「あーもー。腹立つなー」
頭の後ろで腕を組み、不機嫌な呟きを発する少女が一人。
目深にかぶった帽子。その縁からちらちら覗く角と、口許に見え隠れする鋭い牙。
鬼――かと思えば、違う。
「あの小人は役に立たないし。
何で、あたしが痛い目見ないといけないのよ」
ぶすっとふてくされた彼女は足下の小石をこつんと蹴り上げた。
それがたまたま、前を歩いていた親子連れの子供にぶつかり、子供がわんわん泣き出す。
それを見て、彼女は『よっし』とほくそ笑む。
――彼女の名前は鬼人正邪。いたずら好きの子鬼、天邪鬼に属する化生である。
「よっし、こうなったら、もっとひどいことしてやらないと。
やられっぱなしじゃ気がすまないわ」
頭の中に巡らせる悪事。
それをどうやって実行してやろうかと考えながら歩いていると、
「あら?」
後ろで女の声がした。
別段、それを気にすることもなく歩いていく。
すると、
「あらあらあら」
――何やら、その声が頭の後ろで聞こえてくる。
気のせいではない、そう思って振り返った彼女の眼前に、満面の笑みを浮かべた女の顔。
思わず、ずざっ、と身を引いてしまう。
「まあまあ、かわいらしい」
その女は、なぜか、正邪を見て嬉しそうに笑っていた。
何だこいつ、あたしに何か用か。
視線を少しだけ厳しくして見上げると、唐突に、彼女の手が頭の上に載った。
「うふふ。反抗期ですわね」
「やめなさいよ!」
慌てて、相手の手を振り払う。
その拍子に帽子がずれて、頭から生える角が覗く。
「あら、鬼?」
「うっ、うるさいな。お前に関係ないだろ」
「うふふ、そうですわね。
あ、申し遅れました。わたくし、霍青娥と申します。仙人をやって永い身の上、邪仙として、人々に親しまれております」
「……はい?」
邪悪な仙人。だから邪仙。
唐突な自己紹介に、正邪は目を点にする。
邪悪なのに人様に親しまれているとは一体? と言うか、こいつ、何者?
相手を値踏みするような視線を見せる彼女の手を、唐突に、青娥と名乗った女は引いた。
「芳香ー。席は取ってあるー?」
「おー!」
「うふふ。よかった。
それでは、どうぞこちらへ」
「ま、待ちなさいよ! あたしに何しようっての!? ちょっと、こら!」
まずい、と正邪は直感的に感じた。
確か、仙人と言う輩は人間の味方であると聞く。
対する自分は、どちらかというと人間の敵だ。人間にいたずらして喜ぶ、性悪妖怪なのだから。
だから、もしかしたら『退治されてしまうのか?』と彼女は思っていた。
仙人は強い力を持つと聞く。真っ向勝負では勝てないだろう。
何とかして逃げ出さなきゃ。
彼女の視線が周囲をさまようのだが、誰も手助けしてくれそうな相手はいない。
それも当然か、と一瞬、思った次の瞬間には、
「はい、どうぞ」
「……へっ?」
連れ込まれた里の甘味処。
そこの席に座らされ、目の前には、見たことのない食べ物が鎮座していた。
「……えっと……」
「これは、『アイスクリーム』と言う食べ物だそうです。
わたくしもつい最近までは知らなかったのですが、この暑い時期には、とってもふさわしい食べ物ですよ」
「青娥ー、あーん」
「はいはい、芳香。あ~ん」
青娥と名乗った仙人は、芳香と言う誰かにアイスクリームを食べさせている。
芳香と言う誰か――この席を取って青娥がやってくるのを待っていた少女は、大きく口を開け、美味しそうにアイスクリームを口にする。
その風体、雰囲気から、『こいつは人間じゃないか』と正邪は判断するものの、別段、手出しをしたりはしない。
「早く食べないと溶けてしまいますよ」
相手の考えていることがわからない。
性悪いたずら好き妖怪は、自分の周囲に対する警戒心がとても強い。同時に、相手を疑う猜疑心も。
とはいえ、まさか、毒は入れられていまい、とアイスクリームを手に取る。
まずはこれを美味しく食べるふりをして、相手の油断を誘おう。その上で、相手の心中を推し量ろう――彼女はそう決めた、のだが。
「おっ……美味しい~!」
一口、口にしたアイスクリームの美味しさに、そんなものが全部、吹っ飛んでしまう。
口の中に広がる冷たさ。濃厚だがしつこくないミルクの甘さ。この暑気を吹っ飛ばしてくれる爽やかな冷たさ。
初めて食べる甘味に、思わず顔を笑顔にしてしまってから、
「……こほん」
慌てて、その顔を元に戻して、ぺろぺろ、アイスをなめる。
もう、この時点で色々なものが台無しである。
「美味しいですか?」
「べっ、別に。こんなもの、美味しくも何ともないわ。
こんなもの、他人に食べさせるなんて、あんた、何考えてるわけ?」
「美味しくないのか? 芳香が食べたアイスは美味しかったぞ」
「はぁ? あんたに、別に……」
「美味しくないなら、それ、芳香が食べる!」
「ちょっ!? だ、ダメよ!」
「芳香。他人のものを取ったらダメですよ。
追加で頼んであげるから。ね?」
「はーい」
ちらりと視線を向けられ、『うぐっ……』と正邪は言葉に詰まる。
結局、美味しいからアイスを取られたくないという行動を取ってしまったのだ。無意識のうちに。
その結果だけは、どんなに強がり言っても消せはしない。
「あなた、お名前は?」
「あ、あんたに名乗る必要なんてないわ。
これ、残してももったいないだけだから。だから、全部、食べてあげる。感謝しなさい。
食べ終わったら、あんたなんか、別に用無しだし」
「あら、そうですか」
「……何よ」
相手は、別に、こちらのセリフに対して気分を害する様子を見せなさい。
普通、こうした口調で『生意気』言う正邪には、多かれ少なかれ、不快な表情を見せる相手が多いのだが。
しかし、この青娥と言う女はどうだ。
こちらが何を言っても、何をしても、微笑ましいものを見るような視線を向けてくるだけだ。
――こういう状況、相手の嫌がることが大好きな天邪鬼には、何とも不愉快であった。
「あんた、何がしたいわけ?」
「かわいい少女に美味しいおやつをご馳走してあげたいだけですわ」
「だ、だから、別に美味しくなんか……! ……って、その……えっと……も、もったいないだけなんだから! わかってるわね!?」
「はいはい」
下手なことを言うと食いしんぼが飛びついてくるため、言葉を選ぶ正邪。
その返答を、青娥は予想していたのか、にこにこ笑ってうなずくだけだ。
実にやりづらい。
ぷくっとほっぺた膨らませ、正邪はアイスを平らげると『ご馳走様』と言って席を立った。
「お粗末様です」
「お金、払わないから」
「ええ」
「……払わないからね? ほんとに払わないわよ! ありがたいとか思ってないんだからね!」
「元々、そのつもりですから」
駆け出す正邪。
店の入り口で後ろを振り返ると、青娥がにこっと笑って、正邪に手を振ってくれた。
それを見て、かーっと頭に血が上る。
