地を覆う枯れ葉。
木枯らしに抱かれたそれが白く染まる時、冬は忍び寄る。
ガラスの破片のような、尖った硬質の空気。
狭霧消ゆる湖は、自らを厚く冷たい氷で閉ざし、眠りに就く。
「唇凍える北風に、生命の歌は凍れども…冬恋う胸は…」
優しい歌声が空気を優しく振るわせる。
湖の周りの木は凍りつき、色を消した風景はガラス細工に変わる。
重く垂れ込めた雲は白い天幕をその上に被せ、全てを覆い隠してしまう。
「今年の冬も短いのかな?」
少し悲しげに呟く彼女は、その雪の中を歩いていた。
冬の忘れ物、レティ・ホワイトロック。
その寒さと戯れ、楽しみながらも人の心のぬくもりを愛して、そして憎む者。
今年も郷に冬がやってきて、彼女は喜びながらも涙を散らして道なき道を往く。
やがて、その先に見えるのは雪で潰れかかった人家の跡。
彼女が中に入ると、その中には誰にも知られず、見つかる事も無いものが、壁に背を預けて静かに座っていた。
そのそばには朽ちたリュック、壁とその間には沢山の蜘蛛の巣が張り、その月日を物語る。
服装からは郷の者では無い、『外の世界』の者だと思われる事が解る、自然には無い着色。
その顔に手をあて、レティは呟いた。
「私が来るのが遅すぎたのかしらね。あなたの肌はこんなに冷え切ってしまっている」
その時、彼女のそばで声が響いた。
「そうだね…遅かったかな」
声のほうを見やると、そこには十代後半と思しき青年がばつが悪そうに立っていた。
「もっと早く見つけて欲しかったんだけど、これからどうして良いか解らなくてね。所で君は誰なの?」
レティはスカートの裾をつまんで礼をする。
「レティ…レティ・ホワイトロックよ」
彼女の返答に、青年は
「冬が似合う名前だね。僕は…」
そこで青年の顔に困惑が浮かぶ。
「おかしいな…僕にも名前、あったんだけど…思い出せないや。そこに寄りかかっていた時には覚えてたんだけどなあ」
壁に寄りかかるそれは、青年とは似ても似つかないモノに成り果てていた、が、着ている服は同じだ。
「思い出さない方がいい事も有るわ。あなたもこの郷に迷い込んだ人なのね」
青年は不思議そうに
「一応、山に登っている時に雪崩が来たことは覚えてるんだ。やっとの思いで雪の中から這い出して、この家がすぐ前に有ったから
そこで休もうと入って、眠った所までは記憶にあるんだけど…客観的に変わってしまった自分を見るのは良い気分じゃないね」
彼はそう言って、レティのそばに落ちているリュックを漁って、元はメモ帳と思われる紙の束を取り出し、めくり始める。
「20XX年か…今って何年なの?」
レティは首を振って答える。
「外の世界とこちらの世界では暦の数え方が違うから、私には解らないの」
青年は困ったように外を見た。
「うーん。冬なのは判るんだけどなあ」
困惑する彼の反応を楽しむように、レティは問う。
「あなた、冬は好き?」
突然の質問に戸惑いつつ、青年は答える。
「好きだよ。嫌な事とか、悲しい事とか、全部雪が隠して綺麗に飾ってくれるしね。青白い月も、道路に霜が下りて宝石みたいに
輝いてる夜とか、夜明けの朝霧の中とか綺麗な物が沢山あるし」
彼の答えはレティには善い答えのようだった。
彼女はにこりと笑って、青年に言う。
「あなたの居た世界では、どんな物が冬にあったの?」
青年は記憶を手繰るように顎に手をあてて、ふと、思い出したように言った。
「雪の降る所でしか出来ないお菓子は有ったね。ここってカエデの木は有るかな?甘い砂糖が作れるようなやつ」
