「これはなかなか大変だ」
こころは一人つぶやく。
博麗神社の境内を竹箒を使って掃除する。
ふう、と一息つき、辺りを見渡す。半分ほどは終わった。あと半分残っていると考えると、こころはため息をつきたくなった。しかしこころは居候の身である。ここで弱音を吐いて適当に終わらすなどと言うことはできない。寝泊まりできる場所を提供して貰って、おまけにご飯まで出して貰っているのだから、自分にできることはなるべくやりたいと思う。
袖で額を拭うと、気合いを入れ直す。
と、そこで声がかかった。
「こころー。お茶淹れたわよ。少し休憩したら?」
「するするー」
せっかく淹れてくれたお茶を無下にすることはできぬ! というわけで、こころは箒を片づけると神社の裏手にある縁側に向かった。
霊夢が二人分のお茶をお盆に乗っけて持ってきた。お盆を廊下に置くと、霊夢は座布団の上に腰を下ろし、湯気が上がっている湯飲みを持ち上げた。こころも湯飲みに手を伸ばす。
「ん~。今日もお茶が美味しい」
「まったくです」
二人でのほほんとお茶を飲む。博麗神社に寝泊まりするようになってから、しばらく経った。こころにとってこれが日常になり始めていた。
ゆったりとした時間が過ぎる。
空を眺めると青い空がいっぱいに広がっていて、綿菓子のような雲がふわっと浮いている。
遠くの方に黒い影が見えた。何だろうとこころが目を凝らしてみると、それは段々とこちらに近づいて来ているようだった。次第に輪郭がはっきりとしてくる。
全体的に黒っぽい色合いで、とんがり帽子をかぶっているのが見えた。幻想郷でそんな格好をしているのは一人しかいないので、それが魔理沙だとすぐにわかった。
二人の前に降り立った魔理沙は、片手をあげると、
「よう。お二人さん」
そう挨拶をしてきたので、こころも真似をする。
「よう。魔理沙」
「お、なんだこころ。いい返事じゃないか」
「何しに来たのよ。魔理沙」
「お前は何で客にそうつっけんどんな態度を取るかなあ。そんなんだからこの神社は閑古鳥が鳴いているんだよ」
「うるさいわね。こっちは二人で優雅なティータイムを楽しんでいたのに」
ねー、と霊夢が同意を求めて来たので、こころはどう返事をしたものかと困り、猿の面を付ける。
「緑茶を飲んでいるのに、ティータイムなんて言い方はするんじゃない。と、そんなことはどうでもいい。今日はちょっと用があって来たんだ」
「何?」
「里に甘味処があるだろう」
「まあ、いくつかあるわね」
霊夢がお茶を啜りながら答える。
「私がよく行った甘味処があるんだ。そこの抹茶のアイスが本当に美味しくて、昔から大好きだったんだが、残念なことにもうすぐ食べられなくなるかもしれない」
「どうして?」
こころは尋ねる。
「店が潰れるのね」
「言い方が悪い。潰れるんじゃなくて、店を畳むんだ。あそこの店主が身体を悪くしちゃったみたいでさ。それでこれ以上続けるのは難しいってんで、畳むことに決めたみたいなんだよ」
「そうなんだ。残念だね」
こころは思ったことを口にした。
「そうだな。残念だ」
そう言う魔理沙は本当に残念そうだった。
「それで、用って何?」
霊夢が訊く。
「無くなる前に、一度行っておこうと思ってさ。その甘味処に。だから、一緒に行かないかと誘いに来た」
魔理沙が言うと、霊夢は片手をひらひらとさせて、
「私は止めておくわ。まだ神社の中の片づけ終わってないし」
「そうか。こころはどうする?」
視線を向けられて、こころは少しだけ戸惑う。本音を言えば行ってみたいという思いが強かった。だけど、まだ境内の掃除が終わっていなかったから途中でほっぽり出すのはすごく悪いなと思う。
そんな気持ちを察したのか、霊夢がお茶を一口啜ると口を開いた。
「行きたければ行けばいいわよ。別に掃除くらい私一人でできるんだし」
「う、うーん」
それでもこころは迷う。
「でもやっぱり霊夢さんに悪いし……」
こころは霊夢の方をちらりと見る。変わらずにお茶を啜っている。別にどっちでもいいわよ、私は。あんたの好きにしなさい。こころには霊夢がそんな風に言っているように思えた。
「しゃーない」
そこで声を上げたのは魔理沙だった。てっきりこころは魔理沙があきらめて一人で行くことにしたのだと思った。残念だけど仕方ない、と自分に言い聞かせる。抹茶のアイスとやらを食べてみたかったけれど、あきらめよう。
「おい、霊夢。こころ借りてくぜ」
「死んだら返してね」
「おう」
そう言うと魔理沙は強引にこころの腕を引っ張った。
「おお?」
「ほれ、行くぞ。人里までひとっ飛びだ。遅れるんじゃないぞ。私は速いからな」
勢いよく箒へ跨った魔理沙はこころの腕を引っ張りながら、空中へ舞う。片腕を取られてバランスを崩しながらもこころはそれに続く。
博麗神社を見下ろせるほどの高さまで上がった。そこで、急に引っ張られている方の腕に衝撃が走った。魔理沙が腕をつかんだまま加速したのだとわかった時には、景色がぐるんぐるんとしていて上を向いているのか下を向いているのかわからない状態だった。体勢を立て直せないまま、魔理沙に引かれて空中を駆け抜けていく。一瞬だけ後方にある神社が視界に入った。
霊夢は片手をあげて、手を振っていた。
そんなわけで、何とか人里に到着した。
「着いた着いた」
「……」
「ん、どうしたんだこころ。ひどい有様じゃないか。髪がぼさぼさだ」
「手を離してって、何度も言ったのに」
般若の面を付けて怒りをアピールする。空を飛んでいる間ずっと魔理沙に腕を引っ張られ続けた。結果、空気抵抗にもみくちゃにされて、まるで台風に突撃したかのような有様だった。
魔理沙は笑いながら、
「悪かった。こっちの方が早いかなと思ってさ」
そう言って、こころの髪を手で優しく直す。
「許さないもん」
「いや、許してもらえるんだなこれが。お前、金持ってるか?」
そこで気付く。神社から出る予定などなかったから当然持ち合わせはなかった。しまったとこころは思い、猿の面を取り出そうと手を動かしていると、
「安心しろ。アイスくらいおごってやるからさ。つれて来たのは私なんだし」
「ありがとう!」
「許してくれるか?」
「許す許す~」
大通りの一角に目的の甘味処はあった。外から眺めても老舗だとわかる風貌であるにもかかわらず、古くささのようなものは感じられない。
二人はさっそく暖簾を潜り中へと入った。
「いらっしゃい。あら、魔理沙ちゃんじゃない。久しぶりねー」
そう言ってきたのは女性だった。見た感じは三十代くらいに思えるが、本当はもう少し上かもしれない。落ち着いた色の和服がとても良く似合っているとこころは思った。
「久しぶり、おばさん」
「大きくなったわよね。小さい頃から知っているから、何だか感慨深いわー」
「おばさんは全然変わらないな。すごく若く見える」
「まあ、ありがと」
女性はにっこりと笑った。とても気のいい人だとこころはすぐにわかった。
「そちらの子は、確かこころちゃんだったかしら」
「私を知っているの?」
「里では結構な有名人よ。あなた」
少し恥ずかしくなる。確かにこの里であれだけ異変を起こせば、有名になってもおかしくはなかった。
「なあ、おばさん。お店今月いっぱいで畳むって聞いたんだけど」
「ええ、そうよ。旦那がね、だいぶ身体を悪くしちゃって。お菓子を作るのって結構、重労働なのよ。元々持病を持っていたのに無理をして続けて来たんだけど、そのツケがついに来ちゃったって感じかしら。お医者さんに診て貰ったら、かなり悪い状態だって。本人はまだ続けたがっていたんだけどね。まだまだやれるって。でも、私が言ったの。もうやめようって」
「おっちゃんは素直に聞き入れたの?」
「全然。喧嘩になったわよ」
女性はにこにこと笑って言う。
「結局は私が勝ったけれどね。本気になった女は強いのよ」
「格好いい!」
こころが言うと、「でしょう」と女性が返した。
「私もね、本音を言えばやめたくなかったの。ずっと続けてきたお店なんだから、愛着がないわけがないもの。それでも、お店と旦那どっちが大事かと言われれば、考えるまでもなく旦那の方が大事なのよ」
「そっか。なら仕方ないな」
魔理沙も笑顔を作って言う。
