●……冗談よね?
木々も薄っすらと色づき始めた初秋のある日。昼下がりというよりはもう夕暮れに近い時間。魔法の森から一人の魔法使いが飛び立った。彼女の目的地は紅魔館で、つまりその日はなにも特別な日ではなく、いつものような普通の日だった。
飛び立った彼女は「ちょっと家を出るのが早かったかな」などと気にしつつ、ならばゆっくりいけばいいと、普段よりものんびりした速度で目的地を目指したのだった。
日もだいぶ低くなったこの時間に出発して、なお早いかも、と彼女が心配した理由は、紅魔館が吸血鬼の館であるせいで、天高くに日があるような時間に、かの館に邪魔しても、門番は昼寝中だし、仏頂面のメイド長はそっけなく対応してくるし、陽光に照らされる赤い館の外観はともすると滑稽一歩手前だし、それはそれは味気ないのだ。
しかし、日が暮れてからならば、さすがは夜の王の居城である。湖から霧が立ちこめ、月光はほの暗く館を照らし、昼間なら悪趣味に感じるだけの紅い館内は明滅するランプの光で、ある種荘厳な雰囲気を持っていた。昼間はそっけないメイド長も、館の主人が起きているせいか、微笑みながらきちんと接客してくれるし、主人の興が乗れば茶会に同席することだってできる。そこで出てくる紅茶と茶菓子は、自らの生活リズムを変えてでもありつく価値のある味なのだ。
そんな理由で、なるべく時間をつぶしつつ飛ぶことに決めた彼女は、なにか面白そうなことは起こってないかと、人里を上空からざっと眺めた後、そこから紅魔館への街道上に、かの館へと徒歩で帰る途上であろうメイド長を発見して、隣に降り立ったのだった。
「よう、咲夜。お使いか」
「あら、魔理沙。帰るとこよ。寺子屋に用があってね」
「そういえば咲夜はこういうとき、歩くよな。飛べば早いのに」
いつ見ても咲夜は歩いてる。あの馬鹿みたいに広い屋敷を移動するときも、人里に使いに出るときも。咲夜が飛ぶときは、相当に時間がないときに限られるように魔理沙には思えた。
「人間は歩くものよ。ふらふら飛び回ってると忘れるわよ。自分が何者か」
「ふむ、咲夜が何者かと言えば…。なるほど、つまり犬も歩けばって奴か」
「泥棒ねずみよりはだいぶましな本分だと、そう自負しているのだけれど」
などと、軽口を言い合いつつ、魔理沙はメイド長のすらっとした体型はここから来てるのかも知れぬと、思ったりしている。
日は低くなり、初秋の夕日があたりを赤く染めている。銀髪の狗はその嗅覚に自分が否応なしに慣れてしまった臭いを感じ取っている。
「そうね。あたるのが棒ならいいのだけど……」
魔理沙の密かな羨望の視線を浴びつつ、ふと立ち止まった咲夜はくるりと方向転換すると、路肩の膝まである雑草を踏み分けて、あさっての方向に進み始めた。そうして四五十歩もいった所の藪の前でぴたりと止まった。
「おーい……おーいってば、咲夜ぁー」
何が起こったのかわからぬ魔理沙はしばらく、雑草に踏み込むのを躊躇っていたが、しかたなしと、いかにも不機嫌に咲夜の後に続いた。秋の乾いた夕日を浴びる路肩の雑草を踏むのは、彼女のよく知った森の瘴気と湿気を吸い込んだ下草と違って、意外にもそれほど不快ではなかった。銀髪の狗は行き当たった「棒」を見下ろしため息をついている。
「骨付き肉でも落ちてたかー? 咲夜ちゃん」
言ってしまってから「いかんいかん、あまりからかうと茶菓子が遠のく」と思い直した。この前はみんながストロベリータルトに舌鼓を打つ中、自分にはかちかちのチーズひとかけらを出されたのを思い出して、口角に残る笑みを消して咲夜のそばによった。
咲夜の足元には人間の死体が横たわっていた。
◇◇◇
中年の男の死体だった。人間の死体を見るのは、初めてではない。人里を離れて、魔法の森で暮らすようになって魔理沙は幾度かそれに行き会ったことがった。獣に襲われたもの、妖怪に襲われたもの、崖から滑落したと思われるもの。そのどれもがひどく傷ついていた。目の前のそれは記憶の中の死体に比べればきれいなもので、ほんの一瞬だが寝てるのかと魔理沙は思った。そうでないことは土気色の顔を見ればわかるし、見開いた目が微動もしないし、なによりその上着は大量の血を吸って乾いたのであろう、真っ黒に染まっていた。
「胸を一突きね。手慣れてるわ。普通は相手が死んだ事を確認するために何度も刺すものよ」
足で死体を表にしたりひっくり返したりしながら平然と咲夜が言ってのける。その光景が自分の知る瀟洒なメイドにあまりにも相応しくなくて、つい声に怒気が混じった。
「おい!足蹴にすることないだろ!」
銀髪の狗はその声に少し驚いたのか、はっとして、そして悔やむように「そうね」と小さく言った。
「どうする? 見なかったことにはしないんでしょ?」
「里に知らせてくる」
そう言って魔理沙が飛び立とうとするのを咲夜が制止した。
「もう日が暮れるわ。そうなれば朝まで検分はできないし、夜のうちに獣が荒らすかも」
「だからって…」
「埋めるのよ。そうすべき…なんでしょ。シャベル取ってくるわ。魔理沙はそこにいて」
そう言いながら咲夜はふわりと浮いて、魔理沙を残して飛んでいってしまった。残された魔理沙は死体の検分をしようかと考えつつも、ついさっきの光景が再び眼前に浮かび上がって振り払えないのにいらだっていた。なんの感傷も表に出さず、人の死体を足でまさぐる友人。実際に目の前にある死体よりもその光景のほうがよっぽどおぞましくて、なぜか魔理沙は目じりに水分が溜まってきたような気がして、あわてて目をこすった。
ほどなくして、咲夜は2本のシャベルを手に戻ってきた。それほど時間がかからなかったのは、咲夜が柄にもなく急いだのか、それとも時間をとめたのか、ともかくそれなりに残った自分とこの死体を気にかけたのだろうと思えて魔理沙はすこしほっとした。
墓穴というわけではない。ようは獣に荒らされなければいいのだ。あまり浅くてもだめだが深々と掘る必要はなかった。二人して一言もしゃべらず、黙々と掘った。掘り終わって「ふう」と一息ついたそのとき、咲夜が死体を穴に蹴り落とす光景が目に浮かんで、慌てて魔理沙は振り返った。見ると、咲夜は死体の腕を持とうとしているところだった。目が合った。
「ほら、足。持って」
と、促されて、正体のよくわからぬ安堵を感じながら、魔理沙は死体の足を持った。
持つ場所が悪かったのか、死体の靴が脱げ、その靴の中から符のようなものがぽろりと落ちた。
◇◇◇
「さすがに、シャベル二本引きずって歩く気にはならないわ」
と言って咲夜は館へ飛んでいった。すでに日は暮れていて残照もない。魔理沙は死体の靴に入っていた符を手に歩きながら、このまま予定通り紅魔館へ行こうか、それとも帰ってこの符を調べてみようか考えていた。その符は、ちょうど花札を一回り大きくしたくらいの寸法の金属製で、表面になにやら細かい文字がびっしりと彫り付けてあり、おまけに小さな紅玉まで埋め込まれている、見るからに怪しげなもので、さっきまでの魔理沙の滅入るような気分を吹き飛ばすには十分な品だった。「私も現金なものだぜ」と思いつつ、つい、にやけてしまうのを止められないのだ。
やはり紅魔館に行こう。と、そう思った。なんとなく咲夜とすぐまた会うのは嫌な気もしたが、いまはこの「符」である。これのことを調べるなら薄暗い我が家よりも、うなるほどの参考図書と充実した機材のある図書館のほうがよさそうだった。魔理沙にはもう明日までまって明るくなってから調べる、などという悠長な考えはなかった。「いますぐ調べたいのだ私は」
そうして、気合充実して箒にまたがろうと立ち止まったそのとき、はたと気づいた。「つけられてる。二三人か」と冷静に頭の中で言って、そしてほくそ笑んだ。
魔理沙を付けてきたのは明らかに先ほどの死体の関係者だろう。それもまず間違いなく加害者側の。にもかかわらず魔理沙はほくそ笑んでいる。手掛かりが向こうからやってきたと浮き立つような気分になっている。魔理沙はすでに相手が殺人者であることを忘れていた。それも慣れた殺人者だ。
前に一人、後ろに…何人だろう。まぁ二三人。もう頭の中で戦闘の組み立ては終わっている。魔理沙が立ち止まったのを見た追跡者たちは十数えるほど息を潜めていたが、いっせいに前後から襲い掛かってきた。
「きたな!」と叫ぶや、自分の後方に確認もせず適当に弾幕をばら撒く。相手は二本足で地べたを走ってくる。そんな奴に躱わせるわけがない。そして前に右手を突き出す。わずかな溜めのあとに閃光がはしる。お得意のレーザー。八卦炉さえ使わない。後方から弾幕があたる音が断続的に聞こえる。
「ただの人間にはこれで十分。つーか大分出力は絞ったが、まさか死んじゃいないよな」
誇らしげに独り言を声に出す。死んじゃいねーよなと言いつつこれくらいでは人は死なないことは十分知っている。「たいした怪我もしないだろうが、まぁ伸びてるだろうな」とか「相手が悪かったな。ふふん」とかそんな言葉が魔理沙の脳内に充満している。あたりは暗い。撃ち放ったレーザーの閃光に目が慣れるにはどうしても時間がかかる。魔理沙はレーザーの標的になった人間が倒れていない事にまだ気づいていない。
追跡者たちは魔理沙が弾幕少女であることを知っていた。と言うより、この幻想郷の名物魔法使いなのだ。知らぬ者など極々少数だろう。自信満々に突き出した右手に光が集まってくれば、何か飛び道具が来るとは普通の人間にだってわかるのだ。男はすばやく路肩に横っ飛びして、レーザーを躱わし、音を消して近づき、そして。
魔理沙のすぐ脇の路肩から山刀を振り上げ飛び出した。
その瞬間。魔理沙は音を聞いた。猛獣が獲物に飛び掛るとき、地面を蹴る音。膝丈の雑草がそれにつれてこすれ出るがさりという音。殺人者の口から漏れる空気の音。
魔理沙は男をみた。あたりは暗かったはずなのにすべてが見えた。まるで時が止まったかのように細部まで。引き絞られた弓のように緊張する右腕の筋肉。地面を蹴った両足はいまだ空中にある。山刀は真っ黒で、刃の白い輝きがやけにまぶしかった。その不思議と意思を感じさせない両目は魔理沙にしっかりと固定されていた。
魔理沙はこんな目は見たことがないなと、考えていた。魔理沙はこれまで幾度も戦ってきた。幾度もの戦いのさなかみた相手の目のなかに、同じような目はなかった気がした。無感動に「ああ、斬られるな」とも思った。そして「馬鹿か私は、なんであきらめてるんだ」と思って、それから体がぴくりとも動かないことに気づいた。魔理沙は死を覚悟しなかった。というよりそ死を覚悟するにはその瞬間は短すぎた。頭の中にはどうでもいいことばかり。山刀を振り上げた男の細部ばかりがよく見えた。
突然、その男の左側頭部に二本の金属が生えた。男の首が右に折れ曲がり、飛び出してきた勢いそのままに、右に体をひねりこんで地面に突っ込むように倒れた。魔理沙も男と同時にしりもちをついた。男の頭に生えたように見えたものは二本のナイフの柄だった。
◇◇◇
男の頭を踏みにじるように足を掛けてナイフを引き抜いた咲夜を見上げて、まず口から出た言葉は何だったか。なにかどうでもいいことを口走った気がして、なんとなく恥ずかしかった。咲夜はちらりと魔理沙を見た後、すぐに視線をはずし、周囲を見渡していた。助かったとか危なかったとかそんな感慨も沸いてこず、咲夜が視線をはずしたのは、腰を抜かした自分を見ないようにしてくれているのだと気づいた時、なぜだか涙が出た。
両足と腰に力をこめて立ち上がると、魔理沙は一度鼻をすすり、三角帽子を目深にかぶりなおした。そうしてから、やっと、あの時考えたり思ったりしなければいけなかった事が頭に沸いてきた。あの男は魔理沙がレーザーを放つ前にすでに路上から退避していたこと。光速のレーザーから逃げられる人間なんかいないと高をくくっていたこと。自分はただの人間じゃない、優れて力ある、あたかも特別な人間なんだと無意識に考えていたらしいこと。自分の目の前で地面に突っ伏している人間は、闘志や、気概で魔理沙に立ち向かっていたわけじゃないこと。彼が持っていたのは、ただ殺意だけだったこと。自分は殺意ある人間を前に無力だったこと。幾度も真剣な闘争の中に身を置いたが、自分がいままでに殺意と言うものにさらされたことがなかったこと。いろいろ考えてから「今はじめて、そんなことに気がつくなんてどーかしてるぜ」と思った。