「無い事もないけど…何か出来るの?」
「火をおこす必要は有るけどね。でも、仕上げは雪で無いと出来ないんだ」
レティは少し考えて、言った。
「知り合いになら宛てがあると思うけど、一緒に来てくれる?」
青年は疑いも何も無い笑みで答える。
「せっかくだし案内してもらおうかな?ここって何か、昔居たところに似てるし」
道中。
青年は周りを興味深そうに見ている。
「しかし、外国に似てるけど外国じゃないんだよなあ…こんな世界があったんだ」
「幻想郷は来るモノを拒まない世界だから、渾然一体になってる場所はいくつか有るわよ。私の服装だってそうでしょ?」
「言われて見れば、君はどこから見ても外国人なのに日本語が巧いよなあ」
「望めば幽霊でもここには住める。それがこの世界のルール。でも、元の世界には還れないわね」
レティの言葉に青年は苦笑いする。
「確かに。行方不明になってる奴が幽霊としてみんなの前に現われたら大騒ぎだよなあ…雪崩で体がおかしくなって、気がついたら
本体が死んでるから最初パニクっちゃってね。ずっと待ってても誰も来ないんで諦めて寝てたんだけど…君に会えて助かったよ」
「それはうれしい言葉ね。あら、そろそろ目的地に着くわ」
雪を踏みしめる事も無く、二人は湖のそばの森に着いた。
「あ、レティだ!久しぶり!」元気な声が雪と共に降ってくる。
声のする方を見る間もなく、二人の前に青い服に青いリボン、六枚の氷の翼を纏った女の子が降りてきた。
「チルノ、今年も元気そうね」
レティの言葉にチルノはフンス!と胸を張って答える。
「あたしはいつでもさいきょーなのでいつでもゲンキ!」
と、そこでチルノの視線がレティの隣の青年に移る。
「あれ?この人は?何か人間だけど人間じゃないみたいだけど?」
しげしげと青年を見るには飽き足らず、周りを飛んで色々な方向からチルノは観察する。
あっけに取られたような顔の青年に、レティが紹介した。
「この子は氷の妖精のチルノ。外来の人はこの郷にも居るんだけど、幽霊のまま留まっている人は珍しいのよ」
青年は良く解らないという顔になる。
「この世界にも幽霊は居るんだろうけど、普通どこに行けばいいの?あの世?」
レティはその問いに苦笑して答える。
「普通は閻魔の裁きを受けて、冥界に行って転生したり、成仏して別の世界に行く場合もあるのだけど、あなたはよほど未練か何かが
強かったのかもしれないわ。そうで無ければここまではっきりした姿を保てないもの」
「未練…ねえ?」
青年はまた顎に手を当てて思考するが、その目の前にチルノが現われる。
「おにーさんはどうしてここに来たの?」
そこで彼は黙考を止めて、レティに言う。
「そうだ。サトウカエデの木について案内してもらってたんだった」
チルノはそれを聞いてレティに訊く。
「あの甘い汁の出る木?あれで何か作れるの?」
「出来るらしいわ。火を使うらしいから私はあまりお勧めしないけどね」
青年はその響きに不穏なものを覚えて訊ねる。
「君、熱いのダメなの?」
レティはその問いに
「私は冬の妖怪だから。こちらのチルノも氷の妖精だから本来暖かい物は苦手なのよ」
青年は難しい顔をして
「妖怪って言うと人間を脅かしたりとか悪戯したりとか時折殺しちゃったりとかあるけど…色々苦労あるんだなあ」
そんな彼を見ながらレティは内心呆れていた。
彼の言う、その妖怪が目の前に居るのに、何で暢気に立場を考えたり出来るんだろうか?
