無音。陽射しと、そして落ち椿。
意識が水底から引っ張り上げられたようにふっと、刹那の隔絶された時間から意識を戻した後、阿求はいつも通りの、それでいて久し振りな寂しさを覚えた。手元の和本を閉じ置き、ちら、と庭を顧みれば、そこには一輪の椿が形をそのままに、垣根の足元に落ちていた。
「まぁ、教育というのは得てしてそういう物なのだ。かと言って、巻帙様には子供を育む術が無いだろう……知識を与えるだけでは教育とは到底言えないさ」
慧音は広げた巻物の一篇に目を落としたままそう言った。卓の向こうからでは、身をやや乗り出しても彼女が何を読んでいるのか分からなかった。途端に感傷的になった自分の、そのあまりの心変わり様に内心苦笑いを浮かべつつも、阿求は慧音の読んでいる物が何なのか、堪らなく知りたくなった。
「先生、今、何を読んでいらっしゃるのですか」
「これはまだ妖怪への畏怖が根強く残っている。記載されている情報は中々に明確で、以前ほど我々に冥くはない。これは……阿夢の幻想郷縁起だな。だがまた、どうして」
慧音が書物を開く時は、必ず庭に背を向けるのが癖である事を阿求はよく知っていた。耳の後ろに掻き上げた、彼女の揃えられた銀髪がしなりと垂れ下がっている。阿求はつとめて普通にしているつもりだったが、慧音がこちらに目を向けるとすぐに顔を強張らせたのを見て、思わず溜め息を吐きそうになった。
「一体どうした……その汗は。具合が宜しくないのか」
「いえ、そう言う訳では」
「や、だが無理は体に障るぞ。今日はもう休んだ方がいい……私ももうお暇するから」
そう言って書物を片付けようとする慧音を、阿求は優しい声で呼び止める。
「先生」
「……どうした」
話を聴いて頂けませんか、その耳をくすぐる様な澄んだ声に、慧音は思わずはっとした。阿求は柔らかな笑顔を見せていたが、ともすればそれは必死につくって見せた笑みにも取れた。目尻は弱々しく下がっていて、口元はどこかこらえた様だ。いつもほんのりと紅潮していた頬にはその赤みがなく、真っ白な雪肌が却って表情を死人のように際立たせていた。かのような哀しさを思わせる表情をした彼女を、慧音は未だかつて見た事がなかった。
「私、毎晩夢を見るのです」
「……夢?」と訝しがる慧音を他所に、阿求はそっと目を伏せた。
「はい。それも、ここ数年は、ずうっと同じ夢ばかりを見ていました」
「……」
「気がつくと、私は決まって御簾(みす)の前に居るのです。部屋は然程狭い訳でも無いのに、そこに居ると何故かとても息苦しくて……。けれども、私はそこで何をすべきか、何を為さねばならないのかを分かっていますから、ややもすれば、すぐにその場で額突くのです」
「……」
「最後にそれを見たのはおとついでした」
「……」
「私はほら、こういう人間ですから、何時何時に何々を誰それと見たなんて事は鮮明なのでして、今考えてみると、中有の道の地蔵様の手前で、錫杖を突くにも似た鈴の音を聴いたのも、丁度おとついの、あれは巳の刻でした」
「……ああ、いや、そうか」
彼女は、僅かに差し出されたその言葉の断片から、阿求の言わんとしている事を容易く心付く程度には聡かった。慧音は戸惑った様に目を泳がせる。その明らかな態度の変化を感じ取った阿求は、とても申し訳なさそうに唇を一文字に締めた。
「そうか、いや、そうだな。ああ、そうか、参ったな……はは、もう……もうそんな時期だったかな」
光に蒼くひかめくその髪に、いつもの婉然さは垣間見えない。窺えるのは兎に角の焦り様と、下唇の震えに見る困惑だけだった。常日頃から摯実、毅然たる態度で教鞭を振るっている女史でさえも、かくも狼狽えられるものであったのかと妙に感心してしまう程に、阿求は己の境地を達観していた。
「嫌ですわ、先生ったら。私、まだ三十路どころか四半世紀も生きてはいないのですよ」
「……ああ、……おかしいじゃないか。まだ早い。早過ぎるぞ。気のせいかもしれない」
「……私は、私はただ昔の私の残した通りにお願いをしているだけですもの。確かにこれが本当に終わりを指すのか、未だに自分でも分かりかねます」
「……」
「けれど、これは直感です」
「……」
「それに、私は御阿礼の中でも取り分け虚弱な様でして……ですから、死ぬのが少しばかり早かった所で、別段おかしい事でも」
「……稗田」
「……」
沈黙。
