霧雨魔理沙の活動範囲は広い。
とにかく何処にでも顔を出し、あらゆる問題・厄介に首を突っ込んでいくのが彼女である。おかげで幻想郷では顔もそこそこに広い。
しかし、そんな彼女の行き先の大半は博麗神社である。特に理由がなくても、何となく理由を作って足繁く通っている。
本当なら今日のこの日も通う筈だった。
もう二日も顔を見せていない。魔理沙が来ないから、あそこの巫女は退屈で死んでいるかもしれない。それは大変なことだ。
だから、自分がわざわざ足を運んで生存確認をする必要がある、と十分過ぎる大義名分が魔理沙にはあった。
その為にも、昨日から用意は万全だった。
お気に入りの服を用意し、靴はピカピカに磨いて、帽子もぴんしゃんと真っ直ぐに整えた。滅多にしない早寝だってした。
それだというのに、
「雨、止まないなぁ……」
この日は生憎の雨模様だ。
ぱらぱらと窓を叩く雨音を聞きながら、魔理沙は憂鬱気味な溜め息を吐いた。
これでは博麗神社に行けない。
せっかく念入りに用意した服飾たちを濡らしたくはなかった。それ程に雨足は強い。
水も滴る良い女という言葉もあるが、わざわざ濡れに行くのは、単にみっともないだけである。
「それに、なぁ」
もう一つ溜め息。今度は自前の金の髪を触りながら。
魔理沙の髪は少々癖があるのだ。だから、今日のような湿気の強い日は髪があちこちの方向を目指して跳ねてしまう。
そんなみょうちくりんな髪をした自分なんて、魔理沙は見られたくなかった。
「暇だ……」
用が無くなってしまえば、娯楽の少ない幻想郷である、暇な時間があっさりと生まれてしまう。
魔法の研究でもすれば、暇は潰せて魔法使いとしての面子も立つというものだが、どうにもそんな気分にはならない。
ただ、そう高くもない天井を見上げて、無為に時間を潰す。
天井に出来た染みの数を数える傍らで魔理沙は思考する。
もし、今日が晴れであったなら、自分はこんなにも時間を持て余すこともなかったのか、と。
博麗神社にはもう何度も、数えるのも億劫な程に通ってきた。
今さら見て珍しいと思う物などあそこにはないが、自分専用の湯飲みがあって、戸棚の奥にはとっておきのかりん糖があった筈だ。
目を瞑っても、そこにいなくても、神社の周囲や境内、拝殿の中まで鮮明に思い出せる自信が魔理沙にはある。
そして、そこに住む少女の事も。
「……会いたいよ」
ぽつり。雨が降り込んだみたいに小さく声が漏れた。
声はそのまま魔理沙の心に滲み込んでいく。雨に打たれてもないのに、濡れた気分になって不愉快だった。
「あぁ、くそっ!」
苛立ちを紛らわすようにベッドへ身を投げる。
ベッドは魔理沙を拒むことなく、柔らかく受け止めてくれる。ささくれ立った心がほんの少し和らいだ。
雨は弱まる様子はない。
いっそこのまま寝てしまおうかと、うつらうつらと夢に溺れかける頭の中で思っていた。
―――コンコン、コンコン。
と、その時、明らかに雨音とは違う硬質な音が魔理沙の耳に届いた。
若干ぼやけた状態の魔理沙の頭だったが、該当する言葉を知っていた。
「……ノック? こんな雨降りの中を誰か来たってのか? ご苦労なこった」
夢見心地から無理矢理に引き上げられた為か、魔理沙の声は刺々しい。
そんな彼女の心中など知ったことかと、ノックは催促するようにコンコンコンコンと鳴り続けている。
まるで、ここにいることは知っているんだぞ、と無言で伝えてくるような遠慮の無さ。
思い当たる人物は……何人かいる。
馴染みの古道具屋の店主か。同じ森に住む人形使いの魔女か。はたまた見も知らずの迷い人か。
それとも大穴で―――、
「いや、あいつはないな」
と思ったが、その人物がここを訪ねてくるなんてありえないと魔理沙は切り捨てた。
今までだって数える程しか来たことがない。おまけにこの雨、出不精の彼女がわざわざ出向いてくるとは考えられなかった。
それもこれも、会いたいだなんて女々しい事を口にしてしまったからだ。
無意識で、求めてしまっている。
ぶんぶんと頭を振って気持ちを切り替える。こんな雨降りに出歩く馬鹿を、いつもの不敵な笑みで出迎えてやろう。
「あいよ、お待たせ。うちは知っての通り霧雨魔法店だが、生憎の雨で今日はお休みだ、ぜ―――」
なんて、思っていたら、
「遅い。いるんなら、もっと早く出迎えなさいよ。風邪ひいちゃうじゃない」
「……あ?」
馬鹿は、魔理沙が求めていたその人だった。
「え、霊夢? 何で来た、の?」
予想外というか、予想から除外していた人の登場に、魔理沙の口調は若干幼いものになっていた。
そのことを特に気にした様子でもないその人―――博麗霊夢は答える。
「別に。特に理由なんてないわ」
「嘘だ。霊夢が理由もなく出歩くなんてそんなの……」
「信じられないって? あのねぇ、私があんたに会いに来るのに理由なんてものが必要な訳?」
「いや、必要ない、けど……」
「なら問題ないじゃない。それでも納得がいかないんなら、私があんたに会いたくなったからって理由にしときましょ。それでいいわよね?」
「ね?」と首を傾けて言われては、肯定するしかない魔理沙だった。霊夢は満足そうである。
魔理沙にとって思いがけない幸運。しかし、愚痴られずにはいられない事も一つ。
「……何でよりによって、雨の日に来るんだよ」
「んー? 何か言ったー?」
「いや、雨の日に来たから、霊夢びしょ濡れだなって」
「あー、確かにびしょ濡れだわ。傘も差してきたのにねぇ」
「この雨じゃ傘も大して役に立たんだろ。タオル持ってくるから、ちょっとそこで待ってろ」
「うん、分かった」
やけに聞き分けのいい霊夢に不審を覚えながら、魔理沙はタオルを取りに行く。脱衣場にストックがあった筈だ。
それにしても、会いたくなったから来た、なんて言葉が霊夢の口から出たことに驚いた。しかも、その相手とは他ならぬ自分だ。
嬉しくない筈がなかった。でも、タイミングというものを考えて欲しかった。
魔理沙は、雨の日の自分を見られたくないと思ったから、神社に行くことを泣く泣く我慢した。
それなのに、霊夢はそんな時に限ってやって来たのだ。
―――今の自分を見て、霊夢はどう思うかな。
考えるだけで、魔理沙の心に分厚く暗い雲が立ち込めるようだった。
# # #
「散らかってるけど、適当に掛けてくれ」
「わざわざ言ってくれなくても、散らかってるのは一目瞭然よ」
「……ほっとけ」
タオルを渡した魔理沙は、霊夢が大方拭き終えるのを見て、彼女を家に迎え入れた。
本来なら、誰の来訪の予定も無かったので、部屋はいつも通りの散らかり具合である。
これが予定通り、それも霊夢の来訪であると分かっていたなら、今よりはもう少し、ほんの少しばかり綺麗にしていたと魔理沙は思う。
現状を見られ、率直なご意見を頂いた後では後悔も先に立たないのであるが、今回ばかりは仕方がないと自己弁護する。
「お茶、淹れてくるよ。まぁ、お茶と言っても紅茶しかないんだけど、いいよな?」
「えー、緑茶はー?」
「悪いが品切れ中だ。普段から緑茶は腐るほど飲んでるだろ。たまには違うお茶も飲んでみろって」
「そうだけど……うー、茶柱の立たないお茶とか御利益が無さそうで信用ならないわ」
「あの御利益も期待出来ないような神社の巫女のお前がそれを言うか。いいから黙って飲んどけ、カテキン中毒者め」
悪態を吐きつつ、紅茶の準備に取り掛かる。何処ぞのメイドや魔法使いみたく本格的なものではない。
何回でも使い回しが可能なパックと沸かしたお湯を用意して、余計な手間を掛けずに出来上がりだ。
本格派からしたら渋面ものだろうが、魔理沙はこの効率重視なインスタントの味も割と好きだったりする。
「ほーい、魔理沙さん特製のお紅茶だぜ。存分に味わって飲めよー」
「ん、ありがとう」
ティーカップをカチャカチャ言わせながら戻った魔理沙を出迎える霊夢の声。
そして、魔理沙はというと、思わずティーカップを落としかけた。
「……おい霊夢、何だその格好は」
「うん? 濡れたまんまじゃ気持ち悪いから脱いだの。あ、ベッドに座られるの嫌だった?」
「それはいいけど、その……目のやり場に困るというか、もっと恥じらいというもんをだなっ」
「はぁ? 何を今さら。女同士なんだからお互いの着替えだって見たことあるでしょうが。お風呂だって一緒に入るし」
それはそうなんだけど、と思いながらも視線を方々にさ迷わせる魔理沙。
いつもの巫女装束を脱いだ霊夢(あの必要性皆無な袖も)は肌着とドロワーズのみの軽装だ。
しかも乾き切っていないので、彼女の薄い肢体に張り付いていて色々と危うい。
