◆第129季 弥生の二 人間の里
お? やあ、御阿礼のお嬢じゃないか――って、どうしたんだい? そんな慌てて。
え? ああ、今はちょうど手が空いているところだけど……いや本当、サボリじゃないよ?
それであたいに何の用なんだい……うん? タブーに触れるからここじゃ話したくない、だって?
ひょっとして明日のアレと関係あることか――あいや、リアクションは返さないでいい。そのままそのまま。
ふぅん、だからあたいに頼み事かい。お前さんには前に話したことあったっけねぇ。
いや、あん時は災難だった。一人舟遊びに興じていたら、いきなり流し雛軍団に出くわしちまったからねぇ、厄満載の。
すぐに回収方が出てきてくれたから良かったものの、完全には払いきれなかったのか、一昨年あたり三途で沈められかけたし……
ああ、悪い悪い。話が逸れちまったね。いいとも、お前さんとあたいの仲だ。聞こうじゃないか、その頼み事とやらを。
でもせっかくだから経緯も話してくれるとありがたいかな。お前さんが何故そんなにも奔走しているのか、面白そうだし。
――そうそう奔走といやぁ、さっきのお前さんの走りっぷり、身体が弱いとは思えんほどの勢いだったねぇ。
◆第127季 弥生の一 稗田邸
「いやぁどうも。本日はお招きにあずかって、まことに恐縮ですはい。
あっしごときのために、稗田の御阿礼様がじきじきに――」
「無理にかしこまった喋り方をしなくてもいいですよ」
かえって聞き苦しいので――などという心ない言葉はぎりぎりのところで飲み込んだ。
危ない危ない、本日の客は普段相手にしている普通の人間以外や異常な人間ではないのだ。
あの手合いは私がざっくばらんに接しても、気分を害したり凹んだりする心配がないくらい精神的にタフなんだけど、普通の人間はそうはいかない。
口を慎まねば――と思ってるのに、この男性もある意味強靭な精神の持ち主だと思うと、ついつい遠慮を忘れてしまいそうになる。
「んで、今日は厄神様の話を伺いたいってぇ話でしたっけ?」
「そうです六介さん。聞けば貴方はタブーにも構わず、厄神様にためらいなく話しかけたそうじゃないですか」
そう、彼はあろうことかあの鍵山雛と直接対面した、数少ない人間のうちの一人なのだ。
ウワバミ六介という異名を持つ彼は、生業としている猟の最中に遭遇した直後から、色々と不幸を抱え込んでしまったと聞き及んでいる。
ただ某死神言うところの気を鬱(ふさ)がない気質だったためか、今までのところ本人にあまり堪えた様子は見られない。
「いやぁはは、無視しなきゃいけねぇとか色々と掟があるこたぁ聞いてたんすけどね。
そん時のあっしはいつものようにベロンベロンで、ついうっかり……っと、ところで稗田様は大丈夫だったんですかい?
あっしを手紙で呼び出した時、思いっきり厄神様のことを書いてやしたよね?」
「心配には及びませんよ。手紙を書いていた時も今も、タブーに触れて不幸にならないように色々と準備していましたから」
「準備ってぇと……ははぁ、なるほど」
私の返答を聞いて六介さんは部屋の中を見回し、納得したように深々と頷く。
というのも、今この私の書斎には霊夢さんお手製の厄除け祈願のお守りや、様々な縁起物を所狭しと積んでいるのだ。
さらに紫様に無理を言って、四人の座敷童子達を常備してもらってもいる。
屋内のどんな些細な変化をも見逃さない彼女達なら、私達に降りかかろうとするあらゆる災厄を未然に防いでくれるだろう。
「んじゃ言いますけど、いやぁあの方は別嬪なわりに気さくでしてねぇ。
最初は困ったような顔してたんですが、だんだんとこの酔っ払いの下らねぇ話を笑って聞いてくださるようになって。
そんで厄神様からも色々と話してくれるようになりましたね。その様の微笑ましいのなんの。
しまいにゃ帰り際にすっ転んだあっしの膝に、畏れ多くもリボンを巻いてくだすって――」
まぁそれにしても自分が不幸になってしまったきっかけについて、ここまで明るく喋れるのは大したものだと思う。
彼ならきっと没した時には、「あ、俺死んでたんだ。あははー」という迷言を聞かせてくれるに違いない。
そう思うと先に閻魔様の法廷、特に浄玻璃の鏡の前で待つ楽しみも増えるというものだ。
などと期待しつつ、私はめったに知ることのできない貴重な情報を、一つとして洩らすまいと求め聞く姿勢を整える。
厄神・鍵山雛。危険度は多めに見積もる必要があるので極高、人間友好度……付かず離れず、中くらい? 明るくて人懐きのいい性格。
あ、泥酔状態だったわりに外見的特徴もよく捉えているな。観察眼が鋭いのか、ただの助平心からか……目の付けどころがオヤジ臭いから後者だろうな。
「……なんとか、ならんもんっすかねぇ」
ふと、話があらかた終わったところで、六介さんの声が今まで聞いたことがないくらいに暗くなった。
「というと?」
「いや、あっしはもうツキヨタケをシイタケと間違えて腹壊そうが、肝心な時に火縄が湿気て獲物を逃がしちまおうが、興奮した野鉄砲に噛みつかれようが構わんのですがね。
あの厄神様のことを誰も口にしちゃあいけねぇ、見て見ぬふりをしなきゃなんねぇってのがどうにもやりきれんのでさぁ。
ああ畜生! なんであん時に流し雛の礼を言わなかったのか、今思い返しても不甲斐ねぇ」
「……」
六介さんの言うことは身に染みていた。私だって出来ることなら彼女に報いたいとは思っている。
これでも道端でお地蔵様を見れば、せっかく買ってきた風車であってもお供えしていく程度には信心深い方なのだ。
加えて彼女の厄払いが効果てきめんであることは、巷間に知れ渡っているどころか私自身はっきりと実感できている。
まぁ、実際に厄――不運の幽霊を人間の目にも見える形で引き取り、彼女はそれを霊力のために消費しているのだから当然なのだが。
「そう思ってんのは多分あっしだけじゃねぇんすよ。他の連中だって今の時期、しけたツラしてイ、インなんとか雛人形を買ってましてさぁ。
これから厄を落としてツキを呼び込もうってのに、素直に喜んじゃいられねぇみてぇで。
もちろん誰も口に出しゃしねぇですけどね」
「たしかに気持ちはよく分かります。しかしだからといって積極的に彼女と関わることを奨めるわけにもいきません。
厄がどれだけ七面倒くさいかということは、貴方が一番身に染みて理解しているはずでしょう?」
「……へぇ」
私の言葉を聞いて、六介さんは不承不承という感じで頷く。
おそらく彼の言うように、里の人達も同じような居心地の悪さを感じているのだろう。
とあるメイド長は、奉仕は誰の気遣いも受けないように行わなければならないと言っていたが、それはなんとも寂しい話だと思う。
たとえ厄神様の行いが自分のためのものとはいえ、その恩恵にあずかっている以上はせめて感謝の言葉くらいは届けるのが筋だろう。
「んあ? もうこんな時間で。そろそろ失礼しやす。またなんかありましたら呼んでくだせぇ」
「あ、はい。本日はお忙しい中ご足労いただき、どうもありがとうございました」
立ち上がる六介さんを私は文机の前に正座したまま見送る。
と、彼が障子戸の前に立ったところで、その一番近くにいた座敷童子が鋭く声を上げた。
「止まって!」
「へぇっ!?」
それまで静かだった座敷童子のいきなりの大声に、六介さんはもちろん私も思わず固まる。
直後、障子戸が外から静かに引かれた。
「あらっ、もうお帰りですか? お茶のおかわりをお持ちしたのですが」
開かれた戸の先には、うちの使用人が湯気を立てるティーカップを盆に載せて立っていた。
危ないところだったか。もう少しで六介さんとぶつかり、熱湯がぶちまけられるところだった。
