● そして貴方は世界になる
魔理沙は、本を開いた。
本は16世紀の揺籃期本(インキュナブラ)で、手書きの美しい彩色の挿絵が入った魔道書だった。だいぶ前に図書館から持ち出そうとして、パチュリーに撃ち落されて叶わなかったものだ。先日図書館を訪れた時、どうせ駄目だろうと思いながら、その本を手に取ってもパチュリーは何も言わなかった。あの図書館の魔女はどうやら、魔理沙が持ち出す本をかなり厳格に選別しているらしく、彼女が持ち出し不可とした本は持ち出そうとしても、帰り道でメイドに取り返されたり、盗ったつもりが家に帰ると何故か無かったり、どうやっても持ち出せないのだ。
魔理沙はそのことが少し不満だったが、同時に感謝もしている。魔道書は危険なもので、未熟なものがうかつに手を出せば大変なことになるからだ。魔理沙の魔法使いとしての力量をパチュリーが推し量って、持ち出しの許可を与えているとしたら、持ち出せる本が増えたということは、すなわち魔理沙が魔法使いとして成長していると図書館の魔女に認められたということになるからだ。だから、だいぶ前にパチュリーが本気なって持ち出しを阻止したこの本が、今ここに、魔理沙の自宅にあるということは、魔理沙にとって成長の証でもあるのだ。
魔理沙は本を開き、インクの匂いを嗅ぐ。何百年も前の本なのに、なぜこうもインクの匂いは新鮮なのか。この美麗な保存状態はおそらくパチュリーの魔法の技の賜物なのだろう。
これこそ「本」だ。そう思った。図書館の魔女はよく言うのだ、「魔理沙は本をただの情報の集積としてしか見ていない。それでは本当の意味で本を読み解くことはできない」と。パチュリーのようにこういう本当に美しい、本物の「本」ばかりを読んでいれば、それはそんな事も言うだろう。しかし自分はめったにこんな本を手にすることが出来ないのだ。だから私が多少本に対して蓮っ葉に接してもしょうがないではないか。そう魔理沙は思うのだ。
紙に押し付けられた活字の僅かな凹凸を指でなぞり、美しい彩色と飾り文字に触れる。そうして魔理沙は本の世界に入ってゆく。
◇◇◇
それから、丸三日かけて、その本を読み、更に一週間かけて自分なりの注釈をメモに纏めた。こんなにも一冊の本に熱中したのは初めての事だった。新しい知識を得たということ以上に、今まで経験したことが無い何かに触れたと感じることが出来たのだ。そこでやっと魔理沙は満足して、しばらくしていなかった外出をする気分になった。無論、出かける先は図書館である。あの本の持ち主とその素晴らしさについて話したかったし、それが認められれば、また新たな稀購本を持ち出せるようになるかもしれないのだ。そうして気力十分の魔理沙はあっさりと紅魔館の門と門番を吹き飛ばして、図書館を訪れた。
図書館入り口の大扉を開くと、そこは本の世界である。両脇に二丈はあろうかという書架を幾つも従えて、中央の通路が最奥までまっすぐ伸びている。そこにある重厚な大机の向こうで、主はいつも本を読んでいるのだ。今日は気分がいい余り、門番を吹き飛ばして進入したから、もしかしたら一戦交えないと話が出来ないかもなと思いつつ、魔理沙は歩を進める。そうして、奥まで来ると、当たり前にそこにいるはずの主の姿がなかった。まだ昼前だから寝ているのかと、図書館の隅にある主の私室の扉を開けたが、中には誰もいない。
「となると、あそこか?」
と、魔理沙は大机の前に戻った。この図書館には魔理沙がまだ開けたことの無い奇妙な扉が一つある。その扉はパチュリーの席の後ろの壁にあって、彼女は年がら年中そこで本を読んで居るものだから、いかな盗賊霧雨魔理沙といえども、その扉に触れることは叶わなかったのだ。
「これはめったにないチャンスかも知れん」と魔理沙は思う。その扉の前に魔理沙は居る。扉は金属の磨き上げられた鏡でできており、その上には「UNIVERSUM」と彫られた石のプレートが貼り付けられている。ここに大机もパチュリーの席も無ければ、大扉から図書館に入って中央通路を歩いてくる人には、この鏡の扉によって通路がずっと続いているように見えることだろう。鏡の扉には鍵穴がある以外、把手もノブも無い。仕方なく押してみたが、もちろん反応は無い。
「Universum。『世界』ねぇ…」
と呟いて、さてどうしてくれようかと魔理沙は考える。こういう曰くありげな扉を前にして、すごすごと降参してしまっていては盗賊は名乗れないのである。開錠の魔法を使ってみたり、懐に常に持っているロックピックを使ったりしたが効果は無さそうだ。いっそ吹き飛ばすかと考えている時に、後ろから声がかかった。
