「紫様ー。紫様ー」
今日も今日とて平和な幻想郷マヨイガの八雲屋敷では、昼食の準備を終えた八雲藍が主人を探して歩き回っておりました。居間を覗いても、いない。寝室にも、いない、庭にも、いない。床下を探っても……屋根裏も……手洗いにも声をかけてみましたが、いません。またどこかへふらふら行ってしまったのかなあ、それともどこかで寝こけているのかな。冷める前に食べて欲しいのに、いつもいつも好き放題なんだから……八雲紫に仕えた宿命かもしれませんが、今日も今日とて八雲藍の不満は尽きませんでした。
仕方なしに橙を呼んできて、二人で食事をすることにしました。今日のお昼ご飯は海老天のうどんです。いつもなら油揚げを浮かべるところですが、今日は特別腕のよい里の職人の油揚げが手に入ったので、軽く炙り、これまた特別な高級しょう油だけをかけて、さくり、次には生姜もかけて、さくり、することを昼間のうちから考えていたので、お昼は油揚げはなしにして、海老天にしたのです。藍の天麩羅は海老の身に衣がたっぷり、さらにうどんにも天かすがたっぷり、ねぎと七味を好みの量かけて、熱々の関西風透明つゆにこれまた熱々の天麩羅で、口の中が火傷しそうなほど、それを冷ましながら味わうことは、正に絶品と言えました。使い回しなんてもちろんしない、新品の油で揚げた天麩羅と天かすから出た油の味がうどんのだしと絡まって、これまた絶品でした。藍と橙が舌鼓を打って、食べ終わるまで、二人は会話もなく、ただただ口の中の熱々と格闘していました。二人がだしの最後の一滴まで飲み干して、昼食を終える頃、がさがさという音をさせて、一本の巨大な木が庭先から入って来ようとしました。根が縁側に上り、がさがさという音は枝葉が屋根に当たる音でした。あまりに不条理な光景に、八雲藍は驚きに目を丸くして木を凝視しました。
「私です」
木が言いました。
「八雲ユーカリです」
八雲ユーカリ。
ある日自分が何かに変貌してしまう、という物語は、カフカの『変身』が著名です。日本の特撮で言えば『仮面ライダー』にも似たような素養を見出せるかもしれません。自分の意志を超えたところで、強制的に人間離れした何者かになる……もう少しマニア向けのところで言えば、『バオー来訪者』も私は好きです。アメリカで言えば『スパイダーマン』なんかも……こういう話は長くなるので後にして、ともかく、唐突に何か別のものに変貌してしまった場合、これまで通りの日常を送るのは大変難しく、八雲紫いや今やユーカリの木に変貌してしまった八雲ユーカリと八雲藍もまた、善後策を話し合う必要がありました。
「紫様……」
「ユーカリです」
「いや……」
藍はそのきっぱりとした口調に自分の正気(いわゆるsan値)ががりがり削れる音を聞きましたが、自分を曲げて受け入れました。
「じゃあユーカリ様、一体どうしてこんなことに?」
「いや私にもさっぱり……」
八雲ユーカリは困り果てていました。顔も見えないので今ひとつ感情は伝わりませんが、声の感じは困ったようでした。部屋に入れないので庭先に木が立って、縁側に座る藍と語り合っている姿は、とても異質でした。藍の座っているところにユーカリでできた日陰がかかって、今日は暑いので涼しくてとても助かってはいましたが。
「ともかく、どうして変身したかは、この際重要ではないのです」
「いや……」
一体この主人はどうしてしまったというのでしょう。藍はますます自分の正気を疑いました。いくら八雲紫が日頃訳の分からない行為を繰り返すと言っても、いきなり木になって八雲ユーカリなんて言い出されても藍はただただ困ってしまう訳で、藍はもしや自分の驚き困る姿を見て、この八雲ユーカリはにたにた笑っているのではないか、表情が見えないことももしやその為ではと勘ぐりました。八雲紫のこれまでからすれば、それを疑われても仕方ないのです。
「むうう……なら、百歩譲って、どうしてそうなったのかは良いとしましょう。では、紫様」
「ユーカリ」
「いや……」
どうしてそこに嫌に固執するのか藍には理解できませんでした。こだわりハチマキでも巻いてるのでしょうか。
「では……ユーカリ様……」
藍はそれを口にするのも嫌になりました。たかが伸ばし棒一本だというのに。
「これからどうされるおつもりですか。このまま、木としての一生を過ごすのですか」
「そういう訳にもいかないでしょうね」
「では……どうにかして、元の、八雲紫様に戻らないと」
「今のままでは八雲ユーカリだからね」
「いや……」
ひょっとして気に入っているのか?