「あ、こりゃご丁寧にどうも。せっかくなんでいただいてきますわ――」
「あっ、お待ちをお客様!」
「ぶわちっ!?」
しかし安堵した矢先、紅茶を勢いよく呷ろうとした六介さんがそのあまりの熱さに耐えかね、ティーカップを放り上げてしまう。
それは私の方へ降り注ぐ――寸前、頭上を覆うように掲げられた文机によって遮られた。
「稗田様、ご無事で?」
「……は、はい。おかげでなんとか」
私は文机を持ち上げている座敷童子の小さな背に向けて、どうにかお礼の言葉を絞り出す。
いやはや見事な未来予知能力だ。紫様はこの子達のことを劣化ラプラスの魔などと仰っていた。
正直ラプラスの魔が何なのか分かっていないのだが、劣化しててこの有能さなのかと感心せずにはいられない。
「す、すいません稗田様ぁ! あっしがうっかりしていたばかりに――」
「いえ、お気になさらず。せっかくお金をかけた対応策は期待以上に機能してくれるものだった、それを実感できただけでも満足しています」
とはいえ、厄あなどりがたし。まさかこんな込み入った形で不幸をもたらしてこようとは。
「六介さん、次の桃の節句まで貴方の傍にも座敷童子を遣わせておきましょう。その間この子と一緒に閉じこもっておけばつつがなく過ごせると思います」
「……わかりやした。とんだご厄介を」
「あまり気に病まないで下さい。今回の件は好奇心を満たしたいがために、私が押し通した無茶なのですから」
すっかり恐縮してしまった六介さんを慰めるように、私はできるだけ気にしていないように振る舞う。
と、余裕たっぷりの態度を示している最中、服の裾を座敷童子に引かれているのに気付いた。
「あのぅ、言いにくいのですが、出張業務は最初の契約に含まれていませんでしたよね。ですから――」
「あー……みなまで言わなくてもいいですよ。手当は弾んでおきます」
「はい! いつも稗田様には格別のお引き立てをいただき、まことに感謝しております」
そう告げてやると、素晴らしく現金な笑顔を見せてくれた。
座敷童子は住み着いた家に富をもたらすと言われているらしいが、どうも実情は異なるようだ。
ああ、これで今月はもう小鈴んちから本を借りることは出来そうにないな。
◆第127季 弥生の二 稗田邸
――おい聞いたか? 稗田がまた兵を募っているらしいぞ。なんでも妖怪の巣に乗り込むらしい。
――へっ、化けモンを調べるだかなんだか知らんが、そんなことは手前一人でやってりゃいいものを。
――全くよ。そもそも短命とはいえ五体満足の男子たるもの、書に耽るのではなく武芸の一つでも覚えるべきだろうに。
――写本? 妖怪に関する書物を? そんなもん、本当に役に立つのかねぇ。しかもこんな分厚いのを何百冊とか、猫の手を借りてもおっつかんよ。
――そうですなぁ。ま、このくらい頂ければ私どもの方で……えっ、払う? 物好きですなぁ貴方も。いや、それを通り越して酔狂と呼ぶべきか。
――こ、これはこれは稗田様。妖怪討伐に出向いていたと聞きましたが……ああ、写本の件ですか。いえ、私どもの方でも努力したのですが、生憎とこれだけしか……も、勿論、出来なかった分の返金はいたしますよ。
「……夢?」
陽の明るさを目蓋の裏に感じ、私はゆっくりと目を開く。
いまだ定まらない意識の中、先程まで頭の中を巡っていたことをぼんやりと思い浮かべる。
「……何代目の記憶だったのかしら? 阿礼男っぽかったけど」
珍しいことだと思った。こうして昔の御阿礼の記憶を垣間見るだなんて、これまで指折り数えられるくらいしか経験したことがなかったから。
「苦労してたのねぇ。昔の私、いえ御阿礼は」
妖怪に対抗するためとはいえ妖怪を調査することは、たとえその有用性を理解されたとしても気味悪く思われるものなのだろう。最近それに近い経験をしたから分かる。
乾神・魔住職・聖徳道士を集めた三者対談――新たに加わった勢力について調べようとしたあの会合が、まさかあそこまで里の人達に不安を与えているとは思わなかった。
もっとも、あの後私に対する風向きには何の変化も起こらなかったけど。一応霊夢さんが取り計らってくれたのだろうか。あんたは悪くないわ、とか言ってくれたし。
「あの時の事も早く書かないとね。
ま、縁起のための取材には多少の差し障りがあれど滞りなく、印刷・製本も鈴奈庵がある。恵まれた時代に生まれてよかったわ……」
呟いてしばらくした後、私は勢いをつけて床から跳ね起きる。
やはり厄神様に報いる方法を考えよう。この恵まれた時代なら探せばきっと何か見つかるはずだ。
しかし、決意してから昼過ぎまでずっと考えてはみたものの、特にいい考えを思いつくことはできなかった。
今、私は気分転換がてらに外の空気を吸うため、こうして一人里の中をさまよっている。
明晰な私の頭脳でも突如として妙案をひらめくことはなかったが、どうにか非情な現実だけは回避したい――そう思うと、じっとしてはいられなかった。
「あ、あれって阿求じゃない?」
「本当だ。あきゅうちゃーん!」
と、里の中央通りに差し掛かったところで、脇の方から呼び止められる。
振り向くと、そこにはカフェーのオープンテラスでくつろいでいる学友の姿があった。
もっとも私はあまり寺子屋に顔を出さないので、貸本屋・花屋と仕事持ちの彼女達がいつもああしているのかどうかは分からないが。
いずれにせよ、妙に様になっているとは思った。
「なに難しそうな顔してたのよ。そんなんじゃ眉間に皺が残るわよ」
「考え事? 良かったら相談にのるよ。ほら、何か甘いものでも食べて、ね?」
「ん、じゃあちょっと寄っていこうかな」
二人に誘われるがままに、私はテーブルへと向かう。
ここのテラスは段差がそれほど高くないためか、柵がなくて自由に出入りできる作りになっていた。
「小鈴ちゃん、メニュー取ってあげて」
「はいよ。ほら阿求」
「ありがとう」
小鈴から受け取ったメニューを眺めている間、二人は他愛もない話を再開した。
ただこちらを気遣っているのか、声を抑えてくれている。
「でね、冬に知り合ったお客さんがまたカッコ良くってさぁ。
付喪神の集団を引き連れて颯爽と立ち去って行ったりとか、私もいつかああなりたいわ」
「そ、そうなんだ」
「そっちはどう? 前に妖怪のお姉さんと花の話題を持ちかけてみるって言ってたよね。
いやぁ、妖怪相手に接客するなんて、普段のあんたからは考えられないわ」
「うん、そんなに怖い妖怪さんじゃなかったよ。お父さんも言ってたけど、普通のお客さんと接するみたいに礼儀正しくしていれば心配ないって」
……我が友人達は意外と怖い物知らずだったようだ。六介さんといい、最近は肝の据わった普通の人間も多いのかもしれない。
まぁこれらの顛末を見届けていくのも御阿礼の使命か。
などと、色とりどりの甘味に目移りしながら考えていると、斜向かいのテーブルに新たな客が現れたことに気付く。
「お兄さん、シナモン風味のアップルパイ、焼き立てでアイスクリンを添えてね」
「いつものでございますね。かしこまりました。こちら、姫海棠様には特別のお引き立てをいただき、まことに感謝しております」
そこにいたのは見覚えのある鴉天狗だった。ただ、里に最も近い方ではなかったけれど。
彼女の注文が気になってメニューに視線を戻すと、そこには件の品が写真と見出し付きで強調されていた。
「『月刊・グルメかいどうが勧める、この冬の新作!』……以下うんぬん、ねぇ。
この寒い時期に氷菓子を付け合わせたものを勧めていいのかしら? ま、普通の人間以外は気にせず注文するのかもしれないけど」
