夢を見ていた。
熱の中で、夢を見ていた。
夢は、私の夢だった。いつか、どこかの私。
夢の中の私は今よりずっと小さくて、それで、初めて来たその場所に怯えていた。
雪が降っていた。まだほとんど積もっていない。なのに身を包む寒さだけは本物で、震えの正体がどちらなのかも本当は分かっていなかった。
「ここが今日から貴方のお家よ」
××××は私の手を引きながら言った。こちらも冷たかった。握られた手の温もりは純白の手袋に遮られて感じなかった。
でも他に縋るもののなかった私はどうしようもなくて、冷たいそれにしがみつくようにしていた。なにもないよりはいいと思って、自分に言い聞かせて、そうするしかなかった。
『おーい!霊夢ー!大丈夫かー!』
どこからか魔理沙の声が聞こえた気がした。
※
起きたら紫がいた。
「おはよう。もうお昼だけど」
布団の脇に座りながら、紫はこちらを見てくすくすと笑った。胡散臭い微笑み。寝起きに見るものじゃない。
「あんた……なんで……」
悪態を吐きながら身を起こそうとして、力が入らなくて失敗した。身体が重い。頭も重い。ついでに暑い。
「お見舞い。貴方が熱を出して寝込んでいたから」
「どうして知ってるのよ」
自分でも今まで知らなかったことを。昨日は確かにちょっと体調が悪くて早く寝たけど、誰にもそんなこと言っていないし、見られてもいないはず。
いや。
「――――見てたから、ね」
バレてないと本人が思っているだけの覗き魔が、悪戯っぽく言った。いつもなら気づくだろうに。やはり昨夜から鈍っていたようだった。
「……はぁ」
溜め息を残して、布団に深く身を沈める。こいつの相手するのは疲れる。
「お腹、空いてる?」
「空いてない」
即答する。食欲がないのももちろんだけど、甘えたくなんてもっとなかった。
「可愛いわねぇ」
なのに紫は笑みを崩さず、しみじみとそう呟いて立ち上がった。あまりにも似合わない言葉に背筋が凍るかと思った。
「人の話聞いてた?」
「賢者の話は聞くべきね」
虚空にスキマが開く。そこから紫はエプロンを取り出すと、慣れた手つきで身に着ける。やっぱり似合っていない。
「具合が悪い時は少しでも栄養を取るものよ。呪いの類なら貴方には効かないけれど、これは外の病だから。ウイルスは人間の英知と底力で倒すもの。まずは底力を磐石にしないとね」
したり顔で紫は話すけれど、こいつの言うことはいつもワケが分からない。分かるように話せる頭があるくせに、大抵最初はそれをしない。性格が悪いのだ。
「黙って食えばいいんでしょ」
「そう。病人は静かにしてればいいの」
フン、と鼻を鳴らして、紫に背を向けた。頭まで布団を被る。また紫が笑っていたが無視することにした。
でも、一つだけ。
「そうだ、紫」
襖の開いた音を追って、声だけを背に投げた。そして、なぁに?、と訊ねる紫に逆に問う。
「魔理沙、来なかった?」
「帰らせたわ」
来ていた、とは言わなかった。
「感染ったら大変だもの。人里でまで流行ったら面倒でしょう?」
魔理沙は私と違って、いつもあちこちをうろうろしている。確かに危ないかもしれない。
「ん……そうね。そうかもしれない」
「そうなのよ」
ああ大変だ大変だ、なんて紫の声が少しずつ遠ざかっていく。もう少し眠ろうと思って、私も目を閉じた。
紫のヤツ、妙に恩着せがましかった。私の世話ができるのが嬉しかったのだろうか。まさかね。
※
夢を見ていた。
熱に浮かされながら、夢を見ていた。
夢は、少し大きくなった私の夢だった。いつか、どこかの私。
夢の中の私はエプロンをして、包丁を持って、緊張しながら台所に立っていた。
外では雪融けが始まっていた。水が澄んで、温かくなってきて、まだ少し寒さは残っているけれど、とても綺麗な季節だった。
「手、切らないようにね」
横から優しい声がかけられる。お×××の声だ。私は、うん、とだけ答えて、まな板の上に載せられた野菜をおっかなびっくり切っていく。
お×××はいつだって側にいた。今も、他では見たこともない不思議な服の上にエプロンを着けて、私の横で屈みながら火の加減を見ていた。赤い揺らめきを受けて、結い上げられた黄金の髪がキラキラと輝く。それを見るのが、私は好きだった。
そうして余所見をしていたのが悪かった。
「っつ!」
痛みを感じて慌てて手を引けば、左手の人差し指にぷっくらと赤い珠が浮いていた。
「もう、だから言ったじゃない」
お×××は困った声でそう漏らして立ち上がると、珠の浮いた指先を舌でチロリと舐めた。すると不思議なことに、次の瞬間もう血は止まっていた。
「え、え、え、どうやったの!?どうやったの!?」
「うふふ、ひ・み・つ」
「えー!!」
騒ぐ私の頭をぽんぽんと撫でて、お×××はまな板の前に立った。包丁を取って、物凄い速さで野菜を刻んでいく。私はそれを、今度は余所見ではなくまじまじと見つめていた。
器用で、綺麗で、優しくて。ちょっと不思議で。
私はきっと、その人のことが大好きだったのだと思う。もちろん、その人の作った料理だって。
『霊夢さーん!大丈夫ですかー?』
どこからか早苗の声が聞こえた気がした。
※
起きたら卵雑炊がいた。
「失礼ね。作った相手への感謝もないなんて」
「いつからサトリに転職したのよ」
「そういう目をしていたわ」
どんな目だ、と私はのそのそ身体を起こす。実際に料理を見ていたら食欲が湧いてきて、それが力にも変わったようで、今度はちゃんと起きられた。我ながら現金な身体だ。
「一人で食べられる?」
「無理、って言ったら食べさせてくれるの?」
「自分から食べられに行くわ。だって卵雑炊だもの」
紫はまたワケの分からないことを言うと、膝に置いた器から雑炊を匙で一掬いして、こちらの口元に運んできた。自分からとはそういう意味か、とようやく理解する。調子に乗って、冷ましてくれないの?、とさらに煽ってやろうかとも思ったが、こちらの腹の方がもう我慢ができそうになかったのでやめた。
パクリ、と匙を口に含む。
ふわりとした甘さが広がった。次いでわずかな塩気が沁み込む。鼻が詰まっていて匂いはよく分からないけど、汗を掻いた身にとてもよく馴染んだ気がした。
「美味しい?」
「――――――――」
口が塞がっているので喋れない、という体を装って、だんまりを決め込む。どうせ目で分かっているんだろうに。嫌な感じだ。
「可愛いわねぇ」
生暖かい視線をこちらに向けながら、紫は再び匙を動かす。これはこれで楽だし、面倒だからあえて文句も言わない。
一口。二口。三口。四口。なんだか餌付けでもされているみたい。誰が雛鳥だ、と心中で自分にツッコミを入れた。
そうして動物的に食べ続けて、器の中がほとんど空っぽになったところで。
「――――ん。もういい」
私は紫から顔を逸らした。全部食べるのは本当に飢えた子供みたいで嫌だった。紫は特別気にした様子もなく、そ、とだけ言って、差し出しかけていた匙を自分の口に含んだ。
「美味しい?」
「貴方が美味しいと思う程度には」
ニコリと笑って答える紫。そこを目で語ればいいのに、わざわざ言葉で語る。当てつけにしても無粋だった。
「寝る」
短くそれだけ言い残して、私は布団に手をかけた。ごちそうさまなんて言ってやるもんか。目だって瞑ってやる。
と。
「あ、待って霊夢」
紫の手がこちらの手に触れた。ひや、とした感触が伝わる。紫は今日は手袋を着けていなかった。
動きを止めた私に、紫はスキマから盆を取り出して言った。
「寝る前にこれを飲んでちょうだい」
盆の上には、水で満たされたガラスのコップと白黄のカプセルが一つ。
「毒でも盛るの?」
「貴方の中にいるものに、ね」
私の中には、誰もいない。いないはずだ。なら、それは私を殺す毒なんじゃなかろうか。巫女を殺すなんてヤキが回っていし、魔女でもないのに毒を勧めるだなんて、やっぱり紫は転職でも考えているのだろう。
それも悪くはないかもしれない。
「…………」
無言でコップを取った。水を少し口に含んで、カプセルを次に放り込む。残った水と共に一気に飲み干す。そしてコップを乱暴に突き返すと、今度こそ私は布団を被って寝転んだ。
「おやすみ」
「お粗末様でした」
笑い声を残して、紫が立ち上がる気配があった。相変わらず言葉の通じないヤツ。
でも、一つだけ。
「ねぇ、紫」
また、問いだけをその背中に投げる。
「早苗、来なかった?」
「帰らせたわ」
また、来ていた、とは言わなかった。
「あの子にも感染ったら大変だもの。それに、お山で流行ったら面倒でしょう?」
確かに、山に入るのでも一苦労かもしれない。妖怪も罹るのかは疑問だけど。
「……そうね」
「素直でいい子」
今日はもう帰るわ、と言い残して、紫は部屋から去って行った。また少し頭がぽーっとしてきたので、私も眠ることにした。