「まったく。油断も隙もないわね」
図書館の主が、いつの間にかすぐ後ろに居た。「その扉の向こうには、貴方の欲しがりそうな物は無いわよ」と言って、彼女はいつもの指定席に着いた。
「こんな変な扉なんだから、なんか有るだろ」
「言っておくわ、魔理沙」
そこで図書館の主はいつに無く、はっきり、ゆっくりと、魔理沙に警句を言い渡した。
「この扉に何かしたら、私は貴方を許さない。絶対に」
そう言われては、さすがに魔理沙も何も言えなかった。何かよほど大事なものでもあるのかと思ったら、彼女は中にあるものを自ら教えてくれた。
「この小部屋の中には本が一冊あるだけよ。それも蔵書目録が一冊だけ」
蔵書目録ならそこの大机の隅にも並んでいる。これまでも本を探すときに、しばしば利用したことがあった。それとは違う目録なのだろうか。目録一冊を隠すというのはどうも変だと思いつつも、あれほどきつい口調で言うのだから、あの扉には触らないほうがいいのだろうし、だったら中に何があっても自分には関係ないのだ、そう言い聞かせた。魔理沙は無神経にこの図書館を略奪するように見せかけて、その実、図書館の主が本気で嫌がることはしないようにしている。「とりあえず、今のところは諦めるか。いつか秘密は暴くがな」諦めた訳ではないのだ。鏡の扉は、魔理沙がいつか探るべき幻想郷の秘密の一つになった。
それから魔理沙はいつもの客用の椅子に納まって、何日もかけて読み込んだ、あの揺籃期本のことを喋り始めた。本文の解釈について話し、不明瞭な点を聴き、挿絵のカリカチュアの様式について感想を言い、一連の飾り文字に隠された暗号の秘密を語った。例によって、パチュリーは魔理沙が十話す間に、一か二しかものを言わなかったが、内容は示唆に富んでいた。そして最後に、あの様な美しい本ばかりを読んでいれば、それはパチュリーのように本を大事にするようになると、そう言うと、パチュリーは「私は本によって扱いを変えたりしないわ。全てが等しく大切な本なの」と、そう言った。
魔理沙は対面で本を読む魔女を見る。不健康そうな青白い顔のその魔女は、革装の見るからに古そうな大版の本に眼を落としている。その眼は文字を追って忙しなく動くというわけではなく、まるで本そのものを見つめるかのようで、たまに動くときは大版のそのページをめくる為に手を伸ばすときくらいだった。
彼女は、図書館の一部だった。使い古されきしんだ書架のように、大量の本に埋もれてびくともしない重厚な大机のように、書架にかけられた梯子のように、そしてなにより、余りに量が多すぎて手に取るまで一冊の本と認識することさえ難しい書物の壁のように、完全に図書館という風景と一体化していた。「まるで、駄菓子屋の婆だな」と思って、魔理沙は薄く笑った。
「そんなに、本を読む私が面白いかしら?」
と、魔理沙が笑ったのを見て魔女が問うた。いや、見てはいないのだ。彼女の視線は相変わらず本に向けられており、決してそこから逸らされていない。この図書館の権化は図書館の中で起こっていることなら、いかなる些事でも気付くのだ。
「まるで、お前は図書館そのものだと思ってな。そこで本を読んでるのが、お似合いとかそういうレベルじゃなくて、…なんつーんだ?風景の一部というか、そうあって当たり前、そうでなきゃ困るものみたいな、そんな感じだと、そう思えてな」
「よく判らないけど、私が図書館そのものだというのは、当たっているわね」
「へっ、よく言うぜ。どうせ、『私はこの図書館の全ての知識を持っているから』とか、そんな事言い出すんだろ?」
「そういう意味ではないし、私はこの図書館の本全てを読んでいるわけではないわ。それどころか、読んでも読んでも、この図書館から未読本は消えないわ」
「なんだそりゃ?蔵書が多すぎて読みきれないって意味か?」
「そこに…」
魔女が大机の隅を視線で示す。そこにはブックエンドに挟まれて、大版の黒い表紙の分厚い本が九冊とクリップで纏められた何百枚かの紙片があった。
「そこに蔵書目録があるでしょ?私がこの図書館に初めて来た時、その目録は二冊しかなかったわ」
「ほお。つまり、ここの本は殆ど自分が集めたものだと。だから自分は図書館そのものだと?」
「私が集めた本も、まぁ少なくはないわね…」