「跡継ぎがいれば良かったんだけど、一人娘は呉服屋さんに嫁いじゃったからねー。呉服屋さんでお菓子出してもらうわけにもいかないし」
そこで女性はぱんと手を叩いた。
「それで今日はどういった用件でお越しになったのかしら?」
女性が訊いてきたので、こころは手をまっすぐ上にあげると、
「抹茶のアイス!」
「抹茶のアイス食べに来たの? ふふ、魔理沙ちゃんはいつもそればっかり食べてたものね。二人分でいい?」
「うん、お願い」
女性が店の奥に下がったので、こころはガラスのショーケースの内側に置いてある和菓子を覗き込んでみる。羊羹、団子、饅頭などのお菓子はこころにもわかった。とても美味しそうだと思う。その他にもこころには何と言うのかわからない、色とりどりの綺麗なお菓子が並べてあった。
しばらくすると女性が戻ってきた。
「はい、おまちどおさま。中で食べる?」
「ありがと。外の椅子で食べるよ」
魔理沙が礼を言いながら二人分のお金を払った。そのまま二つのカップを両手で掴むと、店の前に置かれている長椅子まで移動した。
「ほれ」
魔理沙が片方のカップを差し出してきたので、こころは礼を言って受け取る。アイスは上品な薄緑色をしていた。
魔理沙はさっそくスプーンでアイスをすくうと口の中へ入れた。
「うん。やっぱりここの抹茶のアイスはうまい」
そう言うと表情をくしゃっと崩した。本当に美味しいんだろうなと見ていてわかる。感情がそのまま顔に出る魔理沙の素直なところが、こころは好きだった。
こころもアイスを食べる。
舌の上に冷たい感触。地面に落ちた雪のように、それはすぐに溶けてしまった。抹茶特有の上品な甘さが口の中いっぱいに広がる。
「うまーい」
「そうだろう」
魔理沙の言うとおり、抹茶のアイスは本当に美味しかった。こころは一口食べてすっかり魅せられてしまった。
通りを歩く子供が羨ましそうな視線を送ってくる。父親と思しき人に手を引かれながらも、その視線はこころの手元にあるアイスから離れようとはしない。
あげないよ、とこころは目で訴える。
「この抹茶のアイスはさ」
と横に座る魔理沙が口を開いたので、こころは隣に顔を向ける。
「私にとってちょっと特別なんだ。私の実家って、道具屋をやっているだよ。店に来て買っていく人が大半だけど、中には品物を家に届けて欲しいって人もいるんだ。それで、台車に品物を載せて届けに行く親父に、私も付いていくんだ。品物を届けて、その帰りはここに来て、この抹茶のアイスを食べるのが決まりになっていたんだよ。だから、早く誰かそういう注文をしてくる人が来ないかな、と私はいつも思ってた。でも、なかなかそう言う人は来ないから、店に買いに来たお客さんに注文してよって頼んでみたりしてさ。親父に見つかって、迷惑を掛けるんじゃないって怒られたな。で、実際、注文が来ると、大喜びして店の中飛び跳ねたりしてさ。そんな私を見て、母さんは呆れたように笑ってたなあ」
昔を懐かしむかのように、魔理沙は空を見上げた。
「品物を届ける家がこの甘味処と逆方向でも、親父はここに連れてきてくれた。それで、抹茶のアイスを二つ頼んで、今こうしているように二人で並んで食べたんだ。うまいな、って親父が言ってきて、私もうまいね、って返した。いっつも抹茶のアイスばかり食べてたから、おばさんにも覚えられちゃってさ。今日は他のにしたら? なんて言われても、抹茶のアイスがいい! って言い返して、良く笑われたよ」
こころは相槌を打ちながら静かに聞いていた。魔理沙が昔のことを話してくれたのは初めてだった。
「どういう理由だったかは忘れてけれど、親父と喧嘩をしてさ。それで家出をしたんだ。まだかなり小さい頃だったし、初めての家出だったから、どこに行けばいいのかもまったくわからなくて、とりあえず家を出たら家出だ、って安直な考えをして、ここにやって来たんだよ。一人で来た私を見て、おばさんがちょっと驚いてた。どうしたの? って聞かれて、家出をしたって答えたら、じゃあ気が済むまでここにいなさいって言ってくれた。店の奥に案内してくれて、そこでおっちゃんがお菓子を作っているところを椅子に座ってずっと見てたんだ。一生懸命に作っているのがわかったよ。この人は本気でお菓子を作っているだなあって子供ながらに思った。いつの間にか眠くなって、椅子に座ったまま眠っちゃったけど」
魔理沙はそこで一度話を止めて、アイスを口にした。
「それで目が覚めたら、親父が店に来ているっておばさんが教えてくれた。親父の第一声は、帰るぞ、だったよ。でも私は嫌だ、って答えた。意地っ張りだったからな。どうしても帰るなら、抹茶のアイスを買ってくれって言ったんだ。一つじゃないぞ、三つだ、三つ。怒鳴られるかと思ったけど、親父は三つ買ってくれたよ。どういうわけか親父も自分の分を三つ買って、その場で一緒に三つ全部食ったんだ。私はそれで満足して、それから親父に手を引かれて家に帰った。何を話したのかあんまり覚えてないけど、夕日で赤く染まった空がすごく綺麗だったことは覚えてる。とまあ、ここまでは良かったんだけど、一度に三つも食ったもんだから、家に着いて腹を壊しちゃってさ。私も親父も腹痛くて、しばらく大変だったよ。何をやってるのって母さんが呆れてた。アイスはうまいけれど、やっぱり一個がちょうどいいんだって学んだ出来事だったな」
魔理沙は微笑んで、手元の空になったカップを見つめる。
「まあ、とにかく私はここの抹茶のアイスが大好きなんだって話だ」
「なんかいいね」
「ん?」
「そう言う思い出って、聞いていて面白い」
「気に入ってくれたのなら、話して良かった」
「魔理沙のお父さんは、今何をしているの?」
「さあな。くたばったという話は聞かないから、今も道具屋をやっているんじゃないか」
「会ってないの?」
「会ってない。もうどれくらいになるかな。私は勘当されたんだ」
「そっか。魔理沙は家出をしているんだ」
「はは、そうだな。ずいぶんと長い家出だけど」
「帰りたくはならない?」
「ならない。今の生活には満足しているから」
「寂しくはない?」
「ない」
きっぱりと魔理沙は答える。魔理沙がなんで一人で暮らしているのか、こころは知らない。だけど家族がいるなら、一緒にいるべきなんじゃないかと思う。こころにはあまり良くわからないけど、家族ってそう言うものなんだと思っている。だから、ちょっとだけ悲しいような、寂しいような気持ちになった。
「こうして見ると、色々変わってしまうものなんだな。ここら辺の景色も昔と比べると少し変わってる。私は大きくなったし、家族との関係も変わった。これからも色々なものが変わっていくんだろうな。この抹茶のアイスの味は変わらないけれど」
「無くなっちゃうの残念だね」
「本当にそうだな」
と、そこでお店の女性が中から出てきた。
「ねえ、魔理沙ちゃん。ちょっといい?」
「どうかした?」
「聞くつもりはなかったんだけど、二人の会話が聞こえてね。魔理沙ちゃん、まだ家に帰ってないの?」
「ああ、まあ、そうだね」
魔理沙が答えると、女性は「そう」と一言つぶやいた。それから目を伏せて何か考えるような素振りを見せた。言うべきか言わないべきか迷っているような表情だった。
しばらくして女性が口を開いた。
「あのね、店を畳むと決まってから、色々な人にやめないでとか、残念だとか言って貰っているんだけど、一番最初にそう言ってきたのが、魔理沙ちゃんのお父さんなのよ」
「え?」
魔理沙は驚いたように声を漏らした。
「必死に説得されたわ。ここのお菓子は本当に美味しい。こんなにお客を大事にする店はなかなかない。だから、やめないでくれって。そんな風に色々と言われたわ」
女性はそこで優しく微笑んだ。
「でもね、私にはそれが本当の理由じゃないって、わかったの。もちろん、魔理沙ちゃんのお父さんには結構ひいきにして貰っているから、まったく思っていないというわけじゃないだろうけど。それでも本当のところは、きっと別の理由があるのよ」
「別の理由?」
魔理沙が訊くと、女性は頷いた。
「魔理沙ちゃんにはわからない?」
「わかるわけないよ。私には」
女性は少しだけ悲しそうな表情を見せた。それから静かに息を吐くと、話を続ける。
