「死神が出る?」
面妖な顔で蓮子は訊いた。
「うん。授業中に噂で聞いたんだけど、セイラン病院の旧病棟でそういう話が出てるんだって」
興味津々の顔で話すのはメリーだ。
「旧病棟って、あそこ廃棄されてるんじゃなかったの?」
古いものは廃棄されて当然と言う感じで蓮子が返すと、メリーは人差し指を左右に振りながら言った。
「ちっちっち。旧病棟と言っても隔離病棟だからね。そろそろ建て直しの噂は出てるんだけど、病棟が病棟だけに、患者を移す仮病棟が必要なのよ」
その話に蓮子は顔をしかめる。
「…あそこって、確か肺病の患者を専門にしてたわよね?大丈夫なの?」
「医学部の人達に話をして、教授の許可が出たら予防接種はできると思うわ」
「ワクチンて言っても血清じゃないんだから。1ヶ月は安静期間があるのよ?」
蓮子が渋るのも無理はない。その病院の隔離病棟は通称『結核病棟』と言われていて、軽重を問わず結核の患者が収容されている。
そこに興味本位で近づくのは宜しくないと思っているのだ。患者のプライバシーにもかかわるだろうし、結核患者への偏見は未だ強い。
下手すると病室に入れてもらえないどころか、追い出されるのが落ちだ。
「大体、何でそんな話がウチの大学に来てるのよ?」
渋い顔で茶を飲みながら訊く蓮子に、メリーが種明かしをする。
「あの病院、ウチの大学の教授が何人か兼業で働いてるのよ。で、最近寝不足や精神的な疲労で症状の芳しくない人が多いって事で医事課に訊いたんだって。
そしたら、『枕元で刃物を研ぐ音が小さく聞こえて来る、お迎えがいよいよ来るんだ』ってお年寄りがパニックになっているって言うのよ」
いくら不思議なものに触れていると言っても、蓮子自身は用心深くなっている。
「旧病棟だったら家鳴りとか、湿気の度合いでそう言う音が聞こえるかも知れないわよ?」
その態度にメリーが幾分頬を膨らませるように言った。
「前の一件で蓮子が興味本位の怪異調査を渋るのは判るけど、別に霊安室に行くんじゃないし、空き病室でも調査はできるのよ?」
「それは判るけどね…。患者さんの方からすれば、興味本位で首を突っ込まれるのはどうかと思うのよ」
病身の人間は他人を忌避するきらいが強くなる。特に昔から多くの命を奪ってきた結核への根は深く、今でも治療が完全に確立していない『不治の病』なのだ。
その為に差別され、死を選ぶものも居たし、牢屋もかくやと言わんばかりの隔離施設に閉じ込められて不遇な一生を終える者も居た。
よしんば軽症で治っても、その差別の影はいつまでも纏わりつき、結局は孤立の中に生きるしかない結末が歴史に語られている。
『津山三十人殺し』事件は他の要因もあったものの、その偏見が招いた最たる事件だ。
「…メリー、貴方も結核等、疾病の歴史については聞いてるんでしょう?」
蓮子の言葉に、メリーはあっけらかんと答える。
「そりゃ、廃墟探訪とかで廃病院に行った事もあるくらいだし。でもそれは古典的な確信の産物でしょ?」
蓮子はそういう問題じゃない、と前置きして、
「廃棄病棟と、未だ人の居る病棟は一緒に出来ないわよ。こちらが理解を示しても向こうが突っぱねたら終わりよ?」
メリーはその言葉に「そう言うと思った」とばかりに、カバンから二つの封筒を取り出した。
「これ、読んで見て」
蓮子が受け取ると、ひとつはいつも説教を食らう寺の坊さんのもので、もうひとつは医学部の教授のものだった。
坊さんの手紙は
『何度も出入りはしてるが、怪しい気配はない。拙僧が口利きをするから案ずるな。とりあえずウチの寺に一声かけてくれ』とだけ書いてあった。
教授のほうからは
『体験授業扱いと言うことで話はしてある。役所のほうに話はしてあるのだが皆、場所が場所だけに積極的に動きたがらない。ぜひとも協力してほしい』と。
蓮子の顔の渋さが深くなる。
「…あんた、何か手回ししたでしょう?」
悪びれた様子もなくメリーは言う。
「先日のシラヌヒの話をしにいった後に、怪異の関わらない不思議現象があったら教えてって言ったのよ。シラヌヒの体験は貴重でもあったけど、それで
尻込みしてサークルが活動しないなんていうのは、私としてはよくないわ。坊さんの話だけでも聞いて、それで気乗りがしなかったらキャンセルでも
かまわない。私は行くけどね」
降参したように天を仰いで蓮子が言った。
「判ったわ。あんた一人にするのも危険だしね」
あんな目にあっても、なおアクティブで居られるメリーの性格は、時に蓮子を振り回す。それ故に彼女がメリーのストッパーにもなる訳だが。
「ところで」
「ん?何?」
メリーがジト目の蓮子を見て、考えを先読みしたように言う。
「ああ、あの教授、坊さんの檀家なのよ」
蓮子がため息を深くつく。
檀家ネットワークを使い、坊さん経由で事件を探し、依頼を請け負う形にしたわけだ。
坊さんも怪異が関わってないことを承知の上で受けて、メリーに話を流した、と。
「全く大きな寺も考え物ね。こっちが警戒してても向こうから厄介を持ってくるんだから」
やれやれと首を振る蓮子に、メリーは涼しい顔で爆弾を投下する。
「坊さんも所詮は人よ。どこの檀家の誰がいつ嫁に行くかとか、宗派が違うところのお嬢様学校に娘さんが進学すれば、カミングアウトするかしないかで
裏で賭けたりしてるしね。寺男としてニートを更正させてるのもその関係らしいわよ?」
「…俗世の垢に塗れてるのは昔も変わらないのね。生臭通り越してただの偽医者じゃないの」
江戸時代の川柳に「出家で儲けたを 医者で遣い捨て」と言うものがある。
要は坊主が花街遊びに行く時に、医者と身分を偽って遊女を抱きに行くことを皮肉ったものであるが。
この時代に頭を丸めていたのは、医者と坊主だけと言う風習も背景にある。蓮子はそれを言っているのだ。
「でも、そんな生臭でもアレだけの法力持ってるんだから、人は見かけによらないかもね」
メリーはシラヌヒの出来事を思い出すように言い、携帯のストラップにしている守り鈴をしゃらん、と鳴らす。
「力は認めるけど、見かたが180度変わったわね。今の話で」
どことなく幻滅した言い方で蓮子はまた、ため息をついた。
その一時間後、とある寺。
「わしの手紙を読んだかね?」
好々爺の表情で住職は出迎える。
「読みましたけど…頼む人、間違ってません?」
蓮子の顔は僅かに不審がにじみ出ている。住職は静かに言った。
「うむ。しかしお主らが怪異への接触をこのまま遠ざけてしまうのは、わしとしても惜しいと思うてな。過ぎた用心は、未練を残す禍根の元になるんじゃよ」
納得が行かないと蓮子は答える。
「いつもは用心に越した事は無い、と言ってる上に…怪異の関わらない依頼ではこちらとしても納得は行きかねますよ」
メリーは不機嫌を隠さない蓮子を宥めている。住職はその言葉に、
「お主らは段階を踏まないで怪異に関わろうとする。祓い屋や呪師(のろんじ)とて、いきなりそうなれた訳では無いのはお主も理解しておるだろう?。
階段をすっ飛ばせば踏み外して怪我をするように、自分の力の本質や力量を考えずに、因縁のある場所に行っては厄介ごとに巻き込まれる。
お主らはそんな危険をいつもそばに侍らせてるのだ。まるで恋人のようにな」
蓮子が気まずそうな顔になる。厄介なものを持って来ては祓って貰って、説教を食らってる事が日常なので言い返せない。
住職の言葉は続く。
「まずは入り口から入って、遠くから見て、それで慣れたら本質に近づいていく。能力を我流で磨こうとしても、天賦の才とセンスが無ければ
中途半端なままで終わるし、魂も失う。紫殿に何か言われなかったのかね?」
蓮子は反論できない。事実だからだ。
メリーはあの時を思い出したように不思議そうな顔で明後日の方向を見ている。
住職は二人の顔を見て、話し始めた。
「まずは怪異のシステムの一つがどういうもので出来ているのかを知る、それが今回の依頼の本筋じゃ。元はただの自然な現象も人の心が触れれば
怪異となる。神も、妖怪も、付喪神も、人の想いと畏れの心から成り立ったモノだと言う本質をお主らは頭でしか解っておらん」
重い声が響く。
「故にこの依頼をしたのじゃ。わしとしては紫殿に気に入られた者を凡愚にしたくはないし、失いとうない。あの方が守り鈴をおぬしらに譲ったと言う事は
いつか会いに来てほしいと思うくらい気に入ったのじゃろう」
蓮子は守り鈴を取り出して見つめる。
そして隣のメリーと似通った雰囲気を持つあの女性を重ね合わせる。
『貴方達には、いつか私の本当の住まいで会えるかもしれないわね』
あの時の飯場の主人ーーー八雲 紫の声が蘇る。
メリーの方を見ると、目が合った。彼女は少し心配そうに蓮子の目を見ている。
何気ない風に見てくるこの目が、蓮子には時々不思議な感じを抱かせる。何故か心を覗かれている気がするのだ。
先のシラヌヒの旅から帰ってきて、その印象は強くなっている。と同時に、紫とメリーの姿がダブる事が時折あった。
八雲の姓とハーンの縁、怪異よりも蓮子の興味はそちらの方に惹かれる。
「考え事をしておるのか?目が飛んでおるぞ?」
住職の声に気がつくと、しかめ面の住職が蓮子を見下ろしている。
メリーも心配そうな顔を崩さない。
「すみません、シラヌヒの事を思い出しまして」
気持ちを切り替え、蓮子は話を聞く姿勢に入る。それを見て住職は続けた。
「ともかくも、巷に『都市伝説』としていろいろな話があるように、何気無い噂や伝説にもならない話が突拍子もなく血肉を得るのは、人の心が
そういうものを無意識に生み出す力があるゆえのものじゃ。この話を放って置けばいつか必ず死人が出る」
その言葉にメリーは訊く。
「それは、その話で死神が実体化するという事ですか?」
住職は半分肯定する。
「信心が神の糧になるように、それを信じることによって自分でそう言う存在を作ってしまうのじゃよ。それが引き金になって、
その話が人の負の感情を背負い始めれば、いつか本当に死神が出るじゃろう。わしがハナタレの頃に良く流行った不幸の手紙もその一つじゃった。
狐狗狸さんも…まあ集団の心が作り出す怪異の一種じゃな。
手紙で読んだ通り、今は噂が歩いてるだけじゃ。それを噂のままで終わらせられるかがお主らの課題じゃよ」
住職の顔が少し愁いを帯びた。
「度が過ぎればそうやって自分たちの想念で怪異を呼び寄せ、あるいは生み出して常世へ連れて行かれたものも居る。人の心はどんなに解析しても
魂の本質までは見えぬものよ。この分野だけは、わしも未だ悟れぬ」
そこまで話したときに、寺男が襖の外から声をかける。
「住職様、お客人です。今回の騒動についてセイラン病院からやってきた、と申しております」
住職はその言葉に一言「お通ししなさい」と答えて来客を待つ。
やがて通されたのは、ラフな服装の短いツインテールの女性。年は蓮子達より少し上と言う所で、背は高く、歳に不相応な貫禄がある。
相好を崩して住職が語りかける。
「久方ぶりじゃの。秋田殿」
「そうだねえ。前に会ったのは二年位前かねえ?ところでこちらの娘さん達は?」
住職が紹介する前に蓮子たちが挨拶し、名乗る。
「初めまして、私は宇佐見 蓮子と申します」
「私はマエりべリー・ハーン。外国人ですが日本生まれの日本育ちです。メリーで構いません」
二人の挨拶に、秋田と呼ばれた女性は笑って自己紹介をする。
「あたいはセイラン病院旧病棟の副長、秋田 こまちって言うんだ。今回の騒動に力を貸してくれると言うんで期待してるよ」
そこで住職が小町に訊く。
「婦長様はお元気ですかね?」
こまちは少し、ばつが悪そうに言った。
「あたいがサボる事が出来ない位元気ですよ。まじめなのはいいけど…仕事バカなあの性格は、何とかならないかなと思うね」
住職は諭すように言う。
「そりゃ、口実つけて屋上で昼寝してたり酒かっくらってりゃあ、怒られるのは当たり前じゃろ?そのサボり癖を何とかしないと、
そのうち下っ端へ格下げになってしまうぞ?」
こまちは馬耳東風と言った風に返す。
「あたいはあたいの職務を全うして、余った時間に休んでるんだけどね」
「休憩時間中でもない限り、他の看護師の手伝いに回ったりと色々あるじゃろう?まあその話は後にして、この二人を旧病棟での例の事件の解決に
協力してもらうことにしたのだが、話は通してあるかね?」
住職の問いに、こまちは笑って返す。
「あんたの檀家の先生を通して話は受けてるよ。婦長もOKだってさ。制服はこちらで用意してるけど、立場上インターンの腕章はしてもらうよ。
ま、あんた達は患者さんに関わらなくていいようにしてあるし、どの病室でも起きてるんで空き病室で調査してもらうさね」
蓮子がそこで話に入る。
「手回しが周到ですが…一刻を争うのですか?」
小町は
「まあ少し余裕はあるんだけど、『病は気から』の通りに衰弱している患者さんも出ていてね。この手の話は一回実例が出ると追随する患者さんが多いんだよ。
そうなると手続きとかであたいの仕事も滞るし、何よりも他の看護師自体も困ってるんで、厄介ごとを増やしたくないのさね。そうでなくても人手不足だしね」
心底困ったような声に、蓮子は訊く。
「住職さん、本当にこれ、怪異関わってないんですか?」
住職はきっぱりと言う。
「わしの話を聞いていれば解ると思うのじゃがな。噂に血肉をつけるのは人の心じゃよ。ゆえにその噂の真相が解れば誤解も解けていく。
信仰を失えば神も存在をなくす様にな。後は真相しだいでわしと檀家の若造が出張るから安心せい。くれぐれもわしの言うた事を忘れるなよ?」
その顔にはメリーから聞いている生臭さはない。裏の顔と表の顔の使い分けも老獪の技に入るのだろうか?
