Coolier - 新生・東方創想話

千代鳥

2013/11/24 14:46:36
最終更新
サイズ
37.25KB
ページ数
1
閲覧数
2744
評価数
11/30
POINT
1880
Rate
12.29

分類タグ

     一

 二月も終わりかけた頃。今日の天気は曇りで、やや暖かい。かえって晴れると、朝晩が寒くなるので困る。こんな日は読書が捗って良い。客も来ない。客が来ないのはいつものことだ。それで良いのかと思わないこともない。が、僕にとっては客のことより天気のほうが重要だし、天気よりも今読んでいる小説の続きが気になる。しばしば流れ着く外の世界の小説は不思議で興味深い。幻想郷に流れ着いてしまう小説と言うのは概して駄作だ。しかし、はじめから外界を知る資料として読むことを期待している僕には、出来不出来は重要ではない。或いはこういった心積もりが、読者である僕の気持を寛大にしているのかもしれない。
 そうして本を読み進めていくと、少し喉が渇いたので、僕は読みかけの本を閉じて一度お茶を淹れるために席を立つことにした。本の内容を反芻し、さて次はどういった展開になるのだろうかと考えながらお茶を汲み、席へ戻り、湯飲みを傾けたとき、ふと、立ち込める湯気が微かにしか見えなくなっているのに気がついた。あぁ、そろそろ冬も終わり、春が訪れるのだと感じた。暖かいと感じたのは、何も曇りの天気だからと言うだけではなかったらしい。
 そういえば、三日前は雪が降らずに雨が降っていた。雪が雨に変わって、幾度かの降雨を経るに従って、段々と暖かくなる。そうして冬から遠ざかって行くのだ。が、その当たり前のことに、どこか不思議な寂しさを覚えた。年輪の重みがそうさせるのだろうか。最近、過ぎ去るという一事実に哀愁を覚えることが多くなって来た気がする。僕の外見は殆ど変わらず、ずっと若いままであっても、また精神的にはそう老けたつもりがなくとも、長いときを経て生きて来たことは事実であり、その痕跡は確かに僕の中に蓄積されていっているのかもしれない。そんなことを、お茶を飲みながら考えていた。
 そうして物思いに耽っていると、伽藍とした僕の店の中に、よく響く喧騒の音が舞い込んできた。冬を惜しんでいたと思ったら、春を飛ばして、一気に夏が舞い込んできたようだ。魔理沙と霊夢。僕の店に来る頻度の最も高い人間だ。それが客でないことは、ちょっと残念である。幾ら淡泊な性分の僕と言っても、来客を期待しなくなったら商売人としては終わりだろう。
 客。そういえば今年の冬は、何人の客が来ただろうか? 雪が降ってからは、両手に数えるほどしか客が来なかった気がする。店としてはまるで利益がない状態だ。半分妖怪の僕ではなければ到底出来ない悠長さに、さしもの僕も自分に呆れた。ただこの二人はしばしば僕の店に来ていた。もちろん、何も商売上の利益をもたらさなかった。或いは普通の人間ならば、こんな二人は疫病神として追い返しているかもしれない。だが幾ら一人を厭わない僕と言っても、あまり孤独が長いと気が滅入る。その点彼女たちの来訪は、店としては何ら利益が無いと言っても、僕にとって価値が無いとは思わない。或いは多少の感謝をすべきなのかもしれない。だからこそ二人を疫病神として追い出したりは決してしないのだ。
 そうそう、客と言えば十六夜咲夜と言う吸血鬼の従者がいるが、彼女はなかなかの上客だ。やはり僕の様な古物商は資産家の得意客がどれだけいるのかで生活が決まる。数少ない得意客の中でも彼女はその筆頭だ。しかしその彼女も、冬になってからは僕のところへは来なくなった。それも仕方がないだろう。何せ寒い中、これだけの距離を歩いて……飛んでくるのかもしれないが、それでも来るのは、容易ではないのだから。
 だからなおさら、魔理沙と霊夢の二人の来訪を価値あるものだとも思う。
 この程度の、傍若無人を許すくらいには。
 
「へぇ、このお茶、美味しいわね」
「この煎餅も、中々良い香りだぜ」

 僕が考え事をしている間に、二人は勝手に家の中に上がりこみ、そして勝手にお茶とお茶請けを用意して寛ぎはじめた。霊夢はいつもどおり、目敏くも一番良いお茶を見つけたのだろう。煎餅は、他に良いものがなかったからお茶請けに選ばれただけで、きんつばでもあれば、間違いなくそちらを探し当てて食べていることだろう。全く、いつもどおりのこの光景に、僕はもう小言を言う気にもならない。せめてもの慰めは本人たちが充分満足していることだろうか。これで不満を言うようなら、しばしばそれもあることだが、僕だって多少の憤りを感じずにはおられないのだ。

「そうそう、そういえばさ、あれ、綺麗だよな」

 そう言って魔理沙が指差した先には、鳥籠が一つぶら下げられていた。その鳥籠は、長年店先には出さず、一種のインテリアとして僕の部屋に飾られていたもので、もう既に亡くなってしまったが、里の名工が作った鳥籠だ。台は漆で塗られ、細く削った竹で囲われている。漆は年月を経て充分な陽の光を受け朱に色づき美しい。竹も一度よく煮られたものなのだろう。非常に丈夫で、まるで劣化していない。それが店先にかけられたのは、一つは気まぐれであり、一つは僕に鳥を飼う気持ちなどないからであり、一つはこの良い籠が、誰にも用いられることなく、僕の部屋でさびしく時を刻んでいく様は哀れに思われたからだ。
 しかしこの籠の良さに気がつくとは、流石に魔理沙も商家の娘だ。ものを見る目はあるらしい。

「綺麗だろう。あれは確かに良いものだからね。どうだい? 買うならそれなりに勉強させて貰うよ」
「貸して貰えるなら考えてもいいぜ」
「悪いがうちでは物貸しはやってないんでね」
「そうか。それじゃなしだな」

 魔理沙の目は確かだが、インテリアに対してあまり興味が無いのは幸いだ。そうそう何でも商品を彼女に持っていかれたのでは困る。

「折角なんだから、飾っているだけなのもなんだし、鳥でも飼ってみたらどうかしら」
「そう思うなら、君が飼ってみたらいいさ。今なら安くしておくよ」
「う~ん……興味が無いわけじゃないけど、大変そうだし、止めておくわ」