「その時に色々と説得されたけれど、こちらにも事情があるんだって何とか説明をしたの。お父さんはそれで何とか納得した様子だったわ。でもね、最後に抹茶のアイスだけは何とか残せないかって訊かれたの。申し訳ないけどそういうわけにはいかないって答えたら、そうかって言って、本当に残念そうな表情をしたわ。それで私はやっぱりね、って思った」
「どういうこと?」
こころには女性が言おうとしていることが何となくわかったけれど、魔理沙にはわからないようだった。
女性はまっすぐに魔理沙を見てそっと口を開いた。
「この抹茶のアイスは、お父さんにとって魔理沙ちゃんとの繋がりみたいなものだったのよ」
魔理沙はきょとんとした顔になった。女性が何を言っているのかまったくわからない。そんな様子だった。
「小さい頃、いつも一緒に食べてたでしょう。それだけ色々な思い出もあると思うの。そう言う思い出って、なかなか無くならないものなのよ。魔理沙ちゃんだってそうでしょう? そして、同じ思い出を共有しているということは、繋がりにもなるのよ。抹茶のアイスを一緒に食べたという記憶。たったそれだけでも、お父さんにとっては何事にも代え難い、大切な、繋がりなんじゃないかしら」
「そんな。ありえないよ。あの親父がそんなことを考えているとは思えない。私たちは縁を切ったんだから」
「口でいくら縁を切ったと言っても、血の繋がりなんてそう簡単に切れるようなものじゃないのよ。自分の子供のことが気にならない親なんてこの世に存在しない。魔理沙ちゃんのお父さんだってそう。離れて暮らしているとしても、……むしろ離れて暮らしているからこそ、こういう繋がりを大切に思っていたのよ。だから、それが無くなってしまうと聞いて、居ても立ってもいられなくなって、それでうちの店にまで説得に来たんじゃないかしら」
魔理沙は黙ったままうつむいた。先ほどまで辺りを包んでいた人々の喧噪がどこか遠くへ行ってしまったかのように、やけに静かに感じられた。こころは何も言わずに魔理沙と女性を眺めていた。
「私が言いたかったのはこれだけよ。後は魔理沙ちゃんが考えること」
そう言うと女性は店の中へ戻るためにこころたちに背を向けた。暖簾を潜る前に、一度こちらを振り返ると、
「二人とも、アイス食べに来てくれてありがとうね」
そして、女性は店の中へと姿を消した。
帽子に邪魔をされて魔理沙の顔を見ることはできなかった。今どんな表情をしているのか、こころは気になった。泣いているのだろうか。笑っているのだろうか。それとも怒っているのだろうか。
こころは黙っていた。自分が言うべきことは何もないとわかっていた。女性が言うように、これは魔理沙自身が考えることなのだ。だから自分にできることと言えば、こうして何も言わないで、ただそばにいることなのだと思った。
何人もの人たちが前を通り過ぎて行った。色々な表情が見えた。笑っていたり、むすっとしていたり、上の空だったり、人の数だけ表情があった。
どれくらい時間が過ぎただろうか。突然、魔理沙が「よし」と両手を振り下ろすようにして太もも辺りを叩いた。それから勢いよく立ち上がると、こころへ顔を向ける。
「悪い、こころ。ちょっと行くところができた。また今度な」
こっちを向いた顔は笑顔だった。でも、ただの笑顔じゃない。何か覚悟を決めたような、それでいてどこか不安が混じったような、複雑な表情だった。
「うん。わかった」
こころが頷くと、魔理沙は背を向けて歩き出した。
少しずつ遠くなる背中を見送る。その背中は何だか弱々しく見えて心配になった。
こころはちょっとだけ迷ったけれど、「魔理沙!」と呼びかける。魔理沙は歩みを止めて振り返った。
「頑張って!」
こころはそう言うと渾身のガッツポーズを見せた。一回じゃなくて、三回やってやった。それを見た魔理沙は力なく笑うと、拳を握りしめてそれを高く掲げ、ポーズを返してくれた。
姿が完全に見えなくなるまで、こころは魔理沙を見送っていた。その姿が遠く人混みの中へ消えた後もしばらく眺めていた。その後、空になったアイスのカップを片づけるためにお店の中に入った。
「魔理沙ちゃん、どうした?」
「帰りましたよ。家に」
「どっちの?」
「いるべき方へ」
「そっか」
女性は優しく微笑んだ。
「良かった」
博麗神社へと戻ったこころは霊夢の姿を探した。
居間で静かな寝息を立てているのを発見して、起こさないようにそっと部屋を出ると、境内まで歩いて行く。
箒を持ってくると、先ほどやっていた掃除の続きを始める。
別にやらなくてもいいのに。霊夢はきっとこう言うような気がした。
何で霊夢は自分のことを泊めてくれるのだろう。こころは不思議に思った。こころから見ても、霊夢は殊勝な性格をしているとは言いがたい。それなのにわざわざ面倒を見てくれる彼女は、一体何なのだろう、と。
石畳の上を箒で掃きながら、こころは考える。
おしゃべりな方でもない。愛想がいいとも言えない。縁側でお茶を飲むのが好きで、ぼけーっとしているのが似合っている。だと言うのに、神社を訪れるみんなには好かれているようだった。
こころ自身、霊夢と一緒にいると不思議な安堵感のようなものを覚える。どこまでも自然体な霊夢の態度がそう感じさせるのか、他に何か要因があるのかはわからなかったが、とにかくこころの生活の中に霊夢という存在が自然と溶け込んでいた。
神社での生活は楽しかった。最初は神社という特異な場所で寝泊まりすることに身構える部分もあった。自分の知らない世界が広がっていて、知らぬ間にその世界に飲み込まれてしまうのではないかという不安もあった。だけど、そんな思いはすぐに払拭された。掃除をして、お茶を飲んで、それから夜が来て、寝る。特に変哲もない生活に、逆に驚いたほどだ。
霊夢はいつもお茶を淹れるとこころを呼びに来る。何かについて話したりすることもあれば、黙ってお茶を啜っていたりすることもある。どちらにしても、こころはこの時間が好きだった。ゆったりとした時間が、ただ過ぎていくだけの、平凡な一時。特別な楽しさはなかったけれど、こころの生活を形成する大切な部分だった。
霊夢はどう思っているのだろうか。自分と一緒にいることは、煩わしかったりしないのだろうか。こころは疑問に思う。
いくら考えたところでわかりはしなかった。考えることは止めて、後で気が向いたら霊夢自身に訊いてみようと決めた。
夕方になり、掃除を終えて居間に戻った。霊夢の姿はなかった。台所の方を覗いてみると、料理を作っている姿が目に入った。
「霊夢さん。何か手伝う?」
「ん。別にいいわよ、ゆっくりしてて。掃除してくれたんでしょ」
料理する手を止めずに霊夢は言う。
言葉に甘えて、こころは居間でのんびりとすることにした。
それからしばらくして霊夢が料理を居間のテーブルに並べ始めたので、それを手伝った。料理を並び終えると、二人揃っていただきますを言う。
「抹茶のアイス、美味しかったよ」
ご飯を食べながら今日の出来事を話した。お店の女性のこと。抹茶のアイスの味。魔理沙が話してくれた昔のこと。それから魔理沙が家に戻ったことも。
こころが話している間、霊夢は「うん」とか「そう」などと相槌を打ちながら聞いてくれた。ちょっとだけぶっきらぼうだけど、話をしっかり聞いてくれていることはわかっている。
夕食を終えるとこころは片付けをする。霊夢が一人で料理を作ってくれた時は、こうしてこころが片付けを買って出るのだ。
片付けが終わったところで、霊夢が寝間着姿でこころを呼びに来た。
「お風呂、空いたから入っちゃいなさい」
「うん」
言われたとおりお風呂に入る。湯船につかると一日の疲れが流れ出ていくようで、とても気持ちが良かった。極楽、極楽、と一人つぶやく。
お風呂から上がり居間に戻ると、布団が二組敷いてあった。昼間は居間として使われて、夜は寝室になる。
「寝るわよ」
霊夢が言う。基本的に、日が沈んだら寝て日が昇ったら起きる。幻想郷の人間の平均的な生活スタイルだ。
二人でそれぞれの布団に横になった。
しばらく目をつぶっていたけれど、なかなか寝付けなかった。
ふと魔理沙のことを思い出した。あの後、魔理沙はどうなったのだろうか。うまくお父さんと仲直りできただろうか。できていたらいいな、とこころは思った。
