「ん~? んんん~?」
そう何かを確かめる様な唸り声をあげて、神奈子は諏訪子にじっくりと睨めつけられていた。
神奈子は居心地の悪そうな表情で、ただ呆然と守矢神社の居間に立ち尽くしている。
神奈子は不安だった。
今日も朝拝を執り行い、朝食や家事もひと段落して早苗は布教活動に出かけて行った。
その間神奈子と諏訪子が居間でくつろいでいるときに、急に諏訪子がこう言ったのだ。
「神奈子。ちょっとそこに立ってみて」
そして冒頭の様に諏訪子は正面と、回り込んで側面から視線を上下させて、神奈子を眺め倒しているのだ。
服装や外見に粗相があったのか。それとも何らかの憑き物でも張り付いていたのか。
意味を推し量れぬ行動に、神奈子はただ当惑していた。
すると、検分が終わったのか諏訪子が「もう座っていいよ」と言い、神奈子はおずおずと着席する。
そして、諏訪子が口を開いた。
「神奈子ってさ、猫背だよね」
「え?」と気が抜けた反応をする神奈子は、こう問い返す。
「……私、猫背か?」
「うん。特に最近背筋の曲がりが目立つよ」
そう諏訪子は、険しい表情で自覚症状のない神奈子に伝える。
八坂神奈子と言えば、思い浮かぶのは軍神としての勇ましく、凛々しいお姿である。
その颯爽たるご威光が、守矢神社への信仰をキッチリ牽引しているのだが……
「あんた顕現する時いつも座位だから気づかれないだけで、立ったら結構前のめりなんだよ」
「嘘ぉ、そんなにかぁ」
姿勢の悪さは自分では気づきにくい上に、何となく自分で認めたくないという厄介な悪疾だ。
神奈子も茶化す様に笑って誤魔化そうとするが、そうは諏訪子が許さなかった。
「神奈子。それは直した方がいい」
「えぇ?」
「だってさ、あんたはこの神社の顔なんだ。ざっくり言えば、強くてカッコいいってイメージで信仰を集めているわけ。
その神様が、立ち上がったら自信なさそうな猫背ってどーなのよ」
「うぐ……」
諏訪子の批評に、神奈子はたじろぐ。さらにこう違う視点からも訴える。
「それに、姿勢が悪いと不健康的だ。
骨盤の歪みに肩こり腰痛、ひどいとヘルニアになるんだぞ。嫌でしょ、そんな病気になるの」
「いや、それは人間だからなるモンであって……」
「ならないとも限らんだろ。ここは常識の斜め上な世界なんだ。
もし私が放って置いたせいで神奈子がヘルニアになったら……私は私を一生許せなくなる」
諏訪子はヘルニアに強烈なトラウマでもあるのだろうか。
いまいちズレた説得だが、諏訪子が心から神奈子を心配していることが伝わった。
それで神奈子もだいぶ猫背を意識した所で、こう提案した。
「ともかく、猫背は矯正しよう。私たちのためにさ」
そう説得されると、是非もない。
こうして、神奈子の背筋を伸ばす作戦がスタートした。
――◇――
「とりあえず、素の状態がどんなものか確認してみよう」
まず一番に放った諏訪子の台詞に、神奈子が首を傾げる。
「素の状態、って何?」
「その注連縄、外してみて」
そう諏訪子は背後の丸い注連縄を指差す。
諏訪子の見立てでは、その大きな注連縄が重りとなって若干猫背を押さえつけていると思ったのだ。
神奈子は「そんなに変わらないと思うけど」と言いつつ注連縄を取り去り、また立ち上がる。
そしてその立ち姿を見た諏訪子は、うめき声を漏らす。
「うわ……」
「ってちょちょ! そんなにひどいの!?」
神奈子もまさかドン引きされるとは思っておらず、わたわたと慌ててしまう。
「聞くけどさ、お辞儀している訳じゃないよね」
「してないよ!」
「じゃあ、頭だけ異様に重力が強いとか?」
「どんな奇跡だそれ!」
「じゃあ、それが素の状態なんだうわぁ」
「やめて!! 憐れむのだけはマジやめて!」
いよいよ深刻な表情の顔つきになった諏訪子。それほど神奈子の猫背は尋常ではなかった。
普通に立っただけなのに、今の神奈子はまるで海老の様に背中が丸まり、肩口が前に反る怒り肩になってしまう。
身長が高く上半身の長さが目立つだけに、ホラー映画のキャラクターのごとく異様な雰囲気さえ醸し出してしまっている。
これでは信仰を集めるどころか、信者を威嚇している様だ。
「もうこれ私の手に負えない。整体師呼ぼう。あるいは手術とか」
「話を大きくしないで! 私頑張るから!」
あまりの衝撃に本気でやる気をアピールする神奈子。
諏訪子も初めはびっくりしたが、ここで怖気づいては土着神の名が廃る。
「じゃあ、とりあえず一般的な方法から」
諏訪子が指南した内容は『意識して背筋を伸ばし、そのまま我慢する』というシンプルなものだった。
神奈子は早速諏訪子監修の元、実践に入る。
「ハイ、胸張って」
「こう?」
「もっと! まだいけるっしょ」
「こ、こう?」
「よし。そのままその姿勢を維持して」
諏訪子の指導の下、神奈子は必死に背筋を伸ばす。
普段の曲がった姿勢が固着しているのか、神奈子は息さえ苦しそうに懸命に気を付け状態となる。
するとようやく神奈子はしゃきっとした直立姿勢となった。
これを意識して継続できれば、そのうち姿勢が良くなるのだが。
「……何で、ものの数分で元に戻るかなぁ」
「えっ? あ……」
立ったり座ったりの後、お茶を淹れたり雑談したり。そんなわずかな間隙で、神奈子の背は見事に屈折してしまった。
ほとんど無意識の所作なのだろう。これを自意識で改善するのは、かなりの気力がいる様に思えた。
「だめだね。常に気を張っていないと」
「そんなぁ。それ、すごく疲れるじゃないか。今もかなり厳しいよ……」
