1
お嬢様に暇を言い渡された。
お暇をもらったといってもクビになったわけではない。生まれて初めてお休みをもらったのだ。
クリスマス休暇よ、と幽々子お嬢様は言っていた。でも、クリスマスが何をする日かなんて私にはよくわからなかった。
――クリスマスっていったいなんなのかなあ?
外国のお祭りであることはもちろん知っている。でも、どういう気持ちで祝って、どう過ごせばいいのかさっぱりわからない。
そもそも幽々子様も本当にわかっているのか怪しい。でも、どうせ聞いたところで、自分で考えなさいって言われるに決まっている。幽々子様はそういう人だ。
――クリスマスに休むということが風流なのよ、妖夢。
そう言われても去年まではそんなこと聞いていないし、お休みももらっていない。本当にどうしようもないほどいい加減だ。
風流という言葉を好んでよく使う幽々子様だが、そのくせおいしいお酒や食べ物には目がなくて、ときどき色気よりも食い気なんじゃないかなあ、と思うこともある。この間のお月見のときも、たった二、三分で山積みの月見団子を一人で食べてしまった。あのときは間違いなく月を見ることよりもお団子を食べることを優先していたと思う。
当然、幽々子様は今日開かれるクリスマスのパーティーも楽しみにしている。そのパーティーはすごいことに湖の吸血鬼の館で開かれる。吸血鬼の館で聖人の祝祭をするなんて信じられない。そんなミスマッチ、全然風流じゃないと思う。
でも、そんな宴会に幽々子様はいの一番に飛びついた。館で出される食べ物やお酒はおいしくて高級だからという理由で。祝祭の意味なんて全然気にしていない。色気と食い気の優先順位が本当に都合のいいようにころころ変わってしまう。
もういやになってしまう。いつも幽々子様のきまぐれに振り回されてばかりだ。
そんなこんなでもらった突然の休みなんて、なんだか落ち着かない。
お休みがいらないといっても、幽々子様の考えはきっと変わらない。冬のこの時期に私の庭師の仕事は少ないし、新年の準備までには少し時間があるから、仕事があるという言い訳も今回はできない。
宴会までの時間を好きにしていいと言われたけれど、どうやって過ごそうか全然いい案が浮かばない。屋敷を追い出されてしまったから、剣の稽古もできない。
結局、なんとなく町をぶらぶらしている。何が楽しくてこんなことをしてるのかなあ、とぼんやり思う。パーティーまでには帰って来るようには言われているけど、それまでにたっぷり半日近くもある。何をしようか考えるだけで気が滅入ってしまう。
空は濃い灰色だ。鈍色と言うと幽々子さまが教えてくれた。同じような色でもいろんな言い方があるなんて不思議だなあ、と考えていた。
気持ちが落ち込みそうな空模様とは反対に町はうきうきとして華やいでいる。シャンシャンとベルを鳴らした音楽がどこからか流れてくる。外の世界からの影響でリースやツリーを飾っている店もぽつぽつとある。
若いお父さんとお母さんが小間物屋で息子のプレゼントを選んでいる。かわいいだるま柄の着物を着た小さい男の子がおもちゃを握りしめて放さず、その様子を見てお店の人も笑っていた。
師走も終わりに近づいているのでてっきり町の人も忙しそうにばかりしていると思っていたけれど、そうでもないみたいだ。でも、本当に人が多い。私は人の多いところが苦手だ。ちびの私は人ごみに入るとまわりが見えなくなってすぐに迷子になってしまうから、気をつけないと。
恋人らしい男の人と女の人の姿もちらほらと見える。手をつないだりはしているけれどさすがに人前で破廉恥なことはしてない。外の世界では人前で平気でいちゃつく人たちがいるそうだけれど、そんな人がいたら恥ずかしくて誰も町を歩けなくなってしまうに違いない。幻想郷の風紀が乱れていなくて本当によかったと思う。
朝方に降り積もった雪を踏みしめて歩く。今朝がたは本当に底冷えしていた。赤くなった両手を擦り合わせる。どうして手袋を忘れてしまったんだろう。何時間か前、出かける前の自分がちょっと恨めしい。
全然人のいない町の片隅でお面を付けた女の子がきれいな舞いを踊っていた。町の中心の方は活気があるけど、このあたりはがらがらで人影もほとんどないから、誰にも気付いてもらえないみたいだ。わざわざ人のいないところで踊ることもないのに、と思う。
でも、とてもきれいな踊りだった。あまり詳しいことは知らないけれど、きっと能楽だ。薄紫色の髪をたなびかせて、緩やかに舞う。ゆったりとしているのにメリハリのある動きで、優雅という言葉がぴったりくる。
踊りを終えてぴたりと動きを止めたその子に私は拍手を送った。
普段なら通り過ぎてしまうところなのに、どうしてか最後まで見てしまった。なんとなく一人でさびしく踊っているこの子に親切にしなければいけないような気がしていた。町の空気になんとなくなじめない自分と一人で踊るこの子はちょっとだけ似ているかも、なんて何となく思っていたからかもしれない。
「すごくきれいな踊りね」
私が見ず知らずのその女の子に理由もなく話しかけることはあまりない。人見知りがちで、すぐに言葉が詰まってしまうからだ。でも、今日は不思議とすんなり話しかけられた。
「ありがとう!」
明るいけれどなんだかぶっきらぼうな口調でその女の子は応えた。突然ひょっとこの面が出てくる。でも、本人の表情は何も変わっていない。
みょうちきりんな子だなあ、と思う。顔のまわりにお面がぐるぐる回っている見た目からして、きっと妖怪の類だ。妖怪みたいな人外は変わった性格の子が多いから、この子もきっと不思議な性格の子に違いない。
そういえば、夏ごろにお面の妖怪が大きな事件を起こしたことをうわさに聞いていた。もしかしたら、この子がそうなんだろうか。
「その……、さっきのは能楽?」
「うん」
「ずっと一人で踊ってたけど、能が好きなの?」
「うーん、そうかなぁ。好きとか嫌いとかそういう問題でもないんだけれど」
なんだかぽやぁっとした生返事。それにずっと無表情で、話も続かない。私が元々口下手なせいもあるけれど、この子がふわふわとした受け答えしかしないからというせいもある。
話題がなくなってしまってなんだか落ちつかない。だれかが一緒にいて話を続けてくれたらよかったんだけれど。
「もしかして、あなたって夏の初めに異変を起こした妖怪?」
真っ正直に変なことを聞いてしまった。言ってしまったあとで後悔するがときすでに遅し。
居心地が悪くなって目線をそらす。近くの木に来たヒヨドリがナナカマドの実をつついている。とくに鳥に興味があるわけでもないのに。見事なまでの現実逃避。
怒っていないかなあ、と気にしながらそっと彼女に視線を戻す。
「うん、たぶんそうなのかなぁ」
けろっと何でもないかのように答えた。しかもどうしてか疑問形。表情がわからないから本当に怒ったりしていないのかはさっぱりだけれど。
女の子が黙ってじっとこちらを見ている。やっぱり怒ってしまったんだろうか。ちょっと気まずいし、とにかく謝るしかない。
「その……、ごめんなさ……」
「ふぇ、へっくち」
はしたないくらい大きなくしゃみをした。
女の子は一瞬だけ目をつむったけれど、文字通りの能面のような表情が張り付いたままだ。顔色一つ変えずに鼻水をたらしている姿はあまりにもシュールで、くしゃみの前と後で顔つきが少しも変わらないのもまるで間違い探しみたいだった。
たれた鼻水をずるずると盛大にすすりあげる。
なんだか放っておけなくなってきた。このまま、ただ見ていることなんてできない。
ちり紙を取り出して鼻をかませてあげる。女の子はちーんと鼻をかんだ。
見てみるとお面の子は随分寒そうな格好をしている。ふわふわしているせいでわかりにくいけれど、スカートには穴があいていてそこから素足が見える。上の服もぺらぺらで薄そうで冬着ではない上に、すそからお腹がのぞいている。こんな寒そうな格好で外を出歩くなんて考えられない。
「スカートの下は素足じゃない。赤くなってしもやけみたいになっているわよ」
「寒い……」
女の子はぶるっと体を震わせる。
「もっと厚着しようとは思わなかったの? この時期、そんな格好じゃ寒いのは当たり前じゃない」
女の子は口を両手で押さえたあと、両手を大きく打ち合わせた。一応はっとしたってことなんだろうか。厚着をするなんて考えもしなかったということ?
大きな口をあんぐりと開けたお面が出てきていた。どうやら、このお面が感情を表現しているみたいだ。
――全く、もう!