寝返りを打つと霊夢の後ろ姿が見えた。霊夢は寝付くのが早いほうで、大体の場合、こころが眠りに落ちる前に霊夢の寝息が聞こえてくるのだった。
だけど今日は違った。霊夢が寝返りを打った。こちらを向いた霊夢はまだ眠っていなかった。薄暗い部屋の中でも霊夢が目を開けているのがわかった。
こころは疑問に思っていたことを訊いてみることにした。
「ねえ、霊夢さん」
「ん」
「霊夢さんは、何で私のことをここに置いてくれたの?」
霊夢は少しの間黙ってから答えた。
「別に。理由なんてないわ。強いて言うなら、あんたが心配だったから」
「私のこと心配してくれてるの?」
「また何か問題を起こすんじゃないかってね」
「む! 何だそれは。失礼な」
「実際に問題を起こしたのはどこの誰だったかしら。希望の面はどこだー、って」
そう言われると何も言えないこころだった。そして、ちょっとだけ悲しくなった。
「もしかして、迷惑かな? 私がここにいるの」
こころがそう訊いた瞬間、隣から手刀が飛んできておでこの辺りに当たった。「いたっ!」と声を出しておでこを手でさする。
「そんなこと、あんたは気にしなくていいの。それにね、もし迷惑だったら、問答無用で蹴り飛ばしてやるわよ」
鏡がなかったから自分がどんな顔をしているのか確認できなかったけれど、自然と口元が緩んだ気がした。
「はい、この話はもう終わり。寝る」
霊夢はきっぱりと言いはなった。
「待って。もう一個だけ質問」
「一個だけよ」
「お父さんとお母さんがいるって、どんな気持ち?」
部屋の中に静けさが舞い降りた。遠くからかすかに虫の鳴き声が聞こえてくる。
霊夢はそっと息を吐いた。
「わからないわ。私には」
「そうなの?」
「私には、いないから」
「そうなんだ」
「あんたはいないのね」
「どうなんだろう。お面を作ってくれた人ならいるけれど、でも私の考えている親とは違うような気がする」
こころが言うと、霊夢は「そう」と静かに答えた。
「霊夢さんは、寂しくない?」
「……わからない」
「そっか」
「あんたはどう?」
「私もよくわからないかも」
「そう」
「うん」
「ねえ、こころ」
「はい」
暗闇の中、こっちを向いている霊夢の顔が、ほんの少しだけ柔らかい表情になった気がした。
「私たちって、ちょっと似ているのかもね」
単純に親のいないところが似ているのか、それとも別に似ている部分があるのか、霊夢の言葉の意味するところをはっきりと理解することはできなかったけれど、そんな風に言ってくれたことがこころにとっては何だか嬉しかった。
それから霊夢は黙ってしまった。しばらくすると静かな寝息が聞こえてきた。
色々なものが変わっていくと魔理沙が言っていたことを思い出す。霊夢との関係もいつか変わってしまうのだろうか。いつまでもここでお世話になるわけにはいかない。いつかはここを出ていかなければならない。
二人布団を並べて、手を伸ばせば届く距離にいる。この距離もいつか広がってしまうのだろうか。ただの人間と妖怪の関係になってしまうのだろうか。
それはすごく寂しいな、とこころは思う。
そんな風にあれこれ考えていると、眠気が襲ってきて、いつの間にか深い眠りについていた。
次の日、いつものように境内の掃除をする。
良く晴れていて綺麗な青空が広がっていた。残念なことにこころが掃除をしている間、参拝に訪れた人はいなかった。
昨日しっかり掃除を行ったおかげで、今日はそれほど時間がかからなかった。掃除を終えて箒を片づけたところで霊夢が呼びに来た。
「こころ。お茶、淹れたわよ」
「行く行くー」
縁側に先に到着し、座って待っていると、霊夢が二人分のお茶を持ってくる。
「今日もお茶がうまい」
「そうですねー」
のんびりとした時間。特別さはまったくないけれど、これはこれで良いのだ。
と、そこで昨日と同じように魔理沙が箒に乗って登場した。
「よう。お二人さん」
「よう。魔理沙」
「また来たのね。今日はどうしたの?」
魔理沙は箒から降りると、一つ咳払いをする。
「今日は報告があって来た」
「報告?」
こころが訊くと、魔理沙が頷く。
「ほら、昨日こころと別れた後、家に帰っただろう。それについて」
「お父さんとお話した?」
「ああ、まあ、した。ちょっとだけだけど」
「ふうん。なんて話したの?」
霊夢がお茶を啜りながら訊く。
「別に何か面白い話をしたわけじゃないよ。顔を合わせて、よう、って言った。そしたら相手も、おう、みたいに返してきた。それで、さっき抹茶のアイスを食べて来たんだ、って言ったんだ。うまかったか? って訊いてきたから、うまかったよ、みたいな感じで返したわけだ。まあ、それくらいだな。後は母さんが心配してるから、たまには顔を見せろみたいなことも言ってたっけな」
「良かったね魔理沙」
「良かったじゃない魔理沙」
こころと霊夢が揃って言うと、魔理沙はあからさまに顔をしかめて見せた。
「別に良くはない」
むすっと答える魔理沙が可笑しくて、こころは翁の面を取り出す。霊夢も笑っていた。
「笑うんじゃない。まったく。ああ、そうだ。もう一つ報告があったんだ。甘味処のことだけどさ。あそこの一人娘が呉服屋に嫁いだってのは昨日おばさんが言ってただろう。その呉服屋の親族に、甘味処を経営している人がいるらしいんだ。で、そこの人が、もし良かったら抹茶のアイスだけでもうちで出せないか、ってことをおばさんに言ってきたんだって。それで、おばさんがおっちゃんと相談した結果、その甘味処で出してもらうことに決めたみたいなんだ」
「じゃあ、また抹茶のアイス食べられるの?」
「うん。しばらくはおばさんも手伝うみたいなことを言っていたから、味に関しては心配いらないな」
「そっかー。良かったね魔理沙」
「おう、良かった良かった」
「でも、あんた、なんでそんなことを知ってるわけ? 昨日、里に行った時にはそんな話知らなかったんでしょう?」
霊夢が尋ねる。
「今日の午前中に、ちょっと里に用があって、それで甘味処にもついでに立ち寄っただけだよ」
「ふうん。どんな用があったの?」
「別に何だっていいだろう。どうしてお前はこういう時だけ、そう首を突っ込んでくるんだよ」
別にちょっと気になっただけだもん。ねー、と霊夢がこころに同意を求めて来たので、こころもねー、と返す。
「まったく。まあいい。とりあえず用はそれだけだ。私は帰る」
「ゆっくりしていかないの? お茶淹れるわよ」
「ありがたいけど、また今度な。じゃあまたな、お二人さん」
箒に跨った魔理沙は颯爽と空へ舞い上がり、すぐに遠くに飛んでいった。
再び、神社の縁側に静けさが戻った。
霊夢と二人並んで、お茶を飲む。
魔理沙はうまくいった様子だった。一度変わった関係は簡単には元に戻せないし、これからもまた何かが変わっていってしまうのかもしれない。だけど、その時はまた抹茶のアイスを食べればきっと大丈夫。こころはそんなことを思う。
遠くから蝉の声が聞こえる。その声もだいぶ少なくなった。夏が過ぎて秋が来る。時間は止まってはくれない。そのうち蝉はいなくなって葉が色付き始める。冬が来ればその葉も枯れ落ちる。
いつまで博麗神社にいられるのだろう、とこころは思う。あと何回、この縁側に座ってお茶を飲めるのだろう。
隣に座る霊夢を見る。いつもと変わらず、美味しそうにお茶を啜っている。
そこでこころはあることを思いついた。
一度深呼吸をして、気持ちを整える。それから霊夢の袖の部分をちょいちょいと手で引っ張る。
「ん?」
「あのね、霊夢さん。もし良かったらだけど」
いつか終わりがくるのなら。
いつか変わってしまうのなら。
せめてその前に。
「今度、抹茶のアイス食べに行こう?」
霊夢との繋がりを残しておこうと思う。
こころが言うと、霊夢は一瞬きょとんとした顔になった。
それからゆっくりと表情を崩すと、こころの頭に手を乗っけてわしゃわしゃと撫でつけた。
そして、そっとつぶやいた。
「そうね。それもいいかもね」
博麗神社の縁側には、どこまでも穏やかな時間が流れていた。
こころは一人つぶやく。
博麗神社の境内を竹箒を使って掃除する。