おまけに、霊夢は今、魔理沙の使うベッドの上にいる。下着姿の霊夢が、である。
ぐびり、と霊夢に悟られないように喉を鳴らす。
見慣れた人が見慣れた姿でいたとしても、場所と状況が違うだけでこうも倒錯的に映るとは知らなかった。
これ以上はマズイ、と本能的に思った。何がマズイのかは魔理沙本人にも分かりかねるが、理性が悲鳴を上げ始めている。
とにかく、お茶を飲もう。そうすれば自分も落ち着けるはず、とベッドに座る霊夢にカップを渡し、自分は向かいの椅子に座ろうとする魔理沙だったが、
「何でわざわざ遠い所に座るのよ。せっかく来てあげたんだから、近くで私の相手しなさいよ」
なんて、霊夢が隣をぽんぽんと叩くもんだから困り果てた。
話相手といっても、いつも神社で駄弁っているのと同じ構図、な筈だ。
だというのに、偉そうな霊夢の態度に怒るどころか初な子どものように魔理沙は俯いて、そんな彼女の姿こそが肴だというように意地の悪い笑みを浮かべながら霊夢が弄る。
「顔、赤いわよ?」
「……赤くない」
「本当?」
「本当だ」
「ふーん。あ、この紅茶美味しい」
「無理して飲まなくてもいいんだぜ?」
「なに拗ねてるの?」
「拗ねてないっ」
「そ。でも、もったいないから全部頂くわ」
「はん、貧乏性め」
「そうかもね。なんせ、魔理沙が淹れてくれた紅茶だもの。捨てるなんてもったいないもったいない」
「……っ!」
「顔、赤くなってない?」
「なってない!」
そんな他愛のない応酬を一刻も繰り返していれば、さすがに魔理沙も慣れる。
それこそ、相手はあの霊夢なのだ。緊張するというのが根本からおかしい話な訳で。
飲み終えたティーカップを片付けた頃には、いつも通りだった。
幾ばくかの余裕が魔理沙の心に生まれ、そうするとそれまで気付けなかった小さいことにも目がいくようになる。
例えば、霊夢の視線が先程から魔理沙、正確には魔理沙の髪に向いている事とか。
気付いて、また憂鬱な気分がぶり返してきた。
「……なに見てんだ?」
「あんたの髪」
「別に見ても楽しいもんじゃないだろ」
「楽しいわよ? 今のあんたの髪、ぴんぴん跳ねてるじゃない。でも、神社に来る時はこんな髪して来たことないし。何だかんだで、身嗜みには気を付けてるんだって分かった」
「そりゃあ、私だって女だからなぁ」
「よかった。魔法使いになるのと一緒に女も捨てたんじゃないかと思ってたのよ」
「おま、そんなこと気にしてたのか!? 捨ててない、捨ててないからな!?」
そんなに自分はがさつに見られていたんだろうか、と魔理沙は不安になる。
……まぁ、この部屋の有り様を見れば、がさつと思われてもおかしくはない。
足元に脱ぎ捨てられた下着をこっそりと隠す魔理沙だったが、霊夢には気付かれていないと信じたかった。
「今日は……」
「えっ!? な、何だ?」
「してないのね、三つ編み」
「三つ編み? あぁ、家に居る時は面倒だからしてないんだ」
「ふーん、そうなの」
「お、魔理沙さんの三つ編み姿が見たかったのか?」
霊夢の声に残念そうな色を聞き取った魔理沙が、意地悪く言う。
普段から霊夢には翻弄されているのだ、これくらいの仕返しは許容範囲だろう……なんて考えていたのが甘かった。
「そうね、折角だから魔理沙が三つ編みにしてるところ見てみたいかな」
「にゃに!?」
思わず猫語で驚く魔理沙。
「ほら、早く。三つ編み、三つ編み」
何が霊夢をそうまで駆り立てるのか、彼女は三つ編みを連呼する。
それだけ霊夢に求められれば応えない訳にはいかない魔理沙だが、一つ問題があった。
「ま、待て、霊夢。別に三つ編みにするのは吝かじゃないんだが、その、な?」
「何か問題でもあるの?」
霊夢が小首を傾げる度に、魔理沙と違って癖のない黒髪が肩の辺りでさらさらと揺れる。
それを内心で妬ましく思いながら、魔理沙は言う。
「髪が、ぼさぼさだから、少し整えさせてくれよ」
湿気だったり、寝転がったりしたせいで魔理沙の髪は爆発気味だ。
こんな状態の髪で編んだとしても不恰好だろうし、実は身嗜みを整える口実が欲しかったりもした。
話してる間も、霊夢にだらしないと思われていないかで気が気でなかった。霊夢を迎えるなら、やはりそれ相応の身嗜みをしておきたい魔理沙だった。
「いいわよ」
霊夢から了承の言葉を頂き、思わず魔理沙の顔が綻ぶ。
「お、本当か。じゃあ、ちょっと待っててくれ」
「その必要はないわ」
「あん?」
「私が梳いてあげるから」
綻んだ顔が凍り付いた。
今、霊夢は、何と言った?
「え、霊夢が梳く? 私の髪を?」
「そう言ってるじゃない。ほら、さっさと櫛を寄越す」
ほれほれと霊夢が催促の手を差し出すが、魔理沙はいやいやと手を横に振る。
「いい、いい。自分で出来るから」
「遠慮するんじゃないの。私が誰かの為に何かするなんて滅多にないのよ?」
「いや、本当に仰る通りなんだけど、悪いよ」
「い・い・か・ら! 持ってきなさい!」
霊夢の機嫌が急降下の兆候を見せ始める。
こうなると魔理沙が折れないと、その後が非常に厄介なことになる。長年の経験で知っている。
そんな訳で魔理沙は急いで櫛を持ってきて、それを霊夢に手渡した。
櫛を手に取ると、霊夢は魔理沙の後ろにそそと回り、膝立ちになって魔理沙の癖っ毛を手に取った。
「んっ……」
「ふふっ」
櫛が髪の僅かな隙間を通る感触がくすぐったい。思わずといった感じに魔理沙の鼻が鳴る。
それに気を良くしたのか、霊夢はふんふん鼻歌なんか口ずさんでいたりする。
何となく不気味だ。こうまで上機嫌な霊夢は滅多にない。稼ぎ時の正月はまだまだ先の筈なのに。
「……今日はやけに機嫌が良いんだな」
「ん? そう?」
「そうだろ。鼻歌まで歌ってさ」
「え、嘘。私、鼻歌なんて歌ってた?」
「気付いてなかったのか……」
魔理沙は呆れ、霊夢は「あー、恥ずかしい」などとぼやいている。それでも魔理沙の髪を梳く手は止めない。
ぽつぽつと単調な雨の音を耳にしながらこんなにも優しい動作を繰り返されては、消えた筈の眠気がまた顔を出しそうだった。
いけないいけない、と頭を振ると「動くな」と霊夢に打たれた。理不尽だと魔理沙は思わずにいられない。
下手に動いてまた打たれるのは嫌なので魔理沙がじっとしていると、霊夢が唐突にこんな事を言ってくる。
「魔理沙の髪って良いわね」
「何処がだよ。癖っ毛だし、雨の日は好き勝手に跳ねるしで良いことなんてないぜ? 私はいっそ霊夢みたいなさらさらした髪が良かったよ」
「そうかしら。私は魔理沙の髪って好きよ? ふわふわできらきらしてて、まるで錦糸卵みたい」
「……そこは金糸みたいと言って欲しかったかな」
食べ物に例えられても、と苦笑いする魔理沙。しかし、内心は歓喜の想いで一杯である。理由は言わずもがな。
しかも、霊夢の口撃はこれだけに留まらない。
「でも、やっぱり魔理沙は今の髪であるべきなのよ。私と同じ髪になんてしちゃダメ」
「ほほう? 是非ともその理由を教えてもらいたいな」
「だって、あんたが黒髪になんてしたら私の隣に居ても映えないじゃない」
……それを聞いて、魔理沙は呆然とした。「本気か?」と問えば、「うん」と頷かれてしまう。
なんという、なんという傍若無人にして自信過剰なお言葉か。
それでいて、他者を納得させてしまうだけの力が、その言葉にはあった。
想像してみる。黄金色した髪を黒に染め直し、霊夢と並んだ自分を。
金を塗り潰した偽りの黒と、混じり気のない純粋な黒。
どちらが見栄えするかなんて、火を見るよりも明らかだ。
敵わない。髪の色一つ真似たとしても、霊夢には敵わない。
……しかし逆説、今の髪の色であれば、霊夢に並び立てるというのだ。
「―――っ!」
魔理沙の内を、圧倒的なまでの多幸感が襲う。
それまで胸の内で燻っていたちっぽけなコンプレックスなど、綺麗さっぱり跡形もなく押し流してしまった。
「っ、そうだな。私に黒髪は似合わないな!」
「うんうん。あんたに黒は服と帽子で十分よ」
「黒星もいる?」「いらない」なんて言い合いをしていたら、いつの間にかそれなりの時間が過ぎていた。
二人で過ごす時間は楽しいけど、短く感じる。魔理沙はそれが少し悲しい。
「……ん、こんなもんね。どう? だいぶ整ったとは思うけど」
「あ、本当だ」
「私にかかればこんなもんよ。さ、三つ編みにしましょうか」
さっそく三つ編みを要求してくるとは、まったくもって霊夢という少女は現金である。
もっとも、何だかんだで梳き終わってしまったことを惜しんでいる辺り、魔理沙という少女も現金である。
「分かった分かった。ったく、何がお前を三つ編みに駆り立てるんだか……」
