K村
地勢
東西又ハ北ニ諸山ヲ負ヒ地形北低シ南ハ平坦ニシテ運輸便利
薪炭乏カラス
地味
其色漆色ニシテ砂石交リ痩地ナリ稲蕎麦稷等ニテキス
水利便ナレトモ時々得ニ苦ム事アリ
(省略)
戸數
本籍 四百六拾七戸
寄留 二戸
人數
男 千四拾四口 皆平民
女 九百九拾八口 皆平民
牛馬
牡馬十頭 牝馬六百三拾四頭
牝牛八拾六頭
學校
公立學校四箇所
村會所
無之
病院
無之
電線
無之
郵便局並内國通運會社
本村ノ北驛ニ有リ
(省略)
物産
米 五千貳百拾壹石六斗
稗 三百石余
大豆 貳拾石余
蕎麦 貳拾五石余
麻 西京大坂伊勢路紀州参州遠州駿州甲州東京越中越後加賀
其他諸國ヱ輸出ス
莨 四拾六貫七百目余
清酒 近郷ヱ賣捌
疂緑布 貳百反余
疂糸 百貫目余
民業
男 農業ヲ専務トスルト雖トモ寒國ニシテ十一月頃ヨリ三月迄ハ
田畑耕スル事不能其隙間麻ヲ製シ雪解テ後薪ヲ採リ又雪中ハ
北國ヨリ運送諸荷物ノ駄賃持稼ヲ成ス者多シ
女 都テ農業ヲ成スト雖トモ春冬ハ麻ヲ製シ布ヲ縷織シ疂糸等ヲ
製造スルノ業アリ
農間猟業ヲ成ス者 五戸
漁猟ヲ成ス者 七人
牛馬賣買ヲ成ス者 十六戸
酒造スル者 三戸
絞油成ス者 四戸
肴振賣ノ者 八人
商業ヲ成ス者 七人
中馬駄賃稼スル者 伹御鑑札四百五拾貳枚
酒類賣捌 四戸
木挽杣職 八人
大工職 十七人
鍛冶職 四人
屋根職 貳人
桶職 四人
紺屋職 貳戸
氣候
寒暖計 大暑九十五度大寒二十度正午ヲ以テ定格トス
年々其差アリ寒気甚シキニ至リテハ二十度以下ニ至ル
雪霜多ク四方山ヲ負フ
風俗
人性 實直ニシテ驕奢ナシ富家六分貧家四分ナリ
右ハ今般地誌編輯ニ付取調上申仕候以上
明治十年三月十九日 K村 副戸長 ○○ ○○
同 ○○ ○○
同 ○○ ○○
同 ○○ ○○
戸長 ○○ ○○
1
海から汲み上げた海水を乾いた砂の上に丁寧に散布する。たっぷりと海水をしみ込ませたその砂を、よくかき混ぜながら天日によって乾燥させ、十分に乾燥したらその上から再び海水を撒く。――この作業を数日繰り返したのち、砂に付着した大量の塩分を再度海水で洗い落とすと、濃縮された塩水《
岩塩を産しない我が国において、塩と言えばもっぱらこのように海水を煮詰めて作るのが一般的で、それ故、塩の産地は海岸線沿いの極狭い地域に限られていた。海を持たない内陸の村落では、塩の自給はほぼ不可能であったし、事実、そのような村落では、塩の供給は全て海沿いの村落との交易に依存せざるを得なかった。要するに、塩は大変な貴重品だったのである。
その貴重な塩を海沿いの村落から内陸の村落へと輸送するために、太古の昔より多くの道が切り開かれてきた。海と内陸とを結ぶ交易路は《塩の道》と呼ばれ、日本中の至る所に見ることができた。
郷のほぼ中央を南北に貫くように走る、苔生した石仏の並ぶこの古い街道も、そんな《塩の道》の一つであった。郷はこの街道に沿っていくつも並ぶ宿駅の一つで、駅(鉄道の駅ではない)の周辺には小さな商店が集まり、また街道を行き交う旅人目当ての
郷の東の外れにある高台に建てられた神社の境内から、私は郷を俯瞰していた。ここから眺めると、四方を山に囲まれた僅かばかりの平らな土地に、家や田畑が密集する郷の風景は、さながら小さな箱庭のように見えた。山から吹きおろす少し冷たい風が心地よかった。
「なかなか良いところじゃないか」私はひとりでにつぶやいていた。
「気に入っていただけてうれしいですわ」
予期せぬ返答に驚いて振り返ると、淡いむらさき色の洋服を着た八雲紫が、いつの間にか背後に立っていた。彼女は両手でスカートの裾をつまみ、軽くそれを持ち上げて優雅に挨拶をしてみせた。
紫は艶やかな洋服をよく好んで着た。金髪と白い肌の色から彼女が東洋人でないことはまず疑いなかったが、幼い頃から本邦に住んでいるのか、外国人特有の訛りなどは一切なく、言葉は達者だった。私は一度だけ彼女の出身について尋ねたことがあったが「そんな昔のことは忘れてしまいました」とはぐらかされてしまった。彼女はどこかで高度な教育を受けていたらしく、学があり、頭の回転も早かった。妙齢のご婦人にも関わらず、誰と会話しても飽きさせないだけの話術を持ち、彼女と会話したことのある人は、たいてい彼女の知識の豊富さと懐の深さに舌を巻くのであった。現在、彼女は郷のどこかに住んでいるということだった。神出鬼没で、物音を立てず、いつも背後から唐突に話しかけては人を驚かすのだが、どうやらこれは彼女の趣味であるらしかった。
「まるで猫だな」私は内心飛び上がりそうになるほど驚いていたのだが、そのことを彼女にさとらせまいと無理に平静を装って言った。
「何のお話です?」と紫は言った。
彼女は込み上げる笑いを必死にこらえているふうに見えた。どうやら私が無理に平静を装ったのが、かえって彼女を面白がらせてしまったようだった。
「きみがいつもそうやって音もなく近づいて、背後から突然ぶすりとやるものだから、私は生きた心地がしないって話だよ。足音も立てず、気配さえ無い。猫でなければいったい何だ? 魔法か?」
紫は手にした扇(挨拶したときには持っていなかった!)を口元にあて、私の様子をしげしげと観察しながら何やら思案している様子だったが、やがてもったいぶった口調で話し始めた。「視覚であれ、聴覚であれ」彼女は誰かの口調を真似ているらしかった。「『感覚器から得られた情報も、それが脳髄で処理されなければ、どんなに大きな物音であっても、どんなに目立つ物体であっても、決して認識されることはない』でしたっけ、先生?」彼女はいたずらっぽい表情で私を見た。
「どうやらそれは私の発言のようだが……、きみは
「でも『条件さえ整えば、それは不可能ではない』ともおっしゃいましたわ!」紫はぱっと目を輝かせた。「現に先生はこの郷を隠そうとしてらっしゃる。(郷をまるごとだなんて、透明人間の比ではありませんわ!)先生が『できる』とおっしゃるなら、それはきっとできるのだと、わたくし、そう信じておりますわ!」そう言って彼女は、私の顔に自分の顔をぐいと近づけて、私の目をまともにのぞきこんだ。