「ん?わしの顔に何か?」
住職の問いに、蓮子はあわてて首を横に振った。
数日後。セイラン病院の看護師室にて。
夕刻の朝礼時間、婦長がよく通る、はっきりした声で点検事項を話し、その後隣に居る二人の紹介をする。
「はい、この二人が体験学習扱いの学生さんたちです。表向きはそうなっていますが医療に関しては全くノータッチですので、
絶対に仕事を頼んだりはしないようにして下さい」
婦長の横には慣れないナース服に身を固めるメリーと蓮子の姿があった。
チーフのバッジを胸に付けたこまちは少し苦笑いを含んだ笑顔で二人を見ていたが、婦長に睨まれて表情をあわてて元に戻した。
どうも本気で彼女は婦長の事を苦手に思っているらしい。
朝礼の解散後に、婦長が二人に小声で話す。
「協力していただけると聞いて助かりました。一応今月中にはこの病棟も解体されるのですが、仮病棟にまでこの話を引きずられると
色々困りますので…」
それに蓮子が自信なさげに答える。
「まだ解決できると決まったわけではありませんし、もしかしたら空振りかもしれませんよ?」
その言葉に、こまちは笑って言った。
「あんた達なら大丈夫だよ。あの坊さんも太鼓判を押してるし、何しろゆ…」
「秋田さん!」
いきなりビシッと打ち付けるような声に小町が固まる。
「あなたは余計な一言が多すぎます。大体それで患者さんをパニックにしたりショックを与えたりと言うことを何度繰り返してると思っているのですか。
大体、医療と言うものは人の命を救うものであり…」
そこでこまちが手を胸の前に掲げてストップをかける。
「ちょ、婦長、あたいだけなら兎も角、この二人の調査を妨げるのはまずいですって」
婦長がはっと気づいたように蓮子たちを見て、仕方ないな、と言うようにため息をついて言う。
「すみませんね、お二人とも。とりあえず二階の一番端の病室は無人です。ただ、隣の病室には患者さんがいらっしゃるので、静かに調査することを心がけて下さい」
そう言うと、婦長はこまちに指示とスケジュール表を渡して看護師室から出て行く。
その背中を見送り、完全にドアが閉まるのを見届けると、こまちは小声で言った。
「婦長は説教癖があってね。あたいも付き合いが長いけど全く説教が短くなる気配が無いんだよ。加えてあの性格だからやりにくくてさ」
こまちの言葉に、メリーが返す。
「でも、何か息のあったコンビって感じですよ。随分長い間一緒に働いているのですか?」
少しげんなりしながらも、こまちは答える。
「腐れ縁に近いかもね。あたいも五年から先は覚えてないわ。とりあえず病室まで案内するよ。荷物の用意があったら台車に乗せるからこっちに持ってきてね」
板張りの古い廊下を照らす蛍光灯は薄暗く、窓枠も木作りだ。しかも鍵はねじ式で、つまみを回して掛けるタイプの、もう殆ど見られないモノ。
台車を押すこまちの案内で歩きながら、蓮子とメリーは少し前のシモマゴの風景を思い出していた。
「ここもリアルで映画の世界ね」と蓮子。
「シモマゴを思い出す建物だけど、実在してたとは知らなかったわ」
鼻歌交じりに台車を押すこまちが割って入って来た。
「ここは『家』の様な病棟だからね。所々改築したり修理の手は入れられても、全体を立て替えるのは色々あって無理だったんだよ」
板張りの廊下に木の軋みが僅かにこだまする。
「全体的な建て直しは無理だったんですか?」とメリー。
こまちは少し苦味を含んだ顔で答える。
「建て替えには少々面倒があってね…患者さんの移動とかもあるし、他の病棟からは一時的でもこちらに移すなと反対されたりね」
彼女はさらに続ける。
「実際、弱っている患者さんをさらに罹患の危険に晒すわけにも行かないし、仮の病棟を作るにも土地のこともあったし、根本に
差別と偏見があれば上手く行くものも行かなくなるのよ」
言葉はそこで途切れて、暫く無言の中に三人の足音と、台車の音が響く。
こまちが唐突に話を再開する。
「そう言う周囲の目に耐えて、色々な命がここで病気と闘って、生き残ったり、又は負けて死んでいったりした。あたいもここに来て長いけど
そんな風景が日常になると複雑な気持ちだね」
その言葉に何かやりきれないものを感じ、蓮子はなんとなく訊いて見る。
「やっぱり、人の死に立ち会うのと言うのは、慣れてしまうと何も思わなくなってしまうんですか?」
こまちは振り返らずに言う。
「感慨とかそう言うのはあるけれど、救いたくても救えない命をそばで見守らなければならない立場としては、そうなっちゃいけないのよ。
人の命を扱うものに一番あってはいけないのは『命をモノとして扱う』事だから。実験動物も含めて、ね」
沈黙が落ちる。二人は何を言っていいか解らなかった。
新しい薬を作る過程で人工的に病気にされて命を失う、又は障害を負わされ、そのまま標本になったり廃棄される実験動物たち。
対象が人間で無いだけで、命を長らえる為に別の命を犠牲にしている真実、それが病院の一面でもあるのだ。
命を救うための命の犠牲、その矛盾は明快に提示されているが、誰も異を唱えようとしない ---唱えられない。
こまちは続ける
「でも、健康な時は省みられず、いざ自分が病に倒れて初めて気づく場所として、病院てのは神頼みとか宗教の様な所みたいだとは思うね。
ペルシアのケイホスロウに出された難題と同じさね」
---「人々が旅の末流れ着いた先に富める王国と病める荒野あり
人々喜びて、しかし、なにゆえか王国に気づかぬかの如く病んだ荒野を耕し
苦役をもって国をもうひとつ作りたる。
だが、ある日地震え、嵐来たりて荒野の国は滅び
しかしそこで初めて人々は富める王国に気づかん。こは何を表す?」
ケイホスロウ答えて曰く
「荒野は現世、王国はあの世なり。
生ける時は気づかず、死して初めてそに気づかされる国
そはこの世の物ではなく、この世の為に作られしものに非ず
即ちこれ現世を去りし者のみが入れし国なり」
こまちの言葉に、ペルシア神話の勇者に出された十の質問のひとつを蓮子は思い出す。
健やかなる時は省みられず、病んで初めて思い出す場所と言う意味では、この質問と答えは共通している。
やがて、廊下の一番隅、非常口に近い部屋に三人は着いた。
「ここが調査に使う部屋。何かあったらナースコールじゃなくてこの番号に電話してね」
PHSの番号が書かれたメモを渡して、こまちは「頼んだよ」と手を振って戻っていった。
残された二人は台車を病室へ運び、調査の準備を始める。
集音マイクや録音機器をセットしながら、蓮子は先ほどのこまちの言葉を思い出す。
『健康な時は省みられず、いざ自分が病に倒れて初めて気づく場所』
色々な所を回っては怪異の調査や、それにまつわる奇妙だが貴重な体験をしている自分達。
その怪異の中には、自分達が在るべき所に連れて行くまで省られなかった者もいたし、寂れていく街が見せたその土地の思い出もあった。
それは日常に何気なく溶け込んで、誰でも知っているが気づかない、路傍の石。
この病院で息を引き取った人にも、こまちの言った言葉と同じ想いを持ったのだろうか。
もしかしたらこの現象も、それが引き起こしたものなのか?住職はああ言ってはいたが…。
「蓮子?」
はっと気づくと、不思議そうに蓮子の顔を覗き込むメリーの姿があった。
「どしたの?手が止まってたけど」
メリーの問いに蓮子は無理に笑顔を作って言う。
「いや、この現象が本当に怪異が関わってないのかなって」
その言葉にメリーは少し難しい顔になる。
「その事なんだけどさ、病院の建物自体は別に何も感じないんだけど、何か引っかかるのよね」
準備を再開しながら、蓮子は問う。
「引っかかる?何が?」
「あの看護師さん…こまちさんだっけ? あの人何か、雰囲気と言うか…上手く説明できないんだけど、あの坊さんとも違う何かを感じるのよね」
「あ、私もそれは感じた。何か若いのにあの坊さんよりも長生きしてそうな感じ」
蓮子の同調に、メリーが納得の行く顔になった。
「それよ、仙人みたいな達観した感じだけど、坊さんに近い重いものを背負った感じがするのよ」
メリーは思考の糸が繋がった様に言った。しかし蓮子はそれに僅かな異を唱える。
「こまちさんは身近で沢山の人の最後を看取っているし、それが余計にそう感じるんじゃないかな?葬儀で送るのと命が消える瞬間を目の前で見るのとは、やはり違うと思うわよ?」
蓮子の言葉にメリーは顔をしかめる
「んー、そう言うことじゃなくて、何かこう…」
「お二人とも」
声に驚くと、部屋の入り口で婦長が腕を組んで仁王立ちになっていた。
「熱心なのは良いのですが、少し声が大きすぎます。ここの患者さんのメンタルは今、非常に不安定です。雑談にふけるのは構いませんが
ここがどう言う所かを忘れてしまっては困ります。あなた達が医療に関係ない人間でも、それは遵守されるべき物ですから」
鋭く切り込むような、物事の白黒を曖昧にせずに斬るような声。
「申し訳ありません。気をつけますので」
二人が頭を下げて謝罪すると、婦長は少し柔らかい声で言う。
「判っていただければ構いませんが、忘れないようにして下さい。自己紹介が遅れましたが私は色(しき)えいこ。ここの臨時婦長です」
「臨時と言うと、人手が足りないのですか?」
蓮子が訊くと、えいこは
「この病棟もそろそろ建て替えなければならないので人手が足りないのです。なのでここ一年ほどここで働かせていただいています。
こまちも私と同じ病院で直属の部下なので、あなた方のお知り合いの住職のご紹介で共にお世話になりました」
「あのお坊さんのお知り合いですか…顔が広いですね。あの方は」
メリーは驚きを隠さない。蓮子も同じだが、その脳裏にはシラヌヒで出会った彼女の顔が浮かんでいた。
驚き覚めやらぬ二人を真っ直ぐに見て、えいこは言った。
「あなた方の働きがここの患者さんの心を左右する、それだけは覚えておいて下さい。後手に回れば患者さんの命にも関わりかねません。
それがただの軽い噂でも、弱った心には鉛の重さを与えます。解りましたね」
それだけ言い置いて、彼女は無言で立ち去る。
「居たのにも気づかなかったわね。仕事慣れと言うか、看護師以外の仕事をしてたように見えるわ」と蓮子。
「案外、大学の教授とかの堅い仕事か、医者兼任の診療所に居たのかもね。あそこは判断の的確さが全てだから」とメリー
そんなこんなで二人が準備を終えたのはそれから三十分を過ぎてからだった。
集音マイクに音が入らないように彼女らは静かに部屋の片隅で待つ。
随分と使われてない病室だったのか、四人用の病室なのにベッドは撤去されてナースコールのブザーボタンや
所々凹んだ酸素吸入用の金属パネルと蛍光灯、そしてカーテンが取り払われたレールだけが当時を語る。
『静かね』
メリーがルーズリーフに筆談を書いてくる。
『まあね。でも消灯時間前でもこんなに静かなのは妙よね』
蓮子が疑問を書くと
『さっきの婦長さんが関係してたら可能性はあると思う』とメリー
『確かに』と返す蓮子。
こまちや自分達へのものの言い方から考えると、昔よく居た「説教魔」とも言うべき人種そのものだ。
『多分、下手な事をしてると強制的に消灯したり、ダメなものはダメと理屈も何も抜きで言っていそうだし。多分教授にも』
『ああ、確かにやってそうだよね。教授も大変かも』
部屋にかすかな笑い声が響く。
ちゃっ。
その笑い声は、二人の耳元の音によって、強制的に消された。
周囲を注意深く見る蓮子。耳を澄ましてレコーダーのスイッチの確認とメモリの残量の再確認をするメリー。
ちゃっ ちゃっ ちゃっ…。
あちこちから微かに聞こえて来る音。確かに音は短いが、刃を研ぐ音にも似ている。
「メリー、録音レベルは確認した?」小声で蓮子が訊くと
「最大レベルよ。下手すればこの会話も録音できているかも」
「とりあえず録音は絶対失敗しちゃダメ。これを分析して貰うから」