紫が作った雑炊。アイツが食べても顔を歪めない程度には、美味しかった。料理の腕で負けている気がして、ちょっと悔しかった。
※
また夢だった。
ぶり返してきた熱に揺れながら、夢を見ていた。
夢は、もっと大きくなった私の夢だった。いつか、どこかの私。
夢の中の私は紅白二色の、でも今とは少し違う衣装に袖を通して、黒白同じく二色の珠を睨みつけていた。手には今では持ち慣れたお払い棒を持っている。見ているのも、今では使い慣れた陰陽玉だった。
ハラハラと桜の花弁が舞っていた。重さを感じさせない桃色の渦の中にいながら、私はまだ重さと戦っていた。
「頑張って」
背中に優しく手が添えられる。お××んの手だ。相変わらず温かみは感じられないけれど、最近はその代わりに、こうして触れているところが、じわぁ、と熱くなる感じがしていた。
それに押されてだろう。
この時私は、きっと初めてなにかを越えた。境界の向こうを見た。
ふわり、と。
陰陽玉が浮き上がった。
「で、できたっ!できたよ!見てた、お××ん!?」
「しっかり見てたわ。よくできたわね、霊夢」
喜びのあまり満面の笑みで振り返った私を、お××んは、すっ、と包み込むように抱きしめてくれた。不思議な香りがした。私は心がくすぐったくって、深く深く顔を埋めて甘えた。
その、香りは。
懐かしい、でもよく知った香りだった。
『霊夢さん!!大丈夫なんですか!?』
どこからか華扇の声が聞こえた気がした。
※
ガラガラとうるさい音で目が覚めた。
「うっ……ん?」
「おはよう。よく眠れた?」
今までは、という言葉を飲み込んで身体を起こすと、逆光の中に霞んで、縁側に立つ紫の姿が目に入った。どうやら雨戸を開けていたようだった。
「閉めた覚えがない」
「私が閉めたわ。そして開けた」
元通りね、なんて紫の言葉を鼻で笑う。中断された眠りは元に戻らないのだから、その理屈は成り立たない。賢者も思考の誤りだ。けれども、恐らく昨夜に閉めたであろう時には気づかず寝ていた辺り、もう起きる頃合でもあったということだろう。
「起きても平気?」
「ふわふわする」
「朝御飯、食べられる?」
「分かんない」
「熱はある?」
「頭は重い」
「なら、寝ていなさい」
「そーする」
我ながら要領を得ない返答をして、また布団のお世話になることにした。眠気はともかく、起き上がっているのは少しだけ苦痛だった。
「あ、ちょっと待って」
しかし自分が言い出したくせに、背中を押して邪魔をするヤツがいた。縁側に立ったままの紫だ。
「むむ……」
苦虫を噛み潰したような顔を浮かべる私に、まだ早いわよ、と紫が盆を差し出してくる。相変わらず自身は縁側に立ったまま、スキマ経由で紫の両手だけが私を挟み込んでいた。
「気持ち悪い」
「悪化したかしら?」
「あんたの頭がね」
溜め息混じりに身体を起こして、昨日と同じく盆の上に置かれた薬と水を飲み干す。冷たさが喉に心地いい。少しだけ気が楽になったかもしれない。
盆にコップを戻すと、紫は一度、スキマ越しの両手を引いた。でも私が枕に頭を乗せるとすぐさま両手をにょきっと出してきて、掛け布団をわざわざ肩のところまで持ち上げたりなんてした。
「これでよし」
お節介な紫は満足そうに言って、手を引っ込めた。今度はなんだ、と私はつい警戒したけど、別になにもなかった。横目で見れば、縁側に立つ本体には手が戻っていた。ただ一つ違うのは、紫の手には小さなタライと手拭いがあったことぐらい。
「水を汲んでくるわね」
井戸にでも向かうのだろう。紫はこちらに背を向けて、縁側から庭へと降りた。
その、背中に。
「ねぇ、紫」
やはり顔を向けないで、問いだけを投げた。
「華扇、来なかった?」
「帰らせたわ」
もういい加減、そんな気がしていた。
「あの子の熱が感染ったら大変だもの。お説教、聴きたかった?」
確かにあの口煩さでは、余計に熱が出そうだった。
「……想像しただけで頭痛くなってきたわ」
「だったら、もう一度お休み」
病人は寝るのが仕事、なんて言葉を置いて、紫は陽光の中に消えていった。私は頭の上まで布団を持ち上げて、薄闇の中に潜り込んだ。
眠るのまで仕事なんて、自由がなくて煩わしい。紫、ちょっとお説教くさかった。
※
最近よく夢を見る。
熱でふやけた中で夢を見る。
夢は、もう巫女になった私の夢だった。いつか、どこかの私。
夢の中の私は縁側で水を張ったタライに足を突っ込んで、両手でないと持てないほどの大きさに切られたスイカをお供に、涼を取っていた。
じーわじーわ、と蝉の鳴き声がうるさかった。じっとしていても浮かんでくる汗を鬱陶しげに拭いながら、私は甘い甘い赤色に齧りついていた。
「今日も暑いわねぇ」
苦笑交じりの声と共に、私の横に皿が置かれた。皿の上には、皮から剥がされて食べやすい大きさに切り揃えられたスイカがいくつか並んでいた。我慢できなかった私は我侭を言って、切っている途中のをもらって来ていたのだった。
「お水、冷たいよ?」
私は口の周りを赤い汁で汚しながら、タライの中の足をぱたぱたと動かした。お×さんは苦笑を濃くしながら、風流ねぇ、なんて言って、どこからか取り出した手拭で顔を拭ってくれた。くすぐったかった。
お×さんはそれが終わると、手拭を仕舞って立ち上がった。そして軒先に手を伸ばすと、家の手入れだろうか、なにやらゴソゴソとお仕事を始めてしまった。一緒にスイカを食べたかった私はちょっと寂しくなって、タライの中の水を乱暴に蹴飛ばした。
と。
「はい、できた」
お×さんの声に混じって、ちりん、という澄んだ音が辺りに響き渡った。びっくりして顔を上げると、軒先に透き通った小さなガラスの傘が浮かんでいた。
「風鈴、というのよ」
お×さんが私の横に座ると、風鈴はまた、ちりりん、と鳴った。一回鳴るたびに、気持ちいい風が吹く。汗が少し引いて、涼しくなった気がした。
「魔法みたい……」
「でも、私は魔法使いじゃないの」
「そうなの?」
お×さんは問いには答えず、お皿の上からスイカを一切れ摘まんで口に入れた。そっちの方も気になって、私も真似をして皿のスイカを摘まんだ。
何度か風鈴が鳴った。その音を聞きながら並んでスイカを食べている内に、いつの間にか問うたことも忘れていた。
そう、忘れていたのだ。
『霊夢さーん!大丈夫じゃないところ撮らせてくださーい!』
どこからか文の声が聞こえた気がした。
※
ちりん、という音で目が覚めて。
「――――っ!!」
私は弾かれたように身を起こした。誘われるように縁側を見れば、そこには、今ちょうど取り付けた、という様子で両手を上げたままの紫の姿があった。
「なに……してんの……?」
「冷やそうと思いまして」
紫のとぼけた言葉に次いで、ちりりん、という音がまた響いた。魔法の音じゃない。ただの風鈴の音色だった。
「冷えないわ」
顔を歪めて、私は吐き捨てるように言った。どうしてか分からないけど、無性に腹が立ったのだ。手を下ろした紫の、冷たいじゃない、なんて言葉にも答えたくなかった。
「でも、良いことだわ。まずは気分を冷やすのが大事だから。本当に冷やすのはその後でもいいの」
意味不明だ。病は気から、とでも言いたいのだろうか。昨日は、英知と底力で戦う、とかなんとか言っていたくせに、気力で直せなんて賢者失格だ。
「そんなこと言ってないわ。今朝もお薬、持ってきたじゃない」
「またそういう目をしてたって?」
「違うわ。貴方ならそう考えると思ったから」
なにこいつ。人をおちょくる天才か。前から知っていたけど。私は頭が痛くなってきたので、布団に沈むことにした。邪魔者はいなかった。
紫は縁側に置いてあったタライを手に取ると、なにも言わずにこちらに歩いてきた。そして私の寝ている横に音もなく座り込んで、手拭いを水に浸した。
ちゃぽん、と透明な空気の音が聞こえた。ぽたぽた、と滴り落ちる水の音色も。そこに、ちりーん、というガラスの傘の囁きが加わって、少し涼しくなった気がしたのがしゃくだった。
あとはスイカもあれば完璧なのに。
「熱、また出てきたんじゃない?」
ひんやりとした手が額に触れた。冷たいのは紫じゃないか。魔法使いじゃなくても、充分に冷える。最初からそうだった。
「人を熱冷ましみたいに言わないでちょうだい」
呆れたような声と共に頭に熱さが戻ってきて、名残惜しさを感じるより前に、すぐに別の冷たさで覆われて消えた。井戸水でよく冷えた手拭いも悪くない。
「冷えたじゃん」
「それは良かった」
「でも足りない」
「あら我侭さん」
じゃあ、もっと冷やしてあげましょうか。そう言うと紫は、スキマから団扇を取り出した。なんの変哲もない木製の団扇。ただその地紙には、真ん中で二つに割られた真っ赤なスイカが描かれていた。
「お嬢さん~、良い子だ、ねんねしな~」
奇妙な唄に乗って、柔らかい風が当たる。涼しい。気持ちいい。
