あら、貴方随分とぺらぺらのシャツを着ているのね?ちょっと見せてもらっていいかしら。
……論外ね。これはシャツではなくて、ただの布よ。
生地は俗悪、縫いは低劣、芯地は下品、付属は悪辣と言ったところね。
え?大きなお世話?その前にお前の服を何とかしろ?
貴方、そういう口の聞き方していると長生き出来ないわよ。
それに道士服はあくまで仕事着だからね、誤解しないで頂戴。
今度、私のクローゼットの中を見せてあげましょうか?
色んなデザイナーの服が入ってるわよ。
ガリアーノ、マックイーン、ディオール、サンローラン――そう、サンローラン。
なんと言っても、ムッシューがとどめを刺すわ。彼は本物の天才よ。
昔、私がパリにいた頃――
――というわけで、私は年季の入った洋服好きなのよ。
道楽で外の世界で店をやってるぐらいにはね。
私の店は、とある大都市にあるわ。
駅の西口から出て、大通りを直進。
ハンズを通り過ぎて、二つ目の十字路を左折。
そこを真っ直ぐいくと、隣りにコインパーキングがある雑居ビルがあるの。
そこの404号室が私のショップよ。
○○○
木の香りが漂う店内で、私は写真集のドレスを見ながら、溜息をついていた。
私の溜息は不世出の天才、マックイーンを偲んでの事だ。
全く、どうして人間というのは生き急いでしまうのか。残念でならない。
死んだとしても、後に待っているのは閻魔の長ったらしいお説教だけだ。
精々長生きして、今この店に流れているジャズのようにスロウな余生を楽しめばいい。
店内の中央に置いた平台のカットソーを畳みながら、藍が言った。
「来ませんね」
「来ないわね」
畳み終わったカットソーを戻して、藍はこちらに向き直って言う。
「やはり立地が悪いのではないでしょうか」
「そんなことないわよ」
「駅前への移転を考えたら、如何でしょうか」
藍は平台から離れ、私が座っているカウンターの前にやってきた。
彼女の手が黒檀のカウンターの上に置かれたメモ帳と筆指しに入ったペンを取る。
メモ帳にあっというまに数式が書き出され、大きく書いた数字に丸を付ける。
その数字をペンで指し示して藍が言った。
「これだけの集客増加が見込めます」
「そういう問題ではないのよ」
私は写真集を閉じて、一つ溜息をつく。
私が出している店はマヨヒガの一種だ。
そんなものを駅前に出して、どうしろというのだ。
ド派手な「ユナイテッドヤクモ」や「インターナショナルギャラリーユカリ」の看板でも掛けろと言うのか。
ご免被る。
どうにも式というのは現実的過ぎていけない。あくまで道楽なのだから、効率云々はどうでも宜しい。
このマヨヒガには入店条件がある。私の趣味に合う服装をしている事だ。
近頃流行りのファストファッションで身を固めたり、ストリート系のファッションの人間は、この店を見つけられない。
余談ではあるが、季節が変わる度に愚にもつかぬ肌着や、ダウンの入っていないダウンジャケットを幻想郷に送りつけるのは、そろそろ止めて頂きたい。
私が見たところ、現代日本にそれほどの羽振りの良さはないし、景観破壊も甚だしい。
別にファストファッションが嫌いなわけではない。以前、霖之助にある会社(ブランドとは口が裂けても言いたくない)のシャツを握らせて、こんなやりとりをした事がある。
「雑巾に使えるって出た?」
「何を言ってるんだ君は」
「天人の顔を磨くのに使う、なのかしら?」
「意味が解らないんだが」
悪意はない。本気で気になっただけである。
○○○
いつまで待っても来店がないので、珈琲を飲みに行った。
完全禁煙の喫茶店で珈琲を啜り終わると、店の入ったビルに戻る。
開け放ったドアを潜り、律儀に乱れてもいないカットソーを畳んでいる藍に、私は言った。
「藍、貴方一番行ってきていいわよ」
「宜しいので?」
「ええ、大分遅くなってしまったから、貴方が先でいいわ」
私にそう言われた藍はカウンターまでやってきて、引き出しから財布を取りだした。
藍は帽子を落としそうな程、頭を下げた。
「それでは紫様、一番頂きます」