「やれやれ。姿勢の曲がりは根性曲がりとも言うが、そもそも根性無しじゃなぁ」
「その減らず口をひん曲げてやろうか」
言葉のジャブもそこそこに、諏訪子は次の案を打ち出す。
「毎晩、背中に低いクッションとかを当てて寝てみたらどうだ。これなら楽だろう」
猫背は背骨がどんどん前に反っていく。故に背骨を反対方向に曲げて固定しておけば真っ直ぐに戻るだろう。
理論的には問題なさそうだが、神奈子は待ったをかけた。
「悪いが、それはできない」
「はぁ? 寝ているだけでいいんだよ」
「いや。だって私、うつ伏せ寝だから」
「……えぇ~?」
神奈子の中途半端なカミングアウトに、諏訪子はリアクションに困った。
「今さらあおむけ寝に変更して、しかも腰元に余計なもんを挟んでいたら、正直一睡もできん。悪いが却下だ」
「一昔前の赤ん坊じゃあるまいし……そんなに無理か?」
「無理無理。日々の習慣は変えられないよ」
「面倒くさいなぁ、もう」
「それは諏訪子も同じだろう。
ほれ、名前がケロッグだかフロッピーだかっていうぬいぐるみを抱っこしていないと、寝られないんじゃなかったか」
「さ、次の手だが」
割と隠しておきたかった事実をさらっと露呈され、強引に話題を戻そうとする諏訪子。
だが内心は、バレていたという焦りと羞恥で変な汗が出ていた。
そんな様子をニヤニヤと眺め倒す神奈子。その顔は久しぶりに一本取ってやったという優越に満ちていた。
それにカチンときた諏訪子。仕返しとばかりにこんな強硬策を打ち出した。
「こーなったらもう最後の手段だ」
「?」
「ここにこんな道具があります」
じゃん、と諏訪子は細い注連縄と、お祓い棒に使用される軸棒の予備を取り出す。
「ってどっから出した!?」
「神奈子は、姿勢矯正ベルトって知ってる?」
「無視かおい……まぁ、知っているけど」
そう神奈子は答えた。
外界に居た頃、通販で見た覚えがある。太いゴムバンド仕込みの腰巻ベルトで、腰に巻いたゴムの引っ張り力で背筋をぎゅいぎゅい伸ばす商品だった。
ここで諏訪子は屈託無き笑みで、こう続ける。
「でも幻想郷にそんな都合のいい便利品は無いじゃん。だから、これで即席品を作って試してみよう!」
「あ、ごめん。用事思い出したからこれで」
「待てい」
ダッシュで逃げようとした神奈子だったが、足元に突如土盛りが出現し、足を取られてうつ伏せにすっ転んでしまう。
そこを逃さず諏訪子は神奈子の背にのしっと馬乗りとなる。
「ふふふ、逃げちゃダーメ。神奈子の猫背は私がすぐ治してあ・げ・る。
もうね、これしか方法がないの。方法がないんだよ……」
「おい待て……何か言い知れない恐怖を感じるんだが」
神奈子が首を何とか後ろに回して見た先には、両手に巻き付けた注連縄をビンと引っ張り、さっきと微塵も変わらない笑顔の諏訪子。
正直知り合いでも狂気を感じる絵ヅラである。
しかしそんな極度の不安感を余所に、諏訪子の説明が始まった。
「誰しも骨折したら、患部に添え木を当ててがっちり固定するでしょ。
それと同じ。この棒を背骨に沿って当てて、縄で縛っておこう。
これなら楽だし、すごくお手軽だよ」
「趣旨は分かったが……嫌だ」
「何が?」
「縛られることだよ! これ以上注連飾りを増やしてもクドイだけだぞ」
「大丈夫。私も一緒に縛られてあげるよ。そうすれば目立たない!」
「神様神様お助けください。コイツ本当に危ない……」
「聞く耳持たん! ていっ!」
神奈子の懇願も霞の如く聞き流し、諏訪子は手の縄を神奈子の体の下に滑り込ませた。
「うわぁ! や、やめろ!」
「ほらほら暴れない。おとなしく床の染みでも数えていれば終わるから」
じたばたと手足をばたつかせる大柄な神奈子もなんのその。
諏訪子は小柄な肢体をフル活用して、まるで植木に添え木を括る様に、瞬く間に神奈子を縛り上げてしまった。
そしてぎゅっ、と縄の端部を結び、施術は完了した。
「おお。背が真っ直ぐになった。いいね」
「うう……こんな、ひどいよ……諏訪子のばか」
確かに物理的に背筋は伸びた。
だが涙目で諏訪子を威嚇するように睨む神奈子の姿は、服も髪も乱れてひどい有様だった。
背中の棒をずらさない様に、腰から腹、胸を経由して首のすぐ下までぐるぐる巻きに縄をまきつけてある。
だが急いで巻いたものだから所々張り加減が強く、神奈子の肉感的な部分がたゆんと浮き彫りになっている。
神奈子は横向きに倒れ伏した状態から、何とかいつもの胡坐態勢に起き上がったものの
「どうして両手まで後ろ手に縛るんだよ!」
そう手首の縄をぎちぎち鳴らしながら抗議する神奈子。その姿は、まるっきりお白洲で言い訳する悪党の下っ端だ。
すると諏訪子はバツが悪そうに頬を掻きながらこう謝った。
「あー、ごめん。ついクセで」
「……諏訪子。もう何も言うな。これ以上心の壁を厚くするのは、正直ツライ……」
「わ、悪かったから。今ほどくよ」
諏訪子のジョークも今や洒落にすらならない。
これ以上やると本気で絶交されかねないので、諏訪子は縄の端を握る。
「――ただいま戻りました。神奈子様、今日人里でですね~」
その瞬間だった。
早苗が扉を開けて入ってきたのは。
びくり、と早苗の方を振り返る二柱。一方は縛られて座らされ、もう一方はその縛った縄を犬の散歩の様に持っている。
早苗の表情は、虚、驚愕、赤面へと変化していき、最後にこう締めくくる。
「しっ、失礼しました! お楽しみ中とは露知らず!