冷たいのに、じわりと温かい。
だから離したくなくて。
「――――あ」
自分でも気づかない内に、紫の袖の先を掴んでいた。驚いた表情を浮かべる紫と目が合った。
顔に、きっと病のせいだろう、熱を感じた。その証拠に、ほら。頭がぼうっとして、今にも意識を失いそうになっている。
だけど今から慌てて離すのもそれはそれで恥ずかしいし。私は袖を握ったままで。紫もそれを咎めることなく。しばしの間、じっと身じろぎもせずに見つめ合っていた。
やがて。
「……文なら、帰らせたわ」
なにを思ったのだろう。紫は頼んでも問うてもいないことを、突然口にした。そして。
「アレは騒がしいから――――」
と紫は一旦、言葉を切ると。
「きっと、風鈴の音もかき消されてしまうわ」
袖を握る私の手をやんわりと解いて。
「そうなったら――――」
自分の手で、しっかりと握り返して。
「私は、嫌だわ」
私の目をまっすぐに見つめながら。紫は、搾り出すような声で、そう言った。
「私も……」
眠りに落ちそうな意識の瀬戸際で、私はなんとか返事をしようと頑張った。ここで言っておかないといけない気がしたから、握り返す手に力を込めて口を開いた。
「私も……嫌……かな……」
私の答えに、でしょう?、と満足げに紫は笑った。
風が止んだ。
頭にふわりとした感触があった。
「おやすみ」
大好きだったあの人の声がした。
※
思い出していた。
熱の中で、私はついに思い出していた。
いつかじゃない。今ならはっきり思い出せる。
記憶の中の私はもうとっくに巫女で、でも空だけはどうしても飛べなくて。
だから私は、まだ〝博麗の巫女″ではなかった。
寒さも深まってきて、いよいよ終わりかけていた秋空の下。落ち葉舞う神社の鳥居の前に、私は立っていた。あの人と一緒に。
そこまで。
もう、そこまで思い出せているのに。
もう少し。
あと少しというところまで出てきているのに。
「――――で――――とは――――。今日から――――は――――いくの」
あの人が喋っていた言葉が、虚ろに響く。
なんで、って訊ねた覚えがある。
嫌だ、って駄々をこねた覚えがある。
悲しくて。辛くて。心が痛くて。叫んだことだって覚えている。
なのに。
「どうして!?どうしてよ、お×さん!?」
あの人を呼んでいた言葉。それだけが、どうしても思い出せない。
『うらめしや~』
どこからか、幽々子の声が聞こえた気がした。
『珍しいわね――――』
あの人の声も。
※
夜遅く。
日の沈んだ境内に現れた影を見て、私――――八雲紫は思わず眉をひそめた。
「ひゅ~どろどろどろどろ」
その影は地に足を付けながら、両手だけを胸の前に垂らして、自分でおどろおどろしい効果音を奏でながら言った。
「うらやめしや~」
西行寺幽々子だった。亡霊だがまったく怖くはない。驚かす真剣みというものが致命的に欠けていた。
幽々子のことはよく知っているし、よく会ってもいた。ただし、ここではない場所でだが。そして、なによりも違和感を感じたのは。
「珍しいわね。こんなに臭うのは」
「臭う?出かける前には湯浴みもしたし、着物も着替えたわよ?」
「でも臭いわ。半分の生の香りがしないもの」
幽々子の脇を指して、私は、どうして一人なの?、と訊ねた。幽々子は扇子を取り出すと、それを口元に当ててクスクスと笑った。
「お友達の家を訪ねるのに、従者を連れる者がどこにいますか?」
「姫だもの。おかしなことはないわ。それに――――」
と私は自然と険しくなる顔で答えた。
「ここは私の家ではない。幻想郷の博麗神社よ」
そうだ。ここが私の家でなんてあるわけがない。あっていいはずがない。そのことは、幽々子だって知っているはず。
なのに。
「でも、〝今はまだ貴方の家″でしょう?」
この古い付き合いの友人は、胡散臭くてワケが分からない、と罵られる私の心を的確にかき乱す言葉を紡ぐ。私に言わせれば、幽々子の方がよっぽど分からない存在だ。
分からない相手を理解できるのは、同じく分かられない者だけ。だから私は幽々子と友人をやれているのだろうし、幽々子が今日この時に、この場所に来れたのだと思った。
「貴方は、そのつもりで来たのね」
「私しか、それを見届けられないもの」
そうね、と搾り出すのが精一杯だった。半人半霊の従者がいないのは当然だ。これから行うことに、生の要素なんてないんだから。
「すぐ、終わるから」
私はそれだけ言って、鳥居へ向けて歩いていく。スキマは使わない。こうして参道を歩いて、鳥居を潜ってここから去らなければ、すべては終わらないから。
短い距離を永遠のものと感じた。たった数日の出来事が足を重くした。
いや、違う。
本当は違う。
たった数日なんかじゃない。
寝込んでからなんかじゃない。
だって、私は。
私は、あの子を連れて来て、そして何年も――――
「お母さん――――っ!!」
悲痛な声が、シンとした境内に響いた。それを聞いた瞬間、言葉の意味を頭で理解するよりも先に、身体が勝手に振り返っていた。
「え――――?」
遅れて声が漏れた。視線の先には、ふらふらと危なげに全身を揺らしつつ、開いた雨戸の隙間から顔を覗かせる霊夢の姿があった。
「お、かあ、さん――――え、ゆ、紫――――?」
痛むのか、片手で頭を押さえながら霊夢が庭に降りて来ようとする。話す言葉はうわ言交じりで、足元もおぼつかない。
「あっ――――」
案の定、つっかけに通そうとした足を踏み外して、霊夢の身体が傾いた。
「紫、駄目っ!」
幽々子の鋭い声が飛んだ。分かっていた。ここで助けちゃいけないことぐらい。そんなことをしてもどうにもならなくて、後で後悔するだけだってことぐらい。
でも。
「……大丈夫?」
もうとっくに手遅れだった。幽々子の声を聞いた時には、私はスキマを使って霊夢の元に移動していた。刹那の間に受け止めた、腕の中にある羽のような軽さに声をかけていた。
「この……匂い……」
霊夢は質問に答えなかった。
「やっぱり……そう、だ……ゆかり……じゃなくて……ううん、紫で、紫が――――」
その代わり、私の背中に手を回して、顔を擦りつけるようにして抱き付きながら。
「わたしの大好きだった、お母さん、だったんだ……」
涙を流して、嬉しそうに、霊夢はそう言った。
ああ、この呼び方だ。
ずっとずっと長い間呼ばれていて。いつしか慣れて。そして、ずっとずっと長いこと呼ばれていなかった。呼ばれてはいけなかった。
いや、呼ばせてはいけなくなった、呼び方。
「どうして、私を置いていったの?」
霊夢が訊ねる。
「どうしてわたしを一人にしたの?」
いつもより幼く聞こえる声で訊ねる。
「ずっと一緒にいたかったんだよ?」
以前にも聞いた言葉が私を刺す。
「わたしといたくなくなったの?」
違う。
「わたしといるの嫌になったの?」
そんなわけない。
「――――わたしのこと嫌いになったの?」
「違う、違うの。違うのよ、霊夢」
心が耐えられなくなって、私は霊夢の身体を抱き締めていた。強く。どこまでも強く。言葉で表せない想いまで伝われと願うように。
「いたいよ、おかあさん」
幸せそうな霊夢の声が耳元で聞こえた。心が引き裂かれそうだった。
「私が悪いのよ」
懺悔の言葉が漏れた。
「貴方の孤独を忘れさせてしまった」
引っ張ってくるだけのつもりが、手を繋いでしまっていた。
「貴方の家族になってしまった」
飢えさせないだけのつもりが、一緒の食卓を囲んでいた。
「貴方の母になってしまった」
生きる力を叩き込むだけのつもりが、教えるのだって楽しくなっていた。
本当はどれも、あってはいけなかったことだった。
だって、博麗の巫女には縛るものなんていらないから。
家族もいらない。恋人もいらない。友もいらない。ただ一人で立って、どこにも属さず、どことも馴れ合わず。
誰に対しても特別なんてなくて、宙で、真ん中でひたすらに浮き続ける。
幻想郷の調停者。バランサー。
それこそが、博麗の巫女の心の在り方。運命であり宿命。
なのに。
「ごめんね」
それを壊したのが、よりにもよって妖怪の賢者である自分なんて。まったく笑えない冗談だった。
「ごめんね、霊夢」
本泣くことさえ許されない大罪を前にして、私はただ謝ることしかできなかった。謝り続けるしかなかった。
これから待つさらなる罪のことも、今だけは忘れたかった。
「いいよ、お母さん」
背中をぽんぽんと叩きながら、無邪気な声で霊夢が言った。
「また会えたから。帰って来てくれたから。ご飯作ってくれたから。一緒にいてくれたから。だから――――」
と身を離して、霊夢は。
「また、わたしのお母さんに、なってくれるよね?」
疑うことを知らない笑顔で。心を刺す残酷な笑顔で。愛しい笑顔で、そう言った。
「――――――――」
言わなきゃいけなかった。
どんな笑顔を前にしたって、他ならぬ私だけは言わなくてはならなかった。
