ちょっと色々あって家を破壊されたので、今は地霊殿に居候している。毎朝猫とかこいしちゃんとかに乗っかられて起きる賑やかな生活は、まあまあ楽しくもあるがいかんせん疲れてしまう。私は仕事柄、橋でじっとしていることが多かったので、体力がないのだ。
そうだ、橋に行こう。橋は私の憩いの場だ。橋に行くと救われたような気分になる。橋はいい。独りで静かで豊かで……と考えながら家を出ようとしたところで、後ろから服の裾を引っ張られた。
さとりだった。
なんだ。邪魔すんのか。
「あの」
見上げる彼女は、真面目な顔だ。
ヘアバンドの飾りが、今日はハートじゃなくて花飾りだった。たぶん梅の花。
けっこうかわいいのでほっこりした。
「かっかわいくは、ないですけど」
「そうか」
勝手に心を読んで勝手に照れるのが、またかわいいから困る。思い起こすと、こいつがかわいいから、私はここに住む気を起こしたんだったような気もする。
ぐへへ、かわいい女の子はなでなでしちゃうぞ~、と手を伸ばしたら、手首を掴まれた。
「ちょっとお話があります」
そう言う彼女に手首をくいくい引っ張られ、私は客間に連れて行かれた。
痛い。
客間では、ガラスのテーブルを挟んで皮のソファが向かい合っている。壁にはいくつかの西洋絵画が飾られているが、部屋の照明が薄暗くてあんまりよく見えない。
なぜかやたらとムーディだ。マティーニを作りたくなる。
「今度やりましょう。で、ですねパルスィ」
ソファに腰かけ、バー・スプーンでかき混ぜる仕草をしてみる。だがさとりが真面目な顔をしたので、やめた。
「何かな」
「こいしのお目付け役になってほしいのですよ」
カタン、とスプーンを落とした。
つもりになった。
「いうなればセバスチャンです」
誰だそいつは。
何かひとつぐらい家の仕事をするのは、やぶさかではなかった。私はほとんどタダで家に置かせてもらっている身だから、むしろそのぐらいしないと罰が当たるというもの。
しかし、この仕事は無理難題だ。こいしちゃんは、ここにはいない。この家にも、私の橋にもいない。すぐに無意識の世界へ消えてしまうのだ。いないやつのお目付け役になるのは難しい。
「大丈夫ですよ、パルスィならできます」
「できません」
「できますって。だって、……そうだ、ちょっと手を伸ばしてみてください。適当に」
「あ? こう?」
言われたとおり、左手を横に伸ばしてみる。すると、薬指と小指がこいしちゃんの鼻の穴に刺さった。
「ふが」
彼女は私の横で呻いていた。あまりにも可哀想な状況だったのですぐさま抜いてやる。それを見てさとりは言った。
「やはり貴方には、こいしを見つける才能がある」
ドヤ顔だった。
「……グルでしょ、あんたら」
「どうでしょうね。こいしに聞いてみたらいいです」
怪しい。
「わたし? ん、えっと、何の話をしてるの?」
何も知りません、といった感じで、こいしちゃんは小首を傾げた。ふわふわの髪先が揺れる。オッケー、かわいいから許す。もう細かいことはいいや。
「私がこいしちゃんのお世話係になるって話よ」
「介護はまだいらないと思う」
彼女は真面目な顔で答えた。うん、私もその通りだと思う。
しかしさとりの考えは違った。
「いります。毎晩当てもなくふらふら出歩いて、危なっかしい。今に帰ってこられなくなりますよ」
心配症だった。
こいつは妹のことになるとすぐこれである。
「そんな、徘徊老人みたいに言わないで」
「貴方は――――」
たぶん、「似たようなものでしょう」なんてことを言いかけたのだろう。だがさすがのさとりも口をつぐんだ。
そして、彼女は私のほうを一瞥して、それからこいしへ急に笑いかけた。
「――――まーこいしが嫌だというなら仕方ないですね。貴方も女の子ですから、いくらパルスィ相手だって一日中くっついてずっと一緒に仲よく傍にいるなんてことできませんよね」
わざとらしい喋り方だった。なんだこいつと思ったが、こいしちゃんには引っかかるところがあったらしい。
「ずっと一緒? ……あっ」
何かを察して、目を輝かせた。
姉は、例のドヤ顔になった。
「そう、ずっと一緒です。お目付け役だもの」
「ぱるさんと?」
「そうですよ」
「健やかなるときも、病めるときも?」
「もちろんです」
「お風呂も、トイレも?」
「こいしがひとつ命令すれば、どこへでも」
「どこでも、何でもしてくれるの?」
「ええ、お目付け役ですからね」
「……ごくり」
あっこれ、なんかマズいパターンだ。
ここは一言、物申さねば。
「待って二人とも。お目付け役は奴隷ではないわ」
私がそう言うと、二人はきょとんとした顔をする。
「奴隷だよね?」
「奴隷ですね」
「おい!!」
絶対マズかった。
もう、こいしちゃんの中では答が決まっているに違いなかった。すなわち、私をお目付け役という名の奴隷にする、と。
貴様謀ったなと、さとりに向かって心の中で呪詛を唱えまくる。だがさとりは全然聞いていなかった。妹と両手を繋いで、「どっれっい♪ どっれっい♪」と嫌な歌を歌っている。
一見子供のように見えてよく見るとちょっと大人びているさとりだけれど、こうしているとやっぱり子供だと思った。
何を考えているんだか。
「お姉ちゃん、わたし、ぱるさんのこと奴隷……じゃなかったお目付け役にする!」
こいしちゃんはわざわざ宣言した。
「決まりですね。じゃ、パルスィあとよろしく」
「拒否権は」
「ないです」
きっぱりである。
ああ、肩身の狭い居候かな。
「……なんなりとお申しつけを。お嬢様」
こうなりゃヤケだった。私はひざまずいてこいしちゃんの手を取り、軽くキスをした。姉が発狂するといけないので、触れない程度に。
こいしちゃんお嬢様はそれにいたく感激されたご様子で、ご頬にお手を添えて仰った。
「わー、かいかーん」
そいつはよかった。
でも、さとりが去り際に、
「こいしに変な気を起こしたら殺しますからね?」
とか言ってきたので、私はもう嫌な予感しかしていない。
変な気、起こしてやろうか。
「どうしてまた、急に帰ってきたのよ?」
道すがら、私はこいしちゃんに尋ねた。
「え? 家にずっといたよ」
「ああ。どうせそんなのだろうと思ったけど」
やっぱり、さとりにハメられた気がする。
いつも無駄に楽しそうなこいしちゃんだが、今日はそれ以上に機嫌がよく、私の斜め前を歩いている。デートという名の強制連行ができてご満悦らしい。
風の向くまま、気の向くままにぶらり旅。今日が楽しければそれでいい。彼女には、きっと過去も未来もないのだろう。妬ましいことだ。
私はご主人様に命じられて、こいしちゃんお嬢様のお目付け役となった。この役目は少々重い。橋守の仕事と兼任だからだ。
こいしちゃんと四六時中一緒にいるということは、この暇な時間に彼女を拘束せざるを得なくなるわけだ。ずーっと、ぼけーっとしていればいい仕事だったのが、今後はそうもいかなくなるだろう。お嬢様のために、よりよい時間にしなくてはいけない。
大変そうだが、とっても楽しみでもある。
「さて、どうしよっかね、橋守している時間」
そう問いかけるも返事がない。
気がつくと、隣にこいしちゃんはいなかった。
「ちょっ」
いきなり大ピンチだった。
彼女を一旦見失うと、再び視認するのはとっても難しい。やばい。無意識やばい。
こんな体たらく、さとりに知られたら、しこたま怒られるだろう。そして一週間ぐらい、一緒にお風呂に入ってくれなくなるのだ。
いやだー。
だがまだ遠くには行っていないはずだ。すぐ見つければセーフ。セーフに相違ない。
場所は旧都の端っこのほう。まばらに建った古民家の他に死角は少ない。探せなくはなさそう。たぶん。
「こいしちゃん!」
まず大声で呼ぶ。反応らしき反応はない。
「こいしちゃーん! どこー!?」
反対側にも声をかけてみる。だが声は虚しくこだまするだけだった。近くには、いるはずなのに。
手近な廃屋の周りを探ってみる。だが、見つからない。
「頼むから出てきてよ……!」
隣の古民家まで走る。そして、探る。いない。
ああこれ、マズいなあ。脳裏に最悪の展開がちらつく。探せど探せど見つからないこいしちゃんは、外れの民家で私が見つけてくれるのを待っている。ずっとずっと待っていて、しかし見つかることはないまま、とうとう民家の住人が帰ってきてしまう。こいしちゃんは不法侵入していたことを咎められ、責任を取るよう催促される。だが身一つで出てきたこいしちゃんに支払えるものなどない。ならばと住人は、げへへ許してほしければ身体で支払うんだなァなどと言い、こいしちゃんの着ている服を乱暴に――――。
「ぱるさん、なんで泣きながらニヤニヤしてるの?」
こいしちゃんは目の前にいた。
よかった出てきてくれて。本当よかった。古民家の厠あたりで襲われなんてしなかったんだ。
「……あんたが急にいなくなるから、寂しくて泣いていたのよ。出てきてくれて嬉しいから笑っていたのよ」
「そうなの? 変だなぁ」
うん。変な妄想していただけなんだけど。
そんなこと言えない。
小さなこいしちゃんは私を見上げて、可愛らしく首を傾げた。
「ぱるさん、わたしのこと嫌だって思ったでしょ?」
「え」
「わたしがいると面倒だなあ、とか」
言葉と裏腹に、彼女は相変わらず笑顔だった。
「そんなこと思ってない」
「嘘。わたし眼は閉じたけど、わかるんだよ。そのぐらい」
閉じた第三の眼を、彼女はいたわるように撫でる。
いや。あんまりわかっていないと思う。少しだけは見抜かれたけど、少しだけだ。確かに、大変だなあ困ったなあぐらいには思ったが、けれどそれは別に、こいしちゃんといるのが嫌だったという意味ではない。
「開けたほうがいいんじゃないの。ポンコツな性能よ、それ」
こいしちゃんの笑顔が崩れたのは、この瞬間だった。そして彼女の視線は、考え込むように宙を泳いだ。
「ぱるさん」
「ん?」
「わたしのこと、嫌いにならないで」
瞳が、こちらを向いた。さっきより、ずいぶん弱々しい瞳に思える。
「どうして、」
そんなことを言うのかと、私は尋ねた。だが彼女の瞳は私を見ているようで、見ていない。月並みな私の言葉なんて、届いていないらしい。
「嫌われたくない」
「嫌わないよ」
「嫌わないで……ほしいです」
この子が何を考えているのか、私にはまだ掴めなかった。
橋の番をしているが、案の定こいしちゃんは暇そうにしていた。あっちこっちうろちょろして、全く落ち着きがなくなってきた。
はあ、可哀想に。
「ぱるさん、ずっとこんなことしてたんだ」
彼女はそう言うと、くだらないものでも見るように私を見た。
超つまらなそうだ。
「そうね」
「暇じゃないの?」
「考えごとに時間を費やせるから、暇じゃないよ」
「そうなの? どんなこと考えてるの」
いろいろ。
と答えてもいいが、それでは本当につまらなすぎるので、ここは会話を弾ませるような答を出したいところだ。
「こいしちゃんは今ごろ何してるのかなーって考えてる」
「え」
なんじゃそりゃ。と脳内でセルフツッコミをしたが、純情なこいしちゃんには効果があったらしい。彼女の顔がみるみる赤くなっていく。
かわいいぞ。
「や、う、嘘だよー。ぜったい嘘だよー。ぱるさん、わたしのこと、そんなに思ってなんか、うう」
「割と嘘じゃない」
「ええっ」
割と嘘じゃない。うん。
こいしちゃんのことは、好きか嫌いかで言えば、大好きだった。
もう失ったとばかり思っていた、私のなけなしの母性を引き出したのは彼女だった。この子を娘にしたいと何度思ったことだろう。
妹でもいい。こんなにかわいい子が妹だというのだから、さとりはずるい。
私にも育てさせろ。
「こいしちゃん、うちの子にならない?」
「ええええっ」
あー、こいしちゃん育てたいなあ。でもどうせなら産むところから始めたい。
こいしちゃん産みたいなあ。
どうしたらこいしちゃんを産めるのだろう。こいしちゃんと結婚したら、こいしちゃん産めないかなあ。
「涼しい顔して、何言ってるの」
こいしちゃんは両頬に手を当てて、あたふたした。声もすっかり裏返って、大慌てのご様子である。
「冗談よ」
私がそう告げると、彼女は照れながら口を尖らせる。
「そういう冗談言ったらダメだよ」
「あら、その気にさせちゃったかしら」
「え……や、違、そんなんじゃなく、て」
あれ。いや、だめだろう、この展開。
私はただ、目の前に私がいると意識してもらえればいい、それだけの思いで言っただけだ。
と、心の中で自分に言い聞かせてみる。でも、どう考えても言い訳である。
「……ううっ。ぱるさんのばかぁ」
こいしちゃんは真っ赤になって、私の肩をぺしぺし叩いた。
まずい。かわいい。めっちゃかわいい。
かわいいけど、あんまりからかうのはいけない。私は彼女の保護者として雇われたお目付け役だ。あんまり困らせるようだと、姉に刺される。
こいしちゃんが上目遣いで見上げてくる。こういう、乞うような表情だけやたら上手なのはなぜなんだろう。
思いっきり抱き締めたい衝動に駆られるのだが、そこは我慢しなくては、立場上色々と拙い、のだ、が。
ぐぬぬ。
むおお。
ぱっちり開いた二つのまんまるい瞳に、私の姿が映っていた。三つめの瞳は閉ざされてしまった。
彼女が眼を閉じたことを、私は別に悪いことだと思わない。そういう生き方をしたって、誰に迷惑をかけるわけでもないから。でも可哀想な子だなあとはつくづく思っていて、優しくしてあげないといけないような気分には、しょっちゅうなる。
「ねえこいしちゃん。終わったら、一緒にどこか行きましょうか」
「ほんと?」
どうせ人なんて通るものでもないので、私の勤務時間はそんなに長くない。子供の門限程度で帰ったって、文句を言う奴はいるまい。早めに切り上げてこいしちゃんと遊んでいたほうが、遥かに有意義だ。
暇だった頃は、帰ってもすることがないし、だらだら残業もよくしていたのだが。
今は手のかかる娘がいることだし。
「それまでは辛抱してちょうだい」
「わかった」
こいしちゃんはキリッとした顔をして、背筋を伸ばした。いい子にしているぞーという意思表示か何かだろうか。大変微笑ましい。
微笑ましいが、真面目な顔をしているからって急にいなくならないとは限らないのがこいしちゃんなのである。心配だから、逃げないように手を握る。彼女は照れた。
「……すごいね、ぱるさん、騎士様みたい」
何がすごくて何が騎士みたいなのかは、よくわからなかった。
「逃げられないように縛りつけてるだけよ」
「いばらのつるで?」
「そんな痛そうなのでは、やらないわ。せいぜいタオルとかよ」
「へー。ぱるさん、そういうタイプか」
どういうタイプだろう。
「意外」
らしい。わからん。
この子の言うことは、たまにわからん。
「……一体、私の何を見て喋ってんのよ、あんたは」
「え? 無意識」
「だよね」
これが無意識語か。
彼女の手はすべすべだった。地底の寂れた景色には不釣り合いにさえ思える、綺麗な傷ひとつない肌。けれど彼女の心は、大きな傷を抱えている。らしい。閉じた三つめの瞼が、生々しい傷跡のように見えなくもないが、私はこうなるに至った経緯を詳しくは知らなかった。
気にならないわけではないのだが、そんなことより大事なのは未来のことだ、と思うので、あえて何も聞かずに接している。過去にすがってくよくよ生きてきた私だからこそ、彼女にはそうなってほしくない。忘れたい過去があるなら、忘れてしまったほうがいいに決まっている。
そのために眼を閉じたんだろうな、とは勝手に思っている。
「まあいいわ、いばらでも何でも。私を置いてどこかへ行きたくなったら、せいぜいこの手を払いのけて行くことね」
ちょっとした橋姫ジョークである。
こいしちゃんは苦笑いした。
「それ、ゆるく縛ってるけど、やっぱりいばらだよ」
わがお気に入りの店は、野点傘の下でいただく古風な茶屋だ。傘なんてあってもなくても地底に陽は当たらないって話なのだが、こういうのは気分の問題だということを、ここの店主はよくわかっている。それに、陽が当たらなくとも旧都に吹く風で季節を感じることはできる。そうやって食べるお菓子が絶品なのだ。
緋毛氈の床机に二人で腰掛ければ、もう満席である。でもこれで問題ないらしい。この店は旧都の中心から外れたところにぽつんとあり、人通りなんてほとんどない。だから、客足なんてたかが知れているそうだ。
目の前には鼠色した街道が横切っている。その向こうは、鬼たちがせこせこ造った公園が見える他は、誰かが住んでいるのかさえわからない古民家ぐらいしかない。寂れた色彩だ。この店の緋色だけが、際立っている。
「いつもの、今日は二人分ね」
と告げる私。雑談好きな店主のお婆ちゃんが、今日は何も聞かず店の奥へ消えた。こいしちゃんと二人なのを見て、気を利かせてくれたのかもしれない。
「ぱるさんは和菓子好きかー」
こいしちゃんはメモを取っていた。
勉強熱心で何よりである。何の役にも立たない勉強だが。
「あ、お代、わたしが出すよ」
そして、変な申し出をした。
「何よ。ガキが背伸びしないの」
「背伸びじゃないよ。わたし、お嬢様。ぱるさん、召使い。わたし、のーぶる。ぱるさん、ぷろれたりあ」
「そうでした」
一応、雇用扱いはしてくれるらしい。もう奴隷じゃないみたいなのでよかった。
格好つけることもできない大人だとは、なんだか情けない気もするが、身分の差はいかんともしがたい。
「かねならもってるぞっ」
そう言って、こいしちゃんは札束で私の頬を叩いた。おい。
おのれ成り上がり貴族め。その金むしり取ったろか、オウ? お前の下で一生懸命働いて、むしり取ったろか、オウ?