べーっ、と舌を出して、彼女は真夏の炎天下の下、走り去っていった。
「あーもー!」
人里を後にして、東西に延びる、川に沿った道を歩きながら正邪は声を上げる。
ただでさえいらついていたところに、天邪鬼の自分が大嫌いな『種類』の相手との会話をさせられて、彼女のいらいらは頂点に達していた。
もう、こうなったら、所構わず騒動を起こしてやろう。
彼女の単純な思考がそこに帰結するのは早く、手近な、人間や妖怪が集まっているところに押しかけようとした、その時である。
「……何?」
唐突に、しん、と辺りが静まり返った。
森の中からうるさいくらいに響いていたせみの声も、辺りの木々を揺らしていた風の声も、川の音すらも。
何もかもが消失し、耳鳴りがするくらいの静寂が辺りを包み込む。
思わず身構える彼女。
「――見つけた」
後ろから声がする。
振り返ると、先ほどまで、そこに誰もいなかった空っぽの空間に、女が一人、立っていた。
「な、何よ」
相手の視線はこちらを見つめている。
まっすぐに。
逃がすまいと。
「あなたが鬼人正邪ですね?」
「そ、そうよ。だから何? あたしのファン? へぇ、そんな物好きの馬鹿、この世界にいたのね」
ただ静かに話しかけられているだけなのに、膝の震えが止まらない。
腰が引けているのを自分で自覚しながら、しかし、彼女は気丈に胸を張って見せた。
唐突に吹く風が、彼女の帽子を吹き飛ばす。
「話は聞きました。
あなたが先日、その矮小な身の上に収まらぬ大それた悪事を考え、それを実行せしめたことを」
「わ……!」
かちんと来た。
自分が卑小な存在であることを自覚していても、それを真っ向から他人に指摘されるのは腹が立つ。
足を一歩踏み出し、声を張り上げようとする。
だが、
「……あ、あれ?」
声が出ない。
思いっきり怒鳴ろうとして、大きく息を吸い込んでも、出てくるのは空気の音ばかり。
慌てて自分の喉を触る。
何も変化はない。変化はないのに、何かがおかしい。
「ふふふ。そう。そうですね。
ああ、ようやく見つけた。あなたのような小ざかしい妖怪の存在など、いちいち気にもしていなかったから。
そういうのを退治するのがあの巫女だというのに、全く。この程度の仕置きですますなど。
一度、説教してあげないといけないわ」
唐突に、空気が固化する音がした。
正邪の周囲に光る線が現れ、それが互いを連結し、檻を形成する。
正邪を完全に閉じ込めた光。
それを見て、正邪は「あたしが何したってのよ!」と、怒鳴ろうとした。
「……!」
やはり、声が出ない。
「鬼人正邪。
この世界、幻想郷は、私が考えた私の理想郷。私が作り上げたバランスの上に成り立ち、私が全てを管理する。
そこに生きるものの生殺与奪の権利もそう。身分相応の振る舞いと幸せを享受しているのならば、それがどんな悪事をしでかそうとも、私は何も言わないし、やらない。
私が決めた私のルールに従っている限り、この世界はあらゆるものを受け入れ、あらゆるものにとっての楽園となりましょう。
しかし、その、私の世界にそぐわぬものに、この世界にいてもらっては困る」
女の口許が笑みの形に裂けた。
直後、甲高い音を立てて、正邪を包む檻が小さくなる。
「あなたは私の決めたルールを破った。
下らぬ欲望から昇華した欲求を抑えることが出来ず、この世界の決まりごとに背いた。
この世界はお前を必要としない。お前はこの世界から消えてしまうべき存在。消えてもらわなくては困ってしまうの」
口許を、優雅に扇子で覆い隠した彼女。
その視線が、正邪をねめつける。
「感謝しなさい。
たかが下賎な子鬼風情に、この私が直々に裁きを下すのだから」
「……っ!」
「その結界は、あなたをこの世界から追い払う、隔離された世の形。
お前からあらゆるものを奪い、代わりにあらゆる絶望を与えてくれるでしょう。
その中で後悔しなさい。己が犯したことの罪を。そして嘆くといい。犯してしまった罪は、もう元には戻らないことを」
正邪の視線が女を向いた。
ふざけるな、と心の中で絶叫し、彼女は相手へと攻撃を仕掛ける。
あらゆるものを反転させる――その力は、成り立つ『もの』を反転させ、成り立たなくさせることも出来る。
この結界そのものの存在をひっくり返し、消滅させることも出来る――彼女は、そう確信していた。
何をどうやっても、事態が変わらないという事実を認めるまでは。
「無理よ。
あなたの作り出す『反転』は、あらゆるものを正反転させてしまう。
けど、天地のないもの、左右のないものはどう? ひっくり返してしまっても、全く同じものであるならば、たとえひっくり返されても何も変わらない。
その結界は、私の作り出した美しい数式の上に成り立つ、無限の結界の檻。1ナノミクロンレベルで構築した無限。
何度反転させられても、構築した計算式は計算と証明を繰り返すだけで、決して、覆されない」
女の視線が、冷たく、そして愉快なものを眺めるように、正邪を見つめている。
正邪の絶望を、彼女は楽しく味わっているのだ。
まるで、普段、正邪がやっていることのように。
正邪に己の『鏡』を見せているかのように。
「その結界は、1時間につき1%ずつ形を小さくしていく。
やがて、結界は、お前を押し潰し、粉々にしてしまうでしょう。肉体も、精神も、魂も、あらゆるものを消滅させ、結界の狭間に放り込む。
妖は倒されても、魂が存在していれば、いずれは蘇る。
しかし、それでは仕置きにならない。
私の結界は、お前の魂を永遠に捉え、壊し続ける。死してなお、地獄を味わいなさい」
「っ!?」
「ああ、下手に触れないほうがいいわよ。ばらばらになってしまうでしょうから」
彼女は空を見上げた。
降り注ぐ日光を浴びて、気持ちよさそうに目を細めた後、「今日も暑いわね」と笑う。
「すりつぶした肉体と魂は、結界の狭間から抜け出すことも出来ないでしょう。
だから、最初に言ったのよ。
あなたのこと、『ようやく見つけた』とね。
ああ、あとそれから、結界の中にいると、ゆっくり、あなたという存在を消してしまうようにもプログラムしたから。
今、声が出せないでしょう? 直に耳も聞こえなくなり、目も見えなくなり、手足も動かせなくなり、何も出来なくなる。
それが『死』ということなのだと思う存分味わってから、此の世から消えなさい」
彼女はその場に腰を下ろすと、のんびりと、正邪を眺める。
正邪が絶望し、必死に助けを請う姿を嘲笑うために。
相手の挑発に乗ってたまるかと、何とかして、そこから逃げ出そうとするのだが、どうにも出来ない。
何をしても、何をやろうとしても、何も出来ないのだ。
『あたしが何をしたっていうのよ!』
あらん限りの声を振り絞り、彼女は叫ぶ。
『あたしは、あたしが思っていることをやろうとしただけ! あたし自身の存在が、やれ、っていうことをやっただけ!
