクルが貧困を退け、公衆衛生を改善するのは歴史が証明している。これは上手くいくかもしれないぞ」慧音はサンドイッチをもう一つ取って齧った。肉の旨味と脂が野菜とパンの繊維と混ざる。コーヒーをもう一杯注文することにした。
一方の紅魔館。いつもの読書部屋でレミリアはソファーの上でゴロゴロしていた。咲夜はその横に座ってレミリアの顎を撫でており、パチュリーは小悪魔と本を探しに行っている。
「ヒマねえ。あの医者には私達からも協力するとは言ったけど、何にもやることがない」
「私達が何もしなくても蚊を駆逐できそうな勢いですものね」咲夜はレミリアの髪を掻き分けて耳をくすぐった。
「いくら私達が強大な力を持ってても、何万匹もいる蚊を相手にしたら地味ーな努力を重ねるしかないのかしら」レミリアは甘え声を出し、顔を反対側に倒して咲夜の方に寄った。羽は器用に折りたたまれている。
「いつもの異変でしたら霊夢か魔理沙あたりが首謀者を成敗して終いなのでしょうけど、今回は頭というものが存在しません。蚊の一つ一つはとても弱い。懐中電灯をかざしたら終いですもの。しかしこう幻想郷中に散らばっていては、個人に解決できるとは……」
「ていうか、吸血鬼多すぎ! 人間が吸血鬼の力を畏れるべき者というより利用するモノとみなし始めた! おかげで吸血鬼の希少価値が大幅デフレーションワールドよ。舐めてるわね。このまま潰れてくれればありがたいんだけど」
「どこからやってきたんでしょうねえ、あの蚊。まさか故意に作り出されたって事はないでしょうけど」
「うぐ」
「いかがなさいました?」
「い、いやなんでもないわ。ホントいい迷惑よね!」偶然にせよ、レミリアの血から作られたということを咲夜には知られたくない。
「そう……ですね」
その時偶然にもノックの音が聞こえた。レミリアが答えると、扉からメイドが入ってきた。
「あ、あの、来客です」
「どこのどいつよ」
「河童です」
夜の魔法の森、霧雨魔法店の玄関。
「ただいま!」魔理沙はぱんぱんに詰まった革の袋を引きずり、応えるもののない挨拶をした。声の調子は上機嫌で明らかに酔っている。手洗いうがいをしてそのまま書斎に向かい、机の上で革袋を逆さまにした。机上に紙幣が擦れる音を立てて散らばる。魔理沙は肘掛け椅子に座り、ランプに火を付けて紙幣の枚数を数えだした。
「くっくっく、笑いが止まらん。これだけ利益が出れば向こう一年間は暮らしていける。額を知ったら親父は目を剥いて驚くだろうな。だがもう遅い、ざまあ見さらせ。あのまま道具屋の娘をやってるよりいい暮らしをしてやるぜ」
札束を纏めていく内に魔理沙の胃袋の中で里の料亭で食べてきた懐石料理の消化が進んだ。すると次第に酔いが冷め、興奮が静まってきた。
「まあ、でも一生抑制薬だけ売っては暮らせないな。その前に吸血蚊事件自体が解決しちまうだろうし。ダイエット薬に転用するのがいいかもな。ひと通り贅沢したら次の儲けのネタでも考えるとするか。賽銭箱に札束をぶち込んで霊夢をビビらせるのもいいし、ツケを一括返済して香霖の反応を見てやるのもいいな」
まとめ終わった札束を魔法罠付きの金庫に放り込もうとすると、魔理沙の後ろから蚊が一匹飛んできた。
「ああ、今はお前は要らん。ちょっと大人しくしててくれよ」
魔理沙が両の手のひらで蚊を潰そうとすると、どういうわけだか手のほうが勝手に蚊を避けていった。二、三回繰り返しても同じ事だった。魔理沙は運動神経は悪い方ではなく、こんな事はどうにも不可解である。いつもは酔っていても百発百中なのだが。ブラックライトは見当たらない。
「しょうがないなあ。こっちに頼るか」
魔理沙は再び机の前に移動した。マッチを擦って火を着け、蚊取り線香に移そうとすると、突然手がガクガクと震えだした。どうにもならずマッチを床に取り落とす。
「あぶねっ!」
魔理沙は他に燃え移る前にマッチをブーツで踏んで消火した。フローリングの焼け焦げた痕が一つ増えた。燃え殻を拾い上げ、水の入った瓶に捨てる。
「疲れてるのか? 興奮し過ぎたかな、こんな時はさっさと寝るに限るぜ」
魔理沙は蚊を布で優しく包んで、窓の外に追い出してやった。今度こそ上手くいった。魔理沙は風呂の準備を始めた。家のすぐそばの花壇にはカンナの花が真っ赤に咲いていた。
§4.ダブルシンカーズ
戸口の裏に二千匹もの蚊が張り付いているのに気づいた時、ナズーリンの修羅場は始まった。
「ヒッ」
扉の蚊たちが掘っ建て小屋の中で舞い出す。彼女は窓を破り、着のみ着のままで外へ走りだした。幸いロッドは持っている。
どこか安全な場所はないかと探し回ると、あの紫の桜が美しかった夜の無縁塚が見渡す限り蚊。蚊。蚊である。少女の吐いた息を嗅ぎつけて、蚊の嵐が迫ってきた。彼女は足を露出する服装をしていたことを後悔した。幸い上着は長袖だったので、そこは刺されにくいはずだ。太ももに止まった蚊を一匹叩き潰した。吸血蚊は一回休みだ。再び走りだす。
「昨日までここに蚊なんて居なかったのに!」
彼女は無縁塚に住んでいる限り、近頃世間を騒がせている吸血騒ぎとは無縁でいられると思っていた。こんなところに来る人間はほとんど居ないので、蚊にとって餌となるヒトの血が得られないからだ。マミゾウが吸血蚊対策で金儲けをしていることを命蓮寺の皆は知っていた。それに協力するべきと、ぬえが寺に触れ回っていたからだ。しかし、蚊を殺すのは即ち殺生では? 金儲けの事業に与したところで我々に何ができる? そういった意見が寺全体として協力することを妨げていた。ぬえの行動は裏目に出やすいが、それが全体の意見の趨勢に影響したかは分からない。
首に止まった二匹を潰す。息が上がって口で呼吸すると何匹か入り込んできた。それらをぺっと吐きながら悪態をつく。
「そうだ! 子ネズミ達は!?」
無縁塚にも僅かながらネズミがいる。逃げるなら彼らを連れていこう。そう思って歩みを止めると何かを踏んだ。足をどけると鼠の死骸が転がっていた。全身が腫れ上がっている。二百匹の蚊が哀れなネズミの血の全てを抜き取ったのだ。
「うっぷ」吐き気を催したがなんとか堪える。
「ごめんよ!」半泣きで死骸を置き去りにした。もう手遅れだ。また三匹ふくらはぎに止まり、叩き潰す。キリがない。気づくと既に五つほど虫刺されができていた。嫌だ、あの子と同じ運命は辿りたくない。私には帰りを待つご主人様とまだ見つけてない財宝があるんだ。
「何でこんなに飛んでくるんだよっ!」
口を抑えて全速力で走る内に、一つのアイディアが閃いた。
「そうだ! 飛ぼう!」斜め四五度に飛び出した。目算は当たった。蚊の高度限界は一五メートルほどであり、上空になればなるほど蚊の密度が薄くなる。しかしそれでも数えきれないほどの蚊がしつこく付いてきた。吸血鬼の力だろうか。ペンデュラムをぶん回して追い払う。だがまた囲まれるのは時間の問題だ。
もう一つアイディアを閃き、ダウジングロッドを構える。ロッドは即座に反応し、安全地帯を指し示した。彼女はそこに飛び込んだ。皮膚に止まった吸血蚊が次々と剥がれ落ちていく。
「ふう、一時はどうなることかと思ったよ」彼女は地下水脈、つまり地面の下の水の流れを探し当てた。そこの上空は吸血蚊の入ってこれない聖域だった。彼女はいつもの不敵な笑みを取り戻しつつあった。通常の蚊が登れない高度を保ちつつ、この地下水脈を辿っていけば安全に無縁塚を脱出できるに違いない。私は力は弱いが、最後には智慧と賢明さが勝利するのだ。
「か、痒いっ!」安心した途端に意識の表層に痒みが上ってきた。患部を激しくこすり、摩擦熱で血流を増やす。痒みは消えたが、直後にだるさが襲ってきた。吸血蚊の唾液のアレルギー反応だろうか。うんざりしたが、身体を引きずってどこかゆっくり休める所を目指すことにした。小屋はもう蚊で充満してるだろうし、この熱で朝までずっと引きこもってる訳にもいかない。第一候補はあそこだろう。死んでいったネズミたちの事を考えると気が重かった。
命蓮寺で出迎えたのは星だった。ナズーリンは星の腰に抱きついた。
「おお、よしよし。泣かないの」星はナズーリンの頭を撫でた。
「ご主人様、泊めてくれ」
「いつも寺は窮屈だと言ってろくに来ないのに、どういう風の吹きまわしです?」
「このままだと例の蚊に殺される。あの小屋はもう駄目だよ。もう妖怪も外でぶらぶら出来る状況じゃないんだ」
看病が始まった。星は事情を聞き、べそをかくナズーリンを慰めた。命蓮寺が吸血蚊の排除に傾いた瞬間だった。とうとう吸血蚊は妖怪の生活を脅かすまでに至ったのである。
「しかしどうして、人間しか襲わなかった蚊が動物や妖怪も刺し始めたのでしょうか?」星は床に伏せる少女の額に氷嚢を載せた。
「きっと人間が蚊を対策したからだ。蚊が吸う血が無くなって、追い詰められて妖怪にも手を出し始めたんだよ。妖怪は刺されても吸血鬼化はしないようだけど、凄く身体がだるくて辛いよ。まったくいい迷惑だ」
「しかし彼らにも、自分の身を守る権利があります」
「それはそうなんだけどさ、刺された私の事も考えておくれよ」
「すみませんね、これで許してください」星は氷嚢をどけて額にキスをした。
「全くもう、熱が上がっちゃうじゃないか」顔を背け、頬の血流が増えるのを誤魔化した。
人間を避け、家畜から血を得ていた蚊が、家畜が自動車やトラックで置き換えられたために食い詰めて人間を襲うようになった例は歴史上存在する。今幻想郷ではちょうどその逆のことが起こっていた。
竹林はさらなる修羅場だった。何しろ一日中光が差さないし、上空に飛んで逃げることも出来ない。ここも蚊の天下だ。
今泉影狼も半泣きだった。影狼はどうしていいのか分からず、蒸す竹林をどこに行くともなく闇雲に走っていた。草の根妖怪ネットワークは、吸血蚊に関してはノーマークだったのである。何しろ吸血蚊は人間しか刺さないのが通説だった。長袖とロングスカートのおかげで蚊には刺されにくかったが、顔は無防備だしとても走りにくい。ただでさえ暑い服装に、草の蒸す匂いが加わってますます暑苦しさを増した。うっかりして蚊柱の一つに突っ込む。
「キャッ」影狼は頬に止まった蚊をぺちぺちと叩いて五匹ほど潰した。
汗をだらだらと流しながらふと横を見ると、いつの間にかめらめらと燃える炎の鳥が並走していた。影狼は口をあんぐりと開けた。暑いのはこいつのせいか。
「入る? ここなら蚊は入ってこれないわよ」炎の中から声がした。
「お、お願いします!」影狼は自棄になって答えた。もう何があっても驚かない。首筋の蚊を二匹潰した。
「じゃあよろしくね」
「パゼストバイフェニックス」
影狼の身体を炎が優しく包み込んだ。不思議と熱くはない。もう汗水垂らして走る必要はなく、不死鳥が体を運んでくれている。炎の中からは赤い袴を穿いた、銀髪にリボンの少女が現れた。影狼を値踏みするように妖しく笑っている。
「私の名前は藤原妹紅、人間よ。時々すれ違った事ぐらいはあるんじゃないかしら? 何しろ数百年はこの竹林で暮らしているからね」
そう言われてみると、影狼にも目の前の女の子に見覚えがある気がした。彼女は竹林に棲む死を捨てた人間の噂を思い出した。
「あ、私は今泉影狼、狼女です。助けてくれてありがとう。でも人間の貴方が何で私を?」
「雇われたの。とりあえず川に向かうわよ。あそこの上に行けば蚊は入ってこれないから。みんなそこに避難してる。ところで汗、凄いわね。ぐっしょぐしょじゃない」
「臭わないか心配だわー。ただでさえ獣なのに」
「自分でそれを言うの? 今のところ大丈夫よ。でもその暑そうな服は替えた方がいいわね」
「脱いでもまだ毛皮があるの」
不死鳥がばさりと羽ばたき、目的地に向かって加速した。
竹林の入口を流れる、一本の川。てゐ、ミスティア、ルーミア始め、外を活動場所とする妖怪、妖精達が川の上に避難している。
「鈴仙が迎えに来るのを待ってるの。あいつなら波長か何かで蚊も除けられるかな」
「でも超音波って蚊には効かないよ。私もそれで歌ってみたんだけど無駄だったわ。あいつら視覚を潰しても嗅覚使ってくるし」
「真っ暗にしても刺されるのー」 ルーミアはいつにも増してぼやーっとしていた。吸血蚊のもたらす熱病だ。
火の鳥が向かって来るのを見つけて、妖精たちが騒ぎ出した。
「あ、狼女!」チルノが言った。
「妹紅さん!」サニーミルクが言った。ルナもサフィーも無事だ。
妹紅が言った。
「お前たち、永遠亭で治療を終えたら取り敢えず冥界に行く? あそこには知り合いがいないわけじゃないし、今難民が住めるか交渉中みたい」
「やっとここから抜け出せるの?」
「やったー!」
妖怪の子供たちは歓声をあげた。確かにあの亡霊嬢は恐ろしいが、まさかホントに命までは取られないだろう。それよりもこれ以上の虫刺されはまっぴらだった。まして熱病になるとなっては。
夜の冥界、白玉楼の縁側。
「というわけで、身寄りのない妖怪や妖精たちに住む場所を提供してやって欲しいのです」藍が幽々子に言った。
「紫の頼みなら喜んで。だけど妖夢、出来るかしら? ここに生きたものをいっぱい泊めるのは前例がないからちょっと心配だわ」
「幽々子様が前例を気にするなんて。無茶振りはいつものことでしょう」
「あら言うわね」
「妖怪の生活に必要な物資を提供してくださるのなら、場所は貸せると思います。ここは無駄に広いし、労働力は幽霊がたくさんいますので、彼らを訓練する時間があれば何とかなるかなと。まあ、妖怪同士がトラブルになる心配はありますけどね」
「もちろん物資は送る、ありがとう」
「橙は大丈夫なの?」
「ウチで預かっています。流石に今は放し飼いという訳にはいきません」
「よかったわ~。あの子が熱を出したら大変そうだもの」
「ところで、やはりここまでは蚊はやってこれないのか」
「ええ、蚊には空気が薄すぎるようです。すでにプリズムリバーが避難して来ていて、幽々子様は彼女らの演奏を独占してます」
「羨ましい限りだ。妖怪達が押しかけて高山病にならないか心配だな」
「きっと徐々に慣れるわ」
言ってるそばから、妖夢の近くに蚊が一匹飛んできた。妖夢が切断し、藍がブラックライトを放射してとどめを刺した。
「私の身体の影に隠れてたか! すまない、気づかなかった」
「危なかったわね」
「これから来る妖怪たちが冥界に蚊を持ち込まないように検査しなければなりませんね」
「防疫用の資材も用意しよう。人間が国際空港で使っている奴だ」
「幽霊達が使い方を理解できるかしら」
「理解させるのはやっぱり私の役割ですよね」
「もちろん」
「はあ」
永遠亭。病室のベッドは妖怪達でひしめいている。
「さあ、刺された所を見せてちょうだい」ルーミアのベッドの上で、ヤマメが言った。ルーミアは焦点の合わない瞳であらぬ方向を見つめているが、かろうじて聞き取れてはいたようだった。
ルーミアが右手首を見せると、ヤマメはそこに口付けした。ルーミアの体内に散らばった蚊の唾液の成分が抜かれていく。ルーミアの目に生気が戻ってきた。
「あ、ありがとう」
「どういたしまして。さあ次よ」ヤマメは隣のベッドの上のナズーリンの治療に掛かった。形式的な挨拶をする時間も惜しい。
(吸血鬼化の方はともかく、熱病なら私にも治せる。でも治す方は一度に一人ずつしか出来ないのよね。ばら撒く方ならあっという間に出来るんだけど)
ヤマメが治すペース以上に、診察室には患者が運ばれてきている。今度の患者は射命丸文だ。
「不覚。私の風なら簡単に追い払えるはずだったのですが、こう不意を突かれると」
「はい、解熱剤飲んで」診察室台に寝そべる文の口に、鈴仙がアンプルを突っ込んだ。兎達に脇を抱えられて、文も病室に運ばれていく。
「どうかしら?」患者の来ない小休止の間に、入れ替わりで病室から戻ってきた永琳が言った。
「熱病なら薬で抑えられるけど、いかんせん患者の絶対数が多すぎます!」
「しかも不味いことに、竹林と永遠亭を結ぶルートが潰されたわ。こっちから出向けば防護服は準備できるから、妖怪の集まる場所に出張所を増やさないと」
「こういう時のために治療に当たる兎を訓練してあります。熱病の治療と解熱剤の投与なら任せられるでしょう」
「人里には既にあるから、妖怪の山、後は冥界に送ろうかしらねえ。あ、また誰か来たわ」
メディスン・メランコリーが風見幽香を連れて入ってきた。幽香の顔色や足取りから察するに、やはり熱病のそれである。介助付きとはいえあの熱で歩けるとは凄い精神力だ。永琳は内心幽香に感心した。
妹紅は病室の入り口で、ベッドで横たわる妖怪の子供達を遠巻きに観察していた。悪夢にうなされる者、口に加えた体温計をぼうっと眺める者、額に乗せられた氷嚢に手を触れて弄くる者。妹紅の脳裏に今までに殺した妖怪達の顔、熱に浮かされ弱ったルーミアの顔、永遠亭に到着した時のミスティアの安堵する顔が浮かんだ。
「あら、浮かない顔しちゃって」診療所の廊下を滑って、永遠亭の主が現れた。
「輝夜」
「貴方にとって妖怪は敵だと思ってたけど、情が移ったの?」
「人を誘拐犯みたいに言わないでよ。さんざん退治してきたってのに今更……」
「ご冗談。心配しなくてもこの子達は私と永琳が責任を持って引き受けるわ。イナバも頑張ってくれてるし」
「うん……治ったら冥界に連れていくから」
「ところで、あの金髪の赤リボンの子可愛いと思わない? 永琳に頼んでもう少しここに置いてもらおうかしら」
「それこそご冗談。あんまりあんたの保護者を困らせないの」
「むしろ配偶者よ」
「あ、そう」
妖怪の山、河童のアジト。
「「池を埋めるぅ!?」」リグルとにとりが叫んだ。
「やっぱり駄目かい?」マミゾウが言った。
「当たり前よ! 池で育つのはボウフラだけじゃないわ。蛍が育つし、他にもアメンボとか数えきれないぐらいの虫がいる」
「それを餌にする魚もね」
「日陰にあるものだけでいいんだがのう。田んぼは日が当たるから吸血蚊は育たんし」
「いったい何でそんな事を?」リグルが言った。
「竹林の騒ぎを聞いとらんのか? これまでは蚊は人間の血しか吸わんかったから、人間の居住区を中心に対策すれば良かったんじゃ。しかし蚊が妖怪も狙うようになってな、これまでの対策だけでは足りんようになった。儂の子分もだいぶやられて寝込んどる」
「そんな……」
「他に対策はないの?」にとりが聞いた。
「そうじゃなあ。1.池の水を抜く。2.池に塩を撒く。3.池に油を撒く。4.池に銅を溶かす。あたりかのう」
「「全部が池に大ダメージじゃねーか!!」」
「とはいっても、水と蚊の繋がりは切っても切れんのじゃよ」
これらはマラリアなどの蚊の媒介する伝染病が発生した地域では一般的な対策である。蚊の幼虫が育つ環境を破壊する事で、人間の居住区には蚊が住めないようになったのだ。
「故郷を追われた妖怪たちは冥界に避難するようじゃ。あまり避難所生活が長引くと問題は避けられんぞ。その前に抜本的な対策を取らねばならん」
マミゾウは応接室のテーブルの上に資料を並べ始めた。三人はソファーの上で身を寄せ合って各々が必要とする情報を探し始めた。
昼の魔法の森。湿地帯と森の境目で、人間の男が立っていた。白い防護服を着て顔まで覆っている。地図を見ながら逡巡している様子だったが、やがて意を決したのか森の中へと踏み入った。男の目に入る光量が格段に減った。ここに昼間も日光が差さない。携帯ランプに火を着けた。
男は普段と全く異なる光景を恐れながらも、同時に気分を浮き立たせていた。虚の多い樹木・紫色の雑草・ぬらぬらと色とりどりに輝く茸。全てが男にとっては非日常だった。男は元来恐れよりも好奇心の勝る質で、この仕事を引き受けたのも里にいては見られない風景を目に焼き付けるためだった。
酔っ払いが指揮する交響曲のような、調子っ外れの鳥の唄を楽しんでいると、自分でも思っていた以上に深くまで入り込んでしまったようだった。地図と合わせると森の外縁から中心まで三分の一程度。目的の池はすぐ近くだ。周りを確認する意味でランプを高く掲げると、道の奥から金髪の少女が歩いてきた。黒い帽子にエプロンドレス、顔の横におさげを一本、上顎からは一対の牙、背中からは蝙蝠の羽を生やし、瞳は金色ではなく、ランプに反射して大業物の刃のようにギラつく緑色をしていた。男はすぐに誰だか認識し、防護服の頭の辺りを脱いだ。
「あ、霧雨のお嬢さんじゃないですか。吸血鬼になってらっしゃるということは、何か力仕事でも?」
「ああ、蝙蝠をたくさん出す術があるだろ? あれは珍しいキノコとかを採集するのに便利なんだ。他にもこれからたっぷりと仕事があるんでな。そっちは?」
「例によって、蚊の繁殖地を潰して回ってるところで。最近あいつらは妖怪の血を吸い出したそうですから、効いてるのは確かです。人間の血にありつけていないんでしょう。これをきっかけにもっと沢山の妖怪が手伝ってくれるようになればいいんですけどねえ」
「私の抑制薬は役に立ってるか?」
「そりゃあもう。人里のみんなはお嬢さんには感謝してますよ。あの、アンプルって言うんですかね、アレがなければあんなに早く再開発も蚊の対策も進まなかったでしょうから」
「そうか、良かった。あれはそう難しい薬じゃあないんだが、量産化までにはけっこう時間を掛けたんでな」
「口当たりもそう悪くないですし。なんで竹林のお医者様が先に作らなかったのか不思議ですわ」
「そうかあ? 私はあのミント味は苦手なんだよなあ、刺激が強すぎて」
「子ども舌ですね」
「うるせえ。ちなみにアンプルは薬じゃなくて容器の名前だぜ。あ、後ろ……」
「え?」
男が後ろを振り向くと、腰のあたりに衝撃が走った。平衡を失った男の体は湿った地面に倒れ、背中を横に酷く打ち、紫外線照射装置の首が取れる。泥汚れが髪に付着し、男は呻いた。さっきまで普通に世間話をしていた少女が自分の身体にのしかかってくるのが見える。
「ぐ、何を」
男が隠し持っていた霊撃札を使う隙もなく、魔理沙の牙が防護服を貫通して男の首筋に突き刺さった。もがくも魔理沙の胴は男の胸に密着し、腕は万力のような力の腕に押さえつけられて動かない。割れたガラスのかけらのような牙を通して、魔理沙の口内に男の液体が伝いだした。男は自由の効く足で魔理沙の腰に踵落しを食らわすが、効いている様子はない。
「あっ、はぁっ……」
頸動脈から急速に血を失い、甘い痺れとともに男の思考が白く染まっていく。魔理沙が全力で抑えている間に男の身体は二、三度痙攣したが、やがてぐったりとして動かなくなった。それを確認すると、魔理沙は身体を起こして男に馬乗りになった。口の端から零れた血液が数滴エプロンドレスの下半身の白い部位に滴り、消えない染みを広げていく。
「ふう、満腹満腹。蚊ほどこっそり近づけないのが難点だが、一発で言う事を聞かせるにはこっちのが優れてるな。取り敢えずあそこに運ぶか。その後で改めてゆっくり支配を進めてけばいい」
(こりゃあ、まずったかな?)男の右足を掴んで引きずりながら、霧雨魔理沙は考える。
(一、二回ならいざ知らず、人為的に蚊に何十回も刺されればどんなリスクがあるかが分からない。永琳が抑制薬を作らなかった理由はこれか。すっかり忘れてたぜ。血を吸われたら血を吸った奴の下僕になる。まさか蚊なんかに使われる立場になるだなんてなあ)
魔理沙は変容していく自我の中で考えた。蚊が人間に対抗する知恵を付けたということは、それを逆に利用することも出来るのではないか。蚊の利益に反する事はできなくなった。その中で自分が出来る事といえば何か。
突然、魔理沙はおぼろげながらある可能性に思い当たった。うまく言葉に出来ないが、霊夢に話したら一蹴されそうな、荒唐無稽で馬鹿馬鹿しい夢想だ。しかし、無限に増える蚊を撲滅するよりは分があるように思える。魔理沙は操られるままに、空想を形にすべく知性の糸を手繰っていった。
「着いたぜ」魔理沙は防護服の男を起こし、腰ぐらいの高さの岩の上に座らせた。
男が目を覚ますと、何も見えなかった。その代わりに方々から耳障りな羽音が聞こえてくる。
「ここは……」
自分の声の残響や肌で感じる湿度、水滴の落ちる気配から、どうやら何かの洞窟の中にいるらしいという事が分かった。咄嗟に口元に手をやると、自分の上顎からは鋭い牙が生えている。さらに目が慣れてくると、暗闇の中に何人か人間の姿が浮かんできた。六人、七人。精神をやすりで削り取るようにブゥーン、ブゥ─────ン。
『光よ』と声がした。魔理沙の呪文だ。魔理沙の手のひらから白い光が放出され、辺り一帯を照らしだした。人影の正体が目に飛び込んできて、防護服の男は引きつった声を漏らした。作務衣の青年、洋装の青年、他にも里で見覚えのある人間が男女合わせて十人ほどもいる。その顎、腕、足首には赤黒い吸血蚊が隙間なく止まっていて、複眼と翅から魔法光が反射している。各々の双眸からは緑色に反射光が迸っていた。奥の方には湖が見える。
「親父は……いないか」魔理沙が辺りを見回して言った。残念そうな響きがしたのは里人たちの気のせいだろうか。
男がふと地面に視線を移すと、足元の水たまりにはボウフラがひしめいており、その運動で水面が波立っていた。
「ひっ」
「不安か? 不安だよなあ。だが直にこの光景に安心するようになる」魔理沙が言った。
「お前もここに来たか。大丈夫か?」洋装の青年が言った。
「おい、どうなっているんだよ」防護服の男が言った。一拍おいて、答えが来た。
「恐らく……我々はこれから人間の、いや幻想郷の裏切り者となる」
吸血鬼に血を吸わせればどうなるか。『吸血鬼に血を奪われた者は吸血鬼の眷属に』。
「何を馬鹿なことを、血を吸った後の蚊は紫外線で処理したはず。抑制薬だってちゃんと効いてるはずだろ」
「これは推測だがな、吸血蚊という種に血を吸わせるという行為そのものが、眷属化の引き金となるのではないかと考えているんだ」
「そんな」言葉に反して、男はどういう訳かさほど衝撃を受けていなかった。眷属化による精神作用が既に始まっているのだろうか。
「あまり時間がない。私以外の皆には里での生活がある。会合が長引くと怪しまれるからな、さっさとやっちまおうぜ」魔理沙が口を挟んだ。
「ああ、計画についてはまた相談しよう」洋装の青年が言った。
「じゃ、始めるぜ。これから皆には、空中飛行術と光の魔法を覚えてもらう。私ぐらい上手く使えるようになるためには相当の年月がかかるだろうが、小さな星とレーザーを出すぐらいなら皆もすぐに出来るようになるだろ。妖精にもできるし。まずはお手本だ」
魔理沙が人の居ない方向に人差し指を向け、両腕で円を作ったぐらいの大星型弾を射出。魔理沙の背丈ほどの石に命中し、白い煙を出して霧散した。
「単純な破壊の力だ、妖怪だろうが人間だろうが平等に効く。相手が魔除けだろうが岩だろうが関係ねえ。これから相手にする者のことを考えたらちょうどいいとは思わないか?」
「霧雨のお嬢さん、強くなったなあ」作務衣の青年が言った。何をのんきなことを、防護服の男は思った。
訓練が始まった。一番弾を出すのが早かったのはグループの中で一番目立たない、ショートカットに眼鏡の女性だった。女性が指を上にかざすと、黄色の曲線が湖の側の膝ぐらいの高さの石を目掛けて飛んでいった。しかし当たる寸前で下に落ち、地面をえぐって小石をまき散らした。
「ちょっと思っていたのと違ったんですけどね。何か狙った方向に飛ばないし」
「いや、始めたばかりでへにょりレーザーを出せるなんて凄い才能だぜ。光の魔法に拘らず、この方向で伸ばすべきじゃないか?」
「へにょり? え、あ、はい。ありがとうございます」
「自分で表現できるものがあるのならそれに越したことはない。趣味で何か音楽でもやってるのか?」
「いえ、読書ぐらいのもので。母は琴をやっておりましたが」
「うーむ……変なことを聞くが、家の宗教は?」
「代々仏教、毘沙門天を信仰しております。最近はご本尊の方からこの地にいらっしゃったのでありがたい限りで」
「ああ、うん。何となく分かった」
「?」
その他の里人たちは思い思いの弾を出していったが、防護服の男は最後まで手こずっていた。
「駄目です、上手くいきません」
「どれ、見せてくれ」
男が手を前に付きだすと、手のひらからうっすらと光の玉が浮かんだのが見えた。しかし一秒もしない内に光は火花のように散ってしまった。
「星が足りないな」
「はあ?」
「星だ。星の力を借りるんだ。私はずーっと、自分が死を捨てた時の事を見据えて魔法をやってたんだ。種族魔法使いになる前と後で使う魔法が違ったら、人間の時の分の試行錯誤が無駄だろ?いつでも使える、誰でも使える……月が砕け、火が消え、水が乾き、木が枯れ、金が錆び、土が汚れ、太陽が燃え尽きても、夜空から星が消える事は永遠にない。この世から光が消える事は絶対にない。星空は永遠だ。紙袋にたっぷりと詰まった金平糖みたいに満天の星空をイメージしたら、後はそこから借りて行くだけだ」
堰が切れて止まらない。熱っぽい表情を浮かべて、霧雨のお嬢さんがその思想の根底を曝け出している。異変解決の英雄とは言っても、魔理沙に対して『跳ねっ返りの放蕩娘』とのイメージしかない里人たちにはその様子は異様に感じられた。
音叉が共鳴するように、防護服の男の脳内にも星空が浮かび上がった。デネブ、ベガ、アルタイル。さそり座、麦星、アンタレス。かつて教養として寺子屋で習い、記憶の底に沈んでいたものが大脳皮質の表面に現れる。いや、知識として思い出すまでもなく、いつだって空を見上げれば星々はそこにあったじゃないか。男は、全身の毛穴から未知の力が流れ込んだような感覚がした。
次の瞬間、男の上に向けた手のひらから光が迸り、こぶし大ほどの星型弾が垂直に飛び出した。そのまま花火玉のようにまっすぐ遥か上の天井にあたって、数拍置いて砕けた砂が降ってきた。魔理沙は帽子で防いだが、男はまともに引っ被ってしまった。
「うわっ、エフッエフッ」男は砂の混じった唾液を吐き出した。
「おい、大丈夫か」
「ええ、目には入りませんでした。ありがとうございます」
「柄にもなく語っちまったな」魔理沙がはにかんで言った。
「いや、素敵でしたよ」吸血蚊の繁殖地のど真ん中で行うには、余りにも不条理なやりとりだ。男の感覚としては決して上滑りではないのだが。
「しかし、頭を洗うのにここのボウフラ水は使いたくありませんね」男は魔理沙が一緒に持ってきていた背嚢の中から水筒を取り出し、砂に塗れた口を濯いだ。
三時間もすると、防護服の男は自分の牙が引っ込んでいることに気づいた。他の里人たちの目も緑色から元の色に戻っていた。
「ぼちぼち皆、人間に戻ってきたか?」
「今日はそろそろ終わりにするか。楽しかったよ」作務衣の青年が言った。
「俺は帰るよ。今日の成果と、使ったり消耗した備品を報告しなくちゃいけないからな」防護服の男はそういって、出口に向かっていった。道は既に教えられている。
「私はまた『勧誘』に戻るぜ。他のグループにも魔法を教えなくちゃいけないしな。だがその前にちょっとやることがある」
魔理沙は湖の、最も蚊の密度が高い方に向き直り、手で拡声器の形を作って叫んだ。
「よう、元気か? 今日はちょっと昔話をしよう! 昔々あるところに、博麗の巫女がおったとさ」幼児におとぎ話をするかのように、魔理沙が語りかける。残響が洞窟を満たしていく。
里の人間たちは面食らった。霧雨のお嬢さんは、この異常な状況に耐え切れず狂ってしまったのではないか。
「お、おいお嬢さん。いきなり何を」洋装の青年が言った。
「静かに……」魔理沙が言った。
羽音がいくらか静まった。それはまるで蚊が魔理沙の話にじっと耳を傾けているようだった。魔理沙は自分のアイディアに対する確信を深めた。これだ。これしかない。このまま続けよう。
隠し通路から洞窟を出て、防護服の男は里に戻る道を歩む。里に近づいていくごとに、今まで魔理沙にされたこと、洞窟で教えられたことは意識の表層からするりと抜けていった。そうだ、自分は魔法の森の中で迷ってしまって、そこから脱出するのに随分と時間がかかってしまったのだ。(そうじゃないだろう?)霧雨のお嬢さんに助けてもらったから良かったものの、(霧雨のお嬢さんに押し倒されて)次からはもう少し準備を整えてから行こう。(あんなに酷い気分はなかった)今日はもう疲れたから(吐き気を催すような大量の蚊)ゆっくり休まないと。風呂屋は避けたほうがいいかな。日焼けした肌に湯は染みるし、(ボコボコに腫れた肌)何故か素肌は見られたくない気がする。(首筋の傷)簡単な水浴びで済まそう。(昏い洞窟)明日からまた外出だ。(光魔法)蚊をもっとたくさんぶっ殺さなければならない。(計画)紫外線照射装置は岩にぶつけて壊してしまった。フードは取れてなくしてしまったから(牙)、新しい防護服をもらおう。(……)事実とはまったく矛盾する記憶が生成され、既存の記憶にぴったりと寄り添うように重なっていく……
¶二重思考
少数独裁による集産主義 理論と実践 エマニュエル・ゴールドスタイン 著
第三章 戦争は平和
”二重思考は一つの精神の中で二つの相反する信念を同時に保持し、その両方を受け入れる能力を意味する。党の知識階層はどちらの方向に自らの記憶を改変しなければならないかを理解している。従って自分が策を弄して現実を改変していることも理解しているが、同時に二重思考の実行によって現実は侵犯されてはいないと自らを納得させるのだ。その作業は意識的に行わなければならない。さもなければ十分な正確さでそれをおこなうことは不可能だ。しかし一方でそれを無意識におこなう必要もあるのだ。そうしなければ欺瞞的な感情とそれによる罪悪感が湧き出てしまうだろう。二重思考はイングソックの最も核心に横たわっている。党の本質的な活動は完全な誠実さで確固とした目的に向かって前進し続けながら、一方で自らの意識を騙すことにあるからだ。心からそれを信じながら手の込んだ嘘をつくこと、不都合になった事実を全て忘れること、そして後になってそれがまた必要になった時にはそれが必要な間だけ忘却の彼方からそれを引っ張り出すこと、客観的な現実の存在を否定しながらも否定した現実に絶えず気を配ること・・その全てが必要不可欠なのだ。二重思考という言葉の使用においてさえ二重思考の存在が必要である。つまり、この言葉を使うことは現実を改ざんしていることを認めることになるが二重思考を活用することによってその記憶を消去するのだ。そして真実の一歩手前を常に嘘が先行する状態が続いていく。党が歴史の進行を停止させられる・・我々全員が理解しているようにおそらくは数千年でもそれは可能だろう・・のは完全に二重思考という手段のおかげである。“
(引用元:『一九八四年』第二部 第九章 ジョージ・オーウェル 著 H.Tsubota 訳 CC-BY-NC-SA 2.1)
昼の霧の湖。わかさぎ姫が自分を呼ぶ声に誘われて水面から顔を出すと、白い防護服に顔まで包んだ誰かがいた。揺らめく霧の白と輪郭が同化して分かりにくいが、頭の透明な部分から見える顔からかろうじて女性だと分かる。
「あなたはだあれ?」
「初めまして。紅魔館で門番をやっております紅美鈴といいます」
「ああ、畔のお屋敷の。どうしたのかしら?」
「実はこれからこの湖の霧は晴れます。わかさぎ姫さん、よろしいですか?」
「あらどうして? 唐突ね」
「私の主人が吸血蚊をこの地帯から一掃する事を決めたのです。天候を一時的に操作する魔法を使って、太陽の光を利用するそうです」
「ああ、そういうことなら私からも是非お願いします。あの蚊が妖怪も刺すようになってから私、外に出かけるどころか水から顔を出すことさえろくにできないんですもん。前の紅い霧の異変の時より恐ろしいわ」
美鈴の顔から血の気が引いた。今の発言はレミリアが畏怖の対象として吸血蚊に負けていると宣言したに等しい。お嬢様が聞いたらどれだけ怒り狂うか。ただでさえ咲夜さんが狙われた件で機嫌が悪いというのに。
「そ、それは良かった」
「妖精があんまり暴れなくなったのはプラスかもだけど」
「ええ、最近はあの白黒も来ないので平和なものです。あ、もうすぐ始まりますよ」懐中時計を持って美鈴が言った。
「じゃ、ちょっと見物しようかしら」
館の方向から大きく風が吹き出し、水面が波だった。わかさぎ姫の顔に波が掛かったので、彼女は水面からもう少し顔を出すことにした。白い霧が流れて薄くなり、太陽の輪郭が見えてくる。眩しさに二人が目をそらすと、太陽の方向と反対側に虹の円環が見えた。いわゆる御来迎である。風が水を気化させる涼しさに身を任せていると虹さえも消え去り、後には太陽と青空、それと水面を分かつ山々だけが残った。
美鈴が防護服の頭を脱いで見回すと、彼女とわかさぎ姫がいるのと反対側の岸から黒い煙が立ち上っていた。
「あ、あそこにいたのね、吸血蚊。うっかりあの辺りに突っ込んでいたらと思うとぞっとします」
「空が綺麗ね。これでしばらくは好きに水面から顔を出せるわ」
少し離れたところに湖の妖精たちがはしゃぐ姿が見える。「晴れたあ。太陽って気持ちいいね!」チルノと違って彼女らは冥界に逃げそこねていた。
「パチェ、お疲れ様! あの憎っくき蚊共はきっと全滅よ。ゆっくり休むといいわ」紅魔館の大テラス、パラソルの下でレミリアが親友を労った。丸テーブルを妹と三人で囲む。
「ふう。太陽を出してレミィに褒められる日がくるとは思わなかったわ。こんなに長い間昼の外を見続けるのも久しぶりよ。髪が痛む」パチュリーは紙面の文字から黄色い残光を発する魔導書を閉じ、頭を抑えながら椅子の背もたれに寄りかかった。自慢の紫の髪が後ろにだらりと垂れ下がり、帽子が脱げかかっている。
「お姉様、さっきの虹はなに? 私の羽みたいな色よね、もっと見てみたいわ」フランドールは普段見れない光景にはしゃいでいた。
「こら、フランドール。あれはブロッケン現象。綺麗なのは分かるけどあんまり身を乗り出しちゃ駄目よ。死ぬわよ」
「はあい。でも不思議じゃない? 青空は私達を殺すはずなのに、今の私にはとても魅力的なものに映るわ。空気の味も悪く無い」
引き続き外の景色を楽しみながらのお茶の時間にするために、レミリアは咲夜を呼びにやった。フランドールがあくびをした。
「あの装備が上手くいってるといいわね。暇だーと思ってたところに河童から話が来たから開発に協力したけど」
「実に魅力的な星空だな」
人里を見下ろす天蓋の上に、吸血鬼化した霧雨魔理沙が座っていた。そこかしこから立ち上る線香の煙は、風のない夜には千メートル上空にいても匂ってくる。
「だから、蚊には頼れない」直接壊すしかない。
魔理沙は箒から手を放し、懐から虹色に輝く液体で満たされたフラスコを出した。栓を外し、歪な魔力を飲み下す。味の雰囲気はマッシュルームとトマト・サラミ・オリーブ・チーズにオニオンのたっぷり乗った脂っこいピザのそれに似ていた。食べている時は最高にジャンクな気分を味わえるが、後で胃もたれに苦しむのだ。
『マジックキノコ』
魔理沙の胃袋が液体を吸収し、体表から緑色の光が滲み出した。時間がない。懐にフラスコをしまい、代わりにカードを二枚取り出した。眼下のノコギリ屋根の蚊帳工場に向けて左手で八卦炉を構えた。小指の爪ほども大きく見えないので、慎重に狙う。星々の力を借りて、八卦炉からは極光のような虹色の光線と、魔理沙の背丈ほどの大きさの星々が多数迸り出る。
星符「ドラゴンメテオ」
「を、もう一発!」
右腕も狙いを定めて放出し、二百メートルほど離れたところにあるトラップ工場に着弾。二つの工場のそれぞれ入り口の鉄の扉、木造のノコギリ屋根を、内側に一杯に敷き詰めてある吸血鬼除けの札ごと焼き払った。減衰した破壊音が聞こえてくるが、これだけ高い所に居ると、下で大きな破壊をもたらしていても現実感が無い。あの工場は紅魔館の門よりずっと大きいはずだが。
「結界……ドラゴンメテオでも屋根に穴を開けるのが精々か。だが次がある」
魔理沙の右手の親指、人差し指、左手の中指の爪が割れた。その割れ目にそって両腕の皮膚の表面に亀裂が走り、隙間からは赤い光が漏れ出てきた。彫刻刀で抉られたかのような痛み。
「ぐ、ぐぅ」
吸血鬼の力のお陰で魔力は無尽蔵に入るとはいえ、一度に扱う量が多すぎる。煙を発する二つの工場を尻目に痛みを押して北に数キロメートル移動し、ブラックライト工場に向けて光線を放った。
「これで三つ目!」
光線が当たる寸前に工場が消え、光線が地面を抉って家一軒分ほどのクレーターを形成した。魔理沙が破壊した工場ごと人里が消えて、後にはただ広い平野が残されていた。
「何?」
寺子屋の方面から白い光の塊が六点現れた。魔理沙に向けて疾走しながら蒼いレーザー、赤青の玉を放ってくる。
「慧音か。くそ、メテオ一発分の魔力が無駄だ」
魔理沙の身体から緑色の光が消え、全身を胃もたれを含む不快感が襲って来た。後数分は派手な魔法を使えない。
「私に出来る事はもうない。ずらかるぜ!」魔理沙は追っ手を撒くべく鉛直方向に加速した。
寺子屋。爆発音を耳にして、慧音は布団を跳ね除けた。編集の合間の仮眠だったので寝巻き姿ではない。休憩は終いだ。
外に、いる。
戸口に一人。
屋根に一人。
裏口に一人。
扉のない壁に一人ずつ。
寺子屋の内壁には吸血鬼除けの呪符を敷き詰めてある。私を出さないつもりか。どうやって出る? 穴を掘る? そんな無茶な。
彼女は仰向けのまま、寺子屋の闇に自らの影を溶かし込んだ。影が寺子屋を満たし、外に漏れ出させる。彼女の黒い半身は住宅街を放射状に疾走し、里中に網を広げていった。やがて地面から里全体を覆う大きさの三つ目の黒牛の頭が浮き出で、大口を開けた。慧音の口の動きに合わせて牛が口を閉じると、慧音はこの里が外界と完全に隔絶されたのを感じた。これで曲者どもは逃げる事も襲う事もできまい。追い詰めたつもりだろうが、閉じ込められたのは貴様らだ。布団から手を伸ばし、陰陽玉に手を掛けた。妖怪の賢者への直通電話が──通じない。紅い霧か。慧音は舌打ちして鞄の中を漁り、黒いマスクを取り出して口全体を覆った。河童が紅い館の吸血鬼の監修で作ったものだ。紅い霧の毒から慧音を守ってくれるだろう。起き上がって、闇の中から白色の剣を一振り取り出した。その刃先は菖蒲の葉に似ていた。
国符「三種の神器 剣」
寝室を出て、玄関に向かって走る。戸口に一閃、扉の向こうに手応えを感じた。展開した使い魔に慧音の周囲を守らせる。そのまま戸口に体当りすると扉がバラバラと崩れ、紅い霧の中にお河童頭の童女が一人腹を抑えてうずくまっていた。横一文字の刀傷が見える。慧音の教え子の一人だ。慧音は一瞬ためらったが、その隙に持ち直した童女が緑の瞳を輝かせて襲いかかってきた。慧音は反射的に使い魔をその顎に当てて迎え撃ち、直ぐさま振り向くと屋根に向けて蒼いレーザーを放った。屋根の上の少女の影が怯んだと同時に寺子屋の両脇の隙間から双子の少年たちが現れ出る。
「慧音せんせーい♪」
「すっぴんでも綺麗だね」
いつも慧音が教えているやんちゃな兄弟だ。いたずらばかりしているが成績は良い。使い魔を何匹か引き裂いて慧音に掴みかかる。
「こらっ!」慧音が一喝すると、二人が足をすくませた。そのまま弟の頭に頭突きを食らわせ、兄の腹に使い魔をぶつけた。弟はよろめき、兄が身体をくの字に曲げた。
「全員教え子か。趣味の悪いことを」しかしやはり記憶は以前のまま。心身に覚えさせた師弟関係に逆らえる道理はない。慧音が飛び下がって童女を越すと、屋根の上の少女が放った星型弾が迫ってきた。
始符「エフェメラリティ137」
寺子屋の体積ほどの使い魔の塊を召喚し、腕を払って吸血鬼達にぶち撒けた。同時に泡と弾けた赤青の弾丸で紅い霧の幕に一瞬だけ穴が空き、そこから慧音は抜け出した。寺子屋の損壊は免れまいが、裏口の吸血鬼が現れない内に現場に向かわねばならない。使い魔が吸血鬼たちを組み伏せ、慧音は先ほど爆発音の音のした方向に向けて通りを走り去った。
山のように折り重なった使い魔の下で、慧音の教え子たちがもがいている。
「待って先生、止まらないとこの辺ぜーんぶ壊して手当たり次第に噛みまくるよ! ……駄目だ聞こえてない!」双子の弟が呻いた。
「いや、それより隙を見て逃げた方がいいよ。応援を呼ばれたら多分逃げられない。怖い巫女に捕まったら終わりだ。僕らは失敗したんだ」双子の兄が言った。
「でも、どうやって?」少女が言った。
蝙蝠になる隙間も無かった。
木造の蚊帳工場。その外には五人の人間が取り巻いている。周りに立ち並ぶ建物の影に一人ずつ。
「五人が限界だ」作務衣の青年が言った。今はその上に外套を羽織り、顔には白い歯の眩しい恵比寿の面を着けていた。足元には鞄が置いてあり、その中には布が差し込まれ、灯油の入った瓶がたっぷりと詰まっている。火炎瓶である。
「限られた人材で、四つの施設の破壊に足る兵力、逃走経路を確保し、隠密に最大限効率よく動くためには一チームに五人が限界だ」
作務衣の青年は星の瞬く空を見つめていた。直に合図があるはずだ。それまではまだ人間のままでいなければならない。あのノコギリ屋根の工場を完膚なきまでに破壊し、倉庫中の蚊帳の在庫をすべて焼き払うためには吸血鬼除けの札が邪魔だ。外側からただ放火するだけでは消し止められる可能性があり、確実に工場の設備を無力化できない。与えられた手札、吸血鬼の力、光の魔法を全て使う必要がある。
やがて夜空の一点が煌めき、そこから光の塊が出現した。その塊は刻一刻と広がり、眼で捕らえきらない速度になった瞬間に男の目の前の工場に着弾した。光の中から黒煙が上り、木の破片が当たり一面に吹き荒ぶ。男は目を覆い、建物の影に身を隠した。懐から蚊の入ったカプセルを六つ取り出し、開けて左腕に押し付けた。
「よし、時間だな」
爆発音を聞きつけて、周辺の家から野次馬が数人飛び出てきた。青年の仲間の吸血鬼がそれを捕らえ、首筋を噛んで黙らせた。
「こいつらは見張りに立てておこう」
開いた穴から青年は四人の仲間と共に工場内に突入した。まず事務室の中を見ると、夜警らしき禿頭の中年男性が一人伸びていた。吸血鬼にした。事務室を抜けると、機織り機が隅から隅に並ぶ区画に入った。部屋中に星型弾をばら撒く。男巻、女巻、シャットル、ヘルドが分解して弾け飛び、木の破片が辺りに散らばる。カッターの並ぶ机も破壊した。
「おい、こっちだ」ドアを開け、蚊帳の在庫を積んである区画を見つけ、火炎瓶の口の布に火を着けて次々と投げつけた。割れた瓶からは燃料が飛散して炎の舌が広がり、商品の包み紙、網という網を舐めていった。
吸血鬼たちが破壊に勤しんでいる時、外では先ほど吸血鬼にされた野次馬の一人が見張っていた。彼らは他にも何人か野次馬を仲間に引き入れる事に成功していた。より多くの仲間を増やしたかったが、残りの住人たちはもう少し慎重だったので窓から事態を見守っていた。各家庭に配られた陰陽玉で通報でもしているのだろう。吸血鬼にされた者たちは呪符の貼ってある自宅には入れないので、建物の影から通りをそっと眺める。急性の血液不足で野次馬の脳内には暗雲が垂れこめ、通りの向こうから誰かがやってこないか見守る以外の事は考えられなかった。だから後ろで何か平たいものが回転するような音が聞こえた時にも、野次馬の反応は一拍遅れた。それが命取りだった。一人の野次馬の前に手が現れ、鼻に何かがねじ込まれた。刺激臭がして、えずく間もなく意識が遠のいていく。頭から倒れこんで後方を見ると、何者かの脚と大皿が写った。それが最後の光景だった。
物部布都は目の前に突っ伏した吸血鬼を見つめていた。その手にはおろしにんにくの入ったチューブが握られており、口には黒いマスクを着けている。布都は炎上する工場に視線を移して微笑んだ。
「今度こそ一番乗りかのう?」
布都は気絶している吸血鬼を引きずり、建物の影に隠した。
蚊帳工場から離れた、ブラックライト工場。
「遅いですねえ、霧雨のお嬢さん」
ショートカットに眼鏡の毘沙門天信仰者の女性が、茶色の瞳で星空を見つめていた。時折工場の方にも視線を移す。今までの工場と同様にノコギリ屋根で、『勧誘』した従業員たちの話ではここにも吸血鬼除けの呪符が貼られているはずだった。間取りも分かっている。入り口の事務室を抜ければブラックライトを生産する設備とその在庫を貯めておく区画があるはずだ。もう魔理沙のメテオが宅配されても良い頃合いだった。
視界に何かがちらつく。不審な気配を感じて女性がふと地面を見ると、そこには夥しい面積の黒い影がのたくっていた。通りの端から端まで広がっている。
「ひ、ひぇっ」
思わず足で払いのけるが無駄だった。月光を頼りに良く見ると、影は墨で書かれたような文字を形成している。『第百一季 弥生の七 酒屋炎上』『第九十三季 文月の五 杉村泰造大往生 享年百二十五歳』『第百十九季 長月の二 食中毒が発生 原因は茶』
その時女性の視界の隅が明るくなった。見上げると、星空にやっと光の塊が見えた。メテオだ。女性はそれを見て安心しかけたが、次の瞬間に空を黒い影が覆い被さる。縁に白くて分厚い歯がちらりと見えたが、すぐに消え去った。月と星空は見えなくなり、黒い墨がドーム状に人里全体を覆っていた。内側からはこう見える。
「あー、こりゃあ手遅れですね」タイムアップだ。この里の守護者が外界と里を遮断したのだろう。今夜はもう工場を壊すことは出来ない。
彼女は夜が明けなくなった異変の時にも空が似たような動きをしたことを思い出した。あの時は胸騒ぎがしてなんとなく寝付けなかった。そして家の二階の窓から空の方ばかりを見ていたため、地面の方の変化には気づかなかったのだ。
彼女は他の隠れていた仲間を呼びに行った。眼鏡の女性の他には成年の男女が二人ずついた。
「今日はもうダメみたいですね」
「よし、では手はず通り逃げるか」
彼女たちは証拠隠滅を始めた。懐からブラックライトと透明なカプセルを全て取り出し、カプセル中の蚊に向けて死の光線を放射。その方が種としての蚊全体にとって有利になる場合は、蚊の支配を受けた人間でも一部の蚊を殺すことが出来ると魔理沙と里人たちは確かめていた。彼らは水筒のカップに注いだ水を回し、空になったカプセルを飲み込む。二十分もすればゼラチンが腸に吸収されてくれているだろう。
失敗はしたものの辺りが昏いのが幸いであり、騒動の目撃者を減らしてくれるはずだ。万が一目撃されても騒ぎのせいにすれば誤魔化せるかもしれない。彼らはそれぞれの住処に帰るべく散り、暗闇の人里に溶けていった。
慧音は大通りを走っていた。空に飛ばした何匹かの使い魔が墨のドームを突き抜けていった。脅威が外部にあるのならこれでいくらか牽制できるはずだ。懐から陰陽玉を取り出して直通電話を掛ける。ベルの音が二回。
『八雲ですが』
「上白沢だ。里の人間が吸血鬼化し徒党を組んで寺子屋を襲撃した。里と外界を遮断した」
『同様の通報は受けているわ。今から人間の中から応援を送る。私のスキマなら貴方の能力を素通りできる』
「悔しいが助かる。里の人間には頼れんからな。蚊に汚染されているかもしれない」
『今どこ?』
「追手を振り切って工業地帯に向かっている。そちらから爆発音がした。煙も上がっている」
『了解。通報を受けたのはトラップ工場と蚊帳工場の二つ。蚊帳には私が頼む前にもう道士が着いてる』
「ではトラップ工場に向かう」
『OK。貴方にとって最も頼りになる人間を送り届けるわ』通信終了。実に簡潔。
工業地帯が見えてきた。上空には煙に加えてコウモリが舞っている。
蚊帳工場。布都は瞬間移動を最大限利用し、見張りの吸血鬼を後ろから襲って一人ひとり始末していった。おろしにんにくを鼻に突っ込まれて喘ぎ、地べたに伏せって痙攣している。工場の外側から見える吸血鬼はひと通り片付けたので一息つける。
「ふう。不意打ちはここでは反則らしいが、向こうもなんかしらルールを破っているようだからお相子だな!」布都は未だ幻想郷の決まり事に疎かった。
「いつも通りの散発的な襲撃ではないようだな。組織的なもの……一人でも厄介なのに複数か。にんにくチューブ、もうちょっと余計に持ってくればよかったかのう」