魔理沙の後方から襲ってきて、弾幕を食らった数人は(魔理沙は人数さえ確認していないのだ)すでにいなかった。咲夜は、魔理沙に飛びかからんとしていた男にナイフを放ったとき、なにかが逃げ去る気配を感じたと言うから、そのときだろう。襲撃者たちは咲夜を確認すると、魔理沙に肉薄した一人を見捨ててさっさと逃げ出したのだ。それがまた魔理沙を陰鬱とした気分にさせた。なめられた、と感じていた。「私なら殺れそうだけど、咲夜はおっかないってかクソ」
もはや魔理沙の心はずたずたで、後悔とか羞恥とか怒りとかが次々に沸いてきて、一刻も早く咲夜の前から逃げ出したかった。咲夜が自分を救った。命の恩人だと言う事実が、なんとか魔理沙を踏みとどまらせていた。そうして立ち尽くしている魔理沙に咲夜がやっと声を掛けた。
「シャベル……取りに行くわよ。あなたも一緒に」
「……おう」
魔理沙一人残して咲夜だけシャベルを取りに戻るのは考えられなかった。襲撃者の大半は逃げたとはいえ、そう遠くない場所にいるはずだった。
「まったく、今日は何度往復しなきゃいけないのかしら。それもシャベルかついで」
はぁ、とわざとらしく大きくため息をついて言うも、魔理沙からいつもの軽口は返ってこない。結局無言のまま、紅魔館の物置に至り、無言で取って返し、無言で掘った。今日二体目の死体の前に戻ったとき、ぱらぱらと雨が降り出したせいで二人とも泥だらけになりつつ掘った。やっと穴の中の死体に土をかぶせ終わったとき
「今日は紅魔館に泊まんなさい」
と、咲夜が口を開いた。
「いいよ、帰る。帰って寝る」
「いいから。そんなんじゃお風呂も億劫でしょ? 紅魔館ならすぐお湯使えるわ。泥だらけでベッドに入るつもり?」
咲夜に引きずられるように魔理沙も飛び立った。シャベルは二本とも魔理沙の箒に引っ掛けた。咲夜の労力を少しでも減らさないといけない気分だった。そんなことで命を救われた借りは返せないとわかっていたけれど。
「魔理沙、今日のことは忘れたほうがいいわ。きれいさっぱり忘れたほうが」
「忘れられるわけないだろ。…こんな、だせぇの」
「ださいとか、そんなので言ってるのじゃないのだけれど」
魔理沙はさっきの戦闘を思い出している。すぐにわかる沢山の失敗があって、おまけに自分は阿呆かと思うほどに慢心していた。ダサい以外の何者でもない。
「結局、私は経験不足なんだ。それも実戦経験て奴が」
尻餅をついたのもそのせいだ。あれが一番ダサい。
「そんなもの無いほうがいいわ」
咲夜がぴしゃりと言ったから、魔理沙は少し驚いた。経験はあればあるほうがいいに決まってるだろう。と思ったが口には出さなかった。
紅魔館にはすぐついた。魔理沙は誰とも会いたくなかったから、窓から直接咲夜の部屋に入った。咲夜の部屋に入るのは初めてだったから、本当はもっとまともな気分で来たかった。メイド長の部屋なんてそうそう入れる場所じゃない。こんな気分じゃ家捜しする気にもなれんと残念な気分だ。
「そこ、バスだから。シャワー浴びてらっしゃいな。赤い印の蛇口をひねれば、お湯が出るわ」
さすがメイド長の私室。バストイレ付なのだ。しかも魔理沙が心底驚いたことに蛇口をひねるだけでお湯が出るという。ついでにシャワーという設備も魔理沙には初体験だった。お湯を頭の上から浴びると言うのはびっくりするくらい気持ちよくて、そんなことで自分の陰鬱な気分が解消されていくのが悔しいような恥ずかしいような不思議な気分だ。石鹸も普段魔理沙が使ってるようなものではなく、花のような香りがした。
結局、シャワーからあがった魔理沙は心底すっきりしていたのだ。「なんてこった。自分が現金な性格なのは自覚していたが、ここまでとはなー」と鼻歌まで漏れそうだ。タオルもいままで使ったことがないような、ふかふかのタオルだ。バスローブを着るように言われたが、下着を着けずにものを着るのは変な気分だった。
「あら、すいぶんさっぱりしたわね」
「いやー、さすが金持ちは違うな。これからは本とお茶だけじゃなくてシャワーも頂いていくぜ」
魔理沙の軽口を聞いて咲夜はくすりと笑って、バスルームに入っていった。八畳ほどの部屋を見渡してみると簡素なベッドにサイドテーブル、備え付けのクローゼットに小さな洋服箪笥。そして中央のテーブルに紅茶とサンドウィッチが用意されていた。咲夜は食べろともなんともいっていなかったが、もちろん魔理沙は躊躇せずに頂いた。一人で使うには広い部屋なのにランプは二つしかないから、部屋はほの暗い。少し手持ち無沙汰になって「やはり、家捜しして弱みのひとつでも握っておこうか」などと不遜な考えがむくむくと沸いてきたときバスルームの扉が開いて、タオルを首に引っ掛けただけの咲夜が出てきた。
◇◇◇
「おい、なんか着ろよ…」
「バスローブひとつしかないのよ。それに見せたいものもあるし」
見せたいものがあるから、素っ裸でいるとはどーいうことだと、喉まで出かかって飲み込んだ。
ほの暗い明かりに照らされた裸体は、魔理沙の眼前に平然と移動してきた。ここで恥ずかしい妄想をしなかったら十代の少女とはいえない。いや、男女関係なくこのシチュエーションでこれから起こるであろう事柄に頬を染めない人間はいないのだ。無論、魔理沙も考えた。
全裸のメイド長は自分の左わき腹を指し示した。
「ここ。刺されたの。背中まで貫通してるわ。もう少し上だったら肺を貫かれていたでしょうね」
左の鎖骨の下を指差す。
「これは銃で撃たれたの。あなた達は銃なんて火薬で鉛玉を飛ばす、つまらない武器って思ってるでしょうが、そんな生易しいものじゃないのよ。銃弾は人体に入った後、めちゃくちゃに動いて周りの肉をぐちゃぐちゃにするの」
右足の付け根、内腿。
「これはナイフね。少しずれてたら大動脈を切られて失血死してたわ」
「なんで私がまだ生きてると思う?」
「何でって…そんな目にあっても最後は勝ったから、だろ…」
「『勝った』…じゃないのよ。『殺した』よ。生き残るのと殺すのは同義よ」
「これがあなたが言った『実戦経験』て奴よ。どう? こんな経験したい?」
魔理沙はどう答えていいのかわからない。勝つと殺すが同義なる世界がわからない。
「ここに来てからの傷は……」
「ないわ。ここは幻想郷だもの」
咲夜は幼い頃から人の殺意にさらされて生きてきた。そのことに慣れ切ってしまってから幻想郷にたどり着き、そこの秩序を知った。まるでおとぎの国だと、最初はそう思った。正確に言えば、今もって自分がいる「この世界」を信じきれずにいる。敗者が死なない世界。それは咲夜にとって心の片隅にふとした時ぼんやりと浮かび上がる夢想で、絶対にあり得ないはずの世界だった。夢想はいつの間にか、殺すことを躊躇わない、躊躇えない自分が清浄なこの世界を汚して回ってる、というものに変わっていた。
自分もこの世界に生まれていたら、この魔法使いやあの巫女のようになれていたのだろうか。
◇◇◇
翌朝、魔理沙が目を覚ますと、同じベッドで寝ていたはずのメイド長の姿はすでになかった。サイドテーブルには綺麗に畳まれた魔理沙の一張羅が置かれており、テーブルには朝食がほしいなら部屋で待っているようにとのメモと温くなったコーヒーがあった。砂糖とミルクをたっぷり入れたコーヒーを啜って、着替えると、この部屋に来たときと同じように魔理沙は窓から飛び立った。黙って帰ることについて何か書置きをしようかとも思ったが、柄じゃないと思い直した。
咲夜と顔を合わせるのはなんだか億劫だった。彼女が魔理沙を大事にしてくれているらしいことは、昨日の夜に十分気づかされたし、魔理沙も彼女の「忠告」を疎んじたわけではないが、なんだか今まで近しいと思っていた存在が一夜にして永劫の距離に遠ざかってしまったかのように感じていた。
果てしなく面倒だったが、昨日の後始末をしなければならなかった。人里の自警団の番所で事件のあらましを伝えると一刻ほども待たされた後、大八車を引いた集団を死体まで案内し、そのあと番所に戻って詳しい事情を取り調べられ、ようやく開放されたのは夕方になってからだった。魔理沙を取り調べたのは不健康そうな顔した太った中年の男で、口調こそ丁寧だったが魔理沙の話すいちいちを不信の目で見てきた。魔理沙は勘当されたとはいえ、霧雨のお嬢さんで、魔法を使う異能者で、けれども二十歳にもならぬ可憐な小娘で、妖怪と親しく付き合う異人で、人間社会を捨てた隠者でもないのに社会になじまぬアウトサイダーで、早い話が、理解不能と言う点で、人里の多くの人間にとって妖怪より奇妙な存在だった。それを魔理沙は自覚しているから、腹は立ったが自業自得だと諦めることができた。
「符」のことは言わなかった。
精神的にぐったりと疲れた魔理沙は「このストレスを一人で解消しようと思ったら、私は魔法の森を火の海にしてしまうかも知れん」とつぶやき、ふわりと、何故だか恋しくてたまらない神社に向けて飛び立った。
◇◇◇
「なぁ。あのメイドはさぁ、なんなんだろうな」
出された茶を啜りつつ魔理沙が自問するかのように言う。茶は来客用の上級品だった。いつもは元気一杯でうっとおしいくらいに溌溂とした魔法使いが、力なく母屋の庭に降り立ったのを霊夢は見ていたから、「ははん、さては誰かにコテンパンにのされたな」と思い、めずらしくしょげる友人を肴に旨い茶を飲もうとわざわざ開けたのだ。 魔理沙はなかなか本題に入らず、調子はどうだとか、秋になったのに暑いとか、ひとしきりどうでもいいことをこぼした後、先のよくわからない問いを発したのだった。メイドと言えば咲夜のことだと言うのは霊夢も了解している。
「何ってなによ?」と聞き返しつつ、霊夢ははてと思う。魔理沙は少なくとも弾幕勝負なら咲夜に一方負けするほど力量差があるとは思えなかった。そうしてようやく、魔理沙は昨日のことをぽつぽつ喋りだした。
「腰抜かして、尻餅ついたんだ。ダサいわね」
「ああ、ダセえ」
魔理沙も弾幕勝負で、人間をはるかに凌ぐ妖怪共と肩を並べてきた勝負師の端くれである。自分の弱みや恥は精一杯隠すが、なぜか霊夢には自分から喋ってしまうのが常だった。
「なりたいの? 咲夜みたいに」
「わからん。というか、私にはたぶん無理だ」
「珍しいわね、端から無理なんて言うの」
「私はトライ・アンド・エラーを積み重ねるタイプだからな。トライしてだめでした、はいお終いはきびしいな」
「だから咲夜は古傷まで見せたんでしょ」
古傷を見せる咲夜が全裸だったことは言ってない。
「あいつ、凄い奴だったんだなぁ」
「置いてかれた気分?」
「実際は近づいてさえいなかった」
「……そんなこと、無いわよ」
初めは笑ってやるつもりだったのに、あまりにらしくない態度が続いて逆に腹が立ってくる。いや、ある意味らしいのか。魔理沙は人の長所を見つけるのが実は上手いし、そこに素直に感心できる。今回は自分のダサさと相俟ってどつぼにはまっているが。
「あんたねー、らしくないわよ。大体あんたが言ってるのってただ得意分野が違うって言うだけじゃない。おまけに咲夜の得意分野はここじゃめったに活きないって事でしょ? なに凹んでんのよ」
なんで自分は笑ってやろうとした相手をフォローしてるのか。
「むぅ。そういう考え方もあるか。まぁ……ぶっちゃけて言うとさ……かっこよかったんだよ」
「あっそう」
ああ、そうかと思った。魔理沙は自分で言った言葉に自分で納得した。
「へへへ……霊夢も、かっこいいぜ」
「あっそう」
にやける魔理沙。そういうことだったのだ。昨日、自分はダサくって、咲夜は格好よかった。それだけなのだ。それなら格好良くなってやろうじゃないか。
「吹っ切れたみたいね」
「見透かされてるみたいで、悔しいがその通りだ。さすがは博麗の巫女」
「巫女は関係ないでしょ」
茶のおかわりを淹れに霊夢が席を立つ。
「ああ、霊夢。私はもういいよ。そろそろ行くわ」
「あらそう」
「今日のお茶、あれいいやつだろ? 私が凹んでるの見て、わざわざ開けてくれたんだろ。ありがとな」
実際いいお茶だし魔理沙が凹んでいるのを見て開けたが、目的は違うと言おうとしている間に、復活したらしい魔法使いは庭に出て箒に跨ってしまっていた。
「まぁいいけど」
霊夢が思ったように話は進まなかったが、茶は思ったとおり旨かった。
◇◇◇
「やぁ、魔理沙さん。紅魔館へようこそ」
翌日、魔理沙は日が傾くのを待たず、真昼間から紅魔館へ飛んだ。めずらしく門番は起きていた。紅魔館の門番である美鈴は、館を訪れる人々から昼寝ばかりしていると思われているが、実際のところそんなことは無い。無いのだが、起きている時は庭園の花に水をやったり、湖の妖精をあしらっていたり、門番隊の部下とお喋りをしていたりするので、門前に立っていて且つ起きているというのは、やはりめずらしい部類に入ってしまうのだった。
