アリス・マーガトロイドが今回犯したミスは三つ。
一つ、未遂とは言え、寝ている霊夢にキスをしようとしてしまった事。
二つ、それを文に目撃され写真を撮られたうえに、取逃がしてしまった事。
そして最後三つ目がもっとも大きなミスで……。
◆
チュンチュン、と朝を告げる様に鳴くすずめの鳴き声が響き、まだ柔らかな陽光の日差しが家の中を照らす。
そこは魔法の森のとある一角。森の中でありながら開けた場所で、家が一軒建っている。
家の主は七色の人形遣い、アリス・マーガトロイドである。
アリスが拠点を魔法の森にしているにはいくつかの理由がある。
その理由の一つが特殊な土地であるという事だ。この土地は魔法の森と言われているだけはあって、文字通り森が魔力を帯びている。
森自体が一個の巨大な魔法の塊のようなもので、上手く利用できれば文字通り無尽蔵に魔力を使用する事が可能になる。
魔法の研究を行ううえでこれほどのメリットはなかなか無い。
また、この森には幻覚を見せる効果のある茸が自生しているため、知能の高い生き物を森に寄せ付けない。
正確には森の魔力が茸の胞子に混ざり、その胞子飛散する事で、近くを通りかかった力の弱い者や迷い込んでしまった者の感覚を狂わせてしまっているようだ。
知らぬ間に森に化かされる。そして、気付いた時には帰る道を失い、相当運が良くなければ、ただ力尽きるの待つばかりとなってしまう。
そうなった生き物の末路が死であり、そうしてこの森は栄養を蓄え魔力を保っている。
それらが魔法の森と言われる所以であり、生き物を寄せ付けにくいと言う環境が己の術を隠匿とする魔法使いには好都合なのだ。
アリス自身も、この環境を気に入っていた。
緑が多い分湿度が少し高めなのは不快だったが、魔力が高まり自分の技を磨けるこの森を好都合と思っていた。
他者(一部人間を除く)が近付き難いという環境も気に入っていた。
特に、前日に寝ている霊夢にキスしようとしている所を天狗に写真に収められ、その天狗を結局捕まえる事が出来なかった時など都合がいい。
誰にも会いたくない日など、この場所はまさに打って付けのスポットでもあった。
昨日の事を思い出して頭を抱えながらアリスはただただ、自分の軽率な行いを呪っていた。結局文を捕まえる事が出来ず素直に諦め自宅で朝を迎えた。
そもそもアレは無防備に寝ている霊夢が悪いのだ!あんな風に縁側で無防備に寝ていられたら、誰だって悪戯の一つや二つしたくなるというもんだ!
唯一の誤算があるとすれば、あの場に文がいたのに気が付かなかったという事くらいなものだ。
「…………………うん」
長い沈黙の後でアリスは自分に言い聞かせる様に頷く。結局、文を捕まえられなかったが、それはもうしょうがない、時間を戻せない以上考えたところで無駄なのだ。
それに、霊夢にキスしようとしていた事や、恥ずかしい台詞を言った事を記事にされても所詮は捏造の多い天狗の新聞、一月もすれば噂なんて消えてしまうだろう。
それまでずっと自立人形作成の研究に費やせばいい。幸い魔女であるアリスには食事という行為は基本的に不要だ。
アリスがお菓子作りや料理をするのは、人形作りばかりでは息が詰まってしまうからが理由で、言うなれば気分転換が目的だ。
結局は趣味の延長でしかないため、食料の、飲食の心配は最初から必要はない、つまり買出しのための外出も不要だ。
そう考えると今回の事は実に都合が良い気がしてきた、人形の素材は十二分に揃っているし、最初から引きこもり人形を作る時間に費やすためにやった事で、わざと見つかったんだ!と言い聞かせると少しだけ楽になった。
「……お茶でも飲んでから、始めましょうか」
『でもその前に、以前作ったジャムがそろそろ使わないと駄目になってしまうな』とアリスは思い出した。ちょうど昨日準備していたクッキー生地等も余っていたため手始めにクッキーと朝食用のパンを作る事にした。
◆
「ふぅ……」
頬に白い粉を少し付けたアリスが釜戸の前で一息吐いた。
やはり何か作業に集中してれば余計な事を考えないで済む。クッキーやパンの生地をこねているとモヤモヤ悩んでいたのが大分すっきりした様に感じていた。
外は晴れていて、今日も気持ちの良い一日になりそうだ、と考えていると扉をノックする音が聞こえた。
その音にアリスは身構える。
先に述べた通り、魔法の森に住んでいる以上来客は本当に稀だ。本当に稀に人間が迷い込んで来る事もあるが、大抵は同業者(どちらかというとシーフ)の魔理沙だ。
アリスは訊ねて来たのを魔理沙と仮定し、ではその場合、早朝訪ねてきた理由はなんだろうか?と理由を考える。
いくら速さに定評のある天狗とは言え、流石に新聞作りまではそこまで速くはないだろう。では、新聞はまだ出回っていないとすると、からかいに来たとかではなく……。
「…………こっちよね、多分」
アリスはパンを焼いている釜を眺め、魔理沙が朝食をせびりに来たのだと判断した。別に珍しくはない、魔理沙は魔法使いを名乗っているが身体は人間のままで、彼女には睡眠も食事も必要だ。
それで同じく魔法の森で生活しているからか、それとも食料が底をついたのか、頻繁ではなくともたまに食事を一緒にと誘ってくる(というよりも一方的におしかけて食べに来る)事がある。
最近は顔を見せてなかったが、恐らくはまた備蓄でも尽きたのだろう。
アリスは訪ねて来たのが魔理沙で、目的が朝食であると簡単に推理した。
そうやってまだ見ぬ来訪者の事を考えていると、早く出てくる事を催促するようにまた扉が叩かれた音が響いた。
この人を急がせる様なせっかちな所も彼女らしいな、と考えながら
「いまいくからー!」
少し大きめな声で答えておく、恐らく声は外まで届いただろう。
あと少しでパンは焼きあがりそうだが、長話せず簡単な対応で済ませればパンを焦がす事もないだろう。
そう判断すると、アリスはいそいそとエプロンを外し、玄関へ向かった。
いつもアポ無しでくるため困る存在だが、ちょうどジャムを消費しようと思ってので、処理を手伝ってもらおう。
そんな事を考えながら扉を開けたアリスは氷付いた。
何故なら玄関に立っていたのは朝食を食べに来た魔理沙ではなく
