鈴仙・優曇華院・イナバは、悩んでいる。
元より、鈴仙の悩みの種は多い。
輝夜・難題・永琳・実験・てゐ・悪戯。
こうして単語を並べただけでも、鈴仙のシナプスは憂鬱の波に飲まれてしまう。
しかし、今、それらとは別に、鈴仙の脳内を穏やかにさせないものがあった。
「ねえ、薬をそんなにボリボリ貪るように食べて、そんなに美味しい?」
「バカね鈴仙、美味しいわけがないじゃない。薬が美味しいだなんて、ひょっとして貴女、薬物中毒者?」
薬物中毒者なのはどう見てもお前の方だ。
そう言いたい気持ちを抑え、鈴仙はベッドの上で瓶詰めから錠剤を次々と取り出しては口に含む少女を、ジッと観察する。
陶器のように白い肌。まるで肉の付いていない手足。肩の高さで乱雑に切られた灰でも浴びたような白髪。
病弱な少女を絵に描いたような出で立ちだが、そこに儚さは感じられない。
斜に構えたような少女の言動と常に皮肉に塗れているかのような目元のせいだろうか。
転んでもただでは起きないような、孤高さを持った野性味を感じさせる風体である。
故に、鈴仙は不思議に思う。
天井から床上まで余すことなく病的なまでに白く塗りつぶされた一室に、まるで監禁されるように追い遣られている少女の境遇を。
母屋から、病弱である少女が一人で住まう離れに訪れるのが、家族ではなく一日三回の食事を置いていくお手伝いだけだという少女の現状を。
ただの薬の訪問販売員でしかなかったはずの自分が、こうして毎日のように少女の部屋に上がり込み、何時間も話し相手になっているという変化を。
不思議に思い、悩んでいる。
数週間前のことだ。
「本日から、こちらではなく離れの方に薬をお届けください」
鈴仙は定期的に行っている置き薬の確認のため、人里でも大きめな、とある屋敷を訪れた。
前回と同様に、確認作業のため声を掛けてから玄関口に入ろうとすると、母屋から出てきたお手伝いにそんな事を言われた。
置き場の変更など、別段珍しいことではない。
母屋は山に面しており、離れはその山へ分け入った場所にあるらしい。
離れまでは少し距離があり道も変に入り組んでいると説明を受けた。
重い薬箱を背負った状態だと行くのが少し面倒だ。
しかし、相手はいつも多種多様な薬を大量に購入してくれるお得意さまである。
お得意様の言うことには逆らえぬ。
鈴仙は言われるがまま、離れに向かった。
目的地に近づくにつれ、離れとして使うには十分なくらい立派な建物が目に入る。
さすがに永遠亭と比べるべくもないが、普段作りの良い建物に慣れ親しんでいる鈴仙の目からしても悪くないと言えるほどのものであった。
これだから金持ちはと、少しやっかみながら、鈴仙は入り口の取っ手に指を掛ける。
そこで気づく。離れの周りが、まるで何かに打ちひしがれたような静寂に包まれていることに。
今は春だ。小動物や植物ももっと生き生きとした波を放っていてもおかしくない。
しかし、沈んでいる。まるで何かを悼むかのようにして。
「…………なんだって言うのよ」
鈴仙は頭を掠めた不安に引き摺られるようにして、まるで通夜でも執り行われているかのような離れの戸を恐る恐る引く。
「さっき昼飯を届けに上がってきたばかりでしょう。何しに来たの?」
引くと同時に、凜と拒絶するような声がした。
戸を引くと、すぐに部屋があった。
辺り一面が、まるで穢れを浮き彫りにするかのような攻撃的な白で塗り固められた部屋の中央。
声の主は、絢爛な作りのベットの上にいた。
その視線は、離れにしてはやけに大きめな窓から外へと向けられている。
「いや、あの、薬を……」
「薬なら昨日貴女が箱ごと持ってきて…………貴女だれ?」
そこで始めて、窓の外へ視線を向けていた少女が、鈴仙へ目を向けた。
少女の訝しむ目が鈴仙を射抜く。
その表情は、なぜか皮肉で固定されていた。