 残念。はじめから期待はしていなかったが、やっぱりこの二人は商売相手にはならないようだ。
 しかし、「興味が無いわけじゃないけど、大変そうだ。」か。
 なるほど、それは愛玩動物を飼う際に直面する現実だろう。その現実は、僕にも当てはまる。よほどの数奇がない限り、僕が鳥を飼ってみようなどと思うことはなさそうだ。そしてそれは、僕以外の客にとってもそうなのだから、こうしてこの鳥籠を飾っておいても売り場を占有するばかりで、実利には結びつかず、結局は僕の心意気も果たされることが無いのかも知れない。一瞬そんなことを思ったが、畢竟それはどの売り物にも当て嵌まることなのだから、余り深くは考えずに、気の向くままに、もうしばらくはこの鳥籠を店先に出しておくことにしよう。
 そうして一人頷いていると、魔理沙がスカートの上に巻き散った煎餅の粉を手で払いながら僕に尋ねて来た。

「なぁ、香霖。今日の晩飯、何食うんだ?」
「ん……そうだなぁ。何だって良い。それこそ、お酒に漬物と、ご飯を少しくらい食べたら充分さ」
「ええ? 何だそれ。随分と質素だな。それじゃ困る。私が困る」
「いや、魔理沙が困るって……まさか食べていくつもりなのか? そんな急に言われても困るよ。だが、まぁ、君の夕飯はその煎餅でいいんじゃないか?」
「そんな。育ち盛りの子供に煎餅だけで我慢しろって、案外霖之助さんも酷いのね。私、これっぽっちじゃお腹が膨れないわ」
「君も食べていくつもりなのか……」

 僕の家で夕飯を食べていくことに決めてしまっているこの二人の厚かましさに、僕は呆れて反対するつもりもなくなってしまった。だが、それにしたって急な話じゃないだろうか。別に僕だって、事前に言ってくれれば考慮したのだ。いくらなんでも、顔見知りの子供二人に食事を用意することを惜しむほどにケチな性分ではない。だが、今日は無理だ。というのは、お米はあるにしてもおかずの準備をしていないのだから。こればかりは僕だってどうしようもない。急にやってきて急に晩御飯をねだる二人が悪いのだから、それくらいのことはやってもらうことにする。
 その旨二人に言いつけると、それじゃ仕方が無いと言って、外に食材を探しに行った。この辺りで、この時期に何が取れると言うのだろうか。果たして家にまで帰って食材を取って来るつもりなのだろうか。何とも大儀なことだ。そして無駄なことだ。それならば、彼女たちの家に帰って食事をしたほうが楽に決まっているのに。一体何のためにそんな面倒をしようと言うのか。そんなことを考えてみたが、結局他人の心などは僕には分からないのだから、無駄なことを考えるのは止めて、また本を読み始めることにした。
 霊夢と魔理沙は中々帰って来ない。途中言い争いでもしているのかもしれない。彼女たちにはよくあることだ。そのおかげで小説を読むのが捗って助かる。この小説は大変平坦な文章で綴られており、また凡庸な物語の展開の仕方をしている。総じて凡作と評するべきだろう。が、資料として本を読んでいる僕にとっては最高の作品である。おかげで本のあちらこちらに、折り目や横線がいっぱいつけられている。こうまでされて、この本もたいそう喜んでいることだろう。そんなことを考えながら、僕はお茶の御代わりを汲むために席を立った。

     二

 昨日、鳥を飼う話をしたからだろうか。或いは鳥籠について話をしたからかもしれない。昔、里にいたころ、鳥を飼っていた或る令嬢の夢を見た。
 その人は若い女性らしく、常に黒髪を銀杏に結っていた。まだどこか少女の面影がありながらも、大人びて上品な様子はしばしば大人の女性以上に艶があったことも覚えている。薄く明かりの差した縁側の椅子に腰掛け、吊るされた鳥籠からは、千代千代と鳴く文鳥の声が響く。そうして美麗な少女が詩集を読む様を、商用のみぎりに何度か見かけたものだ。その家は大変広く見呆けてしまうような、立派な庭を所持していたものだから、令嬢がその庭を背景にして読書するさまなどは、見目麗しく、一枚の完璧な絵と思われた。その絵に題をつけるならば、鳥と少女とでも名付けるべきだろうか。その鳥籠は、僕の家にあるものよりも更に価値のある品であった。それは僕が当主から言いつけられて注文したものであった。またそういった縁があって、今僕の家にあるこの鳥籠を、職人から大変良い値で買うことが出来たのだった。
 そういえば、彼女は今何をしているのだろうか? 流行り病などにかかっていなければ、だいたい、三十も半ばを過ぎているだろう。人生五十年。人間の短い命を思えば、もうそろそろ、その灯火もほのかで心細くなっていてもおかしくはあるまい。だがまだ働き盛りといえばまさに働き盛りでもあるだろう。人間は儚いもので、唐突に死ぬのだから分からない。それを無慈悲な死として悲しむべきだろうか。或いは、一瞬の閃光として羨むべきなのだろうか。僕は判然としなかった。
 そうやって昔を思い出し、感傷的になっている自分に気がついたとき、全く、昨日僕が思ったことは冗談ではなく、本当かもしれないと思った。やはり覚えず年を取ったのかもしれない。考えてみれば人生五十年などは、当の昔に過ぎ去っているのだから。少なくとも人間から見れば、僕は長く生き過ぎている部類である。
 今日は昨日より、やや冷える。布団の中に入ってぬくもうと思っても、まるで温みを感じない。目が冴える一方だ。雨もみぞれとなって、僕の家の屋根を叩いている。それがいっそう眠りを妨げる。こんな日には客どころか、霊夢や魔理沙も来ることはあるまい。
 さて、今日一日どうしたものであろうか?
 こういった日は、幻想郷の歴史を綴るのが一番かもしれない。固定された過去を思ううちに、気持ちも平らかになるものだから。
 そう考えて僕は、仕方無しに起き上がり、顔を洗うために洗面所に向かうことにした。今日もまた、平凡な僕の一日がはじまろうとしている。