「お嬢様、そんな下品なことをなさってはいけませんぞ」
「あら。わたしに命令するつもりなの、セバスチャン?」
召使いらしくたしなめようとしたら、小芝居が始まった。
「お嬢様、わたくしはセバスチャンではございませんぞ」
「ホセのほうがよかった?」
「ホセでもありませんぞ」
「じゃあムックね」
「ムックは赤いほうですぞ~~」
「緑眼のムックって言うと、ちょっとカッコよくない?」
「そんなグリーンアイズレッドモジャモジャ嫌よ」
「もじゃもじゃ、おいしそうだし」
「おいしくない」
これは最近学んだことだが、私はただの会話であっても彼女に振り回される運命にあるらしい。彼女のぐるぐる急旋回トークに、私が頑張ってついていく。
こういうとき、ああやっぱりさとりの妹なんだなあ、と実感する。姉は狙ってやっている節があるが、こっちは天然だと思う。いずれにせよ、人を振り回すのが好きな性格をしていることには違いない。
あるいは、私が振り回されるのが好きな性格なのかもしれない、と一瞬思ったけど、断じてそんなことはない。ないったらない。
「仕方ないな。ムックが言うなら、上品に振る舞ってあげる」
「お願い、ムックって呼ばないで」
「えー」
「えーって」
他愛ない話をしていたら、店主のお婆さんが戻ってきた。お茶と串団子の乗ったお盆を二つ、順番に差し出した。
「おばあさん、うちの橋姫がいつもお世話になっております。これお代です」
とか何とか言ってこいしちゃんは、お盆を受け取って、人の頬を叩いた紙幣と交換した。お婆さんは孫でも見るようににんまり笑うと、「ごひいきに。ごゆっくり」と言い、また店の奥へ入っていった。
あっ、本当にこいしちゃんに払わせてしまった。
やばい。罪悪感がすごい。
「お団子だー。いただきます」
こいしちゃんは全然気にしない様子で、既に串団子に夢中になっていた。まあこれはこれで満足そうだから、いいか。この値段分、こいしちゃんの来月のお小遣いを増やしてもらえるよう、後でさとりに頼んでおくことにする。こっそり。
「恐れ入ります、お嬢様。いただきます」
「気にすることはないわムック。古明地家の妹として、当然のことをしたまでよムック」
「ムックはやめて」
嫌なコードネームがついてしまった。余計な物まねをしたばかりに。
「ムック、いいのに。今日からずっとムックって呼びたいくらい」
「そういう地味な嫌がらせをするところ、姉にそっくりよ」
「うわ。やめます」
言うと、こいしちゃんは本気で嫌そうな顔をした。哀れ姉。
「ぱるさん、ときどき言ってるよね。わたしとお姉ちゃんが似てるって」
「ああ、前にも言ったことあったか」
「たびたび。でもね、ぱるさんだけなんだよ、そんなこと言うの」
「そうなの?」
「全然似てないって言われることのほうが多いの」
知らなかった。
思わぬところで個性を発揮していたらしい。
「変な人だよ、ぱるさんは。でも、そういうちょっと変わってるところが好き」
「喜んでいいのかね、それ」
こいしちゃんは、飴と鞭みたいにひどいことと嬉しいことを同時に言いつつ、お団子を頬張った。
そしてハムスターみたいに頬を膨らませて咀嚼し、勢いよくごっくんと飲み込むと、いつもの笑顔で「おいしーい」と呟いた。
「そりゃよかったわ」
身分の差さえなければ、ごちそうしたかったのだが……とか思ったところで閃いた。
自分のお団子をこいしちゃんの前に持っていく。
「はい、あーん」
こいしちゃんはたじろいだ。
めっちゃ照れていた。かわいい。
「あ、あーん」
でも一応、一口だけ食べてくれた。嬉しい。
「意外。そういうことするんだ」
「たまにはね」
橋姫だってイチャイチャしたいときぐらい、ある。
たぶん私、めっちゃデレデレしていると思う。
「嬉しい。ぱるさんがお姉ちゃんだったらいいのに」
「それ、さとりが聞いたら泣くわよ、きっと」
「わたしも変わり者だから。お姉ちゃんより、ぱるさんのほうが似てると思う。お姉ちゃんは、わたしの相手をするには普通すぎるもん。普通の覚だから、わたしの心が読めなくなっちゃうんだよ」
何でもないことのように、こいしちゃんは言った。
これが私の心に、小骨みたいに引っかかった。
「そうなの」
私は肯定とも否定とも取れないような、曖昧な返事をしてみる。家族のコミュニケーションという話になると、途端に尻込みしてしまうのが私の悪い癖だった。
一応、悪癖という自覚はある。
赤の他人の話ならともかく、今や彼女たちとは他人というほど他人でもないので余計に苦しい。
私にも色々あったので。
「……この話、嫌だった?」
そして、こいしちゃんは、なぜかこうした私の微妙な心理ばかりをバッチリ読み取ってくる。
「ごめんね」
彼女はすぐさま謝ってきた。
「いや、謝ることじゃないよ。えっと、その、なんて答えようかなって思っただけで」
「嘘」
まただ。
またこうなってしまうのか。
今度ばかりは、嘘じゃないと言い切ることができなかった。一応、嘘は嘘でも優しい嘘のつもりではいたのだが。
そういう半端な態度は、彼女には通じないのかもしれない。
「……ええ、嘘ね。本当はちょっとだけ、嫌だった。家族のことなんて、私にわかるわけないもの」
なので、馬鹿正直に言った。
家族なんてものは。
ついこの間まで、絶対に私の手には届かないところにあったのだ。
「うん。そうだよね。いいの、ちょっと聞いてほしかっただけだから」
「いや、貴方が気にしなくていい。今のは私が我侭だったと思う」
「……」
いつも笑顔のこいしちゃんが、寂しそうな顔をした。
ああ、嫌だ、私は何をやっているんだ。こいしちゃんにこんな顔、させたくない。
彼女はお団子に目を落としたけれど、次の一口を食べようとしない。ついさっきまで、あんなにおいしそうに食べていたのに。
「こいしちゃん、」
「わたしね、」
二人で同時に声を上げてしまった。ちょっとの間、見つめ合った。
「さ、先にどうぞ」
と言ったのは私のほう。
こいしちゃんの瞳は少しきょろきょろしていたが、やがて落ち着くと、
「えと、わたしね、お姉ちゃんと話したいし、ぱるさんと、もっとお話できるようになりたいなって思ってた」
彼女はそう告げた。
「でも、だめだね。わたしなんか、出しゃばったらだめなのに」
「どうしてそんなこと言うの」
「わたしなんかいても、迷惑だもん。そうでしょ?」
「そんなこと、」
「あるよ。でもいいの。どうせわたし、頭おかしいんだし。迷惑なの、わかる」
とても悲しいことを言うくせに、こいしちゃんはもういつもの笑顔だった。そして、なんでもなかったようにお茶を飲み干した。
「こいしちゃ――――」
「はい、これ」
私が何か言うより早く、彼女はお団子を私の口に勢いよく挿し込んだ。不意を突かれた私は、一瞬パニックを起こして――――
「じゃあね。今日は楽しかったよ」
彼女を見失った。
旧都に吹く風は、冬でも生ぬるい。
彼女は笑いながら、でも泣いていたような気がする。
どうして。
ただあの子と遊ぶだけのはずが、どうして逃げられてしまうんだ。自問する。答を探し求めたけれど、わからない。嫌われてしまったのか? 違う。そんな単純な話じゃない。
さとりの心中、今なら察することができそうだ。あいつも苦労してきたのかもしれない。手のかかる妹を持ったものだと、ちょっと同情する。
わけがわからなくて、しばらく呆然としてしまった。そして、ああこれは、普通なら彼女のことを嫌いになる場面なのかもしれないと思った。こいつよくわからないなとか、面倒なやつだなとか思って敬遠するとか、もしかしたら、本当に頭がおかしいんじゃないかと感じて、忌避するような場面なのかもしれないと思った。
でも……なぜか私は、そう思えなかった。今まで見えなかった、いや、私が見ようとしてこなかった彼女の心の闇を垣間見たような気がして、少し考えてしまった。
何かのトラウマを刺激したのだろうか。第三の眼を閉じたことと、関係があるだろうか。何が、彼女をそこまで卑屈にさせるのか。
考えて、わからなくて、緋い傘を見上げる。ぼけーっと、のん気に見た。こうして待っていればこいしちゃんが戻ってこないかとも思ったけど、戻ってこなかった。なんとなく、百年待ったって戻ってこない気がした。
だが、そうやって無為に過ごしていたら、何の脈絡もなくいきなり気づいた。無意識から湧き出たようなひらめきが、なにか私の心の中に確信めいたものを落とし込んだ。
あれだ、と。
私は人の心が読めるわけじゃない。彼女の心のどこに、どんな形の闇が巣食っているのかなんてわからない。
だが、たぶん、そいつは私もよく知っているやつだから、なんとかなるかもしれない。
間違いない。
面白いじゃないか。
私はとりあえず口に突っ込まれたお団子を一個と、それからお茶を平らげて、店主のお婆さんにごちそうさまの挨拶をした。そして歩き出す。不思議と、今度はあまり焦っていなかった。こいしちゃんを見つけ出す自信があった。
『ぱるさん、わたしのこと嫌だって思ったでしょ』
『わたしなんかいても、迷惑だもん』
『わたしのこと、嫌いにならないで』
ついさっき彼女に告げられた言葉たちを、思い出す。超がつきそうなほど後ろ向きな言葉と、それでもすがりつこうとする健気な言葉と。
表面上何でもないような様子で語られたこの言葉たちは、たぶん彼女の無意識の奥からこっそりと出てきた、SOSのようなものなのだと思った。彼女はたぶん、私の手助けを期待している。
「どっかへ行きたくなったら、この手を払いのけて行くことね。……って、言ったじゃないのよ」
私の手には、こいしちゃんにあーんした、食べかけのお団子が残されたままだ。払いのけたというには、比喩にしたってちょっと拙いのではないか? だってこれ、間接キスだもん。そうだよ。間接キスだよ。やった。間接キスだ。私の手に間接キスが握られている。やったあ。おいしい。こいしちゃんの間接キスおいしいぐへへ。
あっやばい。つい無意識になってしまった。
閑話休題。
まじめにやる。
と言っても、やることはあまり変わらなかったりするのだが。
これから異世界に行こうと思う。
今、こいしちゃんは無意識の中にいるけれども、感情がなくなったわけじゃない。人の心は見えない私だけれど、彼女の感情の音を聞き、感情の匂いを嗅ぎ分けることなら多少はできるので、それを利用してみたいと思う。
私は感情の妖怪なのだ。一応。
そして感情というのは、だいたい無意識の発露なのである。なので私の能力は、古明地で言えば姉よりも妹のほうに近い能力だということになり、無意識についてだけなら、さとりよりは見識があるということになる。はず。たぶん。
私なら、何とかできると思う。相手が無意識ワールドをさまよっているのなら、こっちも無意識ワールドに行って呼びかければいい。なに、頑張ればできるさ。たぶん。
私は独り、地霊殿に帰ってきていた。こいしちゃんを見つけられなかったわけではない。彼女とコンタクトを取りたいがためである。
「ただいま」
目の前にさとりがいたので、挨拶した。するとこれまでの経緯を一秒で察した彼女に、いきなりがっかりされた。
「……パルスィでも、だめでしたか」
どうやらこいしちゃんが消えてしまうのは、彼女の予想の範囲内だったらしい。期待していなかったわけではなさそうだが、ああやっぱりといった感じで溜息をつかれると、ちょっと悔しい。
だが、まだ終わったわけじゃない。そのためにここへ来たのだ。
私はこれから、こいしちゃんをスーパー無意識パワーで呼び出す。どうせならここでやったほうが後々楽だから、ここへ来た。私の覚醒したスーパー無意識パワーが言っている。ここでやる定めだと。
「大丈夫、今から見つける」
「貴方の精神状態を見るに、ものすごく不安なんですけど」
「そう?」
「こいしを泣かせたショックで頭がおかしくなったようにしか見えないです」
「ふっ。そこまで心弱くないわよ。今はね」
昔の、独りぼっちだった頃の私だったら、それもありえたかもしれないが。
ちょっと今、無意識力を高めているので、傍から見ると変に見えるかもしれないが大丈夫だ。
こいしちゃんに心の底から嫌われていなければ、大丈夫。さすがに嫌われていたらだめかもしれないが、今更それはないだろう。たぶん。
彼女の無意識の感情が、私の呼びかけに応えて、私のほうを向いてくれたらだいぶ嗅ぎつけやすそうである。お互いが心を無にして向かい合えば、きっとわかるはず。
「あの、すんごく心許ないんですけど」
「大丈夫、あまり考えるな。こういうのは考えるより感じるもんだわよ」
さとりの第三の眼は、どちらかといえば感じるよりも考えるほうのがよく見える、のだと思う。なので私が今から探す感情は、ひょっとしたら彼女の眼には見えないのかもしれない。だが、そいつは確かに存在するのである。
しかしてその名を、"劣等感"という。
「……あの子、自分に自信がないんじゃないかと思うの。そりゃもうとびっきり。まるっきりゼロみたいにさ」
「そう、ですね」
さとりは少し不安げな顔になった。
「こいしちゃんといる間、あの子の過去を考えていたの。ねえさとり、詳しく教えろとは言わないから、私の推理が合っているかどうかだけ、教えてほしい」
今まで避けていたが、こいしちゃんに近づくためには、必要かもしれなかった。
さとりは思ったよりも反発せずに、応えてくれた。
「貴方の思っている通りですよ。小さい頃は引っ込み思案で、人見知りで、びくびくしてて、いつも私の後ろに隠れていました。何を言っても変わりませんでしたね」
姉の口から告げられた、こいしちゃんの過去は、あの笑顔からはあまり想像できないものだった。だが今ならわかる。すごく、よくわかる。
それほど臆病な子が、他人の情け容赦のない心……例えば、"悪意"を直接見てしまったなら、どうなるか。心が読めない私にだって、だいたい想像がつく。
具体的に何があったかを詮索する気はあまり起きないので聞かない。だが、少なくとも他人が彼女の"劣等感"を刺激して、強めるのは簡単だ。簡単すぎて、その気がなくてもついやってしまうぐらいに簡単だ。
"劣等感"が成長すると、彼女はさらに怯えて卑屈になった。ほんのちょっとでも他人の"悪意"に触れただけで、心が傷つくようになっていった。心が傷つくと、ますます"劣等感"は成長しやすくなり、ますます心が傷つきやすくなっていく。
そんな悪循環が毎日、繰り返される。
いかに怖かったことだろうか。辛かったことだろうか。彼女は、もう心を読みたくないと、後戻りのできない決断をしてしまうところまで、追い詰められた。
第三の眼は、それきり二度と開いていない。
「その日を境に、こいしちゃんは変わった」
「……はい。本当、人が変わったようでした。明るくなって、人前でも怯えなくなって。あの子じゃないみたい、です。今でも思います」
と、いうことらしい。
"悪意"は、感じるより考えるほうの心、すなわち意識の世界の範疇にいる。ただの覚妖怪だった頃のこいしちゃんは、他人の"悪意"を見て育った。彼女は、醜くて恐ろしいこの感情を視界から消し去りたかったのだろう。それは、第三の眼を閉じ、意識の世界を全て遮断することで、ようやく実現することができた。
それで、自分の"劣等感"を克服し、ようやく明るい心を手に入れることができた。めでたし。
「めでたいですか?」
「あの子が幸せなら、いいんじゃないの」
"悪意"の他に、"善意"も見えなくなったがね。
それは、良し悪しだ。副作用ともいえる。
さとりは眉をひそめた。いや、まずい。失言だった。
「いい悪いの判断は、私がするべきじゃなかったわね。失礼」
「……なんていうか。さっきから貴方が何を見て喋っているのか、わからないです。いったい何を見たんですか」
「まだ何も。これから見るのよ」
「こいしみたいなこと言わないで、ちゃんと説明して。無意識の世界とは、どこにあるんですか」
「ふふ」
謝ったばかりなのに、ちょっと笑ってしまった。
「どこにでもあるわよ。この世界は、同時に異世界でもあるのよ。いつでもどこでも、繋がっているのよ。見えないだけで」
「こいしみたいなこと言わないでくださいー」
「ふ、あはは」
確かに私の視野は、今までより少しだけ、広がった。だけどまだ、無意識の世界というものが存在することに気づいた、それだけにすぎない。
こいしちゃんはもっと先へ進んでいる。異世界に直接アクセスすることができるのだ。私はなんとかして、彼女に追いつかねばならない。せめて手の届く場所まで。そのためには無意識の世界に歩み寄らなければいけなくて、こいしちゃんみたいにならなくてはいけないのである。
とはいえ、確かに正直言って、傍から見たら頭がおかしくなっているようにしか見えないのもわかる。
言葉で表しきれない異世界を、無理やり言葉で表現しようとすれば、異常に回りくどくならざるをえない。大きく回り込んだ話の中心にある存在に気がつかなければ、私やこいしちゃんの言葉は永遠に理解されない。理解されなければ、私たちが長々と謎の無意識語を吐き続ける狂人と思われても、仕方がない部分はある。
「うん、そうね、正直。無意識、疲れるわ。すごくやりにくい。あんたもこいしちゃんと話すの、苦労したでしょ」
「え? あ、はい。よくわかりませんが、わかってくれますか」
「でもだからといって、眼を閉じたこいしちゃんが悪いってわけでもない」
「もちろんです」
「なら、百聞は一見にしかず、一緒に行きましょ。私の心を読んでいなさい。うまくいけば、あの子の見ている世界を垣間見れるはずよ」
私は、こいしちゃんが悪いということにだけは、してしまいたくなかった。彼女の頭がおかしいとも思いたくはない。だって、そんなの可哀想だ。醜い感情を見ないですむように、自分の心を犠牲にしてしまった優しい女の子というだけの彼女に、これ以上の責を負わせたくなんかない。醜い感情を抱いた人間を片っ端からぶっ殺して回ったどっかのバカ妖怪より、よほど幸せになってしかるべきじゃないか。
だから私は、彼女の見ている世界を見に行く。そうして彼女を理解する。理解して、接近する。
彼女の味方でいたいから。そう強く思う。
「そういうわけよ。何が何でもこいしちゃんを見つけるわ」
さとりの前で、宣言する。嘘は言えないし、言わない。彼女は、半信半疑といった様子だ。
「正直、無意識のことは、どういうわけなんだか全然わかんなかったですけど……。でも貴方がそこまで言うのなら、ぜひお願いします」
まあ、信用してくれるならば何でもいい。もうちょっとだけこいしちゃんの心に触れることを許してくれれば、それで。
「その懸命な気持ちをもう少し、私にも向けてくれると嬉しいんですがね」
と、さとりはついでとばかりに溢した。なんだ急に。どういう意味だ。
「言葉通りの意味ですよ。貴方はこいしのことになると、ずいぶん一生懸命なんだもの」
「あんたに言われたくなかったわ」
「そうですか?」
「そうよ。だから……まあ、大切な妹のことを任せてもらえたのは、光栄だと思ってるよ。あんたは妹が心配だっただけでしょうけど、私はけっこう嬉しかったよ」
ちょっとした悪態をつきながら、私は緑眼に妖力をこめた。
準備は整った。今から、無意識の世界に行く。
人間の嫉妬心を煽るときの応用だ。普段は言葉を使うこともあるが、今回の相手は無意識なのでそれはできない。その代わりにイメージを使う。
まず、できる限り頭の中を空っぽにする。すると文字と言葉が削ぎ落とされて、絵と感覚だけの脳みそになる。これが大事だ。
緑がかった視界には、さとりの心配顔が入り込んでいる。ちょうどいい目印だ。その横を私の精神が横切っていくイメージを創っていく。
左手を伸ばした。するとその左手が、無限遠に伸びていく。手だけではない。私のいるこの部屋全体が、粘土みたいに引き伸ばされていく。
伸びる、まだ伸びる。視界全てが伸びに伸びて、どれだけ伸ばしても、何にも触れることはできないのではないか、そんな気さえするほど、手指も、世界も、広がっていく。
そうしているうちに、意識は静かに沈み、無意識の領域が顔を出す。
いつの間にか、私はでこぼこした道の途中に立っていた。
辺りを見ると、左側にだけ、花畑が広がっていた。綺麗な菜の花のようだが、よく見ると不気味な花も混じっている。そいつはまるで意思を持っているように蠢き、私の顔を見上げている。
私はチラチラと花の様子を気にしながら道を歩んだ。すると、ああ近づいたな、という感じがした。
実際、こいしちゃんは近くにいた。あっけないぐらい、すぐ見つかった。
彼女は灰色に霞みがかった、廃墟のような、機械工場のような場所にぽつんと独りでいた。泣いているような、笑っているような顔をしながら、自分の手を何度も触ったり、つついたりしている。
「こいしちゃん。おいで」
私は彼女を呼んだが、反応がない。なので彼女の目の前まで行ってみると驚かれた。そして彼女はちょっとためらう様子を見せたが、やがて私に甘えてすがりついてきた。
「耳が聞こえないの。何も聞こえないの」
彼女がそう言ったので、耳を見てみると、ピアスの穴が空いている。気づくと私はピアスを持っていたので、彼女の耳に付けてあげると喜ばれた。これで彼女の耳は大丈夫だろうと思った。
すると廃墟のようだった場所が、ぐにゃりと歪んで、一瞬だけ小さな農村のような場所になった。だが、またすぐに歪んで、次には真っ黒でぐにゃぐにゃした、混沌とした様相に変わった。そこでは色んな人々がいて、色んな言葉を放って、こいしちゃんを困らせている。いつの間にか、私もそのうちの一人になっていた。
「やめてやめて。お姉ちゃん、やめて。そんなに綺麗な姿を見せないで」
彼女は私の目を見てそう言った。
「私は――――」
私は、言いかけて、左手を伸ばした。そして……その薬指と小指が、ズボッといういい音を立てて、こいしちゃんの鼻の穴に刺さった。
「ふが」
かわいい声がした。
ちょっと、痛かったかなあ。
地霊殿には、すぐに戻ってこられた。気づけばいつもと同じ、見慣れたロビーにいる。
私は最初に左手を伸ばした体勢のまま、こいしちゃんの鼻の穴に指を突っ込んでいた。
なんだかちょっとした不思議体験をした気分だが、ついに私の秘められた能力が開放されたのだろうか。それとも、こいしちゃんの能力だろうか?