この子は放っておけない。今の人里で一人寒そうにしておくのはさすがにちょっとあんまりだ。
「一緒に着る物を買いに行かない?」
なけなしの勇気をふりしぼって言ってみた。ちょっぴりどきどきするけど、顔にはきっと出ていない――はず。
「でもお金がないわ」
たしかに投げ銭を入れるお椀には二、三枚の硬貨しか入っていない。服装だけじゃなくて懐も寒いみたいだ。
やれやれと私はため息をついた。
「仕方がないわ。私がお金を出すから一緒に行こう?」
「ありがとう。でも……」
ぐうぅと女の子のお腹が鳴った
「お腹空いちゃった」
力が抜けてしまう。本当にしようがない子だ。
「わかったわ、先に何か食べましょう」
「やったー!」
彼女はくるっと一回転して、おおげさにガッツポーズをした。
「ところで、あなたの名前は? 私は魂魄妖夢よ」
女の子はビシッと威圧するようなポーズを取った。
「変な名前だ……。 私の名は秦こころ」
余計なお世話だ。自分だって十分すぎるほど変わった名前なのに。
あんまりな言葉にむっとしたけれど、私はじっと我慢した。
2
近頃評判の蕎麦屋で、こころはずるずると勢いよくそばをすすっている。
店はそれなりに老舗らしいけれど、店内はきれいに掃除されていて長くやっているという感じはほとんどしない。
福の神が訪れたといううわさのせいで、にこにこと笑った福助人形がたくさん飾られている。人気店だけれどまだ昼には早い時間だからか席は空いていた。
こころは相変わらず能面みたいな顔をしている。本当に表情を変えることはないみたいだ。
無機質な顔つきでがっついてそばを食べている。よっぽどお腹が空いていたんだろう。はふはふ言っているから一応熱いのだろうけれど、表情のせいで全然そう見えない。
私は先に食べ終えていたので、念のため幽々子様にもらった封筒を確認した。小遣いが入っているはずだ。昼食分ぐらいのお金は当然あるだろうけど、服が買えるかはちょっと心配だ。
聖徳太子が五人そろっている。こんな大金持ったことがなくって、なんだか落ち着かない気持ちになる。
でも、五万円って本当に大金なのかなあ。信用されてないからお金を持たせてもらえなかっただけで、実は自分と同じくらいの子はそれぐらい持っていて当たり前なのかもしれない。
とにかく気持ちを落ち着けようとお茶を少し飲んだ。
こころの箸が止まっている。じっと店の奥のほうを見ていた。若い男の人が熱心にそば打ちをしている。いかつい顔をした主人がてきぱきと指示を出す。結構厳しく指導されているみたいだけれど、男の人が辛そうにしている気配はない。必ず一人前になってやるといった感じで、目が輝いていて生き生きとした顔をしている。
「希望って何なのかな……」
「えっ!」
こころは出会った時から同じようなぼやっとした感じでお品書きを読み直していた。
さっきのはなんだったのだろう。
でも、あのときのこころの瞳はなんだかどんよりとしていた。
「ありがとう。おいしかったわ。ちょっとしょっぱかったけれど……」
おごってもらって、しかも汁まで一滴も残らず飲んでおいて、文句を言うのかこの子は。まだお店の中なのに。
こんなに世間知らずというかマイペースでこの子はどうやって生きてきたのだろう。すごく不思議に思う。
「でも、どうして妖夢は私におそばを食べさせてくれたの?」
「うーん。何となく放って置けなかったから、かな」
今の人里には誰かに優しくしたくなるような、そんな空気がある。ほんの少し自意識過剰かもしれないけれど、町の幸せそうな雰囲気からあぶれているこころに親切にするのは当たり前のような気がしていた。
「これから用事は特にないんでしょ。
一緒に服でも買いに行きましょう」
うん、とこころは頷いた。
清算を済ませる。おごってあげるなんて初めての経験で、ちょっとだけ大人になった気がした。
お金があるのにわざわざ古着屋に行くなんて貧乏くさい。
でも、私は新しい服を買うのにどれだけお金がかかるか知らない。
普段は布みたいな材料を買ってくるだけで、お屋敷で専属の使用人に仕立ててもらっている。お屋敷が外界との隔離がとかれる前からずっとそうしてきた。だから、人里のお店で仕立てるといくらかかるかなんてよくわからない。自分がひどく世間知らずなようで、ちょっと情けない。
でも、下手に高い物を買ってお金がなくなってしまうのも怖かった。それに、新しく仕立てるのにも時間がかかる。できればこころには早く冬物の服を買ってあげたい。
古着屋は思ったより混んでいる。若い恋人たちにお年寄りの夫婦までいろんな年頃の人たちが品物を選んでいる。クリスマスの贈り物にするんだろうか。
ひとまずこころにはタイツと上着、できればボタン付きシャツの下に着るものも買ってあげたい。あとは何が必要かなあ、と考えてみる。
「こころ、何か欲しいものはある?」
「うーん。よくわからない」
こころは自分で選べないらしい。もともと自分で買おうとも思わなかったわけだからある意味当たり前かも。
けれど、意外と考える子だなあ。マイペースかつ適当に即決してしまう気がしていたのだけれど。
とりあえず私が適当に見つくろうことにする。
正直なところ、服――特に他人の物を選ぶことには慣れていない。私はいつも同じような服を着てばかりで、特別なときも幽々子様や友達に選んでもらってばかりだ。でも、いつも彼女たちの選び方を見てきたし、そんなに自分のセンスは悪くないと思う。
こころは意外と背が高い。服を試着させてあげているとつねに見下ろされる感じだ。ちびの私からするとこんなに身長が高いなんてうらやましい。
自分と似たような感じの服なら失敗しないだろうと、青緑色のベストとスカートをこころに着せてみたが全然似合わない。自分の好きな白や黒、緑を主体に選んでみたがどれもこころにはやっぱり合わない。
最終的になぜか一周して、また自分と同じ形のベストとスカートで似合わないはずの服を着せていた。
「……ダサイ」
鏡の前に立つこころがつぶやく。心ない言葉に私は傷つけられた。
「じゃあ何がいいのよ!」
思わず大きな声を出してしまった。でも、せっかくよかれと思って選んであげているのにそんな言葉はあんまりだ。
こころはおおげさに身を引いていた。驚いておびえているんだろうか。けれど、表情は涼しげで反省しているのか逆に反発して怒っているのかもわからない。そんなこころに尚更いらいらしてしまう。
見るに見かねたのか店員さんが声をかけてくれた。幻想郷では珍しい純洋風の服を着ている若い女性の店員さんだった。黒や茶色主体の落ち着いた冬らしい色合いの着こなしがかっこいい。いやみがない程度に身につけているネックレスやイヤリングが上品でおしゃれだった。
丈の短いベージュのダッフルコートとシャツの上に着られる紺色のカーディガンをすすめてくれた。妖夢が選んだものよりもずっとこころに似合っている。着ているものがかっこいいだけあって、服選びのセンスも私よりずっといい。
こころは上着のボタンにこだわりがあるみたいで、カーディガンのボタンを今のシャツと似たものに付け替えてもらった。もともと買おうと思っていたタイツや手袋、ふわふわの耳あても合わせてお金を払う。
思ったよりもお金がたくさんかかった。正直なところ、お店に来る前にどれだけかかるか知っていたらこころを誘わなかったかもしれない。もらった五万円は思ったほど多い金額じゃなかったみたいだ。普段これぐらいの金額も持たせてもらえないのは信頼されていないからなんだろうか。なんだか少し情けない気持ちになる。そんなによく落としものや忘れものみたいな失敗をしているわけじゃないと思うんだけれど。大事な仕事道具をなくしてそれを幽々子様に黙っていたこともあるけれど、それだってたった一度だけだ。あのときはあとでばれてずいぶん叱られたけれど。
それにしてもあの店員さんは、よく今にもけんかしそうな私たちに顔色一つ変えず丁寧な応対をしてくれたと思う。そのおかげで、なんとかこころと仲たがいすることもなくすんだ。すごいなあ、どんなときでも完璧に仕事ができなんてこれが大人なんだなあと私は思った。
お金を支払い終えるとなぜかこころが小さい子どもをあやしている。
お面が切り替わるのが面白いらしく、キャッキャと騒ぎたてている。特にミミズクみたいな変なお面のうけがいい。金ぴかでてかてかの品のないお面だ。それが出てくると、つぼにはまったようにケタケタと笑う。
突然母親らしき人が駆けよってくる。心配そうで心なしか青ざめているように見えた。
お礼を言う――かと思ったら、子どもの手をふんだくるようにつかみ連れていってしまった。
子どもの目線に合わせてかがんでいたこころがぽつりと取り残された。
まわりの人たちがひそひそと話している。
よくあることだ。人里にも妖怪は訪れるがそれをよく思わない人もいる。とくに子連れの親は。仕方がない。自分も親になったらきっと自分の子どもを妖怪に近付けたいとは思わない。いい妖怪もいるだなんて主張する気もない。
けれど、なんだか妙にむかっとした。さっき、こころを怖がらせてしまったことをちょっと後悔していたせいもある。でも、普段はこんなこと絶対気にしないはずなのに。
こころは別に悪いことなんて一つもしていない。むしろ子どもをあやしていたんだから、いいことをしていたはずなのに。
「大丈夫よ、妖夢。いつものことだから」
こころが平坦な口調で言った。やっぱり眉ひとつ動かしていない。
けれど、こころのつけているお婆さんのお面がすごく悲しそうに見えた。
3
町の中心部は人がとても多い。はぐれないようにこころの手を握ると、ぎゅっと強く握り返された。
ぎざぎざとした感触が手にあたった。こころの手には爪をかみきったようなあとがある。かみぐせがあるなんて、ある意味子どもっぽいこころらしい。
さっきは少し気まずい雰囲気になってしまったけれど、誰かをリードして行動しているということが少し気持ちよかった。
いつもは幽々子お嬢様たちのような年上っぽい人に振り回されてばかりだった。同じくらいの年に見える子に混じっても、からかわれたりするばかりいる。もちろん本当に悪意があって、みんながちょっかいを出すのではないと思う。でも、やっぱり悔しい気持ちもある。
誰かに頼られて、引っ張っていくことなんてほとんどなかったので、少し自分が大人になったみたいで悪い気はしない。
「これって何?」
こころが私の服を引っ張って引き留めた。
「活動写真ね、これは」
肩をよせあって笑いあう外国の男の人と女の人が描かれた看板だ。外の世界から流れついたものらしく白黒の年代物で、雨ざらしだったのかかなり色あせている。
「私たちが見るようなものじゃないわ。やめましょう」
活動写真なんて不良が見るものだ。一般の人が、まして私やこころのような年頃の女の子が見るようなものじゃない。
「どうして? ねぇ、妖夢。いいでしょ、私見てみたいの。
これはきっと人の感情の勉強になりそうな気がする!」
ぐいぐいと服を引っ張ってこころは駄々をこねる。
意地になって私もむりやり手を引っ張ったけれど、こころも頑固に服のすそを握りしめて放さない。
「もう! いい加減にしてよ!」
また大声でさけんでしまった。あたりの人たちが振り返り冷たい目で私たちを見る。突然大声を上げたのだから当たり前だ。
私と同じくらいの年に見えるいがぐり頭の男の子が馬鹿にするようにニタニタしている。普段はぎゃあぎゃあ騒いでいるくせにいけしゃあしゃあとして。本当は私よりもだいぶ年下のくせに。男の子ってどうしていつもこんな感じなんだろう。
「妖夢どの、それにこころか。珍しい組み合わせじゃな」
突然、後ろから女の人に声をかけられた。若いけれど、少し低くてよく響く声だ。
見覚えのない女の人だ。少し身長が高くて黄緑色の紋付羽織を男性のように着ているのだけれど、それが不思議とよく似合っている。古臭い丸メガネと葉っぱの髪留めがちょっと印象的だ。
「失礼なことをお聞きしますが……、どこかでお会いしましたか?」
前にあったことがあるみたいなのに覚えていないのは気まずい。よく見てみると眼鏡の奥のいたずらっぽい目つきはどこかで見たような気がする。それに、なんとなく獣臭いのも気になる。
「ああ、そうか。この姿ではわからんか」
女の人は私たちを物陰に引っ張りこんだ。あたりに人がいないのを確認すると、高く飛び上がって空中でくるっと一回転した。どろんと一瞬煙に包まれると、耳と大きな太い尻尾が生えていた。
「マミゾウさん、でしたか」
前に会ったことのある化け狸だ。人間に化けて人里に出入りしていることはうわさには聞いていた。彼女はすぐ年寄りじみた自慢話をするから私はちょっと苦手だ。
マミゾウさんはもう一回転すると元の人間の姿に戻った。
「さっきは映画館の前にいたな。映画でも見に来たのかえ?」
「いいえ、違います。活動写真なんて不良が見るものじゃないですか。私はやめようって言ってるのにこころが聞かなくて……」