「だって、三つ編みが無いと魔理沙らしくないもの」
「あー、それは私のアイデンティティが三つ編みって事か? ははっ、泣いていいかな?」
「そういう訳じゃないの。ただ、私の知ってる魔理沙と違っているのが、何となく……」
「何となく?」
「……不安なのよ」
霊夢が不安を覚えている? 魔理沙が振り向くには十分過ぎる理由だった。
既に梳き終わったからか、また霊夢に強制的に前を向かされることはなかった。
後方にある彼女は笑みを浮かべていたが、何処か物憂げだ。
ここは気の利いた事でも言うべきか、と言葉を探していると、先手を打つように霊夢が魔理沙の髪に手を伸ばしてきた。
細くたおやかな指が、金糸を一房、二房と絡め取っていく。それだけの筈なのに、魔理沙の心臓は面白いように鼓動を速めていた。
バクンバクンと心音の他に、霊夢の声が混じる。
「魔理沙の髪を三つ編みにしたのは、私が初めてだったっけ?」
「あ……あぁ。お前が『あんたの髪、流してばっかで面白くない』とか言っておもちゃにしてな」
「そうだったっけ? でも、そのおもちゃにされた時の髪型を今まで続けてたんだ」
「い、意地の悪い言い方するな。……これでも気に入ってるんだから」
「あぁ、ごめんごめん。けど、魔理沙の三つ編みはいつも片方だけよね」
「……あぁ、そうだけど。それがどうかしたか?」
「ねぇ、何で?」
「……何でって?」
霊夢はきっと、気付いている。
「魔理沙はどうして片方しか三つ編みにしないの?」
―――その癖に、そんな事を言う。
「悪いか」
「ううん。でも、気になる」
「別にいいじゃないか」
「別によかったんだけど、よくなくなったの」
「今までは許されたのに?」
「これからが許さないのよ」
そうか、と魔理沙。
許されないのであれば、仕方がない。
「分かった、教える。その代わり、お前にして欲しいことがある」
「なに?」
「……もう片方はお前に結って欲しいんだ」
「……それでいいの?」
「うん……」
絞り出すように魔理沙は言い、こくりと霊夢がゆっくり頷いた。
狭いベッドの上で少女二人の共同作業が始まる。
一人は自分の髪を、もう一人は別の少女の髪を手に取りながら。
三房に分けられたそれが、右に行ったり左に行ったりしながら、徐々に編み込まれていく。
普段から編み慣れた魔理沙の手付きは速い。長年仕込まれた指は止まることを知らず、あっという間に彼女の左手側に三つ編みを作り上げた。
いつもならそれでお終い。編んだそれをちょっと誇らしげに揺らしながら、暇をしている巫女の下に向かっていただろう。
今は違う。
普段は手を付けることの許されないもう片方が、件の巫女の手によって編み込まれている。
霊夢の手付きは魔理沙ほど速くはない。かと言って雑でもない。
丁寧に、丁寧に。絹糸を扱うが如く、ゆっくりと慎重に編み上げていく。
手持ち無沙汰になり、されるがままの魔理沙は、ボーっと霊夢を眺めていた。
こんな光景は前にもあった。自分の髪に手を加えるなんて知らなかった魔理沙を、霊夢が無理矢理に座らせて弄り回したのだ。
―――あの時、言ってもらえた言葉を、魔理沙は忘れていない。
痛い、くすぐったい、だのと他人に髪を触られて、魔理沙は無暗にはしゃいでいて。
―――だから、もう片方の髪には手を付けなかった。
そんな魔理沙をいちいち窘めながら、霊夢はゆっくりと三つ編みにしてくれたのだ。
―――もう一度、霊夢の手で編んで欲しくて。
今も色褪せない、普通の魔法使いの大切な思い出。
―――そして、またあの時と同じく、
「出来た。うん、魔理沙、可愛いわよ」
―――その言葉を言って欲しかった。
「また、言ってもらえた……」
ぽたり、と魔理沙の頬を涙が伝う。
無意識に湧いて出た滴は形の良い顎で数瞬だけ止まり、下で待っていた霊夢の掌を熱く濡らした。
「魔理沙、泣いてるの?」
「……ずっと、ずっとこの時を待ってたんだ」
霊夢の問いに、見当違いな答えが返る。それでも、彼女はうん、と頷いた。
湧いてくる涙と共に昂る感情が、魔理沙の口を自然と動かした。
「私はあの時からずっと、霊夢に髪を結ってもらいたかった。また、お前の手で三つ編みにして欲しかった」
「うん」
「霊夢に結ってもらって、そしてまた、可愛いって! 言って褒めて欲しかったんだ!」
「うん」
「それなのに、お前は! ずっと、ずっと私の気持ちに気付かない振りしやがって……!」
「うん」
「気付かなかったなんて言い訳は言わせないぞ! 勘の良いお前が気付かない筈がないんだっ!」
「うん」
「私が、どれだけ辛い想いをしたと思ってる! 気付かれない痛みが、お前に分かるか!? まるで自分が道化になったんじゃないかと錯覚した!!」
「うん」
「……教えてくれよ、霊夢。お前はどうして私の想いを無視したんだ? お前に見てもらえないなんて、私は耐えられないんだ……」
「……うん」
「なぁ、教えてくれ、霊夢」
涙はいつの間にか、外の雨にも負けない程に勢いを増していた。
霊夢はひたすらに流れ落ちる涙を受け止め……魔理沙の望んだ答えを口にする。
「先に言わせてもらうわね。ごめんなさい」
「……謝罪が欲しいんじゃないぜ」
「分かってる。でも、ごめんなさい。……あんたの言う通り、私はあんたの気持ちに気付いてた」
そう言うと、魔理沙の頬が赤らみ、口をもごつかせた。きっとまた、何で、という言葉を飲み込んだのだろう。
霊夢の口許が緩み、しかし、即座に引き締めるように言葉を続ける。
「いつからってのも言ったらいいのかしら。まぁ、初めてあんたの髪を三つ編みしてあげた翌日だったんどけど」
「そ、そんなに前から気付いてたのか!?」
「あんだけあからさまにお下げを触ったり、ちらちら見られたら嫌でも気付いたわよ」
「そ、そうだったのか」
「そうよ。だから、わざと気付かない振りをしたの。初めは、あんたをからかう為にね」
「……」
魔理沙の望みは子どものそれだった。子どもだから当然、子どもらしい願望だった。
そして、それは霊夢も同じ。博麗の巫女とはいえ人間、相応の子どもらしさだって持ち合わせていた。
霊夢が取ったのは、気付かない振り。魔理沙をからかう為だけの小さな意地悪だった。
それが悪いことだったのかは分からない。子どものやることに、善悪の判断は曖昧だからだ。
だが、魔理沙は一度ダメだったからといって、諦めはしなかった。
「その次の日もあんたは不揃いの三つ編みして神社に来て、私は気付かない振りをした。あの時はまだ、私も諦めの悪い奴とかしか思ってなかったわ」
そこで霊夢もさっさと褒めてしまっていれば、その後の未来は変わっていたのかもしれない。
魔理沙は褒められてそれで満足したかもしれないし、他の髪型も褒めて欲しくて三つ編みなんてやめていたかもしれない。
そもそも、霊夢に対して今のような執着を見せなかったかもしれない。
しかし、霊夢もまた魔理沙に釣られるように意固地になって、決して自分からは触れようとはしなかった。
それが今の少々拗れた関係を生み出した原因。
「あんたは来る日も来る日も三つ編み片方垂らして寄ってくるんだもんねぇ。子ども心に物好きな奴だとは思ってたわ」
「人をアホな子どもみたいに言うな」
「アホな子どもだったじゃない。普通はあんだけ知らん振りされてりゃ、さっさと諦めてるわよ。今この時まで諦めてなかったんだから、アホの極みよ」
だが、そのアホの諦めの悪さは折り紙つきで、霊夢にすら異常と思わせた。
あの日から一週間が経っても、一月が過ぎても、一つ年を取っても、魔理沙は変わらず三つ編みにしてやって来ていた。
どれだけ霊夢が知らん振りを決め込もうが、魔理沙は諦めなかった。
その頃には何が彼女をそうまでさせるのか、霊夢も次第に気になり始めていた。
そして、かつて起きた永い夜の異変。
博麗の巫女として早急に対処すべく竹林を飛んでいた霊夢の前に、魔理沙は現れた。
場は一色触発の雰囲気が立ち込めていた。
いつ弾幕ごっこに移行してもおかしくなった。
そして、実際にそうなった。
しかし、ごっこが始まる前に魔理沙の瞳に覚悟を見出そうとした霊夢は気付いてしまった。
魔理沙はそんな曲面であったにもかかわらず、どこか熱を帯びたような視線を自分に向けてきていたことに。
背筋がゾッとするような想いと、胸の内がカッと熱くなるような想いとが、この時、霊夢の内に生まれた。
「いま思い出しても、あんた変態だと思うわ。弾幕ごっこの最中でも『褒めて褒めて』みたいな目で見てくるんだもん」
「……してない」
「いーや、してた。……おかげで私まで変な気分になっちゃったんだから」
「え?」
魔理沙が嘘だろうといった顔するが、本当の事だ。