独りごちながら再び目線を天狗に向けると、ちょうど店内へ戻ろうとしている給仕と目があった。
一瞬目を見張るも、この際都合がいいかと思い用件を切り出す。
「すいません、私も注文いいですか? アールグレイとシナモンアップルパイをお願いします」
「かしこまりました。すぐに焼き上がりますので、少々お待ち下さい」
恭しくお辞儀して去っていった給仕を見送り、視線を戻そうとした途中で、斜向かいの天狗が腕組みしながら二、三度頷いてる様子が見えた
これは……あれか。記事で推していたものが選ばれて鼻高々になっているのか。
別に推薦文に惹かれて決めたわけじゃなくて、紅茶と組み合わせて食べたい物かつ安い方だったから選んだだけなのだが、わざわざ指摘するのも野暮だろう。
それにしてもあれが姫海棠はたてか。125季あたりからちょくちょく見かけてはいたのだが、ようやく顔と名前が一致した。
いつも山に引き篭りっぱなしと聞き及んでいたのだけど、先程のやり取りからすると人里にも頻繁に出入りしているようだ。
これならそのうち縁起のための取材を申し込んでもいいかもしれない。次の版に間に合うかどうか分からないけれど。
「それで、何を悩んでいたの?」
「え? ああ……うん、ちょっと話すのが難しいな」
なにしろ厄神様の話なのだ。万全の準備をしてようやく話題に出せるというのに、ここはあまりにも無防備すぎる。
しばらく言葉を選んでから、私は二人に悩み事を切り出す。
「ねぇ。誰かに間接的にお礼を言いたい時って、どうすればいいと思う?」
これを聞いた二人は目を二、三度瞬かせて絶句する。
しばらくして、小鈴の方が先に立ち直った。
「なにそれ。直接伝えちゃダメなの?」
「あ、えーと……そこはほら、あれよ。面と向かって言うのは恥ずかしい時ってあるじゃない」
至極もっともな切り返しを受け、私は慌ててありふれてそうな言い訳をひねり出す。
すると二人の視線が何やら生温かいものに変わった……たしかに誤解を大いに招く言動だったかも。
「ふぅん、普段からズケズケと物を言う阿求にも、意外としおらしいところがあるんだねぇ」
「もう小鈴ちゃん、そういうこと言わないの」
「まぁいいわ。そんなあんたのために、一つおじいちゃんから聞いたことわざを教えてあげる。
ねぇ二人とも、『漬物褒めれば嬶(かか)褒める』って知ってる?」
「ええっと……なんだっけ?」
「漬物を褒めるということは、それを作った女房を褒めることにつながるってことよ。
漬物作りには色々と心配りが必要、それを上手にこなせる奥さんがいて羨ましいとか、そんな感じで使われることわざなの。
もっとも、『漬物褒めれば親父が悋気』とも言って、漬物を褒めた途端に亭主がやきもちを焼くこともあるみたいだけど。
なんでそうなるかって言うと、間接的に奥さんが褒められるから、亭主としては粉をかけられているんじゃないかって気になるみたい」
得意げに話す小鈴をこれ以上調子付かせないよう、私はさらりと答えてみせる。これでも記憶力にはゆるぎない自信があるのだ。
「さっすが求聞持、話が速いわね。まぁそんな感じでさ、この前の本は文字も色も綺麗に再現されてた、とか言えばいいと思うよ。
仕事に対する賞賛って、それをやった人への感謝も含んでいるだろうし」
「……幻想郷縁起のことを言ってるんだったら、妖怪兎の絵に印刷ミスがあったんですけどー」
「ちょっと! その話は蒸し返さないでよ。
だいたい原稿の時点でそうだったから、元の動物のように妖怪兎にもヒゲが生えることもあるって表現だと思ったんだもん」
「……そうね、それに関してはこっちも悪かったわ」
さらに畳みかけるも苦々しい記憶を突き返されたため、私はそれ以上の反撃を諦めた。
それにしても『漬物褒めれば嬶褒める』か。この場合の漬物褒めるとは、例えば流し雛という儀式に感謝を送ることだろうか。
しかし彼女の二つ名は秘神流し雛。万一の可能性として、厄神に触れる話題と解釈されるかもしれない。
「お待たせしました、アールグレイとアップルパイです」
「あ、どうも」
などと、頭を抱え込みそうになるほど考え込んでいたところに、注文していた紅茶とアップルパイが運ばれてきた。
小さく切り分けられたそれらは甘酸っぱく芳しい香気を鼻先に送りこみ、私の集中力をさらに奪っていく。
こうなってはもうお手上げだ。思索はひとまず後回しにして栄養を補給するとしようか。
「っ、おいし――」
温かく芳醇な甘露を飲み込むやいなや、なんとも飾り気のない感慨がこぼれた。
その余韻の消えないうちに、熱々の紅茶をゆっくりと傾ける。
これは……筆舌に尽くしがたい味の溶け合いだ。氷菓子を除いたのがいささか悔やまれるかもしれない。
「あ、阿求それ注文したんだ。私も気になってたんだけどねー。いいや、思い切って頼んじゃえ!」
「こ、小鈴ちゃん大丈夫なの? お給料が入るまでのあと一週間は我慢するって言ってたのに」
「いいのよ。これでも結構ナイショの蓄えがあるんだから……すいませーん! 私にもニッキ風味のアップルパイ、アイスクリン添えでお願いします」
溌剌とした小鈴の声の切れの直後、カタカタと小さな音が聴こえてきた。どうやら姫海棠何某の両肩と両足が小刻みに震えているようだ。
うわぁ……さっきも思ったけど本当に鬱陶しいなぁ。気持ちは分からないでもないけど。
いずれにせよ、何でも自分のお気に召すままに解釈できるあたり、相当にストレスフリーな性格なのだろう。
「……あ! でも、それでもいいのかも。
本当は誤解や曲解だとしても、受け手がこちらの望んだとおりの解釈をしてくれるのなら」
「え? なんのこと? さっきの話?」
「うん、なんとなく方法が見えてきたわ。細かいところはもう少し考える必要があるけどね。
っと、こうしちゃいられないわ」
目を丸める二人をよそに、私は勢いよく立ち上がる。
なにしろ友人の助言を受けてからというもの、明晰な私の頭脳は次々とアイディアを生み出し始めたのだ。
この勢いが消える前にまとめてしまいたい。
「あ、ちょっと阿求ちゃん! まだアップルパイ残ってるよ」
「あげるわ。なんならアイスを追加してもいいよ」
「なによ阿求。そんなに慌てなくてもいいじゃない。この後あんたも連れてレコード屋さんに行こうと思ってたのに」
「生憎と今の私は貧乏になっちゃったのよ。また来月にでも誘って。それじゃあ、ね」
そしてテーブルの上に代金を広げるや、二人を置いて駆けだした。
さて、今日は弥生の二。残念ながら今年の桃の節句には間に合わないだろう。もしかしたら来年も怪しいかもしれない。
だがそれでもできるだけ早いうちから人里全てに触れ込みをしなくては。皆、私のように記憶の良い者ばかりではないのだから。
「! あれは――」
蕎麦屋の角を曲がったところで視野に入ってきた光景に目を見開き、それから慌てて明後日の方向を向いた。
なぜならそこにはインスタント雛人形の販売所があり、さらに看板を直している厄神様の姿があったからだ。
顔を伏せつつ彼女のそばを走り抜ける途中で、私は心の中だけで独りごちる。
――厄神様。今年は無理ですが、いつか必ず里のみんなの感謝をお届けします。
◆第129季 弥生の三 妖怪の山の樹海
毎年弥生の三の日には、ここ山の麓にある樹海からは生き物の気配が完全に消えることが知られている。
その中にあって今年は珍しく、生き物のごとく動くものが二つあった。
しかしその二者はともに、死に物のごとき雰囲気を周囲に纏わせてもいた。
その片割れ、今し方樹海に現れた方が先にあり続けていた方に気さくに話しかける。
「やあ厄神の。元気にしてるかい?」
「あら死神さん、ここは貴女の仕事場じゃないわよ」