「あなたも元は人間でしょ?怖くないの?」
レティが焦れた様に問うと、青年はまた顎に手をやって、考えながら答える。
どうも、この手を顎にやる仕草は彼の癖らしい。
「いや、元も何も死んだら人間じゃないからなあ…今の僕って幽霊でしょ?どちらかと言えば人を怖がらせる方に居ると思うんだけど」
死んだ自分を見ても、妖怪や妖精が当たり前のこの世界で本物を目の前にしても何となく他人事、悪く言えば無関心な彼の態度は
外来人でも中々見た事の無いものだった。
形骸化してるとはいい、人を襲い、怖がらせる。
それがこの郷の常識であり、そして退治されるお約束の図式もまた、常識だった。
しかし、目の前の青年はそれに動じない。大抵の外来人も似たようなものだが、それでも妖怪におののく心はある。
死者と生者での考え方の剥離はレティの想像を外れていた。
青年は顎にやっていた手を戻すと、思い出したように
「とりあえず、苦情は僕が作ったものを食べてからという事で、ここはひとつ、用意をしてくれるかな?」
片手で拝むように頼むその姿は、幽霊にしては妙に死者らしくない、人間臭さがにじみ出ていた。
数分後。
手提げの水桶に注がれたサトウカエデの樹液と、拾った鍋、そしてチルノが用意した薬を作る炉と壷が揃う。
青年は手際よくサトウカエデの樹液を壷に注ぎ、炉に火を入れて樹液を沸かす。
やがて、その樹液特有の香りが辺りに漂いだすと、それを嗅ぎ付けた妖精達が集まってきた。
辺りの騒がしさにようやく気付いた青年が周囲を見ると、妖精たちの視線は彼ではなく、空っぽの鍋と煮立っている液体に注がれている。
幽霊化した魂などここでは珍しくも無いのだ。
かなりの時間が経ち、壷の樹液は半分以下になり、透き通った色も茶色い、木肌の色を感じさせるような濃い飴色になっている。
どろりとしたその液体が焦げる寸前の香りを放つと、青年は火を最小まで落とし、鍋に雪を入れて敷き詰め、固め始めた。
雪がある程度の硬さになったと判断すると、彼は鍋をかき回していた匙で湯気の立つ壷の中身を一杯、雪の上に垂らして行く。
その液体は雪で急激に固まり、ベッコウ飴に似た物体になった。
彼は他にも、外来の字と思しきものを描いたりと、幾つかの飴を作る。
十分固まった頃合で、彼はそのひとつを手に取り、レティに差し出す。
「お一つどうぞ」
一口、まだ柔らかさが残る飴をかじる。
あの樹液の香りが固まったような香味と甘さが彼女の口の中に広がった。
「美味しい…」
その一言で青年は相好を崩し、言った。
「冬の今の時間しか食べられない魔法だよ」
そこまで言った時、彼の裾をちょいちょい、と引っ張る者が居た。
見ればチルノを始めとする妖精達が雪の上の飴を見ている。
「ああ、君達も材料をくれたお礼にどうぞ。僕は食べられないから好きに色々作ってみて」
その言葉で、妖精達はたちまち鍋の周りに群がってワイワイと騒ぎ出した。
「こんな作り方もあるのね」
レティが感心したように言うと、青年は
「子供の頃に読んだ本に書いてあってね。『大きな森の小さな家』って本だったかな?本物を作ったのは初めてだけど、
本場では食べた事があるんだよ」
青年はその国の冬の風景や祭りの情景などを思い出しながら、懐かしそうに言う。
「一年しか居なかったけど、十年分の経験だったね」
レティが訊く。
「随分と覚えてるけど、それ、あなたが幾つの頃の話なの?」
即、答えが返ってくる。
「八つの頃かな? んーと、僕が死んだ歳を考えると…30年以上前かな?外界で最後に山に登ったのは四十過ぎた頃だったから」
レティの顔にクエスチョンマークが浮かぶ。
普通、死んだ歳からすればこの青年がこの姿で幽霊化している事自体珍しいからだ。
「歳に似合わない外見だけど、随分老けてるのね?」
一見失礼にも思えるストレートな言い方も、青年は受け流して答える。
「多分、僕の精神年齢がこの歳で止まってるからじゃないかな?」
とぼけたような答えに、昔を思う響きがある。
しかし、レティは敢えてそれには触れない。何となくだが、触れたくないのもあった。
飴の入った壷も空になって、妖精達がそれぞれ礼を言って帰っていく。
妖精達へ手を振る青年に、レティが訊いた。
「あなた、これからどうするの?幽霊が住めると言っても、霊力の補充無しではこのまま居ても数年で消えてしまうわよ?」
彼は頭を掻きながら、
「うーん、問題はそれなんだよねえ。とりあえず僕のヌケガラも何とかしたいし、僕自身もここで悪霊化するわけにはいかないし
最終ボスに変身できるなら吝かじゃないんだけど、倒されるのも嫌だし…この郷に人の居る所があれば案内してくれるかな?」
訳のわからない事を言い出した。この青年の頭の中身は何が詰まっているのだろうか?