ふう、と一息つき、辺りを見渡す。半分ほどは終わった。あと半分残っていると考えると、こころはため息をつきたくなった。しかしこころは居候の身である。ここで弱音を吐いて適当に終わらすなどと言うことはできない。寝泊まりできる場所を提供して貰って、おまけにご飯まで出して貰っているのだから、自分にできることはなるべくやりたいと思う。
袖で額を拭うと、気合いを入れ直す。
と、そこで声がかかった。
「こころー。お茶淹れたわよ。少し休憩したら?」
「するするー」
せっかく淹れてくれたお茶を無下にすることはできぬ! というわけで、こころは箒を片づけると神社の裏手にある縁側に向かった。
霊夢が二人分のお茶をお盆に乗っけて持ってきた。お盆を廊下に置くと、霊夢は座布団の上に腰を下ろし、湯気が上がっている湯飲みを持ち上げた。こころも湯飲みに手を伸ばす。
「ん~。今日もお茶が美味しい」
「まったくです」
二人でのほほんとお茶を飲む。博麗神社に寝泊まりするようになってから、しばらく経った。こころにとってこれが日常になり始めていた。
ゆったりとした時間が過ぎる。
空を眺めると青い空がいっぱいに広がっていて、綿菓子のような雲がふわっと浮いている。
遠くの方に黒い影が見えた。何だろうとこころが目を凝らしてみると、それは段々とこちらに近づいて来ているようだった。次第に輪郭がはっきりとしてくる。
全体的に黒っぽい色合いで、とんがり帽子をかぶっているのが見えた。幻想郷でそんな格好をしているのは一人しかいないので、それが魔理沙だとすぐにわかった。
二人の前に降り立った魔理沙は、片手をあげると、
「よう。お二人さん」
そう挨拶をしてきたので、こころも真似をする。
「よう。魔理沙」
「お、なんだこころ。いい返事じゃないか」
「何しに来たのよ。魔理沙」
「お前は何で客にそうつっけんどんな態度を取るかなあ。そんなんだからこの神社は閑古鳥が鳴いているんだよ」
「うるさいわね。こっちは二人で優雅なティータイムを楽しんでいたのに」
ねー、と霊夢が同意を求めて来たので、こころはどう返事をしたものかと困り、猿の面を付ける。
「緑茶を飲んでいるのに、ティータイムなんて言い方はするんじゃない。と、そんなことはどうでもいい。今日はちょっと用があって来たんだ」
「何?」
「里に甘味処があるだろう」
「まあ、いくつかあるわね」
霊夢がお茶を啜りながら答える。
「私がよく行った甘味処があるんだ。そこの抹茶のアイスが本当に美味しくて、昔から大好きだったんだが、残念なことにもうすぐ食べられなくなるかもしれない」
「どうして?」
こころは尋ねる。
「店が潰れるのね」
「言い方が悪い。潰れるんじゃなくて、店を畳むんだ。あそこの店主が身体を悪くしちゃったみたいでさ。それでこれ以上続けるのは難しいってんで、畳むことに決めたみたいなんだよ」
「そうなんだ。残念だね」
こころは思ったことを口にした。
「そうだな。残念だ」
そう言う魔理沙は本当に残念そうだった。
「それで、用って何?」
霊夢が訊く。
「無くなる前に、一度行っておこうと思ってさ。その甘味処に。だから、一緒に行かないかと誘いに来た」
魔理沙が言うと、霊夢は片手をひらひらとさせて、
「私は止めておくわ。まだ神社の中の片づけ終わってないし」
「そうか。こころはどうする?」
視線を向けられて、こころは少しだけ戸惑う。本音を言えば行ってみたいという思いが強かった。だけど、まだ境内の掃除が終わっていなかったから途中でほっぽり出すのはすごく悪いなと思う。
そんな気持ちを察したのか、霊夢がお茶を一口啜ると口を開いた。
「行きたければ行けばいいわよ。別に掃除くらい私一人でできるんだし」
「う、うーん」
それでもこころは迷う。
「でもやっぱり霊夢さんに悪いし……」
こころは霊夢の方をちらりと見る。変わらずにお茶を啜っている。別にどっちでもいいわよ、私は。あんたの好きにしなさい。こころには霊夢がそんな風に言っているように思えた。
「しゃーない」
そこで声を上げたのは魔理沙だった。てっきりこころは魔理沙があきらめて一人で行くことにしたのだと思った。残念だけど仕方ない、と自分に言い聞かせる。抹茶のアイスとやらを食べてみたかったけれど、あきらめよう。
「おい、霊夢。こころ借りてくぜ」
「死んだら返してね」
「おう」
そう言うと魔理沙は強引にこころの腕を引っ張った。
「おお?」
「ほれ、行くぞ。人里までひとっ飛びだ。遅れるんじゃないぞ。私は速いからな」
勢いよく箒へ跨った魔理沙はこころの腕を引っ張りながら、空中へ舞う。片腕を取られてバランスを崩しながらもこころはそれに続く。
博麗神社を見下ろせるほどの高さまで上がった。そこで、急に引っ張られている方の腕に衝撃が走った。魔理沙が腕をつかんだまま加速したのだとわかった時には、景色がぐるんぐるんとしていて上を向いているのか下を向いているのかわからない状態だった。体勢を立て直せないまま、魔理沙に引かれて空中を駆け抜けていく。一瞬だけ後方にある神社が視界に入った。
霊夢は片手をあげて、手を振っていた。
そんなわけで、何とか人里に到着した。
「着いた着いた」
「……」
「ん、どうしたんだこころ。ひどい有様じゃないか。髪がぼさぼさだ」
「手を離してって、何度も言ったのに」
般若の面を付けて怒りをアピールする。空を飛んでいる間ずっと魔理沙に腕を引っ張られ続けた。結果、空気抵抗にもみくちゃにされて、まるで台風に突撃したかのような有様だった。
魔理沙は笑いながら、
「悪かった。こっちの方が早いかなと思ってさ」
そう言って、こころの髪を手で優しく直す。
「許さないもん」
「いや、許してもらえるんだなこれが。お前、金持ってるか?」
そこで気付く。神社から出る予定などなかったから当然持ち合わせはなかった。しまったとこころは思い、猿の面を取り出そうと手を動かしていると、
「安心しろ。アイスくらいおごってやるからさ。つれて来たのは私なんだし」
「ありがとう!」
「許してくれるか?」
「許す許す~」
大通りの一角に目的の甘味処はあった。外から眺めても老舗だとわかる風貌であるにもかかわらず、古くささのようなものは感じられない。
二人はさっそく暖簾を潜り中へと入った。
「いらっしゃい。あら、魔理沙ちゃんじゃない。久しぶりねー」
そう言ってきたのは女性だった。見た感じは三十代くらいに思えるが、本当はもう少し上かもしれない。落ち着いた色の和服がとても良く似合っているとこころは思った。
「久しぶり、おばさん」
「大きくなったわよね。小さい頃から知っているから、何だか感慨深いわー」
「おばさんは全然変わらないな。すごく若く見える」
「まあ、ありがと」
女性はにっこりと笑った。とても気のいい人だとこころはすぐにわかった。
「そちらの子は、確かこころちゃんだったかしら」
「私を知っているの?」
「里では結構な有名人よ。あなた」
少し恥ずかしくなる。確かにこの里であれだけ異変を起こせば、有名になってもおかしくはなかった。
「なあ、おばさん。お店今月いっぱいで畳むって聞いたんだけど」
「ええ、そうよ。旦那がね、だいぶ身体を悪くしちゃって。お菓子を作るのって結構、重労働なのよ。元々持病を持っていたのに無理をして続けて来たんだけど、そのツケがついに来ちゃったって感じかしら。お医者さんに診て貰ったら、かなり悪い状態だって。本人はまだ続けたがっていたんだけどね。まだまだやれるって。でも、私が言ったの。もうやめようって」
「おっちゃんは素直に聞き入れたの?」
「全然。喧嘩になったわよ」
女性はにこにこと笑って言う。
「結局は私が勝ったけれどね。本気になった女は強いのよ」
「格好いい!」
こころが言うと、「でしょう」と女性が返した。
「私もね、本音を言えばやめたくなかったの。ずっと続けてきたお店なんだから、愛着がないわけがないもの。それでも、お店と旦那どっちが大事かと言われれば、考えるまでもなく旦那の方が大事なのよ」
「そっか。なら仕方ないな」
魔理沙も笑顔を作って言う。
「跡継ぎがいれば良かったんだけど、一人娘は呉服屋さんに嫁いじゃったからねー。呉服屋さんでお菓子出してもらうわけにもいかないし」
そこで女性はぱんと手を叩いた。
「それで今日はどういった用件でお越しになったのかしら?」
女性が訊いてきたので、こころは手をまっすぐ上にあげると、
「抹茶のアイス!」