でで、私は何も見ていません。今すぐ出ていきますので、どうかお続けに」
「ち、違う早苗! 聞いてくれ!」
神奈子は激しく狼狽して早苗に訴えかける。
だが勢い余って肩から崩れ落ちてしまった。
それに加えて放心していた諏訪子が縄を持ったままだったため、縄が首に引っ掛かり、「ぐえっ」と少々まずいうめき声をあげてしまった。
その図は、二柱を敬愛する巫女にとって耐えがたい物だったのだろう。
「あの……ですね……私はその、理解はあります……からっ……」
顔をついっとそむけ、口元を押さえる早苗。もう泣いてえずきそうな勢いだった。
「違! ごめ、って諏訪子貴様ぁ!!」
「うえぇ! 私かよ!?」
あんまりな事態に神奈子は激怒。御柱を出現させ縄を切断。
自力で脱出するやいなや、全ての元凶たる諏訪子に照準をぴたりと合わせる。
「ま、待て! 話せば分かる」
「うるさい! たった今神は死んだ! おのれも道連れじゃあ!」
「おわあああ!」
どかどかどかん! と極太光線が、からっと秋晴れの空に突き刺さる。
これでもまだ昼飯にはちょっと早い、午前中のできごとであった。
「なるほど。猫背を治していた、と」
「はい」
「ごめんなさい」
ややあって、事態はなんとか収拾した。
幸い神社ならびに人員の損害は軽微であり、ざっと後片付けを済ませて早苗は二柱から事情を知ったのだ。
だが神奈子は猫背を早苗にまで知られ、可哀想なくらいしょんぼりしている。
諏訪子は焦げた髪をずれ気味の帽子で隠しているし、室内は最大級に騒いだせいでまだ埃っぽい。
そんな中で座布団三枚を敷いて三者が正座している様は、少々シュールな光景でもあった。
だが早苗はそんなこと少しも意に介さず、極めて穏やかに二柱へ話しかける。
「神奈子様、諏訪子様。勘違いでお騒がせしてしまい、申し訳ありませんでした」
「ううん、早苗は悪くないよ! 私が、神奈子が嫌がっているのに悪ノリしちゃったから」
「いや、私にも責任はあるさ。短気を起こさず冷静に対処すればよかったんだ」
二柱もだいぶ落ち着き、しおらしくなって反省の言葉を述べる。
その様子を見て取り、早苗はまだうなだれる神奈子に声をかける。
「神奈子様、顔をあげてください。私は怒ってもいないし軽蔑もしていませんよ」
「いや……普通に座っているだけなんだが……」
「え!?」
てっきり突っ伏しているんだと思ったら、これも猫背の弊害だった。
早苗は慰めるつもりで、神奈子にとどめを刺してしまった。
本格的に落ち込んだ神奈子に、早苗はやってしまったという気まずい表情だ。
「なぁ、これはまずいだろ」
「ええ……まさかあの注連縄が、あれほど姿勢を正していたとは」
とりあえず後方でひそひそと、神奈子に聞こえない様に相談する諏訪子と早苗。
改めて注連縄のポテンシャルに感心する反面、諏訪子は心配そうな顔だ。
「本当に何とかできないかな。苦しそうに縮こまって、見ていられないよ」
「そうですねぇ」
早苗はしばらく考えて、控えめに諏訪子にこう言った。
「もしかしたら、何とかできるかもしれません」
「え、本当かい」
早苗の頼もしい言葉に、諏訪子の顔が明るくなる。
「でもどうやって?」
「私に考えがあります。でも準備がいるので、明日までお待ちください」
そう早苗は宣言し、胸をトンと叩いた。
――◇――
翌日。
朝拝を執り行い、朝食や家事もひと段落して早苗は人里に出かけて行った。
そして帰って来るや、諏訪子に神奈子の居場所を聞く。
「ああ。神奈子なら屋根のてっぺんさ。まったく、まだ気にしているんだ」
そう諏訪子はハァ、とため息を吐く。
守矢神社の屋根の上は神奈子の指定席だ。ただし、神奈子の胸に懸念がある時の、という条件が付く。
空中参道の件の時など、悩みや憂いがあると決まって屋根に上って景色を眺め、心を鎮めているのだ。
もちろん、この時の悩みは昨日の一件だ。
諏訪子は縋る様な目で、早苗にその解決を委ねる。
早苗はそのための秘策を携え、屋根に上って行った。
神奈子は、片膝を立てて屋根の端っこに腰掛けていた。
正面に見える雄大でのどかな幻想郷の景色と対比する様に、注連縄を装着しているその後姿にはどこか侘しさを感じた。
早苗は、神奈子へそっと近づく。
「神奈子様。よろしいですか」
「……ん、何?」
「実は渡したいものがあるんです」
早苗からの突然の話に、物憂げに生返事をした神奈子は「ほえ?」とこちらに顔を上げる。
そこで早苗が恭しく取り出したのは、短い起毛生地で覆われた紺色の細長い箱であった。
このタイプの箱に入っている物の種類は、これだ。
「……ネックレス」
「はい」
ぱかりと開いた箱の中身、早苗が贈ったものは、細身のチェーンにシルバーリングのペンダントトップが通された、シンプルなネックレスであった。
しかし本物の銀を用いた上品な仕上がりで、安くない品物であると一目で分かる。
「これを、私に?」
「はい」
「な、何だい突然。こんな高価なものを」
いつもとは勝手が違う献上品に、神奈子はあわあわと事情をうかがう。
だが、それに対する早苗の答えは非常に簡潔で、そして神奈子の心を打った。
「いつもお世話になっている神様……いえ、もう一人のお父さんお母さんに贈り物をすることの、どこが不自然ですか?」
「ッツ……早苗……」
「神奈子様。例え猫背でも、私の中で一番魅力的な方は神奈子様に違いありません。
こういった装飾品をお召しにならないことは承知ですが、これでもっと素敵になった神奈子様のお姿を拝見したいと思っていますよ」
そう真っ直ぐな瞳ではっきりと述べられ、神奈子は急激に照れながら、しかしデレデレと相好を崩す。
