厳しかった寒さも大分やわらいできていた。雪解け水が地面を濡らし、泥を突き破っていくつもの芽が顔を出す。
春告げ精が「春ですよー」などと喚き散らしながら空を駆け回っているのを見る限り、そろそろ冬も終わりということだろう。
――いい加減うるさくなってきたから、そろそろ叩き落してやろうかしら。
縁側でうとうとしながら、博麗霊夢はそんなことを考えていた。
ほんの少し前に『地下から間欠泉と怨霊が吹き出す異変』を解決したばかりだし、妖怪退治の依頼も来ていないので、暇なことこの上ない。
なので、そろそろ日課の境内掃除でもするかと彼女は腰を浮かせる。
と、一匹の猫がこちらへ駆けてくるのが目に留まった。
もちろんただの猫ではなく、尾は二又に分かれ、体にはゆらめく炎のような模様があった。
ぼんやりと見ていると、猫が跳ねた。
空中で一回転すると、その姿は霊夢と同年代の少女へと変じる。しかし完全に人型かというとそうではなく、猫の耳と二又の尻尾が残っていた。
そして膝を曲げ、霊夢の前に音もなく着地する。
「やあやあ、久しぶりだねお姉さん」
ひらひらと手を振る少女は、この前の異変のあと博麗神社に(勝手に)住み着いた火車である。名を火焔猫燐と言う。
「しばらくいなかったみたいだけど、どこほっつき歩いてたのよ」
もっとも、神社に居たからといって食事を出すわけでもないのだが。
別に財布に余裕がない訳ではないが、勝手に住み着いた奴に飯を出すほど霊夢は甘くない。
ついでに言えば、何一つ霊夢に対して貢献していないのだし。
「ちょっとさとり様に呼ばれてね」
「ふーん」
霊夢は適当に頷いて立ち上がり、箒を取りに向かう。燐の近況報告よりも、境内の掃除のほうが今の彼女には遥かに重要だった。
「ああ、ちょっと待った」
「何よ、私はこれから忙しいの」
彼女はその言葉に足を止め、興味なさげに首だけを向ける。一応聞いてみる気だけはあるらしい。
「いいじゃない、掃除なんて今度すれば。ろくに参拝客も来てないんだし」
「あん? ぶっ飛ばされたいのかしら?」
その言葉を聞いて、霊夢の額に青筋が浮かぶ。
彼女だって参拝客がろくに来やしないのを少しは気にしている。それをこうまでハッキリと言われるのは、あまり気分がいいとは言えない。
だから、お灸でも据えてやろうかとお札を取り出しながら一歩前進する。それに対して、燐は数歩下がると、頭を下げる。
「ごめん、言いすぎましたっ」
「別にいいわよ。客がろくに来ないのは事実だし」
お札を懐にしまいなおしながら、霊夢は言う。
まあ実際のところ、大して怒っているわけでもない。ただのおふざけのようなものだった。
「んで、何か用?」
「さとり様がね、博麗の巫女を連れて来いって言うんだよ」
「それなら、あいつがこっちにこりゃあいいでしょう。どこぞの姫君じゃあるまいし」
もっとも、今はその姫君も出歩かないという訳ではないのだが、それはまた別の話である。
地霊殿まで行くのはあまり楽な道のりとは言えない。その逆も然りなため、さとりが面倒臭がるのも無理はないが、それはこっちだって一緒である。
しかし、妖怪であるさとりが博麗の巫女に頼むことなどなさそうなものなのだが……
「ほら、さとり様ってあんま賑やかなところは行かないじゃん?」
「ここがにぎやかってんなら、人里に行こうものなら鼓膜が破裂するでしょうね」
――鼓膜が破裂するものなのかどうかは知らないけどね。
それは置いておくとして、確かに彼女が持つ能力を考えれば、人が集まる場所を避けるのはおかしいことではないだろう。
そもそも博麗神社に人が集まるかどうかというのは置いておくとして。
「そう言う意味じゃないんだけど……まあ、あくまで比喩って事で」
「それで、用件は何?」
霊夢に聞かれて、燐は少しうつむく。
「それが、あたいには教えてくれなくてね……とにかく連れて来い、の一点張りでさ」
その声には残念そうな響きが含まれていた。何かしら良くないことが起こっていると考え、彼女なりにあるじの身を案じているのだろうか、と霊夢は思う。
「あいつが何企んでるのかは知らないけどまあいいわ。どうせ暇だし」
その言葉を待ってましたとばかりに燐は飛び上がる。そして木のてっぺんあたりで静止して、
「それじゃ、さっそく出発しよう! もたもたしてたらさとり様が待ちくたびれちゃうよ!」
くるりと身を翻すと飛翔していった。
「まったく、騒がしいったらありゃしない」
――まあ、そういうのは嫌いじゃないんだけど、と心の中で続けて霊夢も飛び上がると、その後を追う。
そのとき、何者かの視線を感じた。静止し、即座に辺りを見回す。
しかし視線はおろか、気配すらもあたりには無かった。
――気のせいかしら。もしくは紫の奴かしらね。
そう思うことにして、燐を追いかけることにした。
ついでに、いい加減我慢の限界に来ていた春告げ精を打ち落としておいた。
所は変わって地霊殿。
霊夢はかつて飛んで抜けた廊下を、絨毯を踏みしめながら自分の足で歩いている。
燐は玄関まで連れてくると、どこかへ行ってしまった。あくまで主に命じられていたのはここまでの案内まで、ということなのだろう。
こうして落ち着いて見てみると、こちらも紅魔館に負けず劣らず豪華な館だと思う。
違いがあるとすれば、紅魔館ですれ違うのは妖精メイドであり、地霊殿ですれ違うのは獣であるという点だろうか。
ある意味主の趣味の違いが大きく出ている、と言えるかも知れない。
――こんだけ財産があるんなら、うちの神社にも多少は奉納して欲しいんだけどねぇ……
などと霊夢が考えていたその時。
「そう言われましても。調度品を賽銭箱に入れられたって困るだけでしょう?」
――それは、完全に反射での行動だった。
懐から退魔の針を取り出すと、声がしたほうに振り返りつつ狙いを定めず投げる。
その腕の振りを利用して、袖の中に仕込んでいた大量のお札を放ち、弾幕の密度を上げる。
さらに結界を展開し、弾幕を抜けてきた相手に対してカウンターで結界での打撃を放つ――
その前に、相手に敵意がないことに気が付いた。
とはいえ、放った弾幕は止められない。霊夢は相手が回避してくれるのを祈る。
それから数呼吸ほどの時間が過ぎた。
「すみません。少し驚かせてしまいましたね。博麗の巫女の背後なんて取るものではないようで」
弾幕の波が過ぎ去った後、霊夢から十歩ほど離れた場所に、苦笑を浮かべた少女が立っていた。
見た目の年齢こそ霊夢とそれほど変わらないが、実際は霊夢の数十倍は生きている。
この幻想郷ではさして珍しくない、人にあらざる物の怪。
それが彼女、地霊殿の主、覚の古明地さとりだった。
どうやら完全に避けきれたわけではないらしく、体のところどころに浅い切り傷があり、服も少しくたびれている。
どこから見ても、弁解の余地なく完璧にこちらの責任だった。
どう謝ったものかと、霊夢は言葉を探す。
「いえいえ、よりにもよって貴方の死角から声をかけてしまった私にも責任はあります」
しかし、探すまでもなく謝罪の意は伝わった。
さとりに会うのも二度目となれば、霊夢もさして驚かない。
覚であるさとりには、胸の近くにある『第三の目』によって他人の思考を読めるという能力が備わっているのだった。
もっとも、実際に『第三の目』で読んでいるのかは彼女は知らないのだが、その『第三の目』を閉じているさとりの妹は心を読めないあたり、重要な部分ではあるのだろう。
「立ち話もなんですから、こちらへどうぞ」
さとりは振り返って歩き出す。
――こいつがわざわざ私に頼み事なんて、一体何をやらせるつもりなのかしら……
わざわざ霊夢を呼ぶ必要があるほどの用件とは何か考えながら、霊夢はその後ろを歩いていった。
さらに場所は変わって地霊殿の一室。
霊夢とさとりはテーブルを挟んで、向かい合わせで座っている。
お互いの前には、優雅な装飾のティーカップが置かれていた。
これだけ洋風となると注がれるのは間違いなく紅茶だろう。……と霊夢は思っていた。
が、さとりがティーポットで注いでいくのは紅色ではなく、透き通った緑だった。
――緑茶なのだろうか。
「ええ。玉露です」
そう言って、さとりは得意げな顔をする。
普通の相手と違って、こちらは頭の中で考えるだけでいいのだから会話が楽でいい。と霊夢は思う。
「……なるほど。そういう考え方の人も居るんですね」
微笑みながら自分の分も注ぐと、さとりは椅子に座る。
――コイツは、いったい何の用があって私を呼び出したのやら……
玉露を一口すする。ほのかな甘みと、それを引き立たせるかのような渋みが広がっていく。
普段の出涸らしとは一味違った味に、霊夢の顔もついほころぶ。
「それはもう少し後でもいいです。それよりもお茶の味を楽しみたいのでしょう?」
玉露を口に運びながら、霊夢は何となくあたりを見回す。
……この玉露、決して安いものではないだろう。
それにこの調度品、一体どうやって手に入れているのだろうか?
