季節は秋。
短い昼間はとうに過ぎ、太陽は既に沈んでしまっている。現在の時刻は長い夜が幕を開いた頃合。
「咲夜。明日、貴女に暇を出すわ」
いつものようにベッド脇に控えていた咲夜に、レミリアは起きて開口一番、そう言い放った。
「……お嬢様。それはどういう事ですか? 何か落ち度があったのなら仰って下さい」
あまりにも唐突なその言葉に、咲夜は不満と疑問を入り交じらせた声でそう告げる。
レミリアは一度小さく、ふぅっと溜息を吐き、再び口を開く。
「その様子だと、貴女は気づいていないようね。……いや、敢えて気づかないようにしてた、という方が正しいか」
やれやれ、とでも言いたげな様子のレミリア。
咲夜は言葉の意味が分からない、と言った様子で僅かに首を傾げる。
「そうねぇ。例えば、今日は紅茶を用意していないわね」
その言葉に、咲夜ははっとして口元に手を当て、驚きの表情を見せる。
「す、すみませんお嬢様っ。今すぐお持ち致しますっ」
「咲夜っ!」
慌てて踵を返して駆け出そうとした咲夜を制そうと、レミリアは威圧感を込めた声で叫ぶ。
咲夜はその声に驚き、踵を返したところでびくんっと全身を硬直させる。
「紅茶は今はいいわ。それより、これで分かったでしょう?」
感情の篭っていない、冷たい声。
しかし咲夜はじっとして動かない。その様子は、そのままレミリアに答えとして伝わる。
「まだしらを切るつもりか。ならば言ってやろう。お前はどうしてかは知らないが、疲労している」
事実、咲夜はここ数日で疲労を溜め込んでいた。
発端はフランドールが何故だか連日トチ狂った叫び声をあげながら大暴れしていた事。
普段ならば魔理沙が相手をしているのだが、生憎と魔理沙は実験か何かで家に篭りっきりでいなかった。
そういう訳で仕事の終わって暇な美鈴が逸早く駆けつけて相手をしたものの、1分程で撃沈。レミリアはレミリアで外に出るわけでもないから、と敢えて放置していた。一般メイドでは何人いたってフランドールの相手は務まらない。仕方なく、咲夜が相手をする事になった、という訳である。
加えて破壊された広範囲の後片付けに普段の仕事。いつものように時間を止めて休憩する余裕がなく、今日に至った。
咲夜はもう一度踵を返し、レミリアの方へと向き直る。
その表情は心外だ、と言わんばかりに憮然としている。
「それは何かの勘違いです、お嬢様。確かにお目覚めの紅茶を忘れていたのは私の落ち度です。しかし――」
「咲夜っ!!」
レミリアは先ほどよりも更に威圧感を込めた声で叫び、一喝する。
咲夜はもう一度全身を硬直させ、顔を俯かせた。
「何も紅茶の事だけではないわ。ここ最近もそう。だけどそれは今はいい、置いておくわ。それからさっき言った”暇を出す”という言葉。覚えてるわね?」
俯いていてレミリアの方からは咲夜の表情は読み取れない。それでも、レミリアには咲夜がどんなカオをしているか――手に取るように分かっていた。その声には今の威圧感は消えていて、普段の声色に戻っていた。
咲夜は小さく頷き、肯定の意を示す。
僅かに満足そうな笑みを口元に浮かべ、レミリアは更に続ける。
「紅魔館の主、レミリア・スカーレットとして命ずる。従者・十六夜咲夜。お前に一日の暇を与える。賜れ」
事務的な、しかし「永遠に紅い幼き月」としてのカリスマを感じさせる声でレミリアはそう告げる。
「――はい。従者・十六夜咲夜。有難く、後日のお暇を頂戴致します」
対し、咲夜は恭しく、深々と頭を下げて同じく事務的な口調でレミリアの言葉を賜った。
こうして、十六夜咲夜は一日の暇を与えられる事となった。
次の日の午前。
「いきなり暇を出されたって……やる事なんか思いつかないわよ……」
