日の光がぼんやりとグラデーションを描きながら、決して深くない洞窟の中に入り込んできている。洞窟の表面は少し水分を含んでいるが、水滴をこぼすほど不快ではなく、しかしこの季節に過ごすにしてはいささかひんやりしすぎているのではないかというほど。
その間際、縁とは言い難く、かと言って奥ではない絶妙な位置に、四足がある程度稼動し、場所が微かに悪くても安定できる卓袱台と、座るのには不向きな堅く刺のある地面のために、緑色の質素な座布団が、それぞれを線で結ぶと円を真ん中で割るように置かれていた。
ちょうど外に向かって座っているのは、眉を歪ませ、内心に氾濫しそうな河を持つ射命丸文。向かい側には、座りながら器用に尻尾を振り、目に椎茸のような星を輝かせる犬走椛が鎮座している。上座と下座を煩く言うならば位置を逆にしなければならないが、文をここに招き入れた人物が自然とこうなるように仕向けたのだ。文も困惑気味だが、椛が変わってくれる気配もなく、釈然としないながらも腰を落ち着けていた。
だが、釈然としないのにはまだ理由があった。
文と椛の仲の悪さ、いや、相性の悪さがその一つだ。言うなれば水と油、ゼロと一、現実と妄想、歴史漫画と時代小説。類似していないと思えるけれども、大雑把に括れば同じに出来る気がするが、そうするとなんとなく気持ち悪い。端的には反りが合わない。
会う度に口喧嘩は当たり前、手が出ることは稀だが、周りに被害が及ぶこと可能性は十五割。何かしらの器物が破損するのが十割で、残りの五割は彼女達の友人に愚痴なり小物なりが飛ぶ確率だ。
それが何故、こうやって端から見れば仲良く晴天の恩恵を受けながらのんびりと時間を潰していることになっているのか。それを説明するためには、理由その二と、文の目の前に置かれたものについて言及しなくてはならない。
そこらで見かける廉価な陶器屋で、はした金をはたけば簡単に手が入るどんぶり。しかし、その中身は容器とは対照的に本能を刺激する魅力がたっぷりと詰め込まれており、期せずして涎が文の口内に押し寄せてくる。焦げ茶色の海の表面には、黒く細やかなスパイスの粒があちこちに点在、または遍在していて、また鼻を通して喉に伝わる辛気が心地いい。それだけではない。乱切りにされた朱色の人参や、武骨だが形が丁寧に揃えられた馬鈴薯、今にも崩れてしまいそうな豚肉が島のように浮かんでいる。ここに玉葱さえあれば、と惜しくも思えてくる。そう、外の世界でも大人気で、幻想郷に流入されるようになってからも数多くの人妖がその魅力に飲み込まれた、魔性のメニュー、カレーだった。
それだけでもにやけてしまいがちだが、その下に隠れながらも存在感をアピールしてくる物も、見逃すことの出来ないものだ。白く優雅な龍の髭のように滑らかな麺が規則正しく敷かれているだろうことは、ルーの水面からはみ出ている片鱗を見ても、一を聞いて十を知るように明らかで、コシのある太さは遭難した際の方位磁針のように頼りがいがあった。麺類の王道、饂飩である。
射命丸文の眼下には、菩薩の後光よりも眩しい光を放っているカレーうどんが、彼女の胃に入ることを今か今かと待ち望んでいた。
文は、自身が猿であるとは認めたくないが、犬猿の仲である椛の手作りであるこの料理を冷や汗をかきながら見つめ、ちらりと白狼天狗の方を盗み見た。粗悪な割り箸の端を持って、慎重に裂いていくが、途中持ち手になる部分が不均等に割れてしまい、ちょっと落ち込んでしまった椛がいる。
摂取した瞬間ショック死してしまう毒でも入っているのかと疑心暗鬼に陥りかけるが、椛の前にも同じ模様の容器に、同じ釜からよそったカレーと、同じ鍋で湯がいた麺があり、毒殺計画であることは少なからず否定された。