開いていた窓から春の柔らかい風が吹き込む。
少女の傍らに飾られていた白い紫丁香花の花弁のいくつかが、ハラリと少女の周りを舞う。
それまで小さな振り幅しかなかった辺りの波が、一瞬だけ大きく波打つのを鈴仙は感じた。
それが、鈴仙とベッドの上が終の棲家と定められた少女との初めての出会いだった。
「初めて会った時からその調子だけど、いつか薬の過剰摂取で死ぬわよ」
ベッドの傍らに座り、呆れたように鈴仙が言う。
今日も白い紫丁香花が少女の傍らに飾られている。
天井や壁をこれ以上ない程白く塗りたくっている部屋に、その花はあまりにも似合いすぎていて、逆に浮いていた。
二人が出会ったその日。鈴仙の長々とした薬の説明に痺れを切らしたのかどうなのか。
少女は鈴仙が持っていた薬瓶をふんだくり、数週間分になるそれを一気に飲み干したという前科があった。
「ああ、最初のアレは悪かったわよ。さすがに向こう見ず過ぎたわ。カッとなってやった。今では反省してます」
幸い飲み干したのが、ただの栄養剤だったから良かったものの、一歩間違えば死んでいただろう。
飲み干した後のやってやったという少女の満足げな顔が、数週間経った今でも鈴仙の脳裏に焼きついている。
「……………………」
「そんな疑わしい目で私を見るのね鈴仙。これでも薬を処方してくれてるお医者様には、ちゃんとまともに感謝はしてるわよ」
そんな発言を簡単には信じられないほどには、鈴仙は少女の人となりを理解している。
しかし、それでもわからないことはいくつもあった。
「それに、私はこの身が塵と風化するまで死ぬつもりはないわよ」
「…………まあ、いいけど。それよりいい加減、その薬瓶の錠剤飲み尽くしてくれないかしら? 私、今日は早めに帰りたいの」
たとえば、今少女が手にしている薬瓶もその一つだ。
少女と出会った初めての日。
鈴仙は、少女が薬を一瓶分まるまる一気飲みしたという異常事態をありのまま、自分の師匠であり少女の主治医である永琳に報告した。
すると次の日、永琳は手に収まるくらいの大きさの瓶を二つ鈴仙に与え、少女の元へ行くよう指示をした。
一つの瓶には、瓶一つ分の錠剤で一日分の栄養を賄えるだけの栄養剤を。
もう一つの瓶には、それだけで一日分の栄養を賄えるだけの一粒の栄養剤を。
どちらかを、少女に選ばせろということらしい。
その事を少女に説明すると、不快そうに顔を歪めた後、瓶一つ分の錠剤を手に取ったのだった。
なぜ少女が、そんな行動を取ったのか。なぜ自分の師匠は、そんな対応をしたのか。
わからないし、わからないままでいいと、鈴仙は思っている。
ともかく鈴仙は一つ学習した。
まともではない行動には、まともではない対応を。
なんともパンチの効いたコミュニケーションだと、鈴仙は少女と永琳の捻くれ具合に戦慄した。
「もう少し待ちなさいよ。せっかちは嫌われるわよ」
「何度も説明してるでしょ? 私はその特製の瓶を持って帰らなくちゃいけないんだから。それにお使いも頼まれてるし」
一瓶分で一日分の栄養を賄う錠剤を作るため、永琳は錠剤ではなく瓶の方に何か仕掛けをしたらしい。
ただ、鈴仙は詳細を知らされていないが、そう簡単に何個も作れるものではないらしいのだ。
そのため、この数週間、鈴仙は少女が錠剤を飲み終わるのを待ち、その薬瓶を回収して、また翌日少女に一瓶の栄養剤を届けるということを繰り返していた。
「あのね、まだ昼になったばかりで、貴女がこれを持って来てせいぜい一時間くらいしか経ってないのよ? せめて夕方くらいまでは待ちなさいよ。貴女、私を急かして窒息死させるつもり? 死にそうな人間を虐めるなんて、妖怪って容赦ないのね」
「…………そっちがもう変な冗談を言わないって約束したら、大人しく夕方まで待つわよ」
これだ。少女は、こうして聞いている方は洒落にならない事を平気で言う。