だから。
「――――今日で貴方とは、お別れしないといけないの。今日から貴方は、一人で生きていくの」
いつかと同じ言葉を、また言った。霊夢の顔が凍りついた。
「……どうして?」
感情のない問いかけが続いた。でも、すぐに霊夢の顔は歪んで。
「どうしてよ、お母さん!?」
涙を流しながらの、悲痛に問いかけに変わった。あの日と同じだった。
「貴方は博麗の巫女だから」
残酷に告げた。今のこの子は分かるだろうから。
「貴方が飛び続けるには、それしかないから」
だから、私はやらなければならない。
「そんな……だったら、私は――――っ」
霊夢が馬鹿なことを言う前に、やらなければならないのだ。
霊夢の額に、私は無言で右の人差し指を当てた。弄るのは記憶の扉。開かれてしまった、繋がってしまったそこに境界を引き直す。
「あ、ゆ、紫――――っ」
苦しそうな声で、霊夢が私の名を呼んだ。正しい私の名を。
「今は、眠りなさい。起きたら全部、忘れているはずだから……」
「なんで……よ……ねぇ……?」
「…………」
答えない。答えられやしない。
「お、母、さん……」
霊夢が伸ばした手を、私は必死で見ないようにした。取りたくて仕方がないのを、血が滲むほどに左手を握り締めて抑えた。
やがて。
「あ…………」
糸が切れたように、霊夢の身体がぐらりと傾いた。記憶の扉が閉ざされた負荷に耐え切れず、意識が途切れたのだった。私は倒れ込んでくる身体を受け止めて、抱き上げた。いくつもの重石を背負わされているはずなのに、今もまた新しい重石を載せられたのに、やっぱり身体は軽かった。
無言で部屋に上った。そして、見慣れた敷き布団に霊夢の身体を横たえ、肩口まできちんと掛け布団を持ち上げてやった。これで明日の朝には、すべてが元通りになっているはずだ。
「ごめんね」
最後に頭を一撫でして、私は立ち上がった。どこまで行っても謝ることしかできなくて心が痛んだけれど、これは仕方のないことなのだと言い聞かせた。
庭に戻ると、そこにはまだ幽々子がいた。
「傘を持ってくるべきだったわ」
なにも言わずに雨戸を閉め始めた私に、幽々子はそんなことを言った。
「降ってないわ、雨なんて」
空を見上げて、私は答えた。そう、雨なんて降っちゃいない。降らせていいわけがない。降らせる資格などない。
「強がられると、私の来た意味がなくなっちゃう」
「何年生きてると思っているの」
こんなことで。
こんなことで、私の心は動きやしない。しないはず。
「慣れた、って言いたいの?」
なのに幽々子は、なにが気に入らないのか、そうやって突っかかってきて。
「二回目だからって、そう言うの?」
「そうよ。だからなにも感じない。泣いてもいない」
「それは、私との別れの数よりも多いから?」
「――――怒るわよ」
ついカッとなって、幽々子へ向けて掌から一匹の蝶を飛ばした。それは幽々子の前までゆらゆらと飛んだ後、迎え撃つように出てきた黒い蝶にぶつかって弾けた。
ぽたり、と。地面に水滴が落ちた。
「ほら、やっぱり雨だわ」
気分を害した風もなく、でも少し怒ったように幽々子が言った。その指差す先、私の頬を伝う液体がなんなのか。意識しないようにしていた私にだって、本当は最初から分かっていた。
「傘、いる?」
「自分のがあるもの。いらないわ」
スキマから取り出した日傘を、夜なのに差した。自分のことだ。自分でどうにかしないといけないと思った。
「そ。私も濡れない内に帰らないとね」
幽々子はそう言うと、さっさとこちらに背を向けて歩き出した。早くついて来い、という分かりづらいメッセージなのは、きっと私だから分かることだろう。
私は幽々子について歩き出した。終わってしまえば呆気ないものだった。
最初、ここまで霊夢の記憶が戻っていると思わずに黙って退散しようとしていた時、名残惜しさに無限とも思えた参道が、今では見た目どおりの短さだと実感できた。
そうして歩いて、鳥居の下まで来たところで。
「――――――――」
最後にもう一度だけ、霊夢の眠る母屋の方を振り返った。
「ごめんね」
何度目か分からない謝罪の言葉が口をつく。
でも、こうすることだけが、私と貴方がいつまでもいられる唯一の方法だから。
境界を守る巫女と賢者。その関係だけが、私と貴方を繋ぐ唯一の糸だから。
「さようなら、私の子」
私は今日、最愛の娘を、殺した。
※
夢を見なかった。
熱も感じなかった。
誰の声も聞こえなかった。
※
夜が明けると、身体が軽くなっていた。
なので私――――博麗霊夢は、久々に境内の掃除をすることにした。
「あー、なんかサボってた割には、あんまり散らかってないわねぇ」
箒を片手に落ち葉を集めながら、ぼやく。良いことだ。仕事が少なくて。
「お!霊夢じゃないか!もう具合は良くなったのか!?」
そんな声が聞こえたと同時、目の前に着地するはた迷惑なヤツがいた。魔理沙だった。掃き集めた落ち葉が散って、仕事が増えた。嫌がらせか。
「良くなったから仕事してるんでしょうが」
「いや、まだ熱あるんじゃないか。仕事してるなんて」
「そうね。あんたに今増やされて、また熱が出そうだわ」
照れるぜ、なんて言う魔理沙に葉っぱの洗礼を食らわせてやろうと思ったが、軽快な動きで避けられてしまった。当たり判定でかいくせに生意気。
「はぁ……」
と溜め息を吐いて、大人しく掃除に戻ることにした。相手すると疲れる。疲れるというのは、信条に反する悪行だ。
掃除が始まると、魔理沙はそそくさと賽銭箱の横に座り込んだ。私がこうしている時、魔理沙は決まってその位置でぼけーっと人のことを見ているのだった。
「いっつも思うんだけど、そんなに暇そうなら少しはその箒で手伝ってくれればいいのに」
「魔女の箒は掃除道具じゃないからな。そりゃ無理な相談だ」
「こんなに大変なのに」
「どこがだよ。大してないじゃないか」
魔理沙のくせに正論を言うとは。私が寝込んでいる間にずいぶんと生意気になったものだ。気に入らないので、掃除に集中することにした。
と。
「あれ、そういや今日は紫のヤツはいないんだな?」
魔理沙が突然、そんな奇妙なことを言い出した。
「なんでそこで紫が出てくるの?」
「いや、だってここ最近、毎日いたじゃないか。何度も追い返されたぞ」
「来てた?紫が?」
「え――――」
不思議な顔で魔理沙が固まった。なにかまずいことに首を突っ込んだ、みたいな、そんな顔だった。
「なに変な顔してんのよ」
「んー、あー、なんでもない。多分、私の勘違いだ」
「そうよ。紫なんて来てないもの」
「そう、だよな。うん、そうだ」
大体、あいつが私が熱を出したからって見舞いになどくるようなタマか。むしろ、熱いの?なら冷やしてあげましょう、とか言って、寝ているところにこんにゃくを押し付けに来る方がまだ似合っている。
「それより魔理沙。薬、ありがとうね」
「ん。ああ、そういうことなのか」
「どういうこと?」
「なんでもない。こっちの話だ。効いたなら良かったな」
変な魔理沙、と笑おうと思ったけど、よく考えたらこいつはいつも変だった。今更言うことでもない。
その時。
ふいに、ちりーん、という澄んだ音が境内に響いた。秋に似つかわしくない、涼を誘う音だった。
「……今の、風鈴か?」
「みたいね」
「なんだって風鈴なんか」
「私は着けてないわよ」
「そうなのか?」
じゃあ見てくる、と言って魔理沙は立ち上がった。妙に深刻な顔をしていた。
「どうしたの?」
「なんでもない。お前は一人で掃除でもしてろ」
「言われなくてもそうするわよ」
魔理沙が去っていくのを見送りもせず、私は落ち葉との戦いに戻った。
ちりりーん、という音がまた響く。
風鈴の音は、別に嫌いじゃない。そのはずなのに、どうしてか今聞こえる音だけは、少し心がざわついた。まるで、意識が夢と現の境に持っていかれるかのような、そんな気持ち悪い感じがしたのだ。
私の心なんて持っていったって、仕方がないのに。
だって、私の中には誰もいないのだから。
私には最初から、××××なんていなかった。
熱の中で、夢を見ていた。
夢は、私の夢だった。いつか、どこかの私。
夢の中の私は今よりずっと小さくて、それで、初めて来たその場所に怯えていた。
雪が降っていた。まだほとんど積もっていない。なのに身を包む寒さだけは本物で、震えの正体がどちらなのかも本当は分かっていなかった。
「ここが今日から貴方のお家よ」
××××は私の手を引きながら言った。こちらも冷たかった。握られた手の温もりは純白の手袋に遮られて感じなかった。
でも他に縋るもののなかった私はどうしようもなくて、冷たいそれにしがみつくようにしていた。なにもないよりはいいと思って、自分に言い聞かせて、そうするしかなかった。
『おーい!霊夢ー!大丈夫かー!』
どこからか魔理沙の声が聞こえた気がした。
