今聞くならば、悪い予感はしていたのだ、と彼女は語るだろう。
彼女の家は貧しく、普段気安く何かを買ってもらえる事など滅多にないのだ。それなのに、彼女にとっては忘れられもしないその日の朝、彼女の父はこう言った、「芳香、今日は特別だ。何か好きなものを買ってやろう。何が良い?」
上手い話には裏がある、芳香は父親の事を信じていないわけではなかったが、あまりにも唐突に半ば諦めかけていた傘を手に入れる機会を得た事を、芳香は喜ぶ反面訝しんでいた。
普段の父の様子からして、何か臨時収入があったなら、まず真っ先に家族に話すだろう。そう言った流れから、何かしらものを買ってもらった事はこれまでにも何度かあった。だが、今回父はそのような話は一切していなかった。
家族には理由を明かせない臨時収入の出処。芳香の脳裏に去来する可能性は、どれも穏やかとは言えないものだった。
半信半疑のまま、芳香は父を伴って傘屋へと赴き、埃を被りはじめていた小さな傘を手にとった。
そういえばそんな傘を作っていたな、という表情をした職人が大分おまけをしてくれたおかげで、傘の相場から考えると驚くほど安い値段で傘を手に入れた芳香は店を出ると、いよいよこの小さく鮮やかで愛らしい傘の所有者が自分であるという実感に、心躍らせた。
ついさっきまで抱いていた疑念を打ち消す程度には。
次の日から、芳香は肌身離さずその傘を持ち歩くようになった。寺子屋にも、家の手伝いの時も、歌詠みに招かれた時も、彼女が肌身離さず後生大事そうにその傘を抱えている姿がよく目撃されていた。
そして、芳香がやたら大仰な姓を名乗る天狗の新聞記者に会ったのは、丁度その頃の話だ。
最近巷を騒がせている幼き才媛とは一体どんな奴なのか。ジャーナリズムと言う名の下世話な好奇心に身を任せ無礼な取材を敢行した鴉天狗にも、彼女の才は如何なく発揮された。
天狗の不躾とも言えるような質問の数々に、常に周囲の人妖の予想を遥か上回るような回答を繰り返す芳香。
困らせてやろうと言う魂胆が見え見えの質問を平気な顔で見事な回答を次々返す芳香に、今度は文の顔色が優れない。
あれやこれやと理由をつけて早々に退散した文だったが、周囲の人妖には逃げたという風にしか映らなかっただろう。
触らぬ神に祟りなし。思わぬ赤っ恥をかかされた文は今後芳香の取材は当面控えよう、と決めたが、日が経つに連れ少しずつあの利発な少女のことを考えている時間が長くなっていることに気付いた文は、最後の一回、というつもりで今度はからかいの心など捨て、真摯な気持ちで取材することを心に決め、再び人里に舞い降りた。人の流れや視線の先を追えば、芳香は比較的簡単に見つかった。すっかりこの人里では名前が浸透し切っているようだった。
忘れもしない、あの若干間延びした喋り方。目標を発見した文は、季節からは少し早い木枯らしの如く人ごみをすり抜け、芳香の前に降り立つ。
文は、懐から愛用の手帳、文花帖を取り出し、予め用意しておいた芳香への質問事項を順番に訊ねていく。芳香は終始前回と全く変わらぬ様子で文の質問に答え続けた。
思えば、この時が文と芳香の交友の起点、言い換えれば、芳香の破滅の始まりだったのかもしれない。
芳香の手が温かかった頃4 想起、月を呑み干す
「……夢、ですか」
アイマスクがわりに顔へ乗っけられていた文花帖を持ち上げ、靄がかった薄っぺらい日差しの中、一度大きく伸びをする。
「……うへぇ」
左手に持った文花帖は、文の口元の締まりが悪かったのか、てらてらと濡れている。ペラペラとめくると、前後3ページほどがリゾチーム、ラクトフェリン、アミラーゼ等々の犠牲となっていた。
文は一つ嘆息すると、唾液に濡れたページをまとめて破り捨てた。
「なるべく綺麗に使っていきたかったんだけどな……」
二日酔い、というほどではないが、酒を飲んでそのまま寝た翌日のような不快感が腑の底で澱のように溜まっていた。
仕事をしよう、という気にもなれないし、締め切りまではまだ時間もある。
文はなんとなく山の散策に出かけることにした。
かぴかぴになっている口元含めて顔を洗い、今さっきまで着ていたものと全く同じ見た目の服をクローゼットから取り出し、そちらに着替える。……肌着はいいか。
所々跳ねている髪の毛を櫛で撫でつけてやれば、一応、外見だけはいつも通りの新聞記者、射命丸文の出来上がり。
朝食を用意する気にもなれず、そもそも全く空腹を感じていなかったので、昨日様子見に訪れた後輩の鴉天狗が置いて行った木通を三つほどペロン、とそのまま平らげて、朝食の代わりとする。誰にも見られていなければ、はしたないという概念なぞ存在しないのだ。
愛用の高下駄をつっかけて、玄関から外に飛び出すと、いよいよ寒いと感じるようになって来た山の空気に、匂い立つような木々の香りが混じる。爽やかなのは春の森の匂いだが、秋の匂いは濃さがあって、これはこれでいいものだ。
幾分澱が抜けたような感覚を味わいながら、遠慮なく背中の羽で空気を鷲掴みする。
地表は瞬く間に遠ざかり、更に閉塞感が和らぐ。
「……よし」
誰にともなく小さく呟き、行き先を考える。
外の世界には車という移動手段があり、それに乗ることを目的としたドライブ、なるものがあるそうで、今、文はまさしくそんなことをしているような気分であった。
山を全体的に眺めると、山の中腹に、木々が既にすべて真っ赤に染まっている区画があった。
「ああ……。もうそんな季節でしたか…」
あの一角だけは、九月の中旬から十一月の中頃まで、その年の気候やらなんやら一切関係なく一夜にしてすべての気が真っ赤に紅葉し、十一月の上旬が終わると、一夜のうちにすべての葉が落ちるという、だいぶ極端な紅葉の様子を見せてくれる。原因はまだわかっていない。
「少し、眺めて行きましょうかね」
そう呟くと、文は先ほどとは打って変わってゆらゆらと、羽毛が落ちるようにゆっくりその赤く彩られた一角に降下した。
ふわり、と赤い地面の上に足を着く。にわかに葉っぱの匂いが強くなる。既に、射命丸文推薦、妖怪の山名物の一つである紅葉の絨毯は完成していた。
この時期ともなると、大体いつ来ても天狗や河童、稀に鬼などもこの鮮やかな赤に上下を挟まれながら、紅葉酒と洒落込んでいる姿が見られるのだが、今は朝早いためか、流石にそう言った集団は見受けられなかった。
「……あの子も、ここに来てたな……」
出会い頭に、私に散々恥をかかせたあの子は、鮮やかな色味を好んでいた。彼女の持っていた傘はその好例だ。
だから、彼女にこの紅葉の絨毯のことを話した翌日から、彼女は度々妖怪の山への侵入を試みていた
そんな彼女に鉢合わせしたことも一度や二度ではない。
だが、最終的に彼女はちゃんと目的を達成し、この鮮やかな風景を堪能することに成功していた。もちろんすぐに追い返されていたが。