「活動写真なんてずいぶん古い表現じゃなあ。
それに、別に映画を見たくらいで不良になんかならんわい。
ほれ、儂もちょうど入ろうと思っとったから、これで保護者同伴じゃろ。」
「……保護者同伴ってなんですか?」
「ほう、妖夢どのは知らんのか? 外の世界では当たり前なんじゃがのう。とにかく年上の人が一緒なら、映画館に入っても不良にはならないってことじゃよ」
なんだかすごい理屈だ。いったい何を根拠にそんなことを言っているんだろう。
こころは相変わらずひしと服のすそをつかんだままだ。絶対に観たい、ということを主張するようにじっと私を見つめている。
「はあ、仕方ないですね。私も一緒に活動写真を見ます」
こころはくるっと三回まわって例のおおげさなガッツポーズをして、全身で喜びを表現した。
中には私が想像していたような柄の悪い人は一人も見当たらなかった。
べたべたとしている恥じらいのない恋人が気になったけれど、子連れのお客さんも二、三組いる。子どもをつれてくるということは映画の内容もあまり過激じゃないに違いない。マミゾウさんを本気で疑ってはいないけれど、私やこころが見ていい内容なのかやっぱり心配だったのでちょっと安心した。
少し大きめの居間に、ござを敷いただけで椅子もない映画館だ。映画館というからにはもっとすごい設備を想像していたけれど、むしろただの上映会といった方がいい感じだ。
部屋の後ろに古くさい映写機があった。前にはスクリーンとして白い大きな布が吊り下げられている。ところどころ塗装がはがれてずいぶん使いこまれているみたいだけれど、ほこりはたまっていない。意外とていねいに手入れされているみたいだ。映画のフィルムは熱に弱いというから燃えやすいほこりを取り除くのは当然かもしれないけれど。
女将さんらしき人が、外は寒かったでしょうと言って熱いそば茶をふるまってくれた。マミゾウさんが苦笑いしながらお礼をした。
「映画館でそば茶とは……、ある意味幻想郷らしいかのう」
マミゾウさんがぼやいた。そんなにおかしいかなあ。
「しかし、映画を見るとなると、ポップコーンが食べたくなるな」
「なんですか、それは?」
「トウモロコシから作るスナック菓子じゃよ。爆弾あられとも言うな。外の世界の映画館じゃ必ず売っとるんじゃが。ここでは材料が少ないから珍しいのかな」
「私は食べたことある! 神社の縁日に売ってたの。高かったけど、お店のおじさんがちょっとだけ分けてくれたわ。お嬢ちゃんがきれいな踊りを見せてくれたからって」
案外世渡り上手らしい。確かにこころには何かをめぐんであげたくなる、世話を焼きたくなるような何かがある気がする。
でも、二人が知っているものを自分だけが知らないのもなんだか悔しい。それに、私は縁日を自分の好きに見て回ったことさえろくになかった。いつも幽々子お嬢様について回るだけだ。自分がひどく世間知らずなような気がする。
「自分だけ知らないなんていうことを気にしなさるな。いつか食べる機会もあるじゃろ」
「そ、そんなこと別に気にしていませんよ」
こころは首をかしげながらこちらを見ている。どうしてマミゾウさんはわかったんだろう。私ってそんなに顔に出やすいのかなあ。
そうこうしているうちに窓が隠され、部屋が暗くなった。映写機がカタカタと動き出す。
スクリーン代わりの布に白黒の映像が映し出される。かなり古いものらしく映像の乱れがひどい。声は英語だったけれど、日本語の字幕が付いているので内容はなんとかわかりそうだ。
まだ四、五歳くらいの小さな女の子がキャアキャアとわめいている。横に座っていたその子のお姉さんが指を口に当て、しーっと言ってたしなめる。女の子はお口にチャックをした。
微笑ましいはずなのに胸がちくちくと痛む。どうしてなんだろう。
そんな私の気も知らず、こころは映写機をじっと見つめている。初めてみる映写機の動くところが気になって仕方がないみたいだ。
映画の本篇が始まって、『素晴らしき哉、人生!』というタイトルが出てきた。
マミゾウさんは遠い目でスクリーンを見つめていた。遠い昔を懐かしんでいるように見える。何か特別な思い入れがあるのかもしれない。
始めは本当に退屈だった。主人公の過去について語られるのだけれど、いまいち話の進み方が遅くてつまらない。
その上、となりのこころのお面が話の内容に合わせてころころ変わるのが目に入るせいで全然集中できない。夢中になっているのはわかるけれどなんとかしてほしい。
でも、話が盛り上がるにつれて気が付くと私も映画に集中していた。
少なくともこれを見たせいで不良になることはないなあ、と思った。観る前に感じていた不安が馬鹿らしくなる。でも、スクリーンの中の人たちが平気でキスをすることには耐えられなかった。いくらなんでも恥ずかしい。外国の人たちはみんなこんなに奔放なんだろうか。横でこころも恥ずかしそうに目を覆っていた。
ジョージ・ベイリーという男の人の物語だった。幼いころから何度も人助けをする優しい人だったが、夢が叶いそうになる度に不幸が起こり夢に破れてしまう。それでも彼は家族や友人のために一所懸命に働き続けた人だった。
けれど、大きな不幸があって、どんなことにもめげなかった彼もついには絶望してしまう。でも、あるきっかけからその男の人は自分の生きてきた道を見返して、再び立ち上がる、という話だった。
素敵な話だった。家族や友人の温かさに思わず感動してしまった。活動写真がこんなにも面白いとは思わなかった。
となりでこころは泣いていた。涙と鼻水でぐずぐずなのに顔の筋肉がピクリともしないのがなんだかおかしかった。
5
外に出ると日が傾き始めていた。昼ごろの暖かい時間はもう過ぎていて、少し肌寒い。でも、夕方までにはまだちょっと時間がある。
「映画はどうだったかな」
ちょっとお茶目な感じでマミゾウさんが聞いた。
「はい、面白かったです」
「それだけかい。せっかくおごってあげたんじゃから、もっと具体的に言って欲しいのう」
うーん、と考え込んでしまう。
いちいち細かいことを考えて観ていなかった。途中からマミゾウさんのおかげで映画を観ていたことも忘れていた。
でも、それは映画に集中していたからだと思う。それだけの魅力があったのだ。
「うーん、なんだか努力は必ず報われるって気がしました」
主役の男の人はどれだけ自分の思い通りにならなくても、一所懸命がんばり続けてきた。そのおかげで最後に救われたんだと思う。
こころもこくこくと小さく頷く。同じ意見みたいでちょっぴり安心した。
「そうか、お主らの感覚ではそうなのかもしれんな」
「マミゾウさんはそうは思わなかったんですか」
「そういうわけじゃないわい。
確かにお主らの言うことももっともじゃよ。
でも、儂は誰にも大切なものがある、そのためならどんなことがあっても踏ん張れる、そう思ったよ」
なんとなくだけれどマミゾウさんの言いたいことはわかる気がする。でも、あの活動写真のテーマが本当にマミゾウさんの言った通りだとはすんなりと思えない。頭ではわかっても、あまり実感がわかない。私に本当につらいことを乗り越えた経験がないからなのかもしれない。
ぼんやりと話を聞いていたこころが、「なんかおばさん臭い……」とつぶやいた。
マミゾウさんのこめかみに青筋が走った。
こころはゲンコツをもらった場所をまだおさえている。
マミゾウさんは年のことは気にしていないらしい。でも、さすがに『おばさん臭い』言われるのはいやだったみたいだ。悲劇を繰り返さないためにも言葉には気をつけようと思う。
「せっかくじゃから喫茶店にでも寄っていかんか。まだ時間に余裕はあるじゃろうし」
喫茶店の前で立ち止まる。洋風のちょっとお洒落な感じのお店だ。
マミゾウさんはため息をついて、まだしょげているこころを見た。
「一つだけなら何でも好きな物をおごってやるから、いい加減機嫌をなおせ」
「わーい!」
こころのお面が嬉しそうなお爺さんのものに切り替わる一方で、私は気が進まない。
「喫茶店なんて……」
「また不良になる、か? そんなことでいちいち不良になっとったらきりがないわい。
それに今日は保護者同伴じゃ。全く持って問題なし!」
保護者同伴って本当にいったい何なんだろう。保護者同伴なら何をしてもいいんだろうか。
外の世界には不思議な風習があるんだなあ、と思った。
喫茶店の中は薄暗く、大人っぽくて不思議な雰囲気だった。天井でなんのためにあるのかわからないプロペラがくるくると回っている。想像していたような危ない雰囲気のお客さんはいなかったけれど、子どももほとんどいない。なんだかひどく場違いな場所に迷い込んでしまったような気がする。
カウンターのそばにとても大きなポインセチアの鉢植えが飾られている。少し暗めのあかりの中でも赤と緑のコントラストがきれいだ。ポインセチアは意外と育てにくく、特にきれいな赤色を出すのが難しいと聞いたことがある。私も庭仕事をしていて植物には関心があるから、どうやったのかこの鉢植えを育てた人にぜひ聞いてみたいと思う。
少し煙草臭い。苦手なのかこころがちょっとそわそわとしている。
よくわからない緩やかな外国の音楽が蓄音機から流れている。しっとりと落ち着いた感じのきれいな曲だ。
「シューベルトとはなかなかいいセンスじゃな」
マミゾウさんはこの曲のことも知っているらしい。本当に博識だなあと感心してしまう。
和服の上にエプロンを付けた女性の給仕さんに案内されて、窓際の席に座った。
「儂は普通のブレンドでも頼もうかのう。
お主らは一つだけなら何でも好きなものを頼んでいいぞ」
こころはじっとお品書きを見つめている。
果物がたくさんのったパフェの絵が載っていた。こころはこれを注文したいみたいだ。
喫茶店だから私もマミゾウさんみたいにコーヒーを頼んだ方がいい気がする。でも、あんなに苦いものは正直言って苦手だった。せっかくご馳走してもらえるのだから本当に好きなものを頼みたい。けれど、ここは大人っぽくコーヒーを飲んだほうがかっこいいに決まってる。
「私はこれがいい!」
こころがお品書きのチョコレートパフェの写真を指差す。悩んだ末にチョコレート味に決めたらしい。
「妖夢どのは儂と同じのでいいかな?」
やっぱり、ここはコーヒーを頼むべきかなあ。いや、紅茶でもいいのかな。あれなら苦くて飲めないことはないけれど。でも、紅茶だって私はあんまり好きじゃない。
本当は甘いものが食べたい。でも、せっかく今日一日お姉さんっぽく接してきたこころに子どもっぽいところを見られるのはいやだ。
私は穴があくほどお品書きを見つめる。
横からマミゾウさんが覗き込んだ。
「ほう、いちごパフェ期間限定とな。しかも、今日で終わりじゃないか。
しかし、あまおうとは外の世界で言うブランドいちごじゃな。よく幻想郷でそんなものを手に入れたもんじゃ」
本当に楽しそうにマミゾウさんはニヤニヤしている。こころもじっと私を見つめていた。
――ああ。
ここでパフェなんか頼んだら小さい子どもみたいに思われてしまう。でも、これを逃せばしばらくは食べられない。もしかすると一生食べられないかもしれない。
ここ数年で一番悩んだ。もしかすると一生で一番悩んだかもしれない。
マミゾウさんが給仕さんを呼んだ。
こころが先に注文して、マミゾウさんが自分と同じものでいいかと目で合図を送る。
パフェの絵のイチゴが艶々と輝いて、とろとろのクリームが零れ落ちそうに見えた。
「待って!」
マミゾウさんがニタリとした。悪だくみが成功したあとの最高の笑顔だ。
「いちごパフェをお願いします……」
うつむいて顔を真っ赤にしながら私は言った。
マミゾウさんが煙管を吸って、おいしそうにぷかりと煙を吐き出す。こころはパフェに夢中になっていて周りのことが気にならない様子だ。
「実はな、さっきは妖夢どのを誘導してみていたんじゃよ。気付いておったかな」
やっぱりそうだったのか。面白半分でこんなに悩ませるなんて、ひどい。私のまわりはいつもこんな人ばかりだ。からかわれるのはもう、うんざり。
「いやあ、それにしてもさっきのは見物じゃったわ。あそこまで簡単に引っ掛かってくれるとはな」
私は頬を膨らませてぷいっと顔をそむける。いつもそうやってみんなで私をおちょくる。いい加減にして欲しい。
「どうやってやったか知りたくないか」
「別にいいです」
どうせ不器用な私は使えないんだから聞いても仕方がない。
「そ、そんなこと言わずに……。なあこころも知りたいじゃろ」
話を聞いていなかったこころは不思議そうにマミゾウさんの横顔を見た。
今日、一番マミゾウさんが狼狽している。ちょっといい気味だ。
「味見させて」
相変わらずマイペースなこころが私のパフェに向かって手を伸ばしてきた。
「はしたないわよ、そんなこと」
行儀が悪いし、恥ずかしい。
「別に気にせんでもいいじゃろ。こんなこと若いうちしかできんしな」