※
起きたら紫がいた。
「おはよう。もうお昼だけど」
布団の脇に座りながら、紫はこちらを見てくすくすと笑った。胡散臭い微笑み。寝起きに見るものじゃない。
「あんた……なんで……」
悪態を吐きながら身を起こそうとして、力が入らなくて失敗した。身体が重い。頭も重い。ついでに暑い。
「お見舞い。貴方が熱を出して寝込んでいたから」
「どうして知ってるのよ」
自分でも今まで知らなかったことを。昨日は確かにちょっと体調が悪くて早く寝たけど、誰にもそんなこと言っていないし、見られてもいないはず。
いや。
「――――見てたから、ね」
バレてないと本人が思っているだけの覗き魔が、悪戯っぽく言った。いつもなら気づくだろうに。やはり昨夜から鈍っていたようだった。
「……はぁ」
溜め息を残して、布団に深く身を沈める。こいつの相手するのは疲れる。
「お腹、空いてる?」
「空いてない」
即答する。食欲がないのももちろんだけど、甘えたくなんてもっとなかった。
「可愛いわねぇ」
なのに紫は笑みを崩さず、しみじみとそう呟いて立ち上がった。あまりにも似合わない言葉に背筋が凍るかと思った。
「人の話聞いてた?」
「賢者の話は聞くべきね」
虚空にスキマが開く。そこから紫はエプロンを取り出すと、慣れた手つきで身に着ける。やっぱり似合っていない。
「具合が悪い時は少しでも栄養を取るものよ。呪いの類なら貴方には効かないけれど、これは外の病だから。ウイルスは人間の英知と底力で倒すもの。まずは底力を磐石にしないとね」
したり顔で紫は話すけれど、こいつの言うことはいつもワケが分からない。分かるように話せる頭があるくせに、大抵最初はそれをしない。性格が悪いのだ。
「黙って食えばいいんでしょ」
「そう。病人は静かにしてればいいの」
フン、と鼻を鳴らして、紫に背を向けた。頭まで布団を被る。また紫が笑っていたが無視することにした。
でも、一つだけ。
「そうだ、紫」
襖の開いた音を追って、声だけを背に投げた。そして、なぁに?、と訊ねる紫に逆に問う。
「魔理沙、来なかった?」
「帰らせたわ」
来ていた、とは言わなかった。
「感染ったら大変だもの。人里でまで流行ったら面倒でしょう?」
魔理沙は私と違って、いつもあちこちをうろうろしている。確かに危ないかもしれない。
「ん……そうね。そうかもしれない」
「そうなのよ」
ああ大変だ大変だ、なんて紫の声が少しずつ遠ざかっていく。もう少し眠ろうと思って、私も目を閉じた。
紫のヤツ、妙に恩着せがましかった。私の世話ができるのが嬉しかったのだろうか。まさかね。
※
夢を見ていた。
熱に浮かされながら、夢を見ていた。
夢は、少し大きくなった私の夢だった。いつか、どこかの私。
夢の中の私はエプロンをして、包丁を持って、緊張しながら台所に立っていた。
外では雪融けが始まっていた。水が澄んで、温かくなってきて、まだ少し寒さは残っているけれど、とても綺麗な季節だった。
「手、切らないようにね」
横から優しい声がかけられる。お×××の声だ。私は、うん、とだけ答えて、まな板の上に載せられた野菜をおっかなびっくり切っていく。
お×××はいつだって側にいた。今も、他では見たこともない不思議な服の上にエプロンを着けて、私の横で屈みながら火の加減を見ていた。赤い揺らめきを受けて、結い上げられた黄金の髪がキラキラと輝く。それを見るのが、私は好きだった。
そうして余所見をしていたのが悪かった。
「っつ!」
痛みを感じて慌てて手を引けば、左手の人差し指にぷっくらと赤い珠が浮いていた。
「もう、だから言ったじゃない」
お×××は困った声でそう漏らして立ち上がると、珠の浮いた指先を舌でチロリと舐めた。すると不思議なことに、次の瞬間もう血は止まっていた。
「え、え、え、どうやったの!?どうやったの!?」
「うふふ、ひ・み・つ」
「えー!!」
騒ぐ私の頭をぽんぽんと撫でて、お×××はまな板の前に立った。包丁を取って、物凄い速さで野菜を刻んでいく。私はそれを、今度は余所見ではなくまじまじと見つめていた。
器用で、綺麗で、優しくて。ちょっと不思議で。
私はきっと、その人のことが大好きだったのだと思う。もちろん、その人の作った料理だって。
『霊夢さーん!大丈夫ですかー?』
どこからか早苗の声が聞こえた気がした。
※
起きたら卵雑炊がいた。
「失礼ね。作った相手への感謝もないなんて」
「いつからサトリに転職したのよ」
「そういう目をしていたわ」
どんな目だ、と私はのそのそ身体を起こす。実際に料理を見ていたら食欲が湧いてきて、それが力にも変わったようで、今度はちゃんと起きられた。我ながら現金な身体だ。
「一人で食べられる?」
「無理、って言ったら食べさせてくれるの?」
「自分から食べられに行くわ。だって卵雑炊だもの」
紫はまたワケの分からないことを言うと、膝に置いた器から雑炊を匙で一掬いして、こちらの口元に運んできた。自分からとはそういう意味か、とようやく理解する。調子に乗って、冷ましてくれないの?、とさらに煽ってやろうかとも思ったが、こちらの腹の方がもう我慢ができそうになかったのでやめた。
パクリ、と匙を口に含む。
ふわりとした甘さが広がった。次いでわずかな塩気が沁み込む。鼻が詰まっていて匂いはよく分からないけど、汗を掻いた身にとてもよく馴染んだ気がした。
「美味しい?」
「――――――――」
口が塞がっているので喋れない、という体を装って、だんまりを決め込む。どうせ目で分かっているんだろうに。嫌な感じだ。
「可愛いわねぇ」
生暖かい視線をこちらに向けながら、紫は再び匙を動かす。これはこれで楽だし、面倒だからあえて文句も言わない。
一口。二口。三口。四口。なんだか餌付けでもされているみたい。誰が雛鳥だ、と心中で自分にツッコミを入れた。
そうして動物的に食べ続けて、器の中がほとんど空っぽになったところで。
「――――ん。もういい」
私は紫から顔を逸らした。全部食べるのは本当に飢えた子供みたいで嫌だった。紫は特別気にした様子もなく、そ、とだけ言って、差し出しかけていた匙を自分の口に含んだ。
「美味しい?」
「貴方が美味しいと思う程度には」
ニコリと笑って答える紫。そこを目で語ればいいのに、わざわざ言葉で語る。当てつけにしても無粋だった。
「寝る」
短くそれだけ言い残して、私は布団に手をかけた。ごちそうさまなんて言ってやるもんか。目だって瞑ってやる。
と。
「あ、待って霊夢」
紫の手がこちらの手に触れた。ひや、とした感触が伝わる。紫は今日は手袋を着けていなかった。
動きを止めた私に、紫はスキマから盆を取り出して言った。
「寝る前にこれを飲んでちょうだい」
盆の上には、水で満たされたガラスのコップと白黄のカプセルが一つ。
「毒でも盛るの?」
「貴方の中にいるものに、ね」
私の中には、誰もいない。いないはずだ。なら、それは私を殺す毒なんじゃなかろうか。巫女を殺すなんてヤキが回っていし、魔女でもないのに毒を勧めるだなんて、やっぱり紫は転職でも考えているのだろう。
それも悪くはないかもしれない。
「…………」
無言でコップを取った。水を少し口に含んで、カプセルを次に放り込む。残った水と共に一気に飲み干す。そしてコップを乱暴に突き返すと、今度こそ私は布団を被って寝転んだ。
「おやすみ」
「お粗末様でした」
笑い声を残して、紫が立ち上がる気配があった。相変わらず言葉の通じないヤツ。
でも、一つだけ。
「ねぇ、紫」
また、問いだけをその背中に投げる。
「早苗、来なかった?」
「帰らせたわ」
また、来ていた、とは言わなかった。
「あの子にも感染ったら大変だもの。それに、お山で流行ったら面倒でしょう?」
確かに、山に入るのでも一苦労かもしれない。妖怪も罹るのかは疑問だけど。
「……そうね」
「素直でいい子」
今日はもう帰るわ、と言い残して、紫は部屋から去って行った。また少し頭がぽーっとしてきたので、私も眠ることにした。
紫が作った雑炊。アイツが食べても顔を歪めない程度には、美味しかった。料理の腕で負けている気がして、ちょっと悔しかった。
※
また夢だった。
ぶり返してきた熱に揺れながら、夢を見ていた。
夢は、もっと大きくなった私の夢だった。いつか、どこかの私。
夢の中の私は紅白二色の、でも今とは少し違う衣装に袖を通して、黒白同じく二色の珠を睨みつけていた。手には今では持ち慣れたお払い棒を持っている。見ているのも、今では使い慣れた陰陽玉だった。
ハラハラと桜の花弁が舞っていた。重さを感じさせない桃色の渦の中にいながら、私はまだ重さと戦っていた。
「頑張って」
背中に優しく手が添えられる。お××んの手だ。相変わらず温かみは感じられないけれど、最近はその代わりに、こうして触れているところが、じわぁ、と熱くなる感じがしていた。