「八雲ユーカリだからね」
「八雲……ゆか……ユーカリ様……お願いですが、八雲をつけるのは止めて頂けませんか」
「どうして? こんな姿になっても私は八雲家の一員です」
ならなんでユーカリにこだわるんだよ紫って呼ばせろよと藍は思いました。
「そのお姿に……八雲が重ねられると……何か、私もそのうち木になるような気がして、怖いのです」
本当のところはその姿の八雲ユーカリと自分が並べられるのが混沌としていて、名字を通じて自分が混沌の一部となるのが嫌だったのです。
「別の名前を名乗ったら良いのでは?」
「橙」
何を言い出すのだと藍は思いましたが、ここでも無邪気でいてくれる橙はもはや藍にとっての癒し、唯一の藍の正気でした。
「例えば何が良いかしら、橙」
「デンドロカカリヤ」
そして、それを、紫君の幹に、大きな鋲でしっかりとめたのさ。
「そうね。どこかの植物園に寄贈するのも悪くないかもしれないわ」
「いやよ、藍。私はこんなになっても八雲家の一員だもの」
「名前は?」
「ユーカリ」
藍は嫌になりました。いつまでこんな会話を続けていなければいけないのでしょう。紫はああ暑いわあ喉が渇いたわあ、橙、じょうろで水をかけてちょうだいと言っています。はい紫様ーいいえ違うわ橙、ユーカリ様よ。ユーカリ。ゆ。う。か。り。はーい! ユーカリさまー! ああやめてくれ私の橙の正気を侵してゆくのはお願いだからやめてくれ。
「紫様」
「ユーカリ」
「あなたは八雲ユーカリですね?」
「ええそうよ」
「では、八雲紫としての主従の関わりをしなくて良いということですね」
藍はそう言うと立ち上がり、ユーカリの周りに結界を作りました。ユーカリがゆっくりと浮かび上がり始めましたが、ユーカリは根を伸ばしてなんとか地面に繋がろうと努力しました。紫様はそんなことしない。藍は自分の理性を守るために、このユーカリがマヨイガに根を下ろすのは何としても防がなければならないと心に決めました。
「紫様、あなたは」
「ユーカリ」
「ユーカリなんて人はうちにはいません!あなたが紫様なら姿を戻してから帰ってきてください!」
そう叫ぶと、結界が移動して、八雲ユーカリはどこかへ飛び去ってしまいました。藍は八雲家の平和を守りました。今やユーカリがいた証拠は何一つありません。部屋に上がろうとしていた時に縁側についた土、枝葉が当たって傷のついた屋根を掃除し、修繕すると、もうそこは以前と何一つ変わらない八雲家でした。
「あれ? 紫様、帰っちゃったの?」
「そうだよ橙、あのユーカリさんはどこかへ行ってしまったんだ。紫様なら、またすぐに帰ってくるよ……」
月の明るい夜でした。博麗神社の一室、博麗霊夢の眠る布団の枕元にも、障子に映る月光の影が落ちていました。霊夢はいつものように布団を蹴飛ばしみっともない寝姿で高いびきをかいておりましたが、その霊夢のいる部屋の外では、がさがさと木が動いて月光を隠して、庭先に歩み寄っておりました。そしてユーカリは霊夢霊夢と呼びかけてみました。不気味な声が夢の中に響いてくるので、ううんと唸って目を覚ましました。
「霊夢、霊夢。私よ、霊夢」
紫、と霊夢は呟き、霊夢は起き上がって、襖を開きました。そこには巨大な木が立っていて、霊夢を見下ろしておりました。霊夢はユーカリの声の感じが意外に焦っている風なので、慌てて外に出ましたが、その装いを見て、いっぺんに態度を変えて、寝間着の下に手を突っ込んで、下腹をぽりぽり掻くと、一つ欠伸をしました。
「ふざけてないで帰って寝なさい」
そう言ってぴしゃり、襖を閉じました。ユーカリはまたもや一人にされてしまいました。霊夢からすればこの程度のおふざけはいつもの通りなのです。しくしく泣きながら霊夢霊夢とささやきましたが、ええいうるさいなあと霊夢は思い、放っておけばそのうち布団に潜り込んでくるだろうと考えました。いつもそうだからです。紫はしたいことをしたいようにするのだから、好きにさせておくほかはないと思っているのです。霊夢の敏感な勘が働くならまだしも、何事もないのに紫の言うことを真に受けるなんて馬鹿馬鹿しい、と思っているのです。