そこまで言って、魔女は魔理沙を見つめた。表情の余り変わらない彼女のことだから、その顔はいつもどおりに見えたが、何も喋らずに、じっと人を見つめる彼女は、普段どおりではないような気がした。図書館そのものであるところの魔女は、魔理沙の瞳の奥にある何かを探るように覗き込み、そして魔理沙はそれに耐えきれなくなって言った。
「……なんだよ、おい」
「やっぱり、駄目ね」
「何がだ。判るように言え」
「魔理沙、あなたは本を情報としてしか見てない。本を情報を得るためにしか読まない」
「何言ってんだ。当たり前だろう?それとも情報と知識は違うものだとか、そういう話か?」
「そうじゃないわ」
「本は情報を得るために読むものだろう?いや、そうだ、私は娯楽のためにも読むぞ」
「娯楽を得るための情報を得るために読むんでしょ。同じよ」
「なんだお前。いつから禅坊主になった?」
「本は世界の象徴。あなたはその一端に至っているのに、判ろうとしない。この話はここまでよ」
「ここまでって、私には何がなんだか判らんぞ」
図書館の魔女が「自らは図書館そのものである」と宣う理由の話ではないのか。
「ともかく、駄目よ。あなたは、信用できない」
と、そう魔女は言って話を打ち切った。
魔理沙は、少なからず衝撃を受けていた。無論、「信用できない」と面と向かって言われて、である。確かに、自分はどちらかと言えば、この図書館に仇なす存在だったかもしれない。本を粗雑に扱ったかもしれない。しかし、それでも魔理沙はこの図書館が好きだったし、それなりに敬意をもって図書館にもパチュリーにも接していたつもりだったのだ。魔理沙は自分勝手に動いているように見えて、その実、他者との距離を慎重に測って、良好な関係が壊れないようにしてきた。そのはずだった。
「本は…ちゃんと返すつもりだぜ」
ごく普通の、軽口を叩くような口調で言おうとしたのに、口から出たのは喉から搾り出したかのような声だった。パチュリーを直視することも出来なかった。
「判っているわ。…ああ、誤解しているわね。あなたの窃盗癖とは何も関係ないわ」
「じゃあ何なんだ!」と怒鳴り出したい気持ちは、魔理沙の中についさっき急に芽生えた後ろめたさで、掻き消えた。だから出来るだけ静かに声に出した。
「なら、なんなんだよ…」
「そうね、性分の問題かしら」
「悪かったな、信用ならない性分で。いや、いいんだ。判ってるよ。私は本を盗むし、パチュリーから見たら酷い本の扱い方をしてるんだろうしな。いいよ、そのとーりだ」
「魔理沙、あなた何か…」
「いいって!私がどう信用できないかなんて、くどくど説明するなよ、もう判ったから」
どうにも居たたまれなくなって、魔理沙は図書館を後にした。その背になにかパチュリーが言ったようだったが、魔理沙にはもう聞こえなかった。涙が出そうだと、そう思った。
◇◇◇
箒に跨りながら、魔理沙は洟を啜った。
「そりゃぁ私は本を盗むし、パチュリーをからかうし、いたずらもするさ。でも面と向かって言うこと無いだろ」と考えてから、思い直した。いや、口に出したか否かは関係ない。ともかくパチュリーは私をそう見ているのだ。そして、悪いのはどう考えても私のほうだ。ああ見えて、パチュリーはずっと腹を立てていたんだろう。「あいつは表情に乏しすぎるんだ。私がやり過ぎたのはそのせいだ」
自宅に戻った魔理沙は本棚を見上げる。魔理沙の自宅の二階は三部屋あったが、ベッドルームを除く二部屋の壁は本棚で埋まっていた。ベッドルームにも一つ本棚がある。全てパチュリーの図書館から「借りて」きたものだ。魔理沙が元々持っていた本は、部屋の隅やサイドテーブルの上に乱雑に積み重ねられている。一応借り物だからと、わざわざ本棚を自分で作ってそこに収めたのだ。もっともそれはただ収納されているというだけで、整理されているという程のものでもなかったが。
「嫌なら持ち出させるなよ。その気になれば、どんな本も盗めないように出来るんだろ」そう愚痴りながら、魔理沙は自分のささやかな書庫を眺め、本の壁に触れ、指でなぞった。こうなってまで本を借り続けられるほど、魔理沙は厚顔無恥でもない。「ここの本も返さにゃならんかな」と小さく息をついて、それから書庫の中で間違いなく最も魅力的な、あの揺籃期本を壁から抜き出した。空押しされた表紙の複雑な文様を眺める。そういえば、この表紙の文様の謎解きはまだだったな、と思い出す。「この複雑な図形はなにを象徴しているのか」そう考えていて、ふと思い出した。「本は世界の象徴である」魔理沙はほんの一瞬だが、誰が言った言葉だったか迷った。その後に言われた「魔理沙は信用できない」という言葉の衝撃が大きくて、忘れていたのだ。そこでやっと、魔理沙は冷静にあの図書館自身であるらしい魔女の言を考え直す機会を得た。