息がかかりそうなほど近くに少女の顔があった。心臓がどくどくと脈打ち、顔が熱くなった。私は耐えきれずに視線をそらした。
紫はくすりと笑いながら顔を離すと、郷の景色がよく見える位置まで少し歩いた。彼女の歩き方は、まるで《重さ》というものが感じられない、どこかふわふわとした足取りで、僅かな足音さえ聞こえなかった。
「ここは良いところでしょう?」彼女は眼下に広がる郷の風景を見下ろして言った。「ここから見える郷の景色は本当に素敵ですわ。雄大な山々と小さな村落との対比は、人間がいかにちっぽけな存在であるかを思い出させてくれます。ここに住まう人々――貧しくとも善良な人々は、千年もの間この土地で子を産み、育て、変わらぬ生活を続けてきたのですわ。自然を拒むことなく、あるがままを受け入れて。……この風景はこの国のごくありふれた一般的な農村の風景かもしれませんけれども、わたくしの目にはまるで奇跡のように神々しい光景に映るのですわ。……あら、先生ったら笑っていらっしゃるのね。わたくし何か可笑しなこと言いまして?」
「いや、すまない。ちっとも可笑しくなんかないよ。きみはこの郷が好きなんだね」
紫は後ろ手を組んだ姿勢のままくるりとこちらに向き直った。豊かな金色の髪と淡いむらさき色のスカートの裾がふわりと膨らんだ。
「ええ、好きよ。郷も、郷に暮らす人達も、先生のことも」
私は妙にくすぐったい気持ちになって「ごほん」と一つ咳払いをした。
「この風景を守るためなら、わたくしどんな努力も厭いませんわ」そう言って目を細める彼女は、郷の向こうにそびえるY岳の頂よりも、さらに遠くにある別の何かを見ようとしているように、私には思えた。
2
真新しいヒノキの建材の香りが鼻をついた。開け放した縁側の障子戸から外の景色を眺めると、境内に植樹された桜の苗木が見えた。〈今はまだ私の背丈より少し大きい程度だが、数十年も経てばさぞ美しい眺めになるだろうな〉私は障子戸によって切り取られた景色いっぱいに、桜の花が咲き乱れる様を想像した。〈悪くない〉と思った。
神社の完成からほどなくして参謀本部から遣いの男がやって来た。男は黒の軍服と軍帽を身につけて、手には白い手套をはめていた。年は私より一回りほど若いが、これでもれっきとした将校――階級は陸軍少佐だった。彼は参謀本部に勤務していたが、作業の進捗状況をうかがうために定期的に郷を訪れていた。〈要は俺のことを監視するために本部から派遣された、お目付け役といったところか……〉私は軍という組織をあまり信用しないことにしていた。
若き将校は腰から下げた
私は神職の衣装を着ていた。
「何だって私が神主なんだ? そりゃ『ここが神社に偽装されているから』というのは解るんだが。それにしたって、なぜ私なんだ、え? 誰か別の者がやってもよかろうに……」
「ここの責任者は先生なのですから、当然先生が神主をなさるのが道理というものです。神社に神主より偉そうな人がいたら不自然ですね。それより、思っていたよりも《ちゃんと》した神社になっていて安心しました」
「軍関係者の出入りがなければ完璧なんだがね」私は皮肉を込めてそう言ったのだが、将校は再びくすりと笑って受け流した。
将校は私の作成した収支報告をぱらぱらと捲りながら言った。「消耗品の購入代金に活動旅費、概ね概算通りですね。……おや? この最後の項目に《寄進》とありますね。ずいぶんと少額ですが、どなたかから寄付でも?」
「わからんかね?」
「わかりませんね」
「お賽銭だよ」
「ああ」と言って将校は納得したが、すぐに苦笑しながら言った。「律儀に計上されてるんですね」
「私の小遣い銭にする訳にもいかないからな」
「この際、厄払いや地鎮祭も引き受ければいい! 良い収入源になります」将校は収支報告を茶封筒にしまいながら言った。「ところで、竹林を使った実験の方はうまくいきそうですか?」
私は郷に広がる竹林に目を付け、結界の効果を実証するための実験に取り組んでいた。もともと単調な景色の続く竹林は迷いやすく、郷の人間も滅多に近寄らない場所だったのだが、私はそこに人間の感覚器官を狂わせる様々な仕掛けを配置していた。
「ああ、被験者十人全員が目的地まで辿り着けずに降参したよ。目印に
「《迷いの竹林》ですね! 万事順調なようで結構なことです」
「それが、そうでもないのだ」私はことさら深刻そうな表情をしてみせた。「肝心の結界の基礎工事の方が滞っていてね」
「原因は何です?」
「工事を担当している工兵達だよ。彼らの士気が著しく低下してるんだ」
「工兵が、どうして?」
「私も原因が気になってね、工兵部隊の隊長を召喚して話を聞いたんだ。隊長の話によるとこうだ、――初めのうち何事もなく作業は順調に進められていた。それが、ある山の付近に差し掛かったところで、工兵の前に山伏の格好をした奇妙な男が現れたんだ。これはその時の工兵の証言なんだが、――山伏は『これより先に進めば災いがあるぞ』と言って工兵を脅したそうだ。山伏は赤い天狗の面をつけていて、表情をうかがうことはできなかったけど、何やら尋常でない雰囲気を漂わせていて、たいそう気味が悪かった。山伏は工兵がほんの少しだけ目を離した隙に、跡形もなく消えてしまったそうだ。無論、隊長も他の工兵達も、この証言を無視して作業を進めた。しかし、その日を境にいろいろと異変が起こり始めたそうだ」
「異変? どんな?」
「曰く『空から突然石つぶてが降ってきた』とか『突如巻き起こったつむじ風に作業用の道具がすべて飛ばされてしまった』とか『林の奥から大木を切り倒すような大きな音が聞こえてきて、翌朝林に分け入って調べてみたが、何も痕跡が見つけられなかった』と言うような、よくある怪談話(※1)だよ。この頃にはもう隊長も事態を深刻に受け止めていて、部隊に箝口令を敷いたり、必ず五人一組で行動するよう指示を出したりしていたんだが、その五人一組の作業班が『いつの間にか六人に増えていた』という報告が上がるに至って、いよいよ工兵達の間に動揺が広がり始めた。転属の希望を申し出る者まで現れる始末で、さしもの隊長も困り果てたという顔をしていたよ。私は気の毒な隊長を元気付けてやろうと思って、こう言ってやったんだ『なんだ、作業員が増えたのなら結構なことじゃないか!』ってね。そうしたら隊長、顔を真っ青にしてこう言ったんだ。『恐れながら申し上げます、中佐殿。六人目の作業員には目も鼻も口もなかったのでございます!』とね」