咲夜は何をするでもなく、部屋にいた。
机に突っ伏していて、非常に暇そうである。
「時間の進みが遅い……」
ちらりと目線だけで時計を見て、呟く。
咲夜本人としては時間など弄ってしまえばどうにでもなるのだが、この一日の休暇はレミリアによって命令として与えられたもの。従者として、それを裏切るような事は到底出来ない。
はぁっ、と小さく溜息を吐き、机を指でトントンと叩く。
それを気だるげな瞳で見つめながら、咲夜はどうしたものか、と考える。
咲夜は何か異変がない限り、紅魔館の外に出る事はない。一日を仕事で終える為、特に娯楽というものを持たない。趣味的なものとしては手品が挙げられるが、生憎と手品は観客がある程度必要となる。しかしながら、紅魔館で働く人妖達――つまりは咲夜の部下達は当然、今日も仕事。とてもメイド長自らが集める事は出来ない。そもそも、メイド長が部下を集めて暇潰しに能力を駆使した手品を披露するなど、立場上、非常にまずい。
紅魔館の外に出るという選択肢もあったが、普段から何かと困らせられたりしている連中に個人的に会いに行くのは気が乗らない。自分はこんなにも”自由な時間”が苦手なんだなぁ、と咲夜は少しだけ憂鬱になる。
そうしてもう一度溜息。今度は少しの自己嫌悪を含んだ、腹の底から吐き出すような重い吐息。
そこまで考えたところで、咲夜はもう一度視線だけで時計を見やる。
「まだ5分、か……」
呟いて、視線を戻して咲夜はどうしよう、ともう一度考える。
紅魔館で暇そうな人物に暇潰しの方法を訊いてみよう、と。
そして咲夜の頭には該当する人物がたった一人いた。
「美鈴しかいないわよねぇ、毎日暇そうなのって」
現在時刻は11時を少し回ったところ。
本当は今すぐにでも訊きに行きたいが、いくら暇を貰った身とはいえ咲夜はメイド長。部下にも今日はレミリアから一日の暇を頂いた事は伝えているが、あまりほいほいと姿を晒すのはよろしくない。故に次の休憩時間――お昼を待つ必要がある。
定められた昼の休憩時間まではもう後1時間かそこら。
仕方なしに、咲夜はじっと時間を待った。
そして待ちに待った休憩時間。
咲夜は逸る気持ちを抑え、いつもの足取りで紅魔館の門へと向かった。
途中、休憩時間でざわつくメイド達に紛れていたお陰か特に呼び止められるなどという事もなく、咲夜は少しだけほっとしていた。
そうして門に辿り着いたが、何故か美鈴の姿は見止められない。
既に休憩時間なので、もしかしたらもう昼を摂りに食堂にでも行ったのかもしれない。そう思い、咲夜は一路食堂を目指して歩き始め――て数秒、大木の前で足を止めた。
理由は探していた人物、紅 美鈴がそこにいたからである。しかし、美鈴は休憩時間に相応しい、昼を摂る等の行動をしていなく、幹を背もたれにして寝ている。それも熟睡で、涎を口の端から垂らして実に幸せそうに。
休憩時間に入ってからすぐ寝たとも考えられるが、この熟睡っぷりはとてもついさっき寝たとは思えない。となれば答えはひとつしかない。
仕事サボって寝ている。
「こんの……アホ門番!」
周囲に”ゴツンッ”という鈍い音が響き、その音に驚いた鳥達がざざざっという葉ずれの音を立てて飛び去って行った。
「な、なんだなんだ魔理沙か霊夢か敵襲かーっ!?」
咲夜の拳骨は威力抜群だったらしく、美鈴は門番らしいのかそうでないのかよく分からない言葉を吐きながら、跳ねるようにして起き上がった。
「お早う美鈴。とても気持ち良さそうだったわね」
実に瀟洒な笑みを顔に張り付かせつつこめかみに青筋を浮かび上がらせて、いやに落ち着いた声で咲夜はそう言った。背後から怒りのオーラを迸らせ、いつの間にか両手に数本のナイフを握っているのが更に恐怖を倍増させる。