「そうかぁ。早苗、ありがとう。今、付けてみてもいい?」
「ええ、もちろんです」
神奈子は宝物を箱から取り出すようにネックレスを愛おしく持ち上げ、首にかける。
するとトップのリングが、胸元にある鏡の真ん中あたりに落ち着いた。
「ど、どう?」
「とてもよくお似合いです」
「そうか! 早苗にそう言ってもらうと嬉しいな。大切にするからね」
「はい。でも後生大事に仕舞いこまないで、是非身につけてくださいね」
そう久しぶりにはしゃぐ神奈子に、早苗は一言付け加える。
それは、神奈子にとって魔法の言葉となった。
――◇――
「実に不思議だ」
そう諏訪子が心底からの感想を漏らす。
今日は博麗神社主催の定例的な宴会の日。その宴席には守矢一家も参加していた。
そこで諏訪子は神奈子と一緒に遠くから神奈子を見ていたのだが
「猫背が治っている。数日前とはえらい違いだ。
早苗、いったいどんな奇跡を生み出したんだ?」
そう。視線の先の神奈子は、ちゃんと背筋が真っ直ぐで姿勢が良くなっていた。
しかも酔っていて重いからと背中の注連縄を外してしまったが、それでも猫背が出てこない。
こんな短期間で何があったのか、諏訪子には見当がつかなかった。
だが、早苗はその種を知っている。そして神奈子の猫背を治した秘策が明らかとなった。
「神奈子様、今日も私が贈ったネックレスを、しっかりお召しになってますね」
「ああ、これ見よがしにな。最近は減ったが、貰った当日なんか何遍も私に見せびらかしていたもん」
そう諏訪子はやれやれと肩をすくめる。だが、そのネックレスこそ猫背矯正の鍵らしい。
諏訪子はこう仮説を立てる。
「あ、もしかして、あのネックレスは強力な磁気を帯びているとか?」
「いえ。厳選はしましたが、残念ながら普通の品物です」
早苗は柔和な笑みを浮かべて諏訪子の仮説をやんわり否定する。
だが、物は普通でも今回は違う。
「諏訪子様は、人に自慢したい様な一品を手に入れたら、どうします?」
「そりゃあ……自慢したいけど、自分から言及し出すのは無粋だよね。
私なら客間とか目立つ所にさりげなく飾っておいて、向こうが聞いてくるのを待つ……あっ」
諏訪子は早苗の意図に気付いた。
早苗もグラス片手に答え合わせを始める。
「神奈子様も同じ考えでしょう。普段付けない装飾品を四六時中身につけて、そこにつっこまれるのを待つ。
でも、ネックレスは胸元に垂れさがるので、猫背だと他人によく見せられませんよね」
「それで自然と無理することなく、背筋が伸びるという訳か」
諏訪子は完全に得心したといった風情でうんうんと頷く。
現に神奈子は首にかけたままのネックレスを指でつまみ、上機嫌でその由来を語っている真っ最中であった。
まさに神奈子の心理と贈り物の特性を見極めた妙手である。
だが、その理論に諏訪子が補足した。
「でもね、それは神奈子がネックレスを貰って嬉しいだけじゃない。
早苗に貰ったから嬉しいし、蔑ろにしたくないという気持ちが強いんだよ。
そうでもなきゃ、あれほど効果は出ないさ」
「えへへ、恐縮です」
諏訪子がそうしんみりと話すと、早苗も気恥ずかしさをにじみ出してはにかむ。
とここで諏訪子は手持ちの杯の日本酒を煽って、こう漏らす。
「しっかし、神奈子はいいなー。早苗にプレゼント貰えてさー。
私も何かなろうかな。X脚とか、四十肩とか」
そう不貞腐れた子供の様な、冗談とも本気とも取れない愚痴をこぼす諏訪子に、早苗は隠しきれないイタズラ心満点の破顔でこう打ち明けた。
「諏訪子様。もちろん、諏訪子様だけ仲間外れにする訳はありませんよ」
諏訪子は予想外の言葉に「ぷ?」と気が抜けた声を漏らす。
早苗は神奈子とほとんど同じ反応に心をくすぐられつつ、細長い箱を取り出す。
短い起毛生地で覆われた紺色の細長い箱。
その箱を見た諏訪子は、帽子の様に目を丸くする。
「ささ、どうぞ開けてみてください」
早苗に促され、渡された箱を放心状態で開ける諏訪子。
その中には、神奈子と全く同じネックネスが入っていた。
呆然とそれを眺める諏訪子に早苗は向き直り、真摯な声音で言葉を紡ぐ。
「私は知っています。神奈子様が猫背になる程、日夜背中を丸めて書類とにらめっこをして、神としての責務に当たっていることを。
そしてそんな神奈子様を気遣い、対等な立場でしっかり意見をおっしゃって、神奈子様のご健勝をなによりも喜ぶお方を知っています。
私はそんな仲睦まじい神様の巫女で幸せです。
どうか、いつまでもいつまでもこの絆がお変わりなく途切れぬよう、願いを込めてお贈りさせていただきます」
そう祝詞の様に朗々と感謝の意を告げられ、思わず諏訪子の涙腺が緩む。
諏訪子は涙目で箱をギュッと抱くと、早苗にこう訴える。
「早苗……こっちきて」
「はい」
早苗がしずしずと傍に寄ると、諏訪子は早苗の胸元に飛び込んだ。
そして早苗の背中に手を回し、静かな抱擁に身を委ねる。
早苗も歌うように二、三言呟いて、諏訪子の背中に手を添える。
その姿は母娘であり、恋人同士であり、そして神聖なる儀式の様であった。
――◇――
あれから幾日か神奈子の猫背はしばらく鳴りをひそめていたが、やっぱり油断しているとちょっとだけ背筋が曲がってしまう。
それを軽口交じりに指摘する諏訪子に、神奈子は真面目に反論する。
そんな二柱の胸元には、銀の輝きを発するペアリング。
その様子を眺めながら、早苗は微笑む。
少し俗な発想だけど、この二柱には結婚指輪をしていただきたかった。
早苗はそんな想いが思わぬ形で達成されたことに、ささやかな幸福を感じていた。
普通に頼んでも、二柱は絶対恥ずかしがって付けてくれないだろう。