次の日の朝になって、霊夢は庭先、昨日の夜ユーカリがいたところに、巨大なユーカリの木が立っているのを確認して、昨日のことは夢じゃなかったのだな、と確認をし、ふいふいと浮き上がってどこかへ飛んでいきました。しばらくして戻ってきた霊夢は、魔理沙を連れていました。別に、魔理沙に八雲紫変貌事件を解決してもらえるとは思っていません。ただ、魔理沙に教えて放っておけば、勝手に調べてくれるかも知れないし、噂が広まったら何かしら知っている人間が来るかもしれないし、霊夢はそういうところを期待しているのです。
「紫が木になったって。それでこの木が紫だって? そんな馬鹿な、そんなことがどうして信じられるんだ? こんなところに木がなかったのは覚えているがな」
「しくしく。ユーカリです」
「あっほんとだ」
「ね、魔理沙。どうにかしてよ」
ううんと魔理沙は考えました。だけどあっさりやめました。元々紫が何をしているかよく分からないし、いなくなったら大変らしいけど、どう大変かが今ひとつ分からなかったからです。まぁそのうち治るだろ、という投げやりな言葉を放り投げて、帰ってしまいました。
「やれやれね」
霊夢も一度引っ込んで、お茶をいれて戻ってきました。縁側に座ってみたら、そのあたりが全部陰になって、ちょっと気にくわなく感じました。日照権の訴えでも起こそうかしら、と考えましたが、境内の方に行けばいいかと別にどうでもよく感じました。
「私にもちょうだい」
「はいはい」
霊夢がお茶をくんでユーカリの根っこのあたりにかけると、霊夢はユーカリの根が少し地面に張りだしているのに気付きましたが、まぁいいかどうでもと思い、そのままにしておきました。
「昨日ねぇ、藍ったら天麩羅うどん食べてたのに分けてくれなかったのよ。従者のくせに。従者のくせに」
「あんたが木になってるからじゃないの」
「根元に埋めてくれたら何だって吸収するのに。悔しい」
「まあまあ。酒でも飲みなさいよ」
霊夢はユーカリを慰めながら、酒を持ってきて根元にぶっかけたりして、酒盛りをしました。その時は霊夢も、そのうちなんとかなるだろうと思っていました。
数ヶ月が経ちました。紫がユーカリになってしまったということは知れ渡って、見物人が何人も来たり、新聞に載ったりしましたが、誰にも紫を元に戻すことはできませんでした。一度は木を削って木の人形にしてみましたが、その時は三日ほどはそちらの人形で生活できたものの、やはりすぐに木の方に意識が戻ってしまって、木から動くことはできませんでした。その人形は藍のところに持って行くと絶叫されてしまったので、仕方なく神社に置いてあります。
「ああ、霊夢、すっかり根を張ってしまったわ。もう、私は戻れないのかしら。八雲ユーカリとして一生を終えるまでこのままかしら」
「諦めなくていいわよ。そのうち戻るわよ。それに、もし戻れなくたって、木には木の喜びがあるわ」
「そうかもしれないけど。でもやっぱり、私はあなたに触れたいわ」
「仕方ないわね」
そう言って霊夢はユーカリに手を差し伸べて、木の幹に触りました。霊夢は紫のことが好きでも嫌いでもありませんでしたが、困っている人を見かけたら、助けられなくても、優しくしてあげたいと思います。霊夢は優しい心の持ち主なのです。紫には世話になったこともあるし、もしこのままなら、ユーカリか霊夢自身がいなくなるまで、ここで一緒にいてあげようと思いました。先のことなんてどうなるか分かりませんが、できるうちはそうしてあげようと思ったのです。
「私、触ってるの分かる、紫」