「抹茶のアイス食べに来たの? ふふ、魔理沙ちゃんはいつもそればっかり食べてたものね。二人分でいい?」
「うん、お願い」
女性が店の奥に下がったので、こころはガラスのショーケースの内側に置いてある和菓子を覗き込んでみる。羊羹、団子、饅頭などのお菓子はこころにもわかった。とても美味しそうだと思う。その他にもこころには何と言うのかわからない、色とりどりの綺麗なお菓子が並べてあった。
しばらくすると女性が戻ってきた。
「はい、おまちどおさま。中で食べる?」
「ありがと。外の椅子で食べるよ」
魔理沙が礼を言いながら二人分のお金を払った。そのまま二つのカップを両手で掴むと、店の前に置かれている長椅子まで移動した。
「ほれ」
魔理沙が片方のカップを差し出してきたので、こころは礼を言って受け取る。アイスは上品な薄緑色をしていた。
魔理沙はさっそくスプーンでアイスをすくうと口の中へ入れた。
「うん。やっぱりここの抹茶のアイスはうまい」
そう言うと表情をくしゃっと崩した。本当に美味しいんだろうなと見ていてわかる。感情がそのまま顔に出る魔理沙の素直なところが、こころは好きだった。
こころもアイスを食べる。
舌の上に冷たい感触。地面に落ちた雪のように、それはすぐに溶けてしまった。抹茶特有の上品な甘さが口の中いっぱいに広がる。
「うまーい」
「そうだろう」
魔理沙の言うとおり、抹茶のアイスは本当に美味しかった。こころは一口食べてすっかり魅せられてしまった。
通りを歩く子供が羨ましそうな視線を送ってくる。父親と思しき人に手を引かれながらも、その視線はこころの手元にあるアイスから離れようとはしない。
あげないよ、とこころは目で訴える。
「この抹茶のアイスはさ」
と横に座る魔理沙が口を開いたので、こころは隣に顔を向ける。
「私にとってちょっと特別なんだ。私の実家って、道具屋をやっているだよ。店に来て買っていく人が大半だけど、中には品物を家に届けて欲しいって人もいるんだ。それで、台車に品物を載せて届けに行く親父に、私も付いていくんだ。品物を届けて、その帰りはここに来て、この抹茶のアイスを食べるのが決まりになっていたんだよ。だから、早く誰かそういう注文をしてくる人が来ないかな、と私はいつも思ってた。でも、なかなかそう言う人は来ないから、店に買いに来たお客さんに注文してよって頼んでみたりしてさ。親父に見つかって、迷惑を掛けるんじゃないって怒られたな。で、実際、注文が来ると、大喜びして店の中飛び跳ねたりしてさ。そんな私を見て、母さんは呆れたように笑ってたなあ」
昔を懐かしむかのように、魔理沙は空を見上げた。
「品物を届ける家がこの甘味処と逆方向でも、親父はここに連れてきてくれた。それで、抹茶のアイスを二つ頼んで、今こうしているように二人で並んで食べたんだ。うまいな、って親父が言ってきて、私もうまいね、って返した。いっつも抹茶のアイスばかり食べてたから、おばさんにも覚えられちゃってさ。今日は他のにしたら? なんて言われても、抹茶のアイスがいい! って言い返して、良く笑われたよ」
こころは相槌を打ちながら静かに聞いていた。魔理沙が昔のことを話してくれたのは初めてだった。
「どういう理由だったかは忘れてけれど、親父と喧嘩をしてさ。それで家出をしたんだ。まだかなり小さい頃だったし、初めての家出だったから、どこに行けばいいのかもまったくわからなくて、とりあえず家を出たら家出だ、って安直な考えをして、ここにやって来たんだよ。一人で来た私を見て、おばさんがちょっと驚いてた。どうしたの? って聞かれて、家出をしたって答えたら、じゃあ気が済むまでここにいなさいって言ってくれた。店の奥に案内してくれて、そこでおっちゃんがお菓子を作っているところを椅子に座ってずっと見てたんだ。一生懸命に作っているのがわかったよ。この人は本気でお菓子を作っているだなあって子供ながらに思った。いつの間にか眠くなって、椅子に座ったまま眠っちゃったけど」
魔理沙はそこで一度話を止めて、アイスを口にした。
「それで目が覚めたら、親父が店に来ているっておばさんが教えてくれた。親父の第一声は、帰るぞ、だったよ。でも私は嫌だ、って答えた。意地っ張りだったからな。どうしても帰るなら、抹茶のアイスを買ってくれって言ったんだ。一つじゃないぞ、三つだ、三つ。怒鳴られるかと思ったけど、親父は三つ買ってくれたよ。どういうわけか親父も自分の分を三つ買って、その場で一緒に三つ全部食ったんだ。私はそれで満足して、それから親父に手を引かれて家に帰った。何を話したのかあんまり覚えてないけど、夕日で赤く染まった空がすごく綺麗だったことは覚えてる。とまあ、ここまでは良かったんだけど、一度に三つも食ったもんだから、家に着いて腹を壊しちゃってさ。私も親父も腹痛くて、しばらく大変だったよ。何をやってるのって母さんが呆れてた。アイスはうまいけれど、やっぱり一個がちょうどいいんだって学んだ出来事だったな」
魔理沙は微笑んで、手元の空になったカップを見つめる。
「まあ、とにかく私はここの抹茶のアイスが大好きなんだって話だ」
「なんかいいね」
「ん?」
「そう言う思い出って、聞いていて面白い」
「気に入ってくれたのなら、話して良かった」
「魔理沙のお父さんは、今何をしているの?」
「さあな。くたばったという話は聞かないから、今も道具屋をやっているんじゃないか」
「会ってないの?」
「会ってない。もうどれくらいになるかな。私は勘当されたんだ」
「そっか。魔理沙は家出をしているんだ」
「はは、そうだな。ずいぶんと長い家出だけど」
「帰りたくはならない?」
「ならない。今の生活には満足しているから」
「寂しくはない?」
「ない」
きっぱりと魔理沙は答える。魔理沙がなんで一人で暮らしているのか、こころは知らない。だけど家族がいるなら、一緒にいるべきなんじゃないかと思う。こころにはあまり良くわからないけど、家族ってそう言うものなんだと思っている。だから、ちょっとだけ悲しいような、寂しいような気持ちになった。
「こうして見ると、色々変わってしまうものなんだな。ここら辺の景色も昔と比べると少し変わってる。私は大きくなったし、家族との関係も変わった。これからも色々なものが変わっていくんだろうな。この抹茶のアイスの味は変わらないけれど」
「無くなっちゃうの残念だね」
「本当にそうだな」
と、そこでお店の女性が中から出てきた。
「ねえ、魔理沙ちゃん。ちょっといい?」
「どうかした?」
「聞くつもりはなかったんだけど、二人の会話が聞こえてね。魔理沙ちゃん、まだ家に帰ってないの?」
「ああ、まあ、そうだね」
魔理沙が答えると、女性は「そう」と一言つぶやいた。それから目を伏せて何か考えるような素振りを見せた。言うべきか言わないべきか迷っているような表情だった。
しばらくして女性が口を開いた。
「あのね、店を畳むと決まってから、色々な人にやめないでとか、残念だとか言って貰っているんだけど、一番最初にそう言ってきたのが、魔理沙ちゃんのお父さんなのよ」
「え?」
魔理沙は驚いたように声を漏らした。
「必死に説得されたわ。ここのお菓子は本当に美味しい。こんなにお客を大事にする店はなかなかない。だから、やめないでくれって。そんな風に色々と言われたわ」
女性はそこで優しく微笑んだ。
「でもね、私にはそれが本当の理由じゃないって、わかったの。もちろん、魔理沙ちゃんのお父さんには結構ひいきにして貰っているから、まったく思っていないというわけじゃないだろうけど。それでも本当のところは、きっと別の理由があるのよ」
「別の理由?」
魔理沙が訊くと、女性は頷いた。
「魔理沙ちゃんにはわからない?」
「わかるわけないよ。私には」
女性は少しだけ悲しそうな表情を見せた。それから静かに息を吐くと、話を続ける。
「その時に色々と説得されたけれど、こちらにも事情があるんだって何とか説明をしたの。お父さんはそれで何とか納得した様子だったわ。でもね、最後に抹茶のアイスだけは何とか残せないかって訊かれたの。申し訳ないけどそういうわけにはいかないって答えたら、そうかって言って、本当に残念そうな表情をしたわ。それで私はやっぱりね、って思った」