「どうしよっかな……」
いけない、と文は頭を振る。気晴らしに外へ出たのに、悶々と考え事をしていては外出のし甲斐がないというもの。
山積した問題に後ろ髪引かれ過ぎて飛べなくなる前に、文は風を掴んで思い切り上昇した。
きっと、外の世界でドライブとやらが好まれているのもきっとこういうことなのだろう。ドライブ、という大義名分を吹っ掛けた現実逃避。物理的に移動することで精神に巣食っているネガティブな何かに対しても距離を置いているという錯覚を得ることを目的としたもの。だから、きっとドライブとは比較的長距離の移動を主としたもののはずだ。物理的な移動が大きく、特に普段では絶対に見られないような景色が見えた時、人はより強く日常と距離を置いたことを自覚し、悦に浸る。 だが、と文は続ける。
残念ながら幻想郷はさして大きくない。文が本気で飛び続けば、東西南北の果てにあるそれぞれの要所を一日で回ることなど造作もない。幻想郷の中に、文が見たことのない風景などほとんどないだろう。
そうなると、文が出来るのは今まで見知った場所の中から、再度訪れる場所を探すこと。
鴉にとってはあまりにも狭すぎるこの檻は、文の現実逃避を妨げる。
博麗の神社にでもちょっかいを出しに行こう。そう思った文は、一応は整えた髪に二、三回手櫛を通してから、その後ろ姿を見つめているものの影に気付くこともなく飛び立つ。彼女は、あっという間に小さな黒点になった。
結論から言うと、どの目的地も、今の彼女にとってはなんら有効な現実逃避を齎しはしなかった。陸地を離れている間に感じる空の高さ、空気の冷たさ、所々で見ることの出来る秋ならではの人妖の営み。そう言ったものは彼女の心を幾分慰めはしたが、ことあるごとに彼女の脳裏には黒い影がよぎり、齎された興の悉くを醒めさせるのだ。
話にならない。彼女は頭を振って、自宅へ戻ることにした。どうせこの調子では取材も原稿も手につくことはあるまい。そう考えた彼女は自宅に戻ると、物置と化している部屋からありったけの酒を取り出し、せっせと自室に運ぶ。つまみに、この前自分よりも家庭的な男の鴉天狗から貰っていた鮭とばを持ち出す。
猪口になみなみ注いだ日本酒を流し込む。酒精が喉を灼く。熱さが胃の腑に落ち、拡散する。二杯目を注ぎ、もう一度。二度目の熱が胃に広がりきった頃、文はほんの少しだけ身震いする。
「そろそろ暖房が欲しいわね……」
去年の春前、蔵に仕舞い込んだ火鉢が恋しくなる。だが、酒が入ってしまったためか動くのがひどく億劫だ。もう一杯。視界が気持ち広がったような感覚。もう一杯。顔がぽっぽと火照るのを感じる。鮭とばを齧って、もう一杯。頬が緩むのを抑えられない。そうそう、これこれ。うまく逃げ場の見つからないことがあったなら、とりあえず酒に逃げてしまえばいいのだ。
御免下さ〜い、と玄関の方から間延びした声が聞こえてくる。あの声は、昨日も訪ねて来た後輩の鴉天狗か。
「開いてるわよー」
声が途中でひっくりかえったことに自分で笑ってしまう文。
そこそこ酔いも回って来たみたいだ。
「失礼しま~、って、酒臭っ! こんな真昼間っから何飲んでるんですか!」
腰ほどもあろうかというつやつやの黒髪を振り乱しながら、文から酒を奪う後輩。
「あ、返しなさいよー」
立つのも億劫なのか、文は畳を這いずりながら、後輩の足を掴む。
「ちょっ、やめてください」
「かえせー」
自分の足を掴んだまま足元でもぞもぞと蠢く白黒の物体に成り下がっている自分の教育係兼上司の先輩に、まだまだ新人と形容される烏天狗はため息を吐くしかなかった。
「先輩~。聞こえてますか~? 大天狗様からの伝言ですよー?」
後輩のその言葉に、文の蠢きはピタリと止まる。
しばらくの沈黙の末、「……聞きたくない」と、小さな声が白黒のもぞもぞから聞こえて来た。
「大丈夫です、先輩の考えているような内容ではないですよ」
後輩は、咳払いをしたあと、
「今回の件は先輩に一任する、だそうです」
あっけらかんと続けた。文は頭を抱える。
「それって完全に投げっぱなしじゃない……」
「流石に今回の件に関しては、仕方ないんじゃないんですか? もう過ぎたはずのことだったし、先輩が変に掘り返しちゃうから話がこじれただけだし、別に掟に反するような何かがあったわけじゃないし」
「まあ、そうなんだけどね~」
うあああああああ、と過去に書いた痛いポエム集が机の奥底から見つかった時のように悶え苦しむ先輩の姿に、後輩は大きくため息をついて、
「確かに、伝えましたからね?」
と言って、徳利を先輩に返す。
うおおおおお、と猪口も使わずに中のアルコールを口に流し込む文。
「……まったくもう」
後輩はその場に腰を落ち着けると、別の徳利を持ち上げる。
「お猪口貸してくださいよ」
後輩は置いてあった猪口を勝手に持ち、徳利から酒をなみなみついで煽る。
「んー! おいしー! さすが先輩、家にある酒もいいものなんですね!」
「別にそんなにいいものでもないわよぉ」
「駆け出しの烏天狗舐めないでください。こんな質のいいお酒給料日直後か先輩の奢りじゃないととてもとても飲めませんよ」
そういえば、と自分の若かりし頃を思い出す。創刊直後の文々。新聞は同期の中でも殊更売れ行きが悪く、ある程度購買者が増えるまでは、先輩の新聞を手伝って食い繋いでたっけな……。
本当は手伝いなんていらないのに、私が新聞だけで食べていけないことを知ってて、忙しいふりして手伝わせてくれた先輩。最後まで幻想郷に入ることを拒み続け、結局、博麗大結界の発動を最後に、今生の別れとなった先輩。
「元気でやってるかな……」
「先輩?」
目の前に後輩の顔がアップで写って、文の意識は現在に連れ戻される。
「どうしたんですか? 急に考え込んじゃって」
「ん、ううん。なんでもないの」
そういいながら、文は後輩の持っている猪口に酒を注いでやる。
「おっとと、すいません」
注ぎ終わると、一口でぐいっと乾かす後輩。もう一杯。
……自分では意識する暇もほとんどなかったけれど、あの頃に比べれば、確実に私の生活は良くなっているようだ。
「……先輩」
酌の催促か。ちゃっかりしている。
「ほーらどんどんのめー」
もう一度猪口になみなみ注いでやる。徳利をみると、もう半分ほどしか残っていなかった。残りを徳利からラッパ飲みする。猪口なんてちまちまやっていられるか。
「……先輩、お行儀悪いです」
「うるさい」
ふらふらした足取りで立ち上がって、棚から盃を二つ取り出す。ヨロヨロ戻ってどっかと腰をおろして、一升瓶から直接注ぐ。
「んじゃ、改めて」
日本酒を注いだ盃を掲げる。
後輩もそれに倣う。
「乾杯です」
「飲みが悪いっつーのよー」
やっと空いた後輩の盃にもう一度日本酒を注ぐ。
「いやー……」
後輩が露骨に目を逸らす。怪しい。