気配から恐らく吸血鬼どもはまだ工場の中にいる。何を目的にして建物を破壊したのかは分からないが、全員捕らえなければ。布都は目を閉じ、祓詞を唱えだした。
「ひと・ふた・み・よ・いつ・む・なな・や・ここの・たり、ふるべ、ゆらゆらと、ふるべ」
魂を震わせろ。心の底から力を引き出せ。祓詞の言霊により布都の心身が清められ、大物忌時代に立ち返っていく。尸解仙となる前は白髪の老婆に近かった彼女が童女の姿を取っているのは、かつて物部の祖神ニギハヤヒに贄を捧げ祭祀を執り行っていた時の絶大な力に少しでもすがるためであった。
「たかあまはらにかみづまります、すめかみたち、いあらはしたまふ」
投皿「物部の八十平瓮」
布都は手中に数十枚の皿を生み出し、工場の辺り一帯を周って撒き始めた。太子様に増援を頼みたいところだが、その間に逃しては元も子もない。
「とくさみつの、たからをもつて」
上に向けて五枚、屋根にまた五枚。投げた皿は宙で静止し、工場を包む皿の大幕はそれ自体が一つの椀のようだった。
「あまてるひこ、あめほあかりくしたまにぎはやひのみことに」
一周して工場の前に戻ってきたあたりで、焦げた大穴の中で何かが蠢く気配がした。
「さづけたもうことおしえて、のたまはく……む」
布都は瞬間移動で距離を取り、遠くの建物の影から観察した。先ほどまで事務室だったあたりだ。能面と外套を被っていて良く分からないが、五人程はいるだろうか。
隙を突ければワープとにんにくチューブで一撃だろう。しかし向こうは仮面を被っている上に、お互いがお互いの隙をカバーしてている。
「やっぱり増援を頼むかのう?」
そんな暇はない。奥のほうから火の焼ける音と煙の匂いがする。早く消し止めなければ近隣にも燃え広がるだろう。
「被害を広げる危険があるから迂闊に火も使えぬ。吸血鬼の弱点は……そうだ!」
布都は吸血鬼の近く、事務室の外の破れた壁の影に瞬間移動し、再び祝詞を唱えだした。
「汝此瑞宝を以ちて、中津国に天降り、蒼生を鎮納めよ」
地中の龍脈が吸血鬼たちの足元から離れていく。
『立向坐山』
突然地面が陥没し、吸血鬼達は足の踏場を失った。布都は皿を五枚ほど吸血鬼の周りにばら撒く。
「無対策ならおぬしら一匹相手でも苦戦しただろうが、あいにくこちらは吸血鬼対策は万全よ!」
『抱水皿』
皿から水流が迸り出て、吸血鬼たちの動きを縛り、穴の大渦に閉じ込めた。
「流れるプールで溺れ死ね! とどめだ!」
布都が満面の笑みでにんにくチューブを手に穴へと躍りかかった瞬間、その脇腹に衝撃が走った。布都は左横に弾き飛ばされ、事務室の外の壁に首を酷くぶつけた。一瞬意識を失ったが、攻撃者が迫ってくるのを見ると何とか別の物陰に瞬間移動して逃れた。並の人間なら肋骨が肺に刺さって即死していただろう。布都の腹に一撃を加えたのは、先ほど吸血鬼たちの仲間に加わった禿頭の夜警だった。
トラップ工場。その二階建ての建物のノコギリ屋根にはメテオによる大穴が開いて縁は黒く焦げ、中からは煙が吹き出ていた。
慧音は試しに工場の外壁にレーザーをぶつけてみた。しかし焦げができただけで穴は開かなかった。何かしら呪符の力が働いているようだ。工場の鉄の扉はどれも堅く閉じられており、外からは並の力では壊せそうになかった。
「上から入るしか無さそうだな。しかしただ入っては格好の的だ。相手は吸血鬼、逃してはならん。それに火事。よし!」
月光に照らされた慧音の影がゆらめき、工場の壁を駆け上った。影には墨で書かれたような次の文字が溶け込んでいた。『昭和六拾四年午前六時三十三分 吹上御所にて崩御 腺癌 歴代最長寿』『平成元年二月二十四日 大喪の礼 氷雨』『雨師として祀り捨てなむみはふりに氷雨は過ぎて昭和終んぬ』工場を飛び越えた影の上端より黒雲が湧き出で、菊の模様に広がって工場一帯をすっぽり覆った。
包符「昭和の雨」
こうして氷雨をざんざんに降らせておけば、吸血鬼どもを閉じ込めておけるに違いない。煙の勢いが弱まったのを確認して、工場の屋根へと飛び上がった。扇風機、発泡スチロール、網、スピーカー等のトラップの部品の在庫が燃えている。慧音は上空から煙を避けつつ火の弱い場所を探し出し、そこが一階へと続く階段と近い事を確認した。
葵符「水戸の光圀」
慧音は影から人間型の使い魔を二人召喚し、一人に階段を覗かせた。共有する視界に一瞬だけ能面がちらつき、使い魔の顔目掛け星型弾の掃射が迫ってきた。
「うおっと!」慧音は使い魔を飛び退かせた。掃射はしばらく続いて階段の壁をスポンジにしたが、魔力を切らしたのか小休止が入った。
「おや、その声は慧音先生じゃないですか」かつて防護服を着ていた男が言った。今はその上にねずみ色の外套を羽織っており、顔には白い髭を生やした小尉の面を着けている。
「やっぱり子供たちに任せたのは貴方を侮りすぎでしたかねえ。当時はみんないいアイデアだとは思ったんですけど」
「何もんだ、お前達」階段を介して言葉を交わす。
「答える必要はありません。ですが、普段は貴方に守っていただいている立場と言っておきましょうか。その点については感謝していますよ。この雨、この空は先生の歴史喰いの力ですよね?」
「そうだ。逃がさん」
「つまり、先生をぶっ倒せば俺達は里の外に逃げられるというわけだ」
「やってみろ。今の私は気が立っている。仮眠を邪魔された上、教え子に対してあんな真似をされてはな」
「睡眠不足はお肌の大敵です。俺達に構わず、もう少しお眠りになられては? 手伝いますよ?」
「誰のせいだよ。お前たちのやっていることは、里の生活を犠牲にしてまでする価値のある物なのか? お前らも里の人間だろう」
「まあ、確かに俺達の行動は貴方にとっては裏切りでしょうね。さぞかしショックでしょう。しかし、正直言ってなんでこんな事をやっているのか、俺達にもよく分からないんですよ」
「そんな馬鹿な話があるか。こんなテロを大義も意味もなしに行える理屈があってたまるか」
「やっぱり貴方は知識人らしい。どんな行いにも意味を求めようとする。でも、俺達には本当に分からないんです。ただ……」
「ただ?」
「ささやきが聞こえるんですよ、脳髄の端っこの方から。『生きるためには食べよ、増えよ。それより大事なことはなく、それは仕方のない事だ』」
「ふん。支離滅裂、時間の無駄だな」
「俺達は仲間を増やさなければなりません。貴方が加わって下さればとっても心強い。そろそろ一階もあらかた壊し終わったところですし、ちょっと献血などいかがですか?」
顔に雨粒を流しながら、慧音は頭を働かせた。雨を降らせている限り奴らは脱出できず、この工場は巨大な棺桶だ。しかし連中も何らかの強行突破を図るかもしれない。炎は弱まってきているが……こちらも強行突破を図るか? 使い魔を何匹か犠牲にすれば一階まではたどり着けるだろう。だが中には恐らく複数の吸血鬼がひしめいている。私の家を襲ったのも五人だったし、あれだけの破壊を計画的に行う以上チームを組んでいると考えるのが普通だ。少なく見積もっても三人、分身を含めれば最低十二人の吸血鬼と対峙する事になる。先ほど寺子屋を脱出した時は先手を打って不意を突けたが、今度は向こうも間違いなく万全の準備をして迎え撃つ。
膠着状態に頭を悩ませていると、何者かが慧音の肩を叩いた。
「何か難しいこと考えてる顔してるわねえ、慧音」
「おい、誰か来たぞ!」階下で吸血鬼達の怒鳴る声がした。
「こういう時は強行突破すればいいのよ」慧音が振り向くと、小さくなった炎を背景に、足まで届く白髪の少女が立っていた。
妹紅は手を掲げ、二階の床に向けて赤と紫の札を無数に放った。札は床の四辺に隙間なく敷き詰められ、縞模様の長方形を形作った。
「攻撃開始~。慧音、足元注意ね」
妹紅が右手で弾指すると、刹那の内に札の全てが起爆した。木造の床の縁が抉られ、支えを失った床が一階へと落下していく。階段の下から怒号がした。
「うおっ!」慧音はすんでのところで飛び上がり、上空で不死鳥の羽を展開している妹紅と並んだ。二階の床が一階の床に衝突し、砕けた所を二人で見下ろす。
「トラップ工場の一枚天井! 慧音は頭は良いのに堅いんだから。さあ、ちっちゃな蝙蝠どもが這い出してくる所を見物しましょ」
眼下のおがくずを含んだ煙の中から、外套と仮面を雨への盾に十数の影が迫り来る。
「煙いじゃねえか、このっ!」
「にーど手を出しゃ、病苦も忘れる~♪」
藤原「滅罪寺院傷」
妹紅は使い魔を召喚し、青と紫の札の隊列が不死者の群れに突撃する。何枚かが吸血鬼たちの外套にへばり付き、下の皮膚に焼けるような痛みを与えた。般若の面の男が反射的に外套の腕をまくると、札の当たった部分にびっしりと痘痕が生じていた。いくつかは膿み、真ん中が陥没している。
「ヒ、俺の皮、どうなっちまったんだあ!」急性の倦怠感と激しい頭痛、精神的ショックが同時に襲い、吸血鬼の本体三人が気を失った。合わせて残っていた分身の内七人が消滅した。
「おい、あいつら里の人間だぞ」慧音が言った。
「大丈夫、ウィルスを模しただけの攻撃だから一時的なものよ。身体には痕は残らないはず。トラウマにはなるかもしれないけど。慧音も私の横にいる限りは当たらないわ」
「天然痘、藤原の四兄弟、長屋王の祟りか。えぐいことをする」
「あいつらもちょっとは熱病で倒れた子供達の気分を味わえば良いのよ」
分身を数体盾にして、元防護服、小尉の面の男が迫ってきた。星型弾を生み出そうとしている両の手がまばゆく輝いている。
「あら、根性あるわね」
「来るか!?」慧音は剣を構えた。
「慧音は休んでて大丈夫よ」
男の背中に痛みが走った。振り返ると、紫の札が五枚ほど張り付いている。妹紅の掃射した札が砕けた床で跳ね返り、男の尻、腿、後頭部と数を増やしていく。
「う、後ろからもかよ」最後に青い札が一枚仮面に張り付いて、男は敢え無く落下していった。
「あと一人ぐらいはいるかも」妹紅は射出を止め、二人で下に降り立つ。あたりには瓦礫が散乱し、土、木材、その他の素材に雨が染み込んでいた。床だった材木の山をしばらく漁っていると、敷地のちょうど真ん中に外套と小童の面を付けた者が埋まっていのを見つけた。仮面を剥がすと、牙を生やして目を剥いた少女の顔が現れた。
「最初の一撃でやられたみたいね。輝夜の真似事を試した価値はあったかしら」当たりどころが悪かったらしい。
「ううむ、圧倒的だな」
「相性が良かっただけよ。一回も死ななくて済んだし、体力が切れる前に終わらせられて良かったわ。それに実戦と練習の量が違うもの。経験は何にも替えられない。慧音もあと千年生きてみる?」
「いや、やめておく。ところで妹紅、八雲紫が誘ったのか? ここに来るまでに応援は頼んだが、八雲の人脈だと霊夢か妖夢あたりが真っ先に来ると思っていたから意外だったぞ」
「ちょっと前からあのスキマ妖怪に雇われて、竹林に住む妖怪の子を蚊の群れから逃がすのを手伝ったりしてたのよ。身寄りの無い、比較的無害なチビちゃん達だったからまあ、たまには妖怪を助けてやるのもいいかなと思ってね」
『貴方にとって最も頼りになる人間を送り届けるわ』──慧音は苦笑した。頼りになる人間ほど恐ろしいものはない。
「さ、こいつらを縛り上げましょ。終わったら久しぶりに積もる話でもしましょうか」妹紅は鎖を五本と呪符を数十枚取り出した。
「ああ、そうだな」慧音は上に手をかざし、雨雲を解いた。黒い煙が霧散した先には薄墨の空が広がっていた。
半壊した寺子屋。使い魔の山の中から、一人の少年が抜けだした。年は十三前後で五人の中で最も年上、唯一慧音と会わなかった吸血鬼だ。彼も他の四人共々エフェメラリティ137を食らったが、慧音から一番離れていたために彼の上に被さった使い魔の量はそう多くはなかった。
「おい、今助けるぞ」白く光る使い魔の山を爪で引き裂いていくと、双子の弟の方の顔と左手が現れた。
「あ、ありがとう」少年は右手を差し出し、弟の方がそれを掴み、少年の右手が緩んで抜けた。
「え?」弟の方がそういうと、少年が目を剥いて後ろに倒れ、その向こうに白髪に黒いリボンをつけた少女が脇差しを構えていた。足元に膝丈ほどの白い塊が漂い、背中には背丈ほどもある大剣を背負っている。
「全く紫様ったら、久しぶりに私の出番があると思ったら戦後処理だなんて」足元に倒れる少年を見ながら、妖夢が言った。
「ひ、こ、殺した」弟の方が言った。
「大丈夫。この剣は白楼剣といって、斬られてもまず死なない。多少精神的ショックは受けるでしょうけど、妖怪となってる今の貴方達にはちょうどいいかしら」妖夢はそういって懐からにんにくを取り出し、五欠片ほどにして少年の口の中に突っ込んだ。
「次は貴方の番ね」
「やめて、やめてよ。どうしてそんな変な事するの」
「心臓に白木の杭よりは穏当よ。貴方達は元は里の子だし、元に戻る可能性がある以上殺すわけにはいかない。にんにくは最近需要過多で高騰してたんだけど、紫様が緊急輸入を決めてね」
「紫様って誰だよ?」
「ああ、もう気にする必要はないわ」にんにくを手に妖夢が迫る。
「やめろ!」自由の効く腕を振り回して必死に抵抗するも、妖夢が白楼剣を一太刀、腕の力が抜けた所を抑えた。
「いくら吸血鬼が腕力を持っててもね、ここをこう抑えると人体の構造的に動かなくなるの。お爺様に教えてもらったわ。貴方も憶えておくと得よ」
弟は霧化しようとしたが、その前に妖夢の手が口に突っ込まれた。刺激臭が口腔から鼻腔に回り、弟の意識は薄れていった。
霧雨魔法店の玄関口。暗闇の空間をすっぽり抜けて、八雲紫が現れ出た。
「魔理沙ー? 仕事よー? 緊急だからお駄賃は弾むわよー?」紫は靴を履いたまま廊下に踏み出し、寝室のドアを探し当てた。ノックをせずに中に入るが、布団はもぬけの殻だった。寝室以外を探すが、どの部屋にも魔理沙の姿はない。貴重品らしきものはまるでなく、魔理沙にしては異様に整理されていた。まるで単身赴任にでも出かけたかのように。
「あら、妖夢ちゃんはお布団の中だったのにどこに行ったのかしら」
一大事だというのに。紫は諦め、次の目的地に移動した。人里を妖怪から守るのはあくまで人間でなければならない。それがルールだ。次は霊夢。眠っている彼女を叩き起こすのだから一悶着は覚悟しなければ。
蚊帳工場、事務室だった場所。
抱水皿の奔流が止まり、龍脈が再び寄り集まって地面が盛り上がった。仮面の吸血鬼たちは拘束から解放され、大量に水滴を垂らしながら水たまりから這い出てきた。外套に水が染み込んで重くなっている。彼らは水を吐き、水滴の落下で地面の水たまりが波打つ。
「壱号、大丈夫だったか?」弐号が言った。作務衣の青年の友人で、外套の下は洋装だ。今は金色の歯をむき出しにして笑う獅子口の面を着けていた。他人に聞かれても大丈夫なように作戦中は番号で呼び合っている。
「もう駄目かと思ったわ……」壱号が応えた。
「私、これで水を酷く飲むのは二回目ですよ」えづきながら作務衣の青年が言った。今は参号だ。
「どうです? 立てますか?」 夜警の吸血鬼が尋ねた。
「おう、ありがとう」四号が言った。
「どういたしまして」
「今のは幼い女の子のように見えたけど」五号が言った。
「おいおい、この地で女の子が見た目通りだった事があったか?」弐号が言った。
「それもそうね。とりあえず分身しとく?」
「オーケー。紅い霧もだ」吸血鬼たちは二十人と一人に増え、小さな事務室が満員となった。その内五人分の身体を使って紅い霧を広げだした。
「さっきみたいに集まった所を叩かれたくない。散ろう」
彼らは四号と壱号、分身たちを外に行かせた。
「その分身と霧ってどうやるんです?」夜警が言った。
「俺達も妖怪退治に詳しい奴に聞いて練習しないと出来なかったからな。今は諦めてくれ」弐号が言った。
「そうですか、見た目は格好いいのに残念」
「おい、外を見てみろよ。皿がいっぱい宙に浮いてるぜ」四号が言った。
「さっきの子を始末しないと逃げられないんじゃないの?」壱号が応えた。
「分かりやすいな」
壱号は分身の一人に皿を触らせた。右手の皮膚にたちまち焼け焦げが広がり、灰となって崩れて失われた。もう一人に皿の隙間を縫って脱出させようとしたが、皿同士を結ぶ空気の膜のような抵抗力に押し返された。風船を触った時に感じる弾力のそれだ。
「強力な呪法が込められていると見えるわね。皿を壊せばなんとかなるかしら?」
「我らが饒速日命は太陽神である。その神徳の込められた皿に吸血鬼が触れられる道理はない」
壱号は振り返り、声のした方向に星型弾の雨を浴びせるが、それは面をこちらに向けて宙に浮く皿だった。皿が砕け、蒼い破片の散弾が打ち返される。壱号は身をよじって直撃を免れたが、外套が左腕から脇腹にかけて酷く破け、素肌が露出した。
「弐号、参号、五号! 外よ!」腹を抱えて壱号は呻いた。見張りの分身を五体残し、呼ばれた吸血鬼が工場の中から駆けてきた。残りは十一人。
天符「天の磐舟よ天へ昇れ」
空中を水流が走って工場脇を横断し、その上に出現した布都が岩船に乗って疾走しだした。飛沫をあげ、皿をばら撒き、矢を放ち、布都を止めようとした分身の何人かが皿に胴を斬られて消滅した。結界の膜に到達すると、布都は再び何処かへ消えた。
「ヒットアンドアウェイか。あの水流には近づけねえな」四号が言った。
布都が弐号の後ろに出現し、腕を相手の首に回して止めの一撃を見舞おうとするも、弐号は瞬時に布都の腕を抜けて取り、脇腹にタックルを食らわせた。
「ぐっは、速い!」先ほど夜警に貰った脇腹の傷が傷んだ。布都は前方に吹き飛ばされ、弐号が追い打ちで放った星型弾を当たる寸前で瞬間移動し回避した。
「うう危ねえ。スキマ妖怪対策に訓練しておいたのが役に立ったか」弐号が言った。
「後ろからの不意打ちへの対処、優秀なブレインがいると助かるわねえ」五号が言った。
「ブレインだと?」布都の水流が工場の入口を横切る。
「参謀のこったよ!」四号の分身が星型弾を当てて、岩舟が大きく横転した。分身が高速で飛ぶ飛沫に当たって消滅し、投げ出された布都は皿を五枚投げて宙に消えた。四号がそれを迎撃し、皿が全て砕け散る。
「おぬしらの戦い方、我の知る誰かに似ている。誰から習った?」布都が工場裏に出現し、参号目掛けて矢を放つ。
「答える必要はないよ」参号が矢を避けるが、背後の皿の膜に当たって破片と矢が跳ね返ってきた。分身が参号を庇い消滅。分身が削られ、皿の膜が削られ。吸血鬼が皿の膜を脱出するのが先か、布都が吸血鬼を削り切るのが先か。
「大分少なくなってきたな!」布都が壱号の後ろに出現し、手中の竜巻に巻き込んだ。壱号は反応する間もなく上に弾き飛ばされ錐揉み回転する。布都が辺りに矢を放ち、皿の破片を撒き散らして消えた。巻き込まれた分身が消滅。
「壱号! くそ、チビがちょこまかと逃げやがって」四号が言った。
「おいこいつ、段々速くなってないか? さっきは対応できたのに、童女にしては強すぎる。一体何者だ?」弐号が言った。
「童女にしては強いのではない! 童女だから強いのだ! 我は大物忌、饒速日命に仕える依代であるぞ!」
布都が工場横に出現すると、五号が捨て身で飛びかかった。布都が盾にした皿に激突して五号の顔が焼けるが、爪が布都の顔にかかり、マスクが破けて地に落ちた。皿に掛かった五号の体重で布都の肺臓から息が抜け、荒くなった呼吸で紅い霧を吸い込む。布都は顔に出来た傷を抑えた。息が苦しい。
「ぐ!」布都の瞬間移動には集中がいる。あと何回出来る? 分からない。
さらなる攻撃を警戒するように、五号を除く吸血鬼達が布都を囲みだした。竜巻の痛みが残る壱号は足を引きずっている。分身は場に三体残り、工場にも五体残っている。
「大人しく血を吸われてよ。君ぐらい強い人が味方になってくれればこんなに助かることはない」参号が言った。
「我は永久に太子様の同志にして僕だ。投降するぐらいなら今すぐこの身を割るよ」
「もう諦めろ。工場の設備も在庫も全壊全損、お前はマスクを失いこれから紅い霧にやられる。これ以上続ける意味は無い」弐号が言った。
「おぬしらを捕らえれば私の手柄だ。我は諦め……ん? 今全壊全損と言ったか?」
「そうだ」
「守る意味は無い?」
「ああ。だから諦めてくれ」
「ならば遠慮する必要はないな!」
残った息を絞り出し、最後の祝詞を唱えだす。
「甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸! 一二三四五六七八九十瓊音!」
「おい、何を」弐号が布都に距離を詰めた。
『六壬神火』
布都は八方に炎弾を打ち出した。一つが弐号に直撃し、そのまま工場の壁に叩きつけて大穴を開けた。残りの炎弾が結界に衝突、次々と皿を誘爆させ、炎の膜が中心の布都に向かって爆轟を放った。紅い霧の一粒一粒が蒸発し、工場の全てが粉砕され、火の粉を上げて炎上する。残っていた分身が全て消滅し、吸血鬼たちを仮面と外套から燃やしていった。
「相手が細かく別れるのなら全部一度に叩き潰せば良い。単純な話よな!」布都は紅い霧が全て蒸発した瞬間、結界の外に瞬間移動して炎を逃れていた。満身創痍だが、ここ一年間で一番の得意顔だった。
少し経って、工場から少し離れたところで倒れ伏す布都の目の前に空間の断裂が現れ、中から霊夢が降り立った。
「助けに来たわ、ってなにこれ! 大炎上じゃない!」
「遅いぞ」
「また間に合わなかったの!? 今日は厄日だわー!」
「頼む、あそこで輪になって倒れている吸血鬼どもの鼻にこれをねじ込んでくれ。全部で六人いる。とどめを刺したいが我はもう動けぬ」
布都は懐からヨレヨレになったにんにくチューブを三本、残りの全てを霊夢に差し出した。霊夢は真顔だった。
「……あんたを病院に運んだらそうするわ。消火もしないといけないし、燃え広がらない内に消防団に吸血鬼を無力化したって伝えないと。紫ー?」霊夢は陰陽玉に話しかけた。
「はいはーい」紫が空間の断裂から現れた。
「私はあいつらをふんじばっておくから、消防団に連絡とこいつ病院に送って」
「了解ー」紫は陰陽玉を使って一言二言指示を送ると、ドレスグローブの端を引っ張りズレを直した。
「おい、何をするつもりだ」布都が抗議する間もなく、紫の腕が伸びて布都を空間の断裂に引きずり込んだ。
布都は赤に染まった歪んだ空間の中に浮かび、紫に抱えられていた。赤い瞳の目玉がそこら中に浮いており、その視線を感じて布都は身震いした。
「お疲れ様。貴方のお陰で里の平和は守られたわ」紫が言った。
「おぬしは我が霊夢と早苗といた時の。そんな便利な能力があるのなら助けてくれても良かったであろう」
「人里を守るのは人間か、人間の味方でなければなりません。それにワープで一撃、スキマにポイなんて単純な手が通用する相手でも無かったでしょう?」
「まあ、そうだな」布都は能面の吸血鬼達の反応の速さを思い出した。ブレイン、参謀、裏で吸血鬼を訓練している者がいる。
「じゃあ、ゆっくりお休みなさい」布都は空間の断裂を下へと抜け、予約済みの寝台の上に落とされた。横には永琳が控えていた。
「まあ酷い傷。綺麗なんだから顔は大事にしなさい?」
「よ、よろしく頼む」
永琳は布都の身体をつま先から烏帽子まで一瞥した。
「貴方、神職に見えるけど、誰の世話になってるの? 確か物部と言ったわね?」
「は? 祀っている神という意味なら饒速日命だが。察しの通り物部の祖神であるからな」
「もし会ったら彼によろしく言っておいてちょうだい。息子たちが世話になったって。八意って言えば分かるわ」
「はあ?」かつて八意思兼神の息子、天表春命・天下春命兄弟は饒速日命を護衛していたが、布都は永琳がその八意思兼神だとは知る由もない。
夜明け前、人里の永遠亭出張所。慧音は扉をノックした。出迎えたのは鈴仙だった。
「待っていたわよ。そちらの方も一緒に?」鈴仙が言った。
「ああ、地底から呼んできた催眠の専門家だ」慧音が言った。その後ろには薄紫のショートカットの女性がいた。
「どうも、古明地さとりと申します。『こんな時間に急に呼び出されて、早く帰りたいなあ』? まあ私が貴方と同じ立場でもそう思うでしょうね。というより今の私の立場がそれです」
鈴仙は眉をぴくりとさせた。反射的に精神の表面を走る波に同強度逆位相の波をぶつけ、心の中を無音にした。
「ん? ……急に貴方の心が読めなくなりました。表面上は全く停止しているように見えます。無念無想の境地に達した者の心でも、静止したコマの回転軸のようにわずかなブレがあるものですが。やりますね。しかし、もう少し深いところに私に対する恐れがうっすらと見えますよ」
「やれやれ、尋問には最適の人選のようね」鈴仙は苦笑した。
慧音とさとりは病室が並んでいる区画に入った。里を襲った十五人の吸血鬼達は小鈴を捕らえていたものと同じ、封印が施され格子のついた病室に閉じ込められていた。一度しか噛まれていない工場付きの夜警を除くと、彼らは襲撃から三十分後に人間に戻った。今のところ、再び暴れだす余地はない。二人は洋装だった強面の青年の病室の前に移動した。さとりは注意深く対象を見た。催眠誘導は観察から始まる。彼は寝台の上で上半身を起こし、ぼうっと右を見て、左手を右手の上に載せて掻いている。彼のポロシャツとジーンズは燃えてしまったために上半身は裸で、身体の各所に包帯を巻いている。壁を隔てた隣には同様に作務衣だった細面の青年が包帯だらけで起きている。吸血鬼の回復力のおかげで布都の術による彼らの火傷は気絶している間にほとんど治っており、鈴仙は夜警を集中的に治療していた。
「格子に触れないよう気をつけてくれ」慧音は格子を開け、椅子を二つとさとりを中に入れてやった。洋装の青年は緊張した面持ちでさとりを一瞥したが、すぐに視線を右に戻した。さとりの目には彼が隣の部屋の友人を気にかけているのが見えた。さとりは用意された椅子に腰掛け、上半身は強面の青年と同じ姿勢をとった。催眠誘導の技法の一つ、ミラーリングである。
さとりと青年は互いに簡単な自己紹介をした。さとりは心理療法士を名乗り、面接が始まった。
「今日の夜、貴方は何をしていましたか?」さとりは強面の青年に言った。
「何って、俺は友達の家で二人で飲んでたんだよ。俺の部屋の隣にいる奴さ。なあ?」
「そうです。彼は間違いなく私の家で一緒に飲んでました。その後酔いさましに外に出て行ったんですよ。このところ夜の間は蚊取り線香がそこら中で焚かれてるおかげで、人里の中ならさほど蚊を恐れずに出れますからね」壁越しに細面の青年が言った。
「その後は、正直良く覚えていない。いつの間にかここにいた。できれば思い出したいのだが、すまんな」
質問によって洋装の青年の無意識が刺激され、さとりの脳裏に青年の心象風景が映し出される。六畳半の部屋、畳の上で作務衣の青年があぐらをかいている。中々整った顔が緩み、すっかりくつろいだ雰囲気である。畳の上には上等の酒の瓶、つまみが並び、洋装の青年がその一つに手を伸ばすが、アルコールの影響で意識が焦点を結ばず、ぼけている。青年は視線を移し、壁の天井近くに掛時計が映し出される……時刻は彼らが工場を襲撃したまさにその時間を指していた。矛盾しているが、作り物には見えない。時々心象風景に表面が虹色に鈍く光る泥のような影がよぎったが、ちらついた側から薄まっていった。
アプローチを変えよう。さとりは第三の目を掲げ、そこから赤い光を発して部屋中を満たした。
想起「恐怖催眠術」
さとりは呼吸のリズムを強面の青年に同調させ、彼が息を吐くタイミングで話しかけた。
「貴方は、火傷していますね」
「ん? ああ、そうだな」
「痛みますか?」
「ああ」
「その痛みは今までずっと、四六時中意識していましたか?」
「いや、忘れていた時もあった」
「そう、貴方はさっきからずっと友人の事を気にかけていた。その間は火傷の痛みは『意識』していなかったはずです」
「そうだ」
さとりは呼吸を遅くした。要所要所で抑揚を付け、特定の単語を強調して導く。青年はそのリズムについていく。
「飲んでいる時、お友達と会話しているとそちらにすっかり『注意を集中して』て……いつのまに『時間が短くなっていた』経験もあるでしょう。それは『トランス状態』、『催眠状態』と呼ばれ……日常的に経験しています。『無意識』が不要な情報を濾し取るのです。お陰で慢性の痛みや耳鳴りに悩まされずに済みますし……楽しいことにすっかり『没頭する』事ができます」
「同様にこれから話すことは……貴方とお友達を助けるために、とても役に立ちます……しかし私の話に『集中して』いなくてもかまいません。『ぼうっとして』いても構いません。貴方が『快適な』状態であると望むかもしれませんが……『快適である』必要すらありません。どちらにせよ、貴方の『意識』が貴方自身を『深いところに導いて』くれるでしょう」
さとりはさらに呼吸のリズムをゆったりとさせた。強面の青年は右手を掻くのを止めた。
「人の心は『無意識』と『意識』に『分かれて』います。意識を水面、『無意識』を水底と例えてもいいかもしれません」
「人の心は井戸のようなもので……必要に応じて汲み上げ……『記憶を思い出し』……『思い出したい』と思わないことは沈めてしまう事も出来るのです」強面の青年の表情が平板化した。さとりはさらにテンポを遅くする。青年はどこかの一点を見つめ続けている。
脳符「ブレインフィンガープリント」
「貴方はこの仮面に見覚えがあるかもしれません……あるいはないかも知れません」
さとりは懐から黒く焼け焦げた能面を取り出した。金色の剥げた、獅子口の面だ。さとりの目は青年の心が緑色の波を発しているのを捉えた。過去に見たことのあるものを見ると、人の脳はP300と呼ばれる独特の脳波を出す。さとりはそれを脳の指紋として感知することが出来る。青年の無意識は覚えているのだ。さとり自身もトランス状態に入り、青年と意識を完全に同調させた。さとりは青年の無意識の深層に潜り込み、彼と同じ視点に立っている。さとりは青年だ。
「そう、思い出す……貴方には里を出て行って、誰にも見られていない期間があります……その間には何をしていましたか? 貴方は、私は思い出すことが出来る。好きに取り出せる……」
さとりは暗い、暗い所にいる。おびただしい数の蚊が露出した腕に並んで血を吸っている。耳障りな羽音……もう少し心の焦点を合わせよう。どこにいる? 誰といる? 奥の方にろうそくのような光が灯り、金髪の少女の顔が朧げに浮かんでくる。さとりはその少女と会ったことがあるような気がした。もっとピントを絞らなければ……カンナの花。紅いカンナの花。
その時、さとりの視界を蚊の大群が埋め尽くし、意識が現在へと引き戻された。さとりは顔をあげ、もう一度無意識へのダイブを試みた。しかしさとりの目には青年が里で再開発工事に従事しているのが見える。もはや重要な情報は得られず、虫に食われたかのような雑多な記憶しか浮かんできていない。
「リアルタイムに記憶を書き換えている!」
「おい、どうした」慧音が言った。
「他の人で試させて下さい。妙なことになりました」
さとりは細面の青年、元防護服の男、その他慧音の教え子たちにも様々な心理療法的アプローチを行なったが、全て同じような結果に終わった。さとりは慧音と診療所の控室に戻り、ガラスの小机を挟んだ一対の黒いソファにそれぞれ腰掛けた。
「駄目です、読めません。もう少しで重要な情報が得られるというところで引き戻されてしまいます」
「む、サトリの読心の力は怨霊が怯えすくむほどと聞いていたが」
「あ、考えるだけでいいですよ。その方が私もコミュニケーションを取りやすいので」
『そ、そうか』
「私は意識に上って来ない事は読めません。ですから催眠を用いて思い出させる訳ですが、私の恐怖催眠術は万能ではないのです」
『どういう事だ?』
「そうですねえ。例えば、多重人格というものを聞いた事はありませんか?」
『多くの場合、幼児期の虐待によって生まれると聞いた』
「そう、良い点を突きますね。人が激しい虐待を受けると、精神は自己を守ろうと本人のものとは別の人格を生み出す事があります。虐待を受容し、されるがままに耐える人格です。本体の心を守るために別人格を犠牲にするのですね」
『なるほど』
「同様に、無意識には心を守る働きがあります。辛い記憶を思い出さないのも無意識が精神を守る働きの一つですね。そこで私が催眠状態に誘導すると、解離状態、つまり辛い記憶を持つ自分と客観的にそれを見つめる自分を分離してやる事が出来ます。するとトラウマを分析し、乗り越える機会が生まれます」
『誰でも乗り越えられるわけでは無いのか?』
「ええ、私の催眠でトラウマが蘇るのは強い人たちです。心の奥底でそれを乗り越えたいという気持ちがあるのですから。無ければ無意識は精神を守りたい訳ですから、思い出すのは嫌だ、見つめるのは嫌だという事で私の言う事など聞きません。催眠術というと何でも言う事を聞かせられる様に思えますが、あくまで主導権はその人の心にあるのです」
『何でもできるわけでは無いのか』
「私にもどうしてもトラウマを見つめる機会を引き出してやれない者がいます。生まれた時から私と付き合いがあり、私も彼女のために日々研究を重ねていますが、どうしてもその機会が巡ってこない」
『そうか、お前にも色々あるんだな……では、あの吸血鬼たちも』
「記憶のかなりの部分が無意識に埋没してますね。自分達がした事を見つめられるのはいつになるやら」
『待て。妙だな、小鈴事件の時に私が取り調べたんだが、彼女は完全な記憶を保っていたぞ?』
「それは彼女の心の強さでもありますが、今回の患者達は蚊に何度も刺された事で蚊の影響力が強まっているのかもしれません。私が読心術に妨害を受けた時、妙な心象風景が見えました。まるで、蚊の大群のような。人間に戻っても、蚊に不利な事はできない様に無意識レベルの調整を受けている可能性があります。これほど高度に自分を騙すのは難しい。興味深いですが事態は深刻です」
『蚊に支配を受けた人間をお前が目撃しても、計画のことが意識に上ってこないからスパイかどうか見破れないということか』
「はい」
『今回捕まった人間は揃って蚊に頻繁に刺されていた事がこちらで分かっている。それ以外にもスパイが社会に溶け込んでいるとしたらかなり厄介だな』
「人民の海という奴ですね」
『まあ、歴史上のレジスタンスと違って吸血鬼は里の人間が支持してる訳ではない。政府がゲリラを叩き潰せないのは、国民の多くが政府より革命家を支持していて支援したり匿ってくれる場合だからな』
「吸血鬼は人間にとって明確な脅威ですからねえ」
『ああ、ちょっとでも怪しい奴を見かけたら里の民が通報してくれるだろう』
永遠亭の病室。
布都がひと通り検査を終えて三十分ほど過ぎた頃、病室に神子と屠自古が瞬間移動して現れた。二人は布都を見つけるとベッドに駆け寄ってきた。
「布都、よくやってくれました。これで里の希望も守られるでしょう」
「太子様!」
「馬鹿野郎。心配したぞこの野郎」
「屠自古か。おぬしは時々人が良すぎる。だがありがとう」
「顔の方は大丈夫ですか?」神子は布都の頬に走る五本の切り傷を見て言った。
「ええ、お医者様が痕もなく直して下さるそうで」
「顔の傷! それは良くないわ。さあ物部様、この新しく開発したばかりの仙薬を!」青娥が病室の壁をぶち抜いて現れた。手には何やらカスタードクリームのような粘性のある薬物で満たされた壺を持っている。
「残念ながら先約があるわ」永琳がそれを押しとどめた。
「このぐらいの傷は朝飯前。仙人なら並みの人間や妖怪よりは早く退院できるでしょう。肋骨のヒビ、体の各所の傷、後はちょっと火傷があるぐらい」
「布都をよろしくお願いします」屠自古が言った。
「責任をもって引き受けますとも」
「一時的な現象でしか無いはずの吸血鬼が互いに組むとは予想外でした。そうと知っていれば貴方を一人では寄越さなかったものを」神子が言った。
「門下の道士達と共に、いつでも里を守りに掛かれるように備えをした方が良いかと。何か不穏な気配を感じます。これだけで終わるとは思えませぬ」
「ええ、早速準備に掛からせましょう」
人里の出張所。慧音とさとりは今回の面接についての詳細な記録を取り、さとりは立ち上がって出発する準備を始めた。
「では私は、これから別の用事がありますので。どの道今日は地上に出るつもりでしたから、今回呼ばれたことはちょうど良かったかもしれません」
『アレか』
「アレです」
二人は妖怪の山の方へと視線を移した。夏の今は緑色に包まれているが、朝焼けに照らされて群青色に輝いている。
「しかし、少し早く来すぎてしまいました。八時か九時ぐらいまではどこかで時間を潰さなければなりません」
『人里には妖怪向けに夜も営業している料亭がいくつかある。私も満月の夜の編集作業に疲れた後は息抜きに食べに行く。オススメだ。日の出後もしばらくは開いているはずだ』慧音は紙を取り出し、場所を書いて渡した。
『本当は私から手料理でもご馳走したいのだが、授業に向けて少し休まないといけないのでな。それに捕まった子供たちのご両親への連絡もある』
「ご好意だけでもありがたいですよ。これ以上貴方と付き合うと余計なものまで視てしまうかもしれませんしね」
『こらこら』
さとりは慧音に別れを告げ、大通り沿いに料亭を目指して歩いていった。配達に歩く里人の男がさとりの胸から伸びるコードと第三の目を見てぎょっとする様子を見せたが、さとりはそれを視ても笑うだけで済ませた。
灯籠の並ぶ、早朝の命蓮寺参道。眼鏡にショートカット、毘沙門天信仰者の女性は朝の少し蒸した空気を味わっていた。薄明かりの参道を途中で曲がり、墓の方へと赴く。並び立つ墓石の林を抜け、無意識の内にとある場所に引き寄せられようとしていた。
「あ、そっち危ないよ!」大声がした。彼女が振り返ると、緑の髪に犬のような垂れ耳を生やした少女が立っていた。
「おはよーございます!」あずき色のワンピースに緑色の花のボタン、幽谷響子だった。手には箒を持っている。
「お勤めご苦労さまです。朝から墓の掃除とは精が出ますね」彼女は時々命蓮寺に通っているため、響子とも面識があった。
「どうして危ないのですか?」
「そっちにはでっかい洞窟に続く穴があるんだけど、人間の子供が岩の隙間に落ちたりしたら危ないからってみんなで塞いじゃったの。妖精や妖怪の子供の遊び場になってたからみんなブーブー言ってたけど、仕方ないわよね。この寺にはあなたみたいな人間も来るんだから」
「そうですか。ありがたい配慮です」
「何しに来たの?」
「朝の座禅と読経に参加しようと考えたのですが、早く着きすぎてしまったので散歩でも」
「なるほど! なんなら暇つぶしに一緒に掃除でもする?」
「いえ、もう少し辺りを見て回りたいです」
この子に見られてはやりにくい。回り道をしないと。回り道って、どこへ? やりにくいって、何を? 自問する声は頭の中で反響する蚊の羽音にかき消された。
夢殿大祀廟の洞窟。眼鏡の女性は命蓮寺近くの別の抜け道を使って侵入した。ここでは闇のお陰で蚊の羽音の反響が明瞭に聞き取れた。この洞窟は日の差さない上に水が溜まっており、血の源となる動物が適度にいた。よって飢えた蚊にとっては格好の繁殖地となっていた。魔理沙に習った飛行術のお陰で、女性は岩場に引っかかる事なく奥の方で光る五十人ほどの人間の輪に辿り着くことが出来た。中心には魔理沙がいる。地面に置かれた八卦炉から出る魔法光で辺りを照らしている。
「遅かったじゃないか」魔理沙が言った。
「すいません。寺のルートを使おうとしたのですが、ヤマビコの子に見つかってしまいまして」
「上手く誤魔化せたか?」
「恐らく」
「まあ、ヤマビコはあんまり頭の働くほうじゃないから大丈夫だろうけどな。足し算さえ怪しい」
「あの子、そんな頭悪かったんですか……」
「じゃあ、成果を確認しよう。私は里にある蚊対策グッズの四つの工場全てにドラゴンメテオを叩き込む予定だったが、慧音の妨害が入って実際に破壊できたのは蚊帳工場とトラップ工場だけだった。実に残念だ。ブラックライトと網戸の担当は無事に逃げられたか?」
「はい、私はブラックライト工場を担当してましたけど、私の仲間は全員帰宅したのを確認しました」眼鏡の女性が言った。
「網戸担当だよ。全員無事」ウェーブのかかった長髪の、垂れ目の女性が進み出て言った。疲れてはいないようだが、気怠い様子だ。
「あの夜に私達の中から何人動員したっけ?」魔理沙が言った。
「二十五人です。寺子屋に五人、蚊帳・網戸・トラップ・ブラックライト、四つの工場に五人ずつ」眼鏡の女性が言った。
「そのうち捕まったのは? 誰か見ていないか?」
「俺、慧音先生と赤い袴の女の子がトラップ工場の連中をふん縛るのを見てました。家の窓から。袴の方は白い髪が超長くて思わず見惚れちゃいましたよ」十八ほどの引き締まった短髪の男が言った。
「妹紅だな。やはり慧音と組んでいたか」魔理沙が言った。
「同じく、寺子屋の前で大きな剣を持った白い髪の女の子が子供たちを捕まえてたわね。そっちの髪は短めだったけど」三十二ほどのセミロングの女性が言った。
「妖夢か」
「そうそう、蚊帳工場には博麗の巫女さんがいたね。妖怪の賢者と何やら話してて、烏帽子をかぶった小さな女の子を手当してたよ。あの子は時々里で見かけるねえ。随分と古い格好だけど、妖怪なんだろうか」白髪に灰色の中折れ帽を被った老紳士が言った。
「そいつは多分仙人の布都だろうな。妖怪よりは人間に近いが、あんなんで生きていたのは軽く千年以上は昔のはずだ。実際に活動していたのは百に満たんようだが」
「なんと、このワシよりか! いやはや」
「となると、今回破壊できた施設を担当してた連中はみんな捕まったと見ていいだろうな。約十五人か。で、私達は今まで何人『勧誘』したっけ?」
「だいたい三百人です」眼鏡の女性が言った。
「なるほどなるほど……」魔理沙は口角を上げて笑った。
「大勝利だな。私達はたった五パーセントの犠牲で蚊対策グッズの生産工場の四割を潰したというわけだ」
洞窟に拍手が鳴り響いた。五十人分のそれは一時的に羽音の音量を上回った。
「次はどうするつもりですか?」拍手が止んで、短髪の男が言った。
「当面の標的は蚊取り線香工場だ。線香の在庫がある限り、蚊は里には入れない。もしこいつを止められれば効果は計り知れない。マミゾウが資金を出して蚊の対策グッズを作らせているのは皆知っているとは思う。人里にも求人がしょっちゅう出てるし、今回里を襲撃するために従業員を『勧誘』したからな」
「でも、蚊取り線香工場で働いている人間は誰もいない」ウェーブの女性が言った。
「そうだ。そこで絡んでくるのがこいつだ」
両手でピースサインを笑顔で掲げる河童の写真の複製を数十枚、魔理沙は里人たちに回した。
「河城にとりだ。写真の裏には私が知っている限りの情報を記しておいた。こいつはマミゾウの投資計画の初期から蚊取り線香製造に携わっている。今までの工場は里に金を回す都合もあったし、製造に専門知識が要らない部分は人間が関わってた。だから私達がスパイできて、工場の場所も間取りもすぐに分かったんだ。しかしこの蚊取り線香だけは恐らく河童が製造を一手に担っている」
「だから、私達に工場の情報がろくに入ってこないというわけね」セミロングの女性が言った。
「その通り。河童印の蚊取り線香は里に求人が入る前から出回ってるし、里の外から河童が運んできている。全部河童だ。あの異常な安さにも人間には分からない秘密がありそうだな」
「となると差し当たっては、引き続き里の物流や河童と人間の取引を探るのが良いということかな?」老紳士が言った。
「ああ。情報を得るための手段は問わんが、なるべく見つからないようにな。妖怪の山のガードは堅い。もし河童から情報を引き出せたら大金星だぜ」
「でも天狗は一人ひとりがとんでもなく強いし、河童だって侮れないよ。場所がわかった所で攻められるの? 僕達が別の工場を襲ったから警戒してるかも」十四歳程の男の子が進み出て言った。肩まで届きそうな、さらさらした黒髪だ。
「そこはほら、これだ」魔理沙は文々。新聞の最新号を取り出した。日付は一週間前で止まっていた。
「ちょっと前から文々。新聞の発行が止まっている。他にも大天狗を含む天狗たちの発行する新聞が何紙も休刊中だ。天魔はまだ討ち取れてないようだが、我らが蚊はしっかり働いているようだな」
「へえ、あいつらなら蚊なんて風で吹き飛ばせそうなもんだけどなあ」
「新聞を日の出てない時間帯から幻想郷中に配ってる奴らだぜ? 妖怪の山だけならまだしも、普通の虫や魚、動物にまで毒になる蚊取り線香を全部の土地に隙間なく焚けるわけがないから、どう頑張っても隙が出来る。防護服だって全員分は無いし、この暑さなら脱ぐ奴は出てくるさ。昔世界の半分を征服しかけた王様だって遠征の途中でマラリアでおっ死んだって本に書いてあった」
「ふーん、なるほどね。数をじわじわ減らして、手薄になったところをガツン! ってわけか」
「そろそろ時間切れだ。解散! 今夜のアリバイが怪しい奴、この後捕まりそうな奴はここに残ってくれ。生活必需品や食糧は十分貯めてあるし、私の魔法で温泉を沸かすことも出来るぜ。あんまり明るくはないが生活するぶんには困らんはずだ。残りの連中も順次機を見て里を脱出するだろうよ」
突然居住地が変わることに対しての当然の不満は、里人たちからはどういうわけか出なかった。皆が皆、自分の生活よりも蚊の利益を優先することを受け入れていた。人々はにとりと河童たちについての情報を無意識の底へと記憶し、写真を燃やして廃棄した。終わると、アリバイのある者達は各々の生活へと帰るべく三々五々と散り始めた。洞窟に残った者達も各グループに固まって談笑し始めている。
ひと通り処理が終わったのを確認して、魔理沙は地底湖の方に向き直った。広大な水面の中心には一塊の蚊の群れがおり、羽音に混じって赤ん坊のような甲高い声が聞こえてくる。
『生きる……』『食べる……』『増える……』声に合わせて、魔理沙の目には蚊の群の構成する知性のうねりが見えた。魔理沙は微笑んだ。
「よう! お前ら、元気か? 今日もちょっと昔話をしよう!」魔理沙は叫んだ。里人の何人かが振り向いたが、分かったような顔をすると皆談笑とキャンプの準備へと戻った。魔理沙が蚊と『お話する』のはいつもの事となっているため、魔理沙を知る里人の中で気にする者は居ない。
「昔々、幻想郷から海を越えて遙か南のあるところに、一つの島がありました。周りを水に囲まれていましたが、ここに人々が海を渡ってやってきて住み着きました……」
地中深くに、穴を掘る。吸血鬼達は穴を掘る。眠るための墓穴ではなく、這い出るための洞穴を。
土は掘られていく。
昼の人里。焼け野原になった蚊帳工場の前で、マミゾウと慧音は日傘をさして待っていた。焦げた地面に転がっている炭になった木材、燃え滓のビニール、かつて力織機だった芥は原型を留めていない。焼け跡は独特の悪臭をうだる熱気を伝って放っている。
「酷いな」慧音が言った。
「これは全部、あの五分間吸血鬼がやったのかい? いつの間にこれ程の力を付けたか」マミゾウが言った。
「いや、全焼したのは布都という道士のせいらしい。最初に大穴を開けたのは空から降ってきた光という目撃証言があるし、道士が言うには自分が着く頃には設備は完全に破壊されてたとの話だがな」
「あやつ、聖人の手下め……」
「そこを責めるのは酷だろう」
「うっ、まあ、そうじゃな」
吸血鬼を一人で五人も捕まえるとなれば多少の犠牲は止むを得ず、どの道大穴が空いた時点で建て直しは避けられないだろう。そこはマミゾウも認めざるを得なかった。
「使われた作戦は非常にシンプルだった。何らかの大魔法で倉庫を守る結界や外装を引っぺがし、残った部分を他の吸血鬼に破壊させる。蚊帳工場とトラップ工場は完全にやられたが、ブラックライトと網戸セットは二つ目の流星群が落ちた直後に私が里全体の歴史を喰っといたから無事だ。あの隕石じみた光の塊は里の外からやってきたようだからな。里の中に潜り込まれなければ守りきれる」
「魔除けの呪符を敷き詰めた屋根に大穴を開けるほどの術を、同時に全部の工場に落とせたらそれこそ化け物だからのう。今回捕まった者の中には各工場の従業員が混ざっていた。土地勘のある物を実行メンバーに据え、間取りもスケジュールも事前に漏れていたと考えるのが自然じゃろう。製品を里の人間に作らせたのが裏目に出たが、里の近くに工場を置いたからこそ、おぬしが里の守護者として控えていたからこそ守りきれたと言える。おぬしには感謝しても感謝し足りんよ」
「礼は妹紅にも言ってくれ。私の一番の友人だ。私の力だけでは全員逮捕は到底無理だったろう。捕まえる過程で工場の床は抜いたがな」
「言うまでもなく。人間の身で不死、是非会いたいものじゃ。道士の方もな」
「なら、次の満月の日にでも会う約束をしよう。焼き鳥と酒でも持っていけば喜ぶぞ」
マミゾウは屈み、吸血鬼除けの呪符の燃えカスを拾い上げた。
「ううむ、たまたま倉庫の近くで人間が蚊に刺されたとか、散発的な襲撃になら倉庫に貼っておいた呪符と配備した警備員で対応できる自信があった。しかしここまで計画的で組織的な妨害を受けるとは流石に想定しとらんかったわ」
「しかも、決行まで一切計画を漏らさずにいたわけだからな」
「あの工場の生産設備はもともと別の製品を作っていたものを借り、転用したものじゃ。でないとこんな短期間で製品を出荷できん。建物も間借りしたもので儂の資産ではない。保険は効くし、燃やされた在庫と原料を除けば損害自体はそれほどない。これから稼ぎだすはずだった利益を失ったのは痛いが、事業自体はまだまだ黒字じゃ。しかしこれからが問題だ。埋め合わせに新しい工場を作るとして、吸血鬼に狙われると分かっていて建物を貸す者がおるか? 機械を貸すものがおるか? 事業を続け、蚊からこの地を解放するためにはテロの脅威は除かねばならん。どのぐらい捜査は進んでおるんじゃ?」
「それだがな、あの夜の吸血鬼どもは十五人捕まえたが、今まで何をしていたのかは忘れているらしい。地底から催眠の専門家を呼んだが無駄だった」
「サトリか」
「何かしらの遠隔的な手段で記憶を抹消されていた。切り捨てられたんだと思う」
「なるほど。そこで打ち止めかい? だとしたら大分がっかりなんじゃが」
「もちろんそんな事で止めはしない。そこで考え方を変えてみた。今診療所で治療を受けている吸血鬼たちには血縁関係にあったり、親友同士の者がいた。たまたま近しい者ばかりがテロリストになるとは考えづらいだろう。吸血鬼どもは日常の人間関係を介して仲間を増やしているのかもしれない。そこで捕まった連中の経歴を調べ、親しい人間の中でスパイの疑いがある者を監視しておけば今後の破壊活動を未然に防げるかもしれないと思ったんだ。これが容疑者のリストだ」慧音はマミゾウに五枚にまとまった紙の束を渡した。そこには八十人分程の氏名、住所、既に捕まった人間との関係を書いた詳細なレポートが載っていた。
「おお、壮観だのう。よくぞここまで調べたものじゃ。これは期待できるか?」
「ところが……昨日までに、そこに載っている里人を含めおよそ五十人が蒸発した。私は人間関係を中心にあたっていたが、リストに載っている人間の他にも蚊の力を利用して土木工事に従事していた者、新陳代謝が高く酒飲みで、良く蚊に刺されていた者がいるようだ」
「先手を打たれたか」マミゾウは手のひらで額を打った。
「捕まった者達の共通点から探られて芋づる式に捕まることを防ぐためだろう。本格的に地下に潜るつもりに違いない」
「どうやら、向こうにも相当頭の回る奴がいるらしいぞい」
「今回の吸血鬼達は力だけでなく、小鈴事件の時のように赤い霧、分身、全てを使ってきた。新聞で情報は出回ってはいるが、妖怪退治に詳しい者が訓練している可能性はある」