「それで、今日はどちらですか」
「今日はパチュリーに話があるんだ。だから客だ」
どちらというのは客として訪れたのか、ネズミとして来たのかということだ。魔理沙の窃盗対象である、図書館の本はパチュリーの持ち物であるから、彼女と話をしなければならない時は、必然的に客とて門を通らざるを得ないのだ。「しかし、盗む盗むとよく言われるが、私にとっては借りているだけだから、私は盗人ではない。実態は盗みだろうと言われても、抵抗されるのを押し通して奪っているのだから、実態に即すならば強盗か強奪と言ったほうが正解で、やはり、私は盗人ではない」と、よくわからないことを考えつつ、魔理沙は門を越えた。
「今日は咲夜さんがいないので、お茶は期待できませんよ」
と、美鈴が後ろで言っている。
大図書館の扉を開けると、魔理沙は慎重に、わざと足音が響くように歩き出した。忍び込むのでなければ、図書館の主は大概に魔理沙を受け入れてくれるのだ。奥の大机から図書館の主の不機嫌そうな声が響く。視線は手元の本に落とされたままだ。
「うちの番犬はどうしてこう無能なのかしら」
「残念ながら、もう私が二匹とも飼いならしてしまったからな」
「二匹とも? 館内にいるほうを飼いならすのは難しいと思うけど」
「残念、昨日飼いならした。今じゃ同じベッドで寝る仲だ」
ぴくりと眉を上げて、ゆっくりと魔理沙に視線をうつす。
「……冗談よね、それ」
「さぁ、どうだろうな。あとは図書館の主を堕とせば、ミッションコンプリート。晴れてここの本は私のものってわけだ」
どかっと音を立てて客用の椅子に腰を下ろす。
「……何のよう」
心なしか、パチュリーの声に警戒感が混じっているのに快感を覚えつつ、魔理沙は昨日手に入れた「符」を親指でパチュリーに向けて弾いた。「もっとからかってやってもいいんだが、今日はやることがあるしな」
弾かれた「符」は、まるで見えない網に絡めとられたように空中で速度を落とし、ふわりと図書館の主の手に収まった。魔理沙は昨日の夜、それを調査しようとしたのだが、どうにもとっかかりを掴めず、ここのに来るしかないと考えたのだった。
「材質はただの鋼ね、魔力妖力の類は感じられないわね」
「自分で調べようと思ったんだが、どうにもなんなくてな。文字も見たことないし、魔法もこめられてないし、仕方がないから碩学のご厄介になろうと言うわけだ」
パチュリーはすでになぞめいた「符」に興味津々だ。魔法使いってのはみんな一緒だなと魔理沙は思う。見れば拡大鏡を持ち出して、表面に刻まれた文字らしきもを精査しているらしい。
「その文字は何語だ? わたしはそんな文字見たこと無いぞ」
「私も知らないものね。感じは神代文字に似ているけど」
「パチュリーも知らない文字があるとは恐れ入った」
「ないわ」
「は?」
「だから、私が知らない文字なんてないわ」
「じゃぁなんだ、それは文字じゃないのか?」
「狭義で言えば、これは文字ではないわね」
「わけがわからないから、詳しく頼む」
「文字と言うのは、ある社会で共通認識の下、情報を記録し伝えるために用いられるものよ。つまり程度の大小はあれ、普遍性を指向するわ。これは逆に他者から情報を隠すために作られたものよ。方向性が逆なのよ」
「……つまりなんなんだ」
「暗号の類よ。まるっきりの出鱈目じゃないならね」
パチュリーは「符」に刻まれた暗号文字を一字一字、紙に書き写している。
「あなたも魔法使いなら、暗号解読くらいするでしょうに。こんなもの私に頼むようじゃまだまだね」
一言も頼んでない。魔理沙は「符」をパチュリーに見せただけだ。というのはもちろん言わない。
「魔道書の暗号はこれ見よがしだし、普通の部分はラテン語で書かれてるから、読めない部分は暗号だってすぐわかるだろ。これは全部が全部その変な文字で書かれてるからな。暗号だなんて考えもしなかったぜ。私の知らん言葉だと思った」
「知らない言語ねぇ…。魔理沙これはどこで?」
そう聞かれて、魔理沙は昨日あったことをパチュリーに伝えた。ついでに現在この館に咲夜がいない理由は自警団に呼び出されて、事情聴取されているであろうことも。
「なら、知らない言語ってことはないでしょ。幻想郷の外から紛れ込んだなら可能性はあるけど」
喋りつつも、パチュリーの手は止まっていないし、そもそも「符」を受け取ってからは魔理沙を一瞥たりともしていない。時々、何かを指差し数えたり、拡大鏡を覗き込んだりしつつ、順調に解読は進んでいるようだ。
「咲夜らしくないわね。わざわざ死体を埋めていくなんて」
「らしくない…のか?」
「らしくないでしょ。放置すれば面倒もないのに。おかげで、自警団なんかに呼び出されて、面白くもない取調べを受けてるわ。そしてそのせいで出てくる紅茶はおいしくないし、お菓子は作り置きのクッキーになるし、良いことなんてひとつもないわ」
ちょうど彼女の使い魔が紅茶とクッキーをトレイに載せて運んできたところだった。
「せめて、口を付けてから言ってください…」
「必要ないわ。あなたが紅茶を入れる腕で咲夜に勝ることなんてありえないんだから。それにおいしくないとは言ったけど、不味いとは言ってないわ。ありがとう」
どうしてこう、他人を使う立場の奴は面倒くさい物言いをする奴ばかりなのだろうと、思いつつ魔理沙は小悪魔の紅茶に口をつける。死体を足蹴にしていた咲夜。魔理沙が何も言わなければ、本当に彼女はそれを放置して館に帰っただろう。魔理沙が死体に敬意を払わない彼女に怒気をぶつけたからこうなったのだ。
「面倒くさいことになったのは、私のせいだな」
「そんなことないわ。魔理沙がなにを言っても気にしなければよかったのよ。あの子がお嬢様、妹様の食事のために何をしているか、あなただって知っているでしょ」
「そりゃぁ……知ってはいるが」
知ってはいるが意識はしたくない事柄だった。咲夜は仕える吸血鬼の食事のため、人間の死体を解体している。そんな彼女に魔理沙は自分の倫理を押し付けたのかもしれなかった。
図書館の主である魔女は、まるで小動物のようにぽりぽりとクッキーを頬張っている。
「自分が何者であるか、忘れかけてるのよ、あの子は。忘れかけているから、魔理沙の言うことを聞いたんだわ。戒めとして」
自分が何者であるか忘れてしまう、とは昨日咲夜も言ってはいなかったか。軽口だと思っていたが実は彼女にとっては深刻な話だったのかもしれない。
「ところで、解けたわよ。これ」
図書館の主である碩学は、精一杯に背をそらし、さも涼しい顔で紅茶のカップを傾けている。いわゆるドヤ顔という奴だ。こういうときはおだてておくに限る。
「早いな。驚いた。さすがはパチュリーだ」
「単純な仮名の転写だったからね。これは祝詞ね」
「祝詞?」
「かけまくも、かしこき、かねやまの、おおかみの、おおまえに…。祝詞でしょ」
ふむ、今度は神社に行くべきか、しかし祝詞じゃ内容の詳細がわかってもしょうがないような気がする。
「金山の大神だから、金山彦神かしらね」
「しかし、祝詞じゃあなぁ」
「少なくとも、最初の死体は生前、金山彦神を祀っていたか、それに類する人だってわかるじゃない。それに祝詞なんて本来は暗号にする必要がないものでしょう? わざわざ隠そうとする理由は何かしら」
「ふーむ……」
さてどちらの神社に行こうかと、魔理沙は考えている。
◇◇◇
「それで、最初の死体を埋めた後、あんたは、館に帰ったんだな?」
「先ほども、そう申しましたが?」
番所の中で、咲夜は取調べを受けている。小さな机をはさんで一人、咲夜の背後に一人、出入り口を守るように、まるで急に咲夜が席を立って逃走しようとしても、ここで捕らえると言わんばかりに、一人。全員が自警団の中でも明らかに屈強な部類で、咲夜が彼らにどう思われているか、それだけでよくわかった。
「それで、十分もしないうちにまた、魔法使いの元に戻ったと。何故戻った。魔法使いも館に行くつもりだったなら客を放置して館に戻らんだろう。そうじゃないなら、館に戻ったそばから、再び魔法使いのとこに戻ったりしないだろう。あんたの行動は明らかにおかしい」
「館に戻ったのは、主が目を覚ます頃だったので、魔法使いの下へ戻ったのは…そう、虫の知らせですわ」
「虫の知らせで戻って、殺人か!」
眼前の男が怒鳴るが、咲夜は眉も動かさない。戻った理由は、無論虫の知らせではない。
あの夜、主の起床にぎりぎり間に合った彼女は、ベッドの上で上半身を起こし、いまだ覚醒しきらない主にこう言われたのだ。
「お前が、そうもおおっぴらに涙を流すのは、何年ぶりだろうな」
もちろん、そのとき咲夜は泣いていない。しかし彼女の主は涙を流す彼女を見たのだろう。その一言で了解した彼女は、主に危急の用ができたことを告げ、己の不手際を深く謝し、魔理沙の下へ飛んだのだった。
すべてを話すのはありえなかった。主の能力を説明するだけで何時間もかかるだろうし、そもそも咲夜とて主の能力をはっきりと理解しているわけではないのだ。話したところで信じまいとも思う。なら虫の知らせはそう悪くない言いかえだと思った。
「かの男は山刀を振り上げ、私の友人にまさに襲い掛からんとするところでした。双方の距離は一間(いっけん 約180cm)ありませんでした。正当防衛とは自己の危機だけに適応されるものではないと、そう存じておりますが、間違っておりますでしょうか」
「お前たちは魔法を使える。空も飛べる。そんな奴が地面を走ってくる奴に不覚を取ったのか?」
「私は取っていませんが、魔理沙はそうだったようですね」
「ありえんだろ。あり得ん!」
また怒鳴る。目の前の女が怒鳴れば怯えるようなたまではないことは、男も重々承知しているが、そのことがかえって男を苛立たせていた。
「お前な、自分はあの館の人間だから、俺たちは何もできないと。そう思ってるんだろうけどな、被害者は人間で、お前も一応人間なんだろう。こーいうのは人間が、俺たちが解決するんだ!だからな、お前の主がどう言おうと、俺たちはお前を罰することができるんだ」
呆れるしかなかった。男の中ではすでに咲夜に殺された男は魔理沙を殺そうとした殺人者ではなく、ただの被害者になっているらしかった。それにこの件に主は何の関係もない。
「まぁまぁ、まぁ修さん。落ち着こうや。二人目の死体の男な、あれはまだ被害者って決まったわけじゃないんだ。そうだろ?」
出入り口で壁に寄りかかっていた男が、こちらに近づきながら言った。眼前の男とああだ、こうだ、話しているが聞きたくもなかった。
あの時、主は涙を流す自分を幻視した。魔理沙を助けられなかったら、自分は涙を流していたのだろうか。流しただろうと自信を持っていえなかった。主が見たなら、それはたぶんそうなのだと、そうは思うが、しかし自分が、この悪魔の番犬が、三日とおかず明け方の厨房で人間の死体を切り分ける自分が、友人の死に涙を流せるだろうかと、疑わざるを得なかった。
◇◇◇
魔理沙は山の神社にいた。知識、という点では霊夢ははなはだ心もとない巫女なのだ。金山彦神を降ろすなら朝飯前かもしれないが、それを祀る人間について教えろと言って何か有益な回答がかえってくる可能性は、相当に低いと思われた。となると行き先はここしかなかった。境内は綺麗に掃き清められ、誰も居ない。
「たのもー!」
いや、こういう場合は「たのもー」じゃないかもしれん。と思いつつ、魔理沙が何度か大声で呼ぶと奥から早苗が現れた。
「これはこれは魔理沙さん、道場破りですか? いいでしょう、お相手します」
びしっと、妙なポーズをとった。
「いつからここは道場になったんだ」
「先ほど、魔理沙さんが『たのもー』と呼ばわった時からでしょうか」
「いや、他に思いつかなくてな。紅魔館なら門を吹き飛ばすんだが、ここの鳥居を吹き飛ばしたら後が怖そうだしな」
「それは神罰が下りますね、確実に。ところで、何のようですか、こんな所まで」
「うん、ちょっと神奈子に、諏訪子でもいいのかな、聞きたいことがあってな」
「ほほお、それは珍しい。では、こちらへどーぞ」
居間に通されると、多少大きめのちゃぶ台を前に新聞に目を落としている、ジャージ姿の神奈子が居た。一応この神社の主神である。
「神奈子様。魔理沙さんが何やらお尋ねしたいことがあると、お出でですよ」
「やぁ魔理沙、久しいな。この前の宴会以来かな」