「とにかく人里のお寺に案内するわ。あとはそこで考えて」
面倒な思考を始める前に投げやる事にして、レティは青年の手を引っ張った。
人里の寺、命蓮寺にて。
「…という事情なので、この人をあの世に送って、出来れば死体も弔って欲しいの。お願いできる?」
その話に、聖白蓮が優しく笑んで答える。
「事情は解りました。この方は私達が責任を持ってお連れします。雪が止んだら亡骸もこちらで引き受けましょう」
青年の方は、頭を掻きながらしきりに頭を下げている。これも多分癖なのだろう。
その様子を見つつ、白蓮が言う。
「この方をお送りするまで、何か聞きたい事柄とかがあればこの寺でお会いできます。外来の話も参考になるかもしれませんよ?」
青年はその言葉にますます頭を下げて
「しばらくお世話になります。本当にありがとうございます」
その様子を見ていたレティは、青年に最後の質問をする。
「あの飴の作り方、後で教えてもらえるかな?」
青年は頭を上げて、にこやかに言った。
「もちろん。あの氷の妖精さんにもお礼を言って置いてもらえるかな?多分、時間が無いだろうし」
その眼を見つめて、彼女は快諾する。
「飴のお礼に伝えておくわ。あなたが居なくなっても、私達は忘れないように、ね」
レティが命蓮寺を去って、白蓮が青年に訊く。
「あなたが山に登った理由、ついに言いませんでしたね」
青年はおどけた風を直して、素の顔で言った。
「言った所で、友人でも無い者は戸惑うだけでしょう。自分は見つけてくれた礼以上の事を彼女に話すつもりはありませんよ。無論、あなたにも」
その顔はどこか疲れきった、世捨て人の顔だ。
白蓮はそれにも優しく言う。
「仮面をどこまでも被り続ける事を選択した結果が今でも、後悔は無いのですね?」
青年はまっすぐ白蓮を見る。
「後悔してるなら、彼女に声をかけませんでしたよ。消えるまで眠り続けて、幸せな夢を見ています」
その言葉に、白蓮は静かに言った。
「自分の心と向き合う事は大変な勇気が要ります。あなたは死んだ事を知っても、ずっと眠り続ける事でその事から顔を背けていた
ここへ来たという事は何か、彼女との話で感じる事があった訳ですか?」
青年はその顔を逸らさず答える。
「何となくですが、レティさんは…自分に似てるところを感じましてね」
そう言って彼は、レティの去った方向を見やる。
「温もりを求めているのに、わざと遠ざかろうとしているような所があるように感じたんですよ。
自分もそんな人間でしたが、ついぞ自分に素直になることなく、親も、友人も周りから遠ざけ、その行く末がこの有様です。
あの子にはそうなって欲しくないんですよ。自分はもう裁きを待つ身ですが、妖怪はそうも行かない。
魂も残らないような最期を遂げるより、皆と笑い合える方がいいと思うんです」
白蓮は何も答えない。青年はそれでも白蓮に言った。
「出来ればあの子に、冬は忌み嫌われているだけではないと、そう思う事が出来る人達と出来る限りめぐり合わせて頂けますか?」
向き直った青年の顔は、どこにでも居る、くたびれた中年の男の顔になっていた。しかしその眼差しは真摯に白蓮を見ている。
まるで祈りのように。
「あの子がそれを望めば、出来る限り助力は惜しみません。しかし私達の務めはあの子の心を後押しするのみ。強制は出来ません」
青年の顔から険が消える。
「あの子次第ですか。難しいでしょうが、よろしく願います」
彼は深々と頭を下げた。
「死してまでこんな難題を残していく事、罪になるかもしれませんが、罰は甘んじて受けます」
もう一度礼をして、彼は寺のものに連れられて、逗留する部屋に去った。
白蓮はそれを見届けて、外に出る。
雪はどこまでも白く、そして厚く地上を覆う。