ならば、椛の真意は一体なんなのか。二つ目の理由は、少し時を巻き戻せば分かりやすいだろう。
空に浮かぶだけで強まる風は、移動を始めると体に強く当たり始めてくる。引っ掻いてくるような乾燥した風を顔に、腕に、指先に、靴下とスカートの間の肌を露出したところに撫でさせ、文は、自宅への帰りを急いでいた。
秋は今年も短く、某姉妹も涙目で過ごしているのを確認したが、彼女達とはまた違った意味で、冬という気候に気を滅入らせているものだ。肌にも体にも影響を及ぼすし、そもそも取材対象となる人物や騒動の原因もあまり活動しない。もっと踏み込んだり辛抱強く漁り続ければボロボロと出てきそうだが、残念ながら、新聞大会も終わり気概的にも落ち着いている現在の彼女は、そこまでする気力を持ち合わせていない。
事が起こればそうはいかないが、騒がしくも平和がデフォルトの幻想郷は、文に厳しく当たっている。そろそろマフラーでも着ようかなと、タンスに仕舞っている黒い防寒具を思い浮かべながら、人里にて大量に購入した肉まんを、パンパンに入れた紙袋を抱えていた。
なるべく冷めないように保温する工夫がされているらしいが、その効果も眉唾物で、出来ることなら早く屋内に入ってストーブを焚きたかった。もしくは河童の開発した熱を発する絨毯もあるし、寝転がりながらあれこれと構想するのもいい。いささか行儀も悪いが肉まんを頬張りながらだ。
山の入り口、といっても単なる境界にすぎないのだが、ともかく天狗のテリトリーに帰ってきたことによって注意が散漫になっていたのか、急いでいるときに通ることはご法度と自分でしている場所が迫っているのに気がついたのは、少し迫り出した崖になっている山肌に、見慣れた装束と顔が見受けられたときだった。
「ちょっと待て!」
やはり犬走椛。今日は何も絡まれるようなことはしていないし、会う度に喧嘩をするといっても、無益な争いはお互い避けているため、なぜ彼女がああやって般若のように顔をしかめ、大音量で叫び文を止めようとしているのか、見当がつかない。
速度で言えば文の方が圧倒的に速く、雀と鷹のように差があるのだが、初速は元々の身体能力の高い白狼天狗に軍配が上がる。ましてや生真面目が服を着て刀をぶら下げているような彼女のこと、鍛錬も怠っているはずもなく、このまま飛びかかられてしまえば間違いなく御用となってしまうだろう。もし強引に進行方向を変えてしまえば、もちろんそれも可能だ。だが、それは文自身はという前提がつき、抱えられている紙袋は塵と化し、出来立ての肉まんも宙に散りもう二度と口にすることが出来なくなる。とするならば、
「うるさいですね!」
たかが硬貨一枚分を犠牲にすることなど、天秤にかけるまでもなく、椛に体当たりをするつもりで進路を固定し、紙袋から、まだ暖かく湯気をあげている肉まんを一つ取りだし、
「あゃぐぅっ!」
椛のその自慢のお口に突っ込んだ。こうすることで椛が踏み切るまでに多少のロスはあるし、十分距離を稼げるはずだった。その正否に見向きもせず文は通り抜け、長年培った体感で安全そうな距離を測ると、そこでようやく振り返った。
成功確率は低く見積もって五割と自信はあったが、椛の執念は計りがたく、実際に光景を目の当たりにするまでは少し動悸のリズムがおかしかった。が、文が見たのは後方で追ってきている椛の姿でもなく、今にも文の肩に掴みかかりそうなほど近い白狼天狗でもなく、さっきの場にしゃがみこんで勢いよく尻尾を振る、犬のような狼であった。賭けに勝ったどころではない、道端に落ちていた小銭が徳川の埋蔵金だったぐらいの成功ぶり。