「そうだったかな。ちょっと聞きたいことがあってな」
早苗に出された座布団に座る。
「えーっとだな。金山彦神ってのは、どういう神様だ?」
「いきなりだな。まぁ時候の挨拶が来るとは思ってなかったが。……そうだな、迦具土を産み、苦しむ伊邪那美の吐瀉物から生まれた鉱山製鉄冶金の神だ。というのが一般的な回答だな」
「一般的な、ということは実際は違うと?」
「いや、違わないのだ。事実そうでもある。鉱山鍛冶冶金とそれぞれが近しいからわかりにくいのだ。…そう、我がことで気恥ずかしいが私は、風の神であり戦の神でさらに農耕神であり、狩猟神でもあり、冶金に製鉄、はては海上交通の神でもある」
「は? そうなのか? というか凄いな何でもありじゃないか。もう神奈子一人で何でもオーケーだな」
「そうなのです。神奈子様は凄いんです。えっへん」
茶を淹れて戻ってきた早苗が我がことのように胸をそらして答える。そういえばこいつも人間でありながら、神様でもあるんだったなと、魔理沙はいまさら思い出した。
「事実私はそうした神格を持ち、そうした祀られ方をしてきたのだ。が、私が考えるに私の本質は風の神で、あとの諸々は、私の神格の一面ではあるが後から来たものなのだ」
「ふむ?」
「洩矢神を負かしたという事跡から、戦神の性質を持ち、そこから武器の神、製鉄神の性格を得、風は雨を呼ぶから農耕ともつながり、無論風がすべての海上交通の神にもなる」
「ああ、つまり神奈子は戦そのものの神様じゃぁないが、強いんだから戦争でも加護があるだろうと、連想ゲームみたいだな」
「その考えは近いようで遠い。要は信仰する人がいるかなんだ。たとえば、うちの早苗がある日、何を考えたのか、八坂神奈子はシャベルの神であると、人里で吹聴したとしよう。」
「実際にしてもかまいませんよ」
「やめてくれ。まぁ例えだ。私が今持ってる神格と、シャベルは関連性が薄い。まぁ製鉄と若干繋がらんでもないが。しかし、早苗はうちの風祝でともに暮らす家族だ。その早苗が自信満々に言うのだからと、里の人々が信じて、そう信仰し始めたなら…」
「お前はシャベルの神になるわけか」
「そうだな。オンバシラの代わりにシャベルを装備することになるかも知れん。関連性は強ければ強いほど人々に信用されやすいだろうが、必須ではないのだ」
ずずっと音を立てて神奈子が茶を啜る。
「さて、金山彦神だが、その名から考えるにおそらく本質的には鉱山の神、金属そのものの神なのだろうな」
「鍛冶冶金は付けたしか」
「付けたしと言うな。そう言ってはいけないのだ。鍛冶の神だと考え、信仰する人がいる以上、やはり金山彦神は鍛冶の神なのだ。」
「ああ、すまん。そうだったな」
魔理沙も早苗の入れた茶を啜る。「ふむ、そうなるとこの娘はいったい何の神なんだろう。果物の神か、天然の神か、はたまた宝船の時の事を考えるなら狩りの神か。まぁ私にはどうでもいいんだが」頭の片隅で、くだらないことを思いつつ考える。金山彦神が鉱山製鉄冶金の神なら、祀っているのはその関係者だろう。魔理沙は鉱山製鉄冶金の関係者といわれても、鍛冶屋しか思い浮かばず、かといってあの死体の男が鍛冶屋の親父だとは思えなかった。「鍛冶屋の親父が何故、殺されなきゃいかん? 丈に合わない借金でもこさえたか?」
「ふーむ、本質は鉱山の神か」
「しかし、魔理沙。なぜこんなことを聞きに来た? お前らしからぬ質問だな、これは」
「あー、実はな…」
と、図書館でも同じ説明をしたのだ。いい加減面倒くさくなって、一人目の死体の発見と靴の中から「符」を見つけたこと。パチュリーが暗号文字を解読した事だけを言った。
「ふむ。見慣れぬ文字を使う、金山彦神の民か、なるほどなるほど」
と、神奈子は一人で納得している。魔理沙が自分にも教えろと声をあげる前に、神奈子が問いかけてきた。
「魔理沙は人里の出だろう?」
「ん、なんだいきなり。まぁ……そうだよ人里生まれだ」
魔理沙が答えにくそうに言う理由を、まだ神奈子は知らない。
「魔理沙も包丁くらいは使うだろう?」
「なんだ話が飛ぶな、人里はどうなった」
「まぁ、いいから答えなさい」
「そら包丁くらい使うよ」
「その包丁はどこから買った?」
「里の鍛冶屋かな? たぶん」
「鍛冶屋は何から包丁を作るかね」
「鉄から。……ああ、そういえば鉄掘ってるのは誰だ?」
言われてみれば気にしたことさえなかったのだ。人里に住む人間に鉄を掘って暮らしてるものなど居ないのだ。いないから気づかなかった。
「つまり順当に考えるなら、あいつは人里に住まない鉄掘りの一人ってことか」
「掘るといっても、砂鉄だがね。こう、山の土砂をね、水に流して。砂鉄だけ沈めて集めるんだ」
鉄製品が流通しているのだから、鉄を掘ってる人間が居るはずなのだ。当たり前だが思い至らなかった。魔理沙は人里とそう色濃い繋がりがあるわけではないが、それでも、人が住んでるのは人里と、そこ以外に住まう人々のことをすっかり失念していた。空を飛んでいれば、確かに人里から離れた場所にも田んぼがあって、あちらにぽつぽつ、こちらにぽつぽつ、農家の集落があるじゃないか。山から炭焼きの煙が昇るのだって目にしているのだ。しかし、そういう人々のことは忘れていた。
魔理沙は幼い頃の記憶をたどる。母親に手を引かれてついていった大市で見た四五人の男たち。みな真っ黒に汚れた着物を着て、警戒するように周囲に視線を送っていた。どことなく卑屈な印象があった。
「ありゃ、山の奴らだ」
道行く人がそう言ってるのが聞こえた。それ以上は思い出せなかった。
「山の奴ら……か」
魔理沙が何かを掴んだ様子を見て、神奈子は満足げに茶を飲む。自分を頼ってきた人間を救えたのだから神様冥利に尽きる。
「力になれたかな?」
「ああ、大いにな。サンキュー神奈子。私はこれから守矢神社の信徒になるぜ」
「うむうむ、よいぞ。信心せよ人間」
礼もそこそこに、魔理沙は箒を持って立ち上がった。その忙しない様子に苦笑しつつ神奈子が魔理沙の背に言った。
「余計なお節介だと思うが、魔理沙。注意したほうがいい。その符はだいぶ人の念を吸っている」
「念?魔法妖力の類はこもってないだろ?」
「ふむ、魔法使いには通じんか」
そういって、はっはっはと神奈子は笑った。魔理沙は「なんのこっちゃ」と気にしないことにした。
◇◇◇
「困ります、それは」
「そう言われても、こっちも困っていてね」
どうやら人里の自警団は、このまま咲夜を拘禁するつもりのようだった。証言に納得いかないという理由らしい。
「事実はあなた方を納得させるために在るわけではございません。あなた方が納得しようがしまいが事実は事実なのですが」
もう夕暮れだが咲夜はこの番所に来たときのまま、まったく疲れも見せないし、落ち着いた態度も変えない。感情を見せない冷徹な物言いも変えていなかった。
「そう喧嘩腰で言われても、死体が出てますから」
別に喧嘩腰ではない。ではないが、彼女を前にすればどうしても皆、彼女の刺す様な挑発的な視線から逃れつつ話をすることになるから、そう受け取ってしまう。
「正当防衛だと何度も言った筈です。魔理沙の証言とも一致しているのでしょう」
口裏を合わせたのだろう。とは言ってこない。どうやらこの男たちは咲夜を殺人者にするのはかまわないが、魔理沙を巻き込みたくはないようだった。「私が唆した。とかそんなとこになるのだろう」と咲夜は考えていた。
「今朝、あなた方が、館にみえた時に、日暮れまでには帰館できると、そう約束していただいたはずですが」
「それは、まぁ、誰が言ったのか知りませんが…」
「約束は守れないと? ならば私もここでおとなしく座っていると、お約束できませんが」
ぎらりと目が光るという言い方があるが、本当に目がぎらりと光るとは、男は思っていなかった。寒気がして背が粟立った。あるいは己の内の彼女を恐れる心が、そんな幻を見せたのかもしれなかった。
「…失礼。いま、代わりのものが来ますから」
そういって男は立ち上がると、慌てたように部屋から出て、出入り口の外にたむろする同僚の誰かに代わってくれと頼み込んだ。誰もが迷惑そうに顔を背け、男が勘弁してくれと小さく叫んだところで、別の同僚がやって来て、「おい、稗田が来たぞ」と言った。
「お久しぶりです、咲夜さん。その節はお世話になりました」
目の前にちょこんと座ったのは和装の少女。確か名は稗田、下の名はなんといったか、前に会ったのは取材と称して紅魔館に来たときだったはずだ。本を書いているとか聞いた覚えがあった。物書きが取調べ中の参考人に何のようだろうか。これも取材なのか。
「失礼ですが、どのような?」
「あれ? もしや忘れられてしまったでしょうか」
「申し訳ありませんが、ご来意がつかめません」
「これは、こちらこそ失礼致しました。私はものを忘れられない性質なので、つい相手さまも覚えているものと、そう思って行動してしまうのです」
「では改めまして、私は稗田阿求と申します。私はこの幻想郷の諸々を記録にとどめ、未来に伝えていく宿命をおったもの。初代、阿一より始まり、私で九代目となる当代の阿礼乙女でございます」
「はぁ、その稗田さまが、私に何か…?」
「私は見知ったことを忘れぬ能力を持ち、死ぬたびに次代の阿礼乙女に転生いたします。こうしたために私の身分は人の身でありながら、彼岸の是非曲直庁にあります。まぁ一種の不逮捕特権があるのです。自警団はあなたをここで逃がしてしまうと、仮に何かあっても、もう二度と手出しができなくなってしまうと、それを恐れています。が、同時にあなた自身とあなたのご主人様のことも恐れています」
「はぁ、それで?」
いくつだろう。お嬢様よりは幾分背は高いだろうか。なんにせよ十を一つ二つ過ぎたばかりに見える小娘が、小難しい言葉をよく喋った。
「ですから、私の特権により、あなたの身柄を一時、是非曲直庁預かりということにしてはどうかと、こういうわけです」
「それは、私の意志や意見が関係する事柄なのでしょうか?」
「ええと、お屋敷にお戻りになりたいのでは?」
「それはもちろんです。お嬢様の起床時間が迫ってますので。しかし、彼岸の閻魔まで出てきて私を助けるというのは、いささか信じがたいことですし、どちらが良いかなど、それこそお見通しなのでしょうから、私の意志など関係なく、良いほうを取られればよいのでは?」
「ご心配なく。この件は閻魔様は関係ありません。私の一存です。それに私が助けるのは、咲夜さんではなく、自警団の方々ですね。彼等はいま自らの組織の存在意義をかけた葛藤の渦中に居ます。人間同士のいざこざだから自分たちで何とかしなければならない。けれども咲夜さんを捕らえておくだけの能力がない。逃がせば手が出せなくなるばかりか、もしかすると更に犯罪行為を重ねるかもしれない。けれども咲夜さんは怖い」
物書きのはずなのに、意外な話術である。まるで怪談を話すように「咲夜さんは怖い…」と凄むのだ。咲夜は少し可笑しくなって、くすりと笑ってしまった。
「そんなに脅したつもりは無いのですが」
「いいえ、彼等は怯えてます。失禁一歩手前です。ですから、よろしいですね? もっとも嫌だといわれてもそうしますが、彼等のために」
「ええ、ではよろしくお願いします」
「心得ました。あと、一応是非曲直庁の名を出すので、明日で構いませんから私にも事情を教えてください」
と、言って自警団の幹部だか頭領だかの痩せた背の高い軟弱そうな中年男を呼んだ。
「では、この九代目阿礼乙女、稗田阿求が是非曲直庁の権限のもと、この件の参考人、十六夜咲夜の身柄を預かります。今後、この件が進展し、彼女の逮捕が必要な事態になりましたら、是非曲直庁が逮捕し、自警団に引き渡します。また、逆に彼女の疑いが晴れる事態となりましたならば、自警団から私にご一報ください。よろしいですね?」
その後、手形を取られたり、書類に著名したり、なんやかんやと手間が掛かった。書類に筆で著名させられたのがもっとも嫌だった。ペンは持ちなれているが、筆でものを書いたのは記憶の限り初めてだった。いらぬ恥をかかされたと思った。
阿求に礼をいうと、「私は見たもの聞いたものだけでなく、実は食べたものの味も覚えているのです。あの時ご馳走になった洋菓子は、歴代阿礼乙女の口にした、いかる食物より甘美でした。今度お邪魔するつもりなのでよろしくお願いします」満面の笑みで言ってきた。前見たときも、こんなによく喋る、可愛い娘だったろうかと、思い出そうとしたが、咲夜の記憶力は阿礼乙女にだいぶ及ばないようだった。