     三

 あのみぞれが、最後の寒波だったらしい。それから一週間、月も変わり、雪が降ることも無く、日に日に春らしくなっていった。その暖気に誘われたわけでも無いのだが、今日僕はある用事のために人里へ行ってきた。
 用事と言っても、大したことではない。冬の間書き溜めておいた僕の日記は過去について遡る記述が多かっものだから、もう公然と歴史書と呼ぶべきかもしれないが、その中に詳しいことを知りたいと思う事例があったため、稗田家を訪れ、少し公文書を読ませて貰おうと思ったのだ。その用事も午前中には終わってしまったので、僕はついでに霧雨の親父さんを訪ねた。親父さんは相変わらず元気にしていた。それが僕を大変安堵させた。やはり、親しい人が何時までも健勝であるのは愉快だ。
 そうして、何気ない雑談をしていた際、ついでの形で、一つ商談の案内があった。それは、かつて僕が商いを任されていた資産家の夫人との商談である。それはつまり、あの一枚の完璧な絵に映し出された少女との再開になるのだった。どうやら、彼女は外の世界のものをお求めらしい。なるほど、それであれば、僕より他には請け負えない商談だろう。その報酬の程は、充分期待できる家柄である。
 しかし、僕はその話を二つ返事で良しとは出来なかった。確かに商談としては良い話なのだが、何か僕は、あの少女との再会を果たすことが、僕の中にある綺麗な思い出を壊してしまうように思えて気が向かなかったのだ。最も、それもすぐに馬鹿な話だと思いなおして、商談を受けることにした。確かに過去の思い出は大切で美しいかもしれない。が、そこに登場する人物や光景はどうしたって時の流れに従って、変化せざるを得ないのだ。そうしてそれに伴って、過去の思い出も変化するのが当然なのだろう。その変化を悲しんで、思い出が別の色で塗り替えられることを危惧するのは、或いは人情かもしれない。だが、それに捉われて過去の思い出を現実の枷にしてしまうのは、如何にも感傷的で滑稽に過ぎるじゃないかと、僕はそう結論付けたのであった。
 そうして、霧雨家を出て、その資産家の夫人を訪ねた。
 が、折り悪く、彼女は風邪を引いてしまったとのことで、直接夫人から商談を受けることは出来なかった。ただ、商談の内容自体は女中が言付けに教えてくれた。なにやら、外の世界の、良い詩集が欲しいとのことであった。むべなるかな。昔日の令嬢は、今日もその心を忘れてはいなかったらしい。確かに彼女は、大変な読書家で、詩を愛読していたのだ。あの一枚の絵に描かれた彼女も、確かに詩集を読んでいた。僕はその商用を承って、帰路につくことにした。

     四

 人里を訪れた翌日。
 雲は多く薄暗い天気だが、かといって雨を降らせるわけでもない。この季節の常として、雲の日はどこか暖かく感じる。花曇と表して良いかも知れない。
 そうした穏やかな日の朝、僕は食事を終えて、一人お茶を啜りながら、商用のことを思い出していた。
 なるほど、詩集を得る事は必ずしも難しくない。事実、僕は幾つかの詩集を、もちろん外の世界のものを所持している。が、良い詩集となると話は別だ。何故なら、当然良い詩集は今日でもその価値を失っておらず、その結果として、この幻想郷へは容易に迷い込まないのだ。
 そうなってしまうと、外の世界へ出て詩集を買わねばならないことになる。外の世界で、それこそ二十年、三十年、或いは五十年以上年を経ても愛読者を失わず再版されるような作品であれば、間違いなくそれは傑作中の傑作だろう。そういった作品であれば、例えば詩に造詣のない僕が読んだとしても感銘を受けるに違いない。
 だから、良い詩集を得ることは簡単である。
 もし、僕が外の世界に出られるのであれば。
 しかし現実には、僕は外の世界に出ることが出来ず、だが僕には外の世界へと自由に交通できる妖怪に心当たりがある。
 八雲紫。あの出会って早々、僕を後悔させた妖怪だ。
 彼女に頼みごとをするためには、霊夢に彼女を呼んで来てもらわねばならない。呼んで来てもらうと言ったが、呼んでいる事に気がついてもらうと言うのが正確な表現らしい。気がついてさえもらえれば、彼女は唐突に現れるのだと言う。
 窓から外を見上げると、雲は段々と厚くなっていくように思えた。或いは、雨が降るのかも知れない。そう考えると、今日は魔理沙も霊夢も僕の家へは来ないだろう。明日は来るかもしれない。が、明日も雨が降るかもしれない。明後日も雨などということは無いだろう。が、明後日は二人が来ないかもしれない。或いは魔理沙だけ来て霊夢は来ないかもしれない。魔理沙でも用件は済むかもしれないが、済まないかもしれない。そうして考えていけば、結局は埒が明かない。僕は、ものぐさな僕としては珍しいことだが、仕方が無いと諦めて、傘を持って霊夢の家へ行くことにした。
 