マミゾウさんの声はどこか投げやりだ。さっきのことでまだむすっとして、へそを曲げているみたいだ。
じーっとこころに見つめられる。
私はため息をついた。根負けだ。
こころは私のいちごパフェをすくった。迷わず大きいイチゴのところを取っていくあたり結構ずうずうしい。
私はこころのパフェの端っこを少しだけすくって食べた。ほんのり苦いチョコレートの味がした。
自分のを一口食べてみる。クリームの甘さのあとに、イチゴの爽やかな酸っぱさが広がる。恥ずかしかったけれど頼んだかいがあった。
こころは福の神のお面を付けて、すごく嬉しそうにしていた。でも、まだ視線を私のパフェのほうに向けている。
「こっちにすればよかった!」
「隣の家の芝はよく見えるものよ。また今度頼めばいいじゃない」
「妖夢どのはこころのお姉さんみたいじゃのう」
こころも何も言わずにうんうんと小さくうなずく。まるで寺子屋に通い始めたばかりのちいさな子どもみたいだ。
二人ともどこまで本気で言っているかはわからないけれど、なんだかむずがゆい。
でも、ちょっと罪悪感もある。こころに親切にしたのは結局、お姉さん風を吹かせたかっただけなんじゃないかって気がする。いつもみんなに子ども扱いされるのがいやになっていただけなんじゃないかって。すごく独りよがりで自分勝手だ。
マミゾウさんが煙管を叩いて、灰を落とした。新しい煙草をつめようとしたところで、こころのほうを見て急に手を止めた。
「いや、すまんかった。言ってくれれば良かったんじゃが」
「うん、やーっと気付いてくれた」
相変わらずの素っ頓狂な反応。でも、やけに「やっと」を強調している気がする。本当はもっと早く気付いて欲しかったのかな。
でも、マイペースで表情を読めないこころの相手は疲れてしまう。お面から感情を読むのにはなかなか慣れない。
「ところで、新しい希望の面はきちんと使いこなせているか?」
「うーん、悪くはないかなぁ」
なんともはっきりとしない生返事。
「夏ごろまでは本当に調子が良かったんだけれど。それからはちょっと……。
夏の終わりごろになってからはなんだか自分がものすごく強くなって、なんでも出来るような気がしたの」
「それ、よくわかるわ。
私も剣が血に飢えてるって感じになったの。今ならどんな強い相手にも勝てる、なんでも切れそうな気がしたわ」
「血に飢えてるって、もう少しましな表現はできんかのう……」
ちょっと眉を寄せて苦笑いしながらマミゾウさんがぼやいた。
そんなにおかしなことを言ってしまったのかなあ。わりと普通だと思うんだけれど。でも、なんとなく恥ずかしくて居心地が悪い。
「で、でも、別に悪いことじゃないと思うわ。
明るい気持ちを持つことって大切じゃない!」
こころも首を縦に振る。
「私も希望があっていいな、やっと希望が持てるようになったのかなって思ったの。
でも、すぐにそんな気持ちもしぼんじゃったの。
それからなんとなく調子が悪くて……」
こころが希望の面というものを求めて異変を起こしたことはうわさに聞いている。
正直なところ希望なんていうものは私にもよくわからない。希望が、輝かしい未来がある、とはよく言うけれど、それはみんなはっきりとしないものに思える。
「ねえ、希望って結局なんなのかなあ? やっぱりどうしてもないとダメなのかなあ?」
こころは短くなった爪を噛んでいた。爪がちびて血がにじみ出ていた。一日、二日ではこんなにはならないだろう。
きっと、いつもこうやって思いつめていたんだ。顔に出ないから誰にも気付いてもらえずに。あんなに無邪気で幼い性格なのに。人に理解してもらえないことはすごく切なくてつらいと思う。
こころがただのマイペースな子だなんてひどい思い違いだった。気づいてあげられなかったのが悔しい。こころは確かにときどき寂しそうにしていたのに。
出会ってすぐに私に懐いてきたことも、人を疑わない性格のせいだけなんかじゃない。一人でいるのがつらかったからなのかもしれない。
変わらない虚ろな目が、もうどうしていいかわからなくて、どこか遠くを見ているようだった。
かける言葉なんて思いつかない。
私は希望なんてものを深く考えたことがなかった。いや、考えたくなかったのかもしれない。
なんとなく今までと同じような日が繰り返して、楽しい日々が続いて行けばいいと漠然と思っていた。
それでも、きっとただ今のままでいることなんてできない。いつかは成長して私も大人になる。でも、大人になった自分なんて想像できない。
自分が大人になる頃には周りの人たちはどうなっているんだろう。幽霊と人間のハーフの私は普通の人より成長が遅い。人間の友達はもうおばさんやおばあさんになっているかもしれない。逆に年を取らない妖怪の知り合いはいつまでもずっと子どものままだ。
同じように一緒に年を取ってくれる人なんてひとりもいない。自分だけ年の取り方が違うなんて寂しい。考えれば考えるほど、とにかく不安になる。
結界がとかれるまでお屋敷が、冥界が世界のすべてだった。幽々子様がいて、いなくなるまでは師匠もいて、幽霊たちに囲まれている何も変化がない世界。結界がとけて世界は広がって、毎日変わり続ける世界に私は触れた。そのときから、きっと私も変わり始めているんだ。
ほんの少し先の未来のことぐらいは想像できる。けれど、せいぜい私が普通の人でいえば二十歳になるくらいまでが限界だ。そこから先は自分がどうなってしまうのか、どう変わっていくのかぜんぜん想像もつかない。
ただ希望があるだけの未来なんて信じられるほど私も純粋な子どもじゃない。
こころに何も言えないことが悲しかった。
「そんなに心配せんでもいいと思うんじゃがなあ」
どんよりとした私たちを見てマミゾウさんが、にやっとした。素直ににこっと笑ったとはいえないけれど不思議と安心できる、陽だまりみたいな表情だった。
「一口に希望と言っても、ただいい未来を期待しているという気持ちだけじゃないんじゃないかのう。
確かにそれも希望の一つには間違いないよ。
でも、家族に必要とされているとか、絶対にやりたいことがあるとか、そのためならつらいことにも耐えられる、前に進んで行ける、そんな気持ちも希望だと思うんじゃ」
こころがまじまじとマミゾウさんを見ている。
「別に未来にいいことがありそうだと無理に期待する必要なんてないじゃろ。今大切なものがあるならそのために頑張ればいいだけじゃ。
それだって、本当につらいときに自分を支えてくれる、自分の『あいでんててぃ』になる希望なんじゃないかのう」
ちょっと難しい話だなあ。ぜんぶはとてもじゃないけれど理解できない。私が本当につらい目にあったことがないからかもしれない。でも、なんとなくわかるようところもある。
「さっきの映画でもそうだったじゃろ。
主役の男を覚えているか? あの男は自分の夢がかなわなくても、希望を捨てたりはせんかった。
それは大切な家族や友人たちがいたり、町のためにやらなければならない仕事があったからだと儂は思う。
最後に絶望したときも、立ち直るきっかけになったのは自分が家族や町をどれほど大切にしてきて、どれだけ尽くしてきたかをもう一度確認したことだったじゃろ。
素晴らしい未来があると考えられればそれでいい。でもそれが無理なら、映画のように今大切にしているものが希望になるということでもいいと思うんじゃよ」
私はこころほどすごく悩んでいるわけでもないし、マミゾウさんの話もたいして理解できていない。でも、マミゾウさんが一番言いたかったことはほんのちょっとだけわかった気がする。
友達や自分の目標を大切にしなさいっていうこと。
私にも大切な主人や友達がいる。幽々子様や人間の友達に妖怪の友達。
剣の道だってもっと極めたい。庭師の仕事だってやるからにはもっと頑張らないと。
うーん、とこころはうなった。
「難しいけれど、ちょっとはわかる、のかなあ……。
でも、私にそんな大切なものなんてあるかなあ?」
――そんなことないよ。
――私が一方的にあなたのこと想ってるわけじゃないでしょ?。
「まあ、今の話をお主らごときに全部理解してもらうことなんざ、期待しておらんよ。
それでも、少しはお主の助けになってくれればと思って話したんだがのう。
お主、能楽は好きなんじゃろ?
それに、本当に友達が一人もいないのか?」
マミゾウさんは私をちらりと見た。
首をかしげるこころにちょっとおどけた感じで聞いた。
「今日一日、妖夢どのとすごしてどうだったか?」
「うん、楽しかった!」
火男の面が前に出てきた。
「妖夢どのはどうだったかな?」
「私も、楽しかったです……」
突然話を振られてちょっとどぎまぎしながらこたえた。少し照れくさい。頭に血が上る感じがする。きっと顔が赤くなっている。
ふぉっふぉっふぉっと不思議な声でマミゾウさんが笑う。
「こころ、また一緒に遊びたいと思わんか?」
うん、とこころが頷く。
「じゃあ、約束をしてみてはどうかな。
妖夢どのは迷惑か?」
言葉が出てこなかった。とにかく必死に首をこくこくと縦に振る。全然迷惑じゃない。
「指切り、しよう」
ぽつりとこころは言った。
「うん」
子どもっぽくて恥ずかしい。けれど、こころの気持ちを無下にできない。
赤くなった顔を見られるのがいやで、顔を上げずに右手を出した。
「指切げんまん嘘ついたら針千本のーます、指切った」
ちょっぴり懐かしい不思議な気持ち。指切りなんて久しぶりだった。昔、幽々子様やお師匠様とよく約束で指切りをしていたっけ。
「これで次まで、消滅したりするわけにはいかんな。約束した以上、次まで頑張って生きていかなければならん。
儂が言っていた希望ってのはそんなことじゃよ。何も大層なことじゃない。
でも、なんだかやらなきゃっていう気持ちになるじゃろ?」
「うん、なんだか元気が出てきた気がする!」
こころは福の神のお面を付けて、嬉しそうに腕を振り回した。
マミゾウさんはちょっと誇らしげだ。
私も未来のことなんてわからないし、不安でいっぱいだ。
でも、頑張らなければならない理由がある。だからきっとつらいことも乗り越えていける気がする。
「うーん、そういえば、マミゾウさんは前に違うことをいっていた気がするなあ。あれは嘘だったの?」
「気のせいじゃないかのう。儂は嘘と坊主の頭は結ったことはない」
「うん、それもそうね!」
こころは納得したけれど、それは絶対にないと思う。まあ、きっと悪意はなかったんだろうけれど。
6
外はすでに薄暮時だ。西の空が茜色に染まっている。ともった灯りで街がぼんやりと明るい。行き交う人の顔も昼間とは違って見える。現実と異世界のはざまのような不思議な時間。でも、橙色の色合いが暖かくて、今の町の優しい雰囲気にぴったりあっている気がした。
「あんまり遅い時間まで小さい子を連れて歩くのはよくないのう」
むっとして頬を膨らませる。子ども扱いなんてひどい。マミゾウさんだって見た目はそんなに変わらないはずなのに。私だって、もう三十年以上生きている。
マミゾウさんは私たち二人と別れていった。
なんだか不思議な一日で、狐につままれたみたいだった。マミゾウさんは狸だけれど。
「約束忘れないでね」
こころは相変わらず冷めた表情をしている。傍目には彼女の気持ちなんてわからない。けれど、彼女なりに必死で感情を表そうとしているのだと思う。その頑張りがこころらしくてなんだかかわいらしい。
「うん、わかってる」
二人で並んでしばらく歩いた。食べ物のおいしそうな匂いがする。洋風の焼き鳥のにおいかなあ。
「じゃあ、ここで。私は一旦お屋敷に帰るわ」
こころは古着屋で見せた珍妙なお面を付けていた。すごく気の抜けた表情をしている。金ぴかでひどく趣味が悪い。センスの悪さの塊のようなお面に思わず笑ってしまった。
「あははは、何それ」
怒ったのかこころは般若の面も横に出してきた。
「これが希望の面なんだもん」
「そうだったの。でも、どう見ても変よ、それ」
「うーん。やっぱりそうなのかなぁ。だけど、もうどうしようもないよ。代わりなんてないし」
「面白いからいいんじゃない。こころが希望を持つたびに、まわりの人も笑わせられるなんて素敵でしょ」
「ひどい!」
こころの口調はぷりぷりとした感じだった。
思っていたよりこころはずっと表情豊かだ。いつもどこを見ているかわからない目つきだし、顔の筋肉もほとんど動かない。でも、感情はちゃんとあるし、彼女なりにそれを表現もしている。わかる人にはちゃんとわかる。
ほんのちょっとだけこころのことを理解出来たのかな、と思った。
こころと別れて暖かい雰囲気に包まれた町を歩く。
しばらく進んだところで、ふと思った。
こころはこれからクリスマスの夜をどう過ごすんだろうか。誰かに宴会にでも誘われていたんだろうか。
だれからも声をかけられていないのかもしれない。彼女はほかの人と付き合い始めてからまだ一年も経っていない。
たった一人で夜を過ごすこころを思い浮かべる。そんなのは絶対にだめだ。
――早速、約束果たさないと!