「うん」
二人が息を殺して録音をしている間、廊下を行ったり来たりする足音や、患者であろう人達の声が聞こえて来る。
半分泣いている声も響く。
録音を続けながら、二人はこの音のどこに恐怖を感じるのか疑問に思っていた。
しかも特定の人間ならいざ知らず、入院している人間のかなりが恐怖しているとしか思えない。
そんな中、蓮子が気づく。この部屋に小さな虫が多くなっている事に。
体長が三ミリ程のそれは、準備が終わって灯りをつけた途端に出てきはじめ、結構な数が簡易ライトに集まって来ている。
窓は締め切っているが、それでも隙間があるのか、羽アリみたいなそれはライトの周りを飛んだりしている。
とりあえず蓮子は小さなプラケースを出して、何匹かその虫を捕まえて中に放り込んだ。
「メリー、録音の方は?」
小さく問う蓮子にメリーは首を小さく振った。
「音の方は録れてるけど、後半からこの騒ぎだから分析に時間を取られるかも知れないわ。とりあえずも教授次第ね」
翌日。
えいこへ簡単な報告をした後、二人は仮眠を取って寺に連絡をし、住職と逢うことになった。
檀家になっている教授も来るとの事で、二人は昨夜のサンプルをチェックし、寺に向かう。
寺では住職と、先に到着した教授が待っていた。
「首尾はどうだったかね?」と住職。
蓮子達はサンプルを取り出しながら言う。
「確かに音は鳴っていました。ただ、私達には不可解だったのですけど…」
住職の片方の眉が跳ね上がる。
「何かあったのかね?」
メリーがそれに答える。
「あの音が聞こえ始めてから騒ぎが大きくなったんですよ。まるで集団ヒステリーに近い感じでしたね」
「ふむ…」住職の眉間の皺が深くなる。
そこで蓮子がサンプルを教授に渡す。
「音の分析と、あと、あの病室にこんな虫が居たので何匹か捕まえてきました。音と関係あるかは自信はありませんが、並行して調べて戴けますか?」
教授はサンプルを受け取り、注意深く手提げ金庫の中にしまう。
そして三日くらいで結果が出るだろうと言い残し、先に戻った。
教授を見送った後、住職が二人に聞いてくる。
「そう言えば、婦長殿はどうだったかね?」
その問いにメリーが答える。
「こまちさんもそうなんですけど、住職さんより若く見えるのに、住職さん以上の年齢を生きている感じでした」
蓮子も
「あと…感じが何か、紫さんに似ていました。シラヌヒの街の」
住職はその言葉に僅かに眉を動かしただけで、目立った反応はなかった。
「そうかね。わしもまだ小僧なんだなあ」
そう言って彼は開け放たれている庭の方を見たが、その目は遥か彼方の、どこかの地を懐かしむように遠くを見ていた。
その二日後。
緊急に寺まで来てくれ、と言う連絡を受けて蓮子達は駆けつける。
中に通されると、そこには住職と教授の他に、こまち、えいこの二人も居た。
「住職さん、何故この方々が?」
驚く蓮子達に住職は静かに言った。
「詳しくは順を追って話す。まずは彼の話を聞きなさい」
その言葉に促されて、教授が話を始める。
「宇佐見さん達のお手柄だね。あの音と虫だけど、きちんと関連があったよ」
思わず蓮子が身を乗り出す。
「本当ですか!?」
教授はまあ、落ち着いてと前置きをして話を続ける。
「あの音は正に、宇佐見さんが捕まえた虫が出していたんだ。この本に詳細が載っているよ」
彼はそう言うと、昆虫図鑑を出して説明する。
「あの音の正体はチャタテムシと言う虫の鳴き声なんだよ。この虫はカビや苔を食べる虫でね、これが天候のせいか大発生したんだ。
あの病棟は古いから、多分壁の裏の空洞に生えたカビを食べて増えたんだと思う。その辺については別の教授が調査してるよ。
今ではコンクリートの家が主流だし、木造でも高温殺菌した板や消毒処理をされているから滅多に見ない虫だけどね」
教授の説明に繋がりは解ったが、今一つ納得行かない所がある。蓮子は住職に質問する。
「それだけの話なら、えいきさん達がここに居るのは何故ですか?病院で話は出来ますよね?」
「わしが呼んだからだよ」と住職。
「これから先の話は病院でする訳にはいかんのでな。院長に無理を言って来て頂いたのだよ」
住職は教授に説明を促す。
「…君達の持ってきたサンプルだけど、音を解析している時に奇妙な波形があってね。人間には聞き取れない高周波なんだが、どうもこれが
患者さんの精神的な容態を悪くしている原因みたいなんだ」
蓮子とメリーは顔を見合わせる。自分達には影響がなかったのだから当たり前だ。
教授はそれを察したように話を続けた。
「で、その高周波を読み取って耳に聞こえるようにしたのがこれ」
彼はレコーダーの再生スイッチを入れた。
何かの弦を爪弾くような音と共に、謡う様に聞こえてきたのは詩の一節らしきモノ。
『思い通りになったなら来はしなかった。
思い通りになるものなら誰が行くものか?
この荒家に来ず、行かず、住まずだったら、
ああ、それこそどんなによかったろうか!
来ては行くだけで何の甲斐があろう?
この玉の緒の切れ目はいったいどこであろう?
罪もなく輪廻の環の中につながれ、
身を燃やして灰となる煙はどこであろう?
ああ、空しくも齢を重ねたものよ、
いまに大空の研鎌が首を掻くよ。
いたましや、助けてくれ、この命を、
望み一つ叶わずに消えてしまうよ!
佳い人と一生安らかにいたとて、
一生この世の栄耀をつくしたとて、
所詮は旅出する身の上だもの、
すべて一場の夢さ、一生に何を見たとて』
「ルバイヤートの一節だね。これを虫の音に隠して患者さんに聴かせていれば、暗示効果で不安が掻き立てられる仕組みになっていると」
初めてこまちが口を開く。が、その顔はかなり剣呑だ。
「こう言う事が出来るの者は限られてますね。住職、その下手人はここへ呼んでおりますでしょう?」
えいこも冷静だが、その声は低く、刃物の様な響きを伴っている。
住職はその気配に押された様にしながらも、静かに言った。
「もう隣の間で待っております。及び致しますゆえ、しばしお待ちを…」
そこで住職が立ち上がろうとした時、聞き覚えのある声が襖の向こうからかかる。
「呼ばなくても丸聞こえよ。こちらから出るわ」
と同時に襖が音も無く開き、そこには八卦の文様をあしらったドレスの様な服を着た女性と、黒いマントを羽織った、緑髪の小柄な少女が立っていた。
「お久しぶりね。シラヌヒの一件からそんなには経ってないと思うけど、こんな短い間に逢えるとは思わなかったわ」
話し方は初めて逢った時と変わってはいない、が、いかにも言葉は白々しい。
「紫…さん?」
メリーが呆けたようにその名を呼んだ。
紫はどこからか扇子を取り出し、パッと開いて笑みを隠す。
「やっぱりあんたか」こまちが飛び掛らんばかりの勢いで紫を睨む。
「私達の仕事を中断させるような事をする所か、人間界に怪異を振りまくとはどう言う事なのか、説明していただけますね?」
えいこも一刀の下に斬り伏せんばかりの剣幕だ。
その剣幕に飲まれたか、紫の隣の少女が震えだす。
「あなた達の仕事を邪魔するつもりは無かったわ。強いて言えば、あなた達が勝手に介入してきたからこうなっただけなのだけど」
飄々と二人の怒気を受け流して、紫は扇子の下で笑む。
こまちはそれでも憤懣やるかたないとばかりに言った。
「あたいの仕事を邪魔するつもりでなければ、何でリグルを使ってまであんな事をしたのか聞かせてもらいたいねえ?この小野塚小町の鎌に掛けて」
「私も冥界の裁判官としてその意見に賛同します。誤魔化しや嘘は私に通りませんよ。全てを正直に話せば良し、話せなければ…」
一触即発の空気が漂いだす。が、ここで待ったがかかった。
「映姫殿、小町殿、ここで争うのは待って下され。うちの檀家の人間も居るし、何よりもこちらの二人が状況を飲み込めておらんのです」
住職の懇願に似た頼みに三人はひとまず場を納める。
「あの…紫さんの隣に居る子は?」蓮子が訳が解らないままだ。
紫はにこやかに紹介する。
「この娘はリグル・ナイトバグと言う名前でね。蛍の化生にして虫使いなのよ」
紹介されたリグルは震えたままお辞儀をする。
「紫殿、幾らあなたと言えど人の生き死にに関わるところでの騒ぎはどうかと思うのですが…普通の人間なら、こちらのようになってもおかしくないのですぞ?」
住職の視線の先には二人の怒気をまともに受けてしまった教授が白目で固まっていた。
紫は知らぬ気に
「それは失礼したわね。とりあえず運び出して頂戴な」
教授が寺男に運ばれて別室に移された後、紫が先を切った。
「最初はリグルにお願いして怪異の『噂』だけを流すのが目的だったんだけどね。まさかあそこまで心理的に効いてしまったのは私の落ち度よ」
彼女は流し目でリグルを見た。が、リグルの方はやり過ぎたと心底しょげている。
「…紫、大体『あちら』と、この世界の人間の怪異に対する耐性はあんたが良く知る所でしょうが」
小町は不機嫌な表情を崩さない。人の命を弄んでいる様なやり方なのだから怒りは当然の事だ。
紫は肩をすくめて返す。
「ええ、科学の前に幻想が消えていく、それ故に私達がこの世界に存在できなくなる。そこまでは計算してたのよ。
でも、病の前に科学の力が及ばないという事実が突きつけられた時に、マヤカシを砕かれた人の心が幻想を思い出す事を忘れていたわ」
そこで、えいこ改め映姫が切り込んできた。
「それならば、その副作用が出た所で切り上げるべきです。人の命を弄ぶような事は幾らあなたでも許されざる行為ですよ」
紫は映姫の言葉にそっと人差し指を立てて、一言言った。
「人の噂も七十五日」
そこで弄んでいた扇子を畳み、紫は続けた。
「私の目的は別にそんなことでは無くて、彼女達を引っ張り出す事だったのよ」
流した視線の先には蓮子とメリーが居る。
「随分とこの二人にご執心だねえ。ただの人間では無い様なのはあたいにも解るけど、この二人に逢う為だけにあんなことをしたってのかい?」
小町の目が鋭くなる。
「そう言われると『Exactly』が適切だわね」
紫は挑発するように答えた。それを見た小町がいきり立つ、が、映姫に止められて座りなおす。
映姫は静かに訊いた。
「では、何故このような事を続けたのでしょうね?」
紫は少し憂いた様に言った。
「目的が果たせれば何を犠牲にしても構わない、と言う考えではないわ。噂があくまで噂のまま、維持させる事だったから。途中でやめたら
噂は七十五日なんてものでは無いスピードで沈静化してしまう。とりあえず二人が出てくるまで続けて、後はこの子達が解決して
『虫の鳴き声でした』で終わるはず、だったのよね。
---でも、病に怯える人の心の脆さを測り間違えたのよ。
まさかあなた達が出張る程の事態になるとまでは考え付かなかった。科学に傾倒していても、いざとなれば人の心は闇に震えていた頃に戻るのね。
そこは素直にあなた達にお詫びするわ。住職にも迷惑を掛けてしまったし」
住職は苦い顔になっている。事情を知っての上で三方に関わっているのだから、後味の悪さは想像するまでも無いだろう。
「そう言えば、小町さんと映姫さんは何故こちらの方に?」
蓮子が抱えていた疑問をぶつけてみる。
「あたいは三途の河の渡し守をやっていてね。俗に言う死神さね…で、不自然な死が多くなると魂をあたいだけで渡しきれない。そうなると行き場を失った魂が異変を起こす場合があるのさ」
映姫がその話を継ぐ。
「前に私達の世界が狂い咲きの花で埋め尽くされそうになりましてね。そう言う異変を専門にしている退治屋が閻魔庁に乗り込んできて大騒ぎになったことがあるのです。
あの時もかなり仕事のペースが落ちて、魂の裁きが大幅に遅れた事があったので、今回はそれを未然に防ぐ意味と、局地的に死人が発生した原因を調査して、私達の世界に影響を及ぼす危険があるなら、