そう言って、尻尾を隠してなければ、抜け毛の心配をしたであろう嬉しそうな表情をして、入り口へ歩いていく。
以前話を聞いたところ、駅前の寿司屋の稲荷寿司が、大層旨いと言っていたので、それを心待ちにしていたのであろう。
私は藍が出ていく前に一つ、重要な注意をした。
「その服、汚さないでね」
「心得ております」
今日の藍が着ている、白いワンピースと帽子は私の私物だ。
式というのは、洋服のコーディネートがあまり上手くない。
計算によって最適解を導く事が出来ても、「外し」や「遊び」、あるいは、素材の持つ表情の面白さを理解する事は出来ない。
店員には人間の方が向いている。しかし、私の周りの人間というと霊夢や魔理沙だ。
霊夢に店員をやらせたとしよう。どうなるだろうか。
「これ、似合うと思いますか?」
「全く思わないわ」
クレームが来る。では魔理沙にやらせたとしたらどうだろうか。
「これ、似合うと思いますか?」
「お前がそんな服着たら腹が目立つぞ。やめとけ」
クレームが来る。よって、藍である。
少々難があるが、それでも彼女は優秀な式だから、諸々の店舗経営に役立つ。
彼女が居ればワードもエクセルもグーグルも要らない。私の店は特注の木材で内装を仕上げているから、不似合いなパソコンを置かずに済む。
以前、駅前で「初心者でも大丈夫!よく解るエクセル教室!」というビラを貰って、こう思ったものだ。
パソコンが使えないなら、式を使えばいいじゃない。
藍が出ていった店内で、木の香りと緩やかなジャズを楽しんでいると、一人の男が店内に入って来た。
○○○
「いらっしゃい」
店内に入ってきた男に挨拶をして、服装を見てみる。
ふむ、悪くない。
当世風のアメトラを崩したようなファッションだが、それなりにしっかりした物を身につけている。
彼の足下をチェックすると、黒ずんだ林檎飴のような光沢を放つ靴を履いている。オールデン、カラー8。
個人的にはもう少し遊び心のある靴の方が好きだが、きちんと手入れもされているし、及第点以上だろう。
男性諸子に言っておくと、女性は意外と、男性の靴を見ている。
幻想郷の少女達もそうであるに違いないので、もし幻想郷を訪れるつもりの男性には、日頃から靴の手入れをお勧めしておこう。
年代物のウィスキーのような靴を履いていれば、ばったりルーミアに遭遇しても、靴一足食わせてやれば助かる。安い買い物だ。
ただしそれには、合皮ではなく、靴底まで本革で出来た紳士靴である必要がある。
「試着の時だけ声を掛けてね」
私の言葉への男の返事は男は「解ってますよ」。但しこれは表情で。
男は平台に並べたカットソーを一枚ずつ確認していき、今度はカジュアル色の強いものを吊したラックを物色し始めた。
なかなか熱心に見ているし、タグを見る目はどこか郷愁を帯びている。
その手は、きちんと肩を持たずに、ハンガーの頭を持って商品を見ており、私に「心得はあります」と伝えている。
まあ、ジャケットの肩を持つような人間が私の店を見つけられる筈もないのだが。
彼はカジュアルのラックから、ドレスアイテムへと流れていき、一着のジャケットのところで足を止め、ラックからジャケットを抜き取る。
声を掛けるチャンスである。私はスツールから立ち上がると、カウンターから出て、彼の傍らに立ち、声掛けをする。。
「こういう系統の服が、よっぽど好きなのね」
私の方を向いた男の顔には見覚えがない。昔、どこかの映画で見た俳優に似ているといえば似ているが、直接の知己ではない。
だが彼は私の事を古い友人を見るような目で見て、過去を懐かしむような口調で言った。
「昔こういうのが好きだったんですよ」
そうは言うが、今も好きだろう。でなければ店内への長い滞留時間が説明が付かない。
この店は、彼のような服装をしている人間の心が満たされるような商品が多く置かれている。
かつて一世を風靡した天才達の洋服ばかりだ。琴線をかき鳴らされぬ訳がない。
私の「今も好きそうね」という言葉に「いやあ、今はあんまりこういうの置いてる店は行かないですね」と男は返した。