「それで、どうなりました?」将校が続きを促した。
「先日、とうとう部隊から脱走者が出たそうだ。隊長は全ての作業を中断して大規模な山狩りを指示した。けれども、いなくなった男の足取りは、ようとして知れなかった。なにしろ、男がどうやって宿営地を抜け出したかさえ分からなかったのだからね。そこで、この憐れな男は、実は部隊を脱走したのではなく、山の妖怪に攫われて、喰われてしまったのではないかという噂が、にわかに工兵達の間に広まった。今では皆すっかり怯えてしまって『次は誰が消えるのか』と噂し合っている有様だよ」
話を聞き終えた将校は、しばらくの間考え事をしている様子だったが、やがてぼそりとつぶやくような小声で言った。「分かりました。新しい人員を手配しましょう。この件は八雲女史もご存知で?」
「いや、話してないよ」
「なら、女史にはこちらから話しておきましょう」
「聞きたいことがあるんだが……」
「なんでしょう?」
「今更こんなことを聞くのも……その、何なんだが、彼女はいったい……何者なんだ? なぜ軍の《計画》に関与している?」
「本人に直接お尋ねになればいい!」
「尋ねたさ! 尋ねてはみたものの、のらりくらりとかわされるばかりで……一向に要領を得ない」
将校は少し顎を引いて幾分上目遣いに私を見た。
「彼女のことが気になりますか?」
「ああ気になるね。あれは見たところまだ十台半ばくらいだし、それにご婦人じゃないか。それとも四民平等の世の中じゃご婦人も軍務に就くのかね?」
「まさか! 彼女は地主の娘ですよ。軍属じゃない。確か塩の仲買で財を成した一族の末裔だと聞いていますがね、郷に広大な土地を持っている。郷の発展のために多額の寄付もされている。いわゆる土地の名士というやつですよ。郷の自治に対してあれこれ意見できる立場にある。彼女は我々の協力者ですよ。軍内部にも強力な
H村
地勢
東西北ノ三方山ヲ擁シ南一方開キタリ運輸便ナク
平常牛馬ヲ用ヒ雪中人夫橇ヲ用イ荷物運輸ス
薪炭乏シカラス
地味
其色黒ク質悪ク稗稲宜シ桒麻ニ適シ水利便ナリト雖モ
時々水害ヲ被ル事アリ
(省略)
戸數
本籍 四百九拾五戸
人數
男 千二百三拾三口 平民
女 千二百二拾一口 平民
外 寄留五人 内男二人
女三人
牛
無之
馬
牡馬拾四頭
牝馬八百三拾頭
學校
公立小學校一箇所本村ノ中央ニアリ
村會所
東西九間南北四間面積三拾六坪本村中央ニ有リ
病院
無之
電線
無之
郵便局
本村ノ丑ノ方ニ有リ
(省略)
産物
米穀 二千五百三拾九石餘 伹豊凶ニヨリ過不足此限ニアラス
雑穀稗 二千七百拾一石 伹穀物ハ他エ輸送セス
麻 百拾五駄 一駄ハ三拾六貫目 伹尾張國名古屋エ輸送ス
民業
薪炭ヲ取テ業トスル者 二戸
猟業トスル者 四戸
農事ヲ業トスル者 四百八拾九戸
女農事ヲ業トスル者 七百拾七人 春冬積雪ノ間ハ産物麻ヲ製ス
氣候
東西北山負ヒ寒暖計極暑八拾八度極寒貳拾貳度
風俗
淳朴ニシテ節義ヲ重ンシ農事勉強ス富者四分貧六分
右之通取調上申仕候以上
明治九年六月十七日 H村 副戸長 ○○ ○○
同 ○○ ○○
同 ○○ ○○
戸長 ○○ ○○
3
《郷》という表現は行政単位を表す呼称として適切ではない。事実、我々が《郷》と呼ぶこの地域は、二つの村落――K村とH村に分かれていた。一つの盆地の北半分をH村、南半分をK村が占めており、この二村を地形的に分断することは容易ではなかった。我々はこの二村をまとめて便宜上《郷》と呼んだ。両村とも五百戸に満たない小さな村で、人口は二村合わせて四千人程度であった。
村の中心部(と言ってもひどく小さいのだが)の街道を歩いていると唐突にどこからか声をかけられた。
「失礼ですが、博麗神社の神主様で?」
見ると街道の脇に一台の馬車が停めてあり、人なつこそうな顔をした紳士がひょっこりと顔をのぞかせて、こちらを見ていた。
「いかにも、私ですが」と私は答えた。
紳士は弾かれるように馬車から降りると、ひょこひょことこちらに近づいて来て、かぶっていたご自慢の山高帽を少し持ち上げて会釈をした。彼は(こんな田舎の山村には珍しく)フロッグコートに身を包んでいた。愛嬌のある丸顔に、きれいに形を整えた立派な口髭を蓄えていて、彼が何かを言う度に、その形の良い髭がもごもごと上下に動くのだった。彼の仕種は慇懃だが、背が低く小太りな体躯のせいか、どこか滑稽に見えた。
「これは神主様、かねがね一度お目にかかりたいと存じておりました。郷の外れに新しい神社ができたと聞いて、――私は神社仏閣の類が大好きなものですから、すぐにでもおうかがいしたいと考えておったのですが、何分忙しい身でしてね。こう見えても私、……おっと失礼! 私としたことが、自己紹介がまだでしたね!」彼は早口で一方的にまくしたてた後、自分はK村とH村の連合戸長(※2)だと名乗った。「ところで神主様は、この辺りのご出身ではございませんね」
「ええ」
「どちらからいらっしゃいました?」
「東京から」
「東京! それはまた随分と都会からいらっしゃいましたね! 神職の方の異動というのは、頻繁にあるものなのですか?」
私は神職がどうやって神社に配属されるのか知らなかったので、「ええ、まあ」と曖昧な返事をした。
「神祇官というのがありましたしね。神職といえども官吏と変わらないのかもしれませんね。ここいらは何も無い土地ですけども、気候はまあ穏やかだし、人々は純朴ですから、きっとすぐに気に入ると思いますよ。何かお困りのことがあれば、何なりとおっしゃって下さい。……と言いたいところなんですが、実は私も最近こちらに赴任してきたばかりでしてね。おや、よそ者の私なんぞがなぜ名誉ある戸長の職に就いているんだって顔してますね。いえいえ、隠さずとも結構! 皆さんそうおっしゃいますからね。それはつまり、こういうことです」戸長は暗唱しているかのように流暢に話した。「昨年、戸長制度が改正されたのですが、これを受けて、戸長の選出方法がこれまでの公選から官選――つまり民衆の