どうして怒られないといけないの!? あたし、別に悪いことしてないっ!』
「ああ、何を言っているかさっぱりわからないわ。
困ったものね。一番最初に奪うのは『目』にしておけばよかったかしら」
くすくす笑う彼女は、その瞳で正邪の唇の動きを見ながら、わざとらしくそんなことを言ってのける。
正邪が何を言っているか、何を訴えているか、わかっているのに。
それを彼女は、薄笑いを浮かべて聞いているだけ。
『笑ってないで、何か言いなさいよ! ねぇ!? 聞こえてるんでしょ!? あたしが言ってること、わかってるんでしょ!?
どうして!? どうして、あたしだけ、こんな目にあわないといけないの!? あたし、何か悪いことしたの!? 教えてよ! あたしが悪いことしたなら、それを教えなさいよ! ねぇったら!』
「酒があればよかったわね。
木っ端妖怪の必死の訴えなんて、見ていてなんて愉快なのかしら」
ああ、楽しい、と女は言う。
普段、正邪がやっていることを、彼女はまるで、正確にトレースしているかのようだ。
正邪もこのように、人が嫌がること、人が慌てふためく様を見て、やって、お腹を抱えて笑っている。
しかし、それが悪いことだとは、別段、彼女は思っていない。
天邪鬼と言う妖怪はそういうものだからだ。
人が嫌がることが何より楽しい。そういう妖怪に生まれたのだ。妖怪としての本能にしたがって行動しているだけなのに、どうして、自分は殺されないといけないのか。
理不尽だ。
許せない。
怒りと共に、どうしようもない想いが体の中を駆け巡り、脳髄に到達している。
視界が歪んで、体が震えてくる。
叩きつける想いは、相手には届かない。
『やだ……! いやだ、いやだ、いやだ!
あたし、死にたくない! あたし、死ぬのはいや! お願い、助けて! あんたの言うこと聞くから! 助けて! 助けてよ、ねえ! 見てないで助けてぇっ!』
「ダメよ」
必死で訴える彼女の言葉を、女は、たったその一言で一蹴した。
『ああ、暑い暑い』と言いながら、彼女は扇子で体をあおぎ、のんびりと、肘を突いて正邪を眺める。
恐怖に我を忘れ、必死で叫ぶ正邪を、ただ見ているだけだ。
何もしないし、何もしようとしない。眺めるだけ。
それがあまりにも、正邪にとって、耐え難い苦痛と絶望であった。
日は過ぎて、正邪は、女の作り出した結界の中に座しているだけの存在となった。
何も出来ない、何をしても伝えられない。
声は出ず、少し前から目も見えず、周りの音すらほとんど聞こえてこない。
じりじりと体を焼く暑さだけは伝わってくる。
絶望と虚無に打ちひしがれた彼女を、今、あの女は、どんな眼差しで見ているだろう。
「さて、もうそろそろね。
なかなか楽しい時間でした。そんな楽しさ、エンターテイメントを提供してくれたあなたに感謝するわ。
そして、あなたのような屑妖怪を退治するだけで『始末』しない巫女には、ほとほと呆れてしまった。しつけなおさないと。
それも感謝しないといけないわね」
遠くで聞こえる女の声。
続いて、甲高い音がして、両手の掌が燃えるように暑くなった。
慌てて体を動かして、その熱から逃げようとするのだが、それすらうまく出来ない。
「そろそろ時間。あなたはこのまま消えてしまうだけだけど、何か言い残すことは……あっても、言えないわね。ごめんなさい」
冷徹な言葉が聞こえて、正邪の頬を涙が伝った。
久しく流していなかった、感情の高ぶりからあふれるもの。
子供のように体を丸めて泣きじゃくる彼女を、女は、どんな瞳で見ているのだろう。
「さようなら」
告げられた声の後、全部が消えてしまう錯覚に襲われて、正邪は息を呑む。
しかし、直後に聞こえたのは、何かが砕ける甲高い音だった。
消えてしまうと言うのはこういうことか――彼女は、そう信じて疑わない。
だが、案に相違して、彼女は消えなかった。
「……え?」
「あらあら。ようやく見つけました」
後ろから響いた声に振り返る。
先ほどまで動かなかった体が動いた。
何も見えなかった目が、また見えるようになった。
ほとんど聞こえなかった耳が、きちんと音を伝えてくれる。
からからに嗄れてはいたものの、声が、その喉からあふれ出る。
「あら。あなた」
「ごきげんよう。八雲の結界守さま」
片手に金色のかんざしを握った女の姿。
その彼女に、正邪は見覚えがあった。
「霍青娥、だったかしら?」
「ええ」
「どういうつもり? せっかく、その子鬼をこの世界から抹消できたのに。
結界を壊してしまうなんて」
「うふふ。
まさか、わたくしのような下賎な仙人の術が、高名なる結界守さまの結界すら壊してしまえるなんて思いませんでした。
これも日々の修行の成果です」
両者の間に、剣呑な雰囲気が漂ったのは一瞬のこと。
青娥は正邪へと歩み寄ると、「大丈夫ですか?」と手を差し出してくれた。
視界に浮かぶ、優しい笑顔。
それに、ついにこらえていたものが切れた彼女は、大声を上げて泣きながら、青娥へと飛びついた。
「あらあら。よしよし。怖かったんですね」
「当然でしょう。死はあらゆるものからの解放。痛みも苦しみも、何も与えてくれない。
だから、私は、痛みと苦しみを与えるために、じわじわと、真綿でその首を絞め続けた。
なのに、あなたはそれを台無しにしてしまうのね。憎たらしい」
「うふふ。
結界守さま、別によろしいではありませんか。
子供と言うのはいたずらが好きなものです。それに対して、いちいち目くじらを立てていたのではおとなげないですよ。
ほら、目元に小じわが。みっともないですわ」
「……ほんと?」
「さあ?」
慌てて手鏡取り出して、自分の顔を覗きこむ彼女。
その女にくすくす笑う青娥は、左手で、優しく正邪をかき抱く。
「子供をいじめるなんて、趣味が悪いですわね」
「……全く。
興がそがれました。
ごきげんよう。霍青娥。そして鬼人正邪。どうぞお好きなように」
踵を返した彼女は、どこかへと消えていく。
辺りに音が戻ってきて、にぎやかな夏が返ってくる。
「さて、と」
泣きじゃくる正邪を抱いている青娥は、女の消えた空間をじっと見据えながら、一言、つぶやいた。
「下衆め」
――と。
「太子さま」
「どうしたのですか? 布都」
「ああ、いえ。
先ほど、青娥殿が湯浴みに連れて行った、あの子鬼は?」
「さあ? 青娥さんのやることは、まだまだよくわかりませんからね」
その空間の住人にですら首を傾げられる青娥であるが、特段、それをとがめられるようなことはない。
その住人たちが青娥のことを信頼していると言うのもあるが、『まあ、青娥だし』という適当な判断で、彼女の存在が据え置かれていると言うのもあるだろう。
「もう大丈夫ですよ。怖かったですね」
温かいお湯が揺れる。
青娥に抱かれながら、正邪は借りてきた猫のように縮こまっている。
「……どうして……」
「ん?」
「どうして……助けてくれたの……?」
「あら。それは当然、わたくしは少女の味方だからですわ」
曰く、『少女に悪い子はいない』のだそうな。
その『少女』と言うのが一体何を意味するのかはわからなかったのだが、とりあえず、正邪は、「あたしは悪い子だよ」と小さくつぶやいた。
「ふむ」
「……悪い子なんだもん。天邪鬼だから」
「では、悪い子ではありませんね」
「……え?」
「妖怪と言うのはそういうものでしょう?