パチュリーは自分を図書館そのものだと言った。そして蔵書目録に触れ、自分が図書館に来たときは、僅かな本しかなかったと言った。そして――そこから先だ。魔理沙は本を棚に戻し、立ち上がった。
魔理沙は本を情報としてしか見ていない。そういう魔理沙は信用できないと、そう魔女は言ったのではなかったか。魔理沙は自分がいかにパチュリーに頼っているか、後ろめたい自覚があったから、信用できないという言葉だけに大きく衝撃を受けたのだ。
本は情報であるだけではない。本は象徴である。あの魔女はそう言った。魔理沙は背表紙をなでながら考える。正直言ってよく判らない。しかし、何か掴めそうなのだ。魔理沙はこの美しく希少な揺籃期本を読み込む時、確かに、今まで他の本を読むときとは違った接し方をしていた。ただ本文を理解するだけではなく、機械的に暗号を解くだけではなく、なにかこう、もっと有機的な接し方をしたような。そうして、それまで本を読んだときには感じられなかったような、何かに触れた気がしたのだ。その何かは、決して本の底に隠されていた深遠というようなものではなく、本を淡く包む空気のようなものだった。気付けば、魔理沙は狭い部屋に立ち尽くしていた。
飛ぶべきだ、と魔理沙は考えた。もはや、この本の壁で出来た狭い部屋の中に居るべきではないと。箒を取って玄関から飛び出す。魔理沙がものを考えるとき、彼女は常に空にあるのだ。頭の中にはあの揺籃期本に触れた十日間が克明に映し出されていた。
もう、魔理沙は気付いている。本とは本文という情報にのみに拠って立つ存在ではないのだ。表紙の装飾から、インクの匂い、ページの紙質や印刷の具合、そしてその本が持つ背景の歴史。手稿であれば筆の乱れや書き損じまで。全てが集まって本なのだ。一冊の本は本文の内容も含めて、そうした多様な背景の―つまり世界の―象徴なのだ。
そうだ、そして本文もまた象徴なのだ。言葉は本質として抽象的なものだ。「ここにリンゴがある」と誰かが言ったとして、それを聞いたものにとって「リンゴ」は抽象的な概念としてのみ伝わって、決して発言者の見たリンゴの像が伝わることは無い。どんな「リンゴ」か、発言者以外にはわからないのだ。例え発言者が千語を用いてリンゴを説明したとしても、説明に使った言葉もまた抽象だから、結局それは真実のリンゴに届かない。具体的な言葉など存在しないのだ。しかし、「土間の隅にリンゴが落ちてる」ならどうだろう。リンゴそのものは全く説明されていないのに、聞いたものの頭の中では、腐りかけの汚いリンゴが思い浮かぶだろう。記号として普遍的な意味しか持たなかった言葉が集積され、文章となることで、それは象徴として、意味を超えた概念を持つに違いないのだ。
◇◇◇
気がつくと、空は既に暗かった。魔理沙は黄昏の空を翔る。魔理沙の眼に映る見慣れた風景も、全て言葉に還元され、それぞれが関係しあって象徴として立ち昇ってくるかのようだ。魔理沙もまた、自分を含めた魔理沙の知る世界の象徴として存在しているのだ。
そうして魔理沙は、にわかに立ち上がった新鮮な世界を満喫し紅魔館に降り立った。あの小難しいことを言う癖に言葉足らずな図書館の主に、自分が獲得した新たな世界を伝えなければならない。きっとあの時、あの魔女は何か図書館と彼女自身に関わる秘密を、魔理沙に伝えるか考えて、そして信用できないとそれを打ち切ったはずなのだ。
大扉を開き、通路を進む。世界の象徴たる本は分類され書架に収まり、お互いが関連付けられて象徴の象徴となる。そうして本の詰まった書架が集まり、更に図書館全体で一つの象徴となるのだ。そして、あの鏡の扉だ。象徴としての本、象徴の集積たる図書館、図書館そのものである魔女、『世界』と銘打たれた部屋、それらは全て繋がっていると、もう魔理沙は気付いている。
「帰ったと思ったら、また来たのね」
「ああ、話が途中だったからな。お前が何で『図書館そのもの』なのか聞いておかないとな」
「また、信用できないといったら、怒って帰るのかしら」
魔理沙は自分の指定席である、主の対面の椅子に座って笑った。図書館の主は例によって本から眼をあげもしない。