異変以降、知らず魔理沙の事を意識している自分がいた。
どうして魔理沙は、そうまで自分に構って欲しがるのか。
それを考えるだけで、またあの熱い想いが霊夢の身を焦がした。
それは時間が経つ程に温度を増していき、いつ霊夢を焼き焦がしてもおかしくない程の熱を孕むようになっていた。
しかし、霊夢にはその想いの正体が掴めない為に、冷ます術を知らなかった。
このままでは身の内の熱に焼かれてしまうと、さすがの霊夢も危機感を覚えた。
「だから、考えたの。あんたっていう存在が、私にとってどういうものかを」
「…………」
いつまでも、自分に付いて回る霧雨魔理沙という少女について。
「そして、私は気付いてしまった」
魔理沙が霊夢の生活の中で占める割合は大きい。
お喋りをして、お茶を飲んで、弾幕ごっこをして、ご飯を食べて、お風呂に入って、時にはおやすみからおはようまで言葉を交わし合う。
幻想郷の誰よりも、自分と共に過ごしてきた時間の長い人。
博麗の巫女という、幻想郷において圧倒的存在に追い縋ろうとする人。
いつしか霊夢は、彼女こそ自分の隣に並び立つに相応しい人物じゃないかと、そう思うようになっていた。
つまりは―――、
「あんたは、私の中で一つ飛び抜けた存在になってしまっていた、って」
「霊夢……」
「それが許されないことも、ね」
常に平等・中立であるべき彼女が、一人に意識を向けるなんて。
それは博麗の巫女としてあるまじきことだった。許されないことだった。
「だから、私は自分を戒めた。あんたが何を私に望んでようが、意識の外に置くようにした。そうすれば、私はまた中立な存在でいられたから」
彼女は自由奔放だが、その根幹にあるのは博麗であり、巫女としての責務は絶対であった。
如何な彼女とて、それを無視することだけは出来ない。
「あんたには悪いことをしたと思ってる。これは本当よ? あんたの想いに応えたくても、私には応えられなかったから」
霊夢の指が、魔理沙の頬を撫でる。伝った涙の跡を辿って、目元に溜まる涙を掬った。
まるで子どもがされるようで恥ずかしくて、霊夢がその後の事をはぐらかそうとしているようにも思えた。
霊夢はまだ全てを語った訳じゃない。最も大事な所が抜けている。
誤魔化しは許さない。そんな思いで、魔理沙は霊夢に問うた。
「じゃあ何で、今さらになって私を受け入れた? お前は、私なんかに構う余裕なんて無かったんだろう?」
また泣きそうな声で魔理沙は追及し、
「んー、そのことなんだけど……我慢が出来なくなっちゃったの」
「……は?」
さっきまでの深刻な雰囲気は何処へやら、あっけらかんと霊夢はそう言った。
「ずっと我慢するつもりだった。でもね、我慢すればする程、逆にあんたへの想いは募って、身体の内の熱も抑え切れなくなってた。
今日を合わせれば三日。……何か分かる? あんたが神社に来なかった日数の事。たったの三日、魔理沙に会えないだけで、私は気が狂いそうになってた」
それ程までに、霊夢の中で魔理沙という存在は大きく育ち過ぎていた。
「あんたが雨の日に神社に来ないのは分かってたから。でも、それじゃあ私の我慢が利かなかった。だから、私からあんたに会いに来たのよ」
おかげで私も色々と吹っ切れたわ、ありがとう魔理沙、などと霊夢は宣っているが、それで納得がいく筈もなかった。
「何だそれ! 散々、博麗の巫女としての責務がどうとか言っておきながらそれかよ! 本当は、わ、私に会いに来たのだって、いけないことなんだろ!?」
「んー、紫も何にも言ってこないし、別にいいかなぁ、って」
「そんな適当な理由で……!」
ずっとずっと待ち続けて拗らせたこの想いから、自分は解放されたのか。
別の意味でまた泣きそうになる魔理沙に、霊夢が言葉を被せる。
「それにね、今日は何となく大丈夫な気がしたの。今日なら私、魔理沙の想いに応えられる気がして」
「……勘か?」
「勘ね。大丈夫、もしも紫が何か言ってきた時は幻想郷を滅ぼしてでもどうにかするわ」
「……そっか」
それは魔理沙一人と幻想郷を等価に扱うという事で合っているのだろうか。
霊夢は幻想郷を管理する者であり、それと等価である魔理沙も管理の対象である。そんな所か。
釣り合いなんてあったもんじゃないが、それが霊夢なりに自分を納得させる為の結論だったのかもしれない。
自惚れだろうか。そうだとしても、霊夢からの想いが重い。
「……人のこと言えたもんじゃないぜ。お前も大概変態だな」
「む、泣き虫な変態に言われたくないわ」
「私と幻想郷が釣り合う筈がないだろ。紫じゃなくたって分かる問題だぜ」
「問題ないわ。私が釣り合わせるから」
「マイナスをイーブンにするってか。これは大問題だ」
くすくすと二人して笑い合う。妖怪の賢者の慌てようが目に浮かぶようだった。
笑いが途切れると、見つめ合う時間が生まれた。
どちらも顔を上気させ、瞳はわずかに潤みを帯びている。
気付くと、どちらからともなく、相手の身体に抱き付いていた。
絶対に離さないというように固くもなく、前戯の為の抱擁みたいな淫らさもない。
ただ、互いを肌で感じ、そこに相手がいることを確かめ合う。
霊夢のまだ少し濡れた肢体が。
魔理沙の少し高い体温が。
二人を、安心させる。
「そういえば……」
普段よりも近い位置で霊夢の声が聞こえた。
くすぐったいものを感じながら、魔理沙は先を促す。
「何だよ」
「私はあんたの想いに応えたけど、私はまだ応えてもらってないわ」
「現在進行形でこれ以上ないくらいに応えてるつもりだが?」
「これはこれ、それはそれよ」
「欲張りな奴め」
「欲の無い私なんて想像出来ないわ」
「欲の無い巫女はただの巫女だぜ」
「馬鹿っ!」
ぽかぽかと霊夢が握り拳を作って魔理沙を叩く。
その手をあやすように掴んで、魔理沙は悪戯っぽく言う。
「いっそ、普通の巫女でも名乗ってみるか?」
「いいけど……私、普通ってどうやったらなれるか分からないわ」
「お前は異常がデフォルトだからな。だがしかし、霊夢。お前の目の前にいる奴は誰だ? 『普通』を名乗る魔法使い様だぜ? その事を忘れてもらっちゃ困るな」
「……あぁ、そういうこと。―――じゃあ、魔法使い様にお願いしないとね。私を『普通』の仲間入りさせてください、って」
「ほほう。しかし、魔女にお願いを聞いてもらうには相応の対価が必要だ。お前に払えるかな?」
「臨むところよ。一生かけて払ってやる」
「よくぞ言ったぜ、小娘。―――後悔したって遅いんだからな?」
そう小さく呟いて、魔理沙はゆっくりと霊夢をベッドに押し倒した。
霊夢の黒髪が放射状に広がる。魔理沙の金髪が流星のように降り掛かる。
霊夢の顔は心なし赤い。魔理沙の息は間違いなく荒い。
もう我慢が出来ない。もう我慢をする必要はない。
長い時間で拗らせ続けた想いを。
短くも強烈で鮮烈なこの想いを。
言葉という形にするには、これ以上の時はない―――。
「霊夢、お前に一生分の『普通』の幸せをくれてやる。だからお前は一生、私の髪を三つ編みにしろ」
「いいわよ。その代わり、契約は絶対。反故になんてしたら、タダじゃおかないんだから」
雨足はまた強まる。
魔法の森の小さな家の窓の向こう、ベッドの上で深く重なり合う少女たちの姿すら霞ませる程に、強く、強く―――。
とにかく何処にでも顔を出し、あらゆる問題・厄介に首を突っ込んでいくのが彼女である。おかげで幻想郷では顔もそこそこに広い。
しかし、そんな彼女の行き先の大半は博麗神社である。特に理由がなくても、何となく理由を作って足繁く通っている。
本当なら今日のこの日も通う筈だった。
もう二日も顔を見せていない。魔理沙が来ないから、あそこの巫女は退屈で死んでいるかもしれない。それは大変なことだ。
だから、自分がわざわざ足を運んで生存確認をする必要がある、と十分過ぎる大義名分が魔理沙にはあった。
その為にも、昨日から用意は万全だった。
お気に入りの服を用意し、靴はピカピカに磨いて、帽子もぴんしゃんと真っ直ぐに整えた。滅多にしない早寝だってした。
それだというのに、
「雨、止まないなぁ……」
この日は生憎の雨模様だ。
ぱらぱらと窓を叩く雨音を聞きながら、魔理沙は憂鬱気味な溜め息を吐いた。
これでは博麗神社に行けない。
せっかく念入りに用意した服飾たちを濡らしたくはなかった。それ程に雨足は強い。
水も滴る良い女という言葉もあるが、わざわざ濡れに行くのは、単にみっともないだけである。
「それに、なぁ」
もう一つ溜め息。今度は自前の金の髪を触りながら。
魔理沙の髪は少々癖があるのだ。だから、今日のような湿気の強い日は髪があちこちの方向を目指して跳ねてしまう。