自分の存在意義に従って、やりたいことをやりたいように、好きなようにやる。それが妖怪なのですから、あなたが天邪鬼であると言うのなら、何をしても、別に悪いことではないでしょう」
そうではないのですか? と言う視線が向けられる。
正邪は相手から視線を逸らし、小さく、『……うん』とうなずいた。
お湯の揺れる小さな音がして、青娥の手が正邪の頭に載せられる。
優しく、左右に揺れるそれに、正邪は目を細めた。
「だったら、なおさら。
正邪ちゃん。あなたは、別に悪いことはしてないのです。ただ、ちょっとやりすぎただけですわ」
「え?」
――名乗ってないのにどうして?
突然、正邪の名前を口にする青娥に、彼女は「あの場で聞こえただけです」とウインクして返してくる。
「世の中にはいいことと悪いことがあります。
その中に、やってもいいことと悪いことがあるんです。あなたは、今回、後者をやってしまっただけです。
わたくし達やあの結界守さまに言わせるなら、『やってもいい悪いこと』と『やってはいけない悪いこと』があるというべきでしょうか。
あなたはその区別がつかず、少し、度を過ぎてしまった。だから、叱られた。それだけです。
次からは、同じことをやらなければいいのですから。簡単でしょう? いい子なのだから」
膨れて視線を逸らす正邪。
そんな彼女の仕草がとてもかわいらしいのか、青娥が『うふふ』と笑った。
「晩御飯を食べていってくださいな。あと、今夜はそろそろ遅いですから。泊まっていくといいですね」
「……お礼なんていわないから」
「ええ」
「……もうしない」
「そうですね」
微笑む青娥に『いー、だ』と返して、彼女はぶくぶくお湯の中に沈んでいった。
「――と、いうような少女との出会いがありまして!
まあ、なんと申しましょうか、やはり少女は素直でかわいらしいのが一番ですが、ちょっと憎たらしいくらいなのも最高ですわ!
ですわよね、茨華仙さま!」
「だからどうしてそこで私に同意を求めるんですかあんたは!」
それから数日後。
相変わらず、人里の甘味処で繰り広げられる、激しい『仙人×仙人のきゃっきゃうふふトーク』。
テーブル叩き、茨華仙と呼ばれたピンク頭の仙人は、「第一、それを私に同意求めてどうすんの!?」とツッコミ入れる。
「仙人は人間の味方ですものね。
けれど、茨華仙さま、やはり、そうは言っても少女に悪い子はいません! どんな少女も根は純粋なものです! それを守り、慈しみ、育てていくのが、わたくし達、淑女の使命ですわっ!」
「一部以外には全面的に同意しますけど!
だからって……!」
と、そこで、彼女は言葉を区切る。
視線を向けた先、甘味処の入り口に、小さな女の子が立っていた。
彼女は店の中の様子をちらちらと伺っているように見える。
やがて、その視線が青娥を捉えると、一瞬、ぱっと笑顔を浮かべて、慌てて、ぶんぶんと頭を左右に振る。
そして、
「まあ、正邪ちゃん!」
青娥のところへやってきた彼女は、ふてくされたような表情を浮かべながら、勝手に断りもなく二人のテーブルにつくと、「アイス」と注文する。
「まあまあ。アイス、一つだけでいいんですか? こっちのスイートパイも美味しいですわよ」
「じゃあ、それも」
「はいはい」
ふてくされたような顔のまま、正邪は、どこか嬉しそうな雰囲気をかもし出している。
少しだけほっぺた赤くして、つんとした表情を見せている彼女の元に、まず、アイスが運ばれてきた。
「あんたのおごりだからね!」
「ええ」
「言っておくけど、別に感謝なんてしないんだから!」
アイスに手をつける彼女。
そして、その左手で青娥の右手を掴むと、ぽんと、それを自分の頭の上に載せる。
「な、なでていいから。感謝しなさいね!」
「まあまあ。うふふ」
小さくてかわいい女の子大好きな青娥が、嬉しそうに、正邪の頭をなでている。
反対に正邪は、いやそうな顔を浮かべつつも、嬉しそうに、楽しそうに、アイスを口にしている。
実に奇妙奇天烈摩訶不思議奇想天外四捨五入な光景であるが、茨華仙と呼ばれた仙人は、特に何も言わずに、肩から力を抜いた。
そして、浮かしていた腰を椅子に戻すと、
「すみません。
この子に……そうね、オレンジジュース、追加で」
と、通りかかる店員に、追加の注文をするのだった。
頭の後ろで腕を組み、不機嫌な呟きを発する少女が一人。
目深にかぶった帽子。その縁からちらちら覗く角と、口許に見え隠れする鋭い牙。
鬼――かと思えば、違う。
「あの小人は役に立たないし。
何で、あたしが痛い目見ないといけないのよ」
ぶすっとふてくされた彼女は足下の小石をこつんと蹴り上げた。
それがたまたま、前を歩いていた親子連れの子供にぶつかり、子供がわんわん泣き出す。
それを見て、彼女は『よっし』とほくそ笑む。
――彼女の名前は鬼人正邪。いたずら好きの子鬼、天邪鬼に属する化生である。
「よっし、こうなったら、もっとひどいことしてやらないと。
やられっぱなしじゃ気がすまないわ」
頭の中に巡らせる悪事。
それをどうやって実行してやろうかと考えながら歩いていると、
「あら?」
後ろで女の声がした。
別段、それを気にすることもなく歩いていく。
すると、
「あらあらあら」
――何やら、その声が頭の後ろで聞こえてくる。
気のせいではない、そう思って振り返った彼女の眼前に、満面の笑みを浮かべた女の顔。
思わず、ずざっ、と身を引いてしまう。
「まあまあ、かわいらしい」
その女は、なぜか、正邪を見て嬉しそうに笑っていた。
何だこいつ、あたしに何か用か。
視線を少しだけ厳しくして見上げると、唐突に、彼女の手が頭の上に載った。
「うふふ。反抗期ですわね」
「やめなさいよ!」
慌てて、相手の手を振り払う。
その拍子に帽子がずれて、頭から生える角が覗く。
「あら、鬼?」
「うっ、うるさいな。お前に関係ないだろ」
「うふふ、そうですわね。
あ、申し遅れました。わたくし、霍青娥と申します。仙人をやって永い身の上、邪仙として、人々に親しまれております」
「……はい?」
邪悪な仙人。だから邪仙。
唐突な自己紹介に、正邪は目を点にする。
邪悪なのに人様に親しまれているとは一体? と言うか、こいつ、何者?