戸長の話に興味があった訳ではないのだが、話を切り上げなければならない理由も思いつかなかったので、私はこのまま戸長のおしゃべりに付き合うことに決めた。私は話を続けてもよいという印に、軽くうなずいて見せた。
「よろしい。ご説明しましょう」戸長は自信たっぷりにそう言うと、続きを話し始めた。「入札によって選ばれた戸長は、民衆の代表ですから、これはまあ当然人望が厚い。また、政府と民衆が対立した場合、高確率で民衆の側に付きますね。民衆の支持を失うと次の入札で落選しますから、これも道理です。さて、政府が公選戸長の何を懸念しているのかと申しますと、公選戸長が自由民権運動の指導者となることを最も恐れているのです。……まあお聞きなさい。大蔵卿の打ち出した緊縮財政(※3)は、激しいデフレーションをもたらしましたね。このデフレの影響を最も強く受けたのが農村です。多くの農村では地租が払えず、――地租は金納ですからね、作物を売ってお金にしなければなりません。けれども作物を売って得られる収入はデフレの影響で減少しています。――そうして、先祖代々受け継いだ大事な田畑をやむを得ず売り払ってしまう農民達が後を絶たない訳です。一方で有力な地主達が資本に物を言わせて、そうした土地を買い漁る。農民達は地主から(もとは自分達のものだった)土地を借りて小作農になるか、先祖代々の土地を捨て、都市部に移住して工場労働者になるかの二者択一です。いずれにせよ、貧富の差はますます広がるばかりですね。……こうした農村の深刻な実態が、折からの自由思想と結びつくと、大変に危険なことは容易に想像がつきますね。今や市民革命の火種は、全国の農村の中にくすぶっているという訳です。ところで神主様は何か思想をお持ちで?」
「思想ですって? とんでもない!」
「結構。半端な思想は身を滅ぼしかねませんからね。もし、あなたが何らかの思想を持っていたとしても、それこそ今のように知らぬ存ぜぬというふうを装うべきでしょうね。その方が利口というものです。政府は革命の萌芽を早期に摘み取ってしまおうと躍起になっていますからね。もし仮に神主様が希代の革命家でいらして、この郷を政府から独立せしめんとする、壮大な野望をお持ちであったとしても……どうされました? お顔が真っ青ですよ」
〈独立! 独立だって? まさかこの男は俺の《仕事》について何か知っているのではあるまいな……〉私はふいに、実は近くの物陰に巡査が隠れていて、戸長の合図一つで突然姿を現して私を拘束するのではないか、という考えに取り憑かれた。
「いえ、ご心配には……及びません。その、本当に、何でもありませんから……」私は周囲の物陰を確認したい欲求に駆られながら、なんとか前を向いたままそう答えた。
「きっとお疲れなのでしょうな」戸長は心配そうに眉根を寄せて言った。「そういうときはゆっくりと深呼吸なさるのがいい。気分が落ち着きますよ。どうです。落ち着きましたか? もうこの話題はやめにしましょう。ところで神主様は……」
戸長の話を遮るように、どこからか咳払いが聞こえた。
馬車には戸長の他にもう一人、学帽をかぶった青年が同伴していた。咳払いをしたのはその青年だった。彼は戸長が話をしている間中、何か訴えるような眼差しでしきりに戸長の方を見ては、いつ会話を中断させようかとタイミングを計っていたのだった。
戸長はフロッグコートの内ポケットから、上等な金の鎖の付いた懐中時計を取り出し「名残惜しいですが、そろそろ行かなくてはなりません。今日はどうしても群役場へ行かなくてはならない用事があるのです」と言って、幾分寂しそうな顔をした。
「私のことなら、どうぞお気になさらずに、公務を優先されてください」
戸長はまた元の笑顔に戻って、小さくて肉付きの良い手を私のほうへ差し出した。私がその手を取ると、戸長はもう一方の手もその上に添えて、力強くぶんぶんと上下に振って握手をした。
「近いうちに必ず、神社にうかがいますね。あなたとは良い友人になれそうだ。それでは公務が待っていますのでね。ごきげんよう」
戸長はひょこひょこと馬車の方へ戻っていった。
4
その日の夜、私は寝床の中で昼間の戸長との会話を思い出していた。〈戸長は《計画》を知っていたのだろうか? いや、おそらく知るまい。軍部は秘密裏にことを進めているはずだ。……では、戸長よりもっと上の立場の人間は?――例えば群の長官、県令。いや、もっと上の……そもそも政府はこの《計画》を承知しているのだろうか? もし仮に、政府の承諾なしに、軍部が単独で《計画》を進めているのだとしたら……、これは重大な犯罪行為ではないのか? なにしろ数千人分の地租を政府の財源から切り離そうと企んでいるのだ。それこそ市民革命を標榜するのとどんな違いがあるというのだ?……私は自分が考えている以上に危険な立場に立たされているのかもしれない〉この考えはこれまでに、もう何度も脳裏に浮かんでは消えていた。私はこの考えに蓋をして、深く考えないように努めてきた。結論を出すのが怖ろしかったのかもしれない。〈俺は思想犯として逮捕されるだろうか?――されるだろう。そのとき軍部は警察に手を回して、俺のことを救ってくれるだろうか?――おそらく期待はできまい。俺はトカゲの尻尾のように切り捨てられるだろう。……いっそ俺の知っていることを全部公表して、洗いざらいぶちまけてやったなら! 軍部の連中はいったいどんな顔をするだろう?〉私は
トントンと戸口を叩く音がした。
〈こんな時刻に来客など尋常ではないぞ!〉私は息を殺してただじっと動かずに様子をうかがった。引き戸の向こうに巡査が立っているような気がして、額に厭な汗が噴き出した。〈なんとかこのままやり過ごすことはできないだろうか……〉
ドンドンと先ほどよりも幾分強い調子で再び戸を叩く音がした。