「……なんか隠してるでしょ」
ぴくり、と後輩の肩が震える。なんと分かりやすいこと。
「……怒らないから言ってご覧なさい」
あからさまに後輩はそわそわする。気持ち外へしきりに視線を飛ばしている気がする。
……まさか。
その”可能性”へ考えが至った途端、すっと酔いが引いていくのを感じる。
「……なんとなく分かったわ」
全く……タイミングが良いような悪いような……。
行き過ぎた酔いとは別の理由で頭を抱える。
「……えーっと、先輩? 怒ってます?」
如何にも恐る恐る、と言ったような様子で後輩が顔色を伺っている。
「まあ、良いわ。……いつまでも逃げてられないし」
最後の一杯、と決めて酒を煽る。
酔いが回って視界はもう当てにならない。鼻ももう大分莫迦になっている。でも、耳は、聴覚だけは、いずれここにくるであろう今回の事の発端のために、常に家の外に意識を傾けておく。
「あの……ちなみに、先輩はどうするつもりなんですか? 今回の件」
「うーん……私が何かをするつもりは特にないんだけど……」
「例の、付喪神ですか?」
「うん……。犯人が分かったからってどうこう、ていうつもりはないとは思うんだけど、それでも、さも身内に犯人はいません、みたいな態度とっちゃったしなあ、少し後ろめたいかなって」
小さな独白の後、杯に落としていた視線を後輩に向けると、
「……何よ」
後輩はこちらをぽかん、とした表情で見つめていた。
「……いえ、まさか先輩から後ろめたい、なんて言葉を聞く事になるとは思いませんで」
「私をなんだと思ってるのよ。私だって反省してる時はしてるのよ。やり過ぎたって思う事だってないわけじゃない。だからな誰に対しても罪悪感の湧かないような記事だけで新聞を作ってみた時期だってあったわ。でも、全然ダメ。何も面白くないの。事実、全く売れなかったしね。やっぱり、多少なりとも人の隠したがっているような所を暴露しないと、マスコミってやっていけないみたい。だから、割り切っちゃった。私は皆の”知りたい”っていう好奇心と、その裏にへばりついてる罪悪感を一手に引き受ける役割になっちゃえばいいんだってね。それで結果恨まれても、それはジャーナリストの宿命ってね。卑近でやたら目に付く下世話な好奇心と、迂遠で自覚しにくい崇高な好奇心を体現しようってね」
「何でも新聞の話にしちゃうあたり先輩らしいというか……。でも、それって先輩損な役回りじゃないですか?」
「ゴシップ記者なんて誰しもそんなものでしょ。皆が触れたくても触れなかった部分に敢えてずかずか踏み込んで、そんな聖域の中をあーだこーだと汚い言葉で喧伝して回る。もちろん致命的なものや冗談では済まされない誤解を避けるために言葉や内容を選びはするけれども、その程度の思慮で紛れるほど、やってる事の低俗さの程度は軽いものじゃないしね」
「……先輩今日はやけに饒舌ですね?」
「酔ってんのよ、黙って聞きなさい。……いい? それでも、私たちの流布する情報が誰かにとっての娯楽になったり、誰かの相互関係を深める一助になったり、なかには私の書いた記事を見て笑ったら元気が出た、とまで言ってもらえることがあるんだから、私にとっては記者冥利に尽きるの。……勿論、その逆のことを言われる事の方が多いけど。それでも、いい面も悪い面も引っ括めて発信して行くのが記者の仕事なわけだし、ね?」
「ね? って……先輩、私の教育係だった頃は全然そんな話してくれなかったじゃないですか」
「それはさっき貴女自身が言ったじゃない。そんな役回りだって。そんな茨の道に無自覚な他人をホイホイ引き込めるわけないでしょ」
「それはそうですけど。なら何で今更になってそんな話を?」
「貴女ももう自分だけの新聞を持ってそこそこ経つからね。そろそろ貴女の上司がやってたことの”種明かし”をしてもいい頃かなって」
意味が分からない、と言った表情で、後輩は暫く眉を顰めた後、文の真意に気づいたのか、にへら、と相好を崩す。
「せーんぱいっ」
文にしなだれかかる後輩。
「な、なによ?」
「文さんって呼んでもいいですか?」
「別に構わないけど……いきなり何?」
「なんでもないですっ♪」
「そ、そう……」
そして、文がやたらとひっついてくる後輩を引き剥がすのに苦心している最中、外に落ちていたのであろう枯れ枝の踏み折られる音がした。
「……来たか」
「え、何ですか?」
「あんた……。何でここに来たのか思い出しなさい」
「あ、……あ」
よっ、と少し歳を感じさせるような掛け声と共に、文は立ち上がる。
「……文さん?」
「逃げたりしないわよ。ただ、出迎えるだけ」
後輩がちびちびと盃のアルコールで唇を濡らすのを傍目に見つつ、未だフラフラと若干おぼつかない足取りで文は玄関へと向かう。
引き戸に手をかけ、一瞬の躊躇の後、無造作に腕を引く。指に引っかかっていた引き戸も、当然開く。
そこには、白い賞奥に身を包んだ顔なじみの天狗の姿。どう声をかけるか迷った末、迷うようなこともあるまい、といつも通りを心がけて歓迎の意を告げることにした。
「いらっしゃい。とりあえず入って。……椛」
椛が、文と視線を合わせることはなかった。
文が部屋に戻ると、後輩の姿が消えていた。
「あいつめ……」
こめかみがひくつくのを抑えながら、後輩が使っていた座布団を入り口に近い方へ移す。
遅れて部屋に入って来た椛は、まるで怒鳴られた子犬のようにしおしおと文の用意した座布団に正座する。尻尾は足の間、尻に敷かれるほどに丸まり切っていて、完全に隠れてしまっている。
椛のあまりにもビクビクとした様子に小さくショックを受けながらも、どう話を切り出したものか、と文は頭を巡らせる。
この面倒事から逃げ出した後輩を心底恨みながら、とりあえず謝ってしまおうと腹を括った。
「あー、椛?」
「……はい」
「えーと、その、ごめんね? 何かいろいろ引っ掻き回しちゃって」
文の言葉に、椛は首を傾げる。
「どうして文さんが謝るんですか?」
「え? だって私の勝手な好奇心で椛の嫌な過去掘り返しちゃったし……」
文が椛に、芳香を殺した犯人を探している、という話をした時の椛の表情は、長年新聞記者として様々な境遇に立たされた様々な人妖の表情を目の当たりにして来た文にとっても、遠い記憶にあるかないか、というくらい凄絶な驚愕を浮かべていた。
その表情で事情の多くを察した文が慌ててフォローをいれるも、椛は飛び出して、それ以来今が久々の対面だった。
本当の所、人間を殺したことのある天狗は少なくない。