相手を値踏みするような視線を見せる彼女の手を、唐突に、青娥と名乗った女は引いた。
「芳香ー。席は取ってあるー?」
「おー!」
「うふふ。よかった。
それでは、どうぞこちらへ」
「ま、待ちなさいよ! あたしに何しようっての!? ちょっと、こら!」
まずい、と正邪は直感的に感じた。
確か、仙人と言う輩は人間の味方であると聞く。
対する自分は、どちらかというと人間の敵だ。人間にいたずらして喜ぶ、性悪妖怪なのだから。
だから、もしかしたら『退治されてしまうのか?』と彼女は思っていた。
仙人は強い力を持つと聞く。真っ向勝負では勝てないだろう。
何とかして逃げ出さなきゃ。
彼女の視線が周囲をさまようのだが、誰も手助けしてくれそうな相手はいない。
それも当然か、と一瞬、思った次の瞬間には、
「はい、どうぞ」
「……へっ?」
連れ込まれた里の甘味処。
そこの席に座らされ、目の前には、見たことのない食べ物が鎮座していた。
「……えっと……」
「これは、『アイスクリーム』と言う食べ物だそうです。
わたくしもつい最近までは知らなかったのですが、この暑い時期には、とってもふさわしい食べ物ですよ」
「青娥ー、あーん」
「はいはい、芳香。あ~ん」
青娥と名乗った仙人は、芳香と言う誰かにアイスクリームを食べさせている。
芳香と言う誰か――この席を取って青娥がやってくるのを待っていた少女は、大きく口を開け、美味しそうにアイスクリームを口にする。
その風体、雰囲気から、『こいつは人間じゃないか』と正邪は判断するものの、別段、手出しをしたりはしない。
「早く食べないと溶けてしまいますよ」
相手の考えていることがわからない。
性悪いたずら好き妖怪は、自分の周囲に対する警戒心がとても強い。同時に、相手を疑う猜疑心も。
とはいえ、まさか、毒は入れられていまい、とアイスクリームを手に取る。
まずはこれを美味しく食べるふりをして、相手の油断を誘おう。その上で、相手の心中を推し量ろう――彼女はそう決めた、のだが。
「おっ……美味しい~!」
一口、口にしたアイスクリームの美味しさに、そんなものが全部、吹っ飛んでしまう。
口の中に広がる冷たさ。濃厚だがしつこくないミルクの甘さ。この暑気を吹っ飛ばしてくれる爽やかな冷たさ。
初めて食べる甘味に、思わず顔を笑顔にしてしまってから、
「……こほん」
慌てて、その顔を元に戻して、ぺろぺろ、アイスをなめる。
もう、この時点で色々なものが台無しである。
「美味しいですか?」
「べっ、別に。こんなもの、美味しくも何ともないわ。
こんなもの、他人に食べさせるなんて、あんた、何考えてるわけ?」
「美味しくないのか? 芳香が食べたアイスは美味しかったぞ」
「はぁ? あんたに、別に……」
「美味しくないなら、それ、芳香が食べる!」
「ちょっ!? だ、ダメよ!」
「芳香。他人のものを取ったらダメですよ。
追加で頼んであげるから。ね?」
「はーい」
ちらりと視線を向けられ、『うぐっ……』と正邪は言葉に詰まる。
結局、美味しいからアイスを取られたくないという行動を取ってしまったのだ。無意識のうちに。
その結果だけは、どんなに強がり言っても消せはしない。
「あなた、お名前は?」
「あ、あんたに名乗る必要なんてないわ。
これ、残してももったいないだけだから。だから、全部、食べてあげる。感謝しなさい。
食べ終わったら、あんたなんか、別に用無しだし」
「あら、そうですか」
「……何よ」
相手は、別に、こちらのセリフに対して気分を害する様子を見せなさい。
普通、こうした口調で『生意気』言う正邪には、多かれ少なかれ、不快な表情を見せる相手が多いのだが。
しかし、この青娥と言う女はどうだ。
こちらが何を言っても、何をしても、微笑ましいものを見るような視線を向けてくるだけだ。
――こういう状況、相手の嫌がることが大好きな天邪鬼には、何とも不愉快であった。
「あんた、何がしたいわけ?」
「かわいい少女に美味しいおやつをご馳走してあげたいだけですわ」
「だ、だから、別に美味しくなんか……! ……って、その……えっと……も、もったいないだけなんだから! わかってるわね!?」
「はいはい」
下手なことを言うと食いしんぼが飛びついてくるため、言葉を選ぶ正邪。
その返答を、青娥は予想していたのか、にこにこ笑ってうなずくだけだ。
実にやりづらい。
ぷくっとほっぺた膨らませ、正邪はアイスを平らげると『ご馳走様』と言って席を立った。
「お粗末様です」
「お金、払わないから」
「ええ」
「……払わないからね? ほんとに払わないわよ! ありがたいとか思ってないんだからね!」
「元々、そのつもりですから」
駆け出す正邪。
店の入り口で後ろを振り返ると、青娥がにこっと笑って、正邪に手を振ってくれた。
それを見て、かーっと頭に血が上る。
べーっ、と舌を出して、彼女は真夏の炎天下の下、走り去っていった。
「あーもー!」
人里を後にして、東西に延びる、川に沿った道を歩きながら正邪は声を上げる。
ただでさえいらついていたところに、天邪鬼の自分が大嫌いな『種類』の相手との会話をさせられて、彼女のいらいらは頂点に達していた。
もう、こうなったら、所構わず騒動を起こしてやろう。
彼女の単純な思考がそこに帰結するのは早く、手近な、人間や妖怪が集まっているところに押しかけようとした、その時である。
「……何?」
唐突に、しん、と辺りが静まり返った。
森の中からうるさいくらいに響いていたせみの声も、辺りの木々を揺らしていた風の声も、川の音すらも。
何もかもが消失し、耳鳴りがするくらいの静寂が辺りを包み込む。
思わず身構える彼女。
「――見つけた」
後ろから声がする。
振り返ると、先ほどまで、そこに誰もいなかった空っぽの空間に、女が一人、立っていた。
「な、何よ」