「なぁ、パチュリー。私はわかったんだ。お前がよく言っていた『象徴』の意味が。本は単なる情報じゃないことが」
「そう。まぁ、そろそろ気付くとは思っていたわ。予想より早かったけど」
「なんだ、ちょっとは驚くなり褒めるなりしろよ」
「あのインキュナブラを持って行ったんだもの。気付いて当然よ」
「それで、続きを聞かせろよ」魔理沙は言った。
「個々の本はそれぞれが背景である世界の象徴だ。そしてそれがこの図書館に集まって、重層を成して更なる象徴になる。そう考えたら、この図書館は象徴の集積たる世界そのものだ。そして、図書館の主である魔女は自らを『図書館そのもの』と言い、その魔女の後ろには『世界』のプレートのかかった謎めいた扉がある。パチュリー=図書館=世界=鏡の扉の中身だ。さぁ聞かせろよ、扉の向こうには、何がある?」
パチュリーの表情は相変わらず読みにくいものだったが、彼女は少なからず驚いているようだった。魔理沙が一気にまくし立てたせいか、それとも魔理沙の理解が思ったよりも深いものであったからかもしれない。パチュリーは前と同じように魔理沙の眼を見つめ、そして、すこし迷ったような素振りを見せてから、アポート(引き寄せ)の魔法を使い、古めかしい大きな鍵を出現させた。その鍵を机に置き、魔理沙のほうに押し出して、パチュリーは言った。
「魔理沙。これを…」
鍵は五寸はあろうかという物で、机の上で鈍く輝いていた。魔理沙が手に取ると、それに込められている魔力を薄く感じることが出来た。
「あの鏡の扉の鍵よ。前も言った通り、中には一冊だけ本があるわ。ここに持ってきてくれないかしら」
魔理沙は鍵を手に鏡の扉の前に立つ。この扉の向こうが『世界』ならば、これは世界の鍵だ。がこんっと大きな音を立てて鍵を開けると、扉は押して開けるようになった。中は四畳半ほどで中央には石造の小さな一本足のテーブルがあり、そこに一冊の本が開かれて置かれていた。本は高さが一尺半もありそうな大版で、細かい文字でびっしりと書かれた内容は、前にパチュリーが言ったとおり目録のようだった。奇妙なことに、その目録はどうやら書きかけのようで、開かれたページの途中、ちょうど半分位から後は何も書かれていなかった。魔理沙はページをめくって、さらに後の項を確認したが、やはり白紙だった。魔理沙はその奇妙な本を抱えるようにしてパチュリーの元に戻った。表紙と裏表紙の四隅には補強の分厚い金具が鋲打ちされていることもあって、とても重かった。
どんっと重い音を立てて、その本は大机に置かれた。途中まで埋まったあのページをまた開いて、魔理沙の前に置くとパチュリーは話し始めた。
「これは蔵書目録の原本。そしてこの図書館そのもの」
「目録って、あれもそうだろ?」
魔理沙は大机の隅にいつもある、一連の黒い本を指差した。
「あれはその原本を整理したものよ。その埋まりかけのページをよく見ていなさい。すこしかかるわ」
そういうと、パチュリーは自分の席に戻って、魔理沙をほったらかして、書見台に置かれていた読みかけの本をまた読み出した。「おい?」と魔理沙が聞くと、パチュリーは言った。「黙ってそのページを見ていなさい。言ったでしょ。少しかかるって」彼女が読んでいる本は最後の数ページといった所のようだった。パチュリーがページをめくり、本を読む。そしてまためくり、パチュリーは一冊の本を読み終えた。
すると、彼女が図書館そのものだと言った目録の原本に新しい一行が、にじみ出るように現れた。まるで、それは魔法のようだった。
「これは…何だ。パチュリーが今読み終えた本が、目録に載ったのか?」
「私が今読んでいた本はこれよ」
そういって、パチュリーは本の表紙を見せる。表題は「ヒスペリカ・ファミナ」と読めた。
「なんだ、ぜんぜん違うぞ。出て来た行には『摘要:ヴェルギリウス』って書いてあるぞ」
「そう、たった今この図書館に新しい一冊が収蔵された。本の名は『摘要』著者はヴェルギリウス。私が今読んでいた『ヒスペリカ・ファミナ』はその目録のずっと前のページに記載されているわ」
魔理沙は今、目の前で起きたこと、魔女が言ったことを頭の中で必死に整理して言う。
「つまり…、つまりパチュリーが本を読み終えると、どこからともなく新しい本が増えるのか、この図書館は」
「そうよ。だからこの図書館から未読本が無くなる事はない。読めば読むだけ新たな未読本が生まれるの。そうして私は本を読み続け、この図書館を豊かにしてきた」