そんなみょうちくりんな髪をした自分なんて、魔理沙は見られたくなかった。
「暇だ……」
用が無くなってしまえば、娯楽の少ない幻想郷である、暇な時間があっさりと生まれてしまう。
魔法の研究でもすれば、暇は潰せて魔法使いとしての面子も立つというものだが、どうにもそんな気分にはならない。
ただ、そう高くもない天井を見上げて、無為に時間を潰す。
天井に出来た染みの数を数える傍らで魔理沙は思考する。
もし、今日が晴れであったなら、自分はこんなにも時間を持て余すこともなかったのか、と。
博麗神社にはもう何度も、数えるのも億劫な程に通ってきた。
今さら見て珍しいと思う物などあそこにはないが、自分専用の湯飲みがあって、戸棚の奥にはとっておきのかりん糖があった筈だ。
目を瞑っても、そこにいなくても、神社の周囲や境内、拝殿の中まで鮮明に思い出せる自信が魔理沙にはある。
そして、そこに住む少女の事も。
「……会いたいよ」
ぽつり。雨が降り込んだみたいに小さく声が漏れた。
声はそのまま魔理沙の心に滲み込んでいく。雨に打たれてもないのに、濡れた気分になって不愉快だった。
「あぁ、くそっ!」
苛立ちを紛らわすようにベッドへ身を投げる。
ベッドは魔理沙を拒むことなく、柔らかく受け止めてくれる。ささくれ立った心がほんの少し和らいだ。
雨は弱まる様子はない。
いっそこのまま寝てしまおうかと、うつらうつらと夢に溺れかける頭の中で思っていた。
―――コンコン、コンコン。
と、その時、明らかに雨音とは違う硬質な音が魔理沙の耳に届いた。
若干ぼやけた状態の魔理沙の頭だったが、該当する言葉を知っていた。
「……ノック? こんな雨降りの中を誰か来たってのか? ご苦労なこった」
夢見心地から無理矢理に引き上げられた為か、魔理沙の声は刺々しい。
そんな彼女の心中など知ったことかと、ノックは催促するようにコンコンコンコンと鳴り続けている。
まるで、ここにいることは知っているんだぞ、と無言で伝えてくるような遠慮の無さ。
思い当たる人物は……何人かいる。
馴染みの古道具屋の店主か。同じ森に住む人形使いの魔女か。はたまた見も知らずの迷い人か。
それとも大穴で―――、
「いや、あいつはないな」
と思ったが、その人物がここを訪ねてくるなんてありえないと魔理沙は切り捨てた。
今までだって数える程しか来たことがない。おまけにこの雨、出不精の彼女がわざわざ出向いてくるとは考えられなかった。
それもこれも、会いたいだなんて女々しい事を口にしてしまったからだ。
無意識で、求めてしまっている。
ぶんぶんと頭を振って気持ちを切り替える。こんな雨降りに出歩く馬鹿を、いつもの不敵な笑みで出迎えてやろう。
「あいよ、お待たせ。うちは知っての通り霧雨魔法店だが、生憎の雨で今日はお休みだ、ぜ―――」
なんて、思っていたら、
「遅い。いるんなら、もっと早く出迎えなさいよ。風邪ひいちゃうじゃない」
「……あ?」
馬鹿は、魔理沙が求めていたその人だった。
「え、霊夢? 何で来た、の?」
予想外というか、予想から除外していた人の登場に、魔理沙の口調は若干幼いものになっていた。
そのことを特に気にした様子でもないその人―――博麗霊夢は答える。
「別に。特に理由なんてないわ」
「嘘だ。霊夢が理由もなく出歩くなんてそんなの……」
「信じられないって? あのねぇ、私があんたに会いに来るのに理由なんてものが必要な訳?」
「いや、必要ない、けど……」
「なら問題ないじゃない。それでも納得がいかないんなら、私があんたに会いたくなったからって理由にしときましょ。それでいいわよね?」
「ね?」と首を傾けて言われては、肯定するしかない魔理沙だった。霊夢は満足そうである。
魔理沙にとって思いがけない幸運。しかし、愚痴られずにはいられない事も一つ。
「……何でよりによって、雨の日に来るんだよ」
「んー? 何か言ったー?」
「いや、雨の日に来たから、霊夢びしょ濡れだなって」
「あー、確かにびしょ濡れだわ。傘も差してきたのにねぇ」
「この雨じゃ傘も大して役に立たんだろ。タオル持ってくるから、ちょっとそこで待ってろ」
「うん、分かった」
やけに聞き分けのいい霊夢に不審を覚えながら、魔理沙はタオルを取りに行く。脱衣場にストックがあった筈だ。
それにしても、会いたくなったから来た、なんて言葉が霊夢の口から出たことに驚いた。しかも、その相手とは他ならぬ自分だ。
嬉しくない筈がなかった。でも、タイミングというものを考えて欲しかった。
魔理沙は、雨の日の自分を見られたくないと思ったから、神社に行くことを泣く泣く我慢した。
それなのに、霊夢はそんな時に限ってやって来たのだ。
―――今の自分を見て、霊夢はどう思うかな。
考えるだけで、魔理沙の心に分厚く暗い雲が立ち込めるようだった。
# # #
「散らかってるけど、適当に掛けてくれ」
「わざわざ言ってくれなくても、散らかってるのは一目瞭然よ」
「……ほっとけ」
タオルを渡した魔理沙は、霊夢が大方拭き終えるのを見て、彼女を家に迎え入れた。
本来なら、誰の来訪の予定も無かったので、部屋はいつも通りの散らかり具合である。
これが予定通り、それも霊夢の来訪であると分かっていたなら、今よりはもう少し、ほんの少しばかり綺麗にしていたと魔理沙は思う。
現状を見られ、率直なご意見を頂いた後では後悔も先に立たないのであるが、今回ばかりは仕方がないと自己弁護する。
「お茶、淹れてくるよ。まぁ、お茶と言っても紅茶しかないんだけど、いいよな?」
「えー、緑茶はー?」
「悪いが品切れ中だ。普段から緑茶は腐るほど飲んでるだろ。たまには違うお茶も飲んでみろって」
「そうだけど……うー、茶柱の立たないお茶とか御利益が無さそうで信用ならないわ」
「あの御利益も期待出来ないような神社の巫女のお前がそれを言うか。いいから黙って飲んどけ、カテキン中毒者め」
悪態を吐きつつ、紅茶の準備に取り掛かる。何処ぞのメイドや魔法使いみたく本格的なものではない。
何回でも使い回しが可能なパックと沸かしたお湯を用意して、余計な手間を掛けずに出来上がりだ。
本格派からしたら渋面ものだろうが、魔理沙はこの効率重視なインスタントの味も割と好きだったりする。
「ほーい、魔理沙さん特製のお紅茶だぜ。存分に味わって飲めよー」
「ん、ありがとう」
ティーカップをカチャカチャ言わせながら戻った魔理沙を出迎える霊夢の声。
そして、魔理沙はというと、思わずティーカップを落としかけた。
「……おい霊夢、何だその格好は」
「うん? 濡れたまんまじゃ気持ち悪いから脱いだの。あ、ベッドに座られるの嫌だった?」
「それはいいけど、その……目のやり場に困るというか、もっと恥じらいというもんをだなっ」
「はぁ? 何を今さら。女同士なんだからお互いの着替えだって見たことあるでしょうが。お風呂だって一緒に入るし」
それはそうなんだけど、と思いながらも視線を方々にさ迷わせる魔理沙。
いつもの巫女装束を脱いだ霊夢(あの必要性皆無な袖も)は肌着とドロワーズのみの軽装だ。
しかも乾き切っていないので、彼女の薄い肢体に張り付いていて色々と危うい。
おまけに、霊夢は今、魔理沙の使うベッドの上にいる。下着姿の霊夢が、である。
ぐびり、と霊夢に悟られないように喉を鳴らす。
見慣れた人が見慣れた姿でいたとしても、場所と状況が違うだけでこうも倒錯的に映るとは知らなかった。
これ以上はマズイ、と本能的に思った。何がマズイのかは魔理沙本人にも分かりかねるが、理性が悲鳴を上げ始めている。
とにかく、お茶を飲もう。そうすれば自分も落ち着けるはず、とベッドに座る霊夢にカップを渡し、自分は向かいの椅子に座ろうとする魔理沙だったが、
「何でわざわざ遠い所に座るのよ。せっかく来てあげたんだから、近くで私の相手しなさいよ」
なんて、霊夢が隣をぽんぽんと叩くもんだから困り果てた。
話相手といっても、いつも神社で駄弁っているのと同じ構図、な筈だ。
だというのに、偉そうな霊夢の態度に怒るどころか初な子どものように魔理沙は俯いて、そんな彼女の姿こそが肴だというように意地の悪い笑みを浮かべながら霊夢が弄る。
「顔、赤いわよ?」
「……赤くない」
「本当?」
「本当だ」
「ふーん。あ、この紅茶美味しい」
「無理して飲まなくてもいいんだぜ?」
「なに拗ねてるの?」
「拗ねてないっ」
「そ。でも、もったいないから全部頂くわ」
「はん、貧乏性め」
「そうかもね。なんせ、魔理沙が淹れてくれた紅茶だもの。捨てるなんてもったいないもったいない」