素直にそこから去ればよかったものの、意外にお人好しである文からすれば、心の内に、ある不安を掻き立てるものを感じた。罠であるという可能性も否定できない。今まで文の中の椛に対する思い出や、評価からするに十分あった。しかし、もしかして自分が無理矢理押し込んだせいで喉に詰まって呼吸困難になってたりとか、身体に毒である何かが入っていたのかもしれないと思い始めると止まらなかった。
過ぎた時よりはゆっくりめに、だがそれなりに急いで椛の隣に向かい、未だうずくまっている椛の背後に下駄の歯を食い込ませながら降り立った。
「だ、大丈夫ですか?」
背中を擦ろうと手をかざすも、なんとなく憚られて渋々下ろす。仕方なく顔色でも覗こうと手を口に当てている椛の横顔を覗く。
その椛が、残像が出来そうなほど勢いよく顔をあげた。不意打ちに文の肩がビクリと跳ね上がり、体制を崩して情けなく尻餅をついた。そうして椛が文に気がつき、ゆっくりと顔を向けた。いかにも苦しそうに顔を青ざめていたりとか、死にかけて白目を剥いているとかそんなことはなく、口元にソースのついた豚肉を張り付けて、ただただ恍惚に顔を歪めていた。
呆気にとられて物も言えなくなっている文。なにせ、自分の想像していたのと正反対な、太陽と月のように真逆な反応だったからだ。心配して損した、ということすら頭になかった。
暫し椛と文の視線が中空に繋がり、互いに目をそらさなかった。勢いよく振られる、椛の白く整いながらも柔らかさを全面に押し出した尻尾。どこからか響く、人を馬鹿にしたような烏の鳴き声。山の裏側から反響する、哨戒天狗の訓練生達の掛け声。
「……食べます?」
おずおずと文が紙袋の中に手を入れ、新たな肉まんを椛に見せびらかした。
「いいんですか!」
言うが早いか、椛は首を喜びのあまり、振動するように縦に振り、文の手に飛びつく。数分後、なかなか気温が上がらない日中の崖に、互いの体温を感じるように寄り添いながら肉まんを頬張る二人の姿があった。
「文さん、冷めちゃいますよ」
「っ、ああ、ごめんなさい。……ではいただきます……」
数日前の回想から、椛の声で戻ってくることが出来た。我に返ると、湯気を発したカレーうどんが待ちくたびれている。椛も箸で饂飩を何本か掬いながら文を見つめてきていた。文も渡された安物の割り箸を割ろうとするが、最後の最後で割れ目が逸れてしまい、失敗してしまった。しばらくそれとにらめっこをして、文はカレースープの中に箸を突っ込ませた。
あれから数度椛に会ったことがあるが、いずれも里で惣菜を買ってきた時だったり、または知り合いの天狗からお裾分けをしてもらったりした時で、その都度椛とつるんで食事をしている。食べてる最中や、食べ終わったらすぐに喧嘩をするのではないかという予想もできよう。しかし椛は、母親に甘える子供のような、長年飼われている犬のような、従順な態度を文にとるのだ。今までの確執が嘘のような手のひら返しである。身も蓋もなく表現するなら、食べ物で釣れたというやつだ。
それがいいことか悪いことかは別として、なんだかなぁという脱力感と、歳の離れた従姉妹を見るような微笑ましさを感じていた。食べ物をくれる他人はいい人、という価値観は危ない気もするが、騙されたとしても椛ほどの腕を持つものが易々とやられるイメージも湧かない。心配するのは後回しにしても問題はないだろう。