先手を打って潰しておこうとしたのです」
二人の話が終わるのを待って紫は話を再開する。
「シラヌヒの一件はあなた達にも宴会で話したわよね?」
映姫達は頷く。それを見て紫はまた話す。
「この子達は霊夢達にも負けない素質を秘めているわ。私としてはいつかそれを開花させてもらいたいの」
そこで小町が疑問を投げかける。
「だったら何でこんな回りくどい事をするかね?あの詩の一節はどう考えたってやりすぎだよ。下手すりゃ首くくりや身投げが出るところだよ?」
その声はやはり怒りを隠していない。本当に人の心で怪異を作り出す一歩手前のことをやっているのだ。
「その事については私もやり過ぎたと反省してるわ。でもシラヌヒの一件でこの子達が持っている能力を封じてしまうのはどうしても私にとっては
惜しい事なのよ。特にそちらの私に似てる子はね」
そこでメリーが訊いた。
「紫さんは、私にどうなって欲しいの?」
紫はメリーの目を見て、はっきりと言う。
「私と同じ能力を持って欲しい。ゆくゆくは私達の世界に来て欲しいわね」
全員の表情が固まる。
「紫…本気で言ってんの?」
小町の言葉に、さらりと紫は返す。
「ええ、本気よ。この子は以前、私達の世界…『幻想郷』に迷い込んで、そして帰って来た子だもの。霊夢の手も借りずに、ね」
紫を除いた全員が絶句する。それに構わず紫は蓮子を見た。
「そしてこちらの星読みの巫女にも来て頂きたいと思ってるわ」
「へ?私…?」
間の抜けた声で蓮子が訊き返す。
「あなた以外に誰も居ないわ。でも、私は二人に無理強いはしない。前にも言った通り、この世界はまだ不思議な事が沢山あるの。出来れば
それをゆっくりと楽しんでから来て欲しいのよ。
その途中で道を違えるのも良し、諦めて普通の人間として生きる事も可能だわ。人間をやめて能力を開花させるほうを選べば
私達の郷はあなた達を歓迎するわよ。来るものは何でも…人も神もそれ以外も受け入れる場所だから」
映姫がそこで口を開く。
「つまり、この子達に何とか怪異への興味を保ってもらおうとした訳ですね?」
紫は頷いた。
「ええ。そうやって徐々にこちらに誘導しようと思ったのだけど、人の心の深さを甘く見すぎていたわ。ここまで関わる人物が増えると
かえって話がややこしくなる。だから住職の呼び出しに応えてリグルを連れてお詫びに来たのよ。だからこの話は白紙に戻る。後は二人の自由意志に任せるしかないわ」
そして、紫はメリーと蓮子のほうへ向き直り、やさしく言った。
「本当にごめんなさいね。でも、住職に罪は無いから責めないであげて。彼には私が頼んだ事をしてもらっただけだから」
住職は「すまぬな」と申し訳なさそうに頭を下げた。
しかし、蓮子の心に猜疑や疑心は湧いてこない。
メリーを見ると、やはり気を悪くしているわけではないらしく、むしろ目が輝いている。
「謝らないで下さい」
メリーの声がはっきりと響く。
「紫さん、未来はわかりませんけど、私達の辿る道とあなたが行く道が交わった時に…また逢えますよね?」
紫は一瞬、虚を突かれたような顔になったが、笑って無言のまま頷いた。
住職も驚いた顔でメリーを見ている。映姫も小町も同じだ。
その中で蓮子は考えていた。
自分はどうなりたいのだろう?メリーと共に怪異に関わる謎や物事に触れることは楽しい。だが、ふとした拍子にメリーが本当に
向こうの世界に行ってしまったら?
自分はどうするだろう。
初めてはっきりと自覚する戸惑いは彼女の時間を止める。
大切な友人を失いたくない。しかしまた自分達の行動が取り返しのつかないことになってしまったら?
その時に自分やメリーに何の力も無かったら?
『因縁についての物事を調べるのはいいことだ。しかし、それは同時に、常に生死の境界を行き来するのと同じ事だって事を覚えておいてくれ』
『若さに任せての興味本位や好奇心に突き動かされるままでは、本当に魂まで失うわよ』
その言葉に何かが折れそうになる。と、その時、蓮子の肩を揺さぶって名前を呼んでいる誰かが目の前に居た。
「蓮子!しっかりしなさいってば!」
メリーが自分に檄を飛ばしている。
「あんたがやらないなら、私も動かない!同じ世界が見える親友はあんたしか居ないの!!」
そう言う彼女の瞳が潤んでいる。泣きそうな子供の顔に似ている、どこにでも居る普通の女の子の顔。
「未来は未だ来てない時間だから未来って言うのよ!何で先の事まで勝手に考えて諦めようとしてるのよ!あんたが居るから私もここまで
来れたんじゃない!自信持ちなさいよ!聞いてるの蓮子!!」
シモマゴの街でもそんな考えに囚われかけた事を思い出す。
シラヌヒの街でも恐怖を思い出してつぶれかけた事があった。でも、その時隣に居たのは…目の前の彼女だ。
持ち前の能天気とエネルギーで蓮子を時には振り回して、でも、危うい時には引っ張りあげてくれて、食いしん坊で奔放な、彼女。
そうか。
私は、彼女が居なくなるのが怖いんだ。
いつも一緒に居ることが当たり前になっていて、トラブルも楽しみも分かち合って。
いつの間にか忘れていた、「支え」としての「マエリベリー・ハーン」。
その彼女が目の前で半泣きになりながら蓮子に呼びかけている。
その時ふと、目の前の時間が元に戻った。
「メリー、大丈夫だよ」
驚くほど自分の声とは思えない、迷いを脱ぎ捨てた声。
「私も、まだ色々見足りない。だから、秘封倶楽部はまだ続くよ」
メリーの顔が安堵に変わる。
「でも、私はこんな性格だから、また自分で抱え込んで倒れてしまうかもしれない。その時は容赦なく引っぱたいて正気に戻してね。
その代わり、あんたが暴走しそうな時はあんたを鎖でふんじばってでも止める」
蓮子の言葉に、メリーも張り合うように言った。
「その言葉、忘れたら殴ってでも思い出させるわよ」
「こっちこそ、その言葉、そのままお返しするわ」
二人はいつもの自分に戻り、楽しげに笑っていた。
その数日後。
調査結果が院内に通達されて、急遽仮設病棟を作り迅速に駆虫をした結果、音はぴたりと止まり、患者達の動揺も収まりつつあると言う
報告が映姫達から蓮子達へ渡された。
もう患者が夜に怯えることも無く、多少の悪夢はあるだろうが追い詰められることは無いだろう。噂はあくまで噂で終わったのだ。
その影に二人の女性の尽力と、分析に協力した教授達が居る事は、その本人しか知らない事だ ーーー駆虫に関わった虫使いの少女の事も。
そして夕暮れ近く、いつもの寺の門前で。
「あーあ、結局無駄働きだねえ。あっち帰ったら覚悟しておきなよ。紫ぃ」
「全くです。私も仕事を長く休んだおかげで向こう五十年は休暇なしですよ。この怒りの白黒はきちんと着けさせて頂きますよ」
小町と映姫が疲れたように愚痴り、そのやりきれなさの矛先を紫に向ける。が、彼女は意に介さず、
「根回しをしようとすればその時点で邪魔するでしょうに。それが解っていてわざわざ予告するような真似なんかできないでしょう?
あと、私を責めるのは構わないけど、リグルを共犯扱いするのは絶対禁止よ。私の独断だから」
「あ、も、申し訳ございませんでした…」
リグルは置いてけぼりの上に、自分の結果が三途の河の渡し守と閻魔を動かした事に対して完全に小さくなっていた。
「リグルさん、気にしないで。私は面白い経験が出来て楽しかったわ」
メリーがリグルに全く気にしていないとニコニコしている。この顔が出た時は満足の行った結果が出た証拠だ。
「蓮子も気にしてないよね?」
いきなり話を振られたが、蓮子は停滞も無く軽口で返した。
「あんたの暴走は気になったけどね。でも、見たことの無いものを見られて楽しかったわ」
「そこまで茶化せれば大丈夫ね」
門前で賑やかす彼女らの顔は明るい。
門を出ようとして、紫が振り返り、蓮子達に言う。
「今後は本当に自分から介入はしないわ。でも、この世界に幻想のかけらがある限り、あなた達とはまた会えるでしょう。とりあえず住職の言うことを
しっかり心に刻んで怪異と向き合いなさい。前に渡した守り鈴も手放さないようにね」
映姫がその言葉に突っ込みを入れる。
「あなたが言えた立場ですか。大体自分の欲で人の身をですね…」
「映姫様、続きは郷に帰ってからにしましょう。このままじゃいつまでも帰れませんよ」
「小町!あなたもですね、こちらの世界に旅行気分で来て仕事を効率よくサボって私に何か言えると思ってるのですか!」
その様子を見ていた住職が見ていられないと割って入る。
「お三方、これ以上時間が長引けば、それだけ帰るのが遅れます。この落とし前は拙僧が寿命を全うしてから付けるゆえ、今はこらえて頂けますか」
心からの心配に、映姫も沈黙せざるを得ない。
「む…仕方がありませんね。しかし僧籍である事は人々を間違った方向へ導かない事です。ゆめゆめ忘れないように」
「存じております。またお会いする時までお達者で」
蓮子とメリーが三人に礼をする。
「小町さん、映姫さん、紫さん、色々と面白かったです。またいつか会いましょう」
その声に小町は「くれぐれも用心しなよ」と笑って返し、映姫は「ちゃんと生身の体で来るのですよ」と忠告なのかピントのずれた返しをし、
紫は無言で薄く笑って扇子を広げる。
その扇子が軽く振られると花吹雪が巻き起こり、蓮子達の視界を埋め尽くした。
やがて、花びらの洪水が引いた時、そこにはもう、三人の姿は無くなって、花びらが残るだけだった。
それを一つつまんで拾い上げ、住職が小さく呟いた。
「ネリネの花か…紫殿も心底、楽しみにしてるようだな」
住職から少し離れた場所で、今までを思い出すように蓮子が言う。
「結局、怪異っぽくないと思ったら怪異が絡んでいたわね」
それにメリーが同調する。
「そうね。こっちが避けようとしても結局、向こうからやってきたわね」
顔を見合わせて、二人は小さく笑う。
「とりあえず、住職さんに壱から習おうか?」
「さんせーい」
これからの調査に危険が無いように備える、それが二人の交わした約束。
楽しそうに寺へ戻る二人を、少し疲れた顔の住職が出迎えて、三人はネリネの花びらの絨毯を通り、寺へと入っていった。
面妖な顔で蓮子は訊いた。
「うん。授業中に噂で聞いたんだけど、セイラン病院の旧病棟でそういう話が出てるんだって」
興味津々の顔で話すのはメリーだ。
「旧病棟って、あそこ廃棄されてるんじゃなかったの?」
古いものは廃棄されて当然と言う感じで蓮子が返すと、メリーは人差し指を左右に振りながら言った。
「ちっちっち。旧病棟と言っても隔離病棟だからね。そろそろ建て直しの噂は出てるんだけど、病棟が病棟だけに、患者を移す仮病棟が必要なのよ」
その話に蓮子は顔をしかめる。
「…あそこって、確か肺病の患者を専門にしてたわよね?大丈夫なの?」
「医学部の人達に話をして、教授の許可が出たら予防接種はできると思うわ」
「ワクチンて言っても血清じゃないんだから。1ヶ月は安静期間があるのよ?」
蓮子が渋るのも無理はない。その病院の隔離病棟は通称『結核病棟』と言われていて、軽重を問わず結核の患者が収容されている。
そこに興味本位で近づくのは宜しくないと思っているのだ。患者のプライバシーにもかかわるだろうし、結核患者への偏見は未だ強い。
下手すると病室に入れてもらえないどころか、追い出されるのが落ちだ。
「大体、何でそんな話がウチの大学に来てるのよ?」
渋い顔で茶を飲みながら訊く蓮子に、メリーが種明かしをする。
「あの病院、ウチの大学の教授が何人か兼業で働いてるのよ。で、最近寝不足や精神的な疲労で症状の芳しくない人が多いって事で医事課に訊いたんだって。
そしたら、『枕元で刃物を研ぐ音が小さく聞こえて来る、お迎えがいよいよ来るんだ』ってお年寄りがパニックになっているって言うのよ」
いくら不思議なものに触れていると言っても、蓮子自身は用心深くなっている。