「どういうこと?」
こころには女性が言おうとしていることが何となくわかったけれど、魔理沙にはわからないようだった。
女性はまっすぐに魔理沙を見てそっと口を開いた。
「この抹茶のアイスは、お父さんにとって魔理沙ちゃんとの繋がりみたいなものだったのよ」
魔理沙はきょとんとした顔になった。女性が何を言っているのかまったくわからない。そんな様子だった。
「小さい頃、いつも一緒に食べてたでしょう。それだけ色々な思い出もあると思うの。そう言う思い出って、なかなか無くならないものなのよ。魔理沙ちゃんだってそうでしょう? そして、同じ思い出を共有しているということは、繋がりにもなるのよ。抹茶のアイスを一緒に食べたという記憶。たったそれだけでも、お父さんにとっては何事にも代え難い、大切な、繋がりなんじゃないかしら」
「そんな。ありえないよ。あの親父がそんなことを考えているとは思えない。私たちは縁を切ったんだから」
「口でいくら縁を切ったと言っても、血の繋がりなんてそう簡単に切れるようなものじゃないのよ。自分の子供のことが気にならない親なんてこの世に存在しない。魔理沙ちゃんのお父さんだってそう。離れて暮らしているとしても、……むしろ離れて暮らしているからこそ、こういう繋がりを大切に思っていたのよ。だから、それが無くなってしまうと聞いて、居ても立ってもいられなくなって、それでうちの店にまで説得に来たんじゃないかしら」
魔理沙は黙ったままうつむいた。先ほどまで辺りを包んでいた人々の喧噪がどこか遠くへ行ってしまったかのように、やけに静かに感じられた。こころは何も言わずに魔理沙と女性を眺めていた。
「私が言いたかったのはこれだけよ。後は魔理沙ちゃんが考えること」
そう言うと女性は店の中へ戻るためにこころたちに背を向けた。暖簾を潜る前に、一度こちらを振り返ると、
「二人とも、アイス食べに来てくれてありがとうね」
そして、女性は店の中へと姿を消した。
帽子に邪魔をされて魔理沙の顔を見ることはできなかった。今どんな表情をしているのか、こころは気になった。泣いているのだろうか。笑っているのだろうか。それとも怒っているのだろうか。
こころは黙っていた。自分が言うべきことは何もないとわかっていた。女性が言うように、これは魔理沙自身が考えることなのだ。だから自分にできることと言えば、こうして何も言わないで、ただそばにいることなのだと思った。
何人もの人たちが前を通り過ぎて行った。色々な表情が見えた。笑っていたり、むすっとしていたり、上の空だったり、人の数だけ表情があった。
どれくらい時間が過ぎただろうか。突然、魔理沙が「よし」と両手を振り下ろすようにして太もも辺りを叩いた。それから勢いよく立ち上がると、こころへ顔を向ける。
「悪い、こころ。ちょっと行くところができた。また今度な」
こっちを向いた顔は笑顔だった。でも、ただの笑顔じゃない。何か覚悟を決めたような、それでいてどこか不安が混じったような、複雑な表情だった。
「うん。わかった」
こころが頷くと、魔理沙は背を向けて歩き出した。
少しずつ遠くなる背中を見送る。その背中は何だか弱々しく見えて心配になった。
こころはちょっとだけ迷ったけれど、「魔理沙!」と呼びかける。魔理沙は歩みを止めて振り返った。
「頑張って!」
こころはそう言うと渾身のガッツポーズを見せた。一回じゃなくて、三回やってやった。それを見た魔理沙は力なく笑うと、拳を握りしめてそれを高く掲げ、ポーズを返してくれた。
姿が完全に見えなくなるまで、こころは魔理沙を見送っていた。その姿が遠く人混みの中へ消えた後もしばらく眺めていた。その後、空になったアイスのカップを片づけるためにお店の中に入った。
「魔理沙ちゃん、どうした?」
「帰りましたよ。家に」
「どっちの?」
「いるべき方へ」
「そっか」
女性は優しく微笑んだ。
「良かった」
博麗神社へと戻ったこころは霊夢の姿を探した。
居間で静かな寝息を立てているのを発見して、起こさないようにそっと部屋を出ると、境内まで歩いて行く。
箒を持ってくると、先ほどやっていた掃除の続きを始める。
別にやらなくてもいいのに。霊夢はきっとこう言うような気がした。
何で霊夢は自分のことを泊めてくれるのだろう。こころは不思議に思った。こころから見ても、霊夢は殊勝な性格をしているとは言いがたい。それなのにわざわざ面倒を見てくれる彼女は、一体何なのだろう、と。
石畳の上を箒で掃きながら、こころは考える。
おしゃべりな方でもない。愛想がいいとも言えない。縁側でお茶を飲むのが好きで、ぼけーっとしているのが似合っている。だと言うのに、神社を訪れるみんなには好かれているようだった。
こころ自身、霊夢と一緒にいると不思議な安堵感のようなものを覚える。どこまでも自然体な霊夢の態度がそう感じさせるのか、他に何か要因があるのかはわからなかったが、とにかくこころの生活の中に霊夢という存在が自然と溶け込んでいた。
神社での生活は楽しかった。最初は神社という特異な場所で寝泊まりすることに身構える部分もあった。自分の知らない世界が広がっていて、知らぬ間にその世界に飲み込まれてしまうのではないかという不安もあった。だけど、そんな思いはすぐに払拭された。掃除をして、お茶を飲んで、それから夜が来て、寝る。特に変哲もない生活に、逆に驚いたほどだ。
霊夢はいつもお茶を淹れるとこころを呼びに来る。何かについて話したりすることもあれば、黙ってお茶を啜っていたりすることもある。どちらにしても、こころはこの時間が好きだった。ゆったりとした時間が、ただ過ぎていくだけの、平凡な一時。特別な楽しさはなかったけれど、こころの生活を形成する大切な部分だった。
霊夢はどう思っているのだろうか。自分と一緒にいることは、煩わしかったりしないのだろうか。こころは疑問に思う。
いくら考えたところでわかりはしなかった。考えることは止めて、後で気が向いたら霊夢自身に訊いてみようと決めた。
夕方になり、掃除を終えて居間に戻った。霊夢の姿はなかった。台所の方を覗いてみると、料理を作っている姿が目に入った。
「霊夢さん。何か手伝う?」
「ん。別にいいわよ、ゆっくりしてて。掃除してくれたんでしょ」
料理する手を止めずに霊夢は言う。
言葉に甘えて、こころは居間でのんびりとすることにした。
それからしばらくして霊夢が料理を居間のテーブルに並べ始めたので、それを手伝った。料理を並び終えると、二人揃っていただきますを言う。
「抹茶のアイス、美味しかったよ」
ご飯を食べながら今日の出来事を話した。お店の女性のこと。抹茶のアイスの味。魔理沙が話してくれた昔のこと。それから魔理沙が家に戻ったことも。
こころが話している間、霊夢は「うん」とか「そう」などと相槌を打ちながら聞いてくれた。ちょっとだけぶっきらぼうだけど、話をしっかり聞いてくれていることはわかっている。
夕食を終えるとこころは片付けをする。霊夢が一人で料理を作ってくれた時は、こうしてこころが片付けを買って出るのだ。
片付けが終わったところで、霊夢が寝間着姿でこころを呼びに来た。
「お風呂、空いたから入っちゃいなさい」
「うん」
言われたとおりお風呂に入る。湯船につかると一日の疲れが流れ出ていくようで、とても気持ちが良かった。極楽、極楽、と一人つぶやく。
お風呂から上がり居間に戻ると、布団が二組敷いてあった。昼間は居間として使われて、夜は寝室になる。
「寝るわよ」
霊夢が言う。基本的に、日が沈んだら寝て日が昇ったら起きる。幻想郷の人間の平均的な生活スタイルだ。
二人でそれぞれの布団に横になった。
しばらく目をつぶっていたけれど、なかなか寝付けなかった。
ふと魔理沙のことを思い出した。あの後、魔理沙はどうなったのだろうか。うまくお父さんと仲直りできただろうか。できていたらいいな、とこころは思った。
寝返りを打つと霊夢の後ろ姿が見えた。霊夢は寝付くのが早いほうで、大体の場合、こころが眠りに落ちる前に霊夢の寝息が聞こえてくるのだった。
だけど今日は違った。霊夢が寝返りを打った。こちらを向いた霊夢はまだ眠っていなかった。薄暗い部屋の中でも霊夢が目を開けているのがわかった。