「おはようアリス」
見覚えのあるバケットと上海人形をつれた、今一番会いたくない人物が立っていたからだ。
固まって、挨拶を返さないアリスに、もう一度『おはよう』と彼女は言う。
アリスは今度こそ、その挨拶に引きつった笑顔ながら『お、おはよう……、霊夢』と返した。
◆
「まったく、クッキーだけ置いてこの子を忘れていくなんて、どうしたのよ?大切な子なんでしょ?」
「……ち、ちょっといろいろあったのよ、ごめんね上海」
朝一番に神社に置いて来たバケットと、忘れてしまっていた上海を持ってきてくれた霊夢とテーブルを挟んでそんなやり取りをする。
アリスが犯したもっとも大きなミスがこれだ。必死になっていたから今の今まで上海人形の存在を忘れていてしまった。
もっとも古い付き合いの相棒とも言える大事な人形なのに、随分と薄情な事をしてしまっていた。
「いろいろ、ね……」
上海人形に謝り続けるアリスに『この子悲しんでいたわよ?』と付け足しながら、出された紅茶を霊夢はまるで日本茶を飲む様に大きな音をたてて啜る。
一方一日ぶりの再会をはたせた上海は『サビシカッター』と言ってアリスに抱き付いていた。
「ああ、ごめんね上海、貴女を忘れてきちゃうなんて、本当に急いでいたの……」
「……その反応からしても相当大事な人形なんでしょ?その子を忘れるなんて何かあったの?」
霊夢の指摘にビクッとアリスは身体を強張らせる。『何かあったのか?』何て言われてもどう言えばいいか思いつかない。
寝ている霊夢にキスしようとしている姿を文に撮られて、逃げた文を慌てて追ったせいで忘れてしまった。なんて言えるはずない。
「……え、と」
言い訳が思いつかず思わずアリスは口ごもる。
正直に話すべきか、それとも適当に嘘を言うか、アリスは悩んだ。
今この場で適当に誤魔化しても後々は文の手によって情報はばら撒かれるだろうから、それを考えた場合先に情報操作しておいた方が何かと好都合かもしれない。
何も知らないままで文の新聞を読むよりは、先に誤解だと知ってからの方が後々面倒な事になり難いだろうし、幸い文の新聞は元々信憑性には欠ける部分が多いから情報操作はしやすい。
あの時は何かの間違いで、キスしようとした事実は確かに存在するが、その辺はゴミを取ろうとした。とでも言っておけばどうとでもなるだろう。
文の新聞と自分の話とではおそらく自分の話を霊夢は信じる事だろうから、先に霊夢に事情を少し曲解して話しておけば厄介な事にはなりはしないのだ。
考えてみれば簡単な事だった。先に情報を植えつけていていればどうとでもなるだろうから、文には少しばかり悪者になってもらおう。
アリスはそう決めた。
「そうそう、そう言えば神社を出る時、萃香にアリスの事で変な言われたのよね」
「実はね霊夢、困った事があって文が……」
アリスが早速霊夢に思いついた事を話そうと思った瞬間タイミングよく霊夢の声が重なった。
「萃香に?」
霊夢の方が先に話題を出し切ってしまったため、思わずアリスは自分の話を止めて霊夢に疑問の声を発していた。
「ええ、そうなのよ……と、今貴女も何か言おうとしなかった?」
「え?あ、大丈夫、他愛のない話よ、貴女が先でいいわ」
正直、アリスの方の情報は後からでも問題ないと思えたし、何よりアリスも何を言われたのか気になった。
いったい、あの年中酔っ払いの小鬼に何を言われたというのか?
首を傾げるアリスに気にせず霊夢は言葉を続ける。
「『アリスは人間が一番怖いことに気付いていないんだよなぁ、霊夢ついでに教えてきたら?』ですって、どういう意味かしらね?」
『何か含み笑いみたいなのもあったのよねぇ』と続ける霊夢の言葉に思わずビクッとアリスの体は震えて、搾り出すように
「さ、さぁ……」
とだけしか言えなかった。
嫌な予感がした。あの時の目撃者ははたして文だけだったのだろうか?
萃香も頻繁に神社にいるし、スキマ妖怪八雲紫も神出鬼没だが神社でそれなりの頻度で目撃される。
最近では地底の火車や、仙人なんかも神社でよく見るようになったし、噂では以前迷い込んできた三人組の妖精達の別荘が神社の近くにあると聞く。
何故他にも目撃した者がいなかったのか、と疑わなかったのだろうか?
己の軽率さをアリスは呪う。
「アリス?」
霊夢は黙ってしまったアリスに怪訝そうな声をかけるが、当のアリスには霊夢の言葉は届いていなかった。
あの光景を見ていたのが文だけではなかったとしたら、萃香や紫、お燐に華扇に三妖精……、もしかしたら他にも見ていた者がいる可能性だって十分ありえる。
今、アリスの頭の中では想定できるあらゆる目撃者の可能性の是非が巡っていてそれどころではなかった。
「……ん?ねぇアリス、なんだか焦げ臭くない?」
「………………」
霊夢は部屋に漂う幽かな匂いに異変を察知するが、やはりアリスの耳にはその言葉は届いていないようで、アリスは目を伏せてブツブツと何かを呟き続けている。
「アリス?」
「………………」
もう一度呼びかけてみるが、反応は同じで霊夢には聞こえない声でブツブツと何かを考え呟き続けいてる。
「アリス?アリスー?アーリースー?」
「………………」
アクセントを変えて連続して呼びかけてみても、やはり返答は返ってこない。
「おーい、アリスー?」
「………………」
最後にもう一度だけと決めて呼びかけた声にも反応がなかったため、霊夢は一度ため息を吐くとその場で立ち上がり上半身を前方に少しだけ倒して行動に移した。
「アリス!?」
「ふぇっ!?」
いきなり顔を両手で挟まれる様に掴まれ、もはや怒声に近い何度目かの霊夢の呼びかけに、ようやくアリスは自分の世界から戻ってきた。
完全に自分の世界に入ってしまっていた事と目と鼻の先に少し不機嫌な霊夢の顔があるため驚いて、思わずアリスは変な声を出してしまった。
「『ふぇっ!?』じゃなくて!さっきから名前呼んでるの聞いてなかったの?なんだか焦げ臭くなってきてるって言ったのに!」
「え? ……あっ!!」
その言葉と焦げ臭さからパンを焼いていた事をすっかり忘れていて、アリスは慌てて釜戸へ向かった。
珍しく血相を変えてドタドタ普段見せない慌てた姿で釜戸まで駈けていくアリスの姿を霊夢は楽しそうに見送った。