かといって黙ってプレゼントしたのでは、すぐ勘ぐられてしまいそうだ。
口実の都合上ネックレスになってしまったが、早苗は細かい常識など気にしないのだ。
そしていつか早苗の真意に気づいた神様は、どんな反応を見せるのだろうか。
早苗はその日を楽しみに、今は神奈子と諏訪子を諌めるのだった。
【終】
そう何かを確かめる様な唸り声をあげて、神奈子は諏訪子にじっくりと睨めつけられていた。
神奈子は居心地の悪そうな表情で、ただ呆然と守矢神社の居間に立ち尽くしている。
神奈子は不安だった。
今日も朝拝を執り行い、朝食や家事もひと段落して早苗は布教活動に出かけて行った。
その間神奈子と諏訪子が居間でくつろいでいるときに、急に諏訪子がこう言ったのだ。
「神奈子。ちょっとそこに立ってみて」
そして冒頭の様に諏訪子は正面と、回り込んで側面から視線を上下させて、神奈子を眺め倒しているのだ。
服装や外見に粗相があったのか。それとも何らかの憑き物でも張り付いていたのか。
意味を推し量れぬ行動に、神奈子はただ当惑していた。
すると、検分が終わったのか諏訪子が「もう座っていいよ」と言い、神奈子はおずおずと着席する。
そして、諏訪子が口を開いた。
「神奈子ってさ、猫背だよね」
「え?」と気が抜けた反応をする神奈子は、こう問い返す。
「……私、猫背か?」
「うん。特に最近背筋の曲がりが目立つよ」
そう諏訪子は、険しい表情で自覚症状のない神奈子に伝える。
八坂神奈子と言えば、思い浮かぶのは軍神としての勇ましく、凛々しいお姿である。
その颯爽たるご威光が、守矢神社への信仰をキッチリ牽引しているのだが……
「あんた顕現する時いつも座位だから気づかれないだけで、立ったら結構前のめりなんだよ」
「嘘ぉ、そんなにかぁ」
姿勢の悪さは自分では気づきにくい上に、何となく自分で認めたくないという厄介な悪疾だ。
神奈子も茶化す様に笑って誤魔化そうとするが、そうは諏訪子が許さなかった。
「神奈子。それは直した方がいい」
「えぇ?」
「だってさ、あんたはこの神社の顔なんだ。ざっくり言えば、強くてカッコいいってイメージで信仰を集めているわけ。
その神様が、立ち上がったら自信なさそうな猫背ってどーなのよ」
「うぐ……」
諏訪子の批評に、神奈子はたじろぐ。さらにこう違う視点からも訴える。
「それに、姿勢が悪いと不健康的だ。
骨盤の歪みに肩こり腰痛、ひどいとヘルニアになるんだぞ。嫌でしょ、そんな病気になるの」
「いや、それは人間だからなるモンであって……」
「ならないとも限らんだろ。ここは常識の斜め上な世界なんだ。
もし私が放って置いたせいで神奈子がヘルニアになったら……私は私を一生許せなくなる」
諏訪子はヘルニアに強烈なトラウマでもあるのだろうか。
いまいちズレた説得だが、諏訪子が心から神奈子を心配していることが伝わった。
それで神奈子もだいぶ猫背を意識した所で、こう提案した。
「ともかく、猫背は矯正しよう。私たちのためにさ」
そう説得されると、是非もない。
こうして、神奈子の背筋を伸ばす作戦がスタートした。
――◇――
「とりあえず、素の状態がどんなものか確認してみよう」
まず一番に放った諏訪子の台詞に、神奈子が首を傾げる。
「素の状態、って何?」
「その注連縄、外してみて」
そう諏訪子は背後の丸い注連縄を指差す。
諏訪子の見立てでは、その大きな注連縄が重りとなって若干猫背を押さえつけていると思ったのだ。
神奈子は「そんなに変わらないと思うけど」と言いつつ注連縄を取り去り、また立ち上がる。
そしてその立ち姿を見た諏訪子は、うめき声を漏らす。
「うわ……」
「ってちょちょ! そんなにひどいの!?」
神奈子もまさかドン引きされるとは思っておらず、わたわたと慌ててしまう。
「聞くけどさ、お辞儀している訳じゃないよね」
「してないよ!」
「じゃあ、頭だけ異様に重力が強いとか?」
「どんな奇跡だそれ!」
「じゃあ、それが素の状態なんだうわぁ」
「やめて!! 憐れむのだけはマジやめて!」
いよいよ深刻な表情の顔つきになった諏訪子。それほど神奈子の猫背は尋常ではなかった。
普通に立っただけなのに、今の神奈子はまるで海老の様に背中が丸まり、肩口が前に反る怒り肩になってしまう。
身長が高く上半身の長さが目立つだけに、ホラー映画のキャラクターのごとく異様な雰囲気さえ醸し出してしまっている。
これでは信仰を集めるどころか、信者を威嚇している様だ。
「もうこれ私の手に負えない。整体師呼ぼう。あるいは手術とか」
「話を大きくしないで! 私頑張るから!」
あまりの衝撃に本気でやる気をアピールする神奈子。
諏訪子も初めはびっくりしたが、ここで怖気づいては土着神の名が廃る。
「じゃあ、とりあえず一般的な方法から」
諏訪子が指南した内容は『意識して背筋を伸ばし、そのまま我慢する』というシンプルなものだった。
神奈子は早速諏訪子監修の元、実践に入る。
「ハイ、胸張って」
「こう?」
「もっと! まだいけるっしょ」
「こ、こう?」
「よし。そのままその姿勢を維持して」
諏訪子の指導の下、神奈子は必死に背筋を伸ばす。
普段の曲がった姿勢が固着しているのか、神奈子は息さえ苦しそうに懸命に気を付け状態となる。
するとようやく神奈子はしゃきっとした直立姿勢となった。
これを意識して継続できれば、そのうち姿勢が良くなるのだが。
「……何で、ものの数分で元に戻るかなぁ」
「えっ? あ……」
立ったり座ったりの後、お茶を淹れたり雑談したり。そんなわずかな間隙で、神奈子の背は見事に屈折してしまった。