それに押されてだろう。
この時私は、きっと初めてなにかを越えた。境界の向こうを見た。
ふわり、と。
陰陽玉が浮き上がった。
「で、できたっ!できたよ!見てた、お××ん!?」
「しっかり見てたわ。よくできたわね、霊夢」
喜びのあまり満面の笑みで振り返った私を、お××んは、すっ、と包み込むように抱きしめてくれた。不思議な香りがした。私は心がくすぐったくって、深く深く顔を埋めて甘えた。
その、香りは。
懐かしい、でもよく知った香りだった。
『霊夢さん!!大丈夫なんですか!?』
どこからか華扇の声が聞こえた気がした。
※
ガラガラとうるさい音で目が覚めた。
「うっ……ん?」
「おはよう。よく眠れた?」
今までは、という言葉を飲み込んで身体を起こすと、逆光の中に霞んで、縁側に立つ紫の姿が目に入った。どうやら雨戸を開けていたようだった。
「閉めた覚えがない」
「私が閉めたわ。そして開けた」
元通りね、なんて紫の言葉を鼻で笑う。中断された眠りは元に戻らないのだから、その理屈は成り立たない。賢者も思考の誤りだ。けれども、恐らく昨夜に閉めたであろう時には気づかず寝ていた辺り、もう起きる頃合でもあったということだろう。
「起きても平気?」
「ふわふわする」
「朝御飯、食べられる?」
「分かんない」
「熱はある?」
「頭は重い」
「なら、寝ていなさい」
「そーする」
我ながら要領を得ない返答をして、また布団のお世話になることにした。眠気はともかく、起き上がっているのは少しだけ苦痛だった。
「あ、ちょっと待って」
しかし自分が言い出したくせに、背中を押して邪魔をするヤツがいた。縁側に立ったままの紫だ。
「むむ……」
苦虫を噛み潰したような顔を浮かべる私に、まだ早いわよ、と紫が盆を差し出してくる。相変わらず自身は縁側に立ったまま、スキマ経由で紫の両手だけが私を挟み込んでいた。
「気持ち悪い」
「悪化したかしら?」
「あんたの頭がね」
溜め息混じりに身体を起こして、昨日と同じく盆の上に置かれた薬と水を飲み干す。冷たさが喉に心地いい。少しだけ気が楽になったかもしれない。
盆にコップを戻すと、紫は一度、スキマ越しの両手を引いた。でも私が枕に頭を乗せるとすぐさま両手をにょきっと出してきて、掛け布団をわざわざ肩のところまで持ち上げたりなんてした。
「これでよし」
お節介な紫は満足そうに言って、手を引っ込めた。今度はなんだ、と私はつい警戒したけど、別になにもなかった。横目で見れば、縁側に立つ本体には手が戻っていた。ただ一つ違うのは、紫の手には小さなタライと手拭いがあったことぐらい。
「水を汲んでくるわね」
井戸にでも向かうのだろう。紫はこちらに背を向けて、縁側から庭へと降りた。
その、背中に。
「ねぇ、紫」
やはり顔を向けないで、問いだけを投げた。
「華扇、来なかった?」
「帰らせたわ」
もういい加減、そんな気がしていた。
「あの子の熱が感染ったら大変だもの。お説教、聴きたかった?」
確かにあの口煩さでは、余計に熱が出そうだった。
「……想像しただけで頭痛くなってきたわ」
「だったら、もう一度お休み」
病人は寝るのが仕事、なんて言葉を置いて、紫は陽光の中に消えていった。私は頭の上まで布団を持ち上げて、薄闇の中に潜り込んだ。
眠るのまで仕事なんて、自由がなくて煩わしい。紫、ちょっとお説教くさかった。
※
最近よく夢を見る。
熱でふやけた中で夢を見る。
夢は、もう巫女になった私の夢だった。いつか、どこかの私。
夢の中の私は縁側で水を張ったタライに足を突っ込んで、両手でないと持てないほどの大きさに切られたスイカをお供に、涼を取っていた。
じーわじーわ、と蝉の鳴き声がうるさかった。じっとしていても浮かんでくる汗を鬱陶しげに拭いながら、私は甘い甘い赤色に齧りついていた。
「今日も暑いわねぇ」
苦笑交じりの声と共に、私の横に皿が置かれた。皿の上には、皮から剥がされて食べやすい大きさに切り揃えられたスイカがいくつか並んでいた。我慢できなかった私は我侭を言って、切っている途中のをもらって来ていたのだった。
「お水、冷たいよ?」
私は口の周りを赤い汁で汚しながら、タライの中の足をぱたぱたと動かした。お×さんは苦笑を濃くしながら、風流ねぇ、なんて言って、どこからか取り出した手拭で顔を拭ってくれた。くすぐったかった。
お×さんはそれが終わると、手拭を仕舞って立ち上がった。そして軒先に手を伸ばすと、家の手入れだろうか、なにやらゴソゴソとお仕事を始めてしまった。一緒にスイカを食べたかった私はちょっと寂しくなって、タライの中の水を乱暴に蹴飛ばした。
と。
「はい、できた」
お×さんの声に混じって、ちりん、という澄んだ音が辺りに響き渡った。びっくりして顔を上げると、軒先に透き通った小さなガラスの傘が浮かんでいた。
「風鈴、というのよ」
お×さんが私の横に座ると、風鈴はまた、ちりりん、と鳴った。一回鳴るたびに、気持ちいい風が吹く。汗が少し引いて、涼しくなった気がした。
「魔法みたい……」
「でも、私は魔法使いじゃないの」
「そうなの?」
お×さんは問いには答えず、お皿の上からスイカを一切れ摘まんで口に入れた。そっちの方も気になって、私も真似をして皿のスイカを摘まんだ。
何度か風鈴が鳴った。その音を聞きながら並んでスイカを食べている内に、いつの間にか問うたことも忘れていた。
そう、忘れていたのだ。
『霊夢さーん!大丈夫じゃないところ撮らせてくださーい!』
どこからか文の声が聞こえた気がした。
※
ちりん、という音で目が覚めて。
「――――っ!!」
私は弾かれたように身を起こした。誘われるように縁側を見れば、そこには、今ちょうど取り付けた、という様子で両手を上げたままの紫の姿があった。
「なに……してんの……?」
「冷やそうと思いまして」
紫のとぼけた言葉に次いで、ちりりん、という音がまた響いた。魔法の音じゃない。ただの風鈴の音色だった。
「冷えないわ」
顔を歪めて、私は吐き捨てるように言った。どうしてか分からないけど、無性に腹が立ったのだ。手を下ろした紫の、冷たいじゃない、なんて言葉にも答えたくなかった。
「でも、良いことだわ。まずは気分を冷やすのが大事だから。本当に冷やすのはその後でもいいの」
意味不明だ。病は気から、とでも言いたいのだろうか。昨日は、英知と底力で戦う、とかなんとか言っていたくせに、気力で直せなんて賢者失格だ。
「そんなこと言ってないわ。今朝もお薬、持ってきたじゃない」
「またそういう目をしてたって?」
「違うわ。貴方ならそう考えると思ったから」
なにこいつ。人をおちょくる天才か。前から知っていたけど。私は頭が痛くなってきたので、布団に沈むことにした。邪魔者はいなかった。
紫は縁側に置いてあったタライを手に取ると、なにも言わずにこちらに歩いてきた。そして私の寝ている横に音もなく座り込んで、手拭いを水に浸した。
ちゃぽん、と透明な空気の音が聞こえた。ぽたぽた、と滴り落ちる水の音色も。そこに、ちりーん、というガラスの傘の囁きが加わって、少し涼しくなった気がしたのがしゃくだった。
あとはスイカもあれば完璧なのに。
「熱、また出てきたんじゃない?」
ひんやりとした手が額に触れた。冷たいのは紫じゃないか。魔法使いじゃなくても、充分に冷える。最初からそうだった。
「人を熱冷ましみたいに言わないでちょうだい」
呆れたような声と共に頭に熱さが戻ってきて、名残惜しさを感じるより前に、すぐに別の冷たさで覆われて消えた。井戸水でよく冷えた手拭いも悪くない。
「冷えたじゃん」
「それは良かった」
「でも足りない」
「あら我侭さん」
じゃあ、もっと冷やしてあげましょうか。そう言うと紫は、スキマから団扇を取り出した。なんの変哲もない木製の団扇。ただその地紙には、真ん中で二つに割られた真っ赤なスイカが描かれていた。
「お嬢さん~、良い子だ、ねんねしな~」
奇妙な唄に乗って、柔らかい風が当たる。涼しい。気持ちいい。
冷たいのに、じわりと温かい。
だから離したくなくて。
「――――あ」
自分でも気づかない内に、紫の袖の先を掴んでいた。驚いた表情を浮かべる紫と目が合った。
顔に、きっと病のせいだろう、熱を感じた。その証拠に、ほら。頭がぼうっとして、今にも意識を失いそうになっている。
だけど今から慌てて離すのもそれはそれで恥ずかしいし。私は袖を握ったままで。紫もそれを咎めることなく。しばしの間、じっと身じろぎもせずに見つめ合っていた。
やがて。
「……文なら、帰らせたわ」
なにを思ったのだろう。紫は頼んでも問うてもいないことを、突然口にした。そして。
「アレは騒がしいから――――」
と紫は一旦、言葉を切ると。
「きっと、風鈴の音もかき消されてしまうわ」
袖を握る私の手をやんわりと解いて。