「しかしこの幻想郷に五十人も人間を隠し住まわせられる場所が存在するかのう? 外の世界では犯罪者が名前を変えて他の土地に移り住む事は珍しくないが、多少名前と住居を変えた所で狭い人里ではバレバレじゃ。長く隠しておけるとは思えん」
「それはまだ分からん。妖怪の賢者も捜査しているらしいが」
「となると、儂にとって目下の問題はやはり生産設備の復旧か。蚊が妖怪も刺すようになったから、妖怪の居住区まで投資対象が拡大すると資産があってもキャッシュの用意が間に合わん。くそっ、正攻法ではあの蚊には勝てんというのか? 小鈴……」
「二ッ岩、そう気を落とすな。あの時点ではお前のやり方が間違いなく最善手だったんだ。これからもそうかも知れない」
「しかし儂の得意なのは搦め手だからのう。アプローチを間違ったかもしれん」
「起こってしまった事は仕方が無い。次の手を考えよう」
マミゾウは深呼吸した。
「うむ、弱気になっている暇は無いな。儂としたことが少々焦っていたようじゃ。ありがとう。里の人間がおぬしらを頼るのも分かる」
「ははは。どういたしまして」
「お、終わったようじゃな」
焼け跡の中から二人の人影が現れた。アリスとパチュリー・ノーレッジだ。二人の服はそれぞれリボンと帽子、肩のケープから背中にかけて汗が染み付き、焦げた木片の入った瓶を数個持っている。
「暑い……」アリスが言った。
「どうだね、進捗は」マミゾウが言った。
「全部燃えてたからトラップ工場ほどはサンプルは取れなかったけど、十分。これから館に持って帰って解析するわ。襲撃の時に使われた魔法の性質がある程度分かるかもしれない」パチュリーが言った。
「ねえ、まさか魔理沙がって事は無いわよね」アリスはパチュリーを見た。
「考慮すべきは三点。第一に、最近里の薬屋に魔理沙の製造していた抑制薬の供給が止まっている。第二に妖怪の賢者の話ではあの夜、異変解決できる人間たちの中で魔理沙だけが自宅に居なかったらしい。その後は行方不明、アリバイなし。第三に、吸血鬼達はどういうわけか、星型弾などの光の魔法を使っていた……望み薄でしょうね」
「ああもう、いつも世話を焼かせる!」
「相手が誰にせよ、吸血鬼どもは光の魔法を使ってくる。それを封じるだけで大分効果が上がると思うのだが、対策は出来ないのか? 魔法使いとしての意見を聞きたい」慧音が言った。
「光の魔法自体はモノを壊すだけの低級なものよ。でも単純なだけにかえって対策が難しいのです。貴方が自分の家にどれだけ魔法防御の呪符を張った所で、家の三倍ぐらいの大きさの岩を落とされたら潰れてお終い。イメージとしてはだいたいそんなところかしら」アリスが言った。
「もし対策できたら教えてちょうだい。館の門をそれでフルチューンナップするから」パチュリーが言った。
「プロの魔女も魔理沙どのの魔法には手を焼いているわけか」マミゾウが言った。
「もう少し複雑な魔法ならその分付け入る隙もできるんだけど、破壊力の一点特化だからねえ。魔理沙自身は色々試したいみたいだけど、結局そこに帰ってくるみたい。まあ、まだ魔理沙と決まったわけじゃないし、館に行ったらゆっくり調べるわ」アリスが言った。
永遠亭出張所。正午になり、鈴仙は囚われの患者たちに食事を運びにいった。十五人分の食事。最後の病室には慧音の教え子の双子の兄弟がトランプをしながら向かい合って座っていた。隅においてある二つの机には、寺子屋からの差し入れのテキストが置かれている。
「ご飯よ」
鈴仙が呼ぶと、双子の兄弟は入り口へと駆け寄ってきた。格子の隙間から差し入れた膳に載っているのは、焼き肉とレタスの乗った湯気を立てる丼ぶり、赤味噌の味噌汁、沢庵、みつ豆など。病院食にしては豪勢な内容に、双子は目を輝かせた。鈴仙はそれも当然だと思った。とっくの昔に二人は治療するべき病人ではなく、暴れないように監視下に置く軟禁の対象だったのだから。蚊の支配から逃れる方法はまだ分からなかった。解放できない以上、せめて食事は豪華にしておこう。
「何か辛い事はないかしら?」
「ううん。兎さんの作るご飯、おいしいから」弟が言った。
「でもね」兄が言った。
「父さんも母さんも、お見舞いに来ないんだ。慧音先生に頼んだけど、家にもいないんだって。どこにいったんだろう?」
鈴仙には答えられなかった。
パチュリーはアリスを伴って館へと戻った。アリスは美鈴に会釈し、美鈴は微笑みながら門を開けた。館の中に入ると、レミリアと日傘を持った咲夜が出かける準備をしていた。レミリアはサングラスを掛け、咲夜は日傘を持っている。
「あら、こんな真っ昼間からどこへ?」パチュリーが言った。
「ふっふっふ、デートよ、デート。人里でね」レミリアが言った。
「今の人里は良いデートスポットとは言えないと思うけど」アリスが言った。
「視察も兼ねていらっしゃいますから」咲夜が言った。
「お忍びで、ね。人間を怖がらせるのも悪くはないんだけどー。今は隠したい気分」レミリアはサングラスを弄りながらニヤリと笑った。
「急浮上したライバルの実力がどんなものか見に行かないといけないものね」パチュリーが言った。
「こら」
友人が奥へと引っ込むのを見て、レミリアは館を出て行った。美鈴が敬礼をして見送っていた。
午後の人里。主従は大通りを歩く。通りを行き交う人々は目を伏せ、見られる事を恐れるかのように先を急いでいた。以前は綺麗だった場所にゴミが目立つ。
「なんだかみんな、余裕が無いわね。以前来た時はもう少し穏やかだったのだけど」レミリアが言った。
「日に日に里の雰囲気は悪くなっています。やっと蚊を追い出せるという所で、あの襲撃事件でしたからね。工場は人間にとって心の拠り所だったのでしょう」
途中で、道を歩いていた人々が足を止めて集まっている見ている建物があった。薬屋だった。焦げた臭いが辺りに漂っている。
「どうしたのですか?」咲夜は歩みを止め、店の前の七三分けに丸眼鏡を掛けた男に聞いた。
「ああ、寝てる間にちょっと火事になりかけましてね。そこの壁の辺りに焦げがあるでしょう? 明らかに放火です。ボヤで済みましたから、今日も何とか営業中ですがね」薬屋の主人は頭を掻いた。
「それはお気の毒に。他に最近何か事件はありましたか?」
「そうですね、最近、夜の間に仕掛けておいた蚊のトラップが色んな所で壊されていましてね。商品を回してくれる工場が無くなったんで、在庫がなくなったらどうしようかと気が気じゃありませんよ。まだ本命の蚊取り線香は出回ってますからお買い求めいただけますがね。よろしければ少し買っていきますかい?」彼はこの状況でも売り込む気満々だった。
「では、折角ですから」咲夜はあえてセールス・トークに乗った。少しは修繕費の足しになるだろう。
「ふーん。スパイがいるって話は本当のようね」レミリアが言った。サングラスの奥の眼が薄く光った。
大通り沿いのカフェー。レミリアと咲夜はテーブルテラスの椅子に腰掛け、パラソルの下で待っていた。やがて黒い制服に身を包んだ若いウェイターが伝票と注文した品を運んできた。咲夜にはコーヒーとモンブラン。レミリアには紅茶とプリンパフェ。広口のグラスの中心にはプリンとクリーム、チェリーが乗り、周りをシラップ漬けのりんご、苺、メロンなどが囲っている。テーブルの上に置かれたそれを見て、レミリアは目を輝かせた。
「いただきまーす♪」
「いただきます」
レミリアは口内で溶けるクリームの味を楽しみ、咲夜の唇がモンブランを飲み込んでいくのを見て心の中で舌なめずりした。三分の一ぐらい食べた所で、近くのテーブルから会話が聞こえてきた。男が二人。レミリアは周りに植えられた観葉植物を見るふりをして、耳をそばだてた。
「お前の働いてた工場、壊されたらしいな。大丈夫か?」
「お陰で俺の仕事が無くなっちまったよ。折角数カ月ぶりに無職を脱出したってのに。まだここで茶を楽しめる程度には蓄えはあるけどな。いつかの霧の異変だってここまで酷くは無かった」レミリアは耳をぴくりとさせた。
「でも、吸血鬼達は慧音先生と竹林の娘さん、道教の人で全員撃退したんだろ? 吸血鬼だからって恐れることはないじゃないか」
「そうはいうがな、捕まった奴の名前を新聞で見たんだが、俺の同僚だったんだ。捕まって、支配されて、工場の情報をそのまま流してたんだろうな。他にも里の中にスパイがうようよいるのは確実だ」
「マジかよ。それは……」
「こうして話してる間にも連中の手下の吸血鬼が聞き耳を立ててるかもしれない。気味が悪いったらないぜ」
レミリアの普段は血の気の薄い額に、青筋が立って痙攣し始めた。レミリアはサングラスを外して里人のテーブルを見やった。レミリアの殺気を感じ、里人たちが振り返った。レミリアを認めて血の気が引いていく。こんな時間に本物の吸血鬼がいるとは思わなかった。噂をすれば影が差す。レミリアは咲夜の方に顔を戻し、里人たちは胸を撫で下ろした。
「咲夜、これは物凄いピンチよ」
「何故です?」
「人間への脅威として私が蚊に負けているのは百歩譲ってよしとするわ。あの虫けらの実力への正当な評価として認めてやっていい。でも、いまや吸血鬼という種族全体がどこぞの秘密結社の戦闘員以下の存在に貶められようとしているの。人間を支配しようと目論む何処の馬の骨とも知れない痴れ者のせいでね。舐められている……格段に舐められつつある!」
「なるほど。それで、御用命は」
「私とのデートや館の仕事より優先しても構わないわ。これからは異変解決側としてできる限り蚊を殺し、イミテーション共を捕らえなさい! 同業者をぶっ潰して、失われた誇りを取り戻すのよ!」
「分かりました」咲夜は身を乗り出し、レミリアの口に付いたクリームを拭いてやった。レミリアは照れ隠しにサングラスを付け直した。
少し経ってレミリアはパフェを平らげ、残った紅茶をちびちびと飲んでいた。先に食べ終わった咲夜が口を開いた。
「素朴な疑問ですが、どうしてお嬢様は名誉を重んじるのですか?」
「どうした急に」
「生きる上では必要のないことですから」
「咲夜も生きていくだけなら私のそばにいる必要は無いわね」レミリアは鼻を鳴らした。
「いえ、お嬢様のいない人生は考えられません。私にもプライドが無いわけではありません……ただ、どうでも良いことでは無いのかなと」
レミリアは頭を抱えた。極めて高い能力を持ちながら、咲夜にはこだわりというものがあまり無かった。世界を支配できる程の超能力は、ずる休みぐらいにしか使わない。日々の食い扶持のためなら平気で悪魔に魂を売るし、館入りするにあたって命じられればレミリアが呆れ返る程あっさりと以前の名を捨てた。一日中家事のことで頭を一杯にしている。多少変人扱いされようと、何事にも大真面目に取り組んでいれば瑣末なことで気が滅入ることもない。普通の人間とは大きく違った人生の中で、悩まないためにいつの間にか身につけていた習慣だったのだろう。怒ることもあまり無い。例外は予期せぬ侵入者に家事を邪魔された時か、天人の暇つぶしのために天界まで登らされた挙句にさっさと帰れと言われた時ぐらいだった。飯さえ食えればそれでいい。たまに気にかけることといえば、次の満月の日にお嬢様は吸血に何時間かけるのか、明日の御主人様に淹れる紅茶にはどんな毒物を混ぜようか、最後の日をお嬢様とどうすごそうかといったことだった。それぐらい超然とした態度でなければ、人の身に余る力には耐えられないのかもしれない。そんな理由から、幻想郷一誇り高い主人の下にいながらも、プライドというものは咲夜の理解の範疇の外にあった。
「……どうでもいい! 確かにどうでもいい事だわ。生きるだけなら食べて寝る以上の事は要らない。でも永遠に生きる私にとっては、それでは足りなくなる! 前にも言ったでしょう。永く生きる者にとってはどうでもいいことの方が重要なのよ」
「そういうものでしょうかね」
「咲夜も永く生きるようになれば分かるわ」
「遠慮しておきます」
「ホント欲が無いわねえ」
二人が帰る準備をし始めると、若いウェイターが食べ終わった食器を下げていった。彼は十八ほどの引き締まった身体をした、短髪の男だった。聞き耳を立てていた者はもう一人いた。
日没直後。妖怪の山の中腹、姫海棠はたての家。彼女は自室のドアを開けて中に入り、黒と紫の市松模様のベッドの上に身を投げ出した。仰向けになって伸びをする。
「せっかくひきこもりをやめたのに、蚊のせいで逆戻り。つまんないなー。つまんないつまんないつまんなーい!」退屈極まりない。ツインテールを振り回して、柔らかなベッドの上をごろごろと転がる。
「文の奴、最近急に売上を伸ばしてたから勝負が面白くなってきたと思ってたのになー。対抗新聞が休刊だなんて、勝ち逃げは許さないんだから。早く戻ってくれればいいのに。でも今となっては外に出てのネタ集めも命がけだわー」
はたては天井をみつめた。白い視界の隅にレースのカーテンが映る。
「久しぶりに使ってみようかな、このカメラのき・の・う!」
はたては黄色いチェックの携帯電話を取り出し、手首のスナップを利かせて二つ折りを広げ、カメラを起動した。彼女は最近の吸血騒ぎで魔理沙が疑われているという噂を耳にしていた。念写を使えば居所が分かるかも知れない。
「ふんふーん。出世なんてどうでもいいけど、この写真がきっかけで魔理沙が捕まったら新聞大会で賞が穫れるかも。山のみんな、困ってるものねー」
はたては携帯画面の検索欄に『霧雨魔理沙』と入力し、検索期間の設定を今日にした。『検索』ボタンをクリック。いつもは二十秒あれば出てくるのだが、出ない。一分ほどたって、やっと上から幕を剥がすかのように全体像が表示された。
「えっ、ちょっと、何よこれ」はたては身震いした。
画像には蚊がレンズに腹を向けて隙間なく張り付いている様子が写っており、他のものは何も見えなかった。
夜の妖怪の山、滝周辺。犬走椛は土を踏み、腰に剣を下げて歩哨を務めていた。不審な気配に気がついて、椛は顔を上げて宙を嗅いだ。腰には他にも煙を上げる蚊取り線香の丸い金属製のケースをぶら下げているが、椛の嗅覚なら嗅ぎ分けられる。線香と植物の匂いに混じって、獣の体臭が流れてくる。椛が臭いの方向を見やると、藪の向こうを透過して白い狼の群れが川沿いに斜面を登っているのが見えた。千里眼である。
「懐かしい。かつては私もあの中にいた」
その時、椛は狼の群れの中にそれと似つかわしくない腐臭が混じっているのに気づいた。群れの中心には赤い瞳の狼が居る。周囲の狼の態度から見るとどうやらリーダーのようだが、群れの長となる狼が備えている風格が不自然に欠けているように見えた。新しすぎる。仲間と安定した関係を築ける者は、他を威圧する凶暴性よりも大事なものを持っているものだ。
「てやっ!」椛は意を決して空を飛んで藪を飛び越え、狼の群れへと突撃した。狼たちは椛の赤と黒のスカートに噛み付き裂くが、椛はかまわず中心の腐臭の源へとまっすぐ向かっていく。赤い瞳の狼は一歩飛び退ると歯を剥き出しにして椛へと跳躍。椛は狼を横一文字に斬りつけて迎撃する。狼は地に落ち倒れ、紅い霧を発して大量の蝙蝠と化し去っていった。他の狼は散り散りになって逃げていく。
「捕まえられない、残念。『吸血鬼は狼に化けられる』『吸血鬼は動物を使役できる』油断も隙もない!」
空は他の天狗ともども監視できるが、隠れる影の多い地面はそうもいかない。報告書に書くことが増えた。椛は更に不審者が居ないか警戒しながら、仲間に知らせに藪の中へと消えた。
昼の十時。妖怪の山、守矢神社の境内。さとりはこれから幻想郷の有力者が集う会合へと赴くところだった。
「では私はこれで失礼」犬走椛が頭を下げた。彼女は麓から湖までの護衛を務めていた。
「ええ。ありがとうございました」
椛は山を下って去っていった。さとりは神社からの迎えを待ったが、来ないので鳥居をくぐって先を進んでいった。所々に突き立っている御柱を眺めながら参道を歩いていると、歩いているのとは別の方向から声が聞こえてきた。
「ああもう、駄目ですってば。こんな所で、他の人に見られたらどうするんですか。今日はお客様がいらっしゃるんですよ!」
「今度こそびっくりさせてやるんだから!」
参道から左へ外れた林の向こうで、東風谷早苗と多々良小傘が戦っていた。
後光「からかさ驚きフラッシュ」
小傘の身体が眩く輝き、レーザー光線が放射状に発された。驚くほどの密度だ。さとりは飛び退いて避け、早苗の次の手を見守った。
「さっさと終わらせます!」
早苗は光線の軌跡を察知して避け、深呼吸してから護身の呪法を唱えだした。
「臨・兵・闘・者、皆・陣・列・在・前!」
秘法「九字刺し」
早苗が指で縦と横に平行線を描くと、それとそっくり同じに小傘の眼前に光線の格子が展開する。小傘は巻き込まれまいと身を捩ったが、最後の一本に当たって撃ち落とされた。
「お、覚えてろ~」小傘は傘にしがみつき、遥か上空へと去っていった。普段地底の分厚い空気に慣れていたさとりは、あんな上空では酸素が薄くて苦しくはないのだろうかなどと考えていた。
「あ、すみません。お見苦しいところを見せてしまいました。今ご案内します」早苗は駆け寄ってきた。声こそ申し訳なさそうにしていたが、その目は充実感に笑っており、さとりの目にも心が生気で満たされているのが見えた。新参者とは思えないほどにこの地の流儀に慣れ親しんでいる様子だ。
さとりは早苗の案内について歩き、神楽殿の一つに通された。敷かれた座布団には八雲紫と八坂神奈子が既に座っており、奥には直径がさとりの身長の二倍はありそうな大太鼓が鎮座している。側面に少し色の褪せた金色の龍が描かれており、張られている黒ずんだ牛皮の傷とともに年月を感じさせた。
「毎回同じ場所だと飽きるわよね。だから趣向を変えてみたわ」神奈子が言った。前回の会合までは、台座に『忠』『孝』と描かれた一対の狛犬の間を通って、注連縄の掛かった別の神楽殿へと通されていた。
「壮観ですね」さとりは言った。
「御柱一本のだいたい五分の一ぐらいの重さだったかしら。音に迫力がなくなってきたから、そろそろ新調するつもりだけどね。幻想郷の牛は良い音がなりそうだわ」
しばらく談笑が続いた後で、紫が話を切り出した。早苗は席を外した。
「さて、始めましょうか。そちらの被害状況はどうなっているかしら?」
「妖怪の山の連中、特に天狗がかなりがやられてる。妖怪の山には外に吹き出すように風を循環させているから、ある程度蚊の侵入を防げてはいるけど完全じゃないわ」
「地上は相当荒れているようですね。今のところ地底には蚊はいませんが、もし地上が完全に住めない場所になれば地底にも難民が押し寄せてくるのは時間の問題です。そうなれば少なくない数の蚊が混じって地底にも持ち込まれるでしょう。冥界だけで全てをカバーできるとは思えません」
「命名決闘法、四つの理念」紫が言った。
「貴方が幻想郷に入ってきた時に私が提示したルール、覚えているかしら?」神奈子に言った。
「『一つ、完全な実力主義を否定する』『一つ、美しさと思念に勝る物は無し』他にもいくつかあった気がするけど、貴方が引き合いに出したいのはこの二つでしょう?」
「その通り。貴方はこれをどう思う?」
「良い、とても良い。そりゃ最初はなんじゃこりゃと思ったけどね、まず私自身がここに受け入れられるにあたって助かってるわ。早苗はちょっと奇天烈な所があるから幻想郷に溶け込めるかどうか心配だったんだけど、今やすっかり楽しんでいるようで安心してる。諏訪子だって色んな連中と対等に遊べて喜んでいるし。ここの妖怪達は皆、新しい考え方を受け入れる余裕がある。それは新旧それぞれの観念と、利害の衝突を調整する制度によって安全が担保されているからよ。貴方も恩恵を受けているんじゃないかしら?」さとりに言った。
「ええ。我々が地底に引きこもって数百年が経ちますが、命名決闘法が導入されて以来、他人と関わるのが飛躍的に面白くなりました。私も妹も通常のコミュニケーションをとる事はすっかり諦めていたというのに、遊びを通じて心を通わせられるようになったのですから。特に博麗の巫女と魔法使いが私の所にやってきてから、妹は目に見えて変わりました。心を閉じて辺りをふらふらしているのは変わりませんけど、最近は積極的に地上で人と関わるようになって……貴方の考えた決闘法は彼女の精神に明らかに良い影響を与えているようです。感謝していますよ。本当に楽しい時代になったものだわ」
「ありがとう。では、今この地では何が行われている?」紫が言った。
「力が奔り、狡さが笑う。顔を隠し、徒党を組み、闇討ち不意打ちなんでもござれ。そして首謀者はどこにでもいて手が出せないときている」神奈子が腕を組んで言った。
「そうね。美しさも何もあったものじゃない」
「気に入らないね」
「妖怪の山だけではありません。幻想郷中の人妖の心に不安が渦巻いています。私は絶望を利用して身を守りますし、負の感情は怨霊で見慣れていますが、これだけの数の無垢な魂が悩まされるのを見るのは気分の良いものではありません」
少し間があった。紫は再び切り出した。
「もしこのまま続けば、我々の創り上げてきた幻想郷は荒廃し、当初の理念は忘れ去られ、個人の信念の美しさよりも力と組織の論理が罷り通る世界になってしまう! 私はそれを危惧しているの。私の気持ちに嘘はないでしょう?」紫はさとりの方を見やった。
さとりは頷き、微笑んだ。これ程の実力者が二人も覚り妖怪の前に腹の中を晒すなど、相当の決意がなければ出来るものではない。
「はい。私もそれには反対です。せっかく楽園へと近づいてきたこの幻想郷を、旧い時代に逆戻りさせる手はありません」
「私はこの異変を幻想郷への挑戦と受け取ったわ。課題は増えたけど、基本方針は変わらない。これからもよろしくお願いするわ」
「ええ。早苗のためにもね」
「では、調整の方を続けましょうか。進捗の方はどうなっています?」さとりは言った。
「上々よ。河童に各地への影響の方を測らせているから、もう少しで最適な時間が割り出せると思う」神奈子が言った。
「私の方もそれに合わせて変えていきます。地上の友達が危ないというので、ペットの皆は士気が高まっています。やる気は十分です」
会合は昼まで続いた。さとりと紫は早苗の作った昼食を味わい、帰り際に椛と藍がそれぞれ迎えに上がった。食事の席で、部屋の隅に覚妖怪がもう一人鎮座している事に気付く者はいなかった。
地中深くに、穴を掘る。亡者達は穴を掘る。骨を埋める墓穴ではなく、繋がるための地下道を。
土は掘られていく。もう少しだ。
快晴の真昼間、妖怪の山と里を繋ぐ道路。辺りはまだ緑に溢れている。最近のテロを警戒して蚊取り線香の輸送トラックには装甲車を前後に一台ずつ付けており、にとり自身はトラックの運転席に座っていた。足はブレーキに届いているが、ハンドルがにとりの手には大きすぎるように見える。いつも背負っているリュックは後ろに作ったスペースに積んである。
「いやー、こんなボロい商売ないよ。儲かりすぎて参っちゃうね!」にとりは言った。
助手席に座るおかっぱ頭の黒髪の河童には、にとりの声に多少虚勢が混じっているように聞こえた。無理もない。普段は河童が面従腹背する相手である天狗が次々と熱病に倒れていき、河童たちの間には開放感の下に潜んで心細さが蔓延しているのだから。河童たちはいかに自分が普段から天狗たちの力に頼っていたかを理解した。熱病そのものよりも、状況がもたらす精神的ストレスの方が妖怪の身には堪えた。
「にとり、ちょっと無理してない? 最近働き詰めじゃない。休暇でも取った方がいいと思うけど」
「趣味の将棋相手の天狗や河童も熱病でおねんねだよ。私は幹部だ、蚊への抵抗も兼ねて多少は金儲けに勤しんだ方が退屈が紛れるってもんだ。どうせ技術は全部私達が握ってるしね!」
今までの幻想郷の蚊取り線香は栽培された除虫菊から殺虫成分のピレトリンを抽出していたが、河童はそれによく似た化合物であるピレスロイドを化学合成する技術を最近手にいれていた。合成された薬品は天然物にくらべ遥かに安価で純度が高く、正しく運用している限りはかえって安全で効き目が高かったのである。
車は里へと道なりに下るカーブに差し掛かった。ここは林の中。日光が遮られ、隠れる部分が多い。襲われる危険はあるが、時間やコストとの兼ね合いを考えるとどうしてもここを通る必要がある。地形に合わせて、大きく蛇行。数回目の右カーブに達したあたりでおかっぱ頭の河童がふとスピードメーターを見ると、画面上のレーダーが反応し、点滅してけたたましいアラーム音を発した。
「前方に高エネルギー反応! 地雷かも! 減速して!」
「カーブじゃ急減速は無理!」にとりが言った。
「突っ込む! 脱出よ!」
地面に六芒星の描かれた魔法円が複数現れた。
光撃「シュート・ザ・ムーン」
魔法円が光り、そこから色とりどりの光の柱が五本立ち昇った。前の装甲車が水妖エネルギータンクを撃ちぬかれて内部から爆炎を上げるのが見え、続いて輸送車が光の柱にぶつかり車内が激しく振動した。にとりはエアバッグの圧力にさらされながらハンドルに必死にしがみつく。フロントガラスが割れ、内側に破片を飛ばす。にとりは少し頬を切った。
三本目の柱にタイヤとエンジンが破壊されたと同時に、二人は輸送車から放り出された。右手にガスマスク、左手にリュック。
魔弾「テストスレイブ」
にとりの横を背丈ほどもある鉄球が掠め、トラックの側面に激突してひしゃがせ、そのままカーブの外側へと突き飛ばしていった。トラックは林の木々の数本をなぎ倒して爆裂。光の柱が更に後ろの装甲車を破壊、爆炎の柱が昇る。
にとりの前方の林の中で、魔理沙が箒に腰掛けていた。緑色の眼で背中に羽を生やし、下に能面と外套を羽織った影を四人従えている。怪士、般若、小面、火男。
「在庫はもう諦めな!」魔理沙が声高に笑いながら紅い霧と蝙蝠を放出した。霧が辺り一帯を覆い、封じ込めが完成した。蝙蝠がレーザーを放ち、外套が迫ってくる。
「河童相手に吸血鬼とは、こちらを舐めすぎじゃあないかね!」
水符「ウォーターカーペット」
地面が割れ、隙間から水の柱が昇る。紅い天蓋の頂点に達したそれは水平にいつまでも続く水壁を形成した。前後の装甲車跡からガスマスクを装着した三人の河童が這い出て、火傷と切り傷だらけの腕で水妖エネルギー銃を魔理沙に向けて構えた。一人は三つ編みを二本垂らし、一人は額の辺りでヘアピンを交差させて留めていて、もう一人はガスマスクの下にメガネを付け、髪を後ろで纏めて垂らしていた。最後の前方におかっぱ頭の河童もにとりの横につく。
「大丈夫だった?」おかっぱ頭が言った。
「いっけー! 逆に捕まえてやる!」
水壁がそのまま津波となって奔流を降り浴びせに掛かる。吸血鬼は水流に弱い。
魔開「オープンユニバース」
魔理沙が水の届かない距離まで後退し、木々の上へと飛び出した。魔理沙を中心に鉄球の嵐が放たれる。能面の外套達が鉄球の下にぴったりくっつき、集中豪雨をやり過ごした。その内一人がにとりに飛びかかる。
「何?」
三つ編みの河童がにとりと火男の間に割って入り、グレネードランチャーを構えた。円筒形の弾が打ち出され、回転しながらガスを噴き出し、辺りに刺激臭が撒き散らされる。対吸血鬼用に開発した試作品のガーリック・ガス弾頭である。
火男の暴漢はやや面食らった様子だったが、そのまま弾頭を避けると鉄球を生み出しぶん投げた。三つ編みの河童は腹にまともに喰らい、後ろの林へと飛ばされていく。そのまま火男はにとりに飛びかかるが、おかっぱ頭が水妖エネルギー銃で迎撃した。火男は一瞬うずくまり、更に怪士と般若が鉄球を盾にしてそれぞれ別の河童に飛びかかる。小面は後ろで待機している。河童たちは後退し爆煙をあげる装甲車の影に隠れ、リュックから繰り出した鉄球で暴漢達の使い魔を相殺した。破片が鉄塊となって飛び散り、暴漢と河童は互いに距離をとった。
「にんにくが効かない?」
他は皆外套を羽織っているのに、何故魔理沙だけ顔を出している? 何故分身しない?
「罠だ!」
にとりはおかっぱ頭の河童を抱えて道路へと飛び退り、装甲車から溢れ出る液体水妖エネルギーを浴びて補給した。
「気をつけろ! こいつら魔理沙以外全員人間だ!」
魔理沙は高笑いした。二回目の鉄球嵐を繰り出し、水妖エネルギー弾を弾きながら道路に降らせる。爆煙を河童たちが盾にしていた装甲車が今度こそ粉砕された。ヘアピンとポニーテールは更に林の中へと後退。三つ編みを木の影に隠した。煙が更に酷くなる。
「かかったかかった。私が羽根を生やしてさえいれば、仮面の奴も全員が吸血鬼だと勘違いする! しかし流石にここまで早く見抜かれるとは思わなかったな」
小面の暴漢が宙に浮き、外套の中から黄色いレーザーを幾度と無く撃ち出した。他三人の暴漢は後ろに下がり、林の中へと隠れた。レーザーがにとりとおかっぱを避けて林の中へと突き進む。三つ編みを手当していたヘアピンとポニーテールは木の影に隠れるが、掠るかどうかのところでレーザーが曲がった。ポニーテールはすんでのところで伏せたが、ヘアピンの河童は首筋に喰らい、密集する枝と葉の中に吹き飛ばされた。まだ緑色の葉が多数落ちてくる。
「こいつのレーザー、軌道が読めない!」ポニーテールが言った。
「やったあ、やりましたよお。さすが毘沙門天様さまです」眼鏡とショートカットの女性が言った。今は小面の面を着けている。
レーザーの射出が終わり、小面の女性は林の中へ退いてマントラを唱え、再び法力を溜め始めた。
「おん、あぼきゃ、べいろしゃのう、まかぼだら……」
林から三人の暴漢が星型弾の幕を形成しながら飛び出す。にとりとおかっぱ頭はリュックから空中魚雷を生み出して迎え撃ち、暴漢達が削れていく鉄球を盾にして二人を囲んだ。
『クリミナルギア』
にとりとおかっぱ頭は背中合わせになり、リュックから伸びるアームで一対の歯車を振り回す。怪士の暴漢がそれを抜けて手刀を繰り出す。
『さよならラバーリング』
河童二人はにとりが道路に射出したアンカーを巻き上げ包囲を脱出した。手刀が歯車を貫いて二人の頭上を掠め、にとりにしがみつくおかっぱ頭の帽子が裂けた。
「ねえ、ホントにこいつら人間なの!? やっぱり吸血鬼なんじゃないの?」おかっぱ頭が言った。
「そいつらには以前白蓮から習った肉体強化を覚えさせた。この一週間みっちり鍛えたんだ、人間のままでもこの間の連中とはモノが違うぜ!」
再び道路に魔法陣が現れた。にとりは光の柱を身を捩って避けるが、おかっぱ頭は腰を酷く打った。落馬して道路に擦ったような痺れが広がる。
「それ、それ、それ!」
一本、二本、三本。慌てふためく二人の上から光の柱を抜けた暴漢達が迫る。
『菊一文字コンプレッサー』
突然の上からの水流を受け、暴漢達は地面へと叩き伏せられた。ポニーテールの手当を受けて持ち直した三つ編みが水流放出ユニットを投げつけたのである。
『ミズバク大回転』
立ち上がろうとする暴漢達めがけ、すかさずおかっぱ頭が巨大な赤い水風船をリュックから取り出し、ぶん回して叩きつけた。破裂して辺りに水が飛散する。暴漢達は水を吐き、星型弾を細かくまき散らしながら地面を蹴って再び上空に退避。
『空中ブラスター』
そこを目掛けてポニーテールが無反動砲からボトルを五発射出し、被弾した暴漢二人が装甲車の残骸の爆煙の中に落ちていく。にとりとおかっぱ頭は星型弾を避ける。その時林から出てきた小童が再び黄の法力レーザーを乱射し始めた。合わせて三回目の鉄球嵐が道路を抉る。道路を通り過ぎた鉄球が林へ突っ込み、木々を折ってなぎ倒した。三つ編みとポニーテールは倒れてくる木を避け、倒れた木から落ちてきたヘアピンの河童を受け止めた。
「ああもう、いい加減にしてくれよ!」
水符「河童のフラッシュフラッド」
道路に沿って断層が走り、幅広の鉄砲水が発生した。にとりとおかっぱ頭を囲んでいた弾が吹き飛び、二人は流れに乗って魔理沙のいる方の林の中へと潜り込む。小童の面が反応する間もなくうねりに巻き込まれて流され、後方の林に引っかかって後頭部をぶつけた。魔理沙は眼下の流水を避けて横合いに逃げる。
妖怪戦艦「三平ファイター」
にとりとおかっぱ頭がジェットパックを背に林の中から飛び出し、四回目の鉄球嵐を抜けてそれぞれ魔理沙の両足と右肩に体当たりを食らわせた。ドリルで抉られて魔理沙が錐揉み回転、傷を抑えながら必死に箒にしがみつく。魔理沙が体勢を建て直している間に二人は慣性を制御し、次なる攻撃に移るべく魔理沙を挟んで旋回しだした。
「やるな!」
恋符「ノンディレクショナルレーザー」
二人は水弾を浴びせるが、魔理沙を中心に展開された六芒星の使い魔がそれを阻んで削れる。魔理沙は星型弾のワインダーを撃ちだし、使い魔から出づる五色のレーザーが辺りをなぎ払いにかかる。
『フォースシールド』
二人はレーザーを駐車禁止の標識を構えて防いだ。同時に体表を水妖エネルギーが青く包み、星型弾の衝撃への耐性を高める。にとりが標識の影から銃を連射したが、今度は使い魔に当たっても削れなかった。
咳をしたにとりの肩が落ち、銃を取り落とした。唇と喉がひび割れるように乾き、呼吸が荒い。もう後がない。標識の隙間を縫って星型弾がにとりの顔に当たり、ガスマスクが破壊された。
「水の少ない場所で無理やり洪水を起こしてるんだものなあ。そりゃあキツいだろ。いつまで持つかな?」
おかっぱ頭はジェットパックを噴射し、レーザーを道なりによけてにとりの横についた。リュックの側面からペットボトルを二本取り外し、乾燥した手でにとりに差し出す。
「私の水妖エネルギー、全部あげる」にとりが応える間もなく、おかっぱ頭はボトルキャップを外してにとりの口に突っ込んだ。おかっぱ頭が標識で星型弾とレーザーを防ぐ。にとりの喉を通って身体に濃縮されたエネルギーと潤いが補充されていく。一気にもう一本飲み干した所で、にとりがカードを宣誓した。
漂溺「光り輝く水底のトラウマ」
紅いドームの縁が割れ、辺り一面から間欠泉が噴出しだした。三つ編み、ヘアピン、ポニーテールは水の気配を察知して伏せたが、三人の暴漢が避けきれずに打ち上げられる。水塊がドームの中心へと弧を描いて暴漢、河童たち、魔理沙の高さまで届き、みるみるうちに全てを飲み込んだ。水底から折れた木々と葉っぱが巻きあげられ、装甲車と輸送車から上がる黒煙が消えた。紅い霧が液体に溶けて失われ、水のドームに昼の光が差し込む。魔理沙が見上げる球状の水面に太陽光線が歪んで煌めく。紫外線が水面を透過、水底から反射して両面から魔理沙の肌を焼いていく。にとりとおかっぱ頭は力尽き、渦巻く水に流されるまま漂い始めた。
眼鏡の女性が後頭部の痛みから復活して泳ぎだした。小面の面は外れている。彼女は回転する瓦礫と水流を抜け、強化された両手で河童二人の襟首を引っ掴む。上部で羽と腕をだらんとさげて漂う魔理沙を肩に引っ掛け、タイミングを測って水面から抜けだした。
「大丈夫でしたか? 霧雨のお嬢さん」二人分のリュックを含む、三人分の少女の体重に耐えながら眼鏡の女性が言った。水の染みこんだ外套が重く、裾と袖から桶をひっくり返したように水を垂らしている。
「ああ、何とか。やっぱり最後に頼れるのは人間だな」女性の背中にしがみつきながら魔理沙が言った。お気に入りの帽子と箒は流されてしまった。もう見つからないだろう。
「助けに行きます?」ドームの中で漂う仲間を目で探す。
「三人犠牲にして河童二人盗めるなら安いもんだぜ。おまけに一人はマミゾウの事業の幹部のにとりだ。吐かせれば十分な情報が得られる。それと、にとりを今すぐここから引き離せばこのドームも解ける。酸素不足が心配だが、多分死なんだろう」
「分かりました。これから集会所の一つに戻りましょう」
「早く逃げよう。太陽の光が痛いぜ」
水のドームから抜け出た河童達の逃げる姿が林の中に見える。しかし眼鏡の女性は決めた通り無視して反対側の林の中を抜けることにした。五十メートルほど離れた所で水のドームが潰れ、轟音と共に木々の間を縫ってあらゆるものを押し流しだした。眼鏡の女性は一時的に林の上へと抜け、太陽光に晒された魔理沙が呻いた。水流の上で力が入らない。眼下に水が無くなった所で魔理沙が持ち直したので、にとりの方を手渡して引きずっていった。
にとりが気がつくと、手足を後ろ手に縛られて横向きに地面に転がされていた。砂利が服を通して肌に食い込んで痛い。右に見えるごつごつした岩の天井はそれほど高くなく、おおよそにとりの背丈の二倍といったところか。にとりは洞窟の中でも明るい方へと視線を移した。光の具合を見るに横穴の出口へと続いていそうだが、紅い霧で見えない。ここはどこだろう。微かに何らかの虫の羽音が聞こえる。
明るい方とは反対側から、砂利を踏み鳴らす音が聞こえ出した。にとりが上に視線を移すと、洞窟の奥のほうから魔法光ランタンを持った魔理沙が現れた。箒は持っておらず、帽子は脱げている。
「よう、元気か? 始める前にいくつか質問に答えてやってもいいぜ」
「ほどけよ」
「無理だな」
「私の他に捕まってる奴はいるか?」
「答える必要はないな。というより答えられない」
「ここはお前たちの本拠地なのか?」
「同上」
「紅い霧を張っているのは、私が何らかの通信手段を残しているかもしれない事への警戒?」
「まあそう考えることもできるな」
「どうして魔理沙が私を捕らえなきゃならない?」
魔理沙は自分の身に起こったことを蚊の不利にならない範囲で答えた。
「二重思考っていうのかな? 蚊のために働く自分と客観的な自分が完全に並列してるんだ」
「完全に操られてる、洗脳されてるって訳か? 吸血ゾンビみたいに?」
「いや、それは正確じゃない。操られてるといっても自律的に考える事はできるんだ。非人間的な何かになるわけじゃないぜ。冗談だって言えるし、他人に親切にしてやる事も出来る。二つのルール、『仲間を増やせ』『蚊に役に立つをしろ』以外に従う必要はないんだ。多分蚊にはそれ以上に複雑な命令はできないんだろうな。だったら各自に何が蚊にとって良いのか考えさせてアウトソーシングしちまった方が都合がいい」
「人助けをするのと同じ感覚で工場を壊せるんなら、それこそ狂人じゃないかい」
「否定はしないぜ。でも、道端で人助けをしたその日に店の金をちょろまかしたりする、なんて矛盾した事は操られるまでもなくみんなやってるこった。だったらみんな狂人だ。そうだろ?」
「ふん。これから私をどうするつもりだ?」
「お前からできる限り、こっちに有効な情報を引き出すつもりだ。何しろお前はマミゾウが真っ先に誘ったんだ、色々聞き出せるに違いない」
「やってみなよ。無理だろうがね」
「そういうと思ったぜ。何もただでお前から情報を引き出せるとは思ってない」
魔理沙が左の指を弾くと、洞窟の奥の方から何かが蠢く気配がした。背景でしていた羽音が大きくなる。耳障りな波長。
「友達を紹介するぜ。吸血蚊だ」
沼の底から這い出るように、洞窟の奥の闇から蚊が群を為して飛んできた。魔理沙の横に集まってきて、上下に運動して蚊柱を形成した。群れの中心から羽が擦れて、声が聞こえてくる。
「魔理沙」「こいつ」「誰?」一匹一匹が別々に声を出しているかのようだ。
「よく来てくれた。こいつは河童という種族の一人で、妖怪の山で蚊取り線香を作ってるんだ。色々聞いてみたい」
「蚊取り線香」「あると」「私達」「死ぬ?」「増えない?」
「そうだな。死にはしないが、蚊取り線香があると人里に行けないからな。人間から血が吸えない」
「おい、こいつ喋れるの?」にとりが言った。両目を見開いている。
「ああ。見てくれよ。こいつ、倍々ゲームみたいにどんどん頭が良くなっていくんだ。今なら足し算が出来るぜ。おーい、二十七たす十五は?」
「二十七たす」「十五?」「……」「繰り上がり」「四十二」
「よしよし、正解だぜ。ヤマビコより頭がいいな」
「ありがとう」「魔理沙」
「信じられない……蚊には神経節があるばかりで脳と言えるものはないはず。擬似的に並列つなぎにしてるのか? 種族間での知能の共有? あるいは単に妖怪化しつつある? こんなに早く? 理屈が分からないよ」
「図書館にあった外の世界の本で読んだことがある。人間の脳には三〇〇億個の神経細胞があって、サブの細胞がその九倍あるらしいぜ。蚊全体で神経細胞が人間と同じ数ぐらいになれば、蚊が全体で意志を持つということもありうるんじゃないか? こころやリグルという前例もいることだしな。今全部で何匹いるんだろうな。最初は一匹だとして、百かける百を繰り返して……一億? 百億? 一兆? 一兆なら人間の脳細胞の数を超えるな」
「魔理沙」「それより」蚊が口を挟んだ。
「おおそうだ、悪い悪い」
「河童」「私達を」「殺す」「血がない」「お腹すく」
「そうだ。だから知ってる限りのことを絞り出さないとな」
「じゃあ」「お願い」
「おい、何をするんだよ」
「肉体に苦痛を与えるのは、妖怪にはあんまり効かん。単純に傷めつけるのは能がない」
「脳はあるようだけど、お前のは腐ってるね」
「ところで、そこにボウフラのわいた水たまりがあるよな」
にとりは横倒しのまま前の方を見た。にとりの数メートル先にある、壁の側の水たまり。その表面には黒い棒状の蟲が密集し、蠢きで水面が波立っている。
「ひっ、おい、やめろ」
「止めて欲しかったら、工場の間取りからスケジュールまできっちり教えてもらうぜ」
「こんちくしょうめ」
にとりは縛られたまま、浅い水たまりにうつぶせに転がされた。にとりは必死に顔を上げたが、顎と水底で挟んでボウフラを幾つか潰した。一定のリズムで身体を振るボウフラの髭がにとりの腿、頬、唇を舐める。不快な感触。にとりは必死で口を閉じて水を飲み込まないようにした。
「水が嫌いにならないといいなあ。でもそうなったらなったで山童になればいいよな」
魔理沙はにとりを仰向けに転がした。今度は首筋と手首にボウフラの感触が移った。
「じゃあ、頼むぜ」
魔理沙が言うと、蚊が一匹ずつにとりへと近づいていった。にとりは転がって暴れるが、顔、首筋、腿の柔らかい部分に止まり、数本の口吻で血管を探って吸いだした。
「脱がせたほうが刺せる面積が増えるかな?」
「抜かせ。その瞬間に暴れまくってやるよ」にとりは口を開いたが、蚊が入ってくれる事を恐れてすぐに堅く閉じた。
「だよなあ」
魔理沙は懐から鋏を取り出し、暴れるにとりを押さえつけながらブラウスと上着の袖や裾、スカートにはさみを入れた。二の腕、腹、腿が露出する。再び蚊の塊の中から十数匹がにとりの方にやってきて、新たに様々な場所に止まって血を吸い出す。体中が腫れ、穴ぼこが開いたようだ。にとりは全身を襲う痒みに身を捩った。掻き毟りたくても掻くことは出来ないのだ。にとりはあらゆる痒い場所を地面を覆う砂利に必死に擦りつけた。血が出ようが構うものか。
魔理沙はそれをただ眺めていた。
にとりが閉じ込められているのとは別の、とある洞窟。おかっぱ頭の河童はにとりと同様に後ろ手に縛られ、足も膝と太もものあたりで拘束されて水たまりに転がされていた。幸いな事にボウフラはいない。最初に自覚したのは、割れるような喉の渇きだった。先ほど水妖エネルギーをにとりに渡して使い切ったためだ。脱水症状で身体に力が入らず、頭痛がする。
洞窟の入口まで続く紅い霧の中から、帽子を被った老紳士と十四ほどの長髪の少年が現れた。
「仲間から聞いたよ。随分とこっちを手こずらせたそうじゃないか」孫が言った。
「ワシらの仲間を三人もやっつけたそうじゃな。やるねえ」老紳士が言った。
「顔を見せていいの?」おかっぱ頭が言った。
「どうせワシらは顔が割れておる。だからこうして里に住まずに色んな所に潜んでおるのだね」
「ここは一体どこです……うっ」
「どうした?」
「少し、頭が痛くて」
老人は足元に置いてある袋から丸い水筒を取り出した。
「水じゃ。ここに来るまでにのどが渇いたろう。お飲みなさい」
老紳士はおかっぱ頭の側に屈んで蓋に水を注ぎ、おかっぱ頭の口に近づけた。願ってもない申し出だったが、おかっぱ頭は躊躇した。
「毒が心配かね? なら、ワシが飲んでみせよう」
蓋を口にやり、中身を一気に飲み干した。もう一度注いで、口を付けていない方をおかっぱ頭に差し出す。
「口を付けていない方に毒が塗ってあるかも」おかっぱ頭は言った。
「確かにその可能性はあるな。だがこればかりは信じてもらうしか無いのう」
水。求めていた水。頭痛と天秤にかける。おかっぱ頭は残っていない唾を飲み込み、頷いた。老紳士が蓋を唇に当て、おかっぱ頭はこくこくと飲みだした。舌に触れると少し甘みと塩気があり、脱水症状を治すには理想的な味だった。河童にとって命とも言える水分が、食道を通っておかっぱ頭の身体を潤していく。
水筒を空にしたあたりで、老紳士は水筒をもう一つ取り出した。
「もういいです、ありがとうございます」おかっぱ頭は言った。
「いや、もう少し飲んだほうがいい。頭痛がするぐらい渇いてるんだったらなおさらじゃ」
老紳士は再びおかっぱ頭に蓋を近づけ、更なる水を流し込み始めた。おかっぱ頭は顔をしかめたが、二本目の水筒が空になるまでなんとか飲みきった。美味しいことは美味しかったが、胃の中で水がたぷたぷと揺れ動いて違和感がある。
「うっぷ、今度こそもう入りません。ありがとうございます」
「どういたしまして。これでもう大丈夫だろうね」老紳士は微笑んだ。
「さて、本題に入ろうかな」少年が言った。おかっぱ頭は警戒した。
「俺と爺さんは蚊取り線香の工場の情報を聞きに来たんだ。場所とか、間取りとか、スケジュールとか色々な」
「それは……教えられないわ。水を飲ませてくれたのには感謝してるけど、教えたら貴方達は工場を壊すんでしょう?」
「そうじゃ」
「蚊には私の友達もいっぱい酷い目にあっているわ。人間だって無理やり暴れさせられてるんじゃない。貴方達はそれで平気なの?」
「どうしても教えられないってわけかのう」老紳士が言った。
「ええ」
「へえ。僕達がただ水を飲ませたのかと思ってるのかい?」
おかっぱ頭は二人を睨みつけた。
「やっぱり毒が?」
「いや、毒が入ってないのは本当じゃよ。ほれ」
老紳士は二本目の水筒に口をつけ、僅かに残っていた分を飲み干した。
「じゃあ、一体何を」
「ちょっとリラックスしてもらうためじゃ」
「簡単に言うと、お仕置きだね。残念だけど」
老紳士はおかっぱ頭のレインブーツを脱がせにかかり、靴下も脱がして素足を露出させた。
「え、ちょっと何を」
老紳士はスーツの懐から羽を一枚取り出した。黒い毛の一本一本が細く、触るといかにも気持ち良さそうだ。
「天狗の羽じゃよ。ちょーっと大人しくしておいてもらえるかな?」
老紳士は人を安心させるような穏やかな笑顔で、羽の先を使って河童の右足の土踏まずから指の間まで丁寧に撫で上げた。
「ほれ、ほれ!」
「あは、やめてやめて」おかっぱ頭の笑い声が洞窟に反響する。
おかっぱ頭は唇を噛んで抵抗しようとしたが、控えていた少年に水筒を包んでいた布を突っ込まれ、もう一枚の布で頭を横にぐるりと巻かれた。猿ぐつわである。外に声が漏れると困る。
「くすぐりというのはな、昔から立派なお仕置きの方法なんじゃよ。身体を傷つけたり死に追いやる危険は少ないが、される方は息もままならなくてただただ苦しい」
「狂っちゃう前に早めに吐いたほうが身のためだよ」
「あめっ、あめっ、へぇえ」顎が外れそうな勢いだ。
老紳士はいったんくすぐるのを止め、おかっぱ頭のブラウスと上着の裾をめくり上げた。少し脂肪のついた腹部が露出し、小休止にぜえはあと横隔膜が上下している。今度は少年も河童の側に屈み込み、自分の分の羽を使って脇腹を八の字に撫でる。老紳士は引き続き足の裏をくすぐり始めた。
「いひーっ! いひーっ!」おかっぱ頭はあらん限りの力で布越しに歯を食いしばり、眼が潤んでいる。首を振り、身を捩り、膝を伸縮させて宙を蹴る。老紳士の首を折らんばかりの勢いだ。
「次は袖に鋏を入れるよ。服と腋を大事にしたかったらさっさと吐くんだ、さあ!」 少年は腹立たしそうに言った。 おかっぱ頭が激しく転がって身体の向きを変えるので、くすぐるべき場所が安定しないのである。
「白状したくなったら頭を地面に三回打ち付けるんじゃ。いつでも歓迎じゃぞ」
少年は馬乗りになっておかっぱ頭を押さえつけた。
「無抵抗の女の子に何をやっとるんじゃろうなあ、ワシら」
「蚊が優先だよ、爺さん。体面よりもね」
十分ほどして、にとりは寒気を感じだした。三十分ほどもすると、割れるような痛みが頭蓋の内側を小突きまわす。脈拍の上昇、呼吸数の増加。身体や意識から様々なものが螺旋を描いて落ちていく。
「辛かったら妖怪向けの解熱剤があるぜ。仲間が人里の診療所からかっぱらってきた」
「その手には乗らないよ、どうせ薬が欲しいなら情報を渡せっていうんだろう」
「当たりだ。まあ、死なない程度には苦しんでもらわないとな」
「いつかぎったんぎったんにしてやるよ」
妖怪特有の回復力により、蚊によってにとりの体中の肌に開けられた穴は治りつつある。しかし熱病による倦怠感、頭痛、寂寥感はにとりの精神をゆっくりと確実に蝕みつつあった。今までに作ってきた発明品、天狗と対局した将棋の結果、おかっぱ頭を始め付き合いのあった河童たちの顔、とりとめのない記憶がにとりの脳内をぐるぐると回る。
もう一方の洞窟。壁に反響して、河童の少女の呻く声が響き渡る。
おかっぱ頭は水分過多と二時間のくすぐりによる酸欠、全身のあらゆる筋肉が緊張と弛緩を繰り返して限界が近づきつつあった。袖は切られて腋、脇腹、足の裏を同時にくすぐられていた。必死に他のことを考えようとするが、身体の弱いところの表面を撫ぜる羽の動きに意識を引き戻される。
「さあ、そろそろ音を上げるんじゃないかな?」少年が言った。
「うぅっ、むぐっ、むぅ……うっ」
手を洗う動きをするハエのように、おかっぱ頭は両足の太ももを激しく擦り合わせた。限界だ。老紳士と少年は更に羽の前後運動のテンポを速くする。
「おえうっ! おえうっ! おうういっ! おうがあんえひはいっ! あやくおひっほいいはへへっ!」
「すまんが、何をいっているのかさっぱり分からん」
「おうあめっ! おうあめっ! ううぅ─────っ!」
おかっぱ頭は決壊した。全身を痙攣させてくの字に曲げ、誇り、挟持、自制心といったものが心身から流れ出ていく。終わった。私は終わった。もう何もかもどうでもいい。おかっぱ頭は少年と老紳士の羽の動きにも反応しなくなり、ぐったりと絶望の水たまりにその身を横たえた。
「降参かね?」老紳士は羽を懐にしまって言った。
おかっぱ頭は力なく頷き、うつ伏せになって顎で地面を三回叩いた。
にとりがいる方の洞窟。魔理沙が地べたに座っている前で、にとりは熱と頭痛、激しい痒みにのたうち回っていた。
「頑張るなあ。もう二時間だぜ」
「吐くもんかよ。せっかくここまで来たのにマミゾウに首にされちまう」
「金の心配より命を大事にした方がいいぜ」
「お前が言うんかい」
問答を繰り返していると、蚊の塊が魔理沙の方に寄ってきた。魔理沙が耳を寄せると、羽を擦るようなか細い声で魔理沙に囁きかける。
「魔理沙」「おかっぱ」「吐いた」「妖怪の山」「湖」「近く」「川」「周り」などといった断片的な言葉がにとりの耳に届き、血の気が引いた。魔理沙はにとりをボウフラ水の中から引き上げてやった。
「尋問は終わりだ。お前のお友達が白状した。お前は一筋縄じゃいかないとは分かってたが、相棒の方はそうじゃなかったみたいだな」
「へえ、あいつは同期の中では口が堅い方だったんだがねえ。残念だよ」
「二時間も脇とか足の裏をくすぐられ続けて窒息寸前だったんだろうからな。誰でも音を上げる」
「私はボウフラと蚊の熱病のコンボだったのに不公平じゃないかね。嫌悪感が違いすぎる」
「交換したらしたで同じ文句を言うに違いないぜ」
魔理沙は錠剤を二錠取り出し、水筒の蓋に水を汲んでにとりにさしだした。
「殺すのか?」
「いや、殺さない。これは解熱剤だ。これでいったん熱を下げてくれ」
「もしかしたら私が奥の手を隠し持ってて、魔理沙が出てく前にしこたま暴れるかもしれないよ?」