「……手厳しいねぇ、誰も彼も」
「あらごめんなさい。相変わらず難しいわね、誰かを親切に追い返そうとするのって。
でも早く戻らないと怒られちゃうのは正しいのではなくて?」
「なに、うちのボスは今は首も回らないほど忙しいんでね。こっちも魂運びを遠慮したくなるくらいにさ」
現れた時から笑みを崩すことなく、死神・小野塚小町は鎌の石突で地面を小刻みに叩きながら歩を進める。
その打ちつける音がするたびに、とり憑こうとしている厄――不運の幽霊が片っ端から活性爆発していた。
流石、幽霊の扱いに長けた是非曲直庁の一員だと厄神・鍵山雛は感心する。ただ、このまま壊され続けてはたまらないと、一つ念を押すために口を開く。
「ねぇ、それ以上厄を壊すのは――」
「分かっているさ。お前さんの釣果、必要以上に荒らしたりはしないよ。
活性爆破だってタダじゃないんだ。あんまり連発してられないから安心しな」
「釣果って……たしかに厄は私の動力源だけど。
まぁご覧の通り、貴女に多少削られても問題ないほどの大漁よ」
「そのようだねぇ、景気が良くて羨ましい限りだ……うん? どうしたい、何か腑に落ちないって顔してるじゃないか」
近くまで来て顔色を窺った小町は、流し雛を怪訝そうに見つめている雛に疑問を抱く。
「ええ。実は今回、インスタント雛人形を乗せた舟の中に、余分に紙が添えられていたのよ」
答えつつ、雛はその場でくるりと一回転してみせる。
すると地面に漂っていた厄が一斉に引き寄せられていき、その場所に雛人形と紙を乗せた舟だけを残していった。
そこへ小町が歩み寄り、紙のうちの何枚かを拾い上げる。
「へぇ、こいつは凝っているねぇ。文字を書いたあとで、ご丁寧にも紙を漆漬けにしているんだ。
濡れても大丈夫なようにって配慮かねぇ。そんで中身はお前さんへの礼……かというとそうでもないのか」
「それはそうよ。自ら私に関する話を切り出すと厄が降りかかる――これは誰もが知っているタブーだもの」
「難儀だねぇ……それにしても内容が随分と似通っているんだね。
『此度の改訂版幻想郷縁起は飼い猫に手ひどい邪魔をされることなく、無事出版の運びと相成りました』
『一昨年はお天気が不安定でたくさんお花を駄目にしちゃったけど、去年は謎の魔力嵐にも負けないように工夫したおかげで、育てたものをお花の妖怪さんが褒めてくれた』
『一昨年は玄武の沢で起きた謎の水柱のせいか、他の川でもボウズ続きじゃったが、ある時からその憂き目を見なくなったのう』
『一時期さっぱり会えなかったのに最近は幸運の素兎に何度も会えただよ』
『せがれが建築中に怪我しちまったが幸い大ごとにはならず、しかもいい薬になったのか最近仕事ぶりが丁寧になりやがった』
『里で起きた宗教戦争の際、長らく仙人様に断られ続けていた弟子入りがどうにか叶いました!』……と。
どれもこれも一昨年あたりにゃ運が悪かったけど、去年辺りからツキが向いてきたって話ばっかりか。しかしまぁ、みんな良く覚えているもんだ」
「本当、不思議だと思ったわ。まるで示し合わせたみたいに趣旨を統一しているものだから」
一方の雛も自分の足元近くにあった舟から紙を拾い上げ、首をかしげながら中身を見つめる。
しばらくそうして黙っていると、唐突に身体がどこかへ引きずられていく感覚に襲われた。
どうしていいか分からずあたふたしている間に、肩を力強く掴まれる。
「ちょっ! 危ないわよ、厄が……ない!?」
背中から腕を回していたのが小町だと気づいた時、雛は慌てて厄を手放そうとしたが、自分の周りにそれらが全くないことに驚く。
まさか厄は置き去りにされたのではと思い至ったところで、小町が耳元に言葉を注ぎ込んできた。
「そんで、厄神様としてはこういう話を何度も見せつけられて、この連中を妬ましく思ったり今の自分が惨めに思えてきたりしたのかい?」
「……どういう意味かしら?」
「いや、ねぇ。あんまりな仕打ちじゃないかい? お前さんはこうして人知れず孤独に苦労をしょい込んでるっていうのに、まるで当てつけるみたいにさぁ。
示し合わせたんだとしたら、こりゃ相当なもんだよ」
先程までとは一転して悪辣ささえ感じさせる小町の言葉を受け、雛の目は次第に鋭くなっていく。
「……貴女にはそう感じられたのかしら?」
「それほど見当外れな読みじゃないと思うがね」
憐憫と嘲弄を混ぜてこちらを覗きこんでくる小町の瞳を、感情を押し殺した目で見つめながら雛は意識を過去へ遣る。
この死神とは数こそ少ないものの、それなりの時間会話を交わしてきた。
その際こちらをおだててきたり、あるいは小咄をして笑いを取りにきたりと、あくまで好意的な印象しか見せてこなかった。
だからこそ今の態度は衝撃的でもあったが、一方でどうにも拭いきれない違和感もあった。
「そう、でも私はそうは思わなかったわ」
「ほう。じゃあどう思ったんだい?」
「この手紙は私の厄払いへの感謝を綴ったものだと思ったわ……いえ、感謝は言いすぎだとしても、少なくとも厄払いの効能を認めてくれている証だと思ってるの」
「へぇ、根拠はぁ?」
投げやりな返答にも構わず、雛は手元にある手紙を両手で支え、静かな口調のまま言葉を続ける。
「貴女は誰かに生活の充実っぷりを自慢する時、わざわざ昔の見栄えの悪い逸話を交えたりする方かしら?」
「ふむ、あたいはしようとは思わないね。でも、そういう奴だって少なくはないだろう?」
「そうね、でも私は手紙を全部読んだのだから分かるのだけど、一人の例外もなく貴女の言うそれだったのよ。
しかも中には無理矢理ひねり出したみたいな逸話もあったし。そういうのって、後で逆にむなしくなるんじゃないかしら。
それにここまで労力をかけても、結局私のみじめな姿を確認するのも一苦労なのよ?」
「でもねぇ――ん!」
反論を重ねようとする小町の口元に、雛は人差し指を当てて制す。
「裏側がどうだっていいの。むしろ私はそこまでして、もしかしたら災厄が降りかかるかもしれないのに、幸福自慢をしてくれたことに胸が熱くなったわ。
人間達が息災であることが、傍で見守ることのできない私にとって常に知りたかったことだもの」
そして小町に答えを返す傍ら、雛は手紙をいとおしげに抱きしめた。
と、その肩を掴んでいた力が急にほころび、眼前で小町の破顔一笑が花開く。
「あっはっはー、いやぁ、降参降参。お前さんの度量、確かに見せてもらったよ。
まぁ感謝だろうね。人生谷底に落ちることもあるが山に登れることもあるもんだ、ってのが表向きでさ。
そんでその裏側には、誰かさんのお蔭様でって読み取ってもらえるように」
「えっ? 貴女――」
「どうだっていい、か。
たしかに裏を読み過ぎて疑心暗鬼に囚われ、自分の毒に中(あた)ってストレスフルになるよりは幾分かマシだよねぇ。
もっとも、お前さんのことを気が鬱ぎがちで視野が狭い器だとは、端っから思っちゃいなかったけどさ」
そのまま元の調子に戻った小町を見て、雛は安堵のため息を吐いた。
「やっぱり試していたのね。もう、人が悪いんだから!」
「そりゃもう、我等が庁は他者に嘘を禁じておきながら、利他行掲げて脅迫・虚言なんでもござれの酷い連中だからねぇ」
「あっ、そう……」
悪びれることなく歯をむいて笑う小町を見て、雛は諦めたような苦笑を浮かべる。
それからやんわりと小町の腕を解くと、取り残されていた厄が散ってしまわないように再び回収していった。
お? やあ、御阿礼のお嬢じゃないか――って、どうしたんだい? そんな慌てて。
え? ああ、今はちょうど手が空いているところだけど……いや本当、サボリじゃないよ?