「えぇっと、そのぉ~……オハヨウゴザイマス」
起き抜けの眠気が一瞬で吹っ飛んだ美鈴の頭はその様子からすぐにサボっていたのがバレた事を悟り、苦笑いを浮かべつつどうにかそれだけを返した。
「何か言い訳はあるかしら?」
「あ、は、はは……天気が良くて眠かったし、咲夜さんは休暇だと聞いたので、つい……」
「そう。実に素敵な言い訳ね。それじゃ、覚悟はいいわね?」
「出来れば優しくして頂けると助かります、なんて、あははははははは、はは、は……ごめんなさーいっ!」
最早これまで、と覚悟した美鈴は一縷の望みを託してその場で土下座を敢行するが、お仕置きモードの咲夜に通じる筈もなく。
周囲に痛々しい絶叫が響き渡った。
「うぅぅ、すみません……。今度からはサボったりせず、キチンと仕事します……」
額や帽子にナイフが数本刺さった姿でペタンと女の子座りという格好で涙を流しつつ、美鈴はそう謝罪の言葉を述べる。
腕を組んで見下ろす咲夜の表情はまだまだ怒りが浮かんでいるが、先ほどに比べると幾分かはマシである。
「今日は一応休暇だし、もうお昼だからこれ以上は言わないけど。次見つけたらお嬢様に千本の針の山やって貰うから覚悟しておきなさい」
「ひえぇ、それだけはご勘弁をーっ」
以前にもやられた事があるのか、美鈴は更に涙の量を増やして震えながら懇願する。
その様子があまりにも哀れだったせいか、咲夜は一度深い溜息を吐いてふっと怒りの表情を和らげた。
「だったらしっかり気を引き締めて仕事しなさい。暇かもしれないけど、門番は貴女一人。ある意味特別職なんだから」
そこで説教は終わり、とばかりに咲夜は美鈴の隣に腰掛ける。
それを見て美鈴も説教が終わった事を悟り、刺さったナイフを抜きつつほっと安堵の溜息を吐く。
「それより、寝てたんならお昼まだでしょう?」
「お昼……? あ、もしかしてもう休憩時間ですか?」
美鈴の若干トボけた質問に、咲夜は少しだけ呆れる。
まぁ起きたのが休憩時間に入ってからで、先ほど咲夜が言った筈の「もうお昼だから」という言葉も次の「千本の針の山」という単語のインパクトに打ち消されてしまったのである意味では仕方ないのかもしれない。
「まぁいいんだけど。で、食べるなら一緒に食べない?」
「咲夜さんとですか?」
「ええ。嫌かしら?」
咲夜の言葉に、美鈴は首を左右にふるふると振る事で答える。
「そう。じゃあ食堂に行きましょうか」
先に立って歩こうと、咲夜は腰を上げる。
美鈴も「はい」と応え、それを追う形で立ち上がる。咲夜はそれを見て歩き出し、美鈴は少し慌てて隣に並び、歩き出す。
そして食堂に向かう道すがら。
「理由、訊いてもいいですか?」
咲夜の方を見ず、美鈴は歩きながらそう尋ねた。
「昼食に誘った理由、かしら?」
訊かれる事が分かっていたのだろう。
躊躇う事なく、同じく歩きながらそう確認を求める。
「はい、そうです。さっき自身を怒らせた相手を何事も無かったかのように昼食に誘う――初めからそう決めていたか、何かそうする理由がないとしませんよね」
「ふぅんー―意外と色々考えてるのねぇ」
「むっ。それって馬鹿にしてます?」
感心したような咲夜の言葉に、美鈴は少しむっとした表情になる。
「別にそういう訳じゃないわよ。ちょっと感心しただけで、他意はないわ」
「それが馬鹿にしてるんですけど――まぁいいです。で、どうして昼食に誘ったんですか?」
咲夜の返答に少しだけがっかりして、気を取り直した声色で再度問いかける。
「ちょっと訊きたい事があるのよ。別に真面目な話でもないから、昼食の最中ぐらいが丁度いいだけ」
美鈴はそれに対して「そうですか」と答えただけで、その先を訊こうとはしなかった。どうせ昼食の際に分かる事だから、というのもあるのだろう。しかし、今この場で追求しようとしない美鈴に咲夜は少しだけ感謝した。