私はこころを追って駆け出した。
お嬢様に暇を言い渡された。
お暇をもらったといってもクビになったわけではない。生まれて初めてお休みをもらったのだ。
クリスマス休暇よ、と幽々子お嬢様は言っていた。でも、クリスマスが何をする日かなんて私にはよくわからなかった。
――クリスマスっていったいなんなのかなあ?
外国のお祭りであることはもちろん知っている。でも、どういう気持ちで祝って、どう過ごせばいいのかさっぱりわからない。
そもそも幽々子様も本当にわかっているのか怪しい。でも、どうせ聞いたところで、自分で考えなさいって言われるに決まっている。幽々子様はそういう人だ。
――クリスマスに休むということが風流なのよ、妖夢。
そう言われても去年まではそんなこと聞いていないし、お休みももらっていない。本当にどうしようもないほどいい加減だ。
風流という言葉を好んでよく使う幽々子様だが、そのくせおいしいお酒や食べ物には目がなくて、ときどき色気よりも食い気なんじゃないかなあ、と思うこともある。この間のお月見のときも、たった二、三分で山積みの月見団子を一人で食べてしまった。あのときは間違いなく月を見ることよりもお団子を食べることを優先していたと思う。
当然、幽々子様は今日開かれるクリスマスのパーティーも楽しみにしている。そのパーティーはすごいことに湖の吸血鬼の館で開かれる。吸血鬼の館で聖人の祝祭をするなんて信じられない。そんなミスマッチ、全然風流じゃないと思う。
でも、そんな宴会に幽々子様はいの一番に飛びついた。館で出される食べ物やお酒はおいしくて高級だからという理由で。祝祭の意味なんて全然気にしていない。色気と食い気の優先順位が本当に都合のいいようにころころ変わってしまう。
もういやになってしまう。いつも幽々子様のきまぐれに振り回されてばかりだ。
そんなこんなでもらった突然の休みなんて、なんだか落ち着かない。
お休みがいらないといっても、幽々子様の考えはきっと変わらない。冬のこの時期に私の庭師の仕事は少ないし、新年の準備までには少し時間があるから、仕事があるという言い訳も今回はできない。
宴会までの時間を好きにしていいと言われたけれど、どうやって過ごそうか全然いい案が浮かばない。屋敷を追い出されてしまったから、剣の稽古もできない。
結局、なんとなく町をぶらぶらしている。何が楽しくてこんなことをしてるのかなあ、とぼんやり思う。パーティーまでには帰って来るようには言われているけど、それまでにたっぷり半日近くもある。何をしようか考えるだけで気が滅入ってしまう。
空は濃い灰色だ。鈍色と言うと幽々子さまが教えてくれた。同じような色でもいろんな言い方があるなんて不思議だなあ、と考えていた。
気持ちが落ち込みそうな空模様とは反対に町はうきうきとして華やいでいる。シャンシャンとベルを鳴らした音楽がどこからか流れてくる。外の世界からの影響でリースやツリーを飾っている店もぽつぽつとある。
若いお父さんとお母さんが小間物屋で息子のプレゼントを選んでいる。かわいいだるま柄の着物を着た小さい男の子がおもちゃを握りしめて放さず、その様子を見てお店の人も笑っていた。
師走も終わりに近づいているのでてっきり町の人も忙しそうにばかりしていると思っていたけれど、そうでもないみたいだ。でも、本当に人が多い。私は人の多いところが苦手だ。ちびの私は人ごみに入るとまわりが見えなくなってすぐに迷子になってしまうから、気をつけないと。
恋人らしい男の人と女の人の姿もちらほらと見える。手をつないだりはしているけれどさすがに人前で破廉恥なことはしてない。外の世界では人前で平気でいちゃつく人たちがいるそうだけれど、そんな人がいたら恥ずかしくて誰も町を歩けなくなってしまうに違いない。幻想郷の風紀が乱れていなくて本当によかったと思う。
朝方に降り積もった雪を踏みしめて歩く。今朝がたは本当に底冷えしていた。赤くなった両手を擦り合わせる。どうして手袋を忘れてしまったんだろう。何時間か前、出かける前の自分がちょっと恨めしい。
全然人のいない町の片隅でお面を付けた女の子がきれいな舞いを踊っていた。町の中心の方は活気があるけど、このあたりはがらがらで人影もほとんどないから、誰にも気付いてもらえないみたいだ。わざわざ人のいないところで踊ることもないのに、と思う。
でも、とてもきれいな踊りだった。あまり詳しいことは知らないけれど、きっと能楽だ。薄紫色の髪をたなびかせて、緩やかに舞う。ゆったりとしているのにメリハリのある動きで、優雅という言葉がぴったりくる。
踊りを終えてぴたりと動きを止めたその子に私は拍手を送った。
普段なら通り過ぎてしまうところなのに、どうしてか最後まで見てしまった。なんとなく一人でさびしく踊っているこの子に親切にしなければいけないような気がしていた。町の空気になんとなくなじめない自分と一人で踊るこの子はちょっとだけ似ているかも、なんて何となく思っていたからかもしれない。
「すごくきれいな踊りね」
私が見ず知らずのその女の子に理由もなく話しかけることはあまりない。人見知りがちで、すぐに言葉が詰まってしまうからだ。でも、今日は不思議とすんなり話しかけられた。
「ありがとう!」
明るいけれどなんだかぶっきらぼうな口調でその女の子は応えた。突然ひょっとこの面が出てくる。でも、本人の表情は何も変わっていない。
みょうちきりんな子だなあ、と思う。顔のまわりにお面がぐるぐる回っている見た目からして、きっと妖怪の類だ。妖怪みたいな人外は変わった性格の子が多いから、この子もきっと不思議な性格の子に違いない。
そういえば、夏ごろにお面の妖怪が大きな事件を起こしたことをうわさに聞いていた。もしかしたら、この子がそうなんだろうか。
「その……、さっきのは能楽?」
「うん」
「ずっと一人で踊ってたけど、能が好きなの?」
「うーん、そうかなぁ。好きとか嫌いとかそういう問題でもないんだけれど」
なんだかぽやぁっとした生返事。それにずっと無表情で、話も続かない。私が元々口下手なせいもあるけれど、この子がふわふわとした受け答えしかしないからというせいもある。
話題がなくなってしまってなんだか落ちつかない。だれかが一緒にいて話を続けてくれたらよかったんだけれど。
「もしかして、あなたって夏の初めに異変を起こした妖怪?」
真っ正直に変なことを聞いてしまった。言ってしまったあとで後悔するがときすでに遅し。
居心地が悪くなって目線をそらす。近くの木に来たヒヨドリがナナカマドの実をつついている。とくに鳥に興味があるわけでもないのに。見事なまでの現実逃避。
怒っていないかなあ、と気にしながらそっと彼女に視線を戻す。
「うん、たぶんそうなのかなぁ」
けろっと何でもないかのように答えた。しかもどうしてか疑問形。表情がわからないから本当に怒ったりしていないのかはさっぱりだけれど。
女の子が黙ってじっとこちらを見ている。やっぱり怒ってしまったんだろうか。ちょっと気まずいし、とにかく謝るしかない。
「その……、ごめんなさ……」
「ふぇ、へっくち」
はしたないくらい大きなくしゃみをした。
女の子は一瞬だけ目をつむったけれど、文字通りの能面のような表情が張り付いたままだ。顔色一つ変えずに鼻水をたらしている姿はあまりにもシュールで、くしゃみの前と後で顔つきが少しも変わらないのもまるで間違い探しみたいだった。
たれた鼻水をずるずると盛大にすすりあげる。
なんだか放っておけなくなってきた。このまま、ただ見ていることなんてできない。
ちり紙を取り出して鼻をかませてあげる。女の子はちーんと鼻をかんだ。
見てみるとお面の子は随分寒そうな格好をしている。ふわふわしているせいでわかりにくいけれど、スカートには穴があいていてそこから素足が見える。上の服もぺらぺらで薄そうで冬着ではない上に、すそからお腹がのぞいている。こんな寒そうな格好で外を出歩くなんて考えられない。
「スカートの下は素足じゃない。赤くなってしもやけみたいになっているわよ」
「寒い……」
女の子はぶるっと体を震わせる。
「もっと厚着しようとは思わなかったの? この時期、そんな格好じゃ寒いのは当たり前じゃない」
女の子は口を両手で押さえたあと、両手を大きく打ち合わせた。一応はっとしたってことなんだろうか。厚着をするなんて考えもしなかったということ?
大きな口をあんぐりと開けたお面が出てきていた。どうやら、このお面が感情を表現しているみたいだ。
――全く、もう!