彼はハンガーヘッドを回し、ラックに正面を向けて掛ける。その言葉には少し、得意げな調子がある。服好き特有の知識を言葉にしたい調子。
「「蠅の王」の時のやつですよね」
「よくご存じね」
男の言うとおり、その紺色のジャケットは、先程私が見ていた写真集のデザイナーの作品だ。
私と会話する時でも、男の視線の先にはジャケットがある。まるで魅入られたかのようだ。
「これ、入荷点数が少なかったやつですよね。よくこんな綺麗なやつがありましたね」
「前の持ち主は、買ったけど勿体なくて着れなかったって言ってたわ」
その言葉を聞いた男の表情はどことなく悔しそうだ。
このジャケットに、かなりの思い入れがあるのだろう。
こういう時こそ、試着を薦めるチャンスだ。私は彼に微笑みかけて言った。
「羽織ってみる?」
「いやあ、サイズが合わないと思いますよ」
「それは残念ね」
心底そう思う。今日の来店者は彼だけだ。
ただ、男の身長を見るに、確かに少し丈が長いかもしれない。
男はハンガーのヘッドを捻り、ラックに丁寧に入れ込んだ。体毛の少ない大きめの手には、故人への敬意が感じられた。
ジャケットがラックの中に戻った時、彼に掛かった魔法が解けたようだ。他の商品を気にし始めた。
「ちょっと他に見たいやつあるんですけど、いいですか?」
「どうぞ」
私の返事の聞くと、男はラックを離れて、平台から一枚のカットソーを持ち上げて、試着室の入り口前に立った。
カーキのカットソーを前に当てる色白の男の姿は、店内の茶色い壁に、なかなかに栄えていた。
試着室の鏡越しに、彼は私に言った。
「いけますかね?」
「どこが気になるの?」
ここでいきなり勧めてはいけない。さりげなくいかなければいけない。
まずは小手調べ。気になる箇所を確認し、その後「着て確認してみたら?」というような言葉で試着室に案内する。
いきなり試着を勧めたら、気の弱い客ならそれだけで帰ってしまう。
男の視線は少し下の方にある。視線が上に上がり、鏡の中の私と目が合う。
「いや、着丈がちょっと長いかなと思って」
私は男とカットソーを見比べてみる。
胸元に当てられたカットソーは、気持ちだけ長い。細身のラインだから、もう少し短くてもいいだろう。
だが、実際は着てみなければ、その辺りは解らない。そこで試着の出番になるわけだ。
「気になるなら試着も出来るけど」
男は私の言葉を聞いて、鏡に映った自分の姿を入念に確認する。
目線が上下に何度か動いた後、彼の顔が鏡像の私ではなく、実存の私に向けられて言った。
「いや、大丈夫です。これお願い出来ますか?」
手を差し出して、彼からカーキのカットソーを受け取って、私の胸元にあてて畳み直す。
あとは流れ作業だ。手を動かしながら、私はお決まりの台詞を言う。
「他に何か見たいものはある?」
「今日はそれだけで大丈夫です」
会計を済ませて、少し雑談すると男は帰っていった。
元店員という事で、なかなかに手強い相手のようだ。だが、それでいい。
私がやっているのは友人の萃香が人間とやるような遊びと同種のもの。
弾幕も妖力も使わない、単純な駆け引き。道楽とはそういうものだ。
○○○
男がやってきてから数日経つが、その後、誰も私の店を訪ねてくる事はなかった。
私の好む洋服と、それらを着る人々は既に幻想郷に流れ着いているのかもしれない。
それはそれで結構な事だ。わけのわからぬ襤褸切れで庭を汚されるよりは随分とましな話だ。
出来れば、価値の解る妖怪――例えば霖之助とか――が拾ってくれる方が好ましい。
ミスティアに拾われて焚き付けに使われたり、チルノに裾を引きずられるのでは、あんまりな末路であろう。
そんな事をカウンターの中で考えていると、一人の少女が入ってきた。
普段のメイド服ではなく、上等な仕立ての紺の三つ揃いを着てはいるが、ウェストコートのポケットから覗く銀の鎖だけは変わらない。
「本当にこんなところで店をやっていたのね」
「あら、珍しいのが来たわね。何しに来たの?」
「買い付けのついでにね」
そう言って、咲夜は店内をひとしきり見回してから言った。
「流行ってなさそうね」
「道楽だからいいのよ」