それから食堂に着くまで、美鈴が他愛もない話を振って咲夜がそれに相槌を打つ、といった事が続いた。
咲夜の声が”ちょっと訊きたい事がある”程度じゃ無かったのを美鈴が感じ取って気を利かせた結果、重い空気や沈黙が流れる事は無かった。
紅魔館で働くメイドの数は館の大きさに比例して、多い。いや、むしろ過剰人数と言える。
それだけ居る理由は様々。レミリアのカリスマや強さに惹かれた者もいれば、あまり強くなく自己防衛手段として働く者もいる。加えて紅魔館は来る者拒まず、という姿勢。
故に、昼食時に限らず全ての食事はあまりの人数に食堂で一斉に摂る、などという事は出来ない。
そんな訳で、紅魔館は食堂にてランチボックスを配給するシステムを採っている。
このシステムにはレミリア以外の紅魔館に居る人妖全てが組み込まれており、メイド長たる咲夜や門番の美鈴は元より、図書館で司書として働く小悪魔や図書館の主・パチュリーも例外ではない。最も、パチュリーは小悪魔に自分の分の食事も一緒に取りに行かせて自分から動こうとはしないのだが。
二人は食堂でランチボックスを受け取り、先ほど美鈴が寝ていた大木の根元に二人並んで座っていた。
この日のメニューは卵やハムを始めとした色鮮やかな一口サイズのサンドウィッチにプチトマト、それに小さな水筒に入った紅茶、それからデザートの小さなケーキ、といったもの。
「急かすようで申し訳ないんですけど、そろそろ聞かせて頂けますか?」
一口サイズのサンドウィッチが半分程に減ったところで、先に口を開いたのは美鈴。
咲夜は手を止めて口の中の物を飲み込み、開く。
「そうね。平たく言うと、暇の潰し方なんだけど。貴女は普段どうしてるの?」
「暇の潰し方、ですか。てっきりメイドじゃなく門番の私に訊くぐらいだから、どんな事なのかって思ってましたけど……それだったら別に私でなくてもいいんじゃないですか?」
「逆よ。毎日退屈そうにしてる貴女だから訊いてるのよ」
美鈴にしてみれば咲夜の見解は大変失礼だったのだろう、少しむっとしている。しかしこれはこれで事実なので特に言い返す事はしなかった。
「私は大抵図書館で何か本を借りて読んだり、自己鍛錬をやったりしていますよ」
「たまに仕事をサボって昼寝したりも?」
「あ、あれは、その……ついというか何というか……。もうしませんから、許して下さいよ~」
咲夜の意地悪な指摘に、美鈴は罰が悪そうな、少しヘタれた声を出している。むしろ表情にまで出ていて、その事を反省しているのが見て取れる。
その様子がおかしかったのか、咲夜はくすくすと笑い出す。
「ふふ、冗談よ。冗談」
ひとしきり笑ってから言った咲夜の言葉には、端々にからかいが混ざっている。
美鈴はからかわれた事に文句を言おうとしたものの、やっぱり自分が悪いので言うわけにもいかず。
結果、その憤りを食にぶつけだす。
半分程残ったままのサンドウィッチを口いっぱいに詰め込み、美鈴の頬は栗鼠のように膨れている。片手で唇を押さえてもぐもぐと咀嚼。表情は憮然としたものなのだが、それがまた膨らんだ頬と相まってなかなかにユニークだ。その様子が可笑しくて、咲夜はまたくすくすと笑い出す。
「む、ぐ――ぐぐ、ぅ……」
ごくんと詰め込んだ物を嚥下した途端、美鈴は胸を拳でどんどんと叩きながら苦しみだす。
どうやら喉に詰まったようだ。
「ああもう、無理して詰め込むから……ほら、お茶飲みなさい」
しょうがないなぁ、と言いたげな表情の咲夜。水筒から蓋兼コップに中身を注ぎ、美鈴に差し出す。
美鈴はそれを受け取ると、一気に飲み干す。