この子は放っておけない。今の人里で一人寒そうにしておくのはさすがにちょっとあんまりだ。
「一緒に着る物を買いに行かない?」
なけなしの勇気をふりしぼって言ってみた。ちょっぴりどきどきするけど、顔にはきっと出ていない――はず。
「でもお金がないわ」
たしかに投げ銭を入れるお椀には二、三枚の硬貨しか入っていない。服装だけじゃなくて懐も寒いみたいだ。
やれやれと私はため息をついた。
「仕方がないわ。私がお金を出すから一緒に行こう?」
「ありがとう。でも……」
ぐうぅと女の子のお腹が鳴った
「お腹空いちゃった」
力が抜けてしまう。本当にしようがない子だ。
「わかったわ、先に何か食べましょう」
「やったー!」
彼女はくるっと一回転して、おおげさにガッツポーズをした。
「ところで、あなたの名前は? 私は魂魄妖夢よ」
女の子はビシッと威圧するようなポーズを取った。
「変な名前だ……。 私の名は秦こころ」
余計なお世話だ。自分だって十分すぎるほど変わった名前なのに。
あんまりな言葉にむっとしたけれど、私はじっと我慢した。
2
近頃評判の蕎麦屋で、こころはずるずると勢いよくそばをすすっている。
店はそれなりに老舗らしいけれど、店内はきれいに掃除されていて長くやっているという感じはほとんどしない。
福の神が訪れたといううわさのせいで、にこにこと笑った福助人形がたくさん飾られている。人気店だけれどまだ昼には早い時間だからか席は空いていた。
こころは相変わらず能面みたいな顔をしている。本当に表情を変えることはないみたいだ。
無機質な顔つきでがっついてそばを食べている。よっぽどお腹が空いていたんだろう。はふはふ言っているから一応熱いのだろうけれど、表情のせいで全然そう見えない。
私は先に食べ終えていたので、念のため幽々子様にもらった封筒を確認した。小遣いが入っているはずだ。昼食分ぐらいのお金は当然あるだろうけど、服が買えるかはちょっと心配だ。
聖徳太子が五人そろっている。こんな大金持ったことがなくって、なんだか落ち着かない気持ちになる。
でも、五万円って本当に大金なのかなあ。信用されてないからお金を持たせてもらえなかっただけで、実は自分と同じくらいの子はそれぐらい持っていて当たり前なのかもしれない。
とにかく気持ちを落ち着けようとお茶を少し飲んだ。
こころの箸が止まっている。じっと店の奥のほうを見ていた。若い男の人が熱心にそば打ちをしている。いかつい顔をした主人がてきぱきと指示を出す。結構厳しく指導されているみたいだけれど、男の人が辛そうにしている気配はない。必ず一人前になってやるといった感じで、目が輝いていて生き生きとした顔をしている。
「希望って何なのかな……」
「えっ!」
こころは出会った時から同じようなぼやっとした感じでお品書きを読み直していた。
さっきのはなんだったのだろう。
でも、あのときのこころの瞳はなんだかどんよりとしていた。
「ありがとう。おいしかったわ。ちょっとしょっぱかったけれど……」
おごってもらって、しかも汁まで一滴も残らず飲んでおいて、文句を言うのかこの子は。まだお店の中なのに。
こんなに世間知らずというかマイペースでこの子はどうやって生きてきたのだろう。すごく不思議に思う。
「でも、どうして妖夢は私におそばを食べさせてくれたの?」
「うーん。何となく放って置けなかったから、かな」
今の人里には誰かに優しくしたくなるような、そんな空気がある。ほんの少し自意識過剰かもしれないけれど、町の幸せそうな雰囲気からあぶれているこころに親切にするのは当たり前のような気がしていた。
「これから用事は特にないんでしょ。
一緒に服でも買いに行きましょう」
うん、とこころは頷いた。
清算を済ませる。おごってあげるなんて初めての経験で、ちょっとだけ大人になった気がした。
お金があるのにわざわざ古着屋に行くなんて貧乏くさい。
でも、私は新しい服を買うのにどれだけお金がかかるか知らない。
普段は布みたいな材料を買ってくるだけで、お屋敷で専属の使用人に仕立ててもらっている。お屋敷が外界との隔離がとかれる前からずっとそうしてきた。だから、人里のお店で仕立てるといくらかかるかなんてよくわからない。自分がひどく世間知らずなようで、ちょっと情けない。
でも、下手に高い物を買ってお金がなくなってしまうのも怖かった。それに、新しく仕立てるのにも時間がかかる。できればこころには早く冬物の服を買ってあげたい。
古着屋は思ったより混んでいる。若い恋人たちにお年寄りの夫婦までいろんな年頃の人たちが品物を選んでいる。クリスマスの贈り物にするんだろうか。
ひとまずこころにはタイツと上着、できればボタン付きシャツの下に着るものも買ってあげたい。あとは何が必要かなあ、と考えてみる。
「こころ、何か欲しいものはある?」
「うーん。よくわからない」
こころは自分で選べないらしい。もともと自分で買おうとも思わなかったわけだからある意味当たり前かも。
けれど、意外と考える子だなあ。マイペースかつ適当に即決してしまう気がしていたのだけれど。
とりあえず私が適当に見つくろうことにする。
正直なところ、服――特に他人の物を選ぶことには慣れていない。私はいつも同じような服を着てばかりで、特別なときも幽々子様や友達に選んでもらってばかりだ。でも、いつも彼女たちの選び方を見てきたし、そんなに自分のセンスは悪くないと思う。
こころは意外と背が高い。服を試着させてあげているとつねに見下ろされる感じだ。ちびの私からするとこんなに身長が高いなんてうらやましい。
自分と似たような感じの服なら失敗しないだろうと、青緑色のベストとスカートをこころに着せてみたが全然似合わない。自分の好きな白や黒、緑を主体に選んでみたがどれもこころにはやっぱり合わない。
最終的になぜか一周して、また自分と同じ形のベストとスカートで似合わないはずの服を着せていた。
「……ダサイ」
鏡の前に立つこころがつぶやく。心ない言葉に私は傷つけられた。
「じゃあ何がいいのよ!」
思わず大きな声を出してしまった。でも、せっかくよかれと思って選んであげているのにそんな言葉はあんまりだ。
こころはおおげさに身を引いていた。驚いておびえているんだろうか。けれど、表情は涼しげで反省しているのか逆に反発して怒っているのかもわからない。そんなこころに尚更いらいらしてしまう。
見るに見かねたのか店員さんが声をかけてくれた。幻想郷では珍しい純洋風の服を着ている若い女性の店員さんだった。黒や茶色主体の落ち着いた冬らしい色合いの着こなしがかっこいい。いやみがない程度に身につけているネックレスやイヤリングが上品でおしゃれだった。
丈の短いベージュのダッフルコートとシャツの上に着られる紺色のカーディガンをすすめてくれた。妖夢が選んだものよりもずっとこころに似合っている。着ているものがかっこいいだけあって、服選びのセンスも私よりずっといい。
こころは上着のボタンにこだわりがあるみたいで、カーディガンのボタンを今のシャツと似たものに付け替えてもらった。もともと買おうと思っていたタイツや手袋、ふわふわの耳あても合わせてお金を払う。
思ったよりもお金がたくさんかかった。正直なところ、お店に来る前にどれだけかかるか知っていたらこころを誘わなかったかもしれない。もらった五万円は思ったほど多い金額じゃなかったみたいだ。普段これぐらいの金額も持たせてもらえないのは信頼されていないからなんだろうか。なんだか少し情けない気持ちになる。そんなによく落としものや忘れものみたいな失敗をしているわけじゃないと思うんだけれど。大事な仕事道具をなくしてそれを幽々子様に黙っていたこともあるけれど、それだってたった一度だけだ。あのときはあとでばれてずいぶん叱られたけれど。
それにしてもあの店員さんは、よく今にもけんかしそうな私たちに顔色一つ変えず丁寧な応対をしてくれたと思う。そのおかげで、なんとかこころと仲たがいすることもなくすんだ。すごいなあ、どんなときでも完璧に仕事ができなんてこれが大人なんだなあと私は思った。
お金を支払い終えるとなぜかこころが小さい子どもをあやしている。
お面が切り替わるのが面白いらしく、キャッキャと騒ぎたてている。特にミミズクみたいな変なお面のうけがいい。金ぴかでてかてかの品のないお面だ。それが出てくると、つぼにはまったようにケタケタと笑う。
突然母親らしき人が駆けよってくる。心配そうで心なしか青ざめているように見えた。
お礼を言う――かと思ったら、子どもの手をふんだくるようにつかみ連れていってしまった。
子どもの目線に合わせてかがんでいたこころがぽつりと取り残された。
まわりの人たちがひそひそと話している。
よくあることだ。人里にも妖怪は訪れるがそれをよく思わない人もいる。とくに子連れの親は。仕方がない。自分も親になったらきっと自分の子どもを妖怪に近付けたいとは思わない。いい妖怪もいるだなんて主張する気もない。
けれど、なんだか妙にむかっとした。さっき、こころを怖がらせてしまったことをちょっと後悔していたせいもある。でも、普段はこんなこと絶対気にしないはずなのに。
こころは別に悪いことなんて一つもしていない。むしろ子どもをあやしていたんだから、いいことをしていたはずなのに。
「大丈夫よ、妖夢。いつものことだから」
こころが平坦な口調で言った。やっぱり眉ひとつ動かしていない。
けれど、こころのつけているお婆さんのお面がすごく悲しそうに見えた。
3
町の中心部は人がとても多い。はぐれないようにこころの手を握ると、ぎゅっと強く握り返された。
ぎざぎざとした感触が手にあたった。こころの手には爪をかみきったようなあとがある。かみぐせがあるなんて、ある意味子どもっぽいこころらしい。
さっきは少し気まずい雰囲気になってしまったけれど、誰かをリードして行動しているということが少し気持ちよかった。
いつもは幽々子お嬢様たちのような年上っぽい人に振り回されてばかりだった。同じくらいの年に見える子に混じっても、からかわれたりするばかりいる。もちろん本当に悪意があって、みんながちょっかいを出すのではないと思う。でも、やっぱり悔しい気持ちもある。
誰かに頼られて、引っ張っていくことなんてほとんどなかったので、少し自分が大人になったみたいで悪い気はしない。
「これって何?」
こころが私の服を引っ張って引き留めた。
「活動写真ね、これは」
肩をよせあって笑いあう外国の男の人と女の人が描かれた看板だ。外の世界から流れついたものらしく白黒の年代物で、雨ざらしだったのかかなり色あせている。
「私たちが見るようなものじゃないわ。やめましょう」
活動写真なんて不良が見るものだ。一般の人が、まして私やこころのような年頃の女の子が見るようなものじゃない。
「どうして? ねぇ、妖夢。いいでしょ、私見てみたいの。
これはきっと人の感情の勉強になりそうな気がする!」
ぐいぐいと服を引っ張ってこころは駄々をこねる。
意地になって私もむりやり手を引っ張ったけれど、こころも頑固に服のすそを握りしめて放さない。
「もう! いい加減にしてよ!」
また大声でさけんでしまった。あたりの人たちが振り返り冷たい目で私たちを見る。突然大声を上げたのだから当たり前だ。
私と同じくらいの年に見えるいがぐり頭の男の子が馬鹿にするようにニタニタしている。普段はぎゃあぎゃあ騒いでいるくせにいけしゃあしゃあとして。本当は私よりもだいぶ年下のくせに。男の子ってどうしていつもこんな感じなんだろう。
「妖夢どの、それにこころか。珍しい組み合わせじゃな」
突然、後ろから女の人に声をかけられた。若いけれど、少し低くてよく響く声だ。
見覚えのない女の人だ。少し身長が高くて黄緑色の紋付羽織を男性のように着ているのだけれど、それが不思議とよく似合っている。古臭い丸メガネと葉っぱの髪留めがちょっと印象的だ。
「失礼なことをお聞きしますが……、どこかでお会いしましたか?」
前にあったことがあるみたいなのに覚えていないのは気まずい。よく見てみると眼鏡の奥のいたずらっぽい目つきはどこかで見たような気がする。それに、なんとなく獣臭いのも気になる。
「ああ、そうか。この姿ではわからんか」
女の人は私たちを物陰に引っ張りこんだ。あたりに人がいないのを確認すると、高く飛び上がって空中でくるっと一回転した。どろんと一瞬煙に包まれると、耳と大きな太い尻尾が生えていた。
「マミゾウさん、でしたか」
前に会ったことのある化け狸だ。人間に化けて人里に出入りしていることはうわさには聞いていた。彼女はすぐ年寄りじみた自慢話をするから私はちょっと苦手だ。
マミゾウさんはもう一回転すると元の人間の姿に戻った。
「さっきは映画館の前にいたな。映画でも見に来たのかえ?」
「いいえ、違います。活動写真なんて不良が見るものじゃないですか。私はやめようって言ってるのにこころが聞かなくて……」