ほとんど無意識の所作なのだろう。これを自意識で改善するのは、かなりの気力がいる様に思えた。
「だめだね。常に気を張っていないと」
「そんなぁ。それ、すごく疲れるじゃないか。今もかなり厳しいよ……」
「やれやれ。姿勢の曲がりは根性曲がりとも言うが、そもそも根性無しじゃなぁ」
「その減らず口をひん曲げてやろうか」
言葉のジャブもそこそこに、諏訪子は次の案を打ち出す。
「毎晩、背中に低いクッションとかを当てて寝てみたらどうだ。これなら楽だろう」
猫背は背骨がどんどん前に反っていく。故に背骨を反対方向に曲げて固定しておけば真っ直ぐに戻るだろう。
理論的には問題なさそうだが、神奈子は待ったをかけた。
「悪いが、それはできない」
「はぁ? 寝ているだけでいいんだよ」
「いや。だって私、うつ伏せ寝だから」
「……えぇ~?」
神奈子の中途半端なカミングアウトに、諏訪子はリアクションに困った。
「今さらあおむけ寝に変更して、しかも腰元に余計なもんを挟んでいたら、正直一睡もできん。悪いが却下だ」
「一昔前の赤ん坊じゃあるまいし……そんなに無理か?」
「無理無理。日々の習慣は変えられないよ」
「面倒くさいなぁ、もう」
「それは諏訪子も同じだろう。
ほれ、名前がケロッグだかフロッピーだかっていうぬいぐるみを抱っこしていないと、寝られないんじゃなかったか」
「さ、次の手だが」
割と隠しておきたかった事実をさらっと露呈され、強引に話題を戻そうとする諏訪子。
だが内心は、バレていたという焦りと羞恥で変な汗が出ていた。
そんな様子をニヤニヤと眺め倒す神奈子。その顔は久しぶりに一本取ってやったという優越に満ちていた。
それにカチンときた諏訪子。仕返しとばかりにこんな強硬策を打ち出した。
「こーなったらもう最後の手段だ」
「?」
「ここにこんな道具があります」
じゃん、と諏訪子は細い注連縄と、お祓い棒に使用される軸棒の予備を取り出す。
「ってどっから出した!?」
「神奈子は、姿勢矯正ベルトって知ってる?」
「無視かおい……まぁ、知っているけど」
そう神奈子は答えた。
外界に居た頃、通販で見た覚えがある。太いゴムバンド仕込みの腰巻ベルトで、腰に巻いたゴムの引っ張り力で背筋をぎゅいぎゅい伸ばす商品だった。
ここで諏訪子は屈託無き笑みで、こう続ける。
「でも幻想郷にそんな都合のいい便利品は無いじゃん。だから、これで即席品を作って試してみよう!」
「あ、ごめん。用事思い出したからこれで」
「待てい」
ダッシュで逃げようとした神奈子だったが、足元に突如土盛りが出現し、足を取られてうつ伏せにすっ転んでしまう。
そこを逃さず諏訪子は神奈子の背にのしっと馬乗りとなる。
「ふふふ、逃げちゃダーメ。神奈子の猫背は私がすぐ治してあ・げ・る。
もうね、これしか方法がないの。方法がないんだよ……」
「おい待て……何か言い知れない恐怖を感じるんだが」
神奈子が首を何とか後ろに回して見た先には、両手に巻き付けた注連縄をビンと引っ張り、さっきと微塵も変わらない笑顔の諏訪子。
正直知り合いでも狂気を感じる絵ヅラである。
しかしそんな極度の不安感を余所に、諏訪子の説明が始まった。
「誰しも骨折したら、患部に添え木を当ててがっちり固定するでしょ。
それと同じ。この棒を背骨に沿って当てて、縄で縛っておこう。
これなら楽だし、すごくお手軽だよ」
「趣旨は分かったが……嫌だ」
「何が?」
「縛られることだよ! これ以上注連飾りを増やしてもクドイだけだぞ」
「大丈夫。私も一緒に縛られてあげるよ。そうすれば目立たない!」
「神様神様お助けください。コイツ本当に危ない……」
「聞く耳持たん! ていっ!」
神奈子の懇願も霞の如く聞き流し、諏訪子は手の縄を神奈子の体の下に滑り込ませた。
「うわぁ! や、やめろ!」
「ほらほら暴れない。おとなしく床の染みでも数えていれば終わるから」
じたばたと手足をばたつかせる大柄な神奈子もなんのその。
諏訪子は小柄な肢体をフル活用して、まるで植木に添え木を括る様に、瞬く間に神奈子を縛り上げてしまった。
そしてぎゅっ、と縄の端部を結び、施術は完了した。
「おお。背が真っ直ぐになった。いいね」
「うう……こんな、ひどいよ……諏訪子のばか」
確かに物理的に背筋は伸びた。
だが涙目で諏訪子を威嚇するように睨む神奈子の姿は、服も髪も乱れてひどい有様だった。
背中の棒をずらさない様に、腰から腹、胸を経由して首のすぐ下までぐるぐる巻きに縄をまきつけてある。
だが急いで巻いたものだから所々張り加減が強く、神奈子の肉感的な部分がたゆんと浮き彫りになっている。
神奈子は横向きに倒れ伏した状態から、何とかいつもの胡坐態勢に起き上がったものの
「どうして両手まで後ろ手に縛るんだよ!」
そう手首の縄をぎちぎち鳴らしながら抗議する神奈子。その姿は、まるっきりお白洲で言い訳する悪党の下っ端だ。
すると諏訪子はバツが悪そうに頬を掻きながらこう謝った。
「あー、ごめん。ついクセで」
「……諏訪子。もう何も言うな。これ以上心の壁を厚くするのは、正直ツライ……」
「わ、悪かったから。今ほどくよ」
諏訪子のジョークも今や洒落にすらならない。
これ以上やると本気で絶交されかねないので、諏訪子は縄の端を握る。
「――ただいま戻りました。神奈子様、今日人里でですね~」
その瞬間だった。
早苗が扉を開けて入ってきたのは。
びくり、と早苗の方を振り返る二柱。一方は縛られて座らされ、もう一方はその縛った縄を犬の散歩の様に持っている。
早苗の表情は、虚、驚愕、赤面へと変化していき、最後にこう締めくくる。
「しっ、失礼しました! お楽しみ中とは露知らず!