相手の視線はこちらを見つめている。
まっすぐに。
逃がすまいと。
「あなたが鬼人正邪ですね?」
「そ、そうよ。だから何? あたしのファン? へぇ、そんな物好きの馬鹿、この世界にいたのね」
ただ静かに話しかけられているだけなのに、膝の震えが止まらない。
腰が引けているのを自分で自覚しながら、しかし、彼女は気丈に胸を張って見せた。
唐突に吹く風が、彼女の帽子を吹き飛ばす。
「話は聞きました。
あなたが先日、その矮小な身の上に収まらぬ大それた悪事を考え、それを実行せしめたことを」
「わ……!」
かちんと来た。
自分が卑小な存在であることを自覚していても、それを真っ向から他人に指摘されるのは腹が立つ。
足を一歩踏み出し、声を張り上げようとする。
だが、
「……あ、あれ?」
声が出ない。
思いっきり怒鳴ろうとして、大きく息を吸い込んでも、出てくるのは空気の音ばかり。
慌てて自分の喉を触る。
何も変化はない。変化はないのに、何かがおかしい。
「ふふふ。そう。そうですね。
ああ、ようやく見つけた。あなたのような小ざかしい妖怪の存在など、いちいち気にもしていなかったから。
そういうのを退治するのがあの巫女だというのに、全く。この程度の仕置きですますなど。
一度、説教してあげないといけないわ」
唐突に、空気が固化する音がした。
正邪の周囲に光る線が現れ、それが互いを連結し、檻を形成する。
正邪を完全に閉じ込めた光。
それを見て、正邪は「あたしが何したってのよ!」と、怒鳴ろうとした。
「……!」
やはり、声が出ない。
「鬼人正邪。
この世界、幻想郷は、私が考えた私の理想郷。私が作り上げたバランスの上に成り立ち、私が全てを管理する。
そこに生きるものの生殺与奪の権利もそう。身分相応の振る舞いと幸せを享受しているのならば、それがどんな悪事をしでかそうとも、私は何も言わないし、やらない。
私が決めた私のルールに従っている限り、この世界はあらゆるものを受け入れ、あらゆるものにとっての楽園となりましょう。
しかし、その、私の世界にそぐわぬものに、この世界にいてもらっては困る」
女の口許が笑みの形に裂けた。
直後、甲高い音を立てて、正邪を包む檻が小さくなる。
「あなたは私の決めたルールを破った。
下らぬ欲望から昇華した欲求を抑えることが出来ず、この世界の決まりごとに背いた。
この世界はお前を必要としない。お前はこの世界から消えてしまうべき存在。消えてもらわなくては困ってしまうの」
口許を、優雅に扇子で覆い隠した彼女。
その視線が、正邪をねめつける。
「感謝しなさい。
たかが下賎な子鬼風情に、この私が直々に裁きを下すのだから」
「……っ!」
「その結界は、あなたをこの世界から追い払う、隔離された世の形。
お前からあらゆるものを奪い、代わりにあらゆる絶望を与えてくれるでしょう。
その中で後悔しなさい。己が犯したことの罪を。そして嘆くといい。犯してしまった罪は、もう元には戻らないことを」
正邪の視線が女を向いた。
ふざけるな、と心の中で絶叫し、彼女は相手へと攻撃を仕掛ける。
あらゆるものを反転させる――その力は、成り立つ『もの』を反転させ、成り立たなくさせることも出来る。
この結界そのものの存在をひっくり返し、消滅させることも出来る――彼女は、そう確信していた。
何をどうやっても、事態が変わらないという事実を認めるまでは。
「無理よ。
あなたの作り出す『反転』は、あらゆるものを正反転させてしまう。
けど、天地のないもの、左右のないものはどう? ひっくり返してしまっても、全く同じものであるならば、たとえひっくり返されても何も変わらない。
その結界は、私の作り出した美しい数式の上に成り立つ、無限の結界の檻。1ナノミクロンレベルで構築した無限。
何度反転させられても、構築した計算式は計算と証明を繰り返すだけで、決して、覆されない」
女の視線が、冷たく、そして愉快なものを眺めるように、正邪を見つめている。
正邪の絶望を、彼女は楽しく味わっているのだ。
まるで、普段、正邪がやっていることのように。
正邪に己の『鏡』を見せているかのように。
「その結界は、1時間につき1%ずつ形を小さくしていく。
やがて、結界は、お前を押し潰し、粉々にしてしまうでしょう。肉体も、精神も、魂も、あらゆるものを消滅させ、結界の狭間に放り込む。
妖は倒されても、魂が存在していれば、いずれは蘇る。
しかし、それでは仕置きにならない。
私の結界は、お前の魂を永遠に捉え、壊し続ける。死してなお、地獄を味わいなさい」
「っ!?」
「ああ、下手に触れないほうがいいわよ。ばらばらになってしまうでしょうから」
彼女は空を見上げた。
降り注ぐ日光を浴びて、気持ちよさそうに目を細めた後、「今日も暑いわね」と笑う。
「すりつぶした肉体と魂は、結界の狭間から抜け出すことも出来ないでしょう。
だから、最初に言ったのよ。
あなたのこと、『ようやく見つけた』とね。
ああ、あとそれから、結界の中にいると、ゆっくり、あなたという存在を消してしまうようにもプログラムしたから。
今、声が出せないでしょう? 直に耳も聞こえなくなり、目も見えなくなり、手足も動かせなくなり、何も出来なくなる。
それが『死』ということなのだと思う存分味わってから、此の世から消えなさい」
彼女はその場に腰を下ろすと、のんびりと、正邪を眺める。
正邪が絶望し、必死に助けを請う姿を嘲笑うために。
相手の挑発に乗ってたまるかと、何とかして、そこから逃げ出そうとするのだが、どうにも出来ない。
何をしても、何をやろうとしても、何も出来ないのだ。
『あたしが何をしたっていうのよ!』
あらん限りの声を振り絞り、彼女は叫ぶ。
『あたしは、あたしが思っていることをやろうとしただけ! あたし自身の存在が、やれ、っていうことをやっただけ!