「前に間欠泉が吹き出したのは覚えていますね? 地霊殿の近くにもいくつか吹き出しましてね」
さとりの目が窓の外のほうを向く。
「それらの内いくつかが、どうやら温泉だったようで。私のペットのうち、お燐やお空以外にも何人か人の姿をとれるようになっている者がいますので、彼らの手を借りて地底の妖怪向けに宿を開いてみたところ、これが大成功だったんです」
確かに、鬼なら相当豪勢に遊んで帰るだろうから、儲けるのは簡単だろう。
――あれ? もしかして、地上に吹き出した間欠泉を利用すれば私も……
「貴方には、低賃金でも文句を言わずに働いてくれる人がいるんですか?」
「うっ」
そういわれると、霊夢には返す言葉もなかった。
人徳の差なのかしら……と考えつつ彼女はカップを傾ける。
しかしカップは空だった。
「お代わりならありますよ」
霊夢がテーブルの上にカップを置くと、また玉露が注がれていく。
――そろそろ菓子でもねだろうかしら。
そんな事を考えていると、さとりの表情が引き締まった。
「そろそろ本題に入りましょうか」
さとりはテーブルの上に空になったカップを置く。
ゆるやかになっていた時を元に戻すように、ことり、と音が鳴った。
「お空のことで、貴方に頼みがあるのです」
そう言われて、霊夢はこの前の異変を思い出す。
霊烏路空。この前の異変の『表向きの』首謀者であり、八咫烏の力をその身に宿す妖怪鴉。
――私に頼むって事は、またあいつが暴れているってことかしら。
「いえ、そうではありません」
さとりは考え込む仕草をする。
「どこから話し始めればよいのでしょうか……いえ、それは今度でいいですね」
ブツブツと何事か呟いていたかと思うと、霊夢のほうに向き直った。
「単刀直入に言います。彼女の治療に、手を貸してください」
「治療?」
――あの元気の塊のようなやつをねえ。
霊夢が思い返す限り、どこも悪そうなところはないはずだが……
「本当にそう思いますか?」
よく考えてみる。しかし、霊夢とて伊達に博麗の巫女をやってきた訳ではない。
どこか体が悪ければ、多少なりとも動作にぎこちなさが出る。
しかし、そういった動作はなかったはずだった。
「いえ、肉体ではなく精神です」
精神のことも考えてみる。確かに頭のネジが二、三本くらい外れていそうだが、それは関係なさそうなので除外。
となると、こちらも特に思い当たる節がない。
するとさとりは、仕方ないですね、とでも言うようにため息をついた。
「分かりました。では霊夢さん、二重人格――という言葉をご存知ですか?」
二重、というからには人格が二つ、ということなのだろう。確かに空は裏表の激しい性格だと霊夢は思っていたが……
「あなたが考えていることは概ね正解です。お空は、二重人格……正しく言うのなら、解離性同一性障害なのです」
と言われても、霊夢にはさっぱり理解できなかった。
まず二重人格と言う言葉もほとんど馴染みがないのに、カイリセイドウイツ何たらとか言われても理解できるはずがなかった。
「でしょうね。この幻想郷では、あまり馴染みのない言葉でしょうし」
幻想郷では、ということは外の世界の言葉なのだろう。ならば、自分が知らないのも無理はない、と霊夢は納得する。
――なら、さとりはどこで知ったのかしら。
「香霖堂ですよ。私の本を置いてもらう代わりに、外界から流れ着いたというそういった本を貰っているのですよ。私は他者の心を知る妖怪ですから、心を読めない人間が心を分析した結果を読む、というのもなかなか面白いものです」
香霖堂に訪れた、ということよりもさとりが普通に地上に出てきていることのほうが霊夢には驚きだった。
――人間嫌いのひきこもりだっていうのに、よくもまあそんな気になるものね。
私の本という気になる単語も出たが、聞くのは今度でいいだろう。
すると、さとりが苦い顔をする。
「ずいぶんと失礼なことを言ってくれますね。ひきこもりは余計です」
「言ってないんだけど……まあ、ごめんなさい」
こういうときは素直に自分の非を認めるのが一番である。
魔理沙ならここで開き直りかねないが、霊夢には真似出来そうもないし、そもそもそんな所は真似したくない。
「とまあそれは置いておくとして、二重人格についての簡単な説明をしましょう」
さとりはこほん、と咳払いする。
霊夢はあまり長話が好きではないのだが、さとりに言っても聞く性質ではないだろう。
なので、黙って傾注しておくことにする。
「人は何か大きなショックを受けたとき、無意識にそれを受けたのでは自分でない、と考えたり、その記憶を切り離したりすることで自己を守ろうとする働きがあります。これは、ある程度精神構造が似ている妖怪にもあるようですね。その時分かれた『もう一人の自分』が心の中で成長し、まるで別の人格のようになってしまうことがあります。これを、解離性同一性障害と呼ぶのです」
――大きなショックっていうのは、何なのかしら。
「お空の場合、たぶん『八咫烏の力を手に入れた』なのでしょうね」
――なるほど。でも、あんまり害があるようには思えないんだけど。もう一人の自分って何だか面白そうだし。
「ところが、これは精神に対してとても大きな負担になるんです。『もう一人の自分』とは言っても、あくまでその人の一部分。人格が分かれた状態で過ごし続けていると、精神を病んで倒れてしまうことさえあるとか」
そんなことがあるのだろうか、と霊夢は思う。
精神が主である妖怪がそのようになるならまだ分からないでもないが、外の世界の書物に書かれていたということは、人間に対して起きていることになる。
――外の世界の人間ってのは、妖怪みたいなものなのかしらねー。そもそも、外の世界はこちらより文明が進んでいるはずなのに、ストレスなんてものがあるのかしら。
文明が進めば進むだけストレスは減るというのが霊夢の認識だった。そうでもなければ、文や早苗はあんなノーテンキじゃないだろう。
そんな霊夢の思考は無視することにしたようで、さとりは続ける。
「燐から話を聞く限り、お空の人格の乖離は日に日に深刻になっているようですし。ですからもうあまり猶予はなさそうなのです」
どうやら、事態は思っていたよりも深刻らしい。そろそろ霊夢も本腰を入れるべきのようだ。
さっきから飲み続けていた玉露をテーブルの上に置く。
「で、私に何をしろと?」
「空を私の元へ連れてきてください」
「あんた自身で行けない理由は?」
霊夢の切り返しに、さとりの表情が曇る。
「どうやら、あの子は八咫烏の力を手に入れてから私を避け続けているようなのです。なので警戒が薄く、なおかつ戦いになったとしても、本気の彼女を倒せるであろう貴方なら……と思ったのですが」
「……少し趣向は違うけど、それって妖怪退治の範疇に入るでしょう? なら、しかるべき報酬が出るならいいわよ」
――これじゃあまるで薄情者ね。と、霊夢は自嘲気味に思う。
とはいえ、別に霊夢は守銭奴だからこう言っている訳ではない。一度ただで依頼を受け、その話が外へと広がってしまえば二度、三度とただでやらなければいけなくなる。そうすれば、すぐに生活は立ち行かなくなってしまうだろう。
博麗神社での収入が期待できない以上、彼女は生活を妖怪退治に頼るしかないのだから。
「そうですか。ならば、私が所有するいくつかの宿全てで使える、一年間のフリーパスというのはどうでしょう? ただ単に金銭を貰うよりもいいと思いますが。もちろん、友人を誘っても構いません」
確かにそうだ。霊夢の友人に地底に入って来れない、というような軟弱な人妖は一人も居ないのだから、長い目で見ればそちらのほうがお得だろう。
「じゃあ、それでいいわ。お空が居る大体の場所の見当は付いてる?」
「ええ。私が行くと隠れられてしまうのですが、恐らくこの時間なら火焔地獄跡で仕事中でしょう」
「そうなの」
それだけ言うと、霊夢は立ち上がる。
やると決めた以上は、のんびりしている訳には行かないのだから。
「何か聞いておきたいことはありますか?」
さとりはそう問いかけてきた。
霊夢は考える。が、特になさそうだった。
踵を返すと、扉に向かう。
「そうですか。では、よろしくお願いします。ああ、それと」
呼び止められ、霊夢は立ち止まる。
「お燐が言ってましたが、お空がまた何か企んでいるようです。連れてくるついでに懲らしめておいてください」
それを聞くと彼女は部屋を後にして、廊下を歩き始めた。
歩を進めながら、さとりの言葉を思い返していく。
――なんか引っかかるんだけどねえ……
言葉にできない直感のようなものが、何か引っかかりがあると彼女に思わせる。
けれども、それを考えようとしても、思考の網からするりと抜けていってしまう。
その時。
――また、か。
博麗神社のときと同じ視線を感じた。
しかし、いややはりと言うべきか、見回すと視線も気配も感じられなくなる。
霊夢はため息をつく。
私が今考えるべきは、空をどう倒すかだ。自分にそう言い聞かせる。
それでも、引っかかりは消えるどころかますます大きくなった気さえする。
「……本当に、引っかかるわね」
それだけ呟くと霊夢は歩くのをやめ、近くの窓を開く。
地底の生暖かい風を肌で感じながら、地底の空へと飛び出していった。
あまりの暑さに汗はとめどなくあふれ出し、こぼれ落ちては蒸発していく。
――灼熱地獄『跡』というには、ちょっと活気がありすぎるわよね。
かつて戦った相手を思い出しながら、霊夢はたたずんでいた。
わざわざこちらから探さなくとも、ここに居ればあちらから来てくれるはず、と踏んだのだが……
そう思ったその時、霊夢の目の前を烈風が駆け抜けた。
髪の毛や裾が激しくはためくが、彼女は意に介さない。
烈風の発生源は霊夢と同じ高さで止まると、翼を広げて風を撒き散らす。
誰であるかなど、わざわざ聞くまでもなかった。
「こんなところに、博麗の巫女が一体何の用かしら」
八咫烏を宿す妖怪鴉、霊烏路空は自信に溢れた表情で、霊夢を見据えてそう言った。
何となく無理だとは分かっているが、それでも説得を試みてみる。
「あんたの主が、あんたを連れてきて欲しいってさ」
その言葉に、空は鼻で笑って返す。
「はい分かりました、って言うとでも?」
――いくらなんでも、この反応はおかしいわよね。
霊夢が知る限りの空は、さとりにある程度の敬意を払っていた。それがこの反応と言うことは、どうやらさとりが言っていたのは本当だったようだ。
「私は、弱い『お空』を切り捨てる。そうすれば、私の力は完全になり、今度こそ私は貴方を倒すことができる」
「前回と目的変わってるじゃない」
「ええ。力は十分試すことができたもの。だから、私はこの力を知らしめる」
「で、何をしようって言うのよ」
「地底の妖怪を地上へ解き放つ。腑抜けた地上の妖怪たちは一掃され、妖怪の真実の姿を愚かな賢者達は知ることになるわ」
どこから仕入れてきたのか、前よりも語彙が豊富になっているようだった。
だからと言って、理知的になったかと言えばそうでもなさそうだ。
どれほどの力を持っていたとしても、幻想郷の賢者達、正真正銘の化け物に一人で立ち向かえるはずがない。そもそも、地底の妖怪達に地上に出る気があるとも思えなかった。
だから空の言葉は大言壮語もいい所だが、かといって見過ごせる訳でもない。
「そう、ならやることは決まったわ」
霊夢は、これまで常に携えてきたお祓い棒を懐から取り出す。そして空に突きつける。
「さとりの依頼は後回し。博麗の巫女として、あんたを倒させてもらうわ」
霊夢が放つ霊力が、空気を軋ませる。並みの妖怪なら尻尾を巻いて逃げ出すであろう重圧を、空は平然と受け止める。
対して空が放つ熱が、空気を熱して歪ませる。しかし霊夢もまた、恐怖一つ感じることなく佇んでいた。
「私は前の私とは違う。より輝きを増した神の光、核融合の熱。その身で味わってフュージョンし尽くせ!」
「やれるもんならやってみなさいよ。あんたの力、あんたの野望。全部まとめてひっくるめて、私が退治してあげるわ」
お互いがゆっくりと力を溜めていく。
そして次の瞬間――
「天の力に焼かれろ、大地の巫女!」
「地面に這い蹲りなさい、空虚の烏!」
二人の言葉は重なり、そして同時に飛び出した。
霊夢は札と針ですぐさま弾幕を展開する。
それは確実に相手を追い詰める、精緻の極みとも言えるものだった。
しかし直感で危機を察知し、霊夢は大きく右へ動く。
その直後、弾幕を吹き飛ばしながら彼女のいた位置を光球が突き抜けた。
誘導の類を警戒し、霊夢はそちらを見る。
しかしどうやらその類ではないらしく、そのまま彼方へと消えていった。
「核熱」
――しまった! さっきのは囮!
大火力を警戒しすぎるあまり、こんな単純な罠に引っかかるなんて……霊夢は内心舌打ちする。
彼女は即座に回避運動を行う。
その動作の起こりを狙うように、空は叫ぶ。
「核反応制御不能ダイブ!」
そう宣言した直後、空は核エネルギーを纏い、高速でこちらに突撃してきた。
軌道はなんの衒いもない一直線。しかし、速度が桁違いすぎる。
――回避は間に合わない、ならこっちも!
「夢符『二重結界』っ!」
目の前に突き出した霊夢の両手を中心に、複雑な模様が描かれ結界となる。
そこからさらに結界を重ね、二重となった結界で空を受け止める。
しかしその勢いは止まらず、霊夢を押しながら飛翔していく。
「どこに行くつもりよ!」
高熱と結界がせめぎ合う音に負けないように、霊夢は声を張り上げる。
「もっと人気の多いところよ! 私の力を示さなくては、地底の妖怪の意気は上がらない!」
そもそも彼女に付いてくるほど地上に戻りたいと思っている妖怪がいるのか、とは思うが言ったところで彼女は聞き入れないだろう。
結界が砕けないように維持しつつしばらく飛んでいると、地獄街道の辺りに着いた。
空は横回転し、右手の『第三の足』で霊夢を弾き飛ばす。
そこでさすがに限界だったのか、結界が砕け散った。
霊夢は縦に一回転し、吹き飛ぶ勢いを殺す。顔を上げたときには、空が目前に迫っていた。
――速い!