「旧病棟だったら家鳴りとか、湿気の度合いでそう言う音が聞こえるかも知れないわよ?」
その態度にメリーが幾分頬を膨らませるように言った。
「前の一件で蓮子が興味本位の怪異調査を渋るのは判るけど、別に霊安室に行くんじゃないし、空き病室でも調査はできるのよ?」
「それは判るけどね…。患者さんの方からすれば、興味本位で首を突っ込まれるのはどうかと思うのよ」
病身の人間は他人を忌避するきらいが強くなる。特に昔から多くの命を奪ってきた結核への根は深く、今でも治療が完全に確立していない『不治の病』なのだ。
その為に差別され、死を選ぶものも居たし、牢屋もかくやと言わんばかりの隔離施設に閉じ込められて不遇な一生を終える者も居た。
よしんば軽症で治っても、その差別の影はいつまでも纏わりつき、結局は孤立の中に生きるしかない結末が歴史に語られている。
『津山三十人殺し』事件は他の要因もあったものの、その偏見が招いた最たる事件だ。
「…メリー、貴方も結核等、疾病の歴史については聞いてるんでしょう?」
蓮子の言葉に、メリーはあっけらかんと答える。
「そりゃ、廃墟探訪とかで廃病院に行った事もあるくらいだし。でもそれは古典的な確信の産物でしょ?」
蓮子はそういう問題じゃない、と前置きして、
「廃棄病棟と、未だ人の居る病棟は一緒に出来ないわよ。こちらが理解を示しても向こうが突っぱねたら終わりよ?」
メリーはその言葉に「そう言うと思った」とばかりに、カバンから二つの封筒を取り出した。
「これ、読んで見て」
蓮子が受け取ると、ひとつはいつも説教を食らう寺の坊さんのもので、もうひとつは医学部の教授のものだった。
坊さんの手紙は
『何度も出入りはしてるが、怪しい気配はない。拙僧が口利きをするから案ずるな。とりあえずウチの寺に一声かけてくれ』とだけ書いてあった。
教授のほうからは
『体験授業扱いと言うことで話はしてある。役所のほうに話はしてあるのだが皆、場所が場所だけに積極的に動きたがらない。ぜひとも協力してほしい』と。
蓮子の顔の渋さが深くなる。
「…あんた、何か手回ししたでしょう?」
悪びれた様子もなくメリーは言う。
「先日のシラヌヒの話をしにいった後に、怪異の関わらない不思議現象があったら教えてって言ったのよ。シラヌヒの体験は貴重でもあったけど、それで
尻込みしてサークルが活動しないなんていうのは、私としてはよくないわ。坊さんの話だけでも聞いて、それで気乗りがしなかったらキャンセルでも
かまわない。私は行くけどね」
降参したように天を仰いで蓮子が言った。
「判ったわ。あんた一人にするのも危険だしね」
あんな目にあっても、なおアクティブで居られるメリーの性格は、時に蓮子を振り回す。それ故に彼女がメリーのストッパーにもなる訳だが。
「ところで」
「ん?何?」
メリーがジト目の蓮子を見て、考えを先読みしたように言う。
「ああ、あの教授、坊さんの檀家なのよ」
蓮子がため息を深くつく。
檀家ネットワークを使い、坊さん経由で事件を探し、依頼を請け負う形にしたわけだ。
坊さんも怪異が関わってないことを承知の上で受けて、メリーに話を流した、と。
「全く大きな寺も考え物ね。こっちが警戒してても向こうから厄介を持ってくるんだから」
やれやれと首を振る蓮子に、メリーは涼しい顔で爆弾を投下する。
「坊さんも所詮は人よ。どこの檀家の誰がいつ嫁に行くかとか、宗派が違うところのお嬢様学校に娘さんが進学すれば、カミングアウトするかしないかで
裏で賭けたりしてるしね。寺男としてニートを更正させてるのもその関係らしいわよ?」
「…俗世の垢に塗れてるのは昔も変わらないのね。生臭通り越してただの偽医者じゃないの」
江戸時代の川柳に「出家で儲けたを 医者で遣い捨て」と言うものがある。
要は坊主が花街遊びに行く時に、医者と身分を偽って遊女を抱きに行くことを皮肉ったものであるが。
この時代に頭を丸めていたのは、医者と坊主だけと言う風習も背景にある。蓮子はそれを言っているのだ。
「でも、そんな生臭でもアレだけの法力持ってるんだから、人は見かけによらないかもね」
メリーはシラヌヒの出来事を思い出すように言い、携帯のストラップにしている守り鈴をしゃらん、と鳴らす。
「力は認めるけど、見かたが180度変わったわね。今の話で」
どことなく幻滅した言い方で蓮子はまた、ため息をついた。
その一時間後、とある寺。
「わしの手紙を読んだかね?」
好々爺の表情で住職は出迎える。
「読みましたけど…頼む人、間違ってません?」
蓮子の顔は僅かに不審がにじみ出ている。住職は静かに言った。
「うむ。しかしお主らが怪異への接触をこのまま遠ざけてしまうのは、わしとしても惜しいと思うてな。過ぎた用心は、未練を残す禍根の元になるんじゃよ」
納得が行かないと蓮子は答える。
「いつもは用心に越した事は無い、と言ってる上に…怪異の関わらない依頼ではこちらとしても納得は行きかねますよ」
メリーは不機嫌を隠さない蓮子を宥めている。住職はその言葉に、
「お主らは段階を踏まないで怪異に関わろうとする。祓い屋や呪師(のろんじ)とて、いきなりそうなれた訳では無いのはお主も理解しておるだろう?。
階段をすっ飛ばせば踏み外して怪我をするように、自分の力の本質や力量を考えずに、因縁のある場所に行っては厄介ごとに巻き込まれる。
お主らはそんな危険をいつもそばに侍らせてるのだ。まるで恋人のようにな」
蓮子が気まずそうな顔になる。厄介なものを持って来ては祓って貰って、説教を食らってる事が日常なので言い返せない。
住職の言葉は続く。
「まずは入り口から入って、遠くから見て、それで慣れたら本質に近づいていく。能力を我流で磨こうとしても、天賦の才とセンスが無ければ
中途半端なままで終わるし、魂も失う。紫殿に何か言われなかったのかね?」
蓮子は反論できない。事実だからだ。
メリーはあの時を思い出したように不思議そうな顔で明後日の方向を見ている。
住職は二人の顔を見て、話し始めた。
「まずは怪異のシステムの一つがどういうもので出来ているのかを知る、それが今回の依頼の本筋じゃ。元はただの自然な現象も人の心が触れれば
怪異となる。神も、妖怪も、付喪神も、人の想いと畏れの心から成り立ったモノだと言う本質をお主らは頭でしか解っておらん」
重い声が響く。
「故にこの依頼をしたのじゃ。わしとしては紫殿に気に入られた者を凡愚にしたくはないし、失いとうない。あの方が守り鈴をおぬしらに譲ったと言う事は
いつか会いに来てほしいと思うくらい気に入ったのじゃろう」
蓮子は守り鈴を取り出して見つめる。
そして隣のメリーと似通った雰囲気を持つあの女性を重ね合わせる。
『貴方達には、いつか私の本当の住まいで会えるかもしれないわね』
あの時の飯場の主人ーーー八雲 紫の声が蘇る。
メリーの方を見ると、目が合った。彼女は少し心配そうに蓮子の目を見ている。
何気ない風に見てくるこの目が、蓮子には時々不思議な感じを抱かせる。何故か心を覗かれている気がするのだ。
先のシラヌヒの旅から帰ってきて、その印象は強くなっている。と同時に、紫とメリーの姿がダブる事が時折あった。
八雲の姓とハーンの縁、怪異よりも蓮子の興味はそちらの方に惹かれる。
「考え事をしておるのか?目が飛んでおるぞ?」
住職の声に気がつくと、しかめ面の住職が蓮子を見下ろしている。
メリーも心配そうな顔を崩さない。
「すみません、シラヌヒの事を思い出しまして」
気持ちを切り替え、蓮子は話を聞く姿勢に入る。それを見て住職は続けた。
「ともかくも、巷に『都市伝説』としていろいろな話があるように、何気無い噂や伝説にもならない話が突拍子もなく血肉を得るのは、人の心が
そういうものを無意識に生み出す力があるゆえのものじゃ。この話を放って置けばいつか必ず死人が出る」
その言葉にメリーは訊く。
「それは、その話で死神が実体化するという事ですか?」
住職は半分肯定する。
「信心が神の糧になるように、それを信じることによって自分でそう言う存在を作ってしまうのじゃよ。それが引き金になって、
その話が人の負の感情を背負い始めれば、いつか本当に死神が出るじゃろう。わしがハナタレの頃に良く流行った不幸の手紙もその一つじゃった。
狐狗狸さんも…まあ集団の心が作り出す怪異の一種じゃな。
手紙で読んだ通り、今は噂が歩いてるだけじゃ。それを噂のままで終わらせられるかがお主らの課題じゃよ」
住職の顔が少し愁いを帯びた。
「度が過ぎればそうやって自分たちの想念で怪異を呼び寄せ、あるいは生み出して常世へ連れて行かれたものも居る。人の心はどんなに解析しても
魂の本質までは見えぬものよ。この分野だけは、わしも未だ悟れぬ」
そこまで話したときに、寺男が襖の外から声をかける。
「住職様、お客人です。今回の騒動についてセイラン病院からやってきた、と申しております」
住職はその言葉に一言「お通ししなさい」と答えて来客を待つ。
やがて通されたのは、ラフな服装の短いツインテールの女性。年は蓮子達より少し上と言う所で、背は高く、歳に不相応な貫禄がある。
相好を崩して住職が語りかける。
「久方ぶりじゃの。秋田殿」
「そうだねえ。前に会ったのは二年位前かねえ?ところでこちらの娘さん達は?」
住職が紹介する前に蓮子たちが挨拶し、名乗る。
「初めまして、私は宇佐見 蓮子と申します」
「私はマエりべリー・ハーン。外国人ですが日本生まれの日本育ちです。メリーで構いません」
二人の挨拶に、秋田と呼ばれた女性は笑って自己紹介をする。
「あたいはセイラン病院旧病棟の副長、秋田 こまちって言うんだ。今回の騒動に力を貸してくれると言うんで期待してるよ」
そこで住職が小町に訊く。
「婦長様はお元気ですかね?」
こまちは少し、ばつが悪そうに言った。
「あたいがサボる事が出来ない位元気ですよ。まじめなのはいいけど…仕事バカなあの性格は、何とかならないかなと思うね」
住職は諭すように言う。
「そりゃ、口実つけて屋上で昼寝してたり酒かっくらってりゃあ、怒られるのは当たり前じゃろ?そのサボり癖を何とかしないと、
そのうち下っ端へ格下げになってしまうぞ?」
こまちは馬耳東風と言った風に返す。
「あたいはあたいの職務を全うして、余った時間に休んでるんだけどね」
「休憩時間中でもない限り、他の看護師の手伝いに回ったりと色々あるじゃろう?まあその話は後にして、この二人を旧病棟での例の事件の解決に
協力してもらうことにしたのだが、話は通してあるかね?」
住職の問いに、こまちは笑って返す。
「あんたの檀家の先生を通して話は受けてるよ。婦長もOKだってさ。制服はこちらで用意してるけど、立場上インターンの腕章はしてもらうよ。
ま、あんた達は患者さんに関わらなくていいようにしてあるし、どの病室でも起きてるんで空き病室で調査してもらうさね」
蓮子がそこで話に入る。
「手回しが周到ですが…一刻を争うのですか?」
小町は
「まあ少し余裕はあるんだけど、『病は気から』の通りに衰弱している患者さんも出ていてね。この手の話は一回実例が出ると追随する患者さんが多いんだよ。
そうなると手続きとかであたいの仕事も滞るし、何よりも他の看護師自体も困ってるんで、厄介ごとを増やしたくないのさね。そうでなくても人手不足だしね」
心底困ったような声に、蓮子は訊く。
「住職さん、本当にこれ、怪異関わってないんですか?」
住職はきっぱりと言う。
「わしの話を聞いていれば解ると思うのじゃがな。噂に血肉をつけるのは人の心じゃよ。ゆえにその噂の真相が解れば誤解も解けていく。
信仰を失えば神も存在をなくす様にな。後は真相しだいでわしと檀家の若造が出張るから安心せい。くれぐれもわしの言うた事を忘れるなよ?」
その顔にはメリーから聞いている生臭さはない。裏の顔と表の顔の使い分けも老獪の技に入るのだろうか?