こんなアリスの姿はそうそう見れるものではない。
◇
「ああ、もう、大丈夫かしら?」
焼いていたパンを慌てて取り出すと、幸いにも霊夢がすぐに気付いてくれたおかげで表面が少し焦げたくらいで表面を削げば問題なく食べられそうだった。
アリスはその事を確認するとホッと胸を撫で下ろした。もしも丸焦げになっていたら当初の目的のジャムの消費どころではなく目も当てられなかった事だろう。
「これくらいなら食べるのに問題はないわね、さて……」
チラッと釜戸の方から霊夢の方を確認する。霊夢は特にこちらに興味がない感じで先ほどと同じ様に紅茶を飲みながら、なにやら今は上海と(で)遊んでいるようだった。
その様子に特に急いでいる感じもしなかったので、当初の目論見とは違ってしまったが、アリスはこのまま用意した朝食をを霊夢と一緒に食べて、にジャムの消費を手伝ってもらおうと考えた。
「ねぇ霊夢?」
「ん?なにかしら?」
アリスの言葉に上海の頬を突きながら霊夢が特に興味なさそうに反応する。
「上海を連れ来てくれたし、せっかくだから一緒に朝ごはん食べていかない?」
「食べる!」
興味なさそうにしていたのに『簡単なお礼がしたいのよ』とアリスが言葉を紡ぐよりも早く霊夢から返答がきた。
一応アリスの目論見通りになったわけだが『朝食を食べていかないか?』という問いに『食べる!』とアリスの方を向き即答した霊夢の顔がヤケに嬉しそうな顔だったものだから、アリスは少し不安になった。
何せ博麗神社と言えば、お賽銭が入らない万年金欠と噂されている。ただの噂話で誰もその事実を細かく確かめた事はないが、アリスの知る限り、あの神社に参拝しにくる客を見た覚えがない。
もしかしたら噂は本当で、実は霊夢は普段は食べるに困っているのではないだろうか?それで自分の申し出をここまで嬉しそうに返したのかもしれない。
そう思うと不憫で、パンと簡単なサラダだけにしようと思っていたメニューにアリスは目玉焼きとベーコンも追加する事にした。
それに、このまま霊夢に上海を忘れた理由を言及されるよりも、いったん朝食に話題を移して落ち着いた頃合で話を切り出したほうが懸命だと判断した。
変に何かあったのか?と怪しまれているような状態よりも、一息ついてサラッと『文に変な写真を撮られてそれで慌てて追いかけたから上海を忘れてしまった』と話を切り出せば自然に話を膨らませる事が出来るとアリスは考えた。
◆
誰かとの朝食は久しぶりだった。
いつか魔理沙に『どうせ食料がなくなったから食べにきているのでしょう?』と言った時に『それは違うなアリス、誰かと食事をするのが重要なんだ、だから私は普段一人ぼっちのお前のために良き話相手を連れてきてやっているんだぜ』と返された事がある。
その時は都合の言い戯言だな、と聞き流したが、話はせずともこうして面と向き合い、自分が作った食事を『美味しい』と喜んで食べてもらえるのはそれだけでも気分が良かった。
今まではその相手がずっと魔理沙で変な先入観を持っていたから感じなかったが、なるほど、魔理沙の言葉に間違いはなかったのだなと木苺のジャムを塗ったパンを齧りながらアリスは考えていた。
アリスの目の前で霊夢が美味しそうに食材を消費している。今日は朝食がまだでお腹が減っていたのか、それとも本当に普段食べれていないのか喉に詰まらせそうな勢いで食べている。
実際上海が持ってきた水を慌てて受け取り流し込んでいる辺り、本当に喉に詰まらせながらも食べているのかもしれない。
「……っはぁ、ご馳走様でした」
「はい、お粗末様でした」
あまりにもいい食べっぷりだったので、アリスは霊夢が食べ終わるまで話をするのは止めておいた。
何と言うか、邪魔するのは可哀想に思えたからだ。
「そういえば、昨日文がね……」
霊夢が紅茶を飲んで一息ついたタイミングでアリスは話を切り出したがしかし、
「そうそう文と言えばね」
「文がどうかしたの?」
せっかく切り出そうとしたのに、また霊夢の声で話題が遮られてしまった。しかも、つい文の話題だったため、アリスはまた自分の話を最後まで言う事なく霊夢の話に喰い付いてしまった。
気になる事に対してつい興味が湧いてしまう、魔法使いの悪い癖でもある。
「まぁ文と言うか、天狗が、なんだけどね、アイツら沢山新聞を作っているじゃない?」
「え、ええ、そうね」
まさにその捏造新聞の事について話をしたかったのだが、タイミングを完全に外してしまい、アリスは内心で地団駄を踏んでいた。
「なんか最近新しい印刷機とか言うのが出来て前よりもずっと早く新聞が出来るようになったらしいわよ」
『文が今朝話していたわ』と霊夢から放たれた言葉にアリスはピタッと動きを止める。
「そ、そそそそそうなんだ……、い、今までよりも早く新聞が作れるようにね……」
「ど、どうしたのアリス?」
うろたえない様に意識したつもりだったのだが、目に見えてアリスはうろたえていた。
それはまったくの予想外の言葉だったからだ。もしその言葉が本当ならばすでに昨日の出来事が新聞にされて配られている可能性がある。
しかも霊夢は先ほど『今朝文が話していた』と言った。つまりその時その印刷機で新聞を作り霊夢の手に新聞が渡っている可能性はある。
怪訝そうな顔をしている霊夢の前でアリスは一つ大きく深呼吸して気持ちを落ち着ける。
慌てる事はない、それはまだ一つの可能性でしかないのだから、それに訪れてから今まで霊夢には昨日の事を知っている素振りは感じられない。
ならばまだ新聞を読んでいない可能性もある。
「その新聞、霊夢は読んだの?」
今度こそうろたえない様に勤めて平静を装い問いかけた。
「いいえ、この子を連れて神社を出ようとした時だからまだ読んでないわ、それに文も新聞を渡して、新しい印刷機が出来たって事を話たらすぐどっかに行っちゃったしね」
上海の頭をぽんぽんと軽く叩きながら言われた霊夢の言葉にアリスは『そう……』と素っ気無く返したが、内心ではガッツポーズを決めていた。
まだ読んでいないのならば、まだ間に合う。しかしここで慌てて話してもなんだかそっちの方が疑われそうなので勤めて平静を装ったままで一度別な話題をふる。