「そうなったら――――」
自分の手で、しっかりと握り返して。
「私は、嫌だわ」
私の目をまっすぐに見つめながら。紫は、搾り出すような声で、そう言った。
「私も……」
眠りに落ちそうな意識の瀬戸際で、私はなんとか返事をしようと頑張った。ここで言っておかないといけない気がしたから、握り返す手に力を込めて口を開いた。
「私も……嫌……かな……」
私の答えに、でしょう?、と満足げに紫は笑った。
風が止んだ。
頭にふわりとした感触があった。
「おやすみ」
大好きだったあの人の声がした。
※
思い出していた。
熱の中で、私はついに思い出していた。
いつかじゃない。今ならはっきり思い出せる。
記憶の中の私はもうとっくに巫女で、でも空だけはどうしても飛べなくて。
だから私は、まだ〝博麗の巫女″ではなかった。
寒さも深まってきて、いよいよ終わりかけていた秋空の下。落ち葉舞う神社の鳥居の前に、私は立っていた。あの人と一緒に。
そこまで。
もう、そこまで思い出せているのに。
もう少し。
あと少しというところまで出てきているのに。
「――――で――――とは――――。今日から――――は――――いくの」
あの人が喋っていた言葉が、虚ろに響く。
なんで、って訊ねた覚えがある。
嫌だ、って駄々をこねた覚えがある。
悲しくて。辛くて。心が痛くて。叫んだことだって覚えている。
なのに。
「どうして!?どうしてよ、お×さん!?」
あの人を呼んでいた言葉。それだけが、どうしても思い出せない。
『うらめしや~』
どこからか、幽々子の声が聞こえた気がした。
『珍しいわね――――』
あの人の声も。
※
夜遅く。
日の沈んだ境内に現れた影を見て、私――――八雲紫は思わず眉をひそめた。
「ひゅ~どろどろどろどろ」
その影は地に足を付けながら、両手だけを胸の前に垂らして、自分でおどろおどろしい効果音を奏でながら言った。
「うらやめしや~」
西行寺幽々子だった。亡霊だがまったく怖くはない。驚かす真剣みというものが致命的に欠けていた。
幽々子のことはよく知っているし、よく会ってもいた。ただし、ここではない場所でだが。そして、なによりも違和感を感じたのは。
「珍しいわね。こんなに臭うのは」
「臭う?出かける前には湯浴みもしたし、着物も着替えたわよ?」
「でも臭いわ。半分の生の香りがしないもの」
幽々子の脇を指して、私は、どうして一人なの?、と訊ねた。幽々子は扇子を取り出すと、それを口元に当ててクスクスと笑った。
「お友達の家を訪ねるのに、従者を連れる者がどこにいますか?」
「姫だもの。おかしなことはないわ。それに――――」
と私は自然と険しくなる顔で答えた。
「ここは私の家ではない。幻想郷の博麗神社よ」
そうだ。ここが私の家でなんてあるわけがない。あっていいはずがない。そのことは、幽々子だって知っているはず。
なのに。
「でも、〝今はまだ貴方の家″でしょう?」
この古い付き合いの友人は、胡散臭くてワケが分からない、と罵られる私の心を的確にかき乱す言葉を紡ぐ。私に言わせれば、幽々子の方がよっぽど分からない存在だ。
分からない相手を理解できるのは、同じく分かられない者だけ。だから私は幽々子と友人をやれているのだろうし、幽々子が今日この時に、この場所に来れたのだと思った。
「貴方は、そのつもりで来たのね」
「私しか、それを見届けられないもの」
そうね、と搾り出すのが精一杯だった。半人半霊の従者がいないのは当然だ。これから行うことに、生の要素なんてないんだから。
「すぐ、終わるから」
私はそれだけ言って、鳥居へ向けて歩いていく。スキマは使わない。こうして参道を歩いて、鳥居を潜ってここから去らなければ、すべては終わらないから。
短い距離を永遠のものと感じた。たった数日の出来事が足を重くした。
いや、違う。
本当は違う。
たった数日なんかじゃない。
寝込んでからなんかじゃない。
だって、私は。
私は、あの子を連れて来て、そして何年も――――
「お母さん――――っ!!」
悲痛な声が、シンとした境内に響いた。それを聞いた瞬間、言葉の意味を頭で理解するよりも先に、身体が勝手に振り返っていた。
「え――――?」
遅れて声が漏れた。視線の先には、ふらふらと危なげに全身を揺らしつつ、開いた雨戸の隙間から顔を覗かせる霊夢の姿があった。
「お、かあ、さん――――え、ゆ、紫――――?」
痛むのか、片手で頭を押さえながら霊夢が庭に降りて来ようとする。話す言葉はうわ言交じりで、足元もおぼつかない。
「あっ――――」
案の定、つっかけに通そうとした足を踏み外して、霊夢の身体が傾いた。
「紫、駄目っ!」
幽々子の鋭い声が飛んだ。分かっていた。ここで助けちゃいけないことぐらい。そんなことをしてもどうにもならなくて、後で後悔するだけだってことぐらい。
でも。
「……大丈夫?」
もうとっくに手遅れだった。幽々子の声を聞いた時には、私はスキマを使って霊夢の元に移動していた。刹那の間に受け止めた、腕の中にある羽のような軽さに声をかけていた。
「この……匂い……」
霊夢は質問に答えなかった。
「やっぱり……そう、だ……ゆかり……じゃなくて……ううん、紫で、紫が――――」
その代わり、私の背中に手を回して、顔を擦りつけるようにして抱き付きながら。
「わたしの大好きだった、お母さん、だったんだ……」
涙を流して、嬉しそうに、霊夢はそう言った。
ああ、この呼び方だ。
ずっとずっと長い間呼ばれていて。いつしか慣れて。そして、ずっとずっと長いこと呼ばれていなかった。呼ばれてはいけなかった。
いや、呼ばせてはいけなくなった、呼び方。
「どうして、私を置いていったの?」
霊夢が訊ねる。
「どうしてわたしを一人にしたの?」
いつもより幼く聞こえる声で訊ねる。
「ずっと一緒にいたかったんだよ?」
以前にも聞いた言葉が私を刺す。
「わたしといたくなくなったの?」
違う。
「わたしといるの嫌になったの?」
そんなわけない。
「――――わたしのこと嫌いになったの?」
「違う、違うの。違うのよ、霊夢」
心が耐えられなくなって、私は霊夢の身体を抱き締めていた。強く。どこまでも強く。言葉で表せない想いまで伝われと願うように。
「いたいよ、おかあさん」
幸せそうな霊夢の声が耳元で聞こえた。心が引き裂かれそうだった。
「私が悪いのよ」
懺悔の言葉が漏れた。
「貴方の孤独を忘れさせてしまった」
引っ張ってくるだけのつもりが、手を繋いでしまっていた。
「貴方の家族になってしまった」
飢えさせないだけのつもりが、一緒の食卓を囲んでいた。
「貴方の母になってしまった」
生きる力を叩き込むだけのつもりが、教えるのだって楽しくなっていた。
本当はどれも、あってはいけなかったことだった。
だって、博麗の巫女には縛るものなんていらないから。
家族もいらない。恋人もいらない。友もいらない。ただ一人で立って、どこにも属さず、どことも馴れ合わず。
誰に対しても特別なんてなくて、宙で、真ん中でひたすらに浮き続ける。
幻想郷の調停者。バランサー。
それこそが、博麗の巫女の心の在り方。運命であり宿命。
なのに。
「ごめんね」
それを壊したのが、よりにもよって妖怪の賢者である自分なんて。まったく笑えない冗談だった。
「ごめんね、霊夢」
本泣くことさえ許されない大罪を前にして、私はただ謝ることしかできなかった。謝り続けるしかなかった。
これから待つさらなる罪のことも、今だけは忘れたかった。
「いいよ、お母さん」
背中をぽんぽんと叩きながら、無邪気な声で霊夢が言った。
「また会えたから。帰って来てくれたから。ご飯作ってくれたから。一緒にいてくれたから。だから――――」
と身を離して、霊夢は。
「また、わたしのお母さんに、なってくれるよね?」
疑うことを知らない笑顔で。心を刺す残酷な笑顔で。愛しい笑顔で、そう言った。
「――――――――」
言わなきゃいけなかった。
どんな笑顔を前にしたって、他ならぬ私だけは言わなくてはならなかった。
だから。
「――――今日で貴方とは、お別れしないといけないの。今日から貴方は、一人で生きていくの」
いつかと同じ言葉を、また言った。霊夢の顔が凍りついた。
「……どうして?」
感情のない問いかけが続いた。でも、すぐに霊夢の顔は歪んで。
「どうしてよ、お母さん!?」
涙を流しながらの、悲痛に問いかけに変わった。あの日と同じだった。
「貴方は博麗の巫女だから」
残酷に告げた。今のこの子は分かるだろうから。
「貴方が飛び続けるには、それしかないから」
だから、私はやらなければならない。
「そんな……だったら、私は――――っ」
霊夢が馬鹿なことを言う前に、やらなければならないのだ。
霊夢の額に、私は無言で右の人差し指を当てた。弄るのは記憶の扉。開かれてしまった、繋がってしまったそこに境界を引き直す。