こころは疑問に思っていたことを訊いてみることにした。
「ねえ、霊夢さん」
「ん」
「霊夢さんは、何で私のことをここに置いてくれたの?」
霊夢は少しの間黙ってから答えた。
「別に。理由なんてないわ。強いて言うなら、あんたが心配だったから」
「私のこと心配してくれてるの?」
「また何か問題を起こすんじゃないかってね」
「む! 何だそれは。失礼な」
「実際に問題を起こしたのはどこの誰だったかしら。希望の面はどこだー、って」
そう言われると何も言えないこころだった。そして、ちょっとだけ悲しくなった。
「もしかして、迷惑かな? 私がここにいるの」
こころがそう訊いた瞬間、隣から手刀が飛んできておでこの辺りに当たった。「いたっ!」と声を出しておでこを手でさする。
「そんなこと、あんたは気にしなくていいの。それにね、もし迷惑だったら、問答無用で蹴り飛ばしてやるわよ」
鏡がなかったから自分がどんな顔をしているのか確認できなかったけれど、自然と口元が緩んだ気がした。
「はい、この話はもう終わり。寝る」
霊夢はきっぱりと言いはなった。
「待って。もう一個だけ質問」
「一個だけよ」
「お父さんとお母さんがいるって、どんな気持ち?」
部屋の中に静けさが舞い降りた。遠くからかすかに虫の鳴き声が聞こえてくる。
霊夢はそっと息を吐いた。
「わからないわ。私には」
「そうなの?」
「私には、いないから」
「そうなんだ」
「あんたはいないのね」
「どうなんだろう。お面を作ってくれた人ならいるけれど、でも私の考えている親とは違うような気がする」
こころが言うと、霊夢は「そう」と静かに答えた。
「霊夢さんは、寂しくない?」
「……わからない」
「そっか」
「あんたはどう?」
「私もよくわからないかも」
「そう」
「うん」
「ねえ、こころ」
「はい」
暗闇の中、こっちを向いている霊夢の顔が、ほんの少しだけ柔らかい表情になった気がした。
「私たちって、ちょっと似ているのかもね」
単純に親のいないところが似ているのか、それとも別に似ている部分があるのか、霊夢の言葉の意味するところをはっきりと理解することはできなかったけれど、そんな風に言ってくれたことがこころにとっては何だか嬉しかった。
それから霊夢は黙ってしまった。しばらくすると静かな寝息が聞こえてきた。
色々なものが変わっていくと魔理沙が言っていたことを思い出す。霊夢との関係もいつか変わってしまうのだろうか。いつまでもここでお世話になるわけにはいかない。いつかはここを出ていかなければならない。
二人布団を並べて、手を伸ばせば届く距離にいる。この距離もいつか広がってしまうのだろうか。ただの人間と妖怪の関係になってしまうのだろうか。
それはすごく寂しいな、とこころは思う。
そんな風にあれこれ考えていると、眠気が襲ってきて、いつの間にか深い眠りについていた。
次の日、いつものように境内の掃除をする。
良く晴れていて綺麗な青空が広がっていた。残念なことにこころが掃除をしている間、参拝に訪れた人はいなかった。
昨日しっかり掃除を行ったおかげで、今日はそれほど時間がかからなかった。掃除を終えて箒を片づけたところで霊夢が呼びに来た。
「こころ。お茶、淹れたわよ」
「行く行くー」
縁側に先に到着し、座って待っていると、霊夢が二人分のお茶を持ってくる。
「今日もお茶がうまい」
「そうですねー」
のんびりとした時間。特別さはまったくないけれど、これはこれで良いのだ。
と、そこで昨日と同じように魔理沙が箒に乗って登場した。
「よう。お二人さん」
「よう。魔理沙」
「また来たのね。今日はどうしたの?」
魔理沙は箒から降りると、一つ咳払いをする。
「今日は報告があって来た」
「報告?」
こころが訊くと、魔理沙が頷く。
「ほら、昨日こころと別れた後、家に帰っただろう。それについて」
「お父さんとお話した?」
「ああ、まあ、した。ちょっとだけだけど」
「ふうん。なんて話したの?」
霊夢がお茶を啜りながら訊く。
「別に何か面白い話をしたわけじゃないよ。顔を合わせて、よう、って言った。そしたら相手も、おう、みたいに返してきた。それで、さっき抹茶のアイスを食べて来たんだ、って言ったんだ。うまかったか? って訊いてきたから、うまかったよ、みたいな感じで返したわけだ。まあ、それくらいだな。後は母さんが心配してるから、たまには顔を見せろみたいなことも言ってたっけな」
「良かったね魔理沙」
「良かったじゃない魔理沙」
こころと霊夢が揃って言うと、魔理沙はあからさまに顔をしかめて見せた。
「別に良くはない」
むすっと答える魔理沙が可笑しくて、こころは翁の面を取り出す。霊夢も笑っていた。
「笑うんじゃない。まったく。ああ、そうだ。もう一つ報告があったんだ。甘味処のことだけどさ。あそこの一人娘が呉服屋に嫁いだってのは昨日おばさんが言ってただろう。その呉服屋の親族に、甘味処を経営している人がいるらしいんだ。で、そこの人が、もし良かったら抹茶のアイスだけでもうちで出せないか、ってことをおばさんに言ってきたんだって。それで、おばさんがおっちゃんと相談した結果、その甘味処で出してもらうことに決めたみたいなんだ」
「じゃあ、また抹茶のアイス食べられるの?」
「うん。しばらくはおばさんも手伝うみたいなことを言っていたから、味に関しては心配いらないな」
「そっかー。良かったね魔理沙」
「おう、良かった良かった」
「でも、あんた、なんでそんなことを知ってるわけ? 昨日、里に行った時にはそんな話知らなかったんでしょう?」
霊夢が尋ねる。
「今日の午前中に、ちょっと里に用があって、それで甘味処にもついでに立ち寄っただけだよ」
「ふうん。どんな用があったの?」
「別に何だっていいだろう。どうしてお前はこういう時だけ、そう首を突っ込んでくるんだよ」
別にちょっと気になっただけだもん。ねー、と霊夢がこころに同意を求めて来たので、こころもねー、と返す。
「まったく。まあいい。とりあえず用はそれだけだ。私は帰る」
「ゆっくりしていかないの? お茶淹れるわよ」
「ありがたいけど、また今度な。じゃあまたな、お二人さん」
箒に跨った魔理沙は颯爽と空へ舞い上がり、すぐに遠くに飛んでいった。
再び、神社の縁側に静けさが戻った。
霊夢と二人並んで、お茶を飲む。
魔理沙はうまくいった様子だった。一度変わった関係は簡単には元に戻せないし、これからもまた何かが変わっていってしまうのかもしれない。だけど、その時はまた抹茶のアイスを食べればきっと大丈夫。こころはそんなことを思う。
遠くから蝉の声が聞こえる。その声もだいぶ少なくなった。夏が過ぎて秋が来る。時間は止まってはくれない。そのうち蝉はいなくなって葉が色付き始める。冬が来ればその葉も枯れ落ちる。
いつまで博麗神社にいられるのだろう、とこころは思う。あと何回、この縁側に座ってお茶を飲めるのだろう。
隣に座る霊夢を見る。いつもと変わらず、美味しそうにお茶を啜っている。
そこでこころはあることを思いついた。
一度深呼吸をして、気持ちを整える。それから霊夢の袖の部分をちょいちょいと手で引っ張る。
「ん?」
「あのね、霊夢さん。もし良かったらだけど」
いつか終わりがくるのなら。
いつか変わってしまうのなら。
せめてその前に。
「今度、抹茶のアイス食べに行こう?」
霊夢との繋がりを残しておこうと思う。
こころが言うと、霊夢は一瞬きょとんとした顔になった。
それからゆっくりと表情を崩すと、こころの頭に手を乗っけてわしゃわしゃと撫でつけた。
そして、そっとつぶやいた。
「そうね。それもいいかもね」
博麗神社の縁側には、どこまでも穏やかな時間が流れていた。
ほのぼのしました。
口元が緩んだ時、こころちゃんは微笑んでいたに違いありません。
というか、こころが霊夢のところに居候するという発想はなかった・・・っ!
もうこのまま巫女衣装でも纏って永住すればいいんじゃないかな。
作者さんの丁寧な筆遣いからつくられる暖かい世界観に癒されました。
心がほっこりしました
抹茶アイス食べてぇ
あったかいお話でよかったです。
…超放任主義だけど。
三人とも素敵ですっ
個人的にはこころより魔理沙の方が印象に残っちゃいました。