「これは、パチュリーの魔法なのか?」
「まさか。これはこの図書館が自律的に行っていることよ」
「何なんだ、それは。図書館がアポート(引き寄せ)の魔法を使っている?いや待て、図書館が意思を持つのか?」
「さぁ。私も明確には判らないわ。ただアポートではないわね。魔理沙はここにある古写本が余りに綺麗な事に疑問を持ったことは無い?何百年どころか、千年も前の手書き写本なのに、まるでここ何十年に書かれたかのように綺麗でしょう。何世紀も昔に失われたことが確認された本もここにあるわ。この図書館はね、どこからか本を引き寄せているのでは無く、おそらく過去に書かれた本の複製を『生み出して』いるのよ。失われた本について言えば『黄泉返らせている』とも言えるわね。それどころか、この図書館には未知の魔法則や物理法則について書かれた、絶対にこの世に無いはずの本まであるの。著者名が『世界』になっている本がそういった本ね。」
パチュリーは席を立って、魔理沙の傍まで移動する。目録原本の空白のページをなぞり、それから既に埋まったページを撫でる。彼女が一冊を読む毎に、図書館は一冊を与える。だとすれば、この目録はパチュリーの魔女としての、知識の探求者としての人生の軌跡そのものだ。
「それから、図書館に独自の意思があるのかという質問には答えようが無いわ。何を持って意思と呼ぶのか、明確に定めることは出来ないでしょ。それにそんな大げさに言わなくても、解釈は可能だわ。魔道書を弾幕戦で運用するように、魔道書の集積である図書館を、ある魔法規則にのっとって運行させることは、簡単ではないだろうけど、理屈としてはわかるでしょ」
「図書館に魔法をかけたのはパチュリーじゃないんだろ。じゃあ、この図書館は…」
「さぁ。誰が作ったのか。いつからあるのか…」
「レミリアは知らないのか?あいつはお前よりだいぶ前から生きてるんだろう?」
「この図書館は元々紅魔館とはまったく関係ないのよ。私がレミィと知り合って、それから図書館を紅魔館に転移させたの」
図書館の主は書架を、延々と続く本の壁を仰ぎ見る。ここは『世界』なのだと魔理沙は思う。砂が寄り集まって砂漠となり、本もまた、この図書館に集められて『世界』になった。この場所はパチュリーが作った『世界』なのだ。なるほど確かに、彼女はこの図書館そのものだ。
そして、魔女は『世界』を作り続ける。
「私はね、この図書館と契約したの。この図書館とそこにある蔵書を守り、その中身を永遠に豊かにし続けると。この図書館は自ら生み出した書物に『世界』と著名するから、私の契約相手は世界なのかもね。この図書館は比喩でもなんでもなく世界なのよ。マラルメは言ったわ『この世界において、すべては一冊の本に帰着するために作られている』と。そう、『全て』をここに、この図書館に収めるの」
魔理沙の頭は、まるで強烈な酒精に漬かったかのようにくらくらとした。
主が一冊読む毎に、図書館は一冊を与える。読めども読めども未読本は尽きない。主は、その生涯をかけて本を読み、蔵書を増やす。知識欲に憑かれたものにとって、それは何と甘美なことだろう。
そして同時に、いくら読んでも尽きることがないというその永遠性に、魔理沙は薄ら寒いものを感じる。それは甘美であると共に、とても恐ろしいことなのではないかと。知識を求め、本を愛する者がこの場所を得たならば、いかなる事があっても、この図書館から出る必要もなくなる。図書館の主となった者はもう、そこから出られないのではないか。
――この図書館は、まるで檻だ。
そう思うと、この場所がとても恐ろしいものに、邪悪なものに思えてきた。ここは自らを肥え太らすために知識の探求者を捕らえ、決して逃すことが無い檻だ。本末は転倒して、実は主は檻に飼い殺される虜囚なのではないかと。
そんな魔理沙の気持ちを知らぬように、図書館の主は続ける。
「思うのだけど、私が初めてここに来た時既にあった本達は、図書館が生み出したものではなく、前の管理者が自ら集めた本なのじゃないから。前の管理者も本を読み、図書館は本を生み、そうして『世界』は膨らんでいったの。だけれども、管理者が死ぬと彼によって知覚された『世界』は消えてしまう。そうして、管理者の死と共に図書館が生んだ本は消えてなくなる。そうやってこの『世界』は運行されているの。私が死ねば、前の管理者達と私が集めた本以外は、――きっと消えてしまうのよ」