     五

 僕が霊夢の家を訪ねると、霊夢は大変驚いて僕を歓迎してくれた。茶も淹れてくれれば、お菓子も出してくれた。僕は僕の家では見ることが出来ない彼女の恭しさに多少驚いたものの、別に他意が有るわけでも無し、殊勝なことと彼女を見直した。その感想は、彼女が二つ返事で僕の用件を承ってくれたことによって、いっそう強められたのだった。そうして昼食もご馳走になった。僕は案外、彼女に慕われているのだとそのときに気がついた。彼女が僕に無遠慮なのも、親近感の裏返しなのかも知れない。それに僕はやや照れくさい気がした。
 彼女の家の中に入って、意外とその家が広いことに気がついた。よくよく考えてみると、長い付き合いであるが、僕がこの家を訪れたことは殆ど無い。こんな広い家で、若い娘が一人では定めし寂しかろうと思った。そうなのではないかと聞いて見ようかとも思ったが、止めておいた。例えそうであろうとも、彼女はそれをおくびにも出さず否定するに違いない。
 近くの雑木林から、鳥の鳴く声が聞こえてくる。そうして、縁側から外を見ると、鳥が低く飛んでいる。雨の前は虫が低く飛ぶものだから、鳥もそれを追って低く飛ぶらしい。それを見ていると、昔見た一光景を、あの鳥と少女の絵を思い出した。そういえばあの少女は、色白で端正な顔立ちをした、器量持ちだった。霊夢も、まだあどけなく幼いながらも、将来を約束されたような整った顔立ちの少女だ。が、目が鋭く麗しい点では、例の彼女とは異なるように思える。絵の少女はどこか幼さを感じさせる大きな目が愛嬌となっていて、そこから穏和さを感じられたものだ。霊夢を見ても今まで、あの光景を思い出さなかったのはその辺りの違いがあるからなのだろう。余計なお世話と本人には言われるだろうが、霊夢の目は機才を感じさせすぎるから、かえって男には敬遠されるかもしれない。こうして彼女を訪れて、恭しくもまた気丈なところを見せられると、なんだか彼女の将来が心配になってくるから不思議だ。
 その点魔理沙は何も心配がいらない気がする。ああいった愛嬌のある顔立ちの女は、大体男が放っておかない。そうして女も放っておかない。また年長者も放っておかない。そうして子供には慕われる。何だか霊夢が可哀想に思えてきた。こうなると、僕くらいは彼女に良くしてやらないといけない気がしてくるから不思議だ。
 そんなことを思いながら、神社の境内を低く横切る鳥を見ていると、

「そういえば、鳥を飼う気にはなった?」

 と、霊夢が以前した話を持ち出してきた。

「この家で飼ったらいいじゃないか。あんな寂しい森の中よりも、空に近くて、開けて清々しい此処のほうが、飼われる鳥も幸せだよ」

 そう僕が答えると、霊夢は「そうね。」と答えて、こう続けた。

「でも、世話が大変でしょう?」
「それなら、僕が飼ったら、僕が大変じゃないか」
「でも霖之助さん、暇なときが多いじゃない」
「それは、まぁ、否定しないけどね。でもそれを言ったら、君も暇じゃないか」
「そんなこと無いわよ。異変があったら大変だわ」
「でも異変なんて滅多に無いじゃないか」
「そんなこともないわ。まるで異変に関係ない人から見れば、そうかも知れないけど」
「ふむ。まぁ、そうなのかも知れないね。ただ、どちらにしたって、僕は大分ものぐさだから、僕に飼われる鳥は可哀想だよ」
「それじゃ、私が手伝いに行ってあげるわ。多分、魔理沙も行くと思うし、もしかしたら、他の連中も来るかも知れないわ」
「そうかな? たかが鳥くらいでそんなに人が来るものじゃないよ。精々一度二度見れば、もう充分さ」
「そう? 私はそう思わないけど。意外と、客寄せに良いかも知れないじゃない。レミリアなんかが来たら、とりあえず何か買っていくと思うし」
「そうだなぁ……」

 僕はそうして、少し考えて、「まぁ、気が向いたら飼うよ。」とだけ答えてごまかすことにした。霊夢も、「じゃ、考えておいてね。」とだけしか言わなかった。そうして、僕は帰宅することにした。道中鳥は忙しなく、僕の近くを何度も通り過ぎて行った。結局雨は降るには降ったが、小雨が降る程度だった。
 
     六

 霊夢に八雲紫を呼ぶように頼んだ次の日。お昼過ぎ、魔理沙と霊夢が家に来たので三人でお茶を飲んでいると、「ごめんください。」という少女の高い声が、どこからか聞こえて来るのを感じた。春を迎えんとする暖気が急に失われ、あたかも冬の静謐な空に響き渡るような珠の音は、余りにも人間離れして麗しく、ぞっとさせるものがある。あぁ、これは八雲紫の声だ。間違いない。一度聴けば忘れ得ない。そうしてその声がどこか知らぬところから聞こえてきたはずだったというのに、何故か彼女は入り口から、礼儀正しく上品に、こちらへと歩み寄ってくるのだから、本当に八雲紫と言う妖怪は不気味な存在だ。
 そうして僕の前にまで来て、「こんにちは。」と微笑みかけてきた。
 そうして、「今日はまた、降りみ降らずみの花曇で、大変よい天気ですね。」と世間話をはじめた。「えぇ、確かに。」と僕は答えて、「でも、まだ晴れが心地よい季節です。」と続けた。「あら、そう。えぇ、確かにそう言われるとそうですね。」と彼女は答えた。それを聞いて魔理沙は、「やっぱり南の島にバカンスに行ってたんだな。」と口を挟んだ。八雲紫は「何のことかしら?」と首をかしげた。霊夢は八雲紫の問い掛けに、彼女と魔理沙が以前、彼女が冬に姿を現さないのは、南の島へバカンスに行っているだけではないのかと言う話をしていたのだと説明した。それを聞いて八雲紫は、幼い人は面白いことを考えると笑った。
 そうしてしばらくは何でもない話を三人でしていたが、話が途切れたのを契機にして、八雲紫は僕に話しかけて来た。

「何か、私に用件があるそうですけど」

 ようやく商談に入れるようだ。

「ええ。実は、先日里の富豪から、外の世界の優れた詩集を買いたいとのご要望を承ってね。僕のところにも詩集は幾つかあるが、とんと駄作。君ほど長く生きた妖怪なら、詩を遊ばせたことくらいはあるだろうし、何よりも外の世界と行き来することが出来るのは君より他にはいない。もちろん、謝礼はする。どうか、良い詩集を選び持ってきてくれないだろうか」
「えぇ、そんなことでしたら、お安い御用ですわ」
「それは助かります」

 そうして僕は、「流石貴方ですね。」と続けた。
 すると彼女は微笑を携えて、「流石私ですから。」と答えた。
「そうですね、お礼の品は……」そう言って彼女は商品を目踏みする。
 しばらく店の中を巡り回り、「ふむ、ちょっと困りましたね。良いものがありませんわ。」と彼女は言って、腕を組み、手を口元に当てて思案する様を見せる。
 僕はちょっと困ったぞと思った。
 その色の変化を見逃さなかったのだろう。彼女はくすりと笑って、「ご安心を。謝礼は後日、良い物が見つかるまでお待ちいたしますから。」と僕に優しい気遣いを見せてくれた。だが僕は、内心僕を見透かしつくすかのような彼女の言動に、背筋に冷たいものが伝うのを感じた。「ありがとう。」と僕は平静を保ち答えた。彼女は微笑を絶やすことなく、「どういたしまして。」と答えた。
 そうして、彼女はゆっくりと、僕の店から出て行って、すぅっと、音もなく消えてしまった。魔理沙は、「相変わらず胡散臭い奴だったな。」と言った。霊夢は、「全くね。」と答え、「でもそれも慣れたわ。」と続けた。そういうものなのだろうかと、僕は少し疑問に感じた。