結局、咲夜が開放されたのは日が完全に暮れてからだった。もはや、主は起床どころか朝食も終えているだろう。二日続けて主の起床のお世話を怠ることになって気が咎めた。
◇◇◇
翌日、咲夜は焼きたてのパウンドケーキのはいったバスケットを手に、稗田邸に向かって飛んでいた。本当はもっと手の込んだものをと思ったのだが、時間のなさから諦めた。今朝、寝る前の主の機嫌は悪かった。自分の本分をよく弁えろと、それだけ言われた。クビになったら人里でケーキ屋でも開こうと思った。なにせ自分が菓子を作って持っていけば、人間妖怪にかかわらず知り合いは皆一様に表情から変わるのだ。糖分に勝てる少女などいないのだ。
挨拶をして来意を告げていると、奥から阿求が現れた。
「おはようございます、咲夜さん。さすがですね。素敵です」
何がさすがなのか、何が素敵なのかさっぱりわからなかったが、阿求の目はバスケットに釘付けだった。クビになったら、ここで働くのも悪く無さそうだと思った。
阿求の居室に通されると、先客がいた。
「あなたも、呼ばれたの?」
「いんや、私は別件で阿求に聞きたいことがあってな。…んで阿求に聞いたんだが、面倒くさいことになってるみたいで、悪いな」
「面倒なのは確かだけど、魔理沙は悪くないわ」
「……あとさ、ありがとな。助けてくれてさ」
「その件の礼はお嬢様になさい」
「レミリアに?」
日本茶とパウンドケーキを盆にのせて阿求が部屋に戻ってきた。足で襖を閉める。
「さぁ咲夜さんのお菓子が来ましたよ!いただきましょう」
「時間がなくて、あまりこったものができなくて……」
「良いのです。洋菓子というだけでも価値があるのです」
うれしそうにケーキを頬張る阿求を見ていると、話を進めて大丈夫だろうかという気になってくる。
「ああ、失礼しました。久々の洋菓子でしたので。それじゃぁ咲夜さん、お話していただけますか? 一昨日の事件」
「先に来た私は後回しか」
「無論です。糖分は偉大なのです」
よくわからない理由で魔理沙が後に回されたので、咲夜は話し飽いた事件をまた、話し始めた。一人目の死体を埋め、紅魔館に戻った咲夜が魔理沙のもとへとんぼ返りする段で、魔理沙が口を挟んだ。
「なぁ、ずっと気になってたんだが、あの時、何で戻ってきたんだ?」
「そうですね、そこはやはり気になりますね」
「番所では『虫の知らせだ』といいましたが、実はお嬢様に仄めかされまして…」
「ふむ、レミリアさんが? なんと仰ったんですか?」
「それは……」
「ははぁ、言いたくないみたいですね。ふふふ、どうしましょう魔理沙さん」
なぜか面白そうに身を乗り出す阿求。
「なんで私に振るんだよ。まぁ言いたくないならいんじゃないか。本筋には関係ないし、レミリアが何言ったって咲夜が戻ってきたのは事実なんだし」
「ふふふ、きっとなにか麗しい会話が主従で交わされたんでしょうね。まぁいいでしょう。そして、戻った咲夜さんは窮地の魔理沙さんを救い、またシャベルを取りに紅魔館へ。このときはお二人で行ったんですよね?」
「そうです」
「ふーむ。まぁ自警団も何も手掛かりがないので、咲夜さんを手放したくなかったんでしょうが。根拠薄弱ですねぇ。なにせ死体の身元も判ってませんからね」
「やっぱり、里の奴じゃないのか」
「ええ、違います。遺族が隠してたとしてもすぐにばれますからね。違うでしょう。里の人間じゃないとなると、もう身元は割れないでしょうね。今日中に埋葬されてしまいますし。というか魔理沙さん『やっぱり』とは?」
「あー…、実はな私の聞きたいことってのも、それ絡みなんだ。んで、これだ」
と言って魔理沙は「符」を机に置いた。初めて見たとき神秘的な色に輝いて見えたそれは、今は別の、すこしくすんだ色合いで暗い影を帯びて見えた。
「なんでしょう、これは。護符の類ですかね」
「何かはよくわからん。ただそれは一人目の死体の持ち物なんだ」
「ええ…。魔理沙さん、これ番所で言いましたか?」
「言ってない。黙ってた。どうせあいつ等にはなにもわからんだろうしな」
「それは、不味いですよ。さすがに…。咲夜さんはご存知でした?」
「いえ、今初めて。魔理沙らしいわね」
「あいつ等が持ってるより、私が持ってるほうがいいんだって。あいつ等じゃ里の外の事はどうしようもないんだろ? それは山の人間の持ち物だぜ」
「山の人間? と言いますと?」
「あー、私もよく分かってるわけじゃないんだが、それは山で鉄掘って暮らしてる奴らの物らしい」
「ああ、そういう意味ですか…。魔理沙さんが、私に聞きたかった事というのはこれ絡みですか」
「うんむ。どこに住んでるんだ」
「さぁ……私には分かりかねますが」
「ええ。知らないのかよ」
「存じません」
「参ったな。鍛冶屋の親父も知らんて言ってたぞ」
「そうですねぇ。彼等は昔は山内者(さんないもの)とか呼ばれていたそうですが、今では山の奴等とか、そんな風に呼ばれてますね。ええと、決して不可触民というわけではないのですが、なにぶん生活習慣が違うもので、里では避けられてると言うか……。もちろん商取引はあるんですが、無関心と言うか…」
「無関心なのは阿求も一緒だな」
「ごもっともです…面目ない」
「空から探すのは大変だろうなぁ」
咲夜は庭に遠い視線を向けている。彼女は昔を、まだ今の主に出会う前を薄っすらと思い出していた。
「ここにも……。幻想郷にもいるのね。そういう人たちが……」
楽園にも人が住む以上社会があり、階層があるのか。
「幻想郷が閉じる前は、鉄なんかは外から得ていたはずなんです。外の世界の古書には『一国一山たるべし他の指揮におよばず』などとあるので、一つの国に大規模な製鉄集団が一つと言うのが、普通のようです。幻想郷は狭い土地ですから、この地にそうした大集団がいたことはないのでしょう。過去の縁起にも言及がありません。ですから、推測ですが、幻想郷が閉じるに際して、製鉄の技能を持った極々小さな集団が、外から移住させられたのではないでしょうか」
「来歴とかは、どうでもいいんだけどなー」
阿求は、うぅ…と唸ってる。山地に隠れ住む人々。おそらく採取精錬した鉄を里で売り、換わりに米酒味噌などを得ているのだろう。彼等がどこに帰るのか気にするものはいない。そんな人里の人間に彼らのことを訊くのが間違っているのだ。
「魔理沙。彼等がどこに居るのか尋ねるなら、ここじゃなくて、里の外の集落を周ったほうがいいんじゃないかしら」
「あー、まぁそーだなぁ。しかし、鉄買い取ってる鍛冶屋の親父まで知らんとはなぁ」
「私も、魔理沙の家がどこにあるか知らないわ」
「今度教えてやるよ、んで風呂に入れてサンドウィッチも作ってやろう。私は借りは返すタイプなんだ」
「それなら魔理沙の体も見せてもらわないといけないわね」
「私はお前みたいな趣味ないんだが、まぁどうしてもと言うなら」
と言って魔理沙は笑った。阿求はフォークをくわえたまま固まっている。
◇◇◇
そうして、二人は秋晴れの幻想郷を飛んでいる。魔理沙が聞き込みをしようと、箒に跨ると、隣のメイドが一緒に行くと言い出したのだ。ならば二手に分かれたほうが効率的だというと、だめだと言われた。
「相手は妖怪じゃなくて、人間なのよ。もうわかるでしょ」
咲夜が斃した男は里の人間ではないのだ。そして彼等の仲間は逃走した。ならば里の外の集落を周っていれば出会う可能性があった。
「結局、一番怖いのは同じ人間か、なんだかなぁ」
その日は、たいした手がかりは得られなかったが、山の住人達の生活については多くが知れた。春夏は狩猟をして生計を立てているらしいこと、秋冬に製鉄を行っているらしいこと、その際に使う燃料の木の切り出しのための許可を、きちんと周辺の集落からとっている事。一箇所で木を切り過ぎないよう、山中を移動して暮らしていることなど、意外に集落の農民たちは山の住人のことを良く知っていた。だが、同時に彼等を恐れてもいた、子供をさらって、鞴(ふいご)を踏ませているとか、女をさらって子を産ますとか。
「ほとんど妖怪扱いじゃないか」
「実際そうなんでしょ、彼等にとっては」
翌日は、人里の南に大きく離れた集落から周ることにした。そこは小高い山に三方を囲まれ、小さな盆地のような場所で、山に切れ込むいくつもの谷(ヤツ)に水田が広がった、割りに大きな集落だった。里の人々はその集落を単に南と呼んでいた。
集落の入り口あたりで、地面に降り、そのまま目に付いた家を訪ねた。
「たのもー!」
と呼びかけるまでもなく、男が庭先で鶏に餌をやっていた。農村の人間の歳はわかりにくい。中年を過ぎれば皆、老人のようにも、そうでないようにも見えた。男は立ち上がり、魔理沙達のほうを見て、…立ち尽くしていた。
何かある。と二人とも思って、お互い顔を見合わせた。男を見ると、彼は遠くを見て首を横に振っている。その瞬間、魔理沙は後ろを振り返り、道へ駆け出し、箒に飛び乗っていた。
「咲夜!あいつ等逃げ出したぞ、私たちから逃げてる!」
見ると、遠くに米粒のように慌てて走り出した二人の人が見えた。立ち尽くす男を一瞥すると、咲夜も魔理沙を追った。男は唇をかんで下を向いていた。真昼間だ。魔理沙のスピードがあれば見失うことはなかった。逃げ出した男たちは魔理沙に追われて、森の入り口まで駆けたが、そこにはすでに咲夜が待っていた。
男たちは観念したかのように足を止めた。
「本当は、縛り上げたいけど、縄もないしね。座んなさい」
男たちは地べたに腰を下ろした。二人とも腰には草刈鎌を下げている。まだ若い。
「あなたたち、四日前に、そこの暑苦しそうな魔法使いを襲ったわね?」
「いんや、咲夜。こういうときにものをいうのは証言じゃなくて、証拠ってやつらしいぜ」
魔理沙はそういうと、箒を逆手にもって、柄を男の上着に差し入れた。上着をはだけさせると、肩に痣があった。もう一人の胸には薄っすらと星型の痣。ニッと歯を見せて魔理沙が笑った。
「悪かった………このとおりだ」
突然そういうと、男の一人が魔理沙に土下座した。もう一人もそれに続いた。地面に顔を押し付けつつさらに言った。
「悪かった。…だけど、あんた、銀髪の。あんたにゃ謝れねえ。あんたも正三を殺ったろ。だから……あんたとはお相子だ」
声が震えていた。恐怖の中で必死に搾り出したであろう事は察しがついた。咲夜は何も言わなかった。
「なぁ私等、妖怪じゃないんだ。別にとって喰ったりしねーよ」
そう言いつつ、頭の中では「きっとこいつ等にとっては私等は妖怪と同じようなもんなんだろうな」と思った。「昼間に出る分、余計に性質がわりい」と自嘲した。
「話が聞きたいんだ。その…なんだ、どうしてあの山の奴を殺したんだ」
魔理沙は言葉を選ぼうかと思って、やめた。代わりの言葉が思い浮かばなかった。殺しは殺しだ。
「あいつ等、山の奴等は、ネネを殺したんだ。水屋の隠居も、それから惣二も…」
男は、分かり難い話をわかり難く喋った。
事の発端は一ヶ月ほど遡るらしかった。立秋も近くなった、ある日、村に山の人間が訪ねてきた。用件は今秋村近くの山の南東斜面の木々を燃料として刈らせてほしいということだった。村の面々は談合の後、断った。この夏、村は水不足に悩んだ。木を刈ると水が出なくなる。そういう理由だった。山のものは、なおも木を刈る面積や条件を変えて交渉しようとしたが、村人たちは首を縦に振らなかった。木を刈ると本当に水が出なくなるのか、魔理沙にも咲夜にもわからなかった。
その二三日後、集落の若者のリーダー格である正三とこの男(喜兵衛と名乗った)は、村の近くの山中で火を見た。妖怪かと最初思ったが、火は動かず増えず、そのうち人の喋り声らしきものも聞こえだしたので、近寄って様子を見ることにした。それは山の人間たちだった。火を囲むように祭壇のようなものをこしらえ、四方には縄が張ってあった。祭壇の正面に座った男は、普段汚らしい山の住人なのに、真っ白の着物と袴をはいて、頭には角烏帽子をかぶっていた。緑の葉がついた枝を振り、むにゃむにゃと何事かを唱え、火に向けて両手で何かをささげ持つようにして頭を下げた。祭壇の火に照らされて、鈍い銀色が見え、はめ込まれた紅玉が光った。今は魔理沙の懐にある、あの「符」だった。
さらに二三日して、集落で人が死んだ。集落の一番大きな谷(ヤツ)の一番奥の家の隠居だった。集落でもっとも木を刈らせることに反対していた人間でもあった。寿命だ、残暑のせいだと、集落のものは初めはそう思った。そして立て続けに更に三人死んだ。喜兵衛の妹もその一人だった。十五戸七十人に満たない集落である。四人も立て続けに死ぬのは大事だった。