「女性物は扱わないの?」
「色々と面倒なのよ」
私もそうなのだが、女性というのは試着するまでが既に長い。
あれこれ手にとって、鏡の前に立ち、連れあいの男と喋ったり、店員にお勧めのレストランを聞いたりする。
おまけに人間の女性は、百年そこらの寿命が為せる刹那主義の発露なのか、ひどく気紛れだ。
藍と二人でやっているこの店に向いている客ではない。
咲夜は店内をうろうろとし、平台から一枚のカットソーを取り上げて私に言った。
「こんなもの、誰が買うの?」
軽蔑するような咲夜の目線の先にあるのは、マルジェラのパッチワークカットソーだ。
様々な色合いのカットソーを一度解体して、つなぎ合わせた、着用可能な芸術品であるのだが、どうにも彼女には価値が伝わらないらしい。
スカーレット一党は、徹底した貴族主義者であるから、この手の革新的なものは解らないのであろう。彼女達が好むのは、欧州の古美術品とかペルシアの豪商由来の絨毯とかだ。
その辺りは、咲夜の三つ揃いや靴からも匂ってくる。大方、英国の仕立て屋通りの「誂え」のものであるに違いない。
そこまで考えて、私は彼女向けの在庫を一点持っている事を思い出した。私は彼女に言った。
「そういえば、貴方向けの商品が一点あるわ」
カウンターの引き出しを空け、中から赤い天鵞絨張りの小箱を取り出す。
私に呼びかけられた咲夜は、手に持ったカットソーを几帳面に畳み、カウンターにやってきた。
カウンターに小箱を置き、「開けていいわよ」と言ってやると、彼女はその通りにした。
小箱を開け、咲夜は中に入っている真鍮の懐中時計を取りだして、暖色系の照明にかざして言った。
「悪く無さそうね」
「いいものよ、貴方のお気に入りほどではないけどね」
咲夜が見ている時計は「馬車か時計か」といった時代のアンティークだ。彼女愛用の「屋敷か時計か」に比べれば落ちるが、それでも結構な品物だ。
蓋の開け閉めを確認し、時計裏の彫刻を見ながら咲夜が言った。
「これはおいくら?」
「友情価格にしておくわ」
値段の折り合いが付いたため、彼女に無事、時計をお買いあげ頂く事が出来た。
時計を紙袋に包みながら、私は言った。
「今年の出来はどうだったの?」
「そこそこといったところかしらね」
何事にも例外があるように、幻想郷にも例外は存在する。私は、何人かの人妖に、外の世界へ外出する権利を認めてやっている。
例えば、スカーレット一党が好むような骨董品や、咲夜が買い付けに来たワインを作れるほどの葡萄畑というのは、幻想郷の中にはない。
そこで、そういったものに関しては例外を認めている。私は噂ほど話の解らぬ女ではない。
紙袋に包まれた時計を受け取った咲夜は「ではまたいずれ」と言って、去っていった。
私は店外に出ていく咲夜の背中を見て、彼女であれば店員が務まるのではないかと思索した。
「これ、似合うと思いますか?」
「豚に真珠の風情がございますわ、サー」
私は色々な事を諦めて、読書でもする事にした。
○○○
以前私が接客した男は、それから何度か私の店にやってきた。
彼はよくシャツやカットソーと言ったものを、試着もせずに買っていった。昔取った杵柄でサイズが大体解るとの事だった。
何度目かにやってきた時、男は女を連れてきた。藍が休みだったので土日のどちらかだ。
「あら、いらっしゃい。そちらは彼女さん?」
読んでいた写真集を閉じて、男に聞いてみると「ええ、今日はたまたま一緒にこっちで遊んでたんで」という返事が返ってきた。
女の方のファッションを見ると、あまり私の好みではない。ピンクのシフォンブラウスにオリーブのショートパンツ。センスは悪くないのだが、拘りが足りない。
本来であればマヨヒガには入れないが、今回は「案内人」として男がいたから入れたわけだ。
少し会話した後、二人で色々な商品を見始めたので、私はいつもの通り放っておく事にした。
カップルで来店している客は勝手に選ぶものだし、私はあれこれ勧めるのが好みではない。自分の意志で決定されなければならない。そういう道楽だ。
やがて、男の方がカウンター越しに私に声を掛けた。