すると詰まった物が流れたらしく、ほっと息を吐いている。
「まったく、慌てて食べるからよ」
呆れつつもその表情には何一つ嫌なものは浮かんでおらず、咲夜はこの状況を楽しく感じていた。
美鈴はそんな事にはまったく気づかず、罰が悪そうな表情でデザートのケーキを食べ始めている。頬が少し赤くなっており、照れ隠しも含まれているようである。
それから15分程経った頃。
咲夜は昼食を終え、紅茶を飲んで一息吐いていた。美鈴は先ほどの行為で既に昼食を終えてしまっていた為、少々手持ち無沙汰にしながらも咲夜の食事が終わるのを大人しく待っていた。
そして咲夜が一息吐いたところを見計らい、美鈴は口を開いた。
「今度は私の方から質問があるんですけど、いいですか?」
「質問? いいわよ」
「今日の休暇の理由なんですけど。今まで異変以外で咲夜さんは休みを取った事はないですよね。今回は取ったというか、レミリアお嬢様から頂いた、っていう違いはありますけど……それはそれで何か理由があるんじゃないかって思ったんですよ」
「それは、どうしても訊きたい事なの?」
美鈴は空を見上げ、少し考え込む。
「……いえ、答えたくないならいいです。ちょっと気になっただけですから」
そしてこう言ったものの、その様子は少し残念そう。
しかし本当は凄く訊きたかった事で、それは美鈴なりに咲夜を心配している事の証拠にもなっていた。
咲夜はその様子をちらりと横目で見て、美鈴と同じように空を見上げる。
「……まぁ、隠すような事でもないし、いいわ」
それを聴いた美鈴の表情がパッと明るくなる。
「私自身は今日になって気が付いたんだけど、どうも疲れているらしいのよ」
「”らしい”?」
「ええ。気が付いたけど、自覚はあまりないのよねぇ……確かに気を抜くと疲れを感じるんだけど、仕事に支障を来たす程でもないのよ。わざわざ丸一日の休みを与えたお嬢様の意図が分からない」
「心当たり、あるんですか?」
「疲れを感じるような経緯の事?」
美鈴は顔を水平の位置に戻し、コクリと頷く。
それを気配で感じ取った咲夜は先を続けようと口を開いた。
「多分、何日か前のアレね」
「アレって、妹様が連続で大暴れしたヤツですか?」
「それよ。というか、それしかないのよ」
「そうですー―か」
美鈴は少し沈んだ声でそう言った後、顔を俯かせて何事か考え込む。
咲夜はその様子を不思議そうに見つめている。
そうして考え込み始めてから1分。
美鈴は突然パッと顔を上げ、咲夜の腕をがしっと掴んだ。そしてそのまま立ち上がり、咲夜も引っ張られる形で少しバランスを崩しながらも立ち上がった。
構わず、美鈴は咲夜の手を引いたまま林の方へと駆け出す。
「ちょっ、ちょっと美鈴っ。突然、どうした、のよっ!?」
どうにか転ばないよう、少々不恰好に走っているせいか咲夜の言葉は途切れ途切れ。
「もうそんなに時間ないですから、急ぎましょうっ」
美鈴は立ち止まらず、走りながらそう答える。が、それでは当然咲夜には美鈴の行動の意図は読める筈もない。仕方なく、咲夜はそのまま手を引かれて走り続けた。
林を数分ほど走ると突然視界が開け、二人を少し強い風が包み込んだ。
咲夜は突然の風に思わず目を閉じるが、肌で風が弱まったのを感じ取るとゆっくりと目を開いた。
「ここは――?」
「あまり知られていないんですけど、私のお気に入りの場所です。遠くを見て下さい。景色、凄くいいですよ」
位置的にここは紅魔館のある島の西端に位置し、後ろを見上げると図書館の屋根が見える。本館はここからだと東側という事になるが、生憎高い木が密集しているせいか屋根が少し見える程度である。
地面は一面の緑。
美鈴の言葉通り、開けたこの場所からは湖と空を一望出来、遠くを見渡すと空の青、雲の白、湖の青が圧倒的なスケールをもって視界に飛び込んでくる。