「新聞が早く作れるようになったって言っていたけど何が変わったのかしら?」
「さぁ?詳しいことは解らないわ」
『私にはそういうのは専門外だもの』と霊夢は手をヒラヒラとさせて続けた。
チャンスはここだ、とアリスは瞬時に判断した。ちょうど新聞の話題が継続して、しかもタイミング良く霊夢の話が途切れた。
二度ある事は三度あると言われているが、それならこちらは三度目の正直だ。
「あ、そういえば新聞と言えばね、多分なんだけど」
「うん?どうかしたの?」
今までの二度が嘘のように三度目はスムーズに自分の話題に持っていく事が出来てアリスは安心した。
これから先は子供の悪戯を話すように落ち着いて話をするだけでいい、変に慌てたり、感情を込めればきっと逆効果になってしまう。
「おそらく私が寝ている貴女にキスしようとしていたとか書かれていると思うから」
「は?どういう事?」
怪訝そうな顔をする霊夢にアリスは事の成り行きを少し改竄して説明する。
神社に上海を迎えに行った事。霊夢が寝ていたのと神社の境内がまだ散らかっていたので掃除をしておいた事。そして、掃除を終えても霊夢が目を覚まさなかったので起そうとしたら顔にゴミが乗っていたので取り除こうと屈んだらその場面を文に写真に撮られて、それをキスしようとしていたと勘違いされた事。その誤解を解こうと慌ててどこかに飛んで行った文を捕まえようとしてつい上海を忘れてしまった事を、アリスは霊夢に説明した。
話を聞いて、霊夢は大きな溜息を吐いた。
「なんだか文の奴もそんな事で記事を作るなんて子供みたいね……」
「ええ、まったくね」
霊夢の反応を見て、アリスは安心した。どうやら情報操作は上手くいったようだった。これで神社に戻ってから文の新聞を読んでも新聞よりも今聞いた話の方を信じるだろう。
「と、ちょっと長いしちゃったわね。そろそろ神社に戻るわ朝ごはんご馳走様ね」
言って霊夢が立ち上がる。話を区切るのにちょうどいいタイミングでもあったようだ。
「あ、そうだ霊夢、このジャムはいらない?沢山作りすぎて余っちゃってるのよ」
霊夢に合わせてアリスも立ち上がり戸棚の方を指差す。そこにはジャムの詰まった瓶が数個並んでいる。
一番の目的は達成できたので、アリスとしてはもう一つの目的である余っているジャムの消費もしておきたかった。
「え?うーん、ジャムだけ貰ってもね……、うちは基本主食はお米だし」
「お茶に入れたり、お茶請けのクッキーとかに塗っても美味しいわよ」
確かにお米ではジャムは使用する事はないだろうが、お茶やお茶請けのちょっとしたアクセントにも使えるのでそうアドバイスしてみる。
善意からの言葉であるが、意地でもジャムを押し付けたかったという気持ちも、ないと言えば嘘になる。
「確かに美味しいジャムだったわ、でも私が飲むのは基本緑茶だし、うちにあるお茶請けは塩せんべいと羊羹くらいよ?」
言われてアリスは一瞬ジャムの入った緑茶とジャムの塗られた塩せんべいとジャムの乗っかった羊羹を想像しようとしたが……、止めた。気持ち悪くなりそうだった。
洋菓子や紅茶等を好むならいくらでも消費のアテがあるが、霊夢のように和菓子や緑茶を好む場合だと思いの他消費できないのかもしれない。
それならばいっそ定期的にクッキーでも作って神社に届けてしまおうか、とアリスは思いついた。
霊夢への誤解が解けている以上は特に引きこもる必要もない、茶化されたところで二人が否定すれば所詮は捏造の多い天狗の記事、すぐに皆勘違いだと解ってくれるだろう。
そう考えると案外生き抜きの散歩にもなるので結構良い案かもしれないとアリスは考え始める。
「だから残念だけど、消費するアテが……」
霊夢は悩んでいるアリスの顔を見て、そこで台詞を切った。アリスの口元に先ほどパンを食べた時のものであろうジャムが付いているのを見つけたからだ。
そこで霊夢は一度『ふむ』と何かを考える様な仕草をすると、突然アリスの襟に付けているリボンを少し強めに自分の方に引っ張った。
「っ!?」
考え事をしていたアリスは、予期せぬ霊夢の行動に思わずバランスを崩して少し前のめりの姿勢になってしまった。
霊夢の顔が突然近くなり『ぶつかる!』と思わず目を閉じた瞬間に引っ張れる力が緩み、顔同士がぶつかるかと思っていたら、思いの他柔らかいものが唇に当たる感触だけがきた。
「……うん、やっぱりこういうのはそのまま食べるよりも、何かに付けて食べる方がいいわ」
目を開いたアリスの前で、ペロっと霊夢は自分の唇を一舐めして『だから、食べたくなったらまたくるわ』と一言付け足した。それを少し下品だな、とアリスはぼんやりと眺めていた。
「ぎゃおー、なんちゃってね。ごちそうさま」
そう言い残して、何事もなかったかの様に部屋を出ていってしまった。その様子をボーっと見送り、玄関のドアが閉まる音を聞いてから、アリスは少し震える手でに唇に触れる。
微かに触れた自分以外の体温の名残がまだ唇に残っていた気がした。そして、そのまま時間の経過と共に徐々に思考が戻っていく。
「エ?え?………………え?」
何があったのか頭がしばらく理解する事を放棄していたが、確かに霊夢の唇が当たった感触がそこにはあった。
やっと理解してアリスが真っ赤になる頃にはすでに霊夢の姿は目に映る場所にはなかった。
「あ、う……」
『アリスは人間が一番怖いことに気付いていないんだよなぁ、霊夢ついでに教えてきたら?』と霊夢が言った萃香の言葉が思い出される。
霊夢の新聞はまだ読んでいないと言っていた言葉が本当なら、先ほどの、帰り際のあの台詞を知っている事から察するに……
「もしかして……、起きて……た?」
一つ、未遂とは言え、寝ている霊夢にキスをしようとしてしまった事。
二つ、それを文に目撃され写真を撮られたうえに、取逃がしてしまった事。
そして最後三つ目がもっとも大きなミスで……。
◆
チュンチュン、と朝を告げる様に鳴くすずめの鳴き声が響き、まだ柔らかな陽光の日差しが家の中を照らす。
そこは魔法の森のとある一角。森の中でありながら開けた場所で、家が一軒建っている。
家の主は七色の人形遣い、アリス・マーガトロイドである。