どうして怒られないといけないの!? あたし、別に悪いことしてないっ!』
「ああ、何を言っているかさっぱりわからないわ。
困ったものね。一番最初に奪うのは『目』にしておけばよかったかしら」
くすくす笑う彼女は、その瞳で正邪の唇の動きを見ながら、わざとらしくそんなことを言ってのける。
正邪が何を言っているか、何を訴えているか、わかっているのに。
それを彼女は、薄笑いを浮かべて聞いているだけ。
『笑ってないで、何か言いなさいよ! ねぇ!? 聞こえてるんでしょ!? あたしが言ってること、わかってるんでしょ!?
どうして!? どうして、あたしだけ、こんな目にあわないといけないの!? あたし、何か悪いことしたの!? 教えてよ! あたしが悪いことしたなら、それを教えなさいよ! ねぇったら!』
「酒があればよかったわね。
木っ端妖怪の必死の訴えなんて、見ていてなんて愉快なのかしら」
ああ、楽しい、と女は言う。
普段、正邪がやっていることを、彼女はまるで、正確にトレースしているかのようだ。
正邪もこのように、人が嫌がること、人が慌てふためく様を見て、やって、お腹を抱えて笑っている。
しかし、それが悪いことだとは、別段、彼女は思っていない。
天邪鬼と言う妖怪はそういうものだからだ。
人が嫌がることが何より楽しい。そういう妖怪に生まれたのだ。妖怪としての本能にしたがって行動しているだけなのに、どうして、自分は殺されないといけないのか。
理不尽だ。
許せない。
怒りと共に、どうしようもない想いが体の中を駆け巡り、脳髄に到達している。
視界が歪んで、体が震えてくる。
叩きつける想いは、相手には届かない。
『やだ……! いやだ、いやだ、いやだ!
あたし、死にたくない! あたし、死ぬのはいや! お願い、助けて! あんたの言うこと聞くから! 助けて! 助けてよ、ねえ! 見てないで助けてぇっ!』
「ダメよ」
必死で訴える彼女の言葉を、女は、たったその一言で一蹴した。
『ああ、暑い暑い』と言いながら、彼女は扇子で体をあおぎ、のんびりと、肘を突いて正邪を眺める。
恐怖に我を忘れ、必死で叫ぶ正邪を、ただ見ているだけだ。
何もしないし、何もしようとしない。眺めるだけ。
それがあまりにも、正邪にとって、耐え難い苦痛と絶望であった。
日は過ぎて、正邪は、女の作り出した結界の中に座しているだけの存在となった。
何も出来ない、何をしても伝えられない。
声は出ず、少し前から目も見えず、周りの音すらほとんど聞こえてこない。
じりじりと体を焼く暑さだけは伝わってくる。
絶望と虚無に打ちひしがれた彼女を、今、あの女は、どんな眼差しで見ているだろう。
「さて、もうそろそろね。
なかなか楽しい時間でした。そんな楽しさ、エンターテイメントを提供してくれたあなたに感謝するわ。
そして、あなたのような屑妖怪を退治するだけで『始末』しない巫女には、ほとほと呆れてしまった。しつけなおさないと。
それも感謝しないといけないわね」
遠くで聞こえる女の声。
続いて、甲高い音がして、両手の掌が燃えるように暑くなった。
慌てて体を動かして、その熱から逃げようとするのだが、それすらうまく出来ない。
「そろそろ時間。あなたはこのまま消えてしまうだけだけど、何か言い残すことは……あっても、言えないわね。ごめんなさい」
冷徹な言葉が聞こえて、正邪の頬を涙が伝った。
久しく流していなかった、感情の高ぶりからあふれるもの。
子供のように体を丸めて泣きじゃくる彼女を、女は、どんな瞳で見ているのだろう。
「さようなら」
告げられた声の後、全部が消えてしまう錯覚に襲われて、正邪は息を呑む。
しかし、直後に聞こえたのは、何かが砕ける甲高い音だった。
消えてしまうと言うのはこういうことか――彼女は、そう信じて疑わない。
だが、案に相違して、彼女は消えなかった。
「……え?」
「あらあら。ようやく見つけました」
後ろから響いた声に振り返る。
先ほどまで動かなかった体が動いた。
何も見えなかった目が、また見えるようになった。
ほとんど聞こえなかった耳が、きちんと音を伝えてくれる。
からからに嗄れてはいたものの、声が、その喉からあふれ出る。
「あら。あなた」
「ごきげんよう。八雲の結界守さま」
片手に金色のかんざしを握った女の姿。
その彼女に、正邪は見覚えがあった。
「霍青娥、だったかしら?」
「ええ」
「どういうつもり? せっかく、その子鬼をこの世界から抹消できたのに。
結界を壊してしまうなんて」
「うふふ。
まさか、わたくしのような下賎な仙人の術が、高名なる結界守さまの結界すら壊してしまえるなんて思いませんでした。
これも日々の修行の成果です」
両者の間に、剣呑な雰囲気が漂ったのは一瞬のこと。
青娥は正邪へと歩み寄ると、「大丈夫ですか?」と手を差し出してくれた。
視界に浮かぶ、優しい笑顔。
それに、ついにこらえていたものが切れた彼女は、大声を上げて泣きながら、青娥へと飛びついた。
「あらあら。よしよし。怖かったんですね」
「当然でしょう。死はあらゆるものからの解放。痛みも苦しみも、何も与えてくれない。
だから、私は、痛みと苦しみを与えるために、じわじわと、真綿でその首を絞め続けた。
なのに、あなたはそれを台無しにしてしまうのね。憎たらしい」
「うふふ。
結界守さま、別によろしいではありませんか。
子供と言うのはいたずらが好きなものです。それに対して、いちいち目くじらを立てていたのではおとなげないですよ。
ほら、目元に小じわが。みっともないですわ」
「……ほんと?」
「さあ?」
慌てて手鏡取り出して、自分の顔を覗きこむ彼女。
その女にくすくす笑う青娥は、左手で、優しく正邪をかき抱く。
「子供をいじめるなんて、趣味が悪いですわね」
「……全く。
興がそがれました。
ごきげんよう。霍青娥。そして鬼人正邪。どうぞお好きなように」
踵を返した彼女は、どこかへと消えていく。
辺りに音が戻ってきて、にぎやかな夏が返ってくる。
「さて、と」
泣きじゃくる正邪を抱いている青娥は、女の消えた空間をじっと見据えながら、一言、つぶやいた。
「下衆め」
――と。
「太子さま」
「どうしたのですか? 布都」
「ああ、いえ。
先ほど、青娥殿が湯浴みに連れて行った、あの子鬼は?」
「さあ? 青娥さんのやることは、まだまだよくわかりませんからね」
その空間の住人にですら首を傾げられる青娥であるが、特段、それをとがめられるようなことはない。
その住人たちが青娥のことを信頼していると言うのもあるが、『まあ、青娥だし』という適当な判断で、彼女の存在が据え置かれていると言うのもあるだろう。
「もう大丈夫ですよ。怖かったですね」
温かいお湯が揺れる。
青娥に抱かれながら、正邪は借りてきた猫のように縮こまっている。
「……どうして……」
「ん?」
「どうして……助けてくれたの……?」
「あら。それは当然、わたくしは少女の味方だからですわ」
曰く、『少女に悪い子はいない』のだそうな。
その『少女』と言うのが一体何を意味するのかはわからなかったのだが、とりあえず、正邪は、「あたしは悪い子だよ」と小さくつぶやいた。
「ふむ」
「……悪い子なんだもん。天邪鬼だから」
「では、悪い子ではありませんね」
「……え?」
「妖怪と言うのはそういうものでしょう?