それらを踏まえれば、このおもてなしはきっと椛なりのお返しのつもりなのだろう。この場所、実は椛の見つけた穴場で、親友やなんかしか場所を教えないし入れもしない。その場所を教えてもらったということだけでも、立派な収穫なのだ。食べ物に頼らなくても、こんな関係が維持できるようになれば、と願うのは高望みなのだろうか。文は麺を冷気で冷ましながら考える。
まあこんな熱さが勝負な食事時に考える話題でもないと振り払い、豪快に麺をすすった。とろみが舌に絡み付き、口内の温度が急上昇する。香辛料の香りが熱さと共に鼻に抜け、思わず息が荒くなる。遅れてスパイスが舌に突き刺さるが、感覚を鋭敏にするだけの心地よいものにすぎなかった。麺一本を丸々口に含むのも無理があり、途中で噛みきるが、麺に歯を立てたときの強い弾力がしっかりと顎に伝わってきた。噛めば噛むほど麺が歯を押し返してきて、その度に注意しなければ逃してしまうほど微かな塩の風味が、痺れた舌に降りる。
間違いなく美味。また、しっかり火の通った野菜も負けてはいない。舌で潰せるほど柔らかくなった人参はフルーツのように甘いし、マッシュされた馬鈴薯が舌の上を踊る。しっかりとした噛みごたえのある豚肉も、カレーの風味を染み込ませて独特の仕上がりを見せていた。
技術もさることながら、料理へのこだわりと、作り手の愛情を感じずにはいられない。どれだけ金を積んでも、こんな素晴らしいものは再現できないだろうし、むしろお金を払いたくない。こうした場であるからこそのこの黄金の体験なのだ。
文はふと、自分の着ている白いカッターシャツを気にした。今食べている饂飩は言わずもがな、蕎麦やラーメンなどの麺類を食べるときに困るのが、啜ったときに飛び散る汁である。色の濃いものならば誤魔化せるし帰るまでならなんとかなるのだが、それ以外の色彩の衣服に付着した場合、非常に面倒臭いことになる。まず染みが目立つ。純白の衣装に、醜く斑点がつくのだ。それにその染みも洗濯してもとれないことが多々あるのだ。対人業種である以上身だしなみは人一倍気を使わなければならないし、記者という職業柄、人に笑われ蔑まれるということもあってはならない。自分の立場は下に置きながら、その実相手には上下を錯覚させ、探りやすい状態を作る。そのためには弱味をできるだけ持たないことが肝心だ。しかし文が懸念したようなことは起きておらず、カッターシャツはこれまで通り清潔さを保っていて、飲み込んで安堵の息を漏らした。
「美味しいですよ」
文は飾り気のない率直な感想を椛に伝えた。心の内を相手に悟らせない深い笑みではない、心からの、優しい蝋燭のような微笑み。
椛は色気もへったくれもなく麺を啜る手を止め、そんなに咀嚼をせずに喉の奥に押し込み、
「ありがとう!」
無邪気な童が遊んでいるときのように笑みを弾けさせた。見るものによっては一目惚れどころか即求婚してしまいそうなほど魅力的な笑みだが、口の周りにカレーの髭を作り、さらには鼻の頂にも飛び火しているその面は、見事なまでの台無しだった。
やれやれと首を振り、スカートのポケットから白いハンカチを取りだし、身を乗り出して椛の口を拭いてあげる文。椛は片目を瞑って素直に応じ、鼻も綺麗にされるとくすぐったそうに身を捩り、唇を人差し指で触って、意外そうに文を見返した。意図的でなかったからこそ顔も紅潮するほど照れ臭くなった文は、椛の視線から逃げるようにどんぶりに顔を落とし、自棄になりながら饂飩を頬張った。それを見た椛は、今度は大人びた雰囲気で頬を緩め、尻尾を緩やかに振る。それも一瞬のことですぐにまた元通りカレーうどんにがっつき始めたが、心なしか少し慎ましくなっている。
まるで付き合いたての恋人同士のような微妙な空気が充満し、薄暗い洞窟の中、二人が饂飩を啜る音だけが木霊していた。