杭のように胸めがけて叩き込まれる左足を、お祓い棒で後方へ流す。
続いて、高熱を纏った『第三の足』が振り下ろされる。光の剣にも見えるそれは、直撃すれば霊夢などたやすく塵にすることができるだろう。
しかし顔色一つ変えず、彼女は冷静に後ろに下がり、紙一重でかわす。
直後、開いた空の顎を打ち抜くように、霊夢は昇天脚を放つ。
直撃すれば確実に意識を刈り取る一撃。しかし、首の振りだけでかわされた。
勢いでやや上に飛び出し、霊夢に隙が生まれる。
そこを狙い、空は上方の霊夢に『第三の足』を向ける。眼前に突きつけられたその先端には、核エネルギーが球状に集められていた。
「――ッ!」
すぐさまいくつもの対処法が浮かぶが、それよりも速い反射で、霊夢はお祓い棒を右から左に払う。
『第三の足』の中ほどに当たり、狙いが左に逸れる。
直後、放たれた光線が霊夢の左頬をかすめて駆け抜けていった。
光線が消失し、お互いが後方へ下がる。
どうやら地獄街道で呑んでいた鬼たちが気付いたらしく、地上から快哉が飛んできた。
「格闘戦はあまり趣味じゃないんだけど」
「あまりあなたに付き合っている訳にもいかないのよ」
そう言って、空は不敵に笑う。
「だから、これで終わりにするわ」
彼女の体が輝きを放ち始める。核エネルギーが収束され始めているのだ。
恐らくは溜めて解放するタイプのスペルだろう。
もちろん、むざむざと発動させるつもりはない。
「簡単にそうさせると思ってるのかしら……霊符!」
霊夢の体から十の光球が放たれ、彼女を取り囲む。
「夢想封印 集!」
その言葉と共に光球が飛んで、空を全方位から囲む軌道で飛翔し、同時に殺到する。
それに対し空は前に出る。わずかな隙間をくぐると、振り返りもせずに後方に核エネルギーを放射する。
放たれたそれは彼女を追う光球の先頭に激突し、後ろも巻き込んで爆発した。
もちろん、霊夢も直撃するとは思っていない。その隙を狙い、打撃を加えるために零距離に飛び込む。
しかし。
「もう遅い」
それは、死刑宣告のように重々しく響き渡った。
「アビスノヴァ!」
その直後。
空を中心に、地底に太陽が顕現した。
しかしその熱は辺りを焼く事なく、その球体の内部のみで荒れ狂う。
しばらくして空の熱放射が終わり、太陽は消失する。
防御も回避も叶わない獄熱。霊夢は、塵一つ残さず消失している……はずだった。
「見事ね」
声は、空の下方から。
そこには、陰陽球の衛星に囲まれた、一切の傷がない霊夢の姿があった。
あれほどの高熱の中で、裾一つ乱れていない。
「何故……どうして……っ!」
歯噛みする空に対して、霊夢はあくまでも冷静な表情だった。
もっとも、内心はそれほど余裕ではない。
スペルの内容に気付くのがあと数秒ほど遅れていたら、彼女は塵と化していたのだから。
「そこまでのものを出されたら、私だって全力で答えるしかないでしょう」
言い放つ霊夢の姿は半透明で、向こう側が透けている。
それはまるで――この世の存在ではないようだった。
「勝ちたいのなら――時間切れまで、耐えてみなさい」
弾かれるように、霊夢は空へ向けて飛び出した。
「くうっ!」
空はすぐさま無数の光球で弾幕を展開する。
圧倒的な物量の前に、今度こそ霊夢は捉えられる……そのはずなのに。
霊夢は弾幕をたやすくすり抜けていき、当たるはずの弾は彼女『を』すり抜けていく。
「くそっ……消えろおおぉぉぉっ!」
空はさらに密度を上げる。それは弾幕を通り越し、もはや壁も同然だった。
回避不能なはずの弾壁。しかし、霊夢はそれを抜けた。
そして空の前で一瞬だけ止まり、札を叩きつける。直後には、残像を残して消えていた。
札の効力によって、空は一瞬だけ動きが止まる。しかしそれはまだ取り返せないほどではない。
距離を離そうと後方へ飛ぼうとして、右足に何かが纏わりついていると気付いた。即座に熱を放ち、纏わりついた何かを焼き尽くす。
それでの遅れはほんのごくわずかなものだが、しかしあまりにも命取りだった。
直後。上方、下方、前後左右の全てから空に向けて札が飛ぶ。
飛んでくる間隔は少しずつ短くなり、最終的には全方位からほぼ同時に襲来した。
回避することもできず、無数の札によって空の体は拘束される。
「残り5秒。よく頑張ったわね」
そして、やや離れた位置に霊夢が止まり、何かを薙ぎ払うようにお祓い棒を振る。
「夢想天生」
そして意趣返しかのように、札が巨大な光球となって爆ぜた。
戦いは霊夢の勝利に終わった。
とはいえ、それほど楽な戦いでもなかった――と、彼女は分析する。
その足元では墜落した空がうつぶせに寝転がっていた。
「おーい。起きろー」
何の返事もない。多分気絶しているのだろう。
そう思ってつま先で軽く小突いてみる。
「う、うーん……」
どうやら、目を覚ましたようだ。
空は目をぱちくりさせる。と、跳ね起きた。
「うにゅ!? ここどこ!?」
目を丸くして辺りをきょろきょろと見回すさまは、とても先程までと同一人物とは思えなかった。
「覚えてないの?」
霊夢が聞くと、空はぶんぶんと首を振る。
やけに愛嬌のある仕草に、霊夢の頬が少し緩む。
「今日のお仕事に出かけたところまでは覚えてるんだけど……」
――これじゃあ本当に人格が二つあるみたいね。そう霊夢は考えて、一つの可能性に思い当たる。
「とりあえず、あんたのご主人様が呼んでるから一緒に来てくれる?」
「さとり様が!? わかった、すぐ行く!」
空は目をきらきらと輝かせるとさっきまでの態度が嘘かのように、地霊殿に飛んでいった。
駄目元で言ってみたのだが、まさかこうも簡単だとは思ってもみなかった。
霊夢も追おうと一歩を踏み出す――そこで、固まった。
「……いい加減にしなさいよ」
呟いたその声には、明らかに怒りが含まれている。
また、あの視線だった。
やはり見渡してみても視線も気配も感じられない。
――いっその事ここらへん一帯を吹き飛ばしてやろうかしら……
広範囲・大火力攻撃はどちらかと言うと魔理沙の専門なのだが、霊夢にもできない訳ではない。
「いや、ないない」
――なに物騒な事考えてるんだか。
相手が何を考えているのかは分からないが、さすがにそこまでする必要もないだろう。
首を振って思考を追い払うと、霊夢は飛んでいった。
先程さとりと話した部屋に戻ると、そこにはもう空が居た。
さとりの位置は変わらず、さっき霊夢が座っていた椅子に代わりに空が座っている。
霊夢が入ってきたのに気が付いて、さとりは霊夢のほうを向く。
「ありがとうございました。これでお空の治療ができます」
「そっちの空のときは意外と簡単についてきてくれたわよ? 私を呼ぶ必要あったのかってくらいに」
「分かってはいるのですが、こちらのお空に接触する前にいつも交代されてしまいましてね……」
「ふーん」
二人の会話が理解できていないようで、空は首をかしげる。
「それでさとり様、何で私を呼んだの?」
「ああ、あと少し待ってちょうだい。それで、貴方に頼みがあるんです」
「まあいいわよ。ここまで来たんだし」
「これから私はこの子の心の中へ潜ります。恐らく外界に気を配ることはできなくなると思いますので、その間見ていてください」
「了解。任しときなさい」
「お願いします」
霊夢に会釈すると、さとりは空のほうを向く。
「それじゃお空、私の目をよく見て」
「はいっ! ……あれ、何だか、眠く……」
その言葉を最後に、空とさとりが同時にテーブルに倒れ込んだ。
さとりは見ていろと言っていたが、わざわざこんな所までさとりを襲いに来るなんて輩はいないだろう。
かといってすることもないので、霊夢はすぐに暇を持て余し始めた。
――そういえば、なぜ空はさとりに怒っていたのかしらねえ。……まあいいわ。それはさとりが解決してくれるだろうし。とりあえず茶でも飲もうかしら。
身を翻して、台所を探そうと歩き出したそのとき。
「……なるほどね」
また、あの視線だった。
振り返るがもちろん誰も居ない。
それを確認すると、あくびでもするように大きく伸びをし――
がきん、と。
何かがぶつかる音が辺りに響いた。
霊夢は自分の推測が正解であることを確かめるために、首から上だけで背後を確認する。
予想通り、袖の中に仕込んでおいたお札で鈍く輝く鉄の刃――ナイフが止められていた。
「あれ? 気付いてないかと思ってたのに」
もし阻むものがなければ、ナイフは霊夢の首筋に突き立っていただろう。
防がなければ霊夢は死んでいたというのに、それをまったく悪びれる様子のない声。
『第三の目』を閉ざしたさとりの妹、古明地こいしだった。
視線の正体は彼女である。心を読む能力を失う代わりに手に入れた無意識を操る能力を使うことで、周りに気付かれないようにしていたのだろう。
「私じゃなけりゃたぶん気付かないわよ。それに、運よくたまたまあんたが近くに居るときに限って何も考えてなかったっていうのもあるし」
無意識を意識する、というのは簡単なことではない。
余程のことがない限り、意識したときにそれは無意識ではなくなってしまうのだから。
というよりも、単純に言ってしまえば『勘』である。
「んで、なんであんたはそんな物騒なもの持ってる訳? まさか、それで私を殺す気だったとか言わないわよね?」
まだ会ったことは数回しかないが、こいしの性格からして、首を縦に振ってもおかしくないと霊夢は思っていた。
こいしは首を振る。
「これはね、お姉ちゃんを助けるためなの」
「そりゃあ初耳ね。さとりに被虐趣味があったとは」
「そうじゃないの。お姉ちゃんは心が読めるでしょ? でもね、お姉ちゃんは他人の事が分からないの。どうしてだと思う?」
「哲学は嫌いなのよ。そういうのは紫とかと話してなさい」
そう言って霊夢は手で追い払う仕草をする。が、こいしは無視して続ける。
「心が読めるから、お姉ちゃんは人の顔を見ようとしないのよ。いつも眠たげな顔してるでしょ? お姉ちゃんは他人の顔なんてどうでもいいと思ってるの」
確かに、さとりはいつも眠たげに目を細めていている、と霊夢は思い返す。
――どうでもいい、とまでは思ってないと思うんだけどねえ……
しかし、妹であるこいしのほうが霊夢より遥かにさとりとの付き合いが長いのだ。それならば、本当の事なのかもしれない。