そして、主が死ぬと、その人生そのもであった筈の蔵書も消える。「お前の生は終わった。お前の生の軌跡もまた消えるのだ」この図書館の嘲笑が聞こえるかのようだ。
「だから、私は図書館そのものなの」
パチュリーは、図書館の主は、世界の構築者は、囚われた探求者は、そう言った。
死ねば全てが無に帰す。まるで主の人生など、端から存在していなかったかのように消え去ってしまうのだ。図書館の虜囚は、それに気付いていても、逃げ出すことが出来ない。全てが消えてしまうことを承知で自分の生の象徴である本を増やし続けるのだ。
そうして考えれば、この図書館はまるで、悪魔が創った檻ではないか。生者を捕らえるぶん、賽の河原よりよほど性質が悪い。パチュリーはわかっているのだろうか。彼女のことだから無論わかっている筈だと思うのだが、同時に悪い考えが消えない。捕らえたものを逃がさないようにする一番良い方法は、捕らえられていることを自覚させないことだ。
「魔理沙。あなたが考えていることはわかるわ」
パチュリーは魔理沙に視線を戻す。魔理沙もまた彼女を見る。魔理沙は自らの視線にパチュリーの狂気を探る匂いが混じることを、隠すことが出来ない。
「あなたは、私をまるで図書館に囚われた虜囚のように思っているのでしょ?死ねば全てが失われるという無為性に邪悪なものを感じているのでしょう?」
魔女は――笑っている。
「でも、どうかしら?この図書館が檻だとしたら、この檻ほど広大な檻は無いわ。人なんて皆、大なり小なり檻の中で一生を終えるのよ。誰もが皆何かに、物理的なものに、精神的なものに縛られている。どんなに自由な者も、この世界の全てに触れることは出来ないでしょう?」
魔理沙もまた、おそらく世界の全てに触れることは出来ないだろう。
「魔理沙。私はね、この図書館を手に入れるために魔女になったの」
この図書館の魔女は、まさに図書館のために人の身を捨てたのか。
人間である魔理沙には永遠というものが恐ろしい。限りない時間の蓄積が、その肩に圧し掛かり体を押し潰すかのようだ。生まれながらに魔法が使えたというこの魔女は、未だ種族としては人間であったその時に、その重みに耐えて、人を捨て、永遠を図書館に捧げることを選んだのか。魔理沙は、重く分厚い未完の目録をなでる。この目録はパチュリーの生そのものなのだ。それに自分は今、触れている。
同時に、ある思いが心の奥に湧き上がる。この原本を今、ここで焼き払ってやろうと。この虜囚を図書館から解放してやると。それは一瞬だ。目の前に居る魔女にだって止められやしない。そうして、魔理沙は拳を握りしめ、――息をついた。
「はぁ」と声に出して、魔理沙は大きく息をついた。危うく、自分もこの図書館と同じ事をする所だったと、大きく息をついて背もたれに寄りかかった。魔女はそれを見届けて、それから、また続けた。
「死ねば全てが失われる?誰だって何だってそうでしょう?それにね、自分が死んだ後の事を考えるのは人間だけよ。私はもう人間ではないの。私からすれば、死んだ後にまで、何か自分の影響を残したいなんて、浅ましいにもほどがあるわ」
魔女は、無為を恐れないのか。「いや、少し違うかな」と魔理沙は思う。
人間は過去を想い、未来を考えるが、実際にはそんなものは無い。時間には実際のところ今しかない。過去も未来も頭の中にしかないのだ。しかし人間は、自分の過去が無為であったことに耐えられないし、未来が無為に終わることを恐れる。それは人間の生の短さによるものかもしれないと、そうも思う。人間の短い生を人間は知覚してしまうのだ。獣は無為を恐れない。それは獣が自分の生の終わりを知覚できないからではないか。同じように生が十分に長く、それを実感として知覚できないならば、それならば無為など恐れるに足りないのかもしれないと。
しかし、魔理沙は人間だ。今、魔理沙は自分が人間であることを、無為を厭う自分を、これまでに無く強く感じている。
そして、魔理沙は強く、この上も無く強く思った。私も本を書くべきだと。その本をこの図書館に収めなければならないと。
「…お前、前に言ったよな。この図書館には自分が集めた本もあるって。そういう本は消えないんだろ?なら、残るじゃないか。パチュリーの痕跡が、お前が生きた証が」
「…そうね。でも重要なことではないわ。瑣末よ」
「いいや、違うぞ。いや、少なくとも私にとっては違うぞ。私は人間だからな。自分の生きた爪痕を、そこらじゅうに残してやる。この図書館にもだ」