「……っ!」
「顔、赤くなってない?」
「なってない!」
そんな他愛のない応酬を一刻も繰り返していれば、さすがに魔理沙も慣れる。
それこそ、相手はあの霊夢なのだ。緊張するというのが根本からおかしい話な訳で。
飲み終えたティーカップを片付けた頃には、いつも通りだった。
幾ばくかの余裕が魔理沙の心に生まれ、そうするとそれまで気付けなかった小さいことにも目がいくようになる。
例えば、霊夢の視線が先程から魔理沙、正確には魔理沙の髪に向いている事とか。
気付いて、また憂鬱な気分がぶり返してきた。
「……なに見てんだ?」
「あんたの髪」
「別に見ても楽しいもんじゃないだろ」
「楽しいわよ? 今のあんたの髪、ぴんぴん跳ねてるじゃない。でも、神社に来る時はこんな髪して来たことないし。何だかんだで、身嗜みには気を付けてるんだって分かった」
「そりゃあ、私だって女だからなぁ」
「よかった。魔法使いになるのと一緒に女も捨てたんじゃないかと思ってたのよ」
「おま、そんなこと気にしてたのか!? 捨ててない、捨ててないからな!?」
そんなに自分はがさつに見られていたんだろうか、と魔理沙は不安になる。
……まぁ、この部屋の有り様を見れば、がさつと思われてもおかしくはない。
足元に脱ぎ捨てられた下着をこっそりと隠す魔理沙だったが、霊夢には気付かれていないと信じたかった。
「今日は……」
「えっ!? な、何だ?」
「してないのね、三つ編み」
「三つ編み? あぁ、家に居る時は面倒だからしてないんだ」
「ふーん、そうなの」
「お、魔理沙さんの三つ編み姿が見たかったのか?」
霊夢の声に残念そうな色を聞き取った魔理沙が、意地悪く言う。
普段から霊夢には翻弄されているのだ、これくらいの仕返しは許容範囲だろう……なんて考えていたのが甘かった。
「そうね、折角だから魔理沙が三つ編みにしてるところ見てみたいかな」
「にゃに!?」
思わず猫語で驚く魔理沙。
「ほら、早く。三つ編み、三つ編み」
何が霊夢をそうまで駆り立てるのか、彼女は三つ編みを連呼する。
それだけ霊夢に求められれば応えない訳にはいかない魔理沙だが、一つ問題があった。
「ま、待て、霊夢。別に三つ編みにするのは吝かじゃないんだが、その、な?」
「何か問題でもあるの?」
霊夢が小首を傾げる度に、魔理沙と違って癖のない黒髪が肩の辺りでさらさらと揺れる。
それを内心で妬ましく思いながら、魔理沙は言う。
「髪が、ぼさぼさだから、少し整えさせてくれよ」
湿気だったり、寝転がったりしたせいで魔理沙の髪は爆発気味だ。
こんな状態の髪で編んだとしても不恰好だろうし、実は身嗜みを整える口実が欲しかったりもした。
話してる間も、霊夢にだらしないと思われていないかで気が気でなかった。霊夢を迎えるなら、やはりそれ相応の身嗜みをしておきたい魔理沙だった。
「いいわよ」
霊夢から了承の言葉を頂き、思わず魔理沙の顔が綻ぶ。
「お、本当か。じゃあ、ちょっと待っててくれ」
「その必要はないわ」
「あん?」
「私が梳いてあげるから」
綻んだ顔が凍り付いた。
今、霊夢は、何と言った?
「え、霊夢が梳く? 私の髪を?」
「そう言ってるじゃない。ほら、さっさと櫛を寄越す」
ほれほれと霊夢が催促の手を差し出すが、魔理沙はいやいやと手を横に振る。
「いい、いい。自分で出来るから」
「遠慮するんじゃないの。私が誰かの為に何かするなんて滅多にないのよ?」
「いや、本当に仰る通りなんだけど、悪いよ」
「い・い・か・ら! 持ってきなさい!」
霊夢の機嫌が急降下の兆候を見せ始める。
こうなると魔理沙が折れないと、その後が非常に厄介なことになる。長年の経験で知っている。
そんな訳で魔理沙は急いで櫛を持ってきて、それを霊夢に手渡した。
櫛を手に取ると、霊夢は魔理沙の後ろにそそと回り、膝立ちになって魔理沙の癖っ毛を手に取った。
「んっ……」
「ふふっ」
櫛が髪の僅かな隙間を通る感触がくすぐったい。思わずといった感じに魔理沙の鼻が鳴る。
それに気を良くしたのか、霊夢はふんふん鼻歌なんか口ずさんでいたりする。
何となく不気味だ。こうまで上機嫌な霊夢は滅多にない。稼ぎ時の正月はまだまだ先の筈なのに。
「……今日はやけに機嫌が良いんだな」
「ん? そう?」
「そうだろ。鼻歌まで歌ってさ」
「え、嘘。私、鼻歌なんて歌ってた?」
「気付いてなかったのか……」
魔理沙は呆れ、霊夢は「あー、恥ずかしい」などとぼやいている。それでも魔理沙の髪を梳く手は止めない。
ぽつぽつと単調な雨の音を耳にしながらこんなにも優しい動作を繰り返されては、消えた筈の眠気がまた顔を出しそうだった。
いけないいけない、と頭を振ると「動くな」と霊夢に打たれた。理不尽だと魔理沙は思わずにいられない。
下手に動いてまた打たれるのは嫌なので魔理沙がじっとしていると、霊夢が唐突にこんな事を言ってくる。
「魔理沙の髪って良いわね」
「何処がだよ。癖っ毛だし、雨の日は好き勝手に跳ねるしで良いことなんてないぜ? 私はいっそ霊夢みたいなさらさらした髪が良かったよ」
「そうかしら。私は魔理沙の髪って好きよ? ふわふわできらきらしてて、まるで錦糸卵みたい」
「……そこは金糸みたいと言って欲しかったかな」
食べ物に例えられても、と苦笑いする魔理沙。しかし、内心は歓喜の想いで一杯である。理由は言わずもがな。
しかも、霊夢の口撃はこれだけに留まらない。
「でも、やっぱり魔理沙は今の髪であるべきなのよ。私と同じ髪になんてしちゃダメ」
「ほほう? 是非ともその理由を教えてもらいたいな」
「だって、あんたが黒髪になんてしたら私の隣に居ても映えないじゃない」
……それを聞いて、魔理沙は呆然とした。「本気か?」と問えば、「うん」と頷かれてしまう。
なんという、なんという傍若無人にして自信過剰なお言葉か。
それでいて、他者を納得させてしまうだけの力が、その言葉にはあった。
想像してみる。黄金色した髪を黒に染め直し、霊夢と並んだ自分を。
金を塗り潰した偽りの黒と、混じり気のない純粋な黒。
どちらが見栄えするかなんて、火を見るよりも明らかだ。
敵わない。髪の色一つ真似たとしても、霊夢には敵わない。
……しかし逆説、今の髪の色であれば、霊夢に並び立てるというのだ。
「―――っ!」
魔理沙の内を、圧倒的なまでの多幸感が襲う。
それまで胸の内で燻っていたちっぽけなコンプレックスなど、綺麗さっぱり跡形もなく押し流してしまった。
「っ、そうだな。私に黒髪は似合わないな!」
「うんうん。あんたに黒は服と帽子で十分よ」
「黒星もいる?」「いらない」なんて言い合いをしていたら、いつの間にかそれなりの時間が過ぎていた。
二人で過ごす時間は楽しいけど、短く感じる。魔理沙はそれが少し悲しい。
「……ん、こんなもんね。どう? だいぶ整ったとは思うけど」
「あ、本当だ」
「私にかかればこんなもんよ。さ、三つ編みにしましょうか」
さっそく三つ編みを要求してくるとは、まったくもって霊夢という少女は現金である。
もっとも、何だかんだで梳き終わってしまったことを惜しんでいる辺り、魔理沙という少女も現金である。
「分かった分かった。ったく、何がお前を三つ編みに駆り立てるんだか……」
「だって、三つ編みが無いと魔理沙らしくないもの」
「あー、それは私のアイデンティティが三つ編みって事か? ははっ、泣いていいかな?」
「そういう訳じゃないの。ただ、私の知ってる魔理沙と違っているのが、何となく……」
「何となく?」
「……不安なのよ」
霊夢が不安を覚えている? 魔理沙が振り向くには十分過ぎる理由だった。
既に梳き終わったからか、また霊夢に強制的に前を向かされることはなかった。
後方にある彼女は笑みを浮かべていたが、何処か物憂げだ。
ここは気の利いた事でも言うべきか、と言葉を探していると、先手を打つように霊夢が魔理沙の髪に手を伸ばしてきた。
細くたおやかな指が、金糸を一房、二房と絡め取っていく。それだけの筈なのに、魔理沙の心臓は面白いように鼓動を速めていた。
バクンバクンと心音の他に、霊夢の声が混じる。
「魔理沙の髪を三つ編みにしたのは、私が初めてだったっけ?」
「あ……あぁ。お前が『あんたの髪、流してばっかで面白くない』とか言っておもちゃにしてな」
「そうだったっけ? でも、そのおもちゃにされた時の髪型を今まで続けてたんだ」
「い、意地の悪い言い方するな。……これでも気に入ってるんだから」
「あぁ、ごめんごめん。けど、魔理沙の三つ編みはいつも片方だけよね」
「……あぁ、そうだけど。それがどうかしたか?」
「ねぇ、何で?」