「例えばの話をしましょう。もしも、あなたとお空が入れ替わったとする。そしたらみんなはどんな反応すると思う?」
「驚くわね、当然」
「そうでしょうね。でも、お姉ちゃんは違うの。貴方たちの心しか見ていないから、いつも通りのままなのよ」
霊夢は別に、それが悪いことだとは思えない。人それぞれの見方というものがあるのだから。
しかし、姉を咎めるような響きをもってこいしは続ける。
「だから、お姉ちゃんは気付かなかったのよ。お空はあんなに苦しんでいたのに。心の中が元気だからって、お空の顔を見てあげようとしなかったから。空元気って言葉を知らなかったのよ、きっと」
いつの間にか、こいしの姿は消えていた。
また不意打ちされてはたまらないと、霊夢は辺りを見回す。
すると、こいしはお空の隣に移動していた。
彼女は愛おしげに空の頭をなでる。
「それなら、私がお空を助けてあげようって思ったのよ。嫌なことを早く忘れて、元気になれるようにって」
その時、霊夢の頭の中の引っかかりの理由が分かった。
さとりの言葉が思い出される。――無意識にそれを受けたのでは自分でない、と考えたり、その記憶を切り離したりすることで自己を守ろうとする働きが――
それを聞いたとき、すぐに気が付かなかった自分が恨めしかった。
もしさとりの元に呼び出されたのが永琳や紫だったならすぐに分かったのだろうに。
「それをやったって、問題を先延ばしにしただけじゃないの?」
「少なくとも、何もしなかったお姉ちゃんよりはよっぽどましよ」
それを言われると、霊夢には返す言葉がなかった。
あくまで彼女は部外者なのだから。
自分の知らない事情にまで立ち入るのは、さすがにできない。
「だから、お姉ちゃんを助けてあげるの。そうすれば、お姉ちゃんもお空のことがちゃんと分かるようになるわ」
「けどね」
さとりと、彼女に近付いていくこいしとの間を遮るように、霊夢はお祓い棒を差し込む。
「あいつは今頑張ってんのよ」
今まで何もしてこなかったとしても、わざわざ霊夢を呼んでまで空を何とかしてあげようとしたのだ。
だからこそ、ここで無駄にさせるわけには行かなかった。
「ついでに言えば、依頼も受けてるから守り通さなきゃいけないわ」
「邪魔するの?」
「ええ」
「そう……」
ゆっくりと、こいしは霊夢のほうを向く。
表情のない顔と瞳からは、いかなる感情も読み取れそうにない。
それでも、少なくとも霊夢に敵意を抱いていることだけは確かだった。
「それじゃ、あなたを倒せばいいのね?」
「やれるものなら、ね。まあとりあえず、表に出なさい」
霊夢は一歩を踏み込み低空飛行で飛び出し、こいしの服の襟を掴むと、窓をぶち破って外に飛び出していった。
……窓の修理代がいくらかかるかなんて気にしないようにしつつ。
さとりは、暗闇の中を落下し続けていた。その周りでは、いくつものモノクロの映像が現れたり、消えたりしている。
それが何なのかというのは、すぐに分かっていた。
それは、空の記憶。
生まれてすぐ、複雑な思考もできず本能で生きていたとき。
時が流れ、本能よりも思考が勝り始めたころ。
燐との出会い。
人型になれるようになったこと。
さとりとの出会い。
いくつもの映像が、流れては消えていく。
そうしているうちに、底が見えてきた。
一見すると闇が広がっているだけにも見えるそこに、さとりは降り立つ。
暗闇だったはずの場所に地面が生まれ、さとりの足を押し返す。
見回してみると、そこは先程までとは違う景色だった。
赤茶けた地面の上に枯れ草が広がり、そこかしこで火の手が上がっている。
空は焼けたかのような茜色だった。
――ここが、お空の心の中……
さとりは一本、枯れ草を手にとってみる。
かつて可憐な花を咲き誇らせていたであろうそれはしおれ、くすんだ茶色に変わっていた。
――つまりお空の心はそういう風に変化していった、という訳なのよね……
寒風が吹きぬけ、手の中の草をさらっていった。
それを少しだけ目で追うと、さとりは歩き始める。
実を言えば、どうすれば空を元に戻せるかなど全く分からなかった。
ここでなら少しは空の心も分かるのではないかと思っていたが……
――とにかく、空に会わなければどうしようもないわ。
そう思ってさとりは空を探すことにした。
――気付いていない訳がなかった。ある日突然増大した空の力。もちろん扱いきれるはずもなく、彼女は日に日に憔悴していった。
しかし、さとりはそれを見過ごした。
彼女は飼い主として信頼されていると思っていたし、心の中まではごまかせる訳がないと思っていたのだから。
それは自惚れだったのかもしれない。
今思い返してみれば、努力を怠っているにも程があった――とさとりは思う。
空が自発的に相談してくるのを待つばかりで、自分からは何一つ動こうとはしなかったのだから。
もしかすると、空は突き放されたと思っているかもしれない。
だから人格を分けて、片方に能力の制御を押し付けたのではないだろうか。
――結局のところ、私は能力に頼りすぎだったのだろう。
そう思ってさとりは歩いていると、二人の少女がいるのを発見した。
まだ輪郭しか見えないが、わざわざ確認するまでもない。
さとりのほかに、この中にいるのは『一人』しか居ないのだから。
近付いてみると、二人の少女はどちらも空だった。
しかし、片方は『第三の足』や『融合の足』を持っているのに対し、もう片方は何も付けていない。
おそらく、八咫烏として、地獄鴉として空自身が分割したそれぞれの人格が形を持ったものなのだろう。
八咫烏の空がこちらに振り向き、少し遅れて地獄鴉の空がこちらを向く。
「今更ここまで何をしに来たの」
「さとり様……? うにゅ、何でいるの?」
それぞれに違った反応を見せる二人の空。
ここは彼女の心の中。読むまでもなく、彼女たちの言葉は心そのものだった。
それに対しさとりは口を開こうとして――
「……っ」
しかし、何も言えない。
確かに、八咫烏の言う通りなのだ。さんざん見過ごして気付かなかったあげく、いまさらここまで来たところで、さとりに何ができるのだろう。
黙っているさとりを見て八咫烏はため息をつき、地獄鴉は心配そうな顔で駆け寄ってくる。
「さとり様、どこか悪いところでもあるの?」
「いえ、大丈夫よ」
「そういえば、ここは私の心の中なのよね」
両腕をだらりと垂らし、その場に立ったままの八咫烏が口を開く。
「なら、ここで貴方を倒してしまえば、ただでは済まないでしょう?」
跳ねるように上げられた『第三の足』はさとりの体の中心を、ぴたりと捉えていた。
目前に迫っている死の恐怖。しかし、さとりは諦めにも似た感情を抱いていた。
――何もしなかった怠け者には、この程度の結末がお似合いなのだろうから。
「……それで貴方の気が済むのなら、私は構わないわ」
「なら、遠慮なく」
言葉とともに、『第三の足』に核エネルギーが収束されていく。
ここでもし死んだとしても、体に傷が付くことはない。
しかし魂を失った肉体など、人形と何も変わらない。
だとしても、自分が招いた結果からせめて目をそらすまいと、さとりは八咫烏を見据える。
そしてそのときを待った。
……しかし。
「……お空?」
地獄鴉は両手を広げ、さとりを守るように立っていた。
二重人格とは、あくまで一つの人格の表に出る部分が変わっているにすぎない。
だから、地獄鴉も止めることはないはずだった。
「そんなの、だめだよ」
「何が駄目だって言うの!? そいつは、私に何もしてくれなかったっていうのに!」
地獄鴉の言葉に、八咫烏は怒りをもって答える。
その通りだった。さとりが何もしなかったからこそ、お空は二重人格になったのだから。
そうでなかったとしても、その怒りは当然だった。
そのはずなのに。
「八つ当たりじゃない、それって!」
地獄鴉の言葉に射抜かれたかのように八咫烏は硬直する。
驚いているのは、さとりも同じだった。
「心配かけたくないからって、私はさとり様のところに行かなかったんでしょ。もっと強く、立派になってからさとり様に会いに行こうって。なのに、さとり様に怒るってヘンじゃない?」
――だとしても、私が何もしなかったのは変わらない。
お空は心のどこかでは、さとりに対して怒りを抱いているはずなのだ。
そうでなければ八咫烏がこんな態度をとるはずないのだから。
「だとしても! 私に何も声をかけてくれなかったのは変わらないじゃない!」
「さとり様が来るたびに隠れてたんだから、声をかけてくれる訳ないでしょ!」
八咫烏の悲痛な叫びに、地獄鴉もまた叫ぶ。
――私は、どうすればいいのかしら……
最初は、お空に撃たれればよいのだろうと思っていた。けれども、今さとりの前には地獄鴉が立ちはだかっている。
つまり、お空が本当に求めているのはもっと別のことのはずなのだ。
……飼い主なら、そのくらい分かっているべきなのに。
「それに! あなたが能天気のままだから、私はいつまでも強くなれなかったんでしょう!」
――そんなはずはない。
強いというと、まず博麗の巫女と、そのすぐ後に来た白黒の魔法使いを思い出す。
しかしどちらも、能天気ではないとは思えない。少なからずそういった部分があったはずだった。
つまり、お空は根本的な部分で勘違いをしているのではないだろうか。
一見賢そうに見えても、やはり根は単純なままなのだ。
なぜかは知らないが、お空は能天気では強くなれないと思い込んでいる。
――これまでの話を聞く限り、お空の原動力は、私に認めてもらうこと。なら……
強くならなければ認めてもらえない、能天気では強くなれない。それを否定してあげればいいのだ。
「いいじゃない、能天気でも」
「でもっ! あの神様は……」
八咫烏は反射的に叫ぶが、その語尾は尻すぼみになっていった。
――なるほど。確かに『強いやつ』ではなく『強い人外』と考えると、確かに能天気なのは少ない。
これまで地底しか知らなかった空なら知っている人妖も少ないのだから、能天気ではいけないと思って当然だろう。
さとりは、八咫烏の言葉を途中で遮る。
「それに能力が制御できていない、という訳ではないのよね?」
「うん」
「ただ、全力は引き出せてないし、たまに加減間違ったりするけど」
地獄鴉は頷き、八咫烏は目をそむける。
「なら、構わないわ」
「でも、さとり様に迷惑を!」