答は……どちらでもないとも言えるし、どちらでもあるとも言えるだろう。秘められた能力は、超能力かもしれないし、ただの狂気かもしれない。無意識の世界とはそういう場所だから、考えるな。感じるんだ。
少なくとも、あの場所が無意識の世界であり、こいしちゃんの見ている世界の一部なのだというのは、すんなりと納得がいく感じはした。理屈はともかく、私にとってはそうだった。
「やあ」
私はあえて鼻に指を挿したままで、呼びかけた。
「あ、ぱるさんだ」
すると彼女は、今しがた出会ったみたいに言った。鼻声で。
私の予想通り、こいしちゃんはいた。いつからここにいたかはわからない。私が呼び寄せたのかもしれないし、呼び寄せられたのかもしれない。それは無意識世界の住人にしかわからない。
ちょっと混乱する。あの世界で出会ったこいしちゃんは、私を私とは認識していないようだった。それが気になる。「お姉ちゃん」と呼んできたので、もしかしたら私はあの世界でさとりということになっていた、のかもしれない。となると、こいしちゃんは私に会ったとは思っていないだろう。私はこいしちゃんに会ったと思っているけども。
何を言ってんのかわかんねえと思うが、私も何を言ってるかわかんねえ。
ああ、なんだか頭が痛い。それに、ぼーっとする感じがある。知恵熱だけではない気がする。変な感じだ。
私が頭を抱えたとき、急にこいしちゃんの様子が変わった。
「お姉ちゃん……!?」
彼女は、私の横を見て目を丸くした。いつもの笑顔は消えていた。私もつられて振り返る。そして、たぶんこいしちゃんと同じ顔をした。
さとりの身体は、私の足元に力なく転がっていた。
さとりの部屋はピンクの装飾やら小物やらぬいぐるみで溢れかえっていて、いかにもな女の子の部屋だ。
私とこいしちゃんで、さとりをここまで運んできて、ベッドに寝かせた。さとりは完全に意識を失ってはいなかったが、かなり朦朧としている。何か言おうとしているが身体に力が入らないらしく、ほとんど声にならない声だ。私たちには全然、聞き取れなかった。
かなりぼーっとしているが、苦しそうな感じではない。熱もない。
「とりあえず様子見が賢明かね」
こいしちゃんが心配そうな顔をしていたので、肩を撫でてあげると少し落ち着いたふうになった。
しかしなんだって、さっきまで元気だったさとりが倒れたのか。
私が無意識の世界を見たことと、何か関係があるのだろうか。
「こいしちゃん」
「うん?」
「さっき私と別れてから、地霊殿でまた会うまでの間、さとりに会った?」
「ん……そう言われてみると、会ったような、会ってないような」
彼女は首を傾げた。まあ、無意識世界でのできごとなんて、そういう認識なのが普通である。こいしちゃんでさえそうだし、言っている私だってだんだんよくわからなくなってきた。私が見たものは全部ただの夢でした、としてしまったほうが、よほどしっくりくる。
「じゃあ、私とは会った?」
「え?」
「私と別れてから、私と会うまでに、私と会った?」
「???」
「あ? いや、あれ? 私は何を言っているんだ?」
やべえ。まじわかんなくなってきた。さっきはあんなにわかったような気になっていたのに、なんだこれ。
混乱していると、こいしちゃんは言ってきた。
「でも、そういえば、呼ばれた気がする。ぱるさんかどうかわかんないけど、ウチのほうから」
「家?」
「えと……なんていうか、身体の内側から?」
「あー。うん。それ私だわ」
たぶん。
だとすると、私の無意識はこいしちゃんに届いていたようだ。当初の目標だった無意識流以心伝心的なものは、見事達成。本当にできてしまった。やったあ。橋姫だって、やればできるのよ。
これなら古明地姓を名乗れる日も遠くない。名乗らないけど。
「いつの間にそんなこと、できるようになったの?」
「さっき」
「すごーい」
まあ橋姫歴は長いので、素養があったんだと思うがね。ふっふーん。
それはともかく、今の問題はさとりである。無意識の世界と関係があるのかどうか、結局よくわからない。
「さとり、どうしたのかしらね」
彼女の前髪をかき分けて、おでこを撫でてみる。反応は、たぶんない。もしかしたら微かに動いているかもしれないが、よくわからない。意識はまだ朦朧としている様子で、瞼が開いてるのか閉じてるのか、中途半端なことになっている。はっきり言えばだいぶブサイクな顔をしている。可哀想に。
大丈夫。普段はかわいいから。……と脳内で念じておく。
「こういうことって、初めてなの?」
私はこいしちゃんに尋ねた。
「うーん……あ。そういえば」
あまり期待はしていなかったのだが、予想に反して彼女は何か思い出したらしい。びっくりだ。
「わたしが眼を閉じる前にね、お姉ちゃんがわたしの心を読もうとしたことがあるの」
「覚同士で?」
「うん。時間をかけて、がっつり読もうとしてた。わたしは嫌だって言ったんだけど、必要だからって言われて。そしたら」
「……こんな感じに?」
「うん」
私はさとりに向き直した。なるほど、少しヒントになりそうだ。
妹の心を読んだ途端、倒れてしまったさとり。彼女はそのとき、何を見たのだろう。
「こいしちゃんはそのとき、なんて思ってた?」
「うーん。もう憶えてないなー」
「ま、そりゃそうか……」
昔の話すぎて、当時の気持ちなんて、誰だってそうそう思い出せるものではない。
「その頃のわたし、必死だったから。心読みたくないし、読まれたくないしで、全部嫌だった。だから、たぶん『うわー! やだやだー!』って、ひたすら思ってたんじゃないかなあとは思うけど」
「必死、ね。そっか。ありがと」
こいしちゃんの頭を撫でる。あまり詮索しすぎると彼女のトラウマに触れそうな話なので、聞くのはこのくらいにして、後は推測することにした。
必死なときっていうのは、無意識の状態にけっこう近い。やっぱり関係がありそう。
さとりは、こいしちゃんが嫌がるにもかかわらず、心の奥深くを読もうとした。かつてのこいしちゃんは超引っ込み思案だったそうだから、その心を案じてやったことなのかもしれない。いや、さとりのことだから、きっとそうだろう。こいしちゃんをなんとかいい方向に持っていくために、引っ込み思案の原因を知りたかったのではなかろうか。
『やめてやめて。お姉ちゃん、やめて』
無意識の世界で見たこいしちゃんを、なんとなく思い出した。
結果論ではあるが、さとりの頑張りはあまり報われなかった。結局こいしちゃんは眼を閉ざしてしまったし、"劣等感"は相変わらず健在で、根本的な解決はしていない。しかもさとりは、すっかり妹の心が読めなくなってしまったので、今やどうにかしようにも手をこまねくことしかできない。自慢の読心能力が効かないのでは、こいつはただの幼女同然なのだ。
すれ違いばかりで不幸な姉妹である。妬ましくない。
そういう経緯でもって、今回、手頃な嫉妬妖怪である私を使ってみたくなったのではないだろうかと考えると、まんざらでもないと思う。
こいしちゃんは神妙な表情で、ベッドに横たわる姉の姿を見ていた。昔のことを思い出しているのだろうかと考えると、ちょっと心配になる。うっかりトラウマスイッチを押さなければいいが。
「ぶっさいくな顔して寝てるなー」
違った。私と同じことを考えていた。
でも今までにないぐらい、本当に真面目な表情だった。
「ねえぱるさん」
彼女は尋ねる。
「お姉ちゃんって、まだわたしのこと、好きだと思う?」
「そりゃ好きでしょうよ」
私は即答した。
この姉には、妹厨とかそういうあだ名をつけてもいいとすら思っている。
「わたし、わかんないや。お姉ちゃんの気持ちは、なんでかわかんない」
「……そっか」
何か言ってみようかとも思ったが、うまいこと言う自信がなくてやめにした。
こいしちゃんは、いや、姉も含めて覚という妖怪は、読心能力に頼らず人の心を察するのが苦手であるように思える。はっきり言って人間よりへただと思う。心を読めないとなると、途端にコミュニケーションがうまくいかなくなるらしい。
当たり前といえば当たり前だが。
この姉妹の間には、橋渡し役が必要だったのだ。
そう、橋渡し。
考えて、一人で苦笑する私であった。
もしかして、最初からこうなる運命だったんじゃないのか、これは。
私以上の適役がこの世にいると思えなくて、面白い。
そうだ。そういうことだったのだ。
けど、なるべくなら気づきたくはなかった。
二人とも、私を見ているようで、実はその向こうにいる姉妹を見ている。当人たちは気づいていないかもしれないが。私は彼女たちの間に存在する、ただの橋にすぎない。二人の出会う場所でしかない。
私は縁切りしかやったことがないのだが、いつの間にやら頑張って縁結びしなくてはいけない立場になっていた。
正直、めちゃくちゃ妬ましかった。
けれど、まあ私も子供じゃないし、今更そんなことで発狂したりはしない。めちゃくちゃ妬ましいけど。
めっちゃくちゃ妬ましいけど、乗りかかった船だ。
当然、最後までやるつもりだ。それが愛だと思うから。
「こいしちゃんは?」
「ん?」
「このバカ姉のこと好きかって聞いてんの」
「う」
彼女の小さい肩がぴくっと上がった。明らかに照れていた。
くう、かわいいなあ。
バカ姉とか言っておいてなんだけど、さとりの気持ちはとてもよくわかる。私だって、こいしちゃんの姉だったらバカ姉になっていたことだろう。
「わかんないよ」
こいしちゃんは言った。
「お姉ちゃんは、お姉ちゃんだもん。好きとか嫌いとか、わかんない」
私に姉妹はいないけれど、なんとなくわかる気もする答だった。
お姉ちゃんのことを好きか嫌いかで言うと、お姉ちゃんである。そういうもんなのだろう。
「なるほどね。妬ましいわね」
「でも、その……」
彼女は何かを言いかけて、言いにくそうに口ごもった。
私は、ちょっと期待した。こういうとき、言いにくいことこそ重要だ。言いにくいことをあえて言いたくなるのは、心を開こうとしている証だから。
だが、急かしてはいけないので、私は首を傾げてみせるだけにして、次の言葉を待った。
「変なこと言うんだけど、その、うう……これ言ったら引くかなあ」
「心配しなくていいよ」
「わたしね、お姉ちゃんとキスしたことあるんだ」
ガタッ。
イヤッホオオオオウ!! 妬まっしいいいいい!!
……と心の中でだけ叫んだ。顔には出さないように頑張った。
「眼、閉じる前に。その頃はお姉ちゃんのこと、好きだったのかもしんない。……あー、うわあ、ごめんなさい、気持ち悪いよね」
「心配しないでったら」
気にするのが遅すぎる。
私は笑って、そっとまた彼女の頭を撫でる。すると彼女は恥ずかしそうに俯いた。
「なんでこんなこと、言いたくなったんだろ」
「そういうときもあるわよ。それがあんたの素直な気持ちなら、私は絶対笑ったりしないし、気味悪がったりもしない。約束する」
心の中ではだいぶ取り乱していたけど、普通に喜んでいただけなので大目に見てほしい。他人が見たら気持ち悪がられそうな脳内しているのは、たぶんお互い様だ。
それに、もう私は他人ではない。彼女の心に深入りしてしまった以上、知り合いだの友達だのでは済まされないところまで来ている。
「しっかり受け止めるわよ。あんたの気持ち」
私は宣言した。自分に言い聞かせる意味もある。
「……うん。わたし、お姉ちゃんにキスしたのは、やっぱり寂しかったからだと思う。お姉ちゃんなら、愛してくれるかもって。心の底から、好きでいてくれるかも、って」
「愛情を、期待していたのね」
「でも、わたしの方が、お姉ちゃんの期待に応えられなかったから、だめだった。わたしみたいに何もできないだめなやつ、愛したくても愛せないよね。無償の愛なんて、あるわけないんだもの」
だめなやつ、か。
こいしちゃんはときどき、驚くほど卑屈だ。幼い頃から、色んな心の暴力を受け続けてきたからだろうか。
こんなにかわいい子がだめなやつなら、私は何になってしまうんだと思わなくはなかったが、そういう問題でもない。
「さとりは、貴方のキスを受け入れたの?」
「一応は……うん。大事な妹の望むことだから、受け容れよう受け容れようって思ってたけど、でも、こころのそこでは……ぅ」
話すこいしちゃんの声が突然、震えた。そして彼女の二重瞼が、かっと赤くなるのが見えた。
「こんなめんどうないもうと、いなければよかったのにって」
ぐしゃぐしゃになった声が、私の心を揺さぶった。
縁の糸とはよく言ったもので、コミュニケーションは、二本の毛糸を絡めるようなものだ。綺麗に巻きつけたつもりでも、いつの間にか絡まったり、こんがらがったりする。そのくせ急にほつれたりもする。こんなものでマフラーを編んだら、さぞ不格好になるだろう。
姉妹の不器用なマフラー作りは、糸が切れたか、ほつれたか何かして、中途半端のままで止まってしまった。私は、仕方がないから、毛糸を足してやろうと、首に巻いているマフラーをほどき始めたところというわけだ。
なんでそんなことをするのかといえば、そのほうがいいマフラーが作れそうだからに他ならない。
こいしちゃんだって、本当はそう思っているんじゃないだろうか?