     七

 八雲紫に詩集を頼んだ翌日、魔理沙が一人で僕の家に来た。
 昨日までは花曇の天気で、空模様は怪しいながらも確かに感じられた暖気が急激に失われ、今日は一転肌寒くなった。雲が少なすぎたのだろう。朝は大変冷え込んだ。にもかかわらず僕の家にわざわざ魔理沙が来たことを、僕は滑稽と思うべきか光栄と思うべきかちょっと判然としなかった。こんな寒い日に空を飛ぶのは、さぞ辛かろうに。それが充分日の出た日中ならまだしも、朝から我が家に来たのである。確かにあのもこもことした洋服は温いに違いないが、それでもスカートは寒そうだ。そういえば霊夢は来ていないなぁっとも思い、そこにどうして魔理沙が朝早く寒い中一人で我が家を訪れたのかという疑問への答えを見出すことも出来た。が、元来深く物を考えて行動しない彼女のことであるから、それ以上のことは僕のほうでも考えないことにした。
 折角人里に行って親父さんに会って来たことだから、僕はそれとなく魔理沙に親父さんの話題を振ってみた。相変わらず壮健だったこと、しかし髪は薄くなり白髪が大分増えていたこと、皺も随分と深くなっていたこと、お母さんには会わなかったが、親父さんの話では相変わらず元気だということ、商売は順調らしいこと等。しかし親父さんに魔理沙の話題を振ると、「あいつの話をすると飯がまずくならぁ。」と言った事だけは伏せておいた。そうして魔理沙に親父さんの話をすると、魔理沙は露骨に他の話題に変えようとした。それでも僕がしつこく親父さんの話題を振ったものだから、魔理沙は両手を耳に当てて、「あ~、親父の話は無しだ。」とかぶりをふった。どうやら親父さんのべらんめぇ口調は、娘に拒絶のジェスチャーとなって遺伝したらしい。僕はどうにも、この親子は似た者同士だなと思わざるを得なかった。
 そうして魔理沙と話をしているうちに、妙に生暖かい風が吹いてくるのを感じた。嫌に甘い匂いがする。芳しいには違いないが、僕は強く甘い匂いは苦手だ。金木犀なども、僕は好きになれない。梅の香りが一番だ。椿の一種に詫助と言うのがあるが、あのくらいの慎ましやかな香りも良いと思う。だから僕は少し、この強い香りに眉をひそめて、その匂いの漂ってくる方向、店の入り口を眉をひそめながら見た。すると、傘を差した少女が、僕の店へと歩み寄ってくるのが見えた。僕は、あぁ、八雲紫かと不思議に合点した。頼んでいた詩集を持ってきてくれたのだろう。それにしても仕事が早い。以前の時ほどではないが、それでも一日とかかっていない。これは商売人としては嬉しい限りなのだが、此処まで良くしてもらえると、一個人としては不気味さを感じてしまうのは、やはり彼女が妖怪たる所以なのだろうか。
 八雲紫は日傘を差したまま、悠然と僕の前まで歩み寄ってきた。そうして、何処に隠し持っていたのか、一冊の本を取り出して机の上に置いた。

「お待たせしました。ご依頼の品をお届けに参りましたわ」
「これはありがとう。仕事が早くて助かるよ」
「あら、本当に? それはよかったわ」
「え? いや、『本当に?』って、つい先日お願いしたばかりの用件じゃないですか」
「えぇ。そうなんですけどね。私、本当は昨日のうちにお届けしたかったくらいなんですよ。ただ、良いものは随分多くありますから、少し選んでいて時間がかかってしまって。申し訳ないと思っていたくらいですの。その分、間違いの無いものをお持ちいたしましたから、ご安心なさって」
「それは……恐縮です」
 
 僕の反応を楽しむように、八雲紫はわざと謙譲しているように見えた。しかしそれはつとめて優雅であった。慇懃無礼ともやや違う、だがそれに非常に近い厭味なものを僕は感じた。また、余りにも人とかけ離れた優美さに、どこか心が狂わされるのを感じた。もしこれが半妖の僕ではなく、純粋な、それも若い男であれば、きっと彼女を狂愛してしまうのではないだろうか。その考えは、彼女がスカートを翻すたびに散発させる甘い匂いが店の中に漂い、僕のところへも香ってくるために強められた。僕はやはりこういった強い香水は苦手だし、そんな雰囲気がする彼女も苦手だ。しかし傍らでやり取りを見ていた魔理沙は「へぇ。この甘いの、香水か? 良い匂いだな。」と言った。年若い少女にとっては、このくらいの香りが丁度良いのかもしれない。僕は少し、香水の匂いに不快感を覚えながらも、つとめて言動に表れないよう抑え、八雲紫から受け取った詩集を確認した。
 巻末に書かれている出版社の名前や出版年から、明らかに外の世界のものであることが確認できた。初版印刷の年代を確認すると、僕の記憶が正しければ、それはもう半世紀以上経っているものだが、再版された年は極最近だった。名作の証明は、これで充分なされた。一応内容を確認するため、二つ三つの詩を読んで見た。そこには純粋で素朴な美しい言葉が不思議な余韻を漂わせて連なっていた。だが、なるほど。素晴らしいには違いないがよく分からない。詩や絵の世界とは、しばしばそういったものである。が、言葉の合間合間から滲み出るような言外の強い印象が心に残ることは間違いなかった。けだし、名作と評すべきなのだろう。
 そうして二度三度頷いて感嘆していると、

「どうかしら。ご希望に添えて?」

 と、八雲紫が僕に語りかけてきた。彼女の目尻と口元には穏やかな笑みが萌していた。僕はその優しい笑顔に、不覚にもちょっとどぎまぎしながら、「ああ、有難う。お蔭様で、明日にでも届けられそうだ。」とぶっきらぼうに答えた。すると、彼女は、「そう。ご期待に応えられて光栄ですわ。」と答えて、窓のほうへと歩いて行くのだった。
 彼女は窓から空を眺めて、僕に語りかけてきた。