「いいのよ。ペットなんて、手のかかるくらいでちょうどいいんだから」
そう言って、さとりは地獄鴉を抱きしめた。
――ああ、何故私は気が付かなかったのだろう。このたった一言さえあれば、きっとこんな事にはならなかったのに。
「さとり様……」
地獄鴉の目に涙が浮かぶ。そのまま溢れ、声を上げて泣き出す。
さとりは八咫烏のほうに目を向ける。
「『お空』も、こっちにいらっしゃい」
「甘えてもいいの?」
「甘えるのと、強さは関係ないわ。それに、あなたがどれだけ弱かったとしても私は構わないわ」
その言葉を聞いて、八咫烏の目にも涙が浮かぶ。
しかしこちらは泣くのを我慢して、さとりのほうへ歩いてきた。
近付いてきた彼女を、さとりは同じように抱きしめる。
「……なんだか、さとり様に甘えられてるみたい」
八咫烏がぽつりと呟く。
「あ、ホントだ!」
「まあ、言われてみれば……」
さとりよりも空のほうがやや背が高いため、傍から見ると『さとりが空に抱きついている』ように見えてしまう。
それに気付いて、さとりはくすりと笑う。
――やっぱり、別人に見えても根っこは変わらないのね。
「そろそろ帰りましょうか」
「うん!」
「ええ」
さとりの周りに光が集まっていく。
最後に見回してみれば、枯れ草の荒野は色とりどりの花が咲き乱れる草原へと変わっていた。
――これで、いいんですよね。
そう思いながら、さとりは光に包まれていった。
もう少しだけ、ペットにかける言葉を増やそう。そう思いながら。
春告げ精が「春ですよー」などと喚き散らしながら空を駆け回っているのを見る限り、そろそろ冬も終わりということだろう。
――いい加減うるさくなってきたから、そろそろ叩き落してやろうかしら。
縁側でうとうとしながら、博麗霊夢はそんなことを考えていた。
ほんの少し前に『地下から間欠泉と怨霊が吹き出す異変』を解決したばかりだし、妖怪退治の依頼も来ていないので、暇なことこの上ない。
なので、そろそろ日課の境内掃除でもするかと彼女は腰を浮かせる。
と、一匹の猫がこちらへ駆けてくるのが目に留まった。
もちろんただの猫ではなく、尾は二又に分かれ、体にはゆらめく炎のような模様があった。
ぼんやりと見ていると、猫が跳ねた。
空中で一回転すると、その姿は霊夢と同年代の少女へと変じる。しかし完全に人型かというとそうではなく、猫の耳と二又の尻尾が残っていた。
そして膝を曲げ、霊夢の前に音もなく着地する。
「やあやあ、久しぶりだねお姉さん」
ひらひらと手を振る少女は、この前の異変のあと博麗神社に(勝手に)住み着いた火車である。名を火焔猫燐と言う。
「しばらくいなかったみたいだけど、どこほっつき歩いてたのよ」
もっとも、神社に居たからといって食事を出すわけでもないのだが。
別に財布に余裕がない訳ではないが、勝手に住み着いた奴に飯を出すほど霊夢は甘くない。
ついでに言えば、何一つ霊夢に対して貢献していないのだし。
「ちょっとさとり様に呼ばれてね」
「ふーん」
霊夢は適当に頷いて立ち上がり、箒を取りに向かう。燐の近況報告よりも、境内の掃除のほうが今の彼女には遥かに重要だった。
「ああ、ちょっと待った」
「何よ、私はこれから忙しいの」
彼女はその言葉に足を止め、興味なさげに首だけを向ける。一応聞いてみる気だけはあるらしい。
「いいじゃない、掃除なんて今度すれば。ろくに参拝客も来てないんだし」
「あん? ぶっ飛ばされたいのかしら?」
その言葉を聞いて、霊夢の額に青筋が浮かぶ。
彼女だって参拝客がろくに来やしないのを少しは気にしている。それをこうまでハッキリと言われるのは、あまり気分がいいとは言えない。
だから、お灸でも据えてやろうかとお札を取り出しながら一歩前進する。それに対して、燐は数歩下がると、頭を下げる。
「ごめん、言いすぎましたっ」
「別にいいわよ。客がろくに来ないのは事実だし」
お札を懐にしまいなおしながら、霊夢は言う。
まあ実際のところ、大して怒っているわけでもない。ただのおふざけのようなものだった。
「んで、何か用?」
「さとり様がね、博麗の巫女を連れて来いって言うんだよ」
「それなら、あいつがこっちにこりゃあいいでしょう。どこぞの姫君じゃあるまいし」
もっとも、今はその姫君も出歩かないという訳ではないのだが、それはまた別の話である。
地霊殿まで行くのはあまり楽な道のりとは言えない。その逆も然りなため、さとりが面倒臭がるのも無理はないが、それはこっちだって一緒である。
しかし、妖怪であるさとりが博麗の巫女に頼むことなどなさそうなものなのだが……
「ほら、さとり様ってあんま賑やかなところは行かないじゃん?」
「ここがにぎやかってんなら、人里に行こうものなら鼓膜が破裂するでしょうね」
――鼓膜が破裂するものなのかどうかは知らないけどね。
それは置いておくとして、確かに彼女が持つ能力を考えれば、人が集まる場所を避けるのはおかしいことではないだろう。
そもそも博麗神社に人が集まるかどうかというのは置いておくとして。
「そう言う意味じゃないんだけど……まあ、あくまで比喩って事で」
「それで、用件は何?」
霊夢に聞かれて、燐は少しうつむく。
「それが、あたいには教えてくれなくてね……とにかく連れて来い、の一点張りでさ」
その声には残念そうな響きが含まれていた。何かしら良くないことが起こっていると考え、彼女なりにあるじの身を案じているのだろうか、と霊夢は思う。
「あいつが何企んでるのかは知らないけどまあいいわ。どうせ暇だし」
その言葉を待ってましたとばかりに燐は飛び上がる。そして木のてっぺんあたりで静止して、
「それじゃ、さっそく出発しよう! もたもたしてたらさとり様が待ちくたびれちゃうよ!」
くるりと身を翻すと飛翔していった。
「まったく、騒がしいったらありゃしない」
――まあ、そういうのは嫌いじゃないんだけど、と心の中で続けて霊夢も飛び上がると、その後を追う。
そのとき、何者かの視線を感じた。静止し、即座に辺りを見回す。
しかし視線はおろか、気配すらもあたりには無かった。
――気のせいかしら。もしくは紫の奴かしらね。
そう思うことにして、燐を追いかけることにした。
ついでに、いい加減我慢の限界に来ていた春告げ精を打ち落としておいた。
所は変わって地霊殿。
霊夢はかつて飛んで抜けた廊下を、絨毯を踏みしめながら自分の足で歩いている。
燐は玄関まで連れてくると、どこかへ行ってしまった。あくまで主に命じられていたのはここまでの案内まで、ということなのだろう。
こうして落ち着いて見てみると、こちらも紅魔館に負けず劣らず豪華な館だと思う。
違いがあるとすれば、紅魔館ですれ違うのは妖精メイドであり、地霊殿ですれ違うのは獣であるという点だろうか。
ある意味主の趣味の違いが大きく出ている、と言えるかも知れない。
――こんだけ財産があるんなら、うちの神社にも多少は奉納して欲しいんだけどねぇ……
などと霊夢が考えていたその時。
「そう言われましても。調度品を賽銭箱に入れられたって困るだけでしょう?」
――それは、完全に反射での行動だった。
懐から退魔の針を取り出すと、声がしたほうに振り返りつつ狙いを定めず投げる。
その腕の振りを利用して、袖の中に仕込んでいた大量のお札を放ち、弾幕の密度を上げる。
さらに結界を展開し、弾幕を抜けてきた相手に対してカウンターで結界での打撃を放つ――
その前に、相手に敵意がないことに気が付いた。
とはいえ、放った弾幕は止められない。霊夢は相手が回避してくれるのを祈る。
それから数呼吸ほどの時間が過ぎた。
「すみません。少し驚かせてしまいましたね。博麗の巫女の背後なんて取るものではないようで」
弾幕の波が過ぎ去った後、霊夢から十歩ほど離れた場所に、苦笑を浮かべた少女が立っていた。
見た目の年齢こそ霊夢とそれほど変わらないが、実際は霊夢の数十倍は生きている。
この幻想郷ではさして珍しくない、人にあらざる物の怪。
それが彼女、地霊殿の主、覚の古明地さとりだった。
どうやら完全に避けきれたわけではないらしく、体のところどころに浅い切り傷があり、服も少しくたびれている。
どこから見ても、弁解の余地なく完璧にこちらの責任だった。
どう謝ったものかと、霊夢は言葉を探す。
「いえいえ、よりにもよって貴方の死角から声をかけてしまった私にも責任はあります」
しかし、探すまでもなく謝罪の意は伝わった。
さとりに会うのも二度目となれば、霊夢もさして驚かない。
覚であるさとりには、胸の近くにある『第三の目』によって他人の思考を読めるという能力が備わっているのだった。
もっとも、実際に『第三の目』で読んでいるのかは彼女は知らないのだが、その『第三の目』を閉じているさとりの妹は心を読めないあたり、重要な部分ではあるのだろう。
「立ち話もなんですから、こちらへどうぞ」
さとりは振り返って歩き出す。
――こいつがわざわざ私に頼み事なんて、一体何をやらせるつもりなのかしら……
わざわざ霊夢を呼ぶ必要があるほどの用件とは何か考えながら、霊夢はその後ろを歩いていった。
さらに場所は変わって地霊殿の一室。
霊夢とさとりはテーブルを挟んで、向かい合わせで座っている。
お互いの前には、優雅な装飾のティーカップが置かれていた。
これだけ洋風となると注がれるのは間違いなく紅茶だろう。……と霊夢は思っていた。
が、さとりがティーポットで注いでいくのは紅色ではなく、透き通った緑だった。
――緑茶なのだろうか。
「ええ。玉露です」
そう言って、さとりは得意げな顔をする。
普通の相手と違って、こちらは頭の中で考えるだけでいいのだから会話が楽でいい。と霊夢は思う。
「……なるほど。そういう考え方の人も居るんですね」
微笑みながら自分の分も注ぐと、さとりは椅子に座る。
――コイツは、いったい何の用があって私を呼び出したのやら……
玉露を一口すする。ほのかな甘みと、それを引き立たせるかのような渋みが広がっていく。
普段の出涸らしとは一味違った味に、霊夢の顔もついほころぶ。
「それはもう少し後でもいいです。それよりもお茶の味を楽しみたいのでしょう?」
玉露を口に運びながら、霊夢は何となくあたりを見回す。
……この玉露、決して安いものではないだろう。
それにこの調度品、一体どうやって手に入れているのだろうか?