それであたいに何の用なんだい……うん? タブーに触れるからここじゃ話したくない、だって?
ひょっとして明日のアレと関係あることか――あいや、リアクションは返さないでいい。そのままそのまま。
ふぅん、だからあたいに頼み事かい。お前さんには前に話したことあったっけねぇ。
いや、あん時は災難だった。一人舟遊びに興じていたら、いきなり流し雛軍団に出くわしちまったからねぇ、厄満載の。
すぐに回収方が出てきてくれたから良かったものの、完全には払いきれなかったのか、一昨年あたり三途で沈められかけたし……
ああ、悪い悪い。話が逸れちまったね。いいとも、お前さんとあたいの仲だ。聞こうじゃないか、その頼み事とやらを。
でもせっかくだから経緯も話してくれるとありがたいかな。お前さんが何故そんなにも奔走しているのか、面白そうだし。
――そうそう奔走といやぁ、さっきのお前さんの走りっぷり、身体が弱いとは思えんほどの勢いだったねぇ。
◆第127季 弥生の一 稗田邸
「いやぁどうも。本日はお招きにあずかって、まことに恐縮ですはい。
あっしごときのために、稗田の御阿礼様がじきじきに――」
「無理にかしこまった喋り方をしなくてもいいですよ」
かえって聞き苦しいので――などという心ない言葉はぎりぎりのところで飲み込んだ。
危ない危ない、本日の客は普段相手にしている普通の人間以外や異常な人間ではないのだ。
あの手合いは私がざっくばらんに接しても、気分を害したり凹んだりする心配がないくらい精神的にタフなんだけど、普通の人間はそうはいかない。
口を慎まねば――と思ってるのに、この男性もある意味強靭な精神の持ち主だと思うと、ついつい遠慮を忘れてしまいそうになる。
「んで、今日は厄神様の話を伺いたいってぇ話でしたっけ?」
「そうです六介さん。聞けば貴方はタブーにも構わず、厄神様にためらいなく話しかけたそうじゃないですか」
そう、彼はあろうことかあの鍵山雛と直接対面した、数少ない人間のうちの一人なのだ。
ウワバミ六介という異名を持つ彼は、生業としている猟の最中に遭遇した直後から、色々と不幸を抱え込んでしまったと聞き及んでいる。
ただ某死神言うところの気を鬱(ふさ)がない気質だったためか、今までのところ本人にあまり堪えた様子は見られない。
「いやぁはは、無視しなきゃいけねぇとか色々と掟があるこたぁ聞いてたんすけどね。
そん時のあっしはいつものようにベロンベロンで、ついうっかり……っと、ところで稗田様は大丈夫だったんですかい?
あっしを手紙で呼び出した時、思いっきり厄神様のことを書いてやしたよね?」
「心配には及びませんよ。手紙を書いていた時も今も、タブーに触れて不幸にならないように色々と準備していましたから」
「準備ってぇと……ははぁ、なるほど」
私の返答を聞いて六介さんは部屋の中を見回し、納得したように深々と頷く。
というのも、今この私の書斎には霊夢さんお手製の厄除け祈願のお守りや、様々な縁起物を所狭しと積んでいるのだ。
さらに紫様に無理を言って、四人の座敷童子達を常備してもらってもいる。
屋内のどんな些細な変化をも見逃さない彼女達なら、私達に降りかかろうとするあらゆる災厄を未然に防いでくれるだろう。
「んじゃ言いますけど、いやぁあの方は別嬪なわりに気さくでしてねぇ。
最初は困ったような顔してたんですが、だんだんとこの酔っ払いの下らねぇ話を笑って聞いてくださるようになって。
そんで厄神様からも色々と話してくれるようになりましたね。その様の微笑ましいのなんの。
しまいにゃ帰り際にすっ転んだあっしの膝に、畏れ多くもリボンを巻いてくだすって――」
まぁそれにしても自分が不幸になってしまったきっかけについて、ここまで明るく喋れるのは大したものだと思う。
彼ならきっと没した時には、「あ、俺死んでたんだ。あははー」という迷言を聞かせてくれるに違いない。
そう思うと先に閻魔様の法廷、特に浄玻璃の鏡の前で待つ楽しみも増えるというものだ。
などと期待しつつ、私はめったに知ることのできない貴重な情報を、一つとして洩らすまいと求め聞く姿勢を整える。
厄神・鍵山雛。危険度は多めに見積もる必要があるので極高、人間友好度……付かず離れず、中くらい? 明るくて人懐きのいい性格。
あ、泥酔状態だったわりに外見的特徴もよく捉えているな。観察眼が鋭いのか、ただの助平心からか……目の付けどころがオヤジ臭いから後者だろうな。
「……なんとか、ならんもんっすかねぇ」
ふと、話があらかた終わったところで、六介さんの声が今まで聞いたことがないくらいに暗くなった。
「というと?」
「いや、あっしはもうツキヨタケをシイタケと間違えて腹壊そうが、肝心な時に火縄が湿気て獲物を逃がしちまおうが、興奮した野鉄砲に噛みつかれようが構わんのですがね。
あの厄神様のことを誰も口にしちゃあいけねぇ、見て見ぬふりをしなきゃなんねぇってのがどうにもやりきれんのでさぁ。
ああ畜生! なんであん時に流し雛の礼を言わなかったのか、今思い返しても不甲斐ねぇ」
「……」
六介さんの言うことは身に染みていた。私だって出来ることなら彼女に報いたいとは思っている。
これでも道端でお地蔵様を見れば、せっかく買ってきた風車であってもお供えしていく程度には信心深い方なのだ。
加えて彼女の厄払いが効果てきめんであることは、巷間に知れ渡っているどころか私自身はっきりと実感できている。
まぁ、実際に厄――不運の幽霊を人間の目にも見える形で引き取り、彼女はそれを霊力のために消費しているのだから当然なのだが。
「そう思ってんのは多分あっしだけじゃねぇんすよ。他の連中だって今の時期、しけたツラしてイ、インなんとか雛人形を買ってましてさぁ。
これから厄を落としてツキを呼び込もうってのに、素直に喜んじゃいられねぇみてぇで。
もちろん誰も口に出しゃしねぇですけどね」
「たしかに気持ちはよく分かります。しかしだからといって積極的に彼女と関わることを奨めるわけにもいきません。
厄がどれだけ七面倒くさいかということは、貴方が一番身に染みて理解しているはずでしょう?」
「……へぇ」
私の言葉を聞いて、六介さんは不承不承という感じで頷く。
おそらく彼の言うように、里の人達も同じような居心地の悪さを感じているのだろう。
とあるメイド長は、奉仕は誰の気遣いも受けないように行わなければならないと言っていたが、それはなんとも寂しい話だと思う。
たとえ厄神様の行いが自分のためのものとはいえ、その恩恵にあずかっている以上はせめて感謝の言葉くらいは届けるのが筋だろう。
「んあ? もうこんな時間で。そろそろ失礼しやす。またなんかありましたら呼んでくだせぇ」
「あ、はい。本日はお忙しい中ご足労いただき、どうもありがとうございました」
立ち上がる六介さんを私は文机の前に正座したまま見送る。
と、彼が障子戸の前に立ったところで、その一番近くにいた座敷童子が鋭く声を上げた。
「止まって!」
「へぇっ!?」
それまで静かだった座敷童子のいきなりの大声に、六介さんはもちろん私も思わず固まる。
直後、障子戸が外から静かに引かれた。
「あらっ、もうお帰りですか? お茶のおかわりをお持ちしたのですが」
開かれた戸の先には、うちの使用人が湯気を立てるティーカップを盆に載せて立っていた。
危ないところだったか。もう少しで六介さんとぶつかり、熱湯がぶちまけられるところだった。
「あ、こりゃご丁寧にどうも。せっかくなんでいただいてきますわ――」
「あっ、お待ちをお客様!」
「ぶわちっ!?」
しかし安堵した矢先、紅茶を勢いよく呷ろうとした六介さんがそのあまりの熱さに耐えかね、ティーカップを放り上げてしまう。