自分の存在意義に従って、やりたいことをやりたいように、好きなようにやる。それが妖怪なのですから、あなたが天邪鬼であると言うのなら、何をしても、別に悪いことではないでしょう」
そうではないのですか? と言う視線が向けられる。
正邪は相手から視線を逸らし、小さく、『……うん』とうなずいた。
お湯の揺れる小さな音がして、青娥の手が正邪の頭に載せられる。
優しく、左右に揺れるそれに、正邪は目を細めた。
「だったら、なおさら。
正邪ちゃん。あなたは、別に悪いことはしてないのです。ただ、ちょっとやりすぎただけですわ」
「え?」
――名乗ってないのにどうして?
突然、正邪の名前を口にする青娥に、彼女は「あの場で聞こえただけです」とウインクして返してくる。
「世の中にはいいことと悪いことがあります。
その中に、やってもいいことと悪いことがあるんです。あなたは、今回、後者をやってしまっただけです。
わたくし達やあの結界守さまに言わせるなら、『やってもいい悪いこと』と『やってはいけない悪いこと』があるというべきでしょうか。
あなたはその区別がつかず、少し、度を過ぎてしまった。だから、叱られた。それだけです。
次からは、同じことをやらなければいいのですから。簡単でしょう? いい子なのだから」
膨れて視線を逸らす正邪。
そんな彼女の仕草がとてもかわいらしいのか、青娥が『うふふ』と笑った。
「晩御飯を食べていってくださいな。あと、今夜はそろそろ遅いですから。泊まっていくといいですね」
「……お礼なんていわないから」
「ええ」
「……もうしない」
「そうですね」
微笑む青娥に『いー、だ』と返して、彼女はぶくぶくお湯の中に沈んでいった。
「――と、いうような少女との出会いがありまして!
まあ、なんと申しましょうか、やはり少女は素直でかわいらしいのが一番ですが、ちょっと憎たらしいくらいなのも最高ですわ!
ですわよね、茨華仙さま!」
「だからどうしてそこで私に同意を求めるんですかあんたは!」
それから数日後。
相変わらず、人里の甘味処で繰り広げられる、激しい『仙人×仙人のきゃっきゃうふふトーク』。
テーブル叩き、茨華仙と呼ばれたピンク頭の仙人は、「第一、それを私に同意求めてどうすんの!?」とツッコミ入れる。
「仙人は人間の味方ですものね。
けれど、茨華仙さま、やはり、そうは言っても少女に悪い子はいません! どんな少女も根は純粋なものです! それを守り、慈しみ、育てていくのが、わたくし達、淑女の使命ですわっ!」
「一部以外には全面的に同意しますけど!
だからって……!」
と、そこで、彼女は言葉を区切る。
視線を向けた先、甘味処の入り口に、小さな女の子が立っていた。
彼女は店の中の様子をちらちらと伺っているように見える。
やがて、その視線が青娥を捉えると、一瞬、ぱっと笑顔を浮かべて、慌てて、ぶんぶんと頭を左右に振る。
そして、
「まあ、正邪ちゃん!」
青娥のところへやってきた彼女は、ふてくされたような表情を浮かべながら、勝手に断りもなく二人のテーブルにつくと、「アイス」と注文する。
「まあまあ。アイス、一つだけでいいんですか? こっちのスイートパイも美味しいですわよ」
「じゃあ、それも」
「はいはい」
ふてくされたような顔のまま、正邪は、どこか嬉しそうな雰囲気をかもし出している。
少しだけほっぺた赤くして、つんとした表情を見せている彼女の元に、まず、アイスが運ばれてきた。
「あんたのおごりだからね!」
「ええ」
「言っておくけど、別に感謝なんてしないんだから!」
アイスに手をつける彼女。
そして、その左手で青娥の右手を掴むと、ぽんと、それを自分の頭の上に載せる。
「な、なでていいから。感謝しなさいね!」
「まあまあ。うふふ」
小さくてかわいい女の子大好きな青娥が、嬉しそうに、正邪の頭をなでている。
反対に正邪は、いやそうな顔を浮かべつつも、嬉しそうに、楽しそうに、アイスを口にしている。
実に奇妙奇天烈摩訶不思議奇想天外四捨五入な光景であるが、茨華仙と呼ばれた仙人は、特に何も言わずに、肩から力を抜いた。
そして、浮かしていた腰を椅子に戻すと、
「すみません。
この子に……そうね、オレンジジュース、追加で」
と、通りかかる店員に、追加の注文をするのだった。
正邪ちゃんがどろろみたいで可愛いぜぃ
青娥の愛でる力説が半端じゃないな、こういう人が実際にいたら近寄りたくないですね...。
「これからはあらすじも読もう」と決めたらこの作品だよ!
青娥にも紫にもちょっとついていけなかった感があります。
青娥はたんなる小さい子好きかもしれませんが
紫の力があって「やっと見つけた」というのも変ですし、このような罰を与えるべき存在は他にも幾らでも居ると思いますね。
そのような事は考えず「正邪まじツンデレ」とか思いながら読むのが一番正しいのかなと思いました。