だから今度は消えずに、ここにいる。
私にすがって、なんとかここにいる。
無下にできるか、こんなもの。
「ねえこいしちゃん。さとりが起きたら、少し二人で話してみたらどう?」
「二人で?」
「そう。不安なら、私が聞いててあげる。なるべく口は挟まないようにするけど、万が一まずそうな話になったら止めるし」
挟まなくても、さとりには聞かれてしまうだろうが。
「お互い、言いたいことがたくさんあるんだと思うの。言葉を交わしてみましょうよ」
「……」
こいしちゃんは涙を拭いたが、まだ不安そうな顔をしている。
彼女の話で、問題の色々が見えた気がする。
私が言うのも難だが、この姉妹にはコミュニケーションが足りない。本当はお互い愛し合っているのに、どう接していいのかわからなくなって、すれ違いを続けている。姉は不器用だし、妹は臆病だしで、二人だけじゃどうにもならなくなっている。かといって、私がこれ以上あれこれ口出ししていても、よくはならないだろう。それでは私に都合のいい展開にしかならない。
私はあくまで、二人の間に架かる橋でいなければいけない。二人のためには、私の見ている前で、二人で話し合ってもらうのが妥当だろうと思う。でもさとりは不器用だから、こっそり脳内でアドバイスくらいは、してあげたほうがよさそうだけど。
「……こいし」
こいしちゃんが黙ってしまった頃に、さとりは呟いた。意識が回復してきたようだ。
私はすぐさま顔を寄せて尋ねる。
「さとり、聞こえる? 私が誰だかわかる?」
「水橋……ナビィ」
「惜しい」
ふざける余裕があるようなので、安心した。
どちらかというと、余裕がなさそうなのはこいしちゃんのほうだ。すっかり緊張してしまっていた。
でも、さとりが微笑みかけると、少しだけ緩んだようだ。この瞬間は、いい感じに心が伝わっているようで、愛を感じた気もした。このバカ姉も、たまには姉らしいことができるらしい。やればできるじゃないか。
「いやあ、焦りました。とてつもなく怖いものを見せられましたよ。パルスィ、貴方は何をしたんですか」
彼女はぐいっと上半身を起こして、私に尋ねた。なんだか、意外に元気そうだ。
言うところの「とてつもなく怖いもの」とは、間違いなくさっきのアレだろう。アレ。
やっぱり、さとりが倒れたのは、私の心を通してアレを見たせいだったようだ。申し訳ないことをした気がする。
「ごめんね、倒れるとは思わなかった。アレ、あんたの催眠術とそう変わらないはずなんだけど、おかしいわね」
「……さっきから、説明されても、心を読んでも理解できないんですよ、アレ」
私の催眠術は記憶を引き出すだけですよ、と彼女は言う。
「だから、記憶を引き出したのよ。いや、記憶の中に無理やり入り込んだっていうか、私とあの子を繋げる記憶というか、アカシック・レコードというか、伊弉諾物質というか」
「わ、わからない。だってその場にいる誰も、あんなに膨大で支離滅裂な記憶、持っていないじゃないですか」
「そうね。でも、何か感じるものはあったんじゃない? それが答よ」
「……わかりません。ただただ、怖いです」
らしい。やっぱりそうなんだな、という印象だ。わからないからこそ怖いのだろうとも思う。
アレこと無意識の世界は、ロジックも何もあったものではないから、苦手な人はとことん苦手そうだ。
もっと説明を加えてみてもいいのだが、アレが何なのかは、この際そこまで重要でもなかったりする。
「まあ別にわかんなくても人生に影響はない。それより……たまには妹と話をしてみない?」
起き抜けにはちょっと負担かなとも思うが、私は切り出した。するとさとりは、私の心を読んで瞬時に全てを察したらしい。真剣な顔になって、頷いた。
「……いいでしょう。なんだか私には今、こいしが二人いるように見えているんですがね」
「あんたの大事な妹は、世界に一人だけよ」
「もちろんです。早くいつものクソ橋姫に戻ってください」
「私は平気だよ」
「や、だいぶバグってますよ貴方」
そうかね。自分ではピンとこないが。
さとりはもう、よく見るすまし顔だった。
私はこいしちゃんの肩に手を置いて、そっと名前を呼んだ。彼女は、不安そうに目を伏せたり、私を見たり、姉を見たりして、落ち着かない。それを見た姉も影響されたのか、ちょっと寂しそうな顔をしだす。
どうせ相思相愛なんだからもっとガンガンいけばいいと思うが、好きゆえに不安になることもあるか。難しい。
ちょっと急かしすぎたかな、と思ったところで、こいしちゃんは急に決心したように唇を噛み締めた。
「おねえちゃん」
そして、やっとの思いで声を発した。
声は、泣いていたときよりも震えていた。
「こいし」
「あの、ね。怖いところにいたんだけどね、道の向こうにね、山が見えたの」
「山?」
「あれっ、男の子だったかな」
あっやばい。
たぶんこれ無意識語だ。
こいしちゃんは、日本語で話すのをうっかり忘れるほどテンパっているようだった。さとりは話についていけるだろうか。
「その子に呼ばれたから、近づいたの。そしたら、その子がお姉ちゃんになった」
「びっくり性転換ですね?」
「いや、違うな、男の子とお姉ちゃんの間に何か、もう一種類あった。男の子がそれになって、それがお姉ちゃんになったんだけど……うー何だっけ」
「んー、天使か、ナメクジでは?」
「違うよお。性転換は関係ないよ」
大丈夫か、これ。
これは会話と呼んでいい代物なのか。
話についていこうと全力で頑張っている姉の努力が見て取れて、なんとも健気に思った。早くも助け船を出したくなったが、なるべく口を挟まない約束なので、まだ脳内からエールを送るに留める。頑張れ。
「うんと、えっと、お母さんかなあ。でもなんか違うなあ」
「……で、お姉ちゃんになって、どうなるんですか?」
「あっ、そうそうそれでね、わたしが色んな人に囲まれて、色々言われるの。男の人は服を脱げって言って、女の人は脱ぐなって言ってた」
「なんだと」
さとりはすごい勢いで立ち上がった。
待て、落ち着け姉。これは無意識語だ。言葉通りに受け止めてはいけない。
とテレパシーを送ると、ベッドに座り直してくれた。危ない。
「でもお姉ちゃんは、脱いだほうがいいって言ったから、脱ぐことにしたよ」
「えっ、そ、そうですか? でもどうせなら二人きりのときにしてほしかったんですが」
だから、そういう意味じゃないんだってば。……いや、だめだ。突っ込みを入れ始めたらきりがない。
とても円滑とはいえない会話だが、一応話は繋がっているようなので、私は静かに下がって丸椅子にでも座っていることにした。足音を立てないように、そーっと歩き出す。
と、そんなときに限ってである。
私はタンスの角に小指をぶつけた。
「痛゛あ゛っ゛!?」
我慢できず叫んで、うずくまる。
やってしまった。ドジ・オブ・ドジである。痛いなんてもんじゃない。超痛い。
二人の視線も痛い。
「ぱるさん! 大丈夫?」
当然、会話は中断された。こいしちゃんが心配そうに寄ってくる。
やっちまった。やっちまった。ああ、せっかく姉妹の仲がよくなるチャンスが。
すげえ申し訳ないことをしてしまった。これじゃ、死んでも死にきれない。小指をぶつけてもぶつけきれない。
「ごめん、私、だめな橋だわ……この橋ゴミでできてたわ……ゴミ橋だわ……ゴミ橋ゴミスィだわ……」
「な、何言ってるのぱるさん」
恥ずかしくて目を上げられない。最悪だ。ここまできて、これはないわ。
「大丈夫だよ。ぱるさんは、わたしの優秀なド……お目付け役だから!」
「お嬢様、その優しさは逆に悲しくなります」
奴隷って言いかけてたし。
「えと、あの、ぱるさん、わたし、大丈夫だよ。元気出し……あ」
いきなり、彼女は何かに気づいて口をぽかんと開けた。
そしてさとりの方へ向き直して、呟いた。
「ぱるさんだ」
と。
「男の子が、ぱるさんになって、それからお姉ちゃんになったんだ」
感激したように言う妹。だが姉は相変わらず、ぐるぐるこいしちゃんワールドに困っている様子だ。
「あ、ああ、その話ですか。……それはそれで、超進化ですね?」
頑張れ姉。大好きな妹の言葉を、なんとか聞いてやってくれ。
戸惑っている彼女を尻目に、私だけがこいしちゃんの言葉で気づくことができてしまった。
さっきからこいしちゃんが無意識語で言っているのは、あの無意識世界でのできごとなのだ。私は男の子から進化した記憶はないけれど、さとりになっているのは間違いない。
私が見たのは一部だけとはいえ、やはりこいしちゃんの見た世界と同じものだったようだ。
とりあえず二人の話らいには戻ってくれたので、私は改めて椅子に座って、続きを聞こう。咳払いをしたくなったけど、我慢。
「お姉ちゃん。あのね、ぱるさんが出てきたとき、ちょっと怖かったの」
「怖かった?」
「お姉ちゃんとキスしたときのこと、思い出して……」
「……あぁ」
さとりは、遠い目をした。少しずつ、話が見えてきただろうか。
無意識世界の物体は姿というものを持たないので、私たちの目には、心の中にあるものの姿で表現されて見える。あの世界でこいしちゃんのいた場所は、始めは暗い廃墟で、一瞬だけ農村になって、混沌と人混みの空間になった。きっと、あれはこいしちゃんの記憶と心象を表現したものだ。
私の姿が男の子だったり、さとりに変わったりして見えたのも、彼女の無意識にとって意味のあることだったのだろう。
「あのときのこと、憶えてる?」
こいしちゃんは問う。
「キスした瞬間ね、わたし幸せだったんだよ。でも、同じくらい怖かった」
「……ええ、憶えていますとも。私も、貴方と同じ気持ちでした。唇を近づけると、読み合った感情がリフレインして、増幅していったわ。私たちのどちらが先に幸せを感じて、恐怖を感じたのか、わからなくなって」
「うん。そうだった。そうだったね」
相変わらず不器用そうな感じだが、二人の縁の糸は、やっと紡がれ始めたようだ。
私の解釈だが、あののどかな農村がキスした瞬間の心を表していたのだろうか。だとすると、ちょっとほっこりする感じだ。
けれどその前は廃墟だったし、その先は混沌と暗闇だった。
「あの日から、わたし、お姉ちゃんのこと怖くなった」
「私も、貴方のことが怖かったです」
「ほんとは、愛してほしかっただけなの」
「私も愛していたかっただけでした」
「愛してなかった?」
「かもしれません」
「そうだよね」
「無理にでも愛そうとは、思っていました。だって貴方には、私しかいなかった」
「そうだね。わたし、お姉ちゃんをめちゃくちゃにしちゃった。怯えて孤独になろうとしたのは、わたし。そのくせ愛されたくて、でも愛することができなくて、頭おかしくなってったのも、わたし。全部わたしのせい」
「そんな貴方を見捨てられずにいたのは、私です」
「お姉ちゃん、優しかったよね。そんな優しいお姉ちゃんを、傷つけ続けたのもわたしだよ。わたしがいなければ、お姉ちゃんは傷つかずに済んだ」
「……今、それを否定しても肯定しても、意味なんてありませんよね」
さとりは、そこでいったん口をつぐんだ。妹の腫れた瞼を見て何を思ったのかはわからないが、彼女は続けてこう告げた。
「でもおかしいの。今更になって、貴方に『愛してる』って伝えたくて、仕方ないの」
「え」
「なのに伝え方がわからなくて。貴方と心を通わせることが、もうできないから。言葉なんかじゃ、伝わらないって気がして。ずっと、伝え方を考えていたんです」
「……」
「ずっと貴方を傷つけてきたのに、今更『ごめんなさい、今では愛しています』なんて言葉を言うのは、馬鹿げてるでしょう。そういう嘘をつく人間を、たくさん見てきましたから。たとえ本心だったとしても、そんなこと言ったら、余計貴方に嫌われちゃう気がして、言えなかった」
心を読める妖怪は、あまり言葉を信じない。
姉にとってみれば、ものすごく単純な話だった。妹が眼を閉じるまで思いつめたのは自分のせいだと思っているので、謝りたいけど、謝り方がわからなかった。以上。
そこで、私にケツ拭いをさせようとしたわけだ、こいつは。
まったくどうしようもない幼女である。最初から素直にお願いすればいいものを、この負けず嫌いはわざわざ面倒な方法を取るから、ややこしくなる。私はこのために異世界まで行ったんだぞ。
とか文句を垂れつつも、悪い気分ではなかった。
こいしちゃんは泣いていたけど、笑っていたから。
「お姉ちゃん。わたし無意識になってわかったんだけどね、言葉ってすごいんだよ。意識の世界はね、言葉の力で分節されてるの。言葉には、世界の一部に名前をつけて、世界を分割する能力があるの。だから、みんなこの広い世界の事物を抽象的に理解して、意識できるの。無意識の世界には言葉がないから、意識できないの。でもね、本当は同じ世界なんだよ。同じものの違う面を見ているだけで、」
「あの、こいし、私にもわかるように言って」
「んと……つまり、その。わたしは今、お姉ちゃんの言葉が嬉しいです。すごく嬉しいの。お姉ちゃんの本心はわからないけど、それでも嬉しい」
彼女は、胸に手を当てて喜んでいた。さとりは首を傾げていたが、考えても仕方ないと思ったのか、やがて一緒になって喜んだ。
「貴方は今、嬉しいのですか」
「うん」
「本当ですか」
「うんっ」
「どうして、嬉しいのですか」
「うーん、それについては、根源まで遡らなくちゃいけないね。まず、感情の芽生えが無意識の――――」
「やっぱいいです。こいし、愛してます!」
「――――うん。わたしも、またお姉ちゃんとキスしてあげてもいいかな、ぐらいは思ったよ」
「まじですか」
さとりは、恋する乙女みたいな顔をした。梅の花飾りが揺れた瞬間が、正直めっちゃかわいかった。
恋する相手は実の妹だというのが心配だが、まあ今更こいつにそれを言ってもね。
「今なら……うん。きっと平気。キス、しようよ」
こいしちゃんはそう言うと、両目を閉じた。
きっとトラウマだらけのキスなんだろうに。
克服できるといいな、と思いつつ。
私は二人を見ながら、爆発しろと百回ぐらい念じた。
それからというもの、さとりはキス魔と化した。
なので今ちょっと、こいしちゃんにうざがられている。ざまあ。
最初の一日二日ぐらいは、こいしちゃんも乗り気だったのだが。五日目の今日になってついに耐え切れなくなったらしく、「逃げますわよ、がちゃぴん!」と言って、私を連れて走り回り、挙句一緒に私の部屋へ閉じこもり、鍵をかけてしまった。
「ねーがちゃぴん、なんとかしてよ」
ついにムックとすら呼ばれなくなった私である。呼ぶなって言ったのは私だが。
「なんとかって言われても、縁切りしかできないわよ私は」
「そんなご謙遜なさらないで、お姉ちゃんの唇ぐらい斬り落としちゃってよお」
「どんな剣豪よ、それ」
そんなクソつまらぬもの、斬らせようとしないでほしい。
「だって、毎分一回キスしてくるんだよ。さすがにうざいよ」
「今頃気づいたの? さとりがうざくない日なんてないわ。諦めなさい」
「そうだけど!」
こいしちゃんはそんなふうに言っているが、けっこう楽しそうである。私の出番なんて、ないと思うのだが。
だって絶対、今幸せだろうあんた。わかるんだからね。
あんまりイチャイチャしているところを目撃したくもないし、もう放っておきたい。末永く爆発していればいいじゃないか、お前らなんてさ。
「うー。ぱるさん、最近冷たいような……」
彼女は、しゅんとした。
多少、胸が痛む。本当は、彼女のことがとてもかわいいと思っているけど。頭なでなでしたいけど。してはいけない。
「何よ。要するに、私に構ってほしいわけね?」
「う、うん」
「なるほど。大好きなお姉ちゃんの愚痴とか惚気を聞いてほしいわけね?」
「う……うん」
「だが断る」
聞くかそんなもん。
「なんで橋姫がリア充と仲よくしなきゃならん。爆発しろやい。ジェラシーボンバーすっぞ。あんたなんかジェラボンよジェラボン」
「ど、どうしよう、やっぱり、ぱるさんの様子が変だ……。おねえちゃーん!! ぱるさんがー!! ぱるさんが変になった!!」
こいしちゃんは、鍵をかけたドアごしに叫んだ。
変だそうだ。
向こうに聞こえるのかな、と思ったけど聞こえるらしい。『こいしーーーー!!』と、遠くから頑張って叫ぶウザ姉の声がした。あっちも幸せそうである。
そこでこいしちゃんは気づいた。
「あ、お姉ちゃん部屋に入れたらダメなんだった。おかされちゃう」
「もういいんじゃないの犯されれば」
心配そうな顔をする彼女に、私は適当に答えた。
「ここで?」
「おう」
「……見たいの?」
「う」
彼女のその言葉で、正直ちょっと迷った自分に失笑した。
見たい。
変態チックな笑みを浮かべていたら、さとりが部屋の前まで来た。うるさく叫びながら、ドアを乱雑に叩き始めた。
『こいし!! どうしたんですか!? あれっ開かない。こいし、開けて!! こいし愛してる!!』
本当、妹のことになると途端にやかましい姉である。
というか最近はテンションが上がりすぎて、初めて彼女ができたときの純情少年みたいになっている。
こいしちゃんは、困ったような顔を浮かべた。
「あ、あの、そこで聞いて。ぱるさん、拗ねちゃったみたいなの」
「いや私は別に拗ねてなんか」
「嘘。わかるんだからね」
わかられてしまった。さすがは無意識だ。
ちょいちょい不埒な妄想してるのも、もうばれてそうだった。
「お姉ちゃん、わたしどうしたらいいかな」
『それは大変。パルスィは私たちの恩人です、なんとかしなくては』
てっきり「放っておけばいいですそんなことよりこいしちゅっちゅ」とか言われると思ったが、さとりは案外気にかけてくれた。突然気にかけられても、却って反応に困る。
でもちょっと嬉しい。
『なので、まずはドアを開けてください』
「嫌」
真顔で即答する妹。報われない姉である。ここまで来るとちょっと可哀想な気もしたが、自業自得だから仕方が――――
『パルスィ、開けてください。さもないと、貴方が普段こいしをどういう目で見ているか、ばらしますよ』
「今お開けしますご主人様」
――――仕方がないから開けよう。うん。
「うわー! ぱるさんが裏切った!」
こいしちゃんが止めようと抱きついてくるが、所詮ちみっこい妹妖怪である。全然力が足りないので、ただ私が得しただけに終わった。
ドアを開くとさとりが仁王立ちしていた。なぜか、服のフリルがいつもより二倍ぐらい多かった。袖のデカさも二倍ぐらい。かわいいといえばかわいいが、邪魔くさそうだ。
そして花の髪飾りが気に入ったらしく、今日は頭に白のアザレアを乗せている。
「ふふふ。この格好はですね、こいしを抱きしめたとき、ふわふわ感が増し増しなのです」
「そう」
興味なかった。
どうせ私には関係ない。
「ああ、なるほど。確かに拗ねてるようですね。私たち姉妹がラブラブすぎるから」
さとりはドヤ顔で言った。
ふーんだ。その通りだよ。心読むな。
こいしちゃんは首を傾げる。
「どうしよう?」
「大丈夫、キスすれば治ります」
「なるほど」
彼女は、キス魔の言葉に納得したらしい。
なんで納得するんだ。
さすがに、私は慌てた。
「な、なるほどじゃないでしょ。私にキスしたらだめでしょ。せっかくあんたたちの仲、よくなったんでしょ。私にそんなことしたらだめでしょ」
「こいしは妹。貴方はペット。だからおっけーです」
「えっ? は? え?」
何が「だから」なのか、さっぱりわからない。
「姉妹がキスをするのは当たり前ですよ? ね、こいし」
「うん。当たり前」
「だからオッケーです」
「うん」
わからん。
おかしい。
さっきまで嫌がっていたのに、こいしちゃんまで。
「あのね、パルスィ。私たちは貴方に感謝しているんです。貴方がいなかったら、私たちの仲は取り返せなかったでしょうから」
「うんうん」
「貴方のおかげで、私たちは今とても幸せです。けど、だからといって、恩人の貴方に寂しい思いをさせるわけにはいきません」
「うんうん」
「私たちはお互いを愛していますけど、貴方のことも同じくらい愛しているんです」
「うんうん」
さとりは割と真面目な顔で言い切った。こいしちゃんも頷いている。
本気で言っているのか、こいつらは。
自分が何を言っているか、わかっているのか。
「ええわかっていますとも。いいじゃないですか。私たち全員で、家族なんです。パルスィ。姉妹でキスするのは当然なんですから、家族の貴方とキスするのも当然でしょう?」
「うんうん」
いや、だからそれはおかしいから!
え、何、私がおかしいの? わかんなくなってきたんだけど?
さとりは私の身体をぐいっと押して、ベッドに座らせた。私の目線の高さが彼女よりも低くなって、顔同士の距離は近くなる。
いや。
いやいやいや。
「パルスィ、貴方が望むこと、叶えてあげられると思います」
さとりはそう言って、私の右側に座る。
「ごまかしてもだーめ。何が欲しいかなんて、もうわかってるよ」
こいしちゃんは、私の左側に。
「私だってパルスィのこと、好きですから」
えっ。
いきなり告白された。
「貴方には、こいしのことを任せましたけど……別に、貴方たち二人を仲よくさせたかったわけじゃ、ないんですからね」
さとりの顔は真っ赤だった。でもたぶん、私も同じだろう。なんだかめちゃくちゃ暑いから。
彼女は、恥ずかしさを振り切るように叫んだ。
「こいし! アレをやるわよ!」
「ええ、よくってよ!」
すると、私は姉妹二人がかりで、がっちり両腕を押さえつけられた。
えっ、ちょっと?
アレって何?
あっさとりの服めっちゃふわふわ。じゃなくて。
なんで。
なんで逃げられなくするの。
ちょっとー!