アリスが拠点を魔法の森にしているにはいくつかの理由がある。
その理由の一つが特殊な土地であるという事だ。この土地は魔法の森と言われているだけはあって、文字通り森が魔力を帯びている。
森自体が一個の巨大な魔法の塊のようなもので、上手く利用できれば文字通り無尽蔵に魔力を使用する事が可能になる。
魔法の研究を行ううえでこれほどのメリットはなかなか無い。
また、この森には幻覚を見せる効果のある茸が自生しているため、知能の高い生き物を森に寄せ付けない。
正確には森の魔力が茸の胞子に混ざり、その胞子飛散する事で、近くを通りかかった力の弱い者や迷い込んでしまった者の感覚を狂わせてしまっているようだ。
知らぬ間に森に化かされる。そして、気付いた時には帰る道を失い、相当運が良くなければ、ただ力尽きるの待つばかりとなってしまう。
そうなった生き物の末路が死であり、そうしてこの森は栄養を蓄え魔力を保っている。
それらが魔法の森と言われる所以であり、生き物を寄せ付けにくいと言う環境が己の術を隠匿とする魔法使いには好都合なのだ。
アリス自身も、この環境を気に入っていた。
緑が多い分湿度が少し高めなのは不快だったが、魔力が高まり自分の技を磨けるこの森を好都合と思っていた。
他者(一部人間を除く)が近付き難いという環境も気に入っていた。
特に、前日に寝ている霊夢にキスしようとしている所を天狗に写真に収められ、その天狗を結局捕まえる事が出来なかった時など都合がいい。
誰にも会いたくない日など、この場所はまさに打って付けのスポットでもあった。
昨日の事を思い出して頭を抱えながらアリスはただただ、自分の軽率な行いを呪っていた。結局文を捕まえる事が出来ず素直に諦め自宅で朝を迎えた。
そもそもアレは無防備に寝ている霊夢が悪いのだ!あんな風に縁側で無防備に寝ていられたら、誰だって悪戯の一つや二つしたくなるというもんだ!
唯一の誤算があるとすれば、あの場に文がいたのに気が付かなかったという事くらいなものだ。
「…………………うん」
長い沈黙の後でアリスは自分に言い聞かせる様に頷く。結局、文を捕まえられなかったが、それはもうしょうがない、時間を戻せない以上考えたところで無駄なのだ。
それに、霊夢にキスしようとしていた事や、恥ずかしい台詞を言った事を記事にされても所詮は捏造の多い天狗の新聞、一月もすれば噂なんて消えてしまうだろう。
それまでずっと自立人形作成の研究に費やせばいい。幸い魔女であるアリスには食事という行為は基本的に不要だ。
アリスがお菓子作りや料理をするのは、人形作りばかりでは息が詰まってしまうからが理由で、言うなれば気分転換が目的だ。
結局は趣味の延長でしかないため、食料の、飲食の心配は最初から必要はない、つまり買出しのための外出も不要だ。
そう考えると今回の事は実に都合が良い気がしてきた、人形の素材は十二分に揃っているし、最初から引きこもり人形を作る時間に費やすためにやった事で、わざと見つかったんだ!と言い聞かせると少しだけ楽になった。
「……お茶でも飲んでから、始めましょうか」
『でもその前に、以前作ったジャムがそろそろ使わないと駄目になってしまうな』とアリスは思い出した。ちょうど昨日準備していたクッキー生地等も余っていたため手始めにクッキーと朝食用のパンを作る事にした。
◆
「ふぅ……」
頬に白い粉を少し付けたアリスが釜戸の前で一息吐いた。
やはり何か作業に集中してれば余計な事を考えないで済む。クッキーやパンの生地をこねているとモヤモヤ悩んでいたのが大分すっきりした様に感じていた。
外は晴れていて、今日も気持ちの良い一日になりそうだ、と考えていると扉をノックする音が聞こえた。
その音にアリスは身構える。
先に述べた通り、魔法の森に住んでいる以上来客は本当に稀だ。本当に稀に人間が迷い込んで来る事もあるが、大抵は同業者(どちらかというとシーフ)の魔理沙だ。
アリスは訊ねて来たのを魔理沙と仮定し、ではその場合、早朝訪ねてきた理由はなんだろうか?と理由を考える。
いくら速さに定評のある天狗とは言え、流石に新聞作りまではそこまで速くはないだろう。では、新聞はまだ出回っていないとすると、からかいに来たとかではなく……。
「…………こっちよね、多分」
アリスはパンを焼いている釜を眺め、魔理沙が朝食をせびりに来たのだと判断した。別に珍しくはない、魔理沙は魔法使いを名乗っているが身体は人間のままで、彼女には睡眠も食事も必要だ。
それで同じく魔法の森で生活しているからか、それとも食料が底をついたのか、頻繁ではなくともたまに食事を一緒にと誘ってくる(というよりも一方的におしかけて食べに来る)事がある。
最近は顔を見せてなかったが、恐らくはまた備蓄でも尽きたのだろう。
アリスは訪ねて来たのが魔理沙で、目的が朝食であると簡単に推理した。
そうやってまだ見ぬ来訪者の事を考えていると、早く出てくる事を催促するようにまた扉が叩かれた音が響いた。
この人を急がせる様なせっかちな所も彼女らしいな、と考えながら
「いまいくからー!」
少し大きめな声で答えておく、恐らく声は外まで届いただろう。
あと少しでパンは焼きあがりそうだが、長話せず簡単な対応で済ませればパンを焦がす事もないだろう。
そう判断すると、アリスはいそいそとエプロンを外し、玄関へ向かった。
いつもアポ無しでくるため困る存在だが、ちょうどジャムを消費しようと思ってので、処理を手伝ってもらおう。
そんな事を考えながら扉を開けたアリスは氷付いた。
何故なら玄関に立っていたのは朝食を食べに来た魔理沙ではなく
「おはようアリス」
見覚えのあるバケットと上海人形をつれた、今一番会いたくない人物が立っていたからだ。
固まって、挨拶を返さないアリスに、もう一度『おはよう』と彼女は言う。
アリスは今度こそ、その挨拶に引きつった笑顔ながら『お、おはよう……、霊夢』と返した。
◆
「まったく、クッキーだけ置いてこの子を忘れていくなんて、どうしたのよ?大切な子なんでしょ?」
「……ち、ちょっといろいろあったのよ、ごめんね上海」
朝一番に神社に置いて来たバケットと、忘れてしまっていた上海を持ってきてくれた霊夢とテーブルを挟んでそんなやり取りをする。