それは私の方へ降り注ぐ――寸前、頭上を覆うように掲げられた文机によって遮られた。
「稗田様、ご無事で?」
「……は、はい。おかげでなんとか」
私は文机を持ち上げている座敷童子の小さな背に向けて、どうにかお礼の言葉を絞り出す。
いやはや見事な未来予知能力だ。紫様はこの子達のことを劣化ラプラスの魔などと仰っていた。
正直ラプラスの魔が何なのか分かっていないのだが、劣化しててこの有能さなのかと感心せずにはいられない。
「す、すいません稗田様ぁ! あっしがうっかりしていたばかりに――」
「いえ、お気になさらず。せっかくお金をかけた対応策は期待以上に機能してくれるものだった、それを実感できただけでも満足しています」
とはいえ、厄あなどりがたし。まさかこんな込み入った形で不幸をもたらしてこようとは。
「六介さん、次の桃の節句まで貴方の傍にも座敷童子を遣わせておきましょう。その間この子と一緒に閉じこもっておけばつつがなく過ごせると思います」
「……わかりやした。とんだご厄介を」
「あまり気に病まないで下さい。今回の件は好奇心を満たしたいがために、私が押し通した無茶なのですから」
すっかり恐縮してしまった六介さんを慰めるように、私はできるだけ気にしていないように振る舞う。
と、余裕たっぷりの態度を示している最中、服の裾を座敷童子に引かれているのに気付いた。
「あのぅ、言いにくいのですが、出張業務は最初の契約に含まれていませんでしたよね。ですから――」
「あー……みなまで言わなくてもいいですよ。手当は弾んでおきます」
「はい! いつも稗田様には格別のお引き立てをいただき、まことに感謝しております」
そう告げてやると、素晴らしく現金な笑顔を見せてくれた。
座敷童子は住み着いた家に富をもたらすと言われているらしいが、どうも実情は異なるようだ。
ああ、これで今月はもう小鈴んちから本を借りることは出来そうにないな。
◆第127季 弥生の二 稗田邸
――おい聞いたか? 稗田がまた兵を募っているらしいぞ。なんでも妖怪の巣に乗り込むらしい。
――へっ、化けモンを調べるだかなんだか知らんが、そんなことは手前一人でやってりゃいいものを。
――全くよ。そもそも短命とはいえ五体満足の男子たるもの、書に耽るのではなく武芸の一つでも覚えるべきだろうに。
――写本? 妖怪に関する書物を? そんなもん、本当に役に立つのかねぇ。しかもこんな分厚いのを何百冊とか、猫の手を借りてもおっつかんよ。
――そうですなぁ。ま、このくらい頂ければ私どもの方で……えっ、払う? 物好きですなぁ貴方も。いや、それを通り越して酔狂と呼ぶべきか。
――こ、これはこれは稗田様。妖怪討伐に出向いていたと聞きましたが……ああ、写本の件ですか。いえ、私どもの方でも努力したのですが、生憎とこれだけしか……も、勿論、出来なかった分の返金はいたしますよ。
「……夢?」
陽の明るさを目蓋の裏に感じ、私はゆっくりと目を開く。
いまだ定まらない意識の中、先程まで頭の中を巡っていたことをぼんやりと思い浮かべる。
「……何代目の記憶だったのかしら? 阿礼男っぽかったけど」
珍しいことだと思った。こうして昔の御阿礼の記憶を垣間見るだなんて、これまで指折り数えられるくらいしか経験したことがなかったから。
「苦労してたのねぇ。昔の私、いえ御阿礼は」
妖怪に対抗するためとはいえ妖怪を調査することは、たとえその有用性を理解されたとしても気味悪く思われるものなのだろう。最近それに近い経験をしたから分かる。
乾神・魔住職・聖徳道士を集めた三者対談――新たに加わった勢力について調べようとしたあの会合が、まさかあそこまで里の人達に不安を与えているとは思わなかった。
もっとも、あの後私に対する風向きには何の変化も起こらなかったけど。一応霊夢さんが取り計らってくれたのだろうか。あんたは悪くないわ、とか言ってくれたし。
「あの時の事も早く書かないとね。
ま、縁起のための取材には多少の差し障りがあれど滞りなく、印刷・製本も鈴奈庵がある。恵まれた時代に生まれてよかったわ……」
呟いてしばらくした後、私は勢いをつけて床から跳ね起きる。
やはり厄神様に報いる方法を考えよう。この恵まれた時代なら探せばきっと何か見つかるはずだ。
しかし、決意してから昼過ぎまでずっと考えてはみたものの、特にいい考えを思いつくことはできなかった。
今、私は気分転換がてらに外の空気を吸うため、こうして一人里の中をさまよっている。
明晰な私の頭脳でも突如として妙案をひらめくことはなかったが、どうにか非情な現実だけは回避したい――そう思うと、じっとしてはいられなかった。
「あ、あれって阿求じゃない?」
「本当だ。あきゅうちゃーん!」
と、里の中央通りに差し掛かったところで、脇の方から呼び止められる。
振り向くと、そこにはカフェーのオープンテラスでくつろいでいる学友の姿があった。
もっとも私はあまり寺子屋に顔を出さないので、貸本屋・花屋と仕事持ちの彼女達がいつもああしているのかどうかは分からないが。
いずれにせよ、妙に様になっているとは思った。
「なに難しそうな顔してたのよ。そんなんじゃ眉間に皺が残るわよ」
「考え事? 良かったら相談にのるよ。ほら、何か甘いものでも食べて、ね?」
「ん、じゃあちょっと寄っていこうかな」
二人に誘われるがままに、私はテーブルへと向かう。
ここのテラスは段差がそれほど高くないためか、柵がなくて自由に出入りできる作りになっていた。
「小鈴ちゃん、メニュー取ってあげて」
「はいよ。ほら阿求」
「ありがとう」
小鈴から受け取ったメニューを眺めている間、二人は他愛もない話を再開した。
ただこちらを気遣っているのか、声を抑えてくれている。
「でね、冬に知り合ったお客さんがまたカッコ良くってさぁ。
付喪神の集団を引き連れて颯爽と立ち去って行ったりとか、私もいつかああなりたいわ」
「そ、そうなんだ」
「そっちはどう? 前に妖怪のお姉さんと花の話題を持ちかけてみるって言ってたよね。
いやぁ、妖怪相手に接客するなんて、普段のあんたからは考えられないわ」
「うん、そんなに怖い妖怪さんじゃなかったよ。お父さんも言ってたけど、普通のお客さんと接するみたいに礼儀正しくしていれば心配ないって」
……我が友人達は意外と怖い物知らずだったようだ。六介さんといい、最近は肝の据わった普通の人間も多いのかもしれない。
まぁこれらの顛末を見届けていくのも御阿礼の使命か。
などと、色とりどりの甘味に目移りしながら考えていると、斜向かいのテーブルに新たな客が現れたことに気付く。
「お兄さん、シナモン風味のアップルパイ、焼き立てでアイスクリンを添えてね」
「いつものでございますね。かしこまりました。こちら、姫海棠様には特別のお引き立てをいただき、まことに感謝しております」
そこにいたのは見覚えのある鴉天狗だった。ただ、里に最も近い方ではなかったけれど。
彼女の注文が気になってメニューに視線を戻すと、そこには件の品が写真と見出し付きで強調されていた。
「『月刊・グルメかいどうが勧める、この冬の新作!』……以下うんぬん、ねぇ。
この寒い時期に氷菓子を付け合わせたものを勧めていいのかしら? ま、普通の人間以外は気にせず注文するのかもしれないけど」
独りごちながら再び目線を天狗に向けると、ちょうど店内へ戻ろうとしている給仕と目があった。
一瞬目を見張るも、この際都合がいいかと思い用件を切り出す。
「すいません、私も注文いいですか? アールグレイとシナモンアップルパイをお願いします」