私の望みは、贅沢すぎるようなものだった。
彼女たちの愛を、幸せを、ほんのちょっとだけ分かち合える存在になりたい。
家族っていうものに、もう一度だけ希望を見出したい。
彼女たちの橋になる中で、私はずっと、そんな下心を持っていた。いけない心だと思ったし、今でもそう思っている。こんな望みなんて気づかない振りをしていればいいと思っていた。
なのに、いつの間にか彼女たちは、そんな私の望みを叶えたいと思うようになっていたらしい。
私が彼女たちを幸せにしたいと思ったのと、同じように。
それはいいのだけど、あまりのことなので思わず唾を飲んだ。
両頬に触れた唇の感触に、心がめっちゃくちゃに揺り動かされていく。
意識が遠のいた。
爆発しそうだった。
そうだ、橋に行こう。橋は私の憩いの場だ。橋に行くと救われたような気分になる。橋はいい。独りで静かで豊かで……と考えながら家を出ようとしたところで、後ろから服の裾を引っ張られた。
さとりだった。
なんだ。邪魔すんのか。
「あの」
見上げる彼女は、真面目な顔だ。
ヘアバンドの飾りが、今日はハートじゃなくて花飾りだった。たぶん梅の花。
けっこうかわいいのでほっこりした。
「かっかわいくは、ないですけど」
「そうか」
勝手に心を読んで勝手に照れるのが、またかわいいから困る。思い起こすと、こいつがかわいいから、私はここに住む気を起こしたんだったような気もする。
ぐへへ、かわいい女の子はなでなでしちゃうぞ~、と手を伸ばしたら、手首を掴まれた。
「ちょっとお話があります」
そう言う彼女に手首をくいくい引っ張られ、私は客間に連れて行かれた。
痛い。
客間では、ガラスのテーブルを挟んで皮のソファが向かい合っている。壁にはいくつかの西洋絵画が飾られているが、部屋の照明が薄暗くてあんまりよく見えない。
なぜかやたらとムーディだ。マティーニを作りたくなる。
「今度やりましょう。で、ですねパルスィ」
ソファに腰かけ、バー・スプーンでかき混ぜる仕草をしてみる。だがさとりが真面目な顔をしたので、やめた。
「何かな」
「こいしのお目付け役になってほしいのですよ」
カタン、とスプーンを落とした。
つもりになった。
「いうなればセバスチャンです」
誰だそいつは。
何かひとつぐらい家の仕事をするのは、やぶさかではなかった。私はほとんどタダで家に置かせてもらっている身だから、むしろそのぐらいしないと罰が当たるというもの。
しかし、この仕事は無理難題だ。こいしちゃんは、ここにはいない。この家にも、私の橋にもいない。すぐに無意識の世界へ消えてしまうのだ。いないやつのお目付け役になるのは難しい。
「大丈夫ですよ、パルスィならできます」
「できません」
「できますって。だって、……そうだ、ちょっと手を伸ばしてみてください。適当に」
「あ? こう?」
言われたとおり、左手を横に伸ばしてみる。すると、薬指と小指がこいしちゃんの鼻の穴に刺さった。
「ふが」
彼女は私の横で呻いていた。あまりにも可哀想な状況だったのですぐさま抜いてやる。それを見てさとりは言った。
「やはり貴方には、こいしを見つける才能がある」
ドヤ顔だった。
「……グルでしょ、あんたら」
「どうでしょうね。こいしに聞いてみたらいいです」
怪しい。
「わたし? ん、えっと、何の話をしてるの?」
何も知りません、といった感じで、こいしちゃんは小首を傾げた。ふわふわの髪先が揺れる。オッケー、かわいいから許す。もう細かいことはいいや。
「私がこいしちゃんのお世話係になるって話よ」
「介護はまだいらないと思う」
彼女は真面目な顔で答えた。うん、私もその通りだと思う。
しかしさとりの考えは違った。
「いります。毎晩当てもなくふらふら出歩いて、危なっかしい。今に帰ってこられなくなりますよ」
心配症だった。
こいつは妹のことになるとすぐこれである。
「そんな、徘徊老人みたいに言わないで」
「貴方は――――」
たぶん、「似たようなものでしょう」なんてことを言いかけたのだろう。だがさすがのさとりも口をつぐんだ。
そして、彼女は私のほうを一瞥して、それからこいしへ急に笑いかけた。
「――――まーこいしが嫌だというなら仕方ないですね。貴方も女の子ですから、いくらパルスィ相手だって一日中くっついてずっと一緒に仲よく傍にいるなんてことできませんよね」
わざとらしい喋り方だった。なんだこいつと思ったが、こいしちゃんには引っかかるところがあったらしい。
「ずっと一緒? ……あっ」
何かを察して、目を輝かせた。
姉は、例のドヤ顔になった。
「そう、ずっと一緒です。お目付け役だもの」
「ぱるさんと?」
「そうですよ」
「健やかなるときも、病めるときも?」
「もちろんです」
「お風呂も、トイレも?」
「こいしがひとつ命令すれば、どこへでも」
「どこでも、何でもしてくれるの?」
「ええ、お目付け役ですからね」
「……ごくり」
あっこれ、なんかマズいパターンだ。
ここは一言、物申さねば。
「待って二人とも。お目付け役は奴隷ではないわ」
私がそう言うと、二人はきょとんとした顔をする。
「奴隷だよね?」
「奴隷ですね」
「おい!!」
絶対マズかった。
もう、こいしちゃんの中では答が決まっているに違いなかった。すなわち、私をお目付け役という名の奴隷にする、と。
貴様謀ったなと、さとりに向かって心の中で呪詛を唱えまくる。だがさとりは全然聞いていなかった。妹と両手を繋いで、「どっれっい♪ どっれっい♪」と嫌な歌を歌っている。
一見子供のように見えてよく見るとちょっと大人びているさとりだけれど、こうしているとやっぱり子供だと思った。
何を考えているんだか。
「お姉ちゃん、わたし、ぱるさんのこと奴隷……じゃなかったお目付け役にする!」
こいしちゃんはわざわざ宣言した。
「決まりですね。じゃ、パルスィあとよろしく」
「拒否権は」
「ないです」
きっぱりである。
ああ、肩身の狭い居候かな。
「……なんなりとお申しつけを。お嬢様」
こうなりゃヤケだった。私はひざまずいてこいしちゃんの手を取り、軽くキスをした。姉が発狂するといけないので、触れない程度に。
こいしちゃんお嬢様はそれにいたく感激されたご様子で、ご頬にお手を添えて仰った。
「わー、かいかーん」
そいつはよかった。
でも、さとりが去り際に、
「こいしに変な気を起こしたら殺しますからね?」
とか言ってきたので、私はもう嫌な予感しかしていない。
変な気、起こしてやろうか。
「どうしてまた、急に帰ってきたのよ?」
道すがら、私はこいしちゃんに尋ねた。
「え? 家にずっといたよ」
「ああ。どうせそんなのだろうと思ったけど」
やっぱり、さとりにハメられた気がする。
いつも無駄に楽しそうなこいしちゃんだが、今日はそれ以上に機嫌がよく、私の斜め前を歩いている。デートという名の強制連行ができてご満悦らしい。
風の向くまま、気の向くままにぶらり旅。今日が楽しければそれでいい。彼女には、きっと過去も未来もないのだろう。妬ましいことだ。
私はご主人様に命じられて、こいしちゃんお嬢様のお目付け役となった。この役目は少々重い。橋守の仕事と兼任だからだ。
こいしちゃんと四六時中一緒にいるということは、この暇な時間に彼女を拘束せざるを得なくなるわけだ。ずーっと、ぼけーっとしていればいい仕事だったのが、今後はそうもいかなくなるだろう。お嬢様のために、よりよい時間にしなくてはいけない。
大変そうだが、とっても楽しみでもある。
「さて、どうしよっかね、橋守している時間」
そう問いかけるも返事がない。
気がつくと、隣にこいしちゃんはいなかった。
「ちょっ」
いきなり大ピンチだった。
彼女を一旦見失うと、再び視認するのはとっても難しい。やばい。無意識やばい。
こんな体たらく、さとりに知られたら、しこたま怒られるだろう。そして一週間ぐらい、一緒にお風呂に入ってくれなくなるのだ。
いやだー。
だがまだ遠くには行っていないはずだ。すぐ見つければセーフ。セーフに相違ない。
場所は旧都の端っこのほう。まばらに建った古民家の他に死角は少ない。探せなくはなさそう。たぶん。
「こいしちゃん!」
まず大声で呼ぶ。反応らしき反応はない。
「こいしちゃーん! どこー!?」
反対側にも声をかけてみる。だが声は虚しくこだまするだけだった。近くには、いるはずなのに。
手近な廃屋の周りを探ってみる。だが、見つからない。
「頼むから出てきてよ……!」
隣の古民家まで走る。そして、探る。いない。
ああこれ、マズいなあ。脳裏に最悪の展開がちらつく。探せど探せど見つからないこいしちゃんは、外れの民家で私が見つけてくれるのを待っている。ずっとずっと待っていて、しかし見つかることはないまま、とうとう民家の住人が帰ってきてしまう。こいしちゃんは不法侵入していたことを咎められ、責任を取るよう催促される。だが身一つで出てきたこいしちゃんに支払えるものなどない。ならばと住人は、げへへ許してほしければ身体で支払うんだなァなどと言い、こいしちゃんの着ている服を乱暴に――――。
「ぱるさん、なんで泣きながらニヤニヤしてるの?」
こいしちゃんは目の前にいた。
よかった出てきてくれて。本当よかった。古民家の厠あたりで襲われなんてしなかったんだ。
「……あんたが急にいなくなるから、寂しくて泣いていたのよ。出てきてくれて嬉しいから笑っていたのよ」
「そうなの? 変だなぁ」
うん。変な妄想していただけなんだけど。
そんなこと言えない。
小さなこいしちゃんは私を見上げて、可愛らしく首を傾げた。
「ぱるさん、わたしのこと嫌だって思ったでしょ?」
「え」
「わたしがいると面倒だなあ、とか」
言葉と裏腹に、彼女は相変わらず笑顔だった。
「そんなこと思ってない」
「嘘。わたし眼は閉じたけど、わかるんだよ。そのぐらい」
閉じた第三の眼を、彼女はいたわるように撫でる。
いや。あんまりわかっていないと思う。少しだけは見抜かれたけど、少しだけだ。確かに、大変だなあ困ったなあぐらいには思ったが、けれどそれは別に、こいしちゃんといるのが嫌だったという意味ではない。
「開けたほうがいいんじゃないの。ポンコツな性能よ、それ」
こいしちゃんの笑顔が崩れたのは、この瞬間だった。そして彼女の視線は、考え込むように宙を泳いだ。
「ぱるさん」
「ん?」
「わたしのこと、嫌いにならないで」
瞳が、こちらを向いた。さっきより、ずいぶん弱々しい瞳に思える。
「どうして、」
そんなことを言うのかと、私は尋ねた。だが彼女の瞳は私を見ているようで、見ていない。月並みな私の言葉なんて、届いていないらしい。
「嫌われたくない」
「嫌わないよ」
「嫌わないで……ほしいです」
この子が何を考えているのか、私にはまだ掴めなかった。
橋の番をしているが、案の定こいしちゃんは暇そうにしていた。あっちこっちうろちょろして、全く落ち着きがなくなってきた。
はあ、可哀想に。
「ぱるさん、ずっとこんなことしてたんだ」
彼女はそう言うと、くだらないものでも見るように私を見た。
超つまらなそうだ。
「そうね」
「暇じゃないの?」
「考えごとに時間を費やせるから、暇じゃないよ」
「そうなの? どんなこと考えてるの」
いろいろ。
と答えてもいいが、それでは本当につまらなすぎるので、ここは会話を弾ませるような答を出したいところだ。
「こいしちゃんは今ごろ何してるのかなーって考えてる」
「え」
なんじゃそりゃ。と脳内でセルフツッコミをしたが、純情なこいしちゃんには効果があったらしい。彼女の顔がみるみる赤くなっていく。
かわいいぞ。
「や、う、嘘だよー。ぜったい嘘だよー。ぱるさん、わたしのこと、そんなに思ってなんか、うう」
「割と嘘じゃない」
「ええっ」
割と嘘じゃない。うん。
こいしちゃんのことは、好きか嫌いかで言えば、大好きだった。
もう失ったとばかり思っていた、私のなけなしの母性を引き出したのは彼女だった。この子を娘にしたいと何度思ったことだろう。
妹でもいい。こんなにかわいい子が妹だというのだから、さとりはずるい。
私にも育てさせろ。
「こいしちゃん、うちの子にならない?」
「ええええっ」
あー、こいしちゃん育てたいなあ。でもどうせなら産むところから始めたい。
こいしちゃん産みたいなあ。
どうしたらこいしちゃんを産めるのだろう。こいしちゃんと結婚したら、こいしちゃん産めないかなあ。
「涼しい顔して、何言ってるの」
こいしちゃんは両頬に手を当てて、あたふたした。声もすっかり裏返って、大慌てのご様子である。
「冗談よ」
私がそう告げると、彼女は照れながら口を尖らせる。
「そういう冗談言ったらダメだよ」
「あら、その気にさせちゃったかしら」
「え……や、違、そんなんじゃなく、て」
あれ。いや、だめだろう、この展開。
私はただ、目の前に私がいると意識してもらえればいい、それだけの思いで言っただけだ。
と、心の中で自分に言い聞かせてみる。でも、どう考えても言い訳である。
「……ううっ。ぱるさんのばかぁ」
こいしちゃんは真っ赤になって、私の肩をぺしぺし叩いた。
まずい。かわいい。めっちゃかわいい。
かわいいけど、あんまりからかうのはいけない。私は彼女の保護者として雇われたお目付け役だ。あんまり困らせるようだと、姉に刺される。
こいしちゃんが上目遣いで見上げてくる。こういう、乞うような表情だけやたら上手なのはなぜなんだろう。
思いっきり抱き締めたい衝動に駆られるのだが、そこは我慢しなくては、立場上色々と拙い、のだ、が。
ぐぬぬ。
むおお。
ぱっちり開いた二つのまんまるい瞳に、私の姿が映っていた。三つめの瞳は閉ざされてしまった。
彼女が眼を閉じたことを、私は別に悪いことだと思わない。そういう生き方をしたって、誰に迷惑をかけるわけでもないから。でも可哀想な子だなあとはつくづく思っていて、優しくしてあげないといけないような気分には、しょっちゅうなる。
「ねえこいしちゃん。終わったら、一緒にどこか行きましょうか」
「ほんと?」
どうせ人なんて通るものでもないので、私の勤務時間はそんなに長くない。子供の門限程度で帰ったって、文句を言う奴はいるまい。早めに切り上げてこいしちゃんと遊んでいたほうが、遥かに有意義だ。
暇だった頃は、帰ってもすることがないし、だらだら残業もよくしていたのだが。
今は手のかかる娘がいることだし。
「それまでは辛抱してちょうだい」
「わかった」
こいしちゃんはキリッとした顔をして、背筋を伸ばした。いい子にしているぞーという意思表示か何かだろうか。大変微笑ましい。
微笑ましいが、真面目な顔をしているからって急にいなくならないとは限らないのがこいしちゃんなのである。心配だから、逃げないように手を握る。彼女は照れた。
「……すごいね、ぱるさん、騎士様みたい」
何がすごくて何が騎士みたいなのかは、よくわからなかった。
「逃げられないように縛りつけてるだけよ」
「いばらのつるで?」
「そんな痛そうなのでは、やらないわ。せいぜいタオルとかよ」
「へー。ぱるさん、そういうタイプか」
どういうタイプだろう。
「意外」
らしい。わからん。
この子の言うことは、たまにわからん。
「……一体、私の何を見て喋ってんのよ、あんたは」
「え? 無意識」
「だよね」
これが無意識語か。
彼女の手はすべすべだった。地底の寂れた景色には不釣り合いにさえ思える、綺麗な傷ひとつない肌。けれど彼女の心は、大きな傷を抱えている。らしい。閉じた三つめの瞼が、生々しい傷跡のように見えなくもないが、私はこうなるに至った経緯を詳しくは知らなかった。
気にならないわけではないのだが、そんなことより大事なのは未来のことだ、と思うので、あえて何も聞かずに接している。過去にすがってくよくよ生きてきた私だからこそ、彼女にはそうなってほしくない。忘れたい過去があるなら、忘れてしまったほうがいいに決まっている。
そのために眼を閉じたんだろうな、とは勝手に思っている。
「まあいいわ、いばらでも何でも。私を置いてどこかへ行きたくなったら、せいぜいこの手を払いのけて行くことね」
ちょっとした橋姫ジョークである。
こいしちゃんは苦笑いした。
「それ、ゆるく縛ってるけど、やっぱりいばらだよ」
わがお気に入りの店は、野点傘の下でいただく古風な茶屋だ。傘なんてあってもなくても地底に陽は当たらないって話なのだが、こういうのは気分の問題だということを、ここの店主はよくわかっている。それに、陽が当たらなくとも旧都に吹く風で季節を感じることはできる。そうやって食べるお菓子が絶品なのだ。
緋毛氈の床机に二人で腰掛ければ、もう満席である。でもこれで問題ないらしい。この店は旧都の中心から外れたところにぽつんとあり、人通りなんてほとんどない。だから、客足なんてたかが知れているそうだ。
目の前には鼠色した街道が横切っている。その向こうは、鬼たちがせこせこ造った公園が見える他は、誰かが住んでいるのかさえわからない古民家ぐらいしかない。寂れた色彩だ。この店の緋色だけが、際立っている。
「いつもの、今日は二人分ね」
と告げる私。雑談好きな店主のお婆ちゃんが、今日は何も聞かず店の奥へ消えた。こいしちゃんと二人なのを見て、気を利かせてくれたのかもしれない。
「ぱるさんは和菓子好きかー」
こいしちゃんはメモを取っていた。
勉強熱心で何よりである。何の役にも立たない勉強だが。
「あ、お代、わたしが出すよ」
そして、変な申し出をした。
「何よ。ガキが背伸びしないの」
「背伸びじゃないよ。わたし、お嬢様。ぱるさん、召使い。わたし、のーぶる。ぱるさん、ぷろれたりあ」
「そうでした」
一応、雇用扱いはしてくれるらしい。もう奴隷じゃないみたいなのでよかった。
格好つけることもできない大人だとは、なんだか情けない気もするが、身分の差はいかんともしがたい。
「かねならもってるぞっ」
そう言って、こいしちゃんは札束で私の頬を叩いた。おい。
おのれ成り上がり貴族め。その金むしり取ったろか、オウ? お前の下で一生懸命働いて、むしり取ったろか、オウ?