でで、私は何も見ていません。今すぐ出ていきますので、どうかお続けに」
「ち、違う早苗! 聞いてくれ!」
神奈子は激しく狼狽して早苗に訴えかける。
だが勢い余って肩から崩れ落ちてしまった。
それに加えて放心していた諏訪子が縄を持ったままだったため、縄が首に引っ掛かり、「ぐえっ」と少々まずいうめき声をあげてしまった。
その図は、二柱を敬愛する巫女にとって耐えがたい物だったのだろう。
「あの……ですね……私はその、理解はあります……からっ……」
顔をついっとそむけ、口元を押さえる早苗。もう泣いてえずきそうな勢いだった。
「違! ごめ、って諏訪子貴様ぁ!!」
「うえぇ! 私かよ!?」
あんまりな事態に神奈子は激怒。御柱を出現させ縄を切断。
自力で脱出するやいなや、全ての元凶たる諏訪子に照準をぴたりと合わせる。
「ま、待て! 話せば分かる」
「うるさい! たった今神は死んだ! おのれも道連れじゃあ!」
「おわあああ!」
どかどかどかん! と極太光線が、からっと秋晴れの空に突き刺さる。
これでもまだ昼飯にはちょっと早い、午前中のできごとであった。
「なるほど。猫背を治していた、と」
「はい」
「ごめんなさい」
ややあって、事態はなんとか収拾した。
幸い神社ならびに人員の損害は軽微であり、ざっと後片付けを済ませて早苗は二柱から事情を知ったのだ。
だが神奈子は猫背を早苗にまで知られ、可哀想なくらいしょんぼりしている。
諏訪子は焦げた髪をずれ気味の帽子で隠しているし、室内は最大級に騒いだせいでまだ埃っぽい。
そんな中で座布団三枚を敷いて三者が正座している様は、少々シュールな光景でもあった。
だが早苗はそんなこと少しも意に介さず、極めて穏やかに二柱へ話しかける。
「神奈子様、諏訪子様。勘違いでお騒がせしてしまい、申し訳ありませんでした」
「ううん、早苗は悪くないよ! 私が、神奈子が嫌がっているのに悪ノリしちゃったから」
「いや、私にも責任はあるさ。短気を起こさず冷静に対処すればよかったんだ」
二柱もだいぶ落ち着き、しおらしくなって反省の言葉を述べる。
その様子を見て取り、早苗はまだうなだれる神奈子に声をかける。
「神奈子様、顔をあげてください。私は怒ってもいないし軽蔑もしていませんよ」
「いや……普通に座っているだけなんだが……」
「え!?」
てっきり突っ伏しているんだと思ったら、これも猫背の弊害だった。
早苗は慰めるつもりで、神奈子にとどめを刺してしまった。
本格的に落ち込んだ神奈子に、早苗はやってしまったという気まずい表情だ。
「なぁ、これはまずいだろ」
「ええ……まさかあの注連縄が、あれほど姿勢を正していたとは」
とりあえず後方でひそひそと、神奈子に聞こえない様に相談する諏訪子と早苗。
改めて注連縄のポテンシャルに感心する反面、諏訪子は心配そうな顔だ。
「本当に何とかできないかな。苦しそうに縮こまって、見ていられないよ」
「そうですねぇ」
早苗はしばらく考えて、控えめに諏訪子にこう言った。
「もしかしたら、何とかできるかもしれません」
「え、本当かい」
早苗の頼もしい言葉に、諏訪子の顔が明るくなる。
「でもどうやって?」
「私に考えがあります。でも準備がいるので、明日までお待ちください」
そう早苗は宣言し、胸をトンと叩いた。
――◇――
翌日。
朝拝を執り行い、朝食や家事もひと段落して早苗は人里に出かけて行った。
そして帰って来るや、諏訪子に神奈子の居場所を聞く。
「ああ。神奈子なら屋根のてっぺんさ。まったく、まだ気にしているんだ」
そう諏訪子はハァ、とため息を吐く。
守矢神社の屋根の上は神奈子の指定席だ。ただし、神奈子の胸に懸念がある時の、という条件が付く。
空中参道の件の時など、悩みや憂いがあると決まって屋根に上って景色を眺め、心を鎮めているのだ。
もちろん、この時の悩みは昨日の一件だ。
諏訪子は縋る様な目で、早苗にその解決を委ねる。
早苗はそのための秘策を携え、屋根に上って行った。
神奈子は、片膝を立てて屋根の端っこに腰掛けていた。
正面に見える雄大でのどかな幻想郷の景色と対比する様に、注連縄を装着しているその後姿にはどこか侘しさを感じた。
早苗は、神奈子へそっと近づく。
「神奈子様。よろしいですか」
「……ん、何?」
「実は渡したいものがあるんです」
早苗からの突然の話に、物憂げに生返事をした神奈子は「ほえ?」とこちらに顔を上げる。
そこで早苗が恭しく取り出したのは、短い起毛生地で覆われた紺色の細長い箱であった。
このタイプの箱に入っている物の種類は、これだ。
「……ネックレス」
「はい」
ぱかりと開いた箱の中身、早苗が贈ったものは、細身のチェーンにシルバーリングのペンダントトップが通された、シンプルなネックレスであった。
しかし本物の銀を用いた上品な仕上がりで、安くない品物であると一目で分かる。
「これを、私に?」
「はい」
「な、何だい突然。こんな高価なものを」
いつもとは勝手が違う献上品に、神奈子はあわあわと事情をうかがう。
だが、それに対する早苗の答えは非常に簡潔で、そして神奈子の心を打った。
「いつもお世話になっている神様……いえ、もう一人のお父さんお母さんに贈り物をすることの、どこが不自然ですか?」
「ッツ……早苗……」
「神奈子様。例え猫背でも、私の中で一番魅力的な方は神奈子様に違いありません。
こういった装飾品をお召しにならないことは承知ですが、これでもっと素敵になった神奈子様のお姿を拝見したいと思っていますよ」
そう真っ直ぐな瞳ではっきりと述べられ、神奈子は急激に照れながら、しかしデレデレと相好を崩す。
「そうかぁ。早苗、ありがとう。今、付けてみてもいい?」
「ええ、もちろんです」
神奈子は宝物を箱から取り出すようにネックレスを愛おしく持ち上げ、首にかける。
するとトップのリングが、胸元にある鏡の真ん中あたりに落ち着いた。
「ど、どう?」
「とてもよくお似合いです」
「そうか! 早苗にそう言ってもらうと嬉しいな。大切にするからね」
「はい。でも後生大事に仕舞いこまないで、是非身につけてくださいね」
そう久しぶりにはしゃぐ神奈子に、早苗は一言付け加える。
それは、神奈子にとって魔法の言葉となった。
――◇――
「実に不思議だ」
そう諏訪子が心底からの感想を漏らす。
今日は博麗神社主催の定例的な宴会の日。その宴席には守矢一家も参加していた。
そこで諏訪子は神奈子と一緒に遠くから神奈子を見ていたのだが
「猫背が治っている。数日前とはえらい違いだ。
早苗、いったいどんな奇跡を生み出したんだ?」
そう。視線の先の神奈子は、ちゃんと背筋が真っ直ぐで姿勢が良くなっていた。