談合が開かれ、山の奴等を追い払おうと、まじないをしたあの白袴の奴を殺そうと、使われた呪物を奪って、破壊しようと、そういうことに決まった。このままでは、集落は何人の人死をだすか、もしかすると全滅だと、皆がそう考えた。
「なんでそーなるんだよ!」
「魔理沙、こういうことはあるのよ、それもよくあることよ」
「お前、涼しい面して何言ってんだ!こんなのただの偶然だろ」
「それは、あなたが部外者だからよ。私とアリスと霊夢と早苗が一週間のうちに死んだら、あなただって何かあると思うでしょ」
魔理沙は地面に積もった落ち葉を蹴り上げたり、そこらの木の幹を蹴ったりしている。男がおずおずと口を開いた。
「あんた『あれ』を持ってるだろ。あの金(かね)のお札を。俺たちに……渡してくれないか」
魔理沙は男を振り返り、しばらく睨んだ後
「ふざけんな!」
と叫ぶや、箒に乗って飛び立った。咲夜は追ってこなかった。
咲夜も地面に座る二人の男に「もう行っていいわ」とだけ言って飛び立った。咲夜には魔理沙を追うより、優先される事柄があった。少なくとも一月前まではこの集落の近くに山の漂泊民は居たらしい。四日前見つけた死体は彼等の一人で間違いなかった。かの男は人里から霧の湖への途上で遭難した。なら、この周辺から一人目の死体の発見場所までの、山林を探せば、彼等に会える可能性は高かった。
会ってどうするんだ、とも考えてる。会う目的は別になかった。何を話せばいいのかもわからなかった。だから、これはただの気まぐれだ。空の散歩のついでだ。そう思うことにした。
山中で暮らすのにまず確保せねばならないのは水だ。特にここのものなら、毎朝米を炊くだろうから山中の川に煮炊きのあとが見つけられるだろうと、咲夜はともすれば木々に隠されてしまう細流の上を飛んだ。
その跡は湖の近くまで飛んで、やっと見つかった。雨露をしのぐ小屋のようなものがあるかと思ったが、見つからなかった。しばらくあたりの気配を探って、咲夜は森を歩き出した。今日はブーツを履いてきて正解だったと思った。
ふと、気配を視線を感じた。ゆっくり振り返ると、四五人の子供たちが、木の幹の裏から覗き込むように咲夜を見ていた。「ねぇ」と声をかけるとまさに蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。一人転んだ。咲夜は飛んだ。追ってどうするのかと、また思ったが、「どうもしないわ」と今度は声に出していた。転んだ子供の前に降り立った。
「あんだよ、ねーちゃん」
慌てて転んだわりに肝の太い子供らしかった。腕に死んだ山鳥を抱えている。食料だろう。咲夜はふわりと浮くと背からナイフを抜き、「はっ!」と放った。五六間先で鳥が落ちた。
「…はい。これ」
咲夜が刺さったナイフを抜いて獲物を差し出しても、子供は受け取らなかった。
「……施しはうけねーぞ」
「施しというわけじゃないのだけど」
「施しは受けちゃ駄目だって。受けたら俺たちは乞食になっちゃうから。駄目なんだ」
「じゃぁ、贈り物。山で暮らす誇り高い人々に」
子供はしばらく迷って、それから小さく「それなら」と言って受け取った。「施しを受けたら乞食になる」遠い昔にも聞いた覚えのある台詞だった。
「ねーちゃん、なんなんだよ」
「なにって、…そうね、なにかしら。あなた達に会いたいと思って探してたんだけど、なんの為かは判らないわ」
「なんで里の奴が俺たちを探すんだよ」
「私は里の人間じゃないわ。山の人間でもないけど」
警戒心を剥き出しにして、咲夜を睨んでいる目の前の子供は、昔の自分と同じだと、そう思った。定住者に疎まれ、さげずまれる漂泊民。かつて自分もその一員だった。
今となっては、咲夜にはわかる。彼等とて、好きでそういう暮らしをしているのではない。そういう暮らしを嫌っている訳でもない。自分たちは山野を漂い生きるものだと、そう思って生きているだけなのだ。親兄弟の生き方を見て同じようにしているだけだ。道具屋の長男が道具屋を継ぐように、農家の子供が、また成長して田に鍬を入れるように。そういえば勘当されて人里を飛び出た道具屋の娘がいたなと苦笑した。
「私もね、昔、あなた達と同じように暮らしていたのよ」
「…今は違うだろ。いいもん着てるし」
「山の中では暮らしてないわね。…でも、今も同じようなものよ」
「違うだろ。どう見ても」
「そうね、今の私は人間でさえないのかも」
咲夜のつぶやきは十分に小さかったから、子供には聞こえてはいないようだった。もう、十分だ。そう思った。自分が何をしたかったのか、やっとわかった気がしていた。咲夜が理由もなく探し回ったのは自分の過去で、見つけてみると今の自分と、そう遠いものでもなかったのだ。咲夜は今の主に仕えるようになって、自分が生まれ変わったように感じていたし、実際生活も変わった。しかし、自分という存在はそう変わっていなかったし、人間の社会の中での立ち位置だって変わっていなかったのだ。もしまだ、自分が人間の内ならば。
「要は懐かしかったんだ。懐かしみたかったんだ」そう思うことにした。
◇◇◇
南の集落から飛び立って、空中で散々悪態をついた魔理沙が気づくと、そこはもう神社の傍だった。霊夢なら今の自分の気分に同意してくれるだろうかと考えて、「んなわけ無いわな」と思った。根拠は無いが霊夢が自分に同意しないのは確定的な事の様に感じられた。
「いるかー?」
「目の前にいる人間への挨拶としては斬新ね」
巫女は境内を掃いていた。魔理沙は賽銭箱の隣に腰をおろし、さて何と切り出そうかと考えた。
「呪いってのはさ、その…使った道具とかを壊すと消えるもんなのか?」
「さぁ?」
「さぁ?って、…まぁそうか。霊夢だしな」
「ちょっと。いきなり、変な質問した上に、『霊夢だしな』ってなんなのよ、あんた」
「いや、お前、あれじゃん、知識とかあんまないだろ」
「なめんな」
こつんと箒の柄が魔理沙に振り下ろされる。
「あんたねー、いきなりなのよ。呪いつったって色々あんでしょ? それぞれ違うのよ。たぶん」
「たぶんねぇ…」
なんとなく「符」を霊夢に見せて、すべてを話すのは憚られるような気がした。博麗の巫女を人間同士のいざこざに巻き込むのは良くないような、そんな場に霊夢はいちゃいけない気がした。
「んー説明が難しいな。なんかの儀式が行われて、それを見かけた奴が自分たちへの呪いだと思った。実際それっぽいことも起こった」
「はぁ…」
とこれ見よがしに面倒くさげなため息をつき、巫女は語りだした。
「そういうんじゃないのよ。色々ってのは。儀式を行ってた人は何を信じているのか。呪いだと思った人は何を信じているのか。そういう話」
「なにを信じてるかって、信仰的な? 何の神様とかか?」
「それもそうだけど、信仰に限らないわ」
「私には、霊夢がなにを言ってるのかようわからん」
「私もなんて説明したらいいのかわからないわ」
魔法使いは突き詰めるところ研究者だ。言葉で書かれている書物を読み、言葉で精神に触れ、言葉で力を生み出す。一方で霊夢は、はなはだ心もとないが巫女で精神を精神のまま読み解け、力をそのままに触れることができるのだろうと、魔理沙はそう思ってる。
「あのね、祝うっていう漢字あるでしょ? あれ祝い(のろい)とも読むのよ」
「ほぉ、それは知らなかった」
「祝うも呪うも一緒なの。信じて信じさせて、それがいいほうに働くのが祝い。逆なら呪い」
「ふむ」
「だから、さ。そう信じたなら呪いは生まれるし、道具を壊せば呪いは解けると、そう信じきってれば、解けるのよ。あんたがさっき言った状況説明もさ、『あれは呪いだ』と。信じたんでしょ、その見た人ってのは。だから呪いになったのよ」
つまり、呪った人間はいなくとも呪われた人は存在するのだ。あの南の集落の男に「符」を渡したほうが良かっただろうか。渡せば、あの男は「符」を割るなり溶かすなりして、呪いを解くだろう。それで一件落着なのか。魔理沙は今まで、この「符」は元の持ち主、山の住民の遺族なりなんなりに返すつもりでいた。しかし、あの不毛な勘違いと憎しみが消えてなくなるなら、渡してしまってもいいような気がしてきた。同時に山の住人にとっても、これは多分大事なものだろう。とも思うから、はたしてそれでいいのか判らなかった。
「信じることって言うと、なんだか凄く能動的な事のように思っちゃうけどさ。そうじゃなくて、なんとなく思ってる事なんだけど、すごく強い信念だったりするのよ。魔理沙は自分が人間だって、別に意識して信じてないでしょ。でも実際は自分が妖怪かもしれない、なんて一切思わないくらい強く信じてる」
「まぁ、そうだな」
「信じれば、それが念となって、他の人に、物に、力を及ぼすのよ。それが呪いで祝い」
「力を及ぼすのか?」
「信用できない? ならこれは何かしら?」
と言って霊夢は懐からおなじみの博麗神社のお札を懐から取り出した。
「なにってお札だろ?」
「ちがうわ。紙よこれは」
「これはさ、そこらへんにあるのと同じ。ただの紙。でも同時に私の思い通りに飛ばせるし、魔を封じ、針になり敵を刺し貫くこともできる。そこらの紙じゃできないわよね?」
「いつからそんな回りくどい物言いできるようになったんだお前」
「まぁ聞きなさいな。このお札は正真正銘ただの紙。書かれてる紋様はただの顔料。だけど刻まれた博麗の名を妖怪は恐れる、いわくありげな陰陽印は何か不思議な力を持ってるように感じられるし、八卦印もよく分からないけど意味ありげでしょ? ただの紙と顔料なのに。私はこれが『お札』だと信じてるし、周りの妖怪共も信じてる、だから思い通りに飛ばせるし、魔を封じる力を持つ。ただの紙が祝われて『お札』になったの。そして力を発揮するでしょ」
と言って霊夢は得意げに札を放つ真似をする。「びしゅっ、びしゅっ」と声に出してる。意外にも霊夢の説明は良くわかった。
この「符」は人の念を沢山吸っていると、たしか神奈子はそう言っていた。魔理沙が考えているとおりなら、この「符」は山の住人の祭事に「祝い」に使われていたのだ。しかし、その行事は部外者に見られることで「呪い」になり、「符」は呪物となった。
これは呪いの道具なんかじゃない。お前たちが見たのは呪いの儀式じゃないと。そう説得して、完全に信じさせれば、呪いは解けるのか。しかし、そんなこと可能だろうか。事実は何にまして強い。かの集落では四人が呪いで死んだと、信じている。魔理沙は信じさせる言葉を持っていないのだ。ただの偶然だと、いくら叫んだところで意味は無かろう。これが人死ではなくて、たとえば柿の実がならないとかなら、あの集落の人間も、ああも頑なにはならないのだろう。「柿の実が成らないのは、呪いじゃない。夏の天候が悪かったからだ。ほら雨が少なかったろう」
「なるほどなぁ。まぁわかったよ」
「そう? 今考えついたんだけどね、この説明」
「今かよ」
「当たり前でしょ。普段からこんなこと考えてないわよ」
魔理沙は言葉を持たない。言葉に立脚する魔法使いなのに。
「あとね、魔理沙、あんた私に隠し事してるでしょ。巫女の勘なめるんじゃないわよ」
◇◇◇
魔理沙は昨日、神社から帰って、その後一晩考えて、結局自分には呪いは解けないと、そう結論付けた。自警団に事のすべてを打ち明け、「符」を渡し、おそらく証拠品を隠していたことで何らかの罰を受けるだろう、そうして全て放り投げてしまおうかと、何度か割りと本気で考えた。
そう考えるたびに、なんてダサいんだと、思い直し、自分にできる範囲で決着を付けるには、これしかないなと、八卦炉を見るのだった。
◇◇◇
その日、咲夜が阿求と会ったのは、まだ朝と言っていい時間帯だった。人里に来たのは、ただの買い物のためだ。咲夜にとってこの事件は別にどうでもいいことなのだ。取調べは面倒だったし、おとぎの国幻想郷の漂泊民にも会ってみたかったが、それはただ、自分の過去を懐かしんだだけで、事件にかかわろうなどと、はじめから思ってさえいないのだ。
しかし、阿求と会ってしまえば、話はどうしても事件のことになる。
「ああ、咲夜さん。おはようございます。お買い物ですか?」
と、阿求は買い物籠に目をやる。咲夜が持っているのが洋菓子の入ったバスケットではないのが残念なのだろう。
「ええ、ここのところ面倒ばかりで、本職が疎かになってたので」