その間際、縁とは言い難く、かと言って奥ではない絶妙な位置に、四足がある程度稼動し、場所が微かに悪くても安定できる卓袱台と、座るのには不向きな堅く刺のある地面のために、緑色の質素な座布団が、それぞれを線で結ぶと円を真ん中で割るように置かれていた。
ちょうど外に向かって座っているのは、眉を歪ませ、内心に氾濫しそうな河を持つ射命丸文。向かい側には、座りながら器用に尻尾を振り、目に椎茸のような星を輝かせる犬走椛が鎮座している。上座と下座を煩く言うならば位置を逆にしなければならないが、文をここに招き入れた人物が自然とこうなるように仕向けたのだ。文も困惑気味だが、椛が変わってくれる気配もなく、釈然としないながらも腰を落ち着けていた。
だが、釈然としないのにはまだ理由があった。
文と椛の仲の悪さ、いや、相性の悪さがその一つだ。言うなれば水と油、ゼロと一、現実と妄想、歴史漫画と時代小説。類似していないと思えるけれども、大雑把に括れば同じに出来る気がするが、そうするとなんとなく気持ち悪い。端的には反りが合わない。
会う度に口喧嘩は当たり前、手が出ることは稀だが、周りに被害が及ぶこと可能性は十五割。何かしらの器物が破損するのが十割で、残りの五割は彼女達の友人に愚痴なり小物なりが飛ぶ確率だ。
それが何故、こうやって端から見れば仲良く晴天の恩恵を受けながらのんびりと時間を潰していることになっているのか。それを説明するためには、理由その二と、文の目の前に置かれたものについて言及しなくてはならない。
そこらで見かける廉価な陶器屋で、はした金をはたけば簡単に手が入るどんぶり。しかし、その中身は容器とは対照的に本能を刺激する魅力がたっぷりと詰め込まれており、期せずして涎が文の口内に押し寄せてくる。焦げ茶色の海の表面には、黒く細やかなスパイスの粒があちこちに点在、または遍在していて、また鼻を通して喉に伝わる辛気が心地いい。それだけではない。乱切りにされた朱色の人参や、武骨だが形が丁寧に揃えられた馬鈴薯、今にも崩れてしまいそうな豚肉が島のように浮かんでいる。ここに玉葱さえあれば、と惜しくも思えてくる。そう、外の世界でも大人気で、幻想郷に流入されるようになってからも数多くの人妖がその魅力に飲み込まれた、魔性のメニュー、カレーだった。
それだけでもにやけてしまいがちだが、その下に隠れながらも存在感をアピールしてくる物も、見逃すことの出来ないものだ。白く優雅な龍の髭のように滑らかな麺が規則正しく敷かれているだろうことは、ルーの水面からはみ出ている片鱗を見ても、一を聞いて十を知るように明らかで、コシのある太さは遭難した際の方位磁針のように頼りがいがあった。麺類の王道、饂飩である。
射命丸文の眼下には、菩薩の後光よりも眩しい光を放っているカレーうどんが、彼女の胃に入ることを今か今かと待ち望んでいた。
文は、自身が猿であるとは認めたくないが、犬猿の仲である椛の手作りであるこの料理を冷や汗をかきながら見つめ、ちらりと白狼天狗の方を盗み見た。粗悪な割り箸の端を持って、慎重に裂いていくが、途中持ち手になる部分が不均等に割れてしまい、ちょっと落ち込んでしまった椛がいる。
摂取した瞬間ショック死してしまう毒でも入っているのかと疑心暗鬼に陥りかけるが、椛の前にも同じ模様の容器に、同じ釜からよそったカレーと、同じ鍋で湯がいた麺があり、毒殺計画であることは少なからず否定された。
ならば、椛の真意は一体なんなのか。二つ目の理由は、少し時を巻き戻せば分かりやすいだろう。