事実、重い病気らしい。回復する見込みは薄いと、鈴仙は永琳から聞いていた。
「…………悪かったわよ」
ポツリと少女が何事かをつぶやいた気がしたが、鈴仙は聞き取ることが出来なかった。
しかし、少女の感情の波が、一瞬沈んだように見えたので自分の発言は受け入れられたのだと、鈴仙はそう判断した。
そっと、鈴仙は少女に微笑みかける。
少女は白い頬を紅色に染め、少し気恥ずかしそうに、鈴仙と反対側にある窓の方へ顔を向けた。
「それじゃあ、待ってる間暇だし、いつもみたいに何か話でもする?」
少女との出会いから四日目に、病的に白い部屋の予想以上の居心地の悪さと数時間に渡る沈黙に耐えかねた鈴仙は、少女とのコミュニケーションを試みた。
少女の一日は変化に乏しく、話す内容といったら読んだ本の事か自分の境遇に関しての冗談交じりの愚痴くらいしかない。
なので必然的に鈴仙が話し手となったが、十日目で鈴仙が根を上げた。
話のネタならいくらでもあると自分の日常を話していたが、そうする事で自分のトラブルの巻き込まれ具合を客観視してしまい、心が折れてしまったのだ。
その時の様子を指して、少女は「人が絶望という穴に崩れ落ちる瞬間を始めて見てしまった」としみじみ感じ入っていた。
それ以来、二人は互いに身の上話は避けるようになり、鈴仙が人里などで見た事や天狗の新聞をあれやこれやと解釈付けるのが日課となっていた。
「ええ、天狗の新聞の検証は昨日やったから、今日は是非とも鈴仙の最高に面白い荒唐無稽な話をお願いしたいわね」
「どうして話のハードル上げつつ、結局は妄想でしょ?ってオチを付けようとするのよ……そうねえ」
鈴仙は、何かないかと記憶を巡る。
ふと、ある出来事が鈴仙の脳裏を掠めた。
「面白いというか、不思議な話なんだけど」
「不思議ねえ。他所から意図不明な物が頻繁に流れてくるようなこの幻想郷で不思議も何もないと思うけど……まあ、いいわ。言ってみなさいよ」
「なんでそんな、どうせ碌な事を言わないんでしょうけどねこの駄兎っていうニュアンスで言うのよ……」
コホンとわざとらしい咳払いを一つ。
鈴仙は語り部として姿勢を正す。
「大体三ヶ月前くらいかしら。人里のある家に置き薬の確認に行ったんだけど、その時の話」
何、ひょっとして別の女のところ? と錠剤を強く噛み砕きながら言う少女の声が聞こえる。
そんなからかいの声は無視し、鈴仙は続けた。
「その家にピアノが置いてある部屋があるのよ。何でも発表会があるらしくて、その家の娘さんが練習してたらしいんだけど、これが変なの」
「夜な夜な誰もいない部屋からピアノの音が聞こえてきたりとか? ふん、そうだとしたらベタすぎて興ざめね」
「違うわよ。いや、夜な夜なっていうのはあってるんだけど。その娘さん、昼夜問わず演奏するらしいの。日によっては、まだ太陽も昇らない内や丑三つ時からピアノを弾く事もあって、家人はもちろんご近所さんも迷惑してるらしいのよ」
「ずいぶん熱心じゃない。他人の都合に構わずなんて、その子、相当ピアノにお熱なのね」
わかるわかる、と少し呆れたように少女が言う。
「まあ、そうとも言えるかもね。でも、その子普段はとても大人しい良い子なの。とてもじゃないけど、他人の迷惑を押して練習をするような子じゃないのよ。波長もすごく穏やかで、ほんと良家のお嬢様ってああいうのを言うのかもね」
目の前にいる誰かさんとは大違い、と余計な一言を付け加えるのを抑えるのに、鈴仙は強い忍耐を必要とした。
「ふ~ん、で? それで? それで終わり?」
「まだ話の途中だから安心しなさいよ。で、肝心なのは練習する曲」
ここからが大事なのだというように、身を乗り出す鈴仙。
「曲? 発表会に似合わない曲を練習してるとか?」
「そうなのよ! なんていうかすごく不気味な曲。しかも、同じフレーズを何度も繰り返して練習してるの」