まだ幻想郷がなかった頃には、天狗の縄張りの境界というものは非常に曖昧で、間違って足を踏み入れる哀れな人間や、敢えて踏み込む愚かな人間が後を絶たなかった。いずれにせよ、天狗の住処を知られないために、生きて返すことはなかった。また、天狗は様々な理由で人間と事を構えることが少なくなく、幻想郷無き時代を知る古い哨戒の白狼天狗、戦闘要員の烏天狗、大天狗などには殺人が日常茶飯事だったことのある者も少なくない。それに、ヒトは案外天狗にとっても美味なのだ。他の人食い妖怪と違って食人が必須ではないため、表に出ることは少ないが、それでも人肉の燻製を肴に煽る日本酒の味は、また格別のものがあるのは事実である。
だが、今目の前にいるような若い天狗の中には殺人も食人も飛んと無縁な者も多い。
私のような相応の年を経たものならともかく、賢者の作る安寧の中、それこそ人間と瓜二つの生活しかしたことのない椛にとって、殺人とは如何ほどの衝撃なのか。
「って、誰が年増か」
自分の考えに自分でツッコミをいれる。まだそんなに年長ではないやい。
「あの、文さん?」
「ああ、ごめんね。何でもないの」
「い、いえ……。それより、文さん怒ってないんですか?」
「……へ?」
不意を突かれたその一言に、思わず腑抜けた声が出た。
「な、なんで私が怒るの?」
「だって文さん芳香ちゃんのこと気に入ってたじゃないですか! 訃報を聞いた時の文さんの表情、今でも忘れられません……」
確かに、あの時、今でも忘れていない、椛と雑談していた時に不意に届いた訃報には驚いたし、少なからず嘆いた。いくら脆弱で短命であっても、確かに彼女は希代の天才だったのだ。犯人を恨めしく思っていたのは確かだが、あの時の私を、この子は自分が犯人であることを隠しながら聞いていたのか……。
「……貴女は忠実に任務を全うしただけじゃない」
言葉を間違えた。直感的にそう感じた。
目の前の哀れな加害者は、一瞬は見つかった活路が閉ざされたような顔で、固まっていた。泣き笑い、とでもいえば良いのだろうか。
違う、と文が訂正しようとした所で、椛は座布団から立ち上がり、
「そ、そうですよね。いろいろお騒がせしてすみませんでした、……ごめんなさい」
部屋を飛び出して行った。
「え……?」
取り残された文は、目を瞬かせるばかり。
「一体なんなのよ……」
やっと自我を取り戻した文は、スッキリしない気持ちで自分も立つ。
文の目論見では、この後なし崩し的に酒盛りになって、今後に何も蟠りが残らないくらいに二人でベロンベロンに酔っ払うはずだったのだ。何なら押入れの奥で後生大事に眠らせてある秘蔵の銘酒、”烏泣かせ”を持ち出しても良かった。
だが、現実は。
「な、なんという……」
思わず、文は頭を抱えたまま横倒しになる。
「あー、」
何がまずかったのか全く分からない。
「うー……」
責めるようなことを言ったつもりはない
「ふぇー」
擁護するつもりで言っただけなのに。文は手元の瓶から液体を煽る。
「って、何で呑んでるの」
さっき、最後の一杯と決めたのではなかったのか。
「それは椛が来るからだったし……」
言い訳をしながらも二杯目を注ぐ手が止められないあたり、相当キテいるのは文自身自覚する所であった。
「……仕方ないじゃない。皆がみんな相手の考えてることピタリと言い当てられるわけじゃないんだから」
幻想郷には長寿が多い。
ある程度の期間生きると、皆一様に相手の考えを手のひらで転がすように容易扱うことができるようになる。賢者しかり、月の名医しかり、諏訪の軍神しかり、妙蓮寺の筆頭しかり、冥界の姫君しかり。
文ははただ、妖怪の山に侵入した芳香を殺めたことは正当な行為であって、椛が社会的に謗られる謂れは一切ない、ということを言いたかっただけだった。
それを曲解したのか、正しく受け取った上での反応だったのか、椛は文から逃げ出した。
なぜ? 意味をなさないその問いかけだけが、文の頭をめぐり続けていた。
座っているのも億劫になって、文は仰向けに寝転ぶ。
幾分緊張が解けたようで、俄に頭が熱くなる。
「……案外、誰かに怒って欲しかったのかもね」
ぼそりと呟いてから、自分でケラケラと笑う。いくら自分から見て椛がまだまだ若いからと言って、彼女だって立派に大人なのだ。そんな思いを叶えられなかったという単純な理由で、ここを去ったわけではないだろう。
「……まさか、ね」
文は自分が確実にとしを重ねていたことに気づかないまま、もう一度盃を傾ける。
今日はこのまま潰れてしまおう。
そう決めた文は重い腰をあげて押入れから”烏泣かせ”を持ち出す。
盃についで、一口。旨い。後輩には嫌味と取られるだろうが、こういうのこそ良い酒というのだ。
さっきとは質の違う酔いが回って来て、文は満足気な吐息を一つ吐く。
体が軽く感じて、意味もなくもぞもぞと体をすり合わせる。
頭もすっ、と靄が晴れたように澄んで、さっきよりも幾分回るようになったと錯覚する。
「やっぱり、私が守るしかないよなあ……」
上質の酒がもたらす心地の良い酔いの中にあっても、考えるのは後輩の白狼天狗のこと。
犯人が椛であると知る前、文は件の付喪神に上白沢慧音を紹介した。もし、彼女が小傘からなんらかのきっかけを受けて、白澤の力を使って真犯人の捜索に出た場合、彼女たちとの衝突は避けられないだろう。
小傘と、慧音はまだ良い。もし慧音の友人である不死人が一枚噛んで来た時。それが問題になる。椛の交友関係の全てを知っているわけではないが、彼女が頼みごとをできるような相手に、あの炎使いをあしらうだけの技量があるものがいるとは思い難い。
椛が本当は何を望んでいるのかは文の知る所ではないが、このまま座して椛の行く末をあるがままに受け入れる気など、文にはさらさらなかった。
「結論は出てるんじゃない」
烏泣かせを盃に注ぎながら、文は笑う。
もし彼女らが糾明と弾劾の心を持ってこの山に分け入るのなら、天狗として、椛の傍に立つだけ。
やることが決まってしまうと、先程の椛とのやり取りが急に滑稽なものに思えて来て、文は腹を抱えて笑出す。
あの守護者が白澤の力を使えるのは明日の夜。
窓の外を見れば、限りなく真円に近く、だが妖怪にとっては致命的な欠損のある偽物の満月が浮かんでいる。
あれがお色直しを済ませて、もう一度幻想郷を照らす時、必ず彼女らはやって来る。長年の記者、そして妖怪としての勘が文にそう囁き続け、文が事態を楽観することを決して許さない。慧音は温厚だが、気の長い方ではない。彼女らはすぐにここへやって来る。
彼女らに力及ぶか及ばざるか。それは大した問題ではない。結果として彼女らを諦めさせれば良いのだ。やってみせるさ、そんなこと。
文は酒がナミナミ注がれた杯を月に掲げる。
盃の表面に月光が反射し、月は増える。
盃に月が映り続けているのを照り返しで感じつつ、文は偽物の月を飲み干す。
満月の力がなんだ。私は必ず彼女たちの道理の通らぬ正当な憤りから椛を守る。
文はそれからも挑戦的、そしてどこか蠱惑的な笑みでただただ日本酒を飲み進める。