「前に間欠泉が吹き出したのは覚えていますね? 地霊殿の近くにもいくつか吹き出しましてね」
さとりの目が窓の外のほうを向く。
「それらの内いくつかが、どうやら温泉だったようで。私のペットのうち、お燐やお空以外にも何人か人の姿をとれるようになっている者がいますので、彼らの手を借りて地底の妖怪向けに宿を開いてみたところ、これが大成功だったんです」
確かに、鬼なら相当豪勢に遊んで帰るだろうから、儲けるのは簡単だろう。
――あれ? もしかして、地上に吹き出した間欠泉を利用すれば私も……
「貴方には、低賃金でも文句を言わずに働いてくれる人がいるんですか?」
「うっ」
そういわれると、霊夢には返す言葉もなかった。
人徳の差なのかしら……と考えつつ彼女はカップを傾ける。
しかしカップは空だった。
「お代わりならありますよ」
霊夢がテーブルの上にカップを置くと、また玉露が注がれていく。
――そろそろ菓子でもねだろうかしら。
そんな事を考えていると、さとりの表情が引き締まった。
「そろそろ本題に入りましょうか」
さとりはテーブルの上に空になったカップを置く。
ゆるやかになっていた時を元に戻すように、ことり、と音が鳴った。
「お空のことで、貴方に頼みがあるのです」
そう言われて、霊夢はこの前の異変を思い出す。
霊烏路空。この前の異変の『表向きの』首謀者であり、八咫烏の力をその身に宿す妖怪鴉。
――私に頼むって事は、またあいつが暴れているってことかしら。
「いえ、そうではありません」
さとりは考え込む仕草をする。
「どこから話し始めればよいのでしょうか……いえ、それは今度でいいですね」
ブツブツと何事か呟いていたかと思うと、霊夢のほうに向き直った。
「単刀直入に言います。彼女の治療に、手を貸してください」
「治療?」
――あの元気の塊のようなやつをねえ。
霊夢が思い返す限り、どこも悪そうなところはないはずだが……
「本当にそう思いますか?」
よく考えてみる。しかし、霊夢とて伊達に博麗の巫女をやってきた訳ではない。
どこか体が悪ければ、多少なりとも動作にぎこちなさが出る。
しかし、そういった動作はなかったはずだった。
「いえ、肉体ではなく精神です」
精神のことも考えてみる。確かに頭のネジが二、三本くらい外れていそうだが、それは関係なさそうなので除外。
となると、こちらも特に思い当たる節がない。
するとさとりは、仕方ないですね、とでも言うようにため息をついた。
「分かりました。では霊夢さん、二重人格――という言葉をご存知ですか?」
二重、というからには人格が二つ、ということなのだろう。確かに空は裏表の激しい性格だと霊夢は思っていたが……
「あなたが考えていることは概ね正解です。お空は、二重人格……正しく言うのなら、解離性同一性障害なのです」
と言われても、霊夢にはさっぱり理解できなかった。
まず二重人格と言う言葉もほとんど馴染みがないのに、カイリセイドウイツ何たらとか言われても理解できるはずがなかった。
「でしょうね。この幻想郷では、あまり馴染みのない言葉でしょうし」
幻想郷では、ということは外の世界の言葉なのだろう。ならば、自分が知らないのも無理はない、と霊夢は納得する。
――なら、さとりはどこで知ったのかしら。
「香霖堂ですよ。私の本を置いてもらう代わりに、外界から流れ着いたというそういった本を貰っているのですよ。私は他者の心を知る妖怪ですから、心を読めない人間が心を分析した結果を読む、というのもなかなか面白いものです」
香霖堂に訪れた、ということよりもさとりが普通に地上に出てきていることのほうが霊夢には驚きだった。
――人間嫌いのひきこもりだっていうのに、よくもまあそんな気になるものね。
私の本という気になる単語も出たが、聞くのは今度でいいだろう。
すると、さとりが苦い顔をする。
「ずいぶんと失礼なことを言ってくれますね。ひきこもりは余計です」
「言ってないんだけど……まあ、ごめんなさい」
こういうときは素直に自分の非を認めるのが一番である。
魔理沙ならここで開き直りかねないが、霊夢には真似出来そうもないし、そもそもそんな所は真似したくない。
「とまあそれは置いておくとして、二重人格についての簡単な説明をしましょう」
さとりはこほん、と咳払いする。
霊夢はあまり長話が好きではないのだが、さとりに言っても聞く性質ではないだろう。
なので、黙って傾注しておくことにする。
「人は何か大きなショックを受けたとき、無意識にそれを受けたのでは自分でない、と考えたり、その記憶を切り離したりすることで自己を守ろうとする働きがあります。これは、ある程度精神構造が似ている妖怪にもあるようですね。その時分かれた『もう一人の自分』が心の中で成長し、まるで別の人格のようになってしまうことがあります。これを、解離性同一性障害と呼ぶのです」
――大きなショックっていうのは、何なのかしら。
「お空の場合、たぶん『八咫烏の力を手に入れた』なのでしょうね」
――なるほど。でも、あんまり害があるようには思えないんだけど。もう一人の自分って何だか面白そうだし。
「ところが、これは精神に対してとても大きな負担になるんです。『もう一人の自分』とは言っても、あくまでその人の一部分。人格が分かれた状態で過ごし続けていると、精神を病んで倒れてしまうことさえあるとか」
そんなことがあるのだろうか、と霊夢は思う。
精神が主である妖怪がそのようになるならまだ分からないでもないが、外の世界の書物に書かれていたということは、人間に対して起きていることになる。
――外の世界の人間ってのは、妖怪みたいなものなのかしらねー。そもそも、外の世界はこちらより文明が進んでいるはずなのに、ストレスなんてものがあるのかしら。
文明が進めば進むだけストレスは減るというのが霊夢の認識だった。そうでもなければ、文や早苗はあんなノーテンキじゃないだろう。
そんな霊夢の思考は無視することにしたようで、さとりは続ける。
「燐から話を聞く限り、お空の人格の乖離は日に日に深刻になっているようですし。ですからもうあまり猶予はなさそうなのです」
どうやら、事態は思っていたよりも深刻らしい。そろそろ霊夢も本腰を入れるべきのようだ。
さっきから飲み続けていた玉露をテーブルの上に置く。
「で、私に何をしろと?」
「空を私の元へ連れてきてください」
「あんた自身で行けない理由は?」
霊夢の切り返しに、さとりの表情が曇る。
「どうやら、あの子は八咫烏の力を手に入れてから私を避け続けているようなのです。なので警戒が薄く、なおかつ戦いになったとしても、本気の彼女を倒せるであろう貴方なら……と思ったのですが」
「……少し趣向は違うけど、それって妖怪退治の範疇に入るでしょう? なら、しかるべき報酬が出るならいいわよ」
――これじゃあまるで薄情者ね。と、霊夢は自嘲気味に思う。
とはいえ、別に霊夢は守銭奴だからこう言っている訳ではない。一度ただで依頼を受け、その話が外へと広がってしまえば二度、三度とただでやらなければいけなくなる。そうすれば、すぐに生活は立ち行かなくなってしまうだろう。
博麗神社での収入が期待できない以上、彼女は生活を妖怪退治に頼るしかないのだから。
「そうですか。ならば、私が所有するいくつかの宿全てで使える、一年間のフリーパスというのはどうでしょう? ただ単に金銭を貰うよりもいいと思いますが。もちろん、友人を誘っても構いません」
確かにそうだ。霊夢の友人に地底に入って来れない、というような軟弱な人妖は一人も居ないのだから、長い目で見ればそちらのほうがお得だろう。
「じゃあ、それでいいわ。お空が居る大体の場所の見当は付いてる?」
「ええ。私が行くと隠れられてしまうのですが、恐らくこの時間なら火焔地獄跡で仕事中でしょう」
「そうなの」
それだけ言うと、霊夢は立ち上がる。
やると決めた以上は、のんびりしている訳には行かないのだから。
「何か聞いておきたいことはありますか?」
さとりはそう問いかけてきた。
霊夢は考える。が、特になさそうだった。
踵を返すと、扉に向かう。
「そうですか。では、よろしくお願いします。ああ、それと」
呼び止められ、霊夢は立ち止まる。
「お燐が言ってましたが、お空がまた何か企んでいるようです。連れてくるついでに懲らしめておいてください」
それを聞くと彼女は部屋を後にして、廊下を歩き始めた。
歩を進めながら、さとりの言葉を思い返していく。
――なんか引っかかるんだけどねえ……
言葉にできない直感のようなものが、何か引っかかりがあると彼女に思わせる。
けれども、それを考えようとしても、思考の網からするりと抜けていってしまう。
その時。
――また、か。
博麗神社のときと同じ視線を感じた。
しかし、いややはりと言うべきか、見回すと視線も気配も感じられなくなる。
霊夢はため息をつく。
私が今考えるべきは、空をどう倒すかだ。自分にそう言い聞かせる。
それでも、引っかかりは消えるどころかますます大きくなった気さえする。
「……本当に、引っかかるわね」
それだけ呟くと霊夢は歩くのをやめ、近くの窓を開く。
地底の生暖かい風を肌で感じながら、地底の空へと飛び出していった。
あまりの暑さに汗はとめどなくあふれ出し、こぼれ落ちては蒸発していく。
――灼熱地獄『跡』というには、ちょっと活気がありすぎるわよね。
かつて戦った相手を思い出しながら、霊夢はたたずんでいた。
わざわざこちらから探さなくとも、ここに居ればあちらから来てくれるはず、と踏んだのだが……
そう思ったその時、霊夢の目の前を烈風が駆け抜けた。
髪の毛や裾が激しくはためくが、彼女は意に介さない。
烈風の発生源は霊夢と同じ高さで止まると、翼を広げて風を撒き散らす。
誰であるかなど、わざわざ聞くまでもなかった。
「こんなところに、博麗の巫女が一体何の用かしら」
八咫烏を宿す妖怪鴉、霊烏路空は自信に溢れた表情で、霊夢を見据えてそう言った。
何となく無理だとは分かっているが、それでも説得を試みてみる。
「あんたの主が、あんたを連れてきて欲しいってさ」
その言葉に、空は鼻で笑って返す。
「はい分かりました、って言うとでも?」
――いくらなんでも、この反応はおかしいわよね。
霊夢が知る限りの空は、さとりにある程度の敬意を払っていた。それがこの反応と言うことは、どうやらさとりが言っていたのは本当だったようだ。
「私は、弱い『お空』を切り捨てる。そうすれば、私の力は完全になり、今度こそ私は貴方を倒すことができる」
「前回と目的変わってるじゃない」
「ええ。力は十分試すことができたもの。だから、私はこの力を知らしめる」
「で、何をしようって言うのよ」
「地底の妖怪を地上へ解き放つ。腑抜けた地上の妖怪たちは一掃され、妖怪の真実の姿を愚かな賢者達は知ることになるわ」
どこから仕入れてきたのか、前よりも語彙が豊富になっているようだった。
だからと言って、理知的になったかと言えばそうでもなさそうだ。
どれほどの力を持っていたとしても、幻想郷の賢者達、正真正銘の化け物に一人で立ち向かえるはずがない。そもそも、地底の妖怪達に地上に出る気があるとも思えなかった。
だから空の言葉は大言壮語もいい所だが、かといって見過ごせる訳でもない。
「そう、ならやることは決まったわ」
霊夢は、これまで常に携えてきたお祓い棒を懐から取り出す。そして空に突きつける。
「さとりの依頼は後回し。博麗の巫女として、あんたを倒させてもらうわ」
霊夢が放つ霊力が、空気を軋ませる。並みの妖怪なら尻尾を巻いて逃げ出すであろう重圧を、空は平然と受け止める。
対して空が放つ熱が、空気を熱して歪ませる。しかし霊夢もまた、恐怖一つ感じることなく佇んでいた。
「私は前の私とは違う。より輝きを増した神の光、核融合の熱。その身で味わってフュージョンし尽くせ!」
「やれるもんならやってみなさいよ。あんたの力、あんたの野望。全部まとめてひっくるめて、私が退治してあげるわ」
お互いがゆっくりと力を溜めていく。
そして次の瞬間――
「天の力に焼かれろ、大地の巫女!」
「地面に這い蹲りなさい、空虚の烏!」
二人の言葉は重なり、そして同時に飛び出した。
霊夢は札と針ですぐさま弾幕を展開する。
それは確実に相手を追い詰める、精緻の極みとも言えるものだった。
しかし直感で危機を察知し、霊夢は大きく右へ動く。
その直後、弾幕を吹き飛ばしながら彼女のいた位置を光球が突き抜けた。
誘導の類を警戒し、霊夢はそちらを見る。
しかしどうやらその類ではないらしく、そのまま彼方へと消えていった。
「核熱」
――しまった! さっきのは囮!
大火力を警戒しすぎるあまり、こんな単純な罠に引っかかるなんて……霊夢は内心舌打ちする。
彼女は即座に回避運動を行う。
その動作の起こりを狙うように、空は叫ぶ。
「核反応制御不能ダイブ!」
そう宣言した直後、空は核エネルギーを纏い、高速でこちらに突撃してきた。
軌道はなんの衒いもない一直線。しかし、速度が桁違いすぎる。
――回避は間に合わない、ならこっちも!
「夢符『二重結界』っ!」
目の前に突き出した霊夢の両手を中心に、複雑な模様が描かれ結界となる。
そこからさらに結界を重ね、二重となった結界で空を受け止める。
しかしその勢いは止まらず、霊夢を押しながら飛翔していく。
「どこに行くつもりよ!」
高熱と結界がせめぎ合う音に負けないように、霊夢は声を張り上げる。
「もっと人気の多いところよ! 私の力を示さなくては、地底の妖怪の意気は上がらない!」
そもそも彼女に付いてくるほど地上に戻りたいと思っている妖怪がいるのか、とは思うが言ったところで彼女は聞き入れないだろう。
結界が砕けないように維持しつつしばらく飛んでいると、地獄街道の辺りに着いた。
空は横回転し、右手の『第三の足』で霊夢を弾き飛ばす。
そこでさすがに限界だったのか、結界が砕け散った。
霊夢は縦に一回転し、吹き飛ぶ勢いを殺す。顔を上げたときには、空が目前に迫っていた。
――速い!