「ん?わしの顔に何か?」
住職の問いに、蓮子はあわてて首を横に振った。
数日後。セイラン病院の看護師室にて。
夕刻の朝礼時間、婦長がよく通る、はっきりした声で点検事項を話し、その後隣に居る二人の紹介をする。
「はい、この二人が体験学習扱いの学生さんたちです。表向きはそうなっていますが医療に関しては全くノータッチですので、
絶対に仕事を頼んだりはしないようにして下さい」
婦長の横には慣れないナース服に身を固めるメリーと蓮子の姿があった。
チーフのバッジを胸に付けたこまちは少し苦笑いを含んだ笑顔で二人を見ていたが、婦長に睨まれて表情をあわてて元に戻した。
どうも本気で彼女は婦長の事を苦手に思っているらしい。
朝礼の解散後に、婦長が二人に小声で話す。
「協力していただけると聞いて助かりました。一応今月中にはこの病棟も解体されるのですが、仮病棟にまでこの話を引きずられると
色々困りますので…」
それに蓮子が自信なさげに答える。
「まだ解決できると決まったわけではありませんし、もしかしたら空振りかもしれませんよ?」
その言葉に、こまちは笑って言った。
「あんた達なら大丈夫だよ。あの坊さんも太鼓判を押してるし、何しろゆ…」
「秋田さん!」
いきなりビシッと打ち付けるような声に小町が固まる。
「あなたは余計な一言が多すぎます。大体それで患者さんをパニックにしたりショックを与えたりと言うことを何度繰り返してると思っているのですか。
大体、医療と言うものは人の命を救うものであり…」
そこでこまちが手を胸の前に掲げてストップをかける。
「ちょ、婦長、あたいだけなら兎も角、この二人の調査を妨げるのはまずいですって」
婦長がはっと気づいたように蓮子たちを見て、仕方ないな、と言うようにため息をついて言う。
「すみませんね、お二人とも。とりあえず二階の一番端の病室は無人です。ただ、隣の病室には患者さんがいらっしゃるので、静かに調査することを心がけて下さい」
そう言うと、婦長はこまちに指示とスケジュール表を渡して看護師室から出て行く。
その背中を見送り、完全にドアが閉まるのを見届けると、こまちは小声で言った。
「婦長は説教癖があってね。あたいも付き合いが長いけど全く説教が短くなる気配が無いんだよ。加えてあの性格だからやりにくくてさ」
こまちの言葉に、メリーが返す。
「でも、何か息のあったコンビって感じですよ。随分長い間一緒に働いているのですか?」
少しげんなりしながらも、こまちは答える。
「腐れ縁に近いかもね。あたいも五年から先は覚えてないわ。とりあえず病室まで案内するよ。荷物の用意があったら台車に乗せるからこっちに持ってきてね」
板張りの古い廊下を照らす蛍光灯は薄暗く、窓枠も木作りだ。しかも鍵はねじ式で、つまみを回して掛けるタイプの、もう殆ど見られないモノ。
台車を押すこまちの案内で歩きながら、蓮子とメリーは少し前のシモマゴの風景を思い出していた。
「ここもリアルで映画の世界ね」と蓮子。
「シモマゴを思い出す建物だけど、実在してたとは知らなかったわ」
鼻歌交じりに台車を押すこまちが割って入って来た。
「ここは『家』の様な病棟だからね。所々改築したり修理の手は入れられても、全体を立て替えるのは色々あって無理だったんだよ」
板張りの廊下に木の軋みが僅かにこだまする。
「全体的な建て直しは無理だったんですか?」とメリー。
こまちは少し苦味を含んだ顔で答える。
「建て替えには少々面倒があってね…患者さんの移動とかもあるし、他の病棟からは一時的でもこちらに移すなと反対されたりね」
彼女はさらに続ける。
「実際、弱っている患者さんをさらに罹患の危険に晒すわけにも行かないし、仮の病棟を作るにも土地のこともあったし、根本に
差別と偏見があれば上手く行くものも行かなくなるのよ」
言葉はそこで途切れて、暫く無言の中に三人の足音と、台車の音が響く。
こまちが唐突に話を再開する。
「そう言う周囲の目に耐えて、色々な命がここで病気と闘って、生き残ったり、又は負けて死んでいったりした。あたいもここに来て長いけど
そんな風景が日常になると複雑な気持ちだね」
その言葉に何かやりきれないものを感じ、蓮子はなんとなく訊いて見る。
「やっぱり、人の死に立ち会うのと言うのは、慣れてしまうと何も思わなくなってしまうんですか?」
こまちは振り返らずに言う。
「感慨とかそう言うのはあるけれど、救いたくても救えない命をそばで見守らなければならない立場としては、そうなっちゃいけないのよ。
人の命を扱うものに一番あってはいけないのは『命をモノとして扱う』事だから。実験動物も含めて、ね」
沈黙が落ちる。二人は何を言っていいか解らなかった。
新しい薬を作る過程で人工的に病気にされて命を失う、又は障害を負わされ、そのまま標本になったり廃棄される実験動物たち。
対象が人間で無いだけで、命を長らえる為に別の命を犠牲にしている真実、それが病院の一面でもあるのだ。
命を救うための命の犠牲、その矛盾は明快に提示されているが、誰も異を唱えようとしない ---唱えられない。
こまちは続ける
「でも、健康な時は省みられず、いざ自分が病に倒れて初めて気づく場所として、病院てのは神頼みとか宗教の様な所みたいだとは思うね。
ペルシアのケイホスロウに出された難題と同じさね」
---「人々が旅の末流れ着いた先に富める王国と病める荒野あり
人々喜びて、しかし、なにゆえか王国に気づかぬかの如く病んだ荒野を耕し
苦役をもって国をもうひとつ作りたる。
だが、ある日地震え、嵐来たりて荒野の国は滅び
しかしそこで初めて人々は富める王国に気づかん。こは何を表す?」
ケイホスロウ答えて曰く
「荒野は現世、王国はあの世なり。
生ける時は気づかず、死して初めてそに気づかされる国
そはこの世の物ではなく、この世の為に作られしものに非ず
即ちこれ現世を去りし者のみが入れし国なり」
こまちの言葉に、ペルシア神話の勇者に出された十の質問のひとつを蓮子は思い出す。
健やかなる時は省みられず、病んで初めて思い出す場所と言う意味では、この質問と答えは共通している。
やがて、廊下の一番隅、非常口に近い部屋に三人は着いた。
「ここが調査に使う部屋。何かあったらナースコールじゃなくてこの番号に電話してね」
PHSの番号が書かれたメモを渡して、こまちは「頼んだよ」と手を振って戻っていった。
残された二人は台車を病室へ運び、調査の準備を始める。
集音マイクや録音機器をセットしながら、蓮子は先ほどのこまちの言葉を思い出す。
『健康な時は省みられず、いざ自分が病に倒れて初めて気づく場所』
色々な所を回っては怪異の調査や、それにまつわる奇妙だが貴重な体験をしている自分達。
その怪異の中には、自分達が在るべき所に連れて行くまで省られなかった者もいたし、寂れていく街が見せたその土地の思い出もあった。
それは日常に何気なく溶け込んで、誰でも知っているが気づかない、路傍の石。
この病院で息を引き取った人にも、こまちの言った言葉と同じ想いを持ったのだろうか。
もしかしたらこの現象も、それが引き起こしたものなのか?住職はああ言ってはいたが…。
「蓮子?」
はっと気づくと、不思議そうに蓮子の顔を覗き込むメリーの姿があった。
「どしたの?手が止まってたけど」
メリーの問いに蓮子は無理に笑顔を作って言う。
「いや、この現象が本当に怪異が関わってないのかなって」
その言葉にメリーは少し難しい顔になる。
「その事なんだけどさ、病院の建物自体は別に何も感じないんだけど、何か引っかかるのよね」
準備を再開しながら、蓮子は問う。
「引っかかる?何が?」
「あの看護師さん…こまちさんだっけ? あの人何か、雰囲気と言うか…上手く説明できないんだけど、あの坊さんとも違う何かを感じるのよね」
「あ、私もそれは感じた。何か若いのにあの坊さんよりも長生きしてそうな感じ」
蓮子の同調に、メリーが納得の行く顔になった。
「それよ、仙人みたいな達観した感じだけど、坊さんに近い重いものを背負った感じがするのよ」
メリーは思考の糸が繋がった様に言った。しかし蓮子はそれに僅かな異を唱える。
「こまちさんは身近で沢山の人の最後を看取っているし、それが余計にそう感じるんじゃないかな?葬儀で送るのと命が消える瞬間を目の前で見るのとは、やはり違うと思うわよ?」
蓮子の言葉にメリーは顔をしかめる
「んー、そう言うことじゃなくて、何かこう…」
「お二人とも」
声に驚くと、部屋の入り口で婦長が腕を組んで仁王立ちになっていた。
「熱心なのは良いのですが、少し声が大きすぎます。ここの患者さんのメンタルは今、非常に不安定です。雑談にふけるのは構いませんが
ここがどう言う所かを忘れてしまっては困ります。あなた達が医療に関係ない人間でも、それは遵守されるべき物ですから」
鋭く切り込むような、物事の白黒を曖昧にせずに斬るような声。
「申し訳ありません。気をつけますので」
二人が頭を下げて謝罪すると、婦長は少し柔らかい声で言う。
「判っていただければ構いませんが、忘れないようにして下さい。自己紹介が遅れましたが私は色(しき)えいこ。ここの臨時婦長です」
「臨時と言うと、人手が足りないのですか?」
蓮子が訊くと、えいこは
「この病棟もそろそろ建て替えなければならないので人手が足りないのです。なのでここ一年ほどここで働かせていただいています。
こまちも私と同じ病院で直属の部下なので、あなた方のお知り合いの住職のご紹介で共にお世話になりました」
「あのお坊さんのお知り合いですか…顔が広いですね。あの方は」
メリーは驚きを隠さない。蓮子も同じだが、その脳裏にはシラヌヒで出会った彼女の顔が浮かんでいた。
驚き覚めやらぬ二人を真っ直ぐに見て、えいこは言った。
「あなた方の働きがここの患者さんの心を左右する、それだけは覚えておいて下さい。後手に回れば患者さんの命にも関わりかねません。
それがただの軽い噂でも、弱った心には鉛の重さを与えます。解りましたね」
それだけ言い置いて、彼女は無言で立ち去る。
「居たのにも気づかなかったわね。仕事慣れと言うか、看護師以外の仕事をしてたように見えるわ」と蓮子。
「案外、大学の教授とかの堅い仕事か、医者兼任の診療所に居たのかもね。あそこは判断の的確さが全てだから」とメリー
そんなこんなで二人が準備を終えたのはそれから三十分を過ぎてからだった。
集音マイクに音が入らないように彼女らは静かに部屋の片隅で待つ。
随分と使われてない病室だったのか、四人用の病室なのにベッドは撤去されてナースコールのブザーボタンや
所々凹んだ酸素吸入用の金属パネルと蛍光灯、そしてカーテンが取り払われたレールだけが当時を語る。
『静かね』
メリーがルーズリーフに筆談を書いてくる。
『まあね。でも消灯時間前でもこんなに静かなのは妙よね』
蓮子が疑問を書くと
『さっきの婦長さんが関係してたら可能性はあると思う』とメリー
『確かに』と返す蓮子。
こまちや自分達へのものの言い方から考えると、昔よく居た「説教魔」とも言うべき人種そのものだ。
『多分、下手な事をしてると強制的に消灯したり、ダメなものはダメと理屈も何も抜きで言っていそうだし。多分教授にも』
『ああ、確かにやってそうだよね。教授も大変かも』
部屋にかすかな笑い声が響く。
ちゃっ。
その笑い声は、二人の耳元の音によって、強制的に消された。
周囲を注意深く見る蓮子。耳を澄ましてレコーダーのスイッチの確認とメモリの残量の再確認をするメリー。
ちゃっ ちゃっ ちゃっ…。