今、妖怪の山に動くものは微風の一陣すらありはしなかった。
彼女の家は貧しく、普段気安く何かを買ってもらえる事など滅多にないのだ。それなのに、彼女にとっては忘れられもしないその日の朝、彼女の父はこう言った、「芳香、今日は特別だ。何か好きなものを買ってやろう。何が良い?」
上手い話には裏がある、芳香は父親の事を信じていないわけではなかったが、あまりにも唐突に半ば諦めかけていた傘を手に入れる機会を得た事を、芳香は喜ぶ反面訝しんでいた。
普段の父の様子からして、何か臨時収入があったなら、まず真っ先に家族に話すだろう。そう言った流れから、何かしらものを買ってもらった事はこれまでにも何度かあった。だが、今回父はそのような話は一切していなかった。
家族には理由を明かせない臨時収入の出処。芳香の脳裏に去来する可能性は、どれも穏やかとは言えないものだった。
半信半疑のまま、芳香は父を伴って傘屋へと赴き、埃を被りはじめていた小さな傘を手にとった。
そういえばそんな傘を作っていたな、という表情をした職人が大分おまけをしてくれたおかげで、傘の相場から考えると驚くほど安い値段で傘を手に入れた芳香は店を出ると、いよいよこの小さく鮮やかで愛らしい傘の所有者が自分であるという実感に、心躍らせた。
ついさっきまで抱いていた疑念を打ち消す程度には。
次の日から、芳香は肌身離さずその傘を持ち歩くようになった。寺子屋にも、家の手伝いの時も、歌詠みに招かれた時も、彼女が肌身離さず後生大事そうにその傘を抱えている姿がよく目撃されていた。
そして、芳香がやたら大仰な姓を名乗る天狗の新聞記者に会ったのは、丁度その頃の話だ。
最近巷を騒がせている幼き才媛とは一体どんな奴なのか。ジャーナリズムと言う名の下世話な好奇心に身を任せ無礼な取材を敢行した鴉天狗にも、彼女の才は如何なく発揮された。
天狗の不躾とも言えるような質問の数々に、常に周囲の人妖の予想を遥か上回るような回答を繰り返す芳香。
困らせてやろうと言う魂胆が見え見えの質問を平気な顔で見事な回答を次々返す芳香に、今度は文の顔色が優れない。
あれやこれやと理由をつけて早々に退散した文だったが、周囲の人妖には逃げたという風にしか映らなかっただろう。
触らぬ神に祟りなし。思わぬ赤っ恥をかかされた文は今後芳香の取材は当面控えよう、と決めたが、日が経つに連れ少しずつあの利発な少女のことを考えている時間が長くなっていることに気付いた文は、最後の一回、というつもりで今度はからかいの心など捨て、真摯な気持ちで取材することを心に決め、再び人里に舞い降りた。人の流れや視線の先を追えば、芳香は比較的簡単に見つかった。すっかりこの人里では名前が浸透し切っているようだった。
忘れもしない、あの若干間延びした喋り方。目標を発見した文は、季節からは少し早い木枯らしの如く人ごみをすり抜け、芳香の前に降り立つ。
文は、懐から愛用の手帳、文花帖を取り出し、予め用意しておいた芳香への質問事項を順番に訊ねていく。芳香は終始前回と全く変わらぬ様子で文の質問に答え続けた。
思えば、この時が文と芳香の交友の起点、言い換えれば、芳香の破滅の始まりだったのかもしれない。
芳香の手が温かかった頃4 想起、月を呑み干す
「……夢、ですか」
アイマスクがわりに顔へ乗っけられていた文花帖を持ち上げ、靄がかった薄っぺらい日差しの中、一度大きく伸びをする。
「……うへぇ」
左手に持った文花帖は、文の口元の締まりが悪かったのか、てらてらと濡れている。ペラペラとめくると、前後3ページほどがリゾチーム、ラクトフェリン、アミラーゼ等々の犠牲となっていた。
文は一つ嘆息すると、唾液に濡れたページをまとめて破り捨てた。
「なるべく綺麗に使っていきたかったんだけどな……」
二日酔い、というほどではないが、酒を飲んでそのまま寝た翌日のような不快感が腑の底で澱のように溜まっていた。
仕事をしよう、という気にもなれないし、締め切りまではまだ時間もある。
文はなんとなく山の散策に出かけることにした。
かぴかぴになっている口元含めて顔を洗い、今さっきまで着ていたものと全く同じ見た目の服をクローゼットから取り出し、そちらに着替える。……肌着はいいか。
所々跳ねている髪の毛を櫛で撫でつけてやれば、一応、外見だけはいつも通りの新聞記者、射命丸文の出来上がり。
朝食を用意する気にもなれず、そもそも全く空腹を感じていなかったので、昨日様子見に訪れた後輩の鴉天狗が置いて行った木通を三つほどペロン、とそのまま平らげて、朝食の代わりとする。誰にも見られていなければ、はしたないという概念なぞ存在しないのだ。
愛用の高下駄をつっかけて、玄関から外に飛び出すと、いよいよ寒いと感じるようになって来た山の空気に、匂い立つような木々の香りが混じる。爽やかなのは春の森の匂いだが、秋の匂いは濃さがあって、これはこれでいいものだ。
幾分澱が抜けたような感覚を味わいながら、遠慮なく背中の羽で空気を鷲掴みする。
地表は瞬く間に遠ざかり、更に閉塞感が和らぐ。
「……よし」
誰にともなく小さく呟き、行き先を考える。
外の世界には車という移動手段があり、それに乗ることを目的としたドライブ、なるものがあるそうで、今、文はまさしくそんなことをしているような気分であった。
山を全体的に眺めると、山の中腹に、木々が既にすべて真っ赤に染まっている区画があった。
「ああ……。もうそんな季節でしたか…」
あの一角だけは、九月の中旬から十一月の中頃まで、その年の気候やらなんやら一切関係なく一夜にしてすべての気が真っ赤に紅葉し、十一月の上旬が終わると、一夜のうちにすべての葉が落ちるという、だいぶ極端な紅葉の様子を見せてくれる。原因はまだわかっていない。
「少し、眺めて行きましょうかね」
そう呟くと、文は先ほどとは打って変わってゆらゆらと、羽毛が落ちるようにゆっくりその赤く彩られた一角に降下した。
ふわり、と赤い地面の上に足を着く。にわかに葉っぱの匂いが強くなる。既に、射命丸文推薦、妖怪の山名物の一つである紅葉の絨毯は完成していた。
この時期ともなると、大体いつ来ても天狗や河童、稀に鬼などもこの鮮やかな赤に上下を挟まれながら、紅葉酒と洒落込んでいる姿が見られるのだが、今は朝早いためか、流石にそう言った集団は見受けられなかった。
「……あの子も、ここに来てたな……」
出会い頭に、私に散々恥をかかせたあの子は、鮮やかな色味を好んでいた。彼女の持っていた傘はその好例だ。
だから、彼女にこの紅葉の絨毯のことを話した翌日から、彼女は度々妖怪の山への侵入を試みていた
そんな彼女に鉢合わせしたことも一度や二度ではない。
だが、最終的に彼女はちゃんと目的を達成し、この鮮やかな風景を堪能することに成功していた。もちろんすぐに追い返されていたが。
「どうしよっかな……」