空に浮かぶだけで強まる風は、移動を始めると体に強く当たり始めてくる。引っ掻いてくるような乾燥した風を顔に、腕に、指先に、靴下とスカートの間の肌を露出したところに撫でさせ、文は、自宅への帰りを急いでいた。
秋は今年も短く、某姉妹も涙目で過ごしているのを確認したが、彼女達とはまた違った意味で、冬という気候に気を滅入らせているものだ。肌にも体にも影響を及ぼすし、そもそも取材対象となる人物や騒動の原因もあまり活動しない。もっと踏み込んだり辛抱強く漁り続ければボロボロと出てきそうだが、残念ながら、新聞大会も終わり気概的にも落ち着いている現在の彼女は、そこまでする気力を持ち合わせていない。
事が起こればそうはいかないが、騒がしくも平和がデフォルトの幻想郷は、文に厳しく当たっている。そろそろマフラーでも着ようかなと、タンスに仕舞っている黒い防寒具を思い浮かべながら、人里にて大量に購入した肉まんを、パンパンに入れた紙袋を抱えていた。
なるべく冷めないように保温する工夫がされているらしいが、その効果も眉唾物で、出来ることなら早く屋内に入ってストーブを焚きたかった。もしくは河童の開発した熱を発する絨毯もあるし、寝転がりながらあれこれと構想するのもいい。いささか行儀も悪いが肉まんを頬張りながらだ。
山の入り口、といっても単なる境界にすぎないのだが、ともかく天狗のテリトリーに帰ってきたことによって注意が散漫になっていたのか、急いでいるときに通ることはご法度と自分でしている場所が迫っているのに気がついたのは、少し迫り出した崖になっている山肌に、見慣れた装束と顔が見受けられたときだった。
「ちょっと待て!」
やはり犬走椛。今日は何も絡まれるようなことはしていないし、会う度に喧嘩をするといっても、無益な争いはお互い避けているため、なぜ彼女がああやって般若のように顔をしかめ、大音量で叫び文を止めようとしているのか、見当がつかない。
速度で言えば文の方が圧倒的に速く、雀と鷹のように差があるのだが、初速は元々の身体能力の高い白狼天狗に軍配が上がる。ましてや生真面目が服を着て刀をぶら下げているような彼女のこと、鍛錬も怠っているはずもなく、このまま飛びかかられてしまえば間違いなく御用となってしまうだろう。もし強引に進行方向を変えてしまえば、もちろんそれも可能だ。だが、それは文自身はという前提がつき、抱えられている紙袋は塵と化し、出来立ての肉まんも宙に散りもう二度と口にすることが出来なくなる。とするならば、
「うるさいですね!」
たかが硬貨一枚分を犠牲にすることなど、天秤にかけるまでもなく、椛に体当たりをするつもりで進路を固定し、紙袋から、まだ暖かく湯気をあげている肉まんを一つ取りだし、
「あゃぐぅっ!」
椛のその自慢のお口に突っ込んだ。こうすることで椛が踏み切るまでに多少のロスはあるし、十分距離を稼げるはずだった。その正否に見向きもせず文は通り抜け、長年培った体感で安全そうな距離を測ると、そこでようやく振り返った。
成功確率は低く見積もって五割と自信はあったが、椛の執念は計りがたく、実際に光景を目の当たりにするまでは少し動悸のリズムがおかしかった。が、文が見たのは後方で追ってきている椛の姿でもなく、今にも文の肩に掴みかかりそうなほど近い白狼天狗でもなく、さっきの場にしゃがみこんで勢いよく尻尾を振る、犬のような狼であった。賭けに勝ったどころではない、道端に落ちていた小銭が徳川の埋蔵金だったぐらいの成功ぶり。
素直にそこから去ればよかったものの、意外にお人好しである文からすれば、心の内に、ある不安を掻き立てるものを感じた。罠であるという可能性も否定できない。今まで文の中の椛に対する思い出や、評価からするに十分あった。しかし、もしかして自分が無理矢理押し込んだせいで喉に詰まって呼吸困難になってたりとか、身体に毒である何かが入っていたのかもしれないと思い始めると止まらなかった。