「ねぇ、貴方。明日、寒くならないと良いわね」
「ええ。そうですね。折角ならば、暖かいほうが良いです。届けるのに大儀ですから」
「段々と雲が出て来ているわ」
「本当ですか? ふむ……なら、暖かくはなりそうですね。ただ、雨が降るのは困るなぁ」
「雨は降らないと思いますわ」
「そうですか?」
「でも、大変寒くなると思いますから、厚着をなさったほうが良いでしょうね」
「はぁ、そうですか」

 僕は彼女の予言染みた言葉にちょっと困惑した。

「紫はなんだってそう思うんだ?」

 そう魔理沙が質問すると、彼女は魔理沙のほうを向いて、穏やかに答えた。

「長く生きていれば、明日の天気くらいは分かるようになるものなのです」
「それじゃ、長く生きている妖怪はみんな天気予報が出来るんだな」
「えぇ、そうよ」
「なら、これから外へ出るときはそこらへんの妖怪に天気を聞くことにしよう。いや、それよりも、これから天気が崩れそうな日は、お前が私のところに教えに来てくれ。そうすれば私が色々と助かる」
「まぁ。貴方、私を貴方の式だと勘違いしているのね。適わないわ」

 そうやって魔理沙と二人で軽妙なやり取りをしている彼女の姿は、思ったほど人間とは変わらないように思えた。思えば鼻についた香水の匂いも、慣れてしまった。そうして僕は、少し寒い気がしたので、お茶を三人分淹れて来ることにした。

     八

 今朝、人里へと行くかどうか僕が迷わなかった訳ではない。空を見ると雲が厚く立ち込めていて、三月に入って小春日和が続いたというのに今日は格段に冷え込んでいた。雪が降るのではないかと、僕は正直思った。八雲紫が雨は降らないと言った理由は、こういうことだったに違いないと察した。
 里へ着くまでに雪が降ってこなかったことは幸いだった。ただ冷え冷えとした風が僕に吹き付けてくるだけだった。特別懇意であると言う訳でもない客から依頼された詩集など、一日二日遅れたからどうだというのだろうか。先方とて、そうすぐにこちらが依頼の品を用意できるとは思っていないはずだ。そう思わないこともなかった。全く、元来商売熱心ではないのが僕だろうに。考えれば考えるほど、馬鹿らしくなった。どういった理由があってのことだろうか。 果たして懐古主義か感傷主義か、そういったものが僕の胸の中にそれほどまでに強く存在していたのだろうか。或いはそれは、段々と年を経るたびに強まって来たものだろうか。僕は判然としなかったが、まぁ、それで良いとして放っておくことにした。既に僕は、依頼を受けた資産家の邸宅に到着していたのだから。これ以上原因を追究したところで、もう意味がないことである。
 注文の品を届けに来たと女中に告げると、女中は恭しく礼をして、僕を客間へと案内した。僕の記憶に従えば、この客間は狭いほうの客間だ。もう一つは、もっと広い居間になる。しかしこの狭い客間へと案内されたことは、別に僕を軽く扱う考えからではないだろう。広い部屋は広すぎて客が寒々しく感じる。だから、むしろ客に気を使ったのだと考えるべきだ。そうして部屋に入ると、火鉢に火がくべられていた。火の調子が弱く、くべられている炭も一つしかなかった。が、すぐに案内してくれた女中が、「寒う御座いましたでしょう。すぐに炭を足しますから。」と言って、部屋を出て間も無く、十能に赤々とした炭を入れて持ってきてくれた。火箸を用いて火鉢の中に炭を入れる様も、中々上品で見ていて気持ちが良かった。「すぐに、奥様が参られますから、もう少しご勘弁ください。」と言って、女中はまた恭しく礼をして客間を離れた。寒くなったものだから、あらかじめ火を入れた炭を用意しておいたのだろう。こういった用意周到さには、流石名家の風格を感じさせる。
 そういえば、夫人は風邪を引かれていたと聞く。もう体調は良くなったのだろうか? 今日の様な寒い日に無理をして来たことは、やや思慮に欠けたかもしれない。さりとて、急いぐことが誠に欠くとも思えない。結局これも、どちらでも良いとして放っておいた。
 そうして火鉢に手を当て、僕はぬくむことにした。真っ赤な二つの炭が、表面を白で覆った一つの炭に斜めに重ねられていた。僕はその整って重ねられている三つの炭をじっとして見ていた。ぱち、ぱちと炭のひび割れる心地よい音が聞こえてくる気がした。僕はまだ寒かったので、胸の辺りまで温もりを感じられるように身体を前に傾けた。新しい二つの炭は、その赤々とした熱を僕の心臓に容赦なく燦々と照らしぶつけてくれた。多少熱過ぎるくらいに感じたが、僕にはそれが丁度良かった。
 そうして随分とぬくもりを得た頃、「お待たせしてごめんなさいね。」と、ふすま越しに女性の、やや高く澄んだ声が届いて来た。そうして、つとめて上品でそつなくふすまを開け、礼をし、部屋へと入ってくる彼女を僕は見た。その顔は確かな年輪を積んでいて、僕より、人間の計算でいけば二回りほど年長者に見えた。彼女の実際の年齢からすれば、それは一回り老けて見えることを意味していた。肌は色白で、丸く穏やかな瞳が特徴的に思える。が、それは痩せこけた頬と、目の下の青白さとをいっそう強調するかのように見えて痛々しかった。だが不思議に髪は黒々としていて、其処から往年の美少女の姿が思い起こされた。が、流石にもう銀杏に結ったりはしないようだ。しかし割り鹿の子に結ってある様は、流石資産家だと思った。客の前に出るからこうした結い方をしたのだろう。或いは彼女がこの部屋に来るのが多少遅くなったのも、こういった理由からかもしれない。
 僕は正面に向き合い、意を正して一礼し、手元にある詩集を差し出した。
 