「…………同じフレーズを何度も?」
少女の眉がわずかに歪み、陶器のような白い指が自身の唇に触れる。
「ええ、そんな不気味なのをいつ弾かれるかわかったもんじゃないから、家人は戦々恐々としてるみたい。まあ、ひとしきり演奏を終えると他の聞き心地の良い曲とかも練習するみたいなんだけどね」
「それ、本人はなんて?」
「指の慣らしにちょうどいいから弾いてるって言ってるらしいわ。せめて夜に弾くのはやめてくれって言ったこともあったみたいだけど、弾きたいと思った時が一番効率のいい練習が出来るって言って、頑として譲らなかったらしくて」
「それ、家族や近所の人は何か無理矢理にでもやめさせられない理由でもあるのかしら?」
「何でも、将来を有望視されてる演奏家みたいなのよ。さらに人当たりも良くて、家庭的で、美人で、無邪気で、鳩みたいな態度で、澄んでて、ちゃんと私の薬の説明もまともに聞いてくれて変人扱いもしないしっ!」
近所の子供たちの面倒もよく見てるみたいだし言う事なしなのよ! と鈴仙は力説する。
薬の説明をしっかりと聞いてくれて自分を変人扱いしない人は素晴らしい人だという、鈴仙特有の対人印象があるらしい。
白い紫丁香花の花がわずかに揺れる。
「ハッ! つまり、はた迷惑なピアノの演奏以外に欠点が何も見つからないから半ば黙認してるっていうわけね」
鈴仙は、少女の小馬鹿にするような口調を慣れたように流した。
「おかげで、その家の周りでは睡眠薬の捌けがよくて、こっちとしては大助りだけどね」
それで話は終わりだというように、鈴仙が肩をすくめる。
そんな様子を見て取り、少女は話を継ぐように鈴仙に言葉を投げかけた。
「なによ鈴仙。結局、不思議なことなんて、どこにもないじゃない」
「私としては、なんであんな良い子が不気味な曲を延々と弾いているのかが不思議なんだけど」
不満げな顔で鈴仙がそう言うと、少女はしたり顔で返した。
「――――――そんなの不思議でも何でもないわよ、鈴仙」
換気のために開けられていた窓から、やけに冷たい風が吹き込み、少女の不揃いで灰色の髪がサラリと揺れる。
飾られている白い紫丁香花が、陰影を揺らす。
鈴仙は、白く塗りたくられた部屋の壁に僅かな黒点が穿たれた気がした。
美しく細い人差し指が鈴仙を指す。
その様子は、まるで巫女に何かを神託する神のような静謐さと侵せえぬ暗黒を纏っていた。
「その女の性根が腐ってるからに決まってるじゃない」
鈴仙は、自分の脈拍が早ったことを自覚した。
いつもそうだ。
少女は、いつも思いもよらぬ言葉を鈴仙に投げて寄越すのだ。
「そんなの、貴女があの人に会ったことがないから」
無駄とわかっていても言わなければならないこともある。
しかし、それは無駄なのだ。
少女が、自分で言い出したことを撤回したことは、鈴仙が少女と出会ってまだ一度もない。
「そんなの関係ないわ。ねえ、鈴仙。その女、ひょっとしてその不気味な曲、他の演奏家がいるような場所では弾かないでしょ?」
そうに違いないという少女の確信めいた言葉に、鈴仙は記憶を巡らせる。
「それは、ちょっとわからないけど……ああ、でも練習するなら発表会で弾く曲にすればいいのにって親が言ってた気がする」
我が意を得たりと、少女は続けた。
「じゃあ、その不気味な曲はこんなメロディじゃなかったかしら?」
少女がメロディを口ずさむ。
それは人を不安にさせる、不気味な調べだった。
「そう! そのメロディ!」
「ふん、やっぱりね。どう考えても性悪じゃない」
得心がいったと満足気な少女の様子に、なぜわかったのかと困惑顔の鈴仙。
小首をかしげる鈴仙に応える形で、少女が言葉を継いだ。
「欠陥品とはいえ、私、これでも良家のお嬢様なのよ」
だから、演奏家を家に招いての演奏会も何度か経験したこともある、と少女はつまならそうに言う。
