「いつまで暢気に寝てるのよ、さっさと起きなさい」
ゆさゆさと身体を揺さぶられて、アリスは薄く目を開けた。
博麗神社の居間に障子から差し込む灯りは暗く、隙間風は生暖かい。横になる前はまだ明るかったはずだったと、アリスは薄く覚えている。
「んん……れいむ?」
寝起きだからか、普段と違う所で昼寝していた所為か、アリスの頭は上手くスタートを切れていない。
もぞもぞと寝返りをうって、抱き枕の様にしていた座布団をきゅっと抱き締めて、アリスは再び微睡もうとし始める。
「もう夜なんだから、とっとと起きなさいよ。ほら、お茶淹れたから飲みなさい」
コト、と卓袱台に湯呑が置かれ、微かに暖かい緑茶の香りがアリスに届く。
その香りに誘われて、アリスは唸りながらゆっくりと体を起こす。
「霊夢、ありがと」
ふにゃ、と気の抜けた笑顔でアリスは霊夢に微笑んで、置かれた湯呑に手を伸ばす。
手で持てない程熱くは無く、中途半端にぬるくもないお茶を喉に流し込んで、ようやくアリスの意識ははっきりと覚めた。
時間を掛けてアリスが飲み干した頃、霊夢がもう一つの湯呑と急須を持って来て卓袱台に置き、アリスの隣に座った。
「アリス、何か有ったの?」
「んー……」
改めて霊夢に訊ねられて、アリスは少し考え込む。
ここ数日、毎日の様にアリスが博麗神社に来ては、昼寝をして帰って行く事が続いていた。
「ちょっと研究に行き詰って、気分転換したかったの」
「研究?」
「そう、自立人形のね」
アリスは急須を手に取り、空の湯呑にお茶を注いで行く。
「人形の自立に必要な事を探している内に、大事な事を忘れてた事に気づいたのよ」
「大事な事?」
「ええ。今までも上海達とずっとに居たんだけど、この子達は『感情』を上手く表せないの」
そう話すアリスの元に飛んで来た上海人形の髪をアリスが撫でると、少し俯いて大人しく受け入れている。
ひとしきり撫でられて、顔を上げた上海人形は、無表情のままだった。
「感情を表現出来るように外見は工夫したんだけど、どうしても感情の制御が上手く行かなくて」
「で、行き詰ったから気晴らしにうちに来るようになったって事ね」
「そういう事。それに、もう一つ理由が有るのよ」
アリスはお茶を一啜りし、霊夢の顔を見つめて話す。
「人形に感情を上手く与えられないのは、私が感情を理解しきれてないからだと思ったの。だから、感情や表情の勉強をしなきゃ、って思ったのよ」
「ふーん。で、それとうちに何の関係が有るの?」
「霊夢の前でなら、気を置く必要が無いから、ね」
そう言って、アリスは霊夢に微笑みかける。
まるで絵画の様な、屈託の無いアリスの笑顔に、流石の霊夢も少し照れくさくなって、視線を反らした。
「こんな感じにね」
そしてアリスはすぐに、悪戯っぽく舌を覗かせる。
そんな表情を見せられて、霊夢はばつが悪そうに髪を軽く掻き上げた。
「あんた、分かってやってるの?」
「何の事?」
「……何というか、あまり人前で練習しない方が良いわよ」
「どうして?」
「いやまあその」
事情を知った上での霊夢だからこそ、アリスの笑顔での被害はこの程度で済んだのだろう。
他の人妖、それこそ人里でそれを披露しようものなら、一騒動になりかねないと、霊夢の勘が警告していた。
「なるほど。それならあの面霊気にも教えてあげたら喜ぶんじゃない?」
「この間の騒動の?」
「ええ、普段はここに居るんだけど今は色々な所で感情の勉強してるみたいだから、教えてあげたらきっと喜ぶわよ」
「そうね、今度会ったら一緒に勉強してみようかしら」
決闘を観ていた時に見かけた面霊気の少女の姿を思い浮かべて、今のアリスはその少女の笑顔を見てみたいとも思っていた。
「それが良いと思うわ。明日にでも戻ってくると思うから、一緒に勉強しなさいな」
「おかげで大分捗りそうだわ、ありがとう」
それだけの事で、アリスは満面の笑顔を霊夢に向ける。
「そんなに嬉しい事だったのかしら?」
「ええ、嬉しい。実際に、今もこうして素直に話せる相手と話すことが出来て、嬉しいって感情を自覚出来るの。それも、私がここに来る理由よ」
「なるほど、そうなのね」
話している間も、アリスの表情は笑顔が零れそうなほど嬉しそうで、霊夢まで頬が緩んでしまいそうだった。
先程のアリスの笑顔を思い出して、あの笑顔は霊夢にだけ向けられるものだと分かり、霊夢は少し嬉しくなる。
「だから、これからも霊夢にはお世話になると思うけど……良い?」
急にアリスは申し訳無さそうに表情を曇らせて、そう訊ねる。
「別に良いわよ、アリスは暴れたりするわけじゃないし、厄介事さえ持ち込まなければね」
「ありがとう、霊夢」