「ああ、その面倒ごとですがね。立ち話で話すようなことじゃないのですが、あの亡くなられた方々の身元が判ったんですよ」
咲夜はすでに知っているし、興味も無いし、本当に立ち話でする話でもない。
「昨日、南の方が自警団にいらしゃって、死体の一体は山の住民で自分たちが殺したと、もう一体は自分たちの集落のもので、咲夜さんに返り討ちに会ったものだと。こういうわけです」
阿求は咲夜の顔を覗き込んでいる。
「その様子だとやはりご存知のようですね。あの時、里の外の集落を周るとおっしゃってましたし、さすがに鋭いですね」
興味ない。もう自分には関係ないことだと思う。山の住人には一方的な近しさを感じてはいるが、元漂泊民の咲夜にとっては、こういう定住者と漂泊民のいざこざなど、良くあることで、めずらしくもないのがわかっているし、そういう場合、漂泊民はただ逃げるしかないのだ。
「それでですね、南の方が言うには山の住民を殺したのは、彼等が自分たちに呪いをかけた為であると。その復讐および、始末は自分たちでつけるので、里の自警団は手出し無用と、こういうわけです。たぶん、咲夜さんと魔理沙さんに知れてしまったので、先に手を打ったんでしょうね。南の方々は」
「自警団のほうも困ってしまいましてね。はいそうですか、と暴力行為を認めるわけにはいきませんからね。いくら里の外とはいえ。稗田のほうにも相談の方などがいらしたのですが。結局、自警団もほっては置けないので、動くことにしたようです。山狩りをするようですよ」
「山狩りを?なぜ?」
何故、そこで山狩りをせねばならないのだ。まさか、自警団は一方的に南の肩を持つと言うことなのか。
「山の住人を捕らえて事情を聞くと言うことです」
なんという無駄。
「彼等は部外者ですからね。理屈でしか考えられません。片方が呪われたと言っているわけですが、本当にそうかわからない。呪いじゃないかもしれないのだから、事情を聞こうと。ただ、山の人々は住所不定なので、山狩りでもするしかないと」
事情を聞いて、山の人が『あれは呪いじゃない』と言ったら、南の集落は『なんだそうだったのか』と納得するとでも言うのだろうか。
「それで、解決するとは思えませんが」
「しないでしょうねぇ。というより、危険なんじゃないでしょうか。山の人々は自警団が事情を聞きたいだけとは知りませんからね。突然、里の人間が山狩りをして自分たちを追い立て始めたと。普通はそう思うでしょう」
「そこまで判ってるのだったら…」
やめさせるべきだろう。
「ああ、もちろん山狩りには反対しましたよ、私は。やんわりとですが…。私は別に里の指導者でもありませんし、自警団の幹部でもないのです。里の人たちは阿礼乙女ということで、なんとなく敬ってくれますが、私はその実十代の小娘なのです」
笑顔を絶やしてもいないし、自嘲してるふうでもないが、この娘も無力感を感じてはいるのだろう。
「ふふふ、ずるいですね、私は。一方的にこんな話を聞かせて。実は何とかしてくださいと、喉まで出かかっているのです」
「もう言ってるわ」
「ふふふ、そうですね」
「それに、…どうしようもないわ。こういう時は漂泊民は逃げることしかできないのだし」
「そうですねぇ、どうすれば良かったんでしょうね。どこかで、誰かが失敗をしたんでしょうか」
阿求のあのつい見てるものも釣り込まれてしまうような笑顔は、最後には翳っていた。
◇◇◇
紅魔館を飛び立ったとき、咲夜は美鈴を連れて行こうかと、ちらと考えた。美鈴は特に何に優れている、と言うことはないのだが、機転が利くし度胸もあるし、どんな場面でもそれなりに役に立つのだ。考えているうちに彼女のいる門を通り過ぎてしまったので、やめておいた。
自分が出て行って、一体なんの助けになるんだと、無論その考えは咲夜の大きな部分を占めている。阿求のことを考える。彼女は何代にも渡って幻想郷のあらゆることを書き記していると言う。今と同じように嫌なことも凄惨な事件もあったろう。そのたびに無力感を感じ続けているのではないだろうかと。彼女はここに住む妖怪たちのように老成しない。人としても若いうちに死に、そのたびに転生するのだ。老成しないならば慣れるということも無いだろう。ひどい人生もあったものだ。
魔理沙はどうしているだろう。彼女は自分とは違い、積極的にこの事件にかかわってきた。阿求も頼むなら自分じゃなくて、魔理沙に頼むべきだ。彼女なら、何の成算もなくても何とかしようと、努力するはずだ、任せろ何とかしてやると、そう言うだろう。自分はそうは成れない。結局自分には山の住人を逃がす、そのちょっとした手伝いくらいしかできないだろう。それもいきなり現れた自分を彼等が信用してくれると言う、奇跡のような前提があってのことだ。
山狩りはすでに始まっていた。
包囲の手は里のある北側から、開けた地形の東側まで。向こうの南側でも人々がうごめいているのが見える。時間はもう、あまり無さそうだった。咲夜は飛ぶ。この山狩りを山の住人が気づいてないわけは無い。四方から追われ、固まって逃げているはずだった。川に沿って逃げるか、いや、里者が歩きやすいような場所は避けるはずだ。ならば尾根か。咲夜が目星をつけて探すと、尾根とも呼べない、かろうじてそこが稜線だとわかる小高いふくらみに彼等は居た。移動してはいない。小休止のさなかなのだろう。木に登り周囲を観察しているものもいる。咲夜はそこに全速力で突っ込んだ。ふわりと飛んでいったら逃げられると、そう思った。自分の顔面にぶつかる梢を腕で防ぎながら、急降下してそこに降りた。四五十人はいるか、明らかに本隊だろう。
あまりに突然のことで、彼等は動けなかった。周囲をくまなく見渡してはいたが、空中までは監視していない。いきなりメイドが空から降ってきたのだ。咲夜はさっき空中から見た様子を思い出しながら、口を開いた。対話している暇は無い。
「ここに、長(おさ)はいる?」
誰も何も言わない。小さくため息をついて、そして精一杯声を張る。
「聞いて。私は里の者じゃない。すぐに西に逃げなさい。西側の囲いはまだ閉じてない。今からでも間に合うかもしれないわ」
通じているのか、信用してもらえるのか……どうでもいい。やれることをやるまでだ。
「それから、あなた達の仲間は他にも居るのかしら。いるなら…」
「うねの向こうの南側に……十五人取り残された」
少し離れた場所に居た、若い男が口を開いた。目が据わっている。
言えるのか。次の言葉を自分は言えるのか。咲夜はすこし躊躇った。
「そう、わかったわ。そっちは私に任せて。あなた達は逃げなさい」
言ってしまった。任せろなどと、なんの成算もない。
集団は、動き始めた。
咲夜も南へ飛び立った。さっきの集団がいたのよりも高い尾根を越え、更に南に飛んで、山の森が尽きて開けた場所に十五人の山の住人が五六十人に囲まれていた。手遅れだった。
逃がすことができないなら、自分にやれることはないと、判っていたが、咲夜はその囲いの中に降りた。囲いの人数の中に知っている顔が、喜兵衛が居た。つまり、この囲いは里の自警団ではなく、南の集落のものなのだ。
「おい、武器を置け。とりあえず武器を置くんだ。いま、人を呼んでるから。早まるなよ!」
と叫んでいるものが居る。自警団のものだろう。よくみると囲いの人数の三分の一位は里の者のようだった。南の集落の者たちは、手に鉈、山刀、鎌、棒。「始末は自分たちでつける」と、自警団で語った決意は本物なのだろう。咲夜はもう、何をしたわけでもないのに、この状況そのものに、疲れ果てていた。
彼等がその足を踏み出し、その決意を実行しようとしたら、自分は止めることができるのか。自分はナイフを彼等に放つのか、霊力でも魔力でも守られていない、ただの人間に、自分はナイフを放てるのか、放たねばならないのか。そうして、事態は解決するのか。咲夜は自分が持っている技能がこの場で何の役にも立たないことに、初めて気がついた。時を止めてもどうにもならない。それ以外は、自分が持っているのは、殺す技だけだ。やはり美鈴を連れてくるべきだった。彼女なら瞬く間に、南の集落の人間を皆失神させるくらい、簡単にできるだろう。もう、咲夜は疲れ果てていた。
自分はここでも、この幻想郷でも、人であることを捨てねばならないのか。
「あんた…あんた、何でここに居る。何しに来た」
喜兵衛が問う。なんと答えろというのか。自分にはもうできることは無い。だから、ただ突っ立って居るだけだと、そう言おうかとも思った。
「また、邪魔すんのか。退(の)いてくれ。はやく、退いてくれ」
じわりと囲いが縮んだ気がした。突如、咲夜の背後で光がおこった。前に居る喜兵衛が手で目を隠し、顔を背ける。すさまじい光量で、もはや喜兵衛の着物の柄も識別できない。咲夜が目をかばいながら何とか振り返ると、空に向けて巨大な光柱があった。次の瞬間、衝撃波が来た。それに続く突風が土埃やら木の枝やらを吹き飛ばして、咲夜の体にあてた。そして
「武器を捨てろ!」
魔理沙だった。
「武器を置けって!はやく!ったく、何なんだよ、これは!」
マスタースパークの圧倒的火力に皆、呆けていた。
「何なんだよこれは。おい!村人総出で武器抱えて、なんのつもりだよ。こっちにゃガキだっているんだぞ」
八卦炉を構えて、魔理沙が喚く。
「呪いだかなんだか、知らねーけどな、おかしいだろこんなの。皆殺しにでもするつもりかよ。半分殺して半分に許すか? どーかしてるぜ、お前等。私はな、里の人間でも、山の人間でもないし、誰の肩持つってわけじゃないけどな、こーいうのは大嫌いなんだ。だから、どうしても、その武器でなんかするってんなら、まず、私が相手してやる!」
どうやら、だいぶ怒っているようだった。
「おい!どうした、かかって来いよ!」
無論、誰も動けない。咲夜はなにかほっとしたような、背負った重石を誰かが肩代わりしてくれたような、そんな気分を感じていた。なにも解決したわけじゃないのに。
自重を促す自警団の声。
八卦炉を振り回して威嚇する魔理沙。
武器を手に微動もしない南の住人。
疲れ果てた咲夜。
そして喧騒の中に、最後の一人がやってきた。最後のはずだ。彼女が来たなら、騒動は解決するはずだから。ここは幻想郷なのだから。
「あーでっかい目印があったから、意外に迷わないで来れたわ」
ふわふわ、よたよた、大荷物を抱えた霊夢だった。
◇◇◇
「よっこいしょ、と」
どさっと荷物を置いて、周囲を一瞥する。普段どおりの巫女だ。ただ衣装はいつもの不思議な巫女服ではなく、白の小袖に緋袴で、普通の巫女だった。魔理沙は、なんで霊夢がここにと考えて、それから、いや、きっと自分のせいなのだと思った。そういえば、この前なにか隠してると見破られた。
「おい、霊夢。なんで、お前が…」
「はぁ? あんたがそれ言うの? 散々うちにきて事件の事とか、呪いの事とか聞いてきたじゃないの」
「いや、でも…」
「巫女に隠し事なんて通じないわよ」
何をするつもりなのか、とは聞かなかった。もう魔理沙にはわかっていた。巫女は呪いを解きに来たのだ。魔理沙は呪いなんぞ知らん。やるなら私が相手だと、いわば呪いを無視させようとした。咲夜は南の人間が呪いを忘れてしまうまで、山の住人を逃がそうとした。巫女なら呪いは解けるのか。
「ほら魔理沙!咲夜も、手伝って」
鏡を置き、榊を立てる。四方に棒を立て縄を渡す。縄からは紙垂が垂れている。
「ちょうどいい注連縄が無くてね。荒縄で」
真っ白な杯と一升瓶。
「魔理沙、それ貸して」
八卦炉を取って、鏡の向こうに置く。霊夢が手をかざし、「はっ!」と気合を入れると、八卦炉から炎が上がった。
「うむ。上出来」
一人でうんうんと頷く霊夢。どうやらこれは即席の祭壇のようだった。そして周囲を見渡し、取り囲んだ人々の中で半歩前に出ていた、一人の男、喜兵衛に歩み寄る。
「あなたは、南の人ね。亡くなった人達を直接知ってるわね?」
「ね、ネネが…何か…」
「ネネさんていうのね。妹さんかしら?」
「ああ…そうだが」
喜兵衛はいまだに鉈を手に持っている。なにせ巫女は唐突に現れ、周りのことなどお構いなしに、何事か始めたのだ、皆あっけに取られている。ふむふむと頷くと巫女はまた祭壇のほうに戻っていった。
「さて、皆さん。知っているかもしれないけれど、私は当代の博麗の巫女、博麗霊夢。これより、魂呼ばいを行いたいと思います。魂呼ばいは人が亡くなったとき、その人の蘇生を願って亡骸の傍、死者の名を呼ばうものです。しかし、今回はもはや亡骸は埋葬されてしまっていますから、蘇生はできません。けれども、私は博麗の巫女。死者の魂を呼び、彼等の話を聞くことは、私にかかれば容易い事。唐突に亡くなられた縁深き方と、今一度最後に語らう機会を持っていただこうと、こうして大荷物をしょってやって来たわけです」