いけない、と文は頭を振る。気晴らしに外へ出たのに、悶々と考え事をしていては外出のし甲斐がないというもの。
山積した問題に後ろ髪引かれ過ぎて飛べなくなる前に、文は風を掴んで思い切り上昇した。
きっと、外の世界でドライブとやらが好まれているのもきっとこういうことなのだろう。ドライブ、という大義名分を吹っ掛けた現実逃避。物理的に移動することで精神に巣食っているネガティブな何かに対しても距離を置いているという錯覚を得ることを目的としたもの。だから、きっとドライブとは比較的長距離の移動を主としたもののはずだ。物理的な移動が大きく、特に普段では絶対に見られないような景色が見えた時、人はより強く日常と距離を置いたことを自覚し、悦に浸る。 だが、と文は続ける。
残念ながら幻想郷はさして大きくない。文が本気で飛び続けば、東西南北の果てにあるそれぞれの要所を一日で回ることなど造作もない。幻想郷の中に、文が見たことのない風景などほとんどないだろう。
そうなると、文が出来るのは今まで見知った場所の中から、再度訪れる場所を探すこと。
鴉にとってはあまりにも狭すぎるこの檻は、文の現実逃避を妨げる。
博麗の神社にでもちょっかいを出しに行こう。そう思った文は、一応は整えた髪に二、三回手櫛を通してから、その後ろ姿を見つめているものの影に気付くこともなく飛び立つ。彼女は、あっという間に小さな黒点になった。
結論から言うと、どの目的地も、今の彼女にとってはなんら有効な現実逃避を齎しはしなかった。陸地を離れている間に感じる空の高さ、空気の冷たさ、所々で見ることの出来る秋ならではの人妖の営み。そう言ったものは彼女の心を幾分慰めはしたが、ことあるごとに彼女の脳裏には黒い影がよぎり、齎された興の悉くを醒めさせるのだ。
話にならない。彼女は頭を振って、自宅へ戻ることにした。どうせこの調子では取材も原稿も手につくことはあるまい。そう考えた彼女は自宅に戻ると、物置と化している部屋からありったけの酒を取り出し、せっせと自室に運ぶ。つまみに、この前自分よりも家庭的な男の鴉天狗から貰っていた鮭とばを持ち出す。
猪口になみなみ注いだ日本酒を流し込む。酒精が喉を灼く。熱さが胃の腑に落ち、拡散する。二杯目を注ぎ、もう一度。二度目の熱が胃に広がりきった頃、文はほんの少しだけ身震いする。
「そろそろ暖房が欲しいわね……」
去年の春前、蔵に仕舞い込んだ火鉢が恋しくなる。だが、酒が入ってしまったためか動くのがひどく億劫だ。もう一杯。視界が気持ち広がったような感覚。もう一杯。顔がぽっぽと火照るのを感じる。鮭とばを齧って、もう一杯。頬が緩むのを抑えられない。そうそう、これこれ。うまく逃げ場の見つからないことがあったなら、とりあえず酒に逃げてしまえばいいのだ。
御免下さ〜い、と玄関の方から間延びした声が聞こえてくる。あの声は、昨日も訪ねて来た後輩の鴉天狗か。
「開いてるわよー」
声が途中でひっくりかえったことに自分で笑ってしまう文。
そこそこ酔いも回って来たみたいだ。
「失礼しま~、って、酒臭っ! こんな真昼間っから何飲んでるんですか!」
腰ほどもあろうかというつやつやの黒髪を振り乱しながら、文から酒を奪う後輩。
「あ、返しなさいよー」
立つのも億劫なのか、文は畳を這いずりながら、後輩の足を掴む。
「ちょっ、やめてください」
「かえせー」
自分の足を掴んだまま足元でもぞもぞと蠢く白黒の物体に成り下がっている自分の教育係兼上司の先輩に、まだまだ新人と形容される烏天狗はため息を吐くしかなかった。
「先輩~。聞こえてますか~? 大天狗様からの伝言ですよー?」
後輩のその言葉に、文の蠢きはピタリと止まる。
しばらくの沈黙の末、「……聞きたくない」と、小さな声が白黒のもぞもぞから聞こえて来た。
「大丈夫です、先輩の考えているような内容ではないですよ」
後輩は、咳払いをしたあと、
「今回の件は先輩に一任する、だそうです」
あっけらかんと続けた。文は頭を抱える。
「それって完全に投げっぱなしじゃない……」
「流石に今回の件に関しては、仕方ないんじゃないんですか? もう過ぎたはずのことだったし、先輩が変に掘り返しちゃうから話がこじれただけだし、別に掟に反するような何かがあったわけじゃないし」
「まあ、そうなんだけどね~」
うあああああああ、と過去に書いた痛いポエム集が机の奥底から見つかった時のように悶え苦しむ先輩の姿に、後輩は大きくため息をついて、
「確かに、伝えましたからね?」
と言って、徳利を先輩に返す。
うおおおおお、と猪口も使わずに中のアルコールを口に流し込む文。
「……まったくもう」
後輩はその場に腰を落ち着けると、別の徳利を持ち上げる。
「お猪口貸してくださいよ」
後輩は置いてあった猪口を勝手に持ち、徳利から酒をなみなみついで煽る。
「んー! おいしー! さすが先輩、家にある酒もいいものなんですね!」
「別にそんなにいいものでもないわよぉ」
「駆け出しの烏天狗舐めないでください。こんな質のいいお酒給料日直後か先輩の奢りじゃないととてもとても飲めませんよ」
そういえば、と自分の若かりし頃を思い出す。創刊直後の文々。新聞は同期の中でも殊更売れ行きが悪く、ある程度購買者が増えるまでは、先輩の新聞を手伝って食い繋いでたっけな……。
本当は手伝いなんていらないのに、私が新聞だけで食べていけないことを知ってて、忙しいふりして手伝わせてくれた先輩。最後まで幻想郷に入ることを拒み続け、結局、博麗大結界の発動を最後に、今生の別れとなった先輩。
「元気でやってるかな……」
「先輩?」
目の前に後輩の顔がアップで写って、文の意識は現在に連れ戻される。
「どうしたんですか? 急に考え込んじゃって」
「ん、ううん。なんでもないの」
そういいながら、文は後輩の持っている猪口に酒を注いでやる。
「おっとと、すいません」
注ぎ終わると、一口でぐいっと乾かす後輩。もう一杯。
……自分では意識する暇もほとんどなかったけれど、あの頃に比べれば、確実に私の生活は良くなっているようだ。
「……先輩」
酌の催促か。ちゃっかりしている。
「ほーらどんどんのめー」
もう一度猪口になみなみ注いでやる。徳利をみると、もう半分ほどしか残っていなかった。残りを徳利からラッパ飲みする。猪口なんてちまちまやっていられるか。
「……先輩、お行儀悪いです」
「うるさい」
ふらふらした足取りで立ち上がって、棚から盃を二つ取り出す。ヨロヨロ戻ってどっかと腰をおろして、一升瓶から直接注ぐ。
「んじゃ、改めて」
日本酒を注いだ盃を掲げる。
後輩もそれに倣う。
「乾杯です」
「飲みが悪いっつーのよー」
やっと空いた後輩の盃にもう一度日本酒を注ぐ。
「いやー……」
後輩が露骨に目を逸らす。怪しい。