過ぎた時よりはゆっくりめに、だがそれなりに急いで椛の隣に向かい、未だうずくまっている椛の背後に下駄の歯を食い込ませながら降り立った。
「だ、大丈夫ですか?」
背中を擦ろうと手をかざすも、なんとなく憚られて渋々下ろす。仕方なく顔色でも覗こうと手を口に当てている椛の横顔を覗く。
その椛が、残像が出来そうなほど勢いよく顔をあげた。不意打ちに文の肩がビクリと跳ね上がり、体制を崩して情けなく尻餅をついた。そうして椛が文に気がつき、ゆっくりと顔を向けた。いかにも苦しそうに顔を青ざめていたりとか、死にかけて白目を剥いているとかそんなことはなく、口元にソースのついた豚肉を張り付けて、ただただ恍惚に顔を歪めていた。
呆気にとられて物も言えなくなっている文。なにせ、自分の想像していたのと正反対な、太陽と月のように真逆な反応だったからだ。心配して損した、ということすら頭になかった。
暫し椛と文の視線が中空に繋がり、互いに目をそらさなかった。勢いよく振られる、椛の白く整いながらも柔らかさを全面に押し出した尻尾。どこからか響く、人を馬鹿にしたような烏の鳴き声。山の裏側から反響する、哨戒天狗の訓練生達の掛け声。
「……食べます?」
おずおずと文が紙袋の中に手を入れ、新たな肉まんを椛に見せびらかした。
「いいんですか!」
言うが早いか、椛は首を喜びのあまり、振動するように縦に振り、文の手に飛びつく。数分後、なかなか気温が上がらない日中の崖に、互いの体温を感じるように寄り添いながら肉まんを頬張る二人の姿があった。
「文さん、冷めちゃいますよ」
「っ、ああ、ごめんなさい。……ではいただきます……」
数日前の回想から、椛の声で戻ってくることが出来た。我に返ると、湯気を発したカレーうどんが待ちくたびれている。椛も箸で饂飩を何本か掬いながら文を見つめてきていた。文も渡された安物の割り箸を割ろうとするが、最後の最後で割れ目が逸れてしまい、失敗してしまった。しばらくそれとにらめっこをして、文はカレースープの中に箸を突っ込ませた。
あれから数度椛に会ったことがあるが、いずれも里で惣菜を買ってきた時だったり、または知り合いの天狗からお裾分けをしてもらったりした時で、その都度椛とつるんで食事をしている。食べてる最中や、食べ終わったらすぐに喧嘩をするのではないかという予想もできよう。しかし椛は、母親に甘える子供のような、長年飼われている犬のような、従順な態度を文にとるのだ。今までの確執が嘘のような手のひら返しである。身も蓋もなく表現するなら、食べ物で釣れたというやつだ。
それがいいことか悪いことかは別として、なんだかなぁという脱力感と、歳の離れた従姉妹を見るような微笑ましさを感じていた。食べ物をくれる他人はいい人、という価値観は危ない気もするが、騙されたとしても椛ほどの腕を持つものが易々とやられるイメージも湧かない。心配するのは後回しにしても問題はないだろう。
それらを踏まえれば、このおもてなしはきっと椛なりのお返しのつもりなのだろう。この場所、実は椛の見つけた穴場で、親友やなんかしか場所を教えないし入れもしない。その場所を教えてもらったということだけでも、立派な収穫なのだ。食べ物に頼らなくても、こんな関係が維持できるようになれば、と願うのは高望みなのだろうか。文は麺を冷気で冷ましながら考える。