「お求めの品をお持ちいたしました。どうかご確認ください」
「お早いことですね。有難う御座います」

 彼女は受け取った詩集をゆっくりと数ページ、うん、うんと頷きながら読んでいった。
 そうして、面を上げ、僕を見てこう言った。

「えぇ、大変よう御座います。素晴らしい詩集を選んで貰いました」

 僕は彼女の言葉を聞いて深く安堵した。

「それはよかった。ご希望に応えることが出来て何よりです」
「本当に、良いものをお早くお持ちいただいて。恐縮ですわ」

 そう言われて、僕は少し面映い気がした。

「ところで、どの辺りがよかったですか?」

 実のところ、僕は詩の良さを良く理解していないから、どういった詩であるのかだけでも聞いておこうと思ったのだ。
 僕のその質問を聞いて、彼女は、目をやや細め、とても穏やかに優しい表情をして、笑顔で僕にこう答えた。

「だって、子供の気持ちを、大変よく分かっていらっしゃる方の詩でしたもの」

 そう答える彼女を見て僕は、ハッとなった。
 あぁ、そうだ。あの一枚の、完璧な絵に映っていた少女は、確かにこんな優しくて穏やかで、素敵な笑顔をしていたのだった。詩を読みながら、来るべき母としての喜びに夢想するかのような、そんな笑顔をあの少女は浮かべていたのだ。それは幻ではなかったのである。また、あの絵も昔の過ぎ去りし思い出ではなかったのである。少女の夢想は夢想として終わらず、確かに現実となっていたのだ。そしてその夢想の一枚絵は、今も描かれている完璧な連作の一部となっているのだ。そうしてあの少女は、その務めを終えて、今、緩やかに飛び出そうとしているのだ。邸宅と言う名の籠から、広い庭を越えて、千里先まで見渡せるかのような蒼天の無窮へと。それは微塵の悲しみもない、果てしなく尊く美しい生命の躍動なのだ。それが人間と言う存在なのだろう。それが人間という存在の強さなのだろう。命が短く死を迎えざるを得ないということは、かえって永遠となることが許されていることを意味していて、事実この一人の女性は、少なくとも僕の生命が終わらぬ間に、この世界から消滅してしまうことがないのである。
 その後僕は、彼女としばらく世間話や昔の話をして過ごした。
 彼女が僕のことをずっと覚えていたこと、彼女は僕を珍しく思って、商用のみぎり訪れたときは必ず覗いて見ていたこと、お父さんはもう亡くなられたこと、夫は壮健であること、しかし彼女は結婚してからずっと体調が優れないこと、子供は一人きりだということ、それが幸い男児だから跡取りには困っていないこと、かつての鳥は空に飛び立ってしまったこと、それが一度ではないのだから意外と彼女はうっかりであること、そうして今日まで、ずっと鳥は飼い続けているのだということ。
 僕は彼女に連れられて、あの一枚絵が描かれた縁側へと行くことにした。
 そこには文鳥が一羽、籠の中に入れられていた。
 真白い文鳥は、僕たちを見るや否や、千代千代と鳴いた。
 そうして戸が閉められているのを確認すると、彼女は籠を開けて、文鳥を手に乗せて、僕の目の前に出して見せた。そうして、彼女に言われるとおり、僕は指を彼女の指に並べて出した。すると文鳥は、並木の橋を跳び伝うように、僕の指の先へと乗った。それが余りにも軽いので、僕はその白い小鳥が、淡い雪の精のように感じた。じっと見ていると、菫ほどに小さい人が、純白の着物を着て、赤い帯を締め、紅瑪瑙の簪をしている姿が思い浮かんだ。長い裾を翻して舞う様が目に浮かぶようだった。そうしてその淡い雪の精は、僕の顔を見て千代千代と鳴いた。
 僕はあの壮大な庭を横目に見た。
 それはうっすらと雪化粧をして美しかった。
 ぼたん雪がちらりちらりと舞い散っていた。
 その雪に合わさって、一枚の白い羽がゆっくりと、雀の脚を隠すほどに積もった白い地面へと接したとき、淡雪の如く消えてなくなった。同時にその瞬間、僕の心の中にうち広がる玲瓏があって、永劫、常に初音の如く木魂するものとなったのであった。

     九

「霖之助さん、暖かくなったからって、お寝坊さんになっちゃだめよ」

 桜花咲く春の朝。僕はすっかり朝起きるのが遅くなった。冬の夜は寒く布団の中で本を読む気力も削がれてしまい、朝は寒く眠りを妨げるのとは逆に、春の夜は穏やかで書を読むのには好都合だし、春の朝は暖かく何時までも眠っていたくなるからだ。が、それでもまだ九時前だろう。今まではこんなに早く霊夢が僕の家に来ることはなかった。
 何故彼女が早い時間に僕の家へ来るようになったのか。それは僕が文鳥を飼い始めたからだ。
 どうやら、鳥の世話をしに来ると言う彼女の言葉は嘘ではなかったらしい。

「よしよし。貴方もこんな埃っぽいところにいたくないでしょう。ねぇ、霖之助さん。この子、店先に連れていくわね」
「あぁ。そうしてくれ。頼むよ」
「ええ、任せて」

 そう言って霊夢は、彼女の体にはまだまだ大きい、鳥籠を腕一杯に抱えた。そうして小鳥を明海(あかるみ)に出してやりたいと言うのだから殊勝だ。僕もそろそろ起きることにしよう。千鳥を驚かせないように、大切に鳥籠を抱えて、ゆっくりと歩いて行く霊夢を追って、僕も店先に出ることにした。手早く開店準備をするとしよう。
 そうして一階に下りると、

「お、大寝坊だな。春眠暁を覚えないとだめだぜ」

 魔理沙が僕にそう話しかけて来た。彼女も最近、良く僕の家に来る。しかも朝早く。彼女も文鳥が目的なのだろう。

「まぁ、そうなんだろうが、普通は逆だよ」
「そうか? 朝寝坊なんて、寒いときに幾らでも出来たじゃないか。冬眠の季節は終わったぜ」
「僕は君みたいに若くないからね。なかなか冬眠から覚めないんだよ」
「紫みたいな奴だな。あいつも何だか、最近妙に眠い眠いって言ってるぜ」
「紫の言うことは話半分に信じないとダメよ。ああやって、私たちを騙して遊んでいるだけかも知れないわ」
「なるほど。紫ならしそうなことだぜ」