「……なんか隠してるでしょ」
ぴくり、と後輩の肩が震える。なんと分かりやすいこと。
「……怒らないから言ってご覧なさい」
あからさまに後輩はそわそわする。気持ち外へしきりに視線を飛ばしている気がする。
……まさか。
その”可能性”へ考えが至った途端、すっと酔いが引いていくのを感じる。
「……なんとなく分かったわ」
全く……タイミングが良いような悪いような……。
行き過ぎた酔いとは別の理由で頭を抱える。
「……えーっと、先輩? 怒ってます?」
如何にも恐る恐る、と言ったような様子で後輩が顔色を伺っている。
「まあ、良いわ。……いつまでも逃げてられないし」
最後の一杯、と決めて酒を煽る。
酔いが回って視界はもう当てにならない。鼻ももう大分莫迦になっている。でも、耳は、聴覚だけは、いずれここにくるであろう今回の事の発端のために、常に家の外に意識を傾けておく。
「あの……ちなみに、先輩はどうするつもりなんですか? 今回の件」
「うーん……私が何かをするつもりは特にないんだけど……」
「例の、付喪神ですか?」
「うん……。犯人が分かったからってどうこう、ていうつもりはないとは思うんだけど、それでも、さも身内に犯人はいません、みたいな態度とっちゃったしなあ、少し後ろめたいかなって」
小さな独白の後、杯に落としていた視線を後輩に向けると、
「……何よ」
後輩はこちらをぽかん、とした表情で見つめていた。
「……いえ、まさか先輩から後ろめたい、なんて言葉を聞く事になるとは思いませんで」
「私をなんだと思ってるのよ。私だって反省してる時はしてるのよ。やり過ぎたって思う事だってないわけじゃない。だからな誰に対しても罪悪感の湧かないような記事だけで新聞を作ってみた時期だってあったわ。でも、全然ダメ。何も面白くないの。事実、全く売れなかったしね。やっぱり、多少なりとも人の隠したがっているような所を暴露しないと、マスコミってやっていけないみたい。だから、割り切っちゃった。私は皆の”知りたい”っていう好奇心と、その裏にへばりついてる罪悪感を一手に引き受ける役割になっちゃえばいいんだってね。それで結果恨まれても、それはジャーナリストの宿命ってね。卑近でやたら目に付く下世話な好奇心と、迂遠で自覚しにくい崇高な好奇心を体現しようってね」
「何でも新聞の話にしちゃうあたり先輩らしいというか……。でも、それって先輩損な役回りじゃないですか?」
「ゴシップ記者なんて誰しもそんなものでしょ。皆が触れたくても触れなかった部分に敢えてずかずか踏み込んで、そんな聖域の中をあーだこーだと汚い言葉で喧伝して回る。もちろん致命的なものや冗談では済まされない誤解を避けるために言葉や内容を選びはするけれども、その程度の思慮で紛れるほど、やってる事の低俗さの程度は軽いものじゃないしね」
「……先輩今日はやけに饒舌ですね?」
「酔ってんのよ、黙って聞きなさい。……いい? それでも、私たちの流布する情報が誰かにとっての娯楽になったり、誰かの相互関係を深める一助になったり、なかには私の書いた記事を見て笑ったら元気が出た、とまで言ってもらえることがあるんだから、私にとっては記者冥利に尽きるの。……勿論、その逆のことを言われる事の方が多いけど。それでも、いい面も悪い面も引っ括めて発信して行くのが記者の仕事なわけだし、ね?」
「ね? って……先輩、私の教育係だった頃は全然そんな話してくれなかったじゃないですか」
「それはさっき貴女自身が言ったじゃない。そんな役回りだって。そんな茨の道に無自覚な他人をホイホイ引き込めるわけないでしょ」
「それはそうですけど。なら何で今更になってそんな話を?」
「貴女ももう自分だけの新聞を持ってそこそこ経つからね。そろそろ貴女の上司がやってたことの”種明かし”をしてもいい頃かなって」
意味が分からない、と言った表情で、後輩は暫く眉を顰めた後、文の真意に気づいたのか、にへら、と相好を崩す。
「せーんぱいっ」
文にしなだれかかる後輩。
「な、なによ?」
「文さんって呼んでもいいですか?」
「別に構わないけど……いきなり何?」
「なんでもないですっ♪」
「そ、そう……」
そして、文がやたらとひっついてくる後輩を引き剥がすのに苦心している最中、外に落ちていたのであろう枯れ枝の踏み折られる音がした。
「……来たか」
「え、何ですか?」
「あんた……。何でここに来たのか思い出しなさい」
「あ、……あ」
よっ、と少し歳を感じさせるような掛け声と共に、文は立ち上がる。
「……文さん?」
「逃げたりしないわよ。ただ、出迎えるだけ」
後輩がちびちびと盃のアルコールで唇を濡らすのを傍目に見つつ、未だフラフラと若干おぼつかない足取りで文は玄関へと向かう。
引き戸に手をかけ、一瞬の躊躇の後、無造作に腕を引く。指に引っかかっていた引き戸も、当然開く。
そこには、白い賞奥に身を包んだ顔なじみの天狗の姿。どう声をかけるか迷った末、迷うようなこともあるまい、といつも通りを心がけて歓迎の意を告げることにした。
「いらっしゃい。とりあえず入って。……椛」
椛が、文と視線を合わせることはなかった。
文が部屋に戻ると、後輩の姿が消えていた。
「あいつめ……」
こめかみがひくつくのを抑えながら、後輩が使っていた座布団を入り口に近い方へ移す。
遅れて部屋に入って来た椛は、まるで怒鳴られた子犬のようにしおしおと文の用意した座布団に正座する。尻尾は足の間、尻に敷かれるほどに丸まり切っていて、完全に隠れてしまっている。
椛のあまりにもビクビクとした様子に小さくショックを受けながらも、どう話を切り出したものか、と文は頭を巡らせる。
この面倒事から逃げ出した後輩を心底恨みながら、とりあえず謝ってしまおうと腹を括った。
「あー、椛?」
「……はい」
「えーと、その、ごめんね? 何かいろいろ引っ掻き回しちゃって」
文の言葉に、椛は首を傾げる。
「どうして文さんが謝るんですか?」
「え? だって私の勝手な好奇心で椛の嫌な過去掘り返しちゃったし……」
文が椛に、芳香を殺した犯人を探している、という話をした時の椛の表情は、長年新聞記者として様々な境遇に立たされた様々な人妖の表情を目の当たりにして来た文にとっても、遠い記憶にあるかないか、というくらい凄絶な驚愕を浮かべていた。
その表情で事情の多くを察した文が慌ててフォローをいれるも、椛は飛び出して、それ以来今が久々の対面だった。
本当の所、人間を殺したことのある天狗は少なくない。