「ええ、分かるわ、霊夢。あとユーカリよ」
「まあどっちでもいいけど……」
「もっと触れてほしいわ、霊夢」
霊夢がユーカリに頬を寄せると、水が流れるような音が、反響して聞こえました。本来は聴診器とかが無ければ聞こえないものですが、どうしてか霊夢には聞こえました。神託とか受ける巫女の身分ですし、そういう超自然的な物事も聞き分けることができるのでしょう。霊夢はそれが、紫の命が存在している音だと思いました。
「紫の音が聞こえるわ」
「ユーカリ」
「いい話してるんだから黙って聞きなさい」
霊夢は怒りました。
そして、ユーカリは結局そのままでしたが、幻想郷が崩壊することもなく、そのままでした。そして、また数ヶ月が経った頃、ユーカリは黙り込んでしまいました。紫は本当に木になってしまったのかもしれません。ですが、本来木は喋らないものですし、本来あるべきところに収まったのじゃないかな、と霊夢は思いました。もしかしたら紫自身の身体を取り戻して、もうすぐ戻ってくるのかもしれません。それはそれで良い兆候だろうと、霊夢は思いました。
話は変わりますがユーカリは非常に生長の早い植物で、パルプ材として活用されます。ユーカリの雄しべから発生した花粉が雌しべに触れてらめぇぇ受粉しちゃうう(検閲)し、あっという間に幻想郷じゅうに広がりました。幻想郷では、ユーカリの処分に困り、一部では焼き畑にされ、それでも処理が追いつかなかったので、幻想郷ではユーカリをパルプ材として紙にすることにしました。次から次へ紙にして、できた紙を使うために、印刷活版技術が進歩しました。こうして幻想郷では印刷物ブームが始まり、新聞の部数は増加、寺子屋の子供が書いた落書きや交換日記までもが印刷される始末、にわか作家やイラストレーターがいっぺんに増加しました。こうして、幻想郷の識字率は100%を達成しました。
霊夢は相変わらず、元紫だったユーカリに水をかけて日々を過ごしておりました。時々お酒もかけてあげましたが、相変わらず喋ることはありませんでした。ある日、学者だという人物が尋ねてきて、現在の幻想郷の識字率の発端になった、ユーカリの最初の木のことを取材したいというので、霊夢はその学者さんに話をしてあげました。そのうち本にしますという学者さんが帰って行ってからまた数週間、霊夢の元に紫のこととユーカリのこと、印刷技術の進歩と幻想郷の識字率について書かれた本が届きました。霊夢は面倒なので読みませんでしたが、ぱらぱらめくって八雲紫の文字を見つけると、少し嬉しくなりました。そして、頭上に生い茂る木を見上げました。
八雲紫から生まれた八雲ユーカリが、巡り巡って紫の木の元に戻ってきたのです。霊夢はそれを何となく、藍と橙に見せてあげたくなりました。
霊夢が八雲家を訪れ、扉を開くと、部屋の方から声が聞こえてきました。
「それにしても紫様、戻れて良かったですね」
「あなた、本当に紫様ですか? 自分はユーカリだなんて言い出しませんか?」
「紫様がなったのがバオバブの木じゃなくて良かったですね。バオバブの木だったら、今頃幻想郷は滅びていましたよ」
あらあら橙ったら。紫の声が奥から聞こえてきました。霊夢は微笑を浮かべて、敷居を跨いで、三人が語らっている部屋に上がりました。
今の大学は教授がパワーポイント使ってるから
昔と比べて紙の節約になってるかも
霊夢は結構世話好きだな。こういう霊夢も悪くない。
>「しくしく。ユーカリです」
>「あっほんとだ」
ゲゲゲの鬼太郎レベルの、のんきなやり取りが多くて笑ってしまった
不思議な作品をありがとう!
・童話のような文体
・献身的な霊夢かわいい
・訳のわからなさ
・最後まで没入させる魅力
どれをとっても素晴らし買ったです。
でもユーカリを譲らないとこが妙に紫っぽい
いつのまにか勝手に戻ってるところも