杭のように胸めがけて叩き込まれる左足を、お祓い棒で後方へ流す。
続いて、高熱を纏った『第三の足』が振り下ろされる。光の剣にも見えるそれは、直撃すれば霊夢などたやすく塵にすることができるだろう。
しかし顔色一つ変えず、彼女は冷静に後ろに下がり、紙一重でかわす。
直後、開いた空の顎を打ち抜くように、霊夢は昇天脚を放つ。
直撃すれば確実に意識を刈り取る一撃。しかし、首の振りだけでかわされた。
勢いでやや上に飛び出し、霊夢に隙が生まれる。
そこを狙い、空は上方の霊夢に『第三の足』を向ける。眼前に突きつけられたその先端には、核エネルギーが球状に集められていた。
「――ッ!」
すぐさまいくつもの対処法が浮かぶが、それよりも速い反射で、霊夢はお祓い棒を右から左に払う。
『第三の足』の中ほどに当たり、狙いが左に逸れる。
直後、放たれた光線が霊夢の左頬をかすめて駆け抜けていった。
光線が消失し、お互いが後方へ下がる。
どうやら地獄街道で呑んでいた鬼たちが気付いたらしく、地上から快哉が飛んできた。
「格闘戦はあまり趣味じゃないんだけど」
「あまりあなたに付き合っている訳にもいかないのよ」
そう言って、空は不敵に笑う。
「だから、これで終わりにするわ」
彼女の体が輝きを放ち始める。核エネルギーが収束され始めているのだ。
恐らくは溜めて解放するタイプのスペルだろう。
もちろん、むざむざと発動させるつもりはない。
「簡単にそうさせると思ってるのかしら……霊符!」
霊夢の体から十の光球が放たれ、彼女を取り囲む。
「夢想封印 集!」
その言葉と共に光球が飛んで、空を全方位から囲む軌道で飛翔し、同時に殺到する。
それに対し空は前に出る。わずかな隙間をくぐると、振り返りもせずに後方に核エネルギーを放射する。
放たれたそれは彼女を追う光球の先頭に激突し、後ろも巻き込んで爆発した。
もちろん、霊夢も直撃するとは思っていない。その隙を狙い、打撃を加えるために零距離に飛び込む。
しかし。
「もう遅い」
それは、死刑宣告のように重々しく響き渡った。
「アビスノヴァ!」
その直後。
空を中心に、地底に太陽が顕現した。
しかしその熱は辺りを焼く事なく、その球体の内部のみで荒れ狂う。
しばらくして空の熱放射が終わり、太陽は消失する。
防御も回避も叶わない獄熱。霊夢は、塵一つ残さず消失している……はずだった。
「見事ね」
声は、空の下方から。
そこには、陰陽球の衛星に囲まれた、一切の傷がない霊夢の姿があった。
あれほどの高熱の中で、裾一つ乱れていない。
「何故……どうして……っ!」
歯噛みする空に対して、霊夢はあくまでも冷静な表情だった。
もっとも、内心はそれほど余裕ではない。
スペルの内容に気付くのがあと数秒ほど遅れていたら、彼女は塵と化していたのだから。
「そこまでのものを出されたら、私だって全力で答えるしかないでしょう」
言い放つ霊夢の姿は半透明で、向こう側が透けている。
それはまるで――この世の存在ではないようだった。
「勝ちたいのなら――時間切れまで、耐えてみなさい」
弾かれるように、霊夢は空へ向けて飛び出した。
「くうっ!」
空はすぐさま無数の光球で弾幕を展開する。
圧倒的な物量の前に、今度こそ霊夢は捉えられる……そのはずなのに。
霊夢は弾幕をたやすくすり抜けていき、当たるはずの弾は彼女『を』すり抜けていく。
「くそっ……消えろおおぉぉぉっ!」
空はさらに密度を上げる。それは弾幕を通り越し、もはや壁も同然だった。
回避不能なはずの弾壁。しかし、霊夢はそれを抜けた。
そして空の前で一瞬だけ止まり、札を叩きつける。直後には、残像を残して消えていた。
札の効力によって、空は一瞬だけ動きが止まる。しかしそれはまだ取り返せないほどではない。
距離を離そうと後方へ飛ぼうとして、右足に何かが纏わりついていると気付いた。即座に熱を放ち、纏わりついた何かを焼き尽くす。
それでの遅れはほんのごくわずかなものだが、しかしあまりにも命取りだった。
直後。上方、下方、前後左右の全てから空に向けて札が飛ぶ。
飛んでくる間隔は少しずつ短くなり、最終的には全方位からほぼ同時に襲来した。
回避することもできず、無数の札によって空の体は拘束される。
「残り5秒。よく頑張ったわね」
そして、やや離れた位置に霊夢が止まり、何かを薙ぎ払うようにお祓い棒を振る。
「夢想天生」
そして意趣返しかのように、札が巨大な光球となって爆ぜた。
戦いは霊夢の勝利に終わった。
とはいえ、それほど楽な戦いでもなかった――と、彼女は分析する。
その足元では墜落した空がうつぶせに寝転がっていた。
「おーい。起きろー」
何の返事もない。多分気絶しているのだろう。
そう思ってつま先で軽く小突いてみる。
「う、うーん……」
どうやら、目を覚ましたようだ。
空は目をぱちくりさせる。と、跳ね起きた。
「うにゅ!? ここどこ!?」
目を丸くして辺りをきょろきょろと見回すさまは、とても先程までと同一人物とは思えなかった。
「覚えてないの?」
霊夢が聞くと、空はぶんぶんと首を振る。
やけに愛嬌のある仕草に、霊夢の頬が少し緩む。
「今日のお仕事に出かけたところまでは覚えてるんだけど……」
――これじゃあ本当に人格が二つあるみたいね。そう霊夢は考えて、一つの可能性に思い当たる。
「とりあえず、あんたのご主人様が呼んでるから一緒に来てくれる?」
「さとり様が!? わかった、すぐ行く!」
空は目をきらきらと輝かせるとさっきまでの態度が嘘かのように、地霊殿に飛んでいった。
駄目元で言ってみたのだが、まさかこうも簡単だとは思ってもみなかった。
霊夢も追おうと一歩を踏み出す――そこで、固まった。
「……いい加減にしなさいよ」
呟いたその声には、明らかに怒りが含まれている。
また、あの視線だった。
やはり見渡してみても視線も気配も感じられない。
――いっその事ここらへん一帯を吹き飛ばしてやろうかしら……
広範囲・大火力攻撃はどちらかと言うと魔理沙の専門なのだが、霊夢にもできない訳ではない。
「いや、ないない」
――なに物騒な事考えてるんだか。
相手が何を考えているのかは分からないが、さすがにそこまでする必要もないだろう。
首を振って思考を追い払うと、霊夢は飛んでいった。
先程さとりと話した部屋に戻ると、そこにはもう空が居た。
さとりの位置は変わらず、さっき霊夢が座っていた椅子に代わりに空が座っている。
霊夢が入ってきたのに気が付いて、さとりは霊夢のほうを向く。
「ありがとうございました。これでお空の治療ができます」
「そっちの空のときは意外と簡単についてきてくれたわよ? 私を呼ぶ必要あったのかってくらいに」
「分かってはいるのですが、こちらのお空に接触する前にいつも交代されてしまいましてね……」
「ふーん」
二人の会話が理解できていないようで、空は首をかしげる。
「それでさとり様、何で私を呼んだの?」
「ああ、あと少し待ってちょうだい。それで、貴方に頼みがあるんです」
「まあいいわよ。ここまで来たんだし」
「これから私はこの子の心の中へ潜ります。恐らく外界に気を配ることはできなくなると思いますので、その間見ていてください」
「了解。任しときなさい」
「お願いします」
霊夢に会釈すると、さとりは空のほうを向く。
「それじゃお空、私の目をよく見て」
「はいっ! ……あれ、何だか、眠く……」
その言葉を最後に、空とさとりが同時にテーブルに倒れ込んだ。
さとりは見ていろと言っていたが、わざわざこんな所までさとりを襲いに来るなんて輩はいないだろう。
かといってすることもないので、霊夢はすぐに暇を持て余し始めた。
――そういえば、なぜ空はさとりに怒っていたのかしらねえ。……まあいいわ。それはさとりが解決してくれるだろうし。とりあえず茶でも飲もうかしら。
身を翻して、台所を探そうと歩き出したそのとき。
「……なるほどね」
また、あの視線だった。
振り返るがもちろん誰も居ない。
それを確認すると、あくびでもするように大きく伸びをし――
がきん、と。
何かがぶつかる音が辺りに響いた。
霊夢は自分の推測が正解であることを確かめるために、首から上だけで背後を確認する。
予想通り、袖の中に仕込んでおいたお札で鈍く輝く鉄の刃――ナイフが止められていた。
「あれ? 気付いてないかと思ってたのに」
もし阻むものがなければ、ナイフは霊夢の首筋に突き立っていただろう。
防がなければ霊夢は死んでいたというのに、それをまったく悪びれる様子のない声。
『第三の目』を閉ざしたさとりの妹、古明地こいしだった。
視線の正体は彼女である。心を読む能力を失う代わりに手に入れた無意識を操る能力を使うことで、周りに気付かれないようにしていたのだろう。
「私じゃなけりゃたぶん気付かないわよ。それに、運よくたまたまあんたが近くに居るときに限って何も考えてなかったっていうのもあるし」
無意識を意識する、というのは簡単なことではない。
余程のことがない限り、意識したときにそれは無意識ではなくなってしまうのだから。
というよりも、単純に言ってしまえば『勘』である。
「んで、なんであんたはそんな物騒なもの持ってる訳? まさか、それで私を殺す気だったとか言わないわよね?」
まだ会ったことは数回しかないが、こいしの性格からして、首を縦に振ってもおかしくないと霊夢は思っていた。
こいしは首を振る。
「これはね、お姉ちゃんを助けるためなの」
「そりゃあ初耳ね。さとりに被虐趣味があったとは」
「そうじゃないの。お姉ちゃんは心が読めるでしょ? でもね、お姉ちゃんは他人の事が分からないの。どうしてだと思う?」
「哲学は嫌いなのよ。そういうのは紫とかと話してなさい」
そう言って霊夢は手で追い払う仕草をする。が、こいしは無視して続ける。
「心が読めるから、お姉ちゃんは人の顔を見ようとしないのよ。いつも眠たげな顔してるでしょ? お姉ちゃんは他人の顔なんてどうでもいいと思ってるの」
確かに、さとりはいつも眠たげに目を細めていている、と霊夢は思い返す。
――どうでもいい、とまでは思ってないと思うんだけどねえ……
しかし、妹であるこいしのほうが霊夢より遥かにさとりとの付き合いが長いのだ。それならば、本当の事なのかもしれない。
「例えばの話をしましょう。もしも、あなたとお空が入れ替わったとする。そしたらみんなはどんな反応すると思う?」
「驚くわね、当然」
「そうでしょうね。でも、お姉ちゃんは違うの。貴方たちの心しか見ていないから、いつも通りのままなのよ」
霊夢は別に、それが悪いことだとは思えない。人それぞれの見方というものがあるのだから。
しかし、姉を咎めるような響きをもってこいしは続ける。
「だから、お姉ちゃんは気付かなかったのよ。お空はあんなに苦しんでいたのに。心の中が元気だからって、お空の顔を見てあげようとしなかったから。空元気って言葉を知らなかったのよ、きっと」
いつの間にか、こいしの姿は消えていた。
また不意打ちされてはたまらないと、霊夢は辺りを見回す。
すると、こいしはお空の隣に移動していた。
彼女は愛おしげに空の頭をなでる。
「それなら、私がお空を助けてあげようって思ったのよ。嫌なことを早く忘れて、元気になれるようにって」
その時、霊夢の頭の中の引っかかりの理由が分かった。