「他にも仲間が捕まっているかもしれない状況でそれはしないだろうよ」
「それにしたって何で私を生かすのさ?」
「こちらの人員にも限りがあるし、私だけじゃなくて作戦の要になっている奴は何人かいる。そういった奴らが万一捕まった場合、こちらにも捕虜がいれば人質交換に使える。なんたってお前は幹部だからな。それに……」
「それに?」
「針金は曲げ伸ばしを繰り返したほうが折れやすいだろ?」
「馬鹿野郎」にとりは顔をしかめた。
もう一方の洞窟。
「もう、お嫁に行けない……」
先程より面積を増やした水たまりの上で、おかっぱ頭の河童は屈辱に打ち震えてぐすぐすと泣いていた。せめてもの情けと身体には毛布が被せられている。
「二時間も耐えるとは、河童の根性も侮れないねえ。ワシなら十分ぐらいで落ちそうだよ」
「最低! 最低よ!」
「ワシは里じゃ紳士で通ってるんじゃがなあ。何をやっとるんじゃろうワシ」老紳士は手のひらで目を抑えた。
「別の意味で紳士だよね」少年が言った。
「だまらっしゃい」
「もう隠している情報はないの?」
「知らない、知らないわよ。里の方の工場が襲われて以来、私達の事業では配置転換があったり情報の扱いのポリシーが変わったりしたの。マミゾウさんか山の神様ならもっと知ってるかもしれないけど、末端の私達は全部は知らない。みんなそれで納得してる。私達河童はあくまで技術者だもの」毛布の端を噛みながらおかっぱ頭は言った。
「どう思う、爺さん?」
「丹念に心を折った後だ、嘘を吐いているようには見えんな。流石に化け狸や山の神を引っ張り出すのは難しいと思うのう。それでも蚊取り線香工場の情報を聞き出すという、最低限の目標は達成できたわけじゃ。それ以上欲を張っても身にならん」
「あんまり気持ちのいいもんじゃないしね」
「何よ、ほっとしたような顔して。拷問してたのはそっちのくせに。何やってるのよ……もう嫌」
にとりがいる方の洞窟。紅い霧は相変わらず中に立ち込めている。にとりはそれを少しずつ吸い込み、咳き込んだ。一時的にせよ熱は下がったが、普段から研ぎ澄ましている思考のスピードが鈍っていくのが辛かった。
「いい加減帰しておくれよ」にとりが言った。
「駄目だ」
「必要な情報は取ったんだろ? 目隠ししてどっかに運べば分かりゃしないさ」
「にとり、私達が事を有利に運べているのは何故だと思う?」魔理沙が言った。
「ん? 吸血鬼の力? 魔理沙の光の魔法?」
「それも大いに働いてはいるが、本質的なことじゃない」
「じゃあなんだい。もったいぶらんでいいじゃないか」
「情報だ。徹底的にこちらの情報を隠した上で、向こうの情報を集める。それを土台にして奇襲に奇襲を重ねてるからだ。不意打ちはルール違反だが、そんなことは知ったこっちゃあない。蚊にとってルールを守るメリットがあれば守るし、そうでないなら守らなくていいわけだ。守る、守らない、どっちも選べる」
「『ルールのない世界では弾幕はナンセンスである』というのは、あんたが自分の本に書いたことじゃなかったかい?」
「おお、読んでいてくれたのか。しかも覚えていてくれていただなんて嬉しいぜ」
「ふん」
「だが私が寝返ったという情報から、皆私への対策に既に動き出してる。お前がトラックに河童を五人付けたのも私達が集団で襲ってくることへの対策だろ? 仕掛ければ仕掛ける回数が多くなるほどこっちの情報が伝わって、私達にどんどん不利になっていくんだ」
「じゃあ、私が他の皆を逃しに掛かったのは無駄じゃなかったって訳か?」
「そういうことになるな。実際お前のお陰で河童の何人かには逃げられちまったよ」
「ざまあないね」
「だったらこっちが出来るのは速攻に次ぐ速攻、そして秘密は絶対保全。すまんが帰すわけにはいかん」
「やっぱり殺すのか?」
「まさか。さっきも言っただろ。それに、せっかく蚊の餌になるかもしれないのに、わざわざ捨てることはないよなあ」
「ぞっとしないね」
「魔理沙」「これから」「どうする?」蚊が口を挟んだ。
「こいつは別のやつに見張らせよう。私はいったんおかっぱ頭の所に行く」
「おい、私の相棒はどうなったよ」にとりが言った。
「大丈夫」「生きてる」蚊が答えた。
「生かしてあると思うぜ。お前と同じ理由でな。それに物理的な傷はついてないと思うぜ。トラウマは植えつけられたかもしれないがな」
「このまま永遠に私達を閉じ込めておくのか? いつまでこんなことを続けるつもりだい? 私の仲間がいつか絶対に見つけ出すぞ」
「なあに、私もいつまでも隠し通して置けるとは思ってない。決着が着くまでそんなに時間は掛からんはずだ。その日まで大人しくしておいてくれればいいんだよ。じゃあな」
「おい待て!」
「何だ?」
「魔理沙じゃない、蚊の方だ。お前たちは何のためにこんな事をやってるんだ? 妖怪や人間を支配する? 幻想郷を乗っ取る?」
にとりの言葉に答えて、にとりの耳の側に群れが集まってくる。耳障りな羽音。にとりの目には黒い塊の向こう側に何か大いなる存在が見えるような気がした。
「支配?」「何それ」「興味ない」「私達は」「ただ生きたい」「でも君たちは」「私達を殺す」「だったら無理にでも」「言うことを聞かせるしか無い」
にとりは蚊が少しずつ、複雑な構文を話せるようになっている事に気がついた。にとりの血からまた新たな妖力を得たのだろうか。
「じゃあ、大した理由もなくお前たちはこんな大掛かりな事をやっているっていうのかよ?」
「私達にとっては」「大した理由だとも」「そのためには」「君たちが邪魔なだけ」
「もっとこう、何か特別な理由があると思ってたんだけどな」
「生きるためには」「食べること」「増えること」「それ以上は必要ないよ」
魔理沙はそれを聞いてニヤニヤと笑った。魔理沙は蝙蝠と化し、洞窟の入口の方の紅い霧の中へと消えていった。にとりはそれを見送ってから、泣いた。入口の方から代わりの見張り番がやってきた。
(後編に続く)
何かの音を耳にして、レミリアは眼をぱちりと開いた。起き上がり、ベッドの上から辺りに油断なく視線を振り向ける。隣で眠っている咲夜をかばうように。
いた。
あいつだ。
毎年毎年、図々しくも私の大切なものを奪って行く。今日もまた。
紅魔館の眠る真昼間。わずかに寝室に漏れる光を頼りに目を凝らすと、子どもには耳障りな波長の音で飛び回る一匹の蚊の姿が浮かび上がった。夏は始まったばかり、まだ蚊取り線香の類は用意していない。
(どこから入ってきたのかしら)
レミリアは布団からそろそろと這い出し、床の上に降り立った。
(蚊如きに嫉妬するなんて、自分でもみっともないと心底思うわ。でも……お前なんかに、咲夜の血は吸わせない)
強力無比の吸血鬼とはいえ、ハンデがある。咲夜を起こしてはならない。レミリアは無意識のうちに右手を後ろに引き、半身の構えをとっていた。攻める手を隠し、最短経路で攻撃するためだ。
蚊の方にも後に引けぬ理由があった。交尾を済ませた後、紅魔館前の湖からここまでくるのに体力を使いすぎていたのだ。しかし卵を作るのに必要なタンパク質のためには、人間から血を貰わないといけない。血を吸わない蚊と吸う蚊とでは産める卵の数に天地の差がある。吸うものは、その種類によって両生類・鳥類・哺乳類を吸血の対象に選ぶ。そしてこの種類の蚊にとっては、厚い毛皮を持たない人間の高タンパクな血が最も良かった。妖怪の血は概して新鮮さに欠け、あまり良くない。レミリアのような亡者の、腐った血などは問題外だ。
レミリアが瞬時に距離を詰め、右手で横ざまに一発。外した。蚊は腕の生み出す空気の乱れに流され、バランスを崩した。一般的な蚊は扇風機程度の風でも飛行不能になる。音を頼りにもう一発。レミリアのアッパーカットが決まり、蚊を天井に叩きつけた。
「よしっ」
レミリアは手応えに満足し、得意になって咲夜の頬にキスをした。咲夜を痒みから守ったのだ。達成感を胸にもぞもぞと布団に潜り込み、そのまま再び眠りについた。
昆虫は、その大きさに対し非常に堅牢である。例として、蟻は地球上ならどんな高さから落としても下が地面である限り死なないことが知られている。蚊の脚はひしゃげ、翅は折れかけていたが、目的に必要な口吻はまだ残っている。蚊は天井から落ち、ぶんぶんともがいたあげくに、なんとか生物らしきものの表面に到着した。最後の力を振り絞り、針をその柔らかい肌に突き立てた。
日没直後、紅魔館の食事の時間。
「レミィ、足を掻かない、みっともない」
「痒いんだもの。昨日のあいつにやられたんだわ。やっつけたと思ったけど、一杯食わされた、いや食われた」
「何よアイツって」
「蚊よ。人間を刺すやつ」
「珍しいわね。アンデッドの血なんて好き好んで飲まないじゃないのあいつら。面白そう」
「お嬢様、パチュリー様、デザートにスイカ食べます?」
「やったー」
寝室の壁。蚊は良質のタンパク質を補給し、血を消化して卵を生産するために休んでいた。排泄口から余計な水分を捨て、吸血鬼の魔力を体内に凝縮した。
彼女の吸った血の味は、先祖が吸ったどの動物のそれとも違った。ついさっきまで死に瀕していたが、いまや体内を今までにない力が循環しているのを感じていた。それはまさしく『数奇な運命』だった。蚊の体組織は吸血鬼の血液の成分で変質し、折れた外殻もあっという間に修復されていた。
さっき血を頂いた連中が自分に何かしら対策を打つ前に、ここを出ていかなければならない。日没からしばらくして、蚊は卵を産み付ける水場を探しに飛び立った。生まれてくる三百の子を育てられる所をだ。故郷の湖は理想的で、何しろ霧で一日中直射日光が当たらないのが本能的に良かった。しかし、もう少し人間の血にありつけそうな所を探してもいい。自分の中で人間の血の魅力が更に増していたし、体重の倍ほどの血を吸ったにも拘わらず、遠くに行くだけの体力がみなぎっているのだ。体側部の気門から外の空気を吸う。館の前の花壇には一足先に紅いカンナの花が咲いていた。
§2.五分間吸血鬼
一ヶ月後。人里の酒屋。
「貴方、確か吸血鬼の所のメイドでしたよね? 申し訳ありませんが、貴方にはウチの酒は売れませんな」恰幅の良い、禿頭の中年男性がきっぱりと言った。
「はあ」咲夜は困惑した。
目の前の品の良い口髭を蓄えた御主人とは、人里に行く機会があれば時々ワインと清酒を買いに行く程度の間柄である。彼女とは積極的な交流こそないものの、それほど仲が悪いはずもなかった。そもそも以前咲夜がレミリアに蕎麦に合う酒を頼まれた時も、蕎麦焼酎を用意してくれたのは彼である。人里でも彼は紳士的と評判が良く、正当な理由もなく突然咲夜に意地悪をするとは考えられない。咲夜に向いている敵意も、悪意というよりは純粋な恐れと理不尽に対する怒りからくるもののように感じられた。
「何か、誤解があるのではないでしょうか?」
「ふむ、そうお考えになりますかな?」
文字通り『申し訳がなかった』。深く理由を追及できる雰囲気でもなく、咲夜は諦めて退散した。人里は数週間ぶりではあったが、そもそも里に入った時から周りの視線が不穏だったのだ。
せめて何かしら手がかりは得ないとと、咲夜は寺子屋に向かった。太陽が刺すように照りつける歩道の途中で、何やらうつむいて沈んだ様子で歩いている阿求と出会った。阿求とは特別親しいわけではなかったが、顔ぐらいは知っている。この子なら事情を知っている予感がした。
「あの」
「小鈴……」
咲夜が話しかけようとした瞬間に、阿求は何か独り言を言った。しかし咲夜に気づくと、仇敵に向けるような一瞥をくれて方向を変えてしまった。咲夜はやれやれと首を振り、そのまま道を進めた。大通りを歩いている間にも人が咲夜を避ける避ける。存在もしない過去のトラウマを刺激されそうな扱いに耐えているうちに、咲夜は寺子屋についていた。非常に長い道だった。
幸運な事に慧音は暇だった。
「というわけで、全く身に覚えがないのですが」
「お前には覚えがないかもな」
取り付く島もない。吸血鬼の館と人里との関係が良好でもそれはそれで不自然だったが、コミニュケーションが全く成立しないのは困った。
咲夜は手ぶらで人里を後にした。
紅魔館。図書館にはレミリアやパチュリーが紅茶を飲んだりお菓子を食べたりしてくつろげる小部屋がある。人差し指の第二関節まで沈むほどの絨毯が、入る者の足に分厚い感触を与える。パチュリーは安楽椅子で本を読んでいて、レミリアはソファーにうつ伏せに寝転がっていた。
「え、お酒買ってこれなかったの? つまみも? ワインは? ビールは? 日本酒はー?」レミリアが腕をばたばたとさせた。
「申し訳ございません」
「優雅な貴族生活が大ピンチね」パチュリーが言った。
「エンゲル係数が下がるので、家計のピンチは助かりますわ」
「クオリティオブライフも大幅減よ」レミリアは明らかに不満だった。
咲夜は簡単に事の顛末を話した。
「今に始まった話じゃないけど、えらく嫌われたものね」
「酒屋の主人は『吸血鬼の所のメイド』と言ったのよね? 半獣も『お前には』と? わざわざ? 咲夜個人に対する恨みと言うよりはレミィか、この館全体に対する恨みがあるんじゃないかしら」
「お嬢様の紅い霧のせいでしょうかね。あれは人里の生活をかなりの間ストップさせたと聞きます」
「今更? だってアレ、ルールに基づいて解決したじゃん。霊夢にボコられてさあ。解決したら恨みっこなしよ」
「反省の色が見えないわね」
「それに異変の後も咲夜は里の人間と取引できてたわけだし、今になって急に断る理由にはならないわよ」
「それもそうですねえ」
その後のレミリアとパチュリーは、天狗の間で流行っている将棋のルールについて盛り上がった。チェス派の咲夜には分からない話題だったので、テーブルに置かれた本の中から適当に面白そうなものを拾って読んでいた。
ひと通り話題が落ち着いてパチュリーがふと咲夜の方を見やると、彼女に羽と牙が生えているのに気づいた。羽はレミリアよりはミニサイズだが、蝙蝠に近いそれである。普段は深い青色をした瞳も、今は澄んだ緑色をしていた。
「ちょっとちょっと咲夜どうしたの!」
「はい? どうしたって、いつも通り健康ですわ」
「レミィ、まさか貴方!」
「え、何?」
レミリアは咲夜の方をちらりと見やった。
「……いやいやいや! 確かに時々咲夜の血は吸ってるけどそんな量じゃあないし!」
「まあ! お嬢様ったらこんなところでそんな事を言わないでください、恥ずかしいですわ」
「咲夜はもうちょっと焦りなさい! パチェ、ちょっとこれどうなってるの!?」
レミリアに言われて、咲夜はようやく自分の状態に気づいたようだった。
「うーん、私はあと一五〇年ぐらいは人間でいるつもりだったのですが、残念です」
「それって多分もう死んでるわよね? レミィ、なんだか分からないけどとにかく第一容疑者は貴方よ。小悪魔、いらっしゃい」
「はい、いかが致しました?」
「ちょっと咲夜の様子がおかしいから(いつもの事だけど)、吸血鬼について書かれた本を集めて」
「はーい。でもパチュリー様、咲夜さんは至極健康そうに見えますが」
「貴方の眼は節穴なの? どう見ても立派な牙と羽が生えて……あれ?」
咲夜の牙と羽は消え失せていた。
「咲夜、ちょっと背中見せて」
口にも背中にも、どこにも妖怪化の痕は見つけれらなかった。瞳の色も元の深い青に戻っていた。
「間違いなく私に生えてました、よね? 集団幻視というものでしょうか」
「とにかく私のせいじゃないわ、今まで何度も貧血にならない程度に血を吸ってきたけどこんな事一度もなかったし!」
「前例がないことは無罪の証明にはならないわ」
「悪魔の証明って知ってる?」
「ああそう小悪魔、戻っていいわよ」
「はーい。何だったんだろ」
「あーもう! 吸血鬼が眷属を増やす時はその意志をもって為すものよ。吸血鬼にするつもりもないのにいつの間にかなってるって事は聞いたことがない」
「無意識の内にレミィが望んでたとか……でも確かに、いったん吸血鬼になってからまたすぐに人間に戻るって事は不可解ね。ともかくイレギュラーなことが起こってるのは間違いない」
「永遠亭に診せに行くわよ。咲夜、今日のメイドは開店休業、竹林に向かって全速前進!」
「了解です。ああ、また仕事がたまる」
出発の準備を整え、門から美鈴に見送られる最中、咲夜は無意識の内に太ももを掻いた。誰にも見つからない書物の影に、食事を終えて満腹した蚊が止まっていた。
永遠亭診察室。
「あれ、貴方達が原因じゃなかったの?」
きょとんとする永琳を尻目に、レミリアは咲夜の方を見やった。診察机の前の回転椅子に三人は座っている。
「自分とこの従者をわざわざ変にする主人がどこにいるの。それより原因って何よ。他に患者がいるような口ぶりね」
「ええ、人里からも何人も同じ症状の人が来ているのよ。みんな緊張状態になってるのが見てとれるわ。まあ仕方ないわよね、あんな事件が起こったんだもの」
「ほう、詳しく?」
夜の人里は夏祭りに沸いていた。
「どうだい、入りの方は?」マミゾウが言った。
「上々でさあ、親分!」鉢巻を締めた金魚屋の男が答えた。
ラムネ屋、風船、スーパーボール。マミゾウは普段小鈴と会うための姿に化け、綿菓子を片手に大通りを悠々と歩いている。何もお菓子目当てだけではない。同じく人に化けた子分たちに的屋を経営させているので、繁盛しているか様子を確かめたかったのだ。結果は子分の言ったとおり上々であった。ただ河童の店はかなりのやり手のため、その近くの店は少し苦戦していた。
他の屋台から漂ってくる焼きそばの焼ける匂いを楽しんでいると、人混みの中に小鈴と阿求を見つけた。声を掛けようとしたが、何やら不穏な様子である。
「大丈夫? お医者さんに診てもらった方が良くない?」阿求が言った。
「ううん、ちょっと人の少ないところに行きたい。ここは騒がしすぎるわ」小鈴が言った。息が荒く、肌は青白く、普段は優しい赤色の瞳は緑色にぎらぎらと光っていた。マミゾウは残りの綿菓子を口の中に押し込み、こっそりと後をつけた。
「うちの店がバザーに出した本、売れてるかしら」
「さっき慧音先生が物色してるのを見たわよ」
「げ、妖魔本に目をつけられませんように。あんまりヤバそうな本は出してないけど」
マミゾウはその本に見覚えがあった。小鈴が親に代わって切り盛りしている貸本屋・鈴奈庵は、通常の外来本や稀覯本を扱う他に裏の家業がある。妖怪のしたためた書物・妖魔本を小鈴が店の売上を使って蒐集しているのだ。それらの貸し借りを通じて稗田阿求とも親交を深めているのであるが、小鈴の両親には無断だ。その中には『私家版百鬼夜行絵巻』を始めとした、強力な妖怪の封じられた書物も含まれている。マミゾウと霊夢の忠告の甲斐あり、それら危険性の高い書物は店の中の簡単には手を出せない場所に仕舞ってあるという。だが、天狗の記録した鬼との飲み比べの勝敗(一年以上毎日飲み明かしていたのだろう、百二十八勝二百五十六敗だった)・覚から人間に宛てた恋文(驚くことにその恋は成就し、結婚生活は人間が生きている間続いた)といった、愉快ではあるが比較的害のないものはこうして普通の本に紛れて古本市に出てくるのだ。
後ろ姿から、マミゾウは小鈴の背中が少し膨らんでいるのを見つけた。
やがて里から少し離れた、人通りのない広場に出た。火事など有事の際に避難場所とする、いわゆる火除け地である。人を効率よく逃がすのが目的なので、祭りの際は出店はもちろん花火を見るために集まる事も禁止だった。そのためか里の他の場所に比べて空気が澄んでいる。マミゾウは火除け地の中でも木立のある場所、藪に隠れた。
運良く二人は木立から近すぎず、遠すぎない場所で歩みを止めた。
「星が良く見えるわ。阿求、ここはロマンチックね。素敵」
「のんきねえ。気分はもうよくなったの?」
「だいぶ。とてもいい場所だもの。それだけで気分がよくなるってものよ」
小鈴は何かを待ちきれないような顔をしていた。その口から時折覗くあれは犬歯だろうか。大きな犬歯、背中の膨らみ、まさか。
小鈴はじっと、燃えるような眼つきで阿求を見つめた。
「どうしたの?」
「ねえ阿求、今どうしようもなく貴女が欲しいの」
小鈴は阿求の首に手を回し、抱き寄せる。柔らかい感触と髪の香りに阿求は赤面した。
「ちょっと小鈴、いきなり何を」
「貴女の血をちょうだい?」
小鈴が大口を開けた瞬間、マミゾウはとっさに距離を詰め、小鈴の襟首を引っつかんだ。右手で阿求ごと持ち上げるが、小鈴は阿求の襟を掴んで離さない。鞭をしならせるように軽く一振りすると、小鈴の手から阿求がすっぽ抜け、弧を描いて藪に落ちる。
「逃げろ!」
「はいい!」
痛む背中も顧みず、脱兎のごとく駆け出す阿求。大人に知らせなければ! 小鈴はすかさず蝙蝠に変化し阿求を追うが、マミゾウが赤い鳥を手から発してそれを撃ち落とした。小鈴はたまらず蝙蝠変化を解除、マミゾウは再びその襟首を掴んだ。
「捕まえたぞい。観念せい」
「あのまま吸えてればみんな幸せだったのに、ひどいです」
小鈴は空いた腕を後ろに回し、マミゾウの右手首を思いきり掴んだ。瞬間、がくんとマミゾウの手から力が抜ける。
「何たる馬鹿力、腕が痺れて動かん!」
握った所を萎えさせる、吸血鬼の異能を以って小さな手がギリギリと締め上げる。襟首の自由になった小鈴は手首を持ったままマミゾウに向き直り、もう片手で手刀を脳天目掛けて打ち下ろす。
「吸血鬼相手にこの姿ではキツいのう!」
マミゾウは当たる寸前に人化を解除し、もくもくと大量の煙を放つ。小鈴は反射的に手を離し、煙を吸い込まないように後ろに駆けて距離をとった。煙の中心を睨みつけると、煙のあった所には巨大な尻尾に葉っぱの帽子、右腕をだらりと下げた化け狸の姿が現れていた。左手で持った煙管を口に咥えている。
「外の世界では変身ひーろーが人気じゃが、元の姿に戻ると強くなる場合はどう言うのかのう?」
「阿求、大丈夫だった!?」花屋の娘が言った。
「うん、じきにウチの人が迎えに来るはず。小鈴、どうしちゃったんだろう」
「一体どうやって逃げたの?」
「小鈴の店に時々来る人が助けてくれたの。いや、たぶんヒトというより……」
阿求の知らせは村中を駆け巡り、緊急対応が始まった。最初こそパニックになりかけたものの、こういった事態を予測して日頃から訓練しているために里の避難誘導は迅速である。時折飛び交う大声も、怒号というよりは純粋な相互連絡と喝に近いものだった。マミゾウの子分たちはすでに屋台を放棄していた。
小鈴はマミゾウへとじりじりと距離を詰め始める。いつの間にか阿求の逃げた方をマミゾウが塞ぐ形になっていたのだ。マミゾウにとって吸血鬼の体術は脅威だが、小鈴の方も先ほどの煙を警戒しているようだった。
「謎の多い方ですからどんな人だろうと思ったら、化け狸だったのですね。そのお姿も可愛らしくて素敵です」
「もうちょっと怯えられるかと覚悟したんじゃが、張り合いがないのう。儂、妖怪なのに」
「本の知識ではありますが、これでも妖怪については大体識っているので。例えば、『カーミラ』という本に載っていましたっけねえ。『吸血鬼が握った箇所は麻痺する』とか」
「ふん、確かに儂の右手はまだ動かんよ。だがおぬしを化かすには残りの四本で十分だぞい」
「もしかして尻尾も数えてます、それ? まあ、貴女と私が戦う理由は無いですよね。私が欲しいのは阿求の血であって妖怪の血ではありませんし。逃がしてくださいません?」
「駄目じゃ」
「ですよねー。じゃあ『私は』逃げません」
マミゾウが言葉の意図を図りかねると、その視界の端から三人の小鈴が現れた。
「『吸血鬼は分身できる』ここは私が食い止めるから、私達は阿求の血を吸ってきて!」
一瞬にして分身たちがマミゾウを抜き去り、里の方向に駆け出した。
「させんよ」
分身たちの歩みが鈍る。里の方から十人のマミゾウが飛んで来たのだ。一人だけ本物に比べやたらと豊満だったが。
「あやつめ、胸を盛るなといつも言うておろう。儂は好きでこの格好をしとるんじゃ」
分身一人が強行突破を図るが、マミゾウの一人が吐き出した煙に思いきり突っ込む。煙は巨大な鎖分銅に化け、分身小鈴の身体に巻き付いた。万力のような力でもがくも鎖の方はますます締まる。
「小鈴の簀巻き、一丁あがり! 残りも簀巻きにしてやろう」
「まだまだ!」
巻かれた分身は大量の蝙蝠に変化し、鎖の拘束から抜け出す。そのまま人里に向かおうとすると、再び大量の赤い鳥が突っ込んできた。分身マミゾウの生み出した動物たちが分身蝙蝠を丁寧に撃ち落としていく。拘束されなかった方の分身小鈴達が二人掛かりで豊満なマミゾウに掴みかかる。だが瞬間に豊満マミゾウは十数匹の緑色をした犬に変化し、小鈴達の手足にやたらめったら噛み付く。小鈴達は顔をしかめながら腕を振って犬たちを吹き飛ばすが、落ち着いた時には更に押しかけてくる犬に囲まれていた。残りの八人の分身マミゾウは悠々と眺めている。
「残り三人、十対三じゃな」
「くっ」
焦る小鈴の注意をそらすべく、本物のマミゾウはさっき咥えていた煙管を差し出した。
「この煙管、中々便利な代物でな。少しひねると笛になるんじゃ。人には聴こえんが狸にゃ聴こえる」
(うーん、あの煙と動物をどうにかしないと迂闊に近づけない)
小鈴は閃いた。
(あ、こっちも煙になればいいじゃない)
小鈴達は水に入ったドライアイスのような音を出して蒸発し、紅く濁った霧となる。霧を吸った犬が倒れ、鳥が落ちる。マミゾウだった子分たちも倒れこみ、たまらず変化を解いた。
「毒か」
「『吸血鬼は霧になれる』一対多数です」
(この姿だと蝙蝠ほどは速く動けないけど、先に貴女を仕留めるには十分でしょうね)
霧が揺らめき、マミゾウ本体を囲み出した。逃げれば良いのに、どういう訳だか霧を抜ける事ができない。マミゾウは口を覆うが、肺臓には少しずつ霧が容赦無く吸い込まれていく。
『普段から妖怪の本を沢山読んでいて良かったと思いますよ。自分が今できる事が当意即妙に全部分かるんですもの』
確かに知識があるのが厄介じゃな、それに頭も回る、マミゾウは思った。もし子分を呼んでなければ分身達が人里を蹂躙していただろう。だが霧になっている間はここに足止めしておける。
『ああー、早く阿求の血が欲しい、あの子が最初じゃなきゃやだ、さっさと貴女を狸汁にしなきゃ』
「知っとるかい? 狸はまずいんじゃよ、雑食だからのう。美味しいのはアナグマの方じゃ」
「アナグマも雑食じゃありませんでしたっけ?」
時間稼ぎの会話を交わす間にも、マミゾウの動きが目に見えて鈍くなってきた。子分たちは焦って見つめるが体が動かない。霧は更に濃くなる。マミゾウは体を震わせ、地面に座り込んだ。
「来るな……」
弾を生成できなくなったのか、マミゾウは帳簿、徳利、煙管、眼鏡とあらゆるものを左手で投げ出した。しかし霧の小鈴には意味をなさない。
『やけっぱちですか、お見苦しい。あんなに強そうだったのにちょっとがっかりですよ?』
マミゾウを取り囲む霧が濃さを増していく。小鈴はマミゾウの指が痙攣し出すのを見て、頃合いだと思った。霧が集まりヒトの姿に収束する。マミゾウの前に立つ。
「さて、私は阿求の元に行かなければなりません。これぐらいで貴女を殺せるとは思いませんが、しばらく眠っててもらいますよ!」
小鈴は伏せるマミゾウの首に手刀を振り下ろした。延髄を鈍く抉る音が鳴り響く。小鈴の。小鈴が破壊したのは徳利だった。視界がぐらぐらするが、激痛に軋む首で振り返ると、小鈴の後ろには左手で手刀を構えてニヤリと笑うマミゾウが立っていた。
「い、入れ替わる隙はなかったはず」
「自分の徳利に投げてもらうのって結構しゅーるな気分じゃぞ?」
「さっき投げた……やけっぱちじゃあなかったんですね」
「霧のままじゃ速くは動けなさそうだったからの、阿求を追う前に一度霧化を解くと思ったんじゃ。後はその隙を突けばよろしい」
「やっぱり、貴女は凄く恰好いいです」
「ただの狸寝入りじゃよ。ちょっと前に儂を倒しにきた人間たちなら容易く見破ってたじゃろうなあ」
「とっても血が吸いたかったもので、焦りすぎましたかねえ」
「ああ。じゃが確かにおぬしの知識は凄い。あと千年ぐらい智慧を付けられたら、儂もどうなってたか分からんかったじゃろうて」
「長い、長すぎます」
阿求に呼ばれて村の男衆、女衆で腕に覚えのある者が集まってきた。周りにわずかに残る紅い霧を吸い込まないように慎重に、場を取り囲む面子には慧音も混じっている。
「小鈴、頭突きは何回がいいんだ? とりあえず五十回くらいいっとくか?」
「慧音先生! 助けてください、狸に襲われてるんです!」
「稗田のから狸は味方だと聞いている。姑息な真似はよせ」
「阿求はきっと化かされてるんですよ。こんな事でせっかくのお祭りをぶち壊しにしてはなりません」
「後で頭突き五十回追加」
「そんなぁ。首が痛いんですよ、よしてください」
マミゾウは拾い上げた徳利を軽く振って修復し、それを持って何やらブツブツと唱え出した。今の小鈴を拘束するためには何処かにまるごと閉じ込める必要がある。マミゾウの子分達は毒の霧から解放されてその様子をじっと見守った。
(あの中はお酒くさそうだなあ)
形勢不利。三十六計逃げるに如かず。小鈴は軋む首を押して地面を蹴り抜いて、まっすぐ空へと飛び出した。
「逃がすか!」
慧音は白く光る使い魔を同心円状に展開し、光の陣を張って妨害。里の人間たちも各々があらかじめ準備しておいた結界を張る。
小鈴は圧倒的な加速度で光の壁をぶち破った。強い衝撃が襲ったが、吸血鬼には耐えられる。風を切り、羽を広げてもっと高く、高く──
逃げられる! 場の誰もが確信したが、小鈴には違和感があった。どうやっても加速しない、むしろ遅くなっていく。せっかくここまで上がったのに。いつの間にか牙は引っ込み、羽は背中が吸収して消えていた。瞳もぎらつく緑色から優しい赤色に戻っていた。
「え、嘘、私は今まで何を、阿求は……」
我に返るも時既に遅し、ふと下を見ると五百メートル下に地面が。普段の小鈴は飛べない。
「助け」
落ちる──
同じく垂直に飛んでいたマミゾウは小鈴に追いつき、小鈴の落ちるスピードに合わせる。右手を振った。
(よし、右手はもう使える!)
タイミングを測って背中から小鈴を抱き止め、落下傘に変化した。ナイロンを模した尻尾柄の布がぶわっと広がり、減速のショックを軽減していく。下から吹き上げる風を感じながら待っていると、地面に到達する頃には落下速度のほとんどを殺せていた。里の人々が見守る中、変化を解いたマミゾウは小鈴を抱いてそろりと着地。彼女が不調を訴えてからこの間、五分であった。
「おーい小鈴、大丈夫か? ……何じゃ、気を失っとる」
安全を確認して、里の人間たちが駆け寄ってきた。
「よくやった、化け狸!」
「この娘、座敷牢に入れるか? また暴れられると困る」
「いや診療所に運ぶのが先だ!」
「ああ、小鈴を頼むよ。後から儂も行く」マミゾウは小鈴を引き渡した。
人間達はマミゾウを質問攻めにした。
「狸さん、すごーい!」
「あのでっかい布は一体?」
「ぱらしゅーとというものじゃ。外の人間は飛べないからの、空からふわふわ落ちて遊ぶ時に使う」
「へえ。でも飛べないのにどうやって空まで上がるんだ?」
「でっかい鉄の鳥を使うんじゃ。まあそれはまた今度聞かせてやるぞい。今は小鈴の見舞いに行くのが先じゃ」
「親分、大丈夫でしたか? 霧の時はもう駄目かと思いましたよ」金魚屋の姿に戻った子分が聞いた。
「おう、みんな良くやってくれた。おぬしらが居なかったら逃げられとったよ。一通り落ち着いたら宴会じゃな。奮発してやるぞい」
「よっしゃー!」子分たちは歓声を挙げた。
「その前に、何が起こったか聞かせてくれないか? 記録を取らなきゃならん」慧音が割って入った。
「小鈴と一緒かい?」
「もちろんだ。格子越しだがな。稗田のも呼ぶ」
「それはありがたい」
祭りの実行委員会本部には永遠亭の出張所がある。担当している鈴仙が小鈴を診た後、小鈴の両親が見舞った。その後は慧音による事情聴取が始まった。妖怪に対する封印を施した木の格子が小鈴のベッドとマミゾウ達を隔てていた。人間には無害であり、もし小鈴が再び妖怪化すれば効力を発揮する事となる。
「私は上白沢慧音、寺子屋で教えるのと歴史の編纂、非常時に里を守るのを仕事にしている。お前が騒動を収めるのに尽力してくれたのはこの目で見ていたし、小鈴の友人というのも本当だろう。が、一応素性は聞いておかねばなるまい。何もんだ?」
「儂は二ッ岩マミゾウ。佐渡の二ッ岩と言えば分かるかのう?」
えっと驚く小鈴をよそに事情聴取を続ける。
「そうか、お前が最近ここに来たという二ッ岩……何もんかと思っていたが、只もんではなかったようだな」
マミゾウの証言は阿求や小鈴とも完全に一致し、現場に残る証拠とも矛盾しなかったので、事実関係が争われる余地はなさそうだった。阿求の言うには、ちょうどマミゾウが小鈴を見つける直前に小鈴は妖怪化したらしい。
「しかし妙じゃな、普通の吸血鬼は瞳が紅いものじゃろう?」
「ええ、私もそれを知識として知っていたので、最初は小鈴が吸血鬼だと気付けなかったのです。瞳が緑色でしたから」
「しっかりした知識はかえって柔軟な発想を縛るものだな。私もそういう所があるから分かる」
「緑色ねえ。自分では瞳の色なんて見えなかったけど、何となく気持ち悪いなあ」
「小鈴は、どうなる?」マミゾウが慧音に問うた。
「被害は出なかったとはいえ、人を不意打ちでスペルカード抜きに襲ってしまったからなあ。よりによって稗田の御令嬢をだ。しばらくここに入院という形を取るだろうが、実質的に軟禁は避けられないだろうな」慧音は顔をしかめた。
小鈴が言った。
「すごく、血が吸いたくなったんです。食べなきゃ、仲間を増やさなきゃ、阿求を仲間にしてあげなきゃって……お腹の空いた人に一緒にご飯を食べよう? って誘ってあげるような気持ちでした。つまり、自分では全くの善意だったんです。今でもあれが私だったとは信じられません。私、悪い事をしてしまいました」小鈴は押しつぶされそうな顔で泣いていた。
「阿求、ごめんね……」
しばらく黙った後、阿求が言った。
「小鈴、私は怒ってないからね」
「えっ」
「信じられないなら、態度で示すわ」
阿求は格子越しに小鈴の手を取り、その甲にキスをした。小鈴は驚いて赤面した。
マミゾウも語りかけた。
「おぬしが阿求を襲ったのは、きっとおぬしのせいじゃない。少なくともいきなり吸血鬼化したのが小鈴のせいのはずがない。他に原因があるに違いない。だからおぬしがここから出られるように、儂からも出来る限りのことをしよう」
小鈴は涙を拭った。
「ありがとう、みんな、ありがとう……!」
慧音も釣られて泣いていた。
「貴方ってあの有名な佐渡の二ッ岩だったんですね! 素敵です!」小鈴は目を輝かせた。マミゾウは困惑した。
「こらこら、妖怪に憧れるんじゃあない」慧音は窘めた。
「えへへ」小鈴は照れ隠しか、無意識に首筋を掻いていた。
焚き火を囲んだ、狸の宴会。子分の狸たちはマミゾウが用意したとびきり上等の酒に舌鼓を打っていた。マミゾウは時折空を睨みつけてぎりりと歯ぎしりしたが、それに気づくものはいなかった。
鈴奈庵。診療所から戻った小鈴の父は蝋燭の灯を頼りに階下の本棚を漁っていた。目的の物を見つけ出すと場所を紙に記録し、懐にしまった。小鈴の父は印刷業に掛り切りで、貸本屋の方は小鈴がかなりの部分を手伝ってくれていた。小鈴の不在が長引くようなら売り子を雇わねば……父親は小鈴が戻ってくるだろうことについては疑いを持っていなかった。しかしその間の穴埋めは、小鈴以上に上手くやってくれる人がいるだろうか? 実利以上の痛手の大きさを思案した。
「スペルカードルールもよく把握していない妖怪が突然街中に出現し、人間を襲う。確かに厄介だわね」レミリアが言った。
「新聞には出ていませんでしたが」咲夜が言った。
「人里はみんな貴方にだんまりだったでしょう? 犯人が分からないのに妖怪や天狗にぺらぺら喋ったらそっちのが驚きよ」永琳が言った。
「ああ、箝口令ですか」
「で、貴方は暴走しなかったの? メイドさん?」
「はい。別段何事も無くいつも通りでしたわ」
「変わったのは咲夜の外見だけよ」
「鍛えてますから」
「多分そういう問題じゃない」
「おかしいわねえ。突然吸血鬼化した五分間、知性と記憶は完璧に保たれていながら、たいていの人間は人格を変容させるほどの吸血衝動に襲われるわ。そして五分間吸血鬼に噛まれた者も同じように五分間吸血鬼になる。それでさっき話したように、騒動を起こして軟禁されている人も出ているのに」
「まあ酷い」
「できるだけこちらで入院できるように取り計らうつもりだけどね。研究もしたいし」
「それで大体合点がいったわ。人間たちの咲夜への扱いが妙に厳しかったけど、私かフランが人間を吸血鬼にしたと思ってるのね」
「ええ。私も貴方達が元凶じゃないかと疑ってたぐらいだし、人里の皆がそう考えるのも無理は無い」
「人間に恐れられるのは私の本分だから構わないんだけど、やってもいないことまで私たちの責任にされるのはごめんだわ。本気で眷属を増やしたいなら五分と言わず永遠に吸血鬼にするし、五分だけなんて器用な真似無理よ。まして誰にも気づかれずに街中でなんて」
「いちおう妹さんにも話を聞いておいてね」
「その可能性はない。前よりは外出禁止は緩めてるけど、あいつにこっそり私の目を盗んで何かできるような慎重さはないわ。あいつならもっと派手にやる」
「うーん。今回の現象についてはこっちで研究を進めたいから、ちょっと咲夜や貴方、妹さんの血液とか体組織のサンプルをもらえないかしら? 確実に濡れ衣を晴らしたいでしょう?」
「やむをえないわね。その騒動のせいでこっちは欲しい酒が飲めないのよ。そっちで何か分かったら知らせてちょうだい」
「しかし妙ですね。私と他の人間とでいったい何が違うのでしょう?」咲夜は首を傾げた。
永遠亭の研究室。
「さあ、統計学の時間よ」机の前に座って永琳が言った。
五分という時間は発症中の患者を拘束し直接検査するには短すぎた。しかし被害が増えると手がかりも集まり、手がかりがあるなら別のアプローチもできる。永琳は妖怪兎たちに調査させたが、里の人間は喜んで協力してくれた。人里は連日吸血騒ぎの話で持ちきりで解決に向けて意識が高まっていた。そして今永琳は研究室で鈴仙が整理したデータを更にふるいにかける作業をしている。発症した場所、時間帯、患者の体質、その他もろもろ。
まずカルテから患者の特徴で絞り込む。貧困層が多い。基本的に年齢層は低いが、大人もいる。全体的に体温が高い。酔っていると発症率が上がる。
「新陳代謝の高さが関係している?」
永琳は人里の地図、上空から撮った写真と現場で撮った写真の束を取り出した。十分な枚数の高精細な写真と明晰な頭脳のお陰で、永琳は頭のなかで里をまるごと立体的に再現できた。居住ブロックごとに患者を分類。特に寝ている間に発症した患者だ。やはり生活環境はそれほど良くない。日当たりが悪く、古い家が多い。
「まあこれは人間の病気全般に言えるわね。弱り目に祟り目というやつかしら」
原因は不明だが、公衆衛生を改善すれば発症率は下がりそうだ。そのためには人里を再開発するだけの投資が要る。
次に時間帯で絞り込む。屋外で発症したのは雨の降っていない夜に限られていた。
「やっぱり吸血鬼化の犯人さんも日光が苦手なのかしら。それに雨にはほとんど重ならない。魔女さんか風祝さんに頼む?」
更に場所で絞り込む。ここで永琳は手応えを感じた。事件が起こった場所の多くは半径三〇メートル以内に防火水槽などの水場がある。
「水、ね」
ただ周りで全く事件の発生しない水場もあったので、必ずしも水場の存在がすぐに発症に結びつくわけでも無さそうだった。
「水場の中にも違いがある。飲料水は大丈夫のようね。不潔な水?」
ここで永琳は仮説を立てた。水と患者の新陳代謝が関係する病気の種類は限られている。
「人を吸血鬼にする病気の媒介者がいる? 水を根城にした妖怪の仕業?」
ともかく、水が鍵を握っていそうだ。さらなる調査が必要だ。スケジュールを立てるため、永琳は鈴仙を呼び寄せた。
「明日は人里に出かけるわよ。現場を直接見る必要が有るわ」
「分かりました。ということは何か手がかりが?」
「水。みんな水場の近くで発症しているみたい。貴方の作ったデータは読みやすかったわ」
「ありがとうございます。この暑いのに水の近くに行くだなんて、蒸しそうですねえ」
「ひんやりするスプレーを持って行かないとね。今日はもう寝るわ。お休みなさい」
打ち合わせを終え、永琳は明日に備えて睡眠を取りに行った。輝夜がきっと寝室で待っている。永琳は期待を胸にくすりと笑った。
太陽のギラつく、真昼の人里。医者と助手は大通りを歩く。
「暑い……何でこんな時間に来たんですかあ」鈴仙が汗を流しながら永琳に言った。さっき買ったアイスキャンデーはもう食べてしまった。
「犯人が日光を避けているのなら、一番太陽光が多い時を狙ったほうが居場所が絞れるってものでしょ」
「ああ、なるほど。そういえば人間を流水が苦手な吸血鬼にする犯人が、水を根城にしているというのも変ですね」
「日光や流れ水は穢れを浄化する。でも流れずに溜まった水は淀み、病や穢れを生み出すのよ」恐らく犯人は通常の吸血鬼ではない。未知のウィルスか、生物か、あるいは単に隠れるのが上手い吸血鬼か……
鈴仙はもう一本アイスキャンデーを買おうと店に足を止めた。しかしさっき買った店よりも高かったので、諦めて再び歩き出した。そのさっきの店のアイスも昨日より値段が上がっていた。
「なんか最近、モノが高くありません?」
「生活不安のせいよ。私達がこの騒動を解決すれば、きっと元の鞘に収まるわ」
二人は人里で一番事件の発生が多い地域に向かっていた。人口を構成するのは主に貧困層、低地でボロ家が多い。地面に落ちているゴミも多い。複数の吸血鬼化発生地点から地図上の半径三〇メートル分、コンパスで円を描くと円同士が重なる家があった。
「でもここ、防火水槽も池もないのよね」永琳はメモと円がびっしりと書かれた地図を持って言った。
何か地図や写真だけでは分からない秘密があるに違いない。狭くなっていく道を抜けると、二人は目的の家に辿り着いた。やはり古びている。
家同士の隙間を縫ってこっそり裏に回ると、軒下に五つほど腰の高さほどの陶器製の水瓶が置いてあった。年季の入った苔が生えていて、蓋が開けてある。中身はあまり見たくない。永琳は家と家の隙間から覗く空を見つめ、簡単に太陽の軌道と角度を頭の中でシミュレートした。
「ここには一日中太陽が当たらないわね。写真だけじゃ分からなかったわ」
「かなり臭いですね」
「物理的にもね」
鈴仙はルーナー・ジョークを無視して表に回り、扉をノックした。
「ごめんください」
「あら、お医者様じゃないですか。こんなところに何の用事で?」中からは痩せぎすの中年女性が現れた。髪を団子にして後ろの方で留めている。家人にとって鈴仙は『困窮した我が家にただ同然の値段で置き薬を売ってくれる兎』であり、上司の永琳のこともすぐに信用した。
「ここでは言いにくい話なんですけど」
「どうぞどうぞ、大したおもてなしはできませんが」
中は畳は痛み、ふすまは一枚足りず、障子は破れて直す余裕もないといったところだった。鈴仙は薬を売り歩く過程でこのぐらいのボロ屋は見慣れていたが、豪邸に住み慣れている身としてはいたたまれないものがあった。永琳は永遠亭を建てる前の苦労を思い出していた。当初は野宿同然だった。輝夜と二人きりなのは嬉しかったが。
「単刀直入に言いますとね、裏の瓶が最近の吸血騒ぎの原因なのではと」狭い居間で鈴仙は言った。
「まあ」家人は青くなった。
「まだ確かではありませんが、古い水の近くで事件が起こることが多くて」
「うう、あれは私がこの家に移る前からあったのです。何に使うのかも分からないのですけど。それに私自身は吸血鬼になったことがなくて」私の責任ではないと言いたげだったが、鈴仙はそう言いたくなる気持ちも分かった。自分の不始末が原因と知られたら近所からどんな目で見られるか分かったものではない。
「あの水瓶を研究室に持って行って調べたいのです。可能なら全部、蓋を閉めた状態で」
「分かりました。お医者様の役に立つなら喜んで提供いたします。なるべくこっそりお願いしますね」
「もちろん秘密は守ります。結果が分かったらお知らせしましょうか?」
「いえ、結構です」家人は早くこの話を終わらせたそうだった。まあいい、そのおかげでスムーズに事が運ぶのだ。鈴仙は思った。
「では後ほど兎に運ばせます。とにかく水回りには気をつけてくださいね」
今度は永遠亭の実験室。二人は汗だくになった服を替え、上から身体を覆う白い研究衣、手袋、マスクなどを付けていた。月面製で清潔さは指折りだ。
「さあ、生物学の時間よ」永琳が言った。結った髪が後ろで盛り上がっている。
「あの瓶、正直言って触りたくないんですけど。手袋越しとはいえ」
「私だってそうよ。腹をくくりなさい」
鈴仙は実験室の端の床に置いてある水瓶の蓋を開けた。その淀んだ水の表面には埃や葉の切れ端が浮いており、ボウフラがたくさん蠢いていた。団子にヒゲの生えたようなユーモラスな形をしたこの幼虫は、文字通り棒を振るようなリズミカルな泳ぎ方をしており、時折何かを掻き込むように口を動かしている。
「キモっ」
「正直ねえ。これから嫌でも見慣れるわ。もしかしたらいきなり大当たりを引き当てたかもしれない」
鈴仙がボウフラをシャーレごとに分け、一つ一つ実験していった。一体ピンセットで裂いてみたが、切断面から細かい泡を出しながらすぐに元通りになってしまった。
「凄いわね。プラナリアだって再生には二週間掛かるのに」
「師匠は一瞬じゃないですか」
「まあそうだけど。やっぱり不老不死なのかしら」
サンプルの一つに太陽光を再現するライトを放射すると、幼虫たちはもがきながら水に溶けていった。
「これは……! 光に弱い、吸血鬼の特徴があります!」
「うんうん、幼虫も見慣れると愛嬌があるわね」
「絶賛虐殺中ですけどね」
ボウフラに混じっていた蛹から成虫が羽化する様子を、永琳は待ちきれない様子で観察していた。水面に浮く蛹が割れ、長い口吻と翅を折り畳んでゆっくりと抜けて行く。その複眼は緑色に輝いていた。
「緑色! もう決まったようなものだけど、後は雌雄揃えて交尾させなきゃ」
数日後。幾つかの作業を終えた後、永琳は子供の腕ぐらいの太さのパイプのようなものを実験室の机に載せた。時々波打つその表面は健康的な肌色で、両端が机の端に置いてある血液を流すポンプに繋がっている。
「何ですかこのシュールでグロテスクな物体は」
「本居小鈴ちゃんの細胞から複製したぷにぷにの二の腕よ」
「うわあ犯罪的」
「流石に人間を丸ごと人体実験に使うわけにはいかないから、実験に使う事に同意を得た上で皮膚の組織を貰ったの。彼女はこの件で最初の患者だったから喜んで協力してくれたわ」
永琳はあらかじめ交尾させておいた雌の蚊の入った試験管を取り出し、その口を複製の腕に押し付けた。蚊が口吻を肌に差し込み、しばらく中で動かした後に目的の血管を探し出した。あの独特の痒みの原因である唾液を注入し、蚊の身体が膨れ上がっていく。永琳は吸い終わった蚊を再び隔離した。
少し待つと、蚊が刺したところから腕のコピー全体に青白さが広がっていく。二人は息を飲んだ。幾つかの試薬を用いて組織を調べると、吸血鬼の体組織の特徴を備えている事が分かった。体組織は太陽光ライトを当てると黒く焦げた。
「ビンゴ! なるほど、蚊が犯人だったのね。データ整理だけでは引っ掛からない訳だわ」
「この季節、蚊に刺された人なんて多すぎてただ普通の蚊に刺されたのか、事件の犯人に刺されたのかなんて見分けられませんものね」
頭脳明晰な永琳と言えど、十分な情報が手元になければ真実にはたどり着けない。そもそも永琳が本来不要だった満月の異変を起こしたのも、博麗大結界の事を知らなかったからだった。
さらに調査を進めたところ、紫外線以下の波長の光を当てると成虫も黒い煙を出して蒸発することが分かった。
「よしっ! 後は吸血鬼化を予防する薬か、吸血鬼を人間に戻す薬を作れば解決ですね!」
「それは無理ね。二つとも」
「えっ……なぜ?」
「吸血鬼になるという事は亡者になるということなの。亡者になることを予防するという事はすなわち不老不死よ。人里の人間を全員蓬莱人にしていいっていうのなら薬の製造を姫様に頼むけど、そんなことをしたら私も姫様もただじゃすまないでしょうね。良くて追放」
「げー。じゃあ、戻す薬も?」
「亡者を生者に戻すということになるわね。流石の私も蘇りの薬は作れないわ。でなかったら月人たちはどんな犠牲を払ってでも私を取り戻したでしょう」
不老不死の月人といえど、完全な不死の蓬莱人と異なり事故死の可能性はいまだある。
「しかし、少し前に聖人たちが死体から蘇ったじゃないですか」
「より正確には尸解仙ね。儀式にはあらかじめ仙薬など様々な物を準備する必要があるし、そもそもあれは死体がそのまま復活するんじゃなくて復活のベースとなる肉体、依代の存在が前提なの。死体の方は朽ちて無くなるのよ。依代を壊された方はそのまま亡霊になったと聞くわ」
神子と布都の身体は宝剣と皿がベースである。依代の壺を布都にすり替えられた屠自古はそのまま死んでいった。
「人間たちを全員尸解仙にしていいのならそうするけど、後は言わなくても分かるわね」
「困りましたねー。仙人といえば、例えばキョンシーとかも治せないんです?」
「キョンシーに傷つけられた人も一時的に亡者になるわけだけど、同じ理由で私にはそれを予防する事も治療する事も無理ね」
永琳は自分の限界を心得ていた。時間を掛けて研究を進めればいつかは達成できるかもしれないが、越えるべきハードルが多すぎる。
「今回の件……吸血病と名づけましょうか。吸血病をすぐに解決したいのなら、何か別のアプローチがいるわ。さしあたってやるべきことは蚊の封じ込めかしら。幸い弱点はないわけではない」
「紫外線に弱いなら何とかやりようがありそうですね」
「とりあえず今日はこんなところね」
二人が実験の後片付けをして、汚れた研究衣を処理して実験室を出ると、輝夜が永琳の胸に抱きついてきた。永琳もにっこり笑って抱きしめ返した。
「えいりーん! お仕事終わったのね!」
「やっと区切りがついたわ。まだまだこれからだけど」
「吸血騒ぎ、いったい何が原因だったの?」
「蚊よ。血を吸う虫」
「えっ、じゃあボウフラとか変な水とか触ったの? 実験中?」
「ええ。でも手袋とか身体を守るものをちゃんと付けてたから大丈夫よ」
「……シャワー浴びてきてっ!」
輝夜は引きつった顔で永琳を突き放した。
浴場の前の更衣室。医者と助手は着替えを持ち込み、冷たいシャワーを浴びるために服を脱いでいた。永遠亭内は冷房が効いているために服にはあまり汗は染み付いていない。
「しくしく。汚いのは全部脱いだから綺麗だって言ってるのに」
「まあ確かに師匠の言うとおりですけどねえ。感覚ってものがありますから」
「でも輝夜に『シャワー浴びてきて』って言われて今とてもいい気分」
「そっすね」
「というわけで、騒ぎの原因は吸血鬼の力を得た蚊だと判明したわ」紅魔館の応接間、真っ赤なソファーに腰掛けて永琳はレミリアに言った。彼女の隣には鈴仙が座っている。レミリアとの間のテーブルには紅茶のカップが三つと、何枚かの白紙の紙とペンが載っていた。
「おめでとう。ライバル出現は嬉しくないけど、私も濡れ衣が晴れそうで安心だわ。でも最後のは言う必要あったの?」
「ただの愚痴よ」
「そう……」
「すみません、ウチの師匠が」鈴仙はやれやれと首を振った。
「で、わざわざ報告しに来てくれたのはありがたいんだけど、何で人払いしたの? パチェや咲夜の意見もきっと役に立つわ。かたや知識人、かたや元患者だし」
「嫌に親切ね。一人じゃ不安なの?」
「こら」