「かしこまりました。すぐに焼き上がりますので、少々お待ち下さい」
恭しくお辞儀して去っていった給仕を見送り、視線を戻そうとした途中で、斜向かいの天狗が腕組みしながら二、三度頷いてる様子が見えた
これは……あれか。記事で推していたものが選ばれて鼻高々になっているのか。
別に推薦文に惹かれて決めたわけじゃなくて、紅茶と組み合わせて食べたい物かつ安い方だったから選んだだけなのだが、わざわざ指摘するのも野暮だろう。
それにしてもあれが姫海棠はたてか。125季あたりからちょくちょく見かけてはいたのだが、ようやく顔と名前が一致した。
いつも山に引き篭りっぱなしと聞き及んでいたのだけど、先程のやり取りからすると人里にも頻繁に出入りしているようだ。
これならそのうち縁起のための取材を申し込んでもいいかもしれない。次の版に間に合うかどうか分からないけれど。
「それで、何を悩んでいたの?」
「え? ああ……うん、ちょっと話すのが難しいな」
なにしろ厄神様の話なのだ。万全の準備をしてようやく話題に出せるというのに、ここはあまりにも無防備すぎる。
しばらく言葉を選んでから、私は二人に悩み事を切り出す。
「ねぇ。誰かに間接的にお礼を言いたい時って、どうすればいいと思う?」
これを聞いた二人は目を二、三度瞬かせて絶句する。
しばらくして、小鈴の方が先に立ち直った。
「なにそれ。直接伝えちゃダメなの?」
「あ、えーと……そこはほら、あれよ。面と向かって言うのは恥ずかしい時ってあるじゃない」
至極もっともな切り返しを受け、私は慌ててありふれてそうな言い訳をひねり出す。
すると二人の視線が何やら生温かいものに変わった……たしかに誤解を大いに招く言動だったかも。
「ふぅん、普段からズケズケと物を言う阿求にも、意外としおらしいところがあるんだねぇ」
「もう小鈴ちゃん、そういうこと言わないの」
「まぁいいわ。そんなあんたのために、一つおじいちゃんから聞いたことわざを教えてあげる。
ねぇ二人とも、『漬物褒めれば嬶(かか)褒める』って知ってる?」
「ええっと……なんだっけ?」
「漬物を褒めるということは、それを作った女房を褒めることにつながるってことよ。
漬物作りには色々と心配りが必要、それを上手にこなせる奥さんがいて羨ましいとか、そんな感じで使われることわざなの。
もっとも、『漬物褒めれば親父が悋気』とも言って、漬物を褒めた途端に亭主がやきもちを焼くこともあるみたいだけど。
なんでそうなるかって言うと、間接的に奥さんが褒められるから、亭主としては粉をかけられているんじゃないかって気になるみたい」
得意げに話す小鈴をこれ以上調子付かせないよう、私はさらりと答えてみせる。これでも記憶力にはゆるぎない自信があるのだ。
「さっすが求聞持、話が速いわね。まぁそんな感じでさ、この前の本は文字も色も綺麗に再現されてた、とか言えばいいと思うよ。
仕事に対する賞賛って、それをやった人への感謝も含んでいるだろうし」
「……幻想郷縁起のことを言ってるんだったら、妖怪兎の絵に印刷ミスがあったんですけどー」
「ちょっと! その話は蒸し返さないでよ。
だいたい原稿の時点でそうだったから、元の動物のように妖怪兎にもヒゲが生えることもあるって表現だと思ったんだもん」
「……そうね、それに関してはこっちも悪かったわ」
さらに畳みかけるも苦々しい記憶を突き返されたため、私はそれ以上の反撃を諦めた。
それにしても『漬物褒めれば嬶褒める』か。この場合の漬物褒めるとは、例えば流し雛という儀式に感謝を送ることだろうか。
しかし彼女の二つ名は秘神流し雛。万一の可能性として、厄神に触れる話題と解釈されるかもしれない。
「お待たせしました、アールグレイとアップルパイです」
「あ、どうも」
などと、頭を抱え込みそうになるほど考え込んでいたところに、注文していた紅茶とアップルパイが運ばれてきた。
小さく切り分けられたそれらは甘酸っぱく芳しい香気を鼻先に送りこみ、私の集中力をさらに奪っていく。
こうなってはもうお手上げだ。思索はひとまず後回しにして栄養を補給するとしようか。
「っ、おいし――」
温かく芳醇な甘露を飲み込むやいなや、なんとも飾り気のない感慨がこぼれた。
その余韻の消えないうちに、熱々の紅茶をゆっくりと傾ける。
これは……筆舌に尽くしがたい味の溶け合いだ。氷菓子を除いたのがいささか悔やまれるかもしれない。
「あ、阿求それ注文したんだ。私も気になってたんだけどねー。いいや、思い切って頼んじゃえ!」
「こ、小鈴ちゃん大丈夫なの? お給料が入るまでのあと一週間は我慢するって言ってたのに」
「いいのよ。これでも結構ナイショの蓄えがあるんだから……すいませーん! 私にもニッキ風味のアップルパイ、アイスクリン添えでお願いします」
溌剌とした小鈴の声の切れの直後、カタカタと小さな音が聴こえてきた。どうやら姫海棠何某の両肩と両足が小刻みに震えているようだ。
うわぁ……さっきも思ったけど本当に鬱陶しいなぁ。気持ちは分からないでもないけど。
いずれにせよ、何でも自分のお気に召すままに解釈できるあたり、相当にストレスフリーな性格なのだろう。
「……あ! でも、それでもいいのかも。
本当は誤解や曲解だとしても、受け手がこちらの望んだとおりの解釈をしてくれるのなら」
「え? なんのこと? さっきの話?」
「うん、なんとなく方法が見えてきたわ。細かいところはもう少し考える必要があるけどね。
っと、こうしちゃいられないわ」
目を丸める二人をよそに、私は勢いよく立ち上がる。
なにしろ友人の助言を受けてからというもの、明晰な私の頭脳は次々とアイディアを生み出し始めたのだ。
この勢いが消える前にまとめてしまいたい。
「あ、ちょっと阿求ちゃん! まだアップルパイ残ってるよ」
「あげるわ。なんならアイスを追加してもいいよ」
「なによ阿求。そんなに慌てなくてもいいじゃない。この後あんたも連れてレコード屋さんに行こうと思ってたのに」
「生憎と今の私は貧乏になっちゃったのよ。また来月にでも誘って。それじゃあ、ね」
そしてテーブルの上に代金を広げるや、二人を置いて駆けだした。
さて、今日は弥生の二。残念ながら今年の桃の節句には間に合わないだろう。もしかしたら来年も怪しいかもしれない。
だがそれでもできるだけ早いうちから人里全てに触れ込みをしなくては。皆、私のように記憶の良い者ばかりではないのだから。
「! あれは――」
蕎麦屋の角を曲がったところで視野に入ってきた光景に目を見開き、それから慌てて明後日の方向を向いた。
なぜならそこにはインスタント雛人形の販売所があり、さらに看板を直している厄神様の姿があったからだ。
顔を伏せつつ彼女のそばを走り抜ける途中で、私は心の中だけで独りごちる。
――厄神様。今年は無理ですが、いつか必ず里のみんなの感謝をお届けします。
◆第129季 弥生の三 妖怪の山の樹海
毎年弥生の三の日には、ここ山の麓にある樹海からは生き物の気配が完全に消えることが知られている。
その中にあって今年は珍しく、生き物のごとく動くものが二つあった。
しかしその二者はともに、死に物のごとき雰囲気を周囲に纏わせてもいた。
その片割れ、今し方樹海に現れた方が先にあり続けていた方に気さくに話しかける。
「やあ厄神の。元気にしてるかい?」
「あら死神さん、ここは貴女の仕事場じゃないわよ」
「……手厳しいねぇ、誰も彼も」
「あらごめんなさい。相変わらず難しいわね、誰かを親切に追い返そうとするのって。
でも早く戻らないと怒られちゃうのは正しいのではなくて?」