アリスが犯したもっとも大きなミスがこれだ。必死になっていたから今の今まで上海人形の存在を忘れていてしまった。
もっとも古い付き合いの相棒とも言える大事な人形なのに、随分と薄情な事をしてしまっていた。
「いろいろ、ね……」
上海人形に謝り続けるアリスに『この子悲しんでいたわよ?』と付け足しながら、出された紅茶を霊夢はまるで日本茶を飲む様に大きな音をたてて啜る。
一方一日ぶりの再会をはたせた上海は『サビシカッター』と言ってアリスに抱き付いていた。
「ああ、ごめんね上海、貴女を忘れてきちゃうなんて、本当に急いでいたの……」
「……その反応からしても相当大事な人形なんでしょ?その子を忘れるなんて何かあったの?」
霊夢の指摘にビクッとアリスは身体を強張らせる。『何かあったのか?』何て言われてもどう言えばいいか思いつかない。
寝ている霊夢にキスしようとしている姿を文に撮られて、逃げた文を慌てて追ったせいで忘れてしまった。なんて言えるはずない。
「……え、と」
言い訳が思いつかず思わずアリスは口ごもる。
正直に話すべきか、それとも適当に嘘を言うか、アリスは悩んだ。
今この場で適当に誤魔化しても後々は文の手によって情報はばら撒かれるだろうから、それを考えた場合先に情報操作しておいた方が何かと好都合かもしれない。
何も知らないままで文の新聞を読むよりは、先に誤解だと知ってからの方が後々面倒な事になり難いだろうし、幸い文の新聞は元々信憑性には欠ける部分が多いから情報操作はしやすい。
あの時は何かの間違いで、キスしようとした事実は確かに存在するが、その辺はゴミを取ろうとした。とでも言っておけばどうとでもなるだろう。
文の新聞と自分の話とではおそらく自分の話を霊夢は信じる事だろうから、先に霊夢に事情を少し曲解して話しておけば厄介な事にはなりはしないのだ。
考えてみれば簡単な事だった。先に情報を植えつけていていればどうとでもなるだろうから、文には少しばかり悪者になってもらおう。
アリスはそう決めた。
「そうそう、そう言えば神社を出る時、萃香にアリスの事で変な言われたのよね」
「実はね霊夢、困った事があって文が……」
アリスが早速霊夢に思いついた事を話そうと思った瞬間タイミングよく霊夢の声が重なった。
「萃香に?」
霊夢の方が先に話題を出し切ってしまったため、思わずアリスは自分の話を止めて霊夢に疑問の声を発していた。
「ええ、そうなのよ……と、今貴女も何か言おうとしなかった?」
「え?あ、大丈夫、他愛のない話よ、貴女が先でいいわ」
正直、アリスの方の情報は後からでも問題ないと思えたし、何よりアリスも何を言われたのか気になった。
いったい、あの年中酔っ払いの小鬼に何を言われたというのか?
首を傾げるアリスに気にせず霊夢は言葉を続ける。
「『アリスは人間が一番怖いことに気付いていないんだよなぁ、霊夢ついでに教えてきたら?』ですって、どういう意味かしらね?」
『何か含み笑いみたいなのもあったのよねぇ』と続ける霊夢の言葉に思わずビクッとアリスの体は震えて、搾り出すように
「さ、さぁ……」
とだけしか言えなかった。
嫌な予感がした。あの時の目撃者ははたして文だけだったのだろうか?
萃香も頻繁に神社にいるし、スキマ妖怪八雲紫も神出鬼没だが神社でそれなりの頻度で目撃される。
最近では地底の火車や、仙人なんかも神社でよく見るようになったし、噂では以前迷い込んできた三人組の妖精達の別荘が神社の近くにあると聞く。
何故他にも目撃した者がいなかったのか、と疑わなかったのだろうか?
己の軽率さをアリスは呪う。
「アリス?」
霊夢は黙ってしまったアリスに怪訝そうな声をかけるが、当のアリスには霊夢の言葉は届いていなかった。
あの光景を見ていたのが文だけではなかったとしたら、萃香や紫、お燐に華扇に三妖精……、もしかしたら他にも見ていた者がいる可能性だって十分ありえる。
今、アリスの頭の中では想定できるあらゆる目撃者の可能性の是非が巡っていてそれどころではなかった。
「……ん?ねぇアリス、なんだか焦げ臭くない?」
「………………」
霊夢は部屋に漂う幽かな匂いに異変を察知するが、やはりアリスの耳にはその言葉は届いていないようで、アリスは目を伏せてブツブツと何かを呟き続けている。
「アリス?」
「………………」
もう一度呼びかけてみるが、反応は同じで霊夢には聞こえない声でブツブツと何かを考え呟き続けいてる。
「アリス?アリスー?アーリースー?」
「………………」
アクセントを変えて連続して呼びかけてみても、やはり返答は返ってこない。
「おーい、アリスー?」
「………………」
最後にもう一度だけと決めて呼びかけた声にも反応がなかったため、霊夢は一度ため息を吐くとその場で立ち上がり上半身を前方に少しだけ倒して行動に移した。
「アリス!?」
「ふぇっ!?」
いきなり顔を両手で挟まれる様に掴まれ、もはや怒声に近い何度目かの霊夢の呼びかけに、ようやくアリスは自分の世界から戻ってきた。
完全に自分の世界に入ってしまっていた事と目と鼻の先に少し不機嫌な霊夢の顔があるため驚いて、思わずアリスは変な声を出してしまった。
「『ふぇっ!?』じゃなくて!さっきから名前呼んでるの聞いてなかったの?なんだか焦げ臭くなってきてるって言ったのに!」
「え? ……あっ!!」
その言葉と焦げ臭さからパンを焼いていた事をすっかり忘れていて、アリスは慌てて釜戸へ向かった。
珍しく血相を変えてドタドタ普段見せない慌てた姿で釜戸まで駈けていくアリスの姿を霊夢は楽しそうに見送った。
こんなアリスの姿はそうそう見れるものではない。
◇
「ああ、もう、大丈夫かしら?」
焼いていたパンを慌てて取り出すと、幸いにも霊夢がすぐに気付いてくれたおかげで表面が少し焦げたくらいで表面を削げば問題なく食べられそうだった。
アリスはその事を確認するとホッと胸を撫で下ろした。もしも丸焦げになっていたら当初の目的のジャムの消費どころではなく目も当てられなかった事だろう。
「これくらいなら食べるのに問題はないわね、さて……」