「冗談よ。実はね、貴方の血液と吸血蚊の体組織を比べた結果、いろんな特性が一致したの。つまり、今回の犯人は貴方の血から生まれたという事ね」
「え、なにそれは」寝耳に水である。かつて蚊から咲夜を守るために戦ったことはレミリアの記憶の彼方であった。
「貴方が故意に吸血蚊を作り出したのかはもちろん分からないから、みんなには黙っておいてもいい。そちらのメイドも吸血蚊の被害に会ってる事だしね。でも、貴方にはもう少しの間今回の件に協力することをお勧めしておくわ」
「くっ、何もしてないのに嵌められた気分」
こいつらは私を思い切り利用するつもりだ。レミリアは思った。しかし確かに、この件をこのまま放置しておくのも安心できない。疑惑を完全に晴らすため、もう少し働く必要がありそうだ。
「で、でも! 私の協力なんて要るのかしら。あんた自称天才でしょ? 誰の力を借りなくてもパパっと解決できるでしょう」
鈴仙が『こいつ、意外と面倒くさがりね』というような視線を向けた。
「いや、この件はすぐにでも解決する必要があるわ。総力を挙げてね。幻想郷中の力を借りても対処できるかどうかってところ」
「どうして?」
永琳は顎に指を当てて一、二秒思案し、その指を鳴らした。
「では、疫学の時間にしましょう」
「またそれですか」
永琳は机の上に置かれた紙とペンを取り、Basic Reproduction Numberと大きく書いた。意外と丸くて可愛らしい字だった。
「BRN、発生指数という指標があるわ。地球上だとジョージ・マクドナルドという科学者が作ったみたいね」永琳が言った。
「それは何です?」鈴仙が聞いた。
「『理想的な条件下で一人の感染者から何人の二次感染者が発生するか』、簡単に言うと一人の人間から何人に伝染るかということね。強い麻疹は十二から十四、エイズは一ちょっと」永琳は紙に棒人間と、メジャーな感染症に対応するいくつかの数字を書いた。
「一を下回ったら増えずに絶滅って事かしら?」レミリアが言った。
「いい着眼点ね、その通りよ」一より小さな数を無限に掛けていけば、いつかはゼロに収束する。
「蚊が媒介すると、BRNはすごく増えるの。では蚊が媒介する病気の場合、BRNは何に依存するかしら? はいお二人さん、競争スタート」
「蚊の繁殖力」レミリアの即答。永琳は微笑んだ。
「そう! 早かったわね。鈴仙、弟子が聴講生に負けちゃダメよ」
鈴仙はむぅ、と考えるように掌で口を抑えた。
「あと二つよ」
「ヒトを刺すかどうか?」 鈴仙が言った。
「その通り。ヒトを刺さなければそもそもヒトには感染しないわね。これで同点」
「あの蚊が妖怪や妖精も刺したり伝染したりするなら厄介だわね」
「ここは人間よりも人間以外がずっと多いからね。最後は?」
二分ほど間が空いた。
「うーん……ちょっと分かりません」
「私もギブ」
「寿命。『ヒトに病原体を伝染すまで蚊が生き残れるか』よ。そしてこれは繁殖力や吸血性よりずっと大きなファクターなの。蚊を媒介とした感染症のBRNを増やす最大の要素だわ」
鈴仙とレミリアが息を呑んだ。
「察したようね」
永琳は紙に『100×100×100×100×100×……』と書いた。
「蚊は一度に百個単位の卵を産む。これを何世代か繰り返せばあっという間に京単位になってしまう。もちろん地球上は蚊で溢れかえっていないわね。何故?」
「なぜなら、捕食者がいるから、ですね」
「私が人間を食べるようにね」
「そう。蚊は弱い生き物で、天敵がたくさんいるわ。幼虫はメダカに喰われ、成虫はクモに喰われ。いくら多く卵を産むと言っても、その多くは成虫になって吸血する前に脱落していく」
「死を見越した人海戦術が前提の産卵数ってわけか」
「でも、もし産まれた幼虫全員が不老不死の素質を持っていたら、そして喰われても死なずに成虫になれたら? 想像したくもないわ。人々に病気を移すまで確実に生き残る蚊が、自然界にはない割合の倍々ゲームで増えていく。不老不死と蚊、これ程恐ろしい組み合わせがあるかしら? それは今、現実に起こっている事なの。あの蚊を人為的に封じ込めない限り、幻想郷の人間全てが吸血病になるのは時間の問題。患者の数で永遠亭がパンクする前にやっつけてしまいたいところね」
三人は紅茶を飲み干した。
「早期解決の重要性は理解できたかしら?」
「分かったわ、分かったわよ」レミリアは降参し、頭を振った。どうやらレミリアが思った以上に事態は深刻のようだ。
医者達が帰った後、レミリアは大体の状況を咲夜とパチュリーに語った。しかし自分の血液の事については伏せておいた。
§3.大循環
月光の差す人里。早苗は吸血鬼化した里人と交戦していた。
「これが例の五分間吸血鬼!」
里の見回りをしていた早苗が叫び声を聞き、恐慌状態で通りを逃げ惑う人々の流れをさかのぼって飛んでいくと、住宅地の丁字路で突き当りの壁の破壊に勤しんでいる吸血鬼がいた。壁を殴りつけ、スポンジケーキのように穴を開けているのは青い作務衣に身を包んだ細面の青年だ。青年の破壊活動は吸血衝動に対する精一杯の抵抗だった。完全な八つ当たりである。早苗は星が描かれた一枚のカードを手に呪文を唱えだした。
開海「海が割れる日」
早苗の左右に地割れが走る。割れ目から水の壁が湧き昇り、丁字路の左右を塞いで青年を閉じ込めた。気づいて振り向いた青年が緑眼を光らせながら早苗に向かってくる。
「それっ!」
早苗は札から緋い槍を生み出し、青年をめがけて一本、二本、三本と投げた。その全てを青年は僅かに右にずれて避けたが、直後にその反対側から水壁がうねり横ざまに襲った。反動で吹っ飛んだ青年はさらに反対側の水壁に背中を叩きつけられ、そのまま水の中に飲まれていった。
「ぶくぶく」
「しまった、これでは何を言っているのか分かりません」
水の壁に取り込まれた青年を眺めながら困る早苗のところに、走って霊夢が到着した。
「遅かったか!」
「珍しく運が悪いですね」
「うぎぎ。人間が街中で突然ゲリラ化して暴れ出す。しかも退治までのタイムリミットは五分間。私が着いた時には全てが終わってる事が多いし、どうすりゃいいってのよ、私だけじゃ対応不能だわ」
「ええ、私も偶然行き当たったから倒せたようなものでした。もはや無差別テロですね」
「お困りのようだな!」
二人の間にしゅるしゅると回転しながら落下してきた大皿の上から、物部布都がこれ以上はないぐらいにもったいぶった様子で現れた。
「おぬしらも道教を学べばもっと遠くに瞬間移動できるぞ! 場所の通報さえ受ければ一発だ! さあ改宗し、我々のもとで太子様と道の修行を積もうではないか!」
「あんたも間に合ってないじゃないの」
「そこに気づくとは。やはり博麗の巫女、侮るべきではないのう」
「わざとやってます?」
「まあ、この前のお面の子の異変で道教はちょっとかじったけど、便利といえば便利ね」
「そうであろう、そうであろう! やはり神道と道教は相性がよいぞ。かつて神道に身を置いていた我としては鼻が高い!」
「ああ、霊夢さんが懐柔される!」
「異変解決の方が大事よ。そういう早苗もこないだ道教に改宗してたじゃない」
「うっ」
「うむ、人心の乱れるのは為政者たる太子様の望む所ではない。であるからにして、こうして命を受け里を見て回っているのだ」
「何をぬけぬけと」
「むしろ乱れた人心に乗じて信仰を集めるつもりですよね?」
「ふふ。それはおぬしらも同じであろう」布都はニヤリと笑った。抜けているくせに妙に抜け目がないのがこの道士の矛盾した所だった。
「確かに、事件に間に合えば人里での私の威厳を取り戻すチャンスなんだけどねえ」
「珍しくやる気ですね」
「そうだ、あの吸血鬼はどうした? 間に合わなかったとはいえ、せめて一目見ておきたい」
「あ、やば。ごめんなさい! ごめんなさい!」
早苗は水の壁を解き、とっくに牙の引っ込んだ青年を引きずりだした。元の瞳は黒かった。水の塊が落ちて地面を広がっていき、丁字路の壁に当たって波打つ。地割れは残りの水を吸い込みながら徐々に閉じていった。
「ふうう……早く出してくださいよお。でも、私を止めてくれてありがとうございます」
「おい、大丈夫だったか?」丁字路の右から強面で洋装の青年が駆けつけてきて問うた。作務衣の青年の知り合いらしい。
「ああ、山の神様に助けてもらったよ。ここの住人はなんとか襲わずに済んだが、だいぶ辺りを壊してしまった。強い衝動だ……コントロールが効かない」
青年はゲホゲホと水を吐きながら早苗に一礼し、尻を掻きつつ里の住人たちに連行されていった。
大抵の里人は小鈴ほど吸血鬼に関する知識がないので、大した特殊能力は使わずに肉体の力で暴れるだけに留まる。それでもその圧倒的な暴力は里の生活にとって脅威であった。
「ワープも使えるけど、距離だけなら咲夜の能力があれば一瞬よね」
「でも通報が届かないと意味がないし、原因を潰さないと元の木阿弥。一体何が里人を狂わせているのでしょう」
「その原因が分かったわ」
三人の間に八雲紫が空間を『割って』入った。
「紫! いったい何やってたの!」
「探してたの? しょうがないじゃない、人里に混乱をきたさないようにちょっと調整しててね。明日の朝になったら会見が始まるから、それまで待ちなさい」
「今だって事件が発生したばかりなのに、そんな悠長なこと言っていられるんですか?」
「とりあえず貴方達にはこの遠隔通信機能付き陰陽玉を貸してあげるわ。人里の各所に通報用の陰陽玉を撒いておくから、里人から通報を受けたらそちらに行けばいい」
「地底で使った奴ね」
「妖怪が人間の異変解決に肩入れするとは不可解だのう。我が人間として生きていた頃は妖怪は完全な敵だったぞ?」
「里の人間という貴重な市場を一つの妖怪に独占させておくと、他の妖怪たちとのバランスが取れないのよ。それに『妖怪は人里で暴れてはいけない』というルールを犯人は堂々と破っている」
「一つの妖怪だと?」
「正確には一種類だけどね」
翌朝、人里の集会場。普段はちょっとしたイベントや公的行事にしか使われることのない会場は、いまや青い顔をした里人たちと興味津々の鴉天狗の記者たちでごった返していた。
「はい、これがその吸血病の原因、吸血蚊です」
永琳は講演台から聴衆に向けて、試験官に入った蚊の姿を見せた。蚊の姿は永琳の後方の映写幕にも大写しにされた。聴衆が息を呑む。聴衆の手元のレジュメには蚊の成虫、幼虫、卵の詳細な図と以下のメモ書きが書かれていた。
・幻想郷に広く分布している蚊とは外見で見分けがつかない。
・通常の蚊より高い飛行能力や繁殖能力を持つ。
・卵と幼虫の時から再生能力を持つが、日光、特に紫外線以下の波長の光を当てると消滅する。
・あまりにも小さいため、通常の吸血鬼と違い結界やにんにく、鰯の頭を軒先に吊るしておく程度ではすり抜ける。
・ただし流れ水の上には入れず、雨の日は屋外に出てこれない。
・蚊取り線香では殺せないが、避けておくことはできる。
・この蚊に刺されると、人間は五分間だけ吸血鬼となる。五分間吸血鬼に噛まれたものも五分間吸血鬼となる。
・五分間吸血鬼になったものは通常の吸血鬼の特徴をほぼ全て備えているが、力はオリジナルの吸血鬼に劣り、瞳の色は紅ではなく緑色である。
などなど。
「人間の血を吸って吸血鬼に変えるのは交尾後の雌の蚊のみで、普段の蚊は花の蜜を吸って暮らしています。彼女たちはヒトの血から卵を産み出し、一回の産卵で百個単位の卵を産みます。三世代目で百かける百イコール万単位に増えます。逆に言えば、刺させさえしなければこの幾何級数的増加を防ぐことができましょう」
永琳は聴衆をなるべく安心させるような口調を選ぼうとしたが、それでも聴衆からありありと不安が伝わってきた。
「対策としては、卵を産む場所となる水たまりを作らないこと。無理な場合は水たまりに銅や油、塩を撒いて産めないようにすること。日当たりの悪いところにある水場は密封し、蚊の入る隙間を作らないこと。家の窓や扉には網戸を取り付けること。寝るときには蚊帳を張ること。夜の間は蚊取り線香を焚くこと、ですね。とにかく水回りには気をつけてください。蚊を家に入れない、刺させない、増やさない。この三原則さえ守れば人里から蚊を退ける事は十分に可能です。絶滅させるのは難しいでしょうけどね」
妖怪の山。玄武の沢の少し暗い場所を選んで潜ると、金属製で観音開きの扉がある。こびりついた藻の様子から作られて数十年は経っていそうだが、不思議と錆はない。扉を開けて水の通路をしばらく進み、見えてきた水面を上がると、そこには河童のアジトがあった。マミゾウは応接室に通された。河童の部屋では唯一整頓された場所である。
聖徳太子。ここもあそこも聖徳太子。机を埋め尽くし、キセルをふかしてソファーにゆったりと座っているマミゾウの顎に届きそうなほどに積み上がった聖徳太子。聖徳太子といっても耳あてをつけている方ではなく、立派なヒゲを生やして紙の上に印刷されている御仁である。山と積まれた紙幣を前にして、にとりは息を呑んでいた。震える声で机の向こう側の狸に問う。
「きょ、今日は何をお求めで? ウチにこんなに高くつく商品は無いんだけど」
「そう緊張するでない。欲しいのはおぬしの手先とのーみそじゃ。今日は客としてでなく投資家としてきたんじゃよ。幻想郷全てを顧客にしたびっぐでぃーるのな」
「偽物じゃないよな?」
「当たり前じゃ。おぬしの尻の青い時から人間相手に金貸しをやっとるからの、本物の金も腐るほど持っとる。こんなにうまい話はめったにないぞい? おぬしら河童の腕次第じゃがな」
「詳しく聞こうじゃん」
吸血病の媒介が蚊だと公表され、人里のパニックは多少なりとも薄らいだ。脅威は依然として減っていないものの、少なくとも完全に正体不明ではなくなったのである。
紅魔館に対する疑惑を崩していないものも居たが、少なくとも大部分からは以前のような敵意はなくなった。
酒屋の主人は平謝りだった。
「こちらは私からのお詫びの印です。どうぞお受け取りください」
貴重な外来品のモルト・ウィスキーだった。突き抜けるアルコールの刺激とオーク材の樽の香りを愉しみ、レミリアはすっかり機嫌を直した。
「美味しい! こんなの私だって滅多に飲んだことないわ。咲夜、今後もあそこで買い物してきなさい」
「現金ですねえ」そういいつつも、咲夜もしっかり楽しんだ。阿求からは蔵書のカタログが贈られ、パチュリーが選んだものが図書館のコレクションに加わった。
慧音はまだ疑っている者の一人だった。
「意外と危機感の無い奴が多いな。知らないうちに妖怪にされるかもしれないのに」
「日頃から妖怪を嫌っていても、いざ自分が同じ立場になるとそれを正当化する心理が働くものよ。ずっとパニック状態よりはマシじゃない?」妹紅が自嘲気味に答えた。蓬莱の薬の影響か、妹紅には吸血病に対する耐性があるようだった。だがもちろん、人間全員に蓬莱の薬を大盤振る舞いするわけにはいかない。
代わりに別のパニックが始まった。
ある朝、慧音が編纂の休憩がてら散歩でもしようかと扉を開けると、寺子屋の前を里人の行列が横切っていた。何列も、何列も。
「う、うおお?」
驚いた慧音が左右を見回すと、右の百メートル先の薬屋の方まで行列が続いていた。山高帽を被った老紳士に、黒髪をセミロングにした三十ほどの女性。その他諸々。
「こら、邪魔ですよ。子供達が寺子屋に来れなくなるじゃないですか」慧音は並んでいた里人の一人に話しかけた。
「あ、慧音先生、すみません。でもこうして並ばないと蚊取り線香に間に合わないんですよ~」主婦らしき小太りの中年女性だった。
「蚊取り線香?」
「ほら、吸血蚊に蚊取り線香が効くって話、聞いてません? 朝のチラシにあの薬屋さんが書いてあったんですよ~」
慧音は主婦から渡された薬屋のチラシを見た。何もかも高い。特に問題の蚊取り線香は相場の四倍だった。
「法外な。よくこんな値段で商売になりますね」
この店は永夜異変前から人里で商売をしていた数少ない薬屋であった。それなりの薬を人々に高く売りつけていたため儲かってはいた。しかし竹林の薬師が現れてから質の高い薬がタダみたいな値段で売られる。競合店がいない状況に頼り切っていたこの店が対抗策を打ち出せずに経営が傾くのは時間の問題だった。
しかしこのところ潮目が変わった。吸血騒動が始まってからというもの、人里では生活不安が広がった結果として日用品の買いだめ需要が上がりつつあった。それに味を占めた商人たちは、各々が顔の利く仕入先から日用品を買い占め始めたのだ。その中でも薬屋は蚊取り線香を独占していた。そして吸血騒動が蚊の仕業だと判明して需要が爆発。薬屋はすかさず大量の広告を打って民衆の心を鷲掴みにした。まさに慧眼、起死回生の一手であった。
「このところ何でも高くなって~。でも仕方ないですよね、こんなご時世ですから」
多くの店は騒動に関係ない商品も値上げしていた。もちろん、値段据え置きで商品を提供しようとする良識的な商人もいたにはいた。しかし里全体の生活コストが上がったからには、食い扶持を稼ぐために値上げせざるを得なくなったのだった。
「ここのところインフレになってきているのは感じていたが、ここまでくると幻想郷版狂乱物価と言ったところか。これはまずいぞ」
慧音は幻想郷の外の歴史を知っていた。今の状況は西暦一九七四年の石油危機の時に、トイレットペーパーをはじめ日用品が買い占められたことを彷彿とさせた。
その内にシャッターが上がり、薬屋が開店した。人の列がゆっくり動き出した。最初は一人ひとりが買っていったが、その内に行列が崩れ、焦った人々が押し寄せた。血相を変えた人々が押し合いへし合い、時々肘打ち、狭い薬屋の中はまったくの混乱を示していた。
「ちょっとアンタ、抜かさないでよ!」「馬鹿野郎、俺が先だ!」
「蚊取り線香は一人三点まででお願いします! 一人三点まで!」
黒髪を七三分けにして丸眼鏡を掛けた薬屋の主人が、雪崩れ込む客を必死で制止しようとしていた。
彼は積まれていく紙幣に内心ご満悦だった。あのにっくき永遠亭が線香を増産したり、妖怪の賢者が物資の緊急輸入を決めるには、もう少し時間がかかるはず。その間に在庫を売り抜ければしばらく楽ができる。ただでさえ物価高で今月は苦しいのだ。少しは投機でぼろ儲けをしないとやっていけない。
しばらくすると、大通りの向こうから河童たちが馬鹿でかい荷台付きの機械式の車、外の世界で言うトラックのようなものに乗って猛然とやってきた。
「どいたどいたー!」「河童の車のお通りだ!」
やがて車は薬屋の隣に止まった。河童たちがぞろぞろと車から降り、車の荷台を開ける。そこには河童の帽子のロゴマークと同じ、蛇のような白い文様の描かれた蚊取り線香の箱が山と積まれていた。値札に書かれた値段は相場の三分の一だ。薬屋の主人は顔を青くした。
「河童印の蚊取り線香! よく効いて安いよ! 効き目は人間の古くからの盟友、河童の技術へのプライドが保証済みだい!」ヘアピンを額でバッテンの形に留めた河童が言った。
「うおおーこっちのが安い! 売ってくれ!」
「除虫菊の種も売るよー。地中海原産、明治時代にこの国に輸入された蚊取り線香の材料、天然ものだよー」おかっぱ頭の黒髪の河童が言った。
「それもください!」
「魚にも毒だから気をつけてねー」
「あ! ウチ金魚飼ってるわ! どうしよう!」
河童たちが声を上げると薬屋に並んでいた人の流れが河童の方に逸れていく。河童の出店は売り子や列の整理にある程度の人員を割いていたため、薬屋の時ほどの混乱は無かった。薬屋の主人は唖然とした。
にとりが列の整理員として前に出ると、客の中から歓声が上がった。
「はいはいー、抜かさないで抜かさないでー、前を抜いたら尻子玉抜くよー」
「河童さーん! 相変わらずかっこいいよー!」
「この前霧雨の娘さんをドリルでぶっ飛ばすの見てたぜー!」
「またあのペットボトルロケット見せてくれー!」
宗教者による人気争奪戦と感情の消え失せた夜の異変は、未だ人々の記憶に残っていた。その中でも人気を多く集めていた一人だったにとりは、河童の技術力に対する憧憬も含めて格好の広告塔であった。しかしにとりの方はといえば、久しぶりの人だかりを前にして疲れきっていた。
「うう、やりにくい。あそこにいるあの人なんて、前の祭りの的屋で騙したこと忘れてるのかなあ」
「なあに、おぬしの人望じゃよ。あの発表から人間たちが混乱する前に蚊取り線香を即座に増産し、人々に安く提供する。これが投資の第一弾じゃ」人里に来る時の人間体でマミゾウがトラックから現れた。
「こ、こんなの不当廉売だ! 俺はこの状況に全てを賭けてたのに、こんな形で便乗されちゃあこっちが潰れちまう」薬屋の主人は血相を変えてマミゾウに詰め寄った。
「む、どうした?」マミゾウは薬屋の中を一瞥した。確かに景気は良くなさそうだ。
「よし、それならそちらの蚊取り線香の在庫は全てこちらで買い上げてやろうじゃないか。ただし今の馬鹿っ高い方の値段でなく、定価でな」
「へ、へえ……? それならまあ潰れなくて済むが……ありがとうございます? いや儲けのチャンスを失ったから感謝はおかしいか? いやいやいや」
「すまんのう。だが人里から蚊を追い出すためには、里の人間全員が蚊取り線香を買えないと意味がないんじゃ。富んだ者から貧しい者まで一人残らずな。だから蚊取り線香だけは特別に安く売る必要がある。おぬしも阿漕なことはせずに、真面目な商売に励むことだ。なあに、潰れそうなら儂が店ごと買収してやるぞい」
「二ッ岩!」騒ぎの中にマミゾウを見つけ、慧音がやってきた。
「慧音どのじゃないか。また会ったのう。小鈴は大丈夫かい?」
「もう少しで出られると思う。犯人の正体も割れたし、阿求や私からも働きかけていることだしな」
「そうか、良かった」
「これも『儂から小鈴に出来る事』の一環か?」
「その通りじゃ。人間が完璧に吸血蚊の対策を出来れば、小鈴を始めとした吸血病患者たちを恐れる必要はなくなる。そのためにはこうして金と商品の流れを作るのが一番なんじゃよ」
「うむ、それなら河童を人里に入れたことについては不問としよう。連中も人間を襲うよりは商売を優先しているようだからな」
「そいつは助かる。新製品を売るためにあっちこっちでゲリラ的に商売をやっているものでな。口コミで評判が知れ渡れば、直に人里の店にも商品を卸せるようになるとは思うがのう」
「なるべく貧しいものにお金が回るようにしてくれ。みんな物価高で苦しんでいる」
「最初からそのつもりじゃ」
人里近くの湿地帯。餌となる人間に近づきやすく、日の差さない水場の多いために産卵もしやすいこの場所は、吸血蚊にとって重要だった。
花の蜜で食事を終えたばかりの雄の蚊が木陰を飛んでいると、一匹のトンボが迫ってきた。その羽音は蚊にとっては嵐のようだ。蚊の二〇〇倍の体重を持ち、幼虫も成虫も捕食するこの昆虫は、脅威以外の何物でもない。人間が素手で軍艦に立ち向かうようなものだ。
蚊は一瞬でその六本の足になすすべもなく捕らえられ、そのまま手近な木の枝に叩きつけられた。天敵は発達した顎をギチギチと振動させ、獲物のひしゃげかけた首をかじり取る。
しかし首は捕食者の口内で紅い煙を発して蒸発した。残された胴体からは新たな首が再生する。もう一度掻き切るが同じ事だ。いくら切っても首が生えてくるので、そのうちトンボは諦めて蚊を放して飛んでいった。腹の足しにはならなかったようだ。
解放された蚊はふらふらと湿地帯の水たまりへと向かっていた。水たまりの近くには蚊柱があり、交尾をするチャンスだ。たどり着いて、つがいとなる雌を探そうと上下に飛んでいると、そこに白い防護服を着た人間の男が踏み込んできた。男は背負った紫外線照射装置のスイッチを入れ、丸いフラッシュ・ストロボから死の光線を蚊柱に向けて放射した。逃げ遅れた成虫達は次々と黒い煙を出して蒸発していった。
彼はこの場の成虫をほとんど全滅させた事に満足し、近くにあるだろう水場を探す。辺りを歩き回っていると、草に隠れていた水たまりに足を向こう脛まで突っ込んでしまった。葉っぱの切れ端、蚊の舟型に固まった卵やボウフラどもが浮いている。男は悪態をつきながら足を引っ張りだし、水たまりに紫外線を照射した。ボウフラはびちびちと激しく身体を震わせながら卵と一緒に溶けていった。男は全てが溶けたのを確認して背中から瓶を取り出し、栓を抜いて水たまりに油を撒いた。これならとりあえずは産卵できまい。
「ふう、終わった終わった。油が切れたから今日は終いだ。河童とリグル様々だな」
男は一仕事を終えた顔で人里へと帰っていった。
少し前の、月夜の草むら。吸血蚊事件を受けて、八雲藍は事態の打開に役立ちそうな様々な妖怪たちとの交渉事に当たっていた。
「というわけでリグル・ナイトバグ、貴方の力と知恵を貸してほしい。あの吸血蚊はどうにかならないか?」
リグルは腕を組んでいた。
「確かに私は蛍を筆頭に様々な蟲達を従わせられるよ。でも、吸血蚊……あの子たちに血を吸うなとは言えないわね。それはあの子たちが生きるのと増えるのをやめろと命令するのに等しいもの。私がこの先何千年も生きて大妖怪になったとしても、あの子たちにそんな横暴なことはさせられない。生きることと増えることはそれ自体が虫にとっての目的なのよ」
「そりゃあ私だって貴方に同胞を殺すのに躊躇があるのは分かっている。でもこのままだと幻想郷中の虫の秩序どころか、生態系全部が崩れるのは貴方自身がよく分かってるだろう?」
リグルは押し黙っていたが、しばらく空を見つめた後に話し出した。
「分かったわ、私からもできる限り協力する。ただしそれは止むを得ない場合を除いて、吸血蚊以外を殺さないのが条件よ。もし薬を使ったりして、殺さなくていい虫をいっぱい殺したら、私はその時点で手を引くから」
「オーケー。取り敢えず何かパッと思いつくことはない?」
「トンボやミズスマシは蚊を食べるから彼らを動員してもいいけど、食べても死なないんだったら無駄じゃないかしら。食べる量にも限りがあるし。むしろ吸血蚊を食べる事で不老不死が散らばる事の方が心配ね」
「その心配は無用だ。不老不死が広がるのは吸血蚊の子供だけ。蚊を食べた虫は太陽光を当てても平気で、寿命でそのまま自然死したことが竹林の医者の調査で分かっている」
「なるほど、それなら安心。とりあえず、食べても死なない蚊がいたら連絡するようにトンボたちに言ってみる。近くに蚊の産卵場所があるかも知れないからね」
「あまり遠くに飛ばないのか?」
「うん。種類によるけど生まれた場所から三十メートルぐらいかな」
「意外と狭いな」
「本気を出せば数キロ飛べるらしいけどね。その蚊が吸血鬼の力を持ってるなら、多分もっと」
「後は……知り合いに狸がいる。今は河童とつるんで何かをやっているから、そいつに会って欲しい」
「狸の知り合い? 狐と狸って仲が悪そうだけど」
「まあそうなんだけど、あいつはアイデアを持ってるからな。利害が一致してるなら、下手に邪魔せず任せたほうが上手くいくかもしれない」
藍と話を終え、リグルは蛍の集合体と化して飛んでいった。一匹一匹が静かに光り、全体として移動プラネタリウムのように見えた。
河童のアジト、工作室。埃っぽいこの部屋の壁には旋盤が並び、様々な工具が箱に詰められて床に置かれている。その中で一番ましな整頓具合の机の上には、網、懐中電灯、小型扇風機、発泡スチロールの箱などがマミゾウによく見えるように並べられていた。
「試作品が出来たよ。あんたの指定通り『安価で』『効果が高く』『人間にも簡単に作れる』ものだ」にとりが言った。
「よし、説明してくれ」マミゾウが言った。にとりは試作品を一つ一つ手にとってデモンストレーションを始めた。
「まず、蚊帳。網で出来たテントを張って寝てる間に刺されなくする。何の変哲も無いものだけど、いちおう吸血蚊を寄せ付けないように魔除けの呪文が施された繊維も編み込んでみたよ」
にとりは部屋の少し広い所で蚊帳を広げてみせ、蚊の通る隙間の無い事をマミゾウに確認させた。
「うむうむ、基本じゃな」
「次に網戸作成キット。網と枠と工具のセットだ。大まかなサイズの差はあるけど、窓と扉の両対応。網には例によって吸血蚊避け繊維を編み込んだ」
にとりは袋の中から材料を取り出し、マミゾウに渡して作らせた。壁に取り付けてあるモデルの窓枠の採寸、それを元にした材料のサイズ合わせと組み立て、最後に窓枠への取り付け。説明書の図を頼りに全てがスムーズに行われた。
「おお、本当に簡単じゃのう」
「説明書通りにやれば誰でも自分の家に合わせて網戸を作れる。文字が読めない人のために図案も豊富だ。簡単だってことをアピールするならこれぐらいはやらないとね」
「網戸もろくに張れていない家も地域によってはまだまだあるからのう。こちらの懐中電灯みたいなものは?」
「ブラックライト。紫外線を出して殺虫スプレー代わりに使える。どこに当ててるのか分からないと困るから、紫色の光も混ぜてあるけどね」
にとりはリュックから吸血蚊が一匹入った試験管を取り出し、電灯のスイッチを入れた。紫の光線を当てられた蚊は管の中で一瞬の内に蒸発した。
「繁殖地を『片付ける』広拡散用とか色んなタイプを作るつもりだけど、一番量産することになるのはこのタイプだね」
「お見事。次で最後じゃな?」
にとりは壁に取り付けられている白い箱を指差した。その下にはファンが設置され、その更に下に白い網がぶら下がっている。にとりがリモコンのスイッチを入れると、モーターが静かに音を立てて回り出した。箱からは白い煙が吐き出されていく。
「蚊の捕獲トラップ、リグル監修だ。蚊は動物の吐く二酸化炭素に引き寄せられる習性があるから、この箱の中に入ってるドライアイスで引きつける。その後このファンで吸い込む。吸い込んだ先のこの網の袋にはブラックライトが仕掛けられてるから、吸血蚊だけを効率的に殺せる。ドライアイスはビールとか他の製品を作る時に発生した二酸化炭素を再利用して作られるから、環境への負担は無い。後はスピーカーを使って雄の蚊の羽音を出し、交尾直前の雌の蚊を惹きつけるという手もある。これならドライアイスを補充しなくても電気が続く限り使えるよ」
「蚊の分布調査にも使えそうだな。上出来じゃ。さすが河童、素晴らしいのう」
「たいしたテクノロジーは使ってないけど、誰にでも使えるしとっても安い。シンプルな脳みそを持った奴にはシンプルな対策がいいね。でさあ、『安い』と『効果が高い』は分かる。人間に買わせるわけだからね。でも人間に作らせる意味が分からないんだけど。全部河童持ちじゃあ駄目なの?」
「うむ、それにはちゃんと理由がある。工場を作ったら、おぬしらは技術者として人間たちを監督するんじゃ。それはこれこれこういう訳でな……」
「……なる程、それは見込みがあるかもしれないが、そんなに上手くいくかな?」
「人間の力を舐めん方がいいぞい。千年以上連中と付き合ってきた儂が言うんだから間違いない。恥ずかしながら一度逆に一杯食わされた事もある」
「へえ、あんたがねえ。じゃあ求人の方は頼むよ。私達めんどくさいの嫌いだし」
「うむ」
鬱蒼と植物の生い茂る、魔法の森の霧雨魔法店。散らかり放題の書斎の中で、魔理沙は革張りの研究ノートに今日の成果をまとめていた。やがて煮詰まってくると、魔理沙はノートに顔を伏せた後に大きく伸びをした。気分転換の時間だ。
「さあ、後片付けといくか」
魔理沙はノートを閉じて羽ペンとインクを片づけ、机の端に置いておいた木の箱から小さなアンプルを取り出し、その口をちぎった。中に入っていた、海水をたたえる洞窟のように輝く深青色の液体を飲み干す。強烈なミントの香りに魔理沙は顔をしかめた。爽快なのは確かだがどうにも慣れない。次に木箱から親指サイズの試験管を三つ取り出し、蓋を空けて口を左の二の腕に押し付けた。中の蚊が刺した三箇所から青白い斑点が広がり、金色の瞳が草葉についた朝露の煌めくような緑色に変わっていく。一分も立たない内に小さな羽が服の背中を突っ張らせ、口の端からは可愛らしい牙が覗いていた。
「これで十五分だ。痒い」
魔理沙は蚊を再び試験官に閉じ込め、椅子から立ち上がって部屋の真ん中に移動した。目を伏せて、十秒掛けてゆっくりと深く息を吸い込む。
「それっ!」
魔理沙の身体が四十五匹の黒い蝙蝠に変化し四散する。蝙蝠はきーきーと鳴き声を上げながら部屋中を飛び回り、鉤爪を本・アイテム・その他衣類に食い込ませて部屋の整理を始めた。仕舞い忘れたハンカチ・片方だけの白靴下・汗の染み付いたパジャマは洗濯かごに放り込まれ、『イースター島のひみつ』『環境アセスメント』『ウォーターシップ・ダウンのうさぎたち』『一九八四年』『誰でも使える! 光の魔法入門上級編』といった本が次々に本棚に収納されていく。使い終わったアンプル、新聞や薬包紙はゴミ箱に叩き込まれる。蝙蝠の一匹が赤銅色でこぶし大の金属箱を掴むと、紅い閃光とともに電流が流れた。
「あつっ!」どどめ色の煙を上げて、蝙蝠が一匹蒸発した。
「うっかりしてたぜ、あれは取り扱い注意に格上げだな」
あっという間だった。要らないものを捨てるだけで一週間はかかりそうな部屋だ。魔理沙の甘い見積もりにより十五分でカタをつけるはずが、七分で全てが整っていた。途中二、三匹がマジックアイテムにしかけられていた罠の犠牲になったものの、全体からすれば誤差の範囲だった。掃除の終息を見届けて、蝙蝠たちは部屋の真ん中で人の姿に収束した。再び現れた魔理沙は首を振って辺りを見回し、机の上に残る深青色のアンプルを見てニヤリと笑った。全てが目算通りだ。
「血が欲しくて暴れるんだから、要は食欲とか衝動を抑える薬を作ればいいんだ。全然難しいことじゃない」
魔理沙は床に残っていたブラックライトを拾い上げ、机の方に歩いて行った。試験管の一本一本に死の光線を当て、先ほど血を吸った蚊の三匹全てに止めを刺した。試験官の中には黒い煙と魔理沙の血液だけが残った。魔理沙は満足そうに二の腕に痒み止めを塗った。
「血を吸われると増えるのが困るんだから、吸血鬼の力だけ頂いて血は与えなければいい。いくら不老不死っつったって血がなければ卵は産めないんだからな。この調子でタダ乗りしてやるぜ」
魔理沙は書斎を出て、薄暗い実験室へと移動した。奥の炉の中の鍋は魔理沙が二人は軽く入れるほど大きく、深青色の液体の中には星屑が渦巻いている。先ほどアンプルに入っていたものと同じものだ。
「人体実験、大成功。明日からさっそく売り込みに行くとするか」
魔理沙は実験机の下からアンプルのセットが詰められた箱を取り出し、抑制薬を詰める準備を始めた。瞳の色は金色に戻っていた。
夕方の人里。大通りの端には全身を覆う薄い外套を被った男たちが集まり、頭を覆うフードの奥からは煌めく緑の双眸が覗いていた。現場には何俵もの土砂が荷台に乗って軽々と運ばれ、それを男たちがスコップで溝に次々と放り込む。傍から見ていると少し異様な速さだった。
「そろそろ時間切れだ。頼むよ」作務衣の青年が言った。
「おう。こっちに来い」強面の洋装の青年が言った。外套の下はジーンズに白いポロシャツという、およそ幻想郷には似つかわしくない格好である。強面の青年は青いアンプルを作務衣の青年に渡し、飲み干すのを見届けてから蚊の入った試験官を四本渡した。
男たちは蚊が卵を生むであろう水場を潰す工事に従事していた。他にも吸血鬼が壊した壁や設備の補修、防火用水はしっかりと蓋をされ、破れた窓は修理され、ゴミ捨て場にはトラップが設置された。
日がすっかり沈み、蚊取り線香の匂いが里中に立ち込め始める。男たちが休憩をとっている側を、人間体のマミゾウが通りがかった。
「工事は順調かね?」
「ええ、おかげさまで。そうそう、女の子が一人、貴方を探してましたよ」作務衣の青年が応えた。
「何?」
「急いだほうがいいと思いますよー」
「よし、ありがとう!」
マミゾウは鈴奈庵に向かって大通りを全速力で駆けだした。角を二つほど曲がり、途中で大きな池を通り過ぎた。更に角を二つ曲がると向こうの角から人の影が現れ、マミゾウに向かって抱きついてくる。マミゾウは抱き返した。左右に纏め上げた髪についた飾りからは鈴の音が聞こえる。
「小鈴、出られるようになったのか!」
「ええ、本当にありがとうございました!」
マミゾウは小鈴の両親から夕食に誘われ、本居家のディナーを楽しんだ。幻想郷では珍しい海魚などの海鮮料理がマミゾウの腹を満たした。
「すまんのう。予定も入れておらんかったのにこんなにご馳走になって」
「いえいえ、小鈴が表に出てこれるようになったのは貴方のお陰です。どうぞごゆっくり」小鈴の父親は痩せ型の紳士然とした人物で、マミゾウに好印象を与えた。
いくらかの人間は吸血鬼化してもなんとか吸血衝動を抑えることに成功し、そういう人間から順繰りに自由の身になっていった。魔理沙の抑制薬が大いに助けになったのもあったが、そもそも一度でも発症したことのある人間が多すぎて人里にはもう牢を作るためのスペースが残されていなかったのである。彼らは今までの汚名返上とばかりに吸血鬼の力を利用し、吸血鬼化した五分間に幻想郷中を全速力で駆け抜けたり怪力で資材を運ぶなどして土木工事を手伝った。ときおり吸血病を発症した者に出くわすこともあったが、霊夢達を呼ぶまでもなく里人が吸血鬼化して取り押さえた。結果として里の生産性は何倍にも増し、まさに百人力である。蚊の対策を兼ねた再開発は通常では考えられないスピードで進んでいった。
人里の近郊、紡績工場。ここでは現在蚊帳を製造していた。
かったり、こっとり、かったり、ことり。工場の隅から隅まで力織機がずらりと並ぶ。妖怪の山から引かれた核融合エネルギーを頼りに男巻きが回転し、機織り機の中に魔除けを含んだ糸を送り込んだ。綜絖によって上下へ交互に分けられた縦糸が筬を通って伸び、その間に糸を巻かれたシャットルが割り込んで横糸が差し込まれる。それが上下した綜絖によって縦糸に挟まれ、編み上がった布が女巻に巻き込まれていく。
出来上がった布がテーブルの上に次々と送り込まれ、それを横断するレールの上を滑るカッターが斬っていった。布を蚊帳に使うのに適切な大きさに切る工程に従事している人間たちの中に、いつかの水瓶を永琳に渡した痩せぎすの中年女性がいた。彼女は夫に先立たれて以来定職に就くことが出来ないでいた。この度の求人は収入が少ない未亡人にとっては願ってもないものだ。
「今日も一日お疲れ様! これで線香でも買ってください」
仕事を終えた水瓶の未亡人は一週間分の給金の詰まった封筒を工場監督の河童から渡され、その足で人里の薬屋へと足を運んだ。
「いらっしゃいませ」
店頭には入荷したばかりの蚊対策グッズが並んでいた。河童印の蚊取り線香、魔理沙の抑制薬アンプル、ブラックライトなどなど。水瓶の未亡人は網戸セットを二つと蚊帳を購入した。ボロくなった我が家にはちょうどいい。薬屋の主人は七三分けの頭を恭しく下げ、未亡人を見送った。
「どうかね、調子は」人間体のマミゾウが薬屋に顔を出した。
「ああ、どうも。親分が売れ筋の商品を回してくれるんで潤ってます。助かりまさあ」
にとりが横から顔を出した。
「すごい、土木工事してた奴らが蚊帳を、蚊帳を作ってた奴らが蚊取り線香を買ってくよ!」
「な? 蚊帳や網戸、蚊取り線香の顧客は大部分が破れた家に住んでいる貧しき人間じゃ。せっかく商品を作っても、そういった者たちが買えなければ意味がない。蚊帳を買うにも給金がいる。食い詰めた者に仕事を世話してやる、これが商売の王道じゃよ」
妖怪の山の玄武の沢。マミゾウとにとりが河童のアジトに戻ろうとすると、空から降りた射命丸文が立ちふさがった。訝しげにマミゾウを睨めつけている。
「な、何ですか天狗様、こんなところに如何なる用事があっていらっしゃいまして?」にとりは顔をひきつらせた。
「落ち着きなさい。最近河童を使って何かやってる狸というのは、貴方かしら?」
「おお、可愛いお嬢ちゃんじゃのー。儂にはもうこんな短いスカートは履けんから羨ましいわい」
「ああ! マミゾウが孫を見るおばあちゃんのような目つきに!」
「だれがおばあちゃんじゃ」
「ちょっ、ちょ、話を逸らさないで」
「すまんすまん。で、いかにも儂が化け狸じゃが、何か問題でも?」
「え、えっと、単刀直入に言うと、勝手にウチの技術者を別勢力に引き抜かれちゃ困るのよ!」
「なるほどなるほど、河童だけでなく天狗にも一枚噛ませろというわけじゃな?」
「いや、そういうわけじゃ」
「遠慮せんでよい。一大事業じゃ、巻き込む頭数は大きければ大きいほどよい。ところでお嬢ちゃん、新聞大会が近いそうじゃな?」
「ええ、だから何かしら? あとお嬢ちゃん呼ばわりはやめなさい」
「そこでじゃ、人間からたっぷりと購読数を稼げる素晴らしい儲け話があるんじゃが……」
「……話ぐらいは聞いておきましょうか」
マミゾウは事業の意図、文が協力できること、それが新聞の質の向上にどれだけ役立つのか、どれ位利益が得られるのかを簡単に説明した。
「どうじゃ? 良い話じゃろ?」マミゾウは笑った。
「なるほど、悪くはないですねえ」文もニヤリと笑った。
「じゃあ、天狗様も参加するつもりで?」
「ええ、ここは一つ、抜け駆けさせてもらいましょう」
「良かったあ。今の仕事から降ろされたらどうしようかと思ってましたから」
「よっぽど儲かるんですねえ」
「うぐ」
守矢神社。早苗が河童の蚊取り線香を買ってきた夜、蛙神・諏訪子は本殿の床で伸びていた。
「うふふ……神奈子、あそこにでっかいお星様が見えるよぉ……早苗のグレイソーマタージみたいで綺麗、素敵……」
「諏訪子ォォオオ! しっかりおし! 貴方が死んだら私生きていけない!」神奈子は諏訪子を抱いて半狂乱だった。
「でも神奈子の方が綺麗だよ……」
「嬉しいけどそういう場合じゃない!」
「そういえば、蚊取り線香って両生類にも神経毒性がありましたねー」
早苗は理系知識を披露する程度には冷静だった。
「あ、あと爬虫類にも」
「ゴデュファ!」蛇神・神奈子も吐血した。
「今更!?」諏訪子は飛び起きた。
「お母さんもお父さんも蚊取り線香を買って来なかったわけが分かりましたよ」
二柱にひとしきり怒られた後、早苗は蚊取り線香の燃え残りをゴミ捨場に捨てに行った。残りは誰かに配ろう。戻ってくる時に玄関のポストに入っていた文々。新聞の夕刊を取って広げた。一面の下の段には河童の蚊取り線香とブラックライトの広告が載っている。生活欄に載っている巷で噂の吸血蚊の記事を一瞥した。最近の文々。新聞は吸血蚊事件について詳細で正確な解説と対策を載せていると人里で好評だったので、早苗も読んでみたくなったのだ。そこには目を引く一行があった。
「あれっ? これは!」
その一行は彼女の知識と化学反応を起こした。早苗は閃きを胸に慌てて二柱のところに戻った。
「なんだい、早苗。蚊取り線香はもうたくさんだよ? 危うくオールウェイズ永眠するところだったんだから」諏訪子が言った。
「いやいや。実は……」早苗は今しがた思いついたアイデアを二柱にひと通り説明した。
「……なるほど。それなら一挙に片付くかもしれないわ。でもそれは使うタイミングを相当慎重に選ばないといけないんじゃないのかしら?」神奈子が言った。
「ええ、確かにリスクはあります。しかし蚊がねずみ算式に増える以上、突くならここしかないかと」
「よし分かった。早速手配しましょう。多分皆乗ってくれると思う」
「早苗良くやった! 流石理系! 流石私と神奈子の子孫!」
「蚊取り線香を買ってきたことは無しにしてあげるわ。これは妖怪退治であると同時に我々の力をアピールするチャンス。今度何でも好きなものを買ってあげる」
「えへへ。ありがとうございます」
昼の人里。慧音とマミゾウは大通り沿いのカフェーのテーブルテラスで簡単な食事を取っていた。日光はパラソルが遮り、周りに植えられている観葉植物のおかげで夏の屋外でもそれなりに居心地は良い。肉の入ったクラブハウス・サンドイッチ片手にマミゾウが外に目をやると、大通りの中心には何やら人だかりができていた。
「しんぶーん! しんぶーん!」だいぶ人間たちに売れているらしい。中心から首の覗いた射命丸文と目が合うと、文は新聞を一部マミゾウめがけて投げつけてきた。
「それっ!」
少し狙いが外れ、慧音が頭上に手を伸ばして受け取った。広げると『進む吸血蚊対策』『化け狸が主導』『ここ一週間の吸血事件の解説は三面参照』などと書いてある。
「なんだ、提灯記事じゃないか」
「本当は口コミだけで回るのが一番なんじゃが、ある程度は宣伝にも金を掛けんとな」
「うむ、人里での吸血事件の発生数も減ってきた。完全ではないが、人里に蚊を近づけさせなければ幻想郷全体から蚊を追放できる日も近いだろう」
「ほっほっほ。妖怪よ、人間よ、幻想郷に金をぐるぐる回すのじゃ。直に最も貧しい家庭でさえも網戸を取り付け、蚊帳と蚊取り線香を準備できるようになるじゃろう」
「ああ、経済を循環させ、富を生むサイクルが貧困を退け、公衆衛生を改善するのは歴史が証明している。これは上手くいくかもしれないぞ」慧音はサンドイッチをもう一つ取って齧った。肉の旨味と脂が野菜とパンの繊維と混ざる。コーヒーをもう一杯注文することにした。
一方の紅魔館。いつもの読書部屋でレミリアはソファーの上でゴロゴロしていた。咲夜はその横に座ってレミリアの顎を撫でており、パチュリーは小悪魔と本を探しに行っている。
「ヒマねえ。あの医者には私達からも協力するとは言ったけど、何にもやることがない」
「私達が何もしなくても蚊を駆逐できそうな勢いですものね」咲夜はレミリアの髪を掻き分けて耳をくすぐった。
「いくら私達が強大な力を持ってても、何万匹もいる蚊を相手にしたら地味ーな努力を重ねるしかないのかしら」レミリアは甘え声を出し、顔を反対側に倒して咲夜の方に寄った。羽は器用に折りたたまれている。
「いつもの異変でしたら霊夢か魔理沙あたりが首謀者を成敗して終いなのでしょうけど、今回は頭というものが存在しません。蚊の一つ一つはとても弱い。懐中電灯をかざしたら終いですもの。しかしこう幻想郷中に散らばっていては、個人に解決できるとは……」
「ていうか、吸血鬼多すぎ! 人間が吸血鬼の力を畏れるべき者というより利用するモノとみなし始めた! おかげで吸血鬼の希少価値が大幅デフレーションワールドよ。舐めてるわね。このまま潰れてくれればありがたいんだけど」
「どこからやってきたんでしょうねえ、あの蚊。まさか故意に作り出されたって事はないでしょうけど」
「うぐ」
「いかがなさいました?」
「い、いやなんでもないわ。ホントいい迷惑よね!」偶然にせよ、レミリアの血から作られたということを咲夜には知られたくない。
「そう……ですね」
その時偶然にもノックの音が聞こえた。レミリアが答えると、扉からメイドが入ってきた。
「あ、あの、来客です」
「どこのどいつよ」
「河童です」
夜の魔法の森、霧雨魔法店の玄関。
「ただいま!」魔理沙はぱんぱんに詰まった革の袋を引きずり、応えるもののない挨拶をした。声の調子は上機嫌で明らかに酔っている。手洗いうがいをしてそのまま書斎に向かい、机の上で革袋を逆さまにした。机上に紙幣が擦れる音を立てて散らばる。魔理沙は肘掛け椅子に座り、ランプに火を付けて紙幣の枚数を数えだした。
「くっくっく、笑いが止まらん。これだけ利益が出れば向こう一年間は暮らしていける。額を知ったら親父は目を剥いて驚くだろうな。だがもう遅い、ざまあ見さらせ。あのまま道具屋の娘をやってるよりいい暮らしをしてやるぜ」
札束を纏めていく内に魔理沙の胃袋の中で里の料亭で食べてきた懐石料理の消化が進んだ。すると次第に酔いが冷め、興奮が静まってきた。
「まあ、でも一生抑制薬だけ売っては暮らせないな。その前に吸血蚊事件自体が解決しちまうだろうし。ダイエット薬に転用するのがいいかもな。ひと通り贅沢したら次の儲けのネタでも考えるとするか。賽銭箱に札束をぶち込んで霊夢をビビらせるのもいいし、ツケを一括返済して香霖の反応を見てやるのもいいな」
まとめ終わった札束を魔法罠付きの金庫に放り込もうとすると、魔理沙の後ろから蚊が一匹飛んできた。
「ああ、今はお前は要らん。ちょっと大人しくしててくれよ」
魔理沙が両の手のひらで蚊を潰そうとすると、どういうわけだか手のほうが勝手に蚊を避けていった。二、三回繰り返しても同じ事だった。魔理沙は運動神経は悪い方ではなく、こんな事はどうにも不可解である。いつもは酔っていても百発百中なのだが。ブラックライトは見当たらない。
「しょうがないなあ。こっちに頼るか」
魔理沙は再び机の前に移動した。マッチを擦って火を着け、蚊取り線香に移そうとすると、突然手がガクガクと震えだした。どうにもならずマッチを床に取り落とす。
「あぶねっ!」
魔理沙は他に燃え移る前にマッチをブーツで踏んで消火した。フローリングの焼け焦げた痕が一つ増えた。燃え殻を拾い上げ、水の入った瓶に捨てる。
「疲れてるのか? 興奮し過ぎたかな、こんな時はさっさと寝るに限るぜ」
魔理沙は蚊を布で優しく包んで、窓の外に追い出してやった。今度こそ上手くいった。魔理沙は風呂の準備を始めた。家のすぐそばの花壇にはカンナの花が真っ赤に咲いていた。
§4.ダブルシンカーズ
戸口の裏に二千匹もの蚊が張り付いているのに気づいた時、ナズーリンの修羅場は始まった。
「ヒッ」
扉の蚊たちが掘っ建て小屋の中で舞い出す。彼女は窓を破り、着のみ着のままで外へ走りだした。幸いロッドは持っている。
どこか安全な場所はないかと探し回ると、あの紫の桜が美しかった夜の無縁塚が見渡す限り蚊。蚊。蚊である。少女の吐いた息を嗅ぎつけて、蚊の嵐が迫ってきた。彼女は足を露出する服装をしていたことを後悔した。幸い上着は長袖だったので、そこは刺されにくいはずだ。太ももに止まった蚊を一匹叩き潰した。吸血蚊は一回休みだ。再び走りだす。
「昨日までここに蚊なんて居なかったのに!」
彼女は無縁塚に住んでいる限り、近頃世間を騒がせている吸血騒ぎとは無縁でいられると思っていた。こんなところに来る人間はほとんど居ないので、蚊にとって餌となるヒトの血が得られないからだ。マミゾウが吸血蚊対策で金儲けをしていることを命蓮寺の皆は知っていた。それに協力するべきと、ぬえが寺に触れ回っていたからだ。しかし、蚊を殺すのは即ち殺生では? 金儲けの事業に与したところで我々に何ができる? そういった意見が寺全体として協力することを妨げていた。ぬえの行動は裏目に出やすいが、それが全体の意見の趨勢に影響したかは分からない。
首に止まった二匹を潰す。息が上がって口で呼吸すると何匹か入り込んできた。それらをぺっと吐きながら悪態をつく。
「そうだ! 子ネズミ達は!?」
無縁塚にも僅かながらネズミがいる。逃げるなら彼らを連れていこう。そう思って歩みを止めると何かを踏んだ。足をどけると鼠の死骸が転がっていた。全身が腫れ上がっている。二百匹の蚊が哀れなネズミの血の全てを抜き取ったのだ。
「うっぷ」吐き気を催したがなんとか堪える。
「ごめんよ!」半泣きで死骸を置き去りにした。もう手遅れだ。また三匹ふくらはぎに止まり、叩き潰す。キリがない。気づくと既に五つほど虫刺されができていた。嫌だ、あの子と同じ運命は辿りたくない。私には帰りを待つご主人様とまだ見つけてない財宝があるんだ。
「何でこんなに飛んでくるんだよっ!」
口を抑えて全速力で走る内に、一つのアイディアが閃いた。
「そうだ! 飛ぼう!」斜め四五度に飛び出した。目算は当たった。蚊の高度限界は一五メートルほどであり、上空になればなるほど蚊の密度が薄くなる。しかしそれでも数えきれないほどの蚊がしつこく付いてきた。吸血鬼の力だろうか。ペンデュラムをぶん回して追い払う。だがまた囲まれるのは時間の問題だ。
もう一つアイディアを閃き、ダウジングロッドを構える。ロッドは即座に反応し、安全地帯を指し示した。彼女はそこに飛び込んだ。皮膚に止まった吸血蚊が次々と剥がれ落ちていく。