咲夜はその光景に目を奪われ、走りっぱなしだった疲れなどないかのようにじっと立ち尽くしている。
美鈴は咲夜の右横に立ち、肩をぽんっと軽く叩く。
すぐにそれに気づき、咲夜は顔を美鈴の方へと向ける。
「どうですか?」
「知らなかったわ――。こんないい場所があるなんて。驚いてる」
そこで美鈴は何も言わず、その場に腰を下ろす。咲夜もそれに倣って座り込む。
それと同時に美鈴は空を見上げ、口を開く。
「魔理沙に負けたり、疲れたり、何か落ち込む事がある度に私はここに来てるんです。空も湖も凄く広くて大きくて。この景色を見てると、色々と忘れさせてくれて、いい気分転換になるんですよ」
その美鈴の声は時折吹きつけてくる、水気を含んだ涼しい爽やかな風のよう。
「空を見上げて目を閉じてみてください」
理由は聞かず、咲夜は言葉通り空を見上げて目を閉じる。
すると、咲夜は全身を撫でつける涼しい風や穏やかな空気、地面の柔らかい感触をより強く感じた。
その感覚は朝から――いや、幾日か前から感じていた、身体を鈍重にさせる疲労感を吹き飛ばし、咲夜は身体が少しだけ軽くなるのを実感していた。
咲夜がその心地よい感覚に浸ってると美鈴は突然咲夜の頭を両手で掴み、自身の膝に引き寄せた。
曰く、膝枕の体勢である。
その不意打ち気味の行動に、咲夜は一瞬呆ける。が、すぐに頬に当たる柔らかくて温かい感触に気づいて自身の状況を理解する。それとともに、頬がかぁっと赤く染まっていく。
「ちょちょ、ちょっと美鈴っ」
咲夜はすぐに抗議の声を上げて顔を起こそうとするが、美鈴が両手でガッチリと掴んでそれを阻んでしまっている為、それは叶わなかった。
「突然、何なのよ……」
「疲れてるんなら昼寝でもどうかな、と思って。それから膝枕。気持ちよくないですか?」
美鈴は悪びれる様子もなく、にこにことしている。邪気の無いその笑みに、咲夜はますます顔を紅潮させていく。
「そりゃ、まぁ気持ちはいいけど……恥ずかしいじゃない。誰かに見られたら……」
「あははっ。大丈夫ですよ。私がいる時は誰も来た事ないですから」
つまり大丈夫とは言えないのだが、生憎と咲夜はそれどころではなかった。「そ、そう……」と動揺が分からないように、最低限の言葉だけを返して黙り込む。相変わらず、頬は紅い。心臓の鼓動も速いことだろう。
そうやって咲夜が内心で狼狽していると、美鈴は何を思ったのかすっとその額に優しく手を置いた。
「あ―――」
突然額に乗せられた手の感触に、咲夜は一瞬驚く。が、すぐにその驚きは何処かに追いやられ、代わりに咲夜はその手から全身を包み込むかのような、安心感を感じ取った。同時に、頬の熱や心臓の鼓動も波が引くようにすぅっと消えていき、表情も穏やかになっていく。
その感覚をもっと強く感じようと、咲夜は目を閉じた。
「……その、ずぅっと言おうと思っていた事があるんです。そのままでいいので、聞いて頂けますか?」
少し申し訳なさを含んだ声。
美鈴にとって、大事な話なのだろう――。咲夜はそう思い、肯定の意を示す為にコクリと頷く。それを見て、美鈴は口を開く。
「この間の妹様が暴れていた件で、私は一瞬で撃墜されましたよね。その所為で咲夜さんが相手をする事になって、後始末までして……。私が、もっと強ければ……。だから、咲夜さんが疲れてる原因は私にもあると思うんです。だから――」
ごめんなさい、と続けて、美鈴はぺこりと頭を下げた。
しかし咲夜にとってはあれもやはり仕事で、 この美鈴の告白は本当に意外だった。
少し躊躇したが、咲夜は考えを纏めて話し始める