阿求の発言と振舞いから、彼女の艱苦は感じられなかった。自分の運命への悲観も無ければ、それが当たり前だという諦観も無く、さもそれが他人事であるかの様に落ち着き払って居て、まるで慧音だけがその悲しみ苦しみを一身に背負ってしまったかの様であった。
両人共に長きを感じていたその沈黙を破ったのは、阿求だった。
「先生……廿年もの間、先生とは幻想郷縁起に関してや、数々の論考を通して懇親の仲に御座いましたが、愈々私を名前で呼んでくれる事はありませんでしたね」
「……?突然何を言って……」
「それともこれは、私の思い違い、私の単なる願望に過ぎなかったのでしょうか」
先と打って変わって、阿求からは余裕綽々然とした雰囲気が感じられた。年若のあの頃と較べては嫋やかさも一入であったが、殊更に今の彼女は、胸中の思いの丈をさらけ出す時宜をそこに見出だしたかの如く、言葉を続けた。その顔に弱々しさは、最早皆無であった。
「ねえ、先生」
「……」
「どうか、名前を呼んで下さいまし。先生の教え子を諭す様に、叱る様に」
「……」
「私は……私はいつも、この眼が先生を捉える度、雲の切れ間から射した陽の光が、心に根差した蒲公英に優しく触れる様な気がしていました」
それはまさしく後生一生の願いであった。死期は間違いなく阿求に近づいていた。彼女自身それを解っていたし、いざとなればそれを甘受するつもりでいたが、今はこの場に想い人の居た事が、ほんの少しばかり、彼女をこの日の下に留められる絆となっていた。
「……止してくれ」
「先生が私を尋ねてくれるといつも、心を押し浸していた水が引いて行く様な思いでした。先生と共に書物を広げれば、まるで清新な風が私の中に出来上がっていた陰鬱と悲壮感の蜘蛛の巣を取り払う様でした。気が付けば、想うのはいつも先生の事……」
慧音は困惑した。よもや彼女からそんな事をよりにもよって今、この場で打ち明けられるとは思っていなかったのだ。慧音はこめかみを酷く殴り付けられた様な錯覚をそこに覚えた。何もかもがあまりにも突としていた。
「いずれきっと、先生なら許してくれると思いますから、今伝えたくて」
「待て、それ以上言うな。聞きたくないんだ」
「先生、私は貴女をお慕い申しておりました。いえ、今もお慕いしております。先生が今こうして傍に居てくれる事の、なんと心嬉しいことか」
「ああ、止してくれ。頼む。どうして……どうしてそんな事を言ってくれるんだ。それも、よりによってこんな時に!」
喚声。慧音は思わず口にした後で、すぐにそれを後悔した。明らかな拒絶だった。阿求はそれに怯まなかったが、少し心残りであるような表情を見せた。だがそれも一瞬、再びにこやかに、そして気丈に振る舞って見せ、徐に立ち上がると、ゆったりとした足取りで卓の縁を沿って行った。
「どうか私を卑怯な人と思わないで下さい、不誠実な先生。だって私達、お互い様なのですから」
「……何故今になって、そんな事……」
「先生って本当に強情な人……実はもうこの屋敷に用向きなど無いのでしょう?だのに、暇を見つけてはこうして訪ねて来てくれる……。とっくのとうに分かっていた事なのに。でも、先生のそんな所に私は……私は、憧れていたのです。ひた向きで、律儀で、少し物堅い、そんな先生を」
うちひしがれた様に俯く慧音の元へと身を寄せて、阿求は膝の上に強く握りしめられた彼女の拳に、そっと手を重ねた。
「先生は、まだ見ぬ私を想ってくれるでしょうか。または、百年経っても私をずうっと想ってくれていたら……いいえ、それは余りに業突張りでしょうね」
阿求は慧音の手の甲を少し撫でた後、ゆっくりとその手を下した。阿求はそのまま慧音の白銀(しろがね)色の髪筋を名残惜しそうに眺め、慧音は俯いたまま、思い詰めた瞳で自分の手を走っていった指の軌跡を眺めていたが、寸刻、二人の目は示し合わせたかの様に、その視線を交じり合わせた。
その時彼女は、相手の体が自分の体に目一杯接近していた事に改めて気が付いた。そのつもりであれば肩を寄せて、その腕、腰、頬、唇に触れ合う事が出来ただろうし、またそうしたいと体の底で何かが強く求めていたのも、はっきりと自覚していた。しかしながら、彼女がそれをする事は遂に無かった。
「先生、さようなら。」阿求は、穏やかな微笑を湛えながら、そう言った。
春分。椿の咲いた庭先はもう肌寒さも薄れ、巣を作り始めた雀たちが忙しなく飛び交っていた。阿求が死んだのは、それから九日後の事であった。
意識が水底から引っ張り上げられたようにふっと、刹那の隔絶された時間から意識を戻した後、阿求はいつも通りの、それでいて久し振りな寂しさを覚えた。手元の和本を閉じ置き、ちら、と庭を顧みれば、そこには一輪の椿が形をそのままに、垣根の足元に落ちていた。