「店長、お願いがあるんですけど」
「あら、何かしら」
男は両手でデニムを持って、何を見せたいのかを伝えるようにしている。
一瞬、申し訳なさそうな顔をした後で彼は言った。
「これ今日買ってくんで、彼女の迷ってる商品、取り置きでお願いできないですか?」
男が手に持っているのは、マックイーンのデニムだ。素晴らしい。これでようやく決着が付きそうだ。
おまけに女の方はカットソーを二点取り置きしたいという。願ってもない話だ。
しかしその後で「飯食いに行くんでデニム預かってもらっていいですか?」と言われ、即日の決着とはならなかった。
だが、デニムはいい。デニムなら間違いなく私の勝ちだ。私は勝利を確信しながら答えた。
「いいわよ、じゃあ彼女さんの分と一緒に置いておくわ」
その後、少し雑談をして、二人は帰っていった。
二人を見送った後に、私はカウンターのスツールに座り、上機嫌で写真集を開く。
今日は素晴らしい日だ。女の方は取り置きをしてくれたし、男の方はデニムを持ち帰りではなく、店に置いて帰った。
女の方も私の着ているドレスの価値が解るようだし、なかなか悪くない。
男の方は、私のドレスがムッシューのオートクチュールと聞いた時、ひどく驚いた顔をしていた。全く結構な事だ。
私と萃香は似たもの同士なのかもしれない。相手が手強い方が、楽しみが増えると考える。
写真集の最初の頁に写った、今は亡き天才の笑顔は、私を祝福しているようだった。
○○○
きっちり一週間後、女が一人で来店した。
入り口を潜って入ってきた女に私は挨拶する。
「あら、いらっしゃい。今日は一人なの?」
「今、下で電話してるんです。何か職場から電話来たみたいで」
「それは大変ね」
彼女は商品を二点取り置きしている。少し見解を変えると「マヨヒガの物を手に取った」ので、今回は一人でも来店できる。
スツールから立ち上がり、背中側にある取り置きラックから女の取り置きした商品を入れた袋を取る。
袋の中身のカットソーとポロシャツをカウンターの上に出しながら、私は言った。
「はい、これが貴方の取り置き分ね」
「ありがとうございます」
「良かったら、あててみて」
そう言って、女と一緒に試着室の前まで移動する。
女はカットソーとポロシャツを持って、試着室の前まで行くと、まずはポロシャツをあてて見る。細く書かれた眉が歪な形になる。
「やっぱりメンズだと大きいですかね?」
「微妙なところじゃないかしら」
彼女があてている水色のポロシャツは、作りが小さめとは言え、メンズの企画で作られている。
女性にしては身長は高い方だとは思うが、それでも少しばかり大きい。
だが、あのポロシャツはかなり安く値段を付けている。着れる客が少ないだろうと思って安めに値段をつけたら、全く別の魚が掛かった。
掛かった魚たる女は、今度はカットソーを前に持ってきて「うーん、微妙かなあ」と、目を少し細くした。
確かに彼女のような、少し大人しい顔の女性には、パッチワークのカットソーはアバンギャルド過ぎるかもしれない。
だが、買いたくなければ取り置きなどしない。私はこう切り出した。
「うち、カットソーとかも試着出来るわよ」
「フェイスカバーとかって用意あります?」
うっかりしていた。私の店にはレディース商品を置いてないので、化粧の事を考えていなかった。
本来であれば、ここで勝負は私の負けだろう。しかし心配ご無用。私はスキマ妖怪だ。
「ちょっと待っててね、今出すから」
そう言って彼女の側から離れて、カウンターに戻る。
一番下の何も入っていない引き出しを空け、スキマを広げる。
白木の板を張られた引き出しの中が、一瞬にして無数の目が開く暗い紫のスキマで覆い尽くされる。
私はスキマの中に手を突っ込むと、以前使っていたフェイスカバーを一枚取りだして、手に取る。
それを持って戻り、彼女にフェイスカバーを見せる。
「はいこれ」
「ありがとうございます。メンズのお店なのに用意してあるんですね」
「私の私物よ」
「わざわざすいません」
頭を下げて笑顔で受け取る女の顔を見て、思わず吹き出しそうになる。