さとりの言葉が思い出される。――無意識にそれを受けたのでは自分でない、と考えたり、その記憶を切り離したりすることで自己を守ろうとする働きが――
それを聞いたとき、すぐに気が付かなかった自分が恨めしかった。
もしさとりの元に呼び出されたのが永琳や紫だったならすぐに分かったのだろうに。
「それをやったって、問題を先延ばしにしただけじゃないの?」
「少なくとも、何もしなかったお姉ちゃんよりはよっぽどましよ」
それを言われると、霊夢には返す言葉がなかった。
あくまで彼女は部外者なのだから。
自分の知らない事情にまで立ち入るのは、さすがにできない。
「だから、お姉ちゃんを助けてあげるの。そうすれば、お姉ちゃんもお空のことがちゃんと分かるようになるわ」
「けどね」
さとりと、彼女に近付いていくこいしとの間を遮るように、霊夢はお祓い棒を差し込む。
「あいつは今頑張ってんのよ」
今まで何もしてこなかったとしても、わざわざ霊夢を呼んでまで空を何とかしてあげようとしたのだ。
だからこそ、ここで無駄にさせるわけには行かなかった。
「ついでに言えば、依頼も受けてるから守り通さなきゃいけないわ」
「邪魔するの?」
「ええ」
「そう……」
ゆっくりと、こいしは霊夢のほうを向く。
表情のない顔と瞳からは、いかなる感情も読み取れそうにない。
それでも、少なくとも霊夢に敵意を抱いていることだけは確かだった。
「それじゃ、あなたを倒せばいいのね?」
「やれるものなら、ね。まあとりあえず、表に出なさい」
霊夢は一歩を踏み込み低空飛行で飛び出し、こいしの服の襟を掴むと、窓をぶち破って外に飛び出していった。
……窓の修理代がいくらかかるかなんて気にしないようにしつつ。
さとりは、暗闇の中を落下し続けていた。その周りでは、いくつものモノクロの映像が現れたり、消えたりしている。
それが何なのかというのは、すぐに分かっていた。
それは、空の記憶。
生まれてすぐ、複雑な思考もできず本能で生きていたとき。
時が流れ、本能よりも思考が勝り始めたころ。
燐との出会い。
人型になれるようになったこと。
さとりとの出会い。
いくつもの映像が、流れては消えていく。
そうしているうちに、底が見えてきた。
一見すると闇が広がっているだけにも見えるそこに、さとりは降り立つ。
暗闇だったはずの場所に地面が生まれ、さとりの足を押し返す。
見回してみると、そこは先程までとは違う景色だった。
赤茶けた地面の上に枯れ草が広がり、そこかしこで火の手が上がっている。
空は焼けたかのような茜色だった。
――ここが、お空の心の中……
さとりは一本、枯れ草を手にとってみる。
かつて可憐な花を咲き誇らせていたであろうそれはしおれ、くすんだ茶色に変わっていた。
――つまりお空の心はそういう風に変化していった、という訳なのよね……
寒風が吹きぬけ、手の中の草をさらっていった。
それを少しだけ目で追うと、さとりは歩き始める。
実を言えば、どうすれば空を元に戻せるかなど全く分からなかった。
ここでなら少しは空の心も分かるのではないかと思っていたが……
――とにかく、空に会わなければどうしようもないわ。
そう思ってさとりは空を探すことにした。
――気付いていない訳がなかった。ある日突然増大した空の力。もちろん扱いきれるはずもなく、彼女は日に日に憔悴していった。
しかし、さとりはそれを見過ごした。
彼女は飼い主として信頼されていると思っていたし、心の中まではごまかせる訳がないと思っていたのだから。
それは自惚れだったのかもしれない。
今思い返してみれば、努力を怠っているにも程があった――とさとりは思う。
空が自発的に相談してくるのを待つばかりで、自分からは何一つ動こうとはしなかったのだから。
もしかすると、空は突き放されたと思っているかもしれない。
だから人格を分けて、片方に能力の制御を押し付けたのではないだろうか。
――結局のところ、私は能力に頼りすぎだったのだろう。
そう思ってさとりは歩いていると、二人の少女がいるのを発見した。
まだ輪郭しか見えないが、わざわざ確認するまでもない。
さとりのほかに、この中にいるのは『一人』しか居ないのだから。
近付いてみると、二人の少女はどちらも空だった。
しかし、片方は『第三の足』や『融合の足』を持っているのに対し、もう片方は何も付けていない。
おそらく、八咫烏として、地獄鴉として空自身が分割したそれぞれの人格が形を持ったものなのだろう。
八咫烏の空がこちらに振り向き、少し遅れて地獄鴉の空がこちらを向く。
「今更ここまで何をしに来たの」
「さとり様……? うにゅ、何でいるの?」
それぞれに違った反応を見せる二人の空。
ここは彼女の心の中。読むまでもなく、彼女たちの言葉は心そのものだった。
それに対しさとりは口を開こうとして――
「……っ」
しかし、何も言えない。
確かに、八咫烏の言う通りなのだ。さんざん見過ごして気付かなかったあげく、いまさらここまで来たところで、さとりに何ができるのだろう。
黙っているさとりを見て八咫烏はため息をつき、地獄鴉は心配そうな顔で駆け寄ってくる。
「さとり様、どこか悪いところでもあるの?」
「いえ、大丈夫よ」
「そういえば、ここは私の心の中なのよね」
両腕をだらりと垂らし、その場に立ったままの八咫烏が口を開く。
「なら、ここで貴方を倒してしまえば、ただでは済まないでしょう?」
跳ねるように上げられた『第三の足』はさとりの体の中心を、ぴたりと捉えていた。
目前に迫っている死の恐怖。しかし、さとりは諦めにも似た感情を抱いていた。
――何もしなかった怠け者には、この程度の結末がお似合いなのだろうから。
「……それで貴方の気が済むのなら、私は構わないわ」
「なら、遠慮なく」
言葉とともに、『第三の足』に核エネルギーが収束されていく。
ここでもし死んだとしても、体に傷が付くことはない。
しかし魂を失った肉体など、人形と何も変わらない。
だとしても、自分が招いた結果からせめて目をそらすまいと、さとりは八咫烏を見据える。
そしてそのときを待った。
……しかし。
「……お空?」
地獄鴉は両手を広げ、さとりを守るように立っていた。
二重人格とは、あくまで一つの人格の表に出る部分が変わっているにすぎない。
だから、地獄鴉も止めることはないはずだった。
「そんなの、だめだよ」
「何が駄目だって言うの!? そいつは、私に何もしてくれなかったっていうのに!」
地獄鴉の言葉に、八咫烏は怒りをもって答える。
その通りだった。さとりが何もしなかったからこそ、お空は二重人格になったのだから。
そうでなかったとしても、その怒りは当然だった。
そのはずなのに。
「八つ当たりじゃない、それって!」
地獄鴉の言葉に射抜かれたかのように八咫烏は硬直する。
驚いているのは、さとりも同じだった。
「心配かけたくないからって、私はさとり様のところに行かなかったんでしょ。もっと強く、立派になってからさとり様に会いに行こうって。なのに、さとり様に怒るってヘンじゃない?」
――だとしても、私が何もしなかったのは変わらない。
お空は心のどこかでは、さとりに対して怒りを抱いているはずなのだ。
そうでなければ八咫烏がこんな態度をとるはずないのだから。
「だとしても! 私に何も声をかけてくれなかったのは変わらないじゃない!」
「さとり様が来るたびに隠れてたんだから、声をかけてくれる訳ないでしょ!」
八咫烏の悲痛な叫びに、地獄鴉もまた叫ぶ。
――私は、どうすればいいのかしら……
最初は、お空に撃たれればよいのだろうと思っていた。けれども、今さとりの前には地獄鴉が立ちはだかっている。
つまり、お空が本当に求めているのはもっと別のことのはずなのだ。
……飼い主なら、そのくらい分かっているべきなのに。
「それに! あなたが能天気のままだから、私はいつまでも強くなれなかったんでしょう!」
――そんなはずはない。
強いというと、まず博麗の巫女と、そのすぐ後に来た白黒の魔法使いを思い出す。
しかしどちらも、能天気ではないとは思えない。少なからずそういった部分があったはずだった。
つまり、お空は根本的な部分で勘違いをしているのではないだろうか。
一見賢そうに見えても、やはり根は単純なままなのだ。
なぜかは知らないが、お空は能天気では強くなれないと思い込んでいる。
――これまでの話を聞く限り、お空の原動力は、私に認めてもらうこと。なら……
強くならなければ認めてもらえない、能天気では強くなれない。それを否定してあげればいいのだ。
「いいじゃない、能天気でも」
「でもっ! あの神様は……」
八咫烏は反射的に叫ぶが、その語尾は尻すぼみになっていった。
――なるほど。確かに『強いやつ』ではなく『強い人外』と考えると、確かに能天気なのは少ない。
これまで地底しか知らなかった空なら知っている人妖も少ないのだから、能天気ではいけないと思って当然だろう。
さとりは、八咫烏の言葉を途中で遮る。
「それに能力が制御できていない、という訳ではないのよね?」
「うん」
「ただ、全力は引き出せてないし、たまに加減間違ったりするけど」
地獄鴉は頷き、八咫烏は目をそむける。
「なら、構わないわ」
「でも、さとり様に迷惑を!」
「いいのよ。ペットなんて、手のかかるくらいでちょうどいいんだから」
そう言って、さとりは地獄鴉を抱きしめた。
――ああ、何故私は気が付かなかったのだろう。このたった一言さえあれば、きっとこんな事にはならなかったのに。
「さとり様……」
地獄鴉の目に涙が浮かぶ。そのまま溢れ、声を上げて泣き出す。
さとりは八咫烏のほうに目を向ける。
「『お空』も、こっちにいらっしゃい」
「甘えてもいいの?」
「甘えるのと、強さは関係ないわ。それに、あなたがどれだけ弱かったとしても私は構わないわ」
その言葉を聞いて、八咫烏の目にも涙が浮かぶ。
しかしこちらは泣くのを我慢して、さとりのほうへ歩いてきた。
近付いてきた彼女を、さとりは同じように抱きしめる。
「……なんだか、さとり様に甘えられてるみたい」
八咫烏がぽつりと呟く。
「あ、ホントだ!」
「まあ、言われてみれば……」
さとりよりも空のほうがやや背が高いため、傍から見ると『さとりが空に抱きついている』ように見えてしまう。
それに気付いて、さとりはくすりと笑う。
――やっぱり、別人に見えても根っこは変わらないのね。
「そろそろ帰りましょうか」
「うん!」
「ええ」
さとりの周りに光が集まっていく。
最後に見回してみれば、枯れ草の荒野は色とりどりの花が咲き乱れる草原へと変わっていた。
――これで、いいんですよね。
そう思いながら、さとりは光に包まれていった。
もう少しだけ、ペットにかける言葉を増やそう。そう思いながら。
弾幕勝負がある作品は好みです。
でもこいしちゃんの殺意ある行動は流石にないかと...。
色々見所がありました。
この調子で頑張ってください。
あと出来れば簡単な後日談があればもっと良かったと思います。さとりとお空の。
面白かったです
全体的に特に粗もなく面白かったです。
特にバトルシーンが中々良く出来ていて、熱かったですねー。
フランが二重人格とかはよくありますが、お空に当てはめるのも斬新でした。