「その中で色々逸話と一緒に曲を聞かせて貰ったこともあってね。ああいうの弾き語りっていうのかしら? まあ、それはどうでもいいわね。その時に聞いたのが、ヴェクサシオンっていう悪趣味な曲。詳しくは忘れたけど、一分程度の曲をとにかく延々と繰り返す、冗談みたいな曲って話だったわね。今よりも大分若い時に聞かされたから、不気味さに飲まれてその日は一日怖くて眠れなかったわよ」
『ヴェクサシオン』
フランスの作曲家、エリック・サティによるピアノのための器楽曲だ。
『このモチーフを連続して840回繰り返し演奏するためには、大きな静寂の中で、真剣に身動きしないことを、あらかじめ心構えしておくべきであろう』
このように楽譜に記された言葉が、神秘主義に傾倒していたサティらしい。
ちなみに、この曲を正確に840回弾くためには約18時間必要である。
「で、この『ヴェクサシオン』だけど外国の言葉で『嫌がらせ』って意味らしいわ。わざわざそんな曲を昼夜問わず指慣らしに弾こうだなんて、性悪な人間以外にどんな人間がやるのかしらね」
それでも、と鈴仙は少女の言葉に異を唱える。
「根拠としては弱いじゃない。そんなの偶々その曲だったっていうだけかもしれないし……それに」
「それに、仮にその女が善い人間だったとしても、そんなに善性を前面に押し出してる時点で、きっと中身は真っ黒いモノが堆積していってるんじゃない?」
もしそうなら性悪の方がいいかもね、と少女は肩を竦めた。
少女はもう興味がないといった様に、いつの間にか最後の一粒となっていた錠剤を飲み干す。
「………………」
少女の投げやりな態度に、鈴仙は恨めしそうな赤い瞳で少女を見つめる。
「……そんな眼をするくらいなら本人に確かめてみればいいじゃない」
舌打ちをしながら少女が言う。
「なんでそんな『嫌がらせ』をするんですか、とでも言って反応を見れば一目瞭然でしょうね」
「…………そんな事。でも、あんなにいい人がそんなっ」
痺れを切らしたように少女は鈴仙の腕を掴み、強引に引き寄せた。
鈴仙の決め細やかな長い髪が静かに揺れ、赤い瞳は大きく見開かれる。
対する少女の眼には赤い線がいくつも入り、また白い手には青い線が色濃く浮き上がっていた。
少女の様子に鈴仙は思わず喉を鳴らした。
「いい、シアワセな子兎さん? 一つの行動や言動がそのままの意味を持つとは限らないのよ。我が子を谷へ突き落とす獅子のように。傷ついている時に恋人へ向ける大丈夫という言葉のように」
少女の鬼気に思わず鈴仙は圧倒されてしまう。
「ねえ鈴仙。なんでこの部屋が白く塗りたくられているか、話したわよね? 両親は、部屋を外光で照らすため、開放感のある色を使って暗くなりがちな精神の安静を図るためと言ったわ……でも実際は違う。白で統一された部屋に長時間いると、人間は拒絶感や孤独感を強く意識するようになる」
有り体に言って気が狂いそうになるのよ、と少女は言う。
「さらにご丁寧な事に、色彩効果の本なんかもさり気なく置いてあったりして。消極的に自殺に追い込むには、効果的よねホント」
ね? 鈴仙、人間の善性なんて碌なもんじゃないでしょう? と言われているような気がして、鈴仙はわずかに少女から目を逸らした。
その時、鈴仙の赤い瞳に空となりベッドの上に転がっていた薬瓶が写り込む。
「じゃあ、こんな薬の飲み方をするのも何か意味があるの…………?」
ふと浮かんだ疑問。
その言葉に、少女は一瞬驚いたような顔になり、そして満足げに微笑んだ。
自分に向けられたその笑顔を、鈴仙は少女の傍らで微笑む白い紫丁香花のようだと感じた。
少女は空となった薬瓶を鈴仙に手渡す。
その意味を悟った鈴仙は、一言も発することなく少女の真っ白に染まった部屋を後にした。
気づけば、もうじき夕刻であった。
明くる日。
太陽がちょうど真上に来るような時間。