まだ幻想郷がなかった頃には、天狗の縄張りの境界というものは非常に曖昧で、間違って足を踏み入れる哀れな人間や、敢えて踏み込む愚かな人間が後を絶たなかった。いずれにせよ、天狗の住処を知られないために、生きて返すことはなかった。また、天狗は様々な理由で人間と事を構えることが少なくなく、幻想郷無き時代を知る古い哨戒の白狼天狗、戦闘要員の烏天狗、大天狗などには殺人が日常茶飯事だったことのある者も少なくない。それに、ヒトは案外天狗にとっても美味なのだ。他の人食い妖怪と違って食人が必須ではないため、表に出ることは少ないが、それでも人肉の燻製を肴に煽る日本酒の味は、また格別のものがあるのは事実である。
だが、今目の前にいるような若い天狗の中には殺人も食人も飛んと無縁な者も多い。
私のような相応の年を経たものならともかく、賢者の作る安寧の中、それこそ人間と瓜二つの生活しかしたことのない椛にとって、殺人とは如何ほどの衝撃なのか。
「って、誰が年増か」
自分の考えに自分でツッコミをいれる。まだそんなに年長ではないやい。
「あの、文さん?」
「ああ、ごめんね。何でもないの」
「い、いえ……。それより、文さん怒ってないんですか?」
「……へ?」
不意を突かれたその一言に、思わず腑抜けた声が出た。
「な、なんで私が怒るの?」
「だって文さん芳香ちゃんのこと気に入ってたじゃないですか! 訃報を聞いた時の文さんの表情、今でも忘れられません……」
確かに、あの時、今でも忘れていない、椛と雑談していた時に不意に届いた訃報には驚いたし、少なからず嘆いた。いくら脆弱で短命であっても、確かに彼女は希代の天才だったのだ。犯人を恨めしく思っていたのは確かだが、あの時の私を、この子は自分が犯人であることを隠しながら聞いていたのか……。
「……貴女は忠実に任務を全うしただけじゃない」
言葉を間違えた。直感的にそう感じた。
目の前の哀れな加害者は、一瞬は見つかった活路が閉ざされたような顔で、固まっていた。泣き笑い、とでもいえば良いのだろうか。
違う、と文が訂正しようとした所で、椛は座布団から立ち上がり、
「そ、そうですよね。いろいろお騒がせしてすみませんでした、……ごめんなさい」
部屋を飛び出して行った。
「え……?」
取り残された文は、目を瞬かせるばかり。
「一体なんなのよ……」
やっと自我を取り戻した文は、スッキリしない気持ちで自分も立つ。
文の目論見では、この後なし崩し的に酒盛りになって、今後に何も蟠りが残らないくらいに二人でベロンベロンに酔っ払うはずだったのだ。何なら押入れの奥で後生大事に眠らせてある秘蔵の銘酒、”烏泣かせ”を持ち出しても良かった。
だが、現実は。
「な、なんという……」
思わず、文は頭を抱えたまま横倒しになる。
「あー、」
何がまずかったのか全く分からない。
「うー……」
責めるようなことを言ったつもりはない
「ふぇー」
擁護するつもりで言っただけなのに。文は手元の瓶から液体を煽る。
「って、何で呑んでるの」
さっき、最後の一杯と決めたのではなかったのか。
「それは椛が来るからだったし……」
言い訳をしながらも二杯目を注ぐ手が止められないあたり、相当キテいるのは文自身自覚する所であった。
「……仕方ないじゃない。皆がみんな相手の考えてることピタリと言い当てられるわけじゃないんだから」
幻想郷には長寿が多い。
ある程度の期間生きると、皆一様に相手の考えを手のひらで転がすように容易扱うことができるようになる。賢者しかり、月の名医しかり、諏訪の軍神しかり、妙蓮寺の筆頭しかり、冥界の姫君しかり。
文ははただ、妖怪の山に侵入した芳香を殺めたことは正当な行為であって、椛が社会的に謗られる謂れは一切ない、ということを言いたかっただけだった。
それを曲解したのか、正しく受け取った上での反応だったのか、椛は文から逃げ出した。
なぜ? 意味をなさないその問いかけだけが、文の頭をめぐり続けていた。
座っているのも億劫になって、文は仰向けに寝転ぶ。
幾分緊張が解けたようで、俄に頭が熱くなる。
「……案外、誰かに怒って欲しかったのかもね」
ぼそりと呟いてから、自分でケラケラと笑う。いくら自分から見て椛がまだまだ若いからと言って、彼女だって立派に大人なのだ。そんな思いを叶えられなかったという単純な理由で、ここを去ったわけではないだろう。
「……まさか、ね」
文は自分が確実にとしを重ねていたことに気づかないまま、もう一度盃を傾ける。
今日はこのまま潰れてしまおう。
そう決めた文は重い腰をあげて押入れから”烏泣かせ”を持ち出す。
盃についで、一口。旨い。後輩には嫌味と取られるだろうが、こういうのこそ良い酒というのだ。
さっきとは質の違う酔いが回って来て、文は満足気な吐息を一つ吐く。
体が軽く感じて、意味もなくもぞもぞと体をすり合わせる。
頭もすっ、と靄が晴れたように澄んで、さっきよりも幾分回るようになったと錯覚する。
「やっぱり、私が守るしかないよなあ……」
上質の酒がもたらす心地の良い酔いの中にあっても、考えるのは後輩の白狼天狗のこと。
犯人が椛であると知る前、文は件の付喪神に上白沢慧音を紹介した。もし、彼女が小傘からなんらかのきっかけを受けて、白澤の力を使って真犯人の捜索に出た場合、彼女たちとの衝突は避けられないだろう。
小傘と、慧音はまだ良い。もし慧音の友人である不死人が一枚噛んで来た時。それが問題になる。椛の交友関係の全てを知っているわけではないが、彼女が頼みごとをできるような相手に、あの炎使いをあしらうだけの技量があるものがいるとは思い難い。
椛が本当は何を望んでいるのかは文の知る所ではないが、このまま座して椛の行く末をあるがままに受け入れる気など、文にはさらさらなかった。
「結論は出てるんじゃない」
烏泣かせを盃に注ぎながら、文は笑う。
もし彼女らが糾明と弾劾の心を持ってこの山に分け入るのなら、天狗として、椛の傍に立つだけ。
やることが決まってしまうと、先程の椛とのやり取りが急に滑稽なものに思えて来て、文は腹を抱えて笑出す。
あの守護者が白澤の力を使えるのは明日の夜。
窓の外を見れば、限りなく真円に近く、だが妖怪にとっては致命的な欠損のある偽物の満月が浮かんでいる。
あれがお色直しを済ませて、もう一度幻想郷を照らす時、必ず彼女らはやって来る。長年の記者、そして妖怪としての勘が文にそう囁き続け、文が事態を楽観することを決して許さない。慧音は温厚だが、気の長い方ではない。彼女らはすぐにここへやって来る。
彼女らに力及ぶか及ばざるか。それは大した問題ではない。結果として彼女らを諦めさせれば良いのだ。やってみせるさ、そんなこと。
文は酒がナミナミ注がれた杯を月に掲げる。
盃の表面に月光が反射し、月は増える。
盃に月が映り続けているのを照り返しで感じつつ、文は偽物の月を飲み干す。
満月の力がなんだ。私は必ず彼女たちの道理の通らぬ正当な憤りから椛を守る。
文はそれからも挑戦的、そしてどこか蠱惑的な笑みでただただ日本酒を飲み進める。
今、妖怪の山に動くものは微風の一陣すらありはしなかった。