Coolier - 新生・東方創想話

ブティックナンバー404/マヨヒガブティック・ノットファウンド

2013/11/06 01:50:06
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「いつもありがとうございます」
「それじゃ、また来て下さいね」

 そう言って、武田さんは頭を下げて俺を見送ってくれた。
 俺はマンションの廊下をエレベーターへ向かって歩いていく。
 エレベーターを待ちながら、壁に据え付けられた鏡で、新しくなった自分の頭を眺める。
 そこには、最近流行の髪型になった俺が居た。光量の低い蛍光灯のせいで、幾分か顔色が悪いが、切る前よりは男前になっている。
 俺は鏡から擦り傷の目立つ、銀色のエレベーターの扉の上にある、回数表示の黒いパネルに目をやる。
 オレンジ色の光は「1」から動かない。
 しばらく待ってみるが、「1」のままだ。荷物の積み卸しでもやっているのかもしれない。
 俺はエレベーターの前を待つのを止めて、階段で下りる事にした。


 廊下よりも更に光量の低い階段を歩いて四階に下り、三階に下りようとした時、下からヒールの鳴る音が聞こえてきた。
 階段を上がってきたのは、緩めのパーマを掛けた、膝下丈の明るい茶色のワンピースを着た、根本まで綺麗に染めた、長い金髪の女性だ。
 踊り場ですれ違うと、俺の方に微笑んで、廊下の方へと歩いていった。年齢不詳の美人だった。
 すれちがう時に梨の花の甘ったるい匂いがした。随分昔の彼女が付けていた、ディオールの香水の匂いだ。
 何となくつられるように、踊り場を離れて、廊下へと目をやる。
 彼女は手前から四つ目の、開け放たれたドアの中へ入っていった。
 懐かしいな、マンション系ショップだ。たまには覗いてみるか。


 廊下を歩いていくと、大口を開けたドアの向こうから一人の女性が出てきて、こちらに歩いてきた。
 鱗のように凹凸のついた白いコットンの、襟刳りが広く取られた綺麗なドレープの出る、ゆったりしたワンピース。
 さらさらの金髪の頭にはワンピースと同素材のつばの広い帽子。白い手には紺色のエナメルの財布。一番か。
 彼女は俺とすれちがう時に会釈してくれた。先程の女性よりも目つきがややきつい、年齢不詳の美人だった。
 美人かどうかは別にして、ショップスタッフなんて、みんな年齢不詳の顔をしている。
 18歳と言っても、30歳と言っても「そうなんですか、見えませんね」とお客さんに笑顔で返される顔の奴が多かった。

 

 掛け金で白い壁に固定されたドアの敷居をまたいで店内に入る。
 俺が昔働いていたショップよりも、随分金の掛かった作りで、壁も床も全て張り替えられていた。
 よくワックスの掛かった木製タイルの店内の中央には膝ぐらいの高さの濃茶の平台什器が置かれている。
 その上にはカットソーやデニムの畳み置き。カットソーは多分、畳み幅22cm。優雅なスペースの取り方をしている。
 壁は床と少しだけコントラストを付けた、自然な木目の茶色の壁には、きちんとゴールデンゾーンの高さにハンガーラックが取り付けられている。
 パッと見、黒っぽい服が多く、窓を潰して壁を三面にし、カジュアルっぽい袖物やパンツで一面、かっちりしたテイストで一面。フィッティングとカウンターで一面。
 真鍮の鈍く光るトレイと、黒と金のペンが入った革製の筆立ての置かれたカウンターの向こうで、先程のパーマの女性がスツールに座っていた。
 彼女は俺が入店した事に気が付いて、言った。

「いらっしゃい」

 店内でかかっているジャズのように、緩く、けだるい感じの声だった。
 俺は彼女の方を見て、小さく会釈して、中央の平台の方に進む。
 彼女は俺の背中に声を掛けた。

「試着の時は声を掛けてね」

 こういう店は買い物がしやすくて助かる。
 自分のサイズは解ってるし、あれこれ話掛けられても面倒だ。
 まあ、こういうお上品なモードテイストのショップの店員は大抵やる気のない、かったるいタメ口接客が売りだ。
 彼女の接客姿勢は、ファッションと店内に置かれた服にマッチしている。
 俺は彼女の言葉に従って、好き勝手に店内を物色させてもらう事にした。


 ◎◎◎


 畳みの服も、ラックに下がった服も、懐かしいモードブランドのものばかりだ。
 サイズはばらばらだし、新品と古着が入り交じった、古着屋だった。
 だが、マンションの一室にある普通の古着屋と違うのは、仕入のセンスと物の状態が抜群にいい事。
 ドリス、ラフ、ブランキーノ、ヨウジ、ディオール、そしてエディの頃のサンローラン――
 色やサイズが不揃いでも、全く気にならない。俺好みのセレクトだ。
 俺が金の無かった時分、欲しかったマックイーンのジャケットを手に取って見ていると、背後から声がした。

「こういう系統の服が、よっぽど好きなのね」

 振り向くと、カウンターから女性がこちらにやってきて、俺の傍らに立った。
 香水の匂いとかつて憧れた服が、俺をひどく懐かしい気持ちにさせた。

「昔こういうのが好きだったんですよ」
「今も好きそうね」
「いやあ、今はあんまりこういうの置いてる店は行かないですね」

 そう言って俺は、木製ハンガーの頭を捻って、ラックにマックイーンのジャケットを掛けて、正面を向いたジャケットを見る。
 モヘヤの光沢が複雑な陰影を彩る紺のジャケットは、天国でもスーツを仕立てる男の顔そのものだった。
 このジャケットを発表した時のコレクションは、よく記憶に残っている。

「「蠅の王」の時のやつですよね」

 彼女は驚いた顔をした後に、俺の記憶に誤りがない事を簡潔に認めた。

「よくご存じね」
「これ、入荷点数が少なかったやつですよね。よくこんな綺麗なやつがありましたね」
「前の持ち主は、買ったけど勿体なくて着れなかったって言ってたわ」

 それこそ勿体ない。
 こんな良い服をクロゼットに入れっぱなしにしてどうするんだ。マックイーンが天国で泣いてるぞ。
 彼女は俺に笑い掛けて言った。上手な笑顔だ。

「羽織ってみる?」
「いやあ、サイズが合わないと思いますよ」

 さっきタグをチェックした時、サイズは46だった。
 インポート物は袖が長いから、俺じゃサイズが合わない。
 こういう時、接客がくどい店では「袖を直せば着れますよ、試しに羽織ってみて下さい」とか食い下がる。
 だが袖を詰めれば全体のバランスが崩れて、芸術的なジャケットが布と糸と芯地の固まりになる。
 彼女はその辺りは弁えているようだった。

「それは残念ね」

 心底そう思ってる声と表情だった。
 これを演技で出来るなら、どこの接客コンクールでも優勝間違いなしだ。
 俺達はお互いに残念だった。彼女は売り逃がしたし、俺は買い損ねた。
 俺はジャケットをラックに戻して、言った。

「ちょっと他に見たいやつあるんですけど、いいですか?」
「どうぞ」

 俺はさっき平台で畳み置きされていた、ドリスのカットソーが気になっていた。
 ラックを離れて平台まで行くと、カーキ色のカットソーを手にとって、フィッティングの前に行く。
 ベージュのカーテンが開いたままのフィッティングの中の鏡で、サイズが合いそうか、前に当ててみる。
 暖かみのある照明を受けて、左胸に百合の紋章を作るラインストーンが光った。
 サイズXS、新品。少し着丈が長いか?
 だが、ベルギーのブランドなんてこんなもんだろう。
 俺は鏡越しに彼女に声を掛けた。

「いけますかね?」
「どこが気になるの?」
「いや、着丈がちょっと長いかなと思って」
「気になるなら試着も出来るけど」

 俺は鏡に映った自分の姿を確認する。今日穿いているチノパンにマッチする、濃いカーキ。
 丈が少し長いが、新品だし洗えば縮むだろう。それにこれは大分お買い得になっている。

「いや、大丈夫です。これお願い出来ますか?」

 俺が振り返ってそう言うと、彼女の白い手がこちらに差し出され、俺はカットソーを渡す。
 彼女はカットソーを畳みながら言った。

「他に何か見たいものはある?」

 俺は即答した。

「今日はそれだけで大丈夫です」


 ◎◎◎


 カウンターで会計してもらい、帰り際にこんな話をした。

「また来ます」
「ええ、そうしてちょうだい。貴方みたいな詳しいお客さんと話すのは楽しいからね」
「実は俺、前にショップで働いてた事があったんですよ」
「それであんなに詳しいのね」
「こんなに良い店じゃなかったですけどね」

 彼女の口元が皮肉っぽい笑いを浮かべ、こう言った。

「スタッフ二人の小さなショップよ、うちは」
「もう一人のスタッフって、今日白いワンピース来てる人ですか?」
「あら、前に来た事あるの?」
「いえ、ここから出てきたその人とさっきすれ違って。手に財布持ってたから一番かなと思ったんですよ」
 
 俺達はそこで笑った。服屋にしか解らない笑いだ。
 彼女達が着ているようなエレガントな服は実用性ゼロ。ポケットよりもライン優先。
 よって、ちょっと飯を食いに出る時、財布は手で持ち歩くスタッフが多い。

「ああ、その子うちのスタッフよ。あの子が先に一番なの」
「この時間で食事がまだは辛いですね」
「店長の辛いところよ」

 俺達はまたそこで笑った。俺も何度も夕方に飯を食う事があったから、気持ちは解る。
 二人ショップじゃローテーションも厳しいだろうに。
 少し間を置いて、俺は言った。

「それじゃ、また寄らせてもらいます」
「今日はありがとうね」

 そう言った彼女はカウンターから離れて、ドアから出ていく俺を見送ってくれた。
 茶色い紙袋を持った俺はエレベーターの中で、また来ようと思った。


 ◎◎◎


「そのシャツどこで買ったの?アローズ?」
「いや、古着屋、最近見つけたんだ」

 俺と真由美は、映画を見終わった後、ドトールでコーヒーを飲んでいた。
 この店の喫煙席は狭い為、喫煙者の俺でもどうかと思う匂いがする。回転率を上げる、新たな手法かもしれない。
 ストローでアイスコーヒーをかき混ぜて、からからと氷を鳴らしながら、真由美が言った。

「古着なんか買うんだ」
「結構いい店でさ。ここのところ、そこばっかり行ってるんだ」
「どこにあるの?」
「いつも行ってる美容室の入ったビルの四階」
「結構近いじゃん」

 そう言って真由美は、ストローでコーヒーを飲む。白いストローが茶色くなる。
 俺は煙草から口を離して言った。

「行く?飯までに少しだけ時間あるし」
「暇つぶしに良さそうだし、行こっか」

 腕時計に目をやる。レストランの予約の時間まではまだ少し時間がある。
 買い物するには少し時間が足りないが、次の買い物の下見ぐらいは出来る筈だ。
 半分ほどに減ったコーヒーに口を付け、右手に持った煙草を軽く振って言った。

「それじゃ、この一本吸ったら行こう」


 ◎◎◎


 俺達が店に入った時、シンプルなエクリュのドレスを着てカウンターの向こうに座った店長は、薔薇をモチーフにした真紅のドレスが映った大判の写真集を見ていた。
 
「あら、いらっしゃい。そちらは彼女さん?」

 そう言った店長の白い手がぱたりと写真集を閉じる。黒い表紙にはサンローラン・コレクションブックと仰々しい字体で書かれていた。
 俺はカウンター越しに店長に言った。

「ええ、今日はたまたま一緒にこっちで遊んでたんで」
「あら、いいわね。私なんか今日は一日中ここよ」
「土日は仕方ないですよ」
「それで忙しければいいんだけどね」

 俺と店長は笑ったが、真由美は愛想笑いだった。
 世間が休んでる中、お客さんの来ない店内で時間を潰す苦行が生むユーモアは、スタッフにしか解らない。
 この時間帯でも一切乱れがない店内から察するに、店長は一日中、畳みと肩慣らしをしていたのだろう。
 流石に飽きたから、写真集を読み始めたというわけだ。
 もっとも、暇になったらお客さんの悪口で盛り上がるスタッフより、よっぽど好感が持てる。
 店長は真由美に、申し訳なさそうに言った。

「うちはメンズしか置いてないから、退屈させるかもしれないわね」
「大丈夫です、私、洋服見てるの好きですから」
「そう、じゃあ彼氏さんと一緒にゆっくり見ていってね」
「俺達、今日はあんまりゆっくり見れないんですよ。この後、レストランの予約入れてて」

 俺の言葉を聞いた店長は肩をすくめて笑った。

「あら、がっかりだわ。今日みたいな日にこそ買い物して欲しいのだけど」

 俺も笑ったが、同時に少し悲しい気持ちになった。
 クリスマスに、一日の売上が一万円で、やむなく自腹を切ってシャツを買った日の事を思い出したから。
 

 ◎◎◎


「ねえ、これ、可愛くない?」

 そう言った真由美は平台に置かれた、濃い目の水色のポロシャツを開いて俺に見せる。胸元には小さな宝珠が金糸で縫い取られている。ご存じ、ヴィヴィアン・ウエストウッド。
 襟元は左前だが、サイズは小さめ。俺でもちょっと厳しい大きさ。
両手で持ったポロシャツをひらひら動かしながら、真由美は俺に言った。

「これなら私も着れそうじゃない?」

 薄いピンクのシフォンブラウスを着た真由美と、手に持ったポロシャツを見比べる。
 俺の見立てでは、少し大きいかもしれない。

「少し大きいかも」
「そうかなあ」

 俺の言葉を聞いた真由美は、ポロシャツに付いた下げ札を見る。

「でもこれ凄い安いから、ちょっとぐらい大きくてもいいかなあ」

 そう言った後、俺にこんな事を聞いてきた。

「ねえ、サイズってやっぱりピッタリの方が可愛いかな?」
「ポロシャツだったらピッタリの方がいいんじゃない」

 こういう時に「凄い安いって言うなら、サイズなんか気にせず即決で買えよ」などと女性に言ってはいけない。確実に喧嘩になる。
 女性にとって、フィッティングはもの凄い大事な事だ。自分の身体の魅力を引き出す服を探す、大切な時間だ。
 それを理解出来ない阿呆なスタッフが、どれだけのクレームを引き起こしたか俺は知っている。
 だから即決は迫らないが、長々と試着してもらっては飯の時間に間に合わなくなる。
 真由美は俺が付き合った彼女の中で二番目に買い物に時間を掛ける女性だ。
 そんな俺の気持ちも知らずに彼女は、平台に置かれたマルジェラのパッチワークカットソーを手に取って「これはゆるく着る感じで着れるかも」とやり始めた。
 こういう事をやっているから、時間が掛かるわけだ。
 俺は平台を物色する真由美に「今日は迷ってる暇ないよ」と言おうとした時、思わぬ掘り出し物を見つけた。


 ◎◎◎


 手を伸ばして、そのデニムを手に取る。一度も洗濯をしていないデニムの固い手触り。間違いなく新品未着用。
 マックイーンのシンプルなスリムデニム。ジャストサイズで着用出来るサイズ44。
 時代的には大分前の商品だが、マックイーン存命中のコレクションだし、値段もこなれている。
 この値段なら、銀行を経由しないでレストランに直行出来る。
 俺はカウンターの中から、こちらを微笑ましそうに見ている店長に言った。

「店長、お願いがあるんですけど」
「あら、何かしら」
「これ今日買ってくんで、彼女の迷ってる商品、取り置きでお願いできないですか?」

 デニムを少し高い位置に持って、「これ」であることを伝える。
 これは礼儀の問題だ。こういう日に取り置きを頼むには、それなりの手順がいる。
 それに今、俺が手に取っている濃紺のデニムは即決で買ったとしても全く後悔がない。
 こういう服とは、巡り合わせなのだ。
 「気を使わせたみたいで悪いわね」と店長は言ったが、言葉と裏腹に嬉しそうな笑顔をしている。
 よっぽど今日は厳しかったのだろう。
 この時代にハイファッション一本で勝負するこの店は、なかなか客が入らない。

「いや、これは即決で買っても後悔しないものですから」

 取り置きのお願いをするついでに、俺はもう一つお願いをした。

「それで、俺達この後、飯食いに行くんでデニム預かってもらっていいですか?」

 勿論、飯の後の予定もある。あんまり荷物を持ち歩きたくないのだ。
 店長は察してくれた。

「いいわよ、じゃあ彼女さんの分と一緒に置いておくわ」


 その後、店長はカウンターで俺のデニムと、真由美が悩んでいたポロシャツとカットソーを律儀に別々の袋に入れた。
 二つの袋は、カウンター奥の取り置き用ラックのハンガーに掛けられた。


 ◎◎◎


 カウンターを離れる時、真由美が店長の着ているドレスを見て言った。

「それ、素敵なドレスですね」

 それは間違いない。
 普段着に出来るぐらいシンプルだが、素材とカッティングは一級品で、誂えたように店長の身体にフィットしている。
 店長のボディラインは元々美しいのだが、それを更に引き立てる、完璧なラインだ。
 アクセントの小振りな金のネックレスも、どこかの難破船から引き上げた財宝を思わせる色褪せ具合のアンティーク。
 誉められて気分を害する女性は居ない。店長も例外ではなかっった。
 彼女は上機嫌で真由美に言った。

「ありがとう。これはお気に入りなのよ」
「そういうのって、どこで買うんですか?」
「これは昔、パリに行った時に買ったものよ」
「パリですか。私も行ってみたいですね」
「彼氏さんに連れてってもらえばいいじゃない」

 ガールズトークを聞きながら、俺は店長が着ているドレスがどこのブランドか何となく解ったので、口を挟む事にした。

「ひょっとしてそのドレス、サンローランですか?」
「ご名答。良く分かったわね」
「いや、来た時に見てた写真集から考えたんです」
「このドレスを解ってくれる人はあまり居ないわ」

 そう言った店長は胸元の辺りの生地を少し持ち上げ、少し自慢げな顔をした。べらぼうに可愛い。
 あんまり鼻の下を伸ばすと真由美に怒られそうだが、真由美の関心は俺の顔ではなく、店長のドレスだった。

「今そういうレトロ調なやつ探してるんですけど、なかなか置いてないんですよ」
「残念な事に私の着ているのはレトロ調、じゃなくて本当にレトロなのよ」
「どれぐらい前の服なんですか?」

 店長はこめかみの辺りに手をあてて、しばらく考えてから答えた。

「そうねえ。これはムッシューが若かった時のオートクチュールだから、結構昔のやつよ」
「凄いですね」

 そう言った真由美は驚いたという表情をしているが、どれぐらい凄いか解ってないだろう。
 サンローラン当人の、しかも若かった頃のオートクチュールなんて着ている人は初めて見た。
 店長がいくら年齢不詳とは言え、流石にその当時のパリで仕立ててもらうのは無理だ。
 大方、パリの片隅で居眠りしてた逸品に出会ったってところか。
 しかも、オートクチュールでサイズぴったりなんて、奇跡みたいな運の良さだ。
 自分の言葉で何かスイッチが入ってしまったらしく、店長はうっとりした顔でこう言った。

「ええ、凄いわ。ムッシューは真の天才だと思う。私はサンローランの歴代デザイナーのドレスを全て着てみたけど、ムッシューのドレスに初めて袖を通した時ほどの感動はないわね」

 店長は呆れる程の道楽物だった。いくらショップスタッフとは言え、流石にやりすぎだ。
 ひょっとするとこの店も道楽でやってるのかもしれない。
 その後、ふと我に返った顔をした店長は、照れくさそうに笑って言った。

「これ以上は長くなるんで止めましょうか。さ、若者二人は楽しんでらっしゃい」


 ◎◎◎


 一週間後、俺と真由美はあのショップがあるビルを訪れた。
 俺が買ったデニムの引き取りと、真由美の取り置き商品の購入の為だ。
 東急ハンズのある十字路を左に曲がり、二人でくだらない事を喋りながら、ビルの入り口まで来た時、俺の携帯が鳴った。
 表示されている名前と番号は部長だ。 

「真由美、ごめん、先行ってて、会社からだ」

 そう行って真由美に手で示すと、真由美はガラス扉をくぐってビルの中に入っていった。
 俺は電話を取って、仕事用の声で挨拶をする。

「もしもし、お疲れ様です」
「お疲れ。休みのところ悪いな。今時間ちょっといいか?」
「何かありました?」
「いやな、こないだ垣内が担当した会社あるだろ」
「ああ、真田建設ですか」
「今クレームの電話が来ててな、そこの社長がお前と話して対応を決めたいって言うんだよ」
「はあ、俺ですか」

 俺の言葉は急に歯切れが悪くなった。それはそうだ。何故ならこういう時に頼まれる事は大体決まってる。
 部長は俺の予想通りの事を言った。

「それで、申し訳ないんだが、この後すぐ先方に詫びの電話入れてもらっていいか?」

 思わず溜息が出そうになるが、ここは我慢しなければならない。それよりも一つ確認する事がある。

「解りました。私用携帯で掛けますけど、大丈夫ですか?」
「ああ、先方には休日だと伝えてあるから大丈夫だ。今から番号言うぞ」

 休日にも関わらず、前任の担当者が侘びの電話を入れてくる、という丁重なサービスで誠意を伝えるわけだ。
 番号を聞いた俺は「じゃあ、終わったら部長に報告の電話を入れます」と言って、電話を切った。
 その後に俺は、ビルの隣りの灰色の壁で周りと区切られたコインパーキングへと移動し、奥の角で携帯の番号をプッシュする。
 全く、運が悪いな。真由美に怒られそうだ。


 ◎◎◎


 結構な時間謝り倒して、許してもらえた事を部長に報告した後、雑居ビルに戻ってエレベーターに乗った。
 思わぬ長電話だったが、仕事なんで仕方がない。
 エレベーターのドアが開き、四階で降りた俺は、手前から四つ目の開け放たれた扉へと向かった。
 店内では赤のフラワープリントが入ったベージュのワンピースを着た店長が、カウンターに座っていた。
 店長は俺の顔を見て言った。

「あら、いらっしゃい。さっき彼女さん来てくれたわよ」
「あれ、じゃあ帰っちゃったって事ですか?」
「ええ、さっきまで居たんだけど、貴方があんまり来ないからって帰ったわ」

 そう言って握り拳を口元にあて、くすくすと笑って「後で喧嘩にならないと良いわね」と店長は俺を冷やかした。
 どうにも困った事になった。真由美の買い物がそんなに早く終わるなんて。俺は頭を掻きながら言った。

「入れ違いですか、参ったな」
「あら、でも出ていったのはついさっきよ」
「ちょっと、すいません」

 俺は一旦店を出て、真由美の携帯に連絡すると、電波の届かない所にいらっしゃいますとアナウンスが流れた。
 俺が店に戻ると、店長は「このビルの辺りって結構電波悪いのよ、入ったり入らなかったりでね」と教えてくれた。
 スツールから立ち上がった店長は、俺の買ったデニムが掛かったハンガーをラックから外し、カウンターに置いた。
 袋が一つ減っている事に気が付いた。当然、真由美の取り置き商品だ。

「ああ、真由美、結局買っていったんですね」
「ありがたい事に二つとも買ってくれたわ」
「サイズ大丈夫でした?」
「私がフィッティングしたから、問題ないわよ」

 俺が見たところ、店長はこの道が長そうだし、何より女同士だ。問題ないのは本当だろう。
 店長の手が袋に伸び、中からデニムを取りだしてカウンターの上に置き、その上に銀の指輪を付けた手が重ねられる。

「それで、これの直しはどうするの?もし良ければ、うちで裾上げをやらせてもらうけど」
「直し無しで大丈夫です」
「あら、裾上げ無しでいいの?」
「昔からサイズ44で、一切直さず着れるんです」

 店長の手がデニムの上から離れ、袋詰めを始める。
 手を動かしながら店長が「運が良いわね」と、どこか呆れたような調子で言った。
 確かに44サイズのデニムを直さず着れる奴ってのは少ない。
 だからこそ、残ってこういうところで販売されているわけだ。良い買い物だった。

「ええ、思わぬ拾い物でした」
「本当にそうだと思うわ」

 そう答えた店長の手は、デニムがすっぽり収まった袋の口をテープで留め始めた。
 熟練の手さばきで一連の作業をこなす店長が、俺に質問した。
 
「そう言えば、貴方はなんで遅くなったの?」
「仕事の電話が急に入りましてね、それで真由美を待たせるのも悪いと思って」
「それは大変ね」
「喧嘩にならないか心配ですよ」
「多分大丈夫よ」

 店長は小さく笑った後、「仕事で思い出したんだけど」とそこまで言って、一旦言葉を切った。
 店長の手がカウンター内の引き出しを空け、中に入る。引き出しから手が戻ってきた時には真珠色の紙入れを持っていた。
 紙入れが開き、一枚の名刺が出てくる。俺に名刺を差し出した。

「随分来てもらってるのに、貴方にまだ名刺を渡してなかったわ」

 俺は受け取った名刺に視線を落とした。
 光沢のある白い上質な紙に、店名は流麗な筆記体の金の箔押し、役職と名前はシンプルな字体の黒の印刷となっている。

「オルレアン ショップマネージャー 八雲紫」


 デニムが入った紙袋を受け取った俺は、店を出るとエレベーターまで歩きながら電話をしたが、真由美の携帯はまだ電波が入らないようだ。
 エレベーターを待っている時、後ろでドアの閉まる音がした。

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