なんとも言えない、間の抜けた宣言をして、霊夢は八卦炉の炎の前に立った。夕日がたった今落ちて、八卦炉の炎だけが辺りを照らしている。お払い棒を取り、ばっさばっさと振るうと深く一礼した。
―ねね少女(おとめ)の霊(みたま)や斎主(いわいぬし)が告白(のりまを)す事を甘(うま)らに聞こしめせ…
お祭りの時だとか、地鎮祭の時だとか、巫女らしい事をする霊夢を魔理沙は何度か見ている。そのたび似合わない事に苦笑するのだが、今日の霊夢は魔理沙が見ても、様になっていた。自分もどこかで、騒動が自分の手から離れて、安心したのかもしれなかった。
―まかりては幽冥(かくりよ)の御掟(みおきて)の随随(まにまに)神の位に鎮まるべきなれど…
死者と語らえと霊夢は言ったが、それでどうするつもりなのか。
―いままた霊現世(うつしよ)に出で家内(いへのうち)親属(うからやから)朋友(ともとち)まで御心を明かし垂給えと御食(みけ)御酒(みき)種種(くさぐさ)の物献奉りて恐み恐みも申す
一礼し、またお払い棒を振る。もうあたりは薄暗い。霊夢は礼をしたまま動かない。すると、どこから沸いてきたのか降りてきたのか、薄青く透けた霊が一体、祭壇の周りにまとわりつくように浮いていた。「ふぅ」と一息つき、霊夢が顔を上げ、喜兵衛を振り返る。
「さぁ、あなた。妹さんの霊(みたま)はここにあります。聞くことがあるでしょう」
喜兵衛は、泣いていた。中腰になり、鉈を取り落とし、わが身を抱いて。他の者も皆、手を合わせ、一心になにやら呟いていた。念仏を唱えるものも居る。
「ほら、あまり時間はないわよ。それから霊はものを話せませんが、問いかけに答えられるわ。応なら火は高く、否なら火は低く燃え、あなたに答えるでしょう」
霊夢は喜兵衛のすぐ隣まで移動する。すすり泣く声が聞こえる。
「ネネ…ネネ…は、しあわ…」
「生前の幸不幸を問うてはいけないわ。それは彼女が決めることではないから」
遮るように霊夢が言う。
喜兵衛の呼吸は荒い、必死に息をつき、声を出そうとする。
「ネネは!ネネ…おっ父も、おっ母も…はぁ…元気だ…おれも」
「ネネぇ、なして死んだぁ…」
搾り出された声。ごうっと音が鳴って八卦炉の炎が燃える。
「あいつらに…あいつらのせいでネネは!」
炎は低く、消えるかのように低く。
「なら、なんで!おめは、ただ落ちて、足滑らせて」
炎は高く。
「そんだけだと。そんな…そんなんあるかぁ」
炎は高く。
「ネネぇ。…さみしいぞ」
呪いなど無いと、そう言えば良かったのだ。ただ、その言葉を持っているものが、誰もいなかったのだ。呪いは声無き人魂一つに解かれ、霧散した。声などなくても言葉は通じたのだ。
呪いなどないと、喜兵衛にしても心の底ではわかっていたのかも知れなかった。現実に突き動かされて、ただ振り返れなかっただけなのかもしれなかった。薄く青白い霊は、そのまま炎にまとわりついたまま、いつの間にか消えた。あとには嗚咽だけが響いている。霊夢が祭壇の前に戻り、お払い棒を振って一礼すると、八卦炉の炎は徐々に小さくなり、消えた。
◇◇◇
そのあと、南の住人たちは瘧が落ちたように、悄然となり、囲いを解いてばらばらと集落へ歩き出した。あるものは腑抜けたように、あるものは安心したように、あるものは無表情で。
魔理沙は憮然とした表情でそれを眺めていた。あれだけ馬鹿騒ぎしておいて、あれほど殺意をむき出しにしておいて、これで終わりなのかと、あの殺意は罰せられるべきものではないのかと。もちろん、魔理沙も今から彼等に罰を与えようなどと、おもってはいないし、そんなことをしても無駄なのは、判ってはいるのだが、判るからといって納得できるわけでもなかった。
そんなすっきりしない、気持ちを抱えたまま魔理沙は、いまだ肩を寄せ合うように座り込んでいる山の住人達の前に来た。
「あー、災難だったな。大丈夫か?」
大丈夫もクソもない。彼らは殺意の渦中にいたのだ。今の魔理沙にはわかる。なんて馬鹿な第一声だろうと思った。懐の「符」を探る。
「んでさ、これ。お前達のものなんだろ。返すぜ」
「符」を差し出す。それは、今は、何の変哲もない鉄の板に見えた。呪いは解けたんだなぁと、魔理沙はこの時初めて、淡く実感した。
「…頭屋(とうや)の金(かね)の符だ」
「頭屋の符だ!」
力なく座り込んでいた集団が、一斉に立ち上がって魔理沙を取り囲んだ。
「うぉっとっと、おい押すな」
「あんた、よくぞこれを…」
「やっぱり、大切なもんだったんだな」
「こいつは、頭屋の金の符だ。頭(かしら)のもんで、金山(かねやま)の神さんのもんだ。そんで…」
「ああ、いいよ。返せてよかった。ここまで来たかいがあったぜ」
自分達が殺意から解放されても、無表情だった彼等が、沸き立つように笑っていた。とりあえず自分が来た意味はあったかなと思った。いつの間にか隣に咲夜もいた。
「聞いて。あなた達の本隊は西に逃れたわ。まだ、そう遠くは無いと思うけど、追うなら早いほうがいいんじゃないかしら」
そうして、残照の中、山の住人達も西へ去った。
◇◇◇
咲夜は西のほうを見て薄っすら微笑んでいた。魔理沙がここに来たとき、彼女はそれまで見たことない酷い顔をしていた。それを見て魔理沙は一瞬、自分は遅かったかと、間に合わなかったのかと思ったほどだ。どうやら自分は間に合ったらしいと、ひとまず安堵できたのは、喚き散らすように口上を叫びつつも、周りに死体も怪我人も転がっていないようだと、確認できたときだった。あんな顔をしていた咲夜が、どうやら今ではすっきりして納得してるようなのだ。魔理沙は自分だけ置いていかれたような気分になっていた。
三人で役目を終えた祭壇をかたし始めた。
魔理沙は霊夢が出張ってきたことに、何かすっきりしないものを感じていたし、聞きたいこともあった。
「なぁ、霊夢。あれ、あの魂呼ばいだっけ、あれ、ペテンだろ」
「そうよ」
「いいのかよ。そんなことして」
「いいのよ。死者は生者のためにいるんだもの。知ってる? お墓もお供えも、あれは死者のためじゃないのよ」
「それも、今考えたのか」
「あたり」
「やっぱり、私が色々聞きに行ったから、感づいたのか」
「まぁ、そうなんだけど。阿求がね、うちに来たのよ」
「阿求が?」
「咲夜に、どーしようもない事頼んじゃった、協力してくれって」
「別に、頼まれたから来たわけじゃないわ」
「じゃーなんで来たのよ」
「……色々あるのよ、私にも」
「ま、そこで、私は考えたのよ。魔理沙は無茶する筆頭だし、咲夜はいざとなったら何しでかすかわかんないし、この私が行くしかないなと」
「無茶で悪かったな。まぁ結局、博麗の巫女にはかなわなかったよ」
「得意分野が違うのよ、それぞれ」
魔理沙がきっとこいつ今ドヤ顔になってるんだろうなと、霊夢の顔を覗うと、そういうわけでもなさそうだった。
あらかた、かたし終わって、まだ、一升瓶が地面に突っ立っている。
「これさ、重いのよね」
「じゃ、処分しないとな」
「杯、一つしかないじゃない。気が利かないわね巫女は」
ぽんっといい音がして、三人とも地べたに座って杯一つで回し飲む。しばらく、そうやっていたが、皆じれったくなってきたのか、杯をかたして、一升瓶からラッパ飲みで回しはじめた。
月が出た。
自分ひとりすっきりしてないのは、自分だけ役に立たなかったからかもなと、魔理沙はそう思っている。格好良くなるのも意外に難しいものだ。
「ま、あのマスパのおかげで霊夢は迷わなかったんだろ。なら、それでいいさ」
魔理沙がすこし自嘲気味に言うと、咲夜が答えた。
「魔理沙、格好良かったわよ」
思わず、咲夜の顔を見たがからかっている様子でもない。
「…んなことないだろ」
「私はね、もう万策尽きてたの。あの時は、ただ立ってるだけだった」
「…」
「そこにいきなり現れて、なかなか男前だったわ」
魔理沙は三角帽子のつばを下げ、うつ向き気味に鼻を鳴らす。こんな事で気分が晴れるなんて自分は軽い奴だなと、最近よく思うことを、また思った。
「お呼ばれ、楽しみにしてるわ」
「ああ? 来たいのか私の家なんか」
半眼の霊夢がにやにやしている。
「なんか、妙な雰囲気ね。あんた達そんなに仲良かったっけ?」
魔理沙はそれで、やっと笑って答える。
「なんだ、知らなかったのか? 私達は同じベッドで寝る仲なんだぜ」
(了)
それにしてもタイトル、最後の最後でようやく合点がいき唸ってしまいました。
ひきつった半笑いの霊夢さんが目に浮かびます。
それぞれの心情もよく描かれていて納得して読めました。
ただ咲夜が関与してるシーンがちょっと少ない様な…まぁ事件の発端ではありますし、彼女がいなければ魔理沙は死んでいますが
しかし霊夢、京極堂ばりに美味しい所をかっさらっていったなw
面白かったです
一個報告
「祭り」関連の単語は全て「祀り」または「奉り」が正しいかと思います。
この冗談はきついなあ(笑)。
本当に面白かったです
また人物の描写を限りなく絞り込みながらも、彼らの容姿から性格、人間性までスムーズに想像させてくれました。素晴らしい小説だと思います。
一読でも練りっぷりが伝わってきました
これって霊夢も阿求も深読みしたままなんじゃw
咲夜の出番がもっと欲しかったかな
途中、山の人は皆殺しにされ、それを見た咲夜が「冗談よね?」というのを
想像してしまいました。
ハッピーエンドで良かったです。
本当は軽く一千字は書きたいことありますがコメントから読む人もいるでしょうし自重します。
みな可愛いかった。
顔の無いモブを置かない作風に何より好感が持てます。
多分、誤字?
>しかし、日が暮れてからからなら、
日が暮れてからなら
>「はやり、家捜しして弱みのひとつでも握っておこうか」
「やはり、
そしてオチが素晴らしいw ここでタイトルをこう持ってくるとは。
文句なしの100点です、すばらしい作品をありがとうございました。
最後に誤字報告を。
>この集落の近くにに山の漂泊民は居たらしい。
「に」が二つになっていました。
いったいどうなるのか、読み終わるまで全く目が離せませんでした。
血で出来た紅茶やケーキを作ってるんだろうから人間を捌いているんだろう。
でも花では人間に優しくしようと努力している。
矛盾してるようなしてないような性格を疑問に思ってましたが、上手く言葉にはできない。
今回それらを上手く決着させることができる、素晴らしいSSに出会えたと思います。
文章もリズムがあって非常に読みやすかったです。
あと魔理沙と咲夜さんの友人のような、姉妹のような関係が微笑ましい。可愛すぎました……。
キャラがとても魅力的です。
よく練られた構成に唸りました。
咲マリはいいものだ。
とても素晴らしい。
咲マリは偉大だ。
不気味な事件と、それを巡る魔理沙達の思惑が上手くまとまっていたと思います。
モヤモヤとした事件でしたが、締めがとてもスッキリしていて最高でした。
また魔理沙と咲夜の活躍が見てみたいと思いました。
とても面白かった
ただひとうつ何かがあっても良いかなと思いました
妖怪を出さなくても、彼女達をここまで魅力的に描けるのも素敵だ。
霊夢の対応力は流石だなあ。異変解決の泰斗は伊達ではないのか。
しかし、霊夢が「冗談よね?」と聞いたときの心情や如何に。
>>その世話しない様子に
忙しない
まさに、神は細部に宿る。
勿論文句無しだけど
社会の基盤が関わっていながら、つかみどころのないふわふわとしたものが心に残りました。
妖怪が出ていないのに、幻想郷を感じたというか。
いやあ、面白かったです。
ssを読んでいるというより、小説を読んでいるという感じで、実に楽しめました。
後日談が気になる終わり方だったなぁ。
魔理沙視点の手探り感や等身大の臨場感。
咲夜さんの頼もしさと ミステリアスな魅力。
そして抜群の安定感の霊夢。素晴らしいわ。
とてもおもしろかったです
面白かったです
→大丈夫だろうか
それぞれの心情に共感を得た。物語にひきこまれた証だろう。素晴らしい。
れーむしゅごい
咲夜と魔理沙の心情とか、符に関わる謎とか、読者を飽きさせない構成がとてもよかったと思います。
タイトルとオチのつながりも秀逸に感じました。
改めて、とても良いssです。