「まぁ、教育というのは得てしてそういう物なのだ。かと言って、巻帙様には子供を育む術が無いだろう……知識を与えるだけでは教育とは到底言えないさ」
慧音は広げた巻物の一篇に目を落としたままそう言った。卓の向こうからでは、身をやや乗り出しても彼女が何を読んでいるのか分からなかった。途端に感傷的になった自分の、そのあまりの心変わり様に内心苦笑いを浮かべつつも、阿求は慧音の読んでいる物が何なのか、堪らなく知りたくなった。
「先生、今、何を読んでいらっしゃるのですか」
「これはまだ妖怪への畏怖が根強く残っている。記載されている情報は中々に明確で、以前ほど我々に冥くはない。これは……阿夢の幻想郷縁起だな。だがまた、どうして」
慧音が書物を開く時は、必ず庭に背を向けるのが癖である事を阿求はよく知っていた。耳の後ろに掻き上げた、彼女の揃えられた銀髪がしなりと垂れ下がっている。阿求はつとめて普通にしているつもりだったが、慧音がこちらに目を向けるとすぐに顔を強張らせたのを見て、思わず溜め息を吐きそうになった。
「一体どうした……その汗は。具合が宜しくないのか」
「いえ、そう言う訳では」
「や、だが無理は体に障るぞ。今日はもう休んだ方がいい……私ももうお暇するから」
そう言って書物を片付けようとする慧音を、阿求は優しい声で呼び止める。
「先生」
「……どうした」
話を聴いて頂けませんか、その耳をくすぐる様な澄んだ声に、慧音は思わずはっとした。阿求は柔らかな笑顔を見せていたが、ともすればそれは必死につくって見せた笑みにも取れた。目尻は弱々しく下がっていて、口元はどこかこらえた様だ。いつもほんのりと紅潮していた頬にはその赤みがなく、真っ白な雪肌が却って表情を死人のように際立たせていた。かのような哀しさを思わせる表情をした彼女を、慧音は未だかつて見た事がなかった。
「私、毎晩夢を見るのです」
「……夢?」と訝しがる慧音を他所に、阿求はそっと目を伏せた。
「はい。それも、ここ数年は、ずうっと同じ夢ばかりを見ていました」
「……」
「気がつくと、私は決まって御簾(みす)の前に居るのです。部屋は然程狭い訳でも無いのに、そこに居ると何故かとても息苦しくて……。けれども、私はそこで何をすべきか、何を為さねばならないのかを分かっていますから、ややもすれば、すぐにその場で額突くのです」
「……」
「最後にそれを見たのはおとついでした」
「……」
「私はほら、こういう人間ですから、何時何時に何々を誰それと見たなんて事は鮮明なのでして、今考えてみると、中有の道の地蔵様の手前で、錫杖を突くにも似た鈴の音を聴いたのも、丁度おとついの、あれは巳の刻でした」
「……ああ、いや、そうか」
彼女は、僅かに差し出されたその言葉の断片から、阿求の言わんとしている事を容易く心付く程度には聡かった。慧音は戸惑った様に目を泳がせる。その明らかな態度の変化を感じ取った阿求は、とても申し訳なさそうに唇を一文字に締めた。
「そうか、いや、そうだな。ああ、そうか、参ったな……はは、もう……もうそんな時期だったかな」
光に蒼くひかめくその髪に、いつもの婉然さは垣間見えない。窺えるのは兎に角の焦り様と、下唇の震えに見る困惑だけだった。常日頃から摯実、毅然たる態度で教鞭を振るっている女史でさえも、かくも狼狽えられるものであったのかと妙に感心してしまう程に、阿求は己の境地を達観していた。
「嫌ですわ、先生ったら。私、まだ三十路どころか四半世紀も生きてはいないのですよ」
「……ああ、……おかしいじゃないか。まだ早い。早過ぎるぞ。気のせいかもしれない」
「……私は、私はただ昔の私の残した通りにお願いをしているだけですもの。確かにこれが本当に終わりを指すのか、未だに自分でも分かりかねます」
「……」
「けれど、これは直感です」
「……」
「それに、私は御阿礼の中でも取り分け虚弱な様でして……ですから、死ぬのが少しばかり早かった所で、別段おかしい事でも」
「……稗田」
「……」
沈黙。
阿求の発言と振舞いから、彼女の艱苦は感じられなかった。自分の運命への悲観も無ければ、それが当たり前だという諦観も無く、さもそれが他人事であるかの様に落ち着き払って居て、まるで慧音だけがその悲しみ苦しみを一身に背負ってしまったかの様であった。
両人共に長きを感じていたその沈黙を破ったのは、阿求だった。