霊夢がそれを承諾すると、ぱっとアリスの表情に華が咲く。
その綺麗な切り替わりに霊夢は、ある意味感情を完璧に理解しているのではないかとさえ思った。
「ん……霊夢、ごめん」
アリスが口元を抑えて目を閉じる。そして上半身がゆっくりと傾いて行って、ぼふ、と座布団に倒れ込んだ。
「今日、泊めてもらっても良いかしら……」
そのまま、眠ってしまいそうな声だった。
「――嬉しそうね」
「うん」
まるで小動物のように座布団に頬を擦り付けて、アリスは小さく頷き、やがて静かに寝息を立て始めた。
結局の所、アリスは未だ感情を理解しきれていないのだろう。
感情に流されるままに奔放に振る舞うアリスを見て、霊夢は呆れ気味に溜息を吐く。
しかし、心の底から楽しそうにしているアリスに、霊夢はこれ以上何も言う気になれなかった。
次の日、朝から出かけた霊夢は、こころを連れて神社に戻って来た。
霊夢いわく、命蓮寺で神子に白蓮にと引っ張りだこになっていた所を回収してきた、という話である。
「アリス、この子が例の面霊気よ」
「この人が、感情を教えてくれる人?」
「そうらしいわよ」
霊夢の後ろにとことこと付いて来たのは、辺りにいくつものお面を従えるように舞わせている、不思議な少女だった。
「私はアリス・マーガトロイドって言うの。よろしくね、こころ」
「よろしくー」
アリスが差し出した手に、こころはすぐに手を重ねて握手をする。
何の疑いも無く接してきたこころを前に、アリスは思わず霊夢に訊ねた。
「ねえ、こんな子だったの?」
「そうよ、何処でそうなったのか分からないけど」
「あんたや魔理沙よりよっぽど良さそうな子じゃないの、あんたももっと女の子らしくしたらどう?」
「余計なお世話よ」
「そう。それじゃ、ちょっと裏手借りるわね」
そう言ってアリスはこころを連れて、神社の裏手へと歩いて行く。
「……さて、あのこころがどんな顔をするのやら」
無垢で無表情な少女の笑顔を想像しながら、霊夢は遅れていた境内の掃除へと取りかかった。
「ねえねえ、アリスは何を教えてくれるの?」
こころはお面を被りながらアリスに訊ねる。
神社の裏手に連れて来られてから数分、アリスはこころに背を向けて何かの準備をし続けていた。
「私から教えてあげられるのは一つだけだけど、その前にこころ」
「なに?」
「こころは、何をしてる時が一番楽しい?」
「決闘!」
振り返ってアリスが聞くと、グッと拳を天に突き出してこころは得意気に言う。
「そう、それじゃあこんなのはどうかしら」
「え?」
「いらっしゃい、みんな」
アリスの呼ぶ声に合わせて、十五体もの人形がアリスの後ろから飛び出した。
その人形達はアリスの周囲を輪になりながら、ふよふよと浮かんでいる。
「お人形?」
「そうよ、仲良くしてあげてね」
そう言ってアリスが指を弾くと、人形達は一斉に散開して、こころの周囲を取り囲むように輪になった。
これも一種の決闘なのかと思い、こころは狐の面を被り薙刀を構える。
しかし人形達は軽快するこころを前に、バンザイをしたり、少し踊っていたりと、攻撃する様子は無かった。
「……」
こころは警戒すべきか分からないまま、何枚もお面を付け替えしていく。
そうして二十回程お面を付け替えた所で、人形達に攻撃の意思は無いと分かり、一つのお面を顔に付けた。
「かわいい」
ひょっとこの様な面を被ったこころは、横に並んでラインダンスを始めた人形達を前に、目を輝かせる。
その中から一体を両手で持ち上げると、シャンハーイ、と人形は声を出した。
「かわいい!」
人形を両手で優しく抱き締めて、ぴょんぴょん跳ねる。人形は手足をバタバタさせて、拘束から逃れようとしている。
それがさらに気に入ったのか、絶対に逃がさない様にと、こころはその人形を胸に抱いた。それに合わせて、眺めていた人形達も一斉に乱入し始める。
すぐに、こころは人形達に埋もれて、止まり木になってはしゃいでいた。
「すごいすごい、かわいいのがいっぱいー」
「良かったわね、この子達も楽しそう」
「楽しい?」
ふと、抱き締めていた人形の顔をしげしげと眺めて、こころは首をかしげる。
人形達には表情の変化は無く、それが楽しいのかどうか、こころには判断する事は出来なかった。
「あまり楽しそうには見えないけれど、そうなの?」
「うーん……ねえこころ、貴女は今どんな気持ちなのかしら」
「気持ちは、これかも」
楽しげに笑っている表情のお面を付けて、アリスの方を向く。アリスはそんな素直なこころの反応を見て、つられて苦笑した。
「お面もそうだけど、今の貴女の身体はどうなっているのかしら」
「身体……」