しかも酔っていて重いからと背中の注連縄を外してしまったが、それでも猫背が出てこない。
こんな短期間で何があったのか、諏訪子には見当がつかなかった。
だが、早苗はその種を知っている。そして神奈子の猫背を治した秘策が明らかとなった。
「神奈子様、今日も私が贈ったネックレスを、しっかりお召しになってますね」
「ああ、これ見よがしにな。最近は減ったが、貰った当日なんか何遍も私に見せびらかしていたもん」
そう諏訪子はやれやれと肩をすくめる。だが、そのネックレスこそ猫背矯正の鍵らしい。
諏訪子はこう仮説を立てる。
「あ、もしかして、あのネックレスは強力な磁気を帯びているとか?」
「いえ。厳選はしましたが、残念ながら普通の品物です」
早苗は柔和な笑みを浮かべて諏訪子の仮説をやんわり否定する。
だが、物は普通でも今回は違う。
「諏訪子様は、人に自慢したい様な一品を手に入れたら、どうします?」
「そりゃあ……自慢したいけど、自分から言及し出すのは無粋だよね。
私なら客間とか目立つ所にさりげなく飾っておいて、向こうが聞いてくるのを待つ……あっ」
諏訪子は早苗の意図に気付いた。
早苗もグラス片手に答え合わせを始める。
「神奈子様も同じ考えでしょう。普段付けない装飾品を四六時中身につけて、そこにつっこまれるのを待つ。
でも、ネックレスは胸元に垂れさがるので、猫背だと他人によく見せられませんよね」
「それで自然と無理することなく、背筋が伸びるという訳か」
諏訪子は完全に得心したといった風情でうんうんと頷く。
現に神奈子は首にかけたままのネックレスを指でつまみ、上機嫌でその由来を語っている真っ最中であった。
まさに神奈子の心理と贈り物の特性を見極めた妙手である。
だが、その理論に諏訪子が補足した。
「でもね、それは神奈子がネックレスを貰って嬉しいだけじゃない。
早苗に貰ったから嬉しいし、蔑ろにしたくないという気持ちが強いんだよ。
そうでもなきゃ、あれほど効果は出ないさ」
「えへへ、恐縮です」
諏訪子がそうしんみりと話すと、早苗も気恥ずかしさをにじみ出してはにかむ。
とここで諏訪子は手持ちの杯の日本酒を煽って、こう漏らす。
「しっかし、神奈子はいいなー。早苗にプレゼント貰えてさー。
私も何かなろうかな。X脚とか、四十肩とか」
そう不貞腐れた子供の様な、冗談とも本気とも取れない愚痴をこぼす諏訪子に、早苗は隠しきれないイタズラ心満点の破顔でこう打ち明けた。
「諏訪子様。もちろん、諏訪子様だけ仲間外れにする訳はありませんよ」
諏訪子は予想外の言葉に「ぷ?」と気が抜けた声を漏らす。
早苗は神奈子とほとんど同じ反応に心をくすぐられつつ、細長い箱を取り出す。
短い起毛生地で覆われた紺色の細長い箱。
その箱を見た諏訪子は、帽子の様に目を丸くする。
「ささ、どうぞ開けてみてください」
早苗に促され、渡された箱を放心状態で開ける諏訪子。
その中には、神奈子と全く同じネックネスが入っていた。
呆然とそれを眺める諏訪子に早苗は向き直り、真摯な声音で言葉を紡ぐ。
「私は知っています。神奈子様が猫背になる程、日夜背中を丸めて書類とにらめっこをして、神としての責務に当たっていることを。
そしてそんな神奈子様を気遣い、対等な立場でしっかり意見をおっしゃって、神奈子様のご健勝をなによりも喜ぶお方を知っています。
私はそんな仲睦まじい神様の巫女で幸せです。
どうか、いつまでもいつまでもこの絆がお変わりなく途切れぬよう、願いを込めてお贈りさせていただきます」
そう祝詞の様に朗々と感謝の意を告げられ、思わず諏訪子の涙腺が緩む。
諏訪子は涙目で箱をギュッと抱くと、早苗にこう訴える。
「早苗……こっちきて」
「はい」
早苗がしずしずと傍に寄ると、諏訪子は早苗の胸元に飛び込んだ。
そして早苗の背中に手を回し、静かな抱擁に身を委ねる。
早苗も歌うように二、三言呟いて、諏訪子の背中に手を添える。
その姿は母娘であり、恋人同士であり、そして神聖なる儀式の様であった。
――◇――
あれから幾日か神奈子の猫背はしばらく鳴りをひそめていたが、やっぱり油断しているとちょっとだけ背筋が曲がってしまう。
それを軽口交じりに指摘する諏訪子に、神奈子は真面目に反論する。
そんな二柱の胸元には、銀の輝きを発するペアリング。
その様子を眺めながら、早苗は微笑む。
少し俗な発想だけど、この二柱には結婚指輪をしていただきたかった。
早苗はそんな想いが思わぬ形で達成されたことに、ささやかな幸福を感じていた。
普通に頼んでも、二柱は絶対恥ずかしがって付けてくれないだろう。
かといって黙ってプレゼントしたのでは、すぐ勘ぐられてしまいそうだ。
口実の都合上ネックレスになってしまったが、早苗は細かい常識など気にしないのだ。
そしていつか早苗の真意に気づいた神様は、どんな反応を見せるのだろうか。
早苗はその日を楽しみに、今は神奈子と諏訪子を諌めるのだった。
【終】
見事な孝行ぶりですね。暖かい雰囲気で素敵な作品でした。
よくある誤字報告
博霊→博麗
守屋→守矢
ではまたいつか。
微笑ましい三人のやり取りに癒されました。いいお話や。
早苗さんの孝行っぷりは自然にスラスラと書けちゃいます。いい娘さんですよ(しみじみ)
奇声を発する程度の能力様
毎回ありがとうございます。
非現実世界に棲む者様
ありがとうございます。全員幸せになれる素晴らしい解決方法ではなかったかと思います。
とーなす様
まさに愛にあふれた一家であります。本当にあの娘はいい子なんですよ(しみじみ)
肩が凝ったり猫背になったり、どうも背筋が弱い気がするがま口でした。
ご感想ありがとうございます。
早苗さんは常識投げてるとか破天荒なイメージですが、基本は賢い人だと思っています。ただちょっと暴走することがあるだけで……
フォローも二柱の性格を分かっているからできたのかなぁ、と。
展開が全く無理の無い自然なもので、読んでいてすっと頭に入ります。
その展開の中で、守矢の三人の関係や、それぞれのキャラクターが垣間見え、
物語に深みを持たせています。
早苗の考えた猫背を治す方法も「なるほど」と思わせるものですね。
締め方も良い。幸せになれます。首輪ってところが少し不安ですが……w
作品集188の最後にこの作品に出会えたことに感謝します。
いつも丁寧なご感想、誠にありがとうございます。過分な褒め言葉に体がむず痒くなる思いです。
実は猫背を直す方法、一昔前にやっていた某裏ワザ番組で紹介されていたものなんです。それをなんとなく覚えていて、今回作中に反映させた次第です。
そのせいで首輪のオチに……でも幸せそうならいいかな(笑)