それは青年の心が被っている仮面そのものを思わせた。
「心を通わせるのに、人も妖も、何故仮面を被らなければならないのでしょうね?」
その問いは、屋根から落ちる雪の音に吸い込まれ、誰にも届かない。
心をさらけ出さず、傷つけあう事しかできない人間も居る。その魂の救済は簡単だが、ゆえに難しい。
閉ざされた心を開くのは力では出来ないが為に。
「しかし、私は諦めません。人の心の力を信じていますから」
白蓮の残したその言葉は優しいものだったが、力強い決意に満ちていた。
木枯らしに抱かれたそれが白く染まる時、冬は忍び寄る。
ガラスの破片のような、尖った硬質の空気。
狭霧消ゆる湖は、自らを厚く冷たい氷で閉ざし、眠りに就く。
「唇凍える北風に、生命の歌は凍れども…冬恋う胸は…」
優しい歌声が空気を優しく振るわせる。
湖の周りの木は凍りつき、色を消した風景はガラス細工に変わる。
重く垂れ込めた雲は白い天幕をその上に被せ、全てを覆い隠してしまう。
「今年の冬も短いのかな?」
少し悲しげに呟く彼女は、その雪の中を歩いていた。
冬の忘れ物、レティ・ホワイトロック。
その寒さと戯れ、楽しみながらも人の心のぬくもりを愛して、そして憎む者。
今年も郷に冬がやってきて、彼女は喜びながらも涙を散らして道なき道を往く。
やがて、その先に見えるのは雪で潰れかかった人家の跡。
彼女が中に入ると、その中には誰にも知られず、見つかる事も無いものが、壁に背を預けて静かに座っていた。
そのそばには朽ちたリュック、壁とその間には沢山の蜘蛛の巣が張り、その月日を物語る。
服装からは郷の者では無い、『外の世界』の者だと思われる事が解る、自然には無い着色。
その顔に手をあて、レティは呟いた。
「私が来るのが遅すぎたのかしらね。あなたの肌はこんなに冷え切ってしまっている」
その時、彼女のそばで声が響いた。
「そうだね…遅かったかな」
声のほうを見やると、そこには十代後半と思しき青年がばつが悪そうに立っていた。
「もっと早く見つけて欲しかったんだけど、これからどうして良いか解らなくてね。所で君は誰なの?」
レティはスカートの裾をつまんで礼をする。
「レティ…レティ・ホワイトロックよ」
彼女の返答に、青年は
「冬が似合う名前だね。僕は…」
そこで青年の顔に困惑が浮かぶ。
「おかしいな…僕にも名前、あったんだけど…思い出せないや。そこに寄りかかっていた時には覚えてたんだけどなあ」
壁に寄りかかるそれは、青年とは似ても似つかないモノに成り果てていた、が、着ている服は同じだ。
「思い出さない方がいい事も有るわ。あなたもこの郷に迷い込んだ人なのね」
青年は不思議そうに
「一応、山に登っている時に雪崩が来たことは覚えてるんだ。やっとの思いで雪の中から這い出して、この家がすぐ前に有ったから
そこで休もうと入って、眠った所までは記憶にあるんだけど…客観的に変わってしまった自分を見るのは良い気分じゃないね」
彼はそう言って、レティのそばに落ちているリュックを漁って、元はメモ帳と思われる紙の束を取り出し、めくり始める。
「20XX年か…今って何年なの?」
レティは首を振って答える。
「外の世界とこちらの世界では暦の数え方が違うから、私には解らないの」
青年は困ったように外を見た。
「うーん。冬なのは判るんだけどなあ」
困惑する彼の反応を楽しむように、レティは問う。
「あなた、冬は好き?」
突然の質問に戸惑いつつ、青年は答える。
「好きだよ。嫌な事とか、悲しい事とか、全部雪が隠して綺麗に飾ってくれるしね。青白い月も、道路に霜が下りて宝石みたいに
輝いてる夜とか、夜明けの朝霧の中とか綺麗な物が沢山あるし」
彼の答えはレティには善い答えのようだった。