 そうして霊夢も交えて、三人でやりとりをしていると、ぼうっとしていた頭が次第にシャンとしてきた。霊夢は店先にある吊るしに鳥籠をかけている。魔理沙は霊夢の横でそれを見ている。手には叩きを持っている。朝早く来て、多少掃除をしておいてくれるのは大変助かる。文鳥の世話も大体この二人がやってくれるのだから、飼って正解だったかもしれない。
 文鳥を飼い始めてからもう一月は経った。些細ではあるが、日常が騒がしくなった。霊夢や魔理沙が毎日のように僕の店に来るようになった。吸血鬼と従者も何度か来た。他の客も、これは雪が融けたからだろうが、僕の店に来た。が、別に商いが順調になったわけではない。だから結局、文鳥の客寄せ効果というものも、霊夢と魔理沙を寄せる効果が専らと言えるだろう。だが、それも悪い話ではない。鳥の世話をしている二人を見るのは中々面白いものだ。
 千鳥は人に慣れてくると、顔を見るたびに、千代千代と鳴くそうだ。まだ数えるほどしかそう鳴くのを聞いたことがないが、二人はその鳴き声を聞きたいためにずっと文鳥の前に居座る。暇なんだろうなぁっと思う。が、そうして二人で話をしている分には、平穏で僕は大変助かる。また文鳥は、これも人に慣れてくると、手から直接餌を食べるようになるらしい。二人とも手から餌をやりたくて仕方ないらしい。しょっちゅう指先に粟や黍を乗せて食べさせようとする。そうして文鳥は何も考えずにパクパクと食べる。人に慣れないでも食べるものなのか、霊夢や魔理沙が動物に懐かれるタイプなのか僕には分からない。青菜や煮干なんかもパクパク食べる辺り、この文鳥が能天気なのかもしれない。あんまり何でも食べさせようとするのは感心しない。何故なら大変散らかるからだ。青菜や煮干をやっても、大半は食い散らかすだけで、食べることに喜びを感じていると言うよりは、分解して巻き散らかすのに喜びを見出しているように見える。が、結局掃除をするのは二人なのだから、僕は何も言わずに放っておくことにしている。
 一番愉快だったのは、文鳥に水浴びをさせたときだ。先日、僕はそろそろ、この文鳥も一度水浴びをさせてやろうと思って、霊夢と魔理沙に頼んだのだ。二人は喜んで準備に取り掛かった。が、その方法が余りにも斬新だった。代えの鳥籠の中に文鳥を入れたと思うと、じょうろに水を入れて、籠の上から盛大にシャワーを浴びせ掛けてやったのだ。この発想は明らかに魔理沙だろう。頭から水を浴びせ掛けられた文鳥はきょとんとしていた。水が珠になって袖を伝って滴り落ちていた。が、それだけだった。悠然としていると言えば悠然としていたが、呆気にとられてぽかんとしていたと言えばそうなんだろう。ただ二人は大変愉快だったらしく、ケタケタと大笑いをしていた。これだけ大笑いをされて、不平を顔に浮かべないあたり、この文鳥の飼い主はあくまで僕らしかった。それがちょっと、僕には愉快に思えた。
 僕はそうして、賑やかになった日常を回想しながら、店先で鳥を仰ぎ見る少女たちを見ていた。
 店先の玄関口から斜に差す陽の光。赤き漆のしっかりとした作りがされた古い竹籠。その中で千代千代と鳴く純白の小鳥。その鳴き声を聞いて、ぱぁっと笑顔を浮かべて、喜んで手を取り合う二人の少女。その光景は、まさに完璧な一枚の絵だった。その絵は一瞬を越えて、永遠となるほどに美しく尊いものとして、これからも僕の心に光を放ち続けるのだろう。そしてそれは連作となって、これから何枚も描かれていくのだろう。
 この子達もまた、人の常として死を恐れているのに違いない。しかしそれ以上に、きっとこの子達は、生きて楽しむことができないことを恐れているのに違いない。それが、あの婦人の言であった。そこに、母親の強さもあった。子が生まれれば、もはや死ぬことは恐ろしいものと思わぬようになるのだそうだ。そうして、子が成人して一人立ちする姿を見られぬことを残念に思うようになるのだそうだ。
 いやはや、僕には及び得ない。僕は大変、死ぬのが怖い。
 この子達もまた、もう十年ほどすれば、僕を立派に追い越して行くに違いない。それを見守ってやるのが、僕の務めに違いない。幸い僕には、日記を書く趣味がある。この高尚な趣味を、さらに高尚なものにしてやるのもまた一興だろう。
 そんなことを考えながら、僕は穏やかな気持ちになって、少女たちの笑顔を眺めていた。
夏目漱石の「文鳥」から、大いに表現を借りました。
道楽
簡易評価

点数のボタンをクリックしコメントなしで評価します。

コメント



0.870簡易評価
1.80名前が無い程度の能力削除
似合います。脱線しまくりながら思いついたことを垂れ流すような文章が、霖之助のキャラクターにピタリと合うのです。
2.100名前が無い程度の能力削除
フラフラしてるのがリアル。
文鳥もそうだけど。
父性的なところが、好感持てます。
良かったです。
3.90名前が無い程度の能力削除
霖之助から見た少女、そして人間の描写、素敵でした。
4.90奇声を発する程度の能力削除
雰囲気が素敵でとても良かったです
5.100非現実世界に棲む者削除
香霖堂らしい作品だと思いました。
とても綺麗でした。
だが一つだけ言っておこう。
霊夢のあの目付きだって可愛いと思うぞ!
8.100名前が無い程度の能力削除
おもしろかったです。
12.100名前が無い程度の能力削除
文学的でしたな。
15.50名前が無い程度の能力削除
霖之助の普段の生活ってこんな感じっぽい
21.無評価名前が無い程度の能力削除
以前どこかで読んだ気がします。流れも同じ、再投稿でしょうか…?違ったのなら申し訳ないです。
22.100名前が無い程度の能力削除
すばらしい!
25.100名前が無い程度の能力削除
上品で綺麗でぞくぞくしました
28.100dai削除
文学的な雰囲気に浸れました。