「お嬢様、そんな下品なことをなさってはいけませんぞ」
「あら。わたしに命令するつもりなの、セバスチャン?」
召使いらしくたしなめようとしたら、小芝居が始まった。
「お嬢様、わたくしはセバスチャンではございませんぞ」
「ホセのほうがよかった?」
「ホセでもありませんぞ」
「じゃあムックね」
「ムックは赤いほうですぞ~~」
「緑眼のムックって言うと、ちょっとカッコよくない?」
「そんなグリーンアイズレッドモジャモジャ嫌よ」
「もじゃもじゃ、おいしそうだし」
「おいしくない」
これは最近学んだことだが、私はただの会話であっても彼女に振り回される運命にあるらしい。彼女のぐるぐる急旋回トークに、私が頑張ってついていく。
こういうとき、ああやっぱりさとりの妹なんだなあ、と実感する。姉は狙ってやっている節があるが、こっちは天然だと思う。いずれにせよ、人を振り回すのが好きな性格をしていることには違いない。
あるいは、私が振り回されるのが好きな性格なのかもしれない、と一瞬思ったけど、断じてそんなことはない。ないったらない。
「仕方ないな。ムックが言うなら、上品に振る舞ってあげる」
「お願い、ムックって呼ばないで」
「えー」
「えーって」
他愛ない話をしていたら、店主のお婆さんが戻ってきた。お茶と串団子の乗ったお盆を二つ、順番に差し出した。
「おばあさん、うちの橋姫がいつもお世話になっております。これお代です」
とか何とか言ってこいしちゃんは、お盆を受け取って、人の頬を叩いた紙幣と交換した。お婆さんは孫でも見るようににんまり笑うと、「ごひいきに。ごゆっくり」と言い、また店の奥へ入っていった。
あっ、本当にこいしちゃんに払わせてしまった。
やばい。罪悪感がすごい。
「お団子だー。いただきます」
こいしちゃんは全然気にしない様子で、既に串団子に夢中になっていた。まあこれはこれで満足そうだから、いいか。この値段分、こいしちゃんの来月のお小遣いを増やしてもらえるよう、後でさとりに頼んでおくことにする。こっそり。
「恐れ入ります、お嬢様。いただきます」
「気にすることはないわムック。古明地家の妹として、当然のことをしたまでよムック」
「ムックはやめて」
嫌なコードネームがついてしまった。余計な物まねをしたばかりに。
「ムック、いいのに。今日からずっとムックって呼びたいくらい」
「そういう地味な嫌がらせをするところ、姉にそっくりよ」
「うわ。やめます」
言うと、こいしちゃんは本気で嫌そうな顔をした。哀れ姉。
「ぱるさん、ときどき言ってるよね。わたしとお姉ちゃんが似てるって」
「ああ、前にも言ったことあったか」
「たびたび。でもね、ぱるさんだけなんだよ、そんなこと言うの」
「そうなの?」
「全然似てないって言われることのほうが多いの」
知らなかった。
思わぬところで個性を発揮していたらしい。
「変な人だよ、ぱるさんは。でも、そういうちょっと変わってるところが好き」
「喜んでいいのかね、それ」
こいしちゃんは、飴と鞭みたいにひどいことと嬉しいことを同時に言いつつ、お団子を頬張った。
そしてハムスターみたいに頬を膨らませて咀嚼し、勢いよくごっくんと飲み込むと、いつもの笑顔で「おいしーい」と呟いた。
「そりゃよかったわ」
身分の差さえなければ、ごちそうしたかったのだが……とか思ったところで閃いた。
自分のお団子をこいしちゃんの前に持っていく。
「はい、あーん」
こいしちゃんはたじろいだ。
めっちゃ照れていた。かわいい。
「あ、あーん」
でも一応、一口だけ食べてくれた。嬉しい。
「意外。そういうことするんだ」
「たまにはね」
橋姫だってイチャイチャしたいときぐらい、ある。
たぶん私、めっちゃデレデレしていると思う。
「嬉しい。ぱるさんがお姉ちゃんだったらいいのに」
「それ、さとりが聞いたら泣くわよ、きっと」
「わたしも変わり者だから。お姉ちゃんより、ぱるさんのほうが似てると思う。お姉ちゃんは、わたしの相手をするには普通すぎるもん。普通の覚だから、わたしの心が読めなくなっちゃうんだよ」
何でもないことのように、こいしちゃんは言った。
これが私の心に、小骨みたいに引っかかった。
「そうなの」
私は肯定とも否定とも取れないような、曖昧な返事をしてみる。家族のコミュニケーションという話になると、途端に尻込みしてしまうのが私の悪い癖だった。
一応、悪癖という自覚はある。
赤の他人の話ならともかく、今や彼女たちとは他人というほど他人でもないので余計に苦しい。
私にも色々あったので。
「……この話、嫌だった?」
そして、こいしちゃんは、なぜかこうした私の微妙な心理ばかりをバッチリ読み取ってくる。
「ごめんね」
彼女はすぐさま謝ってきた。
「いや、謝ることじゃないよ。えっと、その、なんて答えようかなって思っただけで」
「嘘」
まただ。
またこうなってしまうのか。
今度ばかりは、嘘じゃないと言い切ることができなかった。一応、嘘は嘘でも優しい嘘のつもりではいたのだが。
そういう半端な態度は、彼女には通じないのかもしれない。
「……ええ、嘘ね。本当はちょっとだけ、嫌だった。家族のことなんて、私にわかるわけないもの」
なので、馬鹿正直に言った。
家族なんてものは。
ついこの間まで、絶対に私の手には届かないところにあったのだ。
「うん。そうだよね。いいの、ちょっと聞いてほしかっただけだから」
「いや、貴方が気にしなくていい。今のは私が我侭だったと思う」
「……」
いつも笑顔のこいしちゃんが、寂しそうな顔をした。
ああ、嫌だ、私は何をやっているんだ。こいしちゃんにこんな顔、させたくない。
彼女はお団子に目を落としたけれど、次の一口を食べようとしない。ついさっきまで、あんなにおいしそうに食べていたのに。
「こいしちゃん、」
「わたしね、」
二人で同時に声を上げてしまった。ちょっとの間、見つめ合った。
「さ、先にどうぞ」
と言ったのは私のほう。
こいしちゃんの瞳は少しきょろきょろしていたが、やがて落ち着くと、
「えと、わたしね、お姉ちゃんと話したいし、ぱるさんと、もっとお話できるようになりたいなって思ってた」
彼女はそう告げた。
「でも、だめだね。わたしなんか、出しゃばったらだめなのに」
「どうしてそんなこと言うの」
「わたしなんかいても、迷惑だもん。そうでしょ?」
「そんなこと、」
「あるよ。でもいいの。どうせわたし、頭おかしいんだし。迷惑なの、わかる」
とても悲しいことを言うくせに、こいしちゃんはもういつもの笑顔だった。そして、なんでもなかったようにお茶を飲み干した。
「こいしちゃ――――」
「はい、これ」
私が何か言うより早く、彼女はお団子を私の口に勢いよく挿し込んだ。不意を突かれた私は、一瞬パニックを起こして――――
「じゃあね。今日は楽しかったよ」
彼女を見失った。
旧都に吹く風は、冬でも生ぬるい。
彼女は笑いながら、でも泣いていたような気がする。
どうして。
ただあの子と遊ぶだけのはずが、どうして逃げられてしまうんだ。自問する。答を探し求めたけれど、わからない。嫌われてしまったのか? 違う。そんな単純な話じゃない。
さとりの心中、今なら察することができそうだ。あいつも苦労してきたのかもしれない。手のかかる妹を持ったものだと、ちょっと同情する。
わけがわからなくて、しばらく呆然としてしまった。そして、ああこれは、普通なら彼女のことを嫌いになる場面なのかもしれないと思った。こいつよくわからないなとか、面倒なやつだなとか思って敬遠するとか、もしかしたら、本当に頭がおかしいんじゃないかと感じて、忌避するような場面なのかもしれないと思った。
でも……なぜか私は、そう思えなかった。今まで見えなかった、いや、私が見ようとしてこなかった彼女の心の闇を垣間見たような気がして、少し考えてしまった。
何かのトラウマを刺激したのだろうか。第三の眼を閉じたことと、関係があるだろうか。何が、彼女をそこまで卑屈にさせるのか。
考えて、わからなくて、緋い傘を見上げる。ぼけーっと、のん気に見た。こうして待っていればこいしちゃんが戻ってこないかとも思ったけど、戻ってこなかった。なんとなく、百年待ったって戻ってこない気がした。
だが、そうやって無為に過ごしていたら、何の脈絡もなくいきなり気づいた。無意識から湧き出たようなひらめきが、なにか私の心の中に確信めいたものを落とし込んだ。
あれだ、と。
私は人の心が読めるわけじゃない。彼女の心のどこに、どんな形の闇が巣食っているのかなんてわからない。
だが、たぶん、そいつは私もよく知っているやつだから、なんとかなるかもしれない。
間違いない。
面白いじゃないか。
私はとりあえず口に突っ込まれたお団子を一個と、それからお茶を平らげて、店主のお婆さんにごちそうさまの挨拶をした。そして歩き出す。不思議と、今度はあまり焦っていなかった。こいしちゃんを見つけ出す自信があった。
『ぱるさん、わたしのこと嫌だって思ったでしょ』
『わたしなんかいても、迷惑だもん』
『わたしのこと、嫌いにならないで』
ついさっき彼女に告げられた言葉たちを、思い出す。超がつきそうなほど後ろ向きな言葉と、それでもすがりつこうとする健気な言葉と。
表面上何でもないような様子で語られたこの言葉たちは、たぶん彼女の無意識の奥からこっそりと出てきた、SOSのようなものなのだと思った。彼女はたぶん、私の手助けを期待している。
「どっかへ行きたくなったら、この手を払いのけて行くことね。……って、言ったじゃないのよ」
私の手には、こいしちゃんにあーんした、食べかけのお団子が残されたままだ。払いのけたというには、比喩にしたってちょっと拙いのではないか? だってこれ、間接キスだもん。そうだよ。間接キスだよ。やった。間接キスだ。私の手に間接キスが握られている。やったあ。おいしい。こいしちゃんの間接キスおいしいぐへへ。
あっやばい。つい無意識になってしまった。
閑話休題。
まじめにやる。
と言っても、やることはあまり変わらなかったりするのだが。
これから異世界に行こうと思う。
今、こいしちゃんは無意識の中にいるけれども、感情がなくなったわけじゃない。人の心は見えない私だけれど、彼女の感情の音を聞き、感情の匂いを嗅ぎ分けることなら多少はできるので、それを利用してみたいと思う。
私は感情の妖怪なのだ。一応。
そして感情というのは、だいたい無意識の発露なのである。なので私の能力は、古明地で言えば姉よりも妹のほうに近い能力だということになり、無意識についてだけなら、さとりよりは見識があるということになる。はず。たぶん。
私なら、何とかできると思う。相手が無意識ワールドをさまよっているのなら、こっちも無意識ワールドに行って呼びかければいい。なに、頑張ればできるさ。たぶん。
私は独り、地霊殿に帰ってきていた。こいしちゃんを見つけられなかったわけではない。彼女とコンタクトを取りたいがためである。
「ただいま」
目の前にさとりがいたので、挨拶した。するとこれまでの経緯を一秒で察した彼女に、いきなりがっかりされた。
「……パルスィでも、だめでしたか」
どうやらこいしちゃんが消えてしまうのは、彼女の予想の範囲内だったらしい。期待していなかったわけではなさそうだが、ああやっぱりといった感じで溜息をつかれると、ちょっと悔しい。
だが、まだ終わったわけじゃない。そのためにここへ来たのだ。
私はこれから、こいしちゃんをスーパー無意識パワーで呼び出す。どうせならここでやったほうが後々楽だから、ここへ来た。私の覚醒したスーパー無意識パワーが言っている。ここでやる定めだと。
「大丈夫、今から見つける」
「貴方の精神状態を見るに、ものすごく不安なんですけど」
「そう?」
「こいしを泣かせたショックで頭がおかしくなったようにしか見えないです」
「ふっ。そこまで心弱くないわよ。今はね」
昔の、独りぼっちだった頃の私だったら、それもありえたかもしれないが。
ちょっと今、無意識力を高めているので、傍から見ると変に見えるかもしれないが大丈夫だ。
こいしちゃんに心の底から嫌われていなければ、大丈夫。さすがに嫌われていたらだめかもしれないが、今更それはないだろう。たぶん。
彼女の無意識の感情が、私の呼びかけに応えて、私のほうを向いてくれたらだいぶ嗅ぎつけやすそうである。お互いが心を無にして向かい合えば、きっとわかるはず。
「あの、すんごく心許ないんですけど」
「大丈夫、あまり考えるな。こういうのは考えるより感じるもんだわよ」
さとりの第三の眼は、どちらかといえば感じるよりも考えるほうのがよく見える、のだと思う。なので私が今から探す感情は、ひょっとしたら彼女の眼には見えないのかもしれない。だが、そいつは確かに存在するのである。
しかしてその名を、"劣等感"という。
「……あの子、自分に自信がないんじゃないかと思うの。そりゃもうとびっきり。まるっきりゼロみたいにさ」
「そう、ですね」
さとりは少し不安げな顔になった。
「こいしちゃんといる間、あの子の過去を考えていたの。ねえさとり、詳しく教えろとは言わないから、私の推理が合っているかどうかだけ、教えてほしい」
今まで避けていたが、こいしちゃんに近づくためには、必要かもしれなかった。
さとりは思ったよりも反発せずに、応えてくれた。
「貴方の思っている通りですよ。小さい頃は引っ込み思案で、人見知りで、びくびくしてて、いつも私の後ろに隠れていました。何を言っても変わりませんでしたね」
姉の口から告げられた、こいしちゃんの過去は、あの笑顔からはあまり想像できないものだった。だが今ならわかる。すごく、よくわかる。
それほど臆病な子が、他人の情け容赦のない心……例えば、"悪意"を直接見てしまったなら、どうなるか。心が読めない私にだって、だいたい想像がつく。
具体的に何があったかを詮索する気はあまり起きないので聞かない。だが、少なくとも他人が彼女の"劣等感"を刺激して、強めるのは簡単だ。簡単すぎて、その気がなくてもついやってしまうぐらいに簡単だ。
"劣等感"が成長すると、彼女はさらに怯えて卑屈になった。ほんのちょっとでも他人の"悪意"に触れただけで、心が傷つくようになっていった。心が傷つくと、ますます"劣等感"は成長しやすくなり、ますます心が傷つきやすくなっていく。
そんな悪循環が毎日、繰り返される。
いかに怖かったことだろうか。辛かったことだろうか。彼女は、もう心を読みたくないと、後戻りのできない決断をしてしまうところまで、追い詰められた。
第三の眼は、それきり二度と開いていない。
「その日を境に、こいしちゃんは変わった」
「……はい。本当、人が変わったようでした。明るくなって、人前でも怯えなくなって。あの子じゃないみたい、です。今でも思います」
と、いうことらしい。
"悪意"は、感じるより考えるほうの心、すなわち意識の世界の範疇にいる。ただの覚妖怪だった頃のこいしちゃんは、他人の"悪意"を見て育った。彼女は、醜くて恐ろしいこの感情を視界から消し去りたかったのだろう。それは、第三の眼を閉じ、意識の世界を全て遮断することで、ようやく実現することができた。
それで、自分の"劣等感"を克服し、ようやく明るい心を手に入れることができた。めでたし。
「めでたいですか?」
「あの子が幸せなら、いいんじゃないの」
"悪意"の他に、"善意"も見えなくなったがね。
それは、良し悪しだ。副作用ともいえる。
さとりは眉をひそめた。いや、まずい。失言だった。
「いい悪いの判断は、私がするべきじゃなかったわね。失礼」
「……なんていうか。さっきから貴方が何を見て喋っているのか、わからないです。いったい何を見たんですか」
「まだ何も。これから見るのよ」
「こいしみたいなこと言わないで、ちゃんと説明して。無意識の世界とは、どこにあるんですか」
「ふふ」
謝ったばかりなのに、ちょっと笑ってしまった。
「どこにでもあるわよ。この世界は、同時に異世界でもあるのよ。いつでもどこでも、繋がっているのよ。見えないだけで」
「こいしみたいなこと言わないでくださいー」
「ふ、あはは」
確かに私の視野は、今までより少しだけ、広がった。だけどまだ、無意識の世界というものが存在することに気づいた、それだけにすぎない。
こいしちゃんはもっと先へ進んでいる。異世界に直接アクセスすることができるのだ。私はなんとかして、彼女に追いつかねばならない。せめて手の届く場所まで。そのためには無意識の世界に歩み寄らなければいけなくて、こいしちゃんみたいにならなくてはいけないのである。
とはいえ、確かに正直言って、傍から見たら頭がおかしくなっているようにしか見えないのもわかる。
言葉で表しきれない異世界を、無理やり言葉で表現しようとすれば、異常に回りくどくならざるをえない。大きく回り込んだ話の中心にある存在に気がつかなければ、私やこいしちゃんの言葉は永遠に理解されない。理解されなければ、私たちが長々と謎の無意識語を吐き続ける狂人と思われても、仕方がない部分はある。
「うん、そうね、正直。無意識、疲れるわ。すごくやりにくい。あんたもこいしちゃんと話すの、苦労したでしょ」
「え? あ、はい。よくわかりませんが、わかってくれますか」
「でもだからといって、眼を閉じたこいしちゃんが悪いってわけでもない」
「もちろんです」
「なら、百聞は一見にしかず、一緒に行きましょ。私の心を読んでいなさい。うまくいけば、あの子の見ている世界を垣間見れるはずよ」
私は、こいしちゃんが悪いということにだけは、してしまいたくなかった。彼女の頭がおかしいとも思いたくはない。だって、そんなの可哀想だ。醜い感情を見ないですむように、自分の心を犠牲にしてしまった優しい女の子というだけの彼女に、これ以上の責を負わせたくなんかない。醜い感情を抱いた人間を片っ端からぶっ殺して回ったどっかのバカ妖怪より、よほど幸せになってしかるべきじゃないか。
だから私は、彼女の見ている世界を見に行く。そうして彼女を理解する。理解して、接近する。
彼女の味方でいたいから。そう強く思う。
「そういうわけよ。何が何でもこいしちゃんを見つけるわ」
さとりの前で、宣言する。嘘は言えないし、言わない。彼女は、半信半疑といった様子だ。
「正直、無意識のことは、どういうわけなんだか全然わかんなかったですけど……。でも貴方がそこまで言うのなら、ぜひお願いします」
まあ、信用してくれるならば何でもいい。もうちょっとだけこいしちゃんの心に触れることを許してくれれば、それで。
「その懸命な気持ちをもう少し、私にも向けてくれると嬉しいんですがね」
と、さとりはついでとばかりに溢した。なんだ急に。どういう意味だ。
「言葉通りの意味ですよ。貴方はこいしのことになると、ずいぶん一生懸命なんだもの」
「あんたに言われたくなかったわ」
「そうですか?」
「そうよ。だから……まあ、大切な妹のことを任せてもらえたのは、光栄だと思ってるよ。あんたは妹が心配だっただけでしょうけど、私はけっこう嬉しかったよ」
ちょっとした悪態をつきながら、私は緑眼に妖力をこめた。
準備は整った。今から、無意識の世界に行く。
人間の嫉妬心を煽るときの応用だ。普段は言葉を使うこともあるが、今回の相手は無意識なのでそれはできない。その代わりにイメージを使う。
まず、できる限り頭の中を空っぽにする。すると文字と言葉が削ぎ落とされて、絵と感覚だけの脳みそになる。これが大事だ。
緑がかった視界には、さとりの心配顔が入り込んでいる。ちょうどいい目印だ。その横を私の精神が横切っていくイメージを創っていく。
左手を伸ばした。するとその左手が、無限遠に伸びていく。手だけではない。私のいるこの部屋全体が、粘土みたいに引き伸ばされていく。
伸びる、まだ伸びる。視界全てが伸びに伸びて、どれだけ伸ばしても、何にも触れることはできないのではないか、そんな気さえするほど、手指も、世界も、広がっていく。
そうしているうちに、意識は静かに沈み、無意識の領域が顔を出す。
いつの間にか、私はでこぼこした道の途中に立っていた。
辺りを見ると、左側にだけ、花畑が広がっていた。綺麗な菜の花のようだが、よく見ると不気味な花も混じっている。そいつはまるで意思を持っているように蠢き、私の顔を見上げている。
私はチラチラと花の様子を気にしながら道を歩んだ。すると、ああ近づいたな、という感じがした。
実際、こいしちゃんは近くにいた。あっけないぐらい、すぐ見つかった。
彼女は灰色に霞みがかった、廃墟のような、機械工場のような場所にぽつんと独りでいた。泣いているような、笑っているような顔をしながら、自分の手を何度も触ったり、つついたりしている。
「こいしちゃん。おいで」
私は彼女を呼んだが、反応がない。なので彼女の目の前まで行ってみると驚かれた。そして彼女はちょっとためらう様子を見せたが、やがて私に甘えてすがりついてきた。
「耳が聞こえないの。何も聞こえないの」
彼女がそう言ったので、耳を見てみると、ピアスの穴が空いている。気づくと私はピアスを持っていたので、彼女の耳に付けてあげると喜ばれた。これで彼女の耳は大丈夫だろうと思った。
すると廃墟のようだった場所が、ぐにゃりと歪んで、一瞬だけ小さな農村のような場所になった。だが、またすぐに歪んで、次には真っ黒でぐにゃぐにゃした、混沌とした様相に変わった。そこでは色んな人々がいて、色んな言葉を放って、こいしちゃんを困らせている。いつの間にか、私もそのうちの一人になっていた。
「やめてやめて。お姉ちゃん、やめて。そんなに綺麗な姿を見せないで」
彼女は私の目を見てそう言った。
「私は――――」
私は、言いかけて、左手を伸ばした。そして……その薬指と小指が、ズボッといういい音を立てて、こいしちゃんの鼻の穴に刺さった。
「ふが」
かわいい声がした。
ちょっと、痛かったかなあ。
地霊殿には、すぐに戻ってこられた。気づけばいつもと同じ、見慣れたロビーにいる。
私は最初に左手を伸ばした体勢のまま、こいしちゃんの鼻の穴に指を突っ込んでいた。
なんだかちょっとした不思議体験をした気分だが、ついに私の秘められた能力が開放されたのだろうか。それとも、こいしちゃんの能力だろうか?