〈やはりあの戸長だ! 戸長は初めから俺のことも《計画》のことも全て知っていたのだ!……人の良さそうな顔をして、心の中でぺろりと舌を出していたに違いない! してみると、俺はまんまと騙されたという訳か。戸長と別れたその後も、巡査がずっと俺のことを尾行していたに違いない!〉私は昼間のうちに逃げ出さなかったことを後悔した。〈とにかく今はなんとかやり過ごして、明日の朝一番に馬車を借りて陸軍のどこかの部隊と合流することができれば……〉
バンバンと三度戸を叩く音が響いた。これはもうほとんど引き戸を打ち壊そうとするくらいの勢いで、これ以上の時間稼ぎは無意味だという警告の色を帯びていた。
〈えい! もうどうにでもなれ!〉私は観念して「すぐ開ける」と戸口に向かって返事をした。のそのそと寝床から這い出し、あかりを灯し、夜着を羽織ると戸口へと向かった。
5
戸口の前には菅笠をかぶり薄緑色の光沢を持つ奇妙な質感の外套をまとった見知らぬ男が立っていた。
私は男が巡査でなかったことに安堵すると同時に、こんな時刻に訪ねてきた非常識な訪問者に対する怒りが沸々と沸いてきた。
「きみはいったい何だ。どういう用件で来た。いったい今何時だと思っているんだ?」
「質問は一つずつにして下さいヤし、旦那様」男はにっと黄色い歯を剥き出しにして笑った。「あっしは土木工事の請負をやっておりヤして……その、八雲のあねさんからこちらの旦那様に力を貸すように仰せつかったものですから……えっと、ご存知ない?」
結界の基礎工事の件で紫から、すっかり戦意喪失した工兵部隊の替わりに土地の人足を雇う提案があり、その人足の代表が顔見せのために近々神社を訪れることになっていたのを、私は思い出した。
「ああ、その件なら聞いている。……で、どうしてこんな時間に来た?」
「あねさんが……その、『これは秘密の仕事だから人目に付かないように』とおっしゃいヤしたものですから……」男はおずおずとそう言うと、主人に叱られた憐れな飼い犬のような目で私を見た。
「あきれた奴だな! それで提灯も持たずに来た訳か。……いや、まあいいだろう。命令に忠実なのは悪くない……」私はこの愚直な男を信用することにした。〈どうも俺の周りには腹の底が読めない奴が多すぎる!〉
男はまた歯を剥き出しにした元の笑顔に戻って言った。
「それでは、さっそくですが、作業に取り掛かりヤすので、その、図面の方を……」
「今から始めるつもりか。つくづくあきれた奴だな! いいだろう、図面は後で用意してやる。それより二、三質問したいことがあるんだが?」
「何なりと」
「私の依頼する仕事は特に正確さが要求されるのだが、……失礼だが測量の心得はあるんだろうな?」
「へェ、あっしらの一族は代々大工でございヤすから、測ったり切ったり掘ったり埋めたりは皆お手の物でさァ」
「八雲紫とはどういう関係なんだ、知り合いなのか?」
「へェ、あっしらの一族も昔はいろいろとありヤしてね。郷の人間達から随分とひどい目に遭わされたこともありヤした……。あねさんはそんなあっしらのようなアレな身分の者に、ちょっと人様にお見せするのが憚られるような、訳ありな仕事(今度の仕事も、もちろん訳ありでございヤすね。ひ、ひ!)を斡旋してくれるという、まあそういうお方なんでございヤすよ」
「もうひとつ質問がある。きみの羽織っている外套――見たところ合羽のようだが、珍しい生地だな。舶来品か?」
「とんでもない! これはあっしら一族に伝わる伝統の生地でさァ。軽くて丈夫、水にも強い。素材ですか? こればっかりは秘密ですな!」
「いつもその格好なのか?」
「まさか! 合羽を着るのは雨の日だけでございヤすよ。そんなこと子供でも知っていヤすでしょうに」
私は雲ひとつ無い星空を見上げた。きれいなまるい月が見えた。
「これから降るんでございヤすよ」男は菅笠を少し持ち上げ、西の空の彼方を望みながら言った。
6
雨はその日の夜更け頃から突如として降り始め、丸一昼夜降り続いた。
翌朝、大粒の雨滴が屋根を打つ単調な音に混じって、大勢の人の話し声が聞こえてくることに私は気付いた。傘を持って外に出ると、菅笠と蓑をまとった農民達が拝殿の前に集まって、がやがやと互いに話をしているのだった。農民達の中には風呂敷包みを大事そうに抱えている者、小さな子供の手を引いている者、老人を背中におぶっている者もいたが、皆一様に深刻で不安そうな顔をしていた。農民達の中から一人の青年(この青年はまともな身なりをしていた)が私の姿を見つけて声をあげた。
「神主様、ちょうどよいところにいらっしゃいました!」
青年は袴姿に下駄履きで、学帽をかぶっていた。彼はとても慌てた様子で私の前まで駆けて来ると、神経質な早口でまくしたてた。
「お騒がせして申し訳ありません、神主様。僕は戸長役場で用掛をしている者です。前に一度だけお会いしたことがありますね。――あの時は馬車の上から失礼しました。なにぶん、あの時はとても急いでいて、戸長が早く話を切り上げてくれないかと、そればかり気にしていたもので……。あの時、――そう、あの時はとても大事な用件がありまして、戸長には大至急群役場に行ってもらわなければならなかったのに、戸長ときたらいつもあんな調子なものですから、……いや、今はそんな話、どうだっていいんです。ええ、今だってとても急いでいるんです。それもあの時の何倍も、何倍もです!――つまりですね、戸長から緊急の用向きがありまして、僕はその用向きを伝えに来た代理人という訳です。本人が直接来るはずだったのですが、あいにく戸長はどうしてもやらなければならない別の仕事があったものですから、ああ見えて忙しい人なんです。……えい、またしても僕はどうだっていい話を! こんな話はどうだっていいんですよ!」
「きみ、とにかく落ち着きたまえよ。それは、あの者達に関係することなんだな?」私は一向に要領を得ない話の先をうながすために、農民達を指差して言った。
「その通りです、神主様! この者達は川の近くに住んでおりました者達で、逃がれて来たのです。……その、つまり、川があふれたのです。この大雨で!」
私はようやく話の筋が見えてきた。