「……そんな事気にしてたの? 別にいいわよ。ああなった以上、もう私の仕事だもの。謝られても困るわ。貴女は門番で、外からの敵を防ぐのが役目。私はメイドで、門の内側を守り維持するのが役目。そもそも、謝る必要がないのよ」
「咲夜さんなら、きっとそう言うと思いました。けど、私が一番早く駆けつけて相手をして――それで終わってれば良かったのも事実ですから。咲夜さんがどれだけ仕事っていうものを大事にしてるか、同じ紅魔館で働いてるから知っています。だから咲夜さんにとっては、今日一日の休みは不本意だと思うんです。だから、例え私の独り善がりだとしても、謝らないといけないんです」
咲夜が目を開くと、そこには申し訳なさそうな少女の貌。
「居眠りしてたのはそういうのが理由だったの?」
その問いに、美鈴は小さくコクリと頷いて返事とした。
”仕方ないわね……”と、咲夜は目前の美鈴にさえ聞こえない程の小さな声で呟いた後、額に乗せられたままの手をどかして身体を起こし、その横に腰を下ろす。
美鈴の頭を帽子の上から、片手でぽんぽんっと軽く優しく、撫でるようにして叩く。そうしている咲夜の表情には、穏やかな微笑みが浮かんでいる。
「確かに、私には大っぴらな休みは必要ないわ。能力を使えば休憩は幾らでも取れるし、お嬢様はそれを分かって暇を出された――私は、それに何か意味があると思ってる。今のとこは、そうね――貴女から暇の潰し方を教わる――こんなとこね。申し訳ないと思ってるのなら、それでチャラって事にしときなさい。納得するかしないかは貴女次第だけど」
しかし、美鈴は俯いて黙り込んだまま。表情からは、まだ納得いっていないというのが見て取れる。
「納得いかない?」
「ええ、まぁ……。何日も妹様の相手をして後始末をして――とても割に合いませんから」
咲夜は美鈴から見えないようにこっそりとエプロンのポケットから懐中時計を取り出し、時間を見る。
そのまま横にゆっくりと身体を倒し、咲夜は先ほどと同じ体勢を取った。
「ひゃっ!? あ、その……咲夜さん?」
突然の行動に驚き、美鈴は見るからに困惑している。不意打ち気味だったせいか、頬が少し赤い。
「あと30分ぐらいで休憩時間終わるわ。それまで寝るから、時間になったら起こしなさい」
”その間、納得のいく答えでも見つけなさい”と言ってから、咲夜は寝返りをうって美鈴に背を向けるような体勢を取る。
少ししてすーすーと規則正しい寝息が聞こえ始め、それが咲夜が眠った事を物語る。
眠る咲夜の背中を暫く見つめてから美鈴は小さく溜息を吐き、”まぁいっか”と起こさないように小さく口の中で呟いて空を見上げた。
胸中で”納得するとかしないとか、もうどうでもいいかな――”などと思いながら。
そうして約束通りの30分後――正確には、その3分程前。
「――くやさん。咲夜さん。時間ですよ。起きてください」
咲夜を起こそうと、美鈴は肩を揺する。
「ん、ん―――。……もうそんな時間?」
寝ぼけ眼を擦りながら身体を起こし、咲夜は小さく欠伸をしている。
それを見て、美鈴はくすくすと笑っている。
「……何で笑ってるのよ?」
「あ、いえ、寝起きの咲夜さんが新鮮で、つい――」
「新鮮でも笑う事はないじゃない」
咲夜は少し憮然とした表情で腕を組み、そう言う。
美鈴はそんな咲夜の様子がまた可笑しいのだろう、まだくすくすと笑っている。
「もうっ。それ以上笑うとナイフ投げるわよ」
「あはははっ。すみません。それから――」
そこで美鈴は一旦言葉を切り、不意打ち気味に咲夜の耳元へ顔を接近させる。
「寝顔、可愛かったですよ。ご馳走様でした」
からかうような口調と小さな声。
美鈴は少し顔をずらし、頬に唇を軽く押し当てる。
瞬間、咲夜の頬がみるみるうちに紅く染まっていく。