「先生……廿年もの間、先生とは幻想郷縁起に関してや、数々の論考を通して懇親の仲に御座いましたが、愈々私を名前で呼んでくれる事はありませんでしたね」
「……?突然何を言って……」
「それともこれは、私の思い違い、私の単なる願望に過ぎなかったのでしょうか」
先と打って変わって、阿求からは余裕綽々然とした雰囲気が感じられた。年若のあの頃と較べては嫋やかさも一入であったが、殊更に今の彼女は、胸中の思いの丈をさらけ出す時宜をそこに見出だしたかの如く、言葉を続けた。その顔に弱々しさは、最早皆無であった。
「ねえ、先生」
「……」
「どうか、名前を呼んで下さいまし。先生の教え子を諭す様に、叱る様に」
「……」
「私は……私はいつも、この眼が先生を捉える度、雲の切れ間から射した陽の光が、心に根差した蒲公英に優しく触れる様な気がしていました」
それはまさしく後生一生の願いであった。死期は間違いなく阿求に近づいていた。彼女自身それを解っていたし、いざとなればそれを甘受するつもりでいたが、今はこの場に想い人の居た事が、ほんの少しばかり、彼女をこの日の下に留められる絆となっていた。
「……止してくれ」
「先生が私を尋ねてくれるといつも、心を押し浸していた水が引いて行く様な思いでした。先生と共に書物を広げれば、まるで清新な風が私の中に出来上がっていた陰鬱と悲壮感の蜘蛛の巣を取り払う様でした。気が付けば、想うのはいつも先生の事……」
慧音は困惑した。よもや彼女からそんな事をよりにもよって今、この場で打ち明けられるとは思っていなかったのだ。慧音はこめかみを酷く殴り付けられた様な錯覚をそこに覚えた。何もかもがあまりにも突としていた。
「いずれきっと、先生なら許してくれると思いますから、今伝えたくて」
「待て、それ以上言うな。聞きたくないんだ」
「先生、私は貴女をお慕い申しておりました。いえ、今もお慕いしております。先生が今こうして傍に居てくれる事の、なんと心嬉しいことか」
「ああ、止してくれ。頼む。どうして……どうしてそんな事を言ってくれるんだ。それも、よりによってこんな時に!」
喚声。慧音は思わず口にした後で、すぐにそれを後悔した。明らかな拒絶だった。阿求はそれに怯まなかったが、少し心残りであるような表情を見せた。だがそれも一瞬、再びにこやかに、そして気丈に振る舞って見せ、徐に立ち上がると、ゆったりとした足取りで卓の縁を沿って行った。
「どうか私を卑怯な人と思わないで下さい、不誠実な先生。だって私達、お互い様なのですから」
「……何故今になって、そんな事……」
「先生って本当に強情な人……実はもうこの屋敷に用向きなど無いのでしょう?だのに、暇を見つけてはこうして訪ねて来てくれる……。とっくのとうに分かっていた事なのに。でも、先生のそんな所に私は……私は、憧れていたのです。ひた向きで、律儀で、少し物堅い、そんな先生を」
うちひしがれた様に俯く慧音の元へと身を寄せて、阿求は膝の上に強く握りしめられた彼女の拳に、そっと手を重ねた。
「先生は、まだ見ぬ私を想ってくれるでしょうか。または、百年経っても私をずうっと想ってくれていたら……いいえ、それは余りに業突張りでしょうね」
阿求は慧音の手の甲を少し撫でた後、ゆっくりとその手を下した。阿求はそのまま慧音の白銀(しろがね)色の髪筋を名残惜しそうに眺め、慧音は俯いたまま、思い詰めた瞳で自分の手を走っていった指の軌跡を眺めていたが、寸刻、二人の目は示し合わせたかの様に、その視線を交じり合わせた。
その時彼女は、相手の体が自分の体に目一杯接近していた事に改めて気が付いた。そのつもりであれば肩を寄せて、その腕、腰、頬、唇に触れ合う事が出来ただろうし、またそうしたいと体の底で何かが強く求めていたのも、はっきりと自覚していた。しかしながら、彼女がそれをする事は遂に無かった。
「先生、さようなら。」阿求は、穏やかな微笑を湛えながら、そう言った。
春分。椿の咲いた庭先はもう肌寒さも薄れ、巣を作り始めた雀たちが忙しなく飛び交っていた。阿求が死んだのは、それから九日後の事であった。
考えながら読んでいくと会話の方向性のネタバレ?に見えなくもない
個人的に色々な可能性を考えながら読み進めたいというだけなので、あまり気にしなくていいかなとも思うけど
あと、前置きが長かったら後半の言葉の破壊力がきっと良い意味で増したように思えたので、残念
百合+切ない描写=最強
何はともあれ良い作品でした