「活動写真なんてずいぶん古い表現じゃなあ。
それに、別に映画を見たくらいで不良になんかならんわい。
ほれ、儂もちょうど入ろうと思っとったから、これで保護者同伴じゃろ。」
「……保護者同伴ってなんですか?」
「ほう、妖夢どのは知らんのか? 外の世界では当たり前なんじゃがのう。とにかく年上の人が一緒なら、映画館に入っても不良にはならないってことじゃよ」
なんだかすごい理屈だ。いったい何を根拠にそんなことを言っているんだろう。
こころは相変わらずひしと服のすそをつかんだままだ。絶対に観たい、ということを主張するようにじっと私を見つめている。
「はあ、仕方ないですね。私も一緒に活動写真を見ます」
こころはくるっと三回まわって例のおおげさなガッツポーズをして、全身で喜びを表現した。
中には私が想像していたような柄の悪い人は一人も見当たらなかった。
べたべたとしている恥じらいのない恋人が気になったけれど、子連れのお客さんも二、三組いる。子どもをつれてくるということは映画の内容もあまり過激じゃないに違いない。マミゾウさんを本気で疑ってはいないけれど、私やこころが見ていい内容なのかやっぱり心配だったのでちょっと安心した。
少し大きめの居間に、ござを敷いただけで椅子もない映画館だ。映画館というからにはもっとすごい設備を想像していたけれど、むしろただの上映会といった方がいい感じだ。
部屋の後ろに古くさい映写機があった。前にはスクリーンとして白い大きな布が吊り下げられている。ところどころ塗装がはがれてずいぶん使いこまれているみたいだけれど、ほこりはたまっていない。意外とていねいに手入れされているみたいだ。映画のフィルムは熱に弱いというから燃えやすいほこりを取り除くのは当然かもしれないけれど。
女将さんらしき人が、外は寒かったでしょうと言って熱いそば茶をふるまってくれた。マミゾウさんが苦笑いしながらお礼をした。
「映画館でそば茶とは……、ある意味幻想郷らしいかのう」
マミゾウさんがぼやいた。そんなにおかしいかなあ。
「しかし、映画を見るとなると、ポップコーンが食べたくなるな」
「なんですか、それは?」
「トウモロコシから作るスナック菓子じゃよ。爆弾あられとも言うな。外の世界の映画館じゃ必ず売っとるんじゃが。ここでは材料が少ないから珍しいのかな」
「私は食べたことある! 神社の縁日に売ってたの。高かったけど、お店のおじさんがちょっとだけ分けてくれたわ。お嬢ちゃんがきれいな踊りを見せてくれたからって」
案外世渡り上手らしい。確かにこころには何かをめぐんであげたくなる、世話を焼きたくなるような何かがある気がする。
でも、二人が知っているものを自分だけが知らないのもなんだか悔しい。それに、私は縁日を自分の好きに見て回ったことさえろくになかった。いつも幽々子お嬢様について回るだけだ。自分がひどく世間知らずなような気がする。
「自分だけ知らないなんていうことを気にしなさるな。いつか食べる機会もあるじゃろ」
「そ、そんなこと別に気にしていませんよ」
こころは首をかしげながらこちらを見ている。どうしてマミゾウさんはわかったんだろう。私ってそんなに顔に出やすいのかなあ。
そうこうしているうちに窓が隠され、部屋が暗くなった。映写機がカタカタと動き出す。
スクリーン代わりの布に白黒の映像が映し出される。かなり古いものらしく映像の乱れがひどい。声は英語だったけれど、日本語の字幕が付いているので内容はなんとかわかりそうだ。
まだ四、五歳くらいの小さな女の子がキャアキャアとわめいている。横に座っていたその子のお姉さんが指を口に当て、しーっと言ってたしなめる。女の子はお口にチャックをした。
微笑ましいはずなのに胸がちくちくと痛む。どうしてなんだろう。
そんな私の気も知らず、こころは映写機をじっと見つめている。初めてみる映写機の動くところが気になって仕方がないみたいだ。
映画の本篇が始まって、『素晴らしき哉、人生!』というタイトルが出てきた。
マミゾウさんは遠い目でスクリーンを見つめていた。遠い昔を懐かしんでいるように見える。何か特別な思い入れがあるのかもしれない。
始めは本当に退屈だった。主人公の過去について語られるのだけれど、いまいち話の進み方が遅くてつまらない。
その上、となりのこころのお面が話の内容に合わせてころころ変わるのが目に入るせいで全然集中できない。夢中になっているのはわかるけれどなんとかしてほしい。
でも、話が盛り上がるにつれて気が付くと私も映画に集中していた。
少なくともこれを見たせいで不良になることはないなあ、と思った。観る前に感じていた不安が馬鹿らしくなる。でも、スクリーンの中の人たちが平気でキスをすることには耐えられなかった。いくらなんでも恥ずかしい。外国の人たちはみんなこんなに奔放なんだろうか。横でこころも恥ずかしそうに目を覆っていた。
ジョージ・ベイリーという男の人の物語だった。幼いころから何度も人助けをする優しい人だったが、夢が叶いそうになる度に不幸が起こり夢に破れてしまう。それでも彼は家族や友人のために一所懸命に働き続けた人だった。
けれど、大きな不幸があって、どんなことにもめげなかった彼もついには絶望してしまう。でも、あるきっかけからその男の人は自分の生きてきた道を見返して、再び立ち上がる、という話だった。
素敵な話だった。家族や友人の温かさに思わず感動してしまった。活動写真がこんなにも面白いとは思わなかった。
となりでこころは泣いていた。涙と鼻水でぐずぐずなのに顔の筋肉がピクリともしないのがなんだかおかしかった。
5
外に出ると日が傾き始めていた。昼ごろの暖かい時間はもう過ぎていて、少し肌寒い。でも、夕方までにはまだちょっと時間がある。
「映画はどうだったかな」
ちょっとお茶目な感じでマミゾウさんが聞いた。
「はい、面白かったです」
「それだけかい。せっかくおごってあげたんじゃから、もっと具体的に言って欲しいのう」
うーん、と考え込んでしまう。
いちいち細かいことを考えて観ていなかった。途中からマミゾウさんのおかげで映画を観ていたことも忘れていた。
でも、それは映画に集中していたからだと思う。それだけの魅力があったのだ。
「うーん、なんだか努力は必ず報われるって気がしました」
主役の男の人はどれだけ自分の思い通りにならなくても、一所懸命がんばり続けてきた。そのおかげで最後に救われたんだと思う。
こころもこくこくと小さく頷く。同じ意見みたいでちょっぴり安心した。
「そうか、お主らの感覚ではそうなのかもしれんな」
「マミゾウさんはそうは思わなかったんですか」
「そういうわけじゃないわい。
確かにお主らの言うことももっともじゃよ。
でも、儂は誰にも大切なものがある、そのためならどんなことがあっても踏ん張れる、そう思ったよ」
なんとなくだけれどマミゾウさんの言いたいことはわかる気がする。でも、あの活動写真のテーマが本当にマミゾウさんの言った通りだとはすんなりと思えない。頭ではわかっても、あまり実感がわかない。私に本当につらいことを乗り越えた経験がないからなのかもしれない。
ぼんやりと話を聞いていたこころが、「なんかおばさん臭い……」とつぶやいた。
マミゾウさんのこめかみに青筋が走った。
こころはゲンコツをもらった場所をまだおさえている。
マミゾウさんは年のことは気にしていないらしい。でも、さすがに『おばさん臭い』言われるのはいやだったみたいだ。悲劇を繰り返さないためにも言葉には気をつけようと思う。
「せっかくじゃから喫茶店にでも寄っていかんか。まだ時間に余裕はあるじゃろうし」
喫茶店の前で立ち止まる。洋風のちょっとお洒落な感じのお店だ。
マミゾウさんはため息をついて、まだしょげているこころを見た。
「一つだけなら何でも好きな物をおごってやるから、いい加減機嫌をなおせ」
「わーい!」
こころのお面が嬉しそうなお爺さんのものに切り替わる一方で、私は気が進まない。
「喫茶店なんて……」
「また不良になる、か? そんなことでいちいち不良になっとったらきりがないわい。
それに今日は保護者同伴じゃ。全く持って問題なし!」
保護者同伴って本当にいったい何なんだろう。保護者同伴なら何をしてもいいんだろうか。
外の世界には不思議な風習があるんだなあ、と思った。
喫茶店の中は薄暗く、大人っぽくて不思議な雰囲気だった。天井でなんのためにあるのかわからないプロペラがくるくると回っている。想像していたような危ない雰囲気のお客さんはいなかったけれど、子どももほとんどいない。なんだかひどく場違いな場所に迷い込んでしまったような気がする。
カウンターのそばにとても大きなポインセチアの鉢植えが飾られている。少し暗めのあかりの中でも赤と緑のコントラストがきれいだ。ポインセチアは意外と育てにくく、特にきれいな赤色を出すのが難しいと聞いたことがある。私も庭仕事をしていて植物には関心があるから、どうやったのかこの鉢植えを育てた人にぜひ聞いてみたいと思う。
少し煙草臭い。苦手なのかこころがちょっとそわそわとしている。
よくわからない緩やかな外国の音楽が蓄音機から流れている。しっとりと落ち着いた感じのきれいな曲だ。
「シューベルトとはなかなかいいセンスじゃな」
マミゾウさんはこの曲のことも知っているらしい。本当に博識だなあと感心してしまう。
和服の上にエプロンを付けた女性の給仕さんに案内されて、窓際の席に座った。
「儂は普通のブレンドでも頼もうかのう。
お主らは一つだけなら何でも好きなものを頼んでいいぞ」
こころはじっとお品書きを見つめている。
果物がたくさんのったパフェの絵が載っていた。こころはこれを注文したいみたいだ。
喫茶店だから私もマミゾウさんみたいにコーヒーを頼んだ方がいい気がする。でも、あんなに苦いものは正直言って苦手だった。せっかくご馳走してもらえるのだから本当に好きなものを頼みたい。けれど、ここは大人っぽくコーヒーを飲んだほうがかっこいいに決まってる。
「私はこれがいい!」
こころがお品書きのチョコレートパフェの写真を指差す。悩んだ末にチョコレート味に決めたらしい。
「妖夢どのは儂と同じのでいいかな?」
やっぱり、ここはコーヒーを頼むべきかなあ。いや、紅茶でもいいのかな。あれなら苦くて飲めないことはないけれど。でも、紅茶だって私はあんまり好きじゃない。
本当は甘いものが食べたい。でも、せっかく今日一日お姉さんっぽく接してきたこころに子どもっぽいところを見られるのはいやだ。
私は穴があくほどお品書きを見つめる。
横からマミゾウさんが覗き込んだ。
「ほう、いちごパフェ期間限定とな。しかも、今日で終わりじゃないか。
しかし、あまおうとは外の世界で言うブランドいちごじゃな。よく幻想郷でそんなものを手に入れたもんじゃ」
本当に楽しそうにマミゾウさんはニヤニヤしている。こころもじっと私を見つめていた。
――ああ。
ここでパフェなんか頼んだら小さい子どもみたいに思われてしまう。でも、これを逃せばしばらくは食べられない。もしかすると一生食べられないかもしれない。
ここ数年で一番悩んだ。もしかすると一生で一番悩んだかもしれない。
マミゾウさんが給仕さんを呼んだ。
こころが先に注文して、マミゾウさんが自分と同じものでいいかと目で合図を送る。
パフェの絵のイチゴが艶々と輝いて、とろとろのクリームが零れ落ちそうに見えた。
「待って!」
マミゾウさんがニタリとした。悪だくみが成功したあとの最高の笑顔だ。
「いちごパフェをお願いします……」
うつむいて顔を真っ赤にしながら私は言った。
マミゾウさんが煙管を吸って、おいしそうにぷかりと煙を吐き出す。こころはパフェに夢中になっていて周りのことが気にならない様子だ。
「実はな、さっきは妖夢どのを誘導してみていたんじゃよ。気付いておったかな」
やっぱりそうだったのか。面白半分でこんなに悩ませるなんて、ひどい。私のまわりはいつもこんな人ばかりだ。からかわれるのはもう、うんざり。
「いやあ、それにしてもさっきのは見物じゃったわ。あそこまで簡単に引っ掛かってくれるとはな」
私は頬を膨らませてぷいっと顔をそむける。いつもそうやってみんなで私をおちょくる。いい加減にして欲しい。
「どうやってやったか知りたくないか」
「別にいいです」
どうせ不器用な私は使えないんだから聞いても仕方がない。
「そ、そんなこと言わずに……。なあこころも知りたいじゃろ」
話を聞いていなかったこころは不思議そうにマミゾウさんの横顔を見た。
今日、一番マミゾウさんが狼狽している。ちょっといい気味だ。
「味見させて」
相変わらずマイペースなこころが私のパフェに向かって手を伸ばしてきた。
「はしたないわよ、そんなこと」
行儀が悪いし、恥ずかしい。
「別に気にせんでもいいじゃろ。こんなこと若いうちしかできんしな」
マミゾウさんの声はどこか投げやりだ。さっきのことでまだむすっとして、へそを曲げているみたいだ。