チラッと釜戸の方から霊夢の方を確認する。霊夢は特にこちらに興味がない感じで先ほどと同じ様に紅茶を飲みながら、なにやら今は上海と(で)遊んでいるようだった。
その様子に特に急いでいる感じもしなかったので、当初の目論見とは違ってしまったが、アリスはこのまま用意した朝食をを霊夢と一緒に食べて、にジャムの消費を手伝ってもらおうと考えた。
「ねぇ霊夢?」
「ん?なにかしら?」
アリスの言葉に上海の頬を突きながら霊夢が特に興味なさそうに反応する。
「上海を連れ来てくれたし、せっかくだから一緒に朝ごはん食べていかない?」
「食べる!」
興味なさそうにしていたのに『簡単なお礼がしたいのよ』とアリスが言葉を紡ぐよりも早く霊夢から返答がきた。
一応アリスの目論見通りになったわけだが『朝食を食べていかないか?』という問いに『食べる!』とアリスの方を向き即答した霊夢の顔がヤケに嬉しそうな顔だったものだから、アリスは少し不安になった。
何せ博麗神社と言えば、お賽銭が入らない万年金欠と噂されている。ただの噂話で誰もその事実を細かく確かめた事はないが、アリスの知る限り、あの神社に参拝しにくる客を見た覚えがない。
もしかしたら噂は本当で、実は霊夢は普段は食べるに困っているのではないだろうか?それで自分の申し出をここまで嬉しそうに返したのかもしれない。
そう思うと不憫で、パンと簡単なサラダだけにしようと思っていたメニューにアリスは目玉焼きとベーコンも追加する事にした。
それに、このまま霊夢に上海を忘れた理由を言及されるよりも、いったん朝食に話題を移して落ち着いた頃合で話を切り出したほうが懸命だと判断した。
変に何かあったのか?と怪しまれているような状態よりも、一息ついてサラッと『文に変な写真を撮られてそれで慌てて追いかけたから上海を忘れてしまった』と話を切り出せば自然に話を膨らませる事が出来るとアリスは考えた。
◆
誰かとの朝食は久しぶりだった。
いつか魔理沙に『どうせ食料がなくなったから食べにきているのでしょう?』と言った時に『それは違うなアリス、誰かと食事をするのが重要なんだ、だから私は普段一人ぼっちのお前のために良き話相手を連れてきてやっているんだぜ』と返された事がある。
その時は都合の言い戯言だな、と聞き流したが、話はせずともこうして面と向き合い、自分が作った食事を『美味しい』と喜んで食べてもらえるのはそれだけでも気分が良かった。
今まではその相手がずっと魔理沙で変な先入観を持っていたから感じなかったが、なるほど、魔理沙の言葉に間違いはなかったのだなと木苺のジャムを塗ったパンを齧りながらアリスは考えていた。
アリスの目の前で霊夢が美味しそうに食材を消費している。今日は朝食がまだでお腹が減っていたのか、それとも本当に普段食べれていないのか喉に詰まらせそうな勢いで食べている。
実際上海が持ってきた水を慌てて受け取り流し込んでいる辺り、本当に喉に詰まらせながらも食べているのかもしれない。
「……っはぁ、ご馳走様でした」
「はい、お粗末様でした」
あまりにもいい食べっぷりだったので、アリスは霊夢が食べ終わるまで話をするのは止めておいた。
何と言うか、邪魔するのは可哀想に思えたからだ。
「そういえば、昨日文がね……」
霊夢が紅茶を飲んで一息ついたタイミングでアリスは話を切り出したがしかし、
「そうそう文と言えばね」
「文がどうかしたの?」
せっかく切り出そうとしたのに、また霊夢の声で話題が遮られてしまった。しかも、つい文の話題だったため、アリスはまた自分の話を最後まで言う事なく霊夢の話に喰い付いてしまった。
気になる事に対してつい興味が湧いてしまう、魔法使いの悪い癖でもある。
「まぁ文と言うか、天狗が、なんだけどね、アイツら沢山新聞を作っているじゃない?」
「え、ええ、そうね」
まさにその捏造新聞の事について話をしたかったのだが、タイミングを完全に外してしまい、アリスは内心で地団駄を踏んでいた。
「なんか最近新しい印刷機とか言うのが出来て前よりもずっと早く新聞が出来るようになったらしいわよ」
『文が今朝話していたわ』と霊夢から放たれた言葉にアリスはピタッと動きを止める。
「そ、そそそそそうなんだ……、い、今までよりも早く新聞が作れるようにね……」
「ど、どうしたのアリス?」
うろたえない様に意識したつもりだったのだが、目に見えてアリスはうろたえていた。
それはまったくの予想外の言葉だったからだ。もしその言葉が本当ならばすでに昨日の出来事が新聞にされて配られている可能性がある。
しかも霊夢は先ほど『今朝文が話していた』と言った。つまりその時その印刷機で新聞を作り霊夢の手に新聞が渡っている可能性はある。
怪訝そうな顔をしている霊夢の前でアリスは一つ大きく深呼吸して気持ちを落ち着ける。
慌てる事はない、それはまだ一つの可能性でしかないのだから、それに訪れてから今まで霊夢には昨日の事を知っている素振りは感じられない。
ならばまだ新聞を読んでいない可能性もある。
「その新聞、霊夢は読んだの?」
今度こそうろたえない様に勤めて平静を装い問いかけた。
「いいえ、この子を連れて神社を出ようとした時だからまだ読んでないわ、それに文も新聞を渡して、新しい印刷機が出来たって事を話たらすぐどっかに行っちゃったしね」
上海の頭をぽんぽんと軽く叩きながら言われた霊夢の言葉にアリスは『そう……』と素っ気無く返したが、内心ではガッツポーズを決めていた。
まだ読んでいないのならば、まだ間に合う。しかしここで慌てて話してもなんだかそっちの方が疑われそうなので勤めて平静を装ったままで一度別な話題をふる。
「新聞が早く作れるようになったって言っていたけど何が変わったのかしら?」
「さぁ?詳しいことは解らないわ」
『私にはそういうのは専門外だもの』と霊夢は手をヒラヒラとさせて続けた。
チャンスはここだ、とアリスは瞬時に判断した。ちょうど新聞の話題が継続して、しかもタイミング良く霊夢の話が途切れた。
二度ある事は三度あると言われているが、それならこちらは三度目の正直だ。
「あ、そういえば新聞と言えばね、多分なんだけど」
「うん?どうかしたの?」
今までの二度が嘘のように三度目はスムーズに自分の話題に持っていく事が出来てアリスは安心した。