「あ、ゆ、紫――――っ」
苦しそうな声で、霊夢が私の名を呼んだ。正しい私の名を。
「今は、眠りなさい。起きたら全部、忘れているはずだから……」
「なんで……よ……ねぇ……?」
「…………」
答えない。答えられやしない。
「お、母、さん……」
霊夢が伸ばした手を、私は必死で見ないようにした。取りたくて仕方がないのを、血が滲むほどに左手を握り締めて抑えた。
やがて。
「あ…………」
糸が切れたように、霊夢の身体がぐらりと傾いた。記憶の扉が閉ざされた負荷に耐え切れず、意識が途切れたのだった。私は倒れ込んでくる身体を受け止めて、抱き上げた。いくつもの重石を背負わされているはずなのに、今もまた新しい重石を載せられたのに、やっぱり身体は軽かった。
無言で部屋に上った。そして、見慣れた敷き布団に霊夢の身体を横たえ、肩口まできちんと掛け布団を持ち上げてやった。これで明日の朝には、すべてが元通りになっているはずだ。
「ごめんね」
最後に頭を一撫でして、私は立ち上がった。どこまで行っても謝ることしかできなくて心が痛んだけれど、これは仕方のないことなのだと言い聞かせた。
庭に戻ると、そこにはまだ幽々子がいた。
「傘を持ってくるべきだったわ」
なにも言わずに雨戸を閉め始めた私に、幽々子はそんなことを言った。
「降ってないわ、雨なんて」
空を見上げて、私は答えた。そう、雨なんて降っちゃいない。降らせていいわけがない。降らせる資格などない。
「強がられると、私の来た意味がなくなっちゃう」
「何年生きてると思っているの」
こんなことで。
こんなことで、私の心は動きやしない。しないはず。
「慣れた、って言いたいの?」
なのに幽々子は、なにが気に入らないのか、そうやって突っかかってきて。
「二回目だからって、そう言うの?」
「そうよ。だからなにも感じない。泣いてもいない」
「それは、私との別れの数よりも多いから?」
「――――怒るわよ」
ついカッとなって、幽々子へ向けて掌から一匹の蝶を飛ばした。それは幽々子の前までゆらゆらと飛んだ後、迎え撃つように出てきた黒い蝶にぶつかって弾けた。
ぽたり、と。地面に水滴が落ちた。
「ほら、やっぱり雨だわ」
気分を害した風もなく、でも少し怒ったように幽々子が言った。その指差す先、私の頬を伝う液体がなんなのか。意識しないようにしていた私にだって、本当は最初から分かっていた。
「傘、いる?」
「自分のがあるもの。いらないわ」
スキマから取り出した日傘を、夜なのに差した。自分のことだ。自分でどうにかしないといけないと思った。
「そ。私も濡れない内に帰らないとね」
幽々子はそう言うと、さっさとこちらに背を向けて歩き出した。早くついて来い、という分かりづらいメッセージなのは、きっと私だから分かることだろう。
私は幽々子について歩き出した。終わってしまえば呆気ないものだった。
最初、ここまで霊夢の記憶が戻っていると思わずに黙って退散しようとしていた時、名残惜しさに無限とも思えた参道が、今では見た目どおりの短さだと実感できた。
そうして歩いて、鳥居の下まで来たところで。
「――――――――」
最後にもう一度だけ、霊夢の眠る母屋の方を振り返った。
「ごめんね」
何度目か分からない謝罪の言葉が口をつく。
でも、こうすることだけが、私と貴方がいつまでもいられる唯一の方法だから。
境界を守る巫女と賢者。その関係だけが、私と貴方を繋ぐ唯一の糸だから。
「さようなら、私の子」
私は今日、最愛の娘を、殺した。
※
夢を見なかった。
熱も感じなかった。
誰の声も聞こえなかった。
※
夜が明けると、身体が軽くなっていた。
なので私――――博麗霊夢は、久々に境内の掃除をすることにした。
「あー、なんかサボってた割には、あんまり散らかってないわねぇ」
箒を片手に落ち葉を集めながら、ぼやく。良いことだ。仕事が少なくて。
「お!霊夢じゃないか!もう具合は良くなったのか!?」
そんな声が聞こえたと同時、目の前に着地するはた迷惑なヤツがいた。魔理沙だった。掃き集めた落ち葉が散って、仕事が増えた。嫌がらせか。
「良くなったから仕事してるんでしょうが」
「いや、まだ熱あるんじゃないか。仕事してるなんて」
「そうね。あんたに今増やされて、また熱が出そうだわ」
照れるぜ、なんて言う魔理沙に葉っぱの洗礼を食らわせてやろうと思ったが、軽快な動きで避けられてしまった。当たり判定でかいくせに生意気。
「はぁ……」
と溜め息を吐いて、大人しく掃除に戻ることにした。相手すると疲れる。疲れるというのは、信条に反する悪行だ。
掃除が始まると、魔理沙はそそくさと賽銭箱の横に座り込んだ。私がこうしている時、魔理沙は決まってその位置でぼけーっと人のことを見ているのだった。
「いっつも思うんだけど、そんなに暇そうなら少しはその箒で手伝ってくれればいいのに」
「魔女の箒は掃除道具じゃないからな。そりゃ無理な相談だ」
「こんなに大変なのに」
「どこがだよ。大してないじゃないか」
魔理沙のくせに正論を言うとは。私が寝込んでいる間にずいぶんと生意気になったものだ。気に入らないので、掃除に集中することにした。
と。
「あれ、そういや今日は紫のヤツはいないんだな?」
魔理沙が突然、そんな奇妙なことを言い出した。
「なんでそこで紫が出てくるの?」
「いや、だってここ最近、毎日いたじゃないか。何度も追い返されたぞ」
「来てた?紫が?」
「え――――」
不思議な顔で魔理沙が固まった。なにかまずいことに首を突っ込んだ、みたいな、そんな顔だった。
「なに変な顔してんのよ」
「んー、あー、なんでもない。多分、私の勘違いだ」
「そうよ。紫なんて来てないもの」
「そう、だよな。うん、そうだ」
大体、あいつが私が熱を出したからって見舞いになどくるようなタマか。むしろ、熱いの?なら冷やしてあげましょう、とか言って、寝ているところにこんにゃくを押し付けに来る方がまだ似合っている。
「それより魔理沙。薬、ありがとうね」
「ん。ああ、そういうことなのか」
「どういうこと?」
「なんでもない。こっちの話だ。効いたなら良かったな」
変な魔理沙、と笑おうと思ったけど、よく考えたらこいつはいつも変だった。今更言うことでもない。
その時。
ふいに、ちりーん、という澄んだ音が境内に響いた。秋に似つかわしくない、涼を誘う音だった。
「……今の、風鈴か?」
「みたいね」
「なんだって風鈴なんか」
「私は着けてないわよ」
「そうなのか?」
じゃあ見てくる、と言って魔理沙は立ち上がった。妙に深刻な顔をしていた。
「どうしたの?」
「なんでもない。お前は一人で掃除でもしてろ」
「言われなくてもそうするわよ」
魔理沙が去っていくのを見送りもせず、私は落ち葉との戦いに戻った。
ちりりーん、という音がまた響く。
風鈴の音は、別に嫌いじゃない。そのはずなのに、どうしてか今聞こえる音だけは、少し心がざわついた。まるで、意識が夢と現の境に持っていかれるかのような、そんな気持ち悪い感じがしたのだ。
私の心なんて持っていったって、仕方がないのに。
だって、私の中には誰もいないのだから。
私には最初から、××××なんていなかった。
母親のような存在で霊夢を見守る紫、その母性溢れる紫の思いやりと葛藤に、泣けます。
ゆかれいむの作品はどうして泣けるものばかりなんだろうか...
だからか、私がゆかれいむを題材にした作品を書こうと考えてしまうのは。
まだ何も構想考えていませんけどね。
あと華扇は霊夢を呼び捨てにしてます。
素晴らしい作品でした。
次回も素晴らしい作品を期待してます。
こういう切なさは好きです
そうなってしまったら、紫はその度に自分の娘を殺すことに…。
娘を殺すたびに、母の心を殺さなければならない紫に胸が痛い……
風鈴の季節ももう終わりですね。夏の終わりに良い物語をありがとうございました。
とかそんな感じでもっとゆかれいむはイチャイチャしててもいいじゃない。
でもこれくらいの距離感が素晴らしくて……おおもう。
ジレンマだぜ。
愛したいけど愛するわけにはいかない
そんな悲しい空気を感じました
とりあえず霊夢にはそんな小難しい話うっちゃって全部まるっと解決してほしいものです
最後、魔理沙は何を思うのか……
孝行したいときに親はなしと言いますが、この霊夢の場合は一体どうしたらいいんでしようか
匂いであったり音であったりは、ふと大事な人との思い出を想起させる厄介なもの。それを忘れさせることが、紫の精一杯の優しさだったのか。
ともあれ、何とも切ない想いにさせてくれるお話でした。
けどよかった
心に沁み入る作品でした。
親子ゆかれいむはいいものです。が、この作品は悲しい。
霊夢と紫と、どちらがより辛いのでしょうかね。