じーっとこころに見つめられる。
私はため息をついた。根負けだ。
こころは私のいちごパフェをすくった。迷わず大きいイチゴのところを取っていくあたり結構ずうずうしい。
私はこころのパフェの端っこを少しだけすくって食べた。ほんのり苦いチョコレートの味がした。
自分のを一口食べてみる。クリームの甘さのあとに、イチゴの爽やかな酸っぱさが広がる。恥ずかしかったけれど頼んだかいがあった。
こころは福の神のお面を付けて、すごく嬉しそうにしていた。でも、まだ視線を私のパフェのほうに向けている。
「こっちにすればよかった!」
「隣の家の芝はよく見えるものよ。また今度頼めばいいじゃない」
「妖夢どのはこころのお姉さんみたいじゃのう」
こころも何も言わずにうんうんと小さくうなずく。まるで寺子屋に通い始めたばかりのちいさな子どもみたいだ。
二人ともどこまで本気で言っているかはわからないけれど、なんだかむずがゆい。
でも、ちょっと罪悪感もある。こころに親切にしたのは結局、お姉さん風を吹かせたかっただけなんじゃないかって気がする。いつもみんなに子ども扱いされるのがいやになっていただけなんじゃないかって。すごく独りよがりで自分勝手だ。
マミゾウさんが煙管を叩いて、灰を落とした。新しい煙草をつめようとしたところで、こころのほうを見て急に手を止めた。
「いや、すまんかった。言ってくれれば良かったんじゃが」
「うん、やーっと気付いてくれた」
相変わらずの素っ頓狂な反応。でも、やけに「やっと」を強調している気がする。本当はもっと早く気付いて欲しかったのかな。
でも、マイペースで表情を読めないこころの相手は疲れてしまう。お面から感情を読むのにはなかなか慣れない。
「ところで、新しい希望の面はきちんと使いこなせているか?」
「うーん、悪くはないかなぁ」
なんともはっきりとしない生返事。
「夏ごろまでは本当に調子が良かったんだけれど。それからはちょっと……。
夏の終わりごろになってからはなんだか自分がものすごく強くなって、なんでも出来るような気がしたの」
「それ、よくわかるわ。
私も剣が血に飢えてるって感じになったの。今ならどんな強い相手にも勝てる、なんでも切れそうな気がしたわ」
「血に飢えてるって、もう少しましな表現はできんかのう……」
ちょっと眉を寄せて苦笑いしながらマミゾウさんがぼやいた。
そんなにおかしなことを言ってしまったのかなあ。わりと普通だと思うんだけれど。でも、なんとなく恥ずかしくて居心地が悪い。
「で、でも、別に悪いことじゃないと思うわ。
明るい気持ちを持つことって大切じゃない!」
こころも首を縦に振る。
「私も希望があっていいな、やっと希望が持てるようになったのかなって思ったの。
でも、すぐにそんな気持ちもしぼんじゃったの。
それからなんとなく調子が悪くて……」
こころが希望の面というものを求めて異変を起こしたことはうわさに聞いている。
正直なところ希望なんていうものは私にもよくわからない。希望が、輝かしい未来がある、とはよく言うけれど、それはみんなはっきりとしないものに思える。
「ねえ、希望って結局なんなのかなあ? やっぱりどうしてもないとダメなのかなあ?」
こころは短くなった爪を噛んでいた。爪がちびて血がにじみ出ていた。一日、二日ではこんなにはならないだろう。
きっと、いつもこうやって思いつめていたんだ。顔に出ないから誰にも気付いてもらえずに。あんなに無邪気で幼い性格なのに。人に理解してもらえないことはすごく切なくてつらいと思う。
こころがただのマイペースな子だなんてひどい思い違いだった。気づいてあげられなかったのが悔しい。こころは確かにときどき寂しそうにしていたのに。
出会ってすぐに私に懐いてきたことも、人を疑わない性格のせいだけなんかじゃない。一人でいるのがつらかったからなのかもしれない。
変わらない虚ろな目が、もうどうしていいかわからなくて、どこか遠くを見ているようだった。
かける言葉なんて思いつかない。
私は希望なんてものを深く考えたことがなかった。いや、考えたくなかったのかもしれない。
なんとなく今までと同じような日が繰り返して、楽しい日々が続いて行けばいいと漠然と思っていた。
それでも、きっとただ今のままでいることなんてできない。いつかは成長して私も大人になる。でも、大人になった自分なんて想像できない。
自分が大人になる頃には周りの人たちはどうなっているんだろう。幽霊と人間のハーフの私は普通の人より成長が遅い。人間の友達はもうおばさんやおばあさんになっているかもしれない。逆に年を取らない妖怪の知り合いはいつまでもずっと子どものままだ。
同じように一緒に年を取ってくれる人なんてひとりもいない。自分だけ年の取り方が違うなんて寂しい。考えれば考えるほど、とにかく不安になる。
結界がとかれるまでお屋敷が、冥界が世界のすべてだった。幽々子様がいて、いなくなるまでは師匠もいて、幽霊たちに囲まれている何も変化がない世界。結界がとけて世界は広がって、毎日変わり続ける世界に私は触れた。そのときから、きっと私も変わり始めているんだ。
ほんの少し先の未来のことぐらいは想像できる。けれど、せいぜい私が普通の人でいえば二十歳になるくらいまでが限界だ。そこから先は自分がどうなってしまうのか、どう変わっていくのかぜんぜん想像もつかない。
ただ希望があるだけの未来なんて信じられるほど私も純粋な子どもじゃない。
こころに何も言えないことが悲しかった。
「そんなに心配せんでもいいと思うんじゃがなあ」
どんよりとした私たちを見てマミゾウさんが、にやっとした。素直ににこっと笑ったとはいえないけれど不思議と安心できる、陽だまりみたいな表情だった。
「一口に希望と言っても、ただいい未来を期待しているという気持ちだけじゃないんじゃないかのう。
確かにそれも希望の一つには間違いないよ。
でも、家族に必要とされているとか、絶対にやりたいことがあるとか、そのためならつらいことにも耐えられる、前に進んで行ける、そんな気持ちも希望だと思うんじゃ」
こころがまじまじとマミゾウさんを見ている。
「別に未来にいいことがありそうだと無理に期待する必要なんてないじゃろ。今大切なものがあるならそのために頑張ればいいだけじゃ。
それだって、本当につらいときに自分を支えてくれる、自分の『あいでんててぃ』になる希望なんじゃないかのう」
ちょっと難しい話だなあ。ぜんぶはとてもじゃないけれど理解できない。私が本当につらい目にあったことがないからかもしれない。でも、なんとなくわかるようところもある。
「さっきの映画でもそうだったじゃろ。
主役の男を覚えているか? あの男は自分の夢がかなわなくても、希望を捨てたりはせんかった。
それは大切な家族や友人たちがいたり、町のためにやらなければならない仕事があったからだと儂は思う。
最後に絶望したときも、立ち直るきっかけになったのは自分が家族や町をどれほど大切にしてきて、どれだけ尽くしてきたかをもう一度確認したことだったじゃろ。
素晴らしい未来があると考えられればそれでいい。でもそれが無理なら、映画のように今大切にしているものが希望になるということでもいいと思うんじゃよ」
私はこころほどすごく悩んでいるわけでもないし、マミゾウさんの話もたいして理解できていない。でも、マミゾウさんが一番言いたかったことはほんのちょっとだけわかった気がする。
友達や自分の目標を大切にしなさいっていうこと。
私にも大切な主人や友達がいる。幽々子様や人間の友達に妖怪の友達。
剣の道だってもっと極めたい。庭師の仕事だってやるからにはもっと頑張らないと。
うーん、とこころはうなった。
「難しいけれど、ちょっとはわかる、のかなあ……。
でも、私にそんな大切なものなんてあるかなあ?」
――そんなことないよ。
――私が一方的にあなたのこと想ってるわけじゃないでしょ?。
「まあ、今の話をお主らごときに全部理解してもらうことなんざ、期待しておらんよ。
それでも、少しはお主の助けになってくれればと思って話したんだがのう。
お主、能楽は好きなんじゃろ?
それに、本当に友達が一人もいないのか?」
マミゾウさんは私をちらりと見た。
首をかしげるこころにちょっとおどけた感じで聞いた。
「今日一日、妖夢どのとすごしてどうだったか?」
「うん、楽しかった!」
火男の面が前に出てきた。
「妖夢どのはどうだったかな?」
「私も、楽しかったです……」
突然話を振られてちょっとどぎまぎしながらこたえた。少し照れくさい。頭に血が上る感じがする。きっと顔が赤くなっている。
ふぉっふぉっふぉっと不思議な声でマミゾウさんが笑う。
「こころ、また一緒に遊びたいと思わんか?」
うん、とこころが頷く。
「じゃあ、約束をしてみてはどうかな。
妖夢どのは迷惑か?」
言葉が出てこなかった。とにかく必死に首をこくこくと縦に振る。全然迷惑じゃない。
「指切り、しよう」
ぽつりとこころは言った。
「うん」
子どもっぽくて恥ずかしい。けれど、こころの気持ちを無下にできない。
赤くなった顔を見られるのがいやで、顔を上げずに右手を出した。
「指切げんまん嘘ついたら針千本のーます、指切った」
ちょっぴり懐かしい不思議な気持ち。指切りなんて久しぶりだった。昔、幽々子様やお師匠様とよく約束で指切りをしていたっけ。
「これで次まで、消滅したりするわけにはいかんな。約束した以上、次まで頑張って生きていかなければならん。
儂が言っていた希望ってのはそんなことじゃよ。何も大層なことじゃない。
でも、なんだかやらなきゃっていう気持ちになるじゃろ?」
「うん、なんだか元気が出てきた気がする!」
こころは福の神のお面を付けて、嬉しそうに腕を振り回した。
マミゾウさんはちょっと誇らしげだ。
私も未来のことなんてわからないし、不安でいっぱいだ。
でも、頑張らなければならない理由がある。だからきっとつらいことも乗り越えていける気がする。
「うーん、そういえば、マミゾウさんは前に違うことをいっていた気がするなあ。あれは嘘だったの?」
「気のせいじゃないかのう。儂は嘘と坊主の頭は結ったことはない」
「うん、それもそうね!」
こころは納得したけれど、それは絶対にないと思う。まあ、きっと悪意はなかったんだろうけれど。
6
外はすでに薄暮時だ。西の空が茜色に染まっている。ともった灯りで街がぼんやりと明るい。行き交う人の顔も昼間とは違って見える。現実と異世界のはざまのような不思議な時間。でも、橙色の色合いが暖かくて、今の町の優しい雰囲気にぴったりあっている気がした。
「あんまり遅い時間まで小さい子を連れて歩くのはよくないのう」
むっとして頬を膨らませる。子ども扱いなんてひどい。マミゾウさんだって見た目はそんなに変わらないはずなのに。私だって、もう三十年以上生きている。
マミゾウさんは私たち二人と別れていった。
なんだか不思議な一日で、狐につままれたみたいだった。マミゾウさんは狸だけれど。
「約束忘れないでね」
こころは相変わらず冷めた表情をしている。傍目には彼女の気持ちなんてわからない。けれど、彼女なりに必死で感情を表そうとしているのだと思う。その頑張りがこころらしくてなんだかかわいらしい。
「うん、わかってる」
二人で並んでしばらく歩いた。食べ物のおいしそうな匂いがする。洋風の焼き鳥のにおいかなあ。
「じゃあ、ここで。私は一旦お屋敷に帰るわ」
こころは古着屋で見せた珍妙なお面を付けていた。すごく気の抜けた表情をしている。金ぴかでひどく趣味が悪い。センスの悪さの塊のようなお面に思わず笑ってしまった。
「あははは、何それ」
怒ったのかこころは般若の面も横に出してきた。
「これが希望の面なんだもん」
「そうだったの。でも、どう見ても変よ、それ」
「うーん。やっぱりそうなのかなぁ。だけど、もうどうしようもないよ。代わりなんてないし」
「面白いからいいんじゃない。こころが希望を持つたびに、まわりの人も笑わせられるなんて素敵でしょ」
「ひどい!」
こころの口調はぷりぷりとした感じだった。
思っていたよりこころはずっと表情豊かだ。いつもどこを見ているかわからない目つきだし、顔の筋肉もほとんど動かない。でも、感情はちゃんとあるし、彼女なりにそれを表現もしている。わかる人にはちゃんとわかる。
ほんのちょっとだけこころのことを理解出来たのかな、と思った。
こころと別れて暖かい雰囲気に包まれた町を歩く。
しばらく進んだところで、ふと思った。
こころはこれからクリスマスの夜をどう過ごすんだろうか。誰かに宴会にでも誘われていたんだろうか。
だれからも声をかけられていないのかもしれない。彼女はほかの人と付き合い始めてからまだ一年も経っていない。
たった一人で夜を過ごすこころを思い浮かべる。そんなのは絶対にだめだ。
――早速、約束果たさないと!
私はこころを追って駆け出した。
それがいいんですけどね