「そう。といっても重たいとかそういうのじゃなくて、」
そうアリスに訊ねられて、こころは自分の身体をじっと見下ろす。
「うーん、よく分からないけど……何だか少しふわふわして、ぱーってする感じ!」
「そう。それが『楽しい』って感情なのよ」
「これが、楽しみの感情」
感情というものをお面では無く身体で感じて、こころは目を見開いた。
「そうしたら、その感情に素直になって、顔で表すの。それが『楽しい』っていう表情よ」
「顔で?」
「貴方はまだそういうのに慣れてなさそうだから、ちょっとずつ、ね」
「……わからない」
初めて知る、内から湧き上がる感情に、こころは困惑を隠し切れないでいた。
こころを表すお面もまた、自信の無さそうな物になっている。
「それじゃあこころ、私の顔を見て」
「アリスの?」
こころが顔を上げると、そのすぐ目の前でアリスは満面の笑顔を振りまいていた。
「こんな風に身体の力を抜いて、今の自分に素直になるの」
「アリスの顔、何だか楽しみのお面みたい!」
「それで良いのよ。私もまだ練習中だからこうする事しか出来ないけれど、ね」
心から楽しそうな笑顔を向けるアリスを、こころは目の前でまじまじと見つめて、参考にしようとしている。
流石にアリスも少し恥ずかしい所は有ったものの、一生懸命なこころの為にと感情に身を任せていた。
しばらく頬をむにむに動かして、アリスの頬をぺたぺたと触って、視線を落とす。
「んー、んー。出来てる?」
そう言って顔を上げたこころは、無表情のままだった
「ううん、出来てない」
「そっかー、難しい」
悲しみのお面を掲げてうつむくこころ。その周りには、心配そうに様子をうかがう人形達。
「仕方ないわよ。今まで出来なかった事がたったの一回ですぐに出来る様になるなんて事は無いんだから。大丈夫、私もこの子達も貴女と一緒に練習するわ」
「本当?」
「ええ、この子達にとってもそれが良いの。一緒にがんばりましょう」
「やったね、これで感情を保てる様になるよ」
喜びのお面を付けて、三回まわってガッツポーズ。それ程アリスの申し出が嬉しかったのだろう。
アリスの人形達も一緒になってガッツポーズをしている辺り、大分馴染んでいるようだ。
お昼前、里へと出かけていた霊夢はいくつかの袋を持って境内に戻って来た。
「アリスもこころもまだ裏に居るかな……」
袋の中には三人分の昼食が作れる程度の材料が詰まっている。もしもどこかに出かけていたら、かなりの無駄足になってしまう。
霊夢はそうならない事を祈りつつ、あるいはひょっとしたら二人が笑顔で出迎えてくれるかもしれないという事を想像して、鼻血を出しそうになる。
「……イイ」
近い将来そうなってくれる事を信じて、霊夢は二人が居た裏手へと回った。
「アリス、まだやって――なかったか」
そこには、縁側で横になっているアリスと、その隣で人形達に包まれて眠るこころが居た。
「ああ、霊夢。お帰りなさい」
「ただいま。お昼にするから作るの手伝いなさい」
「良いわよ、でもこの子は起こさないであげてね。朝からずっと慣れない事を練習してたから、すっと寝ちゃったのよ」
「分かってるわよ。それに、こんな寝顔を見たら、邪魔できるはずが無いじゃない」
身体を起こしたアリスは、隣で眠るこころの頭を優しく撫でて、微笑む。
「周りには愉快な人が沢山居るみたいだし、こころみたいな素直な子なら、すぐに感情を理解できると思うわ」
「そうね、私もそう思う」
いつもの無表情では無く、心地良さそうに口元を緩ませて眠るこころを眺めながら、二人は静かに笑い合った。
練習の成果が表に出る日は、そう遠くないのだろう。
感情を持たない/表現できない、という物語を読むと、某今時有名SF小説『ハーモニー』を思い起こします。
読んでてほわほわしました、こうゆうの好きだなあ。
『レベル2』が出る事に期待。
霊夢さんとアリスの間もレベルあげていってもいいんじゃないかな?
続編待ってます
好きです
こころちゃんの笑顔は是非とも見てみたい!
霊夢もちょっとデレてて良かったな...
次作に期待!
お詫び
間違って簡易評価を押してしまって100点を入れられませんでした。
すみません!
笑顔のこころちゃん見てみたいです凄く見てみたいです。
気の置く必要のない関係の二人も、アリスや人形たちと一緒に訓練するこころも素晴らしいです!
当たり前で忘れがちだけどとても良い着眼点でした。
みんなまとめて可愛らしかったです。
アリスはなんとなくクールなイメージを持っていたのですが、こういうのも良いですね。
こころの笑顔は見てみたいけれど見てみたくない、そんな気持ち。
その努力がいつか実を結ぶといいな