その様子を至近距離で満足げに眺め、美鈴はすぐに立ち上がる。
「それじゃ仕事に戻りますのでーっ」
「あっ、ちょっと――」
美鈴はやけに明るい口調でそう言い、踵を反して駆け出す。
咲夜はすぐに声を上げて呼び止めようとしたものの、既に午後の勤務時間が始まっている事に気づいて思い留まった。
秘密の場所にポツンと取り残された咲夜は暫し呆然。
それから、美鈴がそうしていたように空を見上げた。
太陽は高く、秋とはいえそれなりに暑い。しかし湖の水気を含んだ風はそれを忘れさせてくれる程に涼しい。
目を閉じ、その涼風を全身で感じる。暫くそうやっていると、咲夜は先ほど眠って解消した筈の眠気をまた感じ始めていた。
身体を後ろに倒して寝転がり、地面に大の字を描く。目を閉じると、咲夜はすぅっと眠りに落ちていった。
”今度仕返しに同じ事してやるわよ、美鈴――”
その眠りに落ちる寸前、咲夜は頭の片隅でそんな事を考えていた。
夕方に差し掛かった頃、咲夜は目を覚ました。
この時間になると気温も下がるもので、眠る前はあんなに気持ちいいと感じていた風も今では肌寒いくらい。
その肌寒さに咲夜は僅かに身体を震わせ、風邪を引いてはたまらないと立ち上がり、元来た林の方へと駆け出した。
その後咲夜は美鈴による暇潰し講座にあった”読書”に倣い、図書館へと足を運んだ。
そこで小悪魔にお勧めの小説を尋ねてそれを借り、夕食まで図書館で読み耽った。
夕食を摂った後は自室へと戻り、先ほどの小説の続きに取り掛かる。
そうして、十六夜咲夜の休日は幕を閉じた。
翌日の日が落ちた頃合。
仕事に復帰した咲夜はいつものようにレミリアの眠るベッド脇にティーセットを用意して控え、主の目覚めを待っていた。
やがてその主は目覚め、むくりと身体を起こした。
「お早うございます、レミリアお嬢様。お目覚めの紅茶は如何ですか?」
「……お早う、咲夜。そうね、頂くわ」
一昨日と昨日はなかった、いつもの会話といつもの流れ。
その事を特に気にする事もなく、咲夜は血の様に真っ赤な紅茶を淹れる。
咲夜がそれを差し出すと、レミリアは黙ってそれを受け取る。上品に優雅に、レミリアはカップを口へと運んで一口飲む。
口中に広がる紅茶の味に満足し、嚥下した後レミリアは口を開く。
「今日は何か予定はあったかしら?」
「特にはないですが、強いて言えば――」
「強いて言えば?」
咲夜の少し勿体ぶった様子に興味を惹かれ、レミリアはそう先を促す。
「昨日の報告、ですね」
「ああ、そういえば昨日は咲夜はいなかったわね」
「いやですわ、お嬢様。お暇を出されたのはお嬢様ですよ。大方霊夢のとこにでも行って忘れてらしたんでしょう?」
「よく知ってるわね。さすが咲夜ね」
咲夜はレミリアの口ぶりから、昨日の主の行動にアタリをつけてカマを掛ける。
レミリアはカマを掛けられた事が分かっていて、態と驚いたような声でそう言う。
咲夜は咲夜で主が態と驚いている事などお見通し。
お互い分かっていてそうするのは、それが楽しいから。
この心地よい会話から、レミリアは従者が心身共に快復している事を確認した。
「それじゃ、昨日の事を報告しなさい」
「はい。それでは、まず――」
先日の事を事細かに、しかし肝心な部分を隠しつつ実に楽しげに咲夜は報告を続けていった。
レミリアはそれに相槌を打ち、時折話の腰を折ったりなどしながら、従者の話に耳を傾け続けた。
話の途中でティーカップから紅茶が無くなれば、話を続けながらも自然な仕草で咲夜は紅茶を淹れ、レミリアはまるで気づいていないかのように紅茶を口へと運ぶ。
こうして、紅魔館の秋の夜長は更けていった。
-FIN-
情景描写がすき。
かなり今更ですが、丁寧な描写でとても良かったです。