「つまり、ここを避難所として使いたいということだな?」
青年は勢いよく首を縦に振った。
私は逡巡した。〈ここには機密文書が山ほどあるんだぞ。軍の連中の出入りもある。……なんだって宗教施設なんかに偽装したんだ? 断りづらいじゃないか!〉
その時、どこか遠くの方から地鳴りのような不気味な音が聞こえてきた。
がやがやと会話をしていた農民達は皆一斉に動きを止め、この怖ろしい音がどこから聞こえてくるのかと、不安な顔で聞き耳を立てていたが、やがて誰かの「村の方角だ……」というつぶやきを合図に、皆ぞろぞろと神社の裏手へと移動し始めた。
私も青年と共にその後に続いた。
果たして、神社の裏手から村の惨状を目の当たりにした農民達から「おお……」と力の無い嗚咽が漏れた。村内を流れるH川の支流がいたるところであふれ出し、もはやどこまでが川で、どこからが田畑なのか分からなくなっていた。今また新たに堤の一部が決壊し、あふれた水が濁流となって家々をのみ込んだ。濁流の勢いに耐えかねた家屋が、まるで断末魔の悲鳴のように梁を軋ませながら、やがてばらばらに倒壊して水面に消えて行くのが見えた。
ここに至って、私はようやく事態が思った以上に深刻であることを理解した。
青年の顔がみるみる蒼白になった。
「あすこは住民の避難誘導がまだなんです! すぐに戸長に知らせないと……」言い終わるよりも早く、青年はもう石段の方に向かって駆け出していた。
私は憐れな農民達の中に一人とり残された。
7
雨が降り始めてから三日が過ぎた。雨脚は弱まるどころか益々強くなる一方で、瓦屋根に激しく叩きつけた大粒の雨が、軒先から滝のように地面に流れ落ちた。正午だというのに辺りは夕刻のように暗く、時折雷鳴が轟いた。
最も深刻な問題は食糧だった。神社にはいくらか食糧の貯えがあったが、ここにいる全員で分けるとなると決して十分な量ではなかった。女達は炊事場を占拠して、日に二度の炊き出しを行った。避難民の数は日を追うごとに増えていたし、何より、いつまでこの状況が続くのか見当もつかない今の段階では、可能な限り食糧は温存しなければならなかった。
薄暗い拝殿の中は既に避難民でいっぱいになっていた。老人達は拝殿の中央付近に正座して、祭壇に向かって熱心に手を合わせていた。一方で年の若い連中は、拝殿の太い丸木の柱に寄り掛かって、降りしきる雨をただぼんやりと眺めていた。「神主様!」と誰かに声をかけられた。見ると拝殿の隅に戸長が座り込んでいた。
「戸長、こんなところで……いったいどうされたんです?」
「お恥ずかしい話です。役場が浸水してしまったのです。今後もし役場を建て替えるようなことがあったなら、防災という面も考慮しなければなりませんね。大事な帳簿もほとんど水に浸かってしまいました。なんとか救い出せたのはたったのこれだけです」戸長は傍にあった風呂敷包みに手をやった。
「村民の避難誘導を優先されたのですから、仕方ありますまい。なに、帳簿はまた作ればよいのです」
私は戸長を励ますつもりでそう言ったのだが、戸長は奇妙に困惑したような表情になった。
「それが……妙な話なのですが、我々――役場の職員と村の青年団だけでは、とうてい避難誘導すらままならなかったはずなのです」
「どういうことです?」
「これはつい今し方ここで聞いた話なのですが、我々以外にも避難誘導を行っていた者達がいたようです。その者達は――これがどうにも信じ難いのですが――修験道の行者の格好をしていて、家々を訪ね歩いては『この雨は龍神様(※4)が降らせているもので、この場所はもうじき水魔にのまれるのだから、すぐにここから離れなければならない』と警告するのだそうです。『どこに逃げればよいのか?』と尋ねると、決まって『郷の東の外れにある神社に行け』と指示されるのだとか、……で、荷物をまとめて家を出ると、ものの数刻と経たないうちに濁流が押し寄せて、その家は跡形もなく流されてしまうのだそうです。……まるでおとぎ話ですね」
「その山伏は天狗の面をつけていたのではありませんか?」
「天狗の?……いや、そんな話は聞きませんが……」
戸長が話し終わるよりも早く、背後から若い男の声が聞こえた。
「とんだ茶番だ! 龍神なんていやしない。大方その頭のイカれた山伏姿の連中が堤を壊して回っているのさ」
また別の場所から、今度は老人の声が上がった。
「お前達若い衆がそんなだから、龍神様はお怒りなのだ! まだ分からんのか? 龍神様は遣いの者までよこしてくれたというのに!」
すぐ近くで、二人を仲裁しようとする声が上がった。
「まあまあ、お二人とも、今そのことについて議論しても始まりません。雨がやむ訳でもありませんしね。それよりどうです。ひとつ今後のことについて皆さんで話し合われてみては? その方がずっと建設的ではありませんか」
「はッ!」最初の若い男が嘲るように鼻を鳴らした。「家も畑も流されたというのに『今後のこと』だって! いったいどこに『今後』がある? 結局俺達は皆こうするしかないのさ」
男は自分の首を縄で括るしぐさを真似てみせた。
「それはいけません!」戸長が真赤な顔をして立ち上がった。「雨がやめばすぐにでも群の長官に掛け合って支援を要請するつもりです。近隣の村落からも援助が受けられるはずです。……ですから、そのように悲観的になってはいけません。きっと大丈夫です。きっと!」
戸長は熱に浮かされたように、両手を振り回しながら説得を続けた。
結局のところ、雨がやまないことには、事態が何も進展しないことは皆が理解していた。それでも何か声に出さずにいられなかったのは、何もせずにただじっと座って雨がやむのを待つことに、皆が耐えられなくなっていたせいであろう。誰もが疲れていた。不毛な言い争いはその後もしばらくの間続き、私はその結末を見ることなく拝殿を後にした。
8
拝殿から居間へと向かう廊下の途中に八雲紫が立っていた。
薄暗い廊下の奥で、紫の白い肌がぼうっと光を放っているように見えて、私は瞬間ぎょっとなった。
紫はどこかふわふわとした足取りで私の前まで来ると、一枚の紙切れを私に手渡した。紙切れは今日の日付の新聞記事(彼女はどうやってこの新聞を手に入れた?)だった。