「ふう、一時はどうなることかと思ったよ」彼女は地下水脈、つまり地面の下の水の流れを探し当てた。そこの上空は吸血蚊の入ってこれない聖域だった。彼女はいつもの不敵な笑みを取り戻しつつあった。通常の蚊が登れない高度を保ちつつ、この地下水脈を辿っていけば安全に無縁塚を脱出できるに違いない。私は力は弱いが、最後には智慧と賢明さが勝利するのだ。
「か、痒いっ!」安心した途端に意識の表層に痒みが上ってきた。患部を激しくこすり、摩擦熱で血流を増やす。痒みは消えたが、直後にだるさが襲ってきた。吸血蚊の唾液のアレルギー反応だろうか。うんざりしたが、身体を引きずってどこかゆっくり休める所を目指すことにした。小屋はもう蚊で充満してるだろうし、この熱で朝までずっと引きこもってる訳にもいかない。第一候補はあそこだろう。死んでいったネズミたちの事を考えると気が重かった。
命蓮寺で出迎えたのは星だった。ナズーリンは星の腰に抱きついた。
「おお、よしよし。泣かないの」星はナズーリンの頭を撫でた。
「ご主人様、泊めてくれ」
「いつも寺は窮屈だと言ってろくに来ないのに、どういう風の吹きまわしです?」
「このままだと例の蚊に殺される。あの小屋はもう駄目だよ。もう妖怪も外でぶらぶら出来る状況じゃないんだ」
看病が始まった。星は事情を聞き、べそをかくナズーリンを慰めた。命蓮寺が吸血蚊の排除に傾いた瞬間だった。とうとう吸血蚊は妖怪の生活を脅かすまでに至ったのである。
「しかしどうして、人間しか襲わなかった蚊が動物や妖怪も刺し始めたのでしょうか?」星は床に伏せる少女の額に氷嚢を載せた。
「きっと人間が蚊を対策したからだ。蚊が吸う血が無くなって、追い詰められて妖怪にも手を出し始めたんだよ。妖怪は刺されても吸血鬼化はしないようだけど、凄く身体がだるくて辛いよ。まったくいい迷惑だ」
「しかし彼らにも、自分の身を守る権利があります」
「それはそうなんだけどさ、刺された私の事も考えておくれよ」
「すみませんね、これで許してください」星は氷嚢をどけて額にキスをした。
「全くもう、熱が上がっちゃうじゃないか」顔を背け、頬の血流が増えるのを誤魔化した。
人間を避け、家畜から血を得ていた蚊が、家畜が自動車やトラックで置き換えられたために食い詰めて人間を襲うようになった例は歴史上存在する。今幻想郷ではちょうどその逆のことが起こっていた。
竹林はさらなる修羅場だった。何しろ一日中光が差さないし、上空に飛んで逃げることも出来ない。ここも蚊の天下だ。
今泉影狼も半泣きだった。影狼はどうしていいのか分からず、蒸す竹林をどこに行くともなく闇雲に走っていた。草の根妖怪ネットワークは、吸血蚊に関してはノーマークだったのである。何しろ吸血蚊は人間しか刺さないのが通説だった。長袖とロングスカートのおかげで蚊には刺されにくかったが、顔は無防備だしとても走りにくい。ただでさえ暑い服装に、草の蒸す匂いが加わってますます暑苦しさを増した。うっかりして蚊柱の一つに突っ込む。
「キャッ」影狼は頬に止まった蚊をぺちぺちと叩いて五匹ほど潰した。
汗をだらだらと流しながらふと横を見ると、いつの間にかめらめらと燃える炎の鳥が並走していた。影狼は口をあんぐりと開けた。暑いのはこいつのせいか。
「入る? ここなら蚊は入ってこれないわよ」炎の中から声がした。
「お、お願いします!」影狼は自棄になって答えた。もう何があっても驚かない。首筋の蚊を二匹潰した。
「じゃあよろしくね」
「パゼストバイフェニックス」
影狼の身体を炎が優しく包み込んだ。不思議と熱くはない。もう汗水垂らして走る必要はなく、不死鳥が体を運んでくれている。炎の中からは赤い袴を穿いた、銀髪にリボンの少女が現れた。影狼を値踏みするように妖しく笑っている。
「私の名前は藤原妹紅、人間よ。時々すれ違った事ぐらいはあるんじゃないかしら? 何しろ数百年はこの竹林で暮らしているからね」
そう言われてみると、影狼にも目の前の女の子に見覚えがある気がした。彼女は竹林に棲む死を捨てた人間の噂を思い出した。
「あ、私は今泉影狼、狼女です。助けてくれてありがとう。でも人間の貴方が何で私を?」
「雇われたの。とりあえず川に向かうわよ。あそこの上に行けば蚊は入ってこれないから。みんなそこに避難してる。ところで汗、凄いわね。ぐっしょぐしょじゃない」
「臭わないか心配だわー。ただでさえ獣なのに」
「自分でそれを言うの? 今のところ大丈夫よ。でもその暑そうな服は替えた方がいいわね」
「脱いでもまだ毛皮があるの」
不死鳥がばさりと羽ばたき、目的地に向かって加速した。
竹林の入口を流れる、一本の川。てゐ、ミスティア、ルーミア始め、外を活動場所とする妖怪、妖精達が川の上に避難している。
「鈴仙が迎えに来るのを待ってるの。あいつなら波長か何かで蚊も除けられるかな」
「でも超音波って蚊には効かないよ。私もそれで歌ってみたんだけど無駄だったわ。あいつら視覚を潰しても嗅覚使ってくるし」
「真っ暗にしても刺されるのー」 ルーミアはいつにも増してぼやーっとしていた。吸血蚊のもたらす熱病だ。
火の鳥が向かって来るのを見つけて、妖精たちが騒ぎ出した。
「あ、狼女!」チルノが言った。
「妹紅さん!」サニーミルクが言った。ルナもサフィーも無事だ。
妹紅が言った。
「お前たち、永遠亭で治療を終えたら取り敢えず冥界に行く? あそこには知り合いがいないわけじゃないし、今難民が住めるか交渉中みたい」
「やっとここから抜け出せるの?」
「やったー!」
妖怪の子供たちは歓声をあげた。確かにあの亡霊嬢は恐ろしいが、まさかホントに命までは取られないだろう。それよりもこれ以上の虫刺されはまっぴらだった。まして熱病になるとなっては。
夜の冥界、白玉楼の縁側。
「というわけで、身寄りのない妖怪や妖精たちに住む場所を提供してやって欲しいのです」藍が幽々子に言った。
「紫の頼みなら喜んで。だけど妖夢、出来るかしら? ここに生きたものをいっぱい泊めるのは前例がないからちょっと心配だわ」
「幽々子様が前例を気にするなんて。無茶振りはいつものことでしょう」
「あら言うわね」
「妖怪の生活に必要な物資を提供してくださるのなら、場所は貸せると思います。ここは無駄に広いし、労働力は幽霊がたくさんいますので、彼らを訓練する時間があれば何とかなるかなと。まあ、妖怪同士がトラブルになる心配はありますけどね」
「もちろん物資は送る、ありがとう」
「橙は大丈夫なの?」
「ウチで預かっています。流石に今は放し飼いという訳にはいきません」
「よかったわ~。あの子が熱を出したら大変そうだもの」
「ところで、やはりここまでは蚊はやってこれないのか」
「ええ、蚊には空気が薄すぎるようです。すでにプリズムリバーが避難して来ていて、幽々子様は彼女らの演奏を独占してます」
「羨ましい限りだ。妖怪達が押しかけて高山病にならないか心配だな」
「きっと徐々に慣れるわ」
言ってるそばから、妖夢の近くに蚊が一匹飛んできた。妖夢が切断し、藍がブラックライトを放射してとどめを刺した。
「私の身体の影に隠れてたか! すまない、気づかなかった」
「危なかったわね」
「これから来る妖怪たちが冥界に蚊を持ち込まないように検査しなければなりませんね」
「防疫用の資材も用意しよう。人間が国際空港で使っている奴だ」
「幽霊達が使い方を理解できるかしら」
「理解させるのはやっぱり私の役割ですよね」
「もちろん」
「はあ」
永遠亭。病室のベッドは妖怪達でひしめいている。
「さあ、刺された所を見せてちょうだい」ルーミアのベッドの上で、ヤマメが言った。ルーミアは焦点の合わない瞳であらぬ方向を見つめているが、かろうじて聞き取れてはいたようだった。
ルーミアが右手首を見せると、ヤマメはそこに口付けした。ルーミアの体内に散らばった蚊の唾液の成分が抜かれていく。ルーミアの目に生気が戻ってきた。
「あ、ありがとう」
「どういたしまして。さあ次よ」ヤマメは隣のベッドの上のナズーリンの治療に掛かった。形式的な挨拶をする時間も惜しい。
(吸血鬼化の方はともかく、熱病なら私にも治せる。でも治す方は一度に一人ずつしか出来ないのよね。ばら撒く方ならあっという間に出来るんだけど)
ヤマメが治すペース以上に、診察室には患者が運ばれてきている。今度の患者は射命丸文だ。
「不覚。私の風なら簡単に追い払えるはずだったのですが、こう不意を突かれると」
「はい、解熱剤飲んで」診察室台に寝そべる文の口に、鈴仙がアンプルを突っ込んだ。兎達に脇を抱えられて、文も病室に運ばれていく。
「どうかしら?」患者の来ない小休止の間に、入れ替わりで病室から戻ってきた永琳が言った。
「熱病なら薬で抑えられるけど、いかんせん患者の絶対数が多すぎます!」
「しかも不味いことに、竹林と永遠亭を結ぶルートが潰されたわ。こっちから出向けば防護服は準備できるから、妖怪の集まる場所に出張所を増やさないと」
「こういう時のために治療に当たる兎を訓練してあります。熱病の治療と解熱剤の投与なら任せられるでしょう」
「人里には既にあるから、妖怪の山、後は冥界に送ろうかしらねえ。あ、また誰か来たわ」
メディスン・メランコリーが風見幽香を連れて入ってきた。幽香の顔色や足取りから察するに、やはり熱病のそれである。介助付きとはいえあの熱で歩けるとは凄い精神力だ。永琳は内心幽香に感心した。
妹紅は病室の入り口で、ベッドで横たわる妖怪の子供達を遠巻きに観察していた。悪夢にうなされる者、口に加えた体温計をぼうっと眺める者、額に乗せられた氷嚢に手を触れて弄くる者。妹紅の脳裏に今までに殺した妖怪達の顔、熱に浮かされ弱ったルーミアの顔、永遠亭に到着した時のミスティアの安堵する顔が浮かんだ。
「あら、浮かない顔しちゃって」診療所の廊下を滑って、永遠亭の主が現れた。
「輝夜」
「貴方にとって妖怪は敵だと思ってたけど、情が移ったの?」
「人を誘拐犯みたいに言わないでよ。さんざん退治してきたってのに今更……」
「ご冗談。心配しなくてもこの子達は私と永琳が責任を持って引き受けるわ。イナバも頑張ってくれてるし」
「うん……治ったら冥界に連れていくから」
「ところで、あの金髪の赤リボンの子可愛いと思わない? 永琳に頼んでもう少しここに置いてもらおうかしら」
「それこそご冗談。あんまりあんたの保護者を困らせないの」
「むしろ配偶者よ」
「あ、そう」
妖怪の山、河童のアジト。
「「池を埋めるぅ!?」」リグルとにとりが叫んだ。
「やっぱり駄目かい?」マミゾウが言った。
「当たり前よ! 池で育つのはボウフラだけじゃないわ。蛍が育つし、他にもアメンボとか数えきれないぐらいの虫がいる」
「それを餌にする魚もね」
「日陰にあるものだけでいいんだがのう。田んぼは日が当たるから吸血蚊は育たんし」
「いったい何でそんな事を?」リグルが言った。
「竹林の騒ぎを聞いとらんのか? これまでは蚊は人間の血しか吸わんかったから、人間の居住区を中心に対策すれば良かったんじゃ。しかし蚊が妖怪も狙うようになってな、これまでの対策だけでは足りんようになった。儂の子分もだいぶやられて寝込んどる」
「そんな……」
「他に対策はないの?」にとりが聞いた。
「そうじゃなあ。1.池の水を抜く。2.池に塩を撒く。3.池に油を撒く。4.池に銅を溶かす。あたりかのう」
「「全部が池に大ダメージじゃねーか!!」」
「とはいっても、水と蚊の繋がりは切っても切れんのじゃよ」
これらはマラリアなどの蚊の媒介する伝染病が発生した地域では一般的な対策である。蚊の幼虫が育つ環境を破壊する事で、人間の居住区には蚊が住めないようになったのだ。
「故郷を追われた妖怪たちは冥界に避難するようじゃ。あまり避難所生活が長引くと問題は避けられんぞ。その前に抜本的な対策を取らねばならん」
マミゾウは応接室のテーブルの上に資料を並べ始めた。三人はソファーの上で身を寄せ合って各々が必要とする情報を探し始めた。
昼の魔法の森。湿地帯と森の境目で、人間の男が立っていた。白い防護服を着て顔まで覆っている。地図を見ながら逡巡している様子だったが、やがて意を決したのか森の中へと踏み入った。男の目に入る光量が格段に減った。ここに昼間も日光が差さない。携帯ランプに火を着けた。
男は普段と全く異なる光景を恐れながらも、同時に気分を浮き立たせていた。虚の多い樹木・紫色の雑草・ぬらぬらと色とりどりに輝く茸。全てが男にとっては非日常だった。男は元来恐れよりも好奇心の勝る質で、この仕事を引き受けたのも里にいては見られない風景を目に焼き付けるためだった。
酔っ払いが指揮する交響曲のような、調子っ外れの鳥の唄を楽しんでいると、自分でも思っていた以上に深くまで入り込んでしまったようだった。地図と合わせると森の外縁から中心まで三分の一程度。目的の池はすぐ近くだ。周りを確認する意味でランプを高く掲げると、道の奥から金髪の少女が歩いてきた。黒い帽子にエプロンドレス、顔の横におさげを一本、上顎からは一対の牙、背中からは蝙蝠の羽を生やし、瞳は金色ではなく、ランプに反射して大業物の刃のようにギラつく緑色をしていた。男はすぐに誰だか認識し、防護服の頭の辺りを脱いだ。
「あ、霧雨のお嬢さんじゃないですか。吸血鬼になってらっしゃるということは、何か力仕事でも?」
「ああ、蝙蝠をたくさん出す術があるだろ? あれは珍しいキノコとかを採集するのに便利なんだ。他にもこれからたっぷりと仕事があるんでな。そっちは?」
「例によって、蚊の繁殖地を潰して回ってるところで。最近あいつらは妖怪の血を吸い出したそうですから、効いてるのは確かです。人間の血にありつけていないんでしょう。これをきっかけにもっと沢山の妖怪が手伝ってくれるようになればいいんですけどねえ」
「私の抑制薬は役に立ってるか?」
「そりゃあもう。人里のみんなはお嬢さんには感謝してますよ。あの、アンプルって言うんですかね、アレがなければあんなに早く再開発も蚊の対策も進まなかったでしょうから」
「そうか、良かった。あれはそう難しい薬じゃあないんだが、量産化までにはけっこう時間を掛けたんでな」
「口当たりもそう悪くないですし。なんで竹林のお医者様が先に作らなかったのか不思議ですわ」
「そうかあ? 私はあのミント味は苦手なんだよなあ、刺激が強すぎて」
「子ども舌ですね」
「うるせえ。ちなみにアンプルは薬じゃなくて容器の名前だぜ。あ、後ろ……」
「え?」
男が後ろを振り向くと、腰のあたりに衝撃が走った。平衡を失った男の体は湿った地面に倒れ、背中を横に酷く打ち、紫外線照射装置の首が取れる。泥汚れが髪に付着し、男は呻いた。さっきまで普通に世間話をしていた少女が自分の身体にのしかかってくるのが見える。
「ぐ、何を」
男が隠し持っていた霊撃札を使う隙もなく、魔理沙の牙が防護服を貫通して男の首筋に突き刺さった。もがくも魔理沙の胴は男の胸に密着し、腕は万力のような力の腕に押さえつけられて動かない。割れたガラスのかけらのような牙を通して、魔理沙の口内に男の液体が伝いだした。男は自由の効く足で魔理沙の腰に踵落しを食らわすが、効いている様子はない。
「あっ、はぁっ……」
頸動脈から急速に血を失い、甘い痺れとともに男の思考が白く染まっていく。魔理沙が全力で抑えている間に男の身体は二、三度痙攣したが、やがてぐったりとして動かなくなった。それを確認すると、魔理沙は身体を起こして男に馬乗りになった。口の端から零れた血液が数滴エプロンドレスの下半身の白い部位に滴り、消えない染みを広げていく。
「ふう、満腹満腹。蚊ほどこっそり近づけないのが難点だが、一発で言う事を聞かせるにはこっちのが優れてるな。取り敢えずあそこに運ぶか。その後で改めてゆっくり支配を進めてけばいい」
(こりゃあ、まずったかな?)男の右足を掴んで引きずりながら、霧雨魔理沙は考える。
(一、二回ならいざ知らず、人為的に蚊に何十回も刺されればどんなリスクがあるかが分からない。永琳が抑制薬を作らなかった理由はこれか。すっかり忘れてたぜ。血を吸われたら血を吸った奴の下僕になる。まさか蚊なんかに使われる立場になるだなんてなあ)
魔理沙は変容していく自我の中で考えた。蚊が人間に対抗する知恵を付けたということは、それを逆に利用することも出来るのではないか。蚊の利益に反する事はできなくなった。その中で自分が出来る事といえば何か。
突然、魔理沙はおぼろげながらある可能性に思い当たった。うまく言葉に出来ないが、霊夢に話したら一蹴されそうな、荒唐無稽で馬鹿馬鹿しい夢想だ。しかし、無限に増える蚊を撲滅するよりは分があるように思える。魔理沙は操られるままに、空想を形にすべく知性の糸を手繰っていった。
「着いたぜ」魔理沙は防護服の男を起こし、腰ぐらいの高さの岩の上に座らせた。
男が目を覚ますと、何も見えなかった。その代わりに方々から耳障りな羽音が聞こえてくる。
「ここは……」
自分の声の残響や肌で感じる湿度、水滴の落ちる気配から、どうやら何かの洞窟の中にいるらしいという事が分かった。咄嗟に口元に手をやると、自分の上顎からは鋭い牙が生えている。さらに目が慣れてくると、暗闇の中に何人か人間の姿が浮かんできた。六人、七人。精神をやすりで削り取るようにブゥーン、ブゥ─────ン。
『光よ』と声がした。魔理沙の呪文だ。魔理沙の手のひらから白い光が放出され、辺り一帯を照らしだした。人影の正体が目に飛び込んできて、防護服の男は引きつった声を漏らした。作務衣の青年、洋装の青年、他にも里で見覚えのある人間が男女合わせて十人ほどもいる。その顎、腕、足首には赤黒い吸血蚊が隙間なく止まっていて、複眼と翅から魔法光が反射している。各々の双眸からは緑色に反射光が迸っていた。奥の方には湖が見える。
「親父は……いないか」魔理沙が辺りを見回して言った。残念そうな響きがしたのは里人たちの気のせいだろうか。
男がふと地面に視線を移すと、足元の水たまりにはボウフラがひしめいており、その運動で水面が波立っていた。
「ひっ」
「不安か? 不安だよなあ。だが直にこの光景に安心するようになる」魔理沙が言った。
「お前もここに来たか。大丈夫か?」洋装の青年が言った。
「おい、どうなっているんだよ」防護服の男が言った。一拍おいて、答えが来た。
「恐らく……我々はこれから人間の、いや幻想郷の裏切り者となる」
吸血鬼に血を吸わせればどうなるか。『吸血鬼に血を奪われた者は吸血鬼の眷属に』。
「何を馬鹿なことを、血を吸った後の蚊は紫外線で処理したはず。抑制薬だってちゃんと効いてるはずだろ」
「これは推測だがな、吸血蚊という種に血を吸わせるという行為そのものが、眷属化の引き金となるのではないかと考えているんだ」
「そんな」言葉に反して、男はどういう訳かさほど衝撃を受けていなかった。眷属化による精神作用が既に始まっているのだろうか。
「あまり時間がない。私以外の皆には里での生活がある。会合が長引くと怪しまれるからな、さっさとやっちまおうぜ」魔理沙が口を挟んだ。
「ああ、計画についてはまた相談しよう」洋装の青年が言った。
「じゃ、始めるぜ。これから皆には、空中飛行術と光の魔法を覚えてもらう。私ぐらい上手く使えるようになるためには相当の年月がかかるだろうが、小さな星とレーザーを出すぐらいなら皆もすぐに出来るようになるだろ。妖精にもできるし。まずはお手本だ」
魔理沙が人の居ない方向に人差し指を向け、両腕で円を作ったぐらいの大星型弾を射出。魔理沙の背丈ほどの石に命中し、白い煙を出して霧散した。
「単純な破壊の力だ、妖怪だろうが人間だろうが平等に効く。相手が魔除けだろうが岩だろうが関係ねえ。これから相手にする者のことを考えたらちょうどいいとは思わないか?」
「霧雨のお嬢さん、強くなったなあ」作務衣の青年が言った。何をのんきなことを、防護服の男は思った。
訓練が始まった。一番弾を出すのが早かったのはグループの中で一番目立たない、ショートカットに眼鏡の女性だった。女性が指を上にかざすと、黄色の曲線が湖の側の膝ぐらいの高さの石を目掛けて飛んでいった。しかし当たる寸前で下に落ち、地面をえぐって小石をまき散らした。
「ちょっと思っていたのと違ったんですけどね。何か狙った方向に飛ばないし」
「いや、始めたばかりでへにょりレーザーを出せるなんて凄い才能だぜ。光の魔法に拘らず、この方向で伸ばすべきじゃないか?」
「へにょり? え、あ、はい。ありがとうございます」
「自分で表現できるものがあるのならそれに越したことはない。趣味で何か音楽でもやってるのか?」
「いえ、読書ぐらいのもので。母は琴をやっておりましたが」
「うーむ……変なことを聞くが、家の宗教は?」
「代々仏教、毘沙門天を信仰しております。最近はご本尊の方からこの地にいらっしゃったのでありがたい限りで」
「ああ、うん。何となく分かった」
「?」
その他の里人たちは思い思いの弾を出していったが、防護服の男は最後まで手こずっていた。
「駄目です、上手くいきません」
「どれ、見せてくれ」
男が手を前に付きだすと、手のひらからうっすらと光の玉が浮かんだのが見えた。しかし一秒もしない内に光は火花のように散ってしまった。
「星が足りないな」
「はあ?」
「星だ。星の力を借りるんだ。私はずーっと、自分が死を捨てた時の事を見据えて魔法をやってたんだ。種族魔法使いになる前と後で使う魔法が違ったら、人間の時の分の試行錯誤が無駄だろ?いつでも使える、誰でも使える……月が砕け、火が消え、水が乾き、木が枯れ、金が錆び、土が汚れ、太陽が燃え尽きても、夜空から星が消える事は永遠にない。この世から光が消える事は絶対にない。星空は永遠だ。紙袋にたっぷりと詰まった金平糖みたいに満天の星空をイメージしたら、後はそこから借りて行くだけだ」
堰が切れて止まらない。熱っぽい表情を浮かべて、霧雨のお嬢さんがその思想の根底を曝け出している。異変解決の英雄とは言っても、魔理沙に対して『跳ねっ返りの放蕩娘』とのイメージしかない里人たちにはその様子は異様に感じられた。
音叉が共鳴するように、防護服の男の脳内にも星空が浮かび上がった。デネブ、ベガ、アルタイル。さそり座、麦星、アンタレス。かつて教養として寺子屋で習い、記憶の底に沈んでいたものが大脳皮質の表面に現れる。いや、知識として思い出すまでもなく、いつだって空を見上げれば星々はそこにあったじゃないか。男は、全身の毛穴から未知の力が流れ込んだような感覚がした。
次の瞬間、男の上に向けた手のひらから光が迸り、こぶし大ほどの星型弾が垂直に飛び出した。そのまま花火玉のようにまっすぐ遥か上の天井にあたって、数拍置いて砕けた砂が降ってきた。魔理沙は帽子で防いだが、男はまともに引っ被ってしまった。
「うわっ、エフッエフッ」男は砂の混じった唾液を吐き出した。
「おい、大丈夫か」
「ええ、目には入りませんでした。ありがとうございます」
「柄にもなく語っちまったな」魔理沙がはにかんで言った。
「いや、素敵でしたよ」吸血蚊の繁殖地のど真ん中で行うには、余りにも不条理なやりとりだ。男の感覚としては決して上滑りではないのだが。
「しかし、頭を洗うのにここのボウフラ水は使いたくありませんね」男は魔理沙が一緒に持ってきていた背嚢の中から水筒を取り出し、砂に塗れた口を濯いだ。
三時間もすると、防護服の男は自分の牙が引っ込んでいることに気づいた。他の里人たちの目も緑色から元の色に戻っていた。
「ぼちぼち皆、人間に戻ってきたか?」
「今日はそろそろ終わりにするか。楽しかったよ」作務衣の青年が言った。
「俺は帰るよ。今日の成果と、使ったり消耗した備品を報告しなくちゃいけないからな」防護服の男はそういって、出口に向かっていった。道は既に教えられている。
「私はまた『勧誘』に戻るぜ。他のグループにも魔法を教えなくちゃいけないしな。だがその前にちょっとやることがある」
魔理沙は湖の、最も蚊の密度が高い方に向き直り、手で拡声器の形を作って叫んだ。
「よう、元気か? 今日はちょっと昔話をしよう! 昔々あるところに、博麗の巫女がおったとさ」幼児におとぎ話をするかのように、魔理沙が語りかける。残響が洞窟を満たしていく。
里の人間たちは面食らった。霧雨のお嬢さんは、この異常な状況に耐え切れず狂ってしまったのではないか。
「お、おいお嬢さん。いきなり何を」洋装の青年が言った。
「静かに……」魔理沙が言った。
羽音がいくらか静まった。それはまるで蚊が魔理沙の話にじっと耳を傾けているようだった。魔理沙は自分のアイディアに対する確信を深めた。これだ。これしかない。このまま続けよう。
隠し通路から洞窟を出て、防護服の男は里に戻る道を歩む。里に近づいていくごとに、今まで魔理沙にされたこと、洞窟で教えられたことは意識の表層からするりと抜けていった。そうだ、自分は魔法の森の中で迷ってしまって、そこから脱出するのに随分と時間がかかってしまったのだ。(そうじゃないだろう?)霧雨のお嬢さんに助けてもらったから良かったものの、(霧雨のお嬢さんに押し倒されて)次からはもう少し準備を整えてから行こう。(あんなに酷い気分はなかった)今日はもう疲れたから(吐き気を催すような大量の蚊)ゆっくり休まないと。風呂屋は避けたほうがいいかな。日焼けした肌に湯は染みるし、(ボコボコに腫れた肌)何故か素肌は見られたくない気がする。(首筋の傷)簡単な水浴びで済まそう。(昏い洞窟)明日からまた外出だ。(光魔法)蚊をもっとたくさんぶっ殺さなければならない。(計画)紫外線照射装置は岩にぶつけて壊してしまった。フードは取れてなくしてしまったから(牙)、新しい防護服をもらおう。(……)事実とはまったく矛盾する記憶が生成され、既存の記憶にぴったりと寄り添うように重なっていく……
¶二重思考
少数独裁による集産主義 理論と実践 エマニュエル・ゴールドスタイン 著
第三章 戦争は平和
”二重思考は一つの精神の中で二つの相反する信念を同時に保持し、その両方を受け入れる能力を意味する。党の知識階層はどちらの方向に自らの記憶を改変しなければならないかを理解している。従って自分が策を弄して現実を改変していることも理解しているが、同時に二重思考の実行によって現実は侵犯されてはいないと自らを納得させるのだ。その作業は意識的に行わなければならない。さもなければ十分な正確さでそれをおこなうことは不可能だ。しかし一方でそれを無意識におこなう必要もあるのだ。そうしなければ欺瞞的な感情とそれによる罪悪感が湧き出てしまうだろう。二重思考はイングソックの最も核心に横たわっている。党の本質的な活動は完全な誠実さで確固とした目的に向かって前進し続けながら、一方で自らの意識を騙すことにあるからだ。心からそれを信じながら手の込んだ嘘をつくこと、不都合になった事実を全て忘れること、そして後になってそれがまた必要になった時にはそれが必要な間だけ忘却の彼方からそれを引っ張り出すこと、客観的な現実の存在を否定しながらも否定した現実に絶えず気を配ること・・その全てが必要不可欠なのだ。二重思考という言葉の使用においてさえ二重思考の存在が必要である。つまり、この言葉を使うことは現実を改ざんしていることを認めることになるが二重思考を活用することによってその記憶を消去するのだ。そして真実の一歩手前を常に嘘が先行する状態が続いていく。党が歴史の進行を停止させられる・・我々全員が理解しているようにおそらくは数千年でもそれは可能だろう・・のは完全に二重思考という手段のおかげである。“
(引用元:『一九八四年』第二部 第九章 ジョージ・オーウェル 著 H.Tsubota 訳 CC-BY-NC-SA 2.1)
昼の霧の湖。わかさぎ姫が自分を呼ぶ声に誘われて水面から顔を出すと、白い防護服に顔まで包んだ誰かがいた。揺らめく霧の白と輪郭が同化して分かりにくいが、頭の透明な部分から見える顔からかろうじて女性だと分かる。
「あなたはだあれ?」
「初めまして。紅魔館で門番をやっております紅美鈴といいます」
「ああ、畔のお屋敷の。どうしたのかしら?」
「実はこれからこの湖の霧は晴れます。わかさぎ姫さん、よろしいですか?」
「あらどうして? 唐突ね」
「私の主人が吸血蚊をこの地帯から一掃する事を決めたのです。天候を一時的に操作する魔法を使って、太陽の光を利用するそうです」
「ああ、そういうことなら私からも是非お願いします。あの蚊が妖怪も刺すようになってから私、外に出かけるどころか水から顔を出すことさえろくにできないんですもん。前の紅い霧の異変の時より恐ろしいわ」
美鈴の顔から血の気が引いた。今の発言はレミリアが畏怖の対象として吸血蚊に負けていると宣言したに等しい。お嬢様が聞いたらどれだけ怒り狂うか。ただでさえ咲夜さんが狙われた件で機嫌が悪いというのに。
「そ、それは良かった」
「妖精があんまり暴れなくなったのはプラスかもだけど」
「ええ、最近はあの白黒も来ないので平和なものです。あ、もうすぐ始まりますよ」懐中時計を持って美鈴が言った。
「じゃ、ちょっと見物しようかしら」
館の方向から大きく風が吹き出し、水面が波だった。わかさぎ姫の顔に波が掛かったので、彼女は水面からもう少し顔を出すことにした。白い霧が流れて薄くなり、太陽の輪郭が見えてくる。眩しさに二人が目をそらすと、太陽の方向と反対側に虹の円環が見えた。いわゆる御来迎である。風が水を気化させる涼しさに身を任せていると虹さえも消え去り、後には太陽と青空、それと水面を分かつ山々だけが残った。
美鈴が防護服の頭を脱いで見回すと、彼女とわかさぎ姫がいるのと反対側の岸から黒い煙が立ち上っていた。
「あ、あそこにいたのね、吸血蚊。うっかりあの辺りに突っ込んでいたらと思うとぞっとします」
「空が綺麗ね。これでしばらくは好きに水面から顔を出せるわ」
少し離れたところに湖の妖精たちがはしゃぐ姿が見える。「晴れたあ。太陽って気持ちいいね!」チルノと違って彼女らは冥界に逃げそこねていた。
「パチェ、お疲れ様! あの憎っくき蚊共はきっと全滅よ。ゆっくり休むといいわ」紅魔館の大テラス、パラソルの下でレミリアが親友を労った。丸テーブルを妹と三人で囲む。
「ふう。太陽を出してレミィに褒められる日がくるとは思わなかったわ。こんなに長い間昼の外を見続けるのも久しぶりよ。髪が痛む」パチュリーは紙面の文字から黄色い残光を発する魔導書を閉じ、頭を抑えながら椅子の背もたれに寄りかかった。自慢の紫の髪が後ろにだらりと垂れ下がり、帽子が脱げかかっている。
「お姉様、さっきの虹はなに? 私の羽みたいな色よね、もっと見てみたいわ」フランドールは普段見れない光景にはしゃいでいた。
「こら、フランドール。あれはブロッケン現象。綺麗なのは分かるけどあんまり身を乗り出しちゃ駄目よ。死ぬわよ」
「はあい。でも不思議じゃない? 青空は私達を殺すはずなのに、今の私にはとても魅力的なものに映るわ。空気の味も悪く無い」
引き続き外の景色を楽しみながらのお茶の時間にするために、レミリアは咲夜を呼びにやった。フランドールがあくびをした。
「あの装備が上手くいってるといいわね。暇だーと思ってたところに河童から話が来たから開発に協力したけど」
「実に魅力的な星空だな」
人里を見下ろす天蓋の上に、吸血鬼化した霧雨魔理沙が座っていた。そこかしこから立ち上る線香の煙は、風のない夜には千メートル上空にいても匂ってくる。
「だから、蚊には頼れない」直接壊すしかない。
魔理沙は箒から手を放し、懐から虹色に輝く液体で満たされたフラスコを出した。栓を外し、歪な魔力を飲み下す。味の雰囲気はマッシュルームとトマト・サラミ・オリーブ・チーズにオニオンのたっぷり乗った脂っこいピザのそれに似ていた。食べている時は最高にジャンクな気分を味わえるが、後で胃もたれに苦しむのだ。
『マジックキノコ』
魔理沙の胃袋が液体を吸収し、体表から緑色の光が滲み出した。時間がない。懐にフラスコをしまい、代わりにカードを二枚取り出した。眼下のノコギリ屋根の蚊帳工場に向けて左手で八卦炉を構えた。小指の爪ほども大きく見えないので、慎重に狙う。星々の力を借りて、八卦炉からは極光のような虹色の光線と、魔理沙の背丈ほどの大きさの星々が多数迸り出る。
星符「ドラゴンメテオ」
「を、もう一発!」
右腕も狙いを定めて放出し、二百メートルほど離れたところにあるトラップ工場に着弾。二つの工場のそれぞれ入り口の鉄の扉、木造のノコギリ屋根を、内側に一杯に敷き詰めてある吸血鬼除けの札ごと焼き払った。減衰した破壊音が聞こえてくるが、これだけ高い所に居ると、下で大きな破壊をもたらしていても現実感が無い。あの工場は紅魔館の門よりずっと大きいはずだが。
「結界……ドラゴンメテオでも屋根に穴を開けるのが精々か。だが次がある」
魔理沙の右手の親指、人差し指、左手の中指の爪が割れた。その割れ目にそって両腕の皮膚の表面に亀裂が走り、隙間からは赤い光が漏れ出てきた。彫刻刀で抉られたかのような痛み。
「ぐ、ぐぅ」
吸血鬼の力のお陰で魔力は無尽蔵に入るとはいえ、一度に扱う量が多すぎる。煙を発する二つの工場を尻目に痛みを押して北に数キロメートル移動し、ブラックライト工場に向けて光線を放った。
「これで三つ目!」
光線が当たる寸前に工場が消え、光線が地面を抉って家一軒分ほどのクレーターを形成した。魔理沙が破壊した工場ごと人里が消えて、後にはただ広い平野が残されていた。
「何?」
寺子屋の方面から白い光の塊が六点現れた。魔理沙に向けて疾走しながら蒼いレーザー、赤青の玉を放ってくる。
「慧音か。くそ、メテオ一発分の魔力が無駄だ」
魔理沙の身体から緑色の光が消え、全身を胃もたれを含む不快感が襲って来た。後数分は派手な魔法を使えない。
「私に出来る事はもうない。ずらかるぜ!」魔理沙は追っ手を撒くべく鉛直方向に加速した。
寺子屋。爆発音を耳にして、慧音は布団を跳ね除けた。編集の合間の仮眠だったので寝巻き姿ではない。休憩は終いだ。
外に、いる。
戸口に一人。
屋根に一人。
裏口に一人。
扉のない壁に一人ずつ。
寺子屋の内壁には吸血鬼除けの呪符を敷き詰めてある。私を出さないつもりか。どうやって出る? 穴を掘る? そんな無茶な。
彼女は仰向けのまま、寺子屋の闇に自らの影を溶かし込んだ。影が寺子屋を満たし、外に漏れ出させる。彼女の黒い半身は住宅街を放射状に疾走し、里中に網を広げていった。やがて地面から里全体を覆う大きさの三つ目の黒牛の頭が浮き出で、大口を開けた。慧音の口の動きに合わせて牛が口を閉じると、慧音はこの里が外界と完全に隔絶されたのを感じた。これで曲者どもは逃げる事も襲う事もできまい。追い詰めたつもりだろうが、閉じ込められたのは貴様らだ。布団から手を伸ばし、陰陽玉に手を掛けた。妖怪の賢者への直通電話が──通じない。紅い霧か。慧音は舌打ちして鞄の中を漁り、黒いマスクを取り出して口全体を覆った。河童が紅い館の吸血鬼の監修で作ったものだ。紅い霧の毒から慧音を守ってくれるだろう。起き上がって、闇の中から白色の剣を一振り取り出した。その刃先は菖蒲の葉に似ていた。
国符「三種の神器 剣」
寝室を出て、玄関に向かって走る。戸口に一閃、扉の向こうに手応えを感じた。展開した使い魔に慧音の周囲を守らせる。そのまま戸口に体当りすると扉がバラバラと崩れ、紅い霧の中にお河童頭の童女が一人腹を抑えてうずくまっていた。横一文字の刀傷が見える。慧音の教え子の一人だ。慧音は一瞬ためらったが、その隙に持ち直した童女が緑の瞳を輝かせて襲いかかってきた。慧音は反射的に使い魔をその顎に当てて迎え撃ち、直ぐさま振り向くと屋根に向けて蒼いレーザーを放った。屋根の上の少女の影が怯んだと同時に寺子屋の両脇の隙間から双子の少年たちが現れ出る。
「慧音せんせーい♪」
「すっぴんでも綺麗だね」
いつも慧音が教えているやんちゃな兄弟だ。いたずらばかりしているが成績は良い。使い魔を何匹か引き裂いて慧音に掴みかかる。
「こらっ!」慧音が一喝すると、二人が足をすくませた。そのまま弟の頭に頭突きを食らわせ、兄の腹に使い魔をぶつけた。弟はよろめき、兄が身体をくの字に曲げた。
「全員教え子か。趣味の悪いことを」しかしやはり記憶は以前のまま。心身に覚えさせた師弟関係に逆らえる道理はない。慧音が飛び下がって童女を越すと、屋根の上の少女が放った星型弾が迫ってきた。
始符「エフェメラリティ137」
寺子屋の体積ほどの使い魔の塊を召喚し、腕を払って吸血鬼達にぶち撒けた。同時に泡と弾けた赤青の弾丸で紅い霧の幕に一瞬だけ穴が空き、そこから慧音は抜け出した。寺子屋の損壊は免れまいが、裏口の吸血鬼が現れない内に現場に向かわねばならない。使い魔が吸血鬼たちを組み伏せ、慧音は先ほど爆発音の音のした方向に向けて通りを走り去った。
山のように折り重なった使い魔の下で、慧音の教え子たちがもがいている。
「待って先生、止まらないとこの辺ぜーんぶ壊して手当たり次第に噛みまくるよ! ……駄目だ聞こえてない!」双子の弟が呻いた。
「いや、それより隙を見て逃げた方がいいよ。応援を呼ばれたら多分逃げられない。怖い巫女に捕まったら終わりだ。僕らは失敗したんだ」双子の兄が言った。
「でも、どうやって?」少女が言った。
蝙蝠になる隙間も無かった。
木造の蚊帳工場。その外には五人の人間が取り巻いている。周りに立ち並ぶ建物の影に一人ずつ。
「五人が限界だ」作務衣の青年が言った。今はその上に外套を羽織り、顔には白い歯の眩しい恵比寿の面を着けていた。足元には鞄が置いてあり、その中には布が差し込まれ、灯油の入った瓶がたっぷりと詰まっている。火炎瓶である。
「限られた人材で、四つの施設の破壊に足る兵力、逃走経路を確保し、隠密に最大限効率よく動くためには一チームに五人が限界だ」
作務衣の青年は星の瞬く空を見つめていた。直に合図があるはずだ。それまではまだ人間のままでいなければならない。あのノコギリ屋根の工場を完膚なきまでに破壊し、倉庫中の蚊帳の在庫をすべて焼き払うためには吸血鬼除けの札が邪魔だ。外側からただ放火するだけでは消し止められる可能性があり、確実に工場の設備を無力化できない。与えられた手札、吸血鬼の力、光の魔法を全て使う必要がある。
やがて夜空の一点が煌めき、そこから光の塊が出現した。その塊は刻一刻と広がり、眼で捕らえきらない速度になった瞬間に男の目の前の工場に着弾した。光の中から黒煙が上り、木の破片が当たり一面に吹き荒ぶ。男は目を覆い、建物の影に身を隠した。懐から蚊の入ったカプセルを六つ取り出し、開けて左腕に押し付けた。
「よし、時間だな」
爆発音を聞きつけて、周辺の家から野次馬が数人飛び出てきた。青年の仲間の吸血鬼がそれを捕らえ、首筋を噛んで黙らせた。
「こいつらは見張りに立てておこう」
開いた穴から青年は四人の仲間と共に工場内に突入した。まず事務室の中を見ると、夜警らしき禿頭の中年男性が一人伸びていた。吸血鬼にした。事務室を抜けると、機織り機が隅から隅に並ぶ区画に入った。部屋中に星型弾をばら撒く。男巻、女巻、シャットル、ヘルドが分解して弾け飛び、木の破片が辺りに散らばる。カッターの並ぶ机も破壊した。
「おい、こっちだ」ドアを開け、蚊帳の在庫を積んである区画を見つけ、火炎瓶の口の布に火を着けて次々と投げつけた。割れた瓶からは燃料が飛散して炎の舌が広がり、商品の包み紙、網という網を舐めていった。
吸血鬼たちが破壊に勤しんでいる時、外では先ほど吸血鬼にされた野次馬の一人が見張っていた。彼らは他にも何人か野次馬を仲間に引き入れる事に成功していた。より多くの仲間を増やしたかったが、残りの住人たちはもう少し慎重だったので窓から事態を見守っていた。各家庭に配られた陰陽玉で通報でもしているのだろう。吸血鬼にされた者たちは呪符の貼ってある自宅には入れないので、建物の影から通りをそっと眺める。急性の血液不足で野次馬の脳内には暗雲が垂れこめ、通りの向こうから誰かがやってこないか見守る以外の事は考えられなかった。だから後ろで何か平たいものが回転するような音が聞こえた時にも、野次馬の反応は一拍遅れた。それが命取りだった。一人の野次馬の前に手が現れ、鼻に何かがねじ込まれた。刺激臭がして、えずく間もなく意識が遠のいていく。頭から倒れこんで後方を見ると、何者かの脚と大皿が写った。それが最後の光景だった。
物部布都は目の前に突っ伏した吸血鬼を見つめていた。その手にはおろしにんにくの入ったチューブが握られており、口には黒いマスクを着けている。布都は炎上する工場に視線を移して微笑んだ。
「今度こそ一番乗りかのう?」
布都は気絶している吸血鬼を引きずり、建物の影に隠した。
蚊帳工場から離れた、ブラックライト工場。
「遅いですねえ、霧雨のお嬢さん」
ショートカットに眼鏡の毘沙門天信仰者の女性が、茶色の瞳で星空を見つめていた。時折工場の方にも視線を移す。今までの工場と同様にノコギリ屋根で、『勧誘』した従業員たちの話ではここにも吸血鬼除けの呪符が貼られているはずだった。間取りも分かっている。入り口の事務室を抜ければブラックライトを生産する設備とその在庫を貯めておく区画があるはずだ。もう魔理沙のメテオが宅配されても良い頃合いだった。
視界に何かがちらつく。不審な気配を感じて女性がふと地面を見ると、そこには夥しい面積の黒い影がのたくっていた。通りの端から端まで広がっている。
「ひ、ひぇっ」
思わず足で払いのけるが無駄だった。月光を頼りに良く見ると、影は墨で書かれたような文字を形成している。『第百一季 弥生の七 酒屋炎上』『第九十三季 文月の五 杉村泰造大往生 享年百二十五歳』『第百十九季 長月の二 食中毒が発生 原因は茶』
その時女性の視界の隅が明るくなった。見上げると、星空にやっと光の塊が見えた。メテオだ。女性はそれを見て安心しかけたが、次の瞬間に空を黒い影が覆い被さる。縁に白くて分厚い歯がちらりと見えたが、すぐに消え去った。月と星空は見えなくなり、黒い墨がドーム状に人里全体を覆っていた。内側からはこう見える。
「あー、こりゃあ手遅れですね」タイムアップだ。この里の守護者が外界と里を遮断したのだろう。今夜はもう工場を壊すことは出来ない。
彼女は夜が明けなくなった異変の時にも空が似たような動きをしたことを思い出した。あの時は胸騒ぎがしてなんとなく寝付けなかった。そして家の二階の窓から空の方ばかりを見ていたため、地面の方の変化には気づかなかったのだ。
彼女は他の隠れていた仲間を呼びに行った。眼鏡の女性の他には成年の男女が二人ずついた。
「今日はもうダメみたいですね」
「よし、では手はず通り逃げるか」
彼女たちは証拠隠滅を始めた。懐からブラックライトと透明なカプセルを全て取り出し、カプセル中の蚊に向けて死の光線を放射。その方が種としての蚊全体にとって有利になる場合は、蚊の支配を受けた人間でも一部の蚊を殺すことが出来ると魔理沙と里人たちは確かめていた。彼らは水筒のカップに注いだ水を回し、空になったカプセルを飲み込む。二十分もすればゼラチンが腸に吸収されてくれているだろう。
失敗はしたものの辺りが昏いのが幸いであり、騒動の目撃者を減らしてくれるはずだ。万が一目撃されても騒ぎのせいにすれば誤魔化せるかもしれない。彼らはそれぞれの住処に帰るべく散り、暗闇の人里に溶けていった。
慧音は大通りを走っていた。空に飛ばした何匹かの使い魔が墨のドームを突き抜けていった。脅威が外部にあるのならこれでいくらか牽制できるはずだ。懐から陰陽玉を取り出して直通電話を掛ける。ベルの音が二回。
『八雲ですが』
「上白沢だ。里の人間が吸血鬼化し徒党を組んで寺子屋を襲撃した。里と外界を遮断した」
『同様の通報は受けているわ。今から人間の中から応援を送る。私のスキマなら貴方の能力を素通りできる』
「悔しいが助かる。里の人間には頼れんからな。蚊に汚染されているかもしれない」
『今どこ?』
「追手を振り切って工業地帯に向かっている。そちらから爆発音がした。煙も上がっている」
『了解。通報を受けたのはトラップ工場と蚊帳工場の二つ。蚊帳には私が頼む前にもう道士が着いてる』
「ではトラップ工場に向かう」
『OK。貴方にとって最も頼りになる人間を送り届けるわ』通信終了。実に簡潔。
工業地帯が見えてきた。上空には煙に加えてコウモリが舞っている。
蚊帳工場。布都は瞬間移動を最大限利用し、見張りの吸血鬼を後ろから襲って一人ひとり始末していった。おろしにんにくを鼻に突っ込まれて喘ぎ、地べたに伏せって痙攣している。工場の外側から見える吸血鬼はひと通り片付けたので一息つける。
「ふう。不意打ちはここでは反則らしいが、向こうもなんかしらルールを破っているようだからお相子だな!」布都は未だ幻想郷の決まり事に疎かった。
「いつも通りの散発的な襲撃ではないようだな。組織的なもの……一人でも厄介なのに複数か。にんにくチューブ、もうちょっと余計に持ってくればよかったかのう」
気配から恐らく吸血鬼どもはまだ工場の中にいる。何を目的にして建物を破壊したのかは分からないが、全員捕らえなければ。布都は目を閉じ、祓詞を唱えだした。
「ひと・ふた・み・よ・いつ・む・なな・や・ここの・たり、ふるべ、ゆらゆらと、ふるべ」
魂を震わせろ。心の底から力を引き出せ。祓詞の言霊により布都の心身が清められ、大物忌時代に立ち返っていく。尸解仙となる前は白髪の老婆に近かった彼女が童女の姿を取っているのは、かつて物部の祖神ニギハヤヒに贄を捧げ祭祀を執り行っていた時の絶大な力に少しでもすがるためであった。
「たかあまはらにかみづまります、すめかみたち、いあらはしたまふ」
投皿「物部の八十平瓮」
布都は手中に数十枚の皿を生み出し、工場の辺り一帯を周って撒き始めた。太子様に増援を頼みたいところだが、その間に逃しては元も子もない。
「とくさみつの、たからをもつて」
上に向けて五枚、屋根にまた五枚。投げた皿は宙で静止し、工場を包む皿の大幕はそれ自体が一つの椀のようだった。
「あまてるひこ、あめほあかりくしたまにぎはやひのみことに」
一周して工場の前に戻ってきたあたりで、焦げた大穴の中で何かが蠢く気配がした。
「さづけたもうことおしえて、のたまはく……む」
布都は瞬間移動で距離を取り、遠くの建物の影から観察した。先ほどまで事務室だったあたりだ。能面と外套を被っていて良く分からないが、五人程はいるだろうか。
隙を突ければワープとにんにくチューブで一撃だろう。しかし向こうは仮面を被っている上に、お互いがお互いの隙をカバーしてている。
「やっぱり増援を頼むかのう?」
そんな暇はない。奥のほうから火の焼ける音と煙の匂いがする。早く消し止めなければ近隣にも燃え広がるだろう。
「被害を広げる危険があるから迂闊に火も使えぬ。吸血鬼の弱点は……そうだ!」
布都は吸血鬼の近く、事務室の外の破れた壁の影に瞬間移動し、再び祝詞を唱えだした。
「汝此瑞宝を以ちて、中津国に天降り、蒼生を鎮納めよ」
地中の龍脈が吸血鬼たちの足元から離れていく。
『立向坐山』
突然地面が陥没し、吸血鬼達は足の踏場を失った。布都は皿を五枚ほど吸血鬼の周りにばら撒く。
「無対策ならおぬしら一匹相手でも苦戦しただろうが、あいにくこちらは吸血鬼対策は万全よ!」
『抱水皿』
皿から水流が迸り出て、吸血鬼たちの動きを縛り、穴の大渦に閉じ込めた。
「流れるプールで溺れ死ね! とどめだ!」
布都が満面の笑みでにんにくチューブを手に穴へと躍りかかった瞬間、その脇腹に衝撃が走った。布都は左横に弾き飛ばされ、事務室の外の壁に首を酷くぶつけた。一瞬意識を失ったが、攻撃者が迫ってくるのを見ると何とか別の物陰に瞬間移動して逃れた。並の人間なら肋骨が肺に刺さって即死していただろう。布都の腹に一撃を加えたのは、先ほど吸血鬼たちの仲間に加わった禿頭の夜警だった。
トラップ工場。その二階建ての建物のノコギリ屋根にはメテオによる大穴が開いて縁は黒く焦げ、中からは煙が吹き出ていた。
慧音は試しに工場の外壁にレーザーをぶつけてみた。しかし焦げができただけで穴は開かなかった。何かしら呪符の力が働いているようだ。工場の鉄の扉はどれも堅く閉じられており、外からは並の力では壊せそうになかった。
「上から入るしか無さそうだな。しかしただ入っては格好の的だ。相手は吸血鬼、逃してはならん。それに火事。よし!」
月光に照らされた慧音の影がゆらめき、工場の壁を駆け上った。影には墨で書かれたような次の文字が溶け込んでいた。『昭和六拾四年午前六時三十三分 吹上御所にて崩御 腺癌 歴代最長寿』『平成元年二月二十四日 大喪の礼 氷雨』『雨師として祀り捨てなむみはふりに氷雨は過ぎて昭和終んぬ』工場を飛び越えた影の上端より黒雲が湧き出で、菊の模様に広がって工場一帯をすっぽり覆った。
包符「昭和の雨」
こうして氷雨をざんざんに降らせておけば、吸血鬼どもを閉じ込めておけるに違いない。煙の勢いが弱まったのを確認して、工場の屋根へと飛び上がった。扇風機、発泡スチロール、網、スピーカー等のトラップの部品の在庫が燃えている。慧音は上空から煙を避けつつ火の弱い場所を探し出し、そこが一階へと続く階段と近い事を確認した。
葵符「水戸の光圀」
慧音は影から人間型の使い魔を二人召喚し、一人に階段を覗かせた。共有する視界に一瞬だけ能面がちらつき、使い魔の顔目掛け星型弾の掃射が迫ってきた。
「うおっと!」慧音は使い魔を飛び退かせた。掃射はしばらく続いて階段の壁をスポンジにしたが、魔力を切らしたのか小休止が入った。
「おや、その声は慧音先生じゃないですか」かつて防護服を着ていた男が言った。今はその上にねずみ色の外套を羽織っており、顔には白い髭を生やした小尉の面を着けている。
「やっぱり子供たちに任せたのは貴方を侮りすぎでしたかねえ。当時はみんないいアイデアだとは思ったんですけど」
「何もんだ、お前達」階段を介して言葉を交わす。
「答える必要はありません。ですが、普段は貴方に守っていただいている立場と言っておきましょうか。その点については感謝していますよ。この雨、この空は先生の歴史喰いの力ですよね?」
「そうだ。逃がさん」
「つまり、先生をぶっ倒せば俺達は里の外に逃げられるというわけだ」
「やってみろ。今の私は気が立っている。仮眠を邪魔された上、教え子に対してあんな真似をされてはな」
「睡眠不足はお肌の大敵です。俺達に構わず、もう少しお眠りになられては? 手伝いますよ?」
「誰のせいだよ。お前たちのやっていることは、里の生活を犠牲にしてまでする価値のある物なのか? お前らも里の人間だろう」
「まあ、確かに俺達の行動は貴方にとっては裏切りでしょうね。さぞかしショックでしょう。しかし、正直言ってなんでこんな事をやっているのか、俺達にもよく分からないんですよ」
「そんな馬鹿な話があるか。こんなテロを大義も意味もなしに行える理屈があってたまるか」
「やっぱり貴方は知識人らしい。どんな行いにも意味を求めようとする。でも、俺達には本当に分からないんです。ただ……」
「ただ?」
「ささやきが聞こえるんですよ、脳髄の端っこの方から。『生きるためには食べよ、増えよ。それより大事なことはなく、それは仕方のない事だ』」
「ふん。支離滅裂、時間の無駄だな」
「俺達は仲間を増やさなければなりません。貴方が加わって下さればとっても心強い。そろそろ一階もあらかた壊し終わったところですし、ちょっと献血などいかがですか?」
顔に雨粒を流しながら、慧音は頭を働かせた。雨を降らせている限り奴らは脱出できず、この工場は巨大な棺桶だ。しかし連中も何らかの強行突破を図るかもしれない。炎は弱まってきているが……こちらも強行突破を図るか? 使い魔を何匹か犠牲にすれば一階まではたどり着けるだろう。だが中には恐らく複数の吸血鬼がひしめいている。私の家を襲ったのも五人だったし、あれだけの破壊を計画的に行う以上チームを組んでいると考えるのが普通だ。少なく見積もっても三人、分身を含めれば最低十二人の吸血鬼と対峙する事になる。先ほど寺子屋を脱出した時は先手を打って不意を突けたが、今度は向こうも間違いなく万全の準備をして迎え撃つ。