全くもって滑稽だ。この後、何が起こるかも知らずに化粧の心配とは。
もう二度と化粧の心配などしなくて良くなるのだから、そんな事を気にしてどうするつもりなのやら。
左手でフィッティングを指し示すと、彼女は中に入った。中に入った。
「それじゃ、何かあったら声を掛けて頂戴」
そう言ってベージュのカーテンを引くと、フィッティングの足下にスキマを展開する。
カーテンの隙間から覗く白い足首が一瞬にして紫の空間に飲まれ、そのまま女は落下していった。
何かあったら声を掛けるように伝えたが、その暇すらなく、頭の頂点が沈み込んだ。
スキマを閉じてカーテンを開けると、フィッティングの中では何一つ証拠を残さない完璧な神隠しが発生していた。
私はこういう道楽を、少し前からやっている。
人間の店員と同じで、「如何にして試着室に入れるか」を楽しむ道楽だ。聞けば試着で勝負が決まるというではないか。
その真似事をして、こうやってたまに遊んでいる。
何故そんな事を、と問われれば特に理由はない。強いて言えば楽しいから。道楽とは道を楽しむと書く。私なりに店員道を楽しんでいるということだと思って欲しい。
まあ、彼女はおまけみたいなもので、本命は男の方だ。
私は鼻歌を歌いながら、カウンターの中に戻った。
○○○
しばらくすると、男がやってきた。私の「あら、いらっしゃい。さっき彼女さん来てくれたわよ」と言う言葉に、店内を見回した。
「あれ、じゃあ帰っちゃったって事ですか?」
「ええ、さっきまで居たんだけど、貴方があんまり来ないからって帰ったわ」
「後で喧嘩にならないと良いわね」
もし万が一、スキマの中で再会出来たら、さぞや盛大な喧嘩になるだろう。再会できたらだが。
思わず笑ってしまったので、口元を隠した。どうにも私の笑顔は胡散臭いらしいので、ここで私の顔を見られての取りこぼしは許されない。
だが、私の「喧嘩」という言葉に反応して男は「入れ違いですか、参ったな」と言って、頭を掻いたので、一言フォローする。
「あら、でも出ていったのはついさっきよ」
ここで「大分前に出ていったわ」などと言ってしまうと、彼は喧嘩になることを恐れて女を探しに行ってしまうだろう。
ここは軽い方が良い。予想通り、彼は私に一言断りを入れて、電話を掛けに店を出た。
しばらくすると、渋い顔をして戻ってきた。スキマの中は電波が届きませんわ、お客様。
「このビルの辺りって結構電波悪いのよ、入ったり入らなかったりでね」と適当な事を言い、彼の買上済のデニムをカウンターの上に用意する。
一つ袋が減っているのを見て、男は言った。
「ああ、真由美、結局買っていったんですね」
「ありがたい事に二つとも買ってくれたわ」
私は商品二つを女にくれてやり、彼女は身体で払ってくれた。きちんと売買は成立しているから、嘘はついていない。
男はもう一つ質問した。
「サイズ大丈夫でした?」
「私がフィッティングしたから、問題ないわよ」
私が試着室に案内した以上は、全く問題ない。
スキマの中からはクレームも返品も一切利かない。これ以上の接客はないであろう。店側にとっての話だが。
そこで会話を止め、袋からデニムを取りだしてカウンターの上に置き、その上に手を乗せて私は言った。
「それで、これの直しはどうするの?もし良ければ、うちで裾上げをやらせてもらうけど」
勝った。完璧に勝った。
そう、デニムは裾直しがある。いくら洋服に詳しくても、こればかりは避けては通れない。
裾直しがあるとなれば、試着しかない。このデニムは新品だから、裾も切ってない。
勝利を確信した私に、男はこともなげに言った。
「直し無しで大丈夫です」
予想外の言葉に内心動揺したが、平静を装って確認する。あるいは聞き間違えかと思ったのかもしれない。
「あら、裾上げ無しでいいの?」
「昔からサイズ44で、一切直さず着れるんです」
私の心に亀裂が入る音がした。そんな馬鹿な。44サイズとは言え、インポートは裾がかなり長い。
他の者であれば疑うところだが、彼はこれまでも一切試着せず、ジャストサイズの商品を買っている。