N縣に被害激甚二村土砂に埋没す ~交通途絶し村民救助する術なく
○日以来の豪雨未だ止まず各河川刻々増水し家屋橋梁等の流失夥しく殊にも昨夜九時頃より豪雨猛然として此縣を襲いK村H村に跨る山岳の斜面長さ十二里幅一里に渡突如非常なる音響と激勢とを以て崩壊し二村悉く土砂に埋没せり
付近の橋梁影もとどめず流失し而してこれがためK村方面の交通全く途絶し村民を救助する術絶望にて同縣令より工兵大隊へ申請して兵隊の出動を乞える有様なりき
前代未聞の大山抜 ~死傷行方不明多數
尚精査する處によれば山崩の土砂は高五十間厚さ三丁幅員約一町即小山の如き体にて此渓谷を埋め長さ一里以上の一大湖を出現したり
死傷は唯今迄の調査にて死者○○名尚此他行方不明のもの○○名重傷○○名あり人家の滅茶々々となりたるは○戸馬○頭壓死此外尚調査中なり
軍隊も出懸る所
歩兵第○○聯隊にては救援の為め軍隊出動の計劃を立て現場へ照會したる所惨状甚しく到底人力にては如何ともする能はざる旨の返電ありたるを以て出動を見合すこととせりと……
「山崩れだって? 山崩れなんてどこで起こっている? 新聞というのはいい加減なものだな!」私は吐き捨てるように言った。
「いいえ、それは県が公式に発表したものですわ」
「何だって?」
「今から九時間前、村内を流れる川の氾濫と大規模な土砂災害によって郷は壊滅的な打撃を受けました。軍は二次災害のおそれがあるとして、郷に通じる全ての道を封鎖しています」
「それは、つまり……」
「結界が完成したのです。今からきっかり三十六時間後に、軍は生存者の救助活動を断念します。県は同時刻をもってK村及びH村の放棄を決定するでしょう。郷の東側に新たな街道が敷設され、生き残った村人達も、県下の他の村落へ散り々々に移住したということになります。郷は文字通り《消えてなくなる》のです」
私は紫の話をほとんど聞いていなかった。ただ「結界が完成した」というフレーズだけが頭の中で何度も繰り返し響いていた。
〈結界の基礎工事は予定よりも遅れていたはずだ。それにこの雨だ……まさかあの合羽の男、この土砂降りの中作業を続けていたのではあるまいな。それにしても、手際が良すぎる。初めからこうするつもりで、俺にだけ嘘の予定を知らせていた訳か。だとすると、……あっ!〉ふいに頭の中にある怖ろしい考えが浮かんだ。
私は弾かれたように戸口から傘も持たずに土砂降りの中へと飛び出し、すぐに神社の裏手に回りこみ、郷の様子――雨にかすむ街道のその先の様子を凝視した。
〈俺は……閉じ込められたのか?……〉
結界の設計者たる私自身を結界の中に閉じ込めることで、結界の秘密が外部に漏れる危険性を排除する。考えられない筋書きではなかった。
大粒の雨水が容赦なく顔を打った。自分の立っている足元の地面がぐるぐると回転して、視界の隅で何かがちかちかと点滅しているような気がした。
「どちらに行こうというのです?」
突然耳元でささやく紫の声が聞こえて、私はさっと血の気が引いた。
振り返ると、しかし紫は私から少し離れた場所に立っていた。彼女もまた傘をさしていなかった。彼女は憐れな狂人を見るような目で(雨に濡れた茫然自失の中年男はさぞ憐れに見えたことだろう!)私を見ていた。
「部屋にお戻りください、先生。風邪をひいてしまいます」
「きみは、私を……騙していたのか?」
紫はその質問には答えず「見せたいものがあります」とだけ言って社の方に踵を返した。
私もその後に続いた。
9
紫はゆっくりと拝殿の引き戸を開けた。
群衆の話し声がぴたりと静まり、皆の視線が瞬時に彼女に注がれた。
彼女は例のふわふわした足取りで拝殿の中ほどまで歩いた。
〈彼女に欠けているのは《重さ》ではない《現実味》だ!〉私はなぜか唐突にそのことに思い至った。彼女はどんな景色の中でも常に《浮いて》いるのだ。
紫は群集の顔をざっと見渡した後、くるりと群集に背を向けて外の景色を見た。彼女の前には賽銭箱があり、その先には雨に濡れた石畳の参道と朱塗りの鳥居と灰色の空があった。
彼女は歴史上の多くの為政者達がそうしてきたように、低くゆっくりと落ち着いた口調で語りかけた。
「皆さん。皆さんご承知の通り、この雨は龍神様が降らせているものです。信仰を蔑ろにし、神を否定し、高慢で、貪欲で、堕落した人間達へのこれは神罰であります。この雨は七日七晩降り続き、地上の一切の穢れを洗い流すでしょう。この国は全てを失い、もう一度神話の時代からやり直すのです。……しかし、皆さん。ご安心ください。わたくし達には神主様がいらっしゃいます。神主様はわたくし達のことを憐れに思い、郷の周囲に結界を張ってくださいました。この結界の中にいる限りわたくし達は絶対に安全です。その証拠に、ほら……ご覧なさい!」
紫は外に向かって大きく両手を広げた。
その途端、土砂降りの雨がぴたりとやみ、灰色の雲が切れて、一条の光の帯が神社を包み込んだ。
老人は目玉が飛び出さないかと心配になるほど目を見開いた。
若い男は「はッ!」と鼻を鳴らした。
戸長が突然立ち上がり、狂ったように両手を振り回しながら「奇跡です! これは奇跡ですよ、皆さん!」と大声を上げた。
私はあまりの出来事に呆然となり、その場に膝を付いた。濡れそぼって体に纏わり付く衣服の不快感と、目の前で展開する非現実的な光景に、私は自分の頭がどうにかなってしまったのだと本気で思った。
紫はゆっくりと私の前まで歩みを進め、真っ直ぐに私を見下ろした。何日ぶりかに降り注ぐ陽光の中で、紫の金色の髪がひどく神々しく輝いて見えた。彼女は子を諭す母親のようにやさしい口調で言った。
「先生。結界とは内側と外側を分かつもの。先生は外側から見た結界に実に見事な理論を与えてくださいました。しかし結界には内側と外側があります。結界の内側にはまた外側とは違う――別の理論が必要なのです。結界の内側と外側との間に生じる認識のズレは、やがて論理的な境界を形成します。内側と外側のズレが大きくなればなるほど、結界はより強固で安定したものになるのです。つまり……」