「なに、うちのボスは今は首も回らないほど忙しいんでね。こっちも魂運びを遠慮したくなるくらいにさ」
現れた時から笑みを崩すことなく、死神・小野塚小町は鎌の石突で地面を小刻みに叩きながら歩を進める。
その打ちつける音がするたびに、とり憑こうとしている厄――不運の幽霊が片っ端から活性爆発していた。
流石、幽霊の扱いに長けた是非曲直庁の一員だと厄神・鍵山雛は感心する。ただ、このまま壊され続けてはたまらないと、一つ念を押すために口を開く。
「ねぇ、それ以上厄を壊すのは――」
「分かっているさ。お前さんの釣果、必要以上に荒らしたりはしないよ。
活性爆破だってタダじゃないんだ。あんまり連発してられないから安心しな」
「釣果って……たしかに厄は私の動力源だけど。
まぁご覧の通り、貴女に多少削られても問題ないほどの大漁よ」
「そのようだねぇ、景気が良くて羨ましい限りだ……うん? どうしたい、何か腑に落ちないって顔してるじゃないか」
近くまで来て顔色を窺った小町は、流し雛を怪訝そうに見つめている雛に疑問を抱く。
「ええ。実は今回、インスタント雛人形を乗せた舟の中に、余分に紙が添えられていたのよ」
答えつつ、雛はその場でくるりと一回転してみせる。
すると地面に漂っていた厄が一斉に引き寄せられていき、その場所に雛人形と紙を乗せた舟だけを残していった。
そこへ小町が歩み寄り、紙のうちの何枚かを拾い上げる。
「へぇ、こいつは凝っているねぇ。文字を書いたあとで、ご丁寧にも紙を漆漬けにしているんだ。
濡れても大丈夫なようにって配慮かねぇ。そんで中身はお前さんへの礼……かというとそうでもないのか」
「それはそうよ。自ら私に関する話を切り出すと厄が降りかかる――これは誰もが知っているタブーだもの」
「難儀だねぇ……それにしても内容が随分と似通っているんだね。
『此度の改訂版幻想郷縁起は飼い猫に手ひどい邪魔をされることなく、無事出版の運びと相成りました』
『一昨年はお天気が不安定でたくさんお花を駄目にしちゃったけど、去年は謎の魔力嵐にも負けないように工夫したおかげで、育てたものをお花の妖怪さんが褒めてくれた』
『一昨年は玄武の沢で起きた謎の水柱のせいか、他の川でもボウズ続きじゃったが、ある時からその憂き目を見なくなったのう』
『一時期さっぱり会えなかったのに最近は幸運の素兎に何度も会えただよ』
『せがれが建築中に怪我しちまったが幸い大ごとにはならず、しかもいい薬になったのか最近仕事ぶりが丁寧になりやがった』
『里で起きた宗教戦争の際、長らく仙人様に断られ続けていた弟子入りがどうにか叶いました!』……と。
どれもこれも一昨年あたりにゃ運が悪かったけど、去年辺りからツキが向いてきたって話ばっかりか。しかしまぁ、みんな良く覚えているもんだ」
「本当、不思議だと思ったわ。まるで示し合わせたみたいに趣旨を統一しているものだから」
一方の雛も自分の足元近くにあった舟から紙を拾い上げ、首をかしげながら中身を見つめる。
しばらくそうして黙っていると、唐突に身体がどこかへ引きずられていく感覚に襲われた。
どうしていいか分からずあたふたしている間に、肩を力強く掴まれる。
「ちょっ! 危ないわよ、厄が……ない!?」
背中から腕を回していたのが小町だと気づいた時、雛は慌てて厄を手放そうとしたが、自分の周りにそれらが全くないことに驚く。
まさか厄は置き去りにされたのではと思い至ったところで、小町が耳元に言葉を注ぎ込んできた。
「そんで、厄神様としてはこういう話を何度も見せつけられて、この連中を妬ましく思ったり今の自分が惨めに思えてきたりしたのかい?」
「……どういう意味かしら?」
「いや、ねぇ。あんまりな仕打ちじゃないかい? お前さんはこうして人知れず孤独に苦労をしょい込んでるっていうのに、まるで当てつけるみたいにさぁ。
示し合わせたんだとしたら、こりゃ相当なもんだよ」
先程までとは一転して悪辣ささえ感じさせる小町の言葉を受け、雛の目は次第に鋭くなっていく。
「……貴女にはそう感じられたのかしら?」
「それほど見当外れな読みじゃないと思うがね」
憐憫と嘲弄を混ぜてこちらを覗きこんでくる小町の瞳を、感情を押し殺した目で見つめながら雛は意識を過去へ遣る。
この死神とは数こそ少ないものの、それなりの時間会話を交わしてきた。
その際こちらをおだててきたり、あるいは小咄をして笑いを取りにきたりと、あくまで好意的な印象しか見せてこなかった。
だからこそ今の態度は衝撃的でもあったが、一方でどうにも拭いきれない違和感もあった。
「そう、でも私はそうは思わなかったわ」
「ほう。じゃあどう思ったんだい?」
「この手紙は私の厄払いへの感謝を綴ったものだと思ったわ……いえ、感謝は言いすぎだとしても、少なくとも厄払いの効能を認めてくれている証だと思ってるの」
「へぇ、根拠はぁ?」
投げやりな返答にも構わず、雛は手元にある手紙を両手で支え、静かな口調のまま言葉を続ける。
「貴女は誰かに生活の充実っぷりを自慢する時、わざわざ昔の見栄えの悪い逸話を交えたりする方かしら?」
「ふむ、あたいはしようとは思わないね。でも、そういう奴だって少なくはないだろう?」
「そうね、でも私は手紙を全部読んだのだから分かるのだけど、一人の例外もなく貴女の言うそれだったのよ。
しかも中には無理矢理ひねり出したみたいな逸話もあったし。そういうのって、後で逆にむなしくなるんじゃないかしら。
それにここまで労力をかけても、結局私のみじめな姿を確認するのも一苦労なのよ?」
「でもねぇ――ん!」
反論を重ねようとする小町の口元に、雛は人差し指を当てて制す。
「裏側がどうだっていいの。むしろ私はそこまでして、もしかしたら災厄が降りかかるかもしれないのに、幸福自慢をしてくれたことに胸が熱くなったわ。
人間達が息災であることが、傍で見守ることのできない私にとって常に知りたかったことだもの」
そして小町に答えを返す傍ら、雛は手紙をいとおしげに抱きしめた。
と、その肩を掴んでいた力が急にほころび、眼前で小町の破顔一笑が花開く。
「あっはっはー、いやぁ、降参降参。お前さんの度量、確かに見せてもらったよ。
まぁ感謝だろうね。人生谷底に落ちることもあるが山に登れることもあるもんだ、ってのが表向きでさ。
そんでその裏側には、誰かさんのお蔭様でって読み取ってもらえるように」
「えっ? 貴女――」
「どうだっていい、か。
たしかに裏を読み過ぎて疑心暗鬼に囚われ、自分の毒に中(あた)ってストレスフルになるよりは幾分かマシだよねぇ。
もっとも、お前さんのことを気が鬱ぎがちで視野が狭い器だとは、端っから思っちゃいなかったけどさ」
そのまま元の調子に戻った小町を見て、雛は安堵のため息を吐いた。
「やっぱり試していたのね。もう、人が悪いんだから!」
「そりゃもう、我等が庁は他者に嘘を禁じておきながら、利他行掲げて脅迫・虚言なんでもござれの酷い連中だからねぇ」
「あっ、そう……」
悪びれることなく歯をむいて笑う小町を見て、雛は諦めたような苦笑を浮かべる。
それからやんわりと小町の腕を解くと、取り残されていた厄が散ってしまわないように再び回収していった。
人里の知恵袋、阿求の華麗なる恩返し劇。したたかで調子が良い、そして何よりデキる人物として、好感が持てます。物語や、恩返しの方法も、良くぞ思いつくものだという斬新なもの。知らぬが仏。
でも橋姫はヤメテ。
阿求の心遣いに雛が報われて良かったです。
仙人様に弟子入り...お気の毒に。
里の人々、特にカフェでの様子などが素敵です
とてもよかったです。楽しく読ませて頂きました。