「……何でって?」
霊夢はきっと、気付いている。
「魔理沙はどうして片方しか三つ編みにしないの?」
―――その癖に、そんな事を言う。
「悪いか」
「ううん。でも、気になる」
「別にいいじゃないか」
「別によかったんだけど、よくなくなったの」
「今までは許されたのに?」
「これからが許さないのよ」
そうか、と魔理沙。
許されないのであれば、仕方がない。
「分かった、教える。その代わり、お前にして欲しいことがある」
「なに?」
「……もう片方はお前に結って欲しいんだ」
「……それでいいの?」
「うん……」
絞り出すように魔理沙は言い、こくりと霊夢がゆっくり頷いた。
狭いベッドの上で少女二人の共同作業が始まる。
一人は自分の髪を、もう一人は別の少女の髪を手に取りながら。
三房に分けられたそれが、右に行ったり左に行ったりしながら、徐々に編み込まれていく。
普段から編み慣れた魔理沙の手付きは速い。長年仕込まれた指は止まることを知らず、あっという間に彼女の左手側に三つ編みを作り上げた。
いつもならそれでお終い。編んだそれをちょっと誇らしげに揺らしながら、暇をしている巫女の下に向かっていただろう。
今は違う。
普段は手を付けることの許されないもう片方が、件の巫女の手によって編み込まれている。
霊夢の手付きは魔理沙ほど速くはない。かと言って雑でもない。
丁寧に、丁寧に。絹糸を扱うが如く、ゆっくりと慎重に編み上げていく。
手持ち無沙汰になり、されるがままの魔理沙は、ボーっと霊夢を眺めていた。
こんな光景は前にもあった。自分の髪に手を加えるなんて知らなかった魔理沙を、霊夢が無理矢理に座らせて弄り回したのだ。
―――あの時、言ってもらえた言葉を、魔理沙は忘れていない。
痛い、くすぐったい、だのと他人に髪を触られて、魔理沙は無暗にはしゃいでいて。
―――だから、もう片方の髪には手を付けなかった。
そんな魔理沙をいちいち窘めながら、霊夢はゆっくりと三つ編みにしてくれたのだ。
―――もう一度、霊夢の手で編んで欲しくて。
今も色褪せない、普通の魔法使いの大切な思い出。
―――そして、またあの時と同じく、
「出来た。うん、魔理沙、可愛いわよ」
―――その言葉を言って欲しかった。
「また、言ってもらえた……」
ぽたり、と魔理沙の頬を涙が伝う。
無意識に湧いて出た滴は形の良い顎で数瞬だけ止まり、下で待っていた霊夢の掌を熱く濡らした。
「魔理沙、泣いてるの?」
「……ずっと、ずっとこの時を待ってたんだ」
霊夢の問いに、見当違いな答えが返る。それでも、彼女はうん、と頷いた。
湧いてくる涙と共に昂る感情が、魔理沙の口を自然と動かした。
「私はあの時からずっと、霊夢に髪を結ってもらいたかった。また、お前の手で三つ編みにして欲しかった」
「うん」
「霊夢に結ってもらって、そしてまた、可愛いって! 言って褒めて欲しかったんだ!」
「うん」
「それなのに、お前は! ずっと、ずっと私の気持ちに気付かない振りしやがって……!」
「うん」
「気付かなかったなんて言い訳は言わせないぞ! 勘の良いお前が気付かない筈がないんだっ!」
「うん」
「私が、どれだけ辛い想いをしたと思ってる! 気付かれない痛みが、お前に分かるか!? まるで自分が道化になったんじゃないかと錯覚した!!」
「うん」
「……教えてくれよ、霊夢。お前はどうして私の想いを無視したんだ? お前に見てもらえないなんて、私は耐えられないんだ……」
「……うん」
「なぁ、教えてくれ、霊夢」
涙はいつの間にか、外の雨にも負けない程に勢いを増していた。
霊夢はひたすらに流れ落ちる涙を受け止め……魔理沙の望んだ答えを口にする。
「先に言わせてもらうわね。ごめんなさい」
「……謝罪が欲しいんじゃないぜ」
「分かってる。でも、ごめんなさい。……あんたの言う通り、私はあんたの気持ちに気付いてた」
そう言うと、魔理沙の頬が赤らみ、口をもごつかせた。きっとまた、何で、という言葉を飲み込んだのだろう。
霊夢の口許が緩み、しかし、即座に引き締めるように言葉を続ける。
「いつからってのも言ったらいいのかしら。まぁ、初めてあんたの髪を三つ編みしてあげた翌日だったんどけど」
「そ、そんなに前から気付いてたのか!?」
「あんだけあからさまにお下げを触ったり、ちらちら見られたら嫌でも気付いたわよ」
「そ、そうだったのか」
「そうよ。だから、わざと気付かない振りをしたの。初めは、あんたをからかう為にね」
「……」
魔理沙の望みは子どものそれだった。子どもだから当然、子どもらしい願望だった。
そして、それは霊夢も同じ。博麗の巫女とはいえ人間、相応の子どもらしさだって持ち合わせていた。
霊夢が取ったのは、気付かない振り。魔理沙をからかう為だけの小さな意地悪だった。
それが悪いことだったのかは分からない。子どものやることに、善悪の判断は曖昧だからだ。
だが、魔理沙は一度ダメだったからといって、諦めはしなかった。
「その次の日もあんたは不揃いの三つ編みして神社に来て、私は気付かない振りをした。あの時はまだ、私も諦めの悪い奴とかしか思ってなかったわ」
そこで霊夢もさっさと褒めてしまっていれば、その後の未来は変わっていたのかもしれない。
魔理沙は褒められてそれで満足したかもしれないし、他の髪型も褒めて欲しくて三つ編みなんてやめていたかもしれない。
そもそも、霊夢に対して今のような執着を見せなかったかもしれない。
しかし、霊夢もまた魔理沙に釣られるように意固地になって、決して自分からは触れようとはしなかった。
それが今の少々拗れた関係を生み出した原因。
「あんたは来る日も来る日も三つ編み片方垂らして寄ってくるんだもんねぇ。子ども心に物好きな奴だとは思ってたわ」
「人をアホな子どもみたいに言うな」
「アホな子どもだったじゃない。普通はあんだけ知らん振りされてりゃ、さっさと諦めてるわよ。今この時まで諦めてなかったんだから、アホの極みよ」
だが、そのアホの諦めの悪さは折り紙つきで、霊夢にすら異常と思わせた。
あの日から一週間が経っても、一月が過ぎても、一つ年を取っても、魔理沙は変わらず三つ編みにしてやって来ていた。
どれだけ霊夢が知らん振りを決め込もうが、魔理沙は諦めなかった。
その頃には何が彼女をそうまでさせるのか、霊夢も次第に気になり始めていた。
そして、かつて起きた永い夜の異変。
博麗の巫女として早急に対処すべく竹林を飛んでいた霊夢の前に、魔理沙は現れた。
場は一色触発の雰囲気が立ち込めていた。
いつ弾幕ごっこに移行してもおかしくなった。
そして、実際にそうなった。
しかし、ごっこが始まる前に魔理沙の瞳に覚悟を見出そうとした霊夢は気付いてしまった。
魔理沙はそんな曲面であったにもかかわらず、どこか熱を帯びたような視線を自分に向けてきていたことに。
背筋がゾッとするような想いと、胸の内がカッと熱くなるような想いとが、この時、霊夢の内に生まれた。
「いま思い出しても、あんた変態だと思うわ。弾幕ごっこの最中でも『褒めて褒めて』みたいな目で見てくるんだもん」
「……してない」
「いーや、してた。……おかげで私まで変な気分になっちゃったんだから」
「え?」
魔理沙が嘘だろうといった顔するが、本当の事だ。
異変以降、知らず魔理沙の事を意識している自分がいた。
どうして魔理沙は、そうまで自分に構って欲しがるのか。
それを考えるだけで、またあの熱い想いが霊夢の身を焦がした。
それは時間が経つ程に温度を増していき、いつ霊夢を焼き焦がしてもおかしくない程の熱を孕むようになっていた。
しかし、霊夢にはその想いの正体が掴めない為に、冷ます術を知らなかった。
このままでは身の内の熱に焼かれてしまうと、さすがの霊夢も危機感を覚えた。
「だから、考えたの。あんたっていう存在が、私にとってどういうものかを」
「…………」
いつまでも、自分に付いて回る霧雨魔理沙という少女について。
「そして、私は気付いてしまった」
魔理沙が霊夢の生活の中で占める割合は大きい。
お喋りをして、お茶を飲んで、弾幕ごっこをして、ご飯を食べて、お風呂に入って、時にはおやすみからおはようまで言葉を交わし合う。
幻想郷の誰よりも、自分と共に過ごしてきた時間の長い人。
博麗の巫女という、幻想郷において圧倒的存在に追い縋ろうとする人。
いつしか霊夢は、彼女こそ自分の隣に並び立つに相応しい人物じゃないかと、そう思うようになっていた。
つまりは―――、
「あんたは、私の中で一つ飛び抜けた存在になってしまっていた、って」
「霊夢……」
「それが許されないことも、ね」