私はうわのそらで、紫の話をほとんど理解できなかった。私は、彼女があの土砂降りの雨の中にいたのに、少しも服が濡れていないのはなぜだろうと、今となってはもうどうでもいいような瑣末なことを、ずっと考えていた。
「……つまり、内側には内側の神話が必要なのです」
私はゆっくりと顔を上げた。
「世界はここから始まるのですわ」
紫は微笑んでいた。彼女の笑みは、どこか不吉な……
エピローグ
群集がざわつき始め、拝殿内がにわかに騒々しくなった。群集の一人が「あれはなんだ」と声を上げた。
いつの間に入り込んだのか、山伏姿の行者達が十人ばかり、参道の石畳の上に横一列に並んで立っていた。山伏達は皆赤い天狗の面をつけて、拝殿の様子をじっとうかがっていたが、やがてその内の一人が拝殿の方へ歩み寄った。一本歯の高下駄が石畳を踏むかん高い音が境内に響いた。
紫はゆっくりと拝殿の中を歩き、山伏と正面から対峙した。
「やはり貴方様でしたか、八雲殿!」山伏は威厳のある低い声で、しかし慇懃に語りかけた。「御山の了解もなしに行われた此度の件、大天狗様はひどくお嘆きでいらっしゃいます」
「事前に相談していたら、了承してくれたのかしら?」
「大天狗様は《賢者達》を召集されます。無論、貴方様の今後の処遇について話し合われる所存にございます。大天狗様は、貴方様ご自身にも会議に出席されることを望んでおられます。此度の件で貴方様が《賢者達》を蔑ろにされたことにつきましては、まことに遺憾ではございますが、大天狗様は弁解の機会をお与えくださいますし、弁解の内容如何によっては、寛大なるご処置を賜ることもやぶさかではないと、こうおっしゃっておられますれば、何とぞ、ことを荒立てず、穏便に、ご命令に従っていただくのが、貴方様にとっても最善の選択であると存じ上げます」
紫はさして興味もなさそうに、どこからか取り出した扇をいじくりながら聞いていたが、ちらと天狗達の方を一瞥して言った。「嫌だと言ったら?」
天狗達が手にした錫杖を紫の方に向けて一斉に身構えたのを、リーダー格の天狗が手を横に突き出して《待て》の合図を送って制した。「そのような発言は、お控えくださいませ。《賢者達》に対する反逆と受け取られかねませんぞ」
その時、どこか遠くの方で野犬(?)の遠吠えが聞こえた。それに呼応するかのように別の場所からも遠吠えが聞こえてきた。遠吠えは次第にその数を増し、神社をぐるりと取り囲むように至るところから上がった。やがて周囲の藪ががさりと揺れて、何者かの気配を感じたかと思った瞬間、藪の中から、石灯籠の陰から、拝殿の屋根の上から一斉に小さな人影が飛び出して、野生動物さながらの俊敏さで天狗達を一瞬にして取り囲んだ。
「おのれ
禿童と呼ばれた小さな人影は髪を短く切り揃えた童女達で、天狗達と同じ山伏の格好をしていた。天狗達のような面はつけていなかったが、彼女達は――それが彼女達全員の共通の特徴だったのだが――その頭髪も肌の色も、まるで色素が抜け落ちてしまったかのように白かった。彼女達は抜き身の太刀を振りかざして、どこか常軌を逸したぎらぎらと異様な光を放つ眼で天狗達を睨み付けながら、今にも襲いかからんとじりじりと間合いを詰めた。
〈童女達のあの眼! あれは己が信じることが絶対的に正しいと、そう確信する者の眼、狂信者のそれだ!〉
「八雲紫にたぶらかされたな、愚かな禿童どもめ! 大天狗様をお守りするのがそなたらの使命であろうが!」天狗が激昂して怒鳴った。
禿童達は一斉にときの声を上げて天狗達を威嚇した。人間のものとは思えぬ怖ろしいうなり声が周囲の空気をびりびりと震わせた。
村人達は「ひっ!」と短く悲鳴を上げて、両手で耳を塞いで身をすくめた。
天狗達は「おお」と呻いてあとじさりした。
八雲紫は……笑った。
「貴方様は……いったい……何をなさろうというのです?」天狗の声はもはや威厳を失い、弱々しくかすれていた。
紫は遥か遠方の景色を眺めるように、眼を細めながら言った。
「じきに分かりますわ。じきに……」
彼女の目にいったい何が映っていたのか私には知る由もないのだが、彼女はこの時、何か我々には決して見ることのできない遥か遠くの景色を幻視しているように、私には思えた。それは未来の郷の光景であったかもしれないし、あるいはまた、全く別の時代、別の場所の風景であったかもしれない。いずれにせよ、八雲紫の『幻想郷』はこの日、この時より始まったのであり、この物語は長い幻想郷の歴史における最初の神話として、後世の書物に記録されることになるのである。
(了)
創想話はほんとうに、いろんなものがあるところだ。
まだ続きそうな感じもしますがこれで終わりなのかな…
雰囲気がありますね。
百鬼夜行シリーズ を見てるみたいで楽しかったよ
上手く言えないけどとにかくそんな感じ
今回も本当に面白かった
できれば、東方計劃とまとめた上でがっつりいただきたいところですが。
一応作者様の過去作品にも目を通しましたが、ここで完結なのかわからないので評価していいものか悩みます。
このお話単品で考えるなら、軍部が何のために何をしているのか不明すぎて
紫の能力を補完するただのブラックボックスになってしまっていると感じました
同様に主人公も心理は濃く描写されているのにもかかわらず目的や欲求が不明で傍観者としてのギミックに過ぎているように感じました。
大きな物語の一部だとするなら上の批評はまったくの的外れなので無視してください
ともあれ、練られた世界観を感じる作品でした
地に足の付いた背景世界の中にエキセントリックな幻想世界を織り込んでいくのは、作者さん自身楽しいことでしょうが、危ういバランスに気を使う繊細な作業でもあると思います
中盤あたりで展開が急ぎすぎてギクシャクしてしまっているのが残念ですが、それを差し引いても十分に楽しませてもらいました
次作以降にも期待したいと思います
はー、ゆかりん可愛いよ。
この話の何が恐ろしいって、この主人公の「先生」が、事実上の初代博麗の巫女と化していることです。何故「神主が結界を張ってくれていた」ことにしたのか…‼