まあこんな熱さが勝負な食事時に考える話題でもないと振り払い、豪快に麺をすすった。とろみが舌に絡み付き、口内の温度が急上昇する。香辛料の香りが熱さと共に鼻に抜け、思わず息が荒くなる。遅れてスパイスが舌に突き刺さるが、感覚を鋭敏にするだけの心地よいものにすぎなかった。麺一本を丸々口に含むのも無理があり、途中で噛みきるが、麺に歯を立てたときの強い弾力がしっかりと顎に伝わってきた。噛めば噛むほど麺が歯を押し返してきて、その度に注意しなければ逃してしまうほど微かな塩の風味が、痺れた舌に降りる。
間違いなく美味。また、しっかり火の通った野菜も負けてはいない。舌で潰せるほど柔らかくなった人参はフルーツのように甘いし、マッシュされた馬鈴薯が舌の上を踊る。しっかりとした噛みごたえのある豚肉も、カレーの風味を染み込ませて独特の仕上がりを見せていた。
技術もさることながら、料理へのこだわりと、作り手の愛情を感じずにはいられない。どれだけ金を積んでも、こんな素晴らしいものは再現できないだろうし、むしろお金を払いたくない。こうした場であるからこそのこの黄金の体験なのだ。
文はふと、自分の着ている白いカッターシャツを気にした。今食べている饂飩は言わずもがな、蕎麦やラーメンなどの麺類を食べるときに困るのが、啜ったときに飛び散る汁である。色の濃いものならば誤魔化せるし帰るまでならなんとかなるのだが、それ以外の色彩の衣服に付着した場合、非常に面倒臭いことになる。まず染みが目立つ。純白の衣装に、醜く斑点がつくのだ。それにその染みも洗濯してもとれないことが多々あるのだ。対人業種である以上身だしなみは人一倍気を使わなければならないし、記者という職業柄、人に笑われ蔑まれるということもあってはならない。自分の立場は下に置きながら、その実相手には上下を錯覚させ、探りやすい状態を作る。そのためには弱味をできるだけ持たないことが肝心だ。しかし文が懸念したようなことは起きておらず、カッターシャツはこれまで通り清潔さを保っていて、飲み込んで安堵の息を漏らした。
「美味しいですよ」
文は飾り気のない率直な感想を椛に伝えた。心の内を相手に悟らせない深い笑みではない、心からの、優しい蝋燭のような微笑み。
椛は色気もへったくれもなく麺を啜る手を止め、そんなに咀嚼をせずに喉の奥に押し込み、
「ありがとう!」
無邪気な童が遊んでいるときのように笑みを弾けさせた。見るものによっては一目惚れどころか即求婚してしまいそうなほど魅力的な笑みだが、口の周りにカレーの髭を作り、さらには鼻の頂にも飛び火しているその面は、見事なまでの台無しだった。
やれやれと首を振り、スカートのポケットから白いハンカチを取りだし、身を乗り出して椛の口を拭いてあげる文。椛は片目を瞑って素直に応じ、鼻も綺麗にされるとくすぐったそうに身を捩り、唇を人差し指で触って、意外そうに文を見返した。意図的でなかったからこそ顔も紅潮するほど照れ臭くなった文は、椛の視線から逃げるようにどんぶりに顔を落とし、自棄になりながら饂飩を頬張った。それを見た椛は、今度は大人びた雰囲気で頬を緩め、尻尾を緩やかに振る。それも一瞬のことですぐにまた元通りカレーうどんにがっつき始めたが、心なしか少し慎ましくなっている。
まるで付き合いたての恋人同士のような微妙な空気が充満し、薄暗い洞窟の中、二人が饂飩を啜る音だけが木霊していた。
そして文と椛は可愛い……!
この話は……。何というか・・・・・・。おもエロイです。
椛が「私も食べて」と言ってるような。
メシテロ分のみ減点。肉まん食いてぇ。
文と椛の可愛らしさはさることながら、情景や食べ物の描写もとても好きです
お腹が空きました
いやぁ、美味し…美しい