答は……どちらでもないとも言えるし、どちらでもあるとも言えるだろう。秘められた能力は、超能力かもしれないし、ただの狂気かもしれない。無意識の世界とはそういう場所だから、考えるな。感じるんだ。
少なくとも、あの場所が無意識の世界であり、こいしちゃんの見ている世界の一部なのだというのは、すんなりと納得がいく感じはした。理屈はともかく、私にとってはそうだった。
「やあ」
私はあえて鼻に指を挿したままで、呼びかけた。
「あ、ぱるさんだ」
すると彼女は、今しがた出会ったみたいに言った。鼻声で。
私の予想通り、こいしちゃんはいた。いつからここにいたかはわからない。私が呼び寄せたのかもしれないし、呼び寄せられたのかもしれない。それは無意識世界の住人にしかわからない。
ちょっと混乱する。あの世界で出会ったこいしちゃんは、私を私とは認識していないようだった。それが気になる。「お姉ちゃん」と呼んできたので、もしかしたら私はあの世界でさとりということになっていた、のかもしれない。となると、こいしちゃんは私に会ったとは思っていないだろう。私はこいしちゃんに会ったと思っているけども。
何を言ってんのかわかんねえと思うが、私も何を言ってるかわかんねえ。
ああ、なんだか頭が痛い。それに、ぼーっとする感じがある。知恵熱だけではない気がする。変な感じだ。
私が頭を抱えたとき、急にこいしちゃんの様子が変わった。
「お姉ちゃん……!?」
彼女は、私の横を見て目を丸くした。いつもの笑顔は消えていた。私もつられて振り返る。そして、たぶんこいしちゃんと同じ顔をした。
さとりの身体は、私の足元に力なく転がっていた。
さとりの部屋はピンクの装飾やら小物やらぬいぐるみで溢れかえっていて、いかにもな女の子の部屋だ。
私とこいしちゃんで、さとりをここまで運んできて、ベッドに寝かせた。さとりは完全に意識を失ってはいなかったが、かなり朦朧としている。何か言おうとしているが身体に力が入らないらしく、ほとんど声にならない声だ。私たちには全然、聞き取れなかった。
かなりぼーっとしているが、苦しそうな感じではない。熱もない。
「とりあえず様子見が賢明かね」
こいしちゃんが心配そうな顔をしていたので、肩を撫でてあげると少し落ち着いたふうになった。
しかしなんだって、さっきまで元気だったさとりが倒れたのか。
私が無意識の世界を見たことと、何か関係があるのだろうか。
「こいしちゃん」
「うん?」
「さっき私と別れてから、地霊殿でまた会うまでの間、さとりに会った?」
「ん……そう言われてみると、会ったような、会ってないような」
彼女は首を傾げた。まあ、無意識世界でのできごとなんて、そういう認識なのが普通である。こいしちゃんでさえそうだし、言っている私だってだんだんよくわからなくなってきた。私が見たものは全部ただの夢でした、としてしまったほうが、よほどしっくりくる。
「じゃあ、私とは会った?」
「え?」
「私と別れてから、私と会うまでに、私と会った?」
「???」
「あ? いや、あれ? 私は何を言っているんだ?」
やべえ。まじわかんなくなってきた。さっきはあんなにわかったような気になっていたのに、なんだこれ。
混乱していると、こいしちゃんは言ってきた。
「でも、そういえば、呼ばれた気がする。ぱるさんかどうかわかんないけど、ウチのほうから」
「家?」
「えと……なんていうか、身体の内側から?」
「あー。うん。それ私だわ」
たぶん。
だとすると、私の無意識はこいしちゃんに届いていたようだ。当初の目標だった無意識流以心伝心的なものは、見事達成。本当にできてしまった。やったあ。橋姫だって、やればできるのよ。
これなら古明地姓を名乗れる日も遠くない。名乗らないけど。
「いつの間にそんなこと、できるようになったの?」
「さっき」
「すごーい」
まあ橋姫歴は長いので、素養があったんだと思うがね。ふっふーん。
それはともかく、今の問題はさとりである。無意識の世界と関係があるのかどうか、結局よくわからない。
「さとり、どうしたのかしらね」
彼女の前髪をかき分けて、おでこを撫でてみる。反応は、たぶんない。もしかしたら微かに動いているかもしれないが、よくわからない。意識はまだ朦朧としている様子で、瞼が開いてるのか閉じてるのか、中途半端なことになっている。はっきり言えばだいぶブサイクな顔をしている。可哀想に。
大丈夫。普段はかわいいから。……と脳内で念じておく。
「こういうことって、初めてなの?」
私はこいしちゃんに尋ねた。
「うーん……あ。そういえば」
あまり期待はしていなかったのだが、予想に反して彼女は何か思い出したらしい。びっくりだ。
「わたしが眼を閉じる前にね、お姉ちゃんがわたしの心を読もうとしたことがあるの」
「覚同士で?」
「うん。時間をかけて、がっつり読もうとしてた。わたしは嫌だって言ったんだけど、必要だからって言われて。そしたら」
「……こんな感じに?」
「うん」
私はさとりに向き直した。なるほど、少しヒントになりそうだ。
妹の心を読んだ途端、倒れてしまったさとり。彼女はそのとき、何を見たのだろう。
「こいしちゃんはそのとき、なんて思ってた?」
「うーん。もう憶えてないなー」
「ま、そりゃそうか……」
昔の話すぎて、当時の気持ちなんて、誰だってそうそう思い出せるものではない。
「その頃のわたし、必死だったから。心読みたくないし、読まれたくないしで、全部嫌だった。だから、たぶん『うわー! やだやだー!』って、ひたすら思ってたんじゃないかなあとは思うけど」
「必死、ね。そっか。ありがと」
こいしちゃんの頭を撫でる。あまり詮索しすぎると彼女のトラウマに触れそうな話なので、聞くのはこのくらいにして、後は推測することにした。
必死なときっていうのは、無意識の状態にけっこう近い。やっぱり関係がありそう。
さとりは、こいしちゃんが嫌がるにもかかわらず、心の奥深くを読もうとした。かつてのこいしちゃんは超引っ込み思案だったそうだから、その心を案じてやったことなのかもしれない。いや、さとりのことだから、きっとそうだろう。こいしちゃんをなんとかいい方向に持っていくために、引っ込み思案の原因を知りたかったのではなかろうか。
『やめてやめて。お姉ちゃん、やめて』
無意識の世界で見たこいしちゃんを、なんとなく思い出した。
結果論ではあるが、さとりの頑張りはあまり報われなかった。結局こいしちゃんは眼を閉ざしてしまったし、"劣等感"は相変わらず健在で、根本的な解決はしていない。しかもさとりは、すっかり妹の心が読めなくなってしまったので、今やどうにかしようにも手をこまねくことしかできない。自慢の読心能力が効かないのでは、こいつはただの幼女同然なのだ。
すれ違いばかりで不幸な姉妹である。妬ましくない。
そういう経緯でもって、今回、手頃な嫉妬妖怪である私を使ってみたくなったのではないだろうかと考えると、まんざらでもないと思う。
こいしちゃんは神妙な表情で、ベッドに横たわる姉の姿を見ていた。昔のことを思い出しているのだろうかと考えると、ちょっと心配になる。うっかりトラウマスイッチを押さなければいいが。
「ぶっさいくな顔して寝てるなー」
違った。私と同じことを考えていた。
でも今までにないぐらい、本当に真面目な表情だった。
「ねえぱるさん」
彼女は尋ねる。
「お姉ちゃんって、まだわたしのこと、好きだと思う?」
「そりゃ好きでしょうよ」
私は即答した。
この姉には、妹厨とかそういうあだ名をつけてもいいとすら思っている。
「わたし、わかんないや。お姉ちゃんの気持ちは、なんでかわかんない」
「……そっか」
何か言ってみようかとも思ったが、うまいこと言う自信がなくてやめにした。
こいしちゃんは、いや、姉も含めて覚という妖怪は、読心能力に頼らず人の心を察するのが苦手であるように思える。はっきり言って人間よりへただと思う。心を読めないとなると、途端にコミュニケーションがうまくいかなくなるらしい。
当たり前といえば当たり前だが。
この姉妹の間には、橋渡し役が必要だったのだ。
そう、橋渡し。
考えて、一人で苦笑する私であった。
もしかして、最初からこうなる運命だったんじゃないのか、これは。
私以上の適役がこの世にいると思えなくて、面白い。
そうだ。そういうことだったのだ。
けど、なるべくなら気づきたくはなかった。
二人とも、私を見ているようで、実はその向こうにいる姉妹を見ている。当人たちは気づいていないかもしれないが。私は彼女たちの間に存在する、ただの橋にすぎない。二人の出会う場所でしかない。
私は縁切りしかやったことがないのだが、いつの間にやら頑張って縁結びしなくてはいけない立場になっていた。
正直、めちゃくちゃ妬ましかった。
けれど、まあ私も子供じゃないし、今更そんなことで発狂したりはしない。めちゃくちゃ妬ましいけど。
めっちゃくちゃ妬ましいけど、乗りかかった船だ。
当然、最後までやるつもりだ。それが愛だと思うから。
「こいしちゃんは?」
「ん?」
「このバカ姉のこと好きかって聞いてんの」
「う」
彼女の小さい肩がぴくっと上がった。明らかに照れていた。
くう、かわいいなあ。
バカ姉とか言っておいてなんだけど、さとりの気持ちはとてもよくわかる。私だって、こいしちゃんの姉だったらバカ姉になっていたことだろう。
「わかんないよ」
こいしちゃんは言った。
「お姉ちゃんは、お姉ちゃんだもん。好きとか嫌いとか、わかんない」
私に姉妹はいないけれど、なんとなくわかる気もする答だった。
お姉ちゃんのことを好きか嫌いかで言うと、お姉ちゃんである。そういうもんなのだろう。
「なるほどね。妬ましいわね」
「でも、その……」
彼女は何かを言いかけて、言いにくそうに口ごもった。
私は、ちょっと期待した。こういうとき、言いにくいことこそ重要だ。言いにくいことをあえて言いたくなるのは、心を開こうとしている証だから。
だが、急かしてはいけないので、私は首を傾げてみせるだけにして、次の言葉を待った。
「変なこと言うんだけど、その、うう……これ言ったら引くかなあ」
「心配しなくていいよ」
「わたしね、お姉ちゃんとキスしたことあるんだ」
ガタッ。
イヤッホオオオオウ!! 妬まっしいいいいい!!
……と心の中でだけ叫んだ。顔には出さないように頑張った。
「眼、閉じる前に。その頃はお姉ちゃんのこと、好きだったのかもしんない。……あー、うわあ、ごめんなさい、気持ち悪いよね」
「心配しないでったら」
気にするのが遅すぎる。
私は笑って、そっとまた彼女の頭を撫でる。すると彼女は恥ずかしそうに俯いた。
「なんでこんなこと、言いたくなったんだろ」
「そういうときもあるわよ。それがあんたの素直な気持ちなら、私は絶対笑ったりしないし、気味悪がったりもしない。約束する」
心の中ではだいぶ取り乱していたけど、普通に喜んでいただけなので大目に見てほしい。他人が見たら気持ち悪がられそうな脳内しているのは、たぶんお互い様だ。
それに、もう私は他人ではない。彼女の心に深入りしてしまった以上、知り合いだの友達だのでは済まされないところまで来ている。
「しっかり受け止めるわよ。あんたの気持ち」
私は宣言した。自分に言い聞かせる意味もある。
「……うん。わたし、お姉ちゃんにキスしたのは、やっぱり寂しかったからだと思う。お姉ちゃんなら、愛してくれるかもって。心の底から、好きでいてくれるかも、って」
「愛情を、期待していたのね」
「でも、わたしの方が、お姉ちゃんの期待に応えられなかったから、だめだった。わたしみたいに何もできないだめなやつ、愛したくても愛せないよね。無償の愛なんて、あるわけないんだもの」
だめなやつ、か。
こいしちゃんはときどき、驚くほど卑屈だ。幼い頃から、色んな心の暴力を受け続けてきたからだろうか。
こんなにかわいい子がだめなやつなら、私は何になってしまうんだと思わなくはなかったが、そういう問題でもない。
「さとりは、貴方のキスを受け入れたの?」
「一応は……うん。大事な妹の望むことだから、受け容れよう受け容れようって思ってたけど、でも、こころのそこでは……ぅ」
話すこいしちゃんの声が突然、震えた。そして彼女の二重瞼が、かっと赤くなるのが見えた。
「こんなめんどうないもうと、いなければよかったのにって」
ぐしゃぐしゃになった声が、私の心を揺さぶった。
縁の糸とはよく言ったもので、コミュニケーションは、二本の毛糸を絡めるようなものだ。綺麗に巻きつけたつもりでも、いつの間にか絡まったり、こんがらがったりする。そのくせ急にほつれたりもする。こんなものでマフラーを編んだら、さぞ不格好になるだろう。
姉妹の不器用なマフラー作りは、糸が切れたか、ほつれたか何かして、中途半端のままで止まってしまった。私は、仕方がないから、毛糸を足してやろうと、首に巻いているマフラーをほどき始めたところというわけだ。
なんでそんなことをするのかといえば、そのほうがいいマフラーが作れそうだからに他ならない。
こいしちゃんだって、本当はそう思っているんじゃないだろうか?