あちこちから微かに聞こえて来る音。確かに音は短いが、刃を研ぐ音にも似ている。
「メリー、録音レベルは確認した?」小声で蓮子が訊くと
「最大レベルよ。下手すればこの会話も録音できているかも」
「とりあえず録音は絶対失敗しちゃダメ。これを分析して貰うから」
「うん」
二人が息を殺して録音をしている間、廊下を行ったり来たりする足音や、患者であろう人達の声が聞こえて来る。
半分泣いている声も響く。
録音を続けながら、二人はこの音のどこに恐怖を感じるのか疑問に思っていた。
しかも特定の人間ならいざ知らず、入院している人間のかなりが恐怖しているとしか思えない。
そんな中、蓮子が気づく。この部屋に小さな虫が多くなっている事に。
体長が三ミリ程のそれは、準備が終わって灯りをつけた途端に出てきはじめ、結構な数が簡易ライトに集まって来ている。
窓は締め切っているが、それでも隙間があるのか、羽アリみたいなそれはライトの周りを飛んだりしている。
とりあえず蓮子は小さなプラケースを出して、何匹かその虫を捕まえて中に放り込んだ。
「メリー、録音の方は?」
小さく問う蓮子にメリーは首を小さく振った。
「音の方は録れてるけど、後半からこの騒ぎだから分析に時間を取られるかも知れないわ。とりあえずも教授次第ね」
翌日。
えいこへ簡単な報告をした後、二人は仮眠を取って寺に連絡をし、住職と逢うことになった。
檀家になっている教授も来るとの事で、二人は昨夜のサンプルをチェックし、寺に向かう。
寺では住職と、先に到着した教授が待っていた。
「首尾はどうだったかね?」と住職。
蓮子達はサンプルを取り出しながら言う。
「確かに音は鳴っていました。ただ、私達には不可解だったのですけど…」
住職の片方の眉が跳ね上がる。
「何かあったのかね?」
メリーがそれに答える。
「あの音が聞こえ始めてから騒ぎが大きくなったんですよ。まるで集団ヒステリーに近い感じでしたね」
「ふむ…」住職の眉間の皺が深くなる。
そこで蓮子がサンプルを教授に渡す。
「音の分析と、あと、あの病室にこんな虫が居たので何匹か捕まえてきました。音と関係あるかは自信はありませんが、並行して調べて戴けますか?」
教授はサンプルを受け取り、注意深く手提げ金庫の中にしまう。
そして三日くらいで結果が出るだろうと言い残し、先に戻った。
教授を見送った後、住職が二人に聞いてくる。
「そう言えば、婦長殿はどうだったかね?」
その問いにメリーが答える。
「こまちさんもそうなんですけど、住職さんより若く見えるのに、住職さん以上の年齢を生きている感じでした」
蓮子も
「あと…感じが何か、紫さんに似ていました。シラヌヒの街の」
住職はその言葉に僅かに眉を動かしただけで、目立った反応はなかった。
「そうかね。わしもまだ小僧なんだなあ」
そう言って彼は開け放たれている庭の方を見たが、その目は遥か彼方の、どこかの地を懐かしむように遠くを見ていた。
その二日後。
緊急に寺まで来てくれ、と言う連絡を受けて蓮子達は駆けつける。
中に通されると、そこには住職と教授の他に、こまち、えいこの二人も居た。
「住職さん、何故この方々が?」
驚く蓮子達に住職は静かに言った。
「詳しくは順を追って話す。まずは彼の話を聞きなさい」
その言葉に促されて、教授が話を始める。
「宇佐見さん達のお手柄だね。あの音と虫だけど、きちんと関連があったよ」
思わず蓮子が身を乗り出す。
「本当ですか!?」
教授はまあ、落ち着いてと前置きをして話を続ける。
「あの音は正に、宇佐見さんが捕まえた虫が出していたんだ。この本に詳細が載っているよ」
彼はそう言うと、昆虫図鑑を出して説明する。
「あの音の正体はチャタテムシと言う虫の鳴き声なんだよ。この虫はカビや苔を食べる虫でね、これが天候のせいか大発生したんだ。
あの病棟は古いから、多分壁の裏の空洞に生えたカビを食べて増えたんだと思う。その辺については別の教授が調査してるよ。
今ではコンクリートの家が主流だし、木造でも高温殺菌した板や消毒処理をされているから滅多に見ない虫だけどね」
教授の説明に繋がりは解ったが、今一つ納得行かない所がある。蓮子は住職に質問する。
「それだけの話なら、えいきさん達がここに居るのは何故ですか?病院で話は出来ますよね?」
「わしが呼んだからだよ」と住職。
「これから先の話は病院でする訳にはいかんのでな。院長に無理を言って来て頂いたのだよ」
住職は教授に説明を促す。
「…君達の持ってきたサンプルだけど、音を解析している時に奇妙な波形があってね。人間には聞き取れない高周波なんだが、どうもこれが
患者さんの精神的な容態を悪くしている原因みたいなんだ」
蓮子とメリーは顔を見合わせる。自分達には影響がなかったのだから当たり前だ。
教授はそれを察したように話を続けた。
「で、その高周波を読み取って耳に聞こえるようにしたのがこれ」
彼はレコーダーの再生スイッチを入れた。
何かの弦を爪弾くような音と共に、謡う様に聞こえてきたのは詩の一節らしきモノ。
『思い通りになったなら来はしなかった。
思い通りになるものなら誰が行くものか?
この荒家に来ず、行かず、住まずだったら、
ああ、それこそどんなによかったろうか!
来ては行くだけで何の甲斐があろう?
この玉の緒の切れ目はいったいどこであろう?
罪もなく輪廻の環の中につながれ、
身を燃やして灰となる煙はどこであろう?
ああ、空しくも齢を重ねたものよ、
いまに大空の研鎌が首を掻くよ。
いたましや、助けてくれ、この命を、
望み一つ叶わずに消えてしまうよ!
佳い人と一生安らかにいたとて、
一生この世の栄耀をつくしたとて、
所詮は旅出する身の上だもの、
すべて一場の夢さ、一生に何を見たとて』
「ルバイヤートの一節だね。これを虫の音に隠して患者さんに聴かせていれば、暗示効果で不安が掻き立てられる仕組みになっていると」
初めてこまちが口を開く。が、その顔はかなり剣呑だ。
「こう言う事が出来るの者は限られてますね。住職、その下手人はここへ呼んでおりますでしょう?」
えいこも冷静だが、その声は低く、刃物の様な響きを伴っている。
住職はその気配に押された様にしながらも、静かに言った。
「もう隣の間で待っております。及び致しますゆえ、しばしお待ちを…」
そこで住職が立ち上がろうとした時、聞き覚えのある声が襖の向こうからかかる。
「呼ばなくても丸聞こえよ。こちらから出るわ」
と同時に襖が音も無く開き、そこには八卦の文様をあしらったドレスの様な服を着た女性と、黒いマントを羽織った、緑髪の小柄な少女が立っていた。
「お久しぶりね。シラヌヒの一件からそんなには経ってないと思うけど、こんな短い間に逢えるとは思わなかったわ」
話し方は初めて逢った時と変わってはいない、が、いかにも言葉は白々しい。
「紫…さん?」
メリーが呆けたようにその名を呼んだ。
紫はどこからか扇子を取り出し、パッと開いて笑みを隠す。
「やっぱりあんたか」こまちが飛び掛らんばかりの勢いで紫を睨む。
「私達の仕事を中断させるような事をする所か、人間界に怪異を振りまくとはどう言う事なのか、説明していただけますね?」
えいこも一刀の下に斬り伏せんばかりの剣幕だ。
その剣幕に飲まれたか、紫の隣の少女が震えだす。
「あなた達の仕事を邪魔するつもりは無かったわ。強いて言えば、あなた達が勝手に介入してきたからこうなっただけなのだけど」
飄々と二人の怒気を受け流して、紫は扇子の下で笑む。
こまちはそれでも憤懣やるかたないとばかりに言った。
「あたいの仕事を邪魔するつもりでなければ、何でリグルを使ってまであんな事をしたのか聞かせてもらいたいねえ?この小野塚小町の鎌に掛けて」
「私も冥界の裁判官としてその意見に賛同します。誤魔化しや嘘は私に通りませんよ。全てを正直に話せば良し、話せなければ…」
一触即発の空気が漂いだす。が、ここで待ったがかかった。
「映姫殿、小町殿、ここで争うのは待って下され。うちの檀家の人間も居るし、何よりもこちらの二人が状況を飲み込めておらんのです」
住職の懇願に似た頼みに三人はひとまず場を納める。
「あの…紫さんの隣に居る子は?」蓮子が訳が解らないままだ。
紫はにこやかに紹介する。
「この娘はリグル・ナイトバグと言う名前でね。蛍の化生にして虫使いなのよ」
紹介されたリグルは震えたままお辞儀をする。
「紫殿、幾らあなたと言えど人の生き死にに関わるところでの騒ぎはどうかと思うのですが…普通の人間なら、こちらのようになってもおかしくないのですぞ?」
住職の視線の先には二人の怒気をまともに受けてしまった教授が白目で固まっていた。
紫は知らぬ気に
「それは失礼したわね。とりあえず運び出して頂戴な」
教授が寺男に運ばれて別室に移された後、紫が先を切った。
「最初はリグルにお願いして怪異の『噂』だけを流すのが目的だったんだけどね。まさかあそこまで心理的に効いてしまったのは私の落ち度よ」
彼女は流し目でリグルを見た。が、リグルの方はやり過ぎたと心底しょげている。
「…紫、大体『あちら』と、この世界の人間の怪異に対する耐性はあんたが良く知る所でしょうが」
小町は不機嫌な表情を崩さない。人の命を弄んでいる様なやり方なのだから怒りは当然の事だ。
紫は肩をすくめて返す。
「ええ、科学の前に幻想が消えていく、それ故に私達がこの世界に存在できなくなる。そこまでは計算してたのよ。
でも、病の前に科学の力が及ばないという事実が突きつけられた時に、マヤカシを砕かれた人の心が幻想を思い出す事を忘れていたわ」
そこで、えいこ改め映姫が切り込んできた。
「それならば、その副作用が出た所で切り上げるべきです。人の命を弄ぶような事は幾らあなたでも許されざる行為ですよ」
紫は映姫の言葉にそっと人差し指を立てて、一言言った。
「人の噂も七十五日」
そこで弄んでいた扇子を畳み、紫は続けた。
「私の目的は別にそんなことでは無くて、彼女達を引っ張り出す事だったのよ」
流した視線の先には蓮子とメリーが居る。
「随分とこの二人にご執心だねえ。ただの人間では無い様なのはあたいにも解るけど、この二人に逢う為だけにあんなことをしたってのかい?」
小町の目が鋭くなる。
「そう言われると『Exactly』が適切だわね」
紫は挑発するように答えた。それを見た小町がいきり立つ、が、映姫に止められて座りなおす。
映姫は静かに訊いた。
「では、何故このような事を続けたのでしょうね?」
紫は少し憂いた様に言った。
「目的が果たせれば何を犠牲にしても構わない、と言う考えではないわ。噂があくまで噂のまま、維持させる事だったから。途中でやめたら
噂は七十五日なんてものでは無いスピードで沈静化してしまう。とりあえず二人が出てくるまで続けて、後はこの子達が解決して
『虫の鳴き声でした』で終わるはず、だったのよね。
---でも、病に怯える人の心の脆さを測り間違えたのよ。
まさかあなた達が出張る程の事態になるとまでは考え付かなかった。科学に傾倒していても、いざとなれば人の心は闇に震えていた頃に戻るのね。
そこは素直にあなた達にお詫びするわ。住職にも迷惑を掛けてしまったし」
住職は苦い顔になっている。事情を知っての上で三方に関わっているのだから、後味の悪さは想像するまでも無いだろう。
「そう言えば、小町さんと映姫さんは何故こちらの方に?」
蓮子が抱えていた疑問をぶつけてみる。
「あたいは三途の河の渡し守をやっていてね。俗に言う死神さね…で、不自然な死が多くなると魂をあたいだけで渡しきれない。そうなると行き場を失った魂が異変を起こす場合があるのさ」