魔理沙は声を張る。決心を自分に言い聞かせる。
「そうすれば消えないだろ。この図書館の主には人間の魔法使いの友達が居たことも、そいつが格好良い奴だったことも、図書館の主がただの象徴ではない、真実の人間と触れ合ったことも、全部、残るんだ」
ずかずかと、人間の魔法使いは、魔女の作った『世界』に踏み込んでいく。
そうして魔理沙は高らかに宣言した。
「私は本を書くよ、パチュリー。本を書いて、それをこの図書館に収める。そうして私の象徴をここに残す」
◇◇◇
魔理沙は、本を開いた。
正確にはまだ本の形にはなっていない。それは何百枚もの紙片で、今魔理沙はその紙片に何か書き足したり、自分で書いた文字が埋まった紙片に大きくバツ印を上書きしたり、うんうん唸ったりしている。
今、魔理沙の部屋を観察するものがあったなら、彼女の部屋にあった、乱雑に積み上げられていた彼女自身の本が、綺麗に本棚に納まっていることに気付くだろう。魔理沙は読書家から駆け出しの愛書家になったのだ。
あの時、魔理沙が高らかに人間宣言をした後、魔女はしばらく呆けたようにぼうっとして、それから「そう。期待しないで待ってるわ」と、それだけ小さく言った。
図書館は世界であり、そして檻でもあった。魔女は主であるというも、むしろ虜囚だった。いかにその虜囚が幸せなものであったとしても、自由を愛する魔理沙からすれば耐えられなかった。他人であろうと関係ない。いやなものは嫌なのだ。だから魔理沙は彼女の世界に踏み込んだ。虜囚ではなく、図書館という「世界」の主に彼女を押し上げるのだ。他の誰でもない彼女が主だと。彼女を、今は名も無い図書館管理者の群れの一部にしてはならないと、彼女がそうなってしまえば、魔理沙もまたその一部の一部になってしまうのだ。
あの鏡の扉の向こうにある目録原本は世界中から本を集め、そして自ら生み出した本に『世界』と著名する。その行為は図書館の管理者を『世界』の一部として取り込んで、「お前は虜囚だ」と宣告する行為に他ならない。
魔理沙は毒ずく。「クソ食らえだ」その『世界』は未完だ。なぜなら図書館の管理者はその『世界』に管理者としてしか存在しないから。世界の一部に含まれて居ないから。
魔理沙は本を書く。自分の生の痕跡をあの図書館に残し、それは魔理沙の象徴であると共に、魔理沙の世界の一部としてパチュリーの象徴でもある。虜囚としてではなく、世界の一部として主を『世界』に含めさせるのだ。そうして、檻の虜囚は――世界になるのだ。
魔理沙は本を書く。誰かが「世界のすべては本に書かれるために在る」と言ったと、魔女はそう言っていた。魔理沙は、今はまだ沢山の紙片である将来の本に、魔理沙の世界を書き取ってゆく。書くことで世界は象徴になり、それは魔理沙自身になる。
そうして魔理沙もまた、世界になった。
(了)
面白かったです。
あの図書館は失われた書物も複製できるのでしょうか?
一度この世に生み出されたのなら可能なのではないかと私は思います。
何故なら世界はその書物が生み出されたことを『記憶』してるからです。
そしてふと思う。
あのビブロフィリアはこのことを知ってたなら図書館と契約したのだろうかと。
ともあれ面白い作品でした。
頭の仲→中
頭のかな→なか
面白かったです。
本心では慎重な魔理沙というのもらしいですね。
最後が「人間」魔理沙の矜持の現れとでもいうべきエピソードで締められているのも後味良かったです。
映像化してもすこく良いものになりそう。
でもそのあと展開が、魔理沙に共感できなくて残念だった。
えっそんなとこに拘っちゃうの?って感じ。
最後のパチュリーのために本を書くって言うのはよかった。
パチュリーは期待しないとか言ってるけど絶対期待してると思う。
魔理沙ちゃんの書く本のタイトル、目録ではラブレターと載ってたりするんだろうか
時間を操るライターに書かせたレミィの自伝もそのうち書架に収まりそう
深いところまで考察が為されていて、作者さんのSSに対する姿勢が伝わってきます。
文章から彩りを想像させるって凄い。
作者の書籍観についても、私にとって新鮮なものでした
面白かったです
うむむ 豊かなコメントが思いつかない
もっと世界を味わって勉強します
あなたの書く魔理沙が好きです。
「あのインキュナブラを持って言ったんだもの。気付いて当然よ」
→行った
面白い設定でした。
微妙におかしい魔女もいい
面白かったです。