これから先は子供の悪戯を話すように落ち着いて話をするだけでいい、変に慌てたり、感情を込めればきっと逆効果になってしまう。
「おそらく私が寝ている貴女にキスしようとしていたとか書かれていると思うから」
「は?どういう事?」
怪訝そうな顔をする霊夢にアリスは事の成り行きを少し改竄して説明する。
神社に上海を迎えに行った事。霊夢が寝ていたのと神社の境内がまだ散らかっていたので掃除をしておいた事。そして、掃除を終えても霊夢が目を覚まさなかったので起そうとしたら顔にゴミが乗っていたので取り除こうと屈んだらその場面を文に写真に撮られて、それをキスしようとしていたと勘違いされた事。その誤解を解こうと慌ててどこかに飛んで行った文を捕まえようとしてつい上海を忘れてしまった事を、アリスは霊夢に説明した。
話を聞いて、霊夢は大きな溜息を吐いた。
「なんだか文の奴もそんな事で記事を作るなんて子供みたいね……」
「ええ、まったくね」
霊夢の反応を見て、アリスは安心した。どうやら情報操作は上手くいったようだった。これで神社に戻ってから文の新聞を読んでも新聞よりも今聞いた話の方を信じるだろう。
「と、ちょっと長いしちゃったわね。そろそろ神社に戻るわ朝ごはんご馳走様ね」
言って霊夢が立ち上がる。話を区切るのにちょうどいいタイミングでもあったようだ。
「あ、そうだ霊夢、このジャムはいらない?沢山作りすぎて余っちゃってるのよ」
霊夢に合わせてアリスも立ち上がり戸棚の方を指差す。そこにはジャムの詰まった瓶が数個並んでいる。
一番の目的は達成できたので、アリスとしてはもう一つの目的である余っているジャムの消費もしておきたかった。
「え?うーん、ジャムだけ貰ってもね……、うちは基本主食はお米だし」
「お茶に入れたり、お茶請けのクッキーとかに塗っても美味しいわよ」
確かにお米ではジャムは使用する事はないだろうが、お茶やお茶請けのちょっとしたアクセントにも使えるのでそうアドバイスしてみる。
善意からの言葉であるが、意地でもジャムを押し付けたかったという気持ちも、ないと言えば嘘になる。
「確かに美味しいジャムだったわ、でも私が飲むのは基本緑茶だし、うちにあるお茶請けは塩せんべいと羊羹くらいよ?」
言われてアリスは一瞬ジャムの入った緑茶とジャムの塗られた塩せんべいとジャムの乗っかった羊羹を想像しようとしたが……、止めた。気持ち悪くなりそうだった。
洋菓子や紅茶等を好むならいくらでも消費のアテがあるが、霊夢のように和菓子や緑茶を好む場合だと思いの他消費できないのかもしれない。
それならばいっそ定期的にクッキーでも作って神社に届けてしまおうか、とアリスは思いついた。
霊夢への誤解が解けている以上は特に引きこもる必要もない、茶化されたところで二人が否定すれば所詮は捏造の多い天狗の記事、すぐに皆勘違いだと解ってくれるだろう。
そう考えると案外生き抜きの散歩にもなるので結構良い案かもしれないとアリスは考え始める。
「だから残念だけど、消費するアテが……」
霊夢は悩んでいるアリスの顔を見て、そこで台詞を切った。アリスの口元に先ほどパンを食べた時のものであろうジャムが付いているのを見つけたからだ。
そこで霊夢は一度『ふむ』と何かを考える様な仕草をすると、突然アリスの襟に付けているリボンを少し強めに自分の方に引っ張った。
「っ!?」
考え事をしていたアリスは、予期せぬ霊夢の行動に思わずバランスを崩して少し前のめりの姿勢になってしまった。
霊夢の顔が突然近くなり『ぶつかる!』と思わず目を閉じた瞬間に引っ張れる力が緩み、顔同士がぶつかるかと思っていたら、思いの他柔らかいものが唇に当たる感触だけがきた。
「……うん、やっぱりこういうのはそのまま食べるよりも、何かに付けて食べる方がいいわ」
目を開いたアリスの前で、ペロっと霊夢は自分の唇を一舐めして『だから、食べたくなったらまたくるわ』と一言付け足した。それを少し下品だな、とアリスはぼんやりと眺めていた。
「ぎゃおー、なんちゃってね。ごちそうさま」
そう言い残して、何事もなかったかの様に部屋を出ていってしまった。その様子をボーっと見送り、玄関のドアが閉まる音を聞いてから、アリスは少し震える手でに唇に触れる。
微かに触れた自分以外の体温の名残がまだ唇に残っていた気がした。そして、そのまま時間の経過と共に徐々に思考が戻っていく。
「エ?え?………………え?」
何があったのか頭がしばらく理解する事を放棄していたが、確かに霊夢の唇が当たった感触がそこにはあった。
やっと理解してアリスが真っ赤になる頃にはすでに霊夢の姿は目に映る場所にはなかった。
「あ、う……」
『アリスは人間が一番怖いことに気付いていないんだよなぁ、霊夢ついでに教えてきたら?』と霊夢が言った萃香の言葉が思い出される。
霊夢の新聞はまだ読んでいないと言っていた言葉が本当なら、先ほどの、帰り際のあの台詞を知っている事から察するに……
「もしかして……、起きて……た?」
続きを待ち望んだ甲斐がありましたレイアリを諦めないといいことありますなw
前作気に入ってたので飛びつくように読んでしまいました。
レイアリがとうございますー!
3つ目のミス思い出せず読むまで何かわからなかった自分は上海に謝りに行ってきますね。すまぬ上海よ…
良い!凄く良い!!ニマニマしながら読ませて貰いました!
前作を読んだのは4ヶ月前ですけど、あちらはもうニヤニヤせざるを得ない甘さでしたよ。
そして今作もまたニヤニヤせざるを得ませんでした。
この微妙な距離感がまた良い味出してますね。これがまたジャム程の甘さでした。
というか霊夢糖尿病になっちゃうよ、そんなに消費したら。
まあともあれ霊夢もアリスも二人とも可愛かったです。
それでは失礼いたします。
積極的な霊夢というのも珍しい。だがそれがいい!
ご飯食の霊夢でもジャムだけで効率よく消費できる方法を思いつきましたがここで詳しく書くといろいろ規制的なアレなので黙っておきます。
とても甘々で良いですねぇ
可愛いアリス分が補給されて幸せでした。
執筆お疲れ様です。面白かったです!
ご馳走さまでした