常に平等・中立であるべき彼女が、一人に意識を向けるなんて。
それは博麗の巫女としてあるまじきことだった。許されないことだった。
「だから、私は自分を戒めた。あんたが何を私に望んでようが、意識の外に置くようにした。そうすれば、私はまた中立な存在でいられたから」
彼女は自由奔放だが、その根幹にあるのは博麗であり、巫女としての責務は絶対であった。
如何な彼女とて、それを無視することだけは出来ない。
「あんたには悪いことをしたと思ってる。これは本当よ? あんたの想いに応えたくても、私には応えられなかったから」
霊夢の指が、魔理沙の頬を撫でる。伝った涙の跡を辿って、目元に溜まる涙を掬った。
まるで子どもがされるようで恥ずかしくて、霊夢がその後の事をはぐらかそうとしているようにも思えた。
霊夢はまだ全てを語った訳じゃない。最も大事な所が抜けている。
誤魔化しは許さない。そんな思いで、魔理沙は霊夢に問うた。
「じゃあ何で、今さらになって私を受け入れた? お前は、私なんかに構う余裕なんて無かったんだろう?」
また泣きそうな声で魔理沙は追及し、
「んー、そのことなんだけど……我慢が出来なくなっちゃったの」
「……は?」
さっきまでの深刻な雰囲気は何処へやら、あっけらかんと霊夢はそう言った。
「ずっと我慢するつもりだった。でもね、我慢すればする程、逆にあんたへの想いは募って、身体の内の熱も抑え切れなくなってた。
今日を合わせれば三日。……何か分かる? あんたが神社に来なかった日数の事。たったの三日、魔理沙に会えないだけで、私は気が狂いそうになってた」
それ程までに、霊夢の中で魔理沙という存在は大きく育ち過ぎていた。
「あんたが雨の日に神社に来ないのは分かってたから。でも、それじゃあ私の我慢が利かなかった。だから、私からあんたに会いに来たのよ」
おかげで私も色々と吹っ切れたわ、ありがとう魔理沙、などと霊夢は宣っているが、それで納得がいく筈もなかった。
「何だそれ! 散々、博麗の巫女としての責務がどうとか言っておきながらそれかよ! 本当は、わ、私に会いに来たのだって、いけないことなんだろ!?」
「んー、紫も何にも言ってこないし、別にいいかなぁ、って」
「そんな適当な理由で……!」
ずっとずっと待ち続けて拗らせたこの想いから、自分は解放されたのか。
別の意味でまた泣きそうになる魔理沙に、霊夢が言葉を被せる。
「それにね、今日は何となく大丈夫な気がしたの。今日なら私、魔理沙の想いに応えられる気がして」
「……勘か?」
「勘ね。大丈夫、もしも紫が何か言ってきた時は幻想郷を滅ぼしてでもどうにかするわ」
「……そっか」
それは魔理沙一人と幻想郷を等価に扱うという事で合っているのだろうか。
霊夢は幻想郷を管理する者であり、それと等価である魔理沙も管理の対象である。そんな所か。
釣り合いなんてあったもんじゃないが、それが霊夢なりに自分を納得させる為の結論だったのかもしれない。
自惚れだろうか。そうだとしても、霊夢からの想いが重い。
「……人のこと言えたもんじゃないぜ。お前も大概変態だな」
「む、泣き虫な変態に言われたくないわ」
「私と幻想郷が釣り合う筈がないだろ。紫じゃなくたって分かる問題だぜ」
「問題ないわ。私が釣り合わせるから」
「マイナスをイーブンにするってか。これは大問題だ」
くすくすと二人して笑い合う。妖怪の賢者の慌てようが目に浮かぶようだった。
笑いが途切れると、見つめ合う時間が生まれた。
どちらも顔を上気させ、瞳はわずかに潤みを帯びている。
気付くと、どちらからともなく、相手の身体に抱き付いていた。
絶対に離さないというように固くもなく、前戯の為の抱擁みたいな淫らさもない。
ただ、互いを肌で感じ、そこに相手がいることを確かめ合う。
霊夢のまだ少し濡れた肢体が。
魔理沙の少し高い体温が。
二人を、安心させる。
「そういえば……」
普段よりも近い位置で霊夢の声が聞こえた。
くすぐったいものを感じながら、魔理沙は先を促す。
「何だよ」
「私はあんたの想いに応えたけど、私はまだ応えてもらってないわ」
「現在進行形でこれ以上ないくらいに応えてるつもりだが?」
「これはこれ、それはそれよ」
「欲張りな奴め」
「欲の無い私なんて想像出来ないわ」
「欲の無い巫女はただの巫女だぜ」
「馬鹿っ!」
ぽかぽかと霊夢が握り拳を作って魔理沙を叩く。
その手をあやすように掴んで、魔理沙は悪戯っぽく言う。
「いっそ、普通の巫女でも名乗ってみるか?」
「いいけど……私、普通ってどうやったらなれるか分からないわ」
「お前は異常がデフォルトだからな。だがしかし、霊夢。お前の目の前にいる奴は誰だ? 『普通』を名乗る魔法使い様だぜ? その事を忘れてもらっちゃ困るな」
「……あぁ、そういうこと。―――じゃあ、魔法使い様にお願いしないとね。私を『普通』の仲間入りさせてください、って」
「ほほう。しかし、魔女にお願いを聞いてもらうには相応の対価が必要だ。お前に払えるかな?」
「臨むところよ。一生かけて払ってやる」
「よくぞ言ったぜ、小娘。―――後悔したって遅いんだからな?」
そう小さく呟いて、魔理沙はゆっくりと霊夢をベッドに押し倒した。
霊夢の黒髪が放射状に広がる。魔理沙の金髪が流星のように降り掛かる。
霊夢の顔は心なし赤い。魔理沙の息は間違いなく荒い。
もう我慢が出来ない。もう我慢をする必要はない。
長い時間で拗らせ続けた想いを。
短くも強烈で鮮烈なこの想いを。
言葉という形にするには、これ以上の時はない―――。
「霊夢、お前に一生分の『普通』の幸せをくれてやる。だからお前は一生、私の髪を三つ編みにしろ」
「いいわよ。その代わり、契約は絶対。反故になんてしたら、タダじゃおかないんだから」
雨足はまた強まる。
魔法の森の小さな家の窓の向こう、ベッドの上で深く重なり合う少女たちの姿すら霞ませる程に、強く、強く―――。
私は魔理沙は芯の強い娘だというイメージがあるので、誰に対しても早々に本心を明かすような事はしないと思うんですよね。
余程の親しい人物を除いてね、今作はそれが霊夢に当てはまると私は思います。
互いに恋?焦がれる二人のやりとりは読んでいて胸が温まりました。
三つ編み理由は案外納得いくかもしれません。私も不思議に思っていましたから。
とにかく良い作品でした。
また機会があればレイマリ作品をよろしくお願いいたします。
尚、私が作中で描く魔理沙は少々乙女チックで恋する魔法少女です(笑)、私なりに。
では失礼いたします。
時々子供っぽい返しになる魔理沙が可愛い。
少し感情が急なとこもあったかな、と思いましたがかわいいレイマリでした。
確かに感情の起伏がちょっと激しかったかも
ごちそうさまでした。
>3
魔理沙ちゃん専用相談相手の霊夢さん。なお、ロクに相手はしない模様。
レイマリはしばらくはお休みだと思います。
>4
毎度読んでいただき、ありがとうございます。
>7
子どもっぽい魔理沙は可愛いです。
ちょっとがっつかせ過ぎたかな、と反省しています。
>17
レイマリ可愛い(大合唱)
思春期の少女だし、は言い訳にしかなりませんね。次、気を付けます。
>18
通い続ける魔理沙も、何だかんだで出迎える霊夢も、どっちも愛らしいです。
>26
お粗末!
>29
うわあああい読んでいただきありがとうございます!!
お粗末様でした。
>30
今回は糖分多めでした。おかげで胸焼けがひどいひどい……。
>31
ご祝儀は三万からだと霊夢さんが。
>33
\レイマリ結婚しました!/
しばらくレイマリお休みさみしいですが応援してます
レイマリならではの要素(魔理沙が霊夢に抱いている小さなコンプレックスとか)を上手く組み込みつつ、
丁寧に、しかし激しく、編み上げた作品だと感じました。
レイマリというカップリングを飛び越えて全てのカップリング系SSを見渡しても、
それらの中の傑作と呼ばれるものと比較して遜色ないと思います。
この霊夢は攻め攻めしさと霊夢らしさを両立していて、霊夢が恋するならこうなるかもってシチュエーションがスッと入ってきました
そして霊夢に突っつかれて鞠みたいに跳ねる魔理沙の可愛らしいこと!
読んでて途中まで「狐じゃ! 狐の仕業じゃ! 霊夢に化けた狐じゃ!」と思っていたのだけどそんなことはなかったぜ。百合っぽい抱擁のさじ加減ができていてスゲエ。
しかし本当に片方なのでしょうか。片方をくれてやるなら友達でもできます。もっといってる気もするな。どうかな。ああそうか、片方を霊夢に捧げてもう半分を生れてくるレイマリの子供に以下略