だから今度は消えずに、ここにいる。
私にすがって、なんとかここにいる。
無下にできるか、こんなもの。
「ねえこいしちゃん。さとりが起きたら、少し二人で話してみたらどう?」
「二人で?」
「そう。不安なら、私が聞いててあげる。なるべく口は挟まないようにするけど、万が一まずそうな話になったら止めるし」
挟まなくても、さとりには聞かれてしまうだろうが。
「お互い、言いたいことがたくさんあるんだと思うの。言葉を交わしてみましょうよ」
「……」
こいしちゃんは涙を拭いたが、まだ不安そうな顔をしている。
彼女の話で、問題の色々が見えた気がする。
私が言うのも難だが、この姉妹にはコミュニケーションが足りない。本当はお互い愛し合っているのに、どう接していいのかわからなくなって、すれ違いを続けている。姉は不器用だし、妹は臆病だしで、二人だけじゃどうにもならなくなっている。かといって、私がこれ以上あれこれ口出ししていても、よくはならないだろう。それでは私に都合のいい展開にしかならない。
私はあくまで、二人の間に架かる橋でいなければいけない。二人のためには、私の見ている前で、二人で話し合ってもらうのが妥当だろうと思う。でもさとりは不器用だから、こっそり脳内でアドバイスくらいは、してあげたほうがよさそうだけど。
「……こいし」
こいしちゃんが黙ってしまった頃に、さとりは呟いた。意識が回復してきたようだ。
私はすぐさま顔を寄せて尋ねる。
「さとり、聞こえる? 私が誰だかわかる?」
「水橋……ナビィ」
「惜しい」
ふざける余裕があるようなので、安心した。
どちらかというと、余裕がなさそうなのはこいしちゃんのほうだ。すっかり緊張してしまっていた。
でも、さとりが微笑みかけると、少しだけ緩んだようだ。この瞬間は、いい感じに心が伝わっているようで、愛を感じた気もした。このバカ姉も、たまには姉らしいことができるらしい。やればできるじゃないか。
「いやあ、焦りました。とてつもなく怖いものを見せられましたよ。パルスィ、貴方は何をしたんですか」
彼女はぐいっと上半身を起こして、私に尋ねた。なんだか、意外に元気そうだ。
言うところの「とてつもなく怖いもの」とは、間違いなくさっきのアレだろう。アレ。
やっぱり、さとりが倒れたのは、私の心を通してアレを見たせいだったようだ。申し訳ないことをした気がする。
「ごめんね、倒れるとは思わなかった。アレ、あんたの催眠術とそう変わらないはずなんだけど、おかしいわね」
「……さっきから、説明されても、心を読んでも理解できないんですよ、アレ」
私の催眠術は記憶を引き出すだけですよ、と彼女は言う。
「だから、記憶を引き出したのよ。いや、記憶の中に無理やり入り込んだっていうか、私とあの子を繋げる記憶というか、アカシック・レコードというか、伊弉諾物質というか」
「わ、わからない。だってその場にいる誰も、あんなに膨大で支離滅裂な記憶、持っていないじゃないですか」
「そうね。でも、何か感じるものはあったんじゃない? それが答よ」
「……わかりません。ただただ、怖いです」
らしい。やっぱりそうなんだな、という印象だ。わからないからこそ怖いのだろうとも思う。
アレこと無意識の世界は、ロジックも何もあったものではないから、苦手な人はとことん苦手そうだ。
もっと説明を加えてみてもいいのだが、アレが何なのかは、この際そこまで重要でもなかったりする。
「まあ別にわかんなくても人生に影響はない。それより……たまには妹と話をしてみない?」
起き抜けにはちょっと負担かなとも思うが、私は切り出した。するとさとりは、私の心を読んで瞬時に全てを察したらしい。真剣な顔になって、頷いた。
「……いいでしょう。なんだか私には今、こいしが二人いるように見えているんですがね」
「あんたの大事な妹は、世界に一人だけよ」
「もちろんです。早くいつものクソ橋姫に戻ってください」
「私は平気だよ」
「や、だいぶバグってますよ貴方」
そうかね。自分ではピンとこないが。
さとりはもう、よく見るすまし顔だった。
私はこいしちゃんの肩に手を置いて、そっと名前を呼んだ。彼女は、不安そうに目を伏せたり、私を見たり、姉を見たりして、落ち着かない。それを見た姉も影響されたのか、ちょっと寂しそうな顔をしだす。
どうせ相思相愛なんだからもっとガンガンいけばいいと思うが、好きゆえに不安になることもあるか。難しい。
ちょっと急かしすぎたかな、と思ったところで、こいしちゃんは急に決心したように唇を噛み締めた。
「おねえちゃん」
そして、やっとの思いで声を発した。
声は、泣いていたときよりも震えていた。
「こいし」
「あの、ね。怖いところにいたんだけどね、道の向こうにね、山が見えたの」
「山?」
「あれっ、男の子だったかな」
あっやばい。
たぶんこれ無意識語だ。
こいしちゃんは、日本語で話すのをうっかり忘れるほどテンパっているようだった。さとりは話についていけるだろうか。
「その子に呼ばれたから、近づいたの。そしたら、その子がお姉ちゃんになった」
「びっくり性転換ですね?」
「いや、違うな、男の子とお姉ちゃんの間に何か、もう一種類あった。男の子がそれになって、それがお姉ちゃんになったんだけど……うー何だっけ」
「んー、天使か、ナメクジでは?」
「違うよお。性転換は関係ないよ」
大丈夫か、これ。
これは会話と呼んでいい代物なのか。
話についていこうと全力で頑張っている姉の努力が見て取れて、なんとも健気に思った。早くも助け船を出したくなったが、なるべく口を挟まない約束なので、まだ脳内からエールを送るに留める。頑張れ。
「うんと、えっと、お母さんかなあ。でもなんか違うなあ」
「……で、お姉ちゃんになって、どうなるんですか?」
「あっ、そうそうそれでね、わたしが色んな人に囲まれて、色々言われるの。男の人は服を脱げって言って、女の人は脱ぐなって言ってた」
「なんだと」
さとりはすごい勢いで立ち上がった。
待て、落ち着け姉。これは無意識語だ。言葉通りに受け止めてはいけない。
とテレパシーを送ると、ベッドに座り直してくれた。危ない。
「でもお姉ちゃんは、脱いだほうがいいって言ったから、脱ぐことにしたよ」
「えっ、そ、そうですか? でもどうせなら二人きりのときにしてほしかったんですが」
だから、そういう意味じゃないんだってば。……いや、だめだ。突っ込みを入れ始めたらきりがない。
とても円滑とはいえない会話だが、一応話は繋がっているようなので、私は静かに下がって丸椅子にでも座っていることにした。足音を立てないように、そーっと歩き出す。
と、そんなときに限ってである。
私はタンスの角に小指をぶつけた。
「痛゛あ゛っ゛!?」
我慢できず叫んで、うずくまる。
やってしまった。ドジ・オブ・ドジである。痛いなんてもんじゃない。超痛い。
二人の視線も痛い。
「ぱるさん! 大丈夫?」
当然、会話は中断された。こいしちゃんが心配そうに寄ってくる。
やっちまった。やっちまった。ああ、せっかく姉妹の仲がよくなるチャンスが。
すげえ申し訳ないことをしてしまった。これじゃ、死んでも死にきれない。小指をぶつけてもぶつけきれない。
「ごめん、私、だめな橋だわ……この橋ゴミでできてたわ……ゴミ橋だわ……ゴミ橋ゴミスィだわ……」
「な、何言ってるのぱるさん」
恥ずかしくて目を上げられない。最悪だ。ここまできて、これはないわ。
「大丈夫だよ。ぱるさんは、わたしの優秀なド……お目付け役だから!」
「お嬢様、その優しさは逆に悲しくなります」
奴隷って言いかけてたし。
「えと、あの、ぱるさん、わたし、大丈夫だよ。元気出し……あ」
いきなり、彼女は何かに気づいて口をぽかんと開けた。
そしてさとりの方へ向き直して、呟いた。
「ぱるさんだ」
と。
「男の子が、ぱるさんになって、それからお姉ちゃんになったんだ」
感激したように言う妹。だが姉は相変わらず、ぐるぐるこいしちゃんワールドに困っている様子だ。
「あ、ああ、その話ですか。……それはそれで、超進化ですね?」
頑張れ姉。大好きな妹の言葉を、なんとか聞いてやってくれ。
戸惑っている彼女を尻目に、私だけがこいしちゃんの言葉で気づくことができてしまった。
さっきからこいしちゃんが無意識語で言っているのは、あの無意識世界でのできごとなのだ。私は男の子から進化した記憶はないけれど、さとりになっているのは間違いない。
私が見たのは一部だけとはいえ、やはりこいしちゃんの見た世界と同じものだったようだ。
とりあえず二人の話らいには戻ってくれたので、私は改めて椅子に座って、続きを聞こう。咳払いをしたくなったけど、我慢。
「お姉ちゃん。あのね、ぱるさんが出てきたとき、ちょっと怖かったの」
「怖かった?」
「お姉ちゃんとキスしたときのこと、思い出して……」
「……あぁ」
さとりは、遠い目をした。少しずつ、話が見えてきただろうか。
無意識世界の物体は姿というものを持たないので、私たちの目には、心の中にあるものの姿で表現されて見える。あの世界でこいしちゃんのいた場所は、始めは暗い廃墟で、一瞬だけ農村になって、混沌と人混みの空間になった。きっと、あれはこいしちゃんの記憶と心象を表現したものだ。
私の姿が男の子だったり、さとりに変わったりして見えたのも、彼女の無意識にとって意味のあることだったのだろう。
「あのときのこと、憶えてる?」
こいしちゃんは問う。
「キスした瞬間ね、わたし幸せだったんだよ。でも、同じくらい怖かった」
「……ええ、憶えていますとも。私も、貴方と同じ気持ちでした。唇を近づけると、読み合った感情がリフレインして、増幅していったわ。私たちのどちらが先に幸せを感じて、恐怖を感じたのか、わからなくなって」
「うん。そうだった。そうだったね」
相変わらず不器用そうな感じだが、二人の縁の糸は、やっと紡がれ始めたようだ。
私の解釈だが、あののどかな農村がキスした瞬間の心を表していたのだろうか。だとすると、ちょっとほっこりする感じだ。
けれどその前は廃墟だったし、その先は混沌と暗闇だった。
「あの日から、わたし、お姉ちゃんのこと怖くなった」
「私も、貴方のことが怖かったです」
「ほんとは、愛してほしかっただけなの」
「私も愛していたかっただけでした」
「愛してなかった?」
「かもしれません」
「そうだよね」
「無理にでも愛そうとは、思っていました。だって貴方には、私しかいなかった」
「そうだね。わたし、お姉ちゃんをめちゃくちゃにしちゃった。怯えて孤独になろうとしたのは、わたし。そのくせ愛されたくて、でも愛することができなくて、頭おかしくなってったのも、わたし。全部わたしのせい」
「そんな貴方を見捨てられずにいたのは、私です」
「お姉ちゃん、優しかったよね。そんな優しいお姉ちゃんを、傷つけ続けたのもわたしだよ。わたしがいなければ、お姉ちゃんは傷つかずに済んだ」
「……今、それを否定しても肯定しても、意味なんてありませんよね」
さとりは、そこでいったん口をつぐんだ。妹の腫れた瞼を見て何を思ったのかはわからないが、彼女は続けてこう告げた。
「でもおかしいの。今更になって、貴方に『愛してる』って伝えたくて、仕方ないの」
「え」
「なのに伝え方がわからなくて。貴方と心を通わせることが、もうできないから。言葉なんかじゃ、伝わらないって気がして。ずっと、伝え方を考えていたんです」
「……」
「ずっと貴方を傷つけてきたのに、今更『ごめんなさい、今では愛しています』なんて言葉を言うのは、馬鹿げてるでしょう。そういう嘘をつく人間を、たくさん見てきましたから。たとえ本心だったとしても、そんなこと言ったら、余計貴方に嫌われちゃう気がして、言えなかった」
心を読める妖怪は、あまり言葉を信じない。
姉にとってみれば、ものすごく単純な話だった。妹が眼を閉じるまで思いつめたのは自分のせいだと思っているので、謝りたいけど、謝り方がわからなかった。以上。
そこで、私にケツ拭いをさせようとしたわけだ、こいつは。
まったくどうしようもない幼女である。最初から素直にお願いすればいいものを、この負けず嫌いはわざわざ面倒な方法を取るから、ややこしくなる。私はこのために異世界まで行ったんだぞ。
とか文句を垂れつつも、悪い気分ではなかった。
こいしちゃんは泣いていたけど、笑っていたから。
「お姉ちゃん。わたし無意識になってわかったんだけどね、言葉ってすごいんだよ。意識の世界はね、言葉の力で分節されてるの。言葉には、世界の一部に名前をつけて、世界を分割する能力があるの。だから、みんなこの広い世界の事物を抽象的に理解して、意識できるの。無意識の世界には言葉がないから、意識できないの。でもね、本当は同じ世界なんだよ。同じものの違う面を見ているだけで、」
「あの、こいし、私にもわかるように言って」
「んと……つまり、その。わたしは今、お姉ちゃんの言葉が嬉しいです。すごく嬉しいの。お姉ちゃんの本心はわからないけど、それでも嬉しい」
彼女は、胸に手を当てて喜んでいた。さとりは首を傾げていたが、考えても仕方ないと思ったのか、やがて一緒になって喜んだ。
「貴方は今、嬉しいのですか」
「うん」
「本当ですか」
「うんっ」
「どうして、嬉しいのですか」
「うーん、それについては、根源まで遡らなくちゃいけないね。まず、感情の芽生えが無意識の――――」
「やっぱいいです。こいし、愛してます!」
「――――うん。わたしも、またお姉ちゃんとキスしてあげてもいいかな、ぐらいは思ったよ」
「まじですか」
さとりは、恋する乙女みたいな顔をした。梅の花飾りが揺れた瞬間が、正直めっちゃかわいかった。
恋する相手は実の妹だというのが心配だが、まあ今更こいつにそれを言ってもね。
「今なら……うん。きっと平気。キス、しようよ」
こいしちゃんはそう言うと、両目を閉じた。
きっとトラウマだらけのキスなんだろうに。
克服できるといいな、と思いつつ。
私は二人を見ながら、爆発しろと百回ぐらい念じた。
それからというもの、さとりはキス魔と化した。
なので今ちょっと、こいしちゃんにうざがられている。ざまあ。
最初の一日二日ぐらいは、こいしちゃんも乗り気だったのだが。五日目の今日になってついに耐え切れなくなったらしく、「逃げますわよ、がちゃぴん!」と言って、私を連れて走り回り、挙句一緒に私の部屋へ閉じこもり、鍵をかけてしまった。
「ねーがちゃぴん、なんとかしてよ」
ついにムックとすら呼ばれなくなった私である。呼ぶなって言ったのは私だが。
「なんとかって言われても、縁切りしかできないわよ私は」
「そんなご謙遜なさらないで、お姉ちゃんの唇ぐらい斬り落としちゃってよお」
「どんな剣豪よ、それ」
そんなクソつまらぬもの、斬らせようとしないでほしい。
「だって、毎分一回キスしてくるんだよ。さすがにうざいよ」
「今頃気づいたの? さとりがうざくない日なんてないわ。諦めなさい」
「そうだけど!」
こいしちゃんはそんなふうに言っているが、けっこう楽しそうである。私の出番なんて、ないと思うのだが。
だって絶対、今幸せだろうあんた。わかるんだからね。
あんまりイチャイチャしているところを目撃したくもないし、もう放っておきたい。末永く爆発していればいいじゃないか、お前らなんてさ。
「うー。ぱるさん、最近冷たいような……」
彼女は、しゅんとした。
多少、胸が痛む。本当は、彼女のことがとてもかわいいと思っているけど。頭なでなでしたいけど。してはいけない。
「何よ。要するに、私に構ってほしいわけね?」
「う、うん」
「なるほど。大好きなお姉ちゃんの愚痴とか惚気を聞いてほしいわけね?」
「う……うん」
「だが断る」
聞くかそんなもん。
「なんで橋姫がリア充と仲よくしなきゃならん。爆発しろやい。ジェラシーボンバーすっぞ。あんたなんかジェラボンよジェラボン」
「ど、どうしよう、やっぱり、ぱるさんの様子が変だ……。おねえちゃーん!! ぱるさんがー!! ぱるさんが変になった!!」
こいしちゃんは、鍵をかけたドアごしに叫んだ。
変だそうだ。
向こうに聞こえるのかな、と思ったけど聞こえるらしい。『こいしーーーー!!』と、遠くから頑張って叫ぶウザ姉の声がした。あっちも幸せそうである。
そこでこいしちゃんは気づいた。
「あ、お姉ちゃん部屋に入れたらダメなんだった。おかされちゃう」
「もういいんじゃないの犯されれば」
心配そうな顔をする彼女に、私は適当に答えた。
「ここで?」
「おう」
「……見たいの?」
「う」
彼女のその言葉で、正直ちょっと迷った自分に失笑した。
見たい。
変態チックな笑みを浮かべていたら、さとりが部屋の前まで来た。うるさく叫びながら、ドアを乱雑に叩き始めた。
『こいし!! どうしたんですか!? あれっ開かない。こいし、開けて!! こいし愛してる!!』
本当、妹のことになると途端にやかましい姉である。
というか最近はテンションが上がりすぎて、初めて彼女ができたときの純情少年みたいになっている。
こいしちゃんは、困ったような顔を浮かべた。
「あ、あの、そこで聞いて。ぱるさん、拗ねちゃったみたいなの」
「いや私は別に拗ねてなんか」
「嘘。わかるんだからね」
わかられてしまった。さすがは無意識だ。
ちょいちょい不埒な妄想してるのも、もうばれてそうだった。
「お姉ちゃん、わたしどうしたらいいかな」
『それは大変。パルスィは私たちの恩人です、なんとかしなくては』
てっきり「放っておけばいいですそんなことよりこいしちゅっちゅ」とか言われると思ったが、さとりは案外気にかけてくれた。突然気にかけられても、却って反応に困る。
でもちょっと嬉しい。
『なので、まずはドアを開けてください』
「嫌」
真顔で即答する妹。報われない姉である。ここまで来るとちょっと可哀想な気もしたが、自業自得だから仕方が――――
『パルスィ、開けてください。さもないと、貴方が普段こいしをどういう目で見ているか、ばらしますよ』
「今お開けしますご主人様」
――――仕方がないから開けよう。うん。
「うわー! ぱるさんが裏切った!」
こいしちゃんが止めようと抱きついてくるが、所詮ちみっこい妹妖怪である。全然力が足りないので、ただ私が得しただけに終わった。
ドアを開くとさとりが仁王立ちしていた。なぜか、服のフリルがいつもより二倍ぐらい多かった。袖のデカさも二倍ぐらい。かわいいといえばかわいいが、邪魔くさそうだ。
そして花の髪飾りが気に入ったらしく、今日は頭に白のアザレアを乗せている。
「ふふふ。この格好はですね、こいしを抱きしめたとき、ふわふわ感が増し増しなのです」
「そう」
興味なかった。
どうせ私には関係ない。
「ああ、なるほど。確かに拗ねてるようですね。私たち姉妹がラブラブすぎるから」
さとりはドヤ顔で言った。
ふーんだ。その通りだよ。心読むな。
こいしちゃんは首を傾げる。
「どうしよう?」
「大丈夫、キスすれば治ります」
「なるほど」
彼女は、キス魔の言葉に納得したらしい。
なんで納得するんだ。
さすがに、私は慌てた。
「な、なるほどじゃないでしょ。私にキスしたらだめでしょ。せっかくあんたたちの仲、よくなったんでしょ。私にそんなことしたらだめでしょ」
「こいしは妹。貴方はペット。だからおっけーです」
「えっ? は? え?」
何が「だから」なのか、さっぱりわからない。
「姉妹がキスをするのは当たり前ですよ? ね、こいし」
「うん。当たり前」
「だからオッケーです」
「うん」
わからん。
おかしい。
さっきまで嫌がっていたのに、こいしちゃんまで。
「あのね、パルスィ。私たちは貴方に感謝しているんです。貴方がいなかったら、私たちの仲は取り返せなかったでしょうから」
「うんうん」
「貴方のおかげで、私たちは今とても幸せです。けど、だからといって、恩人の貴方に寂しい思いをさせるわけにはいきません」
「うんうん」
「私たちはお互いを愛していますけど、貴方のことも同じくらい愛しているんです」
「うんうん」
さとりは割と真面目な顔で言い切った。こいしちゃんも頷いている。
本気で言っているのか、こいつらは。
自分が何を言っているか、わかっているのか。
「ええわかっていますとも。いいじゃないですか。私たち全員で、家族なんです。パルスィ。姉妹でキスするのは当然なんですから、家族の貴方とキスするのも当然でしょう?」
「うんうん」
いや、だからそれはおかしいから!
え、何、私がおかしいの? わかんなくなってきたんだけど?
さとりは私の身体をぐいっと押して、ベッドに座らせた。私の目線の高さが彼女よりも低くなって、顔同士の距離は近くなる。
いや。
いやいやいや。
「パルスィ、貴方が望むこと、叶えてあげられると思います」
さとりはそう言って、私の右側に座る。
「ごまかしてもだーめ。何が欲しいかなんて、もうわかってるよ」
こいしちゃんは、私の左側に。
「私だってパルスィのこと、好きですから」
えっ。
いきなり告白された。
「貴方には、こいしのことを任せましたけど……別に、貴方たち二人を仲よくさせたかったわけじゃ、ないんですからね」
さとりの顔は真っ赤だった。でもたぶん、私も同じだろう。なんだかめちゃくちゃ暑いから。
彼女は、恥ずかしさを振り切るように叫んだ。
「こいし! アレをやるわよ!」
「ええ、よくってよ!」
すると、私は姉妹二人がかりで、がっちり両腕を押さえつけられた。
えっ、ちょっと?
アレって何?
あっさとりの服めっちゃふわふわ。じゃなくて。
なんで。
なんで逃げられなくするの。
ちょっとー!
私の望みは、贅沢すぎるようなものだった。
彼女たちの愛を、幸せを、ほんのちょっとだけ分かち合える存在になりたい。
家族っていうものに、もう一度だけ希望を見出したい。
彼女たちの橋になる中で、私はずっと、そんな下心を持っていた。いけない心だと思ったし、今でもそう思っている。こんな望みなんて気づかない振りをしていればいいと思っていた。
なのに、いつの間にか彼女たちは、そんな私の望みを叶えたいと思うようになっていたらしい。
私が彼女たちを幸せにしたいと思ったのと、同じように。
それはいいのだけど、あまりのことなので思わず唾を飲んだ。
両頬に触れた唇の感触に、心がめっちゃくちゃに揺り動かされていく。
意識が遠のいた。
爆発しそうだった。