少女の病的な白い部屋に、鈴仙ではなく少女の現在の主治医である八意永琳が訪れた。
「鈴仙でなくてごめんなさいね。こんにちわ。病気の方はどうかしら?」
「……貴女、わかってて言ってるからタチが悪い。知ってるでしょうに」
唯でさえ皮肉に塗れている少女の目元や口元が、いつも以上に歪んでいる。
少女は、この主治医と初めて顔を合わせた時から、得も言われぬ不気味さを感じ取っていた。
「あら、随分と嫌われたわね。これでも貴女の病をどうにかしてあげようと頑張っているのよ?」
「頑張るといっても私の体は…………ああ、そういう事。そっちの病気ね」
少女は嘆息し、得心がいったというような表情を見せる。
「竹林のお医者様は随分とロマンチックな言葉を使うじゃない。で? 今日は鈴仙はどうしたの?」
永琳が持ってきた鞄の中から薬瓶を取り出す。
少女がいつも飲んでいる薬の薬瓶に相違なかった。
「あの子は今日は来ないわ。昨日ショックな事があったみたいでね、休ませているの」
事も無げに永琳が言う。
まるで、今日の食事のメニューを呟くような気軽さだったため、少女は言われた事の意味を理解するのに、しばらく時を必要とした。
「…………そう、鈴仙は何か言ってたかしら」
「さあ? 何か言っていた様な気がするけど、忘れたわね」
あまりの永琳の白々しい態度に、少女は苦虫を噛み潰したように顔を歪める。
「それで、私からの応援メッセージはちゃんと受け取ってくれているかしら?」
「ああ、アレはやっぱりそういう事だったのね。鈴仙からその薬瓶を受け取った時の説明、何かおかしいと思ったけど」
「あの子は、私は何が出来ても不思議じゃないと思ってる節があるのよね。薬の成分をそんなに便利に配合して錠剤にするのは、少なくとも一日じゃ出来ないっていう事にいつ気づくのかしら」
永琳が頬に手を当て、如何にも困ったものだという仕草を見せる。
「こっちの心情を、ありえないくらいの情報の少なさで早々と推測して当ててみせた手腕を見るに、私も鈴仙と同意見だけどね」
偽らざる本音を口にし、少女は続けた。
「それに、鈴仙が本命の一錠以外はすべてただの小麦粉だ、なんて気が付くような察しの良さを持っていたら、こんな事に巻き込まれてないでしょうよ」
「貴女も相当回りくどいことをやっているのだけれどね。さすがに、自分を長く側に居させる為に一瓶飲み干すだなんて、普通は考えつかないでしょう」
こちらとしては錠剤薬を精製する時の良い練習になっているのだけれどね、と永琳。
その言葉にわずかに含まれているエッセンスに少女は気づきながらも、無視を決め込んだ。
「…………それで、貴女の命が尽きるまでの後数年で、貴女の目的は達成されそう?」
そんな少女に気をよくした様子で永琳は少女にとって核心ともいえる言葉を口にする。
「これからに乞うご期待といったところだけど、はじめに達成したかった目的については何とかなりそうね」
「あら、『はじめ』だなんていつの間にか欲張りになったのね。いい傾向だわ」
「ハッ! こっちは余計な未練が残りそうだっていうのに、簡単に言ってくれるわ」
やはり穏やかに会話とはいかないなと、少女は何かを捨てるように言った。
「それで、ウチの兎の味はどうかしら?」
「……私、これでも性癖に関しては普通な上、結構純でプラトニックなつもりなんだけど」
「あら、それはごめんなさい」
少しも悪びれていない様子に、少女は自分がからかわれ この主治医はただ野次馬に来たのだという事にようやく気が付いた。
「それにしても、貴女ウチの鈴仙の何処が気に入ったのかしら。あの子自身、人間が苦手だし、凡そ人間から好かれるような性格はしてないと思うのだけど」
少なくともわざわざ小細工を弄してまで一緒にいるだけの時間を捻出する程ではない、と永琳は言いたいのだろう。