映姫がその話を継ぐ。
「前に私達の世界が狂い咲きの花で埋め尽くされそうになりましてね。そう言う異変を専門にしている退治屋が閻魔庁に乗り込んできて大騒ぎになったことがあるのです。
あの時もかなり仕事のペースが落ちて、魂の裁きが大幅に遅れた事があったので、今回はそれを未然に防ぐ意味と、局地的に死人が発生した原因を調査して、私達の世界に影響を及ぼす危険があるなら、
先手を打って潰しておこうとしたのです」
二人の話が終わるのを待って紫は話を再開する。
「シラヌヒの一件はあなた達にも宴会で話したわよね?」
映姫達は頷く。それを見て紫はまた話す。
「この子達は霊夢達にも負けない素質を秘めているわ。私としてはいつかそれを開花させてもらいたいの」
そこで小町が疑問を投げかける。
「だったら何でこんな回りくどい事をするかね?あの詩の一節はどう考えたってやりすぎだよ。下手すりゃ首くくりや身投げが出るところだよ?」
その声はやはり怒りを隠していない。本当に人の心で怪異を作り出す一歩手前のことをやっているのだ。
「その事については私もやり過ぎたと反省してるわ。でもシラヌヒの一件でこの子達が持っている能力を封じてしまうのはどうしても私にとっては
惜しい事なのよ。特にそちらの私に似てる子はね」
そこでメリーが訊いた。
「紫さんは、私にどうなって欲しいの?」
紫はメリーの目を見て、はっきりと言う。
「私と同じ能力を持って欲しい。ゆくゆくは私達の世界に来て欲しいわね」
全員の表情が固まる。
「紫…本気で言ってんの?」
小町の言葉に、さらりと紫は返す。
「ええ、本気よ。この子は以前、私達の世界…『幻想郷』に迷い込んで、そして帰って来た子だもの。霊夢の手も借りずに、ね」
紫を除いた全員が絶句する。それに構わず紫は蓮子を見た。
「そしてこちらの星読みの巫女にも来て頂きたいと思ってるわ」
「へ?私…?」
間の抜けた声で蓮子が訊き返す。
「あなた以外に誰も居ないわ。でも、私は二人に無理強いはしない。前にも言った通り、この世界はまだ不思議な事が沢山あるの。出来れば
それをゆっくりと楽しんでから来て欲しいのよ。
その途中で道を違えるのも良し、諦めて普通の人間として生きる事も可能だわ。人間をやめて能力を開花させるほうを選べば
私達の郷はあなた達を歓迎するわよ。来るものは何でも…人も神もそれ以外も受け入れる場所だから」
映姫がそこで口を開く。
「つまり、この子達に何とか怪異への興味を保ってもらおうとした訳ですね?」
紫は頷いた。
「ええ。そうやって徐々にこちらに誘導しようと思ったのだけど、人の心の深さを甘く見すぎていたわ。ここまで関わる人物が増えると
かえって話がややこしくなる。だから住職の呼び出しに応えてリグルを連れてお詫びに来たのよ。だからこの話は白紙に戻る。後は二人の自由意志に任せるしかないわ」
そして、紫はメリーと蓮子のほうへ向き直り、やさしく言った。
「本当にごめんなさいね。でも、住職に罪は無いから責めないであげて。彼には私が頼んだ事をしてもらっただけだから」
住職は「すまぬな」と申し訳なさそうに頭を下げた。
しかし、蓮子の心に猜疑や疑心は湧いてこない。
メリーを見ると、やはり気を悪くしているわけではないらしく、むしろ目が輝いている。
「謝らないで下さい」
メリーの声がはっきりと響く。
「紫さん、未来はわかりませんけど、私達の辿る道とあなたが行く道が交わった時に…また逢えますよね?」
紫は一瞬、虚を突かれたような顔になったが、笑って無言のまま頷いた。
住職も驚いた顔でメリーを見ている。映姫も小町も同じだ。
その中で蓮子は考えていた。
自分はどうなりたいのだろう?メリーと共に怪異に関わる謎や物事に触れることは楽しい。だが、ふとした拍子にメリーが本当に
向こうの世界に行ってしまったら?
自分はどうするだろう。
初めてはっきりと自覚する戸惑いは彼女の時間を止める。
大切な友人を失いたくない。しかしまた自分達の行動が取り返しのつかないことになってしまったら?
その時に自分やメリーに何の力も無かったら?
『因縁についての物事を調べるのはいいことだ。しかし、それは同時に、常に生死の境界を行き来するのと同じ事だって事を覚えておいてくれ』
『若さに任せての興味本位や好奇心に突き動かされるままでは、本当に魂まで失うわよ』
その言葉に何かが折れそうになる。と、その時、蓮子の肩を揺さぶって名前を呼んでいる誰かが目の前に居た。
「蓮子!しっかりしなさいってば!」
メリーが自分に檄を飛ばしている。
「あんたがやらないなら、私も動かない!同じ世界が見える親友はあんたしか居ないの!!」
そう言う彼女の瞳が潤んでいる。泣きそうな子供の顔に似ている、どこにでも居る普通の女の子の顔。
「未来は未だ来てない時間だから未来って言うのよ!何で先の事まで勝手に考えて諦めようとしてるのよ!あんたが居るから私もここまで
来れたんじゃない!自信持ちなさいよ!聞いてるの蓮子!!」
シモマゴの街でもそんな考えに囚われかけた事を思い出す。
シラヌヒの街でも恐怖を思い出してつぶれかけた事があった。でも、その時隣に居たのは…目の前の彼女だ。
持ち前の能天気とエネルギーで蓮子を時には振り回して、でも、危うい時には引っ張りあげてくれて、食いしん坊で奔放な、彼女。
そうか。
私は、彼女が居なくなるのが怖いんだ。
いつも一緒に居ることが当たり前になっていて、トラブルも楽しみも分かち合って。
いつの間にか忘れていた、「支え」としての「マエリベリー・ハーン」。
その彼女が目の前で半泣きになりながら蓮子に呼びかけている。
その時ふと、目の前の時間が元に戻った。
「メリー、大丈夫だよ」
驚くほど自分の声とは思えない、迷いを脱ぎ捨てた声。
「私も、まだ色々見足りない。だから、秘封倶楽部はまだ続くよ」
メリーの顔が安堵に変わる。
「でも、私はこんな性格だから、また自分で抱え込んで倒れてしまうかもしれない。その時は容赦なく引っぱたいて正気に戻してね。
その代わり、あんたが暴走しそうな時はあんたを鎖でふんじばってでも止める」
蓮子の言葉に、メリーも張り合うように言った。
「その言葉、忘れたら殴ってでも思い出させるわよ」
「こっちこそ、その言葉、そのままお返しするわ」
二人はいつもの自分に戻り、楽しげに笑っていた。
その数日後。
調査結果が院内に通達されて、急遽仮設病棟を作り迅速に駆虫をした結果、音はぴたりと止まり、患者達の動揺も収まりつつあると言う
報告が映姫達から蓮子達へ渡された。
もう患者が夜に怯えることも無く、多少の悪夢はあるだろうが追い詰められることは無いだろう。噂はあくまで噂で終わったのだ。
その影に二人の女性の尽力と、分析に協力した教授達が居る事は、その本人しか知らない事だ ーーー駆虫に関わった虫使いの少女の事も。
そして夕暮れ近く、いつもの寺の門前で。
「あーあ、結局無駄働きだねえ。あっち帰ったら覚悟しておきなよ。紫ぃ」
「全くです。私も仕事を長く休んだおかげで向こう五十年は休暇なしですよ。この怒りの白黒はきちんと着けさせて頂きますよ」
小町と映姫が疲れたように愚痴り、そのやりきれなさの矛先を紫に向ける。が、彼女は意に介さず、
「根回しをしようとすればその時点で邪魔するでしょうに。それが解っていてわざわざ予告するような真似なんかできないでしょう?
あと、私を責めるのは構わないけど、リグルを共犯扱いするのは絶対禁止よ。私の独断だから」
「あ、も、申し訳ございませんでした…」
リグルは置いてけぼりの上に、自分の結果が三途の河の渡し守と閻魔を動かした事に対して完全に小さくなっていた。
「リグルさん、気にしないで。私は面白い経験が出来て楽しかったわ」
メリーがリグルに全く気にしていないとニコニコしている。この顔が出た時は満足の行った結果が出た証拠だ。
「蓮子も気にしてないよね?」
いきなり話を振られたが、蓮子は停滞も無く軽口で返した。
「あんたの暴走は気になったけどね。でも、見たことの無いものを見られて楽しかったわ」
「そこまで茶化せれば大丈夫ね」
門前で賑やかす彼女らの顔は明るい。
門を出ようとして、紫が振り返り、蓮子達に言う。
「今後は本当に自分から介入はしないわ。でも、この世界に幻想のかけらがある限り、あなた達とはまた会えるでしょう。とりあえず住職の言うことを
しっかり心に刻んで怪異と向き合いなさい。前に渡した守り鈴も手放さないようにね」
映姫がその言葉に突っ込みを入れる。
「あなたが言えた立場ですか。大体自分の欲で人の身をですね…」
「映姫様、続きは郷に帰ってからにしましょう。このままじゃいつまでも帰れませんよ」
「小町!あなたもですね、こちらの世界に旅行気分で来て仕事を効率よくサボって私に何か言えると思ってるのですか!」
その様子を見ていた住職が見ていられないと割って入る。
「お三方、これ以上時間が長引けば、それだけ帰るのが遅れます。この落とし前は拙僧が寿命を全うしてから付けるゆえ、今はこらえて頂けますか」
心からの心配に、映姫も沈黙せざるを得ない。
「む…仕方がありませんね。しかし僧籍である事は人々を間違った方向へ導かない事です。ゆめゆめ忘れないように」
「存じております。またお会いする時までお達者で」
蓮子とメリーが三人に礼をする。
「小町さん、映姫さん、紫さん、色々と面白かったです。またいつか会いましょう」
その声に小町は「くれぐれも用心しなよ」と笑って返し、映姫は「ちゃんと生身の体で来るのですよ」と忠告なのかピントのずれた返しをし、
紫は無言で薄く笑って扇子を広げる。
その扇子が軽く振られると花吹雪が巻き起こり、蓮子達の視界を埋め尽くした。
やがて、花びらの洪水が引いた時、そこにはもう、三人の姿は無くなって、花びらが残るだけだった。
それを一つつまんで拾い上げ、住職が小さく呟いた。
「ネリネの花か…紫殿も心底、楽しみにしてるようだな」
住職から少し離れた場所で、今までを思い出すように蓮子が言う。
「結局、怪異っぽくないと思ったら怪異が絡んでいたわね」
それにメリーが同調する。
「そうね。こっちが避けようとしても結局、向こうからやってきたわね」
顔を見合わせて、二人は小さく笑う。
「とりあえず、住職さんに壱から習おうか?」
「さんせーい」
これからの調査に危険が無いように備える、それが二人の交わした約束。
楽しそうに寺へ戻る二人を、少し疲れた顔の住職が出迎えて、三人はネリネの花びらの絨毯を通り、寺へと入っていった。
紫の好奇心はつきませんねえ。
にしても小町はどこ行っても暢気だなあ、仕事中に酒を飲むなんてありえませんよ(笑)。
なにはともあれ今回も読んでいて楽しめました。
次回作を楽しみにしております。
さんざん「怪異でない」と言いながら実はこまちやえいこが「そっくりさん」ではなく本人だったのには若干驚きました。怪異本体よりもむしろ、2人の身の振り方や幻想と科学の関係に焦点を当てた作品でした。
けど、これはシリーズ物になるのかな? シラヌヒの一件とか何とか、特に紫が背景を話し始めてからが、若干話についていけなくなってしまいました。
いや、話自体はわかるんですけどね。なんかこう、説明不足感だろうか、それとも説明しすぎ感か? 自分でもよくわかりませんが、そのへんでもやもやしてしまいました。
とても面白かったです。
話がやや複雑で、しかも続き物のためついていくのが若干難しいのが、あまり伸びていない要因かもしれません。
話は決して面白く無いというわけではないと思います。