彼女はにこりと笑って、青年に言う。
「あなたの居た世界では、どんな物が冬にあったの?」
青年は記憶を手繰るように顎に手をあてて、ふと、思い出したように言った。
「雪の降る所でしか出来ないお菓子は有ったね。ここってカエデの木は有るかな?甘い砂糖が作れるようなやつ」
「無い事もないけど…何か出来るの?」
「火をおこす必要は有るけどね。でも、仕上げは雪で無いと出来ないんだ」
レティは少し考えて、言った。
「知り合いになら宛てがあると思うけど、一緒に来てくれる?」
青年は疑いも何も無い笑みで答える。
「せっかくだし案内してもらおうかな?ここって何か、昔居たところに似てるし」
道中。
青年は周りを興味深そうに見ている。
「しかし、外国に似てるけど外国じゃないんだよなあ…こんな世界があったんだ」
「幻想郷は来るモノを拒まない世界だから、渾然一体になってる場所はいくつか有るわよ。私の服装だってそうでしょ?」
「言われて見れば、君はどこから見ても外国人なのに日本語が巧いよなあ」
「望めば幽霊でもここには住める。それがこの世界のルール。でも、元の世界には還れないわね」
レティの言葉に青年は苦笑いする。
「確かに。行方不明になってる奴が幽霊としてみんなの前に現われたら大騒ぎだよなあ…雪崩で体がおかしくなって、気がついたら
本体が死んでるから最初パニクっちゃってね。ずっと待ってても誰も来ないんで諦めて寝てたんだけど…君に会えて助かったよ」
「それはうれしい言葉ね。あら、そろそろ目的地に着くわ」
雪を踏みしめる事も無く、二人は湖のそばの森に着いた。
「あ、レティだ!久しぶり!」元気な声が雪と共に降ってくる。
声のする方を見る間もなく、二人の前に青い服に青いリボン、六枚の氷の翼を纏った女の子が降りてきた。
「チルノ、今年も元気そうね」
レティの言葉にチルノはフンス!と胸を張って答える。
「あたしはいつでもさいきょーなのでいつでもゲンキ!」
と、そこでチルノの視線がレティの隣の青年に移る。
「あれ?この人は?何か人間だけど人間じゃないみたいだけど?」
しげしげと青年を見るには飽き足らず、周りを飛んで色々な方向からチルノは観察する。
あっけに取られたような顔の青年に、レティが紹介した。
「この子は氷の妖精のチルノ。外来の人はこの郷にも居るんだけど、幽霊のまま留まっている人は珍しいのよ」
青年は良く解らないという顔になる。
「この世界にも幽霊は居るんだろうけど、普通どこに行けばいいの?あの世?」
レティはその問いに苦笑して答える。
「普通は閻魔の裁きを受けて、冥界に行って転生したり、成仏して別の世界に行く場合もあるのだけど、あなたはよほど未練か何かが
強かったのかもしれないわ。そうで無ければここまではっきりした姿を保てないもの」
「未練…ねえ?」
青年はまた顎に手を当てて思考するが、その目の前にチルノが現われる。
「おにーさんはどうしてここに来たの?」
そこで彼は黙考を止めて、レティに言う。
「そうだ。サトウカエデの木について案内してもらってたんだった」
チルノはそれを聞いてレティに訊く。
「あの甘い汁の出る木?あれで何か作れるの?」
「出来るらしいわ。火を使うらしいから私はあまりお勧めしないけどね」
青年はその響きに不穏なものを覚えて訊ねる。
「君、熱いのダメなの?」
レティはその問いに
「私は冬の妖怪だから。こちらのチルノも氷の妖精だから本来暖かい物は苦手なのよ」
青年は難しい顔をして
「妖怪って言うと人間を脅かしたりとか悪戯したりとか時折殺しちゃったりとかあるけど…色々苦労あるんだなあ」
そんな彼を見ながらレティは内心呆れていた。
彼の言う、その妖怪が目の前に居るのに、何で暢気に立場を考えたり出来るんだろうか?
「あなたも元は人間でしょ?怖くないの?」
レティが焦れた様に問うと、青年はまた顎に手をやって、考えながら答える。
どうも、この手を顎にやる仕草は彼の癖らしい。
「いや、元も何も死んだら人間じゃないからなあ…今の僕って幽霊でしょ?どちらかと言えば人を怖がらせる方に居ると思うんだけど」
死んだ自分を見ても、妖怪や妖精が当たり前のこの世界で本物を目の前にしても何となく他人事、悪く言えば無関心な彼の態度は
外来人でも中々見た事の無いものだった。
形骸化してるとはいい、人を襲い、怖がらせる。
それがこの郷の常識であり、そして退治されるお約束の図式もまた、常識だった。
しかし、目の前の青年はそれに動じない。大抵の外来人も似たようなものだが、それでも妖怪におののく心はある。
死者と生者での考え方の剥離はレティの想像を外れていた。
青年は顎にやっていた手を戻すと、思い出したように
「とりあえず、苦情は僕が作ったものを食べてからという事で、ここはひとつ、用意をしてくれるかな?」
片手で拝むように頼むその姿は、幽霊にしては妙に死者らしくない、人間臭さがにじみ出ていた。
数分後。
手提げの水桶に注がれたサトウカエデの樹液と、拾った鍋、そしてチルノが用意した薬を作る炉と壷が揃う。
青年は手際よくサトウカエデの樹液を壷に注ぎ、炉に火を入れて樹液を沸かす。
やがて、その樹液特有の香りが辺りに漂いだすと、それを嗅ぎ付けた妖精達が集まってきた。
辺りの騒がしさにようやく気付いた青年が周囲を見ると、妖精たちの視線は彼ではなく、空っぽの鍋と煮立っている液体に注がれている。
幽霊化した魂などここでは珍しくも無いのだ。
かなりの時間が経ち、壷の樹液は半分以下になり、透き通った色も茶色い、木肌の色を感じさせるような濃い飴色になっている。
どろりとしたその液体が焦げる寸前の香りを放つと、青年は火を最小まで落とし、鍋に雪を入れて敷き詰め、固め始めた。
雪がある程度の硬さになったと判断すると、彼は鍋をかき回していた匙で湯気の立つ壷の中身を一杯、雪の上に垂らして行く。
その液体は雪で急激に固まり、ベッコウ飴に似た物体になった。
彼は他にも、外来の字と思しきものを描いたりと、幾つかの飴を作る。
十分固まった頃合で、彼はそのひとつを手に取り、レティに差し出す。
「お一つどうぞ」
一口、まだ柔らかさが残る飴をかじる。
あの樹液の香りが固まったような香味と甘さが彼女の口の中に広がった。
「美味しい…」
その一言で青年は相好を崩し、言った。
「冬の今の時間しか食べられない魔法だよ」
そこまで言った時、彼の裾をちょいちょい、と引っ張る者が居た。
見ればチルノを始めとする妖精達が雪の上の飴を見ている。
「ああ、君達も材料をくれたお礼にどうぞ。僕は食べられないから好きに色々作ってみて」
その言葉で、妖精達はたちまち鍋の周りに群がってワイワイと騒ぎ出した。
「こんな作り方もあるのね」
レティが感心したように言うと、青年は
「子供の頃に読んだ本に書いてあってね。『大きな森の小さな家』って本だったかな?本物を作ったのは初めてだけど、
本場では食べた事があるんだよ」
青年はその国の冬の風景や祭りの情景などを思い出しながら、懐かしそうに言う。
「一年しか居なかったけど、十年分の経験だったね」
レティが訊く。
「随分と覚えてるけど、それ、あなたが幾つの頃の話なの?」
即、答えが返ってくる。
「八つの頃かな? んーと、僕が死んだ歳を考えると…30年以上前かな?外界で最後に山に登ったのは四十過ぎた頃だったから」
レティの顔にクエスチョンマークが浮かぶ。
普通、死んだ歳からすればこの青年がこの姿で幽霊化している事自体珍しいからだ。
「歳に似合わない外見だけど、随分老けてるのね?」
一見失礼にも思えるストレートな言い方も、青年は受け流して答える。
「多分、僕の精神年齢がこの歳で止まってるからじゃないかな?」
とぼけたような答えに、昔を思う響きがある。
しかし、レティは敢えてそれには触れない。何となくだが、触れたくないのもあった。
飴の入った壷も空になって、妖精達がそれぞれ礼を言って帰っていく。
妖精達へ手を振る青年に、レティが訊いた。
「あなた、これからどうするの?幽霊が住めると言っても、霊力の補充無しではこのまま居ても数年で消えてしまうわよ?」
彼は頭を掻きながら、
「うーん、問題はそれなんだよねえ。とりあえず僕のヌケガラも何とかしたいし、僕自身もここで悪霊化するわけにはいかないし
最終ボスに変身できるなら吝かじゃないんだけど、倒されるのも嫌だし…この郷に人の居る所があれば案内してくれるかな?」
訳のわからない事を言い出した。この青年の頭の中身は何が詰まっているのだろうか?
「とにかく人里のお寺に案内するわ。あとはそこで考えて」
面倒な思考を始める前に投げやる事にして、レティは青年の手を引っ張った。
人里の寺、命蓮寺にて。
「…という事情なので、この人をあの世に送って、出来れば死体も弔って欲しいの。お願いできる?」
その話に、聖白蓮が優しく笑んで答える。
「事情は解りました。この方は私達が責任を持ってお連れします。雪が止んだら亡骸もこちらで引き受けましょう」
青年の方は、頭を掻きながらしきりに頭を下げている。これも多分癖なのだろう。
その様子を見つつ、白蓮が言う。
「この方をお送りするまで、何か聞きたい事柄とかがあればこの寺でお会いできます。外来の話も参考になるかもしれませんよ?」
青年はその言葉にますます頭を下げて
「しばらくお世話になります。本当にありがとうございます」
その様子を見ていたレティは、青年に最後の質問をする。
「あの飴の作り方、後で教えてもらえるかな?」
青年は頭を上げて、にこやかに言った。
「もちろん。あの氷の妖精さんにもお礼を言って置いてもらえるかな?多分、時間が無いだろうし」
その眼を見つめて、彼女は快諾する。
「飴のお礼に伝えておくわ。あなたが居なくなっても、私達は忘れないように、ね」
レティが命蓮寺を去って、白蓮が青年に訊く。
「あなたが山に登った理由、ついに言いませんでしたね」
青年はおどけた風を直して、素の顔で言った。
「言った所で、友人でも無い者は戸惑うだけでしょう。自分は見つけてくれた礼以上の事を彼女に話すつもりはありませんよ。無論、あなたにも」
その顔はどこか疲れきった、世捨て人の顔だ。
白蓮はそれにも優しく言う。
「仮面をどこまでも被り続ける事を選択した結果が今でも、後悔は無いのですね?」
青年はまっすぐ白蓮を見る。
「後悔してるなら、彼女に声をかけませんでしたよ。消えるまで眠り続けて、幸せな夢を見ています」
その言葉に、白蓮は静かに言った。
「自分の心と向き合う事は大変な勇気が要ります。あなたは死んだ事を知っても、ずっと眠り続ける事でその事から顔を背けていた
ここへ来たという事は何か、彼女との話で感じる事があった訳ですか?」
青年はその顔を逸らさず答える。
「何となくですが、レティさんは…自分に似てるところを感じましてね」
そう言って彼は、レティの去った方向を見やる。
「温もりを求めているのに、わざと遠ざかろうとしているような所があるように感じたんですよ。
自分もそんな人間でしたが、ついぞ自分に素直になることなく、親も、友人も周りから遠ざけ、その行く末がこの有様です。
あの子にはそうなって欲しくないんですよ。自分はもう裁きを待つ身ですが、妖怪はそうも行かない。
魂も残らないような最期を遂げるより、皆と笑い合える方がいいと思うんです」
白蓮は何も答えない。青年はそれでも白蓮に言った。
「出来ればあの子に、冬は忌み嫌われているだけではないと、そう思う事が出来る人達と出来る限りめぐり合わせて頂けますか?」
向き直った青年の顔は、どこにでも居る、くたびれた中年の男の顔になっていた。しかしその眼差しは真摯に白蓮を見ている。
まるで祈りのように。
「あの子がそれを望めば、出来る限り助力は惜しみません。しかし私達の務めはあの子の心を後押しするのみ。強制は出来ません」
青年の顔から険が消える。
「あの子次第ですか。難しいでしょうが、よろしく願います」
彼は深々と頭を下げた。
「死してまでこんな難題を残していく事、罪になるかもしれませんが、罰は甘んじて受けます」
もう一度礼をして、彼は寺のものに連れられて、逗留する部屋に去った。
白蓮はそれを見届けて、外に出る。
雪はどこまでも白く、そして厚く地上を覆う。
それは青年の心が被っている仮面そのものを思わせた。
「心を通わせるのに、人も妖も、何故仮面を被らなければならないのでしょうね?」
その問いは、屋根から落ちる雪の音に吸い込まれ、誰にも届かない。
心をさらけ出さず、傷つけあう事しかできない人間も居る。その魂の救済は簡単だが、ゆえに難しい。
閉ざされた心を開くのは力では出来ないが為に。
「しかし、私は諦めません。人の心の力を信じていますから」
白蓮の残したその言葉は優しいものだったが、力強い決意に満ちていた。
レティさんの場合、「冬にしか姿を現さない」ですから、自然他者と遠ざかってしまうのでしょう。乗り越えるべき壁は高い。
しかし、どうしてこの幽霊はこんなにも人間離れしているのでしょう……。