「あれ、言ってなかったかしら」
それは、初めて鈴仙が少女の部屋の扉を開けたその日。
柔らかい春風が心地よかったあの日。
少女にとって、それはまさに青天の霹靂だった。
「凄い」
少女は忘れもしない。
薬の在庫確認にやって来た妖怪に、体のどこが悪いのかと聞かれた少女は、つい自分の置かれた状況を寿命の事を除きすべてぶち撒けてしまった。
それは、薬を置いて周る家の重篤患者の事を何も知らなかった鈴仙に対しての当て付けで。
それら罵詈雑言を、ぶつぶつと言い立て、最後はベッドの上で笑いながら死んでやると豪語した後。
鈴仙は、そんな哀れな少女に凄いと、確かにそう言った。
「逃げ出さないなんて凄い」
それは、少女にとって、かわいそう、頑張れ、仕方ない以外に掛けられた、初めての言葉で。
「………………………………」
懸命に自分の運命を受け入れようとベッドの上で来る日も来る日も藻掻いていた少女にとって、一番言って欲しかった言葉だった。
少女は顔にはおくびにも出さず、静かに心の中で泣く事が出来た。
そして、傍らにある白い紫丁香花が花開く感覚を、少女は初めて感じられたのだ。
「ええ、そうね。これはもうゾッコンね」
そう言った少女の顔は、まるで仏教の経典などで綴られる伝説上にしかない美しい優曇華の花のように永琳の目には写った。
「なるほど」
そう言うと、永琳は帰り支度を始めた。
「あの子なら明日はきっと来るわよ。何だかんだで、貴女と話すのを楽しみにしているみたいだから」
突然の不意打ちに思わず白い頬を赤くした少女を背に、永琳は少女の部屋を後にしようとし、もう一度少女の方に振り返った。
「その白い紫丁香花。それは狙っているのかしら」
その言葉に、いよいよ顔を真っ赤にして、少女は言った。
「べっ、別にどうでもいいでしょう」
その答えに、永琳は少女の恋路を応援した事に価値はあったと、己の愉悦に興じた。
「花言葉、鈴仙に伝えておきましょうか?」
「よ、余計な事はしないでっ、早く帰れ!」
あらあら、と愉しそうに今度こそ永琳は少女の部屋を後にする。
少女は、主治医の正確無比に急所を貫いた電撃戦に、しばし動悸を落ち着け、そしてそのまま夢の世界へと潜る為、目を閉じた。
昨日までがそうであったように、意識が落ちるまで、少女は明日、紫髪の美しい兎妖怪と今度はどういった話をしようかと思案する。
昨日は、少し意地悪をし過ぎたかもしれない。
明日は、少し優しくしよう。
未だ赤い名残のある白い頬を抱えるようにして、少女は眠りに落ちていく。
数年後、少女が眠りから覚めなくなるまで、その習慣は途切れることなく続けられるに違いない。
少女が決して治らぬ病に罹患した後、掲げた目的がある。
それは、友達に見守られて幸せに静かに息を引き取ること。
今の際に、手を握って泣いてくれたらもう最高。
少女が鈴仙と出会って生まれた目的がある。
それは、今の際まで鈴仙と話し続けること。
今の際まで笑って泣いて拗ねて話をしてくれたなら最上だ。
意識が完全に夢へ落ちる、その刹那。
少女は、明日/鈴仙の事を想う。
こうして見ると、鈴仙はやはり薬師に向いているのかもしれません。患者と真摯に向き合う姿勢は、普通なら長く続くものではないのです。
もし飲み込めても腹壊すし。
なるほどねぇ……。
死は受容できても、一人で死ぬのは辛いですものね
あ、偽の錠剤が小麦粉なのはまさかうどんだからか…?
いい純愛でした。
鈴仙のショックとはなんだったのだろうか?
自分の読解力の無さのせいで色んな妄想ができます。
この少女ツンデレか。オリキャラですが魅力たっぷりです。
そしてその少女よりさらに上を行く永琳やはり化け物か。
うどんげは良い子ですね。
鈴仙ちゃん、それなりに長生きしてるわりには純粋すぎないか。やはりひねくれものしか居ないこの郷では貴重なメンタリティ。