膠着状態に頭を悩ませていると、何者かが慧音の肩を叩いた。
「何か難しいこと考えてる顔してるわねえ、慧音」
「おい、誰か来たぞ!」階下で吸血鬼達の怒鳴る声がした。
「こういう時は強行突破すればいいのよ」慧音が振り向くと、小さくなった炎を背景に、足まで届く白髪の少女が立っていた。
妹紅は手を掲げ、二階の床に向けて赤と紫の札を無数に放った。札は床の四辺に隙間なく敷き詰められ、縞模様の長方形を形作った。
「攻撃開始~。慧音、足元注意ね」
妹紅が右手で弾指すると、刹那の内に札の全てが起爆した。木造の床の縁が抉られ、支えを失った床が一階へと落下していく。階段の下から怒号がした。
「うおっ!」慧音はすんでのところで飛び上がり、上空で不死鳥の羽を展開している妹紅と並んだ。二階の床が一階の床に衝突し、砕けた所を二人で見下ろす。
「トラップ工場の一枚天井! 慧音は頭は良いのに堅いんだから。さあ、ちっちゃな蝙蝠どもが這い出してくる所を見物しましょ」
眼下のおがくずを含んだ煙の中から、外套と仮面を雨への盾に十数の影が迫り来る。
「煙いじゃねえか、このっ!」
「にーど手を出しゃ、病苦も忘れる~♪」
藤原「滅罪寺院傷」
妹紅は使い魔を召喚し、青と紫の札の隊列が不死者の群れに突撃する。何枚かが吸血鬼たちの外套にへばり付き、下の皮膚に焼けるような痛みを与えた。般若の面の男が反射的に外套の腕をまくると、札の当たった部分にびっしりと痘痕が生じていた。いくつかは膿み、真ん中が陥没している。
「ヒ、俺の皮、どうなっちまったんだあ!」急性の倦怠感と激しい頭痛、精神的ショックが同時に襲い、吸血鬼の本体三人が気を失った。合わせて残っていた分身の内七人が消滅した。
「おい、あいつら里の人間だぞ」慧音が言った。
「大丈夫、ウィルスを模しただけの攻撃だから一時的なものよ。身体には痕は残らないはず。トラウマにはなるかもしれないけど。慧音も私の横にいる限りは当たらないわ」
「天然痘、藤原の四兄弟、長屋王の祟りか。えぐいことをする」
「あいつらもちょっとは熱病で倒れた子供達の気分を味わえば良いのよ」
分身を数体盾にして、元防護服、小尉の面の男が迫ってきた。星型弾を生み出そうとしている両の手がまばゆく輝いている。
「あら、根性あるわね」
「来るか!?」慧音は剣を構えた。
「慧音は休んでて大丈夫よ」
男の背中に痛みが走った。振り返ると、紫の札が五枚ほど張り付いている。妹紅の掃射した札が砕けた床で跳ね返り、男の尻、腿、後頭部と数を増やしていく。
「う、後ろからもかよ」最後に青い札が一枚仮面に張り付いて、男は敢え無く落下していった。
「あと一人ぐらいはいるかも」妹紅は射出を止め、二人で下に降り立つ。あたりには瓦礫が散乱し、土、木材、その他の素材に雨が染み込んでいた。床だった材木の山をしばらく漁っていると、敷地のちょうど真ん中に外套と小童の面を付けた者が埋まっていのを見つけた。仮面を剥がすと、牙を生やして目を剥いた少女の顔が現れた。
「最初の一撃でやられたみたいね。輝夜の真似事を試した価値はあったかしら」当たりどころが悪かったらしい。
「ううむ、圧倒的だな」
「相性が良かっただけよ。一回も死ななくて済んだし、体力が切れる前に終わらせられて良かったわ。それに実戦と練習の量が違うもの。経験は何にも替えられない。慧音もあと千年生きてみる?」
「いや、やめておく。ところで妹紅、八雲紫が誘ったのか? ここに来るまでに応援は頼んだが、八雲の人脈だと霊夢か妖夢あたりが真っ先に来ると思っていたから意外だったぞ」
「ちょっと前からあのスキマ妖怪に雇われて、竹林に住む妖怪の子を蚊の群れから逃がすのを手伝ったりしてたのよ。身寄りの無い、比較的無害なチビちゃん達だったからまあ、たまには妖怪を助けてやるのもいいかなと思ってね」
『貴方にとって最も頼りになる人間を送り届けるわ』──慧音は苦笑した。頼りになる人間ほど恐ろしいものはない。
「さ、こいつらを縛り上げましょ。終わったら久しぶりに積もる話でもしましょうか」妹紅は鎖を五本と呪符を数十枚取り出した。
「ああ、そうだな」慧音は上に手をかざし、雨雲を解いた。黒い煙が霧散した先には薄墨の空が広がっていた。
半壊した寺子屋。使い魔の山の中から、一人の少年が抜けだした。年は十三前後で五人の中で最も年上、唯一慧音と会わなかった吸血鬼だ。彼も他の四人共々エフェメラリティ137を食らったが、慧音から一番離れていたために彼の上に被さった使い魔の量はそう多くはなかった。
「おい、今助けるぞ」白く光る使い魔の山を爪で引き裂いていくと、双子の弟の方の顔と左手が現れた。
「あ、ありがとう」少年は右手を差し出し、弟の方がそれを掴み、少年の右手が緩んで抜けた。
「え?」弟の方がそういうと、少年が目を剥いて後ろに倒れ、その向こうに白髪に黒いリボンをつけた少女が脇差しを構えていた。足元に膝丈ほどの白い塊が漂い、背中には背丈ほどもある大剣を背負っている。
「全く紫様ったら、久しぶりに私の出番があると思ったら戦後処理だなんて」足元に倒れる少年を見ながら、妖夢が言った。
「ひ、こ、殺した」弟の方が言った。
「大丈夫。この剣は白楼剣といって、斬られてもまず死なない。多少精神的ショックは受けるでしょうけど、妖怪となってる今の貴方達にはちょうどいいかしら」妖夢はそういって懐からにんにくを取り出し、五欠片ほどにして少年の口の中に突っ込んだ。
「次は貴方の番ね」
「やめて、やめてよ。どうしてそんな変な事するの」
「心臓に白木の杭よりは穏当よ。貴方達は元は里の子だし、元に戻る可能性がある以上殺すわけにはいかない。にんにくは最近需要過多で高騰してたんだけど、紫様が緊急輸入を決めてね」
「紫様って誰だよ?」
「ああ、もう気にする必要はないわ」にんにくを手に妖夢が迫る。
「やめろ!」自由の効く腕を振り回して必死に抵抗するも、妖夢が白楼剣を一太刀、腕の力が抜けた所を抑えた。
「いくら吸血鬼が腕力を持っててもね、ここをこう抑えると人体の構造的に動かなくなるの。お爺様に教えてもらったわ。貴方も憶えておくと得よ」
弟は霧化しようとしたが、その前に妖夢の手が口に突っ込まれた。刺激臭が口腔から鼻腔に回り、弟の意識は薄れていった。
霧雨魔法店の玄関口。暗闇の空間をすっぽり抜けて、八雲紫が現れ出た。
「魔理沙ー? 仕事よー? 緊急だからお駄賃は弾むわよー?」紫は靴を履いたまま廊下に踏み出し、寝室のドアを探し当てた。ノックをせずに中に入るが、布団はもぬけの殻だった。寝室以外を探すが、どの部屋にも魔理沙の姿はない。貴重品らしきものはまるでなく、魔理沙にしては異様に整理されていた。まるで単身赴任にでも出かけたかのように。
「あら、妖夢ちゃんはお布団の中だったのにどこに行ったのかしら」
一大事だというのに。紫は諦め、次の目的地に移動した。人里を妖怪から守るのはあくまで人間でなければならない。それがルールだ。次は霊夢。眠っている彼女を叩き起こすのだから一悶着は覚悟しなければ。
蚊帳工場、事務室だった場所。
抱水皿の奔流が止まり、龍脈が再び寄り集まって地面が盛り上がった。仮面の吸血鬼たちは拘束から解放され、大量に水滴を垂らしながら水たまりから這い出てきた。外套に水が染み込んで重くなっている。彼らは水を吐き、水滴の落下で地面の水たまりが波打つ。
「壱号、大丈夫だったか?」弐号が言った。作務衣の青年の友人で、外套の下は洋装だ。今は金色の歯をむき出しにして笑う獅子口の面を着けていた。他人に聞かれても大丈夫なように作戦中は番号で呼び合っている。
「もう駄目かと思ったわ……」壱号が応えた。
「私、これで水を酷く飲むのは二回目ですよ」えづきながら作務衣の青年が言った。今は参号だ。
「どうです? 立てますか?」 夜警の吸血鬼が尋ねた。
「おう、ありがとう」四号が言った。
「どういたしまして」
「今のは幼い女の子のように見えたけど」五号が言った。
「おいおい、この地で女の子が見た目通りだった事があったか?」弐号が言った。
「それもそうね。とりあえず分身しとく?」
「オーケー。紅い霧もだ」吸血鬼たちは二十人と一人に増え、小さな事務室が満員となった。その内五人分の身体を使って紅い霧を広げだした。
「さっきみたいに集まった所を叩かれたくない。散ろう」
彼らは四号と壱号、分身たちを外に行かせた。
「その分身と霧ってどうやるんです?」夜警が言った。
「俺達も妖怪退治に詳しい奴に聞いて練習しないと出来なかったからな。今は諦めてくれ」弐号が言った。
「そうですか、見た目は格好いいのに残念」
「おい、外を見てみろよ。皿がいっぱい宙に浮いてるぜ」四号が言った。
「さっきの子を始末しないと逃げられないんじゃないの?」壱号が応えた。
「分かりやすいな」
壱号は分身の一人に皿を触らせた。右手の皮膚にたちまち焼け焦げが広がり、灰となって崩れて失われた。もう一人に皿の隙間を縫って脱出させようとしたが、皿同士を結ぶ空気の膜のような抵抗力に押し返された。風船を触った時に感じる弾力のそれだ。
「強力な呪法が込められていると見えるわね。皿を壊せばなんとかなるかしら?」
「我らが饒速日命は太陽神である。その神徳の込められた皿に吸血鬼が触れられる道理はない」
壱号は振り返り、声のした方向に星型弾の雨を浴びせるが、それは面をこちらに向けて宙に浮く皿だった。皿が砕け、蒼い破片の散弾が打ち返される。壱号は身をよじって直撃を免れたが、外套が左腕から脇腹にかけて酷く破け、素肌が露出した。
「弐号、参号、五号! 外よ!」腹を抱えて壱号は呻いた。見張りの分身を五体残し、呼ばれた吸血鬼が工場の中から駆けてきた。残りは十一人。
天符「天の磐舟よ天へ昇れ」
空中を水流が走って工場脇を横断し、その上に出現した布都が岩船に乗って疾走しだした。飛沫をあげ、皿をばら撒き、矢を放ち、布都を止めようとした分身の何人かが皿に胴を斬られて消滅した。結界の膜に到達すると、布都は再び何処かへ消えた。
「ヒットアンドアウェイか。あの水流には近づけねえな」四号が言った。
布都が弐号の後ろに出現し、腕を相手の首に回して止めの一撃を見舞おうとするも、弐号は瞬時に布都の腕を抜けて取り、脇腹にタックルを食らわせた。
「ぐっは、速い!」先ほど夜警に貰った脇腹の傷が傷んだ。布都は前方に吹き飛ばされ、弐号が追い打ちで放った星型弾を当たる寸前で瞬間移動し回避した。
「うう危ねえ。スキマ妖怪対策に訓練しておいたのが役に立ったか」弐号が言った。
「後ろからの不意打ちへの対処、優秀なブレインがいると助かるわねえ」五号が言った。
「ブレインだと?」布都の水流が工場の入口を横切る。
「参謀のこったよ!」四号の分身が星型弾を当てて、岩舟が大きく横転した。分身が高速で飛ぶ飛沫に当たって消滅し、投げ出された布都は皿を五枚投げて宙に消えた。四号がそれを迎撃し、皿が全て砕け散る。
「おぬしらの戦い方、我の知る誰かに似ている。誰から習った?」布都が工場裏に出現し、参号目掛けて矢を放つ。
「答える必要はないよ」参号が矢を避けるが、背後の皿の膜に当たって破片と矢が跳ね返ってきた。分身が参号を庇い消滅。分身が削られ、皿の膜が削られ。吸血鬼が皿の膜を脱出するのが先か、布都が吸血鬼を削り切るのが先か。
「大分少なくなってきたな!」布都が壱号の後ろに出現し、手中の竜巻に巻き込んだ。壱号は反応する間もなく上に弾き飛ばされ錐揉み回転する。布都が辺りに矢を放ち、皿の破片を撒き散らして消えた。巻き込まれた分身が消滅。
「壱号! くそ、チビがちょこまかと逃げやがって」四号が言った。
「おいこいつ、段々速くなってないか? さっきは対応できたのに、童女にしては強すぎる。一体何者だ?」弐号が言った。
「童女にしては強いのではない! 童女だから強いのだ! 我は大物忌、饒速日命に仕える依代であるぞ!」
布都が工場横に出現すると、五号が捨て身で飛びかかった。布都が盾にした皿に激突して五号の顔が焼けるが、爪が布都の顔にかかり、マスクが破けて地に落ちた。皿に掛かった五号の体重で布都の肺臓から息が抜け、荒くなった呼吸で紅い霧を吸い込む。布都は顔に出来た傷を抑えた。息が苦しい。
「ぐ!」布都の瞬間移動には集中がいる。あと何回出来る? 分からない。
さらなる攻撃を警戒するように、五号を除く吸血鬼達が布都を囲みだした。竜巻の痛みが残る壱号は足を引きずっている。分身は場に三体残り、工場にも五体残っている。
「大人しく血を吸われてよ。君ぐらい強い人が味方になってくれればこんなに助かることはない」参号が言った。
「我は永久に太子様の同志にして僕だ。投降するぐらいなら今すぐこの身を割るよ」
「もう諦めろ。工場の設備も在庫も全壊全損、お前はマスクを失いこれから紅い霧にやられる。これ以上続ける意味は無い」弐号が言った。
「おぬしらを捕らえれば私の手柄だ。我は諦め……ん? 今全壊全損と言ったか?」
「そうだ」
「守る意味は無い?」
「ああ。だから諦めてくれ」
「ならば遠慮する必要はないな!」
残った息を絞り出し、最後の祝詞を唱えだす。
「甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸! 一二三四五六七八九十瓊音!」
「おい、何を」弐号が布都に距離を詰めた。
『六壬神火』
布都は八方に炎弾を打ち出した。一つが弐号に直撃し、そのまま工場の壁に叩きつけて大穴を開けた。残りの炎弾が結界に衝突、次々と皿を誘爆させ、炎の膜が中心の布都に向かって爆轟を放った。紅い霧の一粒一粒が蒸発し、工場の全てが粉砕され、火の粉を上げて炎上する。残っていた分身が全て消滅し、吸血鬼たちを仮面と外套から燃やしていった。
「相手が細かく別れるのなら全部一度に叩き潰せば良い。単純な話よな!」布都は紅い霧が全て蒸発した瞬間、結界の外に瞬間移動して炎を逃れていた。満身創痍だが、ここ一年間で一番の得意顔だった。
少し経って、工場から少し離れたところで倒れ伏す布都の目の前に空間の断裂が現れ、中から霊夢が降り立った。
「助けに来たわ、ってなにこれ! 大炎上じゃない!」
「遅いぞ」
「また間に合わなかったの!? 今日は厄日だわー!」
「頼む、あそこで輪になって倒れている吸血鬼どもの鼻にこれをねじ込んでくれ。全部で六人いる。とどめを刺したいが我はもう動けぬ」
布都は懐からヨレヨレになったにんにくチューブを三本、残りの全てを霊夢に差し出した。霊夢は真顔だった。
「……あんたを病院に運んだらそうするわ。消火もしないといけないし、燃え広がらない内に消防団に吸血鬼を無力化したって伝えないと。紫ー?」霊夢は陰陽玉に話しかけた。
「はいはーい」紫が空間の断裂から現れた。
「私はあいつらをふんじばっておくから、消防団に連絡とこいつ病院に送って」
「了解ー」紫は陰陽玉を使って一言二言指示を送ると、ドレスグローブの端を引っ張りズレを直した。
「おい、何をするつもりだ」布都が抗議する間もなく、紫の腕が伸びて布都を空間の断裂に引きずり込んだ。
布都は赤に染まった歪んだ空間の中に浮かび、紫に抱えられていた。赤い瞳の目玉がそこら中に浮いており、その視線を感じて布都は身震いした。
「お疲れ様。貴方のお陰で里の平和は守られたわ」紫が言った。
「おぬしは我が霊夢と早苗といた時の。そんな便利な能力があるのなら助けてくれても良かったであろう」
「人里を守るのは人間か、人間の味方でなければなりません。それにワープで一撃、スキマにポイなんて単純な手が通用する相手でも無かったでしょう?」
「まあ、そうだな」布都は能面の吸血鬼達の反応の速さを思い出した。ブレイン、参謀、裏で吸血鬼を訓練している者がいる。
「じゃあ、ゆっくりお休みなさい」布都は空間の断裂を下へと抜け、予約済みの寝台の上に落とされた。横には永琳が控えていた。
「まあ酷い傷。綺麗なんだから顔は大事にしなさい?」
「よ、よろしく頼む」
永琳は布都の身体をつま先から烏帽子まで一瞥した。
「貴方、神職に見えるけど、誰の世話になってるの? 確か物部と言ったわね?」
「は? 祀っている神という意味なら饒速日命だが。察しの通り物部の祖神であるからな」
「もし会ったら彼によろしく言っておいてちょうだい。息子たちが世話になったって。八意って言えば分かるわ」
「はあ?」かつて八意思兼神の息子、天表春命・天下春命兄弟は饒速日命を護衛していたが、布都は永琳がその八意思兼神だとは知る由もない。
夜明け前、人里の永遠亭出張所。慧音は扉をノックした。出迎えたのは鈴仙だった。
「待っていたわよ。そちらの方も一緒に?」鈴仙が言った。
「ああ、地底から呼んできた催眠の専門家だ」慧音が言った。その後ろには薄紫のショートカットの女性がいた。
「どうも、古明地さとりと申します。『こんな時間に急に呼び出されて、早く帰りたいなあ』? まあ私が貴方と同じ立場でもそう思うでしょうね。というより今の私の立場がそれです」
鈴仙は眉をぴくりとさせた。反射的に精神の表面を走る波に同強度逆位相の波をぶつけ、心の中を無音にした。
「ん? ……急に貴方の心が読めなくなりました。表面上は全く停止しているように見えます。無念無想の境地に達した者の心でも、静止したコマの回転軸のようにわずかなブレがあるものですが。やりますね。しかし、もう少し深いところに私に対する恐れがうっすらと見えますよ」
「やれやれ、尋問には最適の人選のようね」鈴仙は苦笑した。
慧音とさとりは病室が並んでいる区画に入った。里を襲った十五人の吸血鬼達は小鈴を捕らえていたものと同じ、封印が施され格子のついた病室に閉じ込められていた。一度しか噛まれていない工場付きの夜警を除くと、彼らは襲撃から三十分後に人間に戻った。今のところ、再び暴れだす余地はない。二人は洋装だった強面の青年の病室の前に移動した。さとりは注意深く対象を見た。催眠誘導は観察から始まる。彼は寝台の上で上半身を起こし、ぼうっと右を見て、左手を右手の上に載せて掻いている。彼のポロシャツとジーンズは燃えてしまったために上半身は裸で、身体の各所に包帯を巻いている。壁を隔てた隣には同様に作務衣だった細面の青年が包帯だらけで起きている。吸血鬼の回復力のおかげで布都の術による彼らの火傷は気絶している間にほとんど治っており、鈴仙は夜警を集中的に治療していた。
「格子に触れないよう気をつけてくれ」慧音は格子を開け、椅子を二つとさとりを中に入れてやった。洋装の青年は緊張した面持ちでさとりを一瞥したが、すぐに視線を右に戻した。さとりの目には彼が隣の部屋の友人を気にかけているのが見えた。さとりは用意された椅子に腰掛け、上半身は強面の青年と同じ姿勢をとった。催眠誘導の技法の一つ、ミラーリングである。
さとりと青年は互いに簡単な自己紹介をした。さとりは心理療法士を名乗り、面接が始まった。
「今日の夜、貴方は何をしていましたか?」さとりは強面の青年に言った。
「何って、俺は友達の家で二人で飲んでたんだよ。俺の部屋の隣にいる奴さ。なあ?」
「そうです。彼は間違いなく私の家で一緒に飲んでました。その後酔いさましに外に出て行ったんですよ。このところ夜の間は蚊取り線香がそこら中で焚かれてるおかげで、人里の中ならさほど蚊を恐れずに出れますからね」壁越しに細面の青年が言った。
「その後は、正直良く覚えていない。いつの間にかここにいた。できれば思い出したいのだが、すまんな」
質問によって洋装の青年の無意識が刺激され、さとりの脳裏に青年の心象風景が映し出される。六畳半の部屋、畳の上で作務衣の青年があぐらをかいている。中々整った顔が緩み、すっかりくつろいだ雰囲気である。畳の上には上等の酒の瓶、つまみが並び、洋装の青年がその一つに手を伸ばすが、アルコールの影響で意識が焦点を結ばず、ぼけている。青年は視線を移し、壁の天井近くに掛時計が映し出される……時刻は彼らが工場を襲撃したまさにその時間を指していた。矛盾しているが、作り物には見えない。時々心象風景に表面が虹色に鈍く光る泥のような影がよぎったが、ちらついた側から薄まっていった。
アプローチを変えよう。さとりは第三の目を掲げ、そこから赤い光を発して部屋中を満たした。
想起「恐怖催眠術」
さとりは呼吸のリズムを強面の青年に同調させ、彼が息を吐くタイミングで話しかけた。
「貴方は、火傷していますね」
「ん? ああ、そうだな」
「痛みますか?」
「ああ」
「その痛みは今までずっと、四六時中意識していましたか?」
「いや、忘れていた時もあった」
「そう、貴方はさっきからずっと友人の事を気にかけていた。その間は火傷の痛みは『意識』していなかったはずです」
「そうだ」
さとりは呼吸を遅くした。要所要所で抑揚を付け、特定の単語を強調して導く。青年はそのリズムについていく。
「飲んでいる時、お友達と会話しているとそちらにすっかり『注意を集中して』て……いつのまに『時間が短くなっていた』経験もあるでしょう。それは『トランス状態』、『催眠状態』と呼ばれ……日常的に経験しています。『無意識』が不要な情報を濾し取るのです。お陰で慢性の痛みや耳鳴りに悩まされずに済みますし……楽しいことにすっかり『没頭する』事ができます」
「同様にこれから話すことは……貴方とお友達を助けるために、とても役に立ちます……しかし私の話に『集中して』いなくてもかまいません。『ぼうっとして』いても構いません。貴方が『快適な』状態であると望むかもしれませんが……『快適である』必要すらありません。どちらにせよ、貴方の『意識』が貴方自身を『深いところに導いて』くれるでしょう」
さとりはさらに呼吸のリズムをゆったりとさせた。強面の青年は右手を掻くのを止めた。
「人の心は『無意識』と『意識』に『分かれて』います。意識を水面、『無意識』を水底と例えてもいいかもしれません」
「人の心は井戸のようなもので……必要に応じて汲み上げ……『記憶を思い出し』……『思い出したい』と思わないことは沈めてしまう事も出来るのです」強面の青年の表情が平板化した。さとりはさらにテンポを遅くする。青年はどこかの一点を見つめ続けている。
脳符「ブレインフィンガープリント」
「貴方はこの仮面に見覚えがあるかもしれません……あるいはないかも知れません」
さとりは懐から黒く焼け焦げた能面を取り出した。金色の剥げた、獅子口の面だ。さとりの目は青年の心が緑色の波を発しているのを捉えた。過去に見たことのあるものを見ると、人の脳はP300と呼ばれる独特の脳波を出す。さとりはそれを脳の指紋として感知することが出来る。青年の無意識は覚えているのだ。さとり自身もトランス状態に入り、青年と意識を完全に同調させた。さとりは青年の無意識の深層に潜り込み、彼と同じ視点に立っている。さとりは青年だ。
「そう、思い出す……貴方には里を出て行って、誰にも見られていない期間があります……その間には何をしていましたか? 貴方は、私は思い出すことが出来る。好きに取り出せる……」
さとりは暗い、暗い所にいる。おびただしい数の蚊が露出した腕に並んで血を吸っている。耳障りな羽音……もう少し心の焦点を合わせよう。どこにいる? 誰といる? 奥の方にろうそくのような光が灯り、金髪の少女の顔が朧げに浮かんでくる。さとりはその少女と会ったことがあるような気がした。もっとピントを絞らなければ……カンナの花。紅いカンナの花。
その時、さとりの視界を蚊の大群が埋め尽くし、意識が現在へと引き戻された。さとりは顔をあげ、もう一度無意識へのダイブを試みた。しかしさとりの目には青年が里で再開発工事に従事しているのが見える。もはや重要な情報は得られず、虫に食われたかのような雑多な記憶しか浮かんできていない。
「リアルタイムに記憶を書き換えている!」
「おい、どうした」慧音が言った。
「他の人で試させて下さい。妙なことになりました」
さとりは細面の青年、元防護服の男、その他慧音の教え子たちにも様々な心理療法的アプローチを行なったが、全て同じような結果に終わった。さとりは慧音と診療所の控室に戻り、ガラスの小机を挟んだ一対の黒いソファにそれぞれ腰掛けた。
「駄目です、読めません。もう少しで重要な情報が得られるというところで引き戻されてしまいます」
「む、サトリの読心の力は怨霊が怯えすくむほどと聞いていたが」
「あ、考えるだけでいいですよ。その方が私もコミュニケーションを取りやすいので」
『そ、そうか』
「私は意識に上って来ない事は読めません。ですから催眠を用いて思い出させる訳ですが、私の恐怖催眠術は万能ではないのです」
『どういう事だ?』
「そうですねえ。例えば、多重人格というものを聞いた事はありませんか?」
『多くの場合、幼児期の虐待によって生まれると聞いた』
「そう、良い点を突きますね。人が激しい虐待を受けると、精神は自己を守ろうと本人のものとは別の人格を生み出す事があります。虐待を受容し、されるがままに耐える人格です。本体の心を守るために別人格を犠牲にするのですね」
『なるほど』
「同様に、無意識には心を守る働きがあります。辛い記憶を思い出さないのも無意識が精神を守る働きの一つですね。そこで私が催眠状態に誘導すると、解離状態、つまり辛い記憶を持つ自分と客観的にそれを見つめる自分を分離してやる事が出来ます。するとトラウマを分析し、乗り越える機会が生まれます」
『誰でも乗り越えられるわけでは無いのか?』
「ええ、私の催眠でトラウマが蘇るのは強い人たちです。心の奥底でそれを乗り越えたいという気持ちがあるのですから。無ければ無意識は精神を守りたい訳ですから、思い出すのは嫌だ、見つめるのは嫌だという事で私の言う事など聞きません。催眠術というと何でも言う事を聞かせられる様に思えますが、あくまで主導権はその人の心にあるのです」
『何でもできるわけでは無いのか』
「私にもどうしてもトラウマを見つめる機会を引き出してやれない者がいます。生まれた時から私と付き合いがあり、私も彼女のために日々研究を重ねていますが、どうしてもその機会が巡ってこない」
『そうか、お前にも色々あるんだな……では、あの吸血鬼たちも』
「記憶のかなりの部分が無意識に埋没してますね。自分達がした事を見つめられるのはいつになるやら」
『待て。妙だな、小鈴事件の時に私が取り調べたんだが、彼女は完全な記憶を保っていたぞ?』
「それは彼女の心の強さでもありますが、今回の患者達は蚊に何度も刺された事で蚊の影響力が強まっているのかもしれません。私が読心術に妨害を受けた時、妙な心象風景が見えました。まるで、蚊の大群のような。人間に戻っても、蚊に不利な事はできない様に無意識レベルの調整を受けている可能性があります。これほど高度に自分を騙すのは難しい。興味深いですが事態は深刻です」
『蚊に支配を受けた人間をお前が目撃しても、計画のことが意識に上ってこないからスパイかどうか見破れないということか』
「はい」
『今回捕まった人間は揃って蚊に頻繁に刺されていた事がこちらで分かっている。それ以外にもスパイが社会に溶け込んでいるとしたらかなり厄介だな』
「人民の海という奴ですね」
『まあ、歴史上のレジスタンスと違って吸血鬼は里の人間が支持してる訳ではない。政府がゲリラを叩き潰せないのは、国民の多くが政府より革命家を支持していて支援したり匿ってくれる場合だからな』
「吸血鬼は人間にとって明確な脅威ですからねえ」
『ああ、ちょっとでも怪しい奴を見かけたら里の民が通報してくれるだろう』
永遠亭の病室。
布都がひと通り検査を終えて三十分ほど過ぎた頃、病室に神子と屠自古が瞬間移動して現れた。二人は布都を見つけるとベッドに駆け寄ってきた。
「布都、よくやってくれました。これで里の希望も守られるでしょう」
「太子様!」
「馬鹿野郎。心配したぞこの野郎」
「屠自古か。おぬしは時々人が良すぎる。だがありがとう」
「顔の方は大丈夫ですか?」神子は布都の頬に走る五本の切り傷を見て言った。
「ええ、お医者様が痕もなく直して下さるそうで」
「顔の傷! それは良くないわ。さあ物部様、この新しく開発したばかりの仙薬を!」青娥が病室の壁をぶち抜いて現れた。手には何やらカスタードクリームのような粘性のある薬物で満たされた壺を持っている。
「残念ながら先約があるわ」永琳がそれを押しとどめた。
「このぐらいの傷は朝飯前。仙人なら並みの人間や妖怪よりは早く退院できるでしょう。肋骨のヒビ、体の各所の傷、後はちょっと火傷があるぐらい」
「布都をよろしくお願いします」屠自古が言った。
「責任をもって引き受けますとも」
「一時的な現象でしか無いはずの吸血鬼が互いに組むとは予想外でした。そうと知っていれば貴方を一人では寄越さなかったものを」神子が言った。
「門下の道士達と共に、いつでも里を守りに掛かれるように備えをした方が良いかと。何か不穏な気配を感じます。これだけで終わるとは思えませぬ」
「ええ、早速準備に掛からせましょう」
人里の出張所。慧音とさとりは今回の面接についての詳細な記録を取り、さとりは立ち上がって出発する準備を始めた。
「では私は、これから別の用事がありますので。どの道今日は地上に出るつもりでしたから、今回呼ばれたことはちょうど良かったかもしれません」
『アレか』
「アレです」
二人は妖怪の山の方へと視線を移した。夏の今は緑色に包まれているが、朝焼けに照らされて群青色に輝いている。
「しかし、少し早く来すぎてしまいました。八時か九時ぐらいまではどこかで時間を潰さなければなりません」
『人里には妖怪向けに夜も営業している料亭がいくつかある。私も満月の夜の編集作業に疲れた後は息抜きに食べに行く。オススメだ。日の出後もしばらくは開いているはずだ』慧音は紙を取り出し、場所を書いて渡した。
『本当は私から手料理でもご馳走したいのだが、授業に向けて少し休まないといけないのでな。それに捕まった子供たちのご両親への連絡もある』
「ご好意だけでもありがたいですよ。これ以上貴方と付き合うと余計なものまで視てしまうかもしれませんしね」
『こらこら』
さとりは慧音に別れを告げ、大通り沿いに料亭を目指して歩いていった。配達に歩く里人の男がさとりの胸から伸びるコードと第三の目を見てぎょっとする様子を見せたが、さとりはそれを視ても笑うだけで済ませた。
灯籠の並ぶ、早朝の命蓮寺参道。眼鏡にショートカット、毘沙門天信仰者の女性は朝の少し蒸した空気を味わっていた。薄明かりの参道を途中で曲がり、墓の方へと赴く。並び立つ墓石の林を抜け、無意識の内にとある場所に引き寄せられようとしていた。
「あ、そっち危ないよ!」大声がした。彼女が振り返ると、緑の髪に犬のような垂れ耳を生やした少女が立っていた。
「おはよーございます!」あずき色のワンピースに緑色の花のボタン、幽谷響子だった。手には箒を持っている。
「お勤めご苦労さまです。朝から墓の掃除とは精が出ますね」彼女は時々命蓮寺に通っているため、響子とも面識があった。
「どうして危ないのですか?」
「そっちにはでっかい洞窟に続く穴があるんだけど、人間の子供が岩の隙間に落ちたりしたら危ないからってみんなで塞いじゃったの。妖精や妖怪の子供の遊び場になってたからみんなブーブー言ってたけど、仕方ないわよね。この寺にはあなたみたいな人間も来るんだから」
「そうですか。ありがたい配慮です」
「何しに来たの?」
「朝の座禅と読経に参加しようと考えたのですが、早く着きすぎてしまったので散歩でも」
「なるほど! なんなら暇つぶしに一緒に掃除でもする?」
「いえ、もう少し辺りを見て回りたいです」
この子に見られてはやりにくい。回り道をしないと。回り道って、どこへ? やりにくいって、何を? 自問する声は頭の中で反響する蚊の羽音にかき消された。
夢殿大祀廟の洞窟。眼鏡の女性は命蓮寺近くの別の抜け道を使って侵入した。ここでは闇のお陰で蚊の羽音の反響が明瞭に聞き取れた。この洞窟は日の差さない上に水が溜まっており、血の源となる動物が適度にいた。よって飢えた蚊にとっては格好の繁殖地となっていた。魔理沙に習った飛行術のお陰で、女性は岩場に引っかかる事なく奥の方で光る五十人ほどの人間の輪に辿り着くことが出来た。中心には魔理沙がいる。地面に置かれた八卦炉から出る魔法光で辺りを照らしている。
「遅かったじゃないか」魔理沙が言った。
「すいません。寺のルートを使おうとしたのですが、ヤマビコの子に見つかってしまいまして」
「上手く誤魔化せたか?」
「恐らく」
「まあ、ヤマビコはあんまり頭の働くほうじゃないから大丈夫だろうけどな。足し算さえ怪しい」
「あの子、そんな頭悪かったんですか……」
「じゃあ、成果を確認しよう。私は里にある蚊対策グッズの四つの工場全てにドラゴンメテオを叩き込む予定だったが、慧音の妨害が入って実際に破壊できたのは蚊帳工場とトラップ工場だけだった。実に残念だ。ブラックライトと網戸の担当は無事に逃げられたか?」
「はい、私はブラックライト工場を担当してましたけど、私の仲間は全員帰宅したのを確認しました」眼鏡の女性が言った。
「網戸担当だよ。全員無事」ウェーブのかかった長髪の、垂れ目の女性が進み出て言った。疲れてはいないようだが、気怠い様子だ。
「あの夜に私達の中から何人動員したっけ?」魔理沙が言った。
「二十五人です。寺子屋に五人、蚊帳・網戸・トラップ・ブラックライト、四つの工場に五人ずつ」眼鏡の女性が言った。
「そのうち捕まったのは? 誰か見ていないか?」
「俺、慧音先生と赤い袴の女の子がトラップ工場の連中をふん縛るのを見てました。家の窓から。袴の方は白い髪が超長くて思わず見惚れちゃいましたよ」十八ほどの引き締まった短髪の男が言った。
「妹紅だな。やはり慧音と組んでいたか」魔理沙が言った。
「同じく、寺子屋の前で大きな剣を持った白い髪の女の子が子供たちを捕まえてたわね。そっちの髪は短めだったけど」三十二ほどのセミロングの女性が言った。
「妖夢か」
「そうそう、蚊帳工場には博麗の巫女さんがいたね。妖怪の賢者と何やら話してて、烏帽子をかぶった小さな女の子を手当してたよ。あの子は時々里で見かけるねえ。随分と古い格好だけど、妖怪なんだろうか」白髪に灰色の中折れ帽を被った老紳士が言った。
「そいつは多分仙人の布都だろうな。妖怪よりは人間に近いが、あんなんで生きていたのは軽く千年以上は昔のはずだ。実際に活動していたのは百に満たんようだが」
「なんと、このワシよりか! いやはや」
「となると、今回破壊できた施設を担当してた連中はみんな捕まったと見ていいだろうな。約十五人か。で、私達は今まで何人『勧誘』したっけ?」
「だいたい三百人です」眼鏡の女性が言った。
「なるほどなるほど……」魔理沙は口角を上げて笑った。
「大勝利だな。私達はたった五パーセントの犠牲で蚊対策グッズの生産工場の四割を潰したというわけだ」
洞窟に拍手が鳴り響いた。五十人分のそれは一時的に羽音の音量を上回った。
「次はどうするつもりですか?」拍手が止んで、短髪の男が言った。
「当面の標的は蚊取り線香工場だ。線香の在庫がある限り、蚊は里には入れない。もしこいつを止められれば効果は計り知れない。マミゾウが資金を出して蚊の対策グッズを作らせているのは皆知っているとは思う。人里にも求人がしょっちゅう出てるし、今回里を襲撃するために従業員を『勧誘』したからな」
「でも、蚊取り線香工場で働いている人間は誰もいない」ウェーブの女性が言った。
「そうだ。そこで絡んでくるのがこいつだ」
両手でピースサインを笑顔で掲げる河童の写真の複製を数十枚、魔理沙は里人たちに回した。
「河城にとりだ。写真の裏には私が知っている限りの情報を記しておいた。こいつはマミゾウの投資計画の初期から蚊取り線香製造に携わっている。今までの工場は里に金を回す都合もあったし、製造に専門知識が要らない部分は人間が関わってた。だから私達がスパイできて、工場の場所も間取りもすぐに分かったんだ。しかしこの蚊取り線香だけは恐らく河童が製造を一手に担っている」
「だから、私達に工場の情報がろくに入ってこないというわけね」セミロングの女性が言った。
「その通り。河童印の蚊取り線香は里に求人が入る前から出回ってるし、里の外から河童が運んできている。全部河童だ。あの異常な安さにも人間には分からない秘密がありそうだな」
「となると差し当たっては、引き続き里の物流や河童と人間の取引を探るのが良いということかな?」老紳士が言った。
「ああ。情報を得るための手段は問わんが、なるべく見つからないようにな。妖怪の山のガードは堅い。もし河童から情報を引き出せたら大金星だぜ」
「でも天狗は一人ひとりがとんでもなく強いし、河童だって侮れないよ。場所がわかった所で攻められるの? 僕達が別の工場を襲ったから警戒してるかも」十四歳程の男の子が進み出て言った。肩まで届きそうな、さらさらした黒髪だ。
「そこはほら、これだ」魔理沙は文々。新聞の最新号を取り出した。日付は一週間前で止まっていた。
「ちょっと前から文々。新聞の発行が止まっている。他にも大天狗を含む天狗たちの発行する新聞が何紙も休刊中だ。天魔はまだ討ち取れてないようだが、我らが蚊はしっかり働いているようだな」
「へえ、あいつらなら蚊なんて風で吹き飛ばせそうなもんだけどなあ」
「新聞を日の出てない時間帯から幻想郷中に配ってる奴らだぜ? 妖怪の山だけならまだしも、普通の虫や魚、動物にまで毒になる蚊取り線香を全部の土地に隙間なく焚けるわけがないから、どう頑張っても隙が出来る。防護服だって全員分は無いし、この暑さなら脱ぐ奴は出てくるさ。昔世界の半分を征服しかけた王様だって遠征の途中でマラリアでおっ死んだって本に書いてあった」
「ふーん、なるほどね。数をじわじわ減らして、手薄になったところをガツン! ってわけか」
「そろそろ時間切れだ。解散! 今夜のアリバイが怪しい奴、この後捕まりそうな奴はここに残ってくれ。生活必需品や食糧は十分貯めてあるし、私の魔法で温泉を沸かすことも出来るぜ。あんまり明るくはないが生活するぶんには困らんはずだ。残りの連中も順次機を見て里を脱出するだろうよ」
突然居住地が変わることに対しての当然の不満は、里人たちからはどういうわけか出なかった。皆が皆、自分の生活よりも蚊の利益を優先することを受け入れていた。人々はにとりと河童たちについての情報を無意識の底へと記憶し、写真を燃やして廃棄した。終わると、アリバイのある者達は各々の生活へと帰るべく三々五々と散り始めた。洞窟に残った者達も各グループに固まって談笑し始めている。
ひと通り処理が終わったのを確認して、魔理沙は地底湖の方に向き直った。広大な水面の中心には一塊の蚊の群れがおり、羽音に混じって赤ん坊のような甲高い声が聞こえてくる。
『生きる……』『食べる……』『増える……』声に合わせて、魔理沙の目には蚊の群の構成する知性のうねりが見えた。魔理沙は微笑んだ。
「よう! お前ら、元気か? 今日もちょっと昔話をしよう!」魔理沙は叫んだ。里人の何人かが振り向いたが、分かったような顔をすると皆談笑とキャンプの準備へと戻った。魔理沙が蚊と『お話する』のはいつもの事となっているため、魔理沙を知る里人の中で気にする者は居ない。
「昔々、幻想郷から海を越えて遙か南のあるところに、一つの島がありました。周りを水に囲まれていましたが、ここに人々が海を渡ってやってきて住み着きました……」
地中深くに、穴を掘る。吸血鬼達は穴を掘る。眠るための墓穴ではなく、這い出るための洞穴を。
土は掘られていく。
昼の人里。焼け野原になった蚊帳工場の前で、マミゾウと慧音は日傘をさして待っていた。焦げた地面に転がっている炭になった木材、燃え滓のビニール、かつて力織機だった芥は原型を留めていない。焼け跡は独特の悪臭をうだる熱気を伝って放っている。
「酷いな」慧音が言った。
「これは全部、あの五分間吸血鬼がやったのかい? いつの間にこれ程の力を付けたか」マミゾウが言った。
「いや、全焼したのは布都という道士のせいらしい。最初に大穴を開けたのは空から降ってきた光という目撃証言があるし、道士が言うには自分が着く頃には設備は完全に破壊されてたとの話だがな」
「あやつ、聖人の手下め……」
「そこを責めるのは酷だろう」
「うっ、まあ、そうじゃな」
吸血鬼を一人で五人も捕まえるとなれば多少の犠牲は止むを得ず、どの道大穴が空いた時点で建て直しは避けられないだろう。そこはマミゾウも認めざるを得なかった。
「使われた作戦は非常にシンプルだった。何らかの大魔法で倉庫を守る結界や外装を引っぺがし、残った部分を他の吸血鬼に破壊させる。蚊帳工場とトラップ工場は完全にやられたが、ブラックライトと網戸セットは二つ目の流星群が落ちた直後に私が里全体の歴史を喰っといたから無事だ。あの隕石じみた光の塊は里の外からやってきたようだからな。里の中に潜り込まれなければ守りきれる」
「魔除けの呪符を敷き詰めた屋根に大穴を開けるほどの術を、同時に全部の工場に落とせたらそれこそ化け物だからのう。今回捕まった者の中には各工場の従業員が混ざっていた。土地勘のある物を実行メンバーに据え、間取りもスケジュールも事前に漏れていたと考えるのが自然じゃろう。製品を里の人間に作らせたのが裏目に出たが、里の近くに工場を置いたからこそ、おぬしが里の守護者として控えていたからこそ守りきれたと言える。おぬしには感謝しても感謝し足りんよ」
「礼は妹紅にも言ってくれ。私の一番の友人だ。私の力だけでは全員逮捕は到底無理だったろう。捕まえる過程で工場の床は抜いたがな」
「言うまでもなく。人間の身で不死、是非会いたいものじゃ。道士の方もな」
「なら、次の満月の日にでも会う約束をしよう。焼き鳥と酒でも持っていけば喜ぶぞ」
マミゾウは屈み、吸血鬼除けの呪符の燃えカスを拾い上げた。
「ううむ、たまたま倉庫の近くで人間が蚊に刺されたとか、散発的な襲撃になら倉庫に貼っておいた呪符と配備した警備員で対応できる自信があった。しかしここまで計画的で組織的な妨害を受けるとは流石に想定しとらんかったわ」
「しかも、決行まで一切計画を漏らさずにいたわけだからな」
「あの工場の生産設備はもともと別の製品を作っていたものを借り、転用したものじゃ。でないとこんな短期間で製品を出荷できん。建物も間借りしたもので儂の資産ではない。保険は効くし、燃やされた在庫と原料を除けば損害自体はそれほどない。これから稼ぎだすはずだった利益を失ったのは痛いが、事業自体はまだまだ黒字じゃ。しかしこれからが問題だ。埋め合わせに新しい工場を作るとして、吸血鬼に狙われると分かっていて建物を貸す者がおるか? 機械を貸すものがおるか? 事業を続け、蚊からこの地を解放するためにはテロの脅威は除かねばならん。どのぐらい捜査は進んでおるんじゃ?」
「それだがな、あの夜の吸血鬼どもは十五人捕まえたが、今まで何をしていたのかは忘れているらしい。地底から催眠の専門家を呼んだが無駄だった」
「サトリか」
「何かしらの遠隔的な手段で記憶を抹消されていた。切り捨てられたんだと思う」
「なるほど。そこで打ち止めかい? だとしたら大分がっかりなんじゃが」
「もちろんそんな事で止めはしない。そこで考え方を変えてみた。今診療所で治療を受けている吸血鬼たちには血縁関係にあったり、親友同士の者がいた。たまたま近しい者ばかりがテロリストになるとは考えづらいだろう。吸血鬼どもは日常の人間関係を介して仲間を増やしているのかもしれない。そこで捕まった連中の経歴を調べ、親しい人間の中でスパイの疑いがある者を監視しておけば今後の破壊活動を未然に防げるかもしれないと思ったんだ。これが容疑者のリストだ」慧音はマミゾウに五枚にまとまった紙の束を渡した。そこには八十人分程の氏名、住所、既に捕まった人間との関係を書いた詳細なレポートが載っていた。
「おお、壮観だのう。よくぞここまで調べたものじゃ。これは期待できるか?」
「ところが……昨日までに、そこに載っている里人を含めおよそ五十人が蒸発した。私は人間関係を中心にあたっていたが、リストに載っている人間の他にも蚊の力を利用して土木工事に従事していた者、新陳代謝が高く酒飲みで、良く蚊に刺されていた者がいるようだ」
「先手を打たれたか」マミゾウは手のひらで額を打った。
「捕まった者達の共通点から探られて芋づる式に捕まることを防ぐためだろう。本格的に地下に潜るつもりに違いない」
「どうやら、向こうにも相当頭の回る奴がいるらしいぞい」
「今回の吸血鬼達は力だけでなく、小鈴事件の時のように赤い霧、分身、全てを使ってきた。新聞で情報は出回ってはいるが、妖怪退治に詳しい者が訓練している可能性はある」
「しかしこの幻想郷に五十人も人間を隠し住まわせられる場所が存在するかのう? 外の世界では犯罪者が名前を変えて他の土地に移り住む事は珍しくないが、多少名前と住居を変えた所で狭い人里ではバレバレじゃ。長く隠しておけるとは思えん」
「それはまだ分からん。妖怪の賢者も捜査しているらしいが」
「となると、儂にとって目下の問題はやはり生産設備の復旧か。蚊が妖怪も刺すようになったから、妖怪の居住区まで投資対象が拡大すると資産があってもキャッシュの用意が間に合わん。くそっ、正攻法ではあの蚊には勝てんというのか? 小鈴……」
「二ッ岩、そう気を落とすな。あの時点ではお前のやり方が間違いなく最善手だったんだ。これからもそうかも知れない」
「しかし儂の得意なのは搦め手だからのう。アプローチを間違ったかもしれん」
「起こってしまった事は仕方が無い。次の手を考えよう」
マミゾウは深呼吸した。
「うむ、弱気になっている暇は無いな。儂としたことが少々焦っていたようじゃ。ありがとう。里の人間がおぬしらを頼るのも分かる」
「ははは。どういたしまして」
「お、終わったようじゃな」
焼け跡の中から二人の人影が現れた。アリスとパチュリー・ノーレッジだ。二人の服はそれぞれリボンと帽子、肩のケープから背中にかけて汗が染み付き、焦げた木片の入った瓶を数個持っている。
「暑い……」アリスが言った。
「どうだね、進捗は」マミゾウが言った。
「全部燃えてたからトラップ工場ほどはサンプルは取れなかったけど、十分。これから館に持って帰って解析するわ。襲撃の時に使われた魔法の性質がある程度分かるかもしれない」パチュリーが言った。
「ねえ、まさか魔理沙がって事は無いわよね」アリスはパチュリーを見た。
「考慮すべきは三点。第一に、最近里の薬屋に魔理沙の製造していた抑制薬の供給が止まっている。第二に妖怪の賢者の話ではあの夜、異変解決できる人間たちの中で魔理沙だけが自宅に居なかったらしい。その後は行方不明、アリバイなし。第三に、吸血鬼達はどういうわけか、星型弾などの光の魔法を使っていた……望み薄でしょうね」
「ああもう、いつも世話を焼かせる!」
「相手が誰にせよ、吸血鬼どもは光の魔法を使ってくる。それを封じるだけで大分効果が上がると思うのだが、対策は出来ないのか? 魔法使いとしての意見を聞きたい」慧音が言った。
「光の魔法自体はモノを壊すだけの低級なものよ。でも単純なだけにかえって対策が難しいのです。貴方が自分の家にどれだけ魔法防御の呪符を張った所で、家の三倍ぐらいの大きさの岩を落とされたら潰れてお終い。イメージとしてはだいたいそんなところかしら」アリスが言った。
「もし対策できたら教えてちょうだい。館の門をそれでフルチューンナップするから」パチュリーが言った。
「プロの魔女も魔理沙どのの魔法には手を焼いているわけか」マミゾウが言った。
「もう少し複雑な魔法ならその分付け入る隙もできるんだけど、破壊力の一点特化だからねえ。魔理沙自身は色々試したいみたいだけど、結局そこに帰ってくるみたい。まあ、まだ魔理沙と決まったわけじゃないし、館に行ったらゆっくり調べるわ」アリスが言った。
永遠亭出張所。正午になり、鈴仙は囚われの患者たちに食事を運びにいった。十五人分の食事。最後の病室には慧音の教え子の双子の兄弟がトランプをしながら向かい合って座っていた。隅においてある二つの机には、寺子屋からの差し入れのテキストが置かれている。
「ご飯よ」
鈴仙が呼ぶと、双子の兄弟は入り口へと駆け寄ってきた。格子の隙間から差し入れた膳に載っているのは、焼き肉とレタスの乗った湯気を立てる丼ぶり、赤味噌の味噌汁、沢庵、みつ豆など。病院食にしては豪勢な内容に、双子は目を輝かせた。鈴仙はそれも当然だと思った。とっくの昔に二人は治療するべき病人ではなく、暴れないように監視下に置く軟禁の対象だったのだから。蚊の支配から逃れる方法はまだ分からなかった。解放できない以上、せめて食事は豪華にしておこう。
「何か辛い事はないかしら?」
「ううん。兎さんの作るご飯、おいしいから」弟が言った。
「でもね」兄が言った。
「父さんも母さんも、お見舞いに来ないんだ。慧音先生に頼んだけど、家にもいないんだって。どこにいったんだろう?」
鈴仙には答えられなかった。
パチュリーはアリスを伴って館へと戻った。アリスは美鈴に会釈し、美鈴は微笑みながら門を開けた。館の中に入ると、レミリアと日傘を持った咲夜が出かける準備をしていた。レミリアはサングラスを掛け、咲夜は日傘を持っている。
「あら、こんな真っ昼間からどこへ?」パチュリーが言った。
「ふっふっふ、デートよ、デート。人里でね」レミリアが言った。
「今の人里は良いデートスポットとは言えないと思うけど」アリスが言った。
「視察も兼ねていらっしゃいますから」咲夜が言った。
「お忍びで、ね。人間を怖がらせるのも悪くはないんだけどー。今は隠したい気分」レミリアはサングラスを弄りながらニヤリと笑った。
「急浮上したライバルの実力がどんなものか見に行かないといけないものね」パチュリーが言った。
「こら」
友人が奥へと引っ込むのを見て、レミリアは館を出て行った。美鈴が敬礼をして見送っていた。
午後の人里。主従は大通りを歩く。通りを行き交う人々は目を伏せ、見られる事を恐れるかのように先を急いでいた。以前は綺麗だった場所にゴミが目立つ。
「なんだかみんな、余裕が無いわね。以前来た時はもう少し穏やかだったのだけど」レミリアが言った。
「日に日に里の雰囲気は悪くなっています。やっと蚊を追い出せるという所で、あの襲撃事件でしたからね。工場は人間にとって心の拠り所だったのでしょう」
途中で、道を歩いていた人々が足を止めて集まっている見ている建物があった。薬屋だった。焦げた臭いが辺りに漂っている。
「どうしたのですか?」咲夜は歩みを止め、店の前の七三分けに丸眼鏡を掛けた男に聞いた。
「ああ、寝てる間にちょっと火事になりかけましてね。そこの壁の辺りに焦げがあるでしょう? 明らかに放火です。ボヤで済みましたから、今日も何とか営業中ですがね」薬屋の主人は頭を掻いた。
「それはお気の毒に。他に最近何か事件はありましたか?」
「そうですね、最近、夜の間に仕掛けておいた蚊のトラップが色んな所で壊されていましてね。商品を回してくれる工場が無くなったんで、在庫がなくなったらどうしようかと気が気じゃありませんよ。まだ本命の蚊取り線香は出回ってますからお買い求めいただけますがね。よろしければ少し買っていきますかい?」彼はこの状況でも売り込む気満々だった。
「では、折角ですから」咲夜はあえてセールス・トークに乗った。少しは修繕費の足しになるだろう。
「ふーん。スパイがいるって話は本当のようね」レミリアが言った。サングラスの奥の眼が薄く光った。
大通り沿いのカフェー。レミリアと咲夜はテーブルテラスの椅子に腰掛け、パラソルの下で待っていた。やがて黒い制服に身を包んだ若いウェイターが伝票と注文した品を運んできた。咲夜にはコーヒーとモンブラン。レミリアには紅茶とプリンパフェ。広口のグラスの中心にはプリンとクリーム、チェリーが乗り、周りをシラップ漬けのりんご、苺、メロンなどが囲っている。テーブルの上に置かれたそれを見て、レミリアは目を輝かせた。
「いただきまーす♪」
「いただきます」
レミリアは口内で溶けるクリームの味を楽しみ、咲夜の唇がモンブランを飲み込んでいくのを見て心の中で舌なめずりした。三分の一ぐらい食べた所で、近くのテーブルから会話が聞こえてきた。男が二人。レミリアは周りに植えられた観葉植物を見るふりをして、耳をそばだてた。
「お前の働いてた工場、壊されたらしいな。大丈夫か?」
「お陰で俺の仕事が無くなっちまったよ。折角数カ月ぶりに無職を脱出したってのに。まだここで茶を楽しめる程度には蓄えはあるけどな。いつかの霧の異変だってここまで酷くは無かった」レミリアは耳をぴくりとさせた。
「でも、吸血鬼達は慧音先生と竹林の娘さん、道教の人で全員撃退したんだろ? 吸血鬼だからって恐れることはないじゃないか」
「そうはいうがな、捕まった奴の名前を新聞で見たんだが、俺の同僚だったんだ。捕まって、支配されて、工場の情報をそのまま流してたんだろうな。他にも里の中にスパイがうようよいるのは確実だ」
「マジかよ。それは……」
「こうして話してる間にも連中の手下の吸血鬼が聞き耳を立ててるかもしれない。気味が悪いったらないぜ」
レミリアの普段は血の気の薄い額に、青筋が立って痙攣し始めた。レミリアはサングラスを外して里人のテーブルを見やった。レミリアの殺気を感じ、里人たちが振り返った。レミリアを認めて血の気が引いていく。こんな時間に本物の吸血鬼がいるとは思わなかった。噂をすれば影が差す。レミリアは咲夜の方に顔を戻し、里人たちは胸を撫で下ろした。
「咲夜、これは物凄いピンチよ」
「何故です?」
「人間への脅威として私が蚊に負けているのは百歩譲ってよしとするわ。あの虫けらの実力への正当な評価として認めてやっていい。でも、いまや吸血鬼という種族全体がどこぞの秘密結社の戦闘員以下の存在に貶められようとしているの。人間を支配しようと目論む何処の馬の骨とも知れない痴れ者のせいでね。舐められている……格段に舐められつつある!」
「なるほど。それで、御用命は」
「私とのデートや館の仕事より優先しても構わないわ。これからは異変解決側としてできる限り蚊を殺し、イミテーション共を捕らえなさい! 同業者をぶっ潰して、失われた誇りを取り戻すのよ!」
「分かりました」咲夜は身を乗り出し、レミリアの口に付いたクリームを拭いてやった。レミリアは照れ隠しにサングラスを付け直した。
少し経ってレミリアはパフェを平らげ、残った紅茶をちびちびと飲んでいた。先に食べ終わった咲夜が口を開いた。
「素朴な疑問ですが、どうしてお嬢様は名誉を重んじるのですか?」
「どうした急に」
「生きる上では必要のないことですから」
「咲夜も生きていくだけなら私のそばにいる必要は無いわね」レミリアは鼻を鳴らした。
「いえ、お嬢様のいない人生は考えられません。私にもプライドが無いわけではありません……ただ、どうでも良いことでは無いのかなと」
レミリアは頭を抱えた。極めて高い能力を持ちながら、咲夜にはこだわりというものがあまり無かった。世界を支配できる程の超能力は、ずる休みぐらいにしか使わない。日々の食い扶持のためなら平気で悪魔に魂を売るし、館入りするにあたって命じられればレミリアが呆れ返る程あっさりと以前の名を捨てた。一日中家事のことで頭を一杯にしている。多少変人扱いされようと、何事にも大真面目に取り組んでいれば瑣末なことで気が滅入ることもない。普通の人間とは大きく違った人生の中で、悩まないためにいつの間にか身につけていた習慣だったのだろう。怒ることもあまり無い。例外は予期せぬ侵入者に家事を邪魔された時か、天人の暇つぶしのために天界まで登らされた挙句にさっさと帰れと言われた時ぐらいだった。飯さえ食えればそれでいい。たまに気にかけることといえば、次の満月の日にお嬢様は吸血に何時間かけるのか、明日の御主人様に淹れる紅茶にはどんな毒物を混ぜようか、最後の日をお嬢様とどうすごそうかといったことだった。それぐらい超然とした態度でなければ、人の身に余る力には耐えられないのかもしれない。そんな理由から、幻想郷一誇り高い主人の下にいながらも、プライドというものは咲夜の理解の範疇の外にあった。
「……どうでもいい! 確かにどうでもいい事だわ。生きるだけなら食べて寝る以上の事は要らない。でも永遠に生きる私にとっては、それでは足りなくなる! 前にも言ったでしょう。永く生きる者にとってはどうでもいいことの方が重要なのよ」
「そういうものでしょうかね」
「咲夜も永く生きるようになれば分かるわ」
「遠慮しておきます」
「ホント欲が無いわねえ」
二人が帰る準備をし始めると、若いウェイターが食べ終わった食器を下げていった。彼は十八ほどの引き締まった身体をした、短髪の男だった。聞き耳を立てていた者はもう一人いた。
日没直後。妖怪の山の中腹、姫海棠はたての家。彼女は自室のドアを開けて中に入り、黒と紫の市松模様のベッドの上に身を投げ出した。仰向けになって伸びをする。
「せっかくひきこもりをやめたのに、蚊のせいで逆戻り。つまんないなー。つまんないつまんないつまんなーい!」退屈極まりない。ツインテールを振り回して、柔らかなベッドの上をごろごろと転がる。
「文の奴、最近急に売上を伸ばしてたから勝負が面白くなってきたと思ってたのになー。対抗新聞が休刊だなんて、勝ち逃げは許さないんだから。早く戻ってくれればいいのに。でも今となっては外に出てのネタ集めも命がけだわー」
はたては天井をみつめた。白い視界の隅にレースのカーテンが映る。
「久しぶりに使ってみようかな、このカメラのき・の・う!」
はたては黄色いチェックの携帯電話を取り出し、手首のスナップを利かせて二つ折りを広げ、カメラを起動した。彼女は最近の吸血騒ぎで魔理沙が疑われているという噂を耳にしていた。念写を使えば居所が分かるかも知れない。
「ふんふーん。出世なんてどうでもいいけど、この写真がきっかけで魔理沙が捕まったら新聞大会で賞が穫れるかも。山のみんな、困ってるものねー」
はたては携帯画面の検索欄に『霧雨魔理沙』と入力し、検索期間の設定を今日にした。『検索』ボタンをクリック。いつもは二十秒あれば出てくるのだが、出ない。一分ほどたって、やっと上から幕を剥がすかのように全体像が表示された。
「えっ、ちょっと、何よこれ」はたては身震いした。
画像には蚊がレンズに腹を向けて隙間なく張り付いている様子が写っており、他のものは何も見えなかった。
夜の妖怪の山、滝周辺。犬走椛は土を踏み、腰に剣を下げて歩哨を務めていた。不審な気配に気がついて、椛は顔を上げて宙を嗅いだ。腰には他にも煙を上げる蚊取り線香の丸い金属製のケースをぶら下げているが、椛の嗅覚なら嗅ぎ分けられる。線香と植物の匂いに混じって、獣の体臭が流れてくる。椛が臭いの方向を見やると、藪の向こうを透過して白い狼の群れが川沿いに斜面を登っているのが見えた。千里眼である。
「懐かしい。かつては私もあの中にいた」
その時、椛は狼の群れの中にそれと似つかわしくない腐臭が混じっているのに気づいた。群れの中心には赤い瞳の狼が居る。周囲の狼の態度から見るとどうやらリーダーのようだが、群れの長となる狼が備えている風格が不自然に欠けているように見えた。新しすぎる。仲間と安定した関係を築ける者は、他を威圧する凶暴性よりも大事なものを持っているものだ。
「てやっ!」椛は意を決して空を飛んで藪を飛び越え、狼の群れへと突撃した。狼たちは椛の赤と黒のスカートに噛み付き裂くが、椛はかまわず中心の腐臭の源へとまっすぐ向かっていく。赤い瞳の狼は一歩飛び退ると歯を剥き出しにして椛へと跳躍。椛は狼を横一文字に斬りつけて迎撃する。狼は地に落ち倒れ、紅い霧を発して大量の蝙蝠と化し去っていった。他の狼は散り散りになって逃げていく。
「捕まえられない、残念。『吸血鬼は狼に化けられる』『吸血鬼は動物を使役できる』油断も隙もない!」
空は他の天狗ともども監視できるが、隠れる影の多い地面はそうもいかない。報告書に書くことが増えた。椛は更に不審者が居ないか警戒しながら、仲間に知らせに藪の中へと消えた。
昼の十時。妖怪の山、守矢神社の境内。さとりはこれから幻想郷の有力者が集う会合へと赴くところだった。
「では私はこれで失礼」犬走椛が頭を下げた。彼女は麓から湖までの護衛を務めていた。
「ええ。ありがとうございました」
椛は山を下って去っていった。さとりは神社からの迎えを待ったが、来ないので鳥居をくぐって先を進んでいった。所々に突き立っている御柱を眺めながら参道を歩いていると、歩いているのとは別の方向から声が聞こえてきた。
「ああもう、駄目ですってば。こんな所で、他の人に見られたらどうするんですか。今日はお客様がいらっしゃるんですよ!」
「今度こそびっくりさせてやるんだから!」
参道から左へ外れた林の向こうで、東風谷早苗と多々良小傘が戦っていた。
後光「からかさ驚きフラッシュ」
小傘の身体が眩く輝き、レーザー光線が放射状に発された。驚くほどの密度だ。さとりは飛び退いて避け、早苗の次の手を見守った。
「さっさと終わらせます!」
早苗は光線の軌跡を察知して避け、深呼吸してから護身の呪法を唱えだした。
「臨・兵・闘・者、皆・陣・列・在・前!」
秘法「九字刺し」
早苗が指で縦と横に平行線を描くと、それとそっくり同じに小傘の眼前に光線の格子が展開する。小傘は巻き込まれまいと身を捩ったが、最後の一本に当たって撃ち落とされた。
「お、覚えてろ~」小傘は傘にしがみつき、遥か上空へと去っていった。普段地底の分厚い空気に慣れていたさとりは、あんな上空では酸素が薄くて苦しくはないのだろうかなどと考えていた。
「あ、すみません。お見苦しいところを見せてしまいました。今ご案内します」早苗は駆け寄ってきた。声こそ申し訳なさそうにしていたが、その目は充実感に笑っており、さとりの目にも心が生気で満たされているのが見えた。新参者とは思えないほどにこの地の流儀に慣れ親しんでいる様子だ。
さとりは早苗の案内について歩き、神楽殿の一つに通された。敷かれた座布団には八雲紫と八坂神奈子が既に座っており、奥には直径がさとりの身長の二倍はありそうな大太鼓が鎮座している。側面に少し色の褪せた金色の龍が描かれており、張られている黒ずんだ牛皮の傷とともに年月を感じさせた。
「毎回同じ場所だと飽きるわよね。だから趣向を変えてみたわ」神奈子が言った。前回の会合までは、台座に『忠』『孝』と描かれた一対の狛犬の間を通って、注連縄の掛かった別の神楽殿へと通されていた。
「壮観ですね」さとりは言った。
「御柱一本のだいたい五分の一ぐらいの重さだったかしら。音に迫力がなくなってきたから、そろそろ新調するつもりだけどね。幻想郷の牛は良い音がなりそうだわ」
しばらく談笑が続いた後で、紫が話を切り出した。早苗は席を外した。
「さて、始めましょうか。そちらの被害状況はどうなっているかしら?」
「妖怪の山の連中、特に天狗がかなりがやられてる。妖怪の山には外に吹き出すように風を循環させているから、ある程度蚊の侵入を防げてはいるけど完全じゃないわ」
「地上は相当荒れているようですね。今のところ地底には蚊はいませんが、もし地上が完全に住めない場所になれば地底にも難民が押し寄せてくるのは時間の問題です。そうなれば少なくない数の蚊が混じって地底にも持ち込まれるでしょう。冥界だけで全てをカバーできるとは思えません」
「命名決闘法、四つの理念」紫が言った。
「貴方が幻想郷に入ってきた時に私が提示したルール、覚えているかしら?」神奈子に言った。
「『一つ、完全な実力主義を否定する』『一つ、美しさと思念に勝る物は無し』他にもいくつかあった気がするけど、貴方が引き合いに出したいのはこの二つでしょう?」
「その通り。貴方はこれをどう思う?」
「良い、とても良い。そりゃ最初はなんじゃこりゃと思ったけどね、まず私自身がここに受け入れられるにあたって助かってるわ。早苗はちょっと奇天烈な所があるから幻想郷に溶け込めるかどうか心配だったんだけど、今やすっかり楽しんでいるようで安心してる。諏訪子だって色んな連中と対等に遊べて喜んでいるし。ここの妖怪達は皆、新しい考え方を受け入れる余裕がある。それは新旧それぞれの観念と、利害の衝突を調整する制度によって安全が担保されているからよ。貴方も恩恵を受けているんじゃないかしら?」さとりに言った。
「ええ。我々が地底に引きこもって数百年が経ちますが、命名決闘法が導入されて以来、他人と関わるのが飛躍的に面白くなりました。私も妹も通常のコミュニケーションをとる事はすっかり諦めていたというのに、遊びを通じて心を通わせられるようになったのですから。特に博麗の巫女と魔法使いが私の所にやってきてから、妹は目に見えて変わりました。心を閉じて辺りをふらふらしているのは変わりませんけど、最近は積極的に地上で人と関わるようになって……貴方の考えた決闘法は彼女の精神に明らかに良い影響を与えているようです。感謝していますよ。本当に楽しい時代になったものだわ」
「ありがとう。では、今この地では何が行われている?」紫が言った。
「力が奔り、狡さが笑う。顔を隠し、徒党を組み、闇討ち不意打ちなんでもござれ。そして首謀者はどこにでもいて手が出せないときている」神奈子が腕を組んで言った。
「そうね。美しさも何もあったものじゃない」
「気に入らないね」
「妖怪の山だけではありません。幻想郷中の人妖の心に不安が渦巻いています。私は絶望を利用して身を守りますし、負の感情は怨霊で見慣れていますが、これだけの数の無垢な魂が悩まされるのを見るのは気分の良いものではありません」
少し間があった。紫は再び切り出した。
「もしこのまま続けば、我々の創り上げてきた幻想郷は荒廃し、当初の理念は忘れ去られ、個人の信念の美しさよりも力と組織の論理が罷り通る世界になってしまう! 私はそれを危惧しているの。私の気持ちに嘘はないでしょう?」紫はさとりの方を見やった。
さとりは頷き、微笑んだ。これ程の実力者が二人も覚り妖怪の前に腹の中を晒すなど、相当の決意がなければ出来るものではない。
「はい。私もそれには反対です。せっかく楽園へと近づいてきたこの幻想郷を、旧い時代に逆戻りさせる手はありません」
「私はこの異変を幻想郷への挑戦と受け取ったわ。課題は増えたけど、基本方針は変わらない。これからもよろしくお願いするわ」
「ええ。早苗のためにもね」
「では、調整の方を続けましょうか。進捗の方はどうなっています?」さとりは言った。
「上々よ。河童に各地への影響の方を測らせているから、もう少しで最適な時間が割り出せると思う」神奈子が言った。
「私の方もそれに合わせて変えていきます。地上の友達が危ないというので、ペットの皆は士気が高まっています。やる気は十分です」
会合は昼まで続いた。さとりと紫は早苗の作った昼食を味わい、帰り際に椛と藍がそれぞれ迎えに上がった。食事の席で、部屋の隅に覚妖怪がもう一人鎮座している事に気付く者はいなかった。
地中深くに、穴を掘る。亡者達は穴を掘る。骨を埋める墓穴ではなく、繋がるための地下道を。
土は掘られていく。もう少しだ。
快晴の真昼間、妖怪の山と里を繋ぐ道路。辺りはまだ緑に溢れている。最近のテロを警戒して蚊取り線香の輸送トラックには装甲車を前後に一台ずつ付けており、にとり自身はトラックの運転席に座っていた。足はブレーキに届いているが、ハンドルがにとりの手には大きすぎるように見える。いつも背負っているリュックは後ろに作ったスペースに積んである。
「いやー、こんなボロい商売ないよ。儲かりすぎて参っちゃうね!」にとりは言った。
助手席に座るおかっぱ頭の黒髪の河童には、にとりの声に多少虚勢が混じっているように聞こえた。無理もない。普段は河童が面従腹背する相手である天狗が次々と熱病に倒れていき、河童たちの間には開放感の下に潜んで心細さが蔓延しているのだから。河童たちはいかに自分が普段から天狗たちの力に頼っていたかを理解した。熱病そのものよりも、状況がもたらす精神的ストレスの方が妖怪の身には堪えた。
「にとり、ちょっと無理してない? 最近働き詰めじゃない。休暇でも取った方がいいと思うけど」
「趣味の将棋相手の天狗や河童も熱病でおねんねだよ。私は幹部だ、蚊への抵抗も兼ねて多少は金儲けに勤しんだ方が退屈が紛れるってもんだ。どうせ技術は全部私達が握ってるしね!」
今までの幻想郷の蚊取り線香は栽培された除虫菊から殺虫成分のピレトリンを抽出していたが、河童はそれによく似た化合物であるピレスロイドを化学合成する技術を最近手にいれていた。合成された薬品は天然物にくらべ遥かに安価で純度が高く、正しく運用している限りはかえって安全で効き目が高かったのである。
車は里へと道なりに下るカーブに差し掛かった。ここは林の中。日光が遮られ、隠れる部分が多い。襲われる危険はあるが、時間やコストとの兼ね合いを考えるとどうしてもここを通る必要がある。地形に合わせて、大きく蛇行。数回目の右カーブに達したあたりでおかっぱ頭の河童がふとスピードメーターを見ると、画面上のレーダーが反応し、点滅してけたたましいアラーム音を発した。
「前方に高エネルギー反応! 地雷かも! 減速して!」
「カーブじゃ急減速は無理!」にとりが言った。
「突っ込む! 脱出よ!」
地面に六芒星の描かれた魔法円が複数現れた。
光撃「シュート・ザ・ムーン」
魔法円が光り、そこから色とりどりの光の柱が五本立ち昇った。前の装甲車が水妖エネルギータンクを撃ちぬかれて内部から爆炎を上げるのが見え、続いて輸送車が光の柱にぶつかり車内が激しく振動した。にとりはエアバッグの圧力にさらされながらハンドルに必死にしがみつく。フロントガラスが割れ、内側に破片を飛ばす。にとりは少し頬を切った。
三本目の柱にタイヤとエンジンが破壊されたと同時に、二人は輸送車から放り出された。右手にガスマスク、左手にリュック。
魔弾「テストスレイブ」
にとりの横を背丈ほどもある鉄球が掠め、トラックの側面に激突してひしゃがせ、そのままカーブの外側へと突き飛ばしていった。トラックは林の木々の数本をなぎ倒して爆裂。光の柱が更に後ろの装甲車を破壊、爆炎の柱が昇る。
にとりの前方の林の中で、魔理沙が箒に腰掛けていた。緑色の眼で背中に羽を生やし、下に能面と外套を羽織った影を四人従えている。怪士、般若、小面、火男。
「在庫はもう諦めな!」魔理沙が声高に笑いながら紅い霧と蝙蝠を放出した。霧が辺り一帯を覆い、封じ込めが完成した。蝙蝠がレーザーを放ち、外套が迫ってくる。
「河童相手に吸血鬼とは、こちらを舐めすぎじゃあないかね!」
水符「ウォーターカーペット」
地面が割れ、隙間から水の柱が昇る。紅い天蓋の頂点に達したそれは水平にいつまでも続く水壁を形成した。前後の装甲車跡からガスマスクを装着した三人の河童が這い出て、火傷と切り傷だらけの腕で水妖エネルギー銃を魔理沙に向けて構えた。一人は三つ編みを二本垂らし、一人は額の辺りでヘアピンを交差させて留めていて、もう一人はガスマスクの下にメガネを付け、髪を後ろで纏めて垂らしていた。最後の前方におかっぱ頭の河童もにとりの横につく。
「大丈夫だった?」おかっぱ頭が言った。
「いっけー! 逆に捕まえてやる!」
水壁がそのまま津波となって奔流を降り浴びせに掛かる。吸血鬼は水流に弱い。
魔開「オープンユニバース」
魔理沙が水の届かない距離まで後退し、木々の上へと飛び出した。魔理沙を中心に鉄球の嵐が放たれる。能面の外套達が鉄球の下にぴったりくっつき、集中豪雨をやり過ごした。その内一人がにとりに飛びかかる。
「何?」
三つ編みの河童がにとりと火男の間に割って入り、グレネードランチャーを構えた。円筒形の弾が打ち出され、回転しながらガスを噴き出し、辺りに刺激臭が撒き散らされる。対吸血鬼用に開発した試作品のガーリック・ガス弾頭である。
火男の暴漢はやや面食らった様子だったが、そのまま弾頭を避けると鉄球を生み出しぶん投げた。三つ編みの河童は腹にまともに喰らい、後ろの林へと飛ばされていく。そのまま火男はにとりに飛びかかるが、おかっぱ頭が水妖エネルギー銃で迎撃した。火男は一瞬うずくまり、更に怪士と般若が鉄球を盾にしてそれぞれ別の河童に飛びかかる。小面は後ろで待機している。河童たちは後退し爆煙をあげる装甲車の影に隠れ、リュックから繰り出した鉄球で暴漢達の使い魔を相殺した。破片が鉄塊となって飛び散り、暴漢と河童は互いに距離をとった。
「にんにくが効かない?」
他は皆外套を羽織っているのに、何故魔理沙だけ顔を出している? 何故分身しない?
「罠だ!」
にとりはおかっぱ頭の河童を抱えて道路へと飛び退り、装甲車から溢れ出る液体水妖エネルギーを浴びて補給した。
「気をつけろ! こいつら魔理沙以外全員人間だ!」
魔理沙は高笑いした。二回目の鉄球嵐を繰り出し、水妖エネルギー弾を弾きながら道路に降らせる。爆煙を河童たちが盾にしていた装甲車が今度こそ粉砕された。ヘアピンとポニーテールは更に林の中へと後退。三つ編みを木の影に隠した。煙が更に酷くなる。
「かかったかかった。私が羽根を生やしてさえいれば、仮面の奴も全員が吸血鬼だと勘違いする! しかし流石にここまで早く見抜かれるとは思わなかったな」
小面の暴漢が宙に浮き、外套の中から黄色いレーザーを幾度と無く撃ち出した。他三人の暴漢は後ろに下がり、林の中へと隠れた。レーザーがにとりとおかっぱを避けて林の中へと突き進む。三つ編みを手当していたヘアピンとポニーテールは木の影に隠れるが、掠るかどうかのところでレーザーが曲がった。ポニーテールはすんでのところで伏せたが、ヘアピンの河童は首筋に喰らい、密集する枝と葉の中に吹き飛ばされた。まだ緑色の葉が多数落ちてくる。
「こいつのレーザー、軌道が読めない!」ポニーテールが言った。
「やったあ、やりましたよお。さすが毘沙門天様さまです」眼鏡とショートカットの女性が言った。今は小面の面を着けている。
レーザーの射出が終わり、小面の女性は林の中へ退いてマントラを唱え、再び法力を溜め始めた。
「おん、あぼきゃ、べいろしゃのう、まかぼだら……」
林から三人の暴漢が星型弾の幕を形成しながら飛び出す。にとりとおかっぱ頭はリュックから空中魚雷を生み出して迎え撃ち、暴漢達が削れていく鉄球を盾にして二人を囲んだ。
『クリミナルギア』
にとりとおかっぱ頭は背中合わせになり、リュックから伸びるアームで一対の歯車を振り回す。怪士の暴漢がそれを抜けて手刀を繰り出す。
『さよならラバーリング』
河童二人はにとりが道路に射出したアンカーを巻き上げ包囲を脱出した。手刀が歯車を貫いて二人の頭上を掠め、にとりにしがみつくおかっぱ頭の帽子が裂けた。
「ねえ、ホントにこいつら人間なの!? やっぱり吸血鬼なんじゃないの?」おかっぱ頭が言った。
「そいつらには以前白蓮から習った肉体強化を覚えさせた。この一週間みっちり鍛えたんだ、人間のままでもこの間の連中とはモノが違うぜ!」
再び道路に魔法陣が現れた。にとりは光の柱を身を捩って避けるが、おかっぱ頭は腰を酷く打った。落馬して道路に擦ったような痺れが広がる。
「それ、それ、それ!」
一本、二本、三本。慌てふためく二人の上から光の柱を抜けた暴漢達が迫る。
『菊一文字コンプレッサー』
突然の上からの水流を受け、暴漢達は地面へと叩き伏せられた。ポニーテールの手当を受けて持ち直した三つ編みが水流放出ユニットを投げつけたのである。
『ミズバク大回転』
立ち上がろうとする暴漢達めがけ、すかさずおかっぱ頭が巨大な赤い水風船をリュックから取り出し、ぶん回して叩きつけた。破裂して辺りに水が飛散する。暴漢達は水を吐き、星型弾を細かくまき散らしながら地面を蹴って再び上空に退避。
『空中ブラスター』
そこを目掛けてポニーテールが無反動砲からボトルを五発射出し、被弾した暴漢二人が装甲車の残骸の爆煙の中に落ちていく。にとりとおかっぱ頭は星型弾を避ける。その時林から出てきた小童が再び黄の法力レーザーを乱射し始めた。合わせて三回目の鉄球嵐が道路を抉る。道路を通り過ぎた鉄球が林へ突っ込み、木々を折ってなぎ倒した。三つ編みとポニーテールは倒れてくる木を避け、倒れた木から落ちてきたヘアピンの河童を受け止めた。
「ああもう、いい加減にしてくれよ!」
水符「河童のフラッシュフラッド」
道路に沿って断層が走り、幅広の鉄砲水が発生した。にとりとおかっぱ頭を囲んでいた弾が吹き飛び、二人は流れに乗って魔理沙のいる方の林の中へと潜り込む。小童の面が反応する間もなくうねりに巻き込まれて流され、後方の林に引っかかって後頭部をぶつけた。魔理沙は眼下の流水を避けて横合いに逃げる。
妖怪戦艦「三平ファイター」
にとりとおかっぱ頭がジェットパックを背に林の中から飛び出し、四回目の鉄球嵐を抜けてそれぞれ魔理沙の両足と右肩に体当たりを食らわせた。ドリルで抉られて魔理沙が錐揉み回転、傷を抑えながら必死に箒にしがみつく。魔理沙が体勢を建て直している間に二人は慣性を制御し、次なる攻撃に移るべく魔理沙を挟んで旋回しだした。
「やるな!」
恋符「ノンディレクショナルレーザー」
二人は水弾を浴びせるが、魔理沙を中心に展開された六芒星の使い魔がそれを阻んで削れる。魔理沙は星型弾のワインダーを撃ちだし、使い魔から出づる五色のレーザーが辺りをなぎ払いにかかる。
『フォースシールド』
二人はレーザーを駐車禁止の標識を構えて防いだ。同時に体表を水妖エネルギーが青く包み、星型弾の衝撃への耐性を高める。にとりが標識の影から銃を連射したが、今度は使い魔に当たっても削れなかった。
咳をしたにとりの肩が落ち、銃を取り落とした。唇と喉がひび割れるように乾き、呼吸が荒い。もう後がない。標識の隙間を縫って星型弾がにとりの顔に当たり、ガスマスクが破壊された。
「水の少ない場所で無理やり洪水を起こしてるんだものなあ。そりゃあキツいだろ。いつまで持つかな?」
おかっぱ頭はジェットパックを噴射し、レーザーを道なりによけてにとりの横についた。リュックの側面からペットボトルを二本取り外し、乾燥した手でにとりに差し出す。
「私の水妖エネルギー、全部あげる」にとりが応える間もなく、おかっぱ頭はボトルキャップを外してにとりの口に突っ込んだ。おかっぱ頭が標識で星型弾とレーザーを防ぐ。にとりの喉を通って身体に濃縮されたエネルギーと潤いが補充されていく。一気にもう一本飲み干した所で、にとりがカードを宣誓した。
漂溺「光り輝く水底のトラウマ」
紅いドームの縁が割れ、辺り一面から間欠泉が噴出しだした。三つ編み、ヘアピン、ポニーテールは水の気配を察知して伏せたが、三人の暴漢が避けきれずに打ち上げられる。水塊がドームの中心へと弧を描いて暴漢、河童たち、魔理沙の高さまで届き、みるみるうちに全てを飲み込んだ。水底から折れた木々と葉っぱが巻きあげられ、装甲車と輸送車から上がる黒煙が消えた。紅い霧が液体に溶けて失われ、水のドームに昼の光が差し込む。魔理沙が見上げる球状の水面に太陽光線が歪んで煌めく。紫外線が水面を透過、水底から反射して両面から魔理沙の肌を焼いていく。にとりとおかっぱ頭は力尽き、渦巻く水に流されるまま漂い始めた。
眼鏡の女性が後頭部の痛みから復活して泳ぎだした。小面の面は外れている。彼女は回転する瓦礫と水流を抜け、強化された両手で河童二人の襟首を引っ掴む。上部で羽と腕をだらんとさげて漂う魔理沙を肩に引っ掛け、タイミングを測って水面から抜けだした。
「大丈夫でしたか? 霧雨のお嬢さん」二人分のリュックを含む、三人分の少女の体重に耐えながら眼鏡の女性が言った。水の染みこんだ外套が重く、裾と袖から桶をひっくり返したように水を垂らしている。
「ああ、何とか。やっぱり最後に頼れるのは人間だな」女性の背中にしがみつきながら魔理沙が言った。お気に入りの帽子と箒は流されてしまった。もう見つからないだろう。
「助けに行きます?」ドームの中で漂う仲間を目で探す。
「三人犠牲にして河童二人盗めるなら安いもんだぜ。おまけに一人はマミゾウの事業の幹部のにとりだ。吐かせれば十分な情報が得られる。それと、にとりを今すぐここから引き離せばこのドームも解ける。酸素不足が心配だが、多分死なんだろう」
「分かりました。これから集会所の一つに戻りましょう」
「早く逃げよう。太陽の光が痛いぜ」
水のドームから抜け出た河童達の逃げる姿が林の中に見える。しかし眼鏡の女性は決めた通り無視して反対側の林の中を抜けることにした。五十メートルほど離れた所で水のドームが潰れ、轟音と共に木々の間を縫ってあらゆるものを押し流しだした。眼鏡の女性は一時的に林の上へと抜け、太陽光に晒された魔理沙が呻いた。水流の上で力が入らない。眼下に水が無くなった所で魔理沙が持ち直したので、にとりの方を手渡して引きずっていった。
にとりが気がつくと、手足を後ろ手に縛られて横向きに地面に転がされていた。砂利が服を通して肌に食い込んで痛い。右に見えるごつごつした岩の天井はそれほど高くなく、おおよそにとりの背丈の二倍といったところか。にとりは洞窟の中でも明るい方へと視線を移した。光の具合を見るに横穴の出口へと続いていそうだが、紅い霧で見えない。ここはどこだろう。微かに何らかの虫の羽音が聞こえる。
明るい方とは反対側から、砂利を踏み鳴らす音が聞こえ出した。にとりが上に視線を移すと、洞窟の奥のほうから魔法光ランタンを持った魔理沙が現れた。箒は持っておらず、帽子は脱げている。
「よう、元気か? 始める前にいくつか質問に答えてやってもいいぜ」
「ほどけよ」
「無理だな」
「私の他に捕まってる奴はいるか?」
「答える必要はないな。というより答えられない」
「ここはお前たちの本拠地なのか?」
「同上」
「紅い霧を張っているのは、私が何らかの通信手段を残しているかもしれない事への警戒?」
「まあそう考えることもできるな」
「どうして魔理沙が私を捕らえなきゃならない?」
魔理沙は自分の身に起こったことを蚊の不利にならない範囲で答えた。
「二重思考っていうのかな? 蚊のために働く自分と客観的な自分が完全に並列してるんだ」
「完全に操られてる、洗脳されてるって訳か? 吸血ゾンビみたいに?」
「いや、それは正確じゃない。操られてるといっても自律的に考える事はできるんだ。非人間的な何かになるわけじゃないぜ。冗談だって言えるし、他人に親切にしてやる事も出来る。二つのルール、『仲間を増やせ』『蚊に役に立つをしろ』以外に従う必要はないんだ。多分蚊にはそれ以上に複雑な命令はできないんだろうな。だったら各自に何が蚊にとって良いのか考えさせてアウトソーシングしちまった方が都合がいい」
「人助けをするのと同じ感覚で工場を壊せるんなら、それこそ狂人じゃないかい」
「否定はしないぜ。でも、道端で人助けをしたその日に店の金をちょろまかしたりする、なんて矛盾した事は操られるまでもなくみんなやってるこった。だったらみんな狂人だ。そうだろ?」
「ふん。これから私をどうするつもりだ?」
「お前からできる限り、こっちに有効な情報を引き出すつもりだ。何しろお前はマミゾウが真っ先に誘ったんだ、色々聞き出せるに違いない」
「やってみなよ。無理だろうがね」
「そういうと思ったぜ。何もただでお前から情報を引き出せるとは思ってない」
魔理沙が左の指を弾くと、洞窟の奥の方から何かが蠢く気配がした。背景でしていた羽音が大きくなる。耳障りな波長。
「友達を紹介するぜ。吸血蚊だ」
沼の底から這い出るように、洞窟の奥の闇から蚊が群を為して飛んできた。魔理沙の横に集まってきて、上下に運動して蚊柱を形成した。群れの中心から羽が擦れて、声が聞こえてくる。
「魔理沙」「こいつ」「誰?」一匹一匹が別々に声を出しているかのようだ。
「よく来てくれた。こいつは河童という種族の一人で、妖怪の山で蚊取り線香を作ってるんだ。色々聞いてみたい」
「蚊取り線香」「あると」「私達」「死ぬ?」「増えない?」
「そうだな。死にはしないが、蚊取り線香があると人里に行けないからな。人間から血が吸えない」
「おい、こいつ喋れるの?」にとりが言った。両目を見開いている。
「ああ。見てくれよ。こいつ、倍々ゲームみたいにどんどん頭が良くなっていくんだ。今なら足し算が出来るぜ。おーい、二十七たす十五は?」
「二十七たす」「十五?」「……」「繰り上がり」「四十二」
「よしよし、正解だぜ。ヤマビコより頭がいいな」
「ありがとう」「魔理沙」
「信じられない……蚊には神経節があるばかりで脳と言えるものはないはず。擬似的に並列つなぎにしてるのか? 種族間での知能の共有? あるいは単に妖怪化しつつある? こんなに早く? 理屈が分からないよ」
「図書館にあった外の世界の本で読んだことがある。人間の脳には三〇〇億個の神経細胞があって、サブの細胞がその九倍あるらしいぜ。蚊全体で神経細胞が人間と同じ数ぐらいになれば、蚊が全体で意志を持つということもありうるんじゃないか? こころやリグルという前例もいることだしな。今全部で何匹いるんだろうな。最初は一匹だとして、百かける百を繰り返して……一億? 百億? 一兆? 一兆なら人間の脳細胞の数を超えるな」
「魔理沙」「それより」蚊が口を挟んだ。
「おおそうだ、悪い悪い」
「河童」「私達を」「殺す」「血がない」「お腹すく」
「そうだ。だから知ってる限りのことを絞り出さないとな」
「じゃあ」「お願い」
「おい、何をするんだよ」
「肉体に苦痛を与えるのは、妖怪にはあんまり効かん。単純に傷めつけるのは能がない」
「脳はあるようだけど、お前のは腐ってるね」
「ところで、そこにボウフラのわいた水たまりがあるよな」
にとりは横倒しのまま前の方を見た。にとりの数メートル先にある、壁の側の水たまり。その表面には黒い棒状の蟲が密集し、蠢きで水面が波立っている。
「ひっ、おい、やめろ」
「止めて欲しかったら、工場の間取りからスケジュールまできっちり教えてもらうぜ」
「こんちくしょうめ」
にとりは縛られたまま、浅い水たまりにうつぶせに転がされた。にとりは必死に顔を上げたが、顎と水底で挟んでボウフラを幾つか潰した。一定のリズムで身体を振るボウフラの髭がにとりの腿、頬、唇を舐める。不快な感触。にとりは必死で口を閉じて水を飲み込まないようにした。
「水が嫌いにならないといいなあ。でもそうなったらなったで山童になればいいよな」
魔理沙はにとりを仰向けに転がした。今度は首筋と手首にボウフラの感触が移った。
「じゃあ、頼むぜ」
魔理沙が言うと、蚊が一匹ずつにとりへと近づいていった。にとりは転がって暴れるが、顔、首筋、腿の柔らかい部分に止まり、数本の口吻で血管を探って吸いだした。
「脱がせたほうが刺せる面積が増えるかな?」
「抜かせ。その瞬間に暴れまくってやるよ」にとりは口を開いたが、蚊が入ってくれる事を恐れてすぐに堅く閉じた。
「だよなあ」
魔理沙は懐から鋏を取り出し、暴れるにとりを押さえつけながらブラウスと上着の袖や裾、スカートにはさみを入れた。二の腕、腹、腿が露出する。再び蚊の塊の中から十数匹がにとりの方にやってきて、新たに様々な場所に止まって血を吸い出す。体中が腫れ、穴ぼこが開いたようだ。にとりは全身を襲う痒みに身を捩った。掻き毟りたくても掻くことは出来ないのだ。にとりはあらゆる痒い場所を地面を覆う砂利に必死に擦りつけた。血が出ようが構うものか。
魔理沙はそれをただ眺めていた。
にとりが閉じ込められているのとは別の、とある洞窟。おかっぱ頭の河童はにとりと同様に後ろ手に縛られ、足も膝と太もものあたりで拘束されて水たまりに転がされていた。幸いな事にボウフラはいない。最初に自覚したのは、割れるような喉の渇きだった。先ほど水妖エネルギーをにとりに渡して使い切ったためだ。脱水症状で身体に力が入らず、頭痛がする。
洞窟の入口まで続く紅い霧の中から、帽子を被った老紳士と十四ほどの長髪の少年が現れた。
「仲間から聞いたよ。随分とこっちを手こずらせたそうじゃないか」孫が言った。
「ワシらの仲間を三人もやっつけたそうじゃな。やるねえ」老紳士が言った。
「顔を見せていいの?」おかっぱ頭が言った。
「どうせワシらは顔が割れておる。だからこうして里に住まずに色んな所に潜んでおるのだね」
「ここは一体どこです……うっ」
「どうした?」
「少し、頭が痛くて」
老人は足元に置いてある袋から丸い水筒を取り出した。
「水じゃ。ここに来るまでにのどが渇いたろう。お飲みなさい」
老紳士はおかっぱ頭の側に屈んで蓋に水を注ぎ、おかっぱ頭の口に近づけた。願ってもない申し出だったが、おかっぱ頭は躊躇した。
「毒が心配かね? なら、ワシが飲んでみせよう」
蓋を口にやり、中身を一気に飲み干した。もう一度注いで、口を付けていない方をおかっぱ頭に差し出す。
「口を付けていない方に毒が塗ってあるかも」おかっぱ頭は言った。
「確かにその可能性はあるな。だがこればかりは信じてもらうしか無いのう」
水。求めていた水。頭痛と天秤にかける。おかっぱ頭は残っていない唾を飲み込み、頷いた。老紳士が蓋を唇に当て、おかっぱ頭はこくこくと飲みだした。舌に触れると少し甘みと塩気があり、脱水症状を治すには理想的な味だった。河童にとって命とも言える水分が、食道を通っておかっぱ頭の身体を潤していく。
水筒を空にしたあたりで、老紳士は水筒をもう一つ取り出した。
「もういいです、ありがとうございます」おかっぱ頭は言った。
「いや、もう少し飲んだほうがいい。頭痛がするぐらい渇いてるんだったらなおさらじゃ」
老紳士は再びおかっぱ頭に蓋を近づけ、更なる水を流し込み始めた。おかっぱ頭は顔をしかめたが、二本目の水筒が空になるまでなんとか飲みきった。美味しいことは美味しかったが、胃の中で水がたぷたぷと揺れ動いて違和感がある。
「うっぷ、今度こそもう入りません。ありがとうございます」
「どういたしまして。これでもう大丈夫だろうね」老紳士は微笑んだ。
「さて、本題に入ろうかな」少年が言った。おかっぱ頭は警戒した。
「俺と爺さんは蚊取り線香の工場の情報を聞きに来たんだ。場所とか、間取りとか、スケジュールとか色々な」
「それは……教えられないわ。水を飲ませてくれたのには感謝してるけど、教えたら貴方達は工場を壊すんでしょう?」
「そうじゃ」
「蚊には私の友達もいっぱい酷い目にあっているわ。人間だって無理やり暴れさせられてるんじゃない。貴方達はそれで平気なの?」
「どうしても教えられないってわけかのう」老紳士が言った。
「ええ」
「へえ。僕達がただ水を飲ませたのかと思ってるのかい?」
おかっぱ頭は二人を睨みつけた。
「やっぱり毒が?」
「いや、毒が入ってないのは本当じゃよ。ほれ」
老紳士は二本目の水筒に口をつけ、僅かに残っていた分を飲み干した。
「じゃあ、一体何を」
「ちょっとリラックスしてもらうためじゃ」
「簡単に言うと、お仕置きだね。残念だけど」
老紳士はおかっぱ頭のレインブーツを脱がせにかかり、靴下も脱がして素足を露出させた。
「え、ちょっと何を」
老紳士はスーツの懐から羽を一枚取り出した。黒い毛の一本一本が細く、触るといかにも気持ち良さそうだ。
「天狗の羽じゃよ。ちょーっと大人しくしておいてもらえるかな?」
老紳士は人を安心させるような穏やかな笑顔で、羽の先を使って河童の右足の土踏まずから指の間まで丁寧に撫で上げた。
「ほれ、ほれ!」
「あは、やめてやめて」おかっぱ頭の笑い声が洞窟に反響する。
おかっぱ頭は唇を噛んで抵抗しようとしたが、控えていた少年に水筒を包んでいた布を突っ込まれ、もう一枚の布で頭を横にぐるりと巻かれた。猿ぐつわである。外に声が漏れると困る。
「くすぐりというのはな、昔から立派なお仕置きの方法なんじゃよ。身体を傷つけたり死に追いやる危険は少ないが、される方は息もままならなくてただただ苦しい」
「狂っちゃう前に早めに吐いたほうが身のためだよ」
「あめっ、あめっ、へぇえ」顎が外れそうな勢いだ。
老紳士はいったんくすぐるのを止め、おかっぱ頭のブラウスと上着の裾をめくり上げた。少し脂肪のついた腹部が露出し、小休止にぜえはあと横隔膜が上下している。今度は少年も河童の側に屈み込み、自分の分の羽を使って脇腹を八の字に撫でる。老紳士は引き続き足の裏をくすぐり始めた。
「いひーっ! いひーっ!」おかっぱ頭はあらん限りの力で布越しに歯を食いしばり、眼が潤んでいる。首を振り、身を捩り、膝を伸縮させて宙を蹴る。老紳士の首を折らんばかりの勢いだ。
「次は袖に鋏を入れるよ。服と腋を大事にしたかったらさっさと吐くんだ、さあ!」 少年は腹立たしそうに言った。 おかっぱ頭が激しく転がって身体の向きを変えるので、くすぐるべき場所が安定しないのである。
「白状したくなったら頭を地面に三回打ち付けるんじゃ。いつでも歓迎じゃぞ」
少年は馬乗りになっておかっぱ頭を押さえつけた。
「無抵抗の女の子に何をやっとるんじゃろうなあ、ワシら」
「蚊が優先だよ、爺さん。体面よりもね」
十分ほどして、にとりは寒気を感じだした。三十分ほどもすると、割れるような痛みが頭蓋の内側を小突きまわす。脈拍の上昇、呼吸数の増加。身体や意識から様々なものが螺旋を描いて落ちていく。
「辛かったら妖怪向けの解熱剤があるぜ。仲間が人里の診療所からかっぱらってきた」
「その手には乗らないよ、どうせ薬が欲しいなら情報を渡せっていうんだろう」
「当たりだ。まあ、死なない程度には苦しんでもらわないとな」
「いつかぎったんぎったんにしてやるよ」
妖怪特有の回復力により、蚊によってにとりの体中の肌に開けられた穴は治りつつある。しかし熱病による倦怠感、頭痛、寂寥感はにとりの精神をゆっくりと確実に蝕みつつあった。今までに作ってきた発明品、天狗と対局した将棋の結果、おかっぱ頭を始め付き合いのあった河童たちの顔、とりとめのない記憶がにとりの脳内をぐるぐると回る。
もう一方の洞窟。壁に反響して、河童の少女の呻く声が響き渡る。
おかっぱ頭は水分過多と二時間のくすぐりによる酸欠、全身のあらゆる筋肉が緊張と弛緩を繰り返して限界が近づきつつあった。袖は切られて腋、脇腹、足の裏を同時にくすぐられていた。必死に他のことを考えようとするが、身体の弱いところの表面を撫ぜる羽の動きに意識を引き戻される。
「さあ、そろそろ音を上げるんじゃないかな?」少年が言った。
「うぅっ、むぐっ、むぅ……うっ」
手を洗う動きをするハエのように、おかっぱ頭は両足の太ももを激しく擦り合わせた。限界だ。老紳士と少年は更に羽の前後運動のテンポを速くする。
「おえうっ! おえうっ! おうういっ! おうがあんえひはいっ! あやくおひっほいいはへへっ!」
「すまんが、何をいっているのかさっぱり分からん」
「おうあめっ! おうあめっ! ううぅ─────っ!」
おかっぱ頭は決壊した。全身を痙攣させてくの字に曲げ、誇り、挟持、自制心といったものが心身から流れ出ていく。終わった。私は終わった。もう何もかもどうでもいい。おかっぱ頭は少年と老紳士の羽の動きにも反応しなくなり、ぐったりと絶望の水たまりにその身を横たえた。
「降参かね?」老紳士は羽を懐にしまって言った。
おかっぱ頭は力なく頷き、うつ伏せになって顎で地面を三回叩いた。
にとりがいる方の洞窟。魔理沙が地べたに座っている前で、にとりは熱と頭痛、激しい痒みにのたうち回っていた。
「頑張るなあ。もう二時間だぜ」
「吐くもんかよ。せっかくここまで来たのにマミゾウに首にされちまう」
「金の心配より命を大事にした方がいいぜ」
「お前が言うんかい」
問答を繰り返していると、蚊の塊が魔理沙の方に寄ってきた。魔理沙が耳を寄せると、羽を擦るようなか細い声で魔理沙に囁きかける。
「魔理沙」「おかっぱ」「吐いた」「妖怪の山」「湖」「近く」「川」「周り」などといった断片的な言葉がにとりの耳に届き、血の気が引いた。魔理沙はにとりをボウフラ水の中から引き上げてやった。
「尋問は終わりだ。お前のお友達が白状した。お前は一筋縄じゃいかないとは分かってたが、相棒の方はそうじゃなかったみたいだな」
「へえ、あいつは同期の中では口が堅い方だったんだがねえ。残念だよ」
「二時間も脇とか足の裏をくすぐられ続けて窒息寸前だったんだろうからな。誰でも音を上げる」
「私はボウフラと蚊の熱病のコンボだったのに不公平じゃないかね。嫌悪感が違いすぎる」
「交換したらしたで同じ文句を言うに違いないぜ」
魔理沙は錠剤を二錠取り出し、水筒の蓋に水を汲んでにとりにさしだした。
「殺すのか?」
「いや、殺さない。これは解熱剤だ。これでいったん熱を下げてくれ」
「もしかしたら私が奥の手を隠し持ってて、魔理沙が出てく前にしこたま暴れるかもしれないよ?」
「他にも仲間が捕まっているかもしれない状況でそれはしないだろうよ」
「それにしたって何で私を生かすのさ?」
「こちらの人員にも限りがあるし、私だけじゃなくて作戦の要になっている奴は何人かいる。そういった奴らが万一捕まった場合、こちらにも捕虜がいれば人質交換に使える。なんたってお前は幹部だからな。それに……」
「それに?」
「針金は曲げ伸ばしを繰り返したほうが折れやすいだろ?」
「馬鹿野郎」にとりは顔をしかめた。
もう一方の洞窟。
「もう、お嫁に行けない……」
先程より面積を増やした水たまりの上で、おかっぱ頭の河童は屈辱に打ち震えてぐすぐすと泣いていた。せめてもの情けと身体には毛布が被せられている。
「二時間も耐えるとは、河童の根性も侮れないねえ。ワシなら十分ぐらいで落ちそうだよ」
「最低! 最低よ!」
「ワシは里じゃ紳士で通ってるんじゃがなあ。何をやっとるんじゃろうワシ」老紳士は手のひらで目を抑えた。
「別の意味で紳士だよね」少年が言った。
「だまらっしゃい」
「もう隠している情報はないの?」
「知らない、知らないわよ。里の方の工場が襲われて以来、私達の事業では配置転換があったり情報の扱いのポリシーが変わったりしたの。マミゾウさんか山の神様ならもっと知ってるかもしれないけど、末端の私達は全部は知らない。みんなそれで納得してる。私達河童はあくまで技術者だもの」毛布の端を噛みながらおかっぱ頭は言った。
「どう思う、爺さん?」
「丹念に心を折った後だ、嘘を吐いているようには見えんな。流石に化け狸や山の神を引っ張り出すのは難しいと思うのう。それでも蚊取り線香工場の情報を聞き出すという、最低限の目標は達成できたわけじゃ。それ以上欲を張っても身にならん」
「あんまり気持ちのいいもんじゃないしね」
「何よ、ほっとしたような顔して。拷問してたのはそっちのくせに。何やってるのよ……もう嫌」
にとりがいる方の洞窟。紅い霧は相変わらず中に立ち込めている。にとりはそれを少しずつ吸い込み、咳き込んだ。一時的にせよ熱は下がったが、普段から研ぎ澄ましている思考のスピードが鈍っていくのが辛かった。
「いい加減帰しておくれよ」にとりが言った。
「駄目だ」
「必要な情報は取ったんだろ? 目隠ししてどっかに運べば分かりゃしないさ」
「にとり、私達が事を有利に運べているのは何故だと思う?」魔理沙が言った。
「ん? 吸血鬼の力? 魔理沙の光の魔法?」
「それも大いに働いてはいるが、本質的なことじゃない」
「じゃあなんだい。もったいぶらんでいいじゃないか」
「情報だ。徹底的にこちらの情報を隠した上で、向こうの情報を集める。それを土台にして奇襲に奇襲を重ねてるからだ。不意打ちはルール違反だが、そんなことは知ったこっちゃあない。蚊にとってルールを守るメリットがあれば守るし、そうでないなら守らなくていいわけだ。守る、守らない、どっちも選べる」
「『ルールのない世界では弾幕はナンセンスである』というのは、あんたが自分の本に書いたことじゃなかったかい?」
「おお、読んでいてくれたのか。しかも覚えていてくれていただなんて嬉しいぜ」
「ふん」
「だが私が寝返ったという情報から、皆私への対策に既に動き出してる。お前がトラックに河童を五人付けたのも私達が集団で襲ってくることへの対策だろ? 仕掛ければ仕掛ける回数が多くなるほどこっちの情報が伝わって、私達にどんどん不利になっていくんだ」
「じゃあ、私が他の皆を逃しに掛かったのは無駄じゃなかったって訳か?」
「そういうことになるな。実際お前のお陰で河童の何人かには逃げられちまったよ」
「ざまあないね」
「だったらこっちが出来るのは速攻に次ぐ速攻、そして秘密は絶対保全。すまんが帰すわけにはいかん」
「やっぱり殺すのか?」
「まさか。さっきも言っただろ。それに、せっかく蚊の餌になるかもしれないのに、わざわざ捨てることはないよなあ」
「ぞっとしないね」
「魔理沙」「これから」「どうする?」蚊が口を挟んだ。
「こいつは別のやつに見張らせよう。私はいったんおかっぱ頭の所に行く」
「おい、私の相棒はどうなったよ」にとりが言った。
「大丈夫」「生きてる」蚊が答えた。
「生かしてあると思うぜ。お前と同じ理由でな。それに物理的な傷はついてないと思うぜ。トラウマは植えつけられたかもしれないがな」
「このまま永遠に私達を閉じ込めておくのか? いつまでこんなことを続けるつもりだい? 私の仲間がいつか絶対に見つけ出すぞ」
「なあに、私もいつまでも隠し通して置けるとは思ってない。決着が着くまでそんなに時間は掛からんはずだ。その日まで大人しくしておいてくれればいいんだよ。じゃあな」
「おい待て!」
「何だ?」
「魔理沙じゃない、蚊の方だ。お前たちは何のためにこんな事をやってるんだ? 妖怪や人間を支配する? 幻想郷を乗っ取る?」
にとりの言葉に答えて、にとりの耳の側に群れが集まってくる。耳障りな羽音。にとりの目には黒い塊の向こう側に何か大いなる存在が見えるような気がした。
「支配?」「何それ」「興味ない」「私達は」「ただ生きたい」「でも君たちは」「私達を殺す」「だったら無理にでも」「言うことを聞かせるしか無い」
にとりは蚊が少しずつ、複雑な構文を話せるようになっている事に気がついた。にとりの血からまた新たな妖力を得たのだろうか。
「じゃあ、大した理由もなくお前たちはこんな大掛かりな事をやっているっていうのかよ?」
「私達にとっては」「大した理由だとも」「そのためには」「君たちが邪魔なだけ」
「もっとこう、何か特別な理由があると思ってたんだけどな」
「生きるためには」「食べること」「増えること」「それ以上は必要ないよ」
魔理沙はそれを聞いてニヤニヤと笑った。魔理沙は蝙蝠と化し、洞窟の入口の方の紅い霧の中へと消えていった。にとりはそれを見送ってから、泣いた。入口の方から代わりの見張り番がやってきた。
(後編に続く)
まあとにかく次に行きます。
本編についての感想は後編に回すとして
ちょっとここのところを詳しく!
あとは、長い対話文になった際のもっさり感がもったいないと思いました。
対話中の動きが感じられないというか、対話を受けての体の変化が感じられないというか。ト書き系SSにありがちな会話だけで終わらせてしまう感が惜しいなぁ、と。これは個人的な感覚かもしれませんけども。
自然な会話、自然な流れ、無駄のない文章って難しいですよね。
しかし、発想がかなーり斬新です。五分間吸血鬼というケレン味ある設定から、蚊と随伴する社会問題との戦いを軸に、ここまで話を盛り付けるとは、すばらしい。とにかく発想力がずば抜けています。早苗さんと神奈子に直接の血縁はあるのでしょうか…?
魔理沙の人間離れした合理性がヤバイです。まさに、獅子身中の虫の中の致死ウィルス。
個人的には、魔理沙のアナーキーさと、薬学の専門家っぷりが好きかも。
原作設定活かしてるなぁ。
あれらが慮外の力を持って神出鬼没で暴れる絵面というのは確かにコワイ!
いきなり過去話が始まったりと、ちょっと場面転換がわかりにくいところがありました。