仕方ない、今回は私の負けだ。
負けを認めて、袋の中に商品を入れる私の口から、溜息ではなく本音が漏れた。
「運が良いわね」
「ええ、思わぬ拾い物でした」
「本当にそうだと思うわ」
何でもない口調で彼は言っているが、そう遠くないうちに気が付く事だろう。「思わぬ拾い物」をしたことに。
長い足と同じぐらいは長生きして、親孝行でもしてやるといい。
○○○
「喧嘩にならないか心配ですよ」
「多分大丈夫よ」
男が仙人になったり、妖怪化したりしない限りはスキマの向こうにいる彼女と喧嘩になることはない。
さて、マヨヒガには一つのしきたりがある。
マヨヒガから無事に帰る者には、証を渡してやらなければならない。
と言っても、厳密な決まりではない。実際、彼は何度も私の店で買い物して無事に帰っている。
にも関わらず名刺を渡さなかったのは、私が勝負を楽しみたかったからだ。だがデニムまで試着しないとなれば、これ以上の勝負は無駄だ。
私は引き出しを開け、パールホワイトの紙入れを取りだして、名刺を一枚渡してやる。
「随分来てもらってるのに、貴方にまだ名刺を渡してなかったわ」
男は両手で受け取った。
彼に渡した名刺はマヨヒガから無事に帰った者の証で、私が最初にこの遊びを始めた地名に由来する店名と私の名前が書いてある。
その後、男はデニムと名刺を持って店から出た。
私はこの遊びを、フランスはオルレアンで始めた。
その時は初めてやる遊びだったので、色々と後始末が上手くいかず、新聞などに取り沙汰されたりもした。
どうなるかと状況を見守っていたところ、良く分からぬデマが流れ、結局は都市伝説だという事になった。
それなりに有名な都市伝説だったのだが、名刺を受け取った男は何も感じないようだったので、既に噂そのものが幻想入りしているのかもしれない。
そうであれば、再びフランスに出店してもいい。以前よりも私のやり口も洗練されているし。
マヨヒガは「在りもしないところ」に在る。
例えば、存在しない階とか、存在しない部屋番号とか。大抵、縁起の悪い数字の部屋だったり階は存在しない。そういうところにマヨヒガはある。
開け放たれているドアを閉め切った瞬間に、この部屋は外界から隔絶される。
以前はこれをしなかった為に騒ぎになったが、この手法であれば店そのものが消滅するから、事件は迷宮入り、いや、スキマ入りする。
そろそろ店じまいにしよう。私は壁にスキマを展開して、手を突っ込んで、掛け金を外して扉を閉めた。
これにて404/Not found。
パソコンが無ければ、と話しながらも最後はインターネットにネタを絡めるあたり、紫らしいユーモアが効いています。
それから、リアリティと話の厚みを幾重にも増す服飾の知識の数々。物語の雰囲気を強烈に形作っていて、効果的でした。
動機も含めて、妙にすっとぼけた感じが彼女らしい
マヨヒガの逸話やあのブティックの都市伝説と絡めるその展開に感動。
衒学的な雰囲気もゆかりんの雰囲気に大変マッチしてて良いです。
話を2つに分ける事で両面から楽しむ事ができました。
幻想郷に流れ着く物は、持ち主がスキマで喰われているんでしょうか。
怖い話ですね。
文章はこなれていますし、丁寧で雰囲気も良かったです
試着室に招くことが勝負。これ自体はいいのですが、そこを読者に納得させる経緯が余りにも簡素というか、何かすっきりしないものを感じました。
1度目に読んだときに匿名で点数を入れてしまったので、無評価コメになってしまい申しわけありません。
そんな紫らしさが出ていて、恐ろしい話でしたが面白かったです。
八雲紫の妖怪らしい「人間のことなど知ったことか」という思考も表現できていたと思います
日常と非日常、安寧と危険、等価に描かれているそれらが気持ちいいですね。
イトウさんの作品の良さが生かされてるとおもいました
次の作品も期待しています。
実はあの妖怪達は未だに外で活動する事があるかもしれない、と言うのは珍しい題材ではありませんしね
影響を受けたとかそう言